●元禄文化の特色● |
●元禄文学● |
◆俳諧師西鶴 井原西鶴は、本名を平山藤五といった(井原は母方の姓)。大坂の裕福な商人だったが「妻もはやく死し、一女あれども盲目、それも死せり」(伊藤梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.243)という家庭的不幸を経験した(1675年、西鶴34歳の時、おそらく疱瘡が原因で妻は25歳で死去した。3人の幼児が残されたという)。それが契機となったものか、剃髪して家業を手代に譲り、頭陀(ずだ)をかけて世間を自由気ままに放浪し、好きな俳諧に打ち込んだ。 初め貞門派の俳諧師として「鶴永」と号したが、のち談林派の西山宗因(西翁・梅翁などと号した)の門下となり、師の名から一字を得て「西鶴」と改めた。矢数俳諧(京都三十三間堂の通し矢にならい、一昼夜にできるだけ多くの句を詠む)を得意とし、1684年に行った住吉神社での万句興業では、1昼夜で23500句を作ったという。これは1分間に16句(3.7秒に1句)、作句した計算になる。これを誇り、西鶴は、自ら「二万翁」(また「二万堂」)と名乗った。しかし、そのスピードゆえ詠句を記録することは不可能であり、ただ紙上に棒を引いて句数を算えただけだった。ゆえに西鶴の独吟そのものは存在しない。奇抜を求めるその句風は、他流の俳諧師から「阿蘭陀流」と揶揄された。 皮肉なことに、西鶴の本領は、俳諧師の転合書(てんごうがき)として筆を染めた浮世草子において発揮された。大坂で刊行した『好色一代男』には署名がなく、挿絵も西鶴自身が描いた。遊び半分のいたずら書きだったためである。これが好評を博したため、江戸でも出版の運びとなった(この時の挿絵は菱川師宣)。こうして、西鶴は散文の方面に進出していくのである。 |
◆今も残る歌舞伎の言葉 現在でも日常生活で使用される歌舞伎用語や歌舞伎に由来する言葉は数多い。たとえば次のようなものがある。
この他にも、二枚目(番付の二番目に名前を書かれた色男役の役者)、三枚目、黒衣(くろご)に徹する、花形(はながた)、裏方(うらかた)、外連(けれん)、際物(きわもの)、場当たり、暗転など、歌舞伎に由来す用語は数多い。 |
●儒学● |
◆格物致知(かくぶつちち) 『大学』に「格物致知」という考え方がある。物にある理を究明する学問的方法論だが、「格物」についての解釈は学派により多様である。 藤原惺窩は「物を格(さ)る」と読み、物欲を去ることと理解した。山鹿素行は「物に格(いた)る」と読み、物に内在する理を感得することと理解した。荻生徂徠は「物格(きた)る」と読んだ。古語・古文辞に習熟すると我々の方から物の理を追究せずとも、物の方から我々の方にやってきて、すっとわかるようになるというのだ。 |
◆徹底していた山崎闇斎 山崎闇斎が朱子(朱熹)を敬慕することは徹底していた。闇斎の号は、朱子の字(あざな)晦庵(かいあん)に由来する。晦は「暗い」の意である。通称の嘉右衛門の嘉も、朱熹の熹の字を慕ったことによる。朱子の朱にあやかり、朱色の手拭い、朱色の羽織など、朱色の物を身につけた。講義に使用する書物の表紙までも丹殻(たんがら。オヒルギの樹皮を煎じてとった汁。この汁で布などを赤茶色にそめた)といって、朱にしていた。 闇斎の教育は至って厳格だった。面容は怒ったようで、破鐘(われがね)のような声で講義した。恐ろしさの余り、講義中、あえて顔をあげる弟子は誰もいなかった。闇斎の高弟佐藤直方でさえ、闇斎の塾に赴く際はまるで牢獄に入るようにびくびくし、帰る時には虎口を脱したかのようでほっとしたという。「師の怒声で精力が尽き、命が縮まってしまう」と愚痴をこぼす直方に、浅見絅斎は同意しながらも、「しかし、今の世にこの師をおいて、ほかに師がいようか」と言ったという。 【参考】 ・児玉幸多『日本の歴史16元禄時代』1974年、中公文庫、P.315など |
◆藤樹と了佐 ―「『聖人』というものが、もしこの世に実在するとするなら、それはきっと藤樹のような人だ」。そう人々に思わしめた藤樹の人柄とは、一体どのようなものだったのだろう― 中江藤樹の弟子の一人に、大野了佐という男がいた。了佐は生来愚鈍で、大洲藩士の父は、わが子に武士は到底無理と判断し、何か手に職をつけさせ、一人立ちさせたいと考えた。それを知った了佐は、医者になりたいと藤樹に相談した。了佐の学力の低さを熟知していた藤樹だったが、彼の決意と熱意に動かされ、何とか了佐を医者にしてやろうと決心した。早速『医方大成論』という中国明代に書かれた小冊子を、教科書として与えた。 しかし了佐の学力では、小冊子1冊の習得にも想像を絶する努力が必要であり、それは了佐を教える藤樹にもまた言えることだった。 藤樹がまず短い句を読む。それを了佐に繰り返し読ませる。だが、これがなかなか頭に入らない。午前10時頃から午後4時頃までかかって、同じ語句を200回も繰り返して、ようやく読めるようになるというあり様。しかし夕食後に復習すると、すでにすっかり忘れ、もはや読めない。そこで藤樹は、また100回以上繰り返して教える。それでやっと覚えるという始末だった。精根尽き果てんばかりに教えてくれる藤樹を了佐は心から慕い、小川村まで師のあとを追い、熱心に教えを乞うた。 藤樹は了佐のために、自ら筆をとって医学教科書を作り、彼に与えた。名づけて『捷径医筌(しょうけいいせん)』(早わかり医学の手引き、の意)。6巻からなる。他の門人の指導をしながら、了佐一人のためにこうした大部の教科書を作り、それを身につくまで指導したのである。おかげで、了佐は大洲へ帰って医者となり、家庭をもって家族を養うこともできた。 藤樹は了佐を教育した心境について、次のように述べている。 「自分が了佐に教えてやろうとしても、彼に勉強する気がなかったらどうしようもなかったろう。彼は非常に愚鈍だったけれども、医術を身につけようとする熱意たるや、普通世間に見られないほどのものであった。だからこそ教えることもできたし、彼も医者になることができたのだ。」 【参考】 ・原念斎『先哲叢談』(平凡社東洋文庫)、渡部武『中江藤樹』(清水書院)など |
◆素行の日本中華主義 山鹿素行はその著『中朝事実』で、日本中華主義を説いた。 従来中国は自国を「中華」と称し、周辺諸国を「夷狄(いてき。野蛮人のこと)」と見下していた。中国を尊んだ日本の儒学者たちは、自らを「東夷(中国から見て東にいる野蛮人)」と卑下した。 しかし、実態はどうか。当時、中国では漢民族の王朝である明に代わって、従来夷狄とされてきた満州族の王朝である清が成立していた。少数の異民族が、多数の漢民族を支配していたのである。これを華夷変態(かいへんたい)という。 山鹿素行は国と国の優劣を比較し、日本がそれまで異民族に征服・支配されることがなかったこと、王朝交代がなかったこと等を根拠に、日本こそが「中華」であると主張したのである。 |
●諸学問の発達● |
◆不良少年を「名君」に変えた本 ―「先人(光圀)十八歳、伯夷伝(はくいでん)を読み、蹶然(けつぜん)として其(そ)の高義を慕うあり。巻を撫(ぶ)し、歎じて曰く、載籍(さいせき)あらずんば、虞夏(ぐか)の文、得て見るべからず、史筆に由らずんば、何を以てか後の人をして観感する所あらしめん、と。是に於て乎、慨焉(がいえん)として修史の志を立て…」(「大日本史叙」)― 徳川光圀はかつて「かぶき者」の不良少年だった。18歳の時、司馬遷の『史記』にある「伯夷(はくい)伝」を読んだことが、彼の人生の転機となった。それは次のような話である。 殷(いん)の諸侯孤竹君(こちくくん)に伯夷と叔斉(しゅくせい)という兄弟がいた。父は自分のあとを叔斉に継がせたいと思っていた。父が死んだとき、叔斉は位を兄の伯夷に譲った。伯夷は、弟が継ぐのが父の意志であるとして、国から立ち去った。叔斉も位を継ぐのを承知せず、兄を追ってこれまた国を出て行ってしまった。やむなく孤竹国の人びとは、残った兄弟の一人に位を継承させたという。 この挿話は光圀の胸を鋭くえぐった。光圀の兄頼重(よりしげ)は、讃岐(香川)高松12万石に養子に出されていたのである。兄をさしおいて御三家水戸藩の世子に選ばれた自分は、これまで一体何をしてきたのか。遊郭通いや喧嘩など、放埒(ほうらつ)で愚かしい日々を送ってきたのではないか。深い自責の念が光圀を襲った。光圀は決心する。家督問題の誤りは子の代で訂正すべきだ。光圀は兄の子を自分の跡継ぎとし、水戸藩主を継がせる。水戸藩第三代藩主綱條(つなえだ)である。 この時の読書体験をきっかけに、光圀は歴史書の重要性を認識し、『史記』にならった「本朝の『史記』」をつくることを志す。光圀が編纂を開始した史書は、その死後『大日本史』と命名された。 【参考】 ・鈴木暎一『徳川光圀』2006年、吉川弘文館、その他 |
◆算額(さんがく) 神社仏閣に掲げられた和算の絵馬を算額という。和算家の研究発表であったり、神仏に感謝して和算の上達を願ったものであったり、他の和算家に対する挑戦であったりと、その奉納目的はさまざまだった。現存最古の算額は、天和3(1683)年に栃木県佐野市の星宮神社に奉納されたものだという。 現在、一千面に近い算額が日本各地で確認されているが、その中には現代の専門家の頭を悩ませる難問も含まれているという。 |
●美術● |
◆デザイナー光琳 京都の呉服商雁金屋(かりがねや)に生まれた光琳は、本阿弥光悦を慕って光琳と号した。彼は、俵屋宗達の豊麗な画風に理知的な構成と明快な描法を加味して、琳派中興の祖となった。 光琳の創始した意匠性・装飾性の強いデザインは「光琳模様」と呼ばれる。それは、呉服商という環境下から生まれたものである。彼の創始した光琳梅・光琳菊・光琳桐・光琳波(波模様)・光琳水(流水)などのデザインは、現在でも和菓子や着物などに利用されている。一方、単純化されたそのデザインは真似がしやすく、膨大な偽作を生むことにもなった。 |
◆版画は大衆芸術 一点物の肉筆画は値段が高く、金持ちの独占物だった。しかし、版画という大量生産手段をとることにより、浮世絵一枚がソバ一杯の値段(16文)にまで低下した。ようやく、芸術が大衆の手に届くものとなった。画題は歌舞伎役者・美女・相撲取りなど。現代ならさしずめタレント・アイドル・スポーツ選手に相当しよう。どれも庶民の好みそうな題材ばかりである。町人資本のもと、絵師(えし)・彫師(ほりし)・摺師(すりし)ら町人技術者のチームワークにより完成する浮世絵版画は、町人によって生み出された大衆芸術といえる。 最初は黒単色の墨摺絵(すみずりえ)だった。色数を増やそうとする努力は、丹絵(たんえ。黄色を帯びた赤色の丹が主調色)、漆絵(うるしえ。膠(にかわ)の強い墨を使い漆のような光沢を出した)、紅絵(べにえ。紅が主調色)などを生み出した。のち、鈴木春信が多色刷り版画の浮世絵を完成し、錦絵(にしきえ)と呼ばれた。 |