あれやこれや2025

 今年は巳年。干支にちなんで「今年を脱皮の年としたい」という年頭抱負が多く届きました。しかし、巳という漢字は普段使うことが少ないためか、賀状には已や己の文字がちらほらと混在。

 そこで昔の人々は、紛らわしい漢字の誤りを次のような歌で防ごうとしました。これも庶民の知恵のひとつでしょう。

 ミ(巳)は上に、オノレ・ツチノト(己)下につき、
              スデニ・ヤム・ノミ(已)中程につく

    
2025年7月25日(金)
部下思いの家斉
 11代将軍徳川家斉は下情によく通じていた。

 家斉の近習に酒井相模守(さかい・さがみのかみ)という武士がいた。酒井の家は貧しく、毎日出仕することが経済的に困難だった。そのため、表向きは病気と称して、時おり出仕しないことがあった。

 酒井が出仕していないことに気づくと、家斉は


 また例の持病こそおこりつるや。この品つかはして病をたづねよ。


と言って見舞いの品を届けさせた。当時、病気見舞いには、食品を贈るのがふつうだった。しかし家斉は、酒井の同僚に高価な品々を持たせて酒井の家を訪問させたのである。

 すると酒井は、翌日には「平癒」して出仕することができたのだった。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。128〜129コマ目。
2025年7月19日(土)
嫉妬深い家斉
 11代将軍徳川家斉(1773〜1841)は多くの妻妾をかかえ、子だくさんで有名だった。妻妾は少なくとも16人。彼女たちとの間に、わかっているだけで53人の子女(男26人・女27人)を儲けたという。

 家斉は家族への愛情が深かった半面、非常に嫉妬深くもあった。

 そのころ、江戸城中奥に出仕していた武士に宮崎多膳(みやざき・たぜん)という者がいた。多膳は美男の聞こえが高かった。

 ある時、広大院(家斉の正室)が御簾(みす)の隙間(すきま)から多膳を透見(すきみ)して、かたわらにいた女中に向かい、


 
多膳は聞(きき)しに違(たが)はず、美丈夫(びじょうふ)なり。


との感想をポロッと漏らしたことがあった。

 この話が家斉の耳に入ると、即刻家斉は多膳の出仕をとどめてしまったという。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。128コマ目。
2025年7月8日(火)
カラブロ
 相も変わらず、高温多湿な日本の夏。特に今夏は蒸し風呂の中にいるようだ。こんな日は、クーラーの効いた部屋でひっくり返っているのが一番だ。

 ところで、わが国には古い時代の入浴施設が現存する。れは奈良県奈良市の法華寺に残るカラブロだ。鉄釜で沸かした熱湯の蒸気を密閉した建物の床下に導き、その蒸気に満たされた室内で汗を流す。つまり、現代流にいえばサウナ(蒸し風呂)である。

 法華寺に現存するカラブロは、明和3年(1776)に再建されたもの。当時の棟札が残っている。その後いく度か補修工事がおこなわれて現在に至っているという。
(1)

 なぜ法華寺にカラブロがつくられたのだろう。

 その起源に関しては、光明皇后の千人施浴発願説話とともに語られるのが普通だ。この伝説の成立には、わが国の入浴習慣が医療目的を主とし、また施浴を功徳と考える仏教思想が背景にあったのだろう。

 光明皇后の伝説がいつ頃生まれたのかよくわからない。文献上の初見は虎関師錬(こかんしれん)の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』(1322)の記事という。『元亨釈書』は堅苦しい漢文なので、『建久御巡礼記』の和文によってこの伝説をおさらいしておこう。


 
此寺(このてら。法華寺)の鳥居の巽(たつみ。南西)ニ當(あたり)テ、田中ニ松木一本生(しょう)ズ。是(これ)昔の阿閦寺(あしゅくじ。阿閦仏をまつる寺)ノ跡(あと)なり。 此寺(このてら。阿閦寺)、最初は湯屋(ゆや。浴室)(なり)

 
其故(そのゆえ)は、皇后(光明皇后)善根(ぜんこん。よい報いを受ける行い)満足ノ思(おもい)ヲ成給(なしたまう)。時ニ雲上聲(こえ)(あり)キ。云(いわく)、汝(なんじ)功徳(くどく。よい報いを受ける善行)未満(いまだみたず)云々(うんぬん)。其由(そのよし。その理由)を問給(といたまう)ニ、温室(おんしつ。うんじつ。浴室)(かけ)たりと見へり。仍(よりて)(すなわち)令建立(こんりゅうせしめ。浴室を建てさせて)、給湯(きゅうとう)を沸(わかし)テ自人(じにん。自ら)にをふせ給(にをふせたまう。香を焚き染めた)

 
(ここ)に癩病(らいびょう。ハンセン病)の非人(ひん。非常に貧しい人)一人来(きたり)て、無左右(そうなく。無造作に)あひ居(い)たり。无差(むさ。差別のない)の功徳なれば非可云(いうべからず)

 守居給處
(もりいたまうところ。皇后が浴室を管理している所)に非人申云(もうしていわく)、后(きさき。光明皇后)ニ我背(わがせ。私の背中)をすり給(たま)へと。無力(ちからなく)、随其意に給(そのいにしたがいたまう。非人の希望にしたがって、皇后は非人の背中の垢をすり落としてやった)。然後(しかるのち。垢をすり落とした後)、后(きさき。光明皇后)被仰(おおせらるるは)、相構て(あいかまえて。決して)此事人に不可語(このことひとにかたるべからず)云々(うんぬん)


 
非人亦(また)(もう)さく、我阿閦佛(われはあしゅくぶつなり)。是所(ここ)に来(きたり)、湯あびつ(ゆあみをした)と不可被仰(おおせらるべからず)とて、光を放(はなち)、香(こう)空に薫(かおり)て昇虚空ニ給(こくうにのぼりたまひき)

 依
(より)て、寺と成(なし)て号阿閦寺と(あしゅくじとごうす)。今は其名計り(そのなばかり)(のこり)たり。(2)


 ところで、光明皇后は垢すりの件を非人に固く口止めしたが、非人はその後、阿閦仏の正体を現して虚空へと消え去ってしまった。また、阿閦仏も自分の来訪を光明皇后に固く口止めをした。秘密が守られていたなら、そもそもこのような話はだれも知らなかったはずだ。

 さて、光明皇后と阿閦仏の秘密を暴露したのは、いったいだれだったのだろうか。


【注】
(1)
文化庁ホームページ「国指定文化財等データベース」の法華寺カラブロの詳細解説による。
(2)実叡著『建久御巡礼記』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:192-089。「法華寺」の項。
2025年7月4日(金)
熟練のわざ
 江戸の芝神明宮の境内で、見世物商いをする者がいた。

 それは、油をたたえた小さな瓶(かめ)の中に小判を入れて置き、真鍮の火箸を使ってはさみ出した者にその小判金を進呈するという見世物だった。参加料を払って、小判をはさみ上げようと試みる人々は毎日おびただしい数にのぼった。しかし、誰ひとりとして小判をはさみ出すことはできなかった。こうして数日ばかりの間に、興行主は莫大な利益をあげたのである。

 ある日のこと、ひとりの老人がこの見世物の前を通りかかった。そして、 「われ老後のおもひ出に引出してや見ん」 と言いながら、真鍮の火箸を手に取った。すると、はさんだ小判は必ず引きあげて、あれよあれよという間もなく、15枚の小判を引きあげてしまった。仰天したのが興行主。老人に詫びをいれ、それ以上の小判をはさみ上げるのを勘弁してもらった。その翌日、もはや境内にあの興行主の姿はなかった。

 この老人は、何者か。

 聞くところによれば、とある藩で幼少期から老年にいたるまで台所仕事に従事していた者だという。数十年もの間、魚箸(まなばし)を使用しない日はなかった。そうした熟練のわざが思いのほか、こんな場面で披露されたのだった。

 この話を紹介した大谷木醇堂は、最後に次のような当然といえば当然すぎる教訓を垂れている。

 すべて技芸は「習うより馴れよ」をもって熟達するもの。そのためには「月を追ひ、年を累(かさ)ね、撓(たゆ)まず怠ら」ぬ努力が必要だ。熟練の技芸は「いたづらに門松を多く潜(くぐ)つてよく致す所」ではない。「況(いわ)んや多く潜らざるものをや」であると。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。146〜147コマ目。
2025年7月3日(木)
大坂城の黄金水

 豊太閤
(ほうたいこう)、大坂城中の井底ニ黄金を埋めて水を井洌(せいれつ。水が清らかで冷たいこと)ならしむると。(1)


 大坂城小天守台にある現在の金明水井戸は、本来は「黄金水」とよばれていた。秀吉が井戸の水を清めるために、井戸の中に黄金を多数沈めたという伝承があったからだ。

 昭和34年(1959)に大坂城総合学術調査があった。くだんの井戸の底も調べられたが、黄金はひとかけらも発見されなかった。またこの調査により、小天守台上にある金明水はすべて徳川期の築造によるものと判明したという。

 黄金趣味で知られた秀吉ならでは伝説だったのだろう。


【注】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。163コマ目。
2025年7月1日(火)
法馬金
 物価は年々あがる一方。その上、年金生活の不足を補うのに、最低2,000万円の貯蓄が必要という。こんな大金を準備しておける老人世帯が、わが国に一体どれほどいると政府は思っているのだろうか。

 文句はさておき、もしもの時に備えて蓄えをしておくことは必要だ。

 豊臣氏も徳川氏も非常時に備えて十分な蓄えをしていた。そのひとつが法馬金(ほうばきん。ほうまきん)だった。法馬金(または法馬)は、分銅形にした金塊のことをいう。

 豊臣氏の法馬金1個の重さは、約45貫(約170kg)あったという。純度によって金の値段は変わるが、2025年6月23日時点の金1kgの店頭小売価格を見ると、17,492,000円(三菱マテリアル)となっている。おおざっぱに1kg=1750万円として計算するなら、170kgは297,500万円となる。つまり、現在の貨幣価値なら、法馬金1個が約30億円に相当する。

 徳川氏も豊臣氏にならっていく度か法馬金をつくり、金蔵に保管していた。寛政年間(1789〜1801)に鋳造された法馬金には、時の御勘定吟味役佐久間甚八(さくま・じんぱち。1727〜1796)
(1)の筆になる


  
征伐軍旅用(せいばつぐんりょよう)、莫為尋常費(じんじょうのついえとなすなかれ)


の文字が刻まれていたという
(2)。つまり、徳川氏は戦時用として法馬金を保管していたのだった。

 しかし、幕府財政が窮乏するなか、「莫為尋常費(平常時の費用としての使用禁止)」などと言っていられなくなった。法馬金は逐次鋳潰されて赤字補填に使われ、その実物は現在残っていない。

 非常時の備えに常時手をつけてしまうようでは、非常時の役に立つはずがない。
 

【注】
(1)
佐久間甚八は名を茂之、字を思明、号を東川(とうせん)といい、書家としても知られた。著書に『天寿随筆』。
(2)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。162〜163コマ目。
2025年6月26日(木)
おバカな時代がなつかしい(3)
 嘉永6年(1853)のペリー来航をさかいに、儒者センセイたちも安穏としていられなくなった。喫緊の外交問題について、幕府からしばしば諮問を受けるようになったのだ。また内憂外患がうち続いたため、真に優秀な人材がますます必要となった。

 こうした幕府の危機感は、学問吟味の試験問題からも見て取れる。学問吟味の試験問題は、それまでは中国の経書・史書から出題するのがふつうだった。しかし安政3年(1856)の学問吟味では、次のような時務策(当面する政治課題に答える問題)が出題されている。


 
夷人(いじん。外国人)の交易は我国(わがくに)ニ益なし。これを許せば国家之ひへい(疲弊)となり、許さざれバ諸蛮(しょばん。諸外国)一致して兵力を以(もって)許否を決せんとす。如何(いか)に所置(しょち)すべき哉(や)。(1)


 この課題は、学問吟味受験者のみに課せられたものではなかった。この学問吟味に先立ち、同年8月に出された達書には


 
学問吟味罷出候者(がくもんぎんみにまかりいでそうろうもの)ニ不限(かぎらず)、有志之者(ゆうしのもの)勝手次第(かってしだいに。自由に)可罷出(まかりいずべし)(2)


とあり、「有志之者」にも意見書を提出する機会を与えたのだ。そして、その提案が有用であれば、幕府の政策として


 
御採用ニも可被備(そなえらるべき)御趣意(ごしゅい)(3)


であると明記した。

 こうして、政治上・外交上の諸課題について解決策を提案できる人材が必要とされる時代となった。そして、開国か攘夷か、はたまた別の道を模索するのか、激しい議論がかわされるようになった。

 優秀な人びとに日の光が射すようになった半面、以前のような悠々自適な生活は許されなくなった。思わぬ出世をした者もいたが、その言説が政敵の怒りを買って身を滅ぼす人も出てきた。

 漢字もろくに読めないおバカな幕臣たち。小馬鹿にされる儒者センセイ。世の中に埋もれてしまう才能ある人びと。それでも、徳川三百年の治世は揺るがなかった。

 逆説的ではあるが、それらはある意味、徳川幕府泰平の世の証しでもあったのだ。だから、幕臣だった大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)は、次のように懐古している。


 学者の尊崇されぬ世ほど慕
(した)わしきは無し。(4)


【注】
(1)
藤川整斎『安政雑記』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号150-0158。「時務策之御題」。
(2)(3)『安政雑記』同上。「学問吟味之内時務策ニ付御達書」。
(4)氏家幹人『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.172〜173。
2025年6月25日(水)
おバカな時代がなつかしい(2)
 ある時、幕府に親類書を提出せねばならなくなった。その際、学問好きの森山孝盛(もりやま・たかもり)のもとへは親類書の代筆依頼が殺到した。森山は12人分もの親類書を代筆してやったという(1)。世襲制の上にあぐらをかいた幕臣たちの多くは、こんな簡単なものさえ書けない低い学力しかもちあわせていなかったのだ。

 老中になった松平定信も、幕臣たちの学力の実態を知って唖然とした。定信が倹約令を発すると、次のような幕臣たちの声が定信の耳に入ってきたという。


 
西下(定信)の御役後(老中就任後)は、質素・倹約・齟齬(そご)・不正・棄(き)等の文字をば見知り候(みしりそうろう)と、悦(よろこ)び候(そうろう)よし(『よしの冊子』)(2)


 定信以前の田沼時代でさえ倹約令は出されていた。しかし、こたびは定信が頻繁に「質素・倹約」等の文書を発するので「質素」や「倹約」などの文字を「見知」ることができたと、幕臣たちが喜んでいるというのだ。

 幕臣といえば、今でいうなら国家公務員やその候補生に相当する。そんなエリート連中が、(全員がそうではないにしても)これほどまでの低レベルとは。もはや笑い話で済ませていられる段階ではない。危機感を募らせた定信は、文武奨励策をつよく打ち出し、学問吟味(学力試験)による優秀な人材確保に乗り出した。

 一方、こうした時勢に乗り遅れまいと、にわか勉強を始めた幕臣たち。まずは本屋に殺到し、儒学の教科書・参考書を買いあさった。そのため、四書五経類の値段が高騰。どこの書店でも品切れ状態になるという大騒ぎとなった。
(『よしの冊子』)(3)

 しかし、何せ「馬鹿者」ばかりだったため、何から手をつけてよいかがわからない。殊勝にも私塾に通って勉強を始めてみるも、先生によってテキストの訓読や解釈が異なり、どれが正解かわからず頭のなかが混乱(当時は同じ漢文を読むにしても、学統・学派によって先生の訓読の仕方・解釈がちがっていた)。

 途方にくれた幕臣たちは、何か基準を示して欲しいと幕府に泣きついた。


 
此節(このせつ)学問被行候へ共(がくもんおこなわれそうらえども)、学問の趣意(しゅい)も不弁(わきまえず)、只騒立候(たださわぎたてそうろう)もののみ多有之候(おおくこれありそうろう)ニ付(つき)、何卒(なにとぞ)(うえ。幕府)より学流の御糺(おただ)し有之(これあり)、正学(せいがく。朱子学)に趣候様仕度(おもむきそうろうようつかまつりたき)ものとさた仕候(つかまつりそうろう)よし(『よしの冊子』)(4)


 もともと幕府の御用学問は朱子学(正学)だ。それなら、テキストの訓読や解釈の基準は林家が示せばいいだろう、ということになった。だから学問吟味(学力試験)も、朱子学に沿っておこなわれたのだ。

 現在でも、大学入試の外国語試験で英語が必修科目なら、受験生は受験予備校に通って英語を勉強する。朱子学が必修科目となれば朱子学を講じる私塾に受験生は通うようになり、陽明学や折衷学など「異学(朱子学以外の儒学各派)」の私塾は閑古鳥が鳴くようになる。これが「寛政異学の禁」の正体だ。

 高校日本史の参考書等には、「幕府は寛政異学の禁によって朱子学以外の儒学各派を一切禁止し、思想統制をはかった」というようなことがよく書かれてある。しかし「寛政異学の禁」の本来の意図は、まったく別なところにあったのだ。


【注】
(1)
山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、NHK出版(NHKブックス)、P.147。
(2)(3)(4)引用史料およびその他は、鈴木俊之氏『本の江戸文化講義』2025年、株式会社KADOKAWA、P.278〜279、P.284〜286によった。
2025年6月24日(火)
おバカな時代がなつかしい(1)
 林家の墓は「儒者棄場(じゅしゃすてば)」と呼ばれた(1)。なんとも失礼な言い方だが、この言葉には江戸時代の儒者たちの立ち位置を彷彿させるものがある。儒学は武士の教養だが、儒者はさほど尊敬されていなかったのだ。心の中では、むしろ小馬鹿にされていたらしい。なぜだろう。

 当時は世襲制だったから、武士の嫡子には将来就任する役職や出世の道が、家柄や家格等によってある程度約束されていた。だからあくせく勉強する必要などなかったのだ。

 儒学の教養は治民のために必要かも知れない。だからといって高度な学力は不要だ。そんなものは学者にまかせておけばよい。武士の本分は武にある。そんな認識だった。実際、幕府の職制上でも、行政職の役方よりも軍事職の番方の方が重くあつかわれた。

 そんな風潮だったから、学問に熱心に励んでも明るい未来はなかった。努力が報われなければ、自然と学問には身がはいらなくなる。それでも学問に励む武士がいるとすれば、それは趣味の領域だった
(2)

 そんなわけで、当時の幕臣たちの中には、儒書の素読は文字を覚える手段くらいにしか考えていなかった者もいたという
(3)

 そもそも、儒者が説く古代中国の聖人たちの教えとは何か。

 それは、気の遠くなるほど昔の、しかも外国人(中国人)たちが説く思想だ。だから儒者は、漢字ばかりの難解な本を講釈して飯の種にする、浮世離れしたセンセイくらいにしか思われていなかったのだ。


【注】
(1)
市岡正一『徳川盛世録』1989年、平凡社(東洋文庫)P.227。
(2)(3)山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、NHK出版(NHKブックス)、P.147〜148
2025年6月20日(金)
素麺が鬼の面に化けた
  ある時、主人から素麺(そうめん)を買ってくるよう言われた下男。早朝から外出して、戻ってきたのは日暮れ時。しかも、買ってきたのは鬼の面。どうして素麺が鬼の面に化けたのか。原文(『醇堂叢稿』)は以下の通りだ。


 
この頃(最近)、從僕(じゅうぼく。下男)に命じて索麺(そうめん)を買(かわ)んと為(な)し、


「下り
(下り物。関西で生産された品)はよろしからず。地ざうめん(地物の素麺。地元産の小麦で作られた素麺)を求め来るべし。」


と命じたるに、朝まだき
(早朝)よりたちいでて、日暮るるまでかへり来(きた)らず。如何(いかが)せしやとおもひしに、かへり来(きた)りて云(いわく)


「仰
(おおせ)せありし通りにして、江戸中の翫物店(がんぶつてん。おもちゃ屋)ことごとくたづね候得共(そうらえども)、地蔵の面は何處(いずこ)にも無之(これなし)。よつて鬼の面を買来(かいきた)り候(そうろう)。


とて差出
(さしだ)しける。あまりに興(きょう)ざめて叱咤(しった)する事もあたはざりし。(1)



 下男は「地素麺(じぞうめん)」を「地蔵面(じぞうめん)」と勘違いして江戸中のおもちゃ屋を探し回り、探しあぐねて代わりに鬼のお面を買ってきたのだった。

 江戸時代、武家や商家の屋敷で下男・下女奉公をしていたのは村方の百姓たちだった。当然のことながら彼ら地方出身者は、江戸の人びとが使う言葉や江戸の常識に関する知識に乏しかった。そのため、主人から何か用事を言いつけられても、とんちんかんな対応をしてしまうこともあったのだ。

 ただしこの場合は、主人の方も配慮不足だった。「地ざうめんを求め来るべし」とぶっきらぼうに命じるのではなく、「地物(じもの)の素麺を〇〇束(たば)、□□町の××屋で買って来るべし」と、ていねいに説明する心くばりがあれば、こうした行き違いは防げたろうに。


【注】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。138〜139コマ目。
2025年6月18日(水)
考古学出発の日
 大森貝塚を発見したエドワード・シルベスター・モース(1838〜1925)が来日したのが、1877年(明治10)6月18日。これを記念して、今日6月18日は「考古学出発の日」に制定された。

 モースはアメリカ人動物学者で、腕足類の研究のために来日した。来日した翌日(6月19日)、横浜駅から前橋駅へと向かう汽車の車窓から貝殻の堆積している場所を発見。貝塚と確信したモースは、同年9月から12月にかけて同地の発掘調査をおこなった。この大森貝塚の調査は、わが国初の学術的発掘となった。この時の調査報告書は、現在でも簡単に見ることができる(『大森貝塚』岩波文庫)。

 なお、「日本考古学発祥の地」となった大森貝塚は、1955年(昭和30)3月24日に国の史跡に指定。その後史跡一帯は、大森貝塚遺跡庭園(東京都品川区大井6−21−6)として整備された。
2025年6月16日(月)
家茂は何と言った?
 あの徳川家茂(とくがわ・いえもち。1846〜1866)がまだ少年だった頃、とんでもない悪戯(いたずら)をしでかしたことがあった。大きな水入れを手にすると、習字の先生の頭へ水をかけたというのだ。

 実は、不覚にも失禁してしまった先生の体面を守るため、家茂が咄嗟にとった行動だった。家茂の心やさしい人柄を語る際に取り上げられる有名なエピソードのひとつだ。

 この時家茂は、「あとは明日にしよう」とか「明日も出仕せよ」などという言葉を先生にかけてその場を出ていったとか。エピソード紹介者によって、その言葉はいろいろだ。本当は何と言ったのだろう。

 話の出どころが戸川安宅著『幕末小史』とわかったので、次に全文を紹介しよう。なお、読みやすくするため適宜句読点を補い、改行等をした。


 
(よ。私)が分家戸川播摩守安清(とがわ・はりまのかみ・やすずみ)は蓮仙(れんせん)と號(ごう)し、隷書(れいしょ)を能(よ)くし、當時(とうじ)知名の文人なりしとは世の知る所なり。

 安清は家茂公の習字の師なりき
(御相手(おあいて)と稱(しょう)せり)。當時は古稀(こき。70歳)を過ぎたる老翁(ろうおう)なりしが、公の机前(きぜん)に正坐し、覺(おぼ)えずして少しく尿(いばり)を洩(も)らせり。安清が苦心如何(いか)ばかりか。其時(そのとき)公は机上の大なる水入れを手に取り、安清が白髪(しらが)の頭へザット飜(こぼ)して手を打ちて笑ひ給(たま)ひしにぞ。

 近臣等
(きんしんら)は餘(あま)りの御悪戯(おんあくぎ)と諌(いさ)めしが、後に其事(そのこと)ありしを知り、安清は云(い)ふまでも無く、近臣も其(その)機智(きち)と其仁惠(そのじんけい)に感涙(かんるい)を流しゝことありしと聞く。

 
今日(こんにち)とても宮中の御儀式は申すまでもなく、御前に於(おい)て敬禮(けいれい)を失することあらば譴責(けんせき。過失を厳しく咎められること)を受くるまでもなく、自ら其職(そのしょく)を退き罰を待つ可(べ)きは當然(とうぜん)なり。特に繁文褥禮(はんぶんじょくれい。礼儀や規則・形式などが細々して煩わしいこと)の爲(ため)には生命・家禄に關(かん)する事の尠(すく)なからざる幕府の代(よ)に於て、老年頽齢(ろうねんたいれい。高齢)の人と雖(いえど)も君前(くんぜん。主君の前)に於て大不敬ありしと監察吏(かんさつり。監督・検察をおこなう役人)の聞く所とならば、譴責は免(まぬか)る可(べ)からず。

 
公が悪戯を爲(な)して其罪(そのつみ)を免(のが)れしめしは、凡庸(ぼんよう。平凡)の器量(きりょう。才能と徳)と云(い)ふ可(べ)からず。(1)  


 結論から言えば、この時家茂は「手を打ちて笑」っただけで、何も言ってはいない。少なくとも『幕末小史』には記載がない。

 悲劇の将軍家茂に対する強い思い入れが、発してもいない家茂の声をエピソード紹介者に聞かせたのだろうか。


【注】
(1)
戸川安宅著『幕末小史・巻3』1899年、春陽堂、P.162〜163。国立国会図書館デジタルコレクションによる。  
2025年6月13日(金)
飛んだ茶釜
 明和頃(1764〜177)、江戸谷中の笠森稲荷の門前には鍵屋(かぎや)という水茶屋があり、そこにお仙(1751〜1829)という看板娘がいた。

 お仙は評判の美人で、今風に言えば「会いに行けるアイドル」だった。大田南畝も「谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙十八歳、美なりとて皆人見に行」(『半日閑話』)くほどだったと書いている。

 このお仙を鈴木春信(1725〜1770)が錦絵で取り上げると、素人娘の一大ブームが巻きおこった。何せ、当時の江戸は男性独身者の多い都市だったから、お仙の錦絵は飛ぶように売れた。今でいうならブロマイドだ。果てはお仙人気にあやかって手拭い・人形などさまざまな関連推しグッズが作られ、素人娘のランキング(『娘評判記』)までが刊行される盛り上がりよう。

 当時、茶店の茶代は5、6文が相場だったが、茶屋娘を置く水茶屋の茶代は数十文と高かった。それにもかかわらず、茶代に100文(1文=40円なら4000円。ゲイシャのような高級コーヒー1杯の金額だ)支払っていくような気前のよい客も多かった。そのため、ほかの茶屋もこぞって茶屋娘を雇うようになった。現在の浅草の仲見世にあった二十軒茶屋では、美しい娘ばかりをずらりと取り揃えた。


   二十人 美女を寺内へ おん並べ


 こうした茶屋娘目当てに茶屋を訪れる男性客の中には、鼻の下を伸ばして何杯もおかわりを注文し、ついには腹を下す馬鹿者もいたという。


   水茶屋の 娘の顔で 下す腹


 さて、笠森お仙をはじめ水茶屋の看板娘は、美女の代名詞となった。そこでこの頃「飛んだ茶釜」という流行語が生まれた。とんでもない美女だ、という褒め言葉だ。しかし、娘も年頃になれば結婚もするだろうし引退もしよう。お仙も人知れず、ある旗本のもとへと嫁いでいった。

 しかし、そんなことなど知らぬ男ども。お仙目当てに鍵屋に出かけたところ、そこにいたのはハゲ頭の親父だったのでびっくり仰天。ここから「飛んだ茶釜(=美女)が薬罐(=薬罐頭の親父)と化けた」という流行語が生まれた。「飛んだ茶釜」は、とんでもなく驚いた、を意味するようになった。お仙引退に対する江戸っ子の落胆ぶりがうかがえる。

 なお、お仙引退後しばらくたって刊行された黄表紙『辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね)』(恋川春町作。1778年刊)にも、「とんだ茶釜」という化け物が登場する。「とんだ茶釜」のフレーズはその後も江戸っ子のあいだで生き続けたのだ。


【参考】
・国立国会図書館HP。「本の万華鏡」>第34回推し活協奏曲>第1幕会える推し茶屋娘。
・鈴木俊幸『本の江戸文化講義、蔦屋重三郎本屋の時代』2025年、角川書店、P.173〜175。
・安藤優一郎『大江戸の飯と酒と女』2019年、朝日新聞出版(朝日新書)、P.229〜236。
・前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社(講談社学術文庫)。「飛んだ茶釜」「飛んだ茶釜が薬罐と化けた」。
・小池正胤外編『江戸の戯作絵本(1)初期黄表紙集』1980年、社会思想社(現代教養文庫)。
2025年6月12日(木)
恩に感謝する
 慶安4年(1651)4月20日、3代将軍徳川家光が死去した際、堀田正盛・阿部重次らが殉死した。しかし4代将軍徳川家綱は、寛文3年(1663)5月、代はじめの「武家諸法度」発布の折、覚書の形で正式に殉死を禁止した。


     
(おぼえ)

 殉死は古
(いにしえ)より不義・無益の事なりといましめ置(おく)といへども、仰(おおせ)せ出(い)だされこれなき故(ゆえ)、近年追腹(おいばら。殉死)ども余多(あまた。数多く)これあり。向後(こうご。今後)左様(さよう)の存念(ぞんねん)これある者には、其(そ)の主人常々(つねづね)殉死致(いた)さざる様に堅く申し含むべし。

 若
(も)し以来これ有るに於(お)いては、亡主(ぼうしゅ。亡き主君)の不覚悟(ふかくご)越度(おちど)たるべし。跡目の息(あとめのそく。後継者の子息)も押留(おしとど)めせしめざるに、不届(ふとど)きに思召(おぼしめ)さるべきもの也(なり)(1)



 これを契機に、戦国時代の遺風であった殉死が「不義・無益の事」と否定され、武士の主従関係のあり方が、主人個人に対する奉公から主人の家(主家)に奉公する形へと大きく変換したのである。

 さて、家光の恩寵によって取り立てられた近臣のひとりに久永重章(ひさなが・しげあきら。1626〜1694)という旗本がいた。この時重章は殉死しなかったため、「久しく永く命が惜しいか」と世間から非難の声があがった。

 しかし久永家では、家光の恩寵を長く忘れることはなかったのである。大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう。1837〜1897)の『醇堂叢稿』に次のようにある。


 
本郷御弓町(ほんごう・おゆみちょう。現、東京都文京区本郷1丁目)なる久永石見守家(いわみのかみけ)ニ而(て)は、毎年四月廿日ヲ以(もっ)テ大猷公(たいゆうこう。家光)の御祭儀を執行する事なり。

 
(その)儀式、身分ある者ハ芙蓉の間(ふようのま。江戸城内で留守居・大目付・三奉行ら重職の控えの間)の有司(ゆうし。官吏)より、われら如(ごと)き鼠輩(そはい。つまらない連中)に至るまで、服忌(ぶっき。喪に服すこと)あるものを除き正服(せいふく。儀式などで着る正式な服)にて行向(いきむか)ひ、門に至れば閽人(こんじん。門番)誰何(すいか。姓名をたずねる)して姓名を名乗り、開門してこれを通し、玄関より取次(とりつぎ)案内して書院(しょいん。書院造りの座敷。武家では儀式や接客に用いた)へ通し、重役のもの在之(これあり)

「能
(よ)くこそ今日ご参拝被下(くだされ)かたじけ無き」

段申述
(もうしの)べ、

「主人も拝顔可仕候処
(はいがんつかまつりそうろうところ)、殊外(ことのほか)の混雑ニ付(つき)失敬(しっけい。失礼)も可仕哉(つかまつるべきや)。御用捨被下度(ごようしゃくだされたし)

と會釈
(えしゃく。挨拶)し、給仕(きゅうじ)の者即(すなわ)ち神供(しんく。神への供物)残りの膳部(ぜんぶ)を持出(もちいで)てすゝむ。その献立(こんだて)、貴賤(きせん)の別無く同じ事なり。書院にて数多(あまた。大勢)の客集(あつま)りて、何(いず)れもつゝしんで御料理を頂戴(ちょうだい)する事也(ことなり)


 
又、身分いやしきもの(身分の低い者)江は臺所(だいどころ)ニ而(て)振舞(ふるま)ふ事也。乞丐(きっかい。物もらい)の徒(と)は門内へ入れず、門前にて白米にて施行(せぎょう。施し与えること)する事なり。

 
その日の雑踏(ざっとう)、実にいはん方なし。予(私。醇堂)は此家(このいえ。久永家)と少しくちなみあるをもつて、連年参拝してこのもつさう飯(物相飯。丸い木型に詰めて押し抜いた御飯)を頂戴(ちょうだい)したり。(2)


 この日、諸人にふるまうために久永家で用意する米の量は、4斗入りの米俵で100俵にものぼった。汁の実には豆腐を入れた。大量注文をうけた豆腐屋では他の客を断り、祭儀2、3日前からその準備にあたった。

 かくまでして祭儀を続けてきた理由は、家光の「御恩の優渥(ゆうあく。お恵み)にして子孫の繁昌せるをかたじけなしとして、御恩を報ずるため」であった。


【注】
(1)
高埜利彦「殉死の禁止について」(インターネット上の「山川&二宮ICTライブラリ」を参照)。https://ywl.jp/file/REtXgYzL1Eq03YL7p7fC/
(2)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。121〜122コマ目。
2025年6月11日(水)
小島成斎
 小島成斎(こじま・せいさい。1796〜1862)は福山侯(阿部氏)の右筆だった。楷草篆隷の書体を問わず、その腕前は神域に達していたという。嘉永6年(1853)に再来したロシア使節プチャーチンへの返翰は、この人の手に成るものだった。

 ある日、福山侯が佐倉侯(堀田氏)と雑談していたおり、話題が成斎のことに及んだ。佐倉侯は福山侯に、成斎に書の教授を願えまいか、と懇望した。福山侯は佐倉侯の要請を承諾すると、早速成斎を呼び出してこれを命じた。

 しかし、成斎は主命を拝したものの、佐倉侯のもとに赴くことはなかった。そこで福山侯が成斎を叱責すると、成斎は次のように返答した。


 
(書を)学ぶをゆるす。往(ゆき)て教ふるを須(もち)ひず。


 他藩の者たちが私から書を学ぶのは構わない。しかし、私自らがよそに赴いて教えることはできない。私は福山侯の臣下である。臣下はその主人にために尽くすのが本分である。わざわざ赴いて他藩主・他藩士のために教えるのは臣下の本分でない、と。

 福山侯は成斎の言をよしとした。佐倉候も成斎の言に理解を示し、それ以上の無理強いはしなかった。  

 しかし、腹の虫がおさまらないのは佐倉の人々。佐倉侯の要請を成斎が断ったことに変わりはない。佐倉侯といえば老中をも輩出する由緒ある家柄。その殿様の面子を、一介の右筆風情が潰したのである。


 
ゆへに佐倉の人々、五一(ごいち。成斎の通称)を賞賛する一人も無し。その不遜(ふそん)を憎んでなり。


 かくして佐倉では、成斎の書はまったく評価されなかった。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。131コマ目。  
2025年6月10日(火)
坊主のテン敵
 寺社奉行脇坂安董(わきさか・やすただ。1767〜1841)は、延命院事件(1803)で大奥女中と僧侶の乱れた関係を厳しく処断した。そのため、僧侶たちは脇坂をひどく恐れた。


  
延命院 ならば命は 延びように 短命院では 首はころころ
 
 (処断は僧侶に厳しく、延命院の住職は死刑になった。「ころ」は処罰された下女の名前)



 脇坂は文化10年(1813)、寺社奉行を辞職する。ところが、それから16年も経った文政12年(1829)になって、ふたたび寺社奉行に返り咲く。背景には、相も変わらぬ大奥女中と僧侶の醜聞に業を煮やした家斉の起用があったという。

 天敵である脇坂の再登場に、身に覚えがある僧侶たちは震えあがった。そこで次のような落首が出た。


  
また出たと 坊主びつくり 貂(てん)の皮


 「貂の皮」は脇坂家の代名詞。脇坂家では立て道具である二本鑓の鞘に、代々「貂の皮」を使用する。これは「賤ヶ岳七本槍」の一人、脇坂安治(わきさか・やすはる)の武勇に由来する。
(1) ちなみに司馬遼太郎は、安治を主人公にした短編小説『貂の皮』でその来歴を紹介している。

 さて、脇坂をひどく恐れた僧侶たち。しかし、何事にも例外はあるものだ。


 
此時(このとき)龍野侯(たつのこう。脇坂安董は播磨国龍野藩藩主寺社の尹(じしゃのいん。寺社奉行)として僧侶ミなこの人を畏憚(いたん。おそれはばかる)せしが、榮翁(えいおう)と丹下(たんげ)は脇坂氏を少しも憚(はばか)る色無きをもつて、何ものやらん

  てんの皮 おそれぬ坊主 ふたりあり
(2)


 栄翁は、11代将軍家斉の正室広大院の父、島津重豪(しまづ・しげひで)のこと。丹下は、老中水野忠成(みずの・ただあきら)の公用方土方丹下(ひじかた・たんげ)。当時はともに剃髪して法体姿だった。


【注】
(1)
以上、岡崎守恭『遊王徳川家斉』2020年、文春新書、P.98〜104による。
(2)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。127コマ目。
2025年6月9日(月)
権力者にとりいる
 江戸時代の役人たちの中には、立身出世の伝手(つて)を求めてのしあがり、歴史に名を残した者たちがいる。真偽のほどは不明だが、『醇堂叢稿』にはそうした役人の例として、根岸鎮衛(ねぎし・やすもり。1737〜1815)の逸話を紹介している。

 根岸鎮衛といえば、名奉行と称賛される人物だ。その出世の端緒は松平定信の抜擢といわれるが、その実は田沼意次の引立てによるものだった。

 根岸には立身出世の野心があった。下戸にもかかわらず、ある日したたかに酒を飲んで酩酊した。そして、そのまま田沼邸のドブの中にころがり落ちたのである。ドブにはまった酔っ払いを発見した田沼家の門番は非常に驚き、根岸を助けあげると介抱して帰宅させた。

 するとその翌日から根岸は、風雨霜雪寒暑の別なく、謝礼と唱えて門番のところに日参するようになった。それが一日も欠けることなく三年も続いた。これが噂となって、田沼家の公用人の耳にまで達した。それを知った根岸は、公用人の屋敷へも足を運ぶようになった。するとそれがまた家老の耳に入り、ついには田沼と面会するという宿志を達したのである。

 根岸はまた、機知にも富んでいた。

 ある時、田沼家の門番がふざけて


  
いつ見ても 同じ色なる その羽織(はおり)(いつ見ても、あなたの着ている羽織は同じですね)


と狂句の上の句を詠みかけると、根岸は即座に


  
そなたの袴(はかま) いく代(よ)(へ)ぬらん(あなたの袴はどれほどの年代を経たものでしょうか)


と付けたのである。いよいよこいつは面白い奴だということになって、根岸は田沼家の奥向きにまで立ち入るようになったという。

 また、佐々木信濃守顕発(ささき・しなののかみ・あきのぶ。1806〜1876)という人物は、もとは一介の旗本家来に過ぎなかった。それが御家人・旗本と身分を上昇させ、のちには勘定奉行・町奉行・外国奉行等へと大出世した。大谷木醇堂によると、佐々木もまた根岸のような策略家だったという。

 ある日佐々木は、福山侯阿部正弘(あべ・まさひろ。後に老中)夫人の酌で酒を飲む機会があった。その時、佐々木はわざと酔い潰れた振りをして、夫人の膝を枕として臥(ふ)したという。こうして阿部夫人に取り入ったことから、佐々木の出世の道が開けたというのだ。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。53〜54コマ目。
2025年6月7日(土)
通り者
 長谷川平蔵(はせがわ・へいぞう。1745?~1795)といえば、小説・ドラマの世界では凶悪犯たちを相手に大活躍する人物。虚像ばかりがひとり歩きしている感もあるが、紛れもなく実在の人物だ。高校日本史の授業で、人足寄場創設に関わった人物として勉強された方も多いだろう。

 そんな平蔵だが、若い頃は家の金を勝手に持ち出し遊びほうける「通り者」(放蕩者とか遊び人とかいう意味)だったという。岡藤利忠著『京兆府尹記事(けいちょうふいんきじ)』は、平蔵の経歴を次のように紹介する。
(1)


 
(かく)の如く(ごと)此人(このひと。平蔵)活達(かったつ。闊達)の生(うま)れ付(つき)ゆへ、父備中守(2)検約(倹約)を専(もっぱ)らとして貯(たくわ)へ置(おか)れし金銀も遣(つか)ひはたし、遊里(ゆうり。遊郭)へかよひ、剰(あまつさ)へ悪友と席を同じふして不相応の事などいたし、大通(だいつう。遊興の道にくわしい人)と云(いわ)るゝ身持(みもち)をしけるが、其(その)屋敷本所(ほんじょ)二ツめ(3)なりけれバ、「本庄の鉄(本所の鉄)」と仇名(あだな)せられ、所謂(いわゆる)(とお)りもの也(なり)ける。 「鉄といいしはいかが」 と聞(きく)に、幼名鉄蔵(てつぞう)といいし故(ゆえ)なり。

 其後
(そのご)いか成(なる)手筋(てすじ)(ゆえ)か又(また)器量(きりょう)故に秀出(ひいだ)し所を、天の恵(めぐみ)といふにや、おもひよらず御書院組(4)へ御番入(ごばんいり)仰付(おおせつけ)られける。是(これ)安永八亥年(あんえいはち・いどし。1779)の事也。


 
(この)時より行跡(ぎょうせき)を改め、御奉公(ごほうこう)の忠勤(ちゅうきん)策の間(束の間。つかのま)も怠りなく相勤(あいつとめ)けるが、御徒士頭(5)へ傳役(てんやく)、又御先手(6)に昇進(しょうしん)す。

 
其後(そのご)盗賊火付改役兼帯(7)、其時(そのとき)一封の書(いっぷうのしょ。人足寄場設立の意見書)を補佐重臣(ほさ・じゅうしん。将軍家斉の補佐役)奥州(おうしゅう)白川(白河藩)の城主松平越中守(松平定信)へ献ず。


 若い頃の平蔵は放蕩者だったが、父親の死後は素行を改めて仕事に邁進した。そしてその後、人足寄場の設立を老中松平定信に訴えたというのだ。


【注】
(1)
岡藤利忠著『京兆府尹記事・三』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:152-0135)。10〜11コマ目。
(2)平蔵宣以(のぶため)の父は平蔵宣雄(のぶお)。京都町奉行就任の翌年(安永2年、1773)に客死。
(3)万治2年(1659)竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近い方から一之橋~五之橋と命名された。その二之橋あたりの意。
(4)御書院組(ごしょいんぐみ)は殿中書院の警固、将軍外出時の護衛などにあたる。平蔵は西丸書院番を命ぜられた。
(5)御徒士頭(おかちがしら)は徒士組を率いて、江戸城および将軍の警固に当たる役職。
(6)御先手(おさきて)は戦時に先陣をつとめ、平時は江戸城の警備、将軍外出時の護衛などを担当する役職。弓組と鉄砲組があったが、平蔵は天明6年(1786)に弓組の頭(かしら)に就任した。
(7)盗賊火付改役(とうぞく・ひつけあらためやく)兼帯は強盗・放火などの重罪犯をとりしまる臨時の役職で、御先手頭が兼帯したため加役(かやく)とも呼ばれた。平蔵は天明7年(1787)に就任。
2025年6月5日(木)
米はどこから
 「米は買ったことがない」とのたまわった大臣がいた。米価高騰のおりがら、庶民感情を逆なでするような発言だった。下情を解さぬこと、まるで江戸時代の大名のようだと驚いた次第。

 閑話休題。ここで、米にまつわる話題をひとつ。

 ある時、帝鑑之間詰(ていかんのまづめ)の大名たちが、将軍の出御(しゅつぎょ)を待つ間のひまに、次のような会話をかわしていた。

甲「大名といえば世間知らずのように言われるが、そんなこともあるまい」

乙「それでは貴殿は、米がどこから生じるかご存知か」

甲「米は臼(うす)の中から生じるのであろう」

乙「そんな馬鹿なことをおっしゃるから、大名は世間知らずと言われるのです」

甲「それなら貴殿は、米がどこから生じるかご存知なのか」

乙「それでございますよ。米は釜(かま)の中より生じるものでございます」


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35・36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。122〜123コマ目。
2025年6月4日(水)
酷吏松本秀持
 わが国の歴史上、人生の絶頂と奈落をともに経験した人物は少なくない。田沼時代に経済官僚として活躍した松本秀持(まつもと・ひでもち。1730〜1797)もそのひとりだ。

 田沼時代といえば、老中田沼意次(1719〜1788)が中心となって功利的・重商主義的諸政策を推進した時代だ。その期間は、意次が評定所に出座した宝暦8年(1758)から、老中を辞職して失脚する天明6年(1786)までの28年間をあてる。

 この28年間は、意次を支えた勘定奉行の交代で2期に分けることができるという。前期22年間(1758〜1780)を担当したのが、能吏として知られた石谷清昌(いしがや・きよまさ。1715〜1782)。そして、後期6年間(1781〜1786)を担当したのが松本秀持だ。
(1)

 秀持は、通称を弥八郎、次郎左衛門、十郎兵衛などといった。その父忠重(ただしげ)は富士見宝蔵番であり、父の遺跡を継いだ秀持は天守番
(2)だった。

 当時は宝蔵番・天守番ともに中下級旗本がつとめる役職だった。その証拠に、寛政年間(1789〜1801)に江戸幕府が編修した大名・旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』の条例では、今回は「呈譜(ていふ)の列にあらず」(大名・旗本の家譜に載せることはできない)として、宝蔵番・天守番は土蔵番・茶道頭・同朋とともに御家人へ降格されているのだ。
(3)

 宝暦12年(1762)、勘定に昇進した秀持は、以後経済畑を歩んでいく。明和3年(1766)には勘定組頭、安永元年(1772)には勘定吟味役に転じ、布衣(ほい。6位以下で御目見以上の者が着る無紋の狩衣)の着用を許された。そして安永8年(1779)には勘定奉行に抜擢され、上総国市原郡のうちに500石を知行し、従五位下伊豆守に叙任されたのである(4)。こうして秀持は、意次のもとで蝦夷地開発、印旛沼・手賀沼干拓などさまざまな経済政策に辣腕をふるった。このころが秀持の絶頂期だった。

 しかし意次が失脚すると、一挙に奈落の底に突き落とされる。職を奪われ小普請(勘定奉行職だった者なら通常は寄合)に貶せられた上、減封(知行半分を没収)・逼塞(ひっそく。日中の外出を禁ずる謹慎刑)を命じられる。その後いったん許されるが、在職中の越後買米事件
(5)の責任を問われてふたたび減封(100石没収)・逼塞の憂き目にあう。そうして失意のうちに寛政9年(1797)、68歳で死去するのである。(6)

 秀持は庶民から酷吏と罵倒された。田沼一派の失政に対する鬱積した不満・怨嗟のあらわれだ。

 たとえば『黒白水鏡』(1789年刊)という黄表紙がある。秀持はその中で「岩永かつもと」として描かれる。「岩永かつもと」は、浄瑠璃「壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)」に登場する架空の人物、岩永致連(いわなが・むねつら)の末裔という設定だ。岩永致連の人柄は、平景清の恋人阿古屋を残虐な拷問にかけようとするなど、非常に底意地が悪い。秀持は、そんな酷薄な人物の子孫に擬されたのだ。
(7)


【注】
(1)
深井雅海「幕府の財政赤字に挑んだ政治家田沼意次と松平定信」-『週刊新発見!日本の歴史・33 江戸時代6』2014年、朝日新聞出版、P.10-
(2)天守番は天守・天守台番所の守衛を任務とする。江戸城天守は明暦3年(1657)の大火で焼失し再築されなかったが、天守番の役職は存続した。
(3)小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社学術文庫、P.38。
(4)『寛政重脩諸家譜・第2輯』1923年、國民圖書、P.942。
(5)飢饉のための米穀買付資金を横領したことが発覚し、当時勘定組頭だった土山宗次郎が斬首。勘定奉行だった松本秀持ら数十人が処罰された事件。
(6)『寛政重脩諸家譜・第2輯』前出、P.942。
(7)石部琴好作・北尾政演画『黒白水鏡』-小池正胤外3名『江戸の戯作絵本・3』2024年、ちくま学芸文庫、P.461注(十)-
2025年6月2日(月)
話はふくらむ
 『寛政重修諸家譜』の本多忠勝(1548〜1610)の伝に、天正18年(1590)7月、秀吉の宇都宮仕置き(小田原征伐後の戦後措置)の際、当時庁南(ちょうなん。現、千葉県長生郡長南町)にいた忠勝をわざわざ呼び出して、佐藤忠信(源義経の忠臣のひとり)の兜(1)を与えたという記事がある(以下読みやすくするため、適宜句読点・濁点等を入れた)。


 
かくて關東ことごとく平均せしにより、太閤(たいこう。秀吉)陸奧國におもむかむとて下野國宇都宮にいたり忠勝をめさる。忠勝、廳南(ちょうなん)より馳來(はせきた)りてこれに謁(えっ)す。ときに太閤ひとつの兜をいだし、

「これさきに奧州
(2)より献ずるところにして佐藤忠信が兜なり。この兜を着むもの、今の世にありて、汝(なんじ)にあらずしてたれかなすべき」

とて忠勝にさづく。忠勝これをつたへて家の寶
(たから)とす。(3)



 『寛政重修諸家譜』では、秀吉が忠勝に兜を下賜した理由は曖昧だ。しかし『武徳編年集成』では、忠勝の戦功・武勇がその理由だったと明確に記す。とくに小牧・長久手の戦いのとき、数万の秀吉軍に小勢で対抗した武勇を賞したことになっている。


「汝(なんじ) 家康ガ輔佐(ほさ)トシテ累年(るいねん)ノ戰功(せんこう)世ニ竝(なら)ブ者ナシ。

 殊
(こと)ニ尾州(びしゅう。尾張国)長久手ノ役(えき)、予(よ。秀吉)ガ數萬(すうまん)ノ大軍ヲ屑(くず)トモセズ(何とも思わずの意)、微兵(びへい。わずかの兵力)ヲ以テ并行(へいこう)ノ大勇、海内(かいだい)ニ於(おい)テ士タル者ハ云(いう)ニ及バズ、商賈(しょうこ。商人)樵牧(しょうぼく。樵夫と牧人)ト雖(いえども)稱嘆(しょうたん)セザル事無(なし)

 爰
(ここ)ヲ以(もっ)テ此(この)良冑(りょうちゅう)ヲ汝(なんじ)ニ授(さず)ク」

ト宣
(のたま)フ。(4)



 これが『武辺咄聞書』になると兜を下賜する理由がさらに詳しくなり、次のような挿話まで付け加わる。忠信の兜を与えたその晩、秀吉は忠勝を呼びつけると、この勇者を自分の配下にとりこもうとした。その際、わが恩と家康の恩とのいずれが深いかをしつこく尋ねたという。


 
(なんじ)が武勇、人これを知るといへ共(ども)、名を天下に知(しら)しめ、忠信の甲(かぶと)をくれ、大剛一(だいごういち)の兵(つわもの)と日本国中に披露(ひろう)せしハ秀吉が恩なり。然(しか)る時ハ、□□(家康)恩と秀吉恩と何(いず)れか深きぞ。(5)


 これに対し忠勝が 「□□(家康)ハ譜代(ふだい)の主(あるじ)にて候(そうろう)ゆへ」
(6) と秀吉の誘いを拒絶すると、秀吉は不機嫌になり座を立ったという。

 さらに時代がくだると、兜は忠信ではなく兄の佐藤継信のものであり、下賜したのも秀吉ではなく家康とする説が出てくる。『鳩巣小説』では、


 
本多中務大輔(なかつかさたいゆ。本多忠勝)殿の家に、元祖中務殿より伝来の冑(かぶと)有之(これあり)。是(これ)佐藤次信(継信)が着申候(ちゃくしもうしそうろう)冑にて、東照宮(家康)被得候(えられそうらい)て御直(おじき)ニ本多平八郎(忠勝)ニ被下候(くだされそうろう)

 其方
(そのほう。忠勝)ならでハ此冑(このかぶと)着申者(ちゃくしもうすもの)御覚不被成候(おんおぼえなられずそうろう)よしニ付(つき)、殊の外(ことのほか)難有(ありがた)がり被申候(もうされそうろう)(7)



とある。そして、息子が父忠勝に諫言する話が付け加わる。もっとも『鳩巣小説』では、家康が兜を下賜したというのは誤伝だとして、次のような訂正がなされている。


 
(これ)ハ、ケ様(かよう)にてハ無之候(これなくそうろう)。秀吉公より小田原陳(陣)の時分、平八郎(忠勝)江給(たまわ)り候。東照宮(家康)其節(そのせつ)、大閤(秀吉)の所へ御座候(ござそうらい)て、御取次被成(おとりつぎなられ)被下候(くだされそうろう)よし。(8)


 それぞれの史料の性格にもよるだろうが、話が次第にふくらんでいくのはおもしろい話を聞かせてやろうという語り手のサービス精神のあらわれか。


【注】
(1)
これが忠信の兜かどうかの確証はない。『寛永諸家系図伝』には「此冑ハ奥州より献ずるところなり。佐藤忠信が冑なるよしつたへ聞(きく)」とあり、伝聞である(『寛永諸家系図伝・藤原氏・丁1・北家』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:特076−0001。26コマ目)。
(2)『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』によると兜の出所は奥州とあるが、『武徳編年集成』では「紀州熊野ノ神祠ヨリ出」たことになっている。
(3)『寛政重脩諸家譜・第4輯』1923年、國民圖書、P.630.国立国会図書館デジタルコレクション。
(4)『武徳編年集成』国文研データセット、965枚目。
(5)(6)『武辺咄聞書・3』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0070。「廿二 秀吉公佐藤忠信が甲を本多忠勝に給ハる事」。
(7)(8)室鳩巣『鳩巣小説・巻之上』早稲田大学図書館蔵、請求記号:イ04_00775_0146。5〜6コマ目。
2025年5月29日(木)
町奉行の評判
 石河政武(いしこ・まさたけ。1724〜1787)は西城御小性組を皮切りに西丸御徒頭、御目付へと順調に出世し、明和3年(1766)には京都東町奉行に就任した。

 石河は京都在任中、とりわけ公正な市政運営をこころがけ、京の人びとを感服させた。その清廉潔白な取り扱いは、かつての名所司代板倉重宗(いたくら・しげむね。1586〜1657)の再来を思わせるほどだった。こうして石河は、京の内外を問わず、多くの人びとの信頼を勝ち得ていったのである。

 4年後、石河は突然江戸に呼び戻された。この時、石河との別れを惜しんで、大津・草津(ともに現在の滋賀県)あたりまで数十人が見送りに来たという。

 「役人の鏡」ともいうべき人物の逸話を集めた『流芳録』には、次のようにある。


 
先年石河土佐守(石河正武)京都町奉行の時、京都の政事殊(こと)に正しく、諸人感服する事普(あまね)く、誠に潔白の取扱(とりあつかい)にて、板倉周防守(いたくら・すおうのかみ。板倉重宗)以来の奉行なりとて洛中洛外(らくちゅう・らくがい)まで父母の如く慕(した)ひまいらせ、土佐守の下知とさへいへば、京中の幸ひなりとて、常々(つねづね)

「幾久敷(いくひさしく)御勤(おつとめ)あれかし」(いつまでも京都でお勤めくださいますように)

といひしが、俄
(にわか)に 召(めさ)れて関東(江戸)へ帰られし時などは、大津・草津の辺迄(あたりまで)も数十人見送りあり。町々の役人はいふに及ばず、志(こころ)ざしある者は皆々(みなみな)落涙に及びし程(ほど)の事なり。(1)



 また『醇堂叢稿』は、石河の評判に関する次のような逸話を書き留めている。


 
石河土佐守は京地ニ而(て)名市尹(めいしいん)と賞し、関東ニ而利口と云(い)ふ事を彼地(かのち)ニ而は

「石河らしい、石河らしい」

と云
(いい)し程(ほど)なり。(2)

(石河正武は、京都では名奉行と称賛されている。関東でいう利口のことを、京都では「石河のようだ、石河のようだ」というほどである。)



 ここまで住民に慕われたなら、役人冥利に尽きよう。


【注】
(1)
内山温恭編『流芳録・巻之十二』天保7(1836)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー0004。「京都町奉行 石河土佐守政武」の項。『天明記』を引用。
(2)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[35、36]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。54コマ目。
2025年5月28日(水)
家賃の督促
 生活が窮迫していた大谷木醇堂。家主から家賃の滞納を督促されて、どうにも困った。折しも陰暦4月の半ば。花盛りの時節。そこで、花売りから芍薬花(しゃくやく)を一枝だけ求めると、自作の狂歌を添えて家主に贈ってやった。すると、家主の家賃督促がしばしの間止んだという。その時の狂歌が次。

  
なにはとも借屋苦(しゃくやく)の花とぢこもり 今をさかりと借屋苦の花

 この一首は、王仁(わに)が仁徳天皇の即位を祝って詠んだとされる

  
難波津(なにわづ)に咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花

という和歌のもじりだ。王仁はわが国に『千字文』『論語』を伝えたとされる百済系渡来人。「難波津…」は古くから初学者の手習い歌として知られた有名な和歌である。

 醇堂は家賃滞納の常習者らしく、あちらこちらで督促にあうたびに狂歌を詠んで、猶予してもらっていた。次の二首もそれ。


 
また吉住(よしずみ)と云(い)へる氏の家屋を賃借して、この事(家賃の督促)ありける時、よミて猶豫(ゆうよ)延期を得たるハ

  すみよしの岸うつ浪ハあらくとも 風凪
(な)ぎぬればそれでよしずみ

 また河野
(こうの)氏の家屋を借りて督促にあひたるに、

  たなちん
(店賃。家賃のこと)をどうの河野と云(い)ふうちに すらすらすらとすミよしの松



 こんなふざけた狂歌を詠んでも、大家が家賃取り立てを猶予してくれたのだ。当時は現在よりも、心に余裕のある人が多かったに違いない。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。67コマ目。
2025年5月27日(火)
飲んべえをアピール
 幕臣で漢学者だった大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう。1837〜1897)は名を季純(としずみ。のち季良)、字(あざな)を忠醇(ただあつ)、号を醇堂といった。

 字と号に使われている「醇」の文字には「うま酒」の意味がある。醇堂は生まれながらの大酒飲みを自認した。


 
予(よ。私)、天賦(てんぷ)杜康(とこう)を嗜(たしな)ミ、鯢飲(げいいん)つゐに家産(かさん)をのミつぶしたり。ゆへに表徳(ひょうとく。雅号)をも儀狄(ぎてき)に取る。蓋(けだ)し、酒の精良なるものを醇(じゅん)と号す。ゆへに、これにうくるに醇をもつてす。

  すミざけや 附
(つき)まとふこの影法師

と吐
(は)き置(おき)たり。

 関防
(かんぼう)「醇乎醇者(じゅんことしてじゅんなるものなり)」「純又不已(じゅんもまたやまず)」を押す。先年中は狂詠・狂句に款(かん)するに「生得大酒(しょうとくたいしゅ)」の四字をもつてせしが、今ハ廢(はい)せり。(『醇堂叢稿』)



 文中にある杜康
(とこう)は中国周代の酒造りの名人で、転じて酒の意。鯢飲(げいいん。鯨飲)は大酒を飲むこと。大酒を飲んで家の財産を飲み潰したので、雅号も酒(儀狄は初めて酒を造ったとされる中国伝説上の人物。転じて酒の意)にちなんで「醇堂」としたという。

 醇堂は、醇の文字を「酒の精良なるもの」と説明している。醇はまじりけのないうま酒のことだから、この場合濁り酒でなく清酒を意味する。醇堂は、「すミざけ」はわが身につきまとう影法師のようなものと自嘲するが、この「すミざけ」も清酒だ。

 さて醇堂は、書画に押す関防(かんぼう。書画の右肩に押して書き始めの印とした長方形の印章)にも「醇(純)」にちなんだ言葉を選んだ。

 「醇乎醇者(じゅんことしてじゅんなるものなり)」は、純粋な状態をいう語。中国の名文家韓愈(かんゆ)「読荀(どくじゅん。『荀子』を読むの意)」にある「孟氏、醇乎醇者也」から取った。また「純又不已(じゅんもまたやまず)」は純粋な状態を維持する意。この語は四書五経のひとつ、『中庸(ちゅうよう)』にある「純亦不已」から取った。

 また好きな狂歌・狂句をつくった際には「生得大酒(しょうとくたいしゅ。生まれながらの大酒飲み)」の落款(らっかん。署名・押印)を用いた。

 飲んべえアピールも、ここまで徹底すれば立派だ。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。68〜69コマ目。
2025年5月26日(月)
まるでパズルのよう
 書家・儒学者として有名な亀田鵬斎(かめだ・ぼうさい。1752〜1826)。その父は、日本橋に店を構える鼈甲屋だった。そこで鵬斎は、鼈の上、甲の下を削った「亀田」を姓とした(1)

 松下村塾で教鞭をとった吉田松陰(1830〜1859)。幼時は杉寅之助といったが、のちに叔父の養子となり吉田大次郎(通称、寅次郎)と名乗った。松陰には、夢の中で神人から与えられたという「廾一回猛士(にじゅういっかいもうし)」の別号がある。

 姓の杉の字を分解すると十八三となり、すべてを足すと二十一になる。また吉田の字を分解すると十一口口十となり、これを並べ替えると十十一口口。これは二十一回と読める。一方、名前には寅之助・寅次郎と、寅の字を冠する。虎(寅)の特長は猛にある。そこで「廾一回猛士」を別号にしたというのだ
(2)


【注】
(1)
片山賢『寐ぬ夜のすさび』 -『新燕石十種・第5』1912〜1913年、国書刊行会、P.168。国立国会図書館デジタルコレクション-
(2)吉田松陰「二十一回猛士の説」 -山口県教育会 編『吉田松陰全集』第1巻、1939〜1940年、岩波書店、P.389〜390。国立国会図書館デジタルコレクション-
2025年5月22日(木)
糸屑を300石で買う
 土井利勝(1573〜1644)といえば江戸時代初期の老中で、のちには大老までつとめ、幕政諸方面において重きをなした人物だ。利勝は大身であったが、無用の費えをひどく嫌った。

 ある時、利勝は居間で1尺(約30cm)に満たない唐糸(からいと。中国渡来の絹糸)を見つけると、近習(きんじゅう)の大野仁兵衛に大事に保管しておくようにと命じた。このやり取りを見ていた若侍たちは、


 
あの糸屑(いとくず)、何の用に立(たつ)べきと思(おぼ)し召(めす)(や)。其様(そのよう)に大切に致し置(おく)べきと仰(おおせ)らるゝは、大名に似合(にあわ)ざる事。
(あんな糸屑が何の役に立つと思っていらっしゃのか。かように大切に保管せよと申されるのは、(ひどい物惜しみで)大名に似つかわしくないふるまいだ)


と悪口を言うと笑い合った。

 それから3、4年たったある日のこと。利勝は大野を呼ぶと、不意に


 
先年、其方(そのほう)に預け置(おき)(そうろう)糸の切屑(きりくず)は?
 
(先年、おまえに預けておいた糸屑はどこにあるのか)


とたずねた。すると大野は


 
(それ)は爰(ここ)に仕舞置候(しまいおきそうろう)
 
(その糸屑は、このなかに保管しております)



と言って、巾着の中から例の糸屑を取り出すと利勝に渡した。それを受け取った利勝は、脇差(わきざし)の下緒(さげお。刀の鞘に装着して用いる紐)の先がほどけていたのをその糸屑でくくって補修した。そして、


 
(あるじ)の詞(ことば)を斯く(かく)の如(ごと)くに大切に相(あい)守りし事、奇特千萬(きどくせんばん)候也(そうろうなり)
 
(主君の言いつけをこのように大切にまもったことは、たいへん殊勝である)


というと、褒美として大野に知行300石を加増したのだった。

 唐糸は、中国から日本に渡るまで多くの人びとの苦労のすえに伝来したものだ。それをわずか1尺に満たぬからといって、むざむざ捨てて無駄にしてしまうことを利勝は嫌ったのだ。

 利勝は


 
今、下げ緒の先をくゝり候(そうら)へば、費無(ついえなし)
 
(今、糸屑で下緒の先を結んだので、無駄金を使わず済んだ)



と言って笑うと、 次のように言葉を結んだという。


 
我、一尺に足(たり)ぬ唐糸を、三百石の知行にて買取(かいとり)たる。


【参考】
・真田増誉著『明良洪範:25巻 続篇15巻』1912年、国書刊行会、P.38〜39。国立国会図書館デジタルコレクション。
2025年5月20日(火)
ヘルレインスブラウ

 
新渡(しんと)の更紗(さらさ)に空青(ぐんじょう)の如(ごと)き藍(あい)あり。是(これ)ハ紅毛(おらんだ)ヘルレインスブラウと云(い)ふ物(もの)にて、書(か)ヶバ同じ色なり。

 此
(これ)を所持(しょじ)する者ハ神田に住(じゅう)ス平賀(ひらが)(なに)がしなり。一向(いっこう)世上(せじょう)の繪の具屋(えのぐや)などにはなし。(『佐羅紗便覧』)(1)


 上記の史料にある「ヘルレインスブラウ」とは青系合成顔料の名前だ。18世紀初頭にプロイセン(首都ベルリン)で開発されたのでヨーロッパではプルシャンブルー(プロイセン青)、わが国ではベロ藍(べろあい)またはベロリン藍の名で呼ばれた。北斎が『富嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」の逆巻く激浪に使用した青い顔料も、広重が『東海道五十三次』の中で空や水などに多用した「ヒロシゲブルー」の顔料も、同じプルシャンブルーだった。

 プルシャンブルーの登場は画期的だった。青色の発色が鮮やかな上、何よりも安価だった。

 それ以前のヨーロッパの画家たちは、青色を表現する場合、瑠璃(るり)を粉末にした極めて高価な顔料を使用せざるを得なかった。その最良品は金と同価だった。古代エジプトではこれをラピスラズリ(青い石の意)と呼び、ヨーロッパへは中近東から海を越えて輸出されたためウルトラマリンの別名があった。プルシャンブルーの登場により、ヨーロッパの画家たちはもはや高価なラピスラズリを粉末にせずともよくなったのである。

 このプルシャンブルーがわが国に輸入されたのは18世紀半ばのこと。オランダ船を通じて長崎に伝わった。この顔料の価値にいち早く着目し、試用したのは平賀源内だったという。源内は著作『物類品隲(ぶつるいひんひつ)』(1763年刊)の中でこの顔料を


 
色深クシテ甚(はなはだ)(あざやか)ナリ(色が深くて非常に鮮明である)(2)


と紹介し、油絵「西洋婦人図」では女性の襟元にこのプルシャンブルーを使用している。

 さて、前出の『佐羅紗便覧』はわが国最初の本格的手書き更紗の指南書だが、このなかに


 
是ハ紅毛(おらんだ)ヘルレインスブラウと云ふ物にて、( 中略 )此を所持する者ハ神田に住ス平賀何がしなり。一向世上の繪の具屋などにはなし。


という記述がある。「ヘルレインスブラウ(プルシャンブルー)」の所持者が「平賀何がし(源内)」とわざわざ断り書きし「一向世上の繪の具屋などにはなし」と書いているから、『佐羅紗便覧』刊行の安永7年(1778)ごろはまだこの顔料は一般には流通してはいなかったのだ。

 従来の本藍(天然藍)が呈する青色は暗く沈んでいた。それに対し、プルシャンブルーが発色する青色は明るく鮮やかだった。しかも、この顔料は一色で濃淡を自在に表現することができた。そのためプルシャンブルーが流通するようになると、浮世絵師をはじめ多くの人びとがこの顔料にとびついたのだった。


【注】
(1)
蓬莱山人帰橋撰『佐羅紗便覧』版本、安永7年(1778)刊、出雲寺和泉掾発行、江戸東京博物館デジタルアーカイブス、史料番号:91211412。「藍蝋ときようの事」。
(2)
平賀源内『物類品隲・巻之二』版本、宝暦13年(1763)刊、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:196-0162。15コマ目。「ベレインブラーウ」の項。
2025年5月16日(金)
江川太郎左衛門の小伝
 『醇堂叢稿』に、幕末の英傑江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)の小伝があった。江川家は、伊豆国韮山(にらやま)を本拠とした世襲代官の家柄で、代々当主は太郎左衛門を通称とする。ふつうの『日本史辞典』にはない興味深い記述もあるので、原文のまま示そう(1)


 江川太郎左衛門ハ、その家歴世(れきせい。代々)伊豆国韮山(現、静岡県伊豆の国市韮山町)に住し、鎌倉覇府(はふ。幕府)の時より江戸幕府に至るまで、伊豆国と七島とを管轄(かんかつ)して代官の職を世々にせり。

 此家(このいえ)に日蓮坊主久しく食客(しょっかく。居候)と成て滞在せし由(よし)にて、坊主の筆蹟(ひっせき)など数多(あまた)什宝(じゅうほう)として秘蔵し、またこの賣子僧(まいすそう。僧を罵っていう語)の書したる鎮火防遏(ちんかぼうあつ。火除け)の守り札を彫鏤(ちょうる。彫り刻む)して信者に施行(せぎょう)す。勿論(もちろん)この家日蓮宗にて、今にいたるまで焼失せし事なく、また不可思議なるは代〻一男子にして血統を継ぎ、他より人の児を貰ひ養つて相續(そうぞく)せしめたる事なし。又その家富ミて列侯(れっこう。諸大名)に比してあまりあり。

 醇堂(じゅんどう)云(いわく)、太郎左衛門代〻廩米(りんまい。蔵米)百五十苞(ほう。俵)を領し、縣令(けんれい。代官職)を奉ず。江都(えど)の邸宅ハ芝(しば)の新銭座(しんせんざ。現、東京都港区東新橋)と寺所の津軽侯の宅地の前に在(あ)り。その身はつねに韮山に在住して伊豆国及び七島を差配(さはい)す。

 幕府の縣令数人あれども、世襲してこれを奉ずる家は京都の小堀氏
(2)、大津の石原氏、信楽(しがらき)の多羅尾氏、淀川過書(かしょ)を司(つかさど)る角倉氏(すみのくらし)(3)、長崎の高木氏とこの江川氏の外(ほか)ニ無し。

 また他の縣令は支配所の標示杭(ひょうじぐい)に書する如斯(かくのごとく)なれども

「從是東西南北 御代官何之誰支配所(これよりとうざいなんぼく、おだいかん、なんのだれしはいじょ)」

と書する事例なり。江川氏は

「從是〻〻〻〻(これよりとうざいなんぼく)  江川太郎左衛門代官所」

と標(ひょう)する例なり。

 伊豆一国の検地縄張(けんち・なわばり)はこの家祖の入れたる棹(さお。検地竿を入れ検地する)の侭(まま)にて、鎌倉・室町・江戸の三幕府に通用して、他人これに関する事あたはず。故(ゆえ)ニその所有する田畑山林肥饒(ひじょう。肥沃)夥敷(おびただしく)私有する事也。

 また文政(1818〜1830)より嘉永(1848〜1855)にわたれる太郎左衛門(英龍。1801〜1855)ハ文字に少しわたり、武を大(おおい)に講じて撃劔(げきけん。剣術)を岡田十松(おかだ・じゅうまつ。2代目岡田十松利貞)に学びて無念流(むねんりゅう)を善(よ)くし、斎藤弥九郎(さいとう・やくろう。3代目岡田十松利章の門人)とならべ称せられ、西洋法の銃を高島秋帆(たかしま・しゅうはん)に得て大に用ひられ、御鉄炮方を兼勤(けんきん。代官と鉄砲方を兼任)して、田付四郎兵衛(たつけ・しろべえ。田付流砲術、幕府鉄砲方)・井上左太夫(いのうえ・さだゆう。井上流砲術、幕府鉄砲方)ともにこの御用を奉(たてまつ)り、御勘定吟味役格(おかんじょうぎんみやくかく)にすゝミ、嘉永癸丑(かえい・きちゅう。嘉永6年、1853年)洋艦渡来(ようかんとらい。ペリーの米船来航)の警戒あるや建議して品川の海中に砲臺(ほうだい。台場)を建築し、銃隊(じゅうたい)の訓練を盛んにせしが、傷寒(しょうかん。高熱をともなう疾患)を病ミてもろくも斃(たお)れたり。

 この太郎左衛門剛膽(ごうたん)にして山野に狩(かり)し、仁田忠常(にった・ただつね。『曽我物語』で手負いの大猪を仕留めた豪勇の士として描かれる)にも劣らず、奔逸(ほんいつ)の豬鹿(ちょろく。イノシシとシカ)を手捕(てどり)に為(な)し、或(あるい)は一子(割書「保之丞(やすのじょう。英敏)」)がいまだ襁褓(むつき)なるをふところにして出猟(しゅつりょう)し、拾匁(じゅうもんめ。約37.5g)弾丸を打(うち)たるなど、武勇の奇談頗(すこぶ)る多し。

 又書画を善(よ)くして、表徳(ひょうとく。雅号)を坦葊(たんなん。たんあん)と号し、揮毫(きごう。絵画や書)多く世にあり。その画大(おおい)にその平日(へいじつ。普段)の気質に似ずして、花禽(かきん。花や鳥)の状態柔軟(じゅうなん)なるものを着筆(ちゃくひつ)にて画(か)きて、水墨(すいぼく)溌剌淋漓(はつらつりんり。筆に墨を多く含ませ勢いよく書く)の山水を画くは希(ま)れ也。

 その佩劔(はいけん。腰に指す大刀と小刀)大小共に同寸尺(同じ長さの刀剣)なるを帯(お)び、黒木綿(くろもめん)の紋付(もんつき)衣を着して能(よ)く培養(ばいよう。根本精神を養う)せし。ゆへに属下(ぞくか。配下)の吏(割書「手代(てだい)・手附(てつけ)」)に多く豪俊(ごうしゅん。才知の優れた人)を生じ、山田熊蔵・柏木大助等の人物を出せり。

 この頃高嶋四郎太夫(高島秋帆)が門に出ては、この太郎左衛門と下曽根金三郎(しもそね・きんざぶろう。信敦。1806〜1874)をもつて東西の関とり・横綱と称したれども、金三郎所詮(しょせん)この太郎左ニは及ばず、九舎(きゅうしゃ)を避けてゆづるべし(「九舎を避ける」は遠く及ばないの意)。予(よ。醇堂)は砲(ほう。砲術)をこの人に學びたるゆへ、この人とこの家の事をつまびらかにせり。

 醇堂云、伊豆は小国なれども沃野(よくや)千里、山林の良材に富ミ、海濱(かいひん)ノ田塩(でんえん)ゆたかにて、土産(どさん。土地の産物)頗(すこぶる)る善(よ)く又多し。この国の村邑(そんゆう。村落)にて貢米(こうまい。年貢米)を政府に納めずして江川氏に納(おさむ)るゝの所多し。これによつて家富ミ武備を嚴にする、自由にして足れり。又歴世屯田(とんでん。兵士が辺境の地を守りながらふだんは農業に従事する)土着するゆへ、その気風質朴(しつぼく。素直で律儀)古雅(こが。古風で優雅)の愛すべきあり。めづらしき家にして、またこのめづらしき人を生ぜり。


【注】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。4コマ目〜7コマ目。
(2)京都の世襲代官小堀氏は、『武鑑』に「禁裏御所方并山城大川筋御普請御用兼代官」と記載される。幕領の民政・禁裏御料の支配・淀川等の普請を担当し、諸国代官中最も上席とされた。
(3)京都の世襲代官角倉氏は「淀川過書船支配兼帯代官」として過書船・淀船を支配し、通行税の徴収・通行船の管理をおこなった。
2025年5月14日(水)
松崎純倹、ペリーに抱きつく
 松崎純倹(まつざきじゅんけん。1801〜1854)は通称を満太郎、号を柳浪、懐松、拙修主人などといった。500石取りの旗本だったが、幕府儒官林述斎に師事して儒者となった。

 1854年、ペリーが浦賀に再航した。この時松崎は、儒者林韑(はやし・あきら。大学頭)・井戸覚弘(いど・さとひろ。対馬守、大目付)・鵜殿長鋭(うどの・ながとし。民部少輔、駿府町奉行)・伊沢政義(いざわ・まさよし。美作守、町奉行)の4人とともにアメリカ特使応接掛を命ぜられ、日米和親条約締結交渉にかかわることになった。

 アメリカ側には事前に、日本側代表委員として林・井戸・鵜殿・伊沢4人の名前が通知されていた。しかし、この時松崎の名はなかった。そのため松崎の突然の追加は、アメリカ側にとっては寝耳に水だった。

 これには日本側のどのような意図が隠されているのか。アメリカ側はあれこれ推測した。しかし「彼(松崎)の公式の地位」がわからない。ゆえに「彼の委員中に於ける正式の任務」を推測することは困難だ。おそらくは「宮廷の密偵」であろうと結論づけた。
(1)

 こうした憶測もあって、松崎の第一印象は最悪だった。おまけに松崎の風貌も、初見の相手に好印象を与えるものでは決してなかった。


 
彼は少くとも六十歳(実際は54歳)の人で、ひょろ長く瘠せた身體(からだ)であり、非常に黄色い膽汁質(たんじゅうしつ)の顔と不愉快な消化不良らしい顔付きをしてゐた。ひどい近眼のためにその顔付きはよくなかつた。何故ならば物を見ようとする努力のために、元来大して立派でない容貌を非常にゆがませたからである。(2)


 そんな不健康で不愉快そうな顔つきをした松崎だったが、アメリカ側が用意した酒宴の席では、外国の酒をしたたかに飲んですっかり陽気になってしまった。そしてヘベレケになると、あろうことかペリーの首に抱きつき「日本とアメリカは同じ心である」という言葉を繰り返したという。その後、この泥酔漢は同僚に助けられながらよろよろとボートに乗りこみ、帰って行ったのだった。(3)

 あれやこれやあって、日米和親条約締結の大任を無事に果たしたのちのこと。

 ある時、松崎は大谷木醇堂に、外国との和戦についてその得失を尋ねたことがあった。その時醇堂は、 「もとより和すべからず。また戦ふべからず」 と答えた。よしみを通じれば日本の物産・財物等はことごとく海外に持ち去られてしまうだろうし、戦えば完膚なきまでに打ち破られてしまうに決まっている。ゆえに「来れば拒まず、去れバ追はざる」という対応以外にはない、というのだ。醇堂の答えを聞いた松崎は「拍手して所見の同じきを笑」ったという。
(4)

 そんな松崎は日米和親条約を締結した同じ年に亡くなっている。享年54歳。そのため松崎は、開国後のわが国がどのように変化していったか、その目で見ることはできなかった。


【注】
(1)
土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記(三)』1953年、岩波文庫、P.180〜181。
(2)『ペルリ提督日本遠征記(三)』同上、P.181。
(3)『ペルリ提督日本遠征記(三)』同上、P.238。
(4)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。44コマ目。
2025年5月10日(土)
瀬名貞雄、役職を願う
 瀬名源五郎貞雄は伊勢貞丈(1)に似て有職(ゆうそく)・譜牒(2)に精(くわ)しく、公私の顧問に備はりし人にて、狐阡翁(こせんおう)と自称し、その禄五百石をもて中書局〈割書「奥御右筆」〉に出仕し、寛政より文化の際にわたりて大(おおい)に有用の名を博せり。太田南畝と親しミ深く『瀬田問答(らいでんもんどう)』の書ある、なほ新井君美(あらい・きんみ。新井白石)が野宮殿(ののみやどの)に『黄白問答(こうはくもんどう)(3)あるが如(ごと)し。(『醇堂叢稿』)(4)


 旗本の瀬名貞雄(せな・さだお。1716〜1796)は通称を源五郎、号は狐阡軒(こせんけん)といった。武家の故実や地理・歴史に詳しく、大田南畝の問いに答えた『瀬田問答』で知られる。寛延元年(1748)から天明2年(1782)にかけて大番を務めたが、その後は非役。

 瀬名が非役だった期間(1782〜1789)は、天明飢饉(1781〜1789)やら浅間山噴火(1783)やら江戸水害(1786)やらと災害が打ち続き、人びとは物価高に脅かされていた。瀬名とて生活は苦しかったはずだ。

 そのため、ふたたび役職に就くことができれば手当てなどの収入が見込める、と考えたのだろう。瀬名は就官を希望し、その準備に余念がなかった。しかし、いつになっても上からの音沙汰がない。焦った瀬名は、人相見に人事の進捗状況を占ってもらった。人相見が答えることに、今年中にあなたの望みは叶うだろうとの見立て。果たして瀬名は寛政元年(1789)、74歳でめでたく奥右筆組頭格を拝命したのだった。
(5) もっとも、瀬名が近々年相応の御役に就任するだろうことは、幕臣間ではすでに噂になっていた。(6)

 瀬名は7年後の寛政8年(1796)、老齢を理由に奥右筆組頭格を辞職し、同年81歳で没した。

 仕事を生き甲斐とするならいざ知らず、生活のために老死直前まで働かざるを得ないという現実は切ない。


【注】
(1)
伊勢貞丈(いせ・さだたけ。1717〜1784)は旗本で、伊勢流有職故実の研究家として有名だった。著作に、室町幕府における武家の儀式・作法などを図入りで解説した『貞丈雑記』がある。
(2)譜牒(ふちょう)とは、大谷木醇堂の説明によれば「幕府の政治や組織の沿革から世情風俗の変遷に至るまで、徳川時代の歴史をあとづける学問」のことという(氏家幹人『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.20〜21)。
(3)『黄白問答(こうはくもんどう)』は、『黄門(こうもん)白石(はくせき)問答』の略。有職故実に関する新井白石(1657〜1725)の問いに、権中納言(唐名で黄門)だった野宮定基(ののみや・さだもと。1669〜1711)が答えたもの。
(4)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[451,118-]写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。13コマ目。
(5)氏家幹人『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.136〜137。
(6)『縮地千里』に「瀬名源五郎〈割注「是ハ番町繪圖之作者」〉此人近く年相應の御役可被蒙仰との取沙汰」(年月日未詳)があったとの記事が見える(『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。61コマ目)。
2025年5月9日(金)
病と幕府の組織改革
 3代将軍家光の時代に、江戸幕府の組織が確立した。そのきっかけは、おそらく家光の病にあったと思われる。

 寛永10年(1633)、家光は父の秀忠と弟の忠長を亡くした。父は病没だった(享年54歳)。日常生活の御目付役であり政治上のよき相談者でもあった父を失ったことは、将軍としての重圧をいや増すものであったろう。また、家光との将軍後継者争いに敗れた弟は、自暴自棄になって非行を繰り返すようになったため、切腹を命じたものだった(享年28歳)。幕府安定のためとはいえ、弟を殺したことは家光にはかなりのショックを与えたはずだ。

 家光は深酒と不眠をくりかえし、気うつの病(うつ病)を発症した。そして、その後の2年間は表御殿(儀礼や政治を行う建物)に出御することなく、中奥(なかおく。将軍の私的生活空間)に引きこもったのである。

 病はいったん小康状態を保ったものの、寛永14年(1637)から翌15年(1638)年にかけてぶり返した。よりにもよってこの時期は、島原・天草一揆(1637〜1638)という危機的状況にあった期間だ。しかし家光の病は重く、大名たちは将軍に御目見えもかなわぬほどだった。

 この間、側近たちは家光の気晴らしのために、茶や能狂言、馬術、鷹狩りなどさまざまな機会を用意した。そのかいあってか、家光の病は徐々にと快方へ向かっていったのである。

 こうした経験は家光に「将軍独裁体制のもとでは、病等による将軍不在は政治の停滞・危機をもたらす」という教訓を与えたはずだ。だから病から回復するとすぐ、幕府の組織改革に着手したのだろう。

 幕府の組織改革の中心になったのは、老中制度の確立だった。

 まずは土井利勝(66歳)・酒井忠勝(52歳)といった年長者を臨時の最高職「大老」に任命し、家光(35歳)側近のうちから松平信綱(43歳。知恵伊豆と称され、島原・天草一揆を鎮圧)・阿部忠秋(37歳)・阿部重次(41歳)といった若手を「老中」に抜擢した。そして将軍のもと、複数の老中が合議制によって政策を決定し、支配下の各奉行を統括するという組織をつくったのである。この結果、将軍個人の政治能力の有無にかかわらず、老中らが中心となって幕政を円滑に運営していく仕組みが整備された。

 慶安4年(1651)、家光(享年48歳)が死去した時、その跡を継いだ4代将軍家綱はわずか11歳の少年だった。この時慶安事件(由井正雪の乱)が起こるが、家光の組織改革によって幕府政治は盤石だった。


【参考】
・篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』2005年、新潮文庫。
2025年5月8日(木)
表坊主
 江戸城本丸御殿は、表(おもて)・中奥(なかおく)・大奥(おおおく)の三つから成る。このうち、大名・旗本・諸役人が出入りするのは、表(幕府の行事・政務に関わる建物)と中奥(将軍の私的生活の空間)だ。  

 弘化年間(1844〜1848)には、表・中奥の両御殿を合わせた広さは、京間(きょうま。1坪=約3.65㎡)で4,688坪だったという。これは約1.7haの広さだ(ちなみに大奥の広さは6,318坪で約2.3ha)。わが国初の遊園地、浅草花やしきの敷地面積が0.58haだから、その3倍の広さに相当する。

 遊園地3個分もの広さがあるのに、城内には部屋の間取り図も標示も掲示されていなかった。しかも、大名たちは式日(しきじつ。行事や儀礼等がある日)以外、登城することは滅多にない。これでは、城中で迷子にならない方がおかしい。それが迷子にならずに済んだのは、城内を案内してくれる表坊主(おもてぼうず)という存在があったからだ。

 表坊主というのは、江戸城中につとめる剃髪・法体姿の御家人たちのことだ。儀礼時における大名たちの座席の指示から、弁当の食事場所の提供等まで、大名たちのサポートをその役目とした。そのため大名たちは、事前に謝礼等を渡して懇意な表坊主を決めておいたのである。

 表坊主に幕府から支給される禄は、20俵2人扶持ほど。薄給である。しかし、複数大名とサポート契約を結んだ表坊主は、実際には本給以上の多額の報酬を受け取っていた。

 そのため、幕府から拝領した粗末な屋敷には居住しなかった。拝領屋敷は町人に貸して賃料を得、自身は立派な屋敷を造って住んだ。こうした裕福な暮らしをする者が多くなると、なかにはうぬぼれて自分を相当な者だと勘違いするような者まで現れる始末。同朋(どうぼう。表坊主をはじめとする御坊主を統括する役職)の平井専阿弥が松平定信に提出した書付けには次のようにある。


(表坊主たちは)前々より万石以上の御方(=大名)始め、其(そ)の外(ほか)諸御役人衆、御殿(ごてん)において御用向(ごようむ)き申し付けられ候間(そうろうあいだ)、過分(かぶん)の給物(たまいもの)等これ有り、有福(ゆうふく。裕福)に相(あい)暮らし候故(そうろうゆえ)、全体の分限(ぶんげん。身のほど)を忘却仕(ぼうきゃくつかまつ)り、結構(けっこう)なるものと心得違(こころえちが)い候故(そうろうゆえ)の儀より事(こと)起こり候儀(そうろうぎ)と存(ぞん)じ奉(たてまつ)り候(そうろう)


 こうした御家人に不相応な行状が問題となり、寛政改革では彼らにお灸がすえられたのだった。


【参考】
・小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社文庫、P.249〜252。
・戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』2021年、東京堂出版、P.191〜197。
2025年5月7日(水)
対の鑓
 『醇堂叢稿』の中に次のような記述がある。


(町奉行は)出火ある時はその場所によつて出馬する事なるが、その時は白色の鞘(さや)を被(か)ぶれる對槍(ついのやり)を持たせ、与力・同心を率(ひき)ひてその行粧(ぎょうそう)まことに厳重也。もし病あつてこの事成らざれば、その子たるもの父に代つてこれを為す。他の御役向(おやくむき)ニは決して無き事なり。ゆへにこれを大に栄とす。(1)


 火災が起きた際、町奉行は白鞘をかぶせた二本の鑓を供に持たせ、与力・同心を率いて出馬する。その外出のよそおいは、まことにいかめしいものだ。もし町奉行が病気の場合にはその息子が代役をつとめる。このような特例は町奉行職以外には決してないことだ。ゆえに町奉行となった者はこれを大いに名誉とした、というのだ。

 さて、史料には「對槍(二本の鑓)」とある。江戸時代、これにはどのような意味があったのだろう。

 江戸時代、大名・旗本が幕府の式日(しきじつ。行事や儀式のある日)に江戸城を登下する際、それぞれの禄高・格式等によって決められた供連れ・供立てをすることになっていた。その際、行列の象徴となる武具を「たて道具」と称し、数本の鑓を(俗に「道具」といった)を立てさせた。当時、この鑓の本数や鞘の形・柄の色などを見れば、どこの誰だかわかったという。

 鑓の本数に限っていえば、将軍家が5本、御三家が4本、島津(薩摩)・伊達(仙台)・松平(越前)等の少数有力大名が3本(これを「三つ道具」という)だった。鑓1本(「一つ道具」)が大多数で、大大名になると2本(「二つ道具」)立てることが許された。

 町奉行は3,000石の旗本が就任する職である。それが火事場など非常時出馬の時だけは、供に2本の鑓を立てさせることが許された。これは10万石の大名並みの格式だった。
(2) だから、大いなる栄誉としたのである。

 なお、町奉行の非常時出馬以外で、旗本が対の鑓を立たせることができたのは遠国奉行(おんごくぶぎょう)の赴任旅行の時に限られたという。
(3)


【注】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。46コマ目。
(2)山本博文『江戸の組織人』二千八年、新潮文庫、P.54。
(3)大谷木醇堂編『醇堂叢稿』前出、47コマ目に「萬石以下ニ而(て)對槍を持せる事は、此(この)町奉行出馬の時と遠国奉行赴任旅行の外は成らぬ事」とある。遠国奉行の旅行赴任については、天保11年(1840)佐渡奉行を拝命した川路聖謨(かわじ・としあきら。石高1000石、役料1500俵100人扶持)の例がある。川路が佐渡に赴任する時は「たて道具二本鑓にて、長刀・鉄砲を持たせ、諸侯にもかわらざる供立(ともだて)」だった。この時川路は、こうした晴れがましい行列を立てることができるのもみな上様のおかげと、思わず落涙したという。

【参考】
・市岡正一『徳川盛世録』1989年、平凡社(東洋文庫)、P.92〜99に「江戸市内供連」の際の持たせ鑓の記述がある。
・藤實久美子『江戸の武家名鑑』2008年、吉川弘文館、P.29に、天保12年刊須原屋版『天保武鑑』「川路三左エ門聖謨」の図版記事を載せる。
2025年5月6日(火)
ぽんぽち米
 江戸時代、幕臣の中には地方地行(じかたちぎょう)制の旗本や、俸禄制の御家人(いわゆる蔵米取り)などがいた。地方知行制とは、将軍が家臣に土地・百姓の形で地行を与えるもの。一方の俸禄制は、家臣に土地ではなく直接米を俸禄として支給するもの。

 地方知行制の場合、小物成(こものなり。米以外の雑税)等の雑収入も見込めるという利点があった。しかし、年貢米収入は知行地の豊凶によって左右されるので、大凶作の年には収入の見込みはない。それに対し俸禄制の場合には、幕府の御蔵から毎年決まった時期(春夏冬の3回)に定額の俸禄米を受け取ることができた。

 一見すると、後者の蔵米取りの方が安定していて気楽そうだ。しかし、一概にそうとばかりも言えない。その一つが、米の味の問題だ。

 地方地行制の場合、年貢米として徴収した新米が、知行地から江戸の領主屋敷まで送り届けられる。しかし蔵米取りの場合、中下級や無役の御家人に支給されたのは下等米で、それも古米だったという。

 幕府御蔵に貯蔵された古米は割れ・欠け・虫食い等が多く、鼠の糞が紛れていることもあった。しかも長期貯蔵された米は赤黄色に変色し、炊いても粘り気がなくまずい。こうした米を当時「ぽんぽち米(ごめ)」と言った。『魂胆夢輔譚(こんたん・ゆめすけばなし)』という滑稽本に「赤米(あかごめ)は鼠米(ねずみごめ)でぽんぽち米ヨ」
(1)という台詞がある。「古くなって赤く変色した米は、鼠の臭気がするぽんぽち米だ」という意味だ。

 そこで御家人たちは、こうした質の悪い蔵米(本給)は札差に換金してもらって生活費に当て、多少はましな扶持米(ふちまい。身分が低い武士には扶助として食用米の現物支給があった。男1人1日米5合、女は3合)を常食用にした。

 多少はましと言っても、たいていは5年以上経った古米だった。いくら搗いても白くならず、炊いて食べてもうまくはなかった。それでも食べ慣れれば、それほど苦にはならなかったという。しかし、たまに外食して新米を口にすると、たいへん美味に感じたという。
(2)


【注】
(1)
一筆菴作・画『教訓滑稽 魂胆夢輔譚』巻之上、天保16年(1845)序、6丁オ。早稲田大学図書館蔵、請求記号:ヘ13 03761。
(2)戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』2021年、東京堂出版、P.44。
2025年5月5日(月)
灰に書く
 現在、学校教育現場へのパソコンやタブレットなど、デジタル機器の導入が急速に進んでいる。しかしその半面、デジタル機器の導入によって児童生徒の学力が低下しているのではないか、という疑念がもたれている。

 たとえば、わが国がお手本にしているICT教育の先進国スウェーデンでは、デジタル機器の導入後、児童生徒の学力の低下傾向が見られるようになった。OECD(経済協力開発機構)の学習到達度調査(PISA)におけるスウェーデンの国際順位が下落し続けたのである。とくに読解力・思考力・集中力の低下が問題とされた。この原因のひとつは進みすぎたデジタル化の弊害にあるのではないか。こうした世論におされ「紙と鉛筆のアナログ教育」へのゆり戻しさえ現在のスェーデンでは起きているという。

 なるほど、パソコン・タブレットなどデジタル機器を使用した教育効果には素晴らしいものがある。その半面、授業中についつい無関係なサイトを覗き見したり、教師の目を盗んでゲーム等で遊んでしまうなど、児童生徒の注意力を散漫にする誘惑もデジタル機器には多い。

 そもそもデジタル機器が登場したのはつい最近のことだ。だからといって、そうした便利な機器がなかった時代に生まれた人びとが、勉強できなかったわけではない。教科書に鉛筆・消しゴム・ノート、お手本に筆・墨・紙。時にはそうした文房具が手元になくとも勉強はできた。

 たとえば、平山省斎(ひらやま・せいさい。1815〜1890)は若い頃、主人の供待ちをしながら勉強した。本人からの直話として大谷木醇堂は次のように書いている。


 
平山如(ごと)きは奥御右筆(おくごゆうひつ)組頭たりし竹村長十郎の家に学僕(がくぼく。住み込みで雑用するかたわら学問する人)たりし頃は、灰をふくろに入れてたもとにして、主人の供(とも)まちせる間にゆびにて習ひしと云(い)ふ。(1)


 平山は暇を見つけると袋に入れた灰を広げ、そこに指で文字を書いて勉強していたという。
(2) 時には文房具さえなくとも、学習意欲と集中力さえあれば確かな学力は培われるものだ。のち平山はペリー再来航時に応接掛に抜擢され、最後は外国奉行にまでのぼりつめた。

 さて、デジタル機器は学習をサポートする便利な道具であることは間違いない。それなら使った方がよいに決まっている。しかし現状は、物珍しい道具に教師・児童生徒ともに振り回されている。

 所期の学習効果があがっているのは一部の児童生徒に限られる。多くの児童生徒はデジタル機器の些末な操作や授業と無関係なサイトに気を取られ、授業への注意力が散漫になっているのではないか。

 早急に有効な対策を講じなければ、宝の持ち腐れだ。


【注】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。45コマ目。
(2)灰に文字を書いて勉強したのは珍しいことではない。八鍬友広氏は、筆・墨等を用意できない貧しい寺子たちが山折敷(やまおしき。木のお盆)に灰を敷き、箸を筆がわりにして文字を勉強した事例を紹介している(八鍬友広『読み書きの日本史』2023年、岩波新書、P.128〜129)。
2025年5月3日(土)
武鑑
 江戸時代、大名・旗本や幕府役人を一覧できる武家名鑑があった。これを『武鑑』といった。(1)

 しかし、時間が経過すれば当主が代替わりするだろうし、幕府役人の人事異動もあったりする。そうした情報更新に対応して新しい『武鑑』が刊行される。


  
桜木(さくらぎ)へ埋木(うめぎ)をさせる御立身(ごりっしん)(『誹風柳多留』)


という川柳は、そうした『武鑑』の改訂作業の一端を詠んだものだ。

 「桜木」は板木のこと。当時は木版刷りで、板木に山桜材を用いた。山桜材は彫りやすい半面堅くもあったため、多く刷っても磨耗が少ない。そのため板木の適材とされたのだ。塙保己一が編纂した一大古典籍叢書『群書類従』も、吉野桜材の板木で摺り立てられたという事実は有名だ。
(2)

 「埋木」は、板木の訂正する部分を削ってほかの木材を埋め込むこと。もとの板木に埋木して、情報が更新された箇所だけを彫り直した。こうした方法をとったのは、板木一枚をすべて彫り直していては、時間や費用・労力ばかりが無駄にかかってしまうからだった。

 そして前掲川柳の場合、埋木されたのは「御立身」によるものだった。昇進・栄転等で役職名が変わったり、加増されて石高が変更になったりしたということだ。

 『武鑑』は何度も発行されるものだから、基本的には同じ板木を使い回しする。すでに何百枚も刷ったあとの板木だから、どうしても摩耗が進み、文字の輪郭はいささかぼんやりしてくる。そこへ埋木して更新部分だけを新たに彫り直したのだ。

 ゆえに上の川柳は、新刊の『武鑑』に載るある人物の表記が鮮明だったことで、そこの部分が埋木による更新箇所だと分かった、そしてその理由がめでたくも「御立身」によるものだった、と言っているのである。


【注】
(1)
以下、藤實久美子『江戸の武家名鑑』2008年、吉川弘文館、P.27〜29によった。
(2)板木は吉野桜材で1万7244枚、そのほとんどが表裏両面を用いているという(現存、重要文化財)。  
2025年5月1日(木)
枕を高くして寝る
 『史記』張儀伝に由来する言葉で、安心して眠ることを「枕を高くして寝る」という。

 実際、江戸時代の人びとは、箱枕
(1)とよばれる高い枕を使って寝ていた。しかも頭でなく、首を乗せた状態で寝ていたという。こんな不自然な寝方をしたのも、当時の人びとが結う独特の髪型が崩れないようにするためだった。

 しかし、いくら何でもこれでは苦しかろう。当時の随筆にも「寿命三寸(約9cm)、楽四寸(約12cm)」
(2)とある。当時の人びとでさえ、寝るのに楽な枕の高さは12cmほど、早死にしたくなければ9cmほどが適正と考えていたようだ。

 事実「枕を高くして寝る」ことは健康に悪い。枕が高ければ高いほど、また固ければ固いほど、脳卒中の原因となる突発性椎骨動脈解離(突然、首のうしろの血管が裂けてしまう症状)を発症しやすくなるというのだ。そのため国立循環器病研究センターはこれを「殿様枕症候群(ショーグン・ピロー・シンドローム)」と名づけて、人びとに注意喚起を促している。
(3)

 もっとも江戸時代は「火事と喧嘩は江戸の花」と喧伝されるほど火災が頻発したから、なかなか安眠もままならなかったろう。とりわけ安眠できなかったのは火消したちだ。夜中に火事と聞けば、即座に飛び起きなければならなかったからだ。

 このことに関連して『風俗画報』第179号には、江戸時代の「定火消(じょうびけし)」を描いた面白い絵が載っている
(4)。旗本の火消し屋敷に住んでいた火消したちが、一本の長丸太を枕にし頭を並べて就寝しているさまを描いた絵だ。これは、夜中に火事が起きると丸太の端を大槌で叩き、全員を一斉に叩き起こすためだった。

 しかし、こんな目覚まし法では脳震盪を起こしそうで、寿命はますます縮まりそうだ。


【注】
(1)
箱枕は、木枕(きまくら)という箱のように作った木製台座に、筒状にした袋の中に綿や蕎麦殻を詰めた小枕(こまくら)を、和紙で包んでくくりつけた枕のこと。布団のそとに置いて使用した。
(2) 暁晴翁著、翠栄堂画『雲錦随筆』巻之四、20丁オ。早稲田大学図書館蔵、請求記号:イ05 00050。
(3)国立研究開発法人国立循環器病研究センターHP[枕が高いと脳卒中になる? ―特発性椎骨動脈解離と高い枕の関係と、殿様枕症候群の提唱―」2024年1月30日による。
(4)『風俗画報』第179号(明治31年12月25日)、「大槌一撃、睡眠を破るの図」。 
2025年4月21日(月)
かんばやし店?
 カステラや和菓子の江戸の名店を紹介した史料を読んでいたところ「上林店」という言葉が出てきた。どういう意味だろう。

 そこで辞書で「上林(じょうりん)」を引いてみると、

  ①上林苑のこと。 ②果物。 ③酒の肴。

と出てくる。

 ①の上林苑は、中国秦・漢時代に設けられた皇帝の御苑(ぎょえん)のこと。この御苑では果物がとれたので、上林は②の果物の意となった。それなら「上林店」は果物屋のことだ。だが、菓子店の紹介史料に、果物屋というのはおかしかろう。

 しかし、そもそも果物も菓子も、ともに菓子(果子)だったのだ。たとえば、尾張領の美濃国加茂郡蜂谷村は、将軍家に柿(いわゆる蜂谷柿)や干し柿を献上する村だった。尾張藩ではこれを「御菓子場(おかしば)」といった。
(1) つまり、果物の柿も人が加工した干し柿も区別せずに、ともに「菓子」とよんでいたのだ。

 人が作ったものか自然のものかで菓子と果物をはっきり区別するようになったのは、江戸時代からのことらしい。以後、干菓子・蒸菓子など人が加工して製したものを「菓子(かし)」(江戸)とよび、桃栗などの果実類を「水菓子(みずがし)」(江戸)・「果物(くだもの)」(京坂)とよんで区別するようになったという。
(2)

 したがって「上林店」を菓子屋の意味で使っても、一向に差し支えがないのだ。


【注】
(1)
藤田英明『礼物軌式』(八木書店)
  ALL REVIEWS、2024年1月19日、https://allreviews.jp/genre/5?page=6(2025年4月17日閲覧)。
(2)喜多川季荘編『守貞謾稿』にも

「今世ハ右ノ菓実ノ類ヲ京坂ニテ和訓ヲ以(もっ)テクタモノト云(いい)、江戸ニテハ水クワシト云也(いうなり)。是(これ)干菓子・蒸菓子等ノ制アリテ、此(この)類ヲ唯(ただ)ニ菓子トノミ云(いう)コトニナリシニヨリ、對(たい)シテ菓実ノ類ハミヅ菓子ト云也」

とある。国立国会図書館HP「本の万華鏡、第25回あれもこれも和菓子、第2章和菓子をめぐる風俗」掲載史料による(2025年4月17日閲覧)。
2025年4月15日(火)
トラブル
 正保4年(1645)、3代将軍将軍家光が大川(隅田川)に御成した際、御供の面々に対し水練をおこなうよう命じた。しかし、水練熟練者が少なかったため、今後は毎夏、非番時には毎日水練稽古を行うように命じたのである。こうした理由で、御徒の男子は7歳以上になると必ず水練の稽古をしなければならなかったという。(1)

 4代将軍家綱の時代、御徒衆の中に水練の名人がいた。そこで、江戸城の蓮池御門(はすいけごもん)あたりの池で上覧水練がおこなわれた。ところが、水練の演技が終了したにもかかわらず、泳者は池から陸に一向あがってこないのである。


 
当番日、彼所(あそこ。蓮池)に 御成被遊(おなりあそばされ)、かの達所(たちどころ。その場ですぐ)無双の水練を 上覧に備え、最早(もはや)(おか)に上らん頃に至り、 御前のかたわらの面々の方へ向き、上りかねたる顔色をいたして、又水上に游(およぎ)ゆき、両度に及び候(そうろう)人を、人々如何(いかが)と計(ばか)り存候(ぞんじそうろう)所に、信綱(老中松平信綱)(ふところ)より何やら取出(とりだ)し、其侭(そのまま)小石をくくりつけて投やられ候へば、かの者則(すなわち)受取(うけとり)をしいただき(目より高くささげて持って)、側(かたわら)に游ぎゆき水中にて引(ひき)しめ、即座に陸に上り候。 (2)


 信綱が池に投げ入れたのは褌(ふんどし)だった。

 そもそも褌は、はずれやすい下着だ。褌が水中でとけたため、泳者は池から出るに出られなかった。泳者の顔色からそれを悟った信綱は「兼(かね)て懐中用意せられし白羽二重(しろはぶたえ)の犢鼻褌(ふんどし)を投(なげ)」てやって、泳者の危機を救ったのだった。

 この話の主眼は、信綱の察しのよさや日頃の用意のよさを誉める点にある。しかし、政府高官がそんな準備をしておく必要があるほど、褌にまつわるトラブルは多かったのだろう。


【注】
(1)
戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』2021年、東京堂出版、P.155。
(2)内山温恭編『流芳録』巻之三、天保7(1836)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー0004。「御老中 松平伊豆守信綱」の項。
2025年4月11日(金)
遇所と香遠
 益田遇所(ますだ・ぐうしょ。1797〜1860)の本姓は山口氏である。篆刻家益田勤斎に師事してその後継となり、益田を名乗った。勤斎・遇所らの清新で精緻な印風を浄碧居派(じょうへききょは)という。浄碧居派は、浜村蔵六(はまむら・ぞうろく。浜村家が五代にわたり名乗った名跡)の蔵六居派(ぞうろくきょは)と並ぶ篆刻界の二大流派だった。

 江戸時代には篆刻の名手が輩出した。池田道雲(いけだ・どううん。1674〜1737)、趙陶斎(ちょう・とうさい。1713〜1786)、高芙蓉(こう・ふよう。1722〜1784)の三人である。遇所はこれら三傑に次ぐ名人と目された。

 稀代の名人といえば卓越した技巧ばかりでなく、気骨のある人物が多い。遇所もまたしかりだった。

 ある時、純金に印を彫ることを依頼された。ところが依頼人は連日遇所宅にやってきては、遇所の作業を監視するのだった。彫りくずの金粉を遇所が私することを疑ったのである。怒った遇所は仕事を中断し、二度と彫刻刀を取らなかったという。

 またある時は、珊瑚に印を彫ることを依頼された。今回の依頼主も高価な珊瑚が損傷することを心配して、遇所の側にすわったまままじまじとその作業を見つめ続けるのだった。怒った遇所は手にした珊瑚を庭さきの石に投げつけて、粉々に打ち砕いてしまったという。

 遇所の人柄・技術に全幅の信頼をおけぬようなケチな人間には、そもそも仕事を依頼する資格などなかったのだ。

 ただし、そうした疑り深い凡俗な依頼者たちのおかげで、遇所は


 
特に彫刻に工(たくみ)なるのミならず、気概かくの如(ごと)し。たのもしき老人也(なり)ける。(1)


との名誉を得たのだった。


 遇所の子を香遠(こうとお。1836~1921)という。香遠は江戸幕府の国印製作に関わったことで知られる。

 ペリー来航後、諸外国と条約を締結する機会が多くなった。そのため国印が必要となったのである。幕末の将軍家茂・慶喜がさまざまな外交文書に使用し、日米修好通商条約批准書に押印したのも香遠らが製作した国印だった。

 この国印は所在が長らく不明だったが、平成29年(2017)、徳川宗家の蔵を整理中に長持の中から発見された。

 黒塗葵紋付蒔絵方形箱に納められた国印は銀製で、印面に「経文緯武」の四文字が陽刻されている。「経文緯武」は「文を経(たていと)にし、武を緯(よこいと)にす」と読み「文武両道を兼ねた政治の理想的な姿」を表すという。印面の大きさは縦横ともに9.2cm、印面から鈕(ちゅう)までの高さが7.8cm、重さは2.7kgもあるという。
(2)


【参考】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。
(2)公益財団法人德川記念財団HPによる。 
2025年4月7日(月)
草鞋を贈る
 大谷木醇堂は長年にわたり、幼くして父を失った武士が家督相続すると祝いの品を贈ってきたという。

 こうした祝いの場合、尾頭付きの鯛や鰹節(勝男武士に通じる)などを贈るのがふつうだ。しかし醇堂は草鞋(わらじ)を贈ったという。贈られた方では、醇堂の真意をはかりかねて困惑する者もいれば、その真意を了解して喜ぶ者もいるなど、その反応は千差万別だったという。
(1)

 醇堂が草鞋を贈ったのは、板倉重宗(いたくら・しげむね)が三代将軍家光に草鞋に贈った逸話にちなむ。その逸話とは、次のようなものだった。


 
重宗京都所司代たりし頃、一時(いっとき。ある時)草鞋一足作りて 大猷院殿(たいゆういんでん。家光)に献じ、

「是
(これ)は 権現様(ごんげんさま。家康)の軍中にて、加様(かよう)なるが能(よき)と 上意遊ばされ候(そうろう)を能(よく)覚へて居候間(おりそうろうあいだ)、自身作りて差上候(さしあげそうろう)。若(もし)御用に御座候(ござそうら)はば、いか程も調進仕(ちょうしんつかまつ)るべし」

と申上
(もうしあげ)られたり。是は

「権現様御小身の時、かかる鄙事
(ひじ。つまらないこと)をも御存(ごぞんじ)にて、業を創(はじ)め天下の主とならせ給(たま)へば、成を守るの君も下々の上までよく知(し)ろし召(めさ)で叶(かな)はぬ義ぞ」

と言
(いわ)ずして、暗にわらじに託して諫(いさめ)(たてまつ)るの心なるべし。(『流芳録』)(2)



 祖先の創業の苦労に思いをいたせ。しかし守成もまた困難である。この戒めを草鞋に託して家督相続者へ贈ったのだった。


【注】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。18〜19コマ目。
(2)内山温恭編『流芳録』巻之八、天保7(1836)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー0004。「京都所司代 板倉周防守重宗」の項、「雨夜燈并雑話燭談」を引用。
2025年4月6日(日)
鯛を贈る
 鯛は「めでタイ」の語呂もあり、お祝い事に贈られる。しかし江戸時代は、必ずしも「めでたい魚」ではなかったらしい。氏家幹人氏が次のような事例を紹介している。

 老中が在職中に重病になると、将軍から病気見舞いとして鯛の味噌煮が下賜された。そしていよいよ危篤となると、鱠残魚(かいざんぎょ。氏家氏の注によれば白魚や鱚のことという)の干物が届けられることになっていた。これらの魚が届けられると、程なくして老中の死去が公表されたという。

 つまり幕臣らにとっては、鯛や鱠残魚は老中の死を暗示する不吉な魚だったのだ。

 ついついわれわれは「鯛=めでたいもの」というような先入観によって物事を判断しがちだ。時としてそうした予断には思わぬ落とし穴がある。


【参考】
・氏家幹人『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.4〜P.7。
2025年3月28日(金)
蜀山人の反故
 江戸幕府の御家人大田直次郎(1749〜1823)は、御徒の家に生まれのち支配勘定にのぼった。幕臣としては一小吏に過ぎない。しかし、蜀山人等の戯号を用いた文芸活動においては、その名声は四方に鳴り響いていた。

 さて、蜀山人の家には長年つかえた逸助という下僕がいた。逸助はのち暇をもらい世帯を持った。

 ある時、逸助が蜀山人をたずねてきた。借家の壁を腰張り(壁の腰回り=下半部に紙を張ること)するのに反故紙(ほごがみ)が欲しいとのこと。そこで蜀山人は、机の下に散らばってあった書類を無造作に二束、三束と取りあげると、そのまま逸助に与えたのである。

 帰宅途中の逸助とたまたま出会った蜀山人の弟子が、その抱えている反故の束を見とめた。事情を聞けば蜀山人からもらった反故という。そこで弟子が反故を開いてみると、その中にはすぐれた狂詩・狂文、画讃の類が多く含まれていた。市場に出せば5、6両は下るまい。弟子はすぐさま蜀山人のもとにおもむき、以上の件を報告した。しかし蜀山人はまったく意に介していなかった。

 この話は弟子から世間に伝わり、蜀山人を慕う人びとがわれもわれも逸助の借家に押し寄せた。そして、蜀山人の反故を争い求め、壁に腰張りした反故までも剥がして持ち去ったのである。人びとが代価として置いていった金は7、8両にもなった。

 逸助が蜀山人の恩徳に感謝したのは言うまでもない。


【参考】
・為永春水著・教訓亭主人貞高撰『閑窓瑣談』巻之二、早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫11A1410。「第十六 蜀山先生のミやび」による。
2025年3月27日(木)
十九日
 江戸時代、馬鹿者のことを「十九日」と呼んだという。大田南畝の随筆『奴師労之(やっこだこ)』に次のような記事がある。


 
馬鹿ものゝの事を十九日とよびしハ、牛込赤城の縁日十九日也。其頃(そのころ)赤城に山猫といふ倡婦(しょうふ)ありしが、此所(ここ)にていひ出せし隠名(かくしな)といへり。ばか書(かき)て十九日といふ字体にちかきゆゑともいへり。(1)


 山猫は、本所回向院前や牛込赤城神社などの社寺地内にいた密淫売婦の称。隠名は実名を避け別名で呼ぶことをいうが、ここの場合は隠語(いんご。仲間内だけで通じる言葉)の意。赤城神社の縁日が19日。漢字の十九日をくずして書くとたまたま変体仮名の「者可(ばか)」と字形が類似する。それで馬鹿者を十九日という隠語で呼んだのだろう。

 なお、江戸時代には数字のはいったいろいろな商売があった。四文屋(しもんや)、十九文屋(じゅうくもんや)、十七屋(じゅうしちや)など。四文屋・十九文屋は4文・19文で商品を売ったから。十七屋は飛脚屋の異称。十七夜=立待月(たちまちづき)を手紙が「たちまち着く」と洒落たのだ。
(2)


【注】
(1)
大田南畝『奴師勞之』(九州大学中央図書館所蔵)、出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100348508。
(2)
渡辺信一郎『江戸のおしゃべり、川柳にみる男と女』2000年、平凡社新書、P.211〜212.
2025年3月26日(水)
悪ふざけが過ぎる
 禅宗寺院の門前によく掲げられている標柱。そこには「不許葷酒入山門」の七文字が彫り込まれている。これは「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と読んで、仏道修行の妨げとなる五葷(ごくん。五辛とも。長ネギ、ラッキョウ、ニンニクなど臭いの強い野菜)や酒等を寺域内に持ち込まないよう禁止したものだ。

 この標柱に対し、大谷木醇堂は次のような個人的な意見を持っていた。

 「通り抜け無用」と書いてあるところを通行しても、だれも咎めず黙視するのがならい。そもそも制札などというものは案山子(かかし)のカラスおどしと同じ。ワシやタカなどの攻撃にあえば何の役にも立たない、と。

 個人的な見解は人それぞれだから構わない。ところが、醇堂は先手組の仲間らと酒を飲んだあげく、駒込の吉祥寺(曹洞宗)に闖入して僧侶を呼びつけると、「不許葷酒入山門」というのならその禁戒を破った俺たちを処分しろ、処分できないのなら「不許葷酒入山門」の標柱を取り捨てる、と無理難題をふっかけたのである。
 

 
我輩等(わがはいら)かくの如く酒を飽(あく)まで呑(の)ミ、魚鳥を十分に食し、にら・にんにくを沢山に食ひ、その上握り屁を為してこの門に入れり。

 汝
(なんじ)賣子坊主(売僧(まいす)坊主。僧侶を罵っていう語)ども法によつて処分せよ。我輩また手を動かす所あらむ。もし又これを正すあたはずんば標石は廃物(はいぶつ)也。取除(とりのぞき)て捨(すつ)べし。如何(いかに)、如何(いかに)



 相手は酔っ払いの侍集団である。何をされるかわからない。理不尽な要求に対し、穏便に済ませたい僧侶は平身低頭するしかなかった。僧侶をあやまらせて溜飲を下げた酔漢たちは、大笑いして門を出ると「不許葷酒入山門」の標石を押し倒しにかかり、これまた僧侶にとめられた。

 酔っ払っていたとはいえ醇堂たちの行動は、侍身分を笠に来た鼻持ちならない傍若無人なものだった。そんなことにも思いが至らず、してやったり顔にこうした悪ふざけを記録するとは、傲慢かつ幼稚以外の何ものでもない。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29、26〜27コマ目。 
2025年3月25日(火)
雀と燕
 雀の前生その人たりし日に嫁(か)して他に在りしが、父の大漸(たいぜん。病が次第に重くなること)を告げ来るに及んで吐哺握髪(とほ・あくはつ。食べかけたものを吐き、洗いかけの髪を握って。非常に急ぐさま)、促装疾歩(そくそう・しっぽ。急ぎ旅支度をし早足で行く)してこれを省(帰省)し、臨終の間に合いたるをもって後世の宿縁この鳥と成るも、その形容綵色(さいしき。いろどり)美ならざるも、なほ人と同じく米を餌(えさ)として生活す。

 燕はこれと異也
(ことなり)、父危篤(きとく)の報を聞くもなお粉飾點紅(ふんしょく・てんこう。粉はおしろい、紅はべに。美しく化粧して)、衣装を繕(つくろ)ひ、徐歩緩行(じょほ・かんこう。徐歩も緩行もゆっくり歩くこと)、その瞑(めい)する後に達す(父親が死んだあと家に到着した)。ここをもって後生(ごしょう。のちに鳥に生まれ変わって)美艶(びえん)の羽采(うさい。羽のいろどり)あるも土塊(つちくれ)を食(く)ひ、飛走(ひそう)(わずら)はしく心を休息せずと。(『醇堂叢稿』)


 動物昔話のひとつに小鳥前生譚(ことりぜんしょうたん)という物語群がある。小鳥は前世において人間であったが、小鳥に生まれ変わったのちも、前世の行為のためにその報いを現にうけ続けていると語るものだ。小鳥の姿・習性・鳴き声等の由来を説明する一種の因果応報譚である。

 大谷木醇堂が紹介しているのは「雀孝行(すずめこうこう)」と呼ばれる昔話だ。雀と燕の対照的な容姿の由来を説明するとともに、親孝行によって雀が米をついばみ、親不孝によって燕が土をついばむようになったと語られる。

 教訓めかした由来譚であるが、これは日本人の多様な自然観の一面しか伝えていない。たとえば、農民目線にたてば、雀は稲に群がる撃退すべき害鳥であり、燕は害虫を捕食する保護すべき益鳥とその見方も変化する。燕を幸福のシンボルと見なす思想があるのも、益鳥保護の方便と解釈できる。

 「雀孝行」では「親不孝な小鳥」というレッテルを貼られた燕。しかし、われわれはむしろ燕を「子煩悩な小鳥」と見なし、燕に好意を寄せてきた。

 そもそも燕は夏鳥としてわが国に飛来し、外敵を避けるため、あえて人里で生活するという変わった渡り鳥だ。田畑の土塊・藁等を運んではわざわざ人家や納屋の軒先で営巣する。だからそこでは、子への給餌など育雛の様子を間近で観察できる。それが燕=「子煩悩な小鳥」という認識をわれわれの中に育んだ大きな理由だろう。

 大谷木醇堂も「その児(こ)をおもふ、まさにかくこそありたけれ」と燕の愛情を絶賛し、蕉門の俳人松倉嵐蘭(まつくら・らんらん。1647〜1693)の次の句を書きつけている。


   つばくろや 子をおもふ身のひまもなし               


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29。32〜33コマ目。
2025年3月23日(日)
弁当を持参するわけ
 江戸城本丸の台所は表・中奥・大奥の三か所にあった。このうち、江戸城勤務の諸役人衆への食事を調理していたのが、表の台所(表台所)だった。つまり、役人なら無料で食べられたのだ。それなのに、弁当を持参する役人衆が多かったという。なぜだろう。

 それは、ここで出される食事があまりにもひどいものだったからだ。
(1)

 表台所で出される食事は、メニューが貧弱な上まずかった。さらには箸・椀・膳といった食器類から部屋までもが不潔で、とても食べられるような代物ではなかった。
(2)そのため、みんながこれを食べなくなり、自ずと弁当を持参するようになったという。

 それにしても不思議なのは、そんなにまずい食事を、なぜ台所役人たちは作り続けたのだろう。

 それは、使用されなかった食材や残った料理が、すべて台所役人の役得になったからだ。彼らはそれらを自宅に持ち帰って消費したり、他所へ転売したりしたという。
(3)

 
つまり、調理する食事がまずかろうがうまかろうが、作りさえすれば役得があったわけだ。そのため、いつしか作業をこなすだけになってしまい、楽な方へ楽な方へと流れてしまったのだろう。

 しかしだからといって、彼らに台所役人としてのプライドはなかったのだろうか。少々役得が減ったとしても、料理の腕を磨いてうまい食事を提供し、役人衆に喜ばれた方がやりがいがあるように思うのだが。


【注】
(1)
戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』2021年、東京堂出版、P.202。
(2)「あれやこれや2024」2024年2月12日(月)付け参照。
(3)戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』前出、P.204。

【追記】
 氏家幹人氏の『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.146~148には「御台所勤仕の小吏」の役得の驚くべき実態が書かれている。御台所から持ち帰る食材は自宅で消費してもあまるので、親類・知己・隣人にまでおすそ分けする。食材・調味料はおろか、薪炭や陶器・漆器といった調度品類もすべて御台所から持ち帰る。そのため、自分で買う物は衣服以外はなかったというのだ。(2025年4月2日)
2025年3月22日(土)
そこまで言わなくても
 江戸っ子を評した言葉には、喧嘩早い、宵越しの金はもたぬ、威勢がいいなどがある。しかし『醇堂叢稿』における江戸っ子評はさんざんだ。


 
江戸ハ大将軍居城の都會なれども、馬鹿もの・狡猾輩(こうかつはい。悪賢くずるいやから)の多く住む所にして、頼母(たのも)しき人物至て少なき所也。

 第一かゝり気強くしてもの見高く、出火ありと聞けバすミやかにかけ出してその場に至り、おのれが家の火のもとを心付くる事無く、葬式が通るを見れバ駈け出し、たちまちの人の山を為す。これらの徒を俗に呼んで、おひそれもの
(軽薄な人)と云ふ。

 第一に虚飾を主として実意無く、衣服の美麗に低頭して、その人また衣服のために尊大倨傲
(そんだい・きょごう。横柄でおごりたかぶる)をかざる。実にらちも無き没字漢(ぼつじかん。文字も知らぬ教養がない人)のミ住む魔界にぞ有ける。

(江戸は大将軍の居城がある都会だが、馬鹿者やずるがしこい人びとばかりが多く住み、信頼できる人びとがいたって少ない場所だ。
 第一、周りが気になって仕方なく、物見高い。火事だと聞けばすぐさま駆け出して現場にいたり、わが家の火の元には心が及ばない。葬式が通ると見れば駆け出し、たちまちのうちに人だかりができる。こうした連中を世間では「おいそれ者」とよぶ。
 第一に見栄ばかりにこだわり誠意がなく、衣服も美麗な者に対しては平身低頭し、見すぼらしい者にたいしては横柄な態度をとる。まことにどうしようもない無教養人が住む魔物の世界だ)



 上の史料では江戸っ子を馬鹿者、狡猾輩、おいそれ者、没字漢と罵っている。気の毒なほどのこき下ろしようだ。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29、54コマ目。
2025年3月21日(金)
言葉をうしなう
 桜の季節だ。一斉に開花するソメイヨシノの花のトンネルも、山桜がパッチワークのように山々をいろどる里の風景も美しい。

 人は絶景に出会うと感動のあまりに言葉をうしなう。

 言葉をうしなうといえば、江戸時代初期の俳諧師、安原貞室(やすはら・ていしつ。1610〜1673)の桜を詠んだ次の句が有名だ。


   
これはこれはとばかり花の芳野山(よしのやま)  貞室


 「これはこれはとばかり」は感嘆のあまり言葉も出ないありさま。古浄瑠璃に頻出する常套表現だったため、当時の人びとにとっては馴染みのある言葉だった。ただし、通常では悲嘆に暮れる場合に用いられるフレーズだったという。

 そうしたマイナスイメージを帯びた用語であるのを承知で、「感動のあまり言葉をうしなった」と、全山桜の泣きたくなるような美しさを表現するフレーズに転用したのだった。

 大谷木醇堂はこれを次のように評している。


 
安原貞室が「これはこれは」の句上乗(じょうじょう。このうえなくすぐれている)を占め得て、後人(こうじん)に詞(ことば)無からしむ。


 吉野山の桜を詠んだ句といえばこの句の右に出るものはない。後世の俳人たちがいかに吉野山の桜の美しさを讃えようが、もはや貞室の句を越えることできないのだ。

 よって、吉野山の桜を詠むことは、後世の俳人たちにとっては徒労でしかない。そんな俳人たちの落胆ぶりを詠んだ句が次。


   貞室に縄張りされた吉野山   作者不明


 貞室は後世の俳人たちに、言葉をうしなわせたのだ。


【参考】
・大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29、30コマ目。
2025年3月19日(水)
里芋の値段
 江戸時代、芋といえば里芋を指した。その名は、山芋(自然薯)に対する「里の芋」に由来するという。大混雑のたとえ「芋を洗うような」の芋も里芋のことだ。

 里芋はうまくて安い、江戸庶民にとっては馴染みの食材だった。

 ところで安価というものの、一体いくらで売られていたのだろう。里芋の値段の変遷について、柳亭種彦が考証している。

 まずは貞享元年(1684)の画本に、次の発句が載っているという。


   月千金 芋一升や十五文


 値千金の月とは、もちろん旧暦8月15夜の月。中秋の名月は別名「芋名月(いもめいげつ)」。このころ里芋1升(約1.8リットル)は15文だったのだ。種彦によると、その後の里芋の値段の変遷は子どもの手毬歌からわかるという。


 
天明・寛政の頃、童(わらべ)の手毬つく歌に 「いもいも、いもいも、芋屋さん。お芋ハ一升いくらじやへ。二十四孝(にじゅうしこう)でござります。十六羅漢(じゅうろくらかん)に負(まけ)さんせ」 と歌ひしハ、おふよそ二十四文が一升の定價(ていか)にて、ときとして十六文にも賣る事のありし故(ゆえ)なり。


 つまり、天明・寛政(1781〜1801)の頃は里芋1升が24文で、16文(ソバ1杯の値段)で売ることもあったというのだ。

 その後時代が下るにつれ、手毬歌のなかの芋の値段も変化していった。文化頃(1804〜1818)には芋の値段は24文のみとなる。16文ではもはや買えなかったのだ。そして、天保頃(1830〜1844)になると32文からほどなく64文に跳ねあがり、ついには100文を越えてしまったという。

 つまり里芋は、1700年頃は1升15文ほどで売られ、100年たった1800年頃であっても1升24文ほどだった。物価の優等生である。それがその後の30〜40年の間に、やすやすと100文を越えてしまったというのだ。

 これについて種彦は 「(里芋の)一升の價(あたい)百餘銭(100文余り)になりたれども、語呂のわろきゆへかそれをバうたひしを聞」 かないと、芋の急激な価格上昇に子どもの手毬歌が追いつかなくなった状況を述べている。もはや里芋は庶民が気軽に口にできる食べ物ではなくなっていた。

 いつの世も物価高に泣かされるのは庶民である。


【参考】
・柳亭種彦『柳亭記』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:辰-6。10〜11コマ目。
2025年3月17日(月)
包銀詐欺
 『寛政紀聞』に次のような話がある。(1)

 小普請組に井出岩次郎という男がいた。ある日、井出は石町(こくちょう。現、東京都中央区日本橋本石町)辺にあった両替屋へ包銀(つつみぎん)を持ち込み、換金を依頼した。

 包銀とは一定額の銀貨を和紙で包み、その表に額面・包封者を墨書して封印したものだ。この時代、商取引きで高額な金貨・銀貨を扱う際は、包金・包銀という貨幣形態で流通したのである。

 さて両替屋が包銀の表書きを改めると、銀座の責任者後藤氏が署名・封印したものにいささかも相違なかった。そこで換金に応じたのだった。

 しかしその後、両替屋では少額の銀貨が必要にでもなったのだろう、包銀の封印を開いて中身を取り出したのである。すると、中から出てきたのは鉛でこしらえた偽物だった。

 あわてて町奉行へ訴え出えると、犯人はすぐに召捕られた。

 そもそも包金・包銀という貨幣形態は、表書きの大きな信用の上に成り立つ仕組みだ。そのため「原則とし市中では開封して内容を検めることをしない」
(2)のが慣例だった。井出はこれを悪用したのだ。

 「包銀は中身を改めないから犯行が露顕することはあるまい」という思い込みが、詐欺師の命取りだった。

【注】
(1)
吉田重房『寛政紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。465〜466コマ目。
(2)山口健二郎「江戸期包金銀について」要旨、1996年、日本銀行金融研究所、IMES Discussion Paper 96-J-3。
2025年3月15日(土)
勘定所の文書整理
 勘定所には全国から租税関係の書類をはじめ、多種多様な文書が殺到する。(1)しかもそれらの文書は、長期保存しなければならないものばかり。その結果、年々膨大な文書が集積されていく一方。そこで困ったのが収蔵場所だ。

 勘定所の古文書・古記録類は竹橋御蔵内の書物蔵に積みあげられていた。しかしそれだけでは収納し切れないので、大手門の多聞櫓(たもんやぐら。細長い長屋造りの櫓で、通路兼武器倉庫等の役割もあった)や桔梗門(ききょうもん。内桜田門)の櫓にまで古い文書を押し込んでいたのだった。

 それでも年々増え続ける文書類。さすがにこのままはまずいと思ったのか、幕府はついに勘定所文書の整理に着手する。

 こうして寛政12年(1800)、御勘定所諸帳面取調御用(しょちょうめんとりしらべごよう)が任命された。そのひとりが、あの大田南畝(おおた・なんぽ。当時南畝は支配勘定。1749〜1823)。よって南畝は、10人あまりの同僚とともに竹橋の書物蔵にこもり、文書整理に奮闘することになったのだった。
(2)

 さて、勘定所の文書は、桔梗門や大手門の櫓にも分散保存されている。そこで文書整理のため、桔梗門へは通わねばならない。しかし、大手門は人の出入りが繁く、通うには不便だった。そこで、大手門多聞櫓に収蔵してある文書を、竹橋の書物蔵に移すことにした。しかし運び込んでみると、そのすさまじい数量に気圧されてしまうのだった。


 
追手(おうて。大手門)は出入の人しげく便あしければ、こめをく所の長櫃(ながびつ。その中に文書・記録類を保管)百にあまれるを、みな竹橋のみくら(竹橋にあった勘定所の書物蔵)にうつしぬれば、一堆(いったい。うずたかく積み重なっているさま)の反古(ほご)、山の上にまたやまを、かさねあげたらん心地ぞする(3)


 やってもやっても終わりの見えない整理作業。南畝の次の狂歌は、こうした文書整理に明け暮れた日々を託って詠んだものだ。


 
五月雨(さみだれ)の日もたけ橋の反故(ほご)しらべ 今日もふるてふ あすも古る帳(4)

 
(日が「闌(た)け」る(日が高くのぼる)に「竹」橋(勘定所の書物蔵)を、「今日も明日も五月雨が降り続く」の意に「今日も明日も古帳調べが続く」の意を掛ける)



 
それでも苦労のかいあって、文書整理は順調に進んでいったのである。

 ところで、文書整理が進むと大量の不用文書が発生する。それらの反故は一体どこに消えたのだろうか。

 答え。それらの反故は石川島(隅田川河口に築いた島)に送られたのである。

 寛政2年(1790)、石川島に創設された人足寄場は、引受人がなく、農村へ人返しのできない無宿人(実際は収容者の大半は軽犯罪者)を収容した施設だ。無宿人を収容することで江戸の治安維持をはかるともに、大工・左官などの職業訓練をおこなって彼らの社会復帰を目指した。その職業訓練のひとつに紙漉きがあった。

 幕臣森山孝盛(もりやま・たかもり)の随筆『蜑の焼藻の記(あまのたくものき)』に次のような記載がある。


 
紙は漉(すき)かへしにて、嶋紙(しまがみ)とて是(これ)も世上に云(いい)ならしたりしかど、名の正しからざるをきらひて、多くは江戸にて用いざりけり。本多霜台(そうだい)なんどは反古をあつめて嶋(石川島の人足寄場)へ遣(つかわ)してすかせられけり。(5)


 つまり、反故は再生紙の原料とされたのだ。当時の反故は墨で書かれていたため、再生紙にするとどうしても色が黒ずんでしまう。そのため質の悪い安価なものは落とし紙(トイレットペーパー)として用いられた。

 なお、史料中の本多霜台は、老中格本多忠籌(ほんだ・ただかず。1740〜1813)のこと。霜台は弾正台の唐名。忠籌は弾正大弼(だんじょうだいひつ)だった。


【注】
(1)
飯島千秋「江戸幕府勘定所と勘定所諸役人」横浜商大論集第54巻1.2合併号、2021年、P.56〜57。
(2)国立公文書館HP、デジタル展示「旗本御家人」(平成21年春の特別展「旗本御家人」を再編集したもの)の『竹橋蠹簡』・『竹橋余筆』の解説。
(3)大田南畝『竹橋余筆』序文--大田南畝著・国書刊行会編『竹橋余筆』1917年、国書刊行会、P.71。
(4)喜多村香城著「五月雨草紙」-国書刊行会編『新燕十種・第二』1911年〜1913年、国書刊行会、P.94。国立国会図書館デジタルコレクションによる-
(5)森山孝盛『蜑の焼藻の記』写本、1879年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:166-0185。94コマ目。
2025年3月12日(水)
隅田川、凍る
 現在の東京はヒートアイランド現象やら、気候温暖化やらで冬でも気温が高く、雪が降っても滅多に積もることはない。

 しかし、江戸時代の江戸は今より格段に寒く、雪もよく降ったし、隅田川も安永2年(1773)、同3年(1774)、同9年(4月に天明改元。1781)、文化9年(1812)といく度も川の水が凍ったという。江戸時代は比較的寒冷な小氷期のなかにあったのだ。
(1)

 さて、隅田川が凍結したとはいうが、いったいどの程度のものだったのか。茨城県の大子町(だいごまち)では冬、凍ってシャーベット状になった氷が川を流れる。これを地元ではシガとよぶ。隅田川の場合もシガが流れたり、川べりで薄氷が張る程度だったのだろうか。

 隅田川が凍ったおりの記事が『浚明院殿御実紀』に残っている。安永9年(天明元年。1781)正月4日、10代将軍家治は行徳村(ぎょうとくむら)辺りへ鷹狩りに出かけた。しかし、この日はひどく寒かったため川の水が凍結し、将軍が乗った船を通すことも困難だったという。(2)

 『縮地千里』にも同日のやや詳しい記事がある。原文で示そう。


 此日(このひ。天明元年正月4日)至而之寒氣(いたってのかんき)強く、両国大川(隅田川)より小名木川通(おなぎがわどおり) 御通船之所(ごつうせんのところ)、所々川水氷り詰(づめ)御舟通り不申候(もうさずそうろう)ニ付(つき)、役舟(やくぶね)ニて人足夥敷(おびただしく)罷出(まかりいで)、御舟手方(おふなてかた)差圖(さしず)ニて氷を打砕(うちくだ)き申候(もうしそうろう)。漸(ようや)く御通船有之候(ごつうせんこれありそうろう)(3)


 隅田川に張った氷は、大勢の人夫を動員して打ち砕かねば通船できぬほど、かなり厚い氷だったのだ。江戸時代こそ、砕氷船が欲しかっただろう。


【注】
(1)竹内誠監修・市川寛明編『地図・グラフ・図解でみる一目でわかる江戸時代』2004年、小学館、40〜41ページ。
(2)『浚明院殿御実紀』巻44、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:特075-0001。3〜4コマ目。
(3)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。95コマ目。
2025年3月10日(月)
天狗の無心
 金沢城下より5里ほど離れた山中に「天狗の森」があり、その奥には観音堂があったという。観音堂には、願掛けのある参詣人がよく訪れた。

 ある日、城下に住む八兵衛という裕福な町人が、くだんの観音堂に願掛けにいった帰りのことだ。天狗の森を通ったとき、突然樹上からおびただしい羽音をさせて何者かが飛び降りてきた。見ると、まるで絵に描いたような天狗だ。恐ろしさに八兵衛は逃げることすらできない。すると天狗は、八兵衛に向かって無心を言い出したのである。


「おまえに頼みたいことがある。このたび、よんどころない理由で金が必要となった。ついては3000両を俺に貸せ。3年後に2倍にして返す。もしも承諾しなければおまえの家を焼き払うばかりか、おまえの子孫を根絶やしにしてくれる」


 とんでもない押借りだった。金を貸すことを脅迫された八兵衛は、ほうほうの体でその場をあとにした。そして、帰宅するや番頭に事情を説明したのである。

 気が動転している場合、冷静な第三者に話すことは有益だ。主人の話を聞くと番頭は次のように答えた。


「それは本物の天狗ではないでしょう。本物の天狗なら金の必要などはありますまい。盗賊などが変装して、金銭を奪い取ろうとだましているのかもしれません。まずは内々で役所に相談しましょう」


 こうして八兵衛は、番頭の助言にしたがって役所に相談に行った。その後番頭とともに約束の金を天狗の森へと持参した。この時八兵衛らのうしろでは、捕手(とりて)30人ばかりを引連れた役人がひそかに様子をうかがっていたのである。

 さて、八兵衛たちが約束の場所に到着すると、樹上から5、6羽の烏天狗が飛び降りてきた。そして八兵衛らから金を受け取ると


「この金は3年後には2倍に殖やして返してやるから楽しみに待っていろ」


と言い捨てるとかたわらの藪の中へと姿を消した。

 その後、役人たちが天狗どもの跡をつけて進んでいくと、数丁を隔てて一つの洞穴があった。そこで洞穴内に突入すると、果たして盗賊どもの根城だったのである。

 召捕った盗賊たちを明るい場所で見てみると、頭には毛を植えた烏天狗の面をかぶり、本物の鳥の羽毛をまとって全身を天狗の姿に似せていたのであった。洞穴内からはあまたの盗品が発見された。その後盗賊どもが厳しく罰せられたのは言うまでもない。

 こうして八兵衛は、天狗に奪われた金を直ちに取り戻すことができた。これも番頭の助言のおかげだった。

 詐欺に合わないようにするためには、第三者の冷静な判断が大きな助けになるのは昔も今も変わらない。


【参照】
・吉田重房『寛政紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。452〜455コマ目
2025年3月4日(火)
貝を食べて長生き
 貝は低脂肪ながらタンパク質を豊富に含む栄養価の高い食材だ。『寛政紀聞』には、貝を食べて長生きした女性の風聞が記録されている。

 越前領に住む百姓何某(なにがし)の後家は異常なほど長命だった。その容貌はどう見ても40歳ほどだったが、実年齢は何と600余歳。その証拠に、600年来このかたのことはおおよそ記憶していて、人びとに物語ったという。

 それにしても、彼女はどうやってこれほどの長命を手に入れたのだろうか。

 本人の言によれば、大飢饉の折り食べ物をさがしに山に入り、そこでホラ貝を見つけた。それを掘り出して食べると無病息災となり、これまで生きてこられた。そこで後家はこのホラ貝を保良大明神として祭り、尊崇してきたのだと。

 この話に興味をもった越前公は、くだんのホラ貝を江戸屋敷まで取寄せたという。すると、この噂を耳にしたのが一橋公。早速越前公に掛け合い、是非にとホラ貝を借用した。そしてホラ貝で酒を飲み、後家の長命にあやかろうとしたという。

 しかし、長生きするのもよいことばかりではない。

 後家はそれまでに20人あまりの夫を持ち、数多くの子どもを産んだ。しかし、自分ひとりが異常に長生きしすぎたため、後家の生存中に係累はみな死に絶えてしまったという。

 ところで、この話は何とも胡散臭い。600余歳という年齢からしてありえないし、そもそも海に生息するホラ貝を山中から掘り出して食べたなどと言っているのだから。

 ホラ大明神だけに、「嘘八百」ならぬ「ホラ六百」とも言うべきホラ話だったか。


【参照】
・吉田重房『寛政紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。444〜445コマ目。
2025年3月2日(日)
筆算吟味
 江戸幕府の官吏の逸話を集めた『流芳録』に、神谷久敬(かみや・ひさよし。1672〜1749)の逸話が収められている。神谷は御家人株を買って御家人になると「支配勘定御吟味(しはいかんじょうごぎんみ)」という選考試験に合格して勘定所の下級役人となり、そこから頭角をあらわしてついには勘定奉行にまでのぼりつめたという。


(神谷久敬は)甲州の百姓の二男。少年の時より学問好き、算筆(計算と読み書き)にも達し仕官の望ありしゆへ、金子少々持(きんすしょうしょうもち)江戸へ出て、西丸御切手同心(にしのまるおきってどうしん)の明(あ)きを買候(かいそうらい)て相勤(あいつとむ)る内に又金子を貯へ、御徒(おかち)の跡を買候て相勤(あいつとめ)ける。

 算筆は元より達者なれば、御徒の内より
支配勘定御吟味の時に撰(えら)ばれ支配勘定になり、段々精出し相勤(あいつとめ)、御勘定 仰付(おおせつけ)られ百五十俵下さる。( 中略 )其後(そのご)帰府いたし候処(そうろうところ)、新地百石下され御勘定吟味役 仰付られ、享保の末(享保19年(1734))御勘定奉行 仰付られ志摩守に任官、三千石下され候なり。(1)



 ここで注目すべきは、門閥制度が幅をきかせていた江戸時代に、勘定所では選抜試験を実施して役人を採用していたことだ。実際、勘定所は算筆の能力・実力がなければ勤まらない役所だった。その半面、能力・実力がありさえすれば、いくらでも昇進がのぞめる部署でもあったのだ。
(2)

 さて寛政年間になって、勘定所で実施された試験を筆算吟味といった。学問吟味・素読吟味と同じく、寛政改革の文武奨励策のひとつとして設けられた試験制度だったのだろう。しかし、勘定所ではそれ以前から筆算吟味同様の選考方法(支配勘定御吟味)があったことが神谷久敬の例からも知られる。

 筆算吟味のおもな対象者は御家人だった。しかし試験そのものの詳細はわからない。史料も、大田南畝(1749〜1823)がたまたま書き残した息子定吉(18歳)の受験記事くらいしかない。とりあえずは南畝が書き残した記事を見てみよう。

 定吉の筆算吟味受験は、寛政9年(1797)7月24日のことだった。南畝は前年の寛政8年(1796)、御徒(おかち)から支配勘定に転じたので、勘定所関係者の子弟に受験勧誘の声がかかったのかも知れない。当日の受験名簿にも「支配勘定頭御徒押 金井喜四郎」「御勘定奉行支配無役 大塚孝之助」「支配勘定彌司右衛門惣領 丹波吉太郎」「支配勘定格栄左衛門惣領 吉川八十八」という肩書きが見える。試験2日前(7月22日)の記事が次。


 
明後廿四日筆算御吟味御座候由、忰(せがれ)定吉も罷出候旨(まかりいでそうろうむね)杉江勘兵衛申聞(3)


 筆算吟味当日は目付や奉行衆・勘定吟味役らが残らず出席したというから、試験はかなり厳格に実施されたらしい。7月24日の記事が次。


 
今日筆算御吟味有之、忰定吉同道、朝六つ半時(午前7時)頃出宅、御目付〈割書「横田、森川」〉・奉行衆・吟味役衆不残(4)


 なお、南畝は当日受験者54名について、受験生の姓名・年齢・父親の名を記録している。ほぼ全員が跡継ぎの男子(惣領か養子)である。これらのデータのうち、年齢について見てみよう。

 年齢が判明しているのは51名。最年少17歳から最年長43歳までと幅があるのは、試験制度が発足して間もなかったからだろう。下級役人選考のための試験という性格上、若い受験者が多かったと見られる。実際に彼らの年代別人数を見てみると、40歳代7名(14%)、30歳代11名(21%)、20歳代24名(47%)、10歳代9名(18%)となっている。やはり10代・20代の若者が多く、受験者の平均年齢も27.5歳だ。
(5)

 なお、勘定吟味役・佐渡奉行・小普請奉行・大坂東町奉行・勘定奉行・外国奉行など幕府要職を歴任した川路聖謨(かわじ・としあきら。1801〜1868)も御家人出身で、筆算吟味を経て勘定所入りした。川路が筆算吟味に合格したのは17歳の時である。


【注】
(1)
内山温恭編『流芳録・第14巻』、「御勘定 神谷志摩守久敬」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
(2)
勘定所が下士でも昇進可能な役所だった理由について、藤田覚氏は次のように述べている。
「複雑で難しい幕府の財政の運営、しかも財政が悪化してきた段階での運営はますます難しくなり、有能な者がいなければやっていけなかった。それ故、経理の才、経済・財政政策の立案にたけた役人が頭角をあらわす実力主義の役所になった。それが、能力のある下士がトップにまで上り詰めることができた理由である。」(藤田覚『日本近世の歴史4・田沼時代』2012年、吉川弘文館、P.43)
(3)(4)(5)大田南畝『寛政御用留』-蜀山人全集・巻2、1907年、吉川弘文館、P.367〜368-
2025年2月28日(金)
秘密基地
 寛政2年(1790)2月のある日、牛込御門の御堀への水抜き穴から煙が出ているのを見つけた者がいた。水抜き穴から煙が出るなど、どう考えてもおかしい。早速奉行所へ届け出た。

 とりあえず役人がやってきて、くだんの水抜き穴の中へ人を入れて内部を調べさせた。

 すると驚いたことに内部には横穴が掘られ、そこに家作がなされていたのである。畳や建具も備わり、箪笥は3棹あった。そのほかにも数々の品物がたくわえてあって、長年にわたり人が居住していたことがうかがえた。しかし、住人の姿はどこにも見当たらなかった。

 結局奉行所では「盗賊の所為(しょい)ニ紛(まぎ)レ無之(これなし)」と判断し、品物をすべて運び出すと、建物を取り壊したのである。

 それにしても場所が場所である。こんな場所に住処をしつらえてモグラのように潜伏していたのは、一体どこの誰だったのだろう。


【参考】
・吉田重房『寛政紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。433コマ目。
2025年2月27日(木)
清正の手形
 疫病の正体が不明で有効な治療法が明らかでなかった時代、どうしても迷信頼みや神仏頼みになりがちなのはやむを得ない。

 そうした人びとが藁にもすがる思いで求めた護符にひとつに、加藤清正の手形がある。

 安政年間猛威をふるったコレラは、致死率の高い原因不明の病として当時の人びとに恐れられた。罹病すると三日でコロリと死ぬといい「三日コロリ」といわれた。コロリはまた「虎狼刺」と当て字された。虎狼のように恐ろしい死病の意である。
(1)

 そんな虎狼になぞられた死病に対抗できる者は、歴史上虎退治で勇名を馳せた加藤清正のほかいまい。人びとはそう連想したのだ。そこで清正の大きな手形を門柱に貼るなどして、疫病退散を願ったのだった。
(2)

 もはや歴史上の英雄の武威にすがるくらいしか、当時の人びとになす術はなかったのだろう。


【注】
(1)
「あれやこれや2025」2025年1月19日(日)付け「幕末のパンデミック」参照。
(2)内藤記念くすり博物館HP「2001年4月25日~11月25日 開館30周年記念特別展 展示資料紹介の「加藤清正の手形、安政5年(1858)」。
2025年2月25日(火)
風邪のなまえ
 江戸時代の人びとは、その時々に流行した風邪を「稲葉風」とか「お駒風」、「お七風」などとニックネームで呼んでいた。時には同じ風邪を、さまざまなニックネームでよぶこともあった。

 たとえば、天明元年(1781)11月に時流行した風邪は、最初「信濃風(しなのかぜ)」(名称の由来不明)とよばれた。ほとんどの老中が風邪のため欠勤し、登城して政務を行ない得たのは大和守(久世広明。1732〜1785)ひとりだけだったという。

 月も半ばになると、風邪の名称は「三枡風(みますかぜ)」と変わる。三枡とは、大中小三つの枡を入れ子にした模様のこと。治っても三度までは引き返す、という謎である。

 この風邪は咳も出たので「谷風(たにかぜ)」ともいった。谷風は関取の谷風梶之助(たにかぜ・かじのすけ。1750〜1795)のこと。関取に咳を掛けたのだ。

 また「古くぎ風」ともいった。錆び付いた古釘は、釘抜きで抜こうとしてもなかなか抜けない。いったん引いてしまうと、なかなか抜けない(治りきらない)風邪という意味だ。


【参考】
・吉田重房『天明紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。396コマ目
2025年2月22日(土)
上司も部下もバカばかり
 田沼意次が失脚し、松平定信が政権の座に就いた。定信は寛政改革を断行するにあたり、まずは風紀の引き締めにとりかかった。文武奨励と倹約を幕臣たちに申し渡し、物見遊山や歌舞音曲など遊芸のたぐいを一切禁止した。


 
世間一時ニ被行候者(おこなわれそうろうもの)ハ学問・武芸・節倹の三ツにて、格別厳重の被仰出(おおせいだされ)なり。遊山観水(ゆさん・かんすい)の類(たぐい)・歌舞の芸ハ一切(いっさい)御停止(ごちょうじ。禁止)(1)


 その結果、


 
武家・町ともに音もなく、往還(おうかん)を通り候(そうろう)馬かたの鼻歌、道中の雲助(くもすけ。交通労働に携わった無宿の人足)が尾張名護屋(名古屋)の長持唄(ながもちうた)もいつしか止(や)メになり、男女の芸者・座頭・ごぜ(瞽女)・こわ色つかゐ(役者の声真似をする芸人。声帯模写)の類(たぐい)、上(あ)ガツタリ、バツタリ(商売あがったりでどうしようもない)( 中略 )芝居も武家の見物とてハ壱人もなく(2)


といった有様。町からは賑わいがすっかりなくなり、まるで火が消えたよう。

 代わって、町のあちらこちらから聞こえてくるのは、剣術稽古の掛け声や経書の講釈ばかり。文武奨励をモットーとする定信は、そんな人びとの中から積極的な人材登用をおこなおうとした。

 しかし、理想と現実は往々にして乖離する。

 木刀を振り回したり中国古典を読んだりする能力は、役人の実務能力とあまり関係がないからだ。

 たとえば、幕府財政を担当する勘定所の役人なら、馬術に巧みであるよりも、正確で素早い計算能力や緻密さなどが必要とされるだろう。また、大奥の管理・警衛にあたる御広敷向(おひろしきむき)の役人なら、四書五経が講釈できるよりも、段どりのうまさや渉外能力の高さなどが求められよう。

 こうした現実を無視した定信の人材登用の実態を、『縮地千里』の筆者は次のように批判する。


 
近頃の御役替(おやくがえ)もどれどれとても(どれをとっても)、劔術遣(けんじゅつつかい)の、儒者ジヤのとのもの計(ばか)り。御入用場所(おいりようばしょ。人材を必要とする部署)の役人ニハキツイ点違ひ(とんでもない料簡違い)。ナツタ所が「塗盆(ぬりぼん)にひき蟇(がえる」)(3)、堅(かた)ひ計(ばかり)で一向用ひられず(堅苦しいばかりで一切使えたものではない)

 此
(この)通りニ成行候(なりゆきそうら)ハバ、御入用場所ハ奉行も下(し)タもバカ者揃(ぞろ)ひニ成可申哉(なりもうすべきや)(4)


 最近の人事を見ると、採用されるのは剣術使いや儒者ばかり。彼らを迎える部署としては、とんでもない大ハズレ。配属された新人は、真面目だけが取り柄のポンコツばかり。これではそのうち、役所は上司も部下もバカばかりになってしまうだろう、と。

 定信は、自身が打ちだした文武奨励策に拘泥するあまり、人事の本質を見失ったのだ。
(5)


【注】
(1)
吉田重房『天明紀聞(静山叢書)』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。421コマ目。
(2)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。138コマ目。
(3)「塗盆に載せた蛙」「盆に載せた蟇(ひきがえる)」とも。もともとは畏縮するさま、すくんで動けない状態を形容する諺(前田勇編『江戸語の辞典』参照)。
(4)『縮地千里』前出、139コマ目。
(5)定信は、文武に長じた者たちの中から人材を登用しようとした。そのため、出世の糸口をつかもうとする武士たちが武芸の稽古場に殺到した。『縮地千里』(208〜209コマ目)には次のようにある。

 
何か越中様(松平定信)ハ劔術(けんじゅつ)がおすきそふで、所々ニて毎日毎日、やつとうやつとう(剣術のかけ声)。其外(そのほか)弓馬の稽古。江戸中いづれの馬場ニても馬の建所(たつところ)なし。的場(まとば。的をかけ弓・鉄砲を練習する場所)ハ江戸中幕(まく)のかからぬ日とてハ、いち日へんじ(一日片時。わずかな時間)もなひわひなでござります。

 なんぼ武芸がよくても、御入用場所の勤(つとめ)ハ武芸でハ参(まい)る間敷(まじき)が、さてさて武芸ニて喧敷(かまびすしき)こと共(ども)ニ御坐候(ござそうろう)。
2025年2月19日(水)
寄合
 仕事もせずに遊んで暮らす。よほどの資産家でもない限り、実現不可能な夢だろう。しかしそんな夢のような話が、江戸時代にはあったのだ。

 江戸幕府は元和偃武(げんなえんぶ)以降も有事に備え、「旗本八万騎」等から成る軍事組織を維持し続けた。こののち260年間、大きな戦争はおこらなかった。

 戦闘員の多くが、平時に実質的な仕事がなかった。それにもかかわらず、食い扶持は保証されていた。悪く言えば無駄飯食らいである。こうした実態を大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)は次のように痛罵する。

 
関東武家旗下(きか)の士ニテ寄合(よりあい)と称するもの、神楽坂の本多・溜池の横田を禄高の首座として三千石に至るまで頗(すこぶ)る多く、箒(ほうき)ニ而(て)(はら)ふほど也(なり)

 其以下
(それいか)千石・五百石の人々、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)、屈指(くっし)すべからず。すでに廩米(りんまい)の小禄(しょうろく)を加へて其数(そのかず)八万騎とも称す。

 嗚呼
(ああ)、盛んなる哉(かな)封建の世襲。海外の羨慕(せんぼ)もむべなり、むべなり。(1)



 三千石取り以上の旗本で寄合と称する無役の者は、箒で掃いて捨てるほどいる。それ以下の収入の士を加えるなら、数えあげることもできぬほど。これが旗本八万騎の実態。こうした家禄といった形で収入が保証される世襲制が、ほかから羨ましがられるももっともなことだ、と醇堂は皮肉っているのだ。

 老婆心ながら、文中の出てくる言葉に注をつけておこう。


(メモ) ・寄合  三千石取り以上で無役の旗本。
     ・神楽坂の本多  神楽坂に居を構える本多氏は知行9千石の大身旗本。
     ・溜池の横田  赤坂溜池近くに居を構える横田氏は知行9千5百石の大身旗本。
     ・汗牛充棟  多いこと。本来は蔵書が多いたとえに使う。
     ・屈指すべからず  数えることができないほど多い。
     ・廩米の小禄  蔵米取りで石高の少ない者。
     ・羨慕  うらやみしたうこと。羨望。
     ・むべなり  いやはやもっともだ、の意。


【注】
(1)
大谷木醇堂編『醇堂叢稿』[45]写本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:214-29、21〜22マ目。
2025年2月14日(金)
ウニコール
 ある時、田沼意次の公用人(幕府に関する用務を扱った役職)潮田由膳(潮田内膳とも)が、よそから贈られた粟餅をみんなにふるまった。ところが、


 
皆々(みなみな)(た)べ候者(そうろうもの)、間もなく顔の色かはり、シツテンバツトフ(七転八倒)いたし、苦事(くるしむ こと)大方(おおかた)なら


という大騒ぎになった。そこで、これは


 
毒中(あた)りニ候間(そうろうあいだ)ウニコール(つかわ)し候様(そうろうよう)ニとの御差図(おさしず)ニて


ウニコールを苦しむ者たちに服用させたという
(1)

 ところでこのウニコールとは、一体何なのだろう。

 ウニコールはポルトガル語で「一本の角」の意。中世ヨーロッパの伝説上の動物ユニコーンと同じ意味だ。

 ウニコールは17世紀、オランダからわが国に持ち込まれた。実際に持ち込まれたのは伝説上の動物の角ではなく、北氷洋に生息する海獣イッカク(一角)の牙(オスの門歯)だった。

 ウニコールは貴重品だったため、オランダ商館長から将軍家への献上品ともなり
(2)、また高額で売買された。用途は根付(3)や花器(4)などの工芸品、粉末にして解毒剤(食あたりの毒消し)・解熱剤(疱瘡の解熱)(5)にされた。上記史料では、解毒剤として用いられている。

 しかし貴重品だったため、ウニコールにはまがい物も多かった。そのためウニコールは「嘘」と同義語になった
(6)

 さて、毒にあたった被害者たちはウニコールを服して事なきを得たが、粟餅に毒を仕込んだのは潮田に恨みをもつ生花の師匠だった。『縮地千里』では、捕縛された犯人は拷問にかけられ犯行を自供したことになっている。しかし、『天明紀聞』では同じ事件を、


 
別に慥(たしか)なる證拠(しょうこ)も無之事(これなきこと)なれバ、夫形(それなり。それっきりの意)ニ沙汰止(さたや)ミに成(なり)し由也(よしなり)(7)


と記述する。

 つまり真相は薮の中。もしかすると、この事件そのものが「大きなうにこうる」だったのかも知れない。


【注】
(1)
『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。228〜231コマ目。
(2)吉野政治「日本における一角獣の行方」−同志社女子大学『学術研究年報・第64巻』2013年、P.129〜130-
(3)掛川市二の丸美術館HP「特別展 榑林コレクションと木下コレクション 白の細密工芸 ウニコール その類まれなる材の巧みの技 【会期】1月11日(土)~3月23日(日)」(2025年2月11日参照)。
(4)洒落本『当世虎の巻』に「せ川が風流、床にかけし一ぢくハ周文の画たる終南山のはるの色、
一角の花いけにハ梅と柳を折入る(後略)」とある(田螺金魚作『当世虎の巻』安永7年(1778)刊、早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫31E0283。21丁オ)。
(5)『疱瘡心得草』に「
一角(うにこうる)ハ毒けしの物にて痘(いも)には妙(めう)なり。夫故(それゆへ)發熱(はつねつ)より鮫(さめ)にておろし両三度程(ほど)ヅヽ白湯(さゆ)にて用ゆべし」とある。(志水軒朱蘭述『疱瘡心得草』蓍屋善助、寛政10年(1798)刊、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:852-26。20コマ目)
(6)たとえば「踊子のはなし大きな
うにこうる」などの川柳がある(『誹風柳多留』十四)。
(7)吉田重房『天明紀聞(静山叢書)』写、国会図書館デジタルコレクション、請求記号:わ210.5-21。399コマ目。
2025年2月13日(木)
葉向き
 田沼意次が幕政を主導したいわゆる「田沼時代(1758〜1786)」はおよそ28年間にも及ぶ。次の松平定信政権(1787〜1793)がわずか6年間だったのにくらべると、かなりの長期政権だった。

 この間、意次は幕閣関係者らと姻戚関係を結び、その権勢はならぶ者がなかった。ゆえに幕府の重職連中は、この権勢家の臣下にまで気を配ったという。

 意次が信頼を寄せる家臣に井上伊織という者がいた。井上の娘が三千石取りの旗本と結婚することになった。すると、榊原・小笠原・酒井ら歴々の諸大名が、井上の娘の婚姻のために配下の家臣・足軽たちを派遣したという。

 井上は、将軍から見れば一介の陪臣(ばいしん。臣下の家来)にすぎない。たかだか陪臣の娘の婚姻のために、幕府高官の大名たちがこぞって人手を提供したのだ。『縮地千里』には次のようにある。


 
陪臣の娘婚姻に、右の通(とおり)の暦々衆(れきれきしゅう。歴々衆)の葉向キ(はむき)、萬事(ばんじ)(これ)にて御察候(おさっしそうろう)。とにもかくにも見候(みえそうろう)ものはイケヌ事(感心できないこと)と相見申候(あいみえもうしそうろう)


 文中にある「葉向キ」(羽向、歯向とも書く)は「ご機嫌取り、おべっか、お追従」を意味する言葉。陪臣の娘の結婚にまで気をつかい、意次に対して御機嫌取りをする高位高官の大名たち。そんな醜態は見ていられないというのだ。


【参考】
・『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。219コマ目。
2025年2月12日(水)
はやり言葉
 天明年間(1781〜1789)の江戸では、「広徳寺(こうとくじ)の門だ」という言葉が大いにはやったという。


 
江戸表(えどおもて)にて当時(とうじ。今)はやり言葉に、「広徳寺(こうとくじ)の門」と申事(もうすこと)(もっぱら)はやり、一言(ひとこと)・一言ニ「広徳寺の門だ」と申候(もうしそうろう)。なんの事か訳知れ兼候得共(わけしれかねそうらえども)、むしやうやたらに右のはやり言葉申候。

 下谷広徳寺の門は左り甚五郎が建候
(たてそうろう)門と申す事にて久しき門にて、「何事によらず能(よ)ひ門だ」と申す心にや。すさまじきはやり申候。(1)


 この記事を書いた山本友八郎は、「広徳寺の門だ」とは「何事によらず良いもんだ」の意ではないかと推測している。しかし、このはやり言葉にそんな立派な意味などない。「どういうもんだ」の問いかけに対して「こういうもんだ」と答えるべきところ、音が似通っている「広徳寺の門だ」で返しただけのことなのだ。

 その証拠に、唐来参和(とうらいさんな。1744~1810)の『正札附息質(しょうふだつきむすこかたぎ)』(1787年刊)自序に、次のようにある。


 
(どふ)いふもんだと問(とへ)ば廣徳寺門(こうとくじのもん)とはぐらし(はぐらかすの意)、飛(とん)だもんだと言(い)へば浅艸(あさくさ)の山門(さんもん)と答(こた)ふ。(2)


 なお、広徳寺は下谷車坂町にあった臨済宗大徳寺派の寺院。江戸時代には加賀前田氏ら多くの大名家を檀家にもち、その敷地の広大さから「びっくり下谷の広徳寺」(「びっくりした」に「下谷」を掛けた)と言われたほどだったという(のち関東大震災で被災したため、練馬区桜台の現在地に移転)。


【注】
(1)
『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。205コマ目。
(2)唐来参和作・北尾政美画『正札附息質・3巻』刊本、 国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号208-263。 https://dl.ndl.go.jp/pid/8929575 (参照 2025-02-06)

 なお、小池正胤外『江戸の戯作絵本・3』2024年、筑摩書房、P.465の注(八)に「広徳寺は江戸、下谷大通り(台東区上野四丁目)にあった寺。山門が寸足らずだったため、この地口が流行したという」とある。
2025年2月11日(火)
『訓蒙図彙』
 朱子学者の中村惕斎(なかむら・てきさい。1629〜1702)が著した『訓蒙図彙(きんもうずい)』。もともとは、わが子に言葉を教えるために作った本だった。今では、わが子のためなら学校やトレーニングセンターまで建ててしまう教育熱心な親御さんもいるというから、本くらい作ってもさほど驚くにはあたらない。

 ただ、子どもに言葉を教えようとしても、文字だけの説明ではどうしても子どもが飽きてしまう。そこで、子どもを飽きさせないようにするため、生活に必要な語彙ひとつひとつにすべてイラストを入れた。

 この工夫は画期的だった。こうして『訓蒙図彙』はわが国初の絵入り百科事典となった。内容は天文・地理・居処・人物・身体・衣服・宝貨・器用等の17部門にわたって、森羅万象1400以上もの項目をイラスト入りで説明するものとなっている(寛永6年版の場合)。

 出版されるや否や、子どもばかりでなく大人にも歓迎され、たちまちベストセラーとなった。そして江戸時代を通じて増補を重ねて刊行され続け、大勢の人びとの知識欲に応えてきた。そのなかには、あの知の巨人南方熊楠(みなかたくまぐす。1867〜1941)も含まれている。熊楠は幼時、紙屑屋から買った反古の中から『訓蒙図彙』を拾い出し、それらを手本に画や字を学んだと語っている。

 ただし『訓蒙図彙』は、現在のわれわれが知る百貨事典やイラスト入り辞典とは異なる点も多々ある。そのひとつが、虚実入り交じった項目選定が行われていることだ。

 たとえば、小人国の小人や長人国の長人、酒を好む猩猩(しょうじょう)など、架空の存在も紹介されている。

 惕斎が生きた江戸時代前期は、最新・正確な情報が今日ほど容易に入手できる時代ではなかった。これはある意味やむを得ないことだったが、それがかえって『訓蒙図彙』を魅力ある本にしている。


【参考】
・石上阿希『江戸のことば絵事典 『訓蒙図彙』の世界』2021年、角川選書。  
2025年2月6日(木)
『縮地千里』
 ここのところ『縮地千里』を読んでいる。賄賂政治を風刺した落書が所載されているため、よく引用される史料だ(1)。しかし、その他の記事については、あまり知られていない。現在「あれやこれや2025」はこの史料をもとに書くことが多いので、とりあえずどのような史料なのか紹介しておこう。

 『縮地千里』は国立公文書館に所蔵(国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102)。表紙・裏表紙含め全236コマ。表紙に「漫筆雑考 縮地千里 全 廿四」と墨書されている。書名の「縮地千里」は、千里離れた距離間を縮めるの意。「縮地」はもともと道教神話に登場する仙術のひとつをいう言葉。

 内容は、江戸在住の幕臣山本友八郎が京都出張中の幕臣間宮孫四郎らあてに送った書簡集。ただし写しであるため、解読不能の部分や文字の欠落等が見られる。また、年号不明の書状が多いため、その利用に際しては年号確定の作業が必要。

 表紙に「漫筆雑考」ともあるように、天明年間(1781〜1789)に起きた諸事件・歌舞伎の評判など、江戸の「珍説」や筆者の感想等が雑多に書き綴られている。

 そのなかには、天明飢饉による物価高騰、浅間山の噴火による降灰、江戸出水による被害などよく知られた大事件ばかりか、田沼意次没落に際しての幕府関係者たちの対応、、幕府人事にまつわるさまざまな噂、松平定信の人材登用に対する辛辣な評価など、幕臣でなければ書けないような記事も含まれる。

 さて発信者の山本友八郎(?〜?)は江戸駒込に在住し
(2)、評定所書物御用出役を命ぜられて役料五人扶持を支給されていた(3)。また、職務精励によって銀十枚の褒美を拝領したことが、書簡中の記述からわかっている(4)。一方、受信者の間宮孫四郎(盛時。1742〜1793)は、当時京都二条城で御門番頭を勤めていたという(5)

 なお、両者がどのような経緯で親交をもっていたかは不明。


【注】
(1)
あれやこれや2024年12月27日(金)参照。
(2)『縮地千里』30コマ目。
(3)『縮地千里』74〜75コマ目。
(4)『縮地千里』111コマ目。
(5)『寛政重脩諸家譜・第3輯』1923年、國民圖書、P.259。
2025年2月3日(月)
命がけの凧揚げ
 凧揚げといえば正月によく見られる子どもの遊び。江戸城でも正月は凧揚げ遊びに興じた。しかし将軍世子(徳川家斉。1773〜1841)ともなると、そのスケールは庶民の比ではない。

 西の丸(将軍世子の居所)で製作された凧の大きさは3間(約5.4m)×2間(約3.6m)。凧に貼られたのは100枚の程村紙(ほどむらし。現、栃木県那須烏山市で生産される厚手で強靭な和紙)。骨組みに使われたのは丸竹を二つに割ったもの。そして、糸には細引(ほそびき)とよばれる麻縄を撚った細い縄が使用された。

 完成した大凧は西の丸の御長屋御門にはいらなかったため、やむなく大御門を開けて通した。こうして山里御庭(やまざとおにわ。現在の皇居吹上御苑)で凧揚げが行われたのは天明4年(1784)閏(うるう)正月6日のこと。

 しかしこの日は大風だった。

 大風の日に大凧を揚げるなど、これほど無謀なことはない。案の定、ひとりの小姓が糸(細縄)にからまり、そのまま7、8丈(約21〜24m)も上空に飛ばされてしまった。幸い樅(もみ)の木に引っかかって助かったものの、凧の糸が切れて小姓は地上に落下。腰を強打したうえ歯を三枚うち砕いてしまった。ほかにも丸奥坊主2、3人が怪我をした。


 こうなると、凧揚げも命がけだ。


【参考】
『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。173コマ目。
2025年1月31日(金)
仮病
 『寛政重修諸家譜』によると、名取半左衛門(なとり・はんざえもん。名取信富。1726〜1791)は天明元年(1781)より西の丸御広敷御用人(おひろしきごようにん)を勤め、天明6年(1786)に本城勤めに転じた。しかし翌7年(1787)12月、突然免職になってしまったという。(1)

 『縮地千里』にはこの間のやや詳しい経緯が書いてある。  


 
御広敷御用人名取半左衛門、御留守居番(おるすいばん)へ被為 召候所(めさせられそうろうところ)、病気にて不罷出(まかりいでず)。其後(そのご)(しばら)く過(すぎ)、弥登 城難成哉(いよいよとじょうなりがたきや)の旨(むね)御尋有之候処(おたずねこれありそうろうところ)、当時勤難仕旨(つとめつかまつりがたきむね)、書付(かきつけ)を以(もって)申上候処(もうしあげそうろうところ)、其後(そのご)、半左衛門被為 召御役 御免(おやくごめん、めさせられ)、寄合被 仰付候(よりあい、おおせつけられそうろう)(2)

(御広敷御用人の名取半左衛門は、御留守居番への役替を命じられたが、病気を理由に登城しなかった。しばらくして

「いよいよもって、登城はむずかしいのか?」

という御下問があったので、

「今はまだ勤めに出るのはむずかしい状態です」

と書面によってお答えした。その後半左衛門は免職となり、寄合入りを命じられたのである。)  



 半左衛門は実は仮病だったという。それを幕府が知り、免職処分にしたのだという。

 それではなぜ、半左衛門は仮病を使ったのだろう。『縮地千里』によると


 
取、八百石高にて三百俵の御役料、都合千百俵に当り候処(そうろうところ)、御留守居番にては差引百俵減じ候故(ゆえ)(3)


病気を装ったという。つまり役替えになると、御役料が百俵も減ってしまう。そこで仮病を使ってまで御広敷御用人に居座ろうとしたのだ。

 また御広敷御用人は臨時収入が見込めるオイシイ役職でもあった。小川恭一氏は次のように書いている。


 
将軍の御台所・側室方・高級女中方の住居である大奥は、男子の広敷系の役人が管理・建物改修を受け持っています。大奥では儀礼が多く、担当の少数の広敷関係役人に「下され物」が頻繁にあります。「金三百疋(金三分)」とか「銀何枚」や諸道具などが下賜され、いただく方は年間多額のものになります。(3)


 こうして半左衛門は御留守居番の職も御役料も失うはめになったが、その仮病をあばいたのは隠密だったという。

 当時幕府は、隠密をさまざま場所に潜入させていた。そのため、何もかもが幕府へ筒抜け。そんな監視社会の現状について『縮地千里』の筆者は、


 
いやはや、こわひ世の中に相成申候(あいなりもうしそうろう)。(5)


との感想を漏らしている。


【注】
(1)
『寛政重脩諸家譜・第6輯』1923年、國民圖書、P.643。
(2)(3)『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。113〜114コマ目。
(4)小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社(講談社文庫)、P.330〜331。
(5)『縮地千里』前出。
2025年1月28日(火)
物入り
 寛政改革で賄賂・音物(いんぶつ。贈り物)は厳に禁止された。

 当時は幕府の役職に就任すると、職務遂行に必要な費用は原則自分持ちだった(もちろん役料が支給されたり、足高されたりする場合もあった)が、貨幣経済に巻き込まれた大名家の多くは、職務遂行のための必要経費を捻出する経済的余裕がなかった。

 そのため、懐にはいる賄賂・音物なしでは大切な御役目が遂行できず、清廉潔白を貫けば借金漬けに陥った。そんないびつで皮肉な有様を、『縮地千里』は次のように記述する。
(1)


 
若年寄衆(わかどしよりしゅう)壱万石にて、本多殿(本多忠籌)などは去年(天明7年)御役仰蒙(おやくおおせこうむ)られ候(そうらい)て七百両借金被致候(しゃっきんいたされそうろう)よし。十年では七千両の借金に成候(なりそうらい)ては、中々(なかなか)(つとま)り申間敷候(もうすまじくそうろう)

 どうしても取らねば勤
(つとま)らぬ利屈(理屈)。とろうといふ事もならず、くれもせず、御役料の弐千俵も下されねば、若年寄の小普請入(こぶしんいり)が出来様(できよう)との取沙汰(とりざた)(2)。是(これ)は尤(もっと)も風説。

 壱万石にてひら大名
(平大名。小身の大名)と若年寄の御役とは、もの入(いり)天地の違ひ。平大名でさへ

「素一万石ほどセツナイものはなひ
(やるせないものは無い)

と申候得
(もうしそうらえ)ば、とらねば勤(つとま)りかね可申事(もうすべきこと)に存候(ぞんじそうろう)

 正直にしてはイカヌ事
(正直では勤めが立ち行かない)、イカヌ事、イカヌ事。誠にイタ間敷(ましき)御事(おんこと)に御坐候(ござそうろう)



 陸奥泉藩1万5千石(のちに2万石)の藩主本多忠籌(ほんだただかず。1740〜1813)は、天明7年(1787)、若年寄に就任した。就任前とくらべ格段に物入りが多くなったため、700両の借金をせざるを得なかった。在職が10年も続けば借金は7千両に膨らむ。これでは当然、藩財政が悪化する。事実、泉藩は財政難に陥る。そこで忠籌は徹底した質素倹約を実行する。
(3)その徹底ぶりは松平定信をして


 
弾正殿(だんじょうどの。本多忠籌)は扨々(さてさて)倹素(けんそ。質素倹約)の人なり。( 中略 )中々(なかなか)我等共(われらども)が及ぶ所にあらず。(4)  


と言わしめるほどだった。

 しかし幕府高官にならなければ、これほどの苦労もせずに済んだ。「すまじきものは宮仕え」か。


【注】
(1)
『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102、100〜101コマ目。
(2)小普請入りは、3千石以下の旗本・御家人が老衰・不行跡等の理由で免職されて小普請組の支配にはいることをいう。そもそも大名が小普請入りするはずなどないが、金銭面で首がまわらなくなれば若年寄でも小普請入りするようだ、と言っているのである。
(3)(4)『天明記』によれば、清廉潔白な賢君だった忠籌は一切の贈答を断り、つましい生活を貫いた。たとえば次のような逸話がある。史料の引用はいずれも内山温恭編『流芳録』巻之十、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004の「若年寄 本多弾正少弼忠籌」の項による。

史料1(若年寄就任祝いに贈られた親族からの干鯛を返却する)

 弾正少弼(だんじょうしょうひつ。忠籌)、若年寄 仰付られ候節、主水正(もんどのしょう)は親族に付(つき)、使者頭(ししゃがしら)知らせ申来(もうしきた)りし御中に、

「御役中は、御間柄(おあいだがら。親族)なれども一統へ進物、堅(かたく)断(ことわり)に及候(およびそうろう)」

旨(むね)なり。格別の事なればとて、使者頭軽き肴(さかな)干鯛(ほしだい)一箱贈られしに、翌日謝礼有之(これあり)。

「兼(かね)て申述候通(もうしのべそうろうとおり)、御断(おことわり)に及候(およびそうろう)」

とて右の干鯛返し申されしとなり。

史料2(若年寄就任時に慣習となっていた大奥への贈物を拒否する)

 御役仰付(おおせつけ)られ候時(そうろうとき)、同席中(どうせきちゅう。同僚)申伝(もうしつた)へられ候(そうろう)は、

「当役に成候(なりそうら)へば、大奥へ紅白縮緬(ちりめん)弐巻并(ならびに)金五百疋(ひき)づつ夫(それ)らへ贈り申候(もうしそうろう)先格(せんかく。先例)に候」

由(よし)申され候へば、

「左様(さよう)の義決(けっし)て得(え)仕(つかまつ)らず。此度(こたび)役義 仰付(おおせつけ)られ候(そうろう)も、望(のぞみ。自分から望んで)にて 仰付られ候義にも御座なく候へば、早速御免(ごめん。免職) 仰付られ候ても恥辱とも存ぜず候へば、右の贈物得(え)いたさず」

との断(ことわり)にて、其通(そのとおり)に相済候由(あいすみそうろうよし)。

史料3(忠籌の質素倹約ぶり)

 白川侯(松平定信)の申さるるは、

「弾正殿(だんじょうどの。忠籌)は扨々(さてさて)倹素の人なり。数年出会せしに、皆人々手拭(てぬぐい)或(あるい)は多葉粉入挟(たばこいればさみ)といふもの東都(とうと。江戸)流行して、是(これ)を持たざる人なかりしを、弾正殿は観世より(かんぜより。紙を細長く切って縒ったもの。こより)を以(もって)右両品を結び下げて持(もた)れしなり。中々我等共が及ぶ所にあらず」

と語り申されしとなり。
2025年1月24日(金)
機転をきかせる
 新御番(しんごばん。幕府の軍事組織のひとつ)の番士のなかに「近か目殿(ちかめどの)」(近眼の者)がいた。

 ある日、「近か目殿」が退勤する折りのこと。殿中で御目付衆に突き当たってしまい、その無礼を咎められた。ところが、近眼のうえ城内が暗かったためか「近か目殿」は粗相した相手を新御番の同僚と勘違いし、おどけた受けこたえをするとその場からさっさと退散してしまった。

 ふざけた対応に腹をたてた御目付衆は、新御番の詰所(つめしょ)にねじ込んだ。すると、機転をきかせた番士のひとりが次のように答えたのである。


「その者は平生癇癪(かんしゃく)の持病があるのですが、本日が当番だったため無理を押して登城した次第。しかし昼頃より逆上する気配が見えたので、佐野一件後の通達もあり、帰宅させることにしたのです」


 この返答に御目付衆は 「適切な処置である」 と言うほか返す言葉がなかった。

 佐野一件とは天明4年(1784)3月24日、同じ新御番の番士であった佐野善左衛門が、若年寄田沼意知に城内で刃傷(にんじょう)に及んだ事件を指す。幕府はその原因を、佐野の突発的な逆上(乱心)によるものと断じていた。そこで次のような通達を出したのである。


 
都而(すべて)積氣(しゃっき)ニて逆上仕候(ぎゃくじょうつかまつりそうろう)様子の病躰(びょうてい)と見請候(みうけそうら)ハバ、御城江差出申間敷候(おしろへさしだしもうすまじくそうろう)


 つまりは、逆上するような病気の気配が見えたらその者を御城に出してはならぬ、というわけだ。

 当時はまだ佐野一件の記憶が生々しく、城内がピリピリしていた。

 同僚の当意即妙な対応によって「近か目殿」は事なきを得たのだった。
(1)


【注】
(1)
以上、『縮地千里』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102.82〜83コマ目による。
2025年1月21日(火)
時流への迎合
 松平定信(1758~1829)といえば「文武奨励」の権化。「文武、文武」とあまりに口うるさかったため「世の中にかほどうるさきものはなし、ぶんぶぶんぶで夜も寝られず」と揶揄されたほど。『縮地千里』のなかには、寛政改革(1787~1793)時のそうした風潮が記録されている。


 
武芸・学者計(ばか)りの面々被出候(いでられそうろう)。知慮の所はどふか知れ不申候(もうさずそうろう)。下にて気のつかぬものを御見出(おみいだし)し被成候(なられそうろう)が御好きと相見(あいみ)へ、剣術遣(つか)ひじゃの、学者じゃのと申もの計(ばかり)御入用場所へ御遣(おつか)ひ被成候(なられそうろう)により、其道(そのみち)にて何(いず)れもくらく相見(あいみえ)…(1)

(定信政権下では、武芸・学問ばかり面々が役人に登用された。彼らの知慮のほどは不明。定信公は、低い身分で存在の知られていない者を登用するのがお好きと見えて、剣術家や学者ばかりを必要部署へ割りあてる。しかし、彼らは職務方面のことにはいずれも暗いように見える)
 



 また同書には、次のような当時の世相も書き留められている。


 
近頃は白川公(白河公。定信のこと)『韓非子(かんぴし)』の学問御好き被成候由(なられそうろうよし)。『韓非子』の本甚(はなはだ)はやり、右の書物本屋に売れ切候由。

 湯嶋
(ゆしま)天沢寺(てんたくじ)前におり候儒者北山(ほくざん)と申者(もうすもの)、白川公へ度々(たびたび)被召呼出候故(めしよびだされそうろうゆえ)、右北山、諸大名は勿論(もちろん)、芙蓉之間(ふようのま。江戸城本丸内にある55畳敷きの部屋)へかけ日々被呼候(よばれそうらい)て講釈仕候由(つかまりそうろうよし)(2)



 
定信が『韓非子』を好んで読んでいると聞くや、本屋からは『韓非子』が一冊残らず売り切れる。また定信が儒学者山本北山を招いて講釈を聞いていると知るや、各大名家でもこぞって北山を招いて講釈を聞くといった有様。

 時流に乗り遅れまいとして右往左往の滑稽を演じる人々は、いつの時代にもいるものだ。


【注】
(1)
『縮地千里(漫筆雑考)』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:213-0102。60コマ目。
(2)『縮地千里(漫筆雑考)』62コマ目。
2025年1月19日(日)
幕末のパンデミック
 今日の朝刊に、昨日実施された大学入学共通テスト「歴史総合,日本史探究」の問題が載っていた。第一問のB(問3〜問5)を見ると、疫病の流行とその水際対策を考えさせる問題だった。そしてその素材に、安政のコレラ流行が取り上げられていた。

 安政のコレラ流行は、安政5年(1858)5月に長崎に寄港したアメリカ軍艦ミシシッピ号内にコレラ患者が発生したことから始まった。感染力が強いにもかかわらず、当時は有効な予防法・治療法もなかったので、またたく間に全国に広がった。

 発症すると病気の進行が早いうえ致死率も高かったため、「三日コロリ」の名で恐れられた。「虎狼痢(コロリ)」の当て字からも、原因不明の死病に対する当時の人々の恐怖心がうかがい知れる。病死者があまりに多いため火葬が追いつかず、棺桶は山積みされたまま放置されたという。

 しかし、猛威をふるったコレラもその年の秋には収束。全国の犠牲者は数十万人にのぼった。そして、このコレラ騒動は外国船からもたらされたため、幕末の攘夷運動をあおる要因のひとつとなった。

 さて、現在のわれわれも、つい先ごろ新型コロナのパンデミックを経験した。ボーダーレス化がますます進み、ヒトやモノの交流がいっそう盛んになれば、こうした問題は避けては通れない。また問題が起こるからといって、世界のグローバル化に背を向けるわけにもいかない。

 上記テストの問題文のなかに


 疫病流行は国を越えて起こるものだからこそ、対立を乗り越えて国際協力を実現することが重要


という生徒の言葉がある。もっともな発言である。
2025年1月16日(木)
意次の人柄
 NHKの大河ドラマ「べらぼう」が始まった。江戸時代のいわゆる「田沼時代(1758~1786)」を舞台にしたドラマだ。

 「田沼時代」の名称は、老中と側用人を兼任した当時の幕府の最高実力者・田沼意次(1719〜1788)に由来する。しかし、幕府の諸政策が行き詰まると、意次はすべての政治責任を押しつけられて失脚。そして、意次を憎む政敵・松平定信らのグループによって「意次=賄賂政治家」または「意次=極悪人」という烙印を押されてしまう。そのため長い間、意次にはそうした負のイメージが定着してしまっていた。

 しかし、賄賂・汚職の横行は「田沼時代」に限ったことではないし、それ以前にも幕府が繰り返し賄賂・汚職の禁止を令しているところから見ても、むしろ幕府政治の構造上の問題と考えた方がよい。また、諸政策失敗の政治責任を問われるとしても、だからといってその責任者を直ちに極悪人と見なすのは短絡的だ。そもそも政治と人柄との間に何ら相関関係などないのだから。

 それでは実際の意次は、どういう人物だったのか。以下のような逸話が伝わっている。

 9代将軍徳川家重(1712〜1761)は、意次のことを「またうとのもの」と評した。「またうとのもの」とは正直者とか律儀者という意味だ。

 また京都町奉行所与力だった神沢杜口(かんざわ・とこう。1708〜1795)は、意次のことを腰の低い謙遜家であり、中間(ちゅうげん)や足軽といった末端の家来にまで親切な上司だったとその随筆『翁草(おきなぐさ)』のなかで書いている。

 意次の遺訓が現在に残っているが、そのなかで意次は、相手の身分・格式・高下に応じ付きあい方を変えることを厳に戒しめている。誰とでも分け隔てなく親密につきあえと諭しているのだ。

 つまり、同時代人は意次を、正直者・律儀者で謙遜家、親切で誰とでも分け隔てなくつき合う好人物だと評しているのだ。

 この時代の譜代門閥大名は、その家柄に応じて敷かれた出世コースにのって、当然のように昇進していった。しかし意次は、身分の低い幕府役人が昇進を重ねた結果として大名になり、老中にまでのぼりつめたのである。

 歴史学者の藤田覚氏は、意次の「物腰の柔らかさと慇懃さなど、役人風とでもいうべき姿勢や態度」は、こうした意次の経歴によるものと見ている。


【参考】
・藤田覚『日本近世の歴史4・田沼時代』2012年、吉川弘文館、P.12〜P.14。
2025年1月14日(火)
侍は気楽な身分
 朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ。1735〜1813)の洒落本『柳巷訛言(さとなまり)』は、吉原の遊女たちの実際の会話を忠実に写したもの。その中に次のような遊女と客の会話がある。


(女郎)わつちや(私は)いつそ侍になりたふありいす。

(侍の客)きついあわせやうさ。

(女郎)ヲヤ、ばからしい。ほんに侍になりたくてなりいせん。

(客)
なぜ。

(女郎)アイサ、侍ハネ、有(あ)りもせぬ軍(いくさ)を請合(うけあっ)て、知行(ちぎょう)とやらを取て居(い)なんすからさ。(1)



 遊女は客の侍に向かって「私はいっそのこと侍になりたい」と言っている。その言葉に怪訝な面持ちの客に対し、遊女は「侍はありもしない戦さを請け負って知行をもらうよいご身分だから」と答えるのである。

 この遊女の言葉は、はからずも幕藩体制の矛盾を突いている。武士間の主従関係は御恩と奉公によって成り立つ。将軍や大名が家臣に領地を与えるのは、彼らが戦時に参戦するからだ。しかし元和偃武以降、江戸時代にはとんと戦争がなかった。こうした状況を田中優子氏は次のように解説する。


 
江戸時代は約250年間、戦争がなかった。しかし徳川将軍も含めて大名たちは領地を持ち、家臣の武士たちはその領民の年貢で生きていた。領地を与えられていた理由は、戦国時代の恩賞を基礎に徳川支配のもと、戦時には参戦するためだった。日常で働いていないわけではなく官僚仕事の毎日とは言え、建前は「軍事(いくさ)を請け合って」いるのである。しかしそれは絶対ないとは言えないまでも、ほぼゼロに近かった。今で言えば、「有事」という言葉で国民から税金で軍事費を徴収し、使いもしない武器を発注して、軍事企業を儲けさせ、その企業から入ってくる金を裏金として配分しつつ、同時に選挙運動に使って議員の給与をもらい続ける、という構図である。(2)


 侍は仕事をせずとも食うに困らない。そう考えれば、侍ほど気楽な身分はあるまい。遊女があこがれるわけだ。


【注】
(1)
朋誠堂喜三二作・恋川春町画『柳巷訛言(さとなまり)』、刊本、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:京−398、 https://dl.ndl.go.jp/pid/2534040
(2)田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』2024年、文藝春秋(文春新書)、P.98。