2.「振袖火事」に関する覚書
「干支(えと)は丁(ひのと) 人の命を酉(とり)の年 柴垣(しばがき)越して涙こぼるる
」
(明暦の大火についての落首から)
はじめに
明暦3年(1657)正月18日、本郷丸山本妙寺(日蓮宗)から発した火は、折からの北西の強風にあおられて江戸の町の大半を焼き払い、18、19の両日で焼死者10万2千余名にものぼる大惨事をもたらした
(1)
。お七火事(1682)、目黒行人坂の大火(1772)と並ぶ江戸三大火の一つ、明暦の大火である。
大火がもたらした被害の甚大さは、当時の人々の胸底に強烈な印象となって刻印された。この大火のため、江戸人口の1/3が失われ、武都のシンボル江戸城天守閣は焼け落ち、ついに再建されることはなかった。そして、防災を念頭に置いた都市復興計画の下に、江戸の町並みは初期の姿をほとんど払拭することになった。
明暦の大火は、いつの頃よりか「振袖火事(ふりそでかじ)」と称されるようになった。この「振袖火事」の名称の背後に潜む人々の心情、信仰、生活のありようを探ること、これが本稿のテーマである。
1.「振袖火事」の内容
明暦の大火はその出火地から「丸山火事」「本妙寺火事」などと呼ばれ、また明暦3年の干支から「酉年の大火」「丁酉(ひのととり)の火事」などとも呼ばれたが、当時の記録に「振袖火事」と称した例は見えない。しかし、明暦の大火は、むしろ「振袖火事」の名称で人口に膾炙している。
大正年間に報知新聞に連載された矢田挿雲(やだそううん)の「江戸から東京へ」によると、「振袖火事」の名称は、次の因縁話に由来している
(2)
。
麻布百姓町で質屋を営む遠州屋彦右衛門には、梅野という名の娘がいた。承応3年(1654)春3月のある日、梅野が菩提寺である本妙寺へ参詣したついでに、浅草観音へまわろうとしたその途中、上野山下で寺小姓風の美少年を見そめた。梅野はその少年のことが忘れられず、少年が着ていたのと同じ紫縮緬の振袖を親にねだって作ってもらい、人形にそれを着せて夫婦遊びばかりするようになった。心配した両親は、件(くだん)の少年を八方手を尽くして探すが、ついに見つけることができない。そのうちに梅野は17歳の若さで、明暦元年(1655)正月16日に恋い焦れて死んでしまった。
例の振袖は葬儀ののち本妙寺に納めたが、古着屋の手を経て、上野山下の紙商大松屋又蔵の娘きののものとなった。ところが、翌明暦2年(1656)の正月16日、梅野の命日にきのも同じ17歳の若さで病死してしまう。
戻ってきた振袖を、本妙寺の住職が再度古着屋に売り払うと、今度は本郷元町の麹商喜右衛門の娘いくの手に渡り、翌明暦3年(1657)の同月同日、17歳でいくも病死した。
その不思議な因縁に驚いた住職は、3人の娘の親を施主にして大施餓鬼を修し、その上で振袖を焼き捨てることにした。ところが、折しも一陣の竜巻が起こり、火に投じられた振袖を、さながら人間の立った姿で地上80尺(約240m)の本堂真上に吹きあげたため、振袖のまき散らした火の粉はたちまちのうちに本堂を燃えあがらせ、狂風にあおられて次から次へと飛び火し、ついには江戸市中の半分以上を猛火につつむ大火になった…。
2.「振袖火事」の問題点
「振袖火事」の因縁話には多くの点で作為が見られ、到底事実とは考えられない。大火当時、この火事を「振袖火事」の名称で呼んだ例が見あたらないことも、この話が後世の作り話であるということの一傍証となろう。また、所伝により登場人物の名前・住所も一定していないし
(3
)
、さらに数字合わせの作為が見られる。正月16日に17歳の3人の娘の命日が重なり、彼女たちの菩提寺本妙寺で大施餓鬼会を催して振袖を焼いたとするのは、正月18日、19日の大火に引き合わせるための数字上の操作である。
しかし、本稿は「振袖火事」の作為性を云々することが目的ではない。前述の因縁話が作り話であるにもかかわらず、何ゆえこの話が語り伝えられ、明暦の大火といえば「振袖火事」が連想されるようになったのか、という疑問に対して一つの答えを得ることである。
それを理解するためには、この話の背後にある人々の生活のありよう、信仰、心情等を探らなければならない。「振袖火事」の成立に影響を与えたこれらの諸要素を、私は具体的には、大火当時の柴垣節の流行、着物に対する日本人の信仰、頻発する火災の中で明暦の大火を記憶にとどめようとした江戸人の心情、であったと考えるのである。
3.柴垣節の流行
関東大震災(1923年)が起こる直前、船頭小唄が流行した。罹災後に人々は、その歌詞同様町中が「枯れ薄」となる予兆だったのだ、と噂し合ったという。
「人身のさへづりとて、凶おこれる始には、必ずしるし出来るもの也」
(4)
と人々が考えたように、明暦の大火の時も、それは同断であった。明暦年中は特に火災が多く、巻間では「明暦ノ二字日月マタ日ヲソヘタリ、光り過タルニ由リ、大火事アリ」
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などと言って、元号が悪かったのだと噂し合ったが、それにもまして人々が思いを馳せたのは、大火前に流行した柴垣節であった。
柴垣節というのは『むさしあぶみ』によると、北国の農民の米搗唄だったらしく、歴々の会合や酒宴の座において第一の見ものであったという。小唄に合わせて「いやしげにむくつけきあら男のまか出、くろくきたなきはだをぬぎ、えもいはぬつらつきして、目を見出し口をゆがめ、肩をうち胸をたゝき、ひたすら身をもむ事狂人のごとし。右にひだりにねぢかへり、あふのきうつぶきあがきけるを、座中声をたすけ、手をうちてもろともに興」
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じたものであったが、大火の中でもだえ苦しむ人々の姿が、ちょうど柴垣節をうたい拍子を打つ有様に連想された。当時の落首、
干支
(えと)
は丁
(ひのと)
人の命を酉
(とり)
の年 柴垣越して涙こぼるる
(7)
そこで問題となるのは、柴垣節の小唄の内容である。柴垣節には替え歌が多く、たとえば、
想う殿御の声はして 姿へだつる柴垣の 逢いたや見たや恋しやと
ひとりこがるる胸の火を いっそ此身
(このみ)
をこかせかし
(8)
と歌われ、また、
めでたの若松さまや 枝も栄ゆる葉もしげる 柴垣ゆいたてられて
もはや 此所
(ここ)
には住まわれ申すまい
(9)
とも歌われた。柳亭種彦の考証によれば、これら替え歌の元歌というのは『糸竹初心集』の
柴垣々々しば垣ごしに雪のふり袖ちらと見た ふり袖へ雪のふり袖ちらと見た
であるという
(10)
。柴垣ごしに振袖を着た若衆もしくは娘を、ちらりと見そめたという恋の歌である。「振袖火事」とはまさしくこの柴垣節のように、振袖を着た寺小姓風の美少年を「ちらと見た」ことによって恋に落ちた娘の「ひとりこがるる胸の火」が、その娘の命ばかりか江戸の町の大半を焼き尽くし、「もはや此所には住まわれ申すまい」という状況を惹き起こしたという物語ではないか。
4.着物に対する日本人の信仰
かつては故人の形見分けには必ず着物を分けることになっており、山川菊枝氏は、このことが故人を記念する意味を持ち、また着物が今日よりもはるかに得がたい貴重な遺産であったからであろうと推測している。そして、青竹色の小紋縮緬が百数十年間も祖母から孫・曽孫(菊枝氏の母)へと大切に伝えられている事実を間近に見て、「着物がただの物質として以上に、何か魂のこもったもののようにして大事にされていたことが分」
(11)
るとの感想を漏らしている。
このように、故人の衣類が慎重に身内の者に形見分けされた場合には、別に問題は生じない。しかし、そうした「魂のこもった」衣類が形見分けされずに、全くの他人の手に渡った場合には、一体どうなるのであろうか。
赤の他人の衣類を最も安易に入手するには、古着屋から購入するのが一番手っ取り早い。だが、江戸の古着屋の元締鳶沢(とびさわ。のちに富沢)甚内は、出自が盗賊だった。衣類盗人の取締りを請負うことによって、家康から古着売買の独占を許されたという
(12)
。また、盗品故買のゆえをもって古手(古着)買いの禁止令が発令されたりしていることから見ても
(13)
、当時の古着商の扱う衣類の中には、得体の知れない古着も相当数混じっていたらしい。
そうした得体の知れない衣類を身につけると、それを身につけた当人に、何かしらの不幸が襲いかからずにはいない。往々にして古着にこめられた執念は、それを着た者をとり殺してしまうと考えられた。したがって、それを避けるためには、出所の怪しい、故人の恩愛の情がこもりやすい高価な衣類は、すぐに手放してしまうか焼き捨ててしまわなければならない。室町期の物語絵ではあるが、伝土佐光信筆の『福富雙紙』には「よき色々の御衣(おんぞ)」を身につけることを忌避して、その古着を焼き捨てる様が描かれている
(14)
。
ところで、樋口清之氏によれば、現在の振袖は古代の魂振り(自分の魂を振動・増強すると同時に、神の魂も増強させる呪術)衣から発展したものではないという
。しかし「魂のこもった」故人の衣類を形見分けするのをソデワケとも称するからには
(15)
、死者の魂は衣類の各部分のうちでも、特に袖にこもるものらしい。
したがって、高価な紫縮緬の、しかも特に魂のこもりやすい振袖は、恋い焦れて死んだ梅野の魂を、十分に宿し得たわけである。そして、この振袖は古着屋を経て同年齢の娘きのといくの手に渡り、二人ながら夭死せしめた、と「振袖火事」の因縁話では語られる。
振袖はもと元服以前の男女の身につける着物であり、そうした若い青少年の魂は、肉体との結合が成人にくらべて不安定であると考えられた。また、同年齢者の間には、肉体的・精神的に多分に共通性があるとも考えられた。たとえば、現在でも、同一地域内で同年齢の者が死ぬと(特にそれが魂の不安定な年少者の場合には)、その死が他の者の死を誘うというので、ミミフタギモチ(耳塞餅)をついて耳にあててこれを聞かなかった仕草をしたり、野辺送りに行かなかったり、その死顔を見たりしないようにする習俗が各地に残っている
(16)
。
「振袖火事」の話の背景にも、こうした同齢感覚の民俗が反映している。
5.大火の記憶
西山松之助氏が江戸を「火災都市」と規定したほど江戸では火災が頻発し
(17)
、一瞬のうちに人々の生命・財産を奪い去って、彼らの生活を破壊した。「振袖火事」の因縁話を支持したのは、こうした火災都市江戸における度重なる火災の中で、特に大惨事をもたらした明暦の大火の記憶を、風化させまいとする人々の心情ではなかったろうか。
本所の諸宗山(のち国豊山)無縁寺回向院(浄土宗)は、明暦の大火の犠牲者を埋葬するために建立された寺院である。回向院には毎年正月の18、19の両日に、多くの参詣者が集まった。その近在の者は正月ばかりでなく、毎月の18、19日にも参詣するので、大田南畝はその著書に回向院が「日に増し月に益りて今は古義の寺院にもおとら」
(18)
ぬようであると記し、また柴村盛方も「今は前々と違ひ繁花の寺に成」
(19)
つたと『飛鳥川』の中で言っている。明暦の大火を隔てること遠きに及んでも、五十年忌、百年忌等の記念的法事には、さらに大勢の群衆が回向院に繰り出し、たとえば安政3年(1856)の10月2日より11月2日までの1か月間行われた二百年忌法事修業の際も、
道俗日毎に参詣し、満散の日は殊に群集夥(おびただ)しかりし
(20)
という賑わいぶりであった。
このような回向院の繁栄や、法事への多数の人々の参加は、明暦の大火が人々に与えた印象の強烈だったことを裏付けている。
しかし、あれだけの大惨事をもたらして大火であったのに、その最初の出火原因は全く不明であった。本郷の丸山本妙寺が最初の出火地であることは間違いないのだが、その原因となると、由井正雪・丸橋忠弥らの残党による放火であろうとか、火付・火賊の所為であるとか、様々の取り沙汰がなされた
(21)
。が、確たることは結局何もわからなかった。
ところが、明暦の大火を去ることわずか25年にして、またもや大火災が江戸市中を蹂躙した。天和2年(1682)12月28日に起こった所謂「お七火事」である。
この火事にまつわる八百屋お七の悲恋物語−恋しい人に会いたさの一心から放火の大罪を犯し、翌天和3年(1683)3月28日に鈴ヶ森の刑場にあたら16歳(一説に18歳)の命を散らした箱入り娘の行状−は、お七か憎い放火犯であるにもかかわらず、多くの人々に哀憐の情を催させた。そのため、この事件は、種々の情報伝達手段によって、日本の隅々にまで宣伝されていった。この顛末を『天和笑委集』は次のように記している。
然る上は、かぞへうたに作てこれをうたひ、或は道ゆきいろは唄、ぢごくさんだん、
上るりせつきよう、ふしをあらため、江戸中至らぬくまなくうりありき、のちには、
道中五十三つぎ、別而は、洛中洛外、大坂の町々、奈良、さかひ、伏見、淀、
紀州和歌山、すべて五畿内五ヶ国、西は四こく、肥後、島津、或は長崎、しまばら、
其外北国、東は奥州五十四郡、ゑぞ、松前、そとの浜に至るまで、日本六十余州
のこる方なくうりあるく、かゝれば、遠き国里迄も誰しらずと云事なし
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その後も、西鶴の『好色五人女』や歌舞伎・芝居等で「お七火事」の内容は脚色・美化され、世にもてはやされて、この大火を人々の胸に刻印・定着させるのに役立った。
したがって、あれだけの大惨事をもたらした明暦の大火にも、何かしら「お七火事」のような「由緒正しい」原因があったに相違ない、と人々が考えたとしても不思議はない。そういえば、「振袖火事」も「お七火事」同様、十代の若い娘が寺小姓にいだいた恋慕の情炎が大火の発端となっており、出火も同じく寺院からである。
その発端を原因不明の不審火で片付けてしまうには、明暦の大火はあまりにも悲惨過ぎる災害であった。
6.結びにかえて
明暦の大火が「振袖火事」の名で呼ばれるようになったのは、いつ頃からかは不明である。おそらくは振袖の著しい発達を見た元禄期以降、講釈師等の手を経て、この因縁話は成立したのではあるまいか。そして、「振袖火事」の因縁話が人々に支持されてきたのは、この話が柴垣節の流行などの大火当時の風俗、現在にまで残る我々の信仰や生活のありよう、そして大火の記憶を風化させまいとする先人の心情等によって裏打ちされているからではあるまいか、というのが私の考えである。
現在の我々が、東日本大震災をはじめとする体験を克明に記録し、懸命に我々子孫に語り継ごうと努力しているように、「振袖火事」の因縁話にも我々の祖先のそうした思いがこめられているような気がしてならないのである。
(初出1983年。一部加筆・訂正した)
【注】
(1)浅井了意『むさしあぶみ』1660年刊(日本随筆大成3の6、1981年、吉川弘文館、P.399)
(2)矢田挿雲『江戸から東京へ』(中公文庫版・同書第1巻、1975年、P.125〜129)
(3)たとえば岸井良衛編『岡本綺堂 江戸に就ての話』1956年、青蛙房の「振袖火事」の項では、浅草諏訪町大増屋十右衛門娘おきく、本郷本町麹屋吉兵衛娘お花、中橋の質商伊勢屋五兵衛娘おたつとなっており、三人の娘の享年をすべて16歳としている。
(4)著者不詳『天和笑委集』成立年不詳(『新燕石十種・第7巻』、1982年、中央公論社、P.182)
(5)『改元物語』(『古事類苑 天部・歳時部』1981年、吉川弘文館、P.251)
(6)『むさしあぶみ』(前出)P.411
(7)鈴木棠三編『落首辞典』1982年、東京堂出版
(8)(9)黒木喬『明暦の大火』1977年、講談社現代新書、P.6
(10)柳亭種彦『還魂紙料』1810年(日本随筆大成1の12、1975年、吉川弘文館、P.288〜289)
(11)山川菊枝『武家の女性』1943年(岩波文庫版、1983年、P.54)
(12)『落穂集追加・2』(『古事類苑 服飾部』1979年、吉川弘文館、P.1514〜1515)
(13)大久保利謙他編『史料による日本の歩み 近世編』1955年、吉川弘文館、史料147(『大阪市史・第3』より引用)
(14)藤沢衛彦『図説日本民俗学全集・第3巻』1971年、高橋書店、P.522〜523
(15)大塚民俗学会編『日本民俗事典』1972年、弘文堂、「形見分け」の項参照。
(16)『日本民俗事典』(前出)等の「同齢感覚」の項参照。
(17)西山松之助「火災都市江戸の実体」(西山松之助編『江戸町人の研究・第5巻』1978年、吉川弘文館、P.6)
(18)大田南畝『一話一語追加』(日本随筆大成別巻『一話一言・6』1978年、吉川弘文館、P.560)
(19)柴村盛方『飛鳥川』1810年序(日本随筆大成2の10、1974年、吉川弘文館、P.8)
(20)斎藤月岑著・金子光晴校訂『増訂武江年表2』1968年、平凡社東洋文庫P.157
(21)西山松之助「火災都市江戸の実体」(前出)第1章第1節を参照。
(22)『天和笑委集』(前出)、P.222〜223