あれやこれや2026
 日用品の値上がりが打ちつづく昨今。とりわけ主食である米価の高止まりは、消費者にとってはゆゆしき大問題です。

「世の中はいつも月夜に米の飯、負(おは)ず借(から)ずに、子なら三人」(風狂文草)が理想と詠われた江戸時代。

 しかし現在、消費者の米離れから、米飯を食べる機会は目に見えて減少。また、国の借金は膨れ上がる一方。さらに急激な少子化の進展が、将来の日本人の存在自体を危うくしています。

 こうした危機的状況を、今後ウマく乗り越えていくことができるのでしょうか。

 
2026年1月29日(木)
青木新兵衛
 かつては有名だったが、今は忘れ去られてしまった逸話は多い。「武者振(むしゃぶり)の見事なる士」と讃えられた青木方齋(あおき・ほうさい。1561〜1632)の逸話もそのひとつ。もともと国語の教科書に載っていた話だから、誰もが知悉していた時代があったはず。昔の子どもになった気分で読んでみた。

 蛇足ながら、方齋(芳齋)は法号で、諱(いみな)は正玄(まさはる)、通称は新兵衛(しんべえ)。新兵衛は上杉景勝につかえていた時伊達政宗と戦い、その兜(かぶと)に付いていた弦月(げんげつ)の前立(まえだて。飾り)を折ったという剛の者。のちに結城秀康につかえ、さらには前田利常に招かれた。

 なお、( )内の読みがなは原文にあったルビのみそのまま記載。読みやすくするため改行等を施したが、そのほかは原文のままだ。


 
德川家康の次子、秀康が臣に、狛伊勢(こまいせ)といふものあり。あるとき、其子に鎧(よろひ)の着初せされせんとて、阿閉掃部(あとぢかもん)といふものを招待して、鎧着することを頼みけり。掃部は、同じく秀康の臣にて、其頃、武功の誉高かりし人なり。

 さて、着初の式すみて、やがて、祝宴となれるとき、伊勢、掃部
(かもん)に向ひて、


「今日は、愚息が鎧
(よろひ)の着初にて候へば、御身が武功の物語して、これに聞かせ候へ。」


といふに、掃部


「いや。それがしには、御話し申すべきほどの武功とては候はず。されど、御望もだし難く候まゝ、かつて見申しゝ、武者振
(むしゃぶり)の見事なる士の事を御話し申すべし。」


とて語り出づるよ−、


「江州賤嶽の合戰に、日も暮方に及びたる頃、それがし一騎、余呉
(よご)の湖のあたりを過ぎ候ひしに、敵とおぼしきもの、しきりに、後より、ことばをかく。それがし馬ひき返し候ひしに、其もの申し候は、

『今朝より駈けまはり候へども、いまだ、よき敵に逢ひ申さず。今、御人體を見うけて、幸とこそ存じ候へ。不束
(ふつつか)ながら、御相手になり申すべし。』

とて進み寄る。それがしも、

『それこそ、こなたも望むところにて候へ。』

とて、互に、馬を下りて、槍
(やり)を合せんとするに、

『しばらく御待ち候へ。今朝より雜兵
(ぞーひょー)どもを突き崩し候へば、槍、いたくよごれて候。槍を洗ひ候て、御相手になり候はん。』

とて、槍を湖にひたして、二三べんうち洗ひて、 『いざ。』 といふ。 『おー。』 と答へて突き合ひしが、久しく、勝負なかりしほどに、日は暮れ果てゝ、ものゝあやめもわかずなりぬ。

 此時、かなたより、聲をかけて、

『あ。しばらく。もはや、槍先
(やりさき)も見えずなりて候。殘多くは候へども、これまでにて候。御暇申すべし。さるにても、御名こそ承りたく候へ。それがしは青木新兵衞と申すものなり。』

とて、それがしが名をも承りて、さて、また、

『後日、陣頭に出合ひ候はば、互に、人手にはかゝり申すまじく候。もし、また、味方にて候はば、わりなき交いたすべし。さらば。』

といひて立ち別れぬ。

 それがし、弱年の頃より、幾度となく、戰場に出で候ひしが、かばかり見事なる士は、つひに、見しこと候はず。いかが成り果て候にか。」


と語りけり。

 其頃、伊勢のもとに、心安く出入する浪士に、青木方齋
(ほーさい)といふものあり。此日も來りて、勝手に居りしが、此話を聞きて、勝手よりにじり出で、掃部(かもん)に向ひて、


「さても、ただいまの御話を承りて、いまさら、昔を思ひ出で、淚を落して候。其時の御相手、青木新兵衞は、恥かしながら、それがしにて候。かく申すばかりにては、うきたる事におぼさるべし。」


とて、其時の、雙方の鎧
(よろひ)のをどし、馬の毛色など、くはしく語り出でけるに、さらに、違ふことなかりけり。掃部うち驚きて、


「さてさて、久しくて逢ひ候ものかな。年來の本望、こゝに達して候。」


とて、盃を方齋にさし、腰の脇差
(わきざし)をとりて與へけり。これより、方齋の名、一時に高くなりて、やがて、秀康の耳にも入り、掃部と同祿にて召し出されけりとぞ。
(1) 


【注】
(1)
文部省著作『高等小學讀本・八』明治43(1910)年翻刻発行(明治37年発行)、株式会社國定教科書共同販賣所(国立国語研究所図書館蔵)
2026年1月27日(火)
校書
 大谷木醇堂の『醇堂叢稿』を読んでいる。この御仁の困った癖は、漢学の素養をひけらかして、やたらむずかしい漢語を並べ立てる点だ。コウブンシャクジ(咬文嚼字)、難解な割にたいしたことを言っていない場合も多い。たとえば、次の文章。


 
宴席にて挍書(こうしょ)などを敵手(てきしゅ)と為し、拇戦(ぼせん)の輸贏(しゅえい)を争ひ、或(あるい)は舞踏など為して座興を添え杯酌(はいしゃく)を侑(すす)むる人あり。袖手傍看(しょうしゅ・ぼうかん)、実に無聊(ぶりょう)に堪(た)へず。(1)


 挍書(校書)は芸者。拇戦はじゃん拳のような遊び。輸贏は勝ち負け。杯酌は酒を酌みかわすこと。袖手傍看(正しくは「袖手旁観」、または「袖手傍観」)は隣で見ているだけの意。無聊は退屈なこと。よってこの文章は、

 宴会で、芸者相手にお座敷遊びの狐拳(きつねけん)で勝ち負けを争ったり、座興として踊り出したり、酒を「飲め、飲め」と勧めたりする人がいる。(こんな雰囲気になじめない)自分としては退屈でつまらないなあ

くらいの意味になる。

 ところで、この文中の「校書」は芸者の意味だ。「校書」といえば、ふつうは書物の校正をいう。たとえば、「校書掃塵(こうしょ・そうじん)」
(2)という四字熟語も、後者の意味で「校書」という言葉を使っている。

 それならなぜ、書物の校正を意味する「校書」が、芸者の別称としても使われるのだろう。

 これには中国の女性詩人、薛濤(せっとう。768~831)の故事がかかわっている。

 薛濤は良家の子女だったが、父が死去したため生活に困窮し芸妓(官妓)になったという。彼女は文才があって詩詞に巧みだった。そのため、白居易や元稹(げんしん)はじめ多くの著名な詩人・文人たちとも親交があった。彼らから薛濤は「校書郎」(公文書の校正を行う官職)に就任するほどの才能があると高く評価されたため、これより芸妓を「校書」と呼ぶようになったというのだ。
(3)


【注】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[32]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。103コマ目。
(2)「机の塵を何度掃っても完全にはその塵を無くすことが不可能なように、何度校正しても書物から誤りを完全にはなくすことができない」という意味。沈括『夢渓筆談(ぼうけいひつだん)』を典拠とする。
(3)薛濤を「女校書」とする故事には諸説ある。そのひとつ、中国唐時代の詩人の伝記『唐才子伝』には「及武元衡入相、奏授校書郎、蜀人呼妓為校書、自濤始也」(武元衡が宰相となると、薛濤に校書郎を授けるよう奏上した(が、女性の就任の前例がなく奏上は却下)。蜀の人が芸妓を校書と呼ぶのはこの薛濤にはじまるものだ)とある。
2026年1月26日(月)
一富士二鷹三茄子
 将軍の鷹を預かる鷹匠の中には、幕府の権威を笠に着て、庶民を苦しめるとんでもない者もいた。 そんな鷹匠のひとりが、文名高い大田南畝に狂歌を作ってくれるようねだったことがある。しかしこの時、南畝はこの要請に応えなかった。

 この時のことを根に持っていたのだろう、ある夜、鷹匠が夜据え(よすえ。鷹を夜連れ歩くこと)に出て南畝にばったり出会うと、将軍の「御鷹」に対し不敬であると咎め立てした。鷹匠の難癖に、南畝はあれこれ謝罪する。しかし鷹匠は、まったく許す気配がない。さすがの南畝も当惑した。すると鷹匠は、次のように提案してきたのである。


 
(なんじ)は即答の名高しと聞けば、爰(ここ)にて即時一首を詠(えい)ぜんニはゆるしてとらせん。

 (おまえは即興で狂歌を作る名人と聞く。この場で今すぐ一首詠んだなら、今回は許してやろう)



 そこで南畝はとりあえずと、次の一首を吐いたのである。


 ふじに出てとんだおたかになす無礼、夢になれなれ、夢になれなれ


 不時に富士、とんだ(意外な、おもいのほかの)に飛んだ、おかた(御方)におたか(御鷹)、為すに茄子を掛け、初夢で吉夢とされる「一富士二鷹三茄子(なすび)」でまとめた狂歌を即興でつくったのである。見事というほかない。

 この一首によって、南畝はその場をしのぐことができた。その後は、鷹匠から無理難題をふっかけられることもなかったという。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[32]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。95〜96コマ目。
2026年1月23日(金)
江戸の小家
 安政(1854〜1860)のころ、紀州藩付家老水野土佐守の侍医原田某(なにがし)が、江戸の小家の粗末さについて書いている。

 壁土は粘りがなく風雨に耐えられない。そのため、壁の上に板張りしている。瓦を葺いても端の方にしか土を入れない。そのため、蹴れば瓦がことごとく落下してしまう。使われている材木も細くてまるで箸のよう。なるほど、「箸で家建て、糞で壁塗るとは江戸小家のこと」だ、と。
(1)

 江戸では火事が頻発した。人びとはたびたび被災し、その都度家を再建した。そのため家作に金をかけなかったのは、当然と言えば当然のことだったろう。

 当時の火災の鎮圧方法は、火事場周辺の家屋を破壊して延焼を防ぐといった破壊消防が中心だった。だから、粗末できゃしゃな家屋は打ちこわしやすく、火消したちにとっては都合がよかった。また「箸で家建て、糞で壁塗る」ような安価で簡単な造りだったから、被災後の再建も速やかだった。

 1876(明治9)年11月30日夜半、東京で1万戸以上が被災する大火災が発生し、日本橋から築地にいたるまですっかり焼け野原になった。この年来日したドイツ人ベルツ(1849~1913)は、被災地に行ってみて驚いた。被災してまだ1日半たつかたたぬかのうちに、すでに1千戸以上の家屋が「まるで地から生えたように立ち並んでい」たのである。

 日本人が新しい住居を「魔法のような速さで組立て」て街を復興させる驚異のスピードに、ベルツは目を見張ったのだった。
(2)


【注】
(1)
原田某「江戸自慢」三田村鳶魚校訂・随筆同好会編『未刊随筆百種・第8巻』1928年、米山堂、P.414。国立国会図書館デジタルコレクション。
(2)菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』1979年改訳、岩波文庫、P.57~61。  
2026年1月21日(水)
人は中身が9割
 人の外見の美醜と、内面の能力・人間性等とは別物である。そんなことは自明の理だ。しかし、われわれはついつい見てくれにだまされる。

 かの儒教の祖、孔子だって見てくれにだまされている。

 弟子のひとり澹台滅明(たんだい・めつめい)はその容貌が醜かった。そこで孔子は、彼を愚鈍で才能がない人物と判断した。教えがいのない弟子だと思ったのだろう。偏見である。

 実は澹台滅明は聡明な人物で、学問に精進し道を修めるとその声望は高まり、諸侯の間で評判になるほどだった。また、彼は清廉潔白な人物で、正々堂々・公明正大に物事に取り組む態度は「行くに径に由らず(ゆくにこみちによらず)」(『論語』雍也篇)の言葉を生んだ。この言葉は、30年以上かけて『大漢和辞典』(全13巻、1万5千ページ、語彙数50万語を網羅する大事業)の編纂に邁進した漢学者、諸橋轍次(もろはし・てつじ)氏の座右の銘としても知られる。

 こういったわけで、後年孔子は「子羽(しう。澹台滅明のこと)のことは見誤った」と、自分の目が節穴だったことを反省せざるを得なかったのだ。

 もっとも孔子には、他人の容貌をとやかく言う資格はなかった。本人の見てくれは澹台滅明以上にひどかったのだから。

 孔子は長身で、その顔はまるで「蒙倛(もうき)」のようだったという(『荀子』)。「蒙倛」は古代中国で、疫病を追い払う儀式や葬儀の際に使われたザンバラ髪の不気味な神像(または仮面)のこと。孔子の顔は、疫病や悪霊が逃げ出すような恐ろしいものだった、というのだ。

 また、孔子の容貌は「喪家(そうか)の狗(いぬ)」(『孔子家語』)のようだとも言われた。「喪家の狗」とは喪中の家の飼犬のこと。不幸があった家では悲しみのあまり、犬の世話まで手がまわらない。そのため餌をもらえない飼犬はやせ衰える。諸国を放浪した孔子の容貌は「喪家の狗」のように、疲れ果てて見る影もなくやせ衰えていたらしい。

 ちなみに江戸時代には、見てくれがよくても内実がともなわない見かけ倒しを「胡麻胴乱(ごまどうらん)」といった。胡麻胴乱は、小麦粉に胡麻をまぜて焼きふくらませた菓子。その中は空胴だったから「中身がない」と嘲ったのだ。
2026年1月19日(月)
亘(わたる)

 
有徳院様(ゆうとくいんさま。吉宗御召(おめし)御秘蔵(ごひぞう)の亘(わたる)と云(いう)御馬ハ、殊の外(ことのほか)の曲馬(くせうま)(なり)(『鶯宿雑記』)


 吉宗(1684〜1751)が秘蔵する御召御馬(おめしおうま。日常的に乗る馬)の名を亘(わたる)と言った。この馬はとりわけ癖のある馬だった。ひどく神経質で、傘を開閉する音・車が通る音などささいな物音にも異常に反応して、驚くこと尋常でなかった。そのため、ふつうの者はもとより、御召御馬預(おめしおうまあずかり)の諏訪部定軌(すわべ・さだのり。1687〜1750)であっても亘に乗ることさえできなかった。

 しかし「癖ある馬に能あり(一癖ある者は必ず取り柄がある、の意)」という。なぜか亘は吉宗の命令には従順だった。

 ある日のこと。亘に乗った吉宗は本町御堀端の石垣へ前足を乗りかけると、馬上から火縄銃を撃とうとした。「物音に驚く事、云計(いうばかり)なし」という亘のことである。鉄砲の轟音に驚いて暴れ回り、上様を振り落とすやも知れぬ。御側の者たちは危険だと言って制止する。しかし吉宗はその忠告も聞かず、十分に鉄砲を撃ち放ったのである。

 亘は、鉄砲を撃った反動にも凛と立ちこらえて、少しも動かなかった。

 しかしこの時、事故が起こった。鉄砲の火縄が落ちて亘の目に入ったのだ。亘は片目を失明した。だが、亘が暴れて走り出すことはなかったという。


【参考】
・駒井乗邨編『鶯宿雑記』巻515〜516、写。国立国会図書館デジタルアーカイブ、請求番号:238-1。79コマ目。 https://dl.ndl.go.jp/pid/10301030 (参照 2026-01-18)
2026年1月16日(金)
夢想にたよる
 夢に関しては『太平記』(巻35)にもこんな話がある(「北野通夜物語事付青砥左衛門事」)。

 ある時相模守(鎌倉幕府の第5代執権北条時頼か)が鶴岡八幡宮に通夜した夜明け方、その夢枕に衣冠正装した老人がひとり立ち、公正無私な武士、青砥左衛門(あおと・さえもん。青砥藤綱か)を取り立てるようにと告げた。そこで相摸守は、早速に近国の大庄八か所の補任状(ぶにんじょう。官職に任命する書類)を作成し、これを青砥左衛門に下賜したのである。

 驚いたのは青砥左衛門である。いかなる理由があって三万貫にも及ぶ大所領を下賜されるというのか。青砥の問いに相模守は「夢想=八幡宮の神託」によるものだと答えた。

 すると青砥は首を振って、「夢想(神託)」を理由とするなら一か所たりとも賜わるわけにはいかない、そもそも「夢想」に頼るという相模守の考え自体が嘆かわしい、もしも青砥の首を刎ねよとの夢を見たならばその時は私の首を刎ねるのか、と言って補任状の受け取りを辞退したのである。

 中世の人々は信心深く「夢想」を信じる者も多かった。しかし相模守がいかに信心深かろうが、「夢想」によって任官人事を行うなどとは言語道断。抜擢はあくまで本人の適性・能力・実績等によるべきである。

 「夢想」などに生殺与奪の権を握られてはたまったものではない。
2026年1月14日(水)
初夢
 松平清康が岡崎城に在城していた頃、左手に「是の字」を握る初夢を見た。龍溪寺(曹洞宗)の模外禅師(もがい・ぜんじ)がこれを次のように夢解きした。

 是の字は日・下・人と分解できる。これは、松平家から三代のうちに天下人が出現する吉兆である、と。その後、清康の孫徳川家康が天下人となった。初夢が現実のものとなったのだ。

 さて、松平定信は8代将軍吉宗の孫だったが、将軍にはなれなかった。定信の「定の字」はウ・下・人と分解できる。「家の中の人」の意だ。定信は天下人にはなれなかったが、書斎で多くの著作をなし後世に名を残した。そのひとつ『宇下人言(うげのひとこと)』は、定信の名を分解して名付けた自伝だ。