特講2.寛永文化
知らざりき 遠き境の 言の葉も 手に取る文の上に 見んとは
●寛永文化の特色●
●学問●
@藤原惺窩 A林羅山
●建築●
@日光東照宮 A桂離宮と修学院離宮
●絵画●
@狩野派 A装飾画
●工芸●
@茶道 A書道
●文学●
@仮名草子 A俳諧
寛永年間(1624〜44)を中心とした江戸初期(17世紀前半)の文化を、寛永文化という。桃山文化を継承し、元禄文化への橋渡しをする時期にあたる。それは、下剋上の終焉(しゅうえん)とともに自由で躍動的な創造的文化が鎮静化し、秩序と落ち着きをもった伝統的文化が始まったと時期とも言い換えられる。
桃山文化の豪華絢爛(ごうかけんらん)さを継承するのは、日光東照宮一つに限られるだろう。それは江戸幕府を加護する東照大権現(とうしょうだいごんげん。神としての徳川家康)のおわす霊社として、幕府権力の強大さを誇示するものであった。
一方、落ち着きを取り戻したこの時代にふさわしい、清新で格調高い作品群も生み出された。建築・造園における桂離宮(かつらりきゅう)や修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)、貞徳(ていとく)の貞門俳諧(ていもんはいかい)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の茶の湯、寛永三筆の書、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・俵屋宗達(たわらやそうたつ)・野々村仁清(ののむらにんせい)らの美術など。それらは、京都の天皇・公家・僧侶・武家・上層町衆などを担い手とする文化であった。
この時期は幕藩体制の整備が進められた時期でもあったので、支配完成のために文化が奉仕させられたという側面もあった。たとえば、幕藩体制維持に都合がいい倫理思想として、朱子学が採用された。徳川政権の正統性を主張し、武士に為政者としての自覚を促すため、『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』など歴史書編纂が企図された。支配領域の掌握のため、諸大名には風土記(ふどき)・国絵図(くにえず)等の幕府提出が求められた。また、徳川氏との主従関係を再確認させるため、大名・旗本諸家には系図・由緒書(ゆいしょがき)の提出を求められた。それらをまとめたものが『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』(186巻)である。
◆林屋辰三郎の「寛永文化論」
「寛永文化」という歴史用語が提唱されてから、もう半世紀以上経つ。その提唱者の一人、林屋辰三郎(はやしやたつさぶろう)氏は『中世文化の基調』(1953年、岩波書店)の中で、寛永文化の特徴を次のように述べている(旧漢字・旧かなづかいの表記を現行のものに改めた)。
「幕藩体制が確立し、その上に鎖国も行われたこの時期は、自由な発生期の気分をなおのこしていた文化事象が、政治的圧力で固定せしめられたと共に、そのような文化事象が家元制度などをたよりに伝統文化としてわずかに形態だけはつたえられるようになったという、そういう結節点をなす時期であったと考えられるのである。」
「この寛永文化というものこそ、日本中世の創造的文化の終点であると同時に、伝統的文化の起源であると云わざるを得ないであろう。」
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●学 問● 【注】藤原惺窩・林羅山については「特講3.元禄文化」を参照。
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@ 藤原惺窩(ふじわらせいか。1561〜1619)
それまで「仏儒兼学」とされてきた儒学を仏教から切り離し、独立した学問として探求したのが藤原惺窩(ふじわらせいか)である。それゆえ、惺窩を「近世朱子学の祖」という。
京都相国寺の僧だった惺窩は、渡明を望むほど朱子学探求の志を抱いたが、かなわなかった。しかし、その願いは朝鮮出兵の際に捕虜となった朱子学者姜(カンハン、きょうこう)との交流という形で果たされた。のち僧籍を離れた惺窩は、儒学者として朱子学の啓蒙に努めた。惺窩を祖とする京都の朱子学グループを京学派(きょうがくは)という。

A 林羅山(はやしらざん。1583〜1657)
惺窩の高弟「惺門四天王(せいもんしてんのう)」の一人が、林羅山である。羅山は「道春(どうしゅん)」の法号を名乗り、法体(ほったい。僧侶の姿)で儒学を教えた。それは、当時の慣習で、儒学者はまだ僧侶として扱われていたからである。儒学が独立した学問として幕府に認知され、儒学者が他の武士同様に蓄髪俗体(ちくはつぞくたい)を許されるのは、羅山の孫信篤(のぶあつ)の時代まで待たねばならなかった。
羅山は、惺窩の推薦によって家康に仕えた。以後、秀忠・家光・家綱の侍講(じこう)となって、幕政に参与した。ただし、羅山の朱子学は、徳川家存続に都合の悪い放伐論(ほうばつろん)や易姓革命(えきせいかくめい)などの危険思想を骨抜きにした「日本的朱子学」ともいうべきものだった。羅山が上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に開いた家塾(弘文館)は、のちに幕府の梃子(てこ)入れで、官立化への道を歩んだ。

@ 日光東照宮
日光東照宮は、幕府安泰を加護する神として徳川家康をまつった霊廟(れいびょう)建築である。豪華絢爛を独占したかのような建造物は、幕府権力の強大さを天下に見せつけるものである。当初、久能山(静岡県)の簡素な東照社に葬られた家康は、3代将軍家光によって日光に改葬された。天海(てんかい)の主張によって、山王一実(さんのういちじつ)神道によって家康の神号は「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」という権現号を採用した。秀吉を豊国大明神とした先例により明神号を嫌ったためという。
本殿と拝殿を石の間で結ぶ建築様式を、権現造(ごんげんづくり)という。
◆家康と機動戦士ガンダム
インドのタージ=マハル廟の周辺には、廟を建立する際に各地から集められた象嵌(ぞうがん)職人の子孫が、今でも数多く住んでいる。これと事情が似ているのが静岡だ。
江戸時代初期、駿府(現静岡市)に東照社(現、久能山東照宮)・駿府城・静岡浅間(せんげん)神社などを造営するために、多くの職人が集められた。彼らの高い技術はその後、駿河漆器・駿河指物(さしもの)などと呼ばれる家具作りに生かされた。昭和初期になると静岡の木工産業は、木製の模型飛行機づくりに結びつく。戦後はプラスチックを使ったプラモデル製造につながった。プラモデル分野は、静岡市のタミヤや青島文化教材社などの企業が業界をリードした。1969年からは、バンダイもプラモデル製造の拠点を静岡市に置いた。バンダイは、機動戦士ガンダムのプラモデル(通称「ガンプラ」)製造で人気のある企業である。
【参考】
・毎日新聞2011年1月1日地方版(静岡)
http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20110101ddlk22040083000c.html(2011年1月21日参照) |

A 桂離宮と修学院離宮
日光東照宮が幕府権力を象徴するものなら、桂離宮(かつらりきゅう)・修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)は格調高い公家文化を象徴するものとなっている。落ち着きや秩序を取り戻した寛永期にふさわしい建物である。
桂離宮は、後陽成天皇の弟、八条宮(桂宮)智仁親王(はちじょうのみや(かつらのみや)としひとしんのう、 1579〜1629)の別荘として、桂川のほとりに建てられた。この地は月の名所である。書院造に草庵風茶室を加味した数寄屋造(すきやづくり)と、それを取り巻く回遊式庭園からなる。桂川から水を引いた中央の池の周囲に、古書院・中書院・新御殿の書院群と茶屋(松琴亭しょうきんてい、賞花亭しょうかてい、笑意軒しょういけん、月波楼げっぱろう)や堂が配置されている。過剰な装飾を排除した簡素な美しさは、日光東照宮の対極にある。ブルーノ・タウト(1933年にドイツから亡命した建築家)が「泣きたくなるほど美しい」と絶賛したことにより、広く知られるようになった。
修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)は、「しゅがくいんりきゅう」と通称される。後水尾上皇(ごみずのおじょうこう、1596〜1680)の山荘として建てられた。上皇自らが設計し、造営したと伝えられる。上の茶屋と下の茶屋から成る。明治時代に離宮となり、大修理されて中の茶屋が付加された。

@ 狩野派(幕府御用絵師)
狩野派は、幕府の御用絵師となり、幕府や大名らを相手に城郭・書院などの障壁画に活躍した。狩野探幽(かのうたんゆう。1602〜74)は名古屋城・二条城・大徳寺などに多くの障壁画を描いた。

A 装飾画
上層町人出身の俵屋宗達(たわらやそうたつ。生没年不詳)は『風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)』(2曲1双)を描いた。京都の蓮華王院本堂(三十三間堂)の風神・雷神像(彫刻)を参考にしたといわれる。広い画面の左右に、天鼓(てんこ)をめぐらした白い雷神(雷神は菅原道真の怨霊であり、従来忿怒(ふんぬ)の赤い姿で表現されるのが常だった)、風袋(ふうたい)を両手に持つ緑の風神を、ユーモラスに描いている。非常に装飾性の強い作品である。宗達の作風は、のち、尾形光琳(おがたこうりん)ら琳派(りんぱ)の装飾画に大きな影響を与えた。
一方、狩野派に破門された久隅守景(くすみもりかげ。生没年不詳)は、『夕顔棚納涼図屏風(ゆうがおだなのうりょうずびょうぶ)』(2曲1双)を描いた。農民の親子3人が、夕顔の棚の下で夕涼みしているという、庶民的な題材を描いている。

@ 蒔 絵
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ、1558〜1637)の『舟橋蒔絵硯箱(ふなはしまきえすずりばこ)』は、中央を山形に盛り上げた被蓋(かぶせぶた)が特徴的である。箱の全面には金粉を密に蒔き、波の地紋に小船を並べ、その上に掛け渡した鉛の板で舟橋を表現した。さらに、銀の板を切り抜いて文字を散らし書きにするという斬新なデザインをとる。散らし書きされた21文字は「東路乃さ乃ゝかけて濃三思わたるを知人そなき」。『後撰和歌集』所載の源等(みなもとのひとし)の和歌「東路の佐野の舟橋かけてのみ思い渡るを知る人ぞなき」から「舟橋」の文字を省略したもの。省略された「舟橋」の文字は、橋に見立てた鉛の板の意匠から詠み取る趣向である。おぼつかない恋を詠んだ和歌と、足元のおぼつかない舟橋とが見事に調和した優品である。

A 楽 焼(らくやき)
楽焼は手づくねで成形し、低温で焼いた陶器である。楽家(らくけ)初代の長次郎(ちょうじろう。生没年不詳)が、聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)で採れた土(聚楽土)から作ったものが起源とされる。
本来、楽家が焼いた陶器のみを「楽焼」といい、楽家以外の窯を「脇窯(わきがま)」と呼んだ。長次郎は、千利休の指導で、黒楽(くろらく)・赤楽(あからく)の茶碗を焼いた。
この時代の楽焼の名品としては、本阿弥光悦の『不二山(ふじさん)』が第一に挙げられる。

B 有田焼
文禄・慶長の役で朝鮮人陶工が強制連行され、登窯(のぼりがま)・上絵付(うわえつけ)技術がわが国に伝来した。
特に有田では磁器の生産が始まり、酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)が中国から赤絵の技法を学び、独自の上絵付(うわえつけ)の技法を完成させた。代表作に『色絵花鳥文深鉢(いろえかちょうもんふかばち)』などがある。
有田焼には、古伊万里(こいまり)・柿右衛門・色鍋島(いろなべしま)の三様式がある。古伊万里が明代末期の赤絵の伝統を継承し、柿右衛門は純日本的な赤絵をつくった。色鍋島は、鍋島藩の窯で独自の色彩をはなった。

@ 茶 道
侘茶(わびちゃ)の系譜を引くのは、千宗旦(せんのそうたん)である。父は千少庵(せんのしょうあん)、母は利休の娘で、宗旦流の祖となった。生涯仕官せず、「乞食宗旦」と呼ばれた。仕官しなかったのは、祖父利休の非業の死が原因だったといわれる。「乞食宗旦」と呼ばれたのは、まるで乞食修行を行っているかのように清貧だという意味からであり、その茶風は利休の侘茶をさらに徹底させたものである。
一方、新趣向の茶を創出した大名茶人に古田織部(ふるたおりべ、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、片桐石州(かたぎりせきしゅう)らがいる。それぞれを祖とする流派を、織部流、遠州流、石州流という。

A 書 道
近衛信尹(このえのぶただ、1565〜1614。または信尹の養子信尋(のぶひろ))、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう。1584〜1639)、本阿弥光悦(1558〜1637)らこの時代の三人の能書家を「寛永の三筆」という。しかし、その書風は三者三様であった。
近衛信尹(通称「三藐院(さんみゃくいん)」。関白にまでなった)は力強い豪放な書に特色がある。本阿弥光悦は、大胆で変化に富んだ書を残した。松花堂昭乗(通称「滝本坊(たきもとぼう)」)は画家(狩野山楽に学ぶ)・茶人としても優れ、穏やかで流麗な書を書いた。
◆松花堂と松花堂弁当
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社僧だった昭乗は、京都男山(おとこやま)中腹の泉坊に住した。その一隅に二畳ほどの広さの方丈をつくり、隷書(れいしょ)で「松花堂」と彫った扁額(へんがく)を掲げた。方丈の名は、のち昭乗の別称となった。
画家でもあった昭乗は、農家が種入れなどに使う田の字形の仕切りのある箱を、絵の具箱として使っていた。昭乗の絵の具箱が、思わぬ形で注目されるのは300年後である。
昭和のはじめ、大阪の料亭吉兆(きっちょう)の主人湯木貞一(ゆぎていいち)は、田の字形に仕切った器で茶会用弁当を作るよう依頼された。この器に茶懐石の弁当を盛りつけると評判になり、「松花堂弁当」と呼ばれるようになった。 |
@ 仮名草子
江戸時代初期に書かれた教訓・娯楽・啓蒙等にわたる読み物類を総称して、仮名草子(かなぞうし)という。平易な仮名文で書かれていたため、この名がある。浅井了意(あさいりょうい。?〜1691)の『東海道名所記(とうかいどうめいしょのき)』、如儡子(じょらいし、にょらいし.)なる人物による『可笑記(かしょうき。おかしき)』などがある。
※如儡子の本名は、最上家改易によって牢人になった斎藤清三郎親盛(?〜1674)だという(渡辺守邦訳『可笑記』1979年、教育社新書)。

A 俳 諧
室町時代に流行した連歌の発句(五七五)のみを独立させた文芸を、俳諧(はいかい)という。貞徳(ていとく。1571〜1653)は俳諧の式目を定め、機知に富む俳諧を詠んだ。貞徳の一派を貞門派(ていもんは)といい、高弟に北村季吟(きたむらきぎん)ら貞門七哲(ていもんしちてつ)がいる。詳細は「特講3.元禄文化」を参照。
