| 2026年3月14日(土) |
| 常世、宗景に刃傷におよぶ(3) |
『太平権現鎮座始(たいへいごんげんちんざのはじまり)』の作者は、伐木丁丁(きこりのやまびこ)という。戯作はこの一作しか見当たらず、正体不明の人物だ。
伐木は木を伐ること。転じて木樵(きこり)の意。丁丁は「とうとう」または「ちょうちょう」と読み、斧で木を伐る音が連続して響き渡るさま(擬音語)をいう。「伐木丁丁」のペンネームは、『詩経』(小雅、伐木)に収める次の詩に拠ったと思われる。
伐木丁丁 木を伐ること丁丁たり
鳥鳴嚶嚶 鳥鳴くこと嚶嚶(おうおう。鳥が互いに鳴きあっているさま。擬声語)たり
出自幽谷 幽谷(深い谷)より出でて
遷于喬木 喬木(きょうぼく。高い木)に遷(うつ)る
嚶其鳴矣 嚶(おう)としてそれ鳴く
求其友声 その友を求むる声あり
「伐木」の詩は武士階級にとっては有名な詩で、詩中の「遷喬(せんきょう)」には学問に励んで立身出世を促す意味合いがある。新井白石はこの詩を読んで発奮し、学問専念を決意した(『松屋筆記』)というし、岩槻藩の藩校遷喬館もこの詩の一節が由来。(2)よって作者の伐木丁丁は、武士階級に属する人物である可能性が高い。
【注】
(2)本HP「あれやこれや2024」の2024年12月9日(月)付け「余技を捨てる」の項 |
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| 2026年3月13日(金) |
| 常世、宗景に刃傷におよぶ(2) |
事件が起きたのは天明4年(1784)3月24日のこと。江戸城中において新御番の番士佐野政言(さの・まさこと。1757〜1784。28歳)が若年寄田沼意知(たぬま・おきとも。1749〜1784。36歳)に刃傷に及んだのだった。
人びとの耳目を驚かす大事件だっただけに、これをパロディ化した黄表紙が続々と作られた。寛政元年(1789)に出版された『太平権現鎮座始(たいへいごんげんちんざのはじまり)』もその一つ。
『保暦間記』によれば、安達宗景の曽祖父景盛(かげもり)は頼朝の御落胤と称し源氏に改姓したという。文頭の「安盛(泰盛)が曽祖景盛は、頼朝公のゆかりあればとて、藤姓を源氏に改め」云々という記述はこの話を踏まえている。しかるに、この経緯を安達氏謀反の企てと断じ、内管領(ないかんれい。御内人の代表)平頼綱(たいらのよりつな)が執権北条貞時に讒言した。これが安達氏滅亡(霜月騒動)のきっかけとなったとする。
黄表紙中で、何かと不遜な振る舞いをする人物として描かれた藤安盛・宗景(安達泰盛・宗景)父子。彼らに田沼意次・意知父子のイメージを重ね合わせているのは明白だ。
また刃傷事件の原因として、佐野家の家系図を意知が返却しなかった恨みとする噂が、当時世間では流布していた。黄表紙はこれを踏まえ、謡曲「鉢木(はちのき)」で有名な佐野常世(さの・つねよ)が「最明寺殿(北条時頼)」から拝領した荘園(加賀国梅田庄・越中国桜井庄・上野国松井田庄の三カ所)の証状を、宗景が返却しない恨みから斬りかかったとする。
幕府の忌諱を避けるため設定を鎌倉時代に移してはいるものの、加害者は黄表紙中でも佐野という苗字で一致し、刃傷事件の取り上げ方も露骨だ。それにもかかわらず、同じ刃傷事件を扱って絶版となった『黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)』(石部琴好作、北尾政演画、版元未詳、寛政元年出版)とは異なり、本書は寛政改革の処分を免れている。その理由は不明だ。
なお、常世は「何がし」によって組み止められたとなっている。実際の事件で政言を羽交い締めにしたのは、大目付の松平忠郷(まつだいら・たださと。1715〜1789。当時70歳)。忠郷はこの時の抜群の働きを賞されて、200石の加増をうけている。
また事件後、常世は直ちに自宅に帰ったことになっているが、政言は揚座敷(あがりざしき。旗本の未決囚を収容した独房)に送られたのち、天明4年3月26日に切腹せられている点が事実と異なる。 |
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| 2026年3月12日(木) |
| 常世、宗景に刃傷におよぶ(1) |
伐木丁丁(きこりのやまびこ)戯作、蘭徳斎画『太平権現鎮座始(たいへいごんげんちんざのはじまり)』は、佐野政言が田沼意知に刃傷に及んだ事件を題材にした黄表紙。その刃傷の場面を翻刻した。原文は仮名が多く読みづらいので、漢字仮名交じり文にして適宜句読点等を施し、所々( )内に注を施した。
安盛(安達泰盛。田沼意次に擬す)が曽祖景盛(かげもり)は、頼朝公のゆかりあればとて、藤姓を源氏に改め、執権職を奪うべき下心にや、武具の用意、館の結構、分量(身の程の意)に超えて備へける。
ある日宗景(むねかげ。田沼意知に擬す)、源左衛門常世(げんざえもん・つねよ。佐野常世。佐野政言に擬す)を招き、過ぎし頃最明寺殿(さいみょうじどの。執権北条時頼)より給はりたる三ヶの庄(三カ所の荘園)の証状、内見いたしたきよしにて請(こ)い取り、月を重ねても返さざれば、何とぞ御返却下されたき旨しばしば催促に及べども、かれこれと言い紛(まぎ)らかし、後は返答さへそこそこなれば(いい加減なので)、常世は
「これまさしく我が所領を掠(かす)め取らんとの計(はか)らいならん」
と憤り、訴状を差し置けれども、奉行頭人(ぶぎょう・とうにん)安盛父子(意次・意知父子)へ諂(へつら)ひ、其(そ)の沙汰に及ばざれば、無念骨髄に徹し、出仕(しゅっし。登城)の折りを窺いけるに、折り悪しく宗景ばかりを討ちける。
有り合ふ人々(たまたまその場に居合わせた人々)も、日頃安盛父子を憎みゐければ、誰支える人もなく、皆々その場を囃(はや)しければ、常世は思ままに深手(ふかで。重傷)を負わせ、止(とど)め刺さんとせしところを、侍所(さむらいどころ)の何某(なにがし)組み止めんとせしかば、恨みなき人の怪我(けが)を厭い、遂に御所より走り出(いで)、己が宅へぞ帰りける。(1)
【注】
(1)伐木丁丁戯作、蘭徳斎画『太平権現鎮座始』中巻、寛政元年(1789)、秩父屋版、国立国会図書館デジタルコレクション、請求番号:207−198)。
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| 2026年3月9日(月) |
| 壽の字 |
上野国(こうづけのくに。現、群馬県)に幸菴(こうあん)と名乗る白頭の翁(おきな)がいた。齢は128歳に達するという。日頃から仏説をもって人々を教諭し、この老人を信奉する人々も多かった。そうした中には、老人を自らの家に招き、寓居させて仏法を聞く者もいたのである。
何せ、この老人に吉凶・禍福および将来のことを尋ねれば、みな明快に答えるのである。またよく人の胸中を察し、善道に教え導く者があれば「壽」の字を揮毫して与えるのだった。
ある日、この老人が入浴した際のことである。どうしたわけか、この時の湯はことのほか熱かった。そのため、片足を入れたとたん、老人はそのあまりの熱さにびっくりして飛びあがったのである。驚いたのは老人ばかりではない。変わり果てた老人の姿を見て、その家の下男も肝を潰したのだった。
見れバ、惣身(そうしん)に毛生(おひ)て尾あり。かゝれバその者肝(きも)をつぶし、主人(あるじ)を呼(よび)けるほどに、主人急ぎ行(ゆき)て見れバ、老野狐(ろうやこ)にて啼(なき)ながら飛去(とびさ)りぬとぞ。(『提醒紀談』)
老人は狐だったのだ。
上の話は山崎美成の『提醒紀談』によった(「幸菴の壽字」)(1)。元話は伊東藍田の『藍田先生湯武論并附録』中にある「題狐字」という一文(2)。この幸菴狐が書いたとされる「壽」字は当時かなり出回っていたらしく、大谷木醇堂も「幸庵落款百三十一歳」の記載ある肉筆を所蔵していたと大真面目に書いている(3)。
この頃はまだ狐狸が人に化け、河童が見世物小屋で人々に披露されるような時代だったのだ。
【注】
(1)山崎美成編輯・佐竹永海画『提醒紀談・巻二』嘉永5年(1852)、知新堂。早稲田大学図書館蔵、請求記号:イ05 00073。
(2)伊東藍田著・奈良神門輯『藍田先生湯武論并附録』安永3年(1774)、青藜閣。早稲田大学図書館蔵、請求記号:ロ13 03442。
(3)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』33・34、国立国会図書館デジタルコレクション、67コマ目。 |
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| 2026年2月27日(金) |
| 地獄に迎えに行かせる |
上杉家の家臣が、罪を犯した下人を誅殺(ちゅうさつ)した。すると下人の遺族たちは激怒して、家老の直江兼続(なおえ・かねつぐ。1560〜1620)に訴え出た。調べてみると死に及ぶほどの大罪ではなかったのか、兼続は白銀二十枚を与えて遺族をいろいろと宥(なだ)めた。しかし、遺族たちは「死人を生かして返せ」と主張するばかりで、兼続の説得に頑として耳を貸さない。
すると兼続は、
然(しか)らば訟(うったへ)の如(ごと)くせん。(それなら訴え通りにしてやろう)
と言うと一族三人を捕えさせた。そして書簡一通を封じると、
使(つかい)に往(ゆ)け。(地獄に使いに行け)
と言って彼らの首を刎ねさせたのである。その書簡には
云々(しかじか)の子細候(そうろう)て三人迎(むか)ひに参(まい)らせ候。疾(と)く帰し賜(たま)はり候(そうら)へ。
慶長二年(1597)二月七日
閻魔王(えんまおう)冥官(みょうかん。冥途の役人)披露(ひろう)
直江山城守(やましろのかみ)兼続
と書いてあったという。
【参考】
・湯浅元禎著『常山紀談』1912年、有朋堂、658ページ。国立国会図書館デジタルコレクション。
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| 2026年2月21日(土) |
| 害虫 |
春になるとさまざまな虫が目を覚ます。活動を開始するのはアリやハチばかりではない。害虫の動きも活発化するのは何とも悩ましい。益虫・害虫と区別するのはもとより人間の都合だが、昔の人は厄介な害虫の大量発生を怨霊と結びつけて考えた。
たとえば、かつて農家を悩ませた害虫にヤネホソバ(屋根細翅)がいる。ヤネホソバはチョウ目ヒトリガ科に属するガ(蛾)で、その幼虫はコケや地衣類を餌とする。そのため、コケ・地位類が成長しやすくなる雨・湿気の多い季節になると、藁葺き屋根にこの虫が大量発生した。幼虫は毒針毛をもっているので、よく家の中に落ちて人を刺したのだった。
『醇堂叢稿』によると、大坂や堺ではヤネホソバの幼虫を「淀君の亡魂」とか「平八の執念」などと呼んだという。
大坂并(ならびに)泉の堺に、じこうぼう(ヤネホソバの幼虫)と云(い)ふ毛虫ありて、人家の軒に生じ、人を螫(さ)して大(おおい)に悩ましむ。人おそれてこれを拂(はら)ひ、じこうぼう狩と云ふを為(な)す。この虫他国に無き虫なり。土人(その土地の人)これを淀君の亡魂と称し、又平八の執念と云ふ。(1)
淀君は息子の秀頼とともに、大坂夏の陣で徳川氏に滅ぼされた。平八は大塩平八郎のこと。挙兵に失敗した大塩は自殺し、その死骸は塩詰めにされた。判決後、死骸は引き廻しののち磔(はりつけ)にされた。(2) 淀君・大塩ともに、ことのほか恨みは深かったに違いない。
ほかにも実盛虫(さねもりむし。ウンカ。西日本)、浄元虫(じょうげんむし。カメムシ。滋賀県)、遍昭坊虫(へんじょうぼうむし。ウンカ。佐渡島)など、類似の例は多い。
【注】
(1)大谷木醇堂編『醇堂叢稿33・34』写、 国立国会図書館デジタルコレクション。31コマ目。
(2)穂積陳重『続法窓夜話』1980年、岩波文庫、P.76~77。 |
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| 2026年2月13日(金) |
| 金蘭斎 |
儒者の金蘭斎(こん・らんさい。1650〜1731)は羽州秋田の産で、京都に遊学し京都で教授した。名を徳隣また玄固。字(あざな)を江長、三允、通称を忠祐といった。清貧で、老荘思想を地でいくような人だった。
その学識を慕い教えを乞う門人は多かった。しかし蘭斎の家は貧しかったので、そもそも講義するための本さえなかった。そこで、門人は本を買って蘭斎に贈るのだった。しかし、開講の日になって蘭斎のもとを訪れると、その本はすでに米に代えたという。そこでやむなく門人は、自分の本を蘭斎に与えて講義をしてもらうのだった。
蘭斎の衣服はみすぼらしかった。そこで門人は、先生のために普段着を贈った。しかし蘭斎は、贈られた着物もすぐに売り払ってしまう。そこで一計を案じた門人は、背中に大きな白丸を描いた中に「金蘭斎」と大書した着物を贈ったのだった。これならさすがに売ることはできまいし、また買い取ってくれる古着屋などもあるまい。こうして蘭斎にやっと着物の袖を通させたのだった。蘭斎は「金蘭斎」と大書されたその着物のまま、平気で出歩いて何とも思わなかった。
ある時、講義中に太神楽(だいかぐら)の笛・鼓の音が聞こえてきた。すると蘭斎は、講義を放り出してただちに走り出し、子どもたちとともに神楽のあとをついて回ったという。(1)
辞世。
東山の花見しも此(この)春をかぎりか、西山の月ミるもこのゆふべかぎりか、
さても死にともないことぢや(2)
【注】
(1)伴蒿蹊筆・森銑三校訂『近世畸人伝』1973年(7刷。1940年初刷)、岩波文庫、P.131。
(2)杏花園蜀山編・文宝堂散木補『仮名世説・下』、早稲田大学図書館蔵、請求番号:イ05 00039。13コマ目。 |
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| 2026年2月9日(月) |
| 風邪の神送り |
「風邪は万病の元」という。歴史をひもとくと、風邪の流行で命を失った人びとは多い。風邪は正体不明の恐ろしい病気のひとつだったのだ。江戸時代の人びとの、この恐ろしい病気への対処法のひとつに「風邪の神送り」があった。もちろん実効性などなかったが、人びとの恐怖心を緩和する一時的な気休めにはなっただろう。志賀紀豊の随筆『燕雀論』には明和頃(1764〜1772)の「風邪の神送り」の習俗が次のように紹介されている。
予稚(おさなき)頃、明和年中に風の神を送るとて、方壱間余りに(約1.8メートル四方)に仮家(かりや)を作リ、内に藁人形を置(おき)、種〻(しゅじゅ)の食物を供へ、四方に挑灯(ちょうちん)を結付(ゆいつけ)是(これ)を燈(とも)し、若き者餘多(あまた)打寄(うちより)て此(この)仮家を荷(にな)ひ、鉦・太鼓(かね・たいこ)を鳴(なら)し、高聲(たかごえ)に
「風の神を送れ、風の神を送れ」
と呼(よば)ハり、是(これ)に附従(つきしたが)へる人〻、童子迄同じく此(この)言を唱へて、其(その)町〻をかつぎて、はてはあたりの川中へ其仮家(そのかりや)・其外(そのほか)の物迄(まで)不残(のこらず)投捨(なげす)て、跡(あと)を見ずして迯帰(にげかえ)る、斯(かく)すれバ風邪まぬかるとて、町〻きそひて此事(このこと)をなせり(1)
くだって天保3年(1832)刊の柳亭種彦の合巻『奇妙頂礼地蔵道行(きみょうちょうらい・じぞうのみちゆき)』にも「風邪の神送り」の習俗が記載されている。
はやり風のときなんどハ、わら人ぎやうをくしにつらぬき、あるひハおにのめんをかぶり、あるひハはいずミなんどにてかほをぬりたるものごひが、
「おゝくろ、おくろ、風のかミをおくろ」
とたいこやかねでひやうしをとり、こゝらをあるくを見るのもくちをし。(2)
(流行り風邪の時なんどは藁人形を串に貫き、あるいは鬼の面をかぶり、あるいは掃墨なんどで顔を塗りたる物乞いが「おおくろ、送ろ、風邪の神を送ろ」と太鼓や鉦で拍子をとり、ここらを歩くを見るのも口惜し。)
なお、古典落語にもこの習俗を題材とした演目がある(風邪の神送り)。落語では、川へ投げ込まれた「風邪の神」が夜更けに漁師の網にかかる。その正体を知った漁師が
「夜網(よあみ)につけ込んだな」 と言うのがオチ。「弱みにつけ込む風邪の神」(悪いことが重なることのたとえ)という当時の慣用句を踏まえ、「夜網」に「弱み」を掛けたのだ。
【注】
(1)志賀紀豊『燕雀論・上』寛政元年序、国文研蔵、和古書請求記号:MX-491-3。「巻之壱、夏月冷寒之事」の項。
(2)柳亭種彦作・歌川国貞画『奇妙頂礼地蔵道行』天保3年(1832)、西村屋与八版、国立国会図書館デジタルコレクション。7コマ目。 |
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| 2026年2月6日(金) |
| 菓子を買う「幽霊」(2) |
わが国の各地に伝わる子育て幽霊(飴買い幽霊)譚では、死んだ妊婦が墓場の中で出産し、子育てをするために飴屋に飴を買いに来るというのがモチーフになっている。
しかし『醇堂叢稿』で幽霊とおぼしき女が買いに来たのは白雪糕(はくせつこう)。米から作られた塩釜に似た干菓子で、当時はこれを砕いて湯に溶かし母乳の代用にした。だからこの菓子は、俗に「乳の粉」ともよばれた。
さて、女を追跡した米屋の召使いは、寺院でその姿を見失ったという。その時、墓場の周囲を見まわした召使いの目にたまたま入ったのが「産を苦んで死せるを吊(とむら)ふ流れ灌頂(かんじょう)」だった。そこで召使いは「この女、その児を残して死し、児を養ふの人無きためにかかる不可思〈議〉のわざをも為しつるにや」と想像をたくましくして、主人に報告したのだった。つまり、米屋の主人も召使いも「青ざめたるやせおんな」を幽霊と決めつけているが、それを証明する証拠は何もないのだ。
また、子育て幽霊譚に見られるような、墓の中から赤ん坊を救い出したという記述もここにはない。女は最初から赤ん坊を背負って、店に通ってきていたのだから。
ところで当時の社寺地内には、貧民やいかがわしい者たちがたむろしていることがよくあった。たとえば、本所回向院前・牛込赤城神社境内などが、「山猫」とよばれた密淫売婦の根城だったことは有名である。女の居所とおぼしき鮫ヶ橋(かつて東京都新宿区にあった地名)近辺は、当時貧民窟の一つとしてよく知られた場所。よって鮫ヶ橋付近の寺院境内も、そうした場所のひとつだったのかもしれない。
この幽霊話の真相は、貧民の母親が母乳代わりの白雪糕をもとめに来ただけのことだったのではあるまいか。
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| 2026年2月5日(木) |
| 菓子を買う「幽霊」(1) |
『醇堂叢稿』に、菓子を買いに来る「幽霊」の話が紹介されている。(1)この話に登場する地名・店名などは至って具体的だ。まずは全文を書き出そう。なお、読みやすくするため一部表記を改め、適宜句読点等を付してある。
文政十年(1827)の事なりしが、江戸四ツ谷伝馬町に米屋と云(い)へる菓子店(2)ありけるが、ある日色青ざめたるやせおんな、襁褓児(むつきご。襁褓は産着)を脊負(せおい)て来(きた)り、銭壱文を出して白雪糕(はくせつこう)(3)を求めて帰れり。
さて、その明(あく)る日よりして日ごとに来りて同じきゆへ、主人大に不審し、ある日召仕ひの者に云(い)ひ付け、彼(か)の女の跡(あと)をしたひて(女のあとをつけて)見へがくれに付けゆきしに、あたり近き鮫が橋(4)なるある寺院に入りたるゆへ、なほその跡を見んと跟随(こんずい。追随する)せしに、墓所の方へゆきしと見る間にその影消(きえ)て無し。
「さては迎魂(げいこん)の執念、かかる奇怪なる事を為したるにや」
と、そのあたりを見まはしけるに、かの産を苦(くるし)んで死せるを吊(とむら)ふ流れ灌頂(かんじょう)のありしゆへ、
「然(しか)らばこの女、その児(こ)を残して死し、児を養ふの人無きために、かかる不可思〈議〉のわざをも為しつるにや。さりとてはあはれむべきの薄命なるかな。」
と、見とどけたるさまを帰りて主人にくはしく物語りて、もろともに淚にむせびけるが、さてその翌日の来りしゆへ、こたびはその価(あたい)を辞してほどこしつかはしけるが、その後三月あまりも来りしが、そのまゝ来しざりしとぞ。
最前持来(もちきた)りし銭は木葉(このは)・つちくれにもあらで、世に通用せるもの也(なり)しと云(いう)。
【注】
(1)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[32]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。91〜92コマ目。
(2)『江戸独買物案内・問屋の部』(文政7(1824)自序)に「四ツ谷傳馬町一丁目 米屋八兵衛」の名が見える。ただし、米屋は菓子店ではなく薬種店。
(3)白雪糕は塩釜に似た干菓子。精白したうるち米粉ともち米粉に白砂糖を加え、ハスの実の粉末を混ぜて作った。滋養食や消化器系薬として、また砕いて湯に溶かし母乳の代用として利用された。
(4)鮫ヶ橋は桜川支流の鮫川に架かっていた橋とその周辺を指す。 |
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| 2026年2月2日(月) |
釣舟清次
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江戸時代、「釣舟清次(の宿)」と書いたお札を家に貼っておけば、疫病神が入ってこないという話がちまたで評判になった。これについては大田南畝が、番所に呼び出された清次の調書をその著『半日閑話』に書き写している。その概略は次のとおり。
寛政2年(1790)6月、釣舟稼業の清次は、北町奉行初鹿野河内守信興(はじかの・かわちのかみ・のぶおき。1745〜1792)の番所に呼び出され尋問された。奇怪なことを言い触らしたからというのがその理由だった。
清次は5月24日、品川沖で鱚百匹ほどを釣り上げた。その帰り、築地本郷町辺りの波除けで舟を掃除していると、背後から背丈6尺余(約1.8メートル)で髪や髭は逆立ち、異様な衣服を着た男が声をかけてきた。清次が男の求めに応じて鱚を一匹振る舞うと、その男は自分は疫病神だと名乗って清次の名前を尋ね、「釣舟清次」と書いた札を貼っておけばその家には行かないと教えた。
清次と同じ長屋では住人の女房が煩っていたが、「釣舟清次」と書いた紙を貼るとたちまち疫病が全快した。これが評判となって、多くの人々が厄除け札を求めて押しかけて来るようになった。しかしこれでは仕事にならないので、今は書いていないという。(1)
厄除け札には「蘇民将来」「鎮西八郎為朝の御宿」等多くの種類が存する。これらの札を貼っておけば、疫病神が家の中に侵入しないという。「釣舟清次(の宿)」もそうした厄除け札の系統に属するものだ。
この話は当時かなり評判となったらしく、山東京伝作の黄表紙『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)』(2)の題材としても取りあげられ、清次の厄除け札を配付する神社も出現したほどだった(3)。
なお、疫病神と名乗った男は実は大盗人で、翌年捕縛されたという。(4)
【注】
(1)(4)大田南畝『半日閑話・第三巻』写・筑波大学図書館蔵。
(2)棚橋正博編『江戸の戯作絵本・4』2025年、ちくま学芸文庫、所収。
(3)安藤菊二「切絵図考証 十九」の「釣船神社」の項(東京都中央区立京橋図書館『郷土室だより』第32号、1981年所収)。 |
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| 2026年1月29日(木) |
| 青木新兵衛 |
かつては有名だったが、今は忘れ去られてしまった逸話は多い。「武者振(むしゃぶり)の見事なる士」と讃えられた青木方齋(あおき・ほうさい。1561〜1632)の逸話もそのひとつ。もともと国語の教科書に載っていた話だから、誰もが知悉していた時代があったはず。昔の子どもになった気分で読んでみた。
蛇足ながら、方齋(芳齋)は法号で、諱(いみな)は正玄(まさはる)、通称は新兵衛(しんべえ)。新兵衛は上杉景勝につかえていた時伊達政宗と戦い、その兜(かぶと)に付いていた弦月(げんげつ)の前立(まえだて。飾り)を折ったという剛の者。のちに結城秀康につかえ、さらには前田利常に招かれた。
なお、( )内の読みがなは原文にあったルビのみそのまま記載。読みやすくするため改行等を施したが、そのほかは原文のままだ。
德川家康の次子、秀康が臣に、狛伊勢(こまいせ)といふものあり。あるとき、其子に鎧(よろひ)の着初せされせんとて、阿閉掃部(あとぢかもん)といふものを招待して、鎧着することを頼みけり。掃部は、同じく秀康の臣にて、其頃、武功の誉高かりし人なり。
さて、着初の式すみて、やがて、祝宴となれるとき、伊勢、掃部(かもん)に向ひて、
「今日は、愚息が鎧(よろひ)の着初にて候へば、御身が武功の物語して、これに聞かせ候へ。」
といふに、掃部
「いや。それがしには、御話し申すべきほどの武功とては候はず。されど、御望もだし難く候まゝ、かつて見申しゝ、武者振(むしゃぶり)の見事なる士の事を御話し申すべし。」
とて語り出づるよ−、
「江州賤嶽の合戰に、日も暮方に及びたる頃、それがし一騎、余呉(よご)の湖のあたりを過ぎ候ひしに、敵とおぼしきもの、しきりに、後より、ことばをかく。それがし馬ひき返し候ひしに、其もの申し候は、
『今朝より駈けまはり候へども、いまだ、よき敵に逢ひ申さず。今、御人體を見うけて、幸とこそ存じ候へ。不束(ふつつか)ながら、御相手になり申すべし。』
とて進み寄る。それがしも、
『それこそ、こなたも望むところにて候へ。』
とて、互に、馬を下りて、槍(やり)を合せんとするに、
『しばらく御待ち候へ。今朝より雜兵(ぞーひょー)どもを突き崩し候へば、槍、いたくよごれて候。槍を洗ひ候て、御相手になり候はん。』
とて、槍を湖にひたして、二三べんうち洗ひて、 『いざ。』 といふ。 『おー。』 と答へて突き合ひしが、久しく、勝負なかりしほどに、日は暮れ果てゝ、ものゝあやめもわかずなりぬ。
此時、かなたより、聲をかけて、
『あ。しばらく。もはや、槍先(やりさき)も見えずなりて候。殘多くは候へども、これまでにて候。御暇申すべし。さるにても、御名こそ承りたく候へ。それがしは青木新兵衞と申すものなり。』
とて、それがしが名をも承りて、さて、また、
『後日、陣頭に出合ひ候はば、互に、人手にはかゝり申すまじく候。もし、また、味方にて候はば、わりなき交いたすべし。さらば。』
といひて立ち別れぬ。
それがし、弱年の頃より、幾度となく、戰場に出で候ひしが、かばかり見事なる士は、つひに、見しこと候はず。いかが成り果て候にか。」
と語りけり。
其頃、伊勢のもとに、心安く出入する浪士に、青木方齋(ほーさい)といふものあり。此日も來りて、勝手に居りしが、此話を聞きて、勝手よりにじり出で、掃部(かもん)に向ひて、
「さても、ただいまの御話を承りて、いまさら、昔を思ひ出で、淚を落して候。其時の御相手、青木新兵衞は、恥かしながら、それがしにて候。かく申すばかりにては、うきたる事におぼさるべし。」
とて、其時の、雙方の鎧(よろひ)のをどし、馬の毛色など、くはしく語り出でけるに、さらに、違ふことなかりけり。掃部うち驚きて、
「さてさて、久しくて逢ひ候ものかな。年來の本望、こゝに達して候。」
とて、盃を方齋にさし、腰の脇差(わきざし)をとりて與へけり。これより、方齋の名、一時に高くなりて、やがて、秀康の耳にも入り、掃部と同祿にて召し出されけりとぞ。(1)
【注】
(1)文部省著作『高等小學讀本・八』明治43(1910)年翻刻発行(明治37年発行)、株式会社國定教科書共同販賣所(国立国語研究所図書館蔵)
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| 2026年1月27日(火) |
| 校書 |
大谷木醇堂の『醇堂叢稿』を読んでいる。この御仁の困った癖は、漢学の素養をひけらかして、やたらむずかしい漢語を並べ立てる点だ。コウブンシャクジ(咬文嚼字)、難解な割にたいしたことを言っていない場合も多い。たとえば、次の文章。
宴席にて挍書(こうしょ)などを敵手(てきしゅ)と為し、拇戦(ぼせん)の輸贏(しゅえい)を争ひ、或(あるい)は舞踏など為して座興を添え杯酌(はいしゃく)を侑(すす)むる人あり。袖手傍看(しょうしゅ・ぼうかん)、実に無聊(ぶりょう)に堪(た)へず。(1)
挍書(校書)は芸者。拇戦はじゃん拳のような遊び。輸贏は勝ち負け。杯酌は酒を酌みかわすこと。袖手傍看(正しくは「袖手旁観」、または「袖手傍観」)は隣で見ているだけの意。無聊は退屈なこと。よってこの文章は、
宴会で、芸者相手にお座敷遊びの狐拳(きつねけん)で勝ち負けを争ったり、座興として踊り出したり、酒を「飲め、飲め」と勧めたりする人がいる。(こんな雰囲気になじめない)自分としては退屈でつまらないなあ
くらいの意味になる。
ところで、この文中の「校書」は芸者の意味だ。「校書」といえば、ふつうは書物の校正をいう。たとえば、「校書掃塵(こうしょ・そうじん)」(2)という四字熟語も、後者の意味で「校書」という言葉を使っている。
それならなぜ、書物の校正を意味する「校書」が、芸者の別称としても使われるのだろう。
これには中国の女性詩人、薛濤(せっとう。768~831)の故事がかかわっている。
薛濤は良家の子女だったが、父が死去したため生活に困窮し芸妓(官妓)になったという。彼女は文才があって詩詞に巧みだった。そのため、白居易や元稹(げんしん)はじめ多くの著名な詩人・文人たちとも親交があった。彼らから薛濤は「校書郎」(公文書の校正を行う官職)に就任するほどの才能があると高く評価されたため、これより芸妓を「校書」と呼ぶようになったというのだ。(3)
【注】
(1)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[32]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。103コマ目。
(2)「机の塵を何度掃っても完全にはその塵を無くすことが不可能なように、何度校正しても書物から誤りを完全にはなくすことができない」という意味。沈括『夢渓筆談(ぼうけいひつだん)』を典拠とする。
(3)薛濤を「女校書」とする故事には諸説ある。そのひとつ、中国唐時代の詩人の伝記『唐才子伝』には「及武元衡入相、奏授校書郎、蜀人呼妓為校書、自濤始也」(武元衡が宰相となると、薛濤に校書郎を授けるよう奏上した(が、女性の就任の前例がなく奏上は却下)。蜀の人が芸妓を校書と呼ぶのはこの薛濤にはじまるものだ)とある。
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| 2026年1月26日(月) |
| 一富士二鷹三茄子 |
将軍の鷹を預かる鷹匠の中には、幕府の権威を笠に着て、庶民を苦しめるとんでもない者もいた。 そんな鷹匠のひとりが、文名高い大田南畝に狂歌を作ってくれるようねだったことがある。しかしこの時、南畝はこの要請に応えなかった。
この時のことを根に持っていたのだろう、ある夜、鷹匠が夜据え(よすえ。鷹を夜連れ歩くこと)に出て南畝にばったり出会うと、将軍の「御鷹」に対し不敬であると咎め立てした。鷹匠の難癖に、南畝はあれこれ謝罪する。しかし鷹匠は、まったく許す気配がない。さすがの南畝も当惑した。すると鷹匠は、次のように提案してきたのである。
汝(なんじ)は即答の名高しと聞けば、爰(ここ)にて即時一首を詠(えい)ぜんニはゆるしてとらせん。
(おまえは即興で狂歌を作る名人と聞く。この場で今すぐ一首詠んだなら、今回は許してやろう)
そこで南畝はとりあえずと、次の一首を吐いたのである。
ふじに出てとんだおたかになす無礼、夢になれなれ、夢になれなれ
不時に富士、とんだ(意外な、おもいのほかの)に飛んだ、おかた(御方)におたか(御鷹)、為すに茄子を掛け、初夢で吉夢とされる「一富士二鷹三茄子(なすび)」でまとめた狂歌を即興でつくったのである。見事というほかない。
この一首によって、南畝はその場をしのぐことができた。その後は、鷹匠から無理難題をふっかけられることもなかったという。
【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[32]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。95〜96コマ目。 |
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| 2026年1月23日(金) |
| 江戸の小家 |
安政(1854〜1860)のころ、紀州藩付家老水野土佐守の侍医原田某(なにがし)が、江戸の小家の粗末さについて書いている。
壁土は粘りがなく風雨に耐えられない。そのため、壁の上に板張りしている。瓦を葺いても端の方にしか土を入れない。そのため、蹴れば瓦がことごとく落下してしまう。使われている材木も細くてまるで箸のよう。なるほど、「箸で家建て、糞で壁塗るとは江戸小家のこと」だ、と。(1)
江戸では火事が頻発した。人びとはたびたび被災し、その都度家を再建した。そのため家作に金をかけなかったのは、当然と言えば当然のことだったろう。
当時の火災の鎮圧方法は、火事場周辺の家屋を破壊して延焼を防ぐといった破壊消防が中心だった。だから、粗末できゃしゃな家屋は打ちこわしやすく、火消したちにとっては都合がよかった。また「箸で家建て、糞で壁塗る」ような安価で簡単な造りだったから、被災後の再建も速やかだった。
1876(明治9)年11月30日夜半、東京で1万戸以上が被災する大火災が発生し、日本橋から築地にいたるまですっかり焼け野原になった。この年来日したドイツ人ベルツ(1849~1913)は、被災地に行ってみて驚いた。被災してまだ1日半たつかたたぬかのうちに、すでに1千戸以上の家屋が「まるで地から生えたように立ち並んでい」たのである。
日本人が新しい住居を「魔法のような速さで組立て」て街を復興させる驚異のスピードに、ベルツは目を見張ったのだった。(2)
【注】
(1)原田某「江戸自慢」三田村鳶魚校訂・随筆同好会編『未刊随筆百種・第8巻』1928年、米山堂、P.414。国立国会図書館デジタルコレクション。
(2)菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』1979年改訳、岩波文庫、P.57~61。 |
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| 2026年1月21日(水) |
| 人は中身が9割 |
人の外見の美醜と、内面の能力・人間性等とは別物である。そんなことは自明の理だ。しかし、われわれはついつい見てくれにだまされる。
かの儒教の祖、孔子だって見てくれにだまされている。
弟子のひとり澹台滅明(たんだい・めつめい)はその容貌が醜かった。そこで孔子は、彼を愚鈍で才能がない人物と判断した。教えがいのない弟子だと思ったのだろう。偏見である。
実は澹台滅明は聡明な人物で、学問に精進し道を修めるとその声望は高まり、諸侯の間で評判になるほどだった。また、彼は清廉潔白な人物で、正々堂々・公明正大に物事に取り組む態度は「行くに径に由らず(ゆくにこみちによらず)」(『論語』雍也篇)の言葉を生んだ。この言葉は、30年以上かけて『大漢和辞典』(全13巻、1万5千ページ、語彙数50万語を網羅する大事業)の編纂に邁進した漢学者、諸橋轍次(もろはし・てつじ)氏の座右の銘としても知られる。
こういったわけで、後年孔子は「子羽(しう。澹台滅明のこと)のことは見誤った」と、自分の目が節穴だったことを反省せざるを得なかったのだ。
もっとも孔子には、他人の容貌をとやかく言う資格はなかった。本人の見てくれは澹台滅明以上にひどかったのだから。
孔子は長身で、その顔はまるで「蒙倛(もうき)」のようだったという(『荀子』)。「蒙倛」は古代中国で、疫病を追い払う儀式や葬儀の際に使われたザンバラ髪の不気味な神像(または仮面)のこと。孔子の顔は、疫病や悪霊が逃げ出すような恐ろしいものだった、というのだ。
また、孔子の容貌は「喪家(そうか)の狗(いぬ)」(『孔子家語』)のようだとも言われた。「喪家の狗」とは喪中の家の飼犬のこと。不幸があった家では悲しみのあまり、犬の世話まで手がまわらない。そのため餌をもらえない飼犬はやせ衰える。諸国を放浪した孔子の容貌は「喪家の狗」のように、疲れ果てて見る影もなくやせ衰えていたらしい。
ちなみに江戸時代には、見てくれがよくても内実がともなわない見かけ倒しを「胡麻胴乱(ごまどうらん)」といった。胡麻胴乱は、小麦粉に胡麻をまぜて焼きふくらませた菓子。その中は空胴だったから「中身がない」と嘲ったのだ。
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| 2026年1月19日(月) |
| 亘(わたる) |
有徳院様(ゆうとくいんさま。吉宗)御召(おめし)御秘蔵(ごひぞう)の亘(わたる)と云(いう)御馬ハ、殊の外(ことのほか)の曲馬(くせうま)也(なり)。(『鶯宿雑記』)
吉宗(1684〜1751)が秘蔵する御召御馬(おめしおうま。日常的に乗る馬)の名を亘(わたる)と言った。この馬はとりわけ癖のある馬だった。ひどく神経質で、傘を開閉する音・車が通る音などささいな物音にも異常に反応して、驚くこと尋常でなかった。そのため、ふつうの者はもとより、御召御馬預(おめしおうまあずかり)の諏訪部定軌(すわべ・さだのり。1687〜1750)であっても亘に乗ることさえできなかった。
しかし「癖ある馬に能あり(一癖ある者は必ず取り柄がある、の意)」という。なぜか亘は吉宗の命令には従順だった。
ある日のこと。亘に乗った吉宗は本町御堀端の石垣へ前足を乗りかけると、馬上から火縄銃を撃とうとした。「物音に驚く事、云計(いうばかり)なし」という亘のことである。鉄砲の轟音に驚いて暴れ回り、上様を振り落とすやも知れぬ。御側の者たちは危険だと言って制止する。しかし吉宗はその忠告も聞かず、十分に鉄砲を撃ち放ったのである。
亘は、鉄砲を撃った反動にも凛と立ちこらえて、少しも動かなかった。
しかしこの時、事故が起こった。鉄砲の火縄が落ちて亘の目に入ったのだ。亘は片目を失明した。だが、亘が暴れて走り出すことはなかったという。
【参考】
・駒井乗邨編『鶯宿雑記』巻515〜516、写。国立国会図書館デジタルアーカイブ、請求番号:238-1。79コマ目。 https://dl.ndl.go.jp/pid/10301030
(参照 2026-01-18) |
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| 2026年1月16日(金) |
| 夢想にたよる |
夢に関しては『太平記』(巻35)にもこんな話がある(「北野通夜物語事付青砥左衛門事」)。
ある時相模守(鎌倉幕府の第5代執権北条時頼か)が鶴岡八幡宮に通夜した夜明け方、その夢枕に衣冠正装した老人がひとり立ち、公正無私な武士、青砥左衛門(あおと・さえもん。青砥藤綱か)を取り立てるようにと告げた。そこで相摸守は、早速に近国の大庄八か所の補任状(ぶにんじょう。官職に任命する書類)を作成し、これを青砥左衛門に下賜したのである。
驚いたのは青砥左衛門である。いかなる理由があって三万貫にも及ぶ大所領を下賜されるというのか。青砥の問いに相模守は「夢想=八幡宮の神託」によるものだと答えた。
すると青砥は首を振って、「夢想(神託)」を理由とするなら一か所たりとも賜わるわけにはいかない、そもそも「夢想」に頼るという相模守の考え自体が嘆かわしい、もしも青砥の首を刎ねよとの夢を見たならばその時は私の首を刎ねるのか、と言って補任状の受け取りを辞退したのである。
中世の人々は信心深く「夢想」を信じる者も多かった。しかし相模守がいかに信心深かろうが、「夢想」によって任官人事を行うなどとは言語道断。抜擢はあくまで本人の適性・能力・実績等によるべきである。
「夢想」などに生殺与奪の権を握られてはたまったものではない。 |
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| 2026年1月14日(水) |
| 初夢 |
松平清康が岡崎城に在城していた頃、左手に「是の字」を握る初夢を見た。龍溪寺(曹洞宗)の模外禅師(もがい・ぜんじ)がこれを次のように夢解きした。
是の字は日・下・人と分解できる。これは、松平家から三代のうちに天下人が出現する吉兆である、と。その後、清康の孫徳川家康が天下人となった。初夢が現実のものとなったのだ。
さて、松平定信は8代将軍吉宗の孫だったが、将軍にはなれなかった。定信の「定の字」はウ・下・人と分解できる。「家の中の人」の意だ。定信は天下人にはなれなかったが、書斎で多くの著作をなし後世に名を残した。そのひとつ『宇下人言(うげのひとこと)』は、定信の名を分解して名付けた自伝だ。 |
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