特講3.元禄文化

知らざりき 遠き境の 言の葉も 手に取る文の上に 見んとは
●元禄文化の特色●
●元禄文学●
 ①井原西鶴の浮世草子 ②芭蕉の蕉風俳諧 ③近松門左衛門の脚本
 ④歌舞伎の流行
●儒学●
 ①儒学の隆盛 ②朱子学 ③陽明学 ④古学
●諸学問の発達●
 ①歴史学 ②古典研究 ③実学
●美術

 
①絵画 ②工芸 ③庭園・建築

●元禄文化の特色●



① 幕藩体制の安定期


  17世紀後半から18世紀初めにかけての、元禄期を中心とするこの時期は、幕藩体制の安定期にあたる。

  慶安事件(由井正雪の乱、1651)を契機に、幕府政治は従来の武断政治(ぶだんせいじ)から文治政治(ぶんちせいじ)へ方針転換をした。殉死(じゅんし)を禁止し、殺伐とした風俗(過度に髭を蓄えたり、市中の犬を殺して食べるなど)を矯正し、かぶき者を取締るなど、戦国時代の遺風の一掃に努めた。

  一方、封建秩序を維持する手段として、忠孝や礼儀をすすめ(武家諸法度天和令)、朱子学をはじめとする学問研究を保護・奨励した。


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② 上方中心の町人文化


  元禄文化は、上方(大坂・京)を中心とした町人文化である。

  東廻り・西廻り両航路の開拓・五街道の整備等により、全国規模の流通ネットワークが成立したこの時期はまた、遠隔地間の価格差を利用して巨富を手にした豪商の台頭期でもあった。なかでも、諸大名の蔵屋敷が集中する大坂は「天下の台所」とよばれ、経済都市としてめざましい発展を遂げた。こうした上方の経済力を背景に、町人文化が花開いたのである。

 身分制の桎梏(しっこく)は存在したものの、いわゆる「士農工商」の最下層に位置づけられた町人たちが、その圧倒的な経済力で大名でさえひれ伏させることが可能となった。ついには、「大坂の豪商がひとたび怒れば、天下の諸侯がふるえあがる」(太宰春台)とまで言わしめた。

 かつて、何一つ思い通りにならない現実世界は、憂鬱で厭世的な「憂世(うきよ)」と呼ばれた。それが、この時代、楽観的で享楽的な「浮世(うきよ)へと価値転換することになったのである。

  文芸面においては自由な人間性を追求した西鶴・芭蕉・近松らが登場した。美術面においては、寛永文化の洗練された華麗な表現を継承した琳派(りんぱ)が活躍した。         


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元禄文学●



① 井原西鶴の浮世草子



  井原西鶴(いはらさいかく。1642~93)は「わけのひじり」と呼ばれた。人情の機微に通じた苦労人の意である。西鶴に言わせれば、人間は「欲に手足のついたるもの」(『好色二代男』)だという。彼はそうした愛欲や物欲に翻弄される人間の姿を、浮世草子の中に巧みに活写した。その創作態度は、従来の教訓的・啓蒙的な仮名草子とは一線を画するものだった。人間の本質に迫る西鶴の物語は、人々に好評をもって迎えられた。

 その作品群は、西鶴の初期から晩年にかけてほぼ時代順に、好色物(こうしょくもの)・武家物(ぶけもの)・町人物(ちょうにんもの)・雑話物(ざつわもの)の四分野に大別できる。


《 好色物 》


  好色物では人間の愛欲を題材とした。代表作が『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)である。主人公世之助の7歳から60歳に及ぶ54年間の愛欲遍歴を、8巻54章で描く。54という数字は『源氏物語』54帖を連想させる仕掛けであり、『源氏物語』等の古典をパロディ化した。『好色一代男』は、ゆえに「俗源氏(ぞくげんじ)」と呼ばれた。 

  市井の女性を主人公とし、その愛欲の果ての悲劇を描いたのが『好色五人女』(5巻)である。本書は当時巷間を賑わせた五組の男女の恋愛事件を扱っているが、うち四組が悲劇の結末を迎える。

  他には、愛欲生活で身を持ち崩した一女性がその過去を懺悔する『好色一代女』(6巻)などがある。


《 武家物 》


  武家物では武家社会の道理を談じた。これには、32話の仇討ち物語から成る『武道伝来記』(8巻)、26話で武家の義理の世界を描いた『武家義理物語』(6巻)がある。


《 町人物 》


  町人物では、金銭欲・出世欲に振り回される市井の人々を描いた。晩年にさしかかった西鶴が、「世の人心(ひとごころ)」すなわち「世の中のありのままの人間の心」に関心を持つようになった結果という(尾藤正英『日本文化の歴史』)。

  三井八郎右衛門など実在の成功者をモデルに、勤倹と才覚によって成り上がる町人たちの姿を描いた『日本永代蔵(にほんえいたいぐら)(副題「大福新長者教」。6巻30話)、借金取りと貧しい人々との大晦日の攻防を描いた『世間胸算用(せけんむねさんよう)(副題「大晦日は一日千金」。5巻20話)がある。


《 雑話物 》


  雑話物は、諸国の珍談・奇談を集めたもの。『西鶴諸国ばなし』(5巻35話)などがある。


  西鶴は『世間胸算用』を刊行した翌1693年、人間の寿命といわれる50年を2年も生き過ぎたとの述懐を残し、52歳で他界した。


「人間五十年の究まり、それさへ我にハあまりたるに、ましてや、
  浮世の月 見過しにけり末二年  
  元禄六年八月十日五十二歳」(『西鶴置土産』)

 俗に柿本人麻呂の辞世とされていた「石見のや高角山の木の間より浮世の月を見果てつるかな」により、人生五十年というが、52歳だったのでこのように詠んだ。(阿部喜三男他校注『近世俳句俳文集』日本古典文学大系92、1964年、岩波書店、P.57による)


◆俳諧師西鶴

  井原西鶴は、本名を平山藤五といった(井原は母方の姓)。大坂の裕福な商人だったが「妻もはやく死し、一女あれども盲目、それも死せり」(伊藤梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.243)という家庭的不幸を経験した(1675年、西鶴34歳の時、おそらく疱瘡が原因で妻は25歳で死去した。3人の幼児が残されたという)。それが契機となったものか、剃髪して家業を手代に譲り、頭陀(ずだ)をかけて世間を自由気ままに放浪し、好きな俳諧に打ち込んだ。

  初め貞門派の俳諧師として「鶴永」と号したが、のち談林派の西山宗因(西翁・梅翁などと号した)の門下となり、師の名から一字を得て「西鶴」と改めた。矢数俳諧(京都三十三間堂の通し矢にならい、一昼夜にできるだけ多くの句を詠む)を得意とし、1684年に行った住吉神社での万句興業では、1昼夜で23500句を作ったという。これは1分間に16句(3.7秒に1句)、作句した計算になる。これを誇り、西鶴は、自ら「二万翁」(また「二万堂」)と名乗った。しかし、そのスピードゆえ詠句を記録することは不可能であり、ただ紙上に棒を引いて句数を算えただけだった。ゆえに西鶴の独吟そのものは存在しない。奇抜を求めるその句風は、他流の俳諧師から「阿蘭陀流」と揶揄された。

  皮肉なことに、西鶴の本領は、俳諧師の転合書(てんごうがき)として筆を染めた浮世草子において発揮された。大坂で刊行した『好色一代男』には署名がなく、挿絵も西鶴自身が描いた。遊び半分のいたずら書きだったためである。これが好評を博したため、江戸でも出版の運びとなった(この時の挿絵は菱川師宣)。こうして、西鶴は散文の方面に進出していくのである。


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② 芭蕉の蕉風俳諧


《 貞徳の貞門派 》



  連歌師の家に生まれた貞徳(ていとく。1571~1653。本名松永勝熊)は、連歌から五七五の発句の部分を独立させ、式目(様式に関する規則)を定め、新しい文芸としての俳諧を創出した。俗語・縁語・掛詞を用い、言語遊技的な面白さを句風とした。これを貞門派(ていもんは)という。その句風は、たとえば次のようなものである。


  しほ
(を)るゝは何かあんずの花の色  貞徳(松井重頼編『犬子集(えのこしゅう)』)

※「花が萎れる」の意と「悲しむ」の意を掛け、「杏」に「案ず」を掛けている。杏は春の季題。「花の色」は『古今集』春下「花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに」(小野小町)を連想させる。単に言葉おかしく杏の花を詠んだだけでなく、そこに愁い含んだ美女を連想させる。(『近世俳句俳文集』、前出、P.37による)



  門人「七哲」の一人に北村季吟(きたむらきぎん)がいる。しかし、貞門派は技巧に過ぎ、また式目に厳しかったため、人びとの支持を失った。

 なお、貞門七哲は、野々口立圃(ののぐちりゅうほ)、松江重頼(まつえしげより)、山本西武(やまもとさいむ)、鶏冠井令徳(かえでいりょうとく)、安原貞室(やすはらていしつ)、高瀬梅盛(たかせばいせい)、北村季吟の7人。


《 宗因の談林派 》



  宗因(そういん。1605~1682。本名西山豊一(にしやまとよかず))は、式目にとらわれない自由で軽妙な作風を興した。これを談林派(だんりんは)といい、上方の新興町人層の間に流行した。

  談林派は、俳言(はいごん。正統的な和歌・連歌では用いない俗語・漢語類。滑稽を旨とする俳諧では、滑稽さを出すために俳言を使用する)の多用や破調をものともしない奇抜な作風で、一世を風靡した。しかし、その奇抜さゆえ、他の俳諧師からは「阿蘭陀流(おらんだりゅう)」などと罵られ、当時催された万句俳諧興行からも排除されたという(前田金五郎訳注『世間胸算用』1972年、角川文庫、P.342)。

  談林派には、井原西鶴(大坂談林)、菅野谷高政(すがのやたかまさ。京都談林)、田代松意(たしろしょうい。江戸談林)らがいる。 


  さればこゝに談林の木あり梅花
(うめのはな)  宗因(『梅翁宗因発句集』)

※「されば」は謡曲調。「談林」は仏教語で僧の学寮「檀林」のこと。「談林軒」と号した田代松意ら江戸の俳諧グループを「談林(江戸談林)」と称し、彼らの句風を「談林飛体(だんりんとびてい)」といった。江戸談林に招かれた宗因は、上記の句に「談林」の語を詠み込み、彼らへの挨拶とした。「梅花」は春の季題。梅は好文木といい、また数珠を作るに用いるところから、「談林の木」に取り合わせたか。全体の意味は「この花のかげは、俳諧修行をするにふさわしい木かげだ」という意。(『近世俳句俳文集』、前出、P.53による)



 芭蕉の蕉風俳諧 


  貞門・談林両派の遊戯的俳諧からの脱却を試みたのが芭蕉(ばしょう。1644~1694。本名松尾宗房(まつおむねふさ)である。俳諧を芸術にまで高めたその作風を「正風(蕉風)」という。

 俳諧は永遠(不易)・新風(流行)両面の上に立脚し、「風雅の誠」を求めて変化し続けていくことこそ、俳諧の不変の価値を実現すると説いた(不易流行論)。わび(世俗を離れたしみじみとした趣)・さび(閑寂・枯淡な趣)を基本理念としながら、次第にしおり(深い哀感が余情として表れる時の趣)・ほそみ(繊細な感受性によって句意に反映される趣)・軽み(深く本質に迫りながら淡泊に表現する趣)の境地に移行した。

  西行の和歌・宗祇の連歌・雪舟の絵・利休の茶に貫道する風雅の精神を自らも求め(『笈の小文』)、人生の真実を旅に探り、旅に死んだ。死の4日前に作られた次の句は、辞世ではないが、芭蕉のそうした生涯を回顧・集約したものになっている。


  旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻
(めぐ)

※元禄7(1694)年10月8日、病床の芭蕉は弟子の呑舟をよんで、「旅に病んで…」の句を書かせ、「生死の大期を前に俳諧など作るべきではないが、50年間俳諧に従ってきたゆえであろう、これこそ妄執だから、もう俳諧を忘れたい」といったという(中西進『辞世のことば』1986年、中公新書、P.104)。芭蕉は4日後の10月12日に51歳で息を引き取った。


  芭蕉自身の作品に、『奥の細道』(俳諧紀行文。門人曽良(そら)とともに、江戸から東北・北陸を経て美濃大垣に至る)・『笈の小文(おいのこぶみ)(俳諧紀行文。関西から阿波へ)などがある。その他では、芭蕉とその一門の句集である『猿蓑(さるみの)』(書名は芭蕉の巻頭句「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」に由来)が重要である。俳諧七部集(芭蕉七部集)の中でも最高峰として「俳諧の古今集」と賞賛される。

  芭蕉の高弟を「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」と称した。榎本其角(えのもときかく)・服部嵐雪(はっとりらんせつ)・向井去来(むかいきょらい)・内藤丈草(ないとうじょうそう)・杉山杉風(すぎやまさんぷう)・志太野坡(しだやば)・越智越人(おちえつじん)・立花北枝(たちばなほくし)・森川許六(もりかわきょりく)・各務支考(かがみしこう)をいうが、異説もある。


※俳諧七部集は、佐久間柳居(りゅうきょ)が享保17(1732)年頃に、芭蕉の俳諧撰集のうち代表的な七部を集めたもの。『冬の日』(1684刊)・『春の日』(1686刊)・『曠野(あらの)』(1689刊)・『ひさご』(1690刊)・『猿蓑』 (1691刊)・『炭俵』(1694刊)・『続猿蓑』(1698刊)の七部。


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③ 近松門左衛門の脚本


  近松門左衛門(ちかまつもんざえもん。1653~1724。本名杉森信盛)は人形浄瑠璃の脚本家である。人形浄瑠璃の隆盛を担った立役者の一人として、「作者の氏神」と讃えられた。創作に当たっては「芸は真実と嘘の間にあるのが面白い」とする虚実皮膜(きょじつひにく、きょじつひまく)論を持論とした(穂積以貫(ほづみいかん、ほづみこれつら)『難波土産(なにわみやげ)』)。

  近松の作品には、歴史上の説話・伝説に題材をとった「時代物(じだいもの)と、当時巷間で起こった事件を題材にした「世話物(せわもの)」がある。

  時代物には、明朝の復興運動家鄭成功(ていせいこう。父は中国人の鄭芝竜ていしりゅう、母は日本人)をモデルとした『国性(姓)爺合戦(こくせんやかっせん)がある。日本で育った和藤内(和(日本)にも藤(唐)にもいない豪傑の意)が、明朝復興を目指して縦横無尽の大活躍をするという壮大な物語は、大坂道頓堀の芝居小屋の観客を熱狂させ、17か月のロングランをうつほどの好評を博した。その他の時代物では、源頼朝の命を狙う平景清(たいらのかげきよ)を主人公とする『出世景清(しゅっせかげきよ)が有名である。

  一方、世話物には、当時実際に起こった事件を脚色し、短期間に仕上げた作品が多い。速報性を一つの特色としている。作品に『心中天網島(しんじゅうてんのあみしま)(大坂天満の紙屋治兵衛と曾根崎新地の遊女小春)、『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)(醤油屋の手代徳兵衛と遊女お初)、『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)(飛脚問屋の息子忠兵衛と遊女梅川)などがある。いずれも、封建社会の建前である「義理」と人間本来の「人情」との板挟みにあい、死出の旅路に赴かざるを得ない町人と遊女の道行きを描き、観客の感涙を誘った。

  語り手は竹本義太夫(たけもとぎだゆう、1651~1714)。独特の節回しをもったその語りは、「義太夫節(ぎだゆうぶし)」という独立した音曲に発達していった。人形遣いには、名手辰松八郎兵衛(たつまつはちろうべえ、?~1734)が出た。


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④ 歌舞伎の流行


  歌舞伎は、舞踊を中心とするものから、演劇中心の舞台へと変化した。演じ手は前髪を落とし、月代(さかやき)を剃った成人男子が男役・女役を演じた。これを野郎歌舞伎という。

 武都江戸では豪壮活発な立ち回りをする「荒事(あらごと)が人気を博し、名優市川団十郎(いちかわだんじゅうろう。1660~1704。初代)が出た。初代団十郎は年俸800両をとり、「末代の役者の鏡」とまで評された人気役者だったが、江戸市村座の舞台上で役者生島半六(いくしまはんろく)に刺され、45歳で非業の死を遂げている。

  一方、上方では恋愛劇「和事(わごと)が流行し、色男役の坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう。1647~1709。初代)が人気を得た。600両の年俸をとったという。(写実を目指して稽古する藤十郎の執念にはすさまじいものがあった。菊池寛は、藤十郎をモデルに『藤十郎の恋』という小説を書いている。この小説は、不義の恋をする男役を演じるために、藤十郎が、祗園の茶屋の女房に偽りの恋を仕掛けたという逸話を下敷きにしている)。

  同じく上方では、女形(おんながた・おやま。女性役)の名優芳沢あやめ(よしざわあやめ。1673~1729。初代)が活躍、「千両役者(初めて年俸千両をとったことに由来)」の名声をほしいままにした。

  歌舞伎は、早朝から日の落ちる夕方まで丸々一日行われるので、仕事を持つ男性が見られるようなものではなかった。江戸時代の芝居見物客のうち8割までが女性だったという(角川書店編『日本史探訪14』1984年、角川文庫、P.296~P.297)。


◆今も残る歌舞伎の言葉

  現在でも日常生活で使用される歌舞伎用語や歌舞伎に由来する言葉は数多い。たとえば次のようなものがある。

見得を切る 感情や動作が頂点に達したことを表現するため、役者が一瞬静止して目立つポーズをとること。
引っ込みがつかない 役者が舞台から退場することが「引っ込み」。「引っ込みがつかない」は行きがかり上、途中で退くことができないの意。
花道 役者の出入りする道。
黒幕 暗闇を象徴する幕。
鳴り物入り 楽器や囃子(はやし)で調子をとり、にぎやかにすること。
せり上がる 役者が舞台下から登場する場合に用いるエレベーターが「せり」。
どんでん返し 舞台の大道具を後ろに直角に倒し場面転換する装置。強盗返し(がんどうがえし) ともいう。
差し金 鳥や蝶などを操る黒塗りの細い竹竿(たけざお)。転じて、陰で人をそそのかしあやつること。
十八番 市川団十郎が得意とした歌舞伎の演目。箱にいれたので「おはこ」ともいう。
ない交(ま)ぜ 複数の脚本を混ぜ合わせて新しいストーリーをつくる歌舞伎の脚本用語。
立(たて)役者 芝居で中心になる役者。本来「立役」は立って踊り演じる役者の総称。座って演奏する「地方(じかた)」に対し、立役は舞台の華だったため、主役を演じる男方(男役)を「立役」と呼ぶようになった。
市松模様 江戸中村座の佐野川市松が袴に用いた格子模様から出た言葉。
助六寿司 助六の恋人揚巻(あげまき)にちなむ。あげ(油揚げのいなり寿司)・巻き(海苔巻き)に掛けたしゃれ、いなりと巻きをセットにした寿司。
幕の内弁当 桟敷席で出された弁当で、芝居の幕間(まくあい)に食べた。

  この他にも、二枚目(番付の二番目に名前を書かれた色男役の役者)、三枚目、黒衣(くろご)に徹する、花形(はながた)、裏方(うらかた)、外連(けれん)、際物(きわもの)、場当たり、暗転など、歌舞伎に由来す用語は数多い。


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●儒学●



① 儒学の隆盛



  文治政治に転換した江戸幕府は、学問を奨励し、積極的に官僚たちを取り立てた。この時代、将軍・大名といった支配者のトップ層が、無類の読書好き・学問好きであった。5代将軍綱吉は病臥中であっても経書を手離さず、江戸城中において大名達を前に、自ら儒学を講じることを楽しみとした(『常憲院殿御実紀』)。6代将軍家宣は、侍講新井白石から講義を聴く際には、裃姿で端座し、熱心に耳を傾けたという。

  また、幕府の文教政策の一翼を担った儒官林羅山も、読書好きという点では他に引けをとらない。明暦の大火(1657)で自宅に火の手が迫っても本を読み続け、駕籠で逃げる途上でも読書をやめなかった。羅山が大火直後に没するのは、蔵書を祝融(火の神)に奪われてしまった喪失感が原因だった。

  こうした社会で立身出世するには学問に精励し、官僚としての才能を磨くしかない。読書の価値はこうした官僚の出世と結びついて高まった。支配者の読書熱は民衆にも広がり、元禄年間にはどの家でも読書をした。日本人が世界的な読書好きとなるのは、この時代に遠因があるという(原念斎『先哲叢談』)。


◆格物致知(かくぶつちち)

  『大学』に「格物致知」という考え方がある。物にある理を究明する学問的方法論だが、「格物」についての解釈は学派により多様である。 

  藤原惺窩は「物を格(さ)る」と読み、物欲を去ることと理解した。山鹿素行は「物に格(いた)る」と読み、物に内在する理を感得することと理解した。荻生徂徠は「物格(きた)る」と読んだ。古語・古文辞に習熟すると我々の方から物の理を追究せずとも、物の方から我々の方にやってきて、すっとわかるようになるというのだ。


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② 朱子学


  公家の中には儒学(明経道)を専門とする家があった。それまで儒学の知識は秘伝であって、狭い師弟間だけで教授してきた慣習があった。従来の慣習を破る羅山の公開講義に反発して、公家の清原氏はその中止を家康に強く申し入れた。しかし、家康は笑って取り合わなかったという(尾藤正英『日本文化の歴史』2000年、岩波書店(岩波新書)による)。儒学は、もはや特殊身分の独占物ではなくなったのである。

  儒学の中でも朱子学は、権力者の保護もあり、封建教学として発達した。その特色である大義名分論が社会秩序の維持・礼節の重視を人びとに要求したからである。


《 京 学 》


  藤原惺窩(ふじわらせいか。1561~1619)は、もともとは京都相国寺の禅僧だった。慶長の役で日本側の捕虜となった儒学者姜沆(きょうこう、カンハン。1567~1618)との交流から、朱子学の研究を深めた。還俗した惺窩は、仏教の付属学問の地位から儒学を解放し、体系化した。その功により、「近世儒学の祖」とされるとともに、「京学の祖」ともいわれる。惺窩の高弟林羅山・那波活所(なわかっしょ)・松永尺五(まつながせきご。貞徳の子)・堀杏庵(ほりきょうあん)を「惺門(せいもん)の四天王」という。

  その一人林羅山(はやしらざん、1583~1657)は、惺窩の推薦によって家康に仕え、秀忠・家光・家綱と4代にわたり侍講を務めた。法令や外交文書の起草など幕政にも深く関わった。上野忍ヶ岡に私塾(弘文館)を開き、朱子学隆盛の基礎を築いた。しかし、その教えは、現政権維持に不都合な放伐論(悪政を行う愚弄な君主は討伐してもよいとする)や易姓革命(現政権を倒して新たな権力者が政権を握る)など抜き捨てた、「日本的朱子学」ともいうべきものだった。

  林家(りんけ)の系譜は次の通り。 


   林羅山(道春)-林鵞峰(春斎)-林鳳岡(春常)…


  羅山を道春、鵞峰(がほう。1618~1680)を春斎、鳳岡(ほうこう。1644~1732)を春常というのは、それぞれ僧号である。儒学は僧侶が教えるという伝統があったため、林家も僧号を持ち、僧体で教えた。羅山は、幕府では道春という僧号で呼ばれ、一種の僧侶として扱われた。鳳岡の代に至り、蓄髪・俗体の武士姿での儒学教授を許され、大学頭という官名を与えられた。この時になって、ようやく儒学者が、幕府の中で武士と同列の待遇を受けるようになった。鳳岡の実名(じつみょう)は、信篤(のぶあつ)である。

  なお、幕府の官学としての特権的地位を得ることによって、林家の学問的創造力は貧困になった(北島正元『江戸時代』1958年、岩波新書、P.129)。幕府の儒者人見友元が林鵞峰に


 林家の学者は経学うとく、いずれも講釈下手なり。心を付けらるべし。


と忠告すると、


 
(それがし)が家は道春已来(いらい)御用の筋を第一とし、弟子どもにも広く学問をさする事にて、嘉右衛門(かえもん。山崎闇斎)などがように講釈を専(もっぱ)らにはせぬ事家風也。その方異見(いけん)の如(ごと)くせば、家の学文(がくもん)はやがてすたるべし。(荻生徂来著・辻達也校注『政談』1987年、岩波文庫、P.347)


とかえって立腹したという。

  林家のほかに、木下順庵(きのしたじゅんあん、1621~1698)の系譜が重要である。木下順庵は前田綱紀(まえだつなのり)や5代将軍綱吉に仕えた。その門下を「木門(もくもん・ぼくもん)」といい、「木門十哲(もくもんじってつ)」を輩出した。新井白石(1657~1725。6代将軍家宣・7代将軍家継に仕え正徳の治を行う。主著『読史余論』)、室鳩巣(むろきゅうそう、1658~1734。8代将軍吉宗に仕え、『六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)』を著す)、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう。対馬藩に仕える。朝鮮外交に深い見識をもつ)らの人々である。著書に『錦里先生文集(きんりせんせいぶんしゅう)』がある。

  なお、木門十哲は、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祗園南海(ぎおんなんかい)、榊原篁洲(さかきばらこうしゅう)、南部南山(なんぶなんざん)、松浦霞沼(まつうらかしょう)、三宅観瀾(みやけかんらん)、服部寛斎(はっとりかんさい)、向井三省(むかいさんせい)の10人をいう。


《 南 学 》


  土佐を中心に発展した学系を、南学派(または海南学派)という。この系統は南村梅軒(みなみむらばいけん、?~?。禅儒一致説による儒教道徳を説いた)に始まり、谷時中(たにじちゅう、1598?~1649。南学の実質上の祖といわれる)を経て、野中兼山(のなかけんざん、1615~1663。土佐藩の家老、藩政改革を推進)、山崎闇斎(やまざきあんさい)へとつながる。

  山崎闇斎(1618~1682)は谷時中に学んだ儒学者であり、神道家である。会津藩の保科正之(ほしなまさゆき)の賓師(ひんし。諸侯から客分として待遇される教師のこと)となった。多くの門弟を養成し、闇斎一門を崎門学派(きもんがくは)とよぶ。中でも浅見絅斎(あさみけいさい,1652~1711)、佐藤直方(さとうなおかた,1650~1719)、三宅尚斎(みやけしょうさい,1662~1741)ら三人の高弟を「崎門三傑(きもんさんけつ)」という。

 やがて闇斎は、吉川惟足(よしかわ(きっかわ)これたり(これたる)、1616~1694)に神道を学び、吉田神道と朱子学を融合した垂加神道(すいかしんとう(しでますしんとう)。垂加は「神垂冥加(しんすいみょうが)」の語から出た闇斎の別号)を創始した。道徳性が強く、「敬(つつしみ)」の徳目を強調。尊王思想を鼓吹して、のちの尊王運動に大きな影響を及ぼした。


◆徹底していた山崎闇斎

  山崎闇斎が朱子(朱熹)を敬慕することは徹底していた。闇斎の号は、朱子の字(あざな)晦庵(かいあん)に由来する。晦は「暗い」の意である。通称の嘉右衛門の嘉も、朱熹の熹の字を慕ったことによる。朱子の朱にあやかり、朱色の手拭い、朱色の羽織など、朱色の物を身につけた。講義に使用する書物の表紙までも丹殻(たんがら。オヒルギの樹皮を煎じてとった汁。この汁で布などを赤茶色にそめた)といって、朱にしていた。

  闇斎の教育は至って厳格だった。面容は怒ったようで、破鐘(われがね)のような声で講義した。恐ろしさの余り、講義中、あえて顔をあげる弟子は誰もいなかった。闇斎の高弟佐藤直方でさえ、闇斎の塾に赴く際はまるで牢獄に入るようにびくびくし、帰る時には虎口を脱したかのようでほっとしたという。「師の怒声で精力が尽き、命が縮まってしまう」と愚痴をこぼす直方に、浅見絅斎は同意しながらも、「しかし、今の世にこの師をおいて、ほかに師がいようか」と言ったという。

【参考】
・児玉幸多『日本の歴史16元禄時代』1974年、中公文庫、P.315など


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③ 陽明学


  南宋の陸象山(りくしょうざん)・明の王陽明に始まる儒学を陽明学という。朱子学の主知主義に対し、認識と実践の合一(知行合一(ちこうごういつ))という実践的道徳を説いた。現実の矛盾を批判し、改革しようとする革新性を有していたために、幕府から警戒された。わが国では、中江藤樹熊沢蕃山らがいる。

  伊予国(愛媛県)大洲(おおず)藩の加藤家に仕えた中江藤樹(なかえとうじゅ。1608~1648)は、母の孝養のため辞職を願い出たが許されず脱藩。故郷の近江国(滋賀県)小川村に帰って母を養い、人々に学問を教えた。私塾藤樹書院の名は、庭にあった藤の木に由来する。人にはもともと善悪を判断する良知(良心)がある。その良知をのばし(致良知)、善をおこなうべきことを説いた。藤樹の人柄は多くの人々から敬慕され、「近江聖人」と呼ばれた。著書に『翁問答(おきなもんどう)』がある。

  藤樹の門人が、熊沢蕃山(くまざわばんざん。1619~1691)である。藤樹の教えを受けたのはわずか4カ月だったが、その思想的影響は生涯にわたった。蕃山は池田光政(岡山)に仕え、岡山藩政確立に努力した。聖人の法(礼法)はその状況(時・処・位)によってのみ妥当するものであって、普遍的性格を持つものではない。したがって、単に聖人の事績のみ学んでも意味はない。その心を学ぶべきであり、古代中国の聖人の道を、状況がまったく異なる当時の日本社会にそのままあてはめる愚を指摘した。清朝の日本侵略を危惧した蕃山は、『大学或問(だいがくわくもん)の中で参勤交代制の廃止・武家土着論などの緊急対策を提言。幕府の忌諱に触れて下総古河に幽閉、そこで病死した。他に、経世を論じた『集義和書(しゅうぎわしょ)』・『集義外書(しゅうぎがいしょ)』などの著作がある。


◆藤樹と了佐
―「『聖人』というものが、もしこの世に実在するとするなら、それはきっと藤樹のような人だ」。そう人々に思わしめた藤樹の人柄とは、一体どのようなものだったのだろう―


  中江藤樹の弟子の一人に、大野了佐という男がいた。了佐は生来愚鈍で、大洲藩士の父は、わが子に武士は到底無理と判断し、何か手に職をつけさせ、一人立ちさせたいと考えた。それを知った了佐は、医者になりたいと藤樹に相談した。了佐の学力の低さを熟知していた藤樹だったが、彼の決意と熱意に動かされ、何とか了佐を医者にしてやろうと決心した。早速『医方大成論』という中国明代に書かれた小冊子を、教科書として与えた。

  しかし了佐の学力では、小冊子1冊の習得にも想像を絶する努力が必要であり、それは了佐を教える藤樹にもまた言えることだった。

  藤樹がまず短い句を読む。それを了佐に繰り返し読ませる。だが、これがなかなか頭に入らない。午前10時頃から午後4時頃までかかって、同じ語句を200回も繰り返して、ようやく読めるようになるというあり様。しかし夕食後に復習すると、すでにすっかり忘れ、もはや読めない。そこで藤樹は、また100回以上繰り返して教える。それでやっと覚えるという始末だった。精根尽き果てんばかりに教えてくれる藤樹を了佐は心から慕い、小川村まで師のあとを追い、熱心に教えを乞うた。

  藤樹は了佐のために、自ら筆をとって医学教科書を作り、彼に与えた。名づけて『捷径医筌(しょうけいいせん)』(早わかり医学の手引き、の意)。6巻からなる。他の門人の指導をしながら、了佐一人のためにこうした大部の教科書を作り、それを身につくまで指導したのである。おかげで、了佐は大洲へ帰って医者となり、家庭をもって家族を養うこともできた。

  藤樹は了佐を教育した心境について、次のように述べている。

「自分が了佐に教えてやろうとしても、彼に勉強する気がなかったらどうしようもなかったろう。彼は非常に愚鈍だったけれども、医術を身につけようとする熱意たるや、普通世間に見られないほどのものであった。だからこそ教えることもできたし、彼も医者になることができたのだ。」

【参考】
・原念斎『先哲叢談』(平凡社東洋文庫)、渡部武『中江藤樹』(清水書院)など


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④ 古 学


  朱子学・陽明学はそれぞれ朱熹、王陽明・陸象山らの学説である。同じ孔子・孟子の言説を解釈しながらも、その主張するところはそれぞれで異なっている。これでは、聖賢の言説の真意がどこにあるのかわからない。後代の諸家の学説を排して、直接『論語』・『孟子』等の原典を研究しなければ、正しい理解には至らないのではないか。このように主張するグループを、古学派という。原典至上主義・実証主義を徹底して貫いた学究姿勢に特色がある。古学派には、山鹿素行・伊藤仁斎・荻生徂徠らの人びとがいる。
 

《 聖 学 》


  山鹿素行(1622~1685)は、士道(儒教倫理をもとに説かれた武士道)を確立した儒学者として知られる。また、甲州流の兵学者であり、その門人は二千人といわれた。その著『聖教要録(せいきょうようろく)の中で、「漢唐宋明」の学者の解釈を排除し、直接「周公孔子の道」を学ぶ古学を主張した。自らが提唱する実用の学を「聖学」と呼び、観念的な朱子学を否定した。


 
(よ)は周公孔子(しゅうこう・こうし)を師として、漢唐宋明(かん・とう・そう・みん)の諸儒を師とせず。学聖教(せいきょう)を志して、異端を志さず。行日用(にちよう)を専(もっぱら)として、洒落(しゃらく)を事とせず。知の至れるや、通ぜずと云(い)ふことなからん事を欲し、行の篤(あつ)きや、力(つと)めずと云ふことなからん事を欲す。(山鹿素行『聖教要録』-山鹿素行著・村岡典嗣校訂『聖教要録・配所残筆』1940年、岩波文庫、P.36-)


  素行の主張は、熱烈な朱子学者山崎闇斎の影響を受けていた保科正之の怒りを買った。幕府は素行を、素行の旧主赤穂の浅野長直(長矩の祖父)に預け、幽閉した。

  素行の著作には、『聖教要録』のほか、『中朝事実』(日本中華主義)、『武家事紀』(武家の百科事典的内容)、『山鹿語類(やまがごるい)』(素行の学説を門人が収録したもの。『聖教要録』は、このうち聖学の部を要約したもの)、『配所残筆(はいしょざんぴつ)』(素行の自叙伝で、弟・娘婿あての遺書の形で書かれた)などがある。


◆素行の日本中華主義

  山鹿素行はその著『中朝事実』で、日本中華主義を説いた。

  従来中国は自国を「中華」と称し、周辺諸国を「夷狄(いてき。野蛮人のこと)」と見下していた。中国を尊んだ日本の儒学者たちは、自らを「東夷(中国から見て東にいる野蛮人)」と卑下した。

  しかし、実態はどうか。当時、中国では漢民族の王朝である明に代わって、従来夷狄とされてきた満州族の王朝である清が成立していた。少数の異民族が、多数の漢民族を支配していたのである。これを華夷変態(かいへんたい)という。

 山鹿素行は国と国の優劣を比較し、日本がそれまで異民族に征服・支配されることがなかったこと、王朝交代がなかったこと等を根拠に、日本こそが「中華」であると主張したのである。


《 古義学派 》



  京都堀川に私塾(古義堂。堀川塾)があったので堀川学派ともいう。

  伊藤仁斎(いとうじんさい、1627~1705)は、古典を徹底的に精読する文献学的研究によって仁の思想に到達した。孔子の教えの意味を哲学的に解明しようとする仁斎の学問を「古義学」という。

  『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と評して最重要視した。『孟子』は「論語の義疏(ぎしょ)」すなわち論語を読むための注釈書であると、位置づけた。著書に『論語古義』(10巻)・『孟子古義』(7巻)などの注釈書のほか、自分の学説を平易に述べた入門書『童子問(どうじもん)(3巻)がある。

  仁斎の子東涯(とうがい、1670~1736)が堀川学派を継承し、古義学派を大成。著書に『制度通』がある。


《 古文辞学派 》


  江戸の茅場町(かやばちょう)に私塾(けん園塾)があったので、けん園学派ともいう。けんは茅の意である。

  荻生徂徠(徂来)(おぎゅうそらい、1666~1728)は、古代の「先王の道」を文献学的方法を通じて明らかにしようと考えた。

  徂徠の考える「先王(聖人)の道」とは、先王が作った人為的な道である。それは、道徳とは一線を画した政治の道をいい、具体的には「礼楽刑政」=政治制度全体を指した。

  それでは、「先王の道」を明らかにするためには、どうすればよいか。それには先ず、古代中国語に精通することが必要である。それならば、自らも古代中国人と同じ言語生活に入るべきである、と徂徠は考えた。すなわち、古典を読むだけでなく、古典の言葉(古文辞)で書き、古典の言葉で考えること。それによってのみ、中国の古代言語を理解し、古典の精神を把握することが可能である。この文献学的方法論から、徂徠の学問を「古文辞学(こぶんじがく)という。

  また「先王の道」を真に理解するためには、古文辞や「礼楽刑政」に限らず、そのバックボーンとなる風俗・習慣等あらゆる知識の習得・理解が必要となろう。ゆえに、学問は歴史に収斂(しゅうれん)するとした(『徂徠先生答問書(そらいせんせいとうもんしょ)』)。

  徂徠は柳沢吉保に仕え、5代将軍綱吉にも進講した。『弁道(べんどう)』(先王の道を明らかにし経世論を説く)、『政談(せいだん)』(8代将軍吉宗の諮問に答える)などを著した。

  その弟子は徂徠の「先王の道」(経世済民の学)を継承したグループと、「文献学的方法」(漢詩文)を継承したグループに二分した。前者に太宰春台(だざいしゅんだい。1680~1747)がいる。『経済録(けいざいろく)・『経済録拾遺(けいざいろくしゅうい)』などを著し、武士土着論・専売制奨励・商業藩営論などを展開した。後者に、服部南郭(はっとりなんかく、1683~1759)がいる。『南郭先生文集』・『唐詩選国字解(とうしせんこくじかい)』などの著作がある。


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●諸学問の発達●



① 歴史学


  社会が安定すると、徳川政権出現の必然性・正当性を説明するとともに、武士に為政者としての自覚が求められるようになった。この時代、ある種の歴史ブームが起こった。


《 修史事業 》


  幕府は林羅山・鵞峰に命じて、『本朝通鑑(ほんちょうつがん)(編年体)を作らせた。全310巻。神武天皇から後陽成天皇までを記す。「本朝」は日本、「鑑」は鏡で歴史書の意。『本朝通鑑』自体は「日本通史」ほどの意味合いであるが、宋代の司馬光の『資治通鑑』以来、「通鑑」と称する歴史書は「実事を記して善悪を明らかにする」という書法をとってきた。模範にした『資治通鑑(しじつがん)』の書名自体、後代の鑑戒(かんかい)として「政治の資(たす)けとする」という意味をもつ。

  水戸藩の事業である『大日本史』(紀伝体)の編纂は、1657(明暦3)年、徳川光圀(とくがわみつくに、1628~1700)によって開始された。江戸に設けた彰考館(史局。『春秋左氏伝』中の「彰往考来(しょうおうこうらい。歴史を学ぶ目的は過去をあきらかにし、未来を考えるためにある、の意)」により命名した)を拠点とし、各地に史料を博捜し、徹底した史料批判・史実考証を重ねた。そのため、編纂事業は遅々として進まず、全402巻(本紀・列伝・志・表・目録)の完成を見たのは1906(明治39)年のこと。実に250年もの時を要した。ゆえに水戸藩財政窮乏の一因は、この一大文化事業にあったとさえ言われる。神武天皇から後小松天皇までを記し、叙述は朱子学的大義名分論によって貫かれている。また、三大特筆(従来天皇として扱ってきた神功皇后を皇后として扱う、大友皇子の即位を認め天皇として扱う、南北朝期の南朝を正統とする)と呼ばれる特色をもっている。『大日本史』の 編纂過程で生まれた独特の学風は「水府(水府は水戸のこと)の学」・「水戸学」などと呼ばれるようになり、幕末の尊王攘夷の主張へとつながっていくことになる。


◆不良少年を「名君」に変えた本
 
―「先人(光圀)十八歳、伯夷伝(はくいでん)を読み、蹶然(けつぜん)として其(そ)の高義を慕うあり。巻を撫(ぶ)し、歎じて曰く、載籍(さいせき)あらずんば、虞夏(ぐか)の文、得て見るべからず、史筆に由らずんば、何を以てか後の人をして観感する所あらしめん、と。是に於て乎、慨焉(がいえん)として修史の志を立て…」(「大日本史叙」)―

  徳川光圀はかつて「かぶき者」の不良少年だった。18歳の時、司馬遷の『史記』にある「伯夷(はくい)伝」を読んだことが、彼の人生の転機となった。それは次のような話である。

  殷(いん)の諸侯孤竹君(こちくくん)に伯夷と叔斉(しゅくせい)という兄弟がいた。父は自分のあとを叔斉に継がせたいと思っていた。父が死んだとき、叔斉は位を兄の伯夷に譲った。伯夷は、弟が継ぐのが父の意志であるとして、国から立ち去った。叔斉も位を継ぐのを承知せず、兄を追ってこれまた国を出て行ってしまった。やむなく孤竹国の人びとは、残った兄弟の一人に位を継承させたという。

  この挿話は光圀の胸を鋭くえぐった。光圀の兄頼重(よりしげ)は、讃岐(香川)高松12万石に養子に出されていたのである。兄をさしおいて御三家水戸藩の世子に選ばれた自分は、これまで一体何をしてきたのか。遊郭通いや喧嘩など、放埒(ほうらつ)で愚かしい日々を送ってきたのではないか。深い自責の念が光圀を襲った。光圀は決心する。家督問題の誤りは子の代で訂正すべきだ。光圀は兄の子を自分の跡継ぎとし、水戸藩主を継がせる。水戸藩第三代藩主綱條(つなえだ)である。

  この時の読書体験をきっかけに、光圀は歴史書の重要性を認識し、『史記』にならった「本朝の『史記』」をつくることを志す。光圀が編纂を開始した史書は、その死後『大日本史』と命名された。

【参考】

・鈴木暎一『徳川光圀』2006年、吉川弘文館、その他


《 史 論 》


  新井白石(1657~1725)が展開した独特の史論が『読史余論(とくしよろん)(3巻)である。公家政権が九変し、武家政権が五変して現政権が出現したとする(九変五変論)。段階的な時代区分論に特色があり、徳川政権の正当性と必然性を明らかにしようとした。6代将軍家宣に進講した草稿をもとに1772(正徳2)年に成立。慈円の『愚管抄』、北畠親房の『神皇正統記』と合わせて「三大史論」という。

  また、白石には、「神とは人なり」との見地に立って、神話を史実として合理的に解釈した『古史通』(4巻)がある。


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② 古典研究


  わが国の古典を道徳的解釈から解放し、帰納的・実証的に研究しようとした。こうした学問的態度は、日本古典の中から外来文化(漢意からごころ)を排除して、日本精神(古道)を明らかにしようとする学問(国学)へと成長していく。その先駆をなしたのが、下河辺長流、戸田茂睡、契沖、北村季吟らの人びとであった。

  下河辺長流(しもこうべながる(ちょうりゅう)。1627~1686)は『万葉集』を注釈し、『万葉集管見』を著した。

 戸田茂睡(とだもすい。1629~1706)は「制の詞(せいのことば。和歌に用いてはならないとされた語句)」に根拠がないことを証明し、古今伝授をはじめとする和歌の秘事口伝などの拘束を否定した。歌論書に『梨本集(なしもとしゅう)』がある。

  僧契沖(けいちゅう。1640~1701)は、「古書をもって古書を証する」という文献学的方法論をうち立て、『万葉集』・『古今和歌集』・『伊勢物語』などの考証にすぐれた業績を残した。下河辺長流が水戸家(徳川光圀)から依頼された『万葉集』の注釈を、その死後引き継ぎ、『万葉代匠記(まんようだいしょうき)を著した。書名の「代匠」は長流に代わっての意と解するのが一般的だが、光圀に代わっての意とも解せる。本居宣長は、


 此人
(このひと。契沖)をぞ、此まなび(国学)のはじめの祖(おや)ともいひつべき(『宇比山踏(うひやまぶみ)』)


と評し、契沖を国学運動の創始者に位置づけている。

  北村季吟(きたむらきぎん。1624~1705)は、幕府の歌学方に登用された。季吟の最大の功績は、平明な「本文付きの古典注釈書(本文・傍注・頭注の形式)」を考案したことにある。それまで別々の本が当たり前だった古典の本文・語釈・解釈・鑑賞等を、一冊の本にまとめたのである。語釈・解釈等が諸説林立している場合には、本文を読みながら何冊もの本を別々に開いておかなければならなかった。それが一冊で、諸説対立の箇所や解釈、歴史的背景、挿入されている和歌の読みどころなどが一目瞭然になったのである(島内景二『源氏物語ものがたり』2008年、新潮新書、P.161~163)。

  季吟の著した古典注釈書が『源氏物語湖月抄(こげつしょう)『枕草子春曙抄(しゅんしょしょう)である。『湖月抄』は紫式部が近江の石山寺に参籠した折り、琵琶湖に映る仲秋の月影を見て、須磨巻・明石巻のストーリーの着想を得たとする伝承にちなむ書名。『春曙抄』は『枕草子』第一段の「春はあけぼの」に由来する。


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③ 実 学


《 本草学 》



  薬物学を中心に植物・動物・鉱物等すべての自然物を対象とする学問を本草学(ほんぞうがく)といい、のちに博物学へと発展した。 

  貝原益軒(かいばらえきけん。1630~1714)は、中国明代の本草書『本草綱目(ほんぞうこうもく)』(李時珍著)を研究し、これに実地調査を加え、日本産の動・鉱・植物類を独自に分類した。『大和本草(やまとほんぞう)16巻である。収録された1362種のうち、日本固有のものが358種、西洋産も29種含まれている。これら産物のうち中国名のあるものはそのまま記述し、日本固有のものは和名だけつけた。伝説上の河童を記載するなど、今日から見ると誤りも見られるが、その後のわが国本草学の基礎を築いた功績は大きい。益軒の学風は「其(その)著(あらわす)所の書多く平仮名に記して、通俗のため教ること丁寧反復」(伴蒿蹊著・森銑三校注『近世畸人伝』1940年、岩波文庫、P.27)するというものだった。『大和本草』が民間に広く普及したのは、その実用性の高さもさることながら、著作を漢文ではなく常に和文で書くという益軒の啓蒙主義的な学問態度によるところが大きい。

  稲生若水(いのうじゃくすい。1655~1715)は加賀藩主前田綱紀(まえだつなのり)の援助を受け、『庶物類纂(しょぶつるいさん)の編纂に着手した。しかし、若水の病死により前編362巻で中断。8代将軍吉宗はこれを惜しみ、若水の門人丹羽正伯(にわしょうはく(せいはく))、内山覚仲(うちやまかくちゅう)らに事業の継続を命じた。これにより、後編638巻を加え全1000巻が完成。さらに正伯が54巻を増補した。3590種を26属に分類した大博物学書である。しかし、『庶物類纂』はあまりにも大部であり、記述も漢文体だった。その上、幕府に納められてしまったため、人びとの目に触れることがほとんどなかった。この点、『大和本草』とは対照的である。


《 農 学 》


  宮崎安貞(みやざきやすさだ。1623~1697)が自らの体験をもとに、中国の『農政全書』にならいつつ著した体系的な農学書が『農業全書』である。全10巻(貝原益軒著の付録を含めると11巻)。農事全般、五穀・野菜・四木三草等の農法を詳述。広く普及し、その後の農書の手本となった。

  江戸後期には、大蔵永常(おおくらながつね。1768~1860?)が『広益国産考』(商品作物の栽培や国益を論じた)や『農具便利論』(数十種類の農具の使用法を解説した)・『除蝗録(じょこうろく)(害虫駆除に鯨油を使用)などを著した。


《 和 算 》


  数学は古くは中国から伝来したがいったん中断し、室町時代に改めて伝来した。日本で独自に発達し、これを「和算」といった。吉田光由(よしだみつよし)や関孝和(せきたかかず)らによって、ヨーロッパ数学と同水準にまで高められた。

  吉田光由(1598~1672。光由は角倉了以の外孫)が1627(寛永4)年に著した『塵劫記(じんこうき)は、身近な日常生活に例をとった計算指導書ながら、かけ算・割り算を基礎に、級数・根・体積・幾何図形までを平易に説いた。鼠算(ねずみざん。1月に番(つがい)の鼠が12匹子を産み、2月には7組の番が12匹ずつ子を産むとすると1年間では総計何匹になるか)・油算(あぶらざん。7升枡と3升枡のみで1斗の油を5升ずつ分けるにはどうするか)・盗人算(ぬすびとざん。盗品分配の過不足から、盗人の人数と盗品の数量を計算する)・継子(ままこ)立て(徒然草第137段「花は盛りに」にも登場する伝統的パズル)等の遊技的要素を盛り込んで読者の興味をそそり、九九の暗唱や算盤(室町時代に中国から伝来)の普及に功績があった。なお、「塵劫」とは極めて長い時間のことで、何年たっても変わらぬ真理の本を意味する。

  関孝和(1640?~1708)は『発微算法(はつびさんぽう)で和算を大成した。円周率・円弧の長さ・円の面積等の計算(これらを円理といった)や縦書きの筆算式代数学(点竄術(てんざんじゅつ)という)などを考案した。特に筆算式代数学は、それまで算盤や算木などの計算道具を使用しなければ解けなかった難解な問題を、紙と筆のみで解けるようにした点、画期的だった。


◆算額(さんがく)

  神社仏閣に掲げられた和算の絵馬を算額という。和算家の研究発表であったり、神仏に感謝して和算の上達を願ったものであったり、他の和算家に対する挑戦であったりと、その奉納目的はさまざまだった。現存最古の算額は、天和3(1683)年に栃木県佐野市の星宮神社に奉納されたものだという。

 現在、一千面に近い算額が日本各地で確認されているが、その中には現代の専門家の頭を悩ませる難問も含まれているという。


《 天文学 》

 
 中国唐代につくられた宣命暦(せんみょうれき)は、862(貞観4)からわが国で使用されてきた。しかし、800年もたつと、暦上に記されたものと実際の天象が2日以上の誤差を生じるようになった。この長く続いた暦の誤りを正し、初めて日本人による暦を完成したのが渋川春海(しぶかわはるみ、しぶかわしゅんかい。1639~1715)だった。

 もともとは囲碁の宗家(本因坊、林、井上、安井の四家)の一つとして安井算哲(やすいさんてつ)を名乗り、幕府の碁所に出仕していた春海は、元の郭守敬(かくしゅけい)がつくった授時暦(じゅじれき)をもとに、中国と日本の経度差(京都の子午線を基準)を加えて日本人が使用するための暦とし、天体観測の結果をもとに誤りを修正した。これを貞享暦(じょうきょうれき)という。貞享暦をはじめ江戸時代の暦は、1年は太陽、1月は月の運行を基準とする太陰太陽暦であり、19年に7回の閏月を置いた。貞享暦は、1年(太陽年、回帰年)を365.2417日とした。その数値は、実際の365.2422日より若干小さい。

  貞享暦が完成すると、幕府は春海の碁所の役を免じて、新たに天文方に任じた。貞享暦は1685(貞享2)年から施行され、1754(宝暦4)年、宝暦暦に代わるまで使用された。


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●美術●



① 絵 画


《 狩野派
(かのうは) 》


  狩野永徳の孫に、守信(もりのぶ)・尚信(なおのぶ)・安信(やすのぶ)の三兄弟があった。相ついで京都から江戸へ下り、幕府の御用絵師となった。その住所から、それぞれを鍛冶橋(かじばし)狩野・木挽町(こびきちょう)狩野・中橋(なかばし)狩野といった。このうち、鍛冶橋狩野と呼ばれた守信が、狩野探幽(かのうたんゆう。1602~1674)である。16歳で幕府御用絵師となった探幽の画風は瀟洒(しょうしゃ)・優美なものだった。名古屋城・二条城・大徳寺(『大徳寺方丈襖絵(だいとくじほうじょうふすまえ)は、大徳寺本坊にある9室の方丈の100面以上に及ぶ襖絵を探幽一人で描いたもの。画題は山水、人物、花鳥など多彩)などに数多くの障壁画を制作した。

  狩野派は、幕府の御用絵師、諸大名の御抱え絵師として画壇の頂点にあった。しかし、探幽以後はその画風を墨守したため、新鮮味に乏しく、絵画としての創造性は喪失した。


《 土佐派・住吉派 》


  土佐派には土佐光起(とさみつおき。1617~1691)が出て、宮廷絵所預(きゅうていえどころあずかり。絵所はアトリエのこと)となり、室町末期から途絶えていた土佐派を再興した。代表作に『粟穂鶉図(あわほうずらず)屏風』

  住吉如慶(すみよしじょけい。1599~1670。『年中行事絵巻』模本を残す)は土佐派から分れて住吉派を創始した。その子具慶(ぐけい。1631~1705。代表作に『都鄙図巻(とひずかん)』、『徒然草画帖(つれづれぐさがじょう)』など)は幕府御用絵師となって住吉派隆盛の基礎を築いた。


《 琳 派(りんぱ) 》


  注目すべきは琳派である。尾形光琳(おがたこうりん。1658~1716)は、俵屋宗達(たわらやそうたつ。)の装飾画法を取り入れて、装飾画を大成した。『紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)』・『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)を光琳の二大傑作と評する。

  『紅白梅図屏風』は宗達の『風神雷神図屏風』の構図にならったもの。金地を背景に、若々しい紅梅と年を経た白梅を左右に配し、中央には銀色の流水文様を描いた黒地の川を置いて対比させた。川の部分は薄い銀箔を貼り、その上に硫黄粉を撒いて硫化させ、黒くするという技法を用いた。硫化させる際、流水文様部分はマスキングして銀色を残したと推測される。樹木は輪郭線を使用せず、水墨・彩色で表現する没骨法(もっこつほう)で描かれている。

  『燕子花図屏風』は『伊勢物語』第9段の三河国八橋(やつはし。現在の愛知県知立(ちりゅう)市八橋町。逢妻男川(あいづまおがわ)の下流域に位置し、歌枕、またカキツバタの名所とされた)の情景を描いたもの。八橋・水辺・人物等をすべて捨象して、金箔・群青・緑青のみを使い(すべて高価な素材である。したがって、元禄文化は同じ町人文化といっても、化政文化のような一般大衆の文化ではない)、カキツバタの群生を律動的に描いている。しかも、群生するカキツバタは、同じ形のものが繰り返し出現する。呉服の描画で用いる型紙技術を利用しているのである。絵画とデザインの境界にある作品といえる。


※『燕子花図屏風』のように、登場人物等を描かず、カキツバタのみで『伊勢物語』第9段の世界を表現する方法を「留守模様(るすもよう)」と呼ぶ。和歌における本歌取りと同じで、留守模様が成立するためには、作者と鑑賞者との間に、「カキツバタといえば「かきつばたきつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」の和歌で有名なあの場面」を想起できる共通認識がなければならない。古典の教養がない者にとって光琳の画は、単にカキツバタという植物を描いているものとしかその目には映らない(谷和子『和歌文学の基礎知識』2006年、角川学芸出版、P.89~90を参照)

         
◆デザイナー光琳

  京都の呉服商雁金屋(かりがねや)に生まれた光琳は、本阿弥光悦を慕って光琳と号した。彼は、俵屋宗達の豊麗な画風に理知的な構成と明快な描法を加味して、琳派中興の祖となった。

 光琳の創始した意匠性・装飾性の強いデザインは「光琳模様」と呼ばれる。それは、呉服商という環境下から生まれたものである。彼の創始した光琳梅・光琳菊・光琳桐・光琳波(波模様)・光琳水(流水)などのデザインは、現在でも和菓子や着物などに利用されている。一方、単純化されたそのデザインは真似がしやすく、膨大な偽作を生むことにもなった。


《 風俗画 》


  英一蝶(はなぶさいっちょう。1652~1724)は狩野安信の門人だったがゆえあって破門。幕府の忌諱に触れ、三宅島に流罪になった。軽妙筆致な風俗画にすぐれる。代表作に『四季日待図巻(しきひまちずかん)』、『布晒舞図(ぬのさらしまいず』などがある。

 菱川師宣(ひしかわもろのぶ。1618?~1694)は『見返り美人図』(肉筆画)で知られる。『見返り美人図』は、「肉筆浮世絵の最高峰」といわれる師宣最晩年の作。当時流行の髪型(玉結び)をし、吉弥結び(きちやむすび。歌舞伎俳優上村吉弥(うえむらきちや)が舞台で締め、評判をとった。ウサギの耳を垂らしたような結び方で、女性らしさを演出した)の帯を締めた小袖姿の女性が、ふと歩みをとめて右側の横顔を見せた様を描いている。菊の地紋に桜と菊をあしらう絵柄を見せるため、着物姿を正面からではなく、背面から描いてみせた。安房(現千葉県鋸南町)の縫箔師(ぬいはくし)の家に生まれた師宣ならではの発想だろう。華やかな着物の後ろ姿に、女性らしさが映える当時流行の髪型や帯を描いて、女性美の新しい表現法を示してみせた。

 師宣は浮世絵版画の祖であるとともに、版画という手段によって浮世絵の大衆化への道を開いた。


◆版画は大衆芸術

  一点物の肉筆画は値段が高く、金持ちの独占物だった。しかし、版画という大量生産手段をとることにより、浮世絵一枚がソバ一杯の値段(16文)にまで低下した。ようやく、芸術が大衆の手に届くものとなった。画題は歌舞伎役者・美女・相撲取りなど。現代ならさしずめタレント・アイドル・スポーツ選手に相当しよう。どれも庶民の好みそうな題材ばかりである。町人資本のもと、絵師(えし)・彫師(ほりし)・摺師(すりし)ら町人技術者のチームワークにより完成する浮世絵版画は、町人によって生み出された大衆芸術といえる。

  最初は黒単色の墨摺絵(すみずりえ)だった。色数を増やそうとする努力は、丹絵(たんえ。黄色を帯びた赤色の丹が主調色)、漆絵(うるしえ。膠(にかわ)の強い墨を使い漆のような光沢を出した)、紅絵(べにえ。紅が主調色)などを生み出した。のち、鈴木春信が多色刷り版画の浮世絵を完成し、錦絵(にしきえ)と呼ばれた。


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② 工 芸


《 製 陶 》



  野々村仁清(ののむらにんせい。?~?)は丹波国野々村に生まれ、俗名を清右衛門といった。瀬戸で修行し、京都御室(おむろ)仁和寺(にんなじ)門前で陶器を焼いた。これを御室焼(おむろやき)という。仁和寺宮から「仁」と本名の一文字を合わせた「仁清」の号を与えられた。色絵付けの技法を完成し、「京焼の祖」と呼ばれた。「仁清黒(にんせいくろ)」と呼ばれる独特の黒色に特色がある。量産型の茶碗を数多く焼いたが、主力製品は一品製作の色絵磁器だった。代表作に『色絵吉野山図茶壺(いろえよしのやまずちゃつぼ)』・『色絵藤花文茶壺(いろえとうかもんちゃつぼ)など。

  尾形乾山(おがたけんざん。1663~1743)は尾形光琳の弟で、名を深省(しんせい)といった。陶工であり、画家でもある。製陶は野々村仁清に学んだ。陶工として独立すると、御室仁和寺近くの鳴滝泉谷に窯を開いた。当地が京都の乾(いぬい。西北)の方角に当たるため「乾山」を商標とし、作品にも「乾山」の名款をつけた。これにより、人びとは乾山を深省の通称とした。初め兄が絵付けに参加し、光琳意匠の乾山焼は一世を風靡した。代表作に『十二か月歌絵皿(じゅうにかげつうたえさら)』がある。


《 蒔 絵 》


  尾形光琳の華麗な蒔絵は「光琳蒔絵」と呼ばれる。代表作の『八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)は『伊勢物語』の三河国八橋のカキツバタに題材をとっている。


《 友禅染 》


 絹 に手描きした模様に色をさしたあと厚く糊でおおい染めあげ、のち水洗して糊を流し去る染色技法を友禅染(ゆうぜんぞめ)という。扇面絵師宮崎友禅(みやざきゆうぜん。?~?)によって創始されたというが、彼は意匠家の一人に過ぎなかったらしい。友禅染を大成したのは、京都五条近辺の染工たちだったと考えられている。京友禅のほか加賀友禅などがある。


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③ 庭 園 ・ 建 築


《 庭 園 》


  5代将軍綱吉はしばしば大名屋敷を訪れた。将軍のお成りの回数が増えると、大名たちも屋敷に趣向をこらした回遊式の大名庭園をつくるようになった。柳沢吉保が綱吉から賜った4万7,000坪の地に造園した六義園(りくぎえん。吉保の屋敷)、徳川頼房(よりふさ)・光圀(みつくに)父子によって造園された後楽園(こうらくえん。小石川の水戸藩邸)などがある。


※六義園の名称は、『古今和歌集』序に詩歌の6種の形式としてあげられている賦・比・興・風・雅・頌の六義に由来する。後楽園の名称は、中国宋代の范文正『岳陽楼記』の「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」に由来する。


 建 築 》


  明から日本に亡命し、黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖となった隠元隆琦(いんげんりゅうき。1592~1673)は、山城国宇治の地に黄檗山万福寺(まんぷくじ)を建立した。本殿を大雄宝殿(だいゆうほうでん)といい、その明末清初の建築様式は黄檗様とよばれる。伽藍様式ばかりでなく、仏像・法具・読経等に至るまで中国風であり、境内は異国情緒にあふれている。経典の字体は明朝体(みんちょうたい)、読経は明音、隠元以来第13代住職まですべて中国人だった。江戸時代の俳人菊舎(きくしゃ)の句に


 山門を出
(い)づれば日本ぞ茶摘み唄


がある。


※「黄檗」とは日本では「きはだ」とよんだ樹木の一種で、コルク質の樹皮をはがすと黄色の膚が現れるのでその名がある。染料(黄檗染)・肝臓の薬・防虫剤として用いられた。黄色い僧衣はかつて黄檗染めであり、経文も防虫のため黄檗染めの黄色の料紙に印刷した。


  このほか、東大寺大仏殿や善光寺本堂が再建された。

  東大寺大仏殿は、1567(永禄10)年の兵火によって焼失し、損傷を被った大仏は露座のままだった。これを嘆いた東大寺の僧公慶(こうけい。1648~1705)は、大仏修理・大仏殿再建のため全国を行脚・勧進した。大仏の開眼供養は1692(元禄5)年。大仏殿は公慶死後の1709(宝永6)年、弟子らによって完成。現在の大仏殿はこの時の再建である。

  善光寺本堂は1707(宝永4)年、松代藩(まつしろはん)によって再建された。正面7間、側面16間で、裳階(もこし)をめぐらした巨大寺院建築。平面がT字形のため撞木造(しゅもくづくり)と呼ばれる。


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