2025年4月21日(月) |
かんばやし店? |
カステラや和菓子の江戸の名店を紹介した史料を読んでいたところ「上林店」という言葉が出てきた。どういう意味だろう。
そこで辞書で「上林(じょうりん)」を引いてみると、
①上林苑のこと。 ②果物。 ③酒の肴。
と出てくる。
①の上林苑は、中国秦・漢時代に設けられた皇帝の御苑(ぎょえん)のこと。この御苑では果物がとれたので、上林は②の果物の意となった。それなら「上林店」は果物屋のことだ。だが、菓子店の紹介史料に、果物屋というのはおかしかろう。
しかし、そもそも果物も菓子も、ともに菓子(果子)だったのだ。たとえば、尾張領の美濃国加茂郡蜂谷村は、将軍家に柿(いわゆる蜂谷柿)や干し柿を献上する村だった。尾張藩ではこれを「御菓子場(おかしば)」といった。(1) つまり、果物の柿も人が加工した干し柿も区別せずに、ともに「菓子」とよんでいたのだ。
人が作ったものか自然のものかで菓子と果物をはっきり区別するようになったのは、江戸時代からのことらしい。以後、干菓子・蒸菓子など人が加工して製したものを「菓子(かし)」(江戸)とよび、桃栗などの果実類を「水菓子(みずがし)」(江戸)・「果物(くだもの)」(京坂)とよんで区別するようになったという。(2)
したがって「上林店」を菓子屋の意味で使っても、一向に差し支えがないのだ。
【注】
(1)藤田英明『礼物軌式』(八木書店)
ALL REVIEWS、2024年1月19日、https://allreviews.jp/genre/5?page=6(2025年4月17日閲覧)。
(2)喜多川季荘編『守貞謾稿』にも
「今世ハ右ノ菓実ノ類ヲ京坂ニテ和訓ヲ以(もっ)テクタモノト云(いい)、江戸ニテハ水クワシト云也(いうなり)。是(これ)干菓子・蒸菓子等ノ制アリテ、此(この)類ヲ唯(ただ)ニ菓子トノミ云(いう)コトニナリシニヨリ、對(たい)シテ菓実ノ類ハミヅ菓子ト云也」
とある。国立国会図書館HP「本の万華鏡、第25回あれもこれも和菓子、第2章和菓子をめぐる風俗」掲載史料による(2025年4月17日閲覧)。 |
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2025年4月15日(火) |
トラブル |
正保4年(1645)、3代将軍将軍家光が大川(隅田川)に御成した際、御供の面々に対し水練をおこなうよう命じた。しかし、水練熟練者が少なかったため、今後は毎夏、非番時には毎日水練稽古を行うように命じたのである。こうした理由で、御徒の男子は7歳以上になると必ず水練の稽古をしなければならなかったという。(1)
4代将軍家綱の時代、御徒衆の中に水練の名人がいた。そこで、江戸城の蓮池御門(はすいけごもん)あたりの池で上覧水練がおこなわれた。ところが、水練の演技が終了したにもかかわらず、泳者は池から陸に一向あがってこないのである。
当番日、彼所(あそこ。蓮池)に 御成被遊(おなりあそばされ)、かの達所(たちどころ。その場ですぐ)無双の水練を 上覧に備え、最早(もはや)陸(おか)に上らん頃に至り、 御前のかたわらの面々の方へ向き、上りかねたる顔色をいたして、又水上に游(およぎ)ゆき、両度に及び候(そうろう)人を、人々如何(いかが)と計(ばか)り存候(ぞんじそうろう)所に、信綱(老中松平信綱)懐(ふところ)より何やら取出(とりだ)し、其侭(そのまま)小石をくくりつけて投やられ候へば、かの者則(すなわち)受取(うけとり)をしいただき(目より高くささげて持って)、側(かたわら)に游ぎゆき水中にて引(ひき)しめ、即座に陸に上り候。 (2)
信綱が池に投げ入れたのは褌(ふんどし)だった。
そもそも褌は、はずれやすい下着だ。褌が水中でとけたため、泳者は池から出るに出られなかった。泳者の顔色からそれを悟った信綱は「兼(かね)て懐中用意せられし白羽二重(しろはぶたえ)の犢鼻褌(ふんどし)を投(なげ)」てやって、泳者の危機を救ったのだった。
この話の主眼は、信綱の察しのよさや日頃の用意のよさを誉める点にある。しかし、政府高官がそんな準備をしておく必要があるほど、褌にまつわるトラブルは多かったのだろう。
【注】
(1)戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』2021年、東京堂出版、P.155。
(2)内山温恭編『流芳録』巻之三、天保7(1836)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー0004。「御老中 松平伊豆守信綱」の項。 |
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2025年4月11日(金) |
遇所と香遠 |
益田遇所(ますだ・ぐうしょ。1797〜1860)の本姓は山口氏である。篆刻家益田勤斎に師事してその後継となり、益田を名乗った。勤斎・遇所らの清新で精緻な印風を浄碧居派(じょうへききょは)という。浄碧居派は、浜村蔵六(はまむら・ぞうろく。浜村家が五代にわたり名乗った名跡)の蔵六居派(ぞうろくきょは)と並ぶ篆刻界の二大流派だった。
江戸時代には篆刻の名手が輩出した。池田道雲(いけだ・どううん。1674〜1737)、趙陶斎(ちょう・とうさい。1713〜1786)、高芙蓉(こう・ふよう。1722〜1784)の三人である。遇所はこれら三傑に次ぐ名人と目された。
稀代の名人といえば卓越した技巧ばかりでなく、気骨のある人物が多い。遇所もまたしかりだった。
ある時、純金に印を彫ることを依頼された。ところが依頼人は連日遇所宅にやってきては、遇所の作業を監視するのだった。彫りくずの金粉を遇所が私することを疑ったのである。怒った遇所は仕事を中断し、二度と彫刻刀を取らなかったという。
またある時は、珊瑚に印を彫ることを依頼された。今回の依頼主も高価な珊瑚が損傷することを心配して、遇所の側にすわったまままじまじとその作業を見つめ続けるのだった。怒った遇所は手にした珊瑚を庭さきの石に投げつけて、粉々に打ち砕いてしまったという。
遇所の人柄・技術に全幅の信頼をおけぬようなケチな人間には、そもそも仕事を依頼する資格などなかったのだ。
ただし、そうした疑り深い凡俗な依頼者たちのおかげで、遇所は
特に彫刻に工(たくみ)なるのミならず、気概かくの如(ごと)し。たのもしき老人也(なり)ける。(1)
との名誉を得たのだった。
遇所の子を香遠(こうとお。1836~1921)という。香遠は江戸幕府の国印製作に関わったことで知られる。
ペリー来航後、諸外国と条約を締結する機会が多くなった。そのため国印が必要となったのである。幕末の将軍家茂・慶喜がさまざまな外交文書に使用し、日米修好通商条約批准書に押印したのも香遠らが製作した国印だった。
この国印は所在が長らく不明だったが、平成29年(2017)、徳川宗家の蔵を整理中に長持の中から発見された。
黒塗葵紋付蒔絵方形箱に納められた国印は銀製で、印面に「経文緯武」の四文字が陽刻されている。「経文緯武」は「文を経(たていと)にし、武を緯(よこいと)にす」と読み「文武両道を兼ねた政治の理想的な姿」を表すという。印面の大きさは縦横ともに9.2cm、印面から鈕(ちゅう)までの高さが7.8cm、重さは2.7kgもあるという。(2)
【参考】
(1)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。
(2)公益財団法人德川記念財団HPによる。 |
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2025年4月7日(月) |
草鞋を贈る |
大谷木醇堂は長年にわたり、幼くして父を失った武士が家督相続すると祝いの品を贈ってきたという。
こうした祝いの場合、尾頭付きの鯛や鰹節(勝男武士に通じる)などを贈るのがふつうだ。しかし醇堂は草鞋(わらじ)を贈ったという。贈られた方では、醇堂の真意をはかりかねて困惑する者もいれば、その真意を了解して喜ぶ者もいるなど、その反応は千差万別だったという。(1)
醇堂が草鞋を贈ったのは、板倉重宗(いたくら・しげむね)が三代将軍家光に草鞋に贈った逸話にちなむ。その逸話とは、次のようなものだった。
重宗京都所司代たりし頃、一時(いっとき。ある時)草鞋一足作りて 大猷院殿(たいゆういんでん。家光)に献じ、
「是(これ)は 権現様(ごんげんさま。家康)の軍中にて、加様(かよう)なるが能(よき)と 上意遊ばされ候(そうろう)を能(よく)覚へて居候間(おりそうろうあいだ)、自身作りて差上候(さしあげそうろう)。若(もし)御用に御座候(ござそうら)はば、いか程も調進仕(ちょうしんつかまつ)るべし」
と申上(もうしあげ)られたり。是は
「権現様御小身の時、かかる鄙事(ひじ。つまらないこと)をも御存(ごぞんじ)にて、業を創(はじ)め天下の主とならせ給(たま)へば、成を守るの君も下々の上までよく知(し)ろし召(めさ)で叶(かな)はぬ義ぞ」
と言(いわ)ずして、暗にわらじに託して諫(いさめ)奉(たてまつ)るの心なるべし。(『流芳録』)(2)
祖先の創業の苦労に思いをいたせ。しかし守成もまた困難である。この戒めを草鞋に託して家督相続者へ贈ったのだった。
【注】
(1)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。18〜19コマ目。
(2)内山温恭編『流芳録』巻之八、天保7(1836)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー0004。「京都所司代 板倉周防守重宗」の項、「雨夜燈并雑話燭談」を引用。 |
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2025年4月6日(日) |
鯛を贈る |
鯛は「めでタイ」の語呂もあり、お祝い事に贈られる。しかし江戸時代は、必ずしも「めでたい魚」ではなかったらしい。氏家幹人氏が次のような事例を紹介している。
老中が在職中に重病になると、将軍から病気見舞いとして鯛の味噌煮が下賜された。そしていよいよ危篤となると、鱠残魚(かいざんぎょ。氏家氏の注によれば白魚や鱚のことという)の干物が届けられることになっていた。これらの魚が届けられると、程なくして老中の死去が公表されたという。
つまり幕臣らにとっては、鯛や鱠残魚は老中の死を暗示する不吉な魚だったのだ。
ついついわれわれは「鯛=めでたいもの」というような先入観によって物事を判断しがちだ。時としてそうした予断には思わぬ落とし穴がある。
【参考】
・氏家幹人『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.4〜P.7。 |
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2025年3月28日(金) |
蜀山人の反故 |
江戸幕府の御家人大田直次郎(1749〜1823)は、御徒の家に生まれのち支配勘定にのぼった。幕臣としては一小吏に過ぎない。しかし、蜀山人等の戯号を用いた文芸活動においては、その名声は四方に鳴り響いていた。
さて、蜀山人の家には長年つかえた逸助という下僕がいた。逸助はのち暇をもらい世帯を持った。
ある時、逸助が蜀山人をたずねてきた。借家の壁を腰張り(壁の腰回り=下半部に紙を張ること)するのに反故紙(ほごがみ)が欲しいとのこと。そこで蜀山人は、机の下に散らばってあった書類を無造作に二束、三束と取りあげると、そのまま逸助に与えたのである。
帰宅途中の逸助とたまたま出会った蜀山人の弟子が、その抱えている反故の束を見とめた。事情を聞けば蜀山人からもらった反故という。そこで弟子が反故を開いてみると、その中にはすぐれた狂詩・狂文、画讃の類が多く含まれていた。市場に出せば5、6両は下るまい。弟子はすぐさま蜀山人のもとにおもむき、以上の件を報告した。しかし蜀山人はまったく意に介していなかった。
この話は弟子から世間に伝わり、蜀山人を慕う人びとがわれもわれも逸助の借家に押し寄せた。そして、蜀山人の反故を争い求め、壁に腰張りした反故までも剥がして持ち去ったのである。人びとが代価として置いていった金は7、8両にもなった。
逸助が蜀山人の恩徳に感謝したのは言うまでもない。
【参考】
・為永春水著・教訓亭主人貞高撰『閑窓瑣談』巻之二、早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫11A1410。「第十六 蜀山先生のミやび」による。 |
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2025年3月27日(木) |
十九日 |
江戸時代、馬鹿者のことを「十九日」と呼んだという。大田南畝の随筆『奴師労之(やっこだこ)』に次のような記事がある。
馬鹿ものゝの事を十九日とよびしハ、牛込赤城の縁日十九日也。其頃(そのころ)赤城に山猫といふ倡婦(しょうふ)ありしが、此所(ここ)にていひ出せし隠名(かくしな)といへり。ばか書(かき)て十九日といふ字体にちかきゆゑともいへり。(1)
山猫は、本所回向院前や牛込赤城神社などの社寺地内にいた密淫売婦の称。隠名は実名を避け別名で呼ぶことをいうが、ここの場合は隠語(いんご。仲間内だけで通じる言葉)の意。赤城神社の縁日が19日。漢字の十九日をくずして書くとたまたま変体仮名の「者可(ばか)」と字形が類似する。それで馬鹿者を十九日という隠語で呼んだのだろう。
なお、江戸時代には数字のはいったいろいろな商売があった。四文屋(しもんや)、十九文屋(じゅうくもんや)、十七屋(じゅうしちや)など。四文屋・十九文屋は4文・19文で商品を売ったから。十七屋は飛脚屋の異称。十七夜=立待月(たちまちづき)を手紙が「たちまち着く」と洒落たのだ。(2)
【注】
(1)大田南畝『奴師勞之』(九州大学中央図書館所蔵)、出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100348508。
(2)渡辺信一郎『江戸のおしゃべり、川柳にみる男と女』2000年、平凡社新書、P.211〜212. |
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2025年3月26日(水) |
悪ふざけが過ぎる |
禅宗寺院の門前によく掲げられている標柱。そこには「不許葷酒入山門」の七文字が彫り込まれている。これは「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と読んで、仏道修行の妨げとなる五葷(ごくん。五辛とも。長ネギ、ラッキョウ、ニンニクなど臭いの強い野菜)や酒等を寺域内に持ち込まないよう禁止したものだ。
この標柱に対し、大谷木醇堂は次のような個人的な意見を持っていた。
「通り抜け無用」と書いてあるところを通行しても、だれも咎めず黙視するのがならい。そもそも制札などというものは案山子(かかし)のカラスおどしと同じ。ワシやタカなどの攻撃にあえば何の役にも立たない、と。
個人的な見解は人それぞれだから構わない。ところが、醇堂は先手組の仲間らと酒を飲んだあげく、駒込の吉祥寺(曹洞宗)に闖入して僧侶を呼びつけると、「不許葷酒入山門」というのならその禁戒を破った俺たちを処分しろ、処分できないのなら「不許葷酒入山門」の標柱を取り捨てる、と無理難題をふっかけたのである。
我輩等(わがはいら)かくの如く酒を飽(あく)まで呑(の)ミ、魚鳥を十分に食し、にら・にんにくを沢山に食ひ、その上握り屁を為してこの門に入れり。
汝(なんじ)賣子坊主(売僧(まいす)坊主。僧侶を罵っていう語)ども法によつて処分せよ。我輩また手を動かす所あらむ。もし又これを正すあたはずんば標石は廃物(はいぶつ)也。取除(とりのぞき)て捨(すつ)べし。如何(いかに)、如何(いかに)。
相手は酔っ払いの侍集団である。何をされるかわからない。理不尽な要求に対し、穏便に済ませたい僧侶は平身低頭するしかなかった。僧侶をあやまらせて溜飲を下げた酔漢たちは、大笑いして門を出ると「不許葷酒入山門」の標石を押し倒しにかかり、これまた僧侶にとめられた。
酔っ払っていたとはいえ醇堂たちの行動は、侍身分を笠に来た鼻持ちならない傍若無人なものだった。そんなことにも思いが至らず、してやったり顔にこうした悪ふざけを記録するとは、傲慢かつ幼稚以外の何ものでもない。
【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29、26〜27コマ目。
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2025年3月25日(火) |
雀と燕 |
雀の前生その人たりし日に嫁(か)して他に在りしが、父の大漸(たいぜん。病が次第に重くなること)を告げ来るに及んで吐哺握髪(とほ・あくはつ。食べかけたものを吐き、洗いかけの髪を握って。非常に急ぐさま)、促装疾歩(そくそう・しっぽ。急ぎ旅支度をし早足で行く)してこれを省(帰省)し、臨終の間に合いたるをもって後世の宿縁この鳥と成るも、その形容綵色(さいしき。いろどり)美ならざるも、なほ人と同じく米を餌(えさ)として生活す。
燕はこれと異也(ことなり)、父危篤(きとく)の報を聞くもなお粉飾點紅(ふんしょく・てんこう。粉はおしろい、紅はべに。美しく化粧して)、衣装を繕(つくろ)ひ、徐歩緩行(じょほ・かんこう。徐歩も緩行もゆっくり歩くこと)、その瞑(めい)する後に達す(父親が死んだあと家に到着した)。ここをもって後生(ごしょう。のちに鳥に生まれ変わって)美艶(びえん)の羽采(うさい。羽のいろどり)あるも土塊(つちくれ)を食(く)ひ、飛走(ひそう)煩(わずら)はしく心を休息せずと。(『醇堂叢稿』)
動物昔話のひとつに小鳥前生譚(ことりぜんしょうたん)という物語群がある。小鳥は前世において人間であったが、小鳥に生まれ変わったのちも、前世の行為のためにその報いを現にうけ続けていると語るものだ。小鳥の姿・習性・鳴き声等の由来を説明する一種の因果応報譚である。
大谷木醇堂が紹介しているのは「雀孝行(すずめこうこう)」と呼ばれる昔話だ。雀と燕の対照的な容姿の由来を説明するとともに、親孝行によって雀が米をついばみ、親不孝によって燕が土をついばむようになったと語られる。
教訓めかした由来譚であるが、これは日本人の多様な自然観の一面しか伝えていない。たとえば、農民目線にたてば、雀は稲に群がる撃退すべき害鳥であり、燕は害虫を捕食する保護すべき益鳥とその見方も変化する。燕を幸福のシンボルと見なす思想があるのも、益鳥保護の方便と解釈できる。
「雀孝行」では「親不孝な小鳥」というレッテルを貼られた燕。しかし、われわれはむしろ燕を「子煩悩な小鳥」と見なし、燕に好意を寄せてきた。
そもそも燕は夏鳥としてわが国に飛来し、外敵を避けるため、あえて人里で生活するという変わった渡り鳥だ。田畑の土塊・藁等を運んではわざわざ人家や納屋の軒先で営巣する。だからそこでは、子への給餌など育雛の様子を間近で観察できる。それが燕=「子煩悩な小鳥」という認識をわれわれの中に育んだ大きな理由だろう。
大谷木醇堂も「その児(こ)をおもふ、まさにかくこそありたけれ」と燕の愛情を絶賛し、蕉門の俳人松倉嵐蘭(まつくら・らんらん。1647〜1693)の次の句を書きつけている。
つばくろや 子をおもふ身のひまもなし
【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。32〜33コマ目。
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2025年3月23日(日) |
弁当を持参するわけ |
江戸城本丸の台所は表・中奥・大奥の三か所にあった。このうち、江戸城勤務の諸役人衆への食事を調理していたのが、表の台所(表台所)だった。つまり、役人なら無料で食べられたのだ。それなのに、弁当を持参する役人衆が多かったという。なぜだろう。
それは、ここで出される食事があまりにもひどいものだったからだ。(1)
表台所で出される食事は、メニューが貧弱な上まずかった。さらには箸・椀・膳といった食器類から部屋までもが不潔で、とても食べられるような代物ではなかった。(2)そのため、みんながこれを食べなくなり、自ずと弁当を持参するようになったという。
それにしても不思議なのは、そんなにまずい食事を、なぜ台所役人たちは作り続けたのだろう。
それは、使用されなかった食材や残った料理が、すべて台所役人の役得になったからだ。彼らはそれらを自宅に持ち帰って消費したり、他所へ転売したりしたという。(3)
つまり、調理する食事がまずかろうがうまかろうが、作りさえすれば役得があったわけだ。そのため、いつしか作業をこなすだけになってしまい、楽な方へ楽な方へと流れてしまったのだろう。
しかしだからといって、彼らに台所役人としてのプライドはなかったのだろうか。少々役得が減ったとしても、料理の腕を磨いてうまい食事を提供し、役人衆に喜ばれた方がやりがいがあるように思うのだが。
【注】
(1)戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』2021年、東京堂出版、P.202。
(2)「あれやこれや2024」2024年2月12日(月)付け参照。
(3)戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』前出、P.204。
【追記】
氏家幹人氏の『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.146~148には「御台所勤仕の小吏」の役得の驚くべき実態が書かれている。御台所から持ち帰る食材は自宅で消費してもあまるので、親類・知己・隣人にまでおすそ分けする。食材・調味料はおろか、薪炭や陶器・漆器といった調度品類もすべて御台所から持ち帰る。そのため、自分で買う物は衣服以外はなかったというのだ。(2025年4月2日) |
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2025年3月22日(土) |
そこまで言わなくても |
江戸っ子を評した言葉には、喧嘩早い、宵越しの金はもたぬ、威勢がいいなどがある。しかし『醇堂叢稿』における江戸っ子評はさんざんだ。
江戸ハ大将軍居城の都會なれども、馬鹿もの・狡猾輩(こうかつはい。悪賢くずるいやから)の多く住む所にして、頼母(たのも)しき人物至て少なき所也。
第一かゝり気強くしてもの見高く、出火ありと聞けバすミやかにかけ出してその場に至り、おのれが家の火のもとを心付くる事無く、葬式が通るを見れバ駈け出し、たちまちの人の山を為す。これらの徒を俗に呼んで、おひそれもの(軽薄な人)と云ふ。
第一に虚飾を主として実意無く、衣服の美麗に低頭して、その人また衣服のために尊大倨傲(そんだい・きょごう。横柄でおごりたかぶる)をかざる。実にらちも無き没字漢(ぼつじかん。文字も知らぬ教養がない人)のミ住む魔界にぞ有ける。
(江戸は大将軍の居城がある都会だが、馬鹿者やずるがしこい人びとばかりが多く住み、信頼できる人びとがいたって少ない場所だ。
第一、周りが気になって仕方なく、物見高い。火事だと聞けばすぐさま駆け出して現場にいたり、わが家の火の元には心が及ばない。葬式が通ると見れば駆け出し、たちまちのうちに人だかりができる。こうした連中を世間では「おいそれ者」とよぶ。
第一に見栄ばかりにこだわり誠意がなく、衣服も美麗な者に対しては平身低頭し、見すぼらしい者にたいしては横柄な態度をとる。まことにどうしようもない無教養人が住む魔物の世界だ)
上の史料では江戸っ子を馬鹿者、狡猾輩、おいそれ者、没字漢と罵っている。気の毒なほどのこき下ろしようだ。
【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29、54コマ目。 |
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2025年3月21日(金) |
言葉をうしなう |
桜の季節だ。一斉に開花するソメイヨシノの花のトンネルも、山桜がパッチワークのように山々をいろどる里の風景も美しい。
人は絶景に出会うと感動のあまりに言葉をうしなう。
言葉をうしなうといえば、江戸時代初期の俳諧師、安原貞室(やすはら・ていしつ。1610〜1673)の桜を詠んだ次の句が有名だ。
これはこれはとばかり花の芳野山(よしのやま) 貞室
「これはこれはとばかり」は感嘆のあまり言葉も出ないありさま。古浄瑠璃に頻出する常套表現だったため、当時の人びとにとっては馴染みのある言葉だった。ただし、通常では悲嘆に暮れる場合に用いられるフレーズだったという。
そうしたマイナスイメージを帯びた用語であるのを承知で、「感動のあまり言葉をうしなった」と、全山桜の泣きたくなるような美しさを表現するフレーズに転用したのだった。
大谷木醇堂はこれを次のように評している。
安原貞室が「これはこれは」の句上乗(じょうじょう。このうえなくすぐれている)を占め得て、後人(こうじん)に詞(ことば)無からしむ。
吉野山の桜を詠んだ句といえばこの句の右に出るものはない。後世の俳人たちがいかに吉野山の桜の美しさを讃えようが、もはや貞室の句を越えることできないのだ。
よって、吉野山の桜を詠むことは、後世の俳人たちにとっては徒労でしかない。そんな俳人たちの落胆ぶりを詠んだ句が次。
貞室に縄張りされた吉野山 作者不明
貞室は後世の俳人たちに、言葉をうしなわせたのだ。
【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29、30コマ目。 |
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2025年3月19日(水) |
里芋の値段 |
江戸時代、芋といえば里芋を指した。その名は、山芋(自然薯)に対する「里の芋」に由来するという。大混雑のたとえ「芋を洗うような」の芋も里芋のことだ。
里芋はうまくて安い、江戸庶民にとっては馴染みの食材だった。
ところで安価というものの、一体いくらで売られていたのだろう。里芋の値段の変遷について、柳亭種彦が考証している。
まずは貞享元年(1684)の画本に、次の発句が載っているという。
月千金 芋一升や十五文
値千金の月とは、もちろん旧暦8月15夜の月。中秋の名月は別名「芋名月(いもめいげつ)」。このころ里芋1升(約1.8リットル)は15文だったのだ。種彦によると、その後の里芋の値段の変遷は子どもの手毬歌からわかるという。
天明・寛政の頃、童(わらべ)の手毬つく歌に 「いもいも、いもいも、芋屋さん。お芋ハ一升いくらじやへ。二十四孝(にじゅうしこう)でござります。十六羅漢(じゅうろくらかん)に負(まけ)さんせ」 と歌ひしハ、おふよそ二十四文が一升の定價(ていか)にて、ときとして十六文にも賣る事のありし故(ゆえ)なり。
つまり、天明・寛政(1781〜1801)の頃は里芋1升が24文で、16文(ソバ1杯の値段)で売ることもあったというのだ。
その後時代が下るにつれ、手毬歌のなかの芋の値段も変化していった。文化頃(1804〜1818)には芋の値段は24文のみとなる。16文ではもはや買えなかったのだ。そして、天保頃(1830〜1844)になると32文からほどなく64文に跳ねあがり、ついには100文を越えてしまったという。
つまり里芋は、1700年頃は1升15文ほどで売られ、100年たった1800年頃であっても1升24文ほどだった。物価の優等生である。それがその後の30〜40年の間に、やすやすと100文を越えてしまったというのだ。
これについて種彦は 「(里芋の)一升の價(あたい)百餘銭(100文余り)になりたれども、語呂のわろきゆへかそれをバうたひしを聞」 かないと、芋の急激な価格上昇に子どもの手毬歌が追いつかなくなった状況を述べている。もはや里芋は庶民が気軽に口にできる食べ物ではなくなっていた。
いつの世も物価高に泣かされるのは庶民である。
【参考】
・柳亭種彦『柳亭記』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:辰-6。10〜11コマ目。 |
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2025年3月17日(月) |
包銀詐欺 |
『寛政紀聞』に次のような話がある。(1)
小普請組に井出岩次郎という男がいた。ある日、井出は石町(こくちょう。現、東京都中央区日本橋本石町)辺にあった両替屋へ包銀(つつみぎん)を持ち込み、換金を依頼した。
包銀とは一定額の銀貨を和紙で包み、その表に額面・包封者を墨書して封印したものだ。この時代、商取引きで高額な金貨・銀貨を扱う際は、包金・包銀という貨幣形態で流通したのである。
さて両替屋が包銀の表書きを改めると、銀座の責任者後藤氏が署名・封印したものにいささかも相違なかった。そこで換金に応じたのだった。
しかしその後、両替屋では少額の銀貨が必要にでもなったのだろう、包銀の封印を開いて中身を取り出したのである。すると、中から出てきたのは鉛でこしらえた偽物だった。
あわてて町奉行へ訴え出えると、犯人はすぐに召捕られた。
そもそも包金・包銀という貨幣形態は、表書きの大きな信用の上に成り立つ仕組みだ。そのため「原則とし市中では開封して内容を検めることをしない」(2)のが慣例だった。井出はこれを悪用したのだ。
「包銀は中身を改めないから犯行が露顕することはあるまい」という思い込みが、詐欺師の命取りだった。
【注】
(1)吉田重房『寛政紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。465〜466コマ目。
(2)山口健二郎「江戸期包金銀について」要旨、1996年、日本銀行金融研究所、IMES Discussion Paper 96-J-3。 |
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2025年3月15日(土) |
勘定所の文書整理 |
勘定所には全国から租税関係の書類をはじめ、多種多様な文書が殺到する。(1)しかもそれらの文書は、長期保存しなければならないものばかり。その結果、年々膨大な文書が集積されていく一方。そこで困ったのが収蔵場所だ。
勘定所の古文書・古記録類は竹橋御蔵内の書物蔵に積みあげられていた。しかしそれだけでは収納し切れないので、大手門の多聞櫓(たもんやぐら。細長い長屋造りの櫓で、通路兼武器倉庫等の役割もあった)や桔梗門(ききょうもん。内桜田門)の櫓にまで古い文書を押し込んでいたのだった。
それでも年々増え続ける文書類。さすがにこのままはまずいと思ったのか、幕府はついに勘定所文書の整理に着手する。
こうして寛政12年(1800)、御勘定所諸帳面取調御用(しょちょうめんとりしらべごよう)が任命された。そのひとりが、あの大田南畝(おおた・なんぽ。当時南畝は支配勘定。1749〜1823)。よって南畝は、10人あまりの同僚とともに竹橋の書物蔵にこもり、文書整理に奮闘することになったのだった。(2)
さて、勘定所の文書は、桔梗門や大手門の櫓にも分散保存されている。そこで文書整理のため、桔梗門へは通わねばならない。しかし、大手門は人の出入りが繁く、通うには不便だった。そこで、大手門多聞櫓に収蔵してある文書を、竹橋の書物蔵に移すことにした。しかし運び込んでみると、そのすさまじい数量に気圧されてしまうのだった。
追手(おうて。大手門)は出入の人しげく便あしければ、こめをく所の長櫃(ながびつ。その中に文書・記録類を保管)百にあまれるを、みな竹橋のみくら(竹橋にあった勘定所の書物蔵)にうつしぬれば、一堆(いったい。うずたかく積み重なっているさま)の反古(ほご)、山の上にまたやまを、かさねあげたらん心地ぞする(3)
やってもやっても終わりの見えない整理作業。南畝の次の狂歌は、こうした文書整理に明け暮れた日々を託って詠んだものだ。
五月雨(さみだれ)の日もたけ橋の反故(ほご)しらべ 今日もふるてふ あすも古る帳(4)
(日が「闌(た)け」る(日が高くのぼる)に「竹」橋(勘定所の書物蔵)を、「今日も明日も五月雨が降り続く」の意に「今日も明日も古帳調べが続く」の意を掛ける)
それでも苦労のかいあって、文書整理は順調に進んでいったのである。
ところで、文書整理が進むと大量の不用文書が発生する。それらの反故は一体どこに消えたのだろうか。
答え。それらの反故は石川島(隅田川河口に築いた島)に送られたのである。
寛政2年(1790)、石川島に創設された人足寄場は、引受人がなく、農村へ人返しのできない無宿人(実際は収容者の大半は軽犯罪者)を収容した施設だ。無宿人を収容することで江戸の治安維持をはかるともに、大工・左官などの職業訓練をおこなって彼らの社会復帰を目指した。その職業訓練のひとつに紙漉きがあった。
幕臣森山孝盛(もりやま・たかもり)の随筆『蜑の焼藻の記(あまのたくものき)』に次のような記載がある。
紙は漉(すき)かへしにて、嶋紙(しまがみ)とて是(これ)も世上に云(いい)ならしたりしかど、名の正しからざるをきらひて、多くは江戸にて用いざりけり。本多霜台(そうだい)なんどは反古をあつめて嶋(石川島の人足寄場)へ遣(つかわ)してすかせられけり。(5)
つまり、反故は再生紙の原料とされたのだ。当時の反故は墨で書かれていたため、再生紙にするとどうしても色が黒ずんでしまう。そのため質の悪い安価なものは落とし紙(トイレットペーパー)として用いられた。
なお、史料中の本多霜台は、老中格本多忠籌(ほんだ・ただかず。1740〜1813)のこと。霜台は弾正台の唐名。忠籌は弾正大弼(だんじょうだいひつ)だった。
【注】
(1)飯島千秋「江戸幕府勘定所と勘定所諸役人」横浜商大論集第54巻1.2合併号、2021年、P.56〜57。
(2)国立公文書館HP、デジタル展示「旗本御家人」(平成21年春の特別展「旗本御家人」を再編集したもの)の『竹橋蠹簡』・『竹橋余筆』の解説。
(3)大田南畝『竹橋余筆』序文--大田南畝著・国書刊行会編『竹橋余筆』1917年、国書刊行会、P.71。
(4)喜多村香城著「五月雨草紙」-国書刊行会編『新燕十種・第二』1911年〜1913年、国書刊行会、P.94。国立国会図書館デジタルコレクションによる-
(5)森山孝盛『蜑の焼藻の記』写本、1879年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:166-0185。94コマ目。 |
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2025年3月12日(水) |
隅田川、凍る |
現在の東京はヒートアイランド現象やら、気候温暖化やらで冬でも気温が高く、雪が降っても滅多に積もることはない。
しかし、江戸時代の江戸は今より格段に寒く、雪もよく降ったし、隅田川も安永2年(1773)、同3年(1774)、同9年(4月に天明改元。1781)、文化9年(1812)といく度も川の水が凍ったという。江戸時代は比較的寒冷な小氷期のなかにあったのだ。(1)
さて、隅田川が凍結したとはいうが、いったいどの程度のものだったのか。茨城県の大子町(だいごまち)では冬、凍ってシャーベット状になった氷が川を流れる。これを地元ではシガとよぶ。隅田川の場合もシガが流れたり、川べりで薄氷が張る程度だったのだろうか。
隅田川が凍ったおりの記事が『浚明院殿御実紀』に残っている。安永9年(天明元年。1781)正月4日、10代将軍家治は行徳村(ぎょうとくむら)辺りへ鷹狩りに出かけた。しかし、この日はひどく寒かったため川の水が凍結し、将軍が乗った船を通すことも困難だったという。(2)
『縮地千里』にも同日のやや詳しい記事がある。原文で示そう。
此日(このひ。天明元年正月4日)至而之寒氣(いたってのかんき)強く、両国大川(隅田川)より小名木川通(おなぎがわどおり) 御通船之所(ごつうせんのところ)、所々川水氷り詰(づめ)御舟通り不申候(もうさずそうろう)ニ付(つき)、役舟(やくぶね)ニて人足夥敷(おびただしく)罷出(まかりいで)、御舟手方(おふなてかた)差圖(さしず)ニて氷を打砕(うちくだ)き申候(もうしそうろう)。漸(ようや)く御通船有之候(ごつうせんこれありそうろう)。(3)
隅田川に張った氷は、大勢の人夫を動員して打ち砕かねば通船できぬほど、かなり厚い氷だったのだ。江戸時代こそ、砕氷船が欲しかっただろう。
【注】
(1)竹内誠監修・市川寛明編『地図・グラフ・図解でみる一目でわかる江戸時代』2004年、小学館、40〜41ページ。
(2)『浚明院殿御実紀』巻44、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:特075-0001。3〜4コマ目。
(3)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。95コマ目。 |
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2025年3月10日(月) |
天狗の無心 |
金沢城下より5里ほど離れた山中に「天狗の森」があり、その奥には観音堂があったという。観音堂には、願掛けのある参詣人がよく訪れた。
ある日、城下に住む八兵衛という裕福な町人が、くだんの観音堂に願掛けにいった帰りのことだ。天狗の森を通ったとき、突然樹上からおびただしい羽音をさせて何者かが飛び降りてきた。見ると、まるで絵に描いたような天狗だ。恐ろしさに八兵衛は逃げることすらできない。すると天狗は、八兵衛に向かって無心を言い出したのである。
「おまえに頼みたいことがある。このたび、よんどころない理由で金が必要となった。ついては3000両を俺に貸せ。3年後に2倍にして返す。もしも承諾しなければおまえの家を焼き払うばかりか、おまえの子孫を根絶やしにしてくれる」
とんでもない押借りだった。金を貸すことを脅迫された八兵衛は、ほうほうの体でその場をあとにした。そして、帰宅するや番頭に事情を説明したのである。
気が動転している場合、冷静な第三者に話すことは有益だ。主人の話を聞くと番頭は次のように答えた。
「それは本物の天狗ではないでしょう。本物の天狗なら金の必要などはありますまい。盗賊などが変装して、金銭を奪い取ろうとだましているのかもしれません。まずは内々で役所に相談しましょう」
こうして八兵衛は、番頭の助言にしたがって役所に相談に行った。その後番頭とともに約束の金を天狗の森へと持参した。この時八兵衛らのうしろでは、捕手(とりて)30人ばかりを引連れた役人がひそかに様子をうかがっていたのである。
さて、八兵衛たちが約束の場所に到着すると、樹上から5、6羽の烏天狗が飛び降りてきた。そして八兵衛らから金を受け取ると
「この金は3年後には2倍に殖やして返してやるから楽しみに待っていろ」
と言い捨てるとかたわらの藪の中へと姿を消した。
その後、役人たちが天狗どもの跡をつけて進んでいくと、数丁を隔てて一つの洞穴があった。そこで洞穴内に突入すると、果たして盗賊どもの根城だったのである。
召捕った盗賊たちを明るい場所で見てみると、頭には毛を植えた烏天狗の面をかぶり、本物の鳥の羽毛をまとって全身を天狗の姿に似せていたのであった。洞穴内からはあまたの盗品が発見された。その後盗賊どもが厳しく罰せられたのは言うまでもない。
こうして八兵衛は、天狗に奪われた金を直ちに取り戻すことができた。これも番頭の助言のおかげだった。
詐欺に合わないようにするためには、第三者の冷静な判断が大きな助けになるのは昔も今も変わらない。
【参照】
・吉田重房『寛政紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。452〜455コマ目 |
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2025年3月4日(火) |
貝を食べて長生き |
貝は低脂肪ながらタンパク質を豊富に含む栄養価の高い食材だ。『寛政紀聞』には、貝を食べて長生きした女性の風聞が記録されている。
越前領に住む百姓何某(なにがし)の後家は異常なほど長命だった。その容貌はどう見ても40歳ほどだったが、実年齢は何と600余歳。その証拠に、600年来このかたのことはおおよそ記憶していて、人びとに物語ったという。
それにしても、彼女はどうやってこれほどの長命を手に入れたのだろうか。
本人の言によれば、大飢饉の折り食べ物をさがしに山に入り、そこでホラ貝を見つけた。それを掘り出して食べると無病息災となり、これまで生きてこられた。そこで後家はこのホラ貝を保良大明神として祭り、尊崇してきたのだと。
この話に興味をもった越前公は、くだんのホラ貝を江戸屋敷まで取寄せたという。すると、この噂を耳にしたのが一橋公。早速越前公に掛け合い、是非にとホラ貝を借用した。そしてホラ貝で酒を飲み、後家の長命にあやかろうとしたという。
しかし、長生きするのもよいことばかりではない。
後家はそれまでに20人あまりの夫を持ち、数多くの子どもを産んだ。しかし、自分ひとりが異常に長生きしすぎたため、後家の生存中に係累はみな死に絶えてしまったという。
ところで、この話は何とも胡散臭い。600余歳という年齢からしてありえないし、そもそも海に生息するホラ貝を山中から掘り出して食べたなどと言っているのだから。
ホラ大明神だけに、「嘘八百」ならぬ「ホラ六百」とも言うべきホラ話だったか。
【参照】
・吉田重房『寛政紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。444〜445コマ目。 |
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2025年3月2日(日) |
筆算吟味 |
江戸幕府の官吏の逸話を集めた『流芳録』に、神谷久敬(かみや・ひさよし。1672〜1749)の逸話が収められている。神谷は御家人株を買って御家人になると「支配勘定御吟味(しはいかんじょうごぎんみ)」という選考試験に合格して勘定所の下級役人となり、そこから頭角をあらわしてついには勘定奉行にまでのぼりつめたという。
(神谷久敬は)甲州の百姓の二男。少年の時より学問好き、算筆(計算と読み書き)にも達し仕官の望ありしゆへ、金子少々持(きんすしょうしょうもち)江戸へ出て、西丸御切手同心(にしのまるおきってどうしん)の明(あ)きを買候(かいそうらい)て相勤(あいつとむ)る内に又金子を貯へ、御徒(おかち)の跡を買候て相勤(あいつとめ)ける。
算筆は元より達者なれば、御徒の内より支配勘定御吟味の時に撰(えら)ばれ支配勘定になり、段々精出し相勤(あいつとめ)、御勘定 仰付(おおせつけ)られ百五十俵下さる。( 中略 )其後(そのご)帰府いたし候処(そうろうところ)、新地百石下され御勘定吟味役 仰付られ、享保の末(享保19年(1734))御勘定奉行 仰付られ志摩守に任官、三千石下され候なり。(1)
ここで注目すべきは、門閥制度が幅をきかせていた江戸時代に、勘定所では選抜試験を実施して役人を採用していたことだ。実際、勘定所は算筆の能力・実力がなければ勤まらない役所だった。その半面、能力・実力がありさえすれば、いくらでも昇進がのぞめる部署でもあったのだ。(2)
さて寛政年間になって、勘定所で実施された試験を筆算吟味といった。学問吟味・素読吟味と同じく、寛政改革の文武奨励策のひとつとして設けられた試験制度だったのだろう。しかし、勘定所ではそれ以前から筆算吟味同様の選考方法(支配勘定御吟味)があったことが神谷久敬の例からも知られる。
筆算吟味のおもな対象者は御家人だった。しかし試験そのものの詳細はわからない。史料も、大田南畝(1749〜1823)がたまたま書き残した息子定吉(18歳)の受験記事くらいしかない。とりあえずは南畝が書き残した記事を見てみよう。
定吉の筆算吟味受験は、寛政9年(1797)7月24日のことだった。南畝は前年の寛政8年(1796)、御徒(おかち)から支配勘定に転じたので、勘定所関係者の子弟に受験勧誘の声がかかったのかも知れない。当日の受験名簿にも「支配勘定頭御徒押 金井喜四郎」「御勘定奉行支配無役 大塚孝之助」「支配勘定彌司右衛門惣領 丹波吉太郎」「支配勘定格栄左衛門惣領 吉川八十八」という肩書きが見える。試験2日前(7月22日)の記事が次。
明後廿四日筆算御吟味御座候由、忰(せがれ)定吉も罷出候旨(まかりいでそうろうむね)杉江勘兵衛申聞(3)
筆算吟味当日は目付や奉行衆・勘定吟味役らが残らず出席したというから、試験はかなり厳格に実施されたらしい。7月24日の記事が次。
今日筆算御吟味有之、忰定吉同道、朝六つ半時(午前7時)頃出宅、御目付〈割書「横田、森川」〉・奉行衆・吟味役衆不残(4)
なお、南畝は当日受験者54名について、受験生の姓名・年齢・父親の名を記録している。ほぼ全員が跡継ぎの男子(惣領か養子)である。これらのデータのうち、年齢について見てみよう。
年齢が判明しているのは51名。最年少17歳から最年長43歳までと幅があるのは、試験制度が発足して間もなかったからだろう。下級役人選考のための試験という性格上、若い受験者が多かったと見られる。実際に彼らの年代別人数を見てみると、40歳代7名(14%)、30歳代11名(21%)、20歳代24名(47%)、10歳代9名(18%)となっている。やはり10代・20代の若者が多く、受験者の平均年齢も27.5歳だ。(5)
なお、勘定吟味役・佐渡奉行・小普請奉行・大坂東町奉行・勘定奉行・外国奉行など幕府要職を歴任した川路聖謨(かわじ・としあきら。1801〜1868)も御家人出身で、筆算吟味を経て勘定所入りした。川路が筆算吟味に合格したのは17歳の時である。
【注】
(1)内山温恭編『流芳録・第14巻』、「御勘定 神谷志摩守久敬」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
(2)勘定所が下士でも昇進可能な役所だった理由について、藤田覚氏は次のように述べている。
「複雑で難しい幕府の財政の運営、しかも財政が悪化してきた段階での運営はますます難しくなり、有能な者がいなければやっていけなかった。それ故、経理の才、経済・財政政策の立案にたけた役人が頭角をあらわす実力主義の役所になった。それが、能力のある下士がトップにまで上り詰めることができた理由である。」(藤田覚『日本近世の歴史4・田沼時代』2012年、吉川弘文館、P.43)
(3)(4)(5)大田南畝『寛政御用留』-蜀山人全集・巻2、1907年、吉川弘文館、P.367〜368- |
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2025年2月28日(金) |
秘密基地? |
寛政2年(1790)2月のある日、牛込御門の御堀への水抜き穴から煙が出ているのを見つけた者がいた。水抜き穴から煙が出るなど、どう考えてもおかしい。早速奉行所へ届け出た。
とりあえず役人がやってきて、くだんの水抜き穴の中へ人を入れて内部を調べさせた。
すると驚いたことに内部には横穴が掘られ、そこに家作がなされていたのである。畳や建具も備わり、箪笥は3棹あった。そのほかにも数々の品物がたくわえてあって、長年にわたり人が居住していたことがうかがえた。しかし、住人の姿はどこにも見当たらなかった。
結局奉行所では「盗賊の所為(しょい)ニ紛(まぎ)レ無之(これなし)」と判断し、品物をすべて運び出すと、建物を取り壊したのである。
それにしても場所が場所である。こんな場所に住処をしつらえてモグラのように潜伏していたのは、一体どこの誰だったのだろう。
【参考】
・吉田重房『寛政紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。433コマ目。 |
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2025年2月27日(木) |
清正の手形 |
疫病の正体が不明で有効な治療法が明らかでなかった時代、どうしても迷信頼みや神仏頼みになりがちなのはやむを得ない。
そうした人びとが藁にもすがる思いで求めた護符にひとつに、加藤清正の手形がある。
安政年間猛威をふるったコレラは、致死率の高い原因不明の病として当時の人びとに恐れられた。罹病すると三日でコロリと死ぬといい「三日コロリ」といわれた。コロリはまた「虎狼刺」と当て字された。虎狼のように恐ろしい死病の意である。(1)
そんな虎狼になぞられた死病に対抗できる者は、歴史上虎退治で勇名を馳せた加藤清正のほかいまい。人びとはそう連想したのだ。そこで清正の大きな手形を門柱に貼るなどして、疫病退散を願ったのだった。(2)
もはや歴史上の英雄の武威にすがるくらいしか、当時の人びとになす術はなかったのだろう。
【注】
(1)「あれやこれや2025」2025年1月19日(日)付け「幕末のパンデミック」参照。
(2)内藤記念くすり博物館HP「2001年4月25日~11月25日 開館30周年記念特別展 展示資料紹介の「加藤清正の手形、安政5年(1858)」。 |
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2025年2月25日(火) |
風邪のなまえ |
江戸時代の人びとは、その時々に流行した風邪を「稲葉風」とか「お駒風」、「お七風」などとニックネームで呼んでいた。時には同じ風邪を、さまざまなニックネームでよぶこともあった。
たとえば、天明元年(1781)11月に時流行した風邪は、最初「信濃風(しなのかぜ)」(名称の由来不明)とよばれた。ほとんどの老中が風邪のため欠勤し、登城して政務を行ない得たのは大和守(久世広明。1732〜1785)ひとりだけだったという。
月も半ばになると、風邪の名称は「三枡風(みますかぜ)」と変わる。三枡とは、大中小三つの枡を入れ子にした模様のこと。治っても三度までは引き返す、という謎である。
この風邪は咳も出たので「谷風(たにかぜ)」ともいった。谷風は関取の谷風梶之助(たにかぜ・かじのすけ。1750〜1795)のこと。関取に咳を掛けたのだ。
また「古くぎ風」ともいった。錆び付いた古釘は、釘抜きで抜こうとしてもなかなか抜けない。いったん引いてしまうと、なかなか抜けない(治りきらない)風邪という意味だ。
【参考】
・吉田重房『天明紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。396コマ目 |
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2025年2月22日(土) |
上司も部下もバカばかり |
田沼意次が失脚し、松平定信が政権の座に就いた。定信は寛政改革を断行するにあたり、まずは風紀の引き締めにとりかかった。文武奨励と倹約を幕臣たちに申し渡し、物見遊山や歌舞音曲など遊芸のたぐいを一切禁止した。
世間一時ニ被行候者(おこなわれそうろうもの)ハ学問・武芸・節倹の三ツにて、格別厳重の被仰出(おおせいだされ)なり。遊山観水(ゆさん・かんすい)の類(たぐい)・歌舞の芸ハ一切(いっさい)御停止(ごちょうじ。禁止)。(1)
その結果、
武家・町ともに音もなく、往還(おうかん)を通り候(そうろう)馬かたの鼻歌、道中の雲助(くもすけ。交通労働に携わった無宿の人足)が尾張名護屋(名古屋)の長持唄(ながもちうた)もいつしか止(や)メになり、男女の芸者・座頭・ごぜ(瞽女)・こわ色つかゐ(役者の声真似をする芸人。声帯模写)の類(たぐい)、上(あ)ガツタリ、バツタリ(商売あがったりでどうしようもない)。( 中略 )芝居も武家の見物とてハ壱人もなく(2)
といった有様。町からは賑わいがすっかりなくなり、まるで火が消えたよう。
代わって、町のあちらこちらから聞こえてくるのは、剣術稽古の掛け声や経書の講釈ばかり。文武奨励をモットーとする定信は、そんな人びとの中から積極的な人材登用をおこなおうとした。
しかし、理想と現実は往々にして乖離する。
木刀を振り回したり中国古典を読んだりする能力は、役人の実務能力とあまり関係がないからだ。
たとえば、幕府財政を担当する勘定所の役人なら、馬術に巧みであるよりも、正確で素早い計算能力や緻密さなどが必要とされるだろう。また、大奥の管理・警衛にあたる御広敷向(おひろしきむき)の役人なら、四書五経が講釈できるよりも、段どりのうまさや渉外能力の高さなどが求められよう。
こうした現実を無視した定信の人材登用の実態を、『縮地千里』の筆者は次のように批判する。
近頃の御役替(おやくがえ)もどれどれとても(どれをとっても)、劔術遣(けんじゅつつかい)の、儒者ジヤのとのもの計(ばか)り。御入用場所(おいりようばしょ。人材を必要とする部署)の役人ニハキツイ点違ひ(とんでもない料簡違い)。ナツタ所が「塗盆(ぬりぼん)にひき蟇(がえる」)(3)、堅(かた)ひ計(ばかり)で一向用ひられず(堅苦しいばかりで一切使えたものではない)。
此(この)通りニ成行候(なりゆきそうら)ハバ、御入用場所ハ奉行も下(し)タもバカ者揃(ぞろ)ひニ成可申哉(なりもうすべきや)。(4)
最近の人事を見ると、採用されるのは剣術使いや儒者ばかり。彼らを迎える部署としては、とんでもない大ハズレ。配属された新人は、真面目だけが取り柄のポンコツばかり。これではそのうち、役所は上司も部下もバカばかりになってしまうだろう、と。
定信は、自身が打ちだした文武奨励策に拘泥するあまり、人事の本質を見失ったのだ。(5)
【注】
(1)吉田重房『天明紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。421コマ目。
(2)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。138コマ目。
(3)「塗盆に載せた蛙」「盆に載せた蟇(ひきがえる)」とも。もともとは畏縮するさま、すくんで動けない状態を形容する諺(前田勇編『江戸語の辞典』参照)。
(4)『縮地千里』前出、139コマ目。
(5)定信は、文武に長じた者たちの中から人材を登用しようとした。そのため、出世の糸口をつかもうとする武士たちが武芸の稽古場に殺到した。『縮地千里』(208〜209コマ目)には次のようにある。
何か越中様(松平定信)ハ劔術(けんじゅつ)がおすきそふで、所々ニて毎日毎日、やつとうやつとう(剣術のかけ声)。其外(そのほか)弓馬の稽古。江戸中いづれの馬場ニても馬の建所(たつところ)なし。的場(まとば。的をかけ弓・鉄砲を練習する場所)ハ江戸中幕(まく)のかからぬ日とてハ、いち日へんじ(一日片時。わずかな時間)もなひわひなでござります。
なんぼ武芸がよくても、御入用場所の勤(つとめ)ハ武芸でハ参(まい)る間敷(まじき)が、さてさて武芸ニて喧敷(かまびすしき)こと共(ども)ニ御坐候(ござそうろう)。
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2025年2月19日(水) |
寄合 |
仕事もせずに遊んで暮らす。よほどの資産家でもない限り、実現不可能な夢だろう。しかしそんな夢のような話が、江戸時代にはあったのだ。
江戸幕府は元和偃武(げんなえんぶ)以降も有事に備え、「旗本八万騎」等から成る軍事組織を維持し続けた。こののち260年間、大きな戦争はおこらなかった。
戦闘員の多くが、平時に実質的な仕事がなかった。それにもかかわらず、食い扶持は保証されていた。悪く言えば無駄飯食らいである。こうした実態を大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)は次のように痛罵する。
関東武家旗下(きか)の士ニテ寄合(よりあい)と称するもの、神楽坂の本多・溜池の横田を禄高の首座として三千石に至るまで頗(すこぶ)る多く、箒(ほうき)ニ而(て)拂(はら)ふほど也(なり)。
其以下(それいか)千石・五百石の人々、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)、屈指(くっし)すべからず。すでに廩米(りんまい)の小禄(しょうろく)を加へて其数(そのかず)八万騎とも称す。
嗚呼(ああ)、盛んなる哉(かな)封建の世襲。海外の羨慕(せんぼ)もむべなり、むべなり。(1)
三千石取り以上の旗本で寄合と称する無役の者は、箒で掃いて捨てるほどいる。それ以下の収入の士を加えるなら、数えあげることもできぬほど。これが旗本八万騎の実態。こうした家禄といった形で収入が保証される世襲制が、ほかから羨ましがられるももっともなことだ、と醇堂は皮肉っているのだ。
老婆心ながら、文中の出てくる言葉に注をつけておこう。
(メモ) ・寄合 三千石取り以上で無役の旗本。
・神楽坂の本多 神楽坂に居を構える本多氏は知行9千石の大身旗本。
・溜池の横田 赤坂溜池近くに居を構える横田氏は知行9千5百石の大身旗本。
・汗牛充棟 多いこと。本来は蔵書が多いたとえに使う。
・屈指すべからず 数えることができないほど多い。
・廩米の小禄 蔵米取りで石高の少ない者。
・羨慕 うらやみしたうこと。羨望。
・むべなり いやはやもっともだ、の意。
【注】
(1)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29、21〜22マ目。 |
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2025年2月14日(金) |
ウニコール |
ある時、田沼意次の公用人(幕府に関する用務を扱った役職)潮田由膳(潮田内膳とも)が、よそから贈られた粟餅をみんなにふるまった。ところが、
皆々(みなみな)給(た)べ候者(そうろうもの)、間もなく顔の色かはり、シツテンバツトフ(七転八倒)いたし、苦事(くるしむ こと)大方(おおかた)ならず
という大騒ぎになった。そこで、これは
毒中(あた)りニ候間(そうろうあいだ)、ウニコール遣(つかわ)し候様(そうろうよう)ニとの御差図(おさしず)ニて
ウニコールを苦しむ者たちに服用させたという(1)。
ところでこのウニコールとは、一体何なのだろう。
ウニコールはポルトガル語で「一本の角」の意。中世ヨーロッパの伝説上の動物ユニコーンと同じ意味だ。
ウニコールは17世紀、オランダからわが国に持ち込まれた。実際に持ち込まれたのは伝説上の動物の角ではなく、北氷洋に生息する海獣イッカク(一角)の牙(オスの門歯)だった。
ウニコールは貴重品だったため、オランダ商館長から将軍家への献上品ともなり(2)、また高額で売買された。用途は根付(3)や花器(4)などの工芸品、粉末にして解毒剤(食あたりの毒消し)・解熱剤(疱瘡の解熱)(5)にされた。上記史料では、解毒剤として用いられている。
しかし貴重品だったため、ウニコールにはまがい物も多かった。そのためウニコールは「嘘」と同義語になった(6)。
さて、毒にあたった被害者たちはウニコールを服して事なきを得たが、粟餅に毒を仕込んだのは潮田に恨みをもつ生花の師匠だった。『縮地千里』では、捕縛された犯人は拷問にかけられ犯行を自供したことになっている。しかし、『天明紀聞』では同じ事件を、
別に慥(たしか)なる證拠(しょうこ)も無之事(これなきこと)なれバ、夫形(それなり。それっきりの意)ニ沙汰止(さたや)ミに成(なり)し由也(よしなり)(7)
と記述する。
つまり真相は薮の中。もしかすると、この事件そのものが「大きなうにこうる」だったのかも知れない。
【注】
(1)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。228〜231コマ目。
(2)吉野政治「日本における一角獣の行方」−同志社女子大学『学術研究年報・第64巻』2013年、P.129〜130-
(3)掛川市二の丸美術館HP「特別展 榑林コレクションと木下コレクション 白の細密工芸 ウニコール その類まれなる材の巧みの技 【会期】1月11日(土)~3月23日(日)」(2025年2月11日参照)。
(4)洒落本『当世虎の巻』に「せ川が風流、床にかけし一ぢくハ周文の画たる終南山のはるの色、一角の花いけにハ梅と柳を折入る(後略)」とある(田螺金魚作『当世虎の巻』安永7年(1778)刊、早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫31E0283。21丁オ)。
(5)『疱瘡心得草』に「一角(うにこうる)ハ毒けしの物にて痘(いも)には妙(めう)なり。夫故(それゆへ)發熱(はつねつ)より鮫(さめ)にておろし両三度程(ほど)ヅヽ白湯(さゆ)にて用ゆべし」とある。(志水軒朱蘭述『疱瘡心得草』蓍屋善助、寛政10年(1798)刊、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:852-26。20コマ目)
(6)たとえば「踊子のはなし大きなうにこうる」などの川柳がある(『誹風柳多留』十四)。
(7)吉田重房『天明紀聞(静山叢書)』写、国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。399コマ目。
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2025年2月13日(木) |
葉向き |
田沼意次が幕政を主導したいわゆる「田沼時代(1758〜1786)」はおよそ28年間にも及ぶ。次の松平定信政権(1787〜1793)がわずか6年間だったのにくらべると、かなりの長期政権だった。
この間、意次は幕閣関係者らと姻戚関係を結び、その権勢はならぶ者がなかった。ゆえに幕府の重職連中は、この権勢家の臣下にまで気を配ったという。
意次が信頼を寄せる家臣に井上伊織という者がいた。井上の娘が三千石取りの旗本と結婚することになった。すると、榊原・小笠原・酒井ら歴々の諸大名が、井上の娘の婚姻のために配下の家臣・足軽たちを派遣したという。
井上は、将軍から見れば一介の陪臣(ばいしん。臣下の家来)にすぎない。たかだか陪臣の娘の婚姻のために、幕府高官の大名たちがこぞって人手を提供したのだ。『縮地千里』には次のようにある。
陪臣の娘婚姻に、右の通(とおり)の暦々衆(れきれきしゅう。歴々衆)の葉向キ(はむき)、萬事(ばんじ)是(これ)にて御察候(おさっしそうろう)。とにもかくにも見候(みえそうろう)ものはイケヌ事(感心できないこと)と相見申候(あいみえもうしそうろう)。
文中にある「葉向キ」(羽向、歯向とも書く)は「ご機嫌取り、おべっか、お追従」を意味する言葉。陪臣の娘の結婚にまで気をつかい、意次に対して御機嫌取りをする高位高官の大名たち。そんな醜態は見ていられないというのだ。
【参考】
・『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。219コマ目。 |
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2025年2月12日(水) |
はやり言葉 |
天明年間(1781〜1789)の江戸では、「広徳寺(こうとくじ)の門だ」という言葉が大いにはやったという。
江戸表(えどおもて)にて当時(とうじ。今)はやり言葉に、「広徳寺(こうとくじ)の門」と申事(もうすこと)専(もっぱら)はやり、一言(ひとこと)・一言ニ「広徳寺の門だ」と申候(もうしそうろう)。なんの事か訳知れ兼候得共(わけしれかねそうらえども)、むしやうやたらに右のはやり言葉申候。
下谷広徳寺の門は左り甚五郎が建候(たてそうろう)門と申す事にて久しき門にて、「何事によらず能(よ)ひ門だ」と申す心にや。すさまじきはやり申候。(1)
この記事を書いた山本友八郎は、「広徳寺の門だ」とは「何事によらず良いもんだ」の意ではないかと推測している。しかし、このはやり言葉にそんな立派な意味などない。「どういうもんだ」の問いかけに対して「こういうもんだ」と答えるべきところ、音が似通っている「広徳寺の門だ」で返しただけのことなのだ。
その証拠に、唐来参和(とうらいさんな。1744~1810)の『正札附息質(しょうふだつきむすこかたぎ)』(1787年刊)自序に、次のようにある。
何(どふ)いふもんだと問(とへ)ば廣徳寺門(こうとくじのもん)とはぐらし(はぐらかすの意)、飛(とん)だもんだと言(い)へば浅艸(あさくさ)の山門(さんもん)と答(こた)ふ。(2)
なお、広徳寺は下谷車坂町にあった臨済宗大徳寺派の寺院。江戸時代には加賀前田氏ら多くの大名家を檀家にもち、その敷地の広大さから「びっくり下谷の広徳寺」(「びっくりした」に「下谷」を掛けた)と言われたほどだったという(のち関東大震災で被災したため、練馬区桜台の現在地に移転)。
【注】
(1)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。205コマ目。
(2)唐来参和作・北尾政美画『正札附息質・3巻』刊本、 国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号208-263。 https://dl.ndl.go.jp/pid/8929575
(参照 2025-02-06)
なお、小池正胤外『江戸の戯作絵本・3』2024年、筑摩書房、P.465の注(八)に「広徳寺は江戸、下谷大通り(台東区上野四丁目)にあった寺。山門が寸足らずだったため、この地口が流行したという」とある。 |
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2025年2月11日(火) |
『訓蒙図彙』 |
朱子学者の中村惕斎(なかむら・てきさい。1629〜1702)が著した『訓蒙図彙(きんもうずい)』。もともとは、わが子に言葉を教えるために作った本だった。今では、わが子のためなら学校やトレーニングセンターまで建ててしまう教育熱心な親御さんもいるというから、本くらい作ってもさほど驚くにはあたらない。
ただ、子どもに言葉を教えようとしても、文字だけの説明ではどうしても子どもが飽きてしまう。そこで、子どもを飽きさせないようにするため、生活に必要な語彙ひとつひとつにすべてイラストを入れた。
この工夫は画期的だった。こうして『訓蒙図彙』はわが国初の絵入り百科事典となった。内容は天文・地理・居処・人物・身体・衣服・宝貨・器用等の17部門にわたって、森羅万象1400以上もの項目をイラスト入りで説明するものとなっている(寛永6年版の場合)。
出版されるや否や、子どもばかりでなく大人にも歓迎され、たちまちベストセラーとなった。そして江戸時代を通じて増補を重ねて刊行され続け、大勢の人びとの知識欲に応えてきた。そのなかには、あの知の巨人南方熊楠(みなかたくまぐす。1867〜1941)も含まれている。熊楠は幼時、紙屑屋から買った反古の中から『訓蒙図彙』を拾い出し、それらを手本に画や字を学んだと語っている。
ただし『訓蒙図彙』は、現在のわれわれが知る百貨事典やイラスト入り辞典とは異なる点も多々ある。そのひとつが、虚実入り交じった項目選定が行われていることだ。
たとえば、小人国の小人や長人国の長人、酒を好む猩猩(しょうじょう)など、架空の存在も紹介されている。
惕斎が生きた江戸時代前期は、最新・正確な情報が今日ほど容易に入手できる時代ではなかった。これはある意味やむを得ないことだったが、それがかえって『訓蒙図彙』を魅力ある本にしている。
【参考】
・石上阿希『江戸のことば絵事典 『訓蒙図彙』の世界』2021年、角川選書。 |
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2025年2月6日(木) |
『縮地千里』
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ここのところ『縮地千里』を読んでいる。賄賂政治を風刺した落書が所載されているため、よく引用される史料だ(1)。しかし、その他の記事については、あまり知られていない。現在「あれやこれや2025」はこの史料をもとに書くことが多いので、とりあえずどのような史料なのか紹介しておこう。
『縮地千里』は国立公文書館に所蔵(国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102)。表紙・裏表紙含め全236コマ。表紙に「漫筆雑考 縮地千里 全 廿四」と墨書されている。書名の「縮地千里」は、千里離れた距離間を縮めるの意。「縮地」はもともと道教神話に登場する仙術のひとつをいう言葉。
内容は、江戸在住の幕臣山本友八郎が京都出張中の幕臣間宮孫四郎らあてに送った書簡集。ただし写しであるため、解読不能の部分や文字の欠落等が見られる。また、年号不明の書状が多いため、その利用に際しては年号確定の作業が必要。
表紙に「漫筆雑考」ともあるように、天明年間(1781〜1789)に起きた諸事件・歌舞伎の評判など、江戸の「珍説」や筆者の感想等が雑多に書き綴られている。
そのなかには、天明飢饉による物価高騰、浅間山の噴火による降灰、江戸出水による被害などよく知られた大事件ばかりか、田沼意次没落に際しての幕府関係者たちの対応、、幕府人事にまつわるさまざまな噂、松平定信の人材登用に対する辛辣な評価など、幕臣でなければ書けないような記事も含まれる。
さて発信者の山本友八郎(?〜?)は江戸駒込に在住し(2)、評定所書物御用出役を命ぜられて役料五人扶持を支給されていた(3)。また、職務精励によって銀十枚の褒美を拝領したことが、書簡中の記述からわかっている(4)。一方、受信者の間宮孫四郎(盛時。1742〜1793)は、当時京都二条城で御門番頭を勤めていたという(5)。
なお、両者がどのような経緯で親交をもっていたかは不明。
【注】
(1)あれやこれや2024年12月27日(金)参照。
(2)『縮地千里』30コマ目。
(3)『縮地千里』74〜75コマ目。
(4)『縮地千里』111コマ目。
(5)『寛政重脩諸家譜・第3輯』1923年、國民圖書、P.259。 |
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2025年2月3日(月) |
命がけの凧揚げ |
凧揚げといえば正月によく見られる子どもの遊び。江戸城でも正月は凧揚げ遊びに興じた。しかし将軍世子(徳川家斉。1773〜1841)ともなると、そのスケールは庶民の比ではない。
西の丸(将軍世子の居所)で製作された凧の大きさは3間(約5.4m)×2間(約3.6m)。凧に貼られたのは100枚の程村紙(ほどむらし。現、栃木県那須烏山市で生産される厚手で強靭な和紙)。骨組みに使われたのは丸竹を二つに割ったもの。そして、糸には細引(ほそびき)とよばれる麻縄を撚った細い縄が使用された。
完成した大凧は西の丸の御長屋御門にはいらなかったため、やむなく大御門を開けて通した。こうして山里御庭(やまざとおにわ。現在の皇居吹上御苑)で凧揚げが行われたのは天明4年(1784)閏(うるう)正月6日のこと。
しかしこの日は大風だった。
大風の日に大凧を揚げるなど、これほど無謀なことはない。案の定、ひとりの小姓が糸(細縄)にからまり、そのまま7、8丈(約21〜24m)も上空に飛ばされてしまった。幸い樅(もみ)の木に引っかかって助かったものの、凧の糸が切れて小姓は地上に落下。腰を強打したうえ歯を三枚うち砕いてしまった。ほかにも丸奥坊主2、3人が怪我をした。
こうなると、凧揚げも命がけだ。
【参考】
『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。173コマ目。
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2025年1月31日(金) |
仮病 |
『寛政重修諸家譜』によると、名取半左衛門(なとり・はんざえもん。名取信富。1726〜1791)は天明元年(1781)より西の丸御広敷御用人(おひろしきごようにん)を勤め、天明6年(1786)に本城勤めに転じた。しかし翌7年(1787)12月、突然免職になってしまったという。(1)
『縮地千里』にはこの間のやや詳しい経緯が書いてある。
御広敷御用人名取半左衛門、御留守居番(おるすいばん)へ被為 召候所(めさせられそうろうところ)、病気にて不罷出(まかりいでず)。其後(そのご)暫(しばら)く過(すぎ)、弥登 城難成哉(いよいよとじょうなりがたきや)の旨(むね)御尋有之候処(おたずねこれありそうろうところ)、当時勤難仕旨(つとめつかまつりがたきむね)、書付(かきつけ)を以(もって)申上候処(もうしあげそうろうところ)、其後(そのご)、半左衛門被為 召御役 御免(おやくごめん、めさせられ)、寄合被 仰付候(よりあい、おおせつけられそうろう)。(2)
(御広敷御用人の名取半左衛門は、御留守居番への役替を命じられたが、病気を理由に登城しなかった。しばらくして
「いよいよもって、登城はむずかしいのか?」
という御下問があったので、
「今はまだ勤めに出るのはむずかしい状態です」
と書面によってお答えした。その後半左衛門は免職となり、寄合入りを命じられたのである。)
半左衛門は実は仮病だったという。それを幕府が知り、免職処分にしたのだという。
それではなぜ、半左衛門は仮病を使ったのだろう。『縮地千里』によると
名取、八百石高にて三百俵の御役料、都合千百俵に当り候処(そうろうところ)、御留守居番にては差引百俵減じ候故(ゆえ)(3)
病気を装ったという。つまり役替えになると、御役料が百俵も減ってしまう。そこで仮病を使ってまで御広敷御用人に居座ろうとしたのだ。
また御広敷御用人は臨時収入が見込めるオイシイ役職でもあった。小川恭一氏は次のように書いている。
将軍の御台所・側室方・高級女中方の住居である大奥は、男子の広敷系の役人が管理・建物改修を受け持っています。大奥では儀礼が多く、担当の少数の広敷関係役人に「下され物」が頻繁にあります。「金三百疋(金三分)」とか「銀何枚」や諸道具などが下賜され、いただく方は年間多額のものになります。(3)
こうして半左衛門は御留守居番の職も御役料も失うはめになったが、その仮病をあばいたのは隠密だったという。
当時幕府は、隠密をさまざま場所に潜入させていた。そのため、何もかもが幕府へ筒抜け。そんな監視社会の現状について『縮地千里』の筆者は、
いやはや、こわひ世の中に相成申候(あいなりもうしそうろう)。(5)
との感想を漏らしている。
【注】
(1)『寛政重脩諸家譜・第6輯』1923年、國民圖書、P.643。
(2)(3)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。113〜114コマ目。
(4)小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社(講談社文庫)、P.330〜331。
(5)『縮地千里』前出。 |
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2025年1月28日(火) |
物入り |
寛政改革で賄賂・音物(いんぶつ。贈り物)は厳に禁止された。
当時は幕府の役職に就任すると、職務遂行に必要な費用は原則自分持ちだった(もちろん役料が支給されたり、足高されたりする場合もあった)が、貨幣経済に巻き込まれた大名家の多くは、職務遂行のための必要経費を捻出する経済的余裕がなかった。
そのため、懐にはいる賄賂・音物なしでは大切な御役目が遂行できず、清廉潔白を貫けば借金漬けに陥った。そんないびつで皮肉な有様を、『縮地千里』は次のように記述する。(1)
若年寄衆(わかどしよりしゅう)壱万石にて、本多殿(本多忠籌)などは去年(天明7年)御役仰蒙(おやくおおせこうむ)られ候(そうらい)て七百両借金被致候(しゃっきんいたされそうろう)よし。十年では七千両の借金に成候(なりそうらい)ては、中々(なかなか)勤(つとま)り申間敷候(もうすまじくそうろう)。
どうしても取らねば勤(つとま)らぬ利屈(理屈)。とろうといふ事もならず、くれもせず、御役料の弐千俵も下されねば、若年寄の小普請入(こぶしんいり)が出来様(できよう)との取沙汰(とりざた)(2)。是(これ)は尤(もっと)も風説。
壱万石にてひら大名(平大名。小身の大名)と若年寄の御役とは、もの入(いり)天地の違ひ。平大名でさへ
「素一万石ほどセツナイものはなひ(やるせないものは無い)」
と申候得(もうしそうらえ)ば、とらねば勤(つとま)りかね可申事(もうすべきこと)に存候(ぞんじそうろう)。
正直にしてはイカヌ事(正直では勤めが立ち行かない)、イカヌ事、イカヌ事。誠にイタ間敷(ましき)御事(おんこと)に御坐候(ござそうろう)。
陸奥泉藩1万5千石(のちに2万石)の藩主本多忠籌(ほんだただかず。1740〜1813)は、天明7年(1787)、若年寄に就任した。就任前とくらべ格段に物入りが多くなったため、700両の借金をせざるを得なかった。在職が10年も続けば借金は7千両に膨らむ。これでは当然、藩財政が悪化する。事実、泉藩は財政難に陥る。そこで忠籌は徹底した質素倹約を実行する。(3)その徹底ぶりは松平定信をして
弾正殿(だんじょうどの。本多忠籌)は扨々(さてさて)倹素(けんそ。質素倹約)の人なり。( 中略 )中々(なかなか)我等共(われらども)が及ぶ所にあらず。(4)
と言わしめるほどだった。
しかし幕府高官にならなければ、これほどの苦労もせずに済んだ。「すまじきものは宮仕え」か。
【注】
(1)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102、100〜101コマ目。
(2)小普請入りは、3千石以下の旗本・御家人が老衰・不行跡等の理由で免職されて小普請組の支配にはいることをいう。そもそも大名が小普請入りするはずなどないが、金銭面で首がまわらなくなれば若年寄でも小普請入りするようだ、と言っているのである。
(3)(4)『天明記』によれば、清廉潔白な賢君だった忠籌は一切の贈答を断り、つましい生活を貫いた。たとえば次のような逸話がある。史料の引用はいずれも内山温恭編『流芳録』巻之十、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004の「若年寄 本多弾正少弼忠籌」の項による。
史料1(若年寄就任祝いに贈られた親族からの干鯛を返却する)
弾正少弼(だんじょうしょうひつ。忠籌)、若年寄 仰付られ候節、主水正(もんどのしょう)は親族に付(つき)、使者頭(ししゃがしら)知らせ申来(もうしきた)りし御中に、
「御役中は、御間柄(おあいだがら。親族)なれども一統へ進物、堅(かたく)断(ことわり)に及候(およびそうろう)」
旨(むね)なり。格別の事なればとて、使者頭軽き肴(さかな)干鯛(ほしだい)一箱贈られしに、翌日謝礼有之(これあり)。
「兼(かね)て申述候通(もうしのべそうろうとおり)、御断(おことわり)に及候(およびそうろう)」
とて右の干鯛返し申されしとなり。
史料2(若年寄就任時に慣習となっていた大奥への贈物を拒否する)
御役仰付(おおせつけ)られ候時(そうろうとき)、同席中(どうせきちゅう。同僚)申伝(もうしつた)へられ候(そうろう)は、
「当役に成候(なりそうら)へば、大奥へ紅白縮緬(ちりめん)弐巻并(ならびに)金五百疋(ひき)づつ夫(それ)らへ贈り申候(もうしそうろう)先格(せんかく。先例)に候」
由(よし)申され候へば、
「左様(さよう)の義決(けっし)て得(え)仕(つかまつ)らず。此度(こたび)役義 仰付(おおせつけ)られ候(そうろう)も、望(のぞみ。自分から望んで)にて 仰付られ候義にも御座なく候へば、早速御免(ごめん。免職) 仰付られ候ても恥辱とも存ぜず候へば、右の贈物得(え)いたさず」
との断(ことわり)にて、其通(そのとおり)に相済候由(あいすみそうろうよし)。
史料3(忠籌の質素倹約ぶり)
白川侯(松平定信)の申さるるは、
「弾正殿(だんじょうどの。忠籌)は扨々(さてさて)倹素の人なり。数年出会せしに、皆人々手拭(てぬぐい)或(あるい)は多葉粉入挟(たばこいればさみ)といふもの東都(とうと。江戸)流行して、是(これ)を持たざる人なかりしを、弾正殿は観世より(かんぜより。紙を細長く切って縒ったもの。こより)を以(もって)右両品を結び下げて持(もた)れしなり。中々我等共が及ぶ所にあらず」
と語り申されしとなり。 |
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2025年1月24日(金) |
機転をきかせる |
新御番(しんごばん。幕府の軍事組織のひとつ)の番士のなかに「近か目殿(ちかめどの)」(近眼の者)がいた。
ある日、「近か目殿」が退勤する折りのこと。殿中で御目付衆に突き当たってしまい、その無礼を咎められた。ところが、近眼のうえ城内が暗かったためか「近か目殿」は粗相した相手を新御番の同僚と勘違いし、おどけた受けこたえをするとその場からさっさと退散してしまった。
ふざけた対応に腹をたてた御目付衆は、新御番の詰所(つめしょ)にねじ込んだ。すると、機転をきかせた番士のひとりが次のように答えたのである。
「その者は平生癇癪(かんしゃく)の持病があるのですが、本日が当番だったため無理を押して登城した次第。しかし昼頃より逆上する気配が見えたので、佐野一件後の通達もあり、帰宅させることにしたのです」
この返答に御目付衆は 「適切な処置である」 と言うほか返す言葉がなかった。
佐野一件とは天明4年(1784)3月24日、同じ新御番の番士であった佐野善左衛門が、若年寄田沼意知に城内で刃傷(にんじょう)に及んだ事件を指す。幕府はその原因を、佐野の突発的な逆上(乱心)によるものと断じていた。そこで次のような通達を出したのである。
都而(すべて)積氣(しゃっき)ニて逆上仕候(ぎゃくじょうつかまつりそうろう)様子の病躰(びょうてい)と見請候(みうけそうら)ハバ、御城江差出申間敷候(おしろへさしだしもうすまじくそうろう)
つまりは、逆上するような病気の気配が見えたらその者を御城に出してはならぬ、というわけだ。
当時はまだ佐野一件の記憶が生々しく、城内がピリピリしていた。
同僚の当意即妙な対応によって「近か目殿」は事なきを得たのだった。(1)
【注】
(1)以上、『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102.82〜83コマ目による。 |
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2025年1月21日(火) |
時流への迎合 |
松平定信(1758~1829)といえば「文武奨励」の権化。「文武、文武」とあまりに口うるさかったため「世の中にかほどうるさきものはなし、ぶんぶぶんぶで夜も寝られず」と揶揄されたほど。『縮地千里』のなかには、寛政改革(1787~1793)時のそうした風潮が記録されている。
武芸・学者計(ばか)りの面々被出候(いでられそうろう)。知慮の所はどふか知れ不申候(もうさずそうろう)。下にて気のつかぬものを御見出(おみいだし)し被成候(なられそうろう)が御好きと相見(あいみ)へ、剣術遣(つか)ひじゃの、学者じゃのと申もの計(ばかり)御入用場所へ御遣(おつか)ひ被成候(なられそうろう)により、其道(そのみち)にて何(いず)れもくらく相見(あいみえ)…(1)
(定信政権下では、武芸・学問ばかり面々が役人に登用された。彼らの知慮のほどは不明。定信公は、低い身分で存在の知られていない者を登用するのがお好きと見えて、剣術家や学者ばかりを必要部署へ割りあてる。しかし、彼らは職務方面のことにはいずれも暗いように見える)
また同書には、次のような当時の世相も書き留められている。
近頃は白川公(白河公。定信のこと)『韓非子(かんぴし)』の学問御好き被成候由(なられそうろうよし)。『韓非子』の本甚(はなはだ)はやり、右の書物本屋に売れ切候由。
湯嶋(ゆしま)天沢寺(てんたくじ)前におり候儒者北山(ほくざん)と申者(もうすもの)、白川公へ度々(たびたび)被召呼出候故(めしよびだされそうろうゆえ)、右北山、諸大名は勿論(もちろん)、芙蓉之間(ふようのま。江戸城本丸内にある55畳敷きの部屋)へかけ日々被呼候(よばれそうらい)て講釈仕候由(つかまりそうろうよし)(2)
定信が『韓非子』を好んで読んでいると聞くや、本屋からは『韓非子』が一冊残らず売り切れる。また定信が儒学者山本北山を招いて講釈を聞いていると知るや、各大名家でもこぞって北山を招いて講釈を聞くといった有様。
時流に乗り遅れまいとして右往左往の滑稽を演じる人々は、いつの時代にもいるものだ。
【注】
(1)『縮地千里(漫筆雑考)』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:213-0102。60コマ目。
(2)『縮地千里(漫筆雑考)』62コマ目。
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2025年1月19日(日) |
幕末のパンデミック |
今日の朝刊に、昨日実施された大学入学共通テスト「歴史総合,日本史探究」の問題が載っていた。第一問のB(問3〜問5)を見ると、疫病の流行とその水際対策を考えさせる問題だった。そしてその素材に、安政のコレラ流行が取り上げられていた。
安政のコレラ流行は、安政5年(1858)5月に長崎に寄港したアメリカ軍艦ミシシッピ号内にコレラ患者が発生したことから始まった。感染力が強いにもかかわらず、当時は有効な予防法・治療法もなかったので、またたく間に全国に広がった。
発症すると病気の進行が早いうえ致死率も高かったため、「三日コロリ」の名で恐れられた。「虎狼痢(コロリ)」の当て字からも、原因不明の死病に対する当時の人々の恐怖心がうかがい知れる。病死者があまりに多いため火葬が追いつかず、棺桶は山積みされたまま放置されたという。
しかし、猛威をふるったコレラもその年の秋には収束。全国の犠牲者は数十万人にのぼった。そして、このコレラ騒動は外国船からもたらされたため、幕末の攘夷運動をあおる要因のひとつとなった。
さて、現在のわれわれも、つい先ごろ新型コロナのパンデミックを経験した。ボーダーレス化がますます進み、ヒトやモノの交流がいっそう盛んになれば、こうした問題は避けては通れない。また問題が起こるからといって、世界のグローバル化に背を向けるわけにもいかない。
上記テストの問題文のなかに
疫病流行は国を越えて起こるものだからこそ、対立を乗り越えて国際協力を実現することが重要
という生徒の言葉がある。もっともな発言である。 |
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2025年1月16日(木) |
意次の人柄 |
NHKの大河ドラマ「べらぼう」が始まった。江戸時代のいわゆる「田沼時代(1758~1786)」を舞台にしたドラマだ。
「田沼時代」の名称は、老中と側用人を兼任した当時の幕府の最高実力者・田沼意次(1719〜1788)に由来する。しかし、幕府の諸政策が行き詰まると、意次はすべての政治責任を押しつけられて失脚。そして、意次を憎む政敵・松平定信らのグループによって「意次=賄賂政治家」または「意次=極悪人」という烙印を押されてしまう。そのため長い間、意次にはそうした負のイメージが定着してしまっていた。
しかし、賄賂・汚職の横行は「田沼時代」に限ったことではないし、それ以前にも幕府が繰り返し賄賂・汚職の禁止を令しているところから見ても、むしろ幕府政治の構造上の問題と考えた方がよい。また、諸政策失敗の政治責任を問われるとしても、だからといってその責任者を直ちに極悪人と見なすのは短絡的だ。そもそも政治と人柄との間に何ら相関関係などないのだから。
それでは実際の意次は、どういう人物だったのか。以下のような逸話が伝わっている。
9代将軍徳川家重(1712〜1761)は、意次のことを「またうとのもの」と評した。「またうとのもの」とは正直者とか律儀者という意味だ。
また京都町奉行所与力だった神沢杜口(かんざわ・とこう。1708〜1795)は、意次のことを腰の低い謙遜家であり、中間(ちゅうげん)や足軽といった末端の家来にまで親切な上司だったとその随筆『翁草(おきなぐさ)』のなかで書いている。
意次の遺訓が現在に残っているが、そのなかで意次は、相手の身分・格式・高下に応じ付きあい方を変えることを厳に戒しめている。誰とでも分け隔てなく親密につきあえと諭しているのだ。
つまり、同時代人は意次を、正直者・律儀者で謙遜家、親切で誰とでも分け隔てなくつき合う好人物だと評しているのだ。
この時代の譜代門閥大名は、その家柄に応じて敷かれた出世コースにのって、当然のように昇進していった。しかし意次は、身分の低い幕府役人が昇進を重ねた結果として大名になり、老中にまでのぼりつめたのである。
歴史学者の藤田覚氏は、意次の「物腰の柔らかさと慇懃さなど、役人風とでもいうべき姿勢や態度」は、こうした意次の経歴によるものと見ている。
【参考】
・藤田覚『日本近世の歴史4・田沼時代』2012年、吉川弘文館、P.12〜P.14。 |
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2025年1月14日(火) |
侍は気楽な身分 |
朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ。1735〜1813)の洒落本『柳巷訛言(さとなまり)』は、吉原の遊女たちの実際の会話を忠実に写したもの。その中に次のような遊女と客の会話がある。
(女郎)わつちや(私は)いつそ侍になりたふありいす。
(侍の客)きついあわせやうさ。
(女郎)ヲヤ、ばからしい。ほんに侍になりたくてなりいせん。
(客)なぜ。
(女郎)アイサ、侍ハネ、有(あ)りもせぬ軍(いくさ)を請合(うけあっ)て、知行(ちぎょう)とやらを取て居(い)なんすからさ。(1)
遊女は客の侍に向かって「私はいっそのこと侍になりたい」と言っている。その言葉に怪訝な面持ちの客に対し、遊女は「侍はありもしない戦さを請け負って知行をもらうよいご身分だから」と答えるのである。
この遊女の言葉は、はからずも幕藩体制の矛盾を突いている。武士間の主従関係は御恩と奉公によって成り立つ。将軍や大名が家臣に領地を与えるのは、彼らが戦時に参戦するからだ。しかし元和偃武以降、江戸時代にはとんと戦争がなかった。こうした状況を田中優子氏は次のように解説する。
江戸時代は約250年間、戦争がなかった。しかし徳川将軍も含めて大名たちは領地を持ち、家臣の武士たちはその領民の年貢で生きていた。領地を与えられていた理由は、戦国時代の恩賞を基礎に徳川支配のもと、戦時には参戦するためだった。日常で働いていないわけではなく官僚仕事の毎日とは言え、建前は「軍事(いくさ)を請け合って」いるのである。しかしそれは絶対ないとは言えないまでも、ほぼゼロに近かった。今で言えば、「有事」という言葉で国民から税金で軍事費を徴収し、使いもしない武器を発注して、軍事企業を儲けさせ、その企業から入ってくる金を裏金として配分しつつ、同時に選挙運動に使って議員の給与をもらい続ける、という構図である。(2)
侍は仕事をせずとも食うに困らない。そう考えれば、侍ほど気楽な身分はあるまい。遊女があこがれるわけだ。
【注】
(1)朋誠堂喜三二作・恋川春町画『柳巷訛言(さとなまり)』、刊本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:京−398、 https://dl.ndl.go.jp/pid/2534040
(2)田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』2024年、文藝春秋(文春新書)、P.98。 |
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