18世紀後半から19世紀中頃にかけての、江戸を中心にした町人文化を化政文化という。元禄文化を担ったのは上層町人だったが、同じ町人文化でも、化政文化は市井の中小商工業者が中心だった。
洒落(しゃれ)や通(つう)を好む退廃的(たいはいてき)・刹那的(せつなてき)・享楽的(きょうらくてき)な時代風潮は、洒落本(しゃれぼん)・黄表紙(きびょうし)・人情本(にんじょうぼん)などの文学を流行させた。物事を科学的・実証的にとらえようとする批判精神は、儒学・国学・洋学などの学問・思想を発達させた。出版や教育の普及は、庶民層に文化を浸透させた。
また、交通の発達は都市と地方を結んだ。寺社参詣が盛んになり、あるいは個人によって、あるいは講を組織した人びとによって、各地の文化・情報が相互に交流した。学者・文化人らの間で、全国的な交流が行われるようになった。
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江戸での出版点数は、1750年までは年に30点ほどだったものが、1751〜89年には50〜60点、1789〜1818年には110点と増加している。一方、上方の出版点数は次第に減少し、上方出版業者の江戸販売店は次々に廃業に追い込まれている。これは、町人文化の中心が上方から江戸へ移ったことが、出版物の点数からも裏付けられる。
@ 小 説
《 洒落本(しゃれぼん) 》
遊里(ゆうり)を題材にした短編小説を洒落本(しゃれぼん)といい、江戸では通書(つうしょ)、大坂では粋書(すいしょ)ともいった。表紙の色から蒟蒻本(こんにゃくぼん)ともいう。遊里での通人(つうじん、遊里の事情に通じた粋人)の遊びなど、滑稽(こっけい)と通(つう)を描いた。
代表的な作家に、山東京伝(さんとうきょうでん、1761〜1816)がいる。京伝は、江戸深川木場の質店伊勢屋の長子で、本名を岩瀬醒(いわせさむる)、通称を伝蔵といった。やがて京橋に移り、紅葉山(もみじやま)の東にあたることから、住居を「山東庵(さんとうあん)」と号した。筆名は、山東庵に住む京屋(京屋の家業は小間物販売で、売薬もあつかった)伝蔵の意である。
京伝は多才で、戯作者(げさくしゃ)として黄表紙・洒落本等に文才を発揮する一方、絵師北尾政演(まさのぶ)としても知られた。寛政の改革の際、その著『仕懸文庫(しかけぶんこ)』(仕懸文庫は遊女の着替えを入れて持たせる手箱のこと。深川風俗を描いたの意)をはじめとする洒落本三部作(注)が出版取締令に違反したと咎(とが)められ、著作は絶版の上、手鎖(てぐさり・てじょう手錠)50日の刑に処せられた(1791)。この時、版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750〜1797)も処罰されている。以後、京伝は読本(よみほん)に転向した。門人に曲亭馬琴(きょくていばきん)、実弟に合巻(ごうかん)作家山東京山(さんとうきょうざん)がいる。
(注)山東京伝の洒落本三部作::『錦之裏(にしきのうら)』、『仕懸文庫』、『娼妓絹○(しょうぎきぬぶるい、○は竹かんむりに「麗」)』
《 黄表紙(きびょうし) 》
萌黄色(もえぎいろ)の表紙から、黄表紙(きびょうし)といった。ナンセンスな笑いに満ちた成人向けの絵入り小説をいう。
代表的な作者に、恋川春町(こいかわはるまち、1744〜1789)がいる。春町は駿河小島藩士で、本名を倉橋格(いたる)といった。黄表紙作家であると同時に、浮世絵師、狂歌師(戯号を酒上不埒(さけのうえのふらち)といった)など多彩な顔をもつ知識人だった。筆名は彼が師事した浮世絵師勝川春章(かつかわしゅんしょう)と、藩邸のあった小石川春日町(こいしかわかすがちょう)の地名に由来する。
代表作の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』は、謡曲「邯鄲(かんたん)」の趣向を取り入れている。題名の「金々」は金ぴかで豪華なこと。当世流行の髪型・服装でしゃれめかして遊ぶ伊達男を「金々先生」といった。主人公は「金々先生」こと金村屋金兵衛(かなむらやきんべえ)という田舎男。大金持ちの養子になったのをいいことに、大通(だいつう)ぶって豪勢な遊里遊びをする。それが原因で、養家から勘当されたところで栄花30年の夢から覚める、というのが筋である。
この作品の出現によって、子どもを対象としていた草双紙が大人のものとなり、当時の文芸の第一線に躍り出ることになった。ゆえに文学史では、『金々先生栄花夢』が出版された1775(安永4)年を画期として、これより前のものを青本(あおほん)、以降のものを黄表紙といって区別する(注)。
(注)『金々先生栄花夢』が従来の草双紙と一線を画すものだったことは、当時の人びとによって、すでに認識されていた。大田南畝は『金々先生栄花夢』出版の意義を「きんきん先生といへる通人いでて、鎌倉中の草双紙、これがために一変して、どうやらこうやら、草双紙といかのぼりは、おとなの物となつた」(『絵双紙評判記』)と評している。(水野稔『黄表紙・洒落本の世界』1976年、岩波新書、P.52〜53)
黄表紙はふざけた笑いに満ちている。作者の目が政治や社会に向けられた時、茶化され、笑いものにされた為政者にとっては、看過できない事態となる。春町はまた黄表紙『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を著し、寛政の改革を揶揄(やゆ)した。1789(寛政元)年、松平定信に召喚されるが病気を理由に応ぜず、同年病死した(一説に自殺)。
《 合 巻(ごうかん) 》
黄表紙は紙数5丁(ちょう。1枚の紙を1丁と数え、中央で二つに折って2ページにした)1冊を単位とし、3冊1部、時には5冊1部で物語が完結するよう作られていた。常に5丁ずつ別綴じになっていたものを合綴し、長編化したものを合巻(ごうかん)という。大衆向けの絵入り長編娯楽小説である。登場人物には当時人気の歌舞伎役者の姿を写したり、豪華な極彩色の表紙をあしらうなどした。歌舞伎見物は丸一日かかる娯楽だったので、地方に住む人びとや仕事をもつ人びとにとっては、なかなか行くことのできるものではなかった。合巻は、そうした人びとに、歌舞伎を疑似体験させる「紙上歌舞伎」ともいうべきものでもあった。
代表的な作者に、柳亭種彦(りゅうていたねひこ、1783〜1842)がいる。ペンネームは狂歌の狂名「柳の風成」と「心の種俊」に由来する。種彦は本名を高屋彦四郎知久という、れっきとした旗本だった。その著『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』は、「偽物の紫式部」、「まがい物の源氏物語」の意で、『源氏物語』の世界を室町時代に移したもの。足利義正と側室花桐との子足利光氏(あしかがみつうじ)が、将軍位を狙う山名宗全が盗み隠していた足利家の重宝を取り戻し、宗全一味を滅ぼすという筋立てである。
折しも水野忠邦による天保改革がはじまり、1841(天保12)年末には歌舞伎三座の浅草猿若町(さるわかちょう)への移転、遊興緊縮などの生活規制が行われていた。『偐紫田舎源氏』の豪華な装丁は倹約令に違反しており、また、本の内容が故徳川家斉の大奥生活を風刺したものという噂が立った。種彦は1842(天保13)年に、当局に召喚された。しかし、旗本である種彦を、京伝・春水のような町人と同じように、簡単に処罰するわけにはいかない。そこで、同一人物である柳亭種彦と高屋彦四郎を使い分け、彦四郎に組頭を通じて次のように処分を申し渡したという(北島正元『日本の歴史18
幕藩制の苦悶』1974年、中公文庫、P.328)。
其方(そのほう、高屋彦四郎宅)ニ柳亭種彦と云者(いうもの)差置候(さしおきそうろう)。右之者戯作(げさく)致事(いたすこと)不宜 (よろしからず)。早々外へ遣(つかわ)し、相止(あいやめ)させ可申(もうすべし)。(『きゝのまにまに』)
譴責(けんせき)された種彦は間もなく病死。一説に自殺ともいわれる。
《 人情本(にんじょうぼん) 》
従来の戯作本の読者は、もっぱら成人男子だった。新読者層として、女性に対象を絞った恋愛小説が人情本(にんじょうぼん)である。恋に泣く場面が多いことから「泣本(なきほん)」とも呼ばれた。
本屋仲間の公的名称は「中型絵入読本(ちゅうがたえいりよみほん)」。書型から滑稽本とともに「中本(ちゅうほん。美濃紙を半裁にした片面に左右2ページを刷って二つ折りにした書型。現在のB6判に近い)」ともいわれた。
人情本は毎ページに絵を刷る合巻と異なり、絵が少なく、仮名が多かった。仮名が多かったのは、女性が対象読者だったこと、ストーリー展開が会話の積み重ねによってなされていたこと、などによる。仮名が多いおかげで、彫師(ほりし)にとっては板木を彫る作業が楽だった。そのため、値段も安価に仕上がった。
代表的作者に、「東都人情本(とうとにんじょうもの)の元祖」を自任した為永春水(ためながしゅんすい、1790〜1843)がいる。代表作『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』(4編12冊)は、遊女屋の養子丹次郎(たんじろう)と許嫁(いいなづけ)お長(ちょう)・芸者米八(よねはち)との恋愛模様を描いた。続編の『春色辰巳園(しゅんしょくたつみのその)』では、米八・仇吉(あだきち)の女の意気を描き、多くの女性たちに愛読された。本作により、「金と力」のない優男(やさおとこ)の丹次郎は、色男(いろおとこ)の代名詞になった。
しかし、「為永連(ためながれん)」と称される弟子たちとの合作・量産は、人情本の質の低下を招いた。また、官能的な情痴(じょうち)の描写に走ったため、人情本は「色情(しきじょう)の義を専(もっぱら)に綴(つづり)、好色本(こうしょくぼん)ニ紛敷(まぎらわしく)、淫風之甚敷(いんぷうのはなはだしく)、婦女子等(ふじょしら)へは以之外(もってのほか)」(『市中取締類集』-『古事類苑(文学部3)』P.363-)の読み物とされ、天保改革で弾圧。1843(天保14)年に人情本の売買は停止となった。春水は手鎖50日に処せられたのち、ほどなく病死してしまった。
《 滑稽本(こっけいぼん) 》
洒落本・黄表紙・合巻・人情本が、風俗紊乱(ふうぞくびんらん)や体制批判のゆえをもって弾圧対象となったため、こうした毒気を抜いた戯作文学(げさくぶんがく)が流行した。滑稽本(こっけいぼん)と読本(よみほん)と称するジャンルである。
滑稽本にはこれといったストーリーがなく、場面場面におかしみが連続する。中本で値段が安く、文章も会話を主体とした平易なものだったので、広く大衆に受け入れられた。代表的作家に十返舎一九(じっぺんしゃいっく)と式亭三馬(しきていさんば)がいる。
十返舎一九( 1765〜1831)は、本名を重田貞一(しげたさだかつ)、通称を余七(よしち)といい、駿河府中で町奉行の同心の子として生まれた。筆名の「十返舎」は、志野流香道を嗜んだところから、「黄熟香(おうじゅくこう)」の別名「十返しの香」(十度焚いても香を失わない名香の意)からとった。「一九」は幼名の市九に由来する。
代表作の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』は、東海道を上方に向かう弥次郎兵衛(やじろべえ)・喜多八(きたはち)の江戸っ子コンビの珍道中を綴った。下駄を履いて五右衛門風呂に入り、釜を踏み抜いてしまうなど、二人は旅の行く先々で奇行と失敗を懲りずに繰り返す。書名は、江戸を出立して東海道を「膝栗毛」で行く(栗毛(馬)に乗らずに歩いて行く)、の意。今では死語だが、タクシーに乗らずにてくてく歩いていくことを、かつて「テクシー」と言った。それと同根の造語である。「弥次さん、喜多さん」は庶民の人気者となり、1802年に刊行されてから、21年の長きにわたって道中記は書き続けられ、『金比羅(こんぴら)参詣』『宮島参詣』などの続編まで生んだ。
一九は、酒毒のために手足の自由を失い、長患いの末に亡くなる。しかし、最期に際しては、自分自身の死さえをも笑いのめして逝った。
此(こ)の世をばどりやお暇(いとま)と線香の煙と共にはい左様なら
(この世をそれではお暇としよう。手向けの線香の煙とともに、灰となってはいさようなら。「しよう」の意の「せん」に「線香」を、線香の「灰」に感動詞の「はい」を掛ける。) 〔浜田義一郎・森川昭編『鑑賞
日本古典文学、第31巻 川柳・狂歌』1977年、角川書店、306ページによる〕
滅多に人を褒めたことのない馬琴は「一九は浮世第一の仁(じん)にて、衆人に嬉(うれ)しがられ候。…天晴(あっぱれ)の戯作者に御座候」と評している(角川書店編『日本史探訪15』1985年、角川文庫、P.209)。
式亭三馬(1776〜1822)は、本名菊地泰輔(たいすけ)、通称を西宮太輔といった。筆名は私淑した戯作者唐来三和(とうらいさんわ)と、友人の烏亭焉馬(うていえんば)の名に、式三番(しきさんば。能楽で祝言を演じる三つの曲)をもじったものといわれる。若くして戯作を好み、本屋堀野屋に奉公し、また同じく本屋万屋(よろずや)に婿(むこ)入りして、戯作の修行を重ねた。のち堀野屋の妹と結婚し、日本橋に化粧品・売薬店を開き、化粧水「江戸の水」や薬「仙方延寿丹」を売り出して成功した。それらの商品を、ちゃっかり自作の中で宣伝するなど、商才もあった。
代表作の『浮世風呂(うきよぶろ)』や『浮世床(うきよどこ)』は、落語にヒントを得た作品である。江戸庶民の娯楽・社交の場であった風呂や床屋における彼らの会話を忠実に写し、江戸庶民の生態を明らかにした。
《 読 本(よみほん) 》
ストーリーの面白さで読ませることを主眼とした小説が、読本(よみほん)である。仮名草子の系譜を引き、勧善懲悪・因果応報の趣旨で書かれた歴史的伝奇小説である。読本は高価だったため、貸本屋を通じて流通した。
前期読本の作家には、国学者でもあった上田秋成(うえだあきなり、戯号「剪枝奇人(せんしきじん)」、1734〜1809)がいる。秋成の『雨月物語(うげつものがたり)』は、日本や中国の古典から題材をとった翻案小説集であり、また怪奇小説集でもある。「白峰(しらみね)」・「浅茅(あさじ)が宿」・「菊花の約(ちぎり)」など9編から成る
後期読本の作家には、曲亭馬琴(きょくていばきん、1767〜1848)がいる。馬琴は本名を滝沢興邦(おきくに)といった。旗本の用人の五男として江戸に生まれたが、父の死後牢人。職を転々と変えながら、多彩な戯作活動をした。「曲亭」は「巴陵(はりょう)曲亭の陽に楽しむ」から、「馬琴」は小野篁(たかむら)が自ら謙遜して「才、馬卿(ばけい。司馬相如(しばしょうじょ)のこと。字(あざな)は長卿)に非(あら)ずして琴を弾(ひ)くとも能(あた)はず」といったとする故事からとったという(馬琴『三七全傳南柯夢跋』)。博覧強記の馬琴らしく、その命名からして多分に衒学的(げんがくてき)である。
代表作『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』は、儒教の八つの徳目を具現化する八犬士が、安房国里見家の再興をめざす活躍を描く。古今東西の古典を博捜して成った構想壮大かつ緻密な伝奇物語であり、ストーリーは典型的な因果応報思想、儒教的な勧善懲悪思想によって貫かれている。本書執筆中に馬琴は失明し、その後は口述筆記により全巻を完成させた。馬琴自ら『八犬伝』を「江戸の華」と誇った。著者の自信のほどがうかがえる。
馬琴のその他の作品では『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』が有名である。鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)が琉球に渡り活躍する伝奇物語で、その子舜天(しゅんてん)が琉球王国を開いたとする。

A 随 筆
越後の縮(ちぢみ)商人で文人でもあった鈴木牧之(すずきぼくし、1770〜1842)は、『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を著した。都会人には珍しい雪国の自然や農民生活や風俗、雪に関する奇話等を描いた。山東京伝の弟、山東京山が挿絵を描いている。

B 紀行文
三河の国学者で旅行家の菅江真澄(すがえますみ、 1754〜1829)は、東北各地を40余年巡遊し、紀行日記『菅江真澄遊覧記』70余冊を残した。東北各地の地理・民俗等を記録した資料として、きわめて貴重である。

C 俳 諧
俳人であり、画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん、1716〜1783)は、絵画的な情景が思い浮かぶ俳諧を作った。すなわち、画俳一致(がはいいっち)である。「高悟帰俗(こうごきぞく)」を唱えた芭蕉にとって、俗は帰るべきところであったが、蕪村は俳諧に俗語を用いながら、俗を離れようとした。離俗のためには、多くの古典を読むことが必要だ。これが蕪村の持論だった。したがって、蕪村の俳諧は、和漢の古典の教養に裏打ちされている。たとえば、
菜の花や月は東に日は西に
という句は、単に牧歌的で絵画的な春の情景というだけでなく、陶淵明(とうえんめい)の「白日淪西阿、素月出東嶺」(注)や柿本人麻呂の「東(ひむがし)の野(の)に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」などを踏まえているという(紀田順一郎『日本の書物』1979年、新潮文庫、P.319〜320)。
(注)陶淵明の詩(雑詩)について、参考までに佐藤虎雄による読み下しと義解を示しておく。
「白日(ハクジツ)西阿(セイア)に淪(しづ)み、素月(ソゲツ)東嶺(トウレイ)より出(い)づ、遙遙(エウエウ)万里(バンリ)に輝(かがや)き、蕩蕩(タウタウ)空中(クウチウ)に景(ひかり)あり(以下略)
義解 太陽は西方の山のくまにしづみ、白き月は東のみねから出る、月の光ははるばると万里にかがやき、月の光はくずれかかつてよわく空中に光りをなげかける(以下略)」(佐藤虎雄訳注『陶淵明詩解』1991年、平凡社(東洋文庫)、P.288)
その他の蕪村の代表作。
春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)
ゆく春やおもたき琵琶(びわ)の抱(だき)ごゝろ
うづみ火や我がかくれ家も雪の中
没後、弟子が編集した作品集に『蕪村七部集(ぶそんしちぶしゅう)』(実際は8部ある)がある(注)。絵画作品としては、池大雅(いけのたいが、1723〜1776)との合作『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』(うち「十宜図」が蕪村筆)、『夜色楼台図(やしょくろうだいず)』などがある。
(注)『蕪村七部集』:其雪影、明烏、一夜四歌仙、桃李(ももすもも)、続明烏、五車反故(ほうぐ)、花鳥篇、続一夜四歌仙
信濃柏原(かしわばら)の人小林一茶(1763〜1827)は、日記風の随筆及び発句集の『おらが春』を著した。俗語・方言を駆使し、庶民に共感される平易な作品を多く残した。
目出度(めでた)さもちう(中)位也(くらゐなり)おらが春
ともかくもあなた(注)まかせのとしのくれ
(注)浄土宗・浄土真宗では阿弥陀仏を「あなた」といった。「年の暮れもすべて阿弥陀様に任せるほかはない」 の意。

D 和 歌
万葉調の歌人としては、田安宗武(たやすむねたけ、1715〜1771)、加藤千蔭(かとうちかげ,1735〜1808。村田春海とともに「江戸派」と称された。家集『うけらが花』)、村田春海(むらたはるみ、1746〜1881。家集『琴後集』)、本居宣長らがいる。
古今調の歌人としては、香川景樹(かがわかげき、 1768〜1843)とその門下生たちがいる。景樹はその号を桂園(けいえん)といい、その歌集を『桂園一枝(けいえんいっし)』といった。景樹ら古今調の平明優雅な歌風を詠むグループを「桂園派(けいえんは)」という。
越後出雲崎(いずもざき)の禅僧であった良寛(りょうかん、 1758〜1831)は、諸国行脚(しょこくあんぎゃ)ののち、故郷に閑居した。和歌と書に秀で、個性的な作品を残した。子どもたちと手鞠つきをして遊ぶのを楽しみとし、いつも手鞠をふところに入れていたとか、大人から書の揮毫(きごう)を求められても断るのに、子どもたちの依頼にはすすんで凧(たこ)に文字を書いてやったりしたなどという、子どもたちとの交流にまつわる逸話が残る。万葉調の歌風で、童心あふれる和歌を数多く詠んだ。
この里に手鞠(てまり)つきつつ子供らと遊ぶ春日(はるひ)は暮れずともよし
風はきよし月はさやけしいざともに踊りあかさむ老(おい)のなごりに

E 狂 歌
五七五七七調の和歌の形態をとった滑稽詩を、狂歌(きょうか)という。狂歌の分野では、四方赤良(よものあから、1749〜1823) が第一人者である。四方赤良は本名を大田直次郎といい、江戸の御家人であった。南畝(なんぽ)、寝惚(ねぼけ)先生、蜀山人(しょくさんじん)等の多彩な名を持ち、狂歌ばかりか洒落本・黄表紙等も書いた多能多芸の人であった。随筆に『一話一言(いちわいちげん)』がある。
狂歌師の戯号(狂名)には人を食ったものが多い。「四方赤良」は、当時の草双紙によく出る決まり文句「鯛の味噌ずに四方(よも)のあか、いっぱい呑みかけ山の寒がらす…」によったという。「四方」は神田和泉町にあった酒店で、名物が赤味噌と清酒瀧水(たきすい)。「四方の赤味噌」に掛けた命名である。その他、日本橋小伝馬町で旅籠屋を営んでいた「宿屋飯盛(やどやのめしもり、国文学者の石川雅望(いしかわまさもち)、1735〜1813)」、仲間の狂歌を「あっけらかん」と聞いていた「貫公(かんこう)」の意である「朱楽菅江(あけらかんこう、幕府の御先手組与力山崎景貫(やまざきかげつら)、1740〜1800)」、酒を飲んだ上での失敗を意味する「酒上不埒(さけのうえのふらち、黄表紙作家の為永春水、1744〜1789)」、釣りの獲物のはいった岡持を意味する「手柄岡持(てがらのおかもち、秋田藩留守居役平沢常富、黄表紙作家の朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)としても知られる、1735〜1813)」らがいる。
歌よみは下手こそよけれあめつちの動き出(いだ)してたまるものかは 宿屋飯盛
(『古今和歌集』仮名序の「あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をもあわれと思はせ」と和歌の徳をたたえた有名な一節を、天地が動き出してはあぶなくてたまったものではない、歌詠みは下手な方が安全でよいのだ、と茶化している。)
いつ見てもさてお若いと口々にほめそやさるる年ぞくやしき 朱楽菅江
(「いつ見てもお若い」と言われるほどの年寄りになってしまったという口惜しさを詠んでいる。)

F 川 柳(せんりゅう)
日常生活の機微をとらえたり、世相を風刺したりする五七五調の滑稽短詩を、川柳という。もともとは、18世紀中ごろに流行した前句付(まえくづけ)から発達した雑俳(ざっぱい。遊技的な俳諧)様式の文芸で、七七調の前句を省略し、五七五調の付句(つけく)だけを独立させた。前句付というのは、たとえば点者(選者)が「切りたくもあり切りたくもなし」という前句を出題したとする。これに対して応募者が「盗人を捕へてみれば我子なり」と付句した。この場合、付句のみで意味が通じるので、蛇足である前句をとり払ってしまったのである。
その名称は、川柳点者(てんじゃ、句会で句に評点をつける人)であった柄井川柳(からいせんりゅう、1718〜1790)の名前に由来する。柄井川柳によって撰ばれた最初の川柳撰集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』は、民衆への川柳普及に大きな役割を果たした。
役人の子ハにぎにぎを能覚(よくおぼえ)
(子どものにぎにぎに掛けて、役人の子は物を握るのをよく覚えると、役人の賄賂を皮肉っている。)
さむらいが来てハかってく高楊枝(たかようじ)
(浅草観音境内の楊枝屋が美人店員を置いて客集めをしたのに対して、女性目当てに楊枝を買いに来た武士の醜態を「武士は食わねど高楊枝」に掛けてからかっている。)
はせを(芭蕉)翁ほちゃん(ぼちゃん)といふと立留(どま)り
(「古池や蛙(かわず)とびこむ水の音」の句に掛けて、芭蕉をからかっている。)

G 演 劇 (脚本)
《 人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり) 》
竹田出雲(たけだいずも、1691〜1756)は、大坂竹本座の座元であり、浄瑠璃作者でもあった。赤穂浪士の仇討ちを室町時代に移した『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』、菅原道真の左遷を扱った『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』、義経伝説を扱った『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』などの合作作品がある。特に『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』は、興行すれば必ず当たる、と言われるほどの好評を博した。
竹田出雲門下で近松門左衛門の養子近松半二(ちかまつはんじ、1725〜1783)が、衰退した竹本座を復興した。その合作浄瑠璃『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』は、上杉・武田の抗争をめぐる恋物語である。
しかし、人形浄瑠璃は次第に歌舞伎に隆盛を奪われていった。その結果、浄瑠璃は人形操りから次第に離れ、座敷で唄われる唄浄瑠璃(うたじょうるり。一中節、常磐津節、新内節、清元節など)の方面へと移っていった。
《 歌舞伎 》
歌舞伎は、中村座・市村座・森田座のいわゆる「江戸三座」を中心に、隆盛を見た。亡霊や悪人を主人公とする刺激的・退廃的な作品がつくられるようになった。
鶴屋南北(4世、「大南北(おおなんぼく)」と呼ばれた、1755〜1829)は、怪談物(かいだんもの)を得意とした。代表作『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』では、毒殺した妻お岩の亡霊に復讐されて破滅する牢人民谷伊右衛門(たみやいえもん)の姿を描いた。
幕末から明治にかけて活躍した河竹黙阿弥(かわたけもくあみ、1816〜1893)は、怪談物・白波物(しらなみもの、盗賊を主人公とする)・生世話物(きぜわもの、写実性の強い世話物)を得意とした。日本駄右衛門や弁天小僧・忠信利平ら、盗賊を主人公とした『白波五人男』(正式名称は『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』)を書いた。また、『三人吉三廓初買(さんにんきちざ(きっさ)くるわのはつかい)』は、「吉三」を同名とする3人の盗賊、お嬢吉三・お坊吉三・和尚吉三を主人公とする。

@ 国学の四大人(しうし)
『古事記』や『万葉集』など日本古典を研究し、わが国の民族精神を明らかにしようとする学問を、国学という。
国学は、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)の学系を中心に発展した。これを「国学の四大人」という。大人は、国学の師の尊称である。
京都の神官だった荷田春満(1669〜1736)は、「斎宮(いつき)の大人」と呼ばれた。『万葉集』・『日本書紀』など古語・古典を研究するなかで、外来思想を排斥した。1723年、『創学校啓』を幕府に提出し、国学を教授・研究する学校の設立を建言した。
遠江国の神官だった賀茂真淵(1697〜1769)は、「県居(あがたい)の大人」と呼ばれる。特に『万葉集』の研究に専念した。「東野炎立所見而反見為者月西渡」という原文14文字からなる柿本人麻呂の和歌を、「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶき)きぬ」と読み下したのは、真淵である(注)。
真淵は、日本古代の精神を明らかにしようとし、外来思想にとらわれない「神代の道」を理想にした。著作に『文意考』・『歌意考』・『書意考』・『語意考』・『国意考』の、いわゆる「五意考」がある。この中では『国意考』が重要である。「国意」とは、儒仏などの外来思想の影響を受けない純粋なわが国固有の道で、復古思想を主張した。
(注)あまりにもみごとな読み下しなので、以後数百年間、われわれは人麻呂の和歌はこのように読むものと思いこんできた。しかし、万葉仮名の読み方は専門家でも十人十様であり、真淵説とてこのように読むのだという保証はどこにもない。
伊勢松阪の医者であった本居宣長(1730〜1801)は、「鈴屋(すずのや)の大人」と呼ばれる。宣長によって、国学は大成された。漢意(からごころ)を捨てて真心へ帰することを主張し、「もののあはれ」論・「やまとごころ」論を展開。『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』・『古今和歌集』・『源氏物語』などの古典を精力的に研究し、91種266冊もの著書を残した。畢生の大著が『古事記伝』(古事記の注釈書)である。そのほか『源氏物語玉小櫛(たまのおぐし)』(源氏物語の注釈書)、『玉勝間(たまかつま)』(随筆)、『秘本玉くしげ』(紀伊藩徳川治貞に提出した政治論。伊勢松阪は紀伊藩領)などがある。
秋田藩士(のち松山藩士)の平田篤胤(1776〜1843)は宣長没後の門人である。「気吹之舎(いぶきのや)の大人」と呼ばれる。宣長の復古思想を継承し、復古神道を大成した。復古神道は、幕末の尊王攘夷思想へつながった。著書に『古道大意』(神道概論)がある。

A その他
盲目の学者塙保己一(はなわほきいち、1746〜1821)は、幕府の援助を得て和学講談所(松平定信によって「温故堂(おんこどう)」と命名。額の文字は水戸文公の筆に成り、屋代弘賢(やしろひろかた)が彫ったもの。また保己一の号を「温故堂」といった)を設立した(1793)。また、古記録・古書を収集・校訂して、一大古典籍叢書『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編纂した。
『群書類従』は、1779(安永8)年に編纂着手、1786(天明6)年に刊行を開始してから33年後の1819(文政2)年に全冊の刊行を終えた。全体を25部門に分け、その所収書目は1,276種、全666冊(うち目録1冊)、総丁数は33,831丁にも及ぶ。吉野桜材の版木だけで17,244枚を要し、そのほとんどが表裏両面を用いている(現存)。版木彫刻代だけで5,619両1分を費やした。現在の貨幣価値に換算すると10億円にも及ぶという。保己一は、その続編の編纂を企図しながら、正編完成の2年後に76歳で死去。その後継者たちによって、続編1,185冊の刊行が終了したのは、1911(明治44)年のことだった。稀覯書(きこうしょ)の散逸を防ぎ、古典籍活用の道を広げた意義の大きさははかり知れない(紀田順一郎『日本の書物』1979年、新潮文庫)。
若狭(わかさ)小浜(おばま)藩士の伴信友(ばんのぶとも、1773〜1846)は、国史・国文・国語の考証・研究に業績を残した。著書に『比古婆衣(ひこばえ)』や『長等(ながら)の山風』がある。

@ 先 駆 (元禄〜正徳年間、17世紀後半〜18世紀初)
長崎通詞であった西川如見(にしかわじょけん、1648〜1724)は、『華夷通商考(かいつうしょうこう)』(2巻)を著し、通商の見地から書いた外国地誌を紹介した。
新井白石(1657〜1725)は、日本に潜入しようとして捕らえられたイタリア人宣教師シドッチを尋問して、『西洋紀聞(せいようきぶん)』(3巻)と『采覧異言(さいらんいげん)』(5巻)を著した。
『西洋紀聞』は西洋の地理・風俗などを記録したが、キリスト教関係の記述があったため秘本とされ、閲覧は幕府内関係者に限られた。白石は、『西洋紀聞』の中で、西洋は天文・地理などの実証的な学問分野では日本よりはるかに進んでいることを認めつつも、道徳・宗教などの観念的な学問についてはあまり評価をしなかった。
『采覧異言』はシドッチの審問による知識と中国地理書を参照して世界地理・風俗等を記し、将軍に献上された。
◆シドッチ(Sidotti,Giovanni Battista)の骨
シドッチ(1668〜1715)はイタリア人のイエズス会士。禁教下の日本でのカトリック布教を目的に、マニラで日本語を学習。その後スペイン船に乗り、1708(宝永5)年、密かに屋久島に上陸した。
上陸時、シドッチは変装していた。その出で立ちは、
さかやき(頭の中央の髪を剃り上げた男子のヘアースタイル)、ここの人(日本人)のごとくにして、身には、木綿の浅黄色(あさぎいろ)なるを、碁盤(ごばん)のすじのごとくに染(そめ)なしたるに、四目結(よつめゆい。家紋の一種)の紋あるに、茶色のうらつけたるを着て、刀の長さ二尺四寸餘(約72cm)なるを、我國(わがくに)の飾(かざり)のごとくにしたる一腰(ひとこし)をさしたるなり(新井白石著・村岡典嗣校訂『西洋紀聞』1936年、岩波文庫、P.28)
という珍妙な着物姿だった。しかもイタリア人のシドッチは、なかなかの長身だった。175.5〜178.5cmくらいあったという。当時の日本人(男子の平均身長は150cmくらい)のなかにあっては、頭一つ分ほど抜きんでていた。日本語を学習していたとはいえ、会話レベルは「其(その)いふ所のことばも、聞(きき)わかつべからず」(『西洋紀聞』)という程度でしかなかった。こうしてシドッチの密入国は、たやすく露見した。
捕らえられたシドッチはその後、長崎を経て江戸に送られ、小石川の切支丹屋敷に幽閉された。この間、シドッチを審問して得た知識をもとに、新井白石は『西洋紀聞』や『采覧異言』などを書いた。
それから300年。2014(平成26)年に切支丹屋敷跡(東京都文京区)から3体の人骨が出土した。2年後の2016(平成28)年4月、文京区は「人骨の1体はシドッチである」と発表した(朝日新聞2016(平成28)年4月5日(火)による)。国立科学博物館でDNA鑑定等を行った結果、人骨の一つは「170cm超の中年イタリア人男性」と判明。文献に残る特徴から該当する人物はシドッチしかおらず、「ほぼ間違いない」とされた。
禁教下の宣教師で、個人が特定された人骨は、シドッチが初めてである。ちなみに、残る2体の人骨は牢の役人夫妻(夫妻を入信させたため、シドッチは地下牢で獄死することになった)の可能性が高いとされた。 |

A 保 護 (享保年間、18世紀前期)
1720(享保5)年、8代将軍吉宗は、漢訳洋書の輸入制限を緩和した。そのきっかけの一つは、オランダ商館長が4代将軍家綱に献上したまま幕府の書庫で埃をかぶっていた『ヨンストン動物図鑑』を、たまたま吉宗が手に取ったことにあるとされる。吉宗は、ゾウを日本に呼び寄せて庶民に見物させ、アラビア種の馬を輸入しては乗馬法を研究し、さまざまな実学の海外文献を注文した。
しかし、外国語が読めなければ、その内容を知ることはできない。そこで、吉宗は、青木昆陽(あおきこんよう、1698〜1769)と野呂元丈(のろげんじょう、1693〜1761)にオランダ語の習得を命じたのである。
青木昆陽は救荒作物のサツマイモを栽培し、「甘藷先生(かんしょせんせい)」と呼ばれた。著書に『和蘭陀文字略考(おらんだもじりゃくこう)』・『和蘭語訳(おらんだごやく)』・『蕃薯考(ばんしょこう)』等がある。
また野呂元丈には『阿蘭陀本草和解(おらんだほんぞうわげ)』の著書がある。
一方、古医方(こいほう。実験を重んじ漢代医方への復古を説いた名古屋玄医の医説)の山脇東洋(やまわきとうよう、1705〜1762)が、京都での刑屍の解剖を観察し、わが国初の解剖書『蔵志(ぞうし)』(1759年刊)を著した。

B 発 展 (安永〜寛政年間、18世紀後半)
前野良沢(豊前中津藩医、1723〜1803)・杉田玄白(若狭小浜藩医、1733〜1817)・中川淳庵(若狭小浜藩医、1739〜1786)らが、日本最初の西洋医学の解剖書『解体新書』を訳出し、1774年に刊行した(4巻、解剖図譜1巻)。ダンチヒの解剖学教授であったドイツ人ヨハン=アダム=クルムス(1689〜1745)の『解剖図譜(かいぼうずふ)』のオランダ語訳(いわゆる『ターヘル=アナトミア』。ターヘルはオランダ語で表の意、アナトミアはラテン語で解剖学のことで、『ターヘル=アナトミア』という名自身、語学的には意味をなさない。正式のオランダ語名は『オントレード=キュンジヘ=ターフェレン(解剖学表)』。)からの重訳である。ただし、複数の解剖書を参照し、解剖図譜も数種の解剖書から写し取っている。誤訳・誤解も多い(そこで後年、玄白は、『解体新書』の改訂を大槻玄沢に命じた。玄沢が改訂したのが『重訂解体新書』である)が、そうした欠陥に対する後人の非難を恐れず公刊したのは、その益するところ多大であると、彼らが判断したからに他ならない。
はじめて唱ふる時にあたりては、なかなか後の譏(そし)りを恐るゝやうなる碌々(ろくろく)たる了簡にては企事(くわだてごと)は出来ぬものなり。(杉田玄白『蘭学事始』1959年、岩波文庫、P.43)
また『和蘭医事問答(おらんだいじもんどう)』にも玄白の次のような言葉がある。
一番槍(いちばんやり)を入候には、鎗玉(やりだま)に上り候覚悟に無之候得者(これなくそうらえば)相成間敷候(あいなるまじくそうろう)。併(しか)し一人なりとも鎗付け候者(そうらえば)、本望之至(ほんもうのいた)りに御座候。(『蘭学事始』P.93にも引用)
なお、和文でなく漢文で書いたのは、アジアの漢字文化圏の人びとがこの医学書の恩恵を享けることを、ひそかに期待したからである(源了圓『徳川思想小史』1973年、中公新書、P.121〜122)。玄白ら先覚者たちの志の高さが知られる。挿絵は、平賀源内に洋画を学んだ秋田藩の小田野直武(おだのなおたけ、1749〜1780。32歳で没した)が描いた。
仙台藩の支藩一関(いちのせき)藩の医師大槻玄沢(おおつきげんたく、1756〜1809)は、杉田玄白と前野良沢に学んだ。玄沢の名は、両師の名から一文字ずつとったものである。玄沢は、江戸に私塾「芝蘭堂(しらんどう)」を開き、多くの人材を育成した。芝蘭堂では太陽暦の元旦に新元会(しんげんかい。「オランダ正月」ともいう。寛政6年閏11月11日が西暦1795年1月1日に当たることから、芝蘭堂で開催したのが最初。全部で44回も開催された)を開き、その様子は『芝蘭堂新元会図』によって現在に伝わる。著書に蘭学入門書『蘭学階梯(らんがくかいてい)』(2巻)がある(1788年刊)。本書出版後は、オランダ語修得を志す者は、必ず手に取る本であったという。玄沢は筆まめだったので、その著訳書は300余巻にのぼると言われる。
なお、漢学者の大槻磐渓(ばんけい)は玄沢の子であり、国語学者大槻文彦(ふみひこ。国語辞典『大言海(だいげんかい)』の著書がある)は玄沢の孫である。
因幡(いなばはん)藩の医師稲村三伯(いなむらさんぱく、のち海上随鴎(うながみずいおう)と改名、1758〜1811)は、『蘭学階梯』を見て発憤し、江戸で玄沢の門を叩き、蘭学を学んだ。三伯が著した『ハルマ和解(波留麻和解はるまわげ)』(1796年完成)は、フランシス=ハルマが出版した『オランダ語・フランス語辞典』をもとにして訳した、わが国最初の蘭和辞書。約62,000語を載せる大部の辞書で、最初わずか30余部をつくったに過ぎなかった。のち長崎でも、同じハルマの辞書をもとにして、オランダ商館長ヘンドリック=ヅーフが通詞と協力して蘭日辞書をつくった。1811(文化8)年に第一稿ができたが、その後改訂され、版本が出たのは1855(安政2)年のことだった。両者を区別するに、前者を『江戸ハルマ』、後者を『ヅーフハルマ』といった。
美作(みまさか)津山藩の医師宇田川玄随(うだがわげんずい、1755〜1797)は、オランダ人ヨハンネス=ド=ホルテルの『簡明治療術、外科医の使用のための内科疾患の簡単な指針』を翻訳し、『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)』(18巻)を出版した(1793年刊)。内科学書の翻訳の最初である。
蘭学者でオランダ通詞の志筑忠雄(しづきただお、1760〜1806)は、イギリス人自然哲学者ジョン=ケイルの著書『真正なる自然学および天文学への入門書』(ラテン語)の蘭訳(オランダ人医師ハン=ルフロンの訳)を和訳し、『暦象新書(れきしょうしんしょ)』を著した(1802)。この本の中で、万有引力や地動説・星雲説などを紹介し、遠心力・求心力・重力・加速・楕円などの術語を生んだ。
◆洋学発展期の学系
杉田玄白らの刊行した『解体新書』は翻訳書だった。その弟子大槻玄沢が著した 『蘭学階梯』は蘭学の入門書、稲村三伯らがつくった『ハルマ和解』は蘭和辞書。出版の流れが「辞書→入門書→翻訳書」でなく、その逆だった。
先駆者はいつの時代でも労苦を強いられるものだが、語学の素人たちが、簡便な辞書のみを頼りに『解体新書』の訳出を志したのは、あたかも「櫓(ろ)・梶(かじ)のない舟が大海に乗り出すような」ものだった。その苦労話は、杉田玄白の『蘭学事始』に詳しい。 |

C 統 制 (文化・文政〜天保期、19世紀前半)
伊能忠敬(いのうただたか、1745〜1818)が全国沿岸を実測し、『大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)』(注)を作成した。完成は忠敬の死後3年の1821年。大図・中図・小図の3種、225図から成り、驚異的な正確さを有する。
(注)「輿図」「輿地図」は地図の意。「輿(ヨ・こし)」は車と舁(ヨ・かく。四つの手でかつぐ、の意)の組み合わせから成る字で、二人で担ぐ乗り物のこと。「大地は万物の乗り物」とする考えから、「輿」には大地・地球という意味が生じた。
宇田川榕庵(うだがわようあん、1798〜1846)の『舎密開宗(せいみかいそう)』は実験化学原理の翻訳である。
緒方洪庵(おがたこうあん、1810〜1863)が大坂に開いた適塾(適々斎塾)からは、大村益次郎・橋本左内・福沢諭吉ら幕末・維新の逸材が多く輩出した。
◆松平定信の洋学に対する意見
「蛮国は理にくは(精)し。天文地理又は兵器あるは内外科の治療、ことに益も少なからず。されどもあるは好奇之媒(なかだち)となり、またあしき事などいひ出す。さらば禁ずべしとすれど、禁ずれば猶(なお)やむべからず。況(いわん)やまた益もあり。さらばその書籍など、心なきものゝ手に多く渡り侍(はべ)らぬやうにはすべきなり。」(松平定信『宇下人言』−松平定信著・松平定光校訂『宇下人言・修行録』1942年(第5刷、1975年)、岩波文庫、P.177−) |
《 幕府の洋学研究機関 》
天文方高橋景保(たかはしかげやす、1785〜1829)の建議によって、1811(文化8)年、天文方に蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)が設けられ、大槻玄沢(おおつきげんたく)と馬場佐十郎(ばばさじゅうろう)が採用された。外交文書の往復に、長崎の通詞にばかり頼らず、江戸でも翻訳できる役所をつくる必要があるとの理由からだった。これで、オランダ書の翻訳が、幕府公認の事業となった。蛮書和解御用は以後、洋学所(1855)、蕃書調所(1856)、洋書調所(1862)、開成所(1863)と変遷した。
医療関係では、1858年、伊東玄朴(いとうげんぼく、1800〜1871)が江戸神田に種痘所(しゅとうじょ)を開設し、ジェンナー(英)の牛痘種法を普及させた。種痘所は、1860年、幕府に移管され官立となり、1861年には西洋医学所と改称された。
《 洋学の弾圧 》
幕府が許容したのは実学としての洋学であり、封建制批判や幕府の対外政策批判は許されなかった。
1828年、シーボルト事件がおこった。高橋景保が国外持出し禁止の日本地図をシーボルトに贈ったことが発覚し、シーボルトは国外追放、関係者数十名が処罰された事件である。これ以後、洋学に対する統制が厳しくなっていく。
1839年には蛮社の獄がおこった。蛮社とは蛮学社中(ばんがくしゃちゅう)の略で、洋学(蛮学)の研究グループ(社中)をいう。紀州藩の儒者遠藤勝助の提唱でつくられた知識人の勉強会を「尚歯会(しょうしかい)」
といい、その常連だった高野長英(たかのちょうえい、1804〜1850)・渡辺崋山(わたなべかざん、1793〜1841)らが、小笠原(無人島)渡航計画などを理由に逮捕。この件については無実が判明したが、モリソン号事件(1837年)を批判したことが発覚して処罰された。
高野長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』によって永牢(えいろう、終身牢に監禁)となったが、獄舎の火災に乗じて逃亡し、のち役人に追われて自殺。三河田原藩の江戸年寄役で画家としても知られた渡辺崋山は、未定稿の『慎機論(しんきろん)』を筐底(きょうてい)より見つけ出され、永蟄居(えいちっきょ、終身一室で謹慎)ののち自刃。尚歯会で二人と親交のあった岸和田藩医の小関三英(こせきさんえい、1787〜1839)は、連坐を恐れて自殺。
◆シーボルト事件
1828(文政11)年、滞日5年の任務を終えて、オランダ商館付医官のドイツ人シーボルトは、帰国の途に就こうとしていた。ところが、積み荷を載せて先に出航した船が難破してしまい、事態は思わぬ方向に進んだ。積荷の中から国外持ち出し禁止の日本地図が発見されたのである(この時の船中には積荷はなかったという説もある)。さらに、葵(あおい)の紋服まで見つかり、一層事態は険悪化した。地図は、幕府天文方役人高橋景保(たかはしかげやす)が洋書との交換に伊能図を縮写して贈ったものであり、紋服は幕府奥医師土生玄蹟(はぶげんせき)が11代将軍徳川家斉から拝領したものを、眼病治療法伝授の謝礼としてシーボルトに贈ったものだった。
景保は投獄の後、牢死。その死骸は塩漬けにされた。玄蹟は改易に処せられ、関係者数十名が処罰された。シーボルトは約1年間出島に軟禁されて長崎奉行の取り調べを受けた後、国外追放処分となった。 |

@ 幕 府
1793(寛政5)年、老中首座松平定信は、林家塾に対し、いわゆる「寛政異学の禁」を通達した。幕府が、学問・教育を政策対象として行う方針を示したのである。幕府直参の子弟を対象とした素読吟味(そどくぎんみ)・学問吟味の実施と結びついて、教員の任免権・学校財政の管理権・組織運営権にまで発展し、林家塾を幕府直轄の学校に改組していく道が推進されていった。
その結果、林家塾は、1797(寛政9)年には昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)と校名を改め、1800(寛政12)年には新校舎が落成した。新校舎は大成殿を中心に、素読所・稽古所・書生寮などのほか教官住宅まで備えたものだった(石川松太郎『藩校と寺子屋』1978年、教育社歴史新書)。

A 諸 藩
藩学(藩校)では、藩士教育が行われた。学問所兼武芸訓練所として、儒学(のち国学・洋学も)を講じるところが多かった。萩の明倫館(めいりんかん)、鹿児島の造士館(ぞうしかん)、水戸の弘道館(こうどうかん)、会津の日新館(にっしんかん)などが著名である。
藩士と庶民の教育機関として郷学(郷校)が設立された。岡山藩の閑谷学校(しずたにがっこう)、仙台藩の有備館(ゆうびかん)などがある。

B 民 間
民間でも初等教育が普及した。これは明治以降の近代化を進める上での基盤の一つとなった。
幕藩体制の動揺が激しくなると、「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」という従来の愚民政策は転換を迫られた。封建的な倫理観を計画的に注入して従順な租税負担者をつくり、実用的な知識・技能を身につけさせて生産力の向上をはかる必要があったのである。その有様は、「武でおどし、仁ではすかし、知で教へ」と皮肉られた。
《 寺子屋 》
庶民の初等教育の塾を寺子屋といった。「寺子屋」の呼称は関西が発祥であり、次第に全国化したといわれる。享保の初めごろに書かれたという『骨董(こっとう)雑談』(新井白石、1716年)には、「今の世の師家へいりて寺入といひ、また寺といふ。師家をさして寺子屋といひ、学ぶものを寺子といふ」とある(石川松太郎『藩校と寺子屋』1978年、教育社歴史新書)。塾への入門を「寺入り」、塾を「寺子屋」、生徒を「寺子」と称した、というのである。
寺子屋では、教科書に『庭訓往来』・『商売往来』・『百姓往来』などの往来物や、『実語教』などが用いられた。学習内容は、実用的な「読み・書き・そろばん」が中心だった。
《 心 学(しんがく) 》
平易な町人道徳を説く心学が、石田梅岩(いしだばいがん、1685〜1744)によって京都で始められた。心学を説く塾を心学舎(しんがくしゃ)といい、商人層に広まった。石田梅岩の『都鄙問答(とひもんどう)』(1739年刊)は、心学講義を整理編集したもの。朱子学や吉田神道・禅などの生活倫理を融合したもので、倹約・正直・堪忍等を説いた。心学は手島堵庵(てしまとあん、1718〜1786)、中沢道二(なかざわどうに、1725〜1803)らによって普及していった。
《 私 塾 》
私塾では、大坂町人が出資して設立した懐徳堂(かいとくどう)が異彩を放っている。富永仲基(とみながなかもと、1715〜1746)・山片蟠桃(やまがたばんとう、1748〜1821)らの異才を輩出した。
豊後日田(ひた)の咸宜園(かんぎえん)は、広瀬淡窓(ひろせたんそう、1782〜1856)が設立した近世最大の漢学塾で、3,000人もの門弟がここで学んだ。等級制を設け、月旦表(げったんひょう。月ごとの成績表)に基づいて進級させるなど、徹底した実力主義をとった。年齢・学習経験・身分の三つを無視し、成績だけで優劣を決定する教育方針は、三奪法(さんだつほう)と呼ばれる。門下から高野長英・大村益次郎ら多くの俊才を輩出した。
萩の松下村塾(しょうかそんじゅく)は、吉田松陰(よしだしょういん、1830〜1859)の叔父玉木文之進(たまきぶんのしん)が開いた塾である。松陰が塾を受け継ぎ、幕末・維新の指導者となる高杉晋作(たかすぎしんさく)・久坂玄瑞(くさかげんずい)ら多くの人材を輩出した。

@ 経世論
当初は、自然経済への復帰が主張され、兵農以外の商人の存在は否定された。熊沢蕃山(くまざわばんざん)は武士帰農論を説き(『大学或問』)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)は武士土着論を説いた(『政談』)。
しかし、貨幣経済の進展により、もはや自給自足経済への復帰が不可能だと判明すると、むしろ商業の利用が積極的に主張されるようになる。太宰春台(だざいしゅんだい)は農本商末の立場にたちながらも、商業藩営を説いた(『経済録』)。海保青陵にいたっては売買行為は天理であり(売買天理論)、君臣関係すら御恩と奉公という「市道(売り買い)」によって成り立っている(君臣市道論)とまで言い切った(『稽古談』)。
陸奥八戸の医者だった安藤昌益は、異色の思想家である。封建的な階級支配そのものを否定し、万民直耕(ばんみんちょっこう)の自然世を理想とした(『自然真営道』、『統道真伝』)。しかし、地方に埋もれたため、その思想的影響はほとんどなかった。カナダ人の研究者ハーバート=ノーマンは、彼を「忘れられた思想家」と呼んだ(『忘れられた思想家安藤昌益の研究』)。

A 尊王論
18世紀の半ば、尊王論者が処罰される事件が続けておこった。宝暦事件(1758)と明和事件(1767)である。しかし、事件の実態を見ると、前者は朝廷内の公家間の指導権争い、後者は牢人の舌禍事件で、尊王論ゆえの弾圧とはいえない。
《 宝暦事件 》
京都で垂加神道を学んだ竹内式部(たけのうちしきぶ、1712〜1767)は、桃園天皇(ももぞのてんのう)の近習衆に神書・儒書を講じた。摂関家に政務を独占され、不満を抱いていた天皇近習の少壮公卿たちは、1758(宝暦8)年、桃園天皇に対して式部による『日本書紀』神代巻の直接進講を実現。主体的に活動を開始した近習衆の動きを、従来の秩序からの逸脱と見なした摂家衆は、式部門下の公卿たちを処分するとともに、式部を所司代に告発。首謀者と目された竹内式部は重追放(じゅうついほう)に処せられた。これを宝暦事件という。
事件の実態は、朝廷内の公家間の指導権争いだったが、尊王論者が弾圧された最初の事件とされる。
※重追放:刑罰の一種で、武士の場合、犯罪地・住国のほか関八州・近畿七国・東海道筋・木曽路筋・甲斐・駿河・肥前から追放した。
《 明和事件 》
江戸で門弟一千人余を抱え、軍学・儒学を講じていた山県大弐(やまがただいに、1725〜1767)は、上野国小幡藩上席家老吉田玄蕃(よしだげんば)と親交があった。しかるに、玄蕃の藩政改革に反対する者により、謀反の意図ありと幕府に密告された。
一方、京都で竹内式部と同志となり、皇学所講師となった藤井右門(ふじいうもん。1720〜1767)は、宝暦事件に際して逃亡。江戸の山県大弐のもとに身を寄せていた。
判決書によると、両人に謀反を企てた事実はなかったとされる。ただ、兵学を講釈する際に甲府城・江戸城を題材にし、また天皇は行幸もままならない囚人だとの言動が「不敬不届至極」であるとされ、1767(明和4)年、大弐は死罪、右門は獄門(獄中で病死後獄門)に処せられた。竹内式部はこの事件には無関係だったが、重追放の禁を破って入京したとの理由で八丈島へ遠島となった(式部は護送の途中で三宅島で病死)。
本質は牢人の舌禍事件だったが、幕府が一民間人を処刑した初めての事件で、幕府による思想弾圧として知られる。これを明和事件という。
山県大弐には『柳子新論(りゅうししんろん)』の著作があり、尊王斥覇(そんのうせきは)を説いて、忌憚(きたん)のない幕府批判を展開している。
◆山県大弐の『柳子新論』
「保平(注:保元・平治の乱)の後に至り、朝政漸(ようや)く衰へ、寿治(寿永・文治)の乱、遂に東夷(源頼朝)に移り、万機の事、一切武断、陪臣(北条氏)権を専(もっぱ)らにし、廃立(天皇の廃立)その私に出づ。この時に当たつや、先王の礼楽、蔑焉(べつえん)として地を掃(はら)へり。− 後 略 − 」(山県大弐『柳子新論』1759(宝暦9)年−1943年、岩波文庫、P.16−) |
《 その他 》
平田篤胤の復古神道は、幕末の王政復古の実践運動へつながった。
水戸学は、藤田東湖(ふじたとうこ、1806〜1855。『弘道館記述義(こうどうかんきじゅつぎ)』)・会沢正志斎(あいざわせいしさい、1782〜1863。『新論』)らを通じて尊王攘夷論を唱えるに至った。

B 対外政策論
「寛政三奇人」(注)の一人林子平(はやししへい、1738〜1793)は、ロシアの南下に警告を鳴らし、海防論を説いた。島嶼(とうしょ)国である日本は長い海岸線を持ち、海上からの接近が容易である。しかるに、長崎以外に対外防衛施設がない、とその不備を指摘した。その著作『海国兵談(かいこくへいだん)』は、みだりに世人を惑わしたとの理由で『三国通覧図説(さんごくつうらんずせつ)』とともに発禁処分となり、版木を没収された。子平は禁錮刑に処され、獄死(一説に、世界地図の上で憤死したという)。ロシア使節ラクスマンが、漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、1751〜1828)をともなって根室に来航したのは、林子平の死の半年後のことだった。
(注)寛政三奇人::高山彦九郎(1743〜1793。尊王家)、蒲生君平(がもうくんぺい、1768〜1813。尊王家、『山陵志』を著す)、林子平の3人。
本多利明(ほんだとしあき。1743〜1820)は開国による貿易振興 を説き(『西域物語』、『経世秘策』)、佐藤信淵(さとうのぶひろ。1769〜1850)も産業国営化・貿易振興を主張した(『経済要録』、『宇内混同秘策(うだいこんどうひさく)』)。
モリソン号事件に際し、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』で、高野長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』でそれぞれ幕府の対外政策を批判したため、弾圧された(蛮社の獄)。

C 懐徳堂(大坂)出身者による合理的思想
富永仲基(とみながなかもと、1715〜1746)は『出定後語(しゅつじょうごご)』で仏教・儒教・神道を否定した。仏教の経典はシャカの教えそのものではなく、その後の歴史の中で付加されたものであることを論証した(加上説)。また、人のあたり前を基本とする「誠の道」を提唱。
山片蟠桃(やまがたばんとう、1748〜1821)は唯物論者であり、その著『夢ノ代(ゆめのしろ)』(12巻)において無神論(無鬼論)を説いた。その考えは徹底しており、霊魂や化物をはじめとする超自然現象の存在を明確に否定した。

@ 浮世絵
江戸は、当地在住の町人ばかりでなく、地方からの出稼ぎ者・参勤交代の武士・旅行者などでごったがえしていた。18世紀には、世界最大の人口を擁した百万都市であったという。「江戸は諸国の掃(は)き溜(だ)め」と称される所以(ゆえん)である。
帰郷にあたり、彼らの江戸土産は、浅草海苔と浮世絵が定番だった。徒歩旅行が中心だった当時、軽量で嵩張らない土産物が求められたのである。
しかも、錦絵(にしきえ。多色刷りの浮世絵)は、関東周辺では江戸でしかなかなか入手できなかった。絵師・彫師・摺師の分業体制は、最低でも数十名の職人を必要としたという。そうした職人を抱える巨大資本は、大都会の江戸だからこそ可能となる。そこで浮世絵は「江戸絵」・「東絵(あずまえ)」とも呼ばれた。
浮世はそもそも「当世風、享楽的」を意味する言葉であり、草創期(17世紀末頃)の浮世絵は「当世風の享楽的な場所(歌舞伎芝居や遊里など)を描いた風俗画」を指した。そのため、浮世絵の画題は、その後も歌舞伎役者・相撲取り・美人女性の似顔絵がその中心だった。風景画の出現は庶民の旅行熱が高まる19世紀であり、時期的にはかなり遅れる。
これらの画題は、現代風に言うなら人気タレント・スポーツ選手・女性アイドルのブロマイドであり、風景画は絵葉書にでも相当しようか。版元・絵師は庶民の好む画題を選び、庶民の需要に応えたのである。
◆浮世絵と印象派
浮世絵は、「鎖国」下においてはオランダ商館関係者を通じて、開国後は江戸に近い横浜にやってきた多数の外国人によって、エキゾチックな日本土産として海外に持ち出された。
日本から流出した浮世絵は、とりわけヨーロッパの後期印象派に多大な影響を与えた。構図の斬新さ、色彩の明るさ・鮮やかさ等が、彼らの魂を大いに揺さぶった。彼らは競って浮世絵を模倣し、次第にそれを咀嚼して、新しいものへと発展させていった。たとえば、ゴッホは広重の『名所江戸百景』のうち「亀戸梅屋敷」と「大はし阿たけの夕立」を油絵で模写しているし、また英泉の『花魁(おいらん)』の模写、背景に多数の浮世絵を配した『タンギー爺さん』の作品がある。モネ(『着物姿のモネ夫人』)やマネ(『エミール・ゾラの肖像』)などの作品にも浮世絵が登場する。
なお、音楽家のドビュッシーは、北斎の「神奈川沖浪裏」に着想を得て「海」を作曲している。 |
《 錦 絵(にしきえ) 》
浮世絵は肉筆画より、木版画の比率が大きい点に特色がある。版画という手段をとったことにより、浮世絵の量産が可能になった。販売価格は低落し、一般庶民はようやく自分たちの文化を手にすることができるようになった。
しかし、木版画の最初のものは、墨刷絵(すみずりえ)と呼ばれる白と黒だけのモノクロ版画だった。色彩に対する欲求は、後から筆で色をさす丹絵(たんえ)、紅絵(べにえ)などを生んだ。
のちに二・三色の寡色刷版画(紅摺絵べにずりえ)が始まり、1765(明和2)年頃、鈴木春信(すずきはるのぶ)によって多色刷版画が考案された。その華やかな色彩は人々の目を奪い、浮世絵は「錦絵」と呼ばれて全盛期を迎えることになった。
《 喜多川歌麿の美人画 》
喜多川歌麿(きたがわうたまろ、1753?〜1806)は美人画の第一人者である。胸から上をクローズアップして描く大首絵(おおくびえ)や、雲母刷り(きらずり)を背景に用いる手法を採用した。何よりも、従来の定型化された美人画にはない、日常生活において女性が見せる一瞬の表情や姿態を切り取る描画姿勢に新しさがあった。代表作『婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)』、『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)』。
《 東洲斎写楽の役者絵 》
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、?〜?)は、個性的な役者絵を描いた。癖のある役者絵が世間に受け入れられなかったのか、わずか1年間に約140点もの作品(大部分が役者絵、一部相撲絵)を残しながら、歴史の表舞台から姿を消した。『浮世絵類考』はその正体を阿波藩に仕えた能役者斎藤十郎兵衛とするが、その伝記は未詳。斎藤十郎兵衛説に異義を唱える人びとによって、東洲斎写楽の正体は誰なのか、さまざまな人物比定が行われている。代表作に『中山富三郎(とみさぶろう)』、『市川蝦蔵(えびぞう)』など。
《 風景画 》
葛飾北斎(かつしかほくさい、1760〜1840)の作品はデフォルメされた奇抜な絵組が多く、従来の浮世絵の中では異彩を放つ。北斎は、天保2年(1831)から4年にわたって『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』を発表したが、そこに描かれたのは「幻想のうちに再編成された自然」(河野元昭氏)であり、北斎画が実景を写したものでないことは論を俟(ま)たない。こうした北斎の主観的な作画姿勢を典型的に示す作品は、『富嶽三十六景』全46枚のなかでも、とりわけ「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」、「凱風快晴(がいふうかいせい、通称「赤富士」)」、「山下白雨」のいわゆる「三役」であろう。しかし、こうした個性的な画風(悪くいえば癖のある画風)が、必ずしも一般受けしたわけではなかった。
一般庶民が広く支持した風景画は、天保4年(1833)に刊行された歌川広重(うたがわひろしげ、1797〜1858)の『東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』だった。それらは、一見すると平凡には見えるものの、詩情的で人の胸に迫るものがある。旅情を誘う広重の『東海道五十三次』全55枚は、好評をもって庶民に迎えられた。広重は繰り返し繰り返し同シリーズの制作依頼を受け、彼の東海道物は53駅揃っている物だけでも16種の多きを数える。その人気のほどが偲ばれよう。
《 北斎と広重の辞世 》
北斎(90歳で没):人魂(ひとだま)で行く気散じや夏の原
(人魂となって夏の野原を飛んでいくと思えば、何と気分がすっきりとすることだろう)
広重(62歳で没):東路(あずまじ)へ筆をのこして旅のそら西のみ国の名ところを見ん
(西方浄土へ旅立って、そこの名所を探訪したいものだ)
◆ベロ藍(あい)
北斎・広重の画風は対照的だが、二人とも紺青(こんじょう)を多用した点は共通している。『富嶽三十六景』は紺青を基調に描かれ、「神奈川沖浪裏」でもこの色が逆巻く激浪を効果的に演出している。広重も紺青を多用し、それは”ヒロシゲブルー”と外国人に言わしめた。紺青なくして北斎・広重の風景画は語れない。
この紺青は18世紀初頭にプロイセンのベルリンで開発されたので、ヨーロッパ人はこれを「プルシャンブルー(プロイセン青)」と呼び、日本人はこれを「ベロ藍(あい)」とか「ベロリン藍」と呼んだ。
この画期的な合成顔料が開発される以前には、ヨーロッパの画家は瑠璃(るり)を粉末にした極めて高価な天然群青(ぐんじょう)を使用しなければならなかった。最良品の天然群青は、金と同価だったという。古代エジプトではこの天然群青を「ラピスラズリ」と呼び、ヨーロッパには中近東から海を越えて伝えられた。その意味からこの顔料には「ウルトラマリン」の別名がある。
安価で色鮮やかなプルシャンブルーの出現は、高価な天然群青(ラピスラズリ=天然ウルトラマリン)を駆逐していった。ちなみに同じ青系合成顔料のコバルト青や合成ウルトラマリンの出現は、プルシャンブルーに遅れること1世紀も後のことである。
プルシャンブルーはオランダ船を通じて長崎に運ばれた。褪色(たいしょく)してしまう草木染めの藍汁を用いていた浮世絵師たちが、鮮やかな「ベロ藍」に飛びついたのは想像に難くない。 |

A 文人画
文人や学者が余技として描いた絵を文人画(南画)という。明・清の南宗画の影響を受けた水墨の淡彩画である。
文人画の名品としては、池大雅(いけのたいが、1723〜1776)・与謝蕪村(よさぶそん)の合作『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』がある。清の文人李笠翁(りりゅうおう)が伊園での別荘生活を詠んだ十便十二宜の詩を題材にしたもの。大雅が『釣便(ちょうべん)図』などの『十便図』を、蕪村が『宜秋(ぎしゅう)図』などの『十宜図』を描いた。
その他、文人画家としては、谷文晁(たにぶんちょう、1763〜1840。代表作『公余探勝図(こうよたんしょうず)』)、渡辺崋山(わたなべかざん、1793〜1841。代表作に肖像画の『鷹見泉石像』がある)、田能村竹田(たのむらちくでん、1777〜1835。代表作『亦復一楽帖(またまたいちらくちょう)』)らがいる。

B 写生画
写生画では、円山派(まるやまは)とそこから分かれた四条派(しじょうは)がある。
《 円山派 》
円山応挙(まるやまおうきょ、1733〜1795)は、清の写生画や洋画の遠近法・立体描写法を学んだ。応挙を祖とする日本画の一派を、円山派という。代表作に『雪松図屏風(ゆきまつずびょうぶ)』、『保津川図屏風(ほづがわずびょうぶ)』などがある。
《 四条派 》
呉春(ごしゅん。松村月渓(まつむらげっけい)、1752〜1811)が京都四条通りに住んだので、この名がある。叙情的な文人画・円山派の長所をとり、新様式を開いた。代表作『柳鷺群禽図屏風(りゅうろぐんきんずびょうぶ)』。

C 洋風画
油絵や銅版画など、西洋画の手法によって描かれた絵画を、洋風画という。洋風画には、秋田系と江戸系がある。
秋田系には、『西洋婦人図』(油絵)を描いた平賀源内(ひらがげんない。1728〜1779)がいる。源内の弟子小田野直武は、『解体新書』の挿絵を描いた(前述)。
江戸系には、『不忍池図(しのばずのいけず)』を描いた司馬江漢(しばこうかん、1747〜1818)、『浅間山図屏風』を描いた亜欧堂田善(あおうどうでんぜん、1748〜1822)らがいる。司馬江漢は、大槻玄沢が翻訳したショメールの辞典の銅版画製作法の項を参考に、1873(天明3)年、日本で初めて腐食銅版画(エッチング)の制作に成功した。『三囲景図(みめぐりけいず)』がそれである(赤木昭夫『蘭学の時代』1980年、中公新書、P.93)。

@ 娯 楽
江戸を中心に多方面にわたる生活文化が開花した。
江戸三座(中村座・市村座・森田座)をはじめとする芝居小屋や、見世物小屋が建ち並び、寄席では講談・落語・曲芸などが演じられた。銭湯、髪結床も庶民の娯楽の場であった。寺社は修繕費や経営費を得るために縁日や開帳(かいちょう。秘仏の公開。地方の寺社が都会に出張して行う「出開帳(でがいちょう)」も行われた)を催して、人びとを集めようとした。富突(とみつき。富くじ)も盛んだった。

A 旅 行
湯治や物見遊山などの旅行が流行し、伊勢参り・善光寺参り・金比羅参りなどの寺社参詣や、西国三十三カ所・四国八十八カ所・坂東三十三カ所などの聖地・霊場を巡る巡礼が、盛んに行われた。とくに、伊勢神宮参詣の爆発的流行がほぼ60年周期(これを「おかげ年」といった)でおこり、1830年には熱狂化した500万人もの人びとが伊勢神宮へと、集団参拝に向かった。これを御蔭(おかげ)参りといった。

B 行 事
五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)、彼岸会(ひがんえ)、盂蘭盆会(うらぼんえ)などの年中行事が行われた。
各地の祭礼も人びとで賑わった。江戸の山王祭、京都の祇園祭、大坂の天神祭、その他各地で地方的な特色のある祭礼が行われた。

C 民間宗教の発生
講をつくって行った日待(ひまち)・月待(つきまち)・庚申待(こうしんまち)等は、民間宗教であると同時に庶民の娯楽だった。
社会不安を背景に、民間宗教が発生した。天理教(てんりきょう。開祖:中山みき)、黒住教(くろずみきょう。開祖:黒住宗忠(くろずみむねただ))、金光教(こんこうきょう。開祖:川手文治郎(かわてぶんじろう))などである。これらは、のち教派神道(きょうはしんとう)と呼ばれた。


特講4.化政文化
知らざりき 遠き境の 言の葉も 手に取る文の上に 見んとは
●化政文化の特色●
●化政文学●
@小説 A随筆 B紀行文 C俳諧 D和歌 E狂歌 F川柳
G演劇
●国学の発達●
@国学の四大人 Aその他
●洋学の発達●
@先駆 A保護 B発展 C統制
●教育の発達●
@幕府 A諸藩 B民間
●政治思想の発達●
@経世論 A尊王論 B対外政策論 C懐徳堂出身者による合理的思想
●絵画●
@浮世絵 A文人画 B写生画 C洋風画
●生活文化と信仰●
@娯楽 A旅行 B行事 C民間宗教の発生