特講1.桃山文化
知らざりき 遠き境の 言の葉も 手に取る文の上に 見んとは
●桃山文化の特色●
@桃山文化とは A文化の特色
●桃山美術●
@建築 A絵画 B工芸
C歌舞伎の流行
●町衆の生活●
@茶の湯 A阿国歌舞伎 B人形浄瑠璃 C隆達節 D生活
●南蛮文化●
@学問的知識 A活字印刷術の伝来 B美術 Cその他
@ 桃山文化とは
織豊政権期の文化を桃山文化、または安土桃山文化という。桃山は地名である(秀吉が晩年住んだ伏見城の取り壊し後、その跡地に桃を植えたことに由来)。「桃山文化」という場合は、単に政治史上の安土桃山時代ばかりでなく、江戸時代初期の文化まで含めて用いられることが多い。
この時代は、応仁の乱以降ほぼ1世紀に及んだ戦国時代が収束し、信長・秀吉の統一政権のもとで、各地の文化や経済等の交流が盛んになった。また、ポルトガル人などが来航してヨーロッパ文化をもたらし、海外との往来も活発だった。そうした新しい時代潮流が桃山文化には反映されている。

A 文化の特色
桃山文化の特色をあげると、次の三つがすぐに思い浮かぶ。
第一に、新鮮味あふれる華やかな文化だということ。
文化の担い手が新興大名や豪商だったため、彼らの気風と経済力が反映されている。東山文化に見られる簡素な禅宗文化や身近な生活文化に比べ、(一部にはそうした要素を残しつつも、)巨大な天守閣を持つ城郭建築や、その内部を飾る金地のまばゆいばかりの襖絵などが制作された。それらの文化財群は、よくいえば豪華絢爛、悪くいえば過剰装飾・黄金趣味で、一種の成り上がり文化と受け取られかねない。
第二は、現実主義的な傾向が顕著なこと。
従来のわが国の文化は、飛鳥文化以来、仏教の影響を色濃くこうむってきた。建築といえば寺院建築だったし、彫刻といえば仏像彫刻、絵画といえば曼荼羅や阿弥陀来迎図などの仏教絵画だった。しかし、新たな権力者の前には古代・中世的な仏教権威はもはや絶対ではなく、延暦寺焼打ち、一向一揆の弾圧、安土の宗論、検地による寺領削減等を通じて、仏教勢力は弱体化させられた。伝統的な仏教色が希薄になり、現実主義への指向が強まった。この時代、建築といえば新興支配者たちの居所である城郭建築であり、茶の湯の流行を背景とした町衆や大名の茶室建築であり、彫刻は権力者の居室内を飾る欄間の透かし彫り、絵画といえば城郭内を飾る障壁画であった。
第三は、ヨーロッパ文化の影響を受けていること。
ポルトガル人・スペイン人らいわゆる南蛮人と接触し、人びとが彼らの文化を積極的に受容した。南蛮寺、セミナリオ、コレジオなどのキリスト教文化、宣教師ヴァリニャーニがもたらした活字印刷術、マントや帽子などの南蛮風俗等の影響を受けて、わが国の文化は多彩なものとなった。

@ 建 築
《 城 郭 》
この時代、新興大名の城郭が数多く造られた。戦国時代の山城(やまじろ)とは異なり、この時代の城郭は、領国支配の利便性を考慮して、小高い丘に築く平山城(ひらやまじろ)や平地に築く平城(ひらじろ)だった。城郭は軍事拠点であると同時に、政庁であり、大名の居宅としての機能を合わせ持った。
天をめざした多層階の望楼を、天守閣といった。天守閣を備えた城郭は、信長の築城した安土城にはじまるといわれる。天守閣は「天主」すなわちキリスト教の「神のいる場所」、または「梵天・帝釈の座する場所」を指すなど諸説ある。実戦的な施設というよりは、巨大化することによって周囲を威圧する、いわば権力の大きさの象徴という役割の方が大きい。
現在にまで残る当時の城郭には、姫路城 、松本城(別名「深志城(ふかしじょう)」)、彦根城(別名「金亀城(こんきじょう)」)、犬山城(別名「白帝城(はくていじょう)」。天守閣は現存最古のものである)などがある。以上4つの城は、すべて国宝に指定されている。
このうち姫路城は、1600(慶長5)年、池田輝政の入封後、14年頃までに連立式天守群など主要部分が建築された。天守などは国宝、中堀以内は特別史跡であり、1993年には世界文化遺産に指定された。姫山に建てられた平山城なので「姫山城」、白漆喰の優美な外観から「白鷺城(しらさぎじょう)」・「鷺城」などの別名がある。
その他、聚楽第の遺構と伝えられる大徳寺唐門(からもん)・西本願寺飛雲閣(ひうんかく)、伏見城の遺構と伝えられる都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿、西本願寺唐門・同書院(鴻の間)などがある。
《 茶 室 》
茶室建築では千利休作の妙喜庵待庵(みょうぎあんたいあん)、織田有楽斎(おだうらくさい)作の如庵(じょあん)がある。特に待庵は、侘茶室の典型とされる。
妙喜庵待庵は1582(天正10)年、千利休が豊臣秀吉の命によって山崎城内に建てたものという。後に山城国大山崎の禅寺妙喜庵(京都府乙訓郡大山崎町)に移築したためこの名がある。2畳の茶室に1畳の「次の間」つきで、壁は荒壁風(壁土のすさをそのまま見せている)に仕上げ、床は天井や隅柱まで壁を塗りまわした室床(むろどこ)を設け、狭い空間を広く見せる工夫をしている。
一方秀吉は、分解・組み立ての可能な黄金の茶室を造らせ、そこに緋毛氈(ひもうせん)を敷き、黄金の釜、黄金の茶碗(熱伝導がよく熱くて持てないので、木製の茶碗に金の薄板を貼りつけた)や黄金の茶道具を並べ立て、大名たちの目を驚かせた。自らの財力や権力が彼らをはるかに圧倒するものであることを、茶の湯を利用して誇示したのである。

A 絵 画
《 障壁画 》
城郭・書院の建築が盛んになった桃山時代に必要とされたのは、その室内を飾る障壁画(しょうへきが)だった。障壁画というのは、襖・壁・屏風などに描かれた絵画をいう。
城郭は、鉄砲・弓矢による攻撃に対処するため窓が少なく、また建物自体が広大だったため、室内は薄暗かった。そうした室内で好まれたのは、室町初期から金屏風の形で成立していた金碧画(きんぺきが)だった。金碧画は、全面に金箔を押し、碧(青色)に代表される絵の具で濃彩を施した絵画をいう。黄金の輝きが自己顕示欲の強い大名の嗜好にかなったばかりか、十分な照明を得られない室内においてかなりの照明効果をもたらした。
金碧濃彩(きんぺきのうさい)の金碧画(きんぺきが)を、この時代、濃絵(だみえ)といった。彩色することを「彩(た)む」といったので、文字通り解すると、本来、濃絵は彩色画一般を指し、水墨画に対する語であった。濃絵(だみえ)の代表作に、狩野永徳(かのうえいとく、1543〜90)筆の『唐獅子(からじし)図屏風』、狩野山楽(かのうさんらく。1559〜1635)筆の『牡丹(ぼたん)図』、長谷川等伯(はせがわとうはく。1539〜1610)父子による『智積院襖絵(ちしゃくいんふすまえ)』(楓図=長谷川等伯、桜図=長谷川久蔵)などがある。
一方、水墨画の代表作には、長谷川等伯の『松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)』、海北友松(かいほうゆうしょう、1533〜1615)の『山水図屏風』、狩野山楽の『松鷹図(まつたかず)』などがある。
《 風俗画 》
風俗画には、狩野永徳の『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』、狩野長信(1577〜1654)の『花下遊楽図屏風(かかゆうらくずびょうぶ)』、狩野吉信の『職人尽図屏風(しょくにんづくしずびょうぶ)』、狩野秀頼の『高雄観楓図屏風(たかおかんぷうずびょうぶ)』などがある。

B 工 芸
《 朝鮮系陶磁器 》
朝鮮出兵のおり、日本に強制連行された朝鮮人の数は5万〜6万人に達したという。その中には、多数の陶工が含まれていた。茶の湯の盛行を背景にした、茶器製造のためであった。ゆえに、朝鮮出兵には「陶磁器戦争(または焼き物戦争)」の俗称がある。その結果、朝鮮本国における朝鮮白磁器の技術は途絶えてしまった。慶州の仏国寺をはじめ多くの文化財が戦火に焼かれ、大量の書籍や銅活字が日本に持ち去られた。朝鮮出兵は文化の略奪戦争でもあったのである。
西国各地に強制移住させられた朝鮮人陶工たちは、厳重な藩の統制のもと、異国人であるがゆえの差別や慣習の相違などに苦しみながら、日本の地に根を下ろしていった。そして、自らの技術を駆使して、日本の窯業の発展に大きく寄与した。こうした朝鮮系陶磁器に、有田焼(有田焼は伊万里港から輸出されたので、伊万里焼とも呼ばれた)、唐津焼、上野(あがの)焼、薩摩焼、八代焼、高取焼、萩焼などがある。
《 西陣織 》
西陣織の名は、応仁の乱の際に西軍が陣をおいた場所に由来。この地に機屋(はたや)が集まり、織物業が盛んになり、高級織物産地として広く知られるようになった。
《 高台寺蒔絵(こうだいじまきえ) 》
高台寺蒔絵は、豊臣秀吉・北政所(きたのまんどころ)夫妻をまつった高台寺の霊屋(みたまや)の須弥壇(しゅみだん)・厨子(ずし)に施された蒔絵と同じ様式の蒔絵の総称。黒漆(くろうるし)地に平蒔絵(ひらまきえ)で和風文様を写生的に描くのが特色である。
《 欄間彫刻(らんまちょうこく) 》
彫刻では仏像彫刻が衰退して、欄間彫刻が盛んになった。その中には、縁起の良い題材を選ぶなど、依頼主の招福の願いの込められた作品が多く残っている。たとえば、西本願寺の各室鴨居の上の小壁に施された欄間彫刻には、リスと葡萄が立体的に透かし彫りされている。葡萄は蔓草の繁茂から「家の繁栄」を、リスは食物を貯め込むことから「蓄財」を連想させる題材である。
また、都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿には、板壁や戸に菊・牡丹・鳳凰などの豪華絢爛な透かし彫りが施されている。

@ 茶の湯
この時代の茶の湯には、侘茶(わびちゃ)と大名茶という、相反する性格のものが同居している。
村田珠光から武野紹鴎を経て、千利休にいたり、侘茶が大成された。
簡素・閑寂の精神を旨とする侘茶に対し、世俗権力を誇示する茶の湯を大名茶(または道具茶)という。名物とよばれる茶道具の名品を取りそろえ、権力や財力、また豪快な精神性で他を圧倒した。秀吉は、黄金の茶室に緋毛氈(ひもうせん)を敷き、黄金の茶釜や茶器を取りそろえて、諸大名を歓待した。また、北野の森に、身分上下を問わず、茶数寄の者たちの自由な参集を求めた(北野の大茶湯、1587)。茶人たちが設けた茶屋は1500〜1600にものぼったという。
武将の中からも、織田有楽斎(おだうらくさい。信長の弟長益(ながます)。1547〜1621)、小堀遠州(こぼりえんしゅう。1579〜1647)、古田織部(ふるたおりべ。1544?〜1615)らの茶人が出た。
A 阿国歌舞伎(おくにかぶき)
17世紀初めに、出雲大社の巫女と伝えられる出雲阿国(いずものおくに。生没年不詳)が、京都で、念仏踊りに簡単な所作を加えた「かぶき踊り」を始めたという。「かぶき」は「傾(かぶ)く」から生まれた語で、当時、異様な姿でかわったことをする者を「かぶき者」といった。阿国は、当時流行していたかぶき者の風俗を取り入れて踊り演じたので、「かぶき踊り」と呼ばれるようになった。
のちには、女歌舞伎(おんなかぶき)が流行した。女歌舞伎は、おもに遊女による踊り中心の芸能だった。売春をともなったため、風俗を乱すという理由で1629(寛永6)年、江戸幕府によって禁止された。
ついで、少年が演じる若衆(わかしゅ)歌舞伎が行われたが、これも風俗紊乱を理由に禁止された。
これ以後は、前髪を落とした(これを「野郎頭(やろうあたま)」という)成人男子が演じる野郎歌舞伎となり、現在に至っている。女性役も男性が演じ、これを女形(おんながた、おやま)といった。野郎歌舞伎以降、日本の演劇界には女優が存在しなかった。近代以降、最初の女優といわれるのは、川上貞奴(かわかみさだやっこ)である。

B 人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)
この時期、三味線(しゃみせん)を伴奏楽器にした人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)が流行した。
三味線(三線(さんしん)・三弦(さんげん))は、琉球から渡来した蛇皮線(じゃびせん)を改良してが作られた楽器である。
人形浄瑠璃は、室町時代に語り物の一つとして生まれた浄瑠璃節(じょうるりぶし)に、古代以来行われていた人形操(にんぎょうあやつ)りが結合して生まれた芸能である。

C 隆達小歌(りゅうたつこうた)
堺の商人、高三隆達(たかさぶりゅうたつ。1527〜1611)が小歌(こうた)に節づけをした隆達小歌(隆達節とも)が、庶民の間に流行した。

D 生 活
衣服は、袖が筒状になった小袖(こそで)が一般に用いられた。男性は袴をはくようになり、礼服としては肩衣(かたぎぬ)・袴(裃(かみしも))を着した。女性の場合は、小袖を着流しにした。いわゆる「着物」である。ただし、武家の女性の間は、殿中の表着(おもてぎ)として打掛(うちかけ)・腰巻(こしまき)を用いた。
男女とも結髪するようになった。男性の場合、武士に月代(さかやき。額から頭上にかけて広くそり上げる風習)が広まり、のち庶民にも普及した。
食事は朝夕2食だったが、昼食が加わり、1日3食になった。公家や武士は米を常食していたが、庶民の多くは雑穀を食していた。
住居は、農村では茅葺(かやぶ)き屋根の平屋が普通だった。京都などでは、2階建ての住居や瓦屋根(かわらやね)も建てられた。
◆3食の一般化
朝昼晩の3食が一般化してくるのは室町時代からだ。古代以来、貴族は朝夕2食が普通だった。
しかし、農民などの筋力労働者は、必要に応じて1日3回も4回も食事していた。二毛作・三毛作が普及し、年間の農作業回数が2度・3度と増えるなど、次第に農業労働が激しくなっていったからだ。
武士も通常は2食だったが、戦陣にある場合は農民と同じく3食だった。重い鎧(よろい)・兜(かぶと)を身につけ、弓矢・刀・槍をとって戦場をかけめぐるのには、普段よりも体力とエネルギーが必要だった。戦国時代になり、戦陣が重なって多忙になると、戦時の3食の習慣が平時にも及んでいった。
こうした農民や武士の3食の習慣が、他の身分の人びとの食生活にも影響を与えた。農民の食事は雑穀が多かったが、農業の発達が米の増産をもたらし、米を常食する人びとも出てきた。しかし、3度の食事習慣が一般化しても、まだ昼食はごく簡単で、味噌・漬物などを副食とし、汁を添えないのが普通だったという。
【参考】
・樋口清之『食べる日本史』1996年、朝日文庫、P.125〜127参照 |

@ 学問的知識
医学、地理、天文、物理等、ヨーロッパの新知識が伝わった。

A 活字印刷術の伝来
イエズス会の宣教師ヴァリニャーニによって、ポルトガル系ローマ字の金属活字印刷機がもたらされた。この印刷機によって出版された書籍をキリシタン版(このうち、天草の印刷所で出版されたものを天草版という)という。『天草版伊曽保物語(いそほものがたり)』、『天草版平家物語』、『日葡辞書(にっぽじしょ。日本語とポルトガル語の辞書)』など、100点以上が刊行された。ただし、現存するものは34点である。
また、文禄の役の際、朝鮮からも活字印刷術が伝来した。朝鮮では、早くから銅活字による印刷が行われていた。わが国では、後陽成天皇の勅命で朝鮮伝来の印刷術と木活字を使って、『日本書紀』などの書籍が出版された。これら一連の活字本を慶長勅版(けいちょうちょくばん。慶長版本)という。
しかし、ヨーロッパの限られた字種の活字とは異なり、漢字や平仮名・片仮名等が混在する日本語は文字の種類が膨大であり、それだけの活字をあらかじめ用意しておくのは実用的ではなかった。一枚の板木を彫り上げて印刷する木版刷りの方がはるかに経済的だったため、活字印刷は江戸時代になると廃れてしまった。

B 美 術
ヨーロッパ風の油絵、彫刻等が作られた。南蛮人の風俗や南蛮人との交易を描いた『南蛮屏風(なんばんびょうぶ)』が、日本人画家(多くは狩野派)の手によって数多く制作された。約60双の『南蛮屏風』が現存する。

C その他
時計、眼鏡、地球儀などのヨーロッパの製品が持ち込まれた。しかし、学問や技術はその後わが国に根づかず、ほとんどが消えていった。
その一方、衣食など日用品の名前には、今なお南蛮文化の影響が色濃く残っている。たとえば、パン・カステラ・コンペイトウ(金平糖)・ボーロ・カッパ(合羽)・タバコ(煙草)・シャボン(石鹸)・カルタなどの外来語は、この時代のポルトガル語に由来するものである。
◆テンプラ
伝統的な日本料理と思われているテンプラ。実は室町時代の終わり頃、わが国にもたらされた南蛮料理の一つだ。
テンプラの語源については諸説あって、スペイン語の「テンプーロ(templo)」やポルトガル語の「テンペーロ(tempero)」などに由来するといわれる。これらの言葉は、もともとキリスト教徒が金曜日に行っていた祭の名である。
金曜日にイエスが昇天したことからこの日は潔斎日とされ、宣教師たちは鳥獣の肉料理を食べなかった。しかし、魚肉を食べることは許された。金曜日の祭になると、宣教師たちは小麦粉をつけた魚肉を油で揚げた「テンポラス料理」を食べた。江戸時代に入ると、この料理に天麩羅・天婦羅などの漢字をあてて、すっかり日本料理のテンプラとなってしまったのである。
【参考】
・樋口清之『食の日本史』1996年、朝日文庫、P.156などを参照 |
