あれやこれや2024

 新年早々、たいへんな災厄に見舞われてしまった皆さん。

 平穏で静かな日常に、すぐにでも戻れるようにと願ってやみません。

 
2024年12月27日(金)
賄賂政治批判の落書
 江戸時代は賄賂・汚職が横行した。幕府が繰り返し繰り返し賄賂の禁止令を発しているところを見ると、賄賂・汚職の横行は幕府政治の構造上の問題と考えるしかない。

 なかでも賄賂・汚職のはなはだしく横行したのは、老中田沼意次が政権を握ったいわゆる「田沼時代(1758~1786)」だったとされる。『五月雨草紙』は、田沼時代の賄賂・汚職横行の風潮を次のように記す。


 
天明安永の頃は、田沼侯執政にて、権門賄賂の甚(はなはだ)しく行はれて、賢愚を問はず、風潮一に此(これ)に趣(おもむき)たるが、其折(そのおり)には長崎奉行は二千両、御目附は千両といふ、賄賂の相場立ちしと申す位なり(1)  


 田沼意次は将軍家治の信頼を背景に、奥勤めと老中を兼ねて大きな権勢を有した。そんな権勢家が商業資本を利用する諸政策を展開したものだから、利権に群がる有象無象のやからが脇の甘い田沼やその周辺に賄賂攻勢を仕掛けてきた。そのため賄賂政治を風刺した史料が、この時期には数多く残されている。

 そうしたなかでも、田沼の賄賂政治を風刺したとされる有名な落書が次だ(ただし、この落書は田沼風刺ではなく、薩摩藩の島津重豪を風刺したとする異説もある)。

 あまりにも有名な落書でご存知だろうが、自身の古文書解読の勉強を兼ねてとりあえず読んでみた次第。


(まひなひ鳥。図は省略)

 此鳥
(このとり)金沢山に巣くひ、常に丸の内を飛(とび)あるき、其形(そのかたち)雉子(きじ)に似たり。 名をまひなひ鳥といふ。餌飼(えがい)むつかしく、金銀を喰ふこと気のへるやうなり。餌かげんすくなき時は、けんもんほろろにして近よらず。駕篭(かご)腰黒(こしぐろ)に限る。(2)


(まひなひつぶれ。図は省略)


 この虫、丸の内をはひ廻り、見る人銭出せ、金出せ、まひなひつぶれといふ。
(3)


(メモ)  
  ・丸の内     江戸城の堀で囲まれた内側。丸は曲輪の意。御曲輪内(おくるわうち)。
  ・まひなひ鳥  賂(まいない)取りを掛ける。
  ・気のへる    気疲れする、はらはらするの意。
  ・けんもんほろろ  キジの鳴き声「けんもほろろ」は取りつくしまもないさまを意味する。
               また、これに権門(=権力者に対する饗応や贈賄)を掛ける。
  ・駕篭腰黒に限る  腰黒は腰の部分に網代(あじろ)を張らず黒く塗った駕籠のこと。格式が高い乗物。
  ・まひなひつぶれ  カタツムリの異名「まいまいつぶろ」に「賂潰(まいないつぶ)れ」を掛ける。



【注】
(1)
喜多村香城著『五月雨草紙』-国書刊行会編『新燕石十種・第2』1911~1913年、国書刊行会、P.104-
(2)(3)『縮地千里(漫筆雑考)』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:213-0102。135コマ目。
2024年12月23日(月)
意次の孫
 田沼意明(おきあき。1773〜1796)の将来は輝かしいはずのものだった。祖父意次は遠州相良藩5万7千石の城主で老中、父意知は若年寄。しかも幕閣の高位高官は、田沼家の親戚ばかりだった。

 だが現実は、田沼家没落の憂き目に遭遇し、世間の悪意ある巷説に晒された。

 田沼家のけちのつき初めは父意知の暗殺だった。意知は天明4年(1784)、江戸城内で佐野政言(さの・まさこと)に斬りつけられ、その傷がもとで死去。加害者の佐野が死後「世直し大明神」として民衆の喝采を浴びたのに対し、意知の葬列には石が投げつけられたという。田沼家に対する世間の不人気のほどが知られる。

 さて、天明6年(1786)7月下旬のことである。意明が落馬して死んだとするデマが流れた。
(1) 意次の政治に対する世間の反感が、こうした身内の不幸を願う巷説を生んだのだろう。さらには馬に食い殺されたとか、その馬は生きながら土中に埋められて処分されたとかいう尾鰭までついた。次はその時の落首。


  
子はきられ孫は喰(くわ)るゝ午(うま)のとし 秋のひがんに落(おつ)る鴈の間(2)

 
(子の意知は斬られ、孫の意明は馬に食われた。意次は失脚して雁の間詰めに落ちぶれたの意。天明6年は丙午年)


 それから1ヶ月後の8月下旬、将軍家治が病死。後ろ盾を失った意次は、幕政の行き詰まりやら賄賂政治やらの責任を一身に負わされて失脚。表向きは病気を理由とする依願辞職の形をとっているが、その実は老中を辞職させられたうえ、雁の間詰めの平大名に格下げされたのだ。

 意次が落ち目になるや、親戚や知人たちは次々と田沼家との絶縁・義絶を宣言した。その中には、意次のおかげで老中にまで出世した意明の外祖父、松平康福(まつだいら・やすよし。1719〜1789)も含まれていた。

 同年閏10月、意次は5万7千石のうち2万石と大坂蔵屋敷を没収された。翌天明7年(1787)10月には2万7千石と相良城を没収(のち破却)され、木挽町(現、東京都中央区)下屋敷で隠居・謹慎を命ぜられた。そして翌年、70歳で死去するのである。

 意明にも蟄居・謹慎が命じられたが、田沼家の存続は許された。陸奥国信夫郡(しのぶぐん)・越後国頚城郡(くびきぐん)のうちに新地1万石を与えられ、陸奥下村藩主(陣屋)となって大名の体面は保つことはできた。しかし田沼家の没落がなければ、意明は遠州相良藩5万7千石を継いだはずだったのである。意明は一度も領地に赴くことなくその生を終える。

 意明の移封は嫌がらせだったとする巷説がある。たとえば『燕雀論』は、意明移封の地を信州軽井沢と記す(もちろん誤り)。当時の軽井沢は浅間山噴火の被災直後で「軽井沢抔(など)ハ取分(とりわけ)浅間の近辺にて作物実法(みのら)ず。甚敷(はなはだしき)悪所也」
(3)とされていた場所であった。田沼家のさらなる不幸を願うような巷説だった。

 なお幕府は天明8年(1788)、追い討ちをかけるかのように、川欠普請として6万両の上納を意明に命じている。

 その後意明は、寛政3年(1791)にはじめて将軍家斉への拝謁を許され、従五位下淡路守に叙任。しかし5年後には大坂城守衛在任中に死去してしまうのである。享年24歳。家督は7歳年下の弟意壱(おきかず)が継いだ。
(4)


【注】
(1)
石部琴好作・北尾政演画『黒白水鏡』寛政元年(1789年)刊には梶原平二景高の名を借りて意明落馬の場面を描く。小池正胤他編『江戸の戯作絵本③』2024年、ちくま学芸文庫、P472〜3の注(八)によると「天明六年七月、竜介(意明)が邸内の馬場で落馬して死に、その身代わりとして二男を入れ替え、竜介としたという巷説」があったという。
(2)『縮地千里』国立国会図書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0102。38〜39コマ目。
(3)志賀紀豊著『燕雀論』写、寛政元年序、国文研蔵、和古書請求番号:MX-491-3。「巻四 不知足之事 附山州矦変死之事」 の項。
(4)『寛政重修諸家譜・第7輯』1923年、國民圖書、P.399〜P.400。
2024年12月16日(月)
お玉落ち
 江戸時代、幕府の米蔵は浅草にあった。だから蔵米取りの幕臣たち(中下級の者が多い)は、俸禄米(蔵米)を浅草まで受取りに行った。

 支給は年3回、春2月・夏5月・冬10月にそれぞれ1/4・1/4・1/2が支給された。当時は石高制で、米の現物支給が建前だったから、本来の支給時期は米の収穫後でなければならない。しかしそれでは1年間食いつなげないので、年三季の支給にしたのだ。

 そうなると収穫期前に当たる春・夏の支給分は、俸禄の前借りということになる。だから春・夏の支給分は「お借米(かりまい)」といった。冬の支給分は「お切米(きりまい)」という。

 蔵米取りの人数は多かったから、「お玉落ち」という方法で受取りの順番を決めた。

 まずは紙片に受取り人の名前を書く。つぎに名前を書いた紙片を丸めて玉とする。最後にこの紙玉を集めて箱に入れ振り出す。そうやって落ちた紙玉を開いて受取人の順番を決めていったのだ。

 受取人の数が多いので、自分の順番が回ってくるまでは暇である。そこで受取人は、蔵前に建ち並んだ掛茶屋(かけじゃや。葭簀を掛けたほどの粗末な小屋で、茶菓子を提供した店)で時間を潰した。そのうち掛茶屋の商人たちは、蔵米の受取りや運搬・換金等の世話をして手数料を取るようになった。これが札差だ。

 商売が繁盛してくると札差の店構えも立派になった。三季お玉落ち勘定の時節ともなると、札差では店に訪れる幕臣を朱塗りの欄干(らんかん。手すり)が設(しつら)えてあるような豪華な部屋に通し、食事など出して接待した。そのため、小身の旗本などは玉落としの日に自ら行くのを心楽しみにしていたという。

 しかし、こうした慣習も質素倹約を旨とする寛政改革を機にぱったりと止み、札差の豪華な家作も質素なものにつくり直されたという。
(1)


注】
(1)
以上、喜多村香城著「五月雨草紙」-国書刊行会編『新燕十種・第二』1911年〜1913年、国書刊行会、P.85〜86-国立国会図書館デジタルコレクションによる。
2024年12月14日(土)
11歳の少年、狼と格闘する
 老中松平定信は民衆教化策の一環として全国に命じ、善行表彰者の名簿とその伝をまとめた報告書を提出させた。その報告書が『官刻孝義録』全50巻である。

 このなかには信濃国(現、長野県)の孝行者として、亀松という少年の善行が記録されている。しかし、亀松の善行は、常人にはとうてい真似のできないものだった。

 亀松は当時11歳のひ弱な少年だったという。そんな亀松が父親を救うために狼と格闘し、ついにはこれを仕留めたというのだ。いかに必死だったとはいえ、狼という猛獣を子どもが退治したのである。奇跡的なできごとと言ってよい。だから亀松の美談は、『燕雀論』
(1)『曲亭雑記』(2)をはじめとする多くの随筆類に、驚きをもって書きとめられているのだろう。

 以下、『官刻孝義録・巻十』所載の亀松の伝(全文)を示す。
(3)


   
孝行者亀松

 亀松ハ佐久郡内山村
(現、長野県佐久市内山)の百姓惣右衛門(そうえもん)が子なり。その里信濃(しなの。現、長野県)・上野(こうずけ。現、群馬県)の境なる破風山(はふやま。不詳)の麓(ふもと)にそひて猪鹿多く、我家より三町(約330m)ばかり隔りたる逢月(あいつき。不詳)といふ所にその防ぎする番小屋をすへ置(おき)て、天明八年(1788)九月廿五日の夕がた、父子かしこにともなひゆき、亀松はかたへにありて草をかり、父の惣右衛門ハひとりかの小屋にいり火を焚(たい)てゐたりしが、うしろのかたより一ツの狼つと来(きた)りて足をくひつきけるに、惣右衛門驚きてふりはなせしかバ、狼又唇より腮(あご)をかけてかミつきけり。

 惣右衛門叶
(かな)はじと思ひて狼の耳をつかミ、声たてゝ呼(よば)はりけれバ、亀松あはてはせ来り、鎌をとりて口につきいれ引(ひき)けるにかつら際(ぎわ)よりかミおりけれバ、父が鎌とりて鎌柄を口にいれ、やうやうにして倒しけれども、父ハあまた所かまれて倒れふし、狼はひるまず起上(おきあが)らんとせしかバ、石をとりてかの鎌柄をしたゝかに打いれて牙をうちかき、猶(なお)もはたらきけるを、大指(おおゆび。親指)して両の眼をくり出し、力のかぎり打たゝきてつゐにしとめてけり。

(惣衛門はかなわないと思って狼の耳をつかむと、大声をあげて助けを求めた。そこへ亀松があわててとんできて、鎌を取ると狼の口に突っこんで引っ張ったが、鎌はかつら際より噛み折られてしまった。そこで父親の鎌を取り、今度は鎌の柄を狼の口の中に突っ込んで、やっとのことで狼を倒した。しかし父親は何か所も狼に噛まれて倒れ伏している。狼はひるまず起き上がろうとするので、亀松は狼の口に突っ込んだ鎌の柄を、手に取った石で強打してその牙を打ち欠いた。それでもなお、狼は立ち向ってこようとする。そこで親指で狼の両眼をえぐり出すと、力の限り打ち叩いて、ついに狼をしとめたのである。)


 父ハあまた所手おひけれど、灸所
(きゅうしょ。急所)にあらざりけれバ日をへていえぬ(日を経ると回復した)

 亀松ハ此年
(このとし)十一歳にて、しかもひよはきものなりしが、父を助けんの心切なるによりてかゝる猛き獣を打とめたる事、全く孝心のふかきによれりとて、御代官大貫次右衛門(おおぬき・じえもん)(きこ)えあげしかバ、その年の十一月、褒美(ほうび)して銀(しろがね)そくばく(許多。たくさん)をぞ賜りける。



【注】
(1)
志賀紀豊著『燕雀論』写、寛政元年序、国文研蔵、和古書請求番号:MX-491-3。「巻十 孝子亀松之事」 の項。
(2)滝沢解 遺草 他『曲亭雑記』巻第3下、明治23年(1890)、渥美正幹、P.49〜53。 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1150825
(3)『官刻孝義録・巻十(信濃)』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:157-0399。
2024年12月12日(木)
障りの木
 一茶に、十五夜の月を詠んだ有名な句がある。


  名月を取ってくれろと泣く子かな


 地球から約38万キロメートルかなたにある月が、今にも手が届きそうな位置にあるように見えるのだ。こうした誤認はなぜ起こるのか。

 ひとつ考えられるのは、月の周辺に遠近を比較する対象物がないからだろう。

 われわれが月までの距離が遠いと実感するのは、月が遠景となる対象物と重なる時だ。月に雲がかかったり、月が山の端に沈む時、月の一部または全部が見えなくなる。そこでわれわれは、雲や山の向こう側に月が存在することを認識するのだ。

 こうした日常の経験を、わが国では庭園のなかで奥行きを表現する手法として採り入れてきた。

 庭園の面積は限られる。それにもかかわらず、たとえば禅宗寺院の庭園などでは、そんな限られた空間のなかに深山幽谷といった広大な風景を表現しようとする。 こうした無理難題な要求に応えるべく、作庭職人たちはひとつの工夫として「障(さわ)りの木」といった技法を編み出した。滝口や泉の手前に小さな樹木を植え、滝や泉の姿を意図的に全部は見せないようにしたのだ。『築山庭造伝(つきやまにわづくりでん)』という造園書には次のようにある。


   
飛泉(ひせん。滝または激しく湧き出る泉のこと)(さわり)の樹(き)の事

 瀧の口或
(あるい)ハ池の此方(こなた)、只(ただ)瀧の手前なる方に樹を植(うえ)て、飛泉の水ありありと見へぬやう奥深く木暗(こぐら)く悪(こわ)き様に造るべし。木ハ何(なに)にてもよし。なれども冬木(ふゆき。落葉しない木)せぬ樹やよかるべし。(1)



 月は雲や山の端に隠れることによって、また滝は「障りの木」に隠れることによって、われわれは空間の奥行きを感じることができるのだ。


【注】
(1)
北村援琴著『築山庭造伝、前篇・中』1918年、建築書院。国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1172960
2024年12月11日(水)
胡麻胴乱
 ある史料を読んでいたら、次のような文章に出くわした。


  
紋三(もんざ)などは見せ男ニて、一説ニハ胡麻胴乱(ごまどうらん)じやとの風説(1)


 「鈴木紋三(幕臣の鈴木門三郎か)」なる人物の評判を述べている部分だ。ここに「胡麻胴乱」という言葉が出てくる。この意味を調べるために『江戸語の辞典』で「ごまどうらん」を引いてみると、次のような説明が出てくる。


 
 ごまどうらん【胡麻胴乱】①駄菓子の一。うどん粉に黒胡麻をまぜて焼きふくらしたもの。(2)  


 胡麻胴乱は小麦粉に黒胡麻を混ぜて水で練り、その生地を焼いて膨らませた菓子のことだった。胴乱というのは革や布で作った方形の袋物のこと。現在でも植物採集の際、植物を破損しないように運ぶための携帯容器を、胴乱と呼んでいる。つまりこの菓子は胴乱のように中身が空っぽなので、胡麻胴乱と名付けられたのだ。そこから、中身のない見かけ倒しを侮蔑する言葉に転じた。『江戸語の辞典』の続きの説明が次。


  
②この菓子が、餡でも這入っていそうに見えながら中空であるところから、見かけだおし。特に似而非通人(えせつうじん)の侮称。(3)


 よって上記の史料は、「鈴木紋三」は外見だけの男で、一説には見かけ倒しという噂だ、といっているのだ。


【注】
(1)
『縮地千里(漫筆雑考)』国立公文書館デジタルコレクション、請求記号:213-0102。9コマ目。
(2)(3)前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社学術文庫、「ごまどうらん」の項。
2024年12月9日(月)
余技を捨てる
 『松屋筆記』に、新井白石が若い頃俳諧類に親しんでいたという記事があった。白石が俳諧に耽溺していたとは、寡聞にして知らなかった。同書には「白炭や朝露消て馬の骨」を含め三句、白石の句が紹介されている。  

 ある時、白石が中国の詩集『詩経』中の「伐木」という詩を読んでいたところ


  出自幽谷遷于喬木


という一節が目にとびこんできた。「幽谷(ゆうこく)より出(い)でて喬木(きょうぼく)に遷(うつ)る」とは「鳥が深い谷から出て高い木に飛び移る」という意味だ。この一節を読んで白石は突然悟り、俳諧を捨てたという。


 
新井白石、年わかきほどハ俳諧類(はいかいるい)を好(このみ)て芭蕉を排せり。正徳三年正月、詩経の出自幽谷遷于喬木といふ章をよみて頓悟(とんご)し、前非(ぜんぴ)を悔(くい)て俳諧を捨(すて)ぬといへり。(1)


 ところで、岩槻藩に仕えていた儒者児玉南柯(こだま・なんか)が寛政11年(1799年)に開いた私塾を「遷喬館(せんきょうかん)」といった(のち藩校となる)。校名は白石が読んだ同じ『詩経』の一節に由来する。
(2)  「遷喬」には学問に励み、立身出世を促す意味合いが込められているのだ。

 白石は『詩経』の一節を読み、余技を捨てて学問に専念することを決意したのだ。


【注】
(1)
小山田与清『松屋筆記』巻9〜12、国立国会図書館デジタルコレクション、請求番号:丑−60。「巻之九、廿四 新井白石の俳諧」による。
(2)さいたま市HP「岩槻藩遷喬館」による。https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/004/005/009/p009075.html
2024年12月8日(日)
風呂吹き大根で一首
 ある夜甲子(きのえね)の晩食に招かれ、蘿蔔(らふく。大根)のふろ吹き饗(きょう)され、

「先生、時に一首」

と請
(こわ)れて、

「大根喰ふつめて
(縮めて)大黒ふろ吹きを不老富貴とのべて祝はん」(『五月雨草紙』)(1)


 蜀山人(大田直次郎)がある夜、甲子(きのえね)の晩食に招かれ、そこで大根の風呂吹き(大根を柔らかく煮て味噌をつけて食べる料理)を振る舞われた。そこの亭主が蜀山人に「先生(蜀山人のこと)、時に一首を」と狂歌を請うた。そこで蜀山人が詠んだ即興の歌が上記の一首。

 甲子の夜は大黒天の縁日。大黒天は七福神のひとりで、人々に財宝を授ける福神として江戸時代に庶民の信仰を集めた。この日は甲子待(きのえねまち)とか甲子祭(きのえねまつり)とかいって、商家では大黒天を祀り、子(ね)の刻(午後11:00頃〜午前1:00頃)まで起きて商売繁盛を願う風習があった。縁日が「甲子の夜」「子の刻」と子にちなむのは、大黒天の使わしめ(神使)がネズミ=子(ね)だからだ。

 そこで蜀山人の狂歌の解説。

 大黒天は台所の神でもある。その台所で調理して振る舞われた料理が風呂吹き大根。「大根(だいこん)喰(く)ふ」を縮めれば「大黒(だいこく)」となり、「風呂吹き(ふろふき)」は「不老富貴(ふろうふうき)」に音通する。ゆえに歌意は、大黒天を祀る甲子待の晩に風呂吹き大根をご馳走して下さったことに感謝し、皆様の不老富貴を予祝いたします、ということになろう。

 なお、富貴は「ふうき」とも「ふっき」ともよんだ。風呂吹きの語感を尊重するなら、不老富貴は「ふろうふっき」とよんだ方がよいかもしれない。


【注】
(1)
喜多村香城著「五月雨草紙」-国書刊行会編『新燕十種・第二』1911年-1913年、国書刊行会、P.104〜105。国立国会図書館デジタルコレクションによる。-
2024年12月6日(金)
米の花
 日本の「伝統的酒造り」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されることが決まった。

 わが国では杜氏(とうじ)や蔵人とよばれる人々が、各地の気候・風土に応じた日本酒・焼酎・泡盛など多種多様な酒を造ってきた。そうやって長年にわたって培ってきた手仕事の技術が、今回評価されたのだ。

 さて、わが国の「伝統的酒造り」には、原料のコメをコウジ菌の働きによって糖化させる工程がある(その後、この糖からアルコールを造る)。こうした工程は、たとえばフランスのワイン造りにはない。ブドウのなかには最初から糖が含まれているからだ。つまり、わが国の「伝統的酒造り」では、コウジ菌が重要な役割をになっているといえる。

 わが国で発酵食品をつくるのに、コウジ菌の存在は欠かせない。酒類の醸造ばかりでなく味噌・醤油などの製造にも、アスペルギルス・オリゼーAspergillus oryzaeというコウジ菌(キコウジカビ)が大いに利用されている。

 コウジ菌はコウジの形で利用に供される。コウジはコメ・ムギ・ダイズなどの穀物にコウジ菌を種付けし、繁殖・発酵させたものだ。コウジには麹・糀という2種類の漢字表記があるが、それぞれ原料の穀物のちがいに由来する。

 麹は中国で作られた漢字だ。中国では、主にムギコウジ(蒸したムギにコウジ菌を種付け・繁殖・発酵させたもの)を利用して発酵食品を作っていた。麹のばくにょうが原料のムギを、つくりの匊(キク)が音を表している。

 一方わが国では、コメコウジ(蒸したコメにコウジ菌を種付け・繁殖・発酵させたもの)を利用するのが主流だった。そこで、原料がコメであることを表す新たな漢字、糀を作った。つまり糀は国字である。糀が米と花の合字なのは、コメに生じたコウジ菌があたかも花が咲いたように見えたからだ。

 日本の「伝統的酒造り」は、良質のコウジ菌がなければ成り立たない。杜氏や蔵人の手仕事ばかりがクローズアップされがちだが、彼ら醸造業者にコウジ菌を供給してきたもやし屋(種コウジ屋)の存在も重要だ。良質なコウジ菌を供給するため、何百年にわたってコウジ菌の選別・培養作業(これを「植え継ぎ」という)を地道に根気強く繰り返してきた。

 そのほかにも、酒造りには多くの裏方が関わる。こうした人々の努力が日本の「伝統的酒造り」を支えてきた。

 わが国の発酵食品文化の一端が、今回「伝統的酒造り」という形で世界に認められたことは誠に喜ばしい限りだ。  
2024年12月4日(水)
意次の実力主義
 実力主義だった意次は先例や身分にとらわれることなく、医学に精通する町医を大いに登用した。辻善之助『田沼時代』(1915年初出)に次のように紹介されている。


 
明和2(1765)年7月3日町医の日向陶庵が著わすところの『本草綱目考異』を献じた。安永9(1780)年11月29日に日向陶庵と三木昌甫、勝田養元、伊藤尚貞、太田元達、栗原昌庵、印牧玄順、長谷川長順、宮地要立、小島昌流、瀬尾昌玄らが治療が精(くわし)きによって拝謁を賜った。天明6(1786)年8月には将軍の病激しき時に町医の日向闌庵をして診察せしめた事がある。これは失敗に終ったのであるけれども、とにかく格式を破って何時でも手腕のある者を登用するというところは田沼の偉いところであろうと思う。(1)


 意次は、家治の治療のために日向陶庵と若林敬順を登用した。しかし、同じ取立医者でも良医として知られた日向陶庵
(2)とは対照的に、若林敬順の評判はひどく悪い。家治の病状悪化の責はほとんど敬順に帰せられている。

 こうした悪評は、敬順自身の胡散臭い経歴や、意次による強引な奥医取立てに対する人々の反発がその背景にあるのだろう。信憑性のほどは確かでないが、『天明巷説』によると順庵は高利貸しの手代だったという。


 
若林敬順は元鳥山検校が手代にて、鳥山の御仕置(おしおき。処罰)に逢(あい)たりし後は日なし貸(日済し貸し。毎日少額ずつ返済する約束で金銭を貸すこと)を渡世(とせい)として居たりしが、隙(ひま)にハ手づま(手品)・物真似など上手にて、大小名の酒の相手に被呼(よばれ)て度々(たびたび)振廻(ふるまい)の席へも出たりし者故(ゆえ)、同列衆・御側衆なども内々は能(よく)見知被居(みしりいられ)ける人も有たるにより、何(いず)れも不同心なりしといへり。

 いかなる故
(ゆえ)にや、主殿頭(とのものかみ。田沼意次)気に入て醫心(いごころ。医者の心得)の有けるを幸(さいわい)に内々主殿頭進められける程の事にて、頭を丸め医師に成居(なりい)たり。(3)

 

 敬順の元主人とされる鳥山検校(瀬戸物町家持、35歳)は悪辣な高利貸しを幕府に咎められ、安永7年(1778)、全財産を没収されて江戸追放となった人物だ。
(4) この時没収された財産は「家財之外右金廿両、貸金壱万五千両、所持之町屋敷壱ヶ所」にものぼったという。(5)また検校は、松葉屋の遊女五代目瀬川を身請けしたことで世間の耳目を驚かせた人物でもあった。(6)


 さて、江戸時代は「身分を破って世に出るには学者か医者になるかであり、医者には資格試験がなく、収入も多かった」
(7)ため、医者志願者が多かった。そのため、庸医(ようい。ヤブ医者)も多くなるという弊害があった。「庸医殺人」という言葉もある。ヤブ医者に当たると、命を全うできない危険があったのだ。ゆえに『燕雀論』は、町医を強引に奥医に取立てた意次を次のように批判する。


 
医は仁術にて常なきもののすべきにあらず。医三世ならざれバ其(その)薬をも服せずと有ルに、彼(かの)両人(若林敬順と日向陶庵)ハ素性(すじょう)も下賤(げせん)なる者にて、殊(こと)に医の道に丹練(たんれん)有ルにあらず。死生を託すべき事、甚以(はなはだもって)覚束(おぼつか)なきに、吹挙(すいきょ。推挙)なせるハ勿体(もったい)なき事にぞ有ルなれ。(8)  


 同様な批判は『天明巷説』にも見える。


 
(いやし)き者の病にすら可成丈(なるべくだけ)ハ医師を撰(えら)びて療治を受(うく)る事なるに、主君の御身(おんみ)をバ何と心得られたるにや。(9)


 実力主義で事を強引に進める田沼意次に対する反発もあったのだろうが、いくら意次が


 
醫業の善悪に於(おい)てハ貴賤(きせん)の差別有(ある)べからす。町医師故(ゆえ)御薬ハ差上(さしあげ)がたきと有事(あること)、主殿頭(とのものかみ。意次)に於てハ心得がたし。(10)

(医療行為の良し悪しを論じるのに、官医だからよくて、町医だからだめだという差別があってはならない。町医師だから将軍へ投薬できないなどということは、私(意次)には納得しがたいものだ)



と力説しても、なかなか理解は得られなかった。この時代、家柄や先例という桎梏から自由になるのは、そうたやすいことではなかったのだ。


【注】
(1)
辻善之助『田沼時代』1980年、岩波文庫、P.263。
(2)『天明巷説』に「日向東庵ハ功者成医師にて、諸人専ら用ひたる者也」とある。『天明巷説』慶應義塾大学附属図書館蔵、請求番号:126-104-1。
(3)
『天明巷説』前出。
(4)『座頭浪人高利金御吟味ニ付被仰渡御仕置一件』写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求番号:834-38。
(5)(6)
喜多村信節著『過眼録』写、九大コレクション(九州大学附属図書館蔵、請求記号:雅俗文庫/52随筆d/カガ。)、https://hdl.handle.net/2324/4109383。
(7)
西山松之助外七名編『江戸学事典』1984年、弘文堂、P.416。立川昭二氏の執筆。
(8)志賀紀豊『燕雀論』写本、国文学研究資料館所蔵。出典: 国書データベース、https://doi.org/10.20730/200018497。
(9)(10)
『天明巷説』前出。
2024年11月30日(土)
医者の不摂生
 「医者の不摂生」という言葉がある。この言葉は、幕府官位大谷木伝庵盛昭(おおやぎ・でんあん・もりあき。1737〜1792)にこそあてはまろう。

 そもそも大八木家は、代々医者を業とする家柄だった。

 『家譜』によると、先祖の大野木(おおやぎ)新右衛門秀盛が玄忠(げんちゅう)と名乗って医業を開始したという。いつしか子孫が大野木姓を大八木に文字を改めた。

 玄忠(秀盛)の4代の後裔を伝庵高豊(でんあん・たかとよ)という。伝庵(高豊)は5代将軍綱吉の奥医に昇った。その遺跡は玄忠高泰(げんちゅう・たかやす)が継いだ。

 玄忠(高泰)は養子である。実父を立花飛騨守家臣大八木伯元保教という。玄忠(高泰)は養父伝庵(高豊)の実子高房を嗣子とした。

 しかし高房は多病だったため、家督相続に至らなかった。そこで玄忠(高泰)は、立花左近将監家臣大谷木伯由高氏の息を養子にたてた。これが伝庵盛昭(でんあん・もりあき)である。

 伝庵(盛昭)は明和3年(1776)家治に拝謁したのち、同5年(1768)に高泰の遺跡を継いだ。安永元年(1772)番医に列し、同6年(1777)寄合、天明5年(1785)には奥医・法眼に昇った。よって天明6年(1786)の家治不例のおりには、その治療にあたった医師団のなかに伝庵もいたのである。
(1)

 伝庵は、良医という世間の評判をとっていたものの、自身の生活ぶりはいたって不摂生だった。大食漢で非常に好淫だったという。『よしの冊子』には次のような記事がある。


 
大八木伝庵大食至(いたっ)て自慢ニて、好悪(こうお。好き嫌い)ニ不限(かぎらず)、何ニても病家(往診に行った患者宅)にて出候(いでそうろう)ものをたべ切(きり)、又々(またまた)宿(やど。自宅)へかへりても、五はいヅヽハ是非(ぜひ)好味(こうみ。味のよい食物)(なる)ものを給候由(たべそうろうよし)

 其上
(そのうえ)(めかけ)も三人有之(これあり)、至て好淫(こういん)の由(よし)

 よい御医者だとさた仕候
(つかまつりそうろう)よし。
(2)


 この巷説が記録されたのは、寛政4年(1792)9月19日〜10月12日の間である。当時伝庵は56歳だった。

 不摂生がたたったのだろう、ほどなく伝庵は亡くなっている。逝去したのは同年11月1日。上の記事からわずか1ヶ月後のことだった。


【注】
(1)
以上、『寛政重脩諸家譜・第7輯』1923年、國民圖書、P.827〜828、国立国会図書館デジタルコレクションによる。
(2)『よしの冊子』の引用は、町 泉寿郎「『よしの冊子』医家関連記事(3)」日本医史学雑誌第45巻第3号、1999年、P.445による。
2024年11月27日(水)
医者の豪邸
 東京23区の新築マンションの平均価格が1億1051万円と過去最高を更新したという。(1)

 われわれ庶民にはまったく縁のない話だが、こうした高額マンションを購入するのは一体どのような人々なのだろう。HP上の記事によると、新築マンション購入者のなかでも2億円以上の高額物件を購入するのは親代々の資産家や企業経営者、医者などだという。
(2)

 医者が高額所得者なのは江戸時代も同じだ。医師免許など必要ない時代だったから、高収入に釣られて医者になるものが多かった。しかし、桁違いの収入を手にできたのは、当時も一部の医者に限られた。

 医者の豪邸といえば、千賀道隆・道有父子のものが有名だ。

 道隆はもともと牢獄の罪人を担当した医者だったが、田沼意次の知遇を得て奥医師・法眼にまで出世した。嗣子道有も奥医師・法眼まで昇っている。
(3)

 千賀氏が浜町に買った屋敷は次のような有り様だったという。


 濱町にて二千坪ほどの屋敷を買ひ、家屋庭園善美を極め、夏月納涼の座敷は、天井へガラスを張り、其中
(そのなか)に金魚を蓄へたり(4)


 試みにインターネットで「新築一戸建ての平均坪数」を検索すると、38坪という数字が出た。2000坪という屋敷の豪華さが知られよう。

 しかし、こうした栄華も一時のものだった。田沼が失脚すると道隆・道有父子も小普請入りとなり、豪華な屋敷も幕府に召し上げられてしまったからである。
(5)


【注】
(1)
NHKのHP「NHK 首都圏NEWS WEB」2024年10月21日付けの記事「1都3県今年度上半期 新築マンションの平均価格 過去最高に」による。
(2)
ダイヤモンド不動産研究所のHP、2024年4月3日更新の記事「新築マンション平均価格は、東京23区で1億円超え! 購入者はどんな人か、推定年収や資金計画も調査」による。
(3)町 泉寿郎「医学館の学問形成(2)寛政の改革期の官医たちの動向-『よしの冊子』の記事から-」日本医史学雑誌第45巻第4号、1999年、P.533。
(4)『五月雨草紙』(国書刊行会編『新燕石十種 第2』明治45-大正2年、国書刊行会、P.110。国立国会図書館デジタルコレクションによる)
(5)『よしの冊子』(引用は町 泉寿郎「『よしの冊子』医家関連記事(3)」日本医史学雑誌第45巻第3号、1999年、P.445による) に次のようにある。

「一 千賀道隆四ツ谷内藤宿へ地面被下候ニ付、大ニ歎息仕候由。且又浜町ニて是迄の居宅、去年中相払可申と所々へ相談相掛り、千五百両ニ迄直段付候もの御座候処、千八百両ならでハ売不申と申張、其相談も止ニ相成候処、此度はたゞとられ候ニ付、馬鹿ナ事じやとさた仕候よし。」
2024年11月24日(日)
臙脂の由来
 紅花からつくられた口紅は、黒味がかった濃い紅色をしている。こうした色を臙脂(えんじ)とよぶ。なぜ、臙脂(他にも燕脂、焉支、烟支などの字をあてる)というのだろう。

 『橘菴漫筆(きつあんまんぴつ)』はそのいわれを次のように説く。


 
(いん)の妲己(だっき)、燕(えん)の紅花(こうか)天下に冠(かん)たるを聞(きき)て用(もち)ひて脂(じ)となす。これによつて燕脂(えんじ)といふ。(1)


 殷の紂王(ちゅうおう)の寵姫妲己が、天下に名高い燕(えん。現、河北省北部)の紅花を脂(べに。化粧品)にした。ゆえに、これを燕脂(臙脂)と呼ぶようになったという。

 異説もある。燕脂(臙脂)は燕支山(えんじさん。焉支山。現、甘粛省)に由来するという説だ。燕支山はベニ(紅花)の産地だった。そこで、燕支山で採れるベニを燕支(えんじ。臙脂)と呼ぶようになったという。(2)

 どちらにせよ臙脂というのは、燕(えん)または燕支山(えんじさん)というベニ(紅花)の産地名に由来するというのだ。


【注】
(1)
田宮仲宣『橘菴漫筆二編・五巻』(九州大学中央図書館所蔵)、
   出典:国書データベース、https://doi.org/10.20730/100365774
(2)栃尾武「絲綢之路-歴史幻想-」掲載年・掲載誌名不明、P.67。
2024年11月16日(土)
小袖は下着
 『もういちど読む山川日本史』は社会人向けに書かれた高校日本史の学び直し本だ。久しぶりにこの本を読み直してみた。すると、桃山文化のところに次のような記述があった。


 
日常生活にも変化がおこった。 ( 中略 ) 衣服では小袖が一般的となり、とくに女性は小袖の着流しがふつうになった。(1)


 この文章だけでは小袖がどのような衣服かがわからない(本書には挿絵がついている)が、小袖は現在の着物の基本的デザインのルーツといえる。

 洋服とちがって着物には大きな袂(たもと)がついている。袖口を開けた仕立て方の広袖(ひろそで)に対し、袂の下半分を縫いとじて
口をさく仕立てた着物が小袖だ。

 小西甚一氏が高校生向けに書いた古文参考書『古文の読解』には、次のような説明がある。

 平安時代の貴族の着物は男女とも広袖だった。袖口が開けっぱなしだから風がスウスウはいってくる。これでは冬は寒い。女性は女房装束といって何枚も重ね着するが、当時は帯を使わず紐であちこちを留めてあるだけ。素肌の上に夜具をひっかけたようなものだから、寒さしのぎには役立ちそうもない。そこで一番下に小袖を着るようになった。袖口が狭いからそれだけ風通しを防ぐのだ、と。
(2)

 小西氏の説明によれば、昔の下着がのちに上着になったものが小袖だというのだ。


【注】
(1)
五味文彦・鳥海靖編『もういちど読む山川日本史』2009年、山川出版社、P.149。
(2)小西甚一『古文の読解』2010年、ちくま学芸文庫、P.37〜41による。
2024年11月14日(木)
候べく候
 江戸時代、女性が手紙文でよく使用する言葉に「候べく候(そうろうべくそうろう、そろべくそろ)」というのがあった。

 これは「です、ます」のていねいな言い方で、たとえば「御礼申し上げ候」(お礼を申しあげます)で済むところを「御礼申し上げ候べく候」(お礼を申しあげる次第でございます)と書いた。「候べく候」を使ったからといって本文の意味が変わるものではないが、よりていねいな気持ちは相手へ伝わるかもしれない。

 ただ、相手に失礼がないようにと意識し過ぎると、つい「候べく候」を多用してしまう。そんな弊害をネタにした軽口話を、柳亭種彦(1783〜1842)が紹介している。

 ある女が手紙を書いた。しかし、あまりに筆が走って書いた「候べく候」(草書体では独特のくずし方をする)が、相手に判読できないのではないかと心配になった。そこで、書き損じた「候べく候」の脇にわざわざ「候べく候」と書いた。

 しかし、「候べく候」が二つ書いてあると、相手が怪訝(けげん)に思うだろう。そこで、「候べく候」と書き込んだそのまたとなりに、次のような説明文を書き加えたという。


 
(この)「候べく候」は書損(かきそこない)の「候べく候」にて御座候べく候。脇の「候べく候」が本(ほん。本当)の「候べく候」に御座候べく候。(1)


 その後も、子どもが手習いする昔風のお手本には「候べく候」は載っていたものの、天保ころ(1830〜1844)になるとふだんの手紙で「候べく候」を使うことはまれになっていたという。
(2)


【注】
(1)(2)
柳亭種彦編『用捨箱・中之巻』東亰松山堂(明治年間)、早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫31 E0433。「一 候べく候」による。
2024年11月11日(月)
江戸の搗屋
 わが国で米食というと玄米食がふつうだった。

 庶民の常食は長らく雑穀中心で、米を口にすることはあってもそれは玄米だった。米を搗いて精白するには手間がかかる上、精白すると食料が目減りする。農業生産性が低い時代には、そうした無駄な手間暇をかける余裕などなかったからだ。

 だから近世に入っても米は玄米で流通した。そもそも石高制という仕組みを見ても、石高算出の基準となったのは一反あたりの玄米平均収穫量(これを石盛という)だった。農民は年貢米を玄米で納め、蔵米取りの武士も玄米での切米支給が原則だった。

 そのうち新田開発や農業技術の進展等で米の生産量が急増し、安い米が市中に多く出回るようになると、いつしか都市部では食味の悪い玄米食より白米食の方が一般的になっていった。たとえば『落穂集』には次のような記載がある。


 今どきの武家・天下の人どもと有之(これある)ニ而ハ、米をもしろくつき(白く搗き)、粕(こうじ)の入たるみそしるニて給(た)べさせ不申(もうさず)しては不叶(かなわざる)(ごと)く有之(これあり)(1)


 こうして白米が常食されるようになると、都市部には玄米を精白する搗屋(つきや)が登場した。

 大坂の搗き屋は踏み臼を持ち歩いたが、江戸では杵を担いで臼を転がしながら市中を回った。客に呼び止められると、家々の門(かど)や庭などに道具を据え置き、その場で玄米を搗いて精白した。江戸の搗屋の「拝み搗き」は一種の見もので、江戸名物になっていたという。『街能噂(ちまたのうわさ)』には次のようにある。


 をがミつきとて、かくの如(ごと)ききね(杵)にて搗(つく)(なり)。これハ江戸の名物(めいぶつ)にして、其(その)さま頗(すこぶ)るいきほひ(勢い)あり。力(ちから)なくてハなしがたき業(わざ)なり。(2)


 なお、志賀理斎(しが・りさい。1762〜1840)の記憶するところによれば、江戸の搗屋の搗き賃は精白の度合いにより、昔(天明頃か)は18文・20文・24文などと段階があり30文が最高だった。その後は搗き賃も値上がりして、昨今(天保頃か)では最低でも32文で、40文・50文・64文・72文にもなっていたという。
(3)

 しかしいくら搗き賃が上がっても、重い臼・杵を携えて市中に客を求め、その場で精米するのはさすがにきつい力仕事だった。そのためこうした形の搗屋は次第に廃れ、代わって精白米を店頭販売する舂米屋(しょうまいや。搗米屋(つきごめや))にとって代わられていったという。


【注】
(1)
志賀理斎編『三省録・二』刊本、天保14年(1843)〜、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:190-0237による(『落穂集』を引用)。
(2)
平亭銀鶏作・歌川貞広画『街能噂・四之巻』天保6年(1835)刊、大阪大学附属図書館蔵本による。
(3)『三省録・二』前出。  
2024年11月1日(金)
若林敬順のこと(3)-江戸時代のヤブ医者-
 『江戸学事典』で「医者」の項を引くと次のような記載がある。


 
江戸時代には医者志願者が多く、身分を破って世に出るには学者か医者になるかであり、医者には資格試験がなく、収入も多かった。(1)


 誰でも医者になれたなら、ヤブ医者は現在よりも江戸時代の方がよほど多かったにちがいない。ヤブ医者が多かったなら、ヤブ医者の誤診によって命を落とす者も当然多かったはずだ。「庸医殺人(よういさつじん。庸医(ヤブ医者)、人を殺す)」という言葉もある。

 『燕雀論』は、天明期頃(1781〜1789)の医者のありさまを次のように書く。


 
今の時恵(ときめく)医師てふ者(医師という者)を見るに、多くは無学文盲にして世智(せち。世渡りの才)にのミ賢く(2)


て、もっともらしく病人を診療するがその病因などはつゆ知らず、調合する薬も当てずっぽう。


 
羊医(庸医か。ヤブ医者のこと)の薬を見るに、頭痛にハ疝気(せんき。下腹部が痛む病気)の薬を用ひ、瘡(かさ。腫れ物などの皮膚病)に風邪の薬を用ひ、傷寒(しょうかん。腸チフスなど高熱をともなう急性疾患)に淋病(りんびょう。性病のひとつ)の薬を用ゆる類(たぐい)(3)


 それで病人が死んだとしても


 
(めい)は医者の知所(しるところ)にあらず (寿命は医者の知るところではない)(4)


などとうそぶいている。これでは、医者のせいで命を落とすようなもの。それならむしろ


 
薬をして非命の死(ひめいのし。思いがけない災難で死ぬこと)を求(もとめ)んより、(薬を)服せずして天寿を全(まっと)ふせんにしかず(5)


ということになろう。

 ところが、そんなヤブ医者が幕府や藩のお抱え医師になっている場合がある。それは彼らが


 
皆追従(ついしょう。媚びへつらい)・軽薄(けいはく。お世辞)をなし、御髭(おひげ)の塵(ちり)を払ひて所々に出入りし、誠に僥倖(ぎょうこう。思いがけない幸運)にして時を得たるにも有(あり)ける(6)


からだろう。ゆえにお抱え医師といっても、


 
古来より名医といへるハ稀(まれ)也。わけて近代(きんだい。この頃)ハいふもさら也(7)


だというのだ。

 こんなにヤブ医者が多いなか、若林敬順という無名の町医者が老中田沼意次の推挙によって、にわかに将軍を診療する奥医(おくい)に抜擢されたのだ。こんな僥倖など滅多にあるものではない。したがって「敬順が何かしら不正な手段を講じて田沼に取り入り、奥医になったのではないか」と世間から邪推されても仕方のない事情もあったのだ。

 一方、家治の病状が好転しなかったため、町医者を奥医に推挙した田沼も人々の非難を免れなかった。『燕雀論』も次のように批判する。


 
医は仁術にて、常なきもののすべきにあらず。「医三世(医者も家業として三代続かなければ)ならざれバ其薬(そのくすり)をも服せず」と有ルに、彼両人(若林敬順と日向陶庵)ハ素性も下賤(げせん。身分が低い)なる者にて、殊(こと)に医の道に丹練(たんれん。鍛錬)有ルにあらず。死生を託すべき事、甚以(はなはだもって)覚束(おぼつか)なきに、吹挙(すいきょ。推挙)なせるハ勿体(もったい)なき事(恐れ多いこと)にぞ有ルなれ。

 されバ田侯
(でんこう。田沼意次)ハ此後(こののち)段々と領地 召放(めしはな)され、嫡孫龍助(りょうすけ。田沼意明(おきあきら))といへる者へ新地として一万石下(くだ)し置(おか)れ、主殿守(とのものかみ。田沼意次)ハ隠居仰付(おおせつけ)られ、其上(そのうえ)蟄居(ちっきょ)也。(8)



【注】
(1)
西山松之助外7名編『江戸学事典』1984年、弘文堂、P.416.立川昭二氏の執筆。
(2)〜(7)志賀紀豊『燕雀論』写本、国文学研究資料館所蔵、「若林敬順の事」による。出典: 国書データベース、https://doi.org/10.20730/200018497。
(8)『燕雀論』同上、「田沼侯の事」による。
2024年10月31日(木)
若林敬順のこと(2)-疑われる家治の死因-
 10代将軍家治の病に際し、注目されるのは日向陶庵・若林敬順という町医者を登用していることだ。

 どのような経緯があったか不明だが、時の権力者の推挙によって無名の町医者がにわかに奥医に抜擢され、将軍への投薬を任されるというのはいかにも不自然だ。その不自然さのゆえだろう、のちに家治が薨去すると、その死因は取り立て医者(若林敬順)の投薬ミス(または田沼による毒殺)だったとする噂が流れた。なにしろ家治は当時まだ50歳の若さだったのだ。そこで世間では


 
ののさま(仏をいう幼児語。亡くなった家治)いくつ、四十三七ツ(50歳)、まだ死ぬは早いな(1)


と取り沙汰された。

 投薬ミスが疑われたのは、取り立て医者が田沼意次の推挙で奥医になった無名の町医者だったこと、その医者の投薬後に家治の病状が悪化したこと、その後取り立て医者ただちに解雇されていること、などが原因だろう。次のような落書が残っている。


 
取立医者(とりたていしゃ。若林敬順)めが、薬がちがつて、因果と(不幸にも)わつち(私)がをちど(落ち度)になりやす(2)


 
田沼れて(田沼に頼むを掛ける)薬をもるが馬鹿林(若林に馬鹿を掛ける)、たつた三日でさじ(医者が薬を計量する道具)のかきあげ(3)


 しかし、町医者にまで頼って緊急で家治の治療に当たらせたのだ。投薬ミスなどでなく、家治の病状はすでに手の施しようがないほどに悪化していたのだろう。藁にもすがる思いだったのではないか。

 また、毒殺説についても、田沼が医者を使って将軍毒殺をはかることなどあり得ない。家治は田沼の後ろ盾だったのだ。仮にも毒殺だっとするなら、それは反田沼派の仕業でなければならない。

 田沼が権力の座から追い落とされると、田沼派は世間の激しい批判にさらされた。そのなかには誹謗中傷としか思えないものも多い。

 田沼の推挙によって、一時的にせよ奥医となった若林敬順も同じだった。真偽のほどは不明だが、志賀紀豊の随筆『燕雀論』には敬順が奸計によって田沼に取り入ったとする巷説を載せる。
(4)  


【注】
(1)
「田沼狂書」(国書刊行会編『列侯深秘録』1924年、国書刊行会、P.536。国立国会図書館デジタルコレクション)
(2)「田沼狂書」(同上、p.534)
(3)「田沼狂書」(同上、p.535)
(4)若林敬順はもと若林敬次郎という金貸しだったが、何を思ったのか町医者になった。そして田沼意次の家人と親しくなると、女房と謀って一芝居うち、自分がいかに田沼意次を尊敬しているかをその家人に吹き込んだ。それで田沼家への出入りを許さると田沼に取り入り、ついに将軍の御医師にまで出世したのだという。
 以上、志賀紀豊『燕雀論』写本、国文学研究資料館所蔵、「若林敬順の事」による。出典: 国書データベース、https://doi.org/10.20730/200018497。  
2024年10月30日(水)
若林敬順のこと(1)-将軍家治の死-
 天明6年(1786)8月25日、10代将軍の徳川家治(1737〜1786)が亡くなった。死因は脚気衝心(かっけしょうしん)による心不全だろうとされる(1)。貴人の死は通例一か月ほど伏せられるのが通例だが、その間反対勢力による田沼派の追い落としがあったのだろう、発喪は9月8日だった。

 以下、家治の発病からその死に至るまでを、『浚明院殿御実紀』から時系列にしたがって抜書きする(読みやすいよう、句読点等を付し一部表記を改めた)。
(2)


① 8月15日

 御感冒
(ごかんぼう。風邪)のよしにて外殿(表御殿)に出給(いでたま)はず。(3) ( 中略 )

 こたびの御病ハ、この月はじめより水腫
(すいしゅ。むくみ、浮腫)を患(わずら)ひ給ふ。はじめの程ハ尚薬(しょうやく)河野仙寿院通頼(こうの・せんじゅいん・みちより)御薬を奉(たてまつ)りしかど、さらに験し(しるし。ききめ、効果)なかりしかば、けふ(今日)より奥医(おくい)大八木傳庵盛昭(おおやぎ・でんあん・もりあき)に御治療を轉(てん)ぜらる。

 これまでハさばかりの御患
(おんわずらい)とも人々思ひ奉らざりしが(これまでそれほど重いご病気とは人々は思ってはいなかったが)、この日外殿に出(いで)まさぬと聞(きこ)えけれバ、さてこそとておしなべおどろきけり。御位につかれしより(将軍就任以来)三十六年の間、朝會(ちょうかい)の日はいかなる盛暑・酷寒といへども怠り給(たま)はず外殿に出て群臣の謁見をうけ給ひしが、はじめてかかる御事なりしかバ、かろき御事にもあるまじ(軽い病状でもあるまい)と人々申侍(もうしはべ)りしとぞ聞(きこ)えし。


②8月16日

 さきに拝謁ゆりたる
(以前に拝謁を許された)市井(しせい)の医日向陶菴某(ひゅうが・とうあん・なにがし)若林敬順某(わかばやし・けいじゅん・なにがし)を田沼主殿頭(たぬま・とのものかみ。田沼意次)推轂(すいこく。官職に推薦すること)し、にハかに(突然、急遽)内殿にめして御療治の事にあづからしむ。


③8月17日

 けふ
(今日)奥医(おくい)のこりなく(残りなく。全員)めし出(いで)て、御薬用の事(家治の治療方針)を会議せしむ。


④8月19日

 日向陶庵・
若林敬順(あらた)にめし出されて奥医(おくい)となり、ともに廩米(りんまい。蔵米)二百苞(ほう。俵)づつ給ふ。



⑤8月20日  

 御所
(ごしょ。将軍)にハきのふ(昨日)より若林敬順某が薬用給ひしかど、猶(なお)なやましくなり給(たま)ひしとて(一層気分が悪くなられたというので)、ふたたび敬順が薬をとどめて、もとのごとく大八木傳庵盛昭に奉らしむ。


⑥ 8月26日

 大八木傳庵盛昭處方
(しょほう)よりいささかさハやかせ給ふ(ほんのわずか気分が晴れ晴れなさった)など聞(きこ)えしが、この暁(あかつき。夜明け)よりまた重くなやませ給ふよし聞えて、内班(ないはん。側近グループ)の群臣ミな上直(じょうちょく。宿直)して家に帰らず。


⑦8月28日

 けふ奥医日向陶庵某・
若林敬順某、さきに賜ハりし廩俸(りんぽう。給与の蔵米)を収められ、職をはなたる。


⑧9月3日

 御病おもらせ給ふ
(以下略)


⑨9月6日

 御病いよいよおもくわたせ給ふ
(以下略)


⑩9月8日

 八日巳下刻
(みのげこく。巳は午前10時から12時頃。下刻は2時間を三分した最後の時刻。11時半前後)、つゐに御疾おもらせ給ひ、常の御座所(ござしょ。貴人の居室)にして薨(こう)じたまふ。御齢(おんよわい)五十。 (4)



【注】
(1)
篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』2005年、新潮新書、P.132。
(2)以下、『浚明院殿御実紀巻54・巻55』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:149-0001による。
(3)8月15日当日、口頭で

「公方様(くぼうさま。将軍家治)少々御風氣ニ付(つき) 御月代(おんさかやき)不被遊候間(あそばされずそうろうあいだ)、出御(しゅつぎょ)不被遊候(以下略)」(公方様は少々お風邪気味で月代も剃っていないので、本日は表御殿への出御はない)

との発表があった(『江戸幕府日記天明6年7月-12月』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:160-0136の8月15日条)。しかし家治は将軍就任以来36年間、かかる行事に欠席したことが一度もなかった。そこで群臣は、これはただごとではないと直感したのだった。

(4)家治の実際の薨去日は8月25日。森山孝盛『自家年譜・天明4年-天明5年』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:165-0059の天明6年8月25日の記事に次のようにある。

「同廿五日暁、殿中甚騒動、御医師衆惣登 城有之。西丸幷(ならびに)御両卿も御登 城可有之候処押付(おっつけ)被差止、御快然之旨披露有之。実は今暁御他界候由」(25日明け方、殿中がはなはだ騒がしく、奥医師たちがすべて登城した。世子や一橋・清水両卿も登城すべきところまもなく止められ、将軍の病状回復の知らせがあった。実は今暁、将軍は御他界されたとのよし)
2024年10月28日(月)
処世術
 川井久敬(かわい・ひさたか。1725〜1775)は軽輩から異例の出世をした人だ。

 小普請組頭から勘定吟味役、勘定奉行に進み、従五位下越前守に叙任され、田安家の家老を兼任した。経済官僚として秤量貨幣である銀貨の計数貨幣化をはかり、明和五匁銀(めいわごもんめぎん)・南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)鋳造を献策したのがこの川井だった。

 世は田沼時代。幕臣・諸侯等の中には田沼意次に取り入るため賄賂を贈り、またおもねる者も多かった。そんな時代に、川井のような異例の立身出世をすれば、人々の嫉妬や悪意などからひどい中傷を受けたにちがいない。

 しかし川井は、むしろ人々からは尊敬されていたという。なぜなのか。

 それは川井が「至(いたっ)て世智(せち)にかしこき人」(たいへん世渡りのうまい人)
(1)で、わが身の処し方をよく知っていたからだ。『巷説秘鑑(こうせつひかん)』は次のように書く。


(川井は)元来篤実の人にて、

「今諸大夫
(しょたいふ)に昇進せしか」

と元の同役中などへは甚
(はなは)だむつまじく、むかしにかわらざる挨拶(あいさつ)取扱(とりあつか)ひなりと聞(きこ)ゆ。

 世に皆左様
(さよう)にもあらざれど、多くは其(その)位となり高官となれば、夫(それ)より目下なるものへは万事横平(横柄)を致し、或(あるい)は無礼なる事もまま多し。然(しか)るに、此(この)越州(えっしゅう。越前守。川井のこと)に於(おい)ては其(その)昔を忘れざる事、驚き入(いり)たる事なりとて、知りたる人の語りき。(2)



 出世をしてエラクなると、目下の者に対してついついぞんざいな態度をとるようになる。そうした者の多いなか、川井は旧知に対する接し方が昔同様まったく変わらなかった。そんな川井の「昔を忘れざる」態度がその篤実な人柄と相まって、人々から尊敬を勝ち得る結果となったのだ。

 「己れが守るべき道を守り、なすべき業をだにおこたらず」
(3)謙虚でいることが、世間の批判をかわす術であることを川井はよくよく知っていたのだろう。


【注】
(1)(2)(3
)聴風亭遊山著『巷説秘鑑・一』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0090。「川井越前守殿成立の事」による。
2024年10月24日(木)
家柄
 江戸時代は新参者に対する風当たりがやたら強い時代だった。幕府要職には、代々将軍家に仕えてきた家柄のよい譜代層が就任するのが当たり前だった。

 ところが、5代将軍綱吉は上州館林から、8代将軍吉宗は紀州からそれぞれやってきて将軍になった。徳川本家出身の将軍でなく、いわばよそ者の将軍だ。この時、綱吉・吉宗が連れてきた家臣たちが新たに幕臣となった。

 どこの馬の骨ともわからぬ連中が譜代層の既得権利に割り込んできたのだ。譜代層の反発は大きかった。彼らは何かと新参者の粗(あら)を探しては溜飲を下げた。その際、もっとも攻撃しやすかったのは、新参者の素性と低い家柄だった。

 たとえば、田沼意次(1719〜1788)はもと紀州出身の新参者だった。当時田沼は幕府の高位高官(従四位侍従、老中)にあって、譜代大名・旗本などと養子・姻戚関係を結び勢力を拡大させていた。しかし、田沼の息女と井伊直朗
(1)との婚姻に際して、田沼の素性・家柄を理由に、井伊家中では婚姻に強い反対があったという。『巷説秘鑑』は次のように記す。


 
当時(とうじ。現在の)御奏者番(ごそうしゃばん)井伊兵部少輔(いい・ひょうぶしょうゆう。井伊直朗)殿奥方は、当時御老中田沼主殿頭(たぬまとのものかみ。田沼意次)殿の息女也。

 時に最初御縁組御内談の折から、家老小野七郎左衛門、兵部少輔殿へ言上
(ごんじょう)するは、


「此度(このたび)御婚姻の儀、田沼家より御取組(おとりくみ)可有(あるべく)の御内談相極(あいきわま)り候(そうろう)よし、甚(はなはだ)(もっ)て某(それがし。私)愚案(ぐあん)に落不申候(おちもうさずそうろう)。  

 
乍恐(おそれながら)御家(おいえ。井伊家)は大織冠鎌足公(たいしょくかん・かまたりこう。藤原鎌足)の御後胤(ごこういん。子孫)井伊直政公の御嫡子(ごちゃくし)直勝公の御末(おすえ)にして、御軍功四海万天に知らざるものなく、名誉の御家也。されば当家は将軍家もおろそかにし給(たま)ふ事有らず、並ぶ方なき御家柄也。

 
(しか)る処(ところ)に、当代に至て田沼家より御縁組有ては、何共(なんとも)御先祖様方へ仰(おおせ)わけられ有間敷(あるまじく)と奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)

 
今田沼家は老中職を勤め給ひ、従四位侍従(じゅしい・じじゅう)の御身(おんみ)なれば、何に不足はなけれども、其元(そのもと)を尋(たずぬ)れば、田沼専左衛門が嫡子にして同龍助とて、将軍吉宗公紀州に被為入候(いらせられそうろう)時分の御家来也。然(しか)る所、吉宗公天下御相続ましませし故(ゆえ)、田沼家御供(おとも)にて来(きた)りしに依(より)て御家人とはなれり。されば当主殿頭殿小身(しょうしん)にして御小姓(おこしょう)を被勤(つとめられ)し所、年々に御加増有り、従四位侍従に任ぜられ、老中職をつかさどり給ふ。

 
誠に其功(そのこう)多しと言へども、中々以(もっ)て当家などと縁組すべき家ならず。たとへ当代は何にもせよ、其元は陪臣(ばいしん。家来の家来、諸大名の家臣)にして、皆人々知る所也。如斯(かくのごとき)素姓(すじょう。素性)に候得(そうらえ)ば、余(あまり)にも御家柄(おいえがら)(よ)き方いくらも有(ある)べし。

 先
(まず)は此(この)御縁組、然(しか)るべからず。」


と申上
(もうしあげ)たり。(2)



 徳川四天王のひとりとして有名を馳せた井伊直政公の末裔の井伊家と、よそ者で陪臣出身の田沼家では家柄が釣り合わぬ。家柄がよい婚姻相手はいくらでもあるのに、これでは御先祖様になんとも申し訳がたたぬ、というのだ。

 なお、天明6年(1786)8月25日、田沼の後ろ盾だった将軍家治が死去すると、田沼家と婚姻・養子縁組関係を結んでいた大名・旗本たちは次々と田沼家との離縁・絶縁を宣言した。その数は50名以上にのぼったという。

 もともと権力におもねって結ばれた姻戚関係だったから、田沼の没落が明らかになると巻き添えを恐れた諸侯たちはたちまち田沼を見捨ててしまったのだ。その中にはもちろん、上記の井伊家(井伊直朗は当時若年寄)も含まれていた。


【注】
(1)
井伊直朗(いい・なおあきら。1750〜1820)は越後与板藩2万石、第6代藩主。従五位下、兵部少輔。井伊直勝(直政の長男)系の第10代にあたる。明和7年(1770)12月12日奏者番となり、天明元年(1781)9月18日西城の若年寄に進んだ(『寛政重脩諸家譜・第四輯』1923年、國民圖書、P.1135〜1136。国立国会図書館デジタルコレクションによる)。
(2)聴風亭遊山著『巷説秘鑑・一』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0090。「井伊兵部少輔殿、田沼主殿頭殿息女と縁組の事。附り、家老小野七郎左衛門諫言の事」。
2024年10月21日(月)
一文字いれる
 事の成り行きが、ほんの些細な工夫でまったく違ってしまうことがある。

 ある年の浅草市で、小笹(こざさ)にお多福のお面をつけた縁起物を売る商人がいた。ところが、


「福面(ふくめん)、福面」


の売り声むなしく、誰ひとり客が寄りつかない。なぜか。

 それは、商人の売り声が


「不工面(ふくめん)、不工面」


と聞こえたからだ。「不工面(金銭の工面がつかない)とは縁起でもない」と客がそっぽを向いたのだった。

 そこで翌年の市では


「福
面、福面」


と呼び声を変えた。すると今度は飛ぶように売れたという。(1)


 「の」という一文字をいれるか否かで、商品の売れ行きが左右されたのだ。


【注】
(1)
以上、志賀紀豊『燕雀論』写本、国文学研究資料館所蔵。出典: 国書データベース、https://doi.org/10.20730/200018497。なお、原文は次のとおり。

 
一年、浅草市に於(おい)て於多福(おたふく)の面を小笹に付ヶて賣(うり)しに、「福面、福面」といふて売たれバ、曽(かつ)て一人も買者(かうもの)なし。いかにとなれバ、「不工面」とひびく故(ゆえ)に忌々敷(いまいましく)思ひて也(なり)。
 其(その)翌年の市にハ、「福の面」とのの字を入て呼しかバ、甚(はなはだ)売(うれ)たり。 
2024年10月18日(金)
尾張公の狐
 東京の戸山公園は、もとは尾張徳川家の下屋敷の一部だった。

 下屋敷の江戸時代の面積は、御三家筆頭だけあって約13万6千坪(44.9ヘクタール)もあったという。これは東京ドームほぼ10個分に相当する広さだ。(1)


 これほど広大だったなら、その敷地内には狐狸をはじめ、多くの鳥獣が棲んでいたに違いない。 『野翁物語』には、尾張公が家臣同様、狐にまで扶持米を給付していたという信じがたい記述がある。屋敷地の広大さから創作されたオハナシだろうが、もしかすると何らかの事実を反映しているのかも知れない。原文を載せておく。


 
尾張外山(とやま)御屋敷に広き原あり。昔より此所(ここ)に狐住(すみ)ていくつもあり。掛りの役人(狐担当の役人)(あり)て、狐壱疋(いっぴき)に一人扶持(いちにんぶち。1日当たり玄米5合を支給する給与)も下さるる也(なり)

 毎年正月十一日
(1月11日は具足開きの日)、尾張殿外山御屋敷へ御越(おこし)にて、此所(ここ)を通り給(たま)ふ。其時(そのとき)、狐共(きつねども)己の穴の側(かたわら)へ出る。其節(そのせつ)、去年出生の子狐を連出(つれだし)て御目見(おめみえ)をさする也。此時(このとき)、狐の数を改て、不残(のこらず)扶持を給(たま)ふ。

 此
(この)狐少しも悪事をせず。若(もし)家中の子供など石にても打付(うちつく)る事有(あら)ば、速(すみやか)に取付(とりつき。憑依して)て其(その)子細をいふ故(ゆえ)に、掛りの者へ申渡(もうしわた)せば役人稲荷へ参り、侘言(わびごと)をすれば即(すなわち)(おつ。憑いた狐が落ちる)る也。

 若
(もし)遺恨(いこん)深くして、夫(それ。役人の詫言)をも聞入(ききいれ)ざる時は、書付(かきつけ。公文書)を以(もっ)て其由(そのよし)を願へば、尾張殿より稲荷へ使者を遣(つかわ)さるる也。さすれば、落(おち)ずと云(いう)事なし。

 此外
(このほか)の野狐(やこ)は御屋敷へ入る事なし。前々より右の如(ごと)くにて、今も替(かわ)る事なしといへり。(2)

 

【注】
(1)
戸山公園サービスセンター「フィールドミュージアムガイド 戸山公園 尾張戸山荘 今昔」2019年3月発行のパンフレットによる。
(2)『野翁物語・1』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0099。「九 外山屋敷狐の事」による。  
2024年10月14日(月)
毒親
 江戸時代の身分制度は案外ゆるやかで、町人や農民でも御家人株を買うか、武士の養子になることができれば武士身分になることはできた。一方、跡継ぎのいない武士にとっては、家の存続をはかる上で養子を得られるのは願ってもないことだったろう。

 しかし、養子を迎える側には、持参金だけを目当てにした碌でもないやからもいた。

 そうした武士のひとりが、江戸下谷に居住する森本吉左衛門だった。3両(約30万円)の持参金つきで養子を迎えたのに味をしめ、


 
何卒(なにとぞ)殺して、又外より貰(もらわ)ばや
 
(どうにかしてこの子を殺して、ふたたび他から持参金つきの養子をもらいたいものだ。)



と恐ろしいことを考え、養子にはいろいろと毒になる食べ物を与えていた。しかし子どもは生得頑強な体質だったのだろう、病気になることもなかった。

 夫が夫なら女房も女房だった。養父母ともにとんでもない毒親だったのである。

  女房はふだんから養子に対して虐待をくりかえした。その仕打ちのひどさは、近所で見聞した者が同情の涙を禁じ得ないほどだったという。

 ある年の正月、夫婦は子どもを蒲団で包むとその両端を紐でくくり、あたかも五月節句の粽餅(ちまきもち)状態にした。そして、粽餅のような蒲団を囲炉裏の中へ放り込むと、そのまま夫婦連れだって物見遊山に出かけてしまったのである。

 運の悪いことに囲炉裏の中には残り火があった。やがてその火が蒲団に燃え移った。そのうち吉右衛門宅から煙があがると、異変に気づいた近所の人々が家の中へと押し入ったが、時すでに遅く子どもは窒息死していた。寄り集まった人々が


 
余り成(あまりなる)仕方成(しかたなり)
 
(吉左衛門夫婦の何と無慈悲な仕打ちだろう。)



と噂(うわさ)し合っているところに、ちょうど吉左衛門夫婦が帰ってきた。人々は夫婦を捕えると、事の次第を役所へ訴えた。

 その後、吉左衛門は死罪、女房は遠島を申し渡されたという。
(1)


【注】
(1)
以上『野翁物語・2』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0099。「五十八 森本吉左衛門御仕置の事」による。
2024年10月11日(金)
ルーティーン
 仕事を始める前にはまずコーヒーを一杯飲むとか、自宅での勉強は数学・理科から始めるとか、あるものごとを行う際に一連の手順・動作を決めているという人は多い。こうしたルーティーンは人それぞれだ。

 江戸時代初期に、老中・大老をつとめた土井利勝(どい・としかつ。1573~1644)の家老に寺田與左衛門(てらだ・よざえもん)という男がいた。寺田にもあるルーティーンがあった。ただ、彼のルーティーンは少々風変わりだった。

 寺田は、ならぶ者のいない知恵者だった。その有能さは上聞にも達し、3代将軍家光(1604~1651)からも


 寺田に尋ね問ふべし。
(そのことは寺田にたずねよ。)


との仰(おお)せが度々あったほどだ。

 しかし、そんな知恵者の寺田でも即答できないことがある。

 そんな時には自宅に帰り、一間(約1.8メートル)の戸を立てまわして部屋の中を暗くし、灯火を立てる。そして、首に太鼓を掛けて踊ったという。

 この一連の所作が、 寺田が熟慮する際におこなうルーティーンだった。

 こうしてよい思案が出ると踊りをやめて居間に平座する。そして当該問題に決断を下したというのだ。
(1)


【注】
(1)
『賢相野史・3』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0121による。なお、原文は次のとおり。

 
土井利勝の家老寺田與左衛門ハ無双の智者なりし。家光公にも
「寺田に尋ね問ふべし」
と仰(おおせ)有し事度々也。
 然れども即坐に返答成ざる時は居宅に帰り、一間の戸を立廻し、夜分のごとくなして灯火を立、大皷を首に掛けおどりて、思案出るとおどりを止て、居間に平座して其事を決定したる人也と云。
2024年10月8日(火)
対客登城前
 江戸時代、いくら学問・武芸等に励みまた能力があったとしても、幕臣の子弟の誰もが就職できたわけではない。幕府の役職に就くにしても、家筋というものがあった。先祖代々の家柄や持高、役職等が優先された。

 そうした中、対客登城前(たいきゃくとじょうまえ)という慣行は、何のつてもない幕臣たちが人事権を握る幕府重職と接触できる数少ない機会のひとつだった。老中・若年寄らが登城する前、役職に就くことを求めた幕臣たちが彼らの屋敷に日参したのである。


 
毎朝対客登城前とて、我も我もと権家(幕府の有力者の家)に出入す。其中(そのなか)、毎日出入(でいり)するを日勤といふて多く有(あり)たり。(『蜑の焼藻の記』)(1)


 たとえば、老中の登城は午前10時頃だった。そのため幕臣たちは、夜明け前から老中宅に詰めていたという。


 
御旗本の面々も朝出ということを第一のつとめと覚えて、未明より御老中・若老中(若年寄)の宅へ詰め、御勇健の息災をいいたるまでにて帰る。何の所為(しょい)ぞと問えば、御老中・若老中に知らるべきため也(なり)という。(『政談』)(2)


 しかし、競争相手はおおぜいいる。ご機嫌伺いを述べて帰宅するだけでは、重職に顔や名前を覚えてもらえるかどうか。接触頻度を増やさねばならない。そこで、重職宅に通う者の中には日勤どころか朝夕2回、または日に3度も訪ねる者もいたという
(3)。当時の就職活動の必死さが伝わる。

 しかし、対客登城前に人材発掘の機能はないと荻生徂徠は言い切る。

 なるほど、ご機嫌伺いの顔見せだけでは、幕臣たちには自分の能力や希望役職を重職にアピールできない。重職連中とて登城前のあわただしい時間に、ご嫌伺いの挨拶を受けるだけで彼らの能力・特性等をはかり知ることなどできまい。彼らの顔・名前を覚えているかどうかさえ怪しいものだ。本音は、


 
神明(しんめい。神々)の如(ごと)くなる大才智の人也(なり)とも、対客にてその人の器量・才知を知るべきようなし。(『政談』)(4)


というところだろう。そんなことは日参する幕臣連中も百も承知だ。そこで、搦手(からめて)から攻めようとする小賢しい了見を持つやからも出てくる。


 
御旗本の面々も、ただ老中・若老中を務めありき、ちょと面(おもて)をみせたるばかりにては、心に落着もなければ、その家中に縁をもとめて、内証(ないしょう。奥向き)より付(つけた)りにしなどする。いかさまにも度々(たびたび)参りたる人、または内証より取り成す人もあれば、覚えず皆ひいきの沙汰となる。(『政談』)(5)


 正直なところ、対客登城前に人材登用の機能はあまり期待できなかったのだ。


【注】
(1)
森山孝盛『蜑の焼藻の記』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:166-0185。14コマ目。
(2)荻生徂来著・辻達也校注『政談』1987年、岩波文庫、P.241。
(3)『蜑の焼藻の記』前出。
(4)『政談』前出、P.241。
(5)『政談』前出、P.242。
2024年10月7日(月)
うわなり打ち
 夫が新しく迎えた後妻を前妻が襲い、家財道具などを破壊するする行為を「うわなり打ち」とか「そうどう打ち」といった。「うわなり」は古語で後妻や妾を意味する言葉(前妻は「もとつめ」または「こなみ」)。この変わった習俗は、もともとは離縁された前妻の嫉妬に由来するものだったのだろう。平安時代にすでに見られ室町時代には多くあったというが、江戸時代にはすでに絶えていたらしい。

 『八十翁疇昔話(はちじゅうおうむかしばなし)』には、うわなり打ち(そうどう打ち)の儀式めかした詳しい手順が書かれている。
(1)

 うわなり打ちをする際、前妻は使者(男)を立てて相手方にその日時を通告した。その口上は、次のようなものだったという。


 
御覚(おんおぼえ)可有之候(これあるべくそうろう)さうどう打、何月(なんがつ)幾日(いくにち)何時(なんどき)可参候(まいるべくそうろう)
 (うわなり打ちをされる身のおぼえがありましょう。○月○日の○時に参上いたします。)

 その際、前妻側がうわなり打ちにどのような諸道具(木刀・棒・竹刀など)を持参するか相手に伝えた。多くの場合、竹刀だったという。

 後妻側では、ここで詫言(わびごと)などして弱気を見せれば「一生の大恥」となる。そこで、使者に対しては


 
成程(なるほど)、相待候(あいまちそうろう)
 (承知しました。お待ちいたしましょう)



と返事する。男の出番はこの使者・取次(とりつぎ)までで、その後一切関わらないのがルールだった。

 前妻は乗物にのり、仲間の女たちはくくり袴(ばかま)・襷(たすき)姿という出立ち。頭は髪を乱したままか、かぶり物や鉢巻(はちまき)をした。そして、手に手に竹刀・擂粉木(すりこぎ)などを持って後妻宅へ押し寄せると、台所から乱入して障子・鍋・釜等を手当たり散々に打ちこわしたという。

 その後頃合いを見計らって、後妻の仲人(なこうど)・待女郎(まちじょろう。婚礼時、戸口で花嫁の到着を待って付き添い世話する女性)、前妻の時の待女郎が両者の真ん中へ割って入り、さまざまに言葉を尽くして「うわなり打ち」はお開きとなる。

 さて、うわなり打ちをする際には、前妻は事前にあちらこちらへ声をかけて20人、30人、50人と仲間を集めたという。『八十翁疇昔話』によれば、


 
むかしハさうどう打に二、三度頼まれぬはなし。七十年以前、八十計(ばかり)のばば(80歳くらいの老女)有之(これあり)。さうどう打に十六度頼まれ出しなど語りし。


とある。多い場合には100人もの仲間を集めたという。

 「うわなり打ち」はある意味一大イベントだったから、当日は多くの見物人が集まった。
(2)  しかし『八十翁疇昔話』によると「百年以来すきとなし」とあるから、江戸時代直前にはこの習俗は絶えてしまっていたらしい。


【注】
(1)
新見正朝述『八十翁疇昔話・2』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0028。33丁オ〜34丁オ。
(2)山東京伝『骨董集・上編』文化11、12年刊、京大附属図書館蔵、請求記号:10-05/コ/6。項目「後妻打」が引用する「古画後妻打図(こが・うわなりうちのず)」には「うハなり打を見にあつまれる人のさま」が描かれている。
2024年10月5日(土)
加藤清正にだまされた
 他人が羨む幸福な人生を送ったと思われる人でも、当人にすれば案外不本意な人生だったのかもしれない。

 加藤清正(1562〜1611)の配下に飯田角兵衛(飯田直景。1562〜1632)という武士がいた。剛力で各地の戦場では勇名を馳せ、太閤秀吉も一目置いていた。秀吉からは「角兵衛から覚兵衛に改めよ」という改名の栄誉まで得た。

 しかし、覚兵衛の本心は、常に武家奉公をやめたいということにあった。

 覚兵衛が初めて戦場で武功を挙げた時、気がついて周囲を見渡すと、傍輩たちは矢玉に当たってことごとく討死していた。この時覚兵衛は「こんな危うい武家奉公など、これきりで辞めよう」と決意したという。

 ところが、主君は人使いに長けたあの加藤清正だ。この機を逃さず、


 さても今日のはたらき、神妙いわん方なし。


と覚兵衛の戦功を激賞すると、自ら腰の物(刀)を与えたのだった。覚兵衛は、辞職を言い出しそびれた。

 その後も戦さに出て命拾いするたび、「これきりで武家奉公をやめよう」と後悔を繰り返した。しかしその都度清正が、やれ陣羽織だ、感状だ、加増だと褒美をくれる。それを傍輩たちも羨んで、みんなで賞賛する。こうして自分の気持ちとはうらはらに、とうとう侍大将にまでなってしまった。

 清正没後、長男の加藤忠弘(1601〜1653)が改易になると、覚兵衛は牢人となった。この時、覚兵衛は己の人生を振り返って、


 我が一生は清正にだまされたり。


と語ったという(その後黒田家に仕官)。

 そのころ退職代行業のサービスがあれば、覚兵衛は違った人生を歩んでいたかもしれない。


【参考】
・荻生徂来著・辻達也校注『政談』1987年、岩波文庫、P.228〜229。
2024年10月3日(木)
知行取りは格上
 江戸時代初期は幕藩体制の成立期だった。この時期、幕府・諸藩はその支配を領地全体に浸透させようとした。それは、本百姓からの貢租収入を十分確保して、まずは財政の安定化を目指したからである。

 しかし、その障害となったのが、領内に多く点在する家臣たちの知行地だった。そこで幕府・諸藩は、家臣団の知行地支配を廃止もしくは制限していく方針をとった。

 たとえば幕府の場合、上給(あげきゅう)と称して旗本知行地を幕領に編入し、代わりに旗本には蔵米(切米)を支給してそのサラリーマン化をはかっていった。

 また、旗本に知行地支配を認めた場合であっても、貢租徴収は幕府公定の35パーセント(100石取りなら貢租収入は玄米35石)に設定してしまったのである。
(1)

 ところで、蔵米取り100俵の実質収入は玄米35石(1俵は玄米3斗5升入り)。知行取り100石の実質収入は玄米35石(税率35パーセント)である。つまり、蔵米取り100俵と知行取り100石は、実質収入で見ると同じなのだ。

 ただし、収入が同じ場合であっても、武士たちの間には、知行取りの方が蔵米取り(切米支給)より格上とする意識があった。
(2) 酒井忠勝(小浜藩)の


 知行は、切米(きりまい)とハ多少によらず、訳(わけ)の違(ちがい)たる義なり。(3)


という言葉も、そのへんの事情を言ったものだ。


【注】
(1)
北島正元『近世史の群像』1977年、吉川弘文館、P.172〜173。
(2)小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社文庫、P.297。
(3)山口安固『酒井空印言行録・巻三』明和2年(1765)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0112。14丁ウ〜15丁オ。
2024年9月27日(金)
時勢の流れ
 時勢の流れにはあらがえない。

 たとえば、ここ数十年の間に、廃れてしまった職種・役職等のたぐいの何と多いことか。電話交換手、駅の切符切り、バスの車掌等々、数え上げると両手の指では足りない。

 時勢の流れに逆らえないのは、江戸時代とて同じだった。

 1615年の元和偃武(げんなえんぶ)を境に戦さがなくなり、太平の世になった。

 これにて武士は、軍人としての役割を一応終えた。だからといって、幕府・諸藩は彼らをリストラするわけにはいかなかった。そもそも江戸幕府は武家政権なのだ。軍事的職制の中に位置付けられた武士の軍事的役割はそのまま残された。

 しかし、太平の世が進むにつれ、幕府職制の上でも行政職(役方)の役割が次第に大きくなっていく。その一方で、武士の軍人としての役割がますます形式化・空虚化していくのはやむを得ないことだった。

 それでも、幕府内では相変わらず軍事職(番方)が優遇された。とりわけ、大番・小姓組番・書院番の三番にはいることが出世の第一歩とされたのである。

 ただし、同じ番方でも御使番(おつかいばん)・旗奉行・鑓奉行等の凋落は著しかった。

 これらの役職は、かつて戦場においては花形の役職だった。たとえば、戦場での伝令や敵軍への使者などをつとめた御使番には、武功第一で戦さの場数を踏んだ勇士が選任された
(1)。しかし、太平の世では、


 
使番という役無用の役也。これは軍中の使番をその儘(まま)にされおきたる故(ゆえ)、治世に無用也。(2)


と糾弾される始末。

 また、旗奉行(馬印・旗印などを扱う足軽を指揮)・鑓奉行(鑓足軽を指揮)も、太平の世には無用の存在とされた。これらは老人にあてがわれる閑職であり
(3)、引退前の老旗本が就任する「隠居役」だったという(4)


【注】
(1)
山本豊寛著『明良帯録・2』写本、明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:152-0067。
(2)荻生徂来著・辻達也校注『政談』1987年、岩波文庫、P.195。
(3)山本豊寛著『明良帯録・2』前出。
(4)小川恭一氏によれば、隠居役は「隠居前の一種の優遇で、隠居料とは別で職録を低下させても、現役扱いという処遇」だったという(小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社文庫、P.151)。
2024年9月25日(水)
丹前
 明暦3年(1657)、幕府の取締りによって、町屋風呂が廃業に追い込まれた。

 風呂屋といっても実際には風俗営業で、風呂女(湯女)という名の遊女を置いていた。そのため、侠客やら遊蕩者やらといった連中が町屋風呂に多くたむろし、喧嘩・騒動を繰り返すようになっていた。こうした風紀上・治安上の問題から、幕府は町屋風呂を禁止したのだった。

 神田佐柄木町(さえぎまち)の町屋風呂は、堀直寄(ほり・なおより。越後村上藩10万石。1577〜1639)の屋敷前にあった。当時、この町風呂屋へ通うかぶき者たちには「丹前へかかる人」という異名があった。堀が丹後守だったため「
後守屋敷の町屋風呂」の意で「丹前(丹前風呂)」と称したのだ。

 彼ら放蕩者たちは、金にあかして異様な髪型やどてらのような派手な衣装で伊達姿(だてすがた)を競い合った。そこから何であれ、派手なありさまをも「丹前」(丹前風、丹前姿など)と呼ぶようになった。

 とまれ、自身の受領名(ずりょうめい)が遊蕩場所(丹前風呂)の語源となり、果てはどてら(丹前は関西でのよび方)を意味するようになるとは、堀丹後守は夢想だにしなかったに違いない。


【参考】
 新見正朝述『八十翁疇昔話・2』刊本・後修、天保8年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0028には次の記述がある。

一、むかしは松平(堀の誤り)丹後守屋敷前に町屋風呂有(あり)。美麗を尽し、風呂女とて遊女有之(これあり)。諸人入込(いりこみ)喧嘩度々(たびたび)故(ゆえ)御法度(ごはっと。禁止)に成(なる)。其時(そのとき)、風呂屋へ通ふかぶき者共、異名に丹前へかゝる人といふ。丹後守前といふ心也(なり)。今に何ニてもはでなる風を丹前と云(いう)、是(これ)よりの事のよし。
2024年9月24日(火)
覆面の禁止
 江戸時代初期、江戸では女性が外出する際には、かぶり物などして顔を隠すという風習があった。そうした顔を隠す手段のひとつに被衣(かずき)があった。

 被衣とは、頭からかぶる着物形態の衣裳をいう。しかしこの被衣をかぶる風習は、ひとつの事件をきっかけに衰退していったという。

 その事件とは、岩間八三郎という牢人が被衣をかぶって女性になりすまし、老中松平伊豆守信綱を襲おうとしたものだという。このため江戸では被衣が禁止され、女性の被衣習俗が廃れたとする。

 しかし、岩間何某の名前が登場するのは、伊勢貞丈の『貞丈雑記』とそれを参考にした後世の著作のみ。幕府の公的な記録にもその名前が見当たらず、このエピソードの真偽は不明という。
(1)

 江戸における女性の被衣風習が衰退した原因は、慶安事件(1651)や承応事件(1652)に際し悪事を企てた牢人たちが女性のかぶり物で面体を隠したことから覆面・かぶり物の規制が強化され、それに明暦の大火(1657)による家財等焼失が重なったからではないか。そうしたことがらを、被衣風習衰退の可能性として奈良綾氏は指摘している。
(2)

 それはさておき、いつの時代でも悪事をなすやからや権力に抵抗する者たちは、その面体を隠そうとするものだ。そのため被衣に限らず、頬かぶりのような覆面の着用についてはしばしば禁止令がだされている。 たとえば、明暦2年(1656)に幕府から出された禁止令は次のようなものだった。
(3)


一、跡〻
(あとあと)如申候(もうしそうろうごとく)、ほうかぶり・頰覆面(ほおふくめん)(いよいよ)法度(はっと。禁止)候間(そうろうあいだ)、あみ笠之下、又ハ編笠なしニも堅(かたく)仕間敷候(つかまつるまじくそうろう)。并(ならびに)結構成(けっこうなる)風俗いたし、おごり(奢り)たるなり(形)仕間敷候。

 御横目衆
(おんよこめしゅう)御出候成(おいでそうろうなり)御捕(おんとらえ)、其(その)もの曲事(くせごと。罪科)ニ被 仰付候間(おおせつけられそうろうあいだ)、弥(いよいよ)町中借家(しゃくや)・店借(たながり。長屋住まいの者)等に至迄(いたるまで)念を入(いれ)為申聞(もうしきかせ)、左様之義(さようのぎ)為致申間敷事(いたさせもうすまじきこと)
     二月



 なお、こうした禁止令はわが国の過去の事例にとどまらない。現代でも治安維持等を名目に覆面等の禁止令が出されている。近年ではオーストリア(2017)・香港(2019)の事例が耳目に新しい。


【注】
(1)
奈良綾「17世紀から18世紀にみられる被衣風習の推移(京都・江戸) ―芹沢銈介コレクション 庄内被衣より―」東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報・巻2、2011年、P.77〜78。
(2)奈良綾、同上論文、P.79。
(3)『大成令』第三十八巻、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:265-0279。大成令巻三拾八、風俗之部、明暦二申年二月。
2024年9月21日(土)
目ばかり
 江戸時代初期、江戸に住む武家女性たちは町なかを歩くことなどほとんどなかった。どうしても歩かねばならない場面には覆面をし、さらに編笠(あみがさ)・塗笠(ぬりがさ)などのかぶり物をして、他人に顔をさらすことを避けたという。

 老旗本新見正朝(しんみ・まさとも)の思い出話『八十翁疇昔話(はちじゅうおうむかしばなし)』に、次のような記載がある。


 
むかしは小身二・三百石、四・五百石の衆奥方・母儀(ぼぎ)・息女、遠方は不及申(もうすにおよばず)、近所へも歩行(かち。徒歩)にてありく事なし。皆乗物也(なり)( 中略 )

 神社仏閣詣
(じんじゃ・ぶっかくもうで)、野遊山(のゆさん。紅葉狩りなど野山に出る行楽)にも先にて乗物より下り、歩行のときはふく面・かぶり物して、眼ばかり出し候故(そうろうゆえ)、御旗本の奥方・息女等の顔見る事なし。(1)



 当時の女性たちが覆面や笠で顔を隠したのは「女ハ面をあらハすを恥」と考えたからである。これは武家女性に限ったことではなく、一般女性も外出の際には顔を隠したという。
(2)

 同様の思い出話を、太宰春台(だざい・しゅんだい)もまた語っている。


 
江戸の婦女外へ出るに、昔ハきまゝとて黒き絹にて頭面をつゝミ、目計(ばか)りを顕(あら)ハしけるが、其後(そのご)綿(わた。綿帽子)にて頭面を包ミしハ、我廾餘り(私=春台が20歳余りの頃)、宝永(1751〜1764)の頃までしか也(なり)き。(3)


 文中に出てくる「きまゝ」は当時の女性たちがよくしていた覆面、「きまま頭巾」のこと(気侭頭巾(きままずきん)、または奇特頭巾(きどくずきん)とも)。『江戸語の辞典』で「きままずきん」を引くと、


 両眼だけ出して頭部・面部を隠し、二尺余のしころのある黒頭巾。きどくずきん。(4)


という説明が出てくる。当時の女性たちは、あたかも黒い目出し帽をかぶったような恰好をして、町なかを往来していたのだ。

 さて、今年は猛暑の日が多かった。それでも紫外線対策のためだろう、日よけ傘・つば広の帽子・サングラス・マスク・長袖・手袋等の完全防備のご婦人方の姿が目立った。

 現代のご婦人方は顔ばかりか、目さえ衆目に晒さない。


【注】
(1)
新見正朝述『八十翁疇昔話・2』刊本・後修、天保8年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0028。3コマ。
(2)『骨董集』(「女の編笠・塗笠」の項)に次のようにある。

 
「近古(ちかきむかし)も女ハ面をあらハすを恥とし、道を行に深き笠を戴き、又ハ覆面などしたり。賤(しず)の女(め)も面をあらハにして歩行(ありきし)ハまれなり。寛文(1661〜1673)の比(ころ)までハ女の編笠・塗笠いと深くて、少しも面をあらハす事なし。」
(岩瀬醒著『骨董集』文化11.12年刊、江戸鶴屋喜右衛門版、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、請求記号:10-05/コ/6)

(3)太宰春台著『独語』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0281。48〜49コマ。
(4)前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社学術文庫による。  
2024年9月9日(月)
家臣に加増する
 酒井忠直(1630〜1682)が家督を相続した(1656年)。そのみぎり、家臣に対して過分な加増をした。これを伝え聞いた父親の忠勝(1587〜1662)は、恩賞を大盤振る舞いした太閤秀吉の例を引き合いに出し、


「惣(そう)じて、士に知行を遣(つかわ)す事、用捨(ようしゃ)ある事也(なり)


と、忠直の行為を批判した。
(1)

 「家臣への過分な知行は不要」という持論は酒井忠勝に限らない。それ以前には本多正信(1538〜1616)がいる。

 本多正信といえば家康・秀忠父子の信頼厚く、関東総奉行・老中職などの重職にあった。しかし、その石高はわずか1万石(のち2万2千石に加増)に過ぎず、城主でさえなかった。それは正信自身が加増・城主ともに固辞していたからだ。正信はその死に際にあってさえも、本多家存続のために嫡男正純には高禄を与えぬようにと、将軍秀忠に頼みこんでもいたという。

 それもこれも正信が、大名家断絶の原因を


「大身(たいしん。禄高が多いこと)と奢(おごり。ぜいたく)とのふたつ」(2)


にあると確信していたためだ。また主家にとっても 「譜代の家臣に多くの知行や領地を与えることは徳川のためによくない」
(3) との信念があった。譜代の家臣が大大名として独立すると主家を危うくする。それは反面教師、豊臣氏の例を見ても明らかだ。

 だから酒井忠勝も「家臣に加増する場合には、くれぐれも慎重にせよ」と息子の行為を批判したのだ。


【注】
(1)
山口安固『酒井空印言行録・巻四』明和2年(1765)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0112。 原文は以下の通り。

一、忠直様(酒井忠直)御家督(ごかとく)の砌(みぎ)り、何某(なにがし)へ過分に御加増を下され候。此事(このこと)を 忠勝様聞(きか)せられ仰(おおせ)られ候(そうろう)は、

「太閤秀吉公、賤ヶ嶽(しずがたけ)七本鑓(しちほんやり)の人へ褒美として知行を出されたる様子ハ、修理(しゅり。忠直は修理大夫)ハ存じれず候や。惣(そう)じて、士に知行を遣す事、用捨ある事也」

と仰られ候よし。


(2)内山温恭編『流芳録・巻之二』「御老中 本多佐渡守正信」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
(3)北島正元『近世史の群像』1977年、吉川弘文館、p.178。
2024年8月19日(月)
強面(こわもて)の主人
 酒井忠勝(1587〜1662)は、3代将軍家光・4代家綱の時代に老中・大老までつとめた幕閣の実力者だった。

 その容貌は乳母口(うばくち。歯のない老婆のような口)で頬が垂れ、少し赤ら顔で指で押したほどの痘瘡痕(とうそうこん)があったという。

 その頃、まだ武田信玄を見覚えていた田中六右衛門という武士がいた。忠勝を見た六右衛門は、


「忠勝様御容㒵(ごようぼう)、武田信玄に至極(しごく)似させられ候(そうろう)


と言ったという。忠勝の容貌は武田信玄に瓜二つ。つまりは容貌魁偉(ようぼうかいい)、言い換えれば強面(こわもて)だったのだ。

 その上忠勝は、家臣に笑い顔を見せたことがなかったという。『酒井空印言行録』
(1)には、


「忠勝様、すべて御家来へ真(まこと)の御笑顔(おんえがお)、御見せ被成候事(なられそうろうこと)無御坐候(ござなくそうろう)


とある。強面の上、笑った顔を見せたことがない。おそらく忠勝の家臣たちは主人の顔色を窺いながら、戦々恐々として仕えていたことだろう。

 ある時、忠勝が右筆(ゆうひつ)を居間に呼んだ。

 この時の右筆は松村左大夫。松村が忠勝の御前にまかり出たのは、この時が初めてだった。

 松村は右筆といっても案文(下書き)を書く格付けだった。定式(じょうしき。一定の決まり)では、御次之間(おつぎのま。居間の隣りにある控えの間)の襖際(ふすまぎわ)から頭を出し、主人から言われた通りの案文を作成する役割だった。

 松村はおずおずと襖から頭を出すと、ひそかに忠勝の方をうかがった。すると恐ろしい忠勝の容貌が目に入る。いよいよ恐れ入って、案文を読み上げる際には声が震え出す始末。その時、左大夫のうしろの方に控えていた小僧が小声で、


「声がひくきと気を付け候(そうろう)(声が小さくなっています。お気をつけ下さい)


と注意した。

 ちょうど松村が「公方様(くぼうさま)」の「方」の字を読んでいた時だった。すると松村は突然、「方」の字から高声で読み出したのである。


「く・ぼうさま!」


 左大夫の面相がおかしかったこともあり、その素っ頓狂な読みっぷりに、さすがの忠勝も笑いをこらえきれなくなった。コタツのふとんに顔を押し当てて、必死に笑いを噛み殺そうとした。


「此時(このとき)ハ 忠勝様にも御堪(おんた)へなされがたく候哉(そうろうや)、御火燵(おこたつ)のふとんニ御顔を押當(おしあ)てられ御座被成候(ござなされそうろう)


 この挿話は、次の文章で締めくくられている。


「此時、真の御笑顔ハ御見せなされず候。御慎(おつつしみ)の厚キ義と、いづれも感心仕候(つかまつりそうろう)よし」  


 ついに笑顔を見せなかったのは、忠勝の慎み深さのあらわれというのだ。

 しかし、いくら家来の前とはいえ、自分の屋敷の中でのことだ。おかしければ、大声をあげて笑えばよいのに。


【注】
(1)
本文の内容はすべて山口安固『酒井空印言行録・巻2』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0112による。
2024年8月14日(水)
上司のアドバイス
 初めて仕事に就く際は、右も左もわからない。経験不足の若手にとっては、職場の先輩や上司のアドバイスが何よりありがたい。

 さて、先手鉄炮組頭(さきててっぽうぐみ・かしら)だった旗本天野長重(あまの・ながしげ。1621〜1705)は、配下に与力10人・同心50人を指揮・監督し、平時は江戸城諸門の警固にあたる役目にあった。

 その天野の部下に、村串団七郎(むらくし・だんしちろう)という若い与力がいた。与力は、同心を指揮して職務を遂行する役職である。

 天野は上司として、若く経験の乏しい村串団七郎に与力として心構えを書き与えている。
(1)

 天野が考える与力の心構えというのは、一体どのようなものだったのだろう。

 読んでみると、何のことはない。仕事の手順を覚えておくこと、覚えたことであってもメモをとり常に仕事手順を確認しておくこと、日頃から読み書きや口上の研修をしっかりしておくことなど、当たり前のアドバイスが多い。仕事に対する心構えは、今も昔もあまり変わらなかった。


【注】
(1)
天野長重『思忠志集・巻10』No.1211(天和2戌年(1682)2月14日付「若輩の与力へ送る書」七ヶ条)。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:190-0181。全文は次の通り。

(1)一、七ヶ所の御門にて改(あらため)の儀、書付(かきつけ)可覚候事(おぼゆべきそうろうこと)。

(2)一、覚えたると思ふ義は却(かえっ)て失(しつ)あるものなれば、御番の前日は其(その)書付を見知たる儀にても、いつも始(はじめ)てのやうに心得(こころえ)、大事にかき、御番所の帳をも読て改(あらため)、相違なきやうに被仕(つかまつられ)、身をうち被申間敷事(もうされまじきこと)。

(3)一、与力には成たがり、御奉公の勤(つとめ)のうすきは僻事(ひがこと)也。自然の時、御用に立べきと存(ぞんず)るは、人々常の慣(ならい)に候。不断(ふだん)可入(いるべき)儀を合点可被仕候(がてんつかまつらるべくそうろう)。

 与力役の体を見るに、先(まず)は読書(よみかき)・口上(こうじょう)入申候間(いりもうしそうろうあいだ)、其心得有(そのこころえあり)て、わかくも候(そうろう)際、一しほ寸陰(すんいん)をもおしみ、稽古可被申候(けいこもうさるべくそうろう)。

 口上は独り居(い)ても柱を相手にいたしても、又夜の寐寤反側(びごはんそく。眠れず寝返りをうつ)にも申(もうし)ならふほどに嗜(たしなみ)たるが能候(よきそうろう)。大様は鏡を向ふに置(おき)、顔色をも見て習(ならい)たるが能(よき)と申候(もうしそうろう)。

 物書事(ものかくこと)、能々(よくよく)はちやちやと成らざる物に候へども、文字は日々数をさだめ、最前は多く後程(のちほど)すくなく、毎日覚え可被申候(もうさるべくそうろう)。

 左様(さよう)になければ、与力には成度(なりたく)て成る、修行なければ欲心とは申間敷哉(もうすまじきや)の事。

(4)一、七ヶ所の御番の節、 御成(おなり。将軍のお出まし)の時分、与力・同心ならべやうの心得有(こころえあり)。うすき紙に書(かき)、懐中して、はやく用のたるが能候(よきそうろう)。尤(もっとも)御加番(ごかばん)の節の図も持申(もちもう)さるべき事。

(5)一、新参もの、又わかきものはそれほどの心得して、なりふり・口上もそれに合(あい)たるがよく候。不断(ふだん)に毎物(ものごと)目にたたざるやうに心に懸(かけ)らるべく候。

 武辺(ぶへん)したるものども自慢に存候哉(ぞんじそうろうや)、異相(いそう)なる躰(てい)あり。是(これ)さへ二つ取(ふたつどり。二者択一)には如何候(いかがそうら)はん哉(や)。まして少(すこし)の手にも不合(あわず)して、余所(よそ)に人もなき顔の躰(てい)あるものは不可然事(しかるべからざること)。

(6)一、真実に増(ふえ)たる財不可有之(これあるべからず)。諸悪、欲より生ずるあいだ、色香(いろか)に付(つき)、たしなみ可被申事(もうさるべきこと)。

(7)一、天を恐(おそれ)、したがひ可被申候(もうさるべくそうろう)。心の悪業兆(きざす)を、人こそ不知(しらず)とも、天へ争(いかで)か不響(ひびかざる)といふ義あらんや。謹(つつしみて)可被称冥加候(みょうがをたたえらるべし)。

 此書(このしょ)人の見て、我をしかるにも構(かまい)なく候間、したしき衆中、親類縁者へも見せて、能事(よきこと)あらば講釈(こうしゃく)聞て可被用候(もちいらるべくそうろう)。無病は第一の利と、釈尊(しゃくそん)もの給(たま)ふの由(よし)。能々(よくよく)陰茎(いんけい。色欲)をつつしみ尤(もっとも)の事。

 右七ヶ条、分別者(分別者。思慮深い者)に吟味させ申さるべく候。入を以(もって)主(あるじ)とするなれば、教にくく候。頭(かしら。上司)ぶりたるやうにて、おかしく候へども、大切さに心を不残(のこさず)、蓮池御番所(はすいけごばんしょ)におゐて、今朝(けさ)替(かわり。交替)の前に急(いそぎ)与力衆へ頼(たのみ)、染筆(せんぴつ)させ候。   以上

     村串団七郎殿  
2024年8月2日(金)
手うち
 『八十翁疇昔話(はちじゅうおうむかしばなし)』の中に、江戸時代前期の年季奉公人(半年または1年契約のアルバイト)についての記述がある。


 
昔は家来出かはり、二月二日也。寛文の年より三月五日となる。(1)


 文中の「出かはり」は「出替り日」のことで、江戸の年季奉公人は決まった日限に一斉に入れ替わることになっていた。「寛文の年より三月五日となる」とあるから、この昔話は寛文年間(1661〜1673)以前のこととなる。  

 寛文年間以前といえば、武士の間に戦国の荒々しい気風がまだ残っていた時代だ。当時の武家屋敷の年季奉公人は、生殺与奪の権を雇い主に握られていた。次のような恐ろしい証言が書かれてある。


 
惣じて、男の奉公人など少しも悪事あれバ手討(てうち)にする。かけ落(おち)すれバ尋ね出させ引よせ、ためし物にする事、家々のここかしこに一ヶ月二、三度づつも有之故(これあるゆえ)、下々の作法もよく、刀・脇差の刃の心見(こころみ)も調(ととのう)也。(2)


 文中の「手討」は主人が家臣等を手ずから斬り殺すこと、「かけ落」は逃亡して行方をくらますこと、「ためし物」は実際に人を斬って刀剣の斬れ味を試すことである。

 男の奉公人の場合、少しでも悪事があれば主人が手討ちにするのがふつうだった。逃亡すれば居場所を探し出して引き戻され、刀のためし斬りにされた。そんなことは家々のあちらこちらで、1か月のうちに2、3度ずつもあった。それゆえ、下々の奉公人の作法もよくなり、武家側としても刀剣の斬れ味も確認できて一石二鳥だったというのだ。

 前近代のこととはいえ、何とも乱暴な話だ。手うちはせいぜい蕎麦やうどんなど、麺類だけにとどめてほしい。


【注】
(1)
新見正朝述『八十翁疇昔話・1』刊本・後修、天保8年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0028。13丁オモテ。
(2)『八十翁疇昔話・1』同上、14丁オモテ。
2024年7月29日(月)
 古文書に「錫(すず)」という単語が出てきたとき、それは金属のスズでなく、酒器を指す場合がある。

 たとえば次は、幕末の水戸藩で催された敬老会の記述。9代藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が、藩内の高齢者を偕楽園(かいらくえん)内の好文亭(こうぶんてい)に招いてその功労を賞し、酒菓肴飯(しゅかこうはん)を下賜した時のものだ。


 
上公(じょうこう。徳川斉昭)出御(しゅつぎょ)(あ)らせられ、御床前に座し給(たま)ふ。夫(それ)より御懇(おねんごろ)の上意ありて御酒被下(くださる)。御庭の隅(すみ)御くり出しあり。(1)  


 
庭の隅に用意していた「錫」で「御酒」がふるまわれたのだ。この史料に出てくる「錫」は、スズ製の徳利状をした酒器のこと。『貞丈雑記』に次のような記述がある。


 
今徳利(とくり)と云(いう)物を、古(いにしえ)といひける也(なり)。むかしハやき物の徳利なし。皆錫にて作りたる故(ゆえ)すゞと云(いい)し也。(2)


 スズ(βスズ)は13.2℃から161℃の範囲内では銀白色を呈し、酸化しにくい上抗菌作用が強いという特性をもつ。そのため、古くから酒器や茶器などとして利用されてきた。

 安価な陶器製の徳利が登場するまで、酒器といえばスズ製が一般的だった。ゆえに、錫は酒器の別名でもあったのだ。


【注】
(1)
加藤寛斎『寛斎筆記・人』の「好文亭」の項。愛知県西尾市岩瀬文庫蔵。
(2)伊勢貞丈『貞丈雑記・巻之七』の「酒盃之部」。早稲田大学図書館蔵、請求番号:ワ03_06822。18丁ウラ
2024年7月25日(木)
鉛丹
 世界遺産の厳島神社(広島県)の大鳥居や社殿等、その建造物の大部分は、現在鉛丹(えんたん)で塗装されている。鉛丹とは四三酸化鉛のことで、オレンジがかった赤色を呈する物質だ。厳島神社の建造物は、海の中という厳しい条件のもとに建つ。ゆえに、強い木材防腐作用のある鉛丹が、その塗装材料として採用されたのだろう。

 ただし鉛丹には、大気中の二酸化炭素や硫黄酸化物、また海水などと反応すると、次第に色がくすんでしまうという弱点がある。そのため、定期的な塗り直しが必要だ。また、鉛系の物質であるため、健康や環境への影響も考慮しなければならない。

 さて、鉛丹のオレンジがかった赤色は明るくあたたかみがあり、外国では絵画顔料として人気があった。とりわけ12世紀頃から製作された書物の挿し絵には、好んで鉛丹が使用された。こうした挿し絵はミニアチュールと呼ばれた。

 ミニアチュールは高校世界史の授業で、イスラームを学習する際に出てくる用語だ。高校生が使用する『世界史B用語集』では、ミニアチュールを次のように説明している。


ミニアチュール(細密画)miniature

 書物の装飾や挿し絵に描かれた精密な絵画。イスラームではラテン語のminium(鉛丹)を主顔料としたのが語源。12世紀頃書物の挿し絵として始まり、13世紀半ば以後、中国絵画の影響を受けてさらに発達した。
(1)



 上記の説明によれば、本来ミニアチュールに細密画の意味はなかった。もともとは鉛丹画の意味だったのだ。


【注】
(1)
全国歴史教育研究協議会編『世界史B用語集 改訂版』2008年、山川出版社、P.100。
 なお、本項の記述は、ホームページ「結晶美術館」の「鉛丹と密陀僧」の項を参考にさせていただきました。
2024年7月23日(火)
「みいら」の流行
 今から350年ほど前、延宝(1673〜1681)・天和(1681〜1684)年間ころの江戸では、諸病に効能ありとの触れ込みで「みいら」という薬が大流行したという。

 しかし「みいら」とは、死体を乾燥保存したあのミイラのこと。『江戸語の辞典』で「みいら」を引くと次のように書いてある。


みいら【木乃伊】(ポルトガル語mirra 中国音訳木乃伊)

 没薬の意で、一種の香気ある樹液から製した防腐剤。のち専ら蜜人すなわち屍体の乾燥して永く原形をとどめるものの意に転用された。訛って「にいら」ともいう。
(1)
 


 江戸時代、ミイラは薬用として輸入された。しかし当時、「みいら」の正体を知っていた者がどれほどいたのだろうか。そうした中での「みいら」人気を、『八十翁疇昔話(はちじゅうおうむかしばなし)』は次のように記述する。


 
むかし、六、七十年以前、みいらといふ薬、大きにはやり、歴々衆(れきれきしゅう。身分格式のある人々。家柄のよい人々)大名も呑(の)む、下々(しもじも。庶民)も呑(のむ)。癪気(しゃくき。胸部・腹部に発作的に起こる激痛)・痞(つかえ。癪などで胸が詰まったように痛むこと)に能(よ)く、虚性(きょしょう。虚弱な体質)を補ひ、脾腎(ひじん。脾臓と腎臓)を調(ととの)へ、気力を強くし、食傷(しょくしょう。食あたり)其外(そのほか)諸病に能(よし)とて、呑(のま)ざる人なし。

 方々の薬種屋
(やくしゅや。漢方薬の材料を売る店)にて賣(うる)。「赤坂みいら」とて、赤坂に大坂屋と云(いう)生薬屋(きぐすりや。薬種屋)、下直(げじき。安値)に賣(うる)。皆調(ととのえ。調剤して)て呑(のみ)ける。(2)



 「やれ腹が痛い」「やれ胸が痛い」「やれ病気だ」というとその種類や症状を問わず、とりあえず「みいら」を服用した。しかし、万能薬のはずの「みいら」は、実際には「病気にハきかず、又あたりもせず、何の益なき薬」だった。そのため「みいら」ブームは7、8年間ほどで収束したいう。
(3)


 こうした記述を読むと、昨今のサプリ・健康食品ブームに踊らされている現代のわれわれも、江戸人とさほど違いはない。


【注】
(1)
前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社学術文庫、「みいら」の項。
(2)(3)新見正朝述『八十翁疇昔話(はちじゅうおうむかしばなし)・2』刊本・後修、天保8年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0028。27丁ウラ〜28丁オモテ。
2024年7月22日(月)
彦根藩士が見た海防の実態
 嘉永6年(1853)6月9日、久里浜でアメリカ国書の授受がおこなわれた。この時、彦根・川越・会津・忍(おし)の各藩藩士たちがそれぞれの持ち場を警備した。

 彦根藩士の高野吉五郎はこの時、千代崎砲台で警備の任にあたっていた。千代崎砲台は、彦根藩が浦賀奉行所から引き受けた砲台だったが、この砲台について高野は次のような印象を述べている。


 
臺場(だいば。砲台場)ノ築造ヲ初メ統機(本のまま。銃器か)・弾藥(だんやく)・車臺(しゃだい)等ニ至ルマデ不完全相極(あいきわま)リ、諸手(もろて。もろもろの軍隊)ヲ指揮スル奉行ニアツテ不實(ふじつ。いい加減なこと)ノ備ヘヲ成シ置クハ、幕府末路所置(しょち)ノ行届(いきとどか)ザルモ思ヒヤラレシナリ。(1)


 台場の築造からはじめ、銃器・弾薬・車台などにいたるまで、その備えはお粗末きわまりなかった。軍隊を指揮する立場の浦賀奉行所にしてこんないい加減な備えしかしておかなかったのは、幕府の行く末が思いやられたことだった、と。

 幕府にして海防の備えはこの程度の貧弱なものだった。こののち幕府・諸藩は、泥縄式に軍備の増強をはかることになる。

 さて、当時の武士連中の多くは、元和偃武(げんなえんぶ)以来200年以上ものあいだ、実戦経験がまるでなかったわけだ。それにもかかわらず武力攘夷を叫んでいた当時の強硬派は、自分たちに外国の近代的軍隊・近代兵器に立ち向かえる力があると、本気で信じていたのだろうか。

 高野は「思ヒ返セバ、袂
(たもと)ニ冷汗ヲ流ス心知(ここち。心地)(2)がすると述懐している。


【注】
(1)(2)
高野吉五郎編『日米初度応接之地図』刊本、明治25年(1892)刊、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:185-0316。
2024年7月20日(土)
浦賀与力が見た海防の実態
 嘉永6年(1853)6月、ペリー率いる4艘のアメリカ艦隊が相州浦賀沖に現れた。その後、アメリカ大統領フィルモアの国書の受け渡しをめぐって、日米間で交渉がおこなわれた。この時、直接応接にあたった浦賀奉行与力5人からの聞書(ききがき)が、史料として残されている。

 この聞書からは、当時諸藩が担当していた浦賀周辺の沿岸防備のお粗末な実態がわかる。

 当時、浦賀周辺の防備は彦根・川越・会津・忍(おし)4藩が担当していた。与力のひとり、樋口多三郎の証言によると、4藩のうち会津の防備体制に関しては、


 
(こと)に評判宜敷(ひょうばんよろしく)、又(また)用立可申(ようだちもうすべし)(1)


と高評価だったが、大老を輩出する家柄である井伊家に対する評価は、次のように手厳しかった。


 
井伊家ハ甚(はなは)ダ武事ニ暗ク、士気モ弱ク被存候(ぞんぜられそうろう)

 此度
(このたび)軍船数艘制作之処(せいさくのところ)、浦賀大工受取(うけとり)、確(しか)ト軍船ノ法ニヨリ拵(こしらえ)ルトカコトモナク、大工マカセ、思ヒ付(つき)次第ニ致置(いたしおき)、彼処此所(かしこ・ここ)ノ詮議モナク、大金ヲ費シナガラ心ヲ用ヒザルコト、言語道断ナリ。右様ノ船、何程(なにほど)有之候(これありそうろう)テモ、心用ニハ相立申間敷(あいたちもうすまじく)、是(これ)ニテ人才モナク、武事ニ心ヲ用ヒザルコト察セラレ候(そうろう)

 十五万石榊原家等
(など)ニ被 仰付候(おおせつけられそうろう)方、却而(かえって)(よろし)シカルベク存候(ぞんじそうろう)(2)


 井伊家は武事に暗く、士気も弱く見える。

 今回の軍船制作にあたっても、軍船の仕様にのっとらず、大工まかせ・思いつきで作らせている。各所の細かい検討もせず、大金を費やしながらも気を配らないのでは、話にならない。こんな船はいくらあっても役には立つまい。この一件を見ても井伊家には人材もなく、武事に配慮のないことが察せられる。

 これなら榊原家などに沿岸防備をまかせられた方が、まだよろしかろう、と。



 
井伊・榊原の両家は、家康時代には「徳川四天王」として勇名を馳せた家柄だ。

 それなのに、「甚ダ武事ニ暗ク、士気モ弱」いとか、「榊原家等ニ被 仰付候方、却而宜シカルベク」などと言われては、井伊家の武門としての面目は丸潰れだ。


【注】
(1)(2)
『浦賀与力よりの聞書』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:185-0319。
2024年7月19日(金)
スイカの出世
 夏を代表する食べ物といえば、まずはスイカだ。

 スイカは、南北朝期の文献にすでにその名が散見される。しかし、わが国への本格的な渡来はヨーロッパ人によるものだった。その伝播は16世紀後半から17世紀前半の時期にかけて、幾度かあったらしい。

 しかし、スイカの普及には時間がかかった。享保年間(1716〜1736)に80歳を超えた老旗本新見正朝が、江戸における西瓜の普及について、次のような思い出話を語っている。


 
昔ハ、西瓜ハ歴々(れきれき。身分の高い者)・小身(しょうしん。身分の低い者)とも喰事(くうこと)なく、道辻番(みちつじばん。道の辻々などに置かれた番所)(など)にて切賣(きりうり)にするを、下々(しもじも)中間(ちゅうげん。武家奉公人のひとつ)など喰事也(くうことなり)。町にて賣(うり)ても喰人(くうひと)なし。女などは勿論也(もちろんなり)

 寛文(1661〜1673)の頃より、小身衆調
(ととのえ)て喰ふ。夫(それ)より段々大身(だいしん。身分の高い)大名も喰様(くうよう)になり、結構(けっこう。素晴らしい)なる菓子になりぬ。西瓜、大立身(だいりっしん)也。(1)



 新見によると、江戸時代前期にはスイカを食べる者など誰もおらず、辻番所などで切り売りしていたスイカをごく下々の者たちが食べる程度だった。まして町でスイカを売っても食べる者とてなく、甘いもの好きな女性でさえ見向きもしなかったという。

 徐々にスイカが食べられるようになったのは、やっと寛文年間ごろになってから。その後は、次第に大名のような身分の高い人々も食するようになった。こうしてスイカは、水菓子としての社会的地位を確立したという。

 これを見ると、江戸でスイカが老若貴賤を問わず食べられるようになったのは、元禄年間(1688〜1704)ごろのようだ。新見の記憶によるなら、スイカが一般に普及するまでに数十年もかかっていることになる。

 しかし、スイカの地方への普及には、さらに時間がかかったらしい。次の記述は、江戸でスイカが普及した元禄年間からほぼ100年後、江戸からほど近い水戸藩領(現、茨城県)の郡部での話である。


 
享和初年(1801)也。水戸へ出たる時、西瓜を携(たずさえ)帰りたるを、所(大里村。現、茨城県常陸太田市)のものに振舞(ふるま)ハんとせしに、内ノ色の紅の如(ごと)きを怪(あやし)ミて不喰(くわず)。強而(しいて)進むる時ハ逃(にげ)て帰れり。(2)


 筆者(加藤寛斎)が水戸に出たおり、スイカを土産に持ち帰った。田舎の者たちにスイカを振舞おうとしたところ、その果肉が赤いのを警戒して食べようとしなかった。無理に勧めると、逃げ帰ってしまったという。

 江戸でも地方でもスイカの普及が遅れたのは、おそらくはその果肉の色のせいだったろう。

 リコピン由来の鮮やかな赤色は、それまでの食べ物にはまず見ない色だった。ゆえに、大きな緑の球体を切り割って現れる真っ赤な果肉は、初めて見る者にとっては衝撃的だったのではないか。

 鮮やかな赤色は、血の色以外に滅多に見る機会はない。果肉の赤色が人間の血肉を連想させたため、スイカは長らく忌避されたのだろう。


【注】
(1)
新見正朝述『八十翁疇昔話(はちじゅうおうむかしばなし)・2』刊本・後修、天保8年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0028。27丁ウラ。
(2)加藤寛斎『寛斎筆記・人』写本、西尾市私立図書館岩瀬文庫蔵。加藤寛斎(1782?〜1866)は水戸藩の下級郡吏。  
2024年7月17日(水)
家康はなぜ激怒した
 慶長16年(1606)6月、京都の町人が、たまたま遭遇したかぶき者の集団に嫌がらせを受けた。「かぶき者」とは、戦国時代から江戸初期にかけて、異様な風俗・行動をする無頼の徒をさした言葉。『台徳院殿御実紀』によれば、事件のあらましは次のようなものだった。


 
京洛(けいらく)の富商後藤并(ならび)に茶屋等(ら)が婦女、祇園(ぎおん)・北野邊(きたのあたり)を逍遥(しょうよう)せしに行(いき)あひ、ゆくりなく(思いがけず、偶然に)(その)婦女をおさへ、しゐて酒肆(しゅし)にいざなひ酒をのましめ、従者等(ら)をバ其(その)あたりの樹木に縛(しば)り付(つけ)、刀をぬき、

「若
(もし)(こえ)(たてれ)バ、伐(きっ)てすてん」

とおびやかし、黄昏
(たそがれ)にミな迯(にげ)去りたり。(1)



 この時被害にあったのは京の豪商後藤・茶屋の婦女たちであった。彼女たちが市内をそぞろ歩いていたところ、かぶき者の集団にからまれた。彼女らはむりやり酒店に連れ込まれて飲酒を強要され、従者たちは木に縛りつけられ「声を立てると斬り殺す」と脅された。夕方になってかぶき者たちが去ったあと、酒店の通報によって事件が発覚したのである。

 事件の報告を受けた徳川家康は激怒した。『当代記』には


 
大御所(家康)、之(これ)ヲ聞キ給(たま)イ、以外(もってのほか)逆鱗(げきりん)(なり)(2)


とある。犯人に自首を促したが応じる者は誰もいなかった。犯人捜索に手間取ったのだろう、事件発生から1年半後、その時の関係者として徳川の家人約10名が士籍剥奪の処分を受けている。


 
伏見にて、御家人稲葉甲斐守通宝・津田長門守某・天野周防守雄光・阿部右京某・矢部善七某・澤半左衛門某・岡田久六某・大嶋雲八某・野間猪之助某・浮田才寿某等、士籍を削らる。(3)


 なぜ家康は、かぶき者たちのいたずらにこれほど激怒(「以外逆鱗」とある)して、改易(武士身分の剥奪)という重い処分を下したのだろう。

 それは事件の発生場所が京都で、被害に遭ったのが家康側近の特権的豪商後藤(後藤庄三郎光次)・茶屋(茶屋又四郎清次)の家族だったからだ。

 慶長16年(1606)といえば関ヶ原合戦(1600)から6年後、江戸開幕(1603)から3年後だ。そして家康が、わずか2年余で将軍職を世子秀忠に譲った直後に事件は起こったのである。

 家康は関ヶ原合戦後、豊臣秀頼を摂津・河内・和泉三国65石の一大名に転落させた。その上、「天下は回り持ち」という下剋上思想を否定して、今後徳川家が将軍職を独占するといったアピールをしたのだ。これらは、「秀頼成人後に、徳川氏は秀頼へ政権を返還するだろう」という世間の期待を完全に裏切るものだった。

 当時の京都はかぶき者や牢人の巣窟で、豊臣氏に対する同情者が多く反幕府的空気が強いという情勢下にあった。『藩翰譜』には次のようにある。


 
士も民も威にのみ服して、いまだ徳になつかず。まして豊臣家、京近き程にましまして、都鄙(とひ。都といなか)のうち、さすがに昔を忍ぶもの少からず。(4)


 そのため、豊臣氏贔屓の京童(きょうわらわ)の間では、後藤・茶屋という家康側近の特権的豪商に対する評判は、あまりかんばしいものではなかったのである。

 犯人のうち稲葉・天野・大嶋・矢部の4人は、その素性が一応わかっている。彼らは徳川譜代層の中では最新参の者たちで、織豊二氏との縁故の深い者たちだった。

 おそらく彼らは、京童同様後藤・茶屋らを不快視していたため、偶然出会ったその家族にいたずらをしたのだろう。しかし、家康側近の豪商へ嫌がらせは、すなわち家康への当てこすりにほかならない。
(5)

 だから家康は、かぶき者たちのいたずらに対して「以外逆鱗(もってのほかげきりん)」し、彼らに改易という重い処分を下したのだ。


【注】
(1)
『台徳院殿御実紀・巻六』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:特075−0001、36コマ目。慶長十七年十二月。
(2)『当代記・四』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0060、5コマ目。慶長十六年六月。
(3)『台徳院殿御実紀・巻六』前出。
(4)新井白石『藩翰譜・巻五』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:特032−0002。板倉勝重の条。
(5)北島正元『近世史の群像』1977年、吉川弘文館、P.112〜117による。なお、本項の趣旨はほぼ同書によっている
2024年7月15日(月)
今川氏真の長話
 昔、長居の客を早く退散させるまじないに、ものかげに箒を逆さに立てておくというのがあった。フローリングの家に住み、ロボット掃除機しか知らぬ現代っ子には、想像のつかぬ習慣だろう。

 さて、父今川義元が桶狭間の戦い(1560)で織田信長に討たれてから、今川氏真(うじざね。1538〜1614)の人生は落魄の一途をたどった。各所を転々とし、浪々の身となった氏真が最後に頼ったのが徳川家康だった。かつて家康は今川氏のもとで人質生活を送り、亡き義元に世話になった過去がある。そこで家康は、氏真を歓待した。

 それ以後氏真は、頻繁に江戸城の家康のもとに訪れるようになった。

 ただ困ったことに、氏真はひどい長話だった。これには家康も閉口した。氏真の訪問回数を、何とかして減らすことはできないものか。家康が思いついたのが、氏真を品川へ遠ざけるという方法だった。『及聞秘録』には次のようにある。


 
氏真、夫(そ)レヨリ度々(たびたび)御城(おしろ。江戸城)へ参リ、無遠慮(ぶえんりょ)ニ長咄(ながばなし)セラルルヲ、内府公(ないふこう。家康)ウルサク思召(おぼしめし)、不参様(まいらざるよう)ニト品川ニテ屋布(やしき。屋敷)ヲ被下(くだされ)、食禄(しょくろく)ヲ賜(たま)フ。

 是
(これ)ハ、品川ハ御城へ程遠(ほどとお)ケレバ、度々参ルマジトノ御思慮(ごしりょ)ナリ。(1)


 この結果、氏真の子孫は品川姓を名乗り、江戸幕府の御家人となった。はからずも氏真の長話が、今川氏(改名して品川氏)の血脈を保つ結果となったのだ。


【注】
(1)
『及聞秘録・9』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0008。「一、今川家妖怪之事、品川氏之事」。
2024年7月11日(木)
三河武士の士風
 江戸時代の初めころまで、幕臣たちの間にも三河以来の質実・朴訥な気風が残っていた。

 300俵取りくらいの小身衆の旗本は、「御番着」といって出仕用の絹・紬(つむぎ)の衣服を2、3着所持していたが、平生は質素な布子(ぬのこ。木綿の綿入れ)・綿服で過ごしていた。住居も簡素で、造作や屋敷周りには一向頓着しなかった。肴(さかな)の一つでも手にはいれば汁にし、近所に住む親しい相番衆(あいばんしゅう。仕事仲間)を呼び集めては、汁講(しるこう)を開いたという。
(1)  

 このように、ふだんは質素に生活して無駄な出費をひどく嫌ったが、不時に備えての人馬の扶養だけは欠かさなかった。これらはみな家康時代、三河以来の徳川家の遺風だったという。


 
左様(さよう)に物毎(ものごと)に質朴(しつぼく)に致し、無用・無益の物入(ものいり)の義に於(おい)ては随分(ずいぶん)と是(これ)をいとひ、人馬にさへも事をかかずばと有之如(これあるごと)くの意地あひを専(もっぱ)らと有之候(これありそうろう)は、是皆 権現様(ごんげんさま。徳川家康)御代(みよ)、三河以来の御家風の相残(あいのこり)たると申物(もうすもの)にて候(そうろう) (2)


 しかし、元和偃武(げんなえんぶ)以降、平和な時代になると武士の軍事的役割は次第に低下・形式化していった。それにともない、三河武士の士風も急速に失われていったという。


【注】
(1)(2)
大道寺友山『落穂集18(落穂集追加・四之巻)』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0082。35〜36コマ目。
2024年7月10日(水)
八百善の茶漬け
 江戸時代の高級料亭八百善の茶漬けにまつわる有名な話。


 
享和(1801〜1804)の頃、浅草三谷ばしの向(むこう、むかい)に八百善といふ料理茶屋流行す。深川土橋に平清、大音寺前に田川屋、是等(これら)ハ文化の頃より流行せし料理屋也(なり)

 或人
(あるひと)の咄(はなし)に、


「酒も飲
(のみ)あきたり。いざや八百善へ行て極上の茶を煎じさせて、香の物にて茶漬こそよからん」


とて、一両輩
(いちりょうはい。1、2人)打連(うちつれ)て八百善へ行て、


「茶漬飯を出すべし」


と望
(のぞみ)しに、


「暫
(しばら)く御待(おまち)(ある)べし」


と半日ばかりもまたせて、やうやうにかくやの香のものと煎花
(ママ。茶)の土瓶(どびん)を持出たり。かの香の物ハ、春の頃よりいと珍らしき瓜・茄子の粕漬(かすづけ)を切交(きりま)ぜにしたる也。


 
(さて)、食おわりて價(あたい)をきくに、


「金一両弐分
(いちりょう・にぶ)なり」


と云
(いう)。客人興ざめて、


「いかに珍らしき香の物なればとて、あまりに高直
(こうじき)也」


といへば、亭主答
(こたえ)て、


「香の物の代ハともかくも、茶の代こそ高直なり。茶は極上の茶にても、一ト土瓶へ半斤
(はんきん)ハ入らず。茶に合たる水の近辺になきゆへ、玉川まで水を汲(くみ)に人を走らしたり。御客を待(また)せ奉(たてまつ)りて、早飛脚(はやびきゃく)にて水を取寄せ、此(この)運賃莫大也」


と被申(もうされ)ける。
(1)


 八百善で茶漬け飯を食べたところ、金1両2分の支払いを請求された。1両を現在の10万円と見積もれば、15万円にもなる。3人で割り勘だったらひとり5万円だ。1杯5万円の茶漬けとは、さすがに法外な値段である。おそらく事実ではあるまい。

 山本博文氏は、上記の話を次のように解説する(大意)。

「高値の根拠は、玉川まで水汲みに行かせた早飛脚代だ。しかし、八百善で煎茶を饗していたなら、前もって玉川上水の水を取り寄せて瓶の中にでも貯えて置いたろうから、客が来てから早飛脚で水を汲みに行かせたというのは、とうてい事実とは認め難い。むしろ、こうした話がまことしやかに語られるのが、八百善が高級料亭たるゆえんなのだろう。

 ただし、春なのに珍しい瓜・茄子(夏野菜)の香の物を出したというのは事実だろう。江戸近郊の農村では、野菜の促成栽培に励んでいたからだ。江戸近郊農村では江戸市中から高価な肥料(人糞)を購入するため、米を作っていたのではない。そこで、八百善のような高級料亭向けの野菜を作り、貨幣収入を得ていたのである。幕府はこれを奢りとして禁止していたが、商品作物の栽培はなかなかすたれなかった」と。(2)

 『寛天見聞記』の著者は、わざわざ高級料亭に出向いて茶漬けを食べた連中のことを 「香の物に茶漬ならば己が家にも存(そんす)べきを、料理屋に行て茶漬など無益の金銭を捨(すつ)る事、戒(いまし)むべし」
(3) と批判する。茶漬けなら外食せずに家で食べればよい、そんな無駄金を使うのは自戒すべきだ、と。


【注】
(1)
活東子『寛天見聞記』−『燕石十種・46冊』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:218-0002−。
(2)山本博文「江戸の食生活史」−三田村鳶魚著・朝倉治彦編『娯楽の江戸、江戸の食生活(鳶魚江戸文庫5)』1997年、中央公論社(中公文庫)、P.351〜366−。
(3)『寛天見聞記』前出。
2024年7月7日(日)
草双紙の変化
 赤本・黒本・青本といった草双紙は、もともと子ども向けの絵本で、勧善懲悪を主としたものだった。『寛天見聞記』には次のようにある。


 
草双紙といふものも、昔は赤本・黒本とて、表紙を赤又黒にして表題を黄紙にして、頼光(らいこう)・四天王(してんのう)其外(そのほか)武者絵(むしゃえ)に少(すこし)の詞書(ことばがき。人物の会話等を記した文)なりしのみなり。後に黄の表紙(表紙が浅葱色の青本)にして、桃太郎・花咲ぢぢ・舌きり雀・兎狸(うさぎ・たぬき)の土船(つりぶね)(など)勧善懲悪の心を述(のべ)て、童(わらべ)の弄(もてあそび)とせし(1)


 『寛天見聞記』によれば、昔の草双紙の内容は、たとえば大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治で有名な源頼光(948〜1021)とその配下の四天王を主人公にしたようなもの(現在でいえば戦隊ヒーローものか)で、総じて武者絵に文章が少々書かれている程度のものだった。

 そのうち、桃太郎や花咲か爺さん、舌切り雀、カチカチ山などの昔話を通じて勧善懲悪の心を表現し、子どもたちのなぐさみとするようになったという。

 ところが、時代がくだると草双紙の内容が、子ども向けの読み物から成人向けの読み物(黄表紙)へと変質する。

 もともと草双紙は1冊が本文5丁(10ページ)ほどの短編だった。しかし、成人男性が読者の主流になると、その内容も次第に複雑化したものになる。とても短編には収まり切れない。そこで、1冊が10丁・15丁と長編化した合巻(ごうかん)が出現した。

 そのうち新たな読者層として、成人女性たちが台頭してきた。今も昔も女性たちの大きな関心事の一つは、イケメンとの恋愛にあった。「推(お)し」のイケメンが登場する恋愛ドラマといえば、当時は歌舞伎だった。そこで、出版元は彼女たちの歓心を買うため、歌舞伎の人気役者の姿や流行などを合巻に取り入れていった。半面、道徳的な色合いは薄まった。女性読者層に、勧善懲悪を前面に押し出した物語(たとえば歌舞伎演目「暫(しばらく)」のような荒事)は受けないからだ。もっとも、道徳性を云々していたら、不倫や心中物の恋愛ドラマはまず描けまい。

 よって『寛天見聞記』の筆者は、退廃してしまった歌舞伎や草双紙・合巻のたぐいを次のように批判する。


 
今の狂言仕組(きょうげん・しくみ。歌舞伎の筋立て、構成)は、唯(ただ)芸に心を用ひ、流行を巧(たくみ。作り出す)とする故(ゆえ)、女童(めらし。若い女、娘)へ不身持(ふみもち。不品行)の種をまくにひとしく、前に云(いう)草本(草双紙)・合巻の類(たぐい)と同じ(2)


【注】
(1)(2)
活東子『寛天見聞記』-『燕石十種・46冊』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:218-0002− 
2024年6月28日(金)
赤本
 享保16年(1731)春、歌舞伎狂言「傾情福引名護屋(けいせいふくびきなごや)」の中で、二代目市川團十郎は「年玉扇子売(としだまおうぎうり)」萬屋由兵衛(よろずやよしべえ)を演じた。

 この中で、お年玉の品々を数え上げる團十郎の台詞のなかに、


  
半切紙(はんぎりがみ)、書始筆(かきぞめふで)にすり初墨(そめすみ)よみ初(そめ)赤本(1)


の名が出てくる。赤本(あかほん、あかぼん)は子どもへのお年玉のひとつだったのだ。

 赤本は表紙が赤い草双紙(くさぞうし)の意。赤はめでたい色なので、正月のお年玉や祝儀用として喜ばれた。もっとも赤とはいっても、顔料に鉛丹(えんたん。四三酸化鉛)を使用していたから、実際には黄色味がかった赤色(オレンジ色)と言った方がよいかもしれない。現在でも鉄骨建築の錆止め用に使われている塗料のあの色だ。
(2)

 赤本は子ども向けの絵本なので、桃太郎や金太郎、猿蟹合戦などのおとぎ話が主流だ。現在まで読み継がれてきたわれわれにとっても馴染みのある話が多い。もちろん子ども向けなので、なかみは挿絵とひらがなだけで構成されている。

 ところで「子ども向けなら内容もやさしいだろうから、現代のわれわれでも赤本を原本で読めるのでないか」と思うと、これがなかなかに難敵だ。ひらがなといっても変体仮名(へんたいがな)なので馴染みのない字体が多い上、漢字の少ないことがかえってわざわいして文章の意味をとりにくくしている。その上、原本には句読点がないから、なおさら判読しにくい。

 次はある赤本の一節。ためしに一読して欲しい。どんな内容か、すっと頭に入ってくるだろうか。


  あんにたがわづねこ又をしきたるさうほうたゝかいしかねこ又ぜいくつけうのいてをすくりねづミとりのたけのゆミをはりさん〵〳にいたてける。
(3)    


【注】
(1)
烏亭焉馬作・勝川春亭画『花江都歌舞伎年代記・初編三』、文化8年(1811)刊、国立国会図書館蔵。
(2)鉛丹は値段が高い上(馬琴『近世物之本江戸作者部類』に「寛延・宝暦より漸々に丹の価貴くなりしかば」とある)時間が経てば変色する。そこで、再版する際には墨の黒表紙にした(黒本)。しかし、正月用や祝儀用に黒はおかしいので、今度は露草で表紙を青色に染めた(青本)。これなら新春や祝儀にふさわしい。ただし、これは青といっても「目には青葉」の青であって、実際には浅葱色(あさぎいろ。青みを帯びた薄い緑色)だった。時間が経つとこの青(薄い緑色)も変色して黄色になってしまう。それなら最初から黄色で染めておけばよかろうということになり、鬱金(うこん。カレー粉や漢方薬に使われる。酒飲みが愛用するドリンク剤にはいっている)で表紙を染めた(黄表紙)。つまり赤本→黒本→青本→黄表紙と変遷したのだ。ただし、恋川春町『金々先生栄花夢』の登場以降、黄表紙は大人向けの絵本となってしまった。 (棚橋正博「黄表紙の世界」による-小池正胤外3名編『江戸の戯作絵本③』2024年、ちくま学芸文庫所収-)
(3)引用は歌川芳寅画『猫鼠合戦』1840〜60頃、版元やま又、国立国会図書館蔵。-国立国会図書館国際子ども図書館「江戸絵本とジャポニズム・解説『江戸絵本とその時代』」https://www.kodomo.go.jp/gallery/edoehon/era/index.html(2024-06-24閲覧)に掲載されたものから作成-
 なお、参考までに漢字かなまじりの判読文をつけておく。


「案に違(たが)わづ、猫又(ねこまた。猫軍の大将の名前)押し来(きた)る。双方(猫軍と鼠軍)戦いしが、猫又勢(ねこまたぜい)、屈強の射手(いて)をすぐり(選りすぐり)、鼠捕りの竹の弓を張り、散々に射立てける」
2024年6月27日(木)
後三条天皇は藤原氏に遠慮がなかった?
 高校日本史の参考書として使われる『詳説日本史研究(改訂版)』に、次のような記述がある。


 
藤原頼通の娘には皇子が生まれなかったことから、ときの摂政・関白を外戚としない後三条天皇(在位1068〜72)が即位した。すでに壮年に達し、「たけき御心にておはしまし」と称されるほどに個性の強かった天皇は、大江匡房(おおえのまさふさ。1041〜1111)らの学識のすぐれた人材を登用し、摂関家にはばかることなく国政の改革に取り組んだ。(1)


 後三条天皇が登場するのは中世の初めのところ、摂関政治から院政(後三条天皇の息子白河上皇が開始)へ転換する時期だ。

 藤原氏による摂関政治は、藤原氏所生の娘が天皇の后妃となって皇子を産み、それが将来の天皇となることが前提になる。天皇の外祖父となった藤原氏が、摂政・関白となって権力を振るうのが摂関政治である。

 しかし、天皇の外戚になるのは、大きく偶然に左右される。まずは藤原氏に娘が生まれなければならない。娘が生まれても、入内させたのち、皇子を産むかどうかはわからない。藤原頼通の娘たちが皇子を産まなかったという外戚政策の失敗から登場したのが後三条天皇だった。ゆえに「ときの摂政・関白を外戚としない」後三条天皇は、「摂関家にはばかることなく」親政を断行したというのだ。

 ところで、後三条天皇は「ときの摂政・関白を外戚としな」かったが、藤原氏とは親戚関係にあった。天皇の両親及び中宮は藤原道長の娘たちが産んだ子であり、道長は天皇の外曾祖父にあたる。

 後三条天皇の父第69代後朱雀天皇は、第66代一条天皇と中宮彰子(藤原道長の長女)との子。母禎子(ていし)内親王は、第67代三条天皇と皇后妍子(けんし。藤原道長の次女)との子。中宮馨子(けいし)内親王は、第68代後一条天皇と中宮威子(いし。藤原道長の三女)との子であった。

 おまけに、後三条天皇の祖母彰子(上東門院。道長の姉)が、当時はまだ貴族社会の頂点に立っていた。彰子が亡くなるのは、後三条天皇崩御(享年40歳)の2年後(延久6年、1074)である(享年87歳)。なお、頼通も姉彰子と同じ年に亡くなっている(享年83歳)。

 「外戚の威権から解放された天皇は、積極的に親政を推進し、多くの治績を挙げた」
(2)と評価される後三条天皇。だからといって、藤原氏に対する遠慮や憚りが全くなかったとは考えにくい。


【注】
(1)
佐藤信外3名編『詳説日本史研究(改訂版)』2008年、山川出版社、P.120。
(2)米田雄介編『歴代天皇・年号事典』2003年、吉川弘文館、P.164。
2024年6月26日(水)
平安貴族は筆まめ
 平安時代の男性貴族は、朝起き抜けに日記をつけるのが日課だった。日々の吉凶を細かく記載した具注暦(ぐちゅうれき)という暦の余白に、前日の宮中でのできごとや儀式の式次第、立ち居振る舞い等を思い出して、和風漢文で事細かに記録したのである。

 平安貴族が筆まめだったのは、10世紀以降、宮中での行事・儀式の比重が増したという事情がある。

 年中行事や宮廷儀式には、覚えねばならぬ煩雑な儀式手順や作法などが山ほどあった。それらを間違えてしまうと、公の場で恥をかいてしまう。そこで、大事な場面で子孫が醜態をさらすことがないように、家長が一族の子孫のために事細かな記録を残したのだ。だから、平安貴族の日記は、子孫への公開を前提として書かれた有職故実のマニュアル書だったとも言える。

 こうした流れのなかで、有職故実に詳しい家が登場する。藤原実頼(ふじわらのさねより。900〜970)
(1)を祖とする小野宮(おののみや)流、藤原師輔(ふじわらのもろすけ。908〜960)(2)を祖とする九条流などがそれだ。


【注】
(1)
藤原実頼の日記を『水心記』という。日記の名称は、実頼の諡号(しごう)清慎公の偏をとったもの。別名『清慎公記(せいしんこうき)』、また邸宅の名称から『小野宮記(おののみやき。邸宅の名称から)』ともいう。
(2)藤原師輔の日記を『九暦』、別名『九条殿御記』という。
2024年6月25日(火)
江戸時代の遠足
 江戸時代にも、寺子屋で遠足があった。それは寛政頃(1789~1801)から見られるようになったという。『明和誌』には次のようにある。


 
寛政頃より手習師匠(てならいししょう)、春花盛(はなざかり)のころ、上野・浅草・向島・王子・日ぐらし・御殿山へ弟子をつれ、子供の髪には造花をさゝせ、手拭のそろひをゑりにまかせ、遊びあるく、皆親々もつれ立行。明和安永までは見かけざる事なり。(1)


 造花を髪にささせたり、お揃いの手拭いを身につけさせたのは、集団からはぐれないようにする目印としたのだろう。もっとも、これは遠足ではなく、寺子屋の宣伝活動の一環だという説もある。


【注】
(1)
青山豊秀『明和誌』文政5年序ー『鼠璞十種・第二』1916年、国書刊行会、P.13〜14。国立国会図書館デジタルコレクション。
2024年6月24日(月)
夢見で改名する
 元和2年(1616)4月17日、徳川家康が亡くなった。家康の遺命により、榊原清久(1584〜1646)は家康の墓所久能山の祭祀を拝命した。

 翌元和3年(1617)8月28日のこと。清久が伊豆の北条館で昼寝をしていると、家康が夢枕にたった。そして、次のように言ったという。


「今より後、清久をあらためて照久と号すべし」(1)


 亡君を慕う気持ちが清久にかような夢見をさせたのだろう。清久は照久と改名した。東照大権現の「照」の一字である。

 照久は正保3年(1646)8月7日に亡くなった(享年63)。遺体は久能に一寺を建立し、そこに葬った。号して照久寺(しょうきゅうじ)という
(2)。死後も、家康を祭祀し続けるようにとの意図である。


【注】
(1)
『寛永諸家系図伝』清和源氏・乙4、40コマ目。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:特076−0001。
(2)照久寺は宝台院別院(静岡県静岡市駿河区安居291)として現存。 
2024年6月22日(土)
伊奈半左衛門、窮民救済に奮闘する
 黄表紙『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』に登場する「ぼら長左衛門」は、伊奈半左衛門こと関東郡代伊奈摂津守忠尊(いな・せっつのかみ・ただたか。1764〜1794)がモデルだ。

 天明年間には諸国で凶作がうち続いた。とりわけ天明6年(1786)の関東大洪水が、江戸の米穀払底・米価高騰に拍車をかけた。そのため翌年(1787)には、米の占め売りをする米屋や富商らを狙って、江戸各地で打ちこわしがおこっている。

 こうした危機的状況のなかで幕府は、代々関東郡代職をつとめ「譜代(ふだい)の家来多く、常々(つねづね)諸御用向等(しょごようむきなど)も手広相務(てびろくあいつとめ)馴候(なれそうろう)家筋(いえすじ)」である伊奈半左衛門(忠尊)に、江戸の窮民救済を命じたのである。

 半左衛門は早速、各町の名主らを役所まで呼出して協力を要請すると、自身は町同心を連れて江戸市中を巡回した。そして、金儲けのために米穀を囲い込んでいる商人を見つけると厳しく取り調べて、それらの米穀を吐き出させた。

 とりわけ本所あたりの商人は、たちが悪かった。大量の米穀を土蔵に隠し置きながらも、それらを炭俵に偽装していたのである。半左衛門が


「蔵に積置候(つみおきそうろう)は何ぞ」


と尋ねても、商人は「炭だ」と言ってすっとぼける。そこで半左衛門は、


「扨(さて)、此(この)炭残らず御用に付(つき)、御買上(おかいあげ)に相成候(あいなりそうろう)


と申し渡して直ちに米蔵を封印した。そして


「御用 伊奈半左衛門」


と記した幟(のぼり)を立てると、すべての米穀を炭の値段(当然米より値段が安い)で強制的に買い上げたのである。

 その一方で町々の人別(にんべつ。人口)を調べさせると、赤ん坊含めてひとりにつき黒米1合・皮麦(穀果がもみがらに密着している性質をもつ大麦)5合ずつの米穀を、江戸中残らず配付した。そして、次のように指示したのである。


「代金当時(とうじ。今は)御取立(おとりたて)は無之(これなし)。追々(おいおい)に上納いたすべし。町中借家(しゃくや)店賃(たなちん。家賃)も、当時は差出候(さしだしそうろう)に及ばざる」


 また、江戸周辺の津々浦々まで部下を派遣して、米を買い集めさせた。その買取り金額は、江戸と同じ高い値段で買い上げるよう指示した。また武士に対しても、必要分を引いて余米(よまい)があれば残らず差出すよう指示した。半左衛門に心服した人々は、


「半左衛門殿の下知(げち。命令)なれば」


と言って我も我もと米穀を差し出し、たちまちのうちに江戸には大量の米穀が集まった。そこで半左衛門は、6月14日・15日・16日と連日三度にわたり、人びとに御救米(おすくいまい)を渡すことができたのである。

 こうした窮民救済を第一に考えた半左衛門の迅速な行動によって、江戸の米価も治安も次第に落ち着きを取り戻したのである。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十三、「関東郡代 伊奈摂津守忠尊」(『天明記』を引用)の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。史料全文を次に掲載しておく。 


一、近年諸国凶作打つづき米穀高価、其上(そのうえ)去年(1786)洪水にて江都中別て米穀払底、諸人甚(はなはだ)困窮におよび、末々餓死に及(およば)んとす。

 しかるに、町々の米屋ども、諸人の苦みを顧みず銘々米を買込、〆(しめ)うりをなすによつて市中無頼(ぶらい)の輩(やから)集まりて倶々(ともども)力を合せ、天明七年(1787)未五月廿日の夜より始めて、町々の米屋共を打こはし、家財雑具を微塵(みじん)に砕き、同廿三日迄昼夜となく先々へ押(おし)て廻(まわ)り、鯨波(げいは。戦場であげる鬨の声)の声を揚(あげ)る。家居(いえい)を打こはしける音は、左(さ)ながら火事場の如(ごと)し。官吏ども制するあたはず。乱妨狼藉(らんぼうろうぜき)甚(はなはだ)し。

 民間の困窮 公聴に達せられ、同廿四日(5月24日)より救ひ金給(たま)はるべきの官命あり。然(しか)れども、 公倉の米粟(べいぞく)払底にていかんともなされがたく、官裁(かんさい。官府が裁断を下すこと)も其計(そのはからい)を失ひ給(たま)ひければ、同年六月八日、関東御郡代伊奈半左衛門忠尊を 御前に召(めさ)れ、 将軍家(しょうぐんけ。将軍)自ら命ぜらる趣(おもむき)、米穀払底に付(つき)、取扱方(とりあつかいかた)の義仕(つかまつる)べき旨(むね)、よりて御小性組番頭格(おこしょうぐみばんがしらかく) 仰付(おおせつけ)らるる旨 仰せ蒙(こうむ)り退(しりぞき)しに、御次(おつぎ)の間(ま)にて水野出羽守申渡(もうしわた)さるるは、

「伊奈半左衛門、近来不作打続(うちつづき)、世上米穀払底(べいこくふってい)及難儀(なんぎにおよぶ)。譜代(ふだい)の家来多く、常々諸御用向等(しょごようむきなど)も手広相務(てびろくあいつとめ)馴候(なれそうろう)家筋(いえすじ)に付(つき)、右救方(すくいかた)執計(とりはからい)被 仰付候(おおせつけられそうろう)。依之(これにより)、御小性組番頭格被 仰付候」。

 翌九日、半左衛門叙爵(じょしゃく) 仰付られ、従五位下(じゅごいのげ)摂津守(せっつのかみ)拝任あり。

 同十一日、町々壱番組より拾壱番組迄名主(なぬし)・月行事(つきぎょうじ、がちぎょうじ)、半左衛門役所へ呼出し、白洲(しらす)におゐて申渡(もうしわた)せし趣(おもむき)は、

「皆々太義(たいぎ)。扨々(さてさて)、此度(このたび)は米穀高直(こうじき。高値)に付、皆のもの嘸(さぞ)難儀に及ぶべし。町々難儀に付、此度(このたび)取計(とりはからい) 仰付られ候。 不案内の某(それがし)、心痛いたし候間、皆の心を添(そえ)て呉(く)れ。此末此事にて存寄(ぞんじより)有之(これあり)。追々廻米(かいまい)次第、米穀下直(げじき。安価)にいたし候て遣(つかわ)すべし。其節(そのせつ)、尚又(なおまた)役人共掛合(かけあい)いたすであらふ。供らに心を添て呉候(くれそうら)へ。諸々(もろもろ)の運上(うんじょう)も追々(おいおい)申止て遣(つかわ)すべし」

となり。

 扨(さて)半左衛門、此度の御用 仰付らるるに付、町方見分(けんぶん)有之(これあり)。町同心召連られ候所、いづれも衣服帯刀等殊(こと)の外(ほか)花麗(かれい。贅沢)なる事に付、半左衛門申され候は、

「其方(そのほう)ども、僅(わずか)の扶持(ふち)を賜り、妻子を育候(はぐくみそうろう)ゆへに古来より御定(おさだめ)も有之。皮柄(かわづか)・革下緒(かわさげお)、着服は麻の帷子(かたびら)・麻羽織用ゆべき事なるに、いかがして如斯(かくのごとき)の立派は。仕事ぞ。甚以(はなはだもって)其意(そのい)を得ず。自分此度(このたび) 公命に左様の者召連候ては、相応じがたし。依(よっ)て今日の見分、延引いたすべし。各々衣服取替候(とりかえそうろう)に時刻もうつり申べきまま、支度(したく)申付候」

とて、しほ汁に塩いはしにて麁飯(そはん。質素な食事)振舞(ふるまわ)れ候。何(いず)れも地をほりて這入度(はいいりたき)ほどの迷惑いたし、恐入(おそれいり)て俄(にわか)に麁服(そふく。質素な服装)に改め候よし。其外町々にて、同心共ねだりて物を取候事(とりそうろうこと)、厳敷(きびしく)相止候(あいやめそうろう)となり。

 町中にて兼々(かねがね)米穀を囲ひ置候者(おきそうろうもの)をも、追々(おいおい)厳敷(きびしく)吟味(ぎんみ。物事を入念に調べること)あり。是(これ)を出させて、これ迄(まで)の咎(とがめ)なし。就中(なかんずく)、本所辺(あたり)に大ひなる土蔵に米穀あまた積重(つみかさ)ね、前通りには炭だわらを積置(つみおき)しを、半左衛門みづから見分ありて、

「蔵に積置候(つみおきそうろう)は何ぞ」

と問はれしに、炭の由(よし)答ける。依て、其価(そのあたい)いかほどと改させ、
「扨(さて)、此(この)炭残らず御用に付(つき)、御買上(おかいあげ)に相成候(あいなりそうろう)」

趣(おもむき)申渡されて、直(ただち)に戸前に封印(ふういん)付候(つけそうらい)て、

「御用 伊奈半左衛門」

と記したる幟(のぼり)立置(たておか)れて、上の御取上(おとりあげ)になりしとなり。

 同月十四日より半左衛門取計(とりはから)ひとして、町々人別の改(あらため。調査)あり。生(うま)れ子に至るまで、壱人前に黒米壱合・皮麦(穀果がもみがらに密着している性質をもつ大麦)五合づつ、江戸中残らず御救として相渡(あいわた)され、

「代金当時(とうじ。今は)御取立(おとりたて)は無之(これなし)。追々に上納いたすべし。町中借家店賃(たなちん)も当時は差出候(さしだしそうろう)に及ばざる」

旨(むね)申渡し有しとなり。

 扨又(さてまた)、半左衛門取計(とりはからい)として、公儀より金若干(じゃっかん)万両程(ほど)出されしを、近国津々浦々迄(つつうらうらまで)家来を廻(めぐら)され、江戸にての高き相場を以(もって)御買上なさるべき段、所々へ申触(もうしふれ)有之(これあり)。有合候者(ありあいそうろうもの。そこに居合わせた者)は、自分の俸米(ほうまい。俸禄として主君から家臣に与えられる米)を残し置(おき)、余米を残らず差出し候様申触(もうしふれ)させ候へば、諸民心服して、

「半左衛門殿の下知なれば」

とて、忽(たちま)ち諸方より我も我もと指出(さしだ)し、不日(ふじつ。日ならず、すぐに)に江戸中に米穀夥(おびただ)しくなりて、同月十四日、十五日、十六日と都合三度、半左衛門より御救米出たり。

 上を減じて下を恵(めぐま)るる取扱(とりあつかい)なれば、速(すみやか)に静謐(せいひつ。世の中が穏やかに治ること)となり、諸民安堵(あんど)して其(その)御恩沢(ごおんたく)の程を有がたがりけるとなり。
2024年6月21日(金)
ぼら長左衛門 
 天明期には冷害・洪水・浅間山噴火等の自然災害がうち続き、それらに起因する天明の飢饉や打ちこわしが相次いだ。こうした危機を克服するために断行されたのが寛政改革だった。

 山東京伝作・北尾政演画の『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』(寛政元年(1789)刊)という黄表紙は、こうした社会背景のもとで書かれた。世の中には、天明飢饉からいまだ立ち直れず、困窮する人々が巷にあふれている。そんな現実世界をすべて逆転させて見せることで、人々が日々直面する不幸を笑い飛ばそうとしたのだ。

 さて、京伝らが描いてみせた虚構世界では、聖賢の教えが世の隅々にまで行き届き、使いきれぬほどの金銀・五穀が世上にあふれ、それらの始末に万民がほとほと困りきっている。それは農村も同じだ。

 農村も豊年万作の上、作物を植え付けぬ野山にまで五穀が生育する。穀物が世にあふれ、その置き場もない。思案にあぐねた百姓たちは「こうなってはお役人様のお慈悲にすがり、年貢としてお取り上げ願う以外に手立てはない」と役所へ訴訟に押しかけた。その交渉相手のお役人様の名前が「ぼら長左衛門」。『孔子縞于時藍染』の中に登場する武士は、唯一このぼら長左衛門だけだ。

 この作品の中では、ぼら長左衛門は次のように評価されている。


「ぼら長左衛門様も仁徳のあつき人ゆえ、さっそく聞きとゞけ給い、お救われ米(飢饉災害時、窮民救済のため支給するのが御救米。お救われ米はその逆)をとりあげ給うぞありがたき。」

「お年若(としわか)じゃが、ありがたい殿様じゃ。」(2)



 ところで、ぼら長左衛門にはモデルがいる。

 苗字の「ぼら」は、魚のボラのこと。ボラは成長段階の大きさによって呼び名が変わる出世魚。ボラの若魚をイナと呼ぶ。また名前の長左衛門の長はサイコロ博奕(丁半博奕)から取っているという。長(丁、重。偶数の意)の反対語は半(奇数の意)。よって、ぼら長左衛門のモデルはイナ半左衛門(伊奈半左衛門)だというのだ。
(3)

 伊奈半左衛門は、関東郡代を務めた伊奈忠尊(いな・ただたか。半左衛門は通称。摂津守、右近将監。1764〜1794)のこと。関東郡代は関東幕領の農政を担当する役職で、代々伊奈氏が世襲して来た。その役宅は当時、江戸の馬喰町にあった。忠尊は備中松山城主板倉周防守勝澄の子だったが、安永4年(1777)に関東郡代伊奈忠敬(ただひろ)の養子となってその家督を継いだのだった。

 忠尊は天明6年(1786)の関東水害の復旧や、天明飢饉での窮民救済などで活躍した。名郡代といっていい。「お年若(天明7年時に27歳)じゃが、ありがたい殿様じゃ」という黄表紙中の百姓の台詞は、庶民の素朴な忠尊評を代弁しているのではないか。

 しかし寛政4年(1792)、家事不行届を理由に伊奈家は改易。
(4) 以後、関東郡代職は勘定奉行の兼職となった。その2年後、忠尊は蟄居先の南部家で亡くなる。享年31。「お年若」の早すぎる死であった。


【注】
(1)
山東京伝作・北尾政演画『孔子縞于時藍染』-小池正胤外3人編『江戸の戯作絵本・3』2024年、ちくま学芸文庫、P.446-
(2)(3)『江戸の戯作絵本・3』P.447。

(4)関東郡代として由緒ある伊奈家の断絶は人びとから惜しまれた。『寛政四子年覚書』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0132には次のようにある。

「扨々(さてさて)惜(おし)キ事也。伊奈半左衛門殿と申せバ百姓ハ勿論、町人ニ至る迄神仏の様に敬ひ申候処、如斯(かくのごとき)家断絶に及びハ気之毒千万、殊(こと)ニ御由緒と申候ては上もなき家筋にて、おしき事共也」
2024年6月20日(木)
天明6年の江戸水害(4、終) 怨言絶えず
 江戸幕府による利根川東遷工事の完成後、印旛沼(いんばぬま)・手賀沼(てがぬま)およびその周辺地域では頻繁に水害が起こっていた。そのおもな原因は、利根川の氾濫(外水)や印旛沼・手賀沼に流入する河川増水(内水)にあった。そこで幕府は、新田開発・治水・水運整備等を兼ねた大規模な開発工事を印旛沼・手賀沼で幾度か試みている。しかしそのつど失敗を繰り返し、幕府時代にはとうとう完成を見ることはなかった。

 老中田沼意次政権下でも、天明5年(1785)に手賀沼・印旛沼の大規模な干拓工事が試みられ、翌天明6年(1786)には計画の2/3まで工事は進捗した。しかし、利根川の氾濫(天明6年)と田沼の失脚によって、今回の工事も失敗に終わったのである。

 天明6年の江戸水害は、水かさが例年に倍して被害が大きかった
(1)。江戸の人々はその原因を、この印旛沼の工事と中洲新地(2)の造成に求めたという。『森山孝盛日記』に次のようにある。


 
此度(このたび)の出水、先年より水かさ倍し候事(そうろうこと)、全く印旛沼并(ならびに)中洲新地の故也(ゆえなり)と申候(もうしそうらい)て、出水に逢候者共(あいそうろうものども)、怨言(えんげん)不絶(たえず)。不等閑(とうかんならざる。なおざりにできない)の巷説(こうせつ。世間の風説)(なり)(3)


 田沼時代には冷害、浅間山の噴火、洪水等の自然災害が頻発した。こうした災厄に人力はなかなか抗し難いものだ。

 天明6年の江戸水害も、直接の原因は大雨による出水だった。しかし、例年に倍して被害が深刻化したのは、為政者による不適切な開発行為のせいだったのではないか。つまり、被災者たちは人災によって被害が深刻化したと考え、怨嗟の声をあげたのだ。その背景には、当時の為政者に対する民衆の不信感があったからに他ならない。


【注】
(1)
1783(天明3)年の浅間山噴火により、利根川本支川に大量に流入した火山灰や土砂によって河床が大きく上昇した。これが関東地方の水害を激化させ、平水時の排水不良を引き起こした原因と考えられている。
(2)中洲新地(なかすしんち。現、東京都中央区日本橋中洲辺)は安永1年(1773)に隅田川の中洲を埋め立てて造成された土地。一大歓楽地して栄えたが、隅田川氾濫の原因とされた。
(3)『森山孝盛日記』前出、71コマ目。
2024年6月19日(水)
天明6年の江戸水害(3) 幕府の対応
 幕府の水害への対応は迅速だった。町奉行所が中心となって両国橋の通行を禁止して出水地域への市民立ち入りを制限し、御用船(救助船)出動、御救小屋(避難所)設置、炊き出し等をおこなうとともに、物価の高騰抑制を厳命した。一方、町方によっても施行がおこなわれた(1)


 
先例の通(とおり)、両町奉行(南町奉行と北町奉行)両国橋へ致出張(でばりいたし)、小屋を掛(かけ)、御用船を以(もって)屋根上に居候者(おりそうろうもの)、又は退兼候者(しりぞきかねそうろうもの)、右助け船にて立退(たちのか)せ候由(そうろうよし)。   ( 中略 )

 堺町茶屋(芝居茶屋。堺町には中村座があった)へ焼出(たきだ)しを被 仰付(おおせつけられ)(2)、大握飯(おおにぎりめし)を多く拵(こしらえ)四斗樽(よんとだる)へ入(いれ)、御用船につみ漕廻(こぎまわ)り、羅漢寺(らかんじ。五百羅漢寺。当時は本所五ツ目(現、江東区大島)にあった)近辺其外(そのほか)(たかき)ところ辺(あたり)居候者、又は居宅(きょたく)二階抔(など)に残り居候者へ配行(くばりいき)有之(これあり)(3)



 当時の北町奉行は曲淵景漸(まがりぶち・かげつぐ)、南町奉行は山村良旺(やまむら・たかあきら)だった。ふたりは両国橋の河畔に御救小屋を建てると、御用船を出して逃げ遅れた被災民の救助にまわった。また関東郡代の伊奈忠尊(いな・ただたか)も柳原通りの川端に御救小屋を建て、支配下の百姓たちの救済にあたるとともに、握り飯や粥を施行した。

 納富壮一郎氏によれば
(4)、この時救助に向かった御用船の総数は205艘、総救助人数は5,113人だった。1船あたり24.9人を救助したことになる。これは、寛保2年水害時の1船あたりの救助人数2.8人(総救助人数3357人、総救助船数1,218艘)に比べても格段に効率がよい。しかも、寛保時は救助された者が一番多いのは2日目の1,734名で救助者全体の51.7%を占めたが、天明時には1日目ですでに救助者全体の71.2%を占める3,641名を救助している。

 よって天明時の幕府の救助活動は、迅速かつ効率的だったと評価できる。


【注】
(1)
この時、橋町大坂屋平六や本町三町目薬種店などは薬の施行をしたという(『燕雀論』)。
(2)町奉行所は、炊き出しを堺町中村座と同所19軒の料理茶屋、葺屋町桐座と同所19軒の料理茶屋に命じ、飲料水は小船町・堀口町から運ばせた。そのほか必要な人足の供出を各町に命じた(『燕雀論』)。
(3)『森山孝盛日記』前出、69コマ目。
(4)東京理科大学工学部第二部建築学科辻本研究室納富壮一郎「江戸三大水害における江戸の被害と救済に関する考察」http://tsujimoto.sub.jp/TUS-SOTSU/NOHTOMI2013.pdf(2024年6月10日閲覧)
2024年6月18日(火)
天明6年の江戸水害(2) 生死を分ける
 災害時には、人間のふとした行動が生死を分けることがある。次はそうした挿話のひとつ。


 
(これ)も予(志賀紀豊)が住する辺(ほとり)なる牛の御前(うしのごぜん。牛嶋神社)御旅所(おたびしょ。神輿巡行の途中の休憩所)の方へ、根来喜内(1)の門弟の八百屋なるが、家財を片付(かたづけ)、其身(そのみ)は筏(いかだ)に乗りて立退(たちのか)んと中程迄(なかほどまで)乗出(のりいだ)せしが、


「銭九百文を忘れたり」


とて、筏を返したりし処
(ところ)、彼(かの)押来(おしきた)りし水の矢の如(ごと)くなるに向ひたる事なれば、何かは以(もっ)てたまるべき。剰(あまつさえ)(その)筏は戸板・根太(ねだ。床板をささえるため床に架設する木材)の類(たぐい)をもて危(あやう)く仕立(したて)たる物なれば、忽(たちまち)に押流(おしなが)され、逆巻(さかまく)水にゆられゆられて微塵(みじん)にぞ成りにける。(2)


 銭1文を現在の貨幣価値で仮に40円とするなら、900文は約3万6千円ほど。4万円弱の金を惜しさに命を落としてしまったのだ。これには、志賀も


 
あへなく非命の死を遂(とげ)し事、僅(わずか)の銭に心引れて立帰りしぞ、いともはかなき事也。(3)


との感想を書きつけている。避難する場合は「逃げること、戻らないこと」が大原則だ。くれぐれも肝に銘じておきたい。

 さて、命を失うものがいた一方、幸運にも命拾いした者たちもいる。次は九死に一生を得た母子の例。


 
山村信濃守物語候由(ものがたりそうろうよし)。本所辺、若き女幼児をせおひ、木へ登り居候(おりそうろう)。片手は木へ取付(とりつき)、片手は子をおさへ居候。蛇、右の子へ巻掛(まきかか)り候由(そうろうよし)。誠に目も不当事共也(あてざることどもなり)。信州、被見及(みおよばれ)、早々御用船を遣(つかわ)し抱下(かかえおろ)し、小屋へ入(いれ)保養いたさせ候由。(4)


 南町奉行は山村信濃守良旺(やまむら・しなののかみ・たかあきら)の話によると、本所あたりで幼児を背負った若い女が木に登って大水を避けようとしていたという。片手で木にとりつき、もう一方の手で背中の子を押さえていた。ところが、蛇が子どもに巻きかかっていたという。本当に見ていられない状況だった。これを見た山村信濃守はすぐさま御用船を向かわせ、木から母子を抱えおろし、御救小屋まで運んだという。


【注】
(1)
根来正武か。天明6年4月23日に43歳で死去。『寛政重修諸家譜』巻1069に伝がある。
(2)(3)『燕雀論』前出。
(4)『森山孝盛日記』前出、69コマ目。
2024年6月17日(月)
天明6年の江戸水害(1) 被害の概略
 われわれの生活は、常に災害と隣り合わせだ。なかでも近年、線状降水帯の発生・梅雨前線の停滞・大型台風の来襲等によって、河川の氾濫・都市の水没等といった水害関連ニュースに触れる機会が増えた。過去の水害事例に学べば、防災・減災を考える上で参考になる点が何か見つかるかも知れない。

 江戸時代には、寛保・天明・安政年間に大きな水害があった(三大水害)。なかでも天明6年(1786)に関東地方を襲った大水害は、「日東開闢(にっとうかいびゃく)以来未(いま)だ聞かざる」
(1)ほどのものだった。『明和誌』は江戸の水害について、その概略を次のように記す(旧漢字は現行漢字に改め、句読点等を適宜付した)。


 
同六年(天明6年)、不時の冷気、土用中わた入を著す。盆中大雨ふり、七月十六日より本荘(本所)・深川・下谷・浅草・小石川辺一体の出水、舟なくては通路ならず、水場のものは引窓よりにぐる。本荘・深川へは御用船にて、焼いひを配る。伊奈摂津守(関東郡代、伊奈忠尊(ただたか))(かかり)にして、馬喰町・両国・柳原所々へ御救小屋かゝる。(2)


 天明6年は冷夏であり、土用中にもかかわらず綿入れを着なければならぬほどの寒さだった。初秋に入ると大雨が降り続き、各所で水害をもたらした。被災地は隅田川右岸地域に集中し、特に大きな被害を被ったのは本所や深川だった。そのため、本所や深川、下谷、浅草、小石川辺りへ行くには船がなくてはかなわず、御用船が往来しては被災民を救出したり、取り残されている人々に焼き飯(いい)を配布したりしていた。馬喰町・両国・柳原等各所には、すぐさま御救小屋が設置された。

 次に、当時の被害状況をもう少し詳しく見てみよう。『森山孝盛日記』は、当初の水害の有様を次のように記す。


一、同(天明6年7月)十二日、朝四時(よつどき。10時ごろ)頃より大雨降出し、連日不止(やまず)。盆を傾(かたむけ)るが如(ごと)し。十六日夜迄降続(ふりつづく)。庭の押水(おしみず)高さ壱尺(いっしゃく。約30cm)に余り、床際(ゆかぎわ)五寸計(ごすんばかり。約15cm)に湛候(たたえそうろう。水が満たした)。漸(ようやく)十七日少し晴、雨止候(あめやみそうろう)。里巷(りこう。村や町)の間、商人壱人も不通(とおらず)。要用(重要な用事)の外(ほか)、往来の人無之(これなし)

 所々大水押出し、本所・小日向辺大水の由
(よし)。先年、本所辺猿が股堤(つつみ)切れ、押水致候節(おしみずいたしそうろうせつ)よりは水かさ倍之候(これにばいしそうろう)か。

 大橋・永代橋押流し、下谷辺和泉橋・柳橋流し候。両国
(両国橋)は半分計(はんぶんばかり)損候(そんじそうろう)。本所辺の風説(うわさ。風評)おびただしき事也(なり)。皆船を雇(やとい)立退候(たちのきそうろう)。羅漢寺へ逃候(にげそうろう)者も多く有(あり)。さざい堂(五百羅漢寺境内にあった三匝堂(さんそうどう)のこと)へより居候由(いそうろうよし)。右近辺、是又(これまた)大水の由。(3)


 また『燕雀論』は、被災民の惨状を次のように記す。


 
家々には家根(やね)にはしり、御用船を呼(よび)、又は遁(のが)れ行(いく)船を見ても口々に細く悲しげなる声を出し、


「助給
(たすけたま)へ、救(すく)ひ給(たま)へ」


と 呼叫
(よびさけぶ)さま、さながら俊寛(しゅんかん)が昔(むか)し、今目前に見る如(ごと)く浅間敷(あさましく)ぞ有(あり)ける。


 
寺々には早鐘(はやがね)を撞(つき)盗賊を防ぎ、其余(そのよ)の家々には拍子木(ひょうしぎ)、或(あるい)は金盥(かなだらい)・太鼓なんど有合物(ありあわせもの)を打鳴(うちなら)し、招き立つて盗みするものを追ふ。其(その)さま喧(かまびすく)、万億(ばんおく)の兵の如く、水は猶(なお)も猶も滔々(とうとう)として押来(おしきた)り、四方八面何(いず)れの地か分難(わかちがた)き有様(ありさま)、悲しとも怖(おそろ)しとも言句の及ぶ所にあらず。水に溺死する者、挙(あげ)て算難(かぞえがた)し。(4)


 『燕雀論』の筆者志賀紀豊は、当時本所石原に居住していた。床上5、6尺(約150cm〜180cm)のところまで浸水したという。亀戸あたりでは軒上2、3尺(約60cm〜90cm)まで水位があがり、屋根瓦3、4枚のところまでが水に浸ったという。志賀がとりわけ「大水の所」として記録したのは、東・西葛西、行徳、竹の塚、草加、岩槻、真間、中山、釜谷堀、五百羅漢(羅漢寺)、千住、角田川(隅田川)などで、いずれも1丈2、3尺(約3.6〜3.9m)ほども増水したという。

 こうした出水によって各所の土手や山が崩れ、多くの橋が崩落・流出した。水を避けようと屋根の上に避難して、行き場を失った人々が助けを求めて泣き叫んでいる。その姿は昔、喜界島に流された俊寛僧都が、都に帰る船に向かって泣き叫ぶさまのよう。

 また被災地では、この機に乗じて盗人が横行した。盗人を威嚇するため、梵鐘・金盥・太鼓などがうるさく打ち鳴らされている。しかし、水はなおも四方八方から押し寄せてくる。その恐ろしさ・悲しさといったら言葉に尽くせない。溺死者は数えきれぬほどだったという
(5)


【注】
(1)
志賀紀豊『燕雀論』写、寛政元年序、国文研蔵、和古書請求記号:MX-491-3。
(2)国書刊行会編『鼠璞十種・第二』1916、国書刊行会、P.6〜7。国立国会図書館デジタルコレクション。
(3)森山孝盛『自家年譜(森山孝盛日記)』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:165-0059。68〜69コマ目。
(4)『燕雀論』前出。
(5)死者は全国で約3万人に及んだと言われるが、江戸府内の死者総数は不明。『森山孝盛日記』には「流死の者尤(もっとも)夥敷(おびただしく)、鈴ヶ森辺(すずがもりあたり)磯際(いそぎわ)へ打寄候(うちよせそうろう)死骸(しがい)、千を以(もって)算候由(かぞえそうろうよし)」という惨状の風聞を載せる。
2024年6月12日(水)
化物振舞い
 これは『落栗物語』に載せる話である。(1)

 
松江少将(松平宗衍(まつだいらむねのぶ)、号南海。左近衛中将だった。1729〜1782)は出雲松江藩18万石余の藩主だったが、面白い人だった。ある時親しい人々を集めて酒宴を催したことがあった。その時少将が、

「今宵
(こよい)は化物(ばけもの)振舞(ふるま)いましょう」

と告げたので、招待された人々はいかなる趣向かと怪しみつつ、連れ立って少将の屋敷を訪ねたのだった。  

 少将の館に着くと、いつもとちがって静寂なたたずまい。ふだんは見慣れぬ前栽(せんざい。庭の植え込み)の竹の間に、細い道がつけられてある。そこを進むと、物さびて淋しげな様子で一軒の東屋(あずまや。庭園などに設けられた四方が柱と屋根だけの休憩所)が建っていた。

 東屋に上がったものの、いまだ少将の姿は見えない。主人を待つ間、人々は話などして時間を潰していた。

 やがて、夜寒の風が身に沁むままに灯火が暗くなった。すると、半臂(はんぴ。袖なしの上衣)を着た小法師(こぼうし)が茶を運んできたのである。座中近くに小法師が寄って来て、その顔が確認できたとたん一同はあっと驚いた。それは、


「面(おもて。顔)の色赤みて、えもいはず見にくきが、眼(まなこ)は大にて、ひたひの程(ほど)にただ一ツ付(つい)てあり」


というものだった。一つ目小僧だったのである。しかし、事前に少将から「化物振舞い」の予告を聞いていた客たちは、その場は何とか恐怖に耐えた。

 小法師が立ち去ると、しばらくして入れ代わりに酒器を運んできた男がいた。見れば、顔は子どもながら、雲を突くような大男である。こたびは恐怖が勝って一同どっとどよめき騒ぐ。これを見た大男は、笑いながらその場から姿を消した。

 やがて主人の少将が登場して酒宴がはじまった。人々が先ほどのふたりのことを尋ねても、少将はただ


「知らず」


と答えたのみだった。

 後で聞けば、小法師は出雲から連れて来た者で、大男は出羽から連れてきた相撲取りだという。相撲取りは醜名(しこな)を釈迦ヶ嶽(しゃかがたけ)といい、当時17歳で身長が7尺3寸(約2.2m)もあったという。

 少将はこの二人を得たので「化物振舞い」という悪戯を思いついたのだった。


【注】
(1)
国書刊行会編『百家随筆第1』国書刊行会、大正6〜7年、P.504〜505。国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:330-53。https://dl.ndl.go.jp/pid/945834(参照 2024-06-10) 。
2024年6月9日(日)
時の鐘
 江戸の本石町三丁目には、市中の人々に時を知らせる鐘撞堂があった。ここの鐘は、江戸にあった時の鐘(最初は7カ所、後には9カ所が公認)の中では一番古い。その由緒は、当所の時の鐘役源七が幕府に提出した書き上げによって知られる。書き上げは享保10年(1725)6月付けで全8ヶ条から成り、『享保撰要類集』に収められている。以下、翻刻文を載せる。(1)


 本石町三町目時之鐘役源七申上候。私先祖五代以前蓮宗と申者、南都興福寺喝喰ニ而御座候。

① 一、乍恐 権現様
(家康)三州ニ被為遊 御座候刻、御謡初の御嶋臺の作り花、右蓮宗ニ献上可仕旨、大久保相模守様を以被為 仰付、則御嶋臺作り花献上仕候。 御感の上、於當地何ニ而も役義願上可申旨、大久保相模守様被為 仰付候。依之、時の大皷役奉願上、明ヶ六ツ・暮六ツ両時相勤申候事。

② 一、台徳院殿様
(秀忠) 御代、鐘ニ而十二時ニ被 仰出、新規ニ御鐘被為 仰付候。出来の内、米津勘兵衛様御承候而、西の御丸の御鐘御借被為遊、當分是を以十二時相勤申候。鐘出来候以後、御鐘は西の御丸へ納申候御事。

③ 一、酉の年、八拾壱年以前、 大猷院殿様
(家光) 御代、右の鐘われ難用御座候ニ付訴申上、西の御丸御鐘御借被遊、鋳直被 仰付、長谷川豊前鋳立差上申候。其後、又午年、七拾弐年以前、 厳有院殿様(家綱) 御代、鐘類焼仕われ損申候ニ付、此旨訴申上、西の御丸の御鐘御借被遊候。翌年、鐘鋳直被 仰付、椎名兵庫鋳立差上申候。尤右の御鐘は、西の御丸へ納申候。拾六年以前寅年十二月、 文照院殿様(文昭院。家宣) 御代、鐘類焼仕損申候ニ付、前〻の通西の御丸の御鐘拝借仕度旨、坪内能登守様え奉願候得は、則翌年卯正月六日、御鐘御借被遊候。然處ニ、御鐘龍頭ニくちめ多御座候ニ付、損申候而は大切奉存候。此段御訴申上候得は、西の御丸へ納可申旨被為 仰付候。同十一日、納申候。

④一、鐘楼堂御普請の儀は、先規より町御奉行所様より被為 仰付。尤御役人中御出被為遊候。但、鐘楼の儀は古来より拙者調、屋敷の内ニ御普請被 仰付候處ニ家建込候而、火除の為ニ拙者屋敷の裏弐拾間四方の會所明地御座候故、右會所中へ鐘楼土蔵作りニ元禄十三年辰
(1700)七月、保田越前守様へ奉願候得は、御普請被為 仰付候。

⑤一、鐘楼こけら葺ニ御普請、正徳六申年
(1716)十一月、松野壱岐守様被為 仰付候。従是柿葺ニ御普請被 仰付候。

⑥一、寶永三戌年
(1706)、拙者共罷在候町内北側地尻通ニ新道御明ケ被為遊候ニ付、右會所端通ニ新道罷成候ニ付、新道御用地の者共并拙者共ニ、右の會所端ニ而西東ニ代地被為 仰付候。其中ニ而間口拾弐間餘、裏行拾九間三尺の所、鐘楼地ニ御明ケ被為遊候。右鐘楼廻り明地、拙者へ御預ケ願、同年四月、丹波遠江守様へ奉願候得は、四月廿七日、御内寄合へ被召出、願の通被為 仰付候。

⑦ 一、鐘楼の儀、先規御定は、古来家持株一軒役ニ付一月永楽壱文宛、當鐚ニ而四文宛、十二ヶ月に四拾八文宛、家持壱人役より請取来申候。

⑧ 一、鐘役銭請取申御町、大町・小町・横町共に町数合四百拾町御座候。

  享保十年
(1725)巳六月    鐘役 源七


 ところで、岸井良衞氏の『江戸の町』の中に、当所の鐘撞番について面白い記述があったので、抜書きしておく。実入りのよい仕事だったのにもかかわらず、引退する鐘撞番が多かったという。どんな仕事にも苦労はつきものなのだ。


 ここの鐘の株は、どこよりも高い。というのが、大名は石高で、町人は間口で、鐘撞料を毎月とりたてられていた。昼夜交代で撞くので七、八人はいたが、ここは他所よりも地域が広いので生活は豊かであった。しかし鐘撞番という者は、一代か二代で、他へ株を売り渡して、故郷へ帰って田畑を買って静かに暮す者が多かったという。これは、朝晩に耳元で鐘の音をきくのと、時刻を知らせる責任の重さの苦労、屋敷や木戸の門限、借銭の期限など、心をせかせる人の思いが重なるので、長く務める仕事でないとされていたらしい。(2)


【注】
(1)
『享保撰要類集』[89]二十九ノ上、時鐘之部。写。国立国会図書館デジタルコレクション。 https://dl.ndl.go.jp/pid/2572844(参照 2024-05-27)
(2)岸井良衞『江戸の町』1976年、中央公論社(中公新書)、P.48。
2024年6月6日(木)
『画本柳樽』より
 川柳に挿絵をつけた『画本柳樽』(早稲田大学図書館蔵)中からいくつか。

1.遊女を描いた挿絵に添えられた川柳が次。

  片腕に成る客は無し羅生門

 片腕は頼り甲斐のあるパトロンのこと。懐具合のよい馴染み客がいないのを嘆いたのだろう。また片腕といったら羅生門だ。渡辺綱が鬼の片腕を切り落としたとする『今昔物語集』等の説話が想起される。この遊女の挿絵にはもう一句添えられている。  

  
「御前(おめへ)まあ、いつ来なさる」にひつかかれ

2.ユーモラスな妖怪の絵もいくつか描かれている。ろくろ首の目の前に餅と煙管を置いた挿絵に添えられた川柳。

  餅がつかへてしごいて居るろくろ首

 あんなにくねくねした長い首なら、餅に限らず、食べた物を嚥下するのはむずかしかろう。

  
(となり)から烟草(たばこ)のすへるろくろ首

 長い首を伸ばせば、隣りの部屋で煙草がすえる。喫煙室にわざわざ出向いて隠れてすわなくてもよいので、これは便利。

3.昔話に出てくる分福茶釜のタヌキの絵に添えられた川柳が次。

  松永りつぷくはとんだ茶釜なり

 織田信長に叛した松永久秀(1510〜1579)は、信貴山(しぎさん)で信長の軍勢に包囲された。「久秀が秘蔵する平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜を差し出せば、命だけは助けてやる」という信長の言葉に腹を立て、爆死したという。茶釜ともどもふっとんだのだ。

  古狸めがと千早の寄せて言い

 知将楠木正成が守る千早城を鎌倉勢が攻めた。しかし、戦(いくさ)上手の正成の計略の前に、鎌倉勢は翻弄されっぱなし。そこでつい漏らしたのが「正成の古狸めが」。

4.痩せ馬と鎧武者の挿絵には次の一句。

  
馬は痩(やせ)常世(つねよ)は武士の骨を見せ

 佐野常世(さののつねよ)は謡曲「鉢の木」の主人公。前執権西明寺入道時頼が諸国御家人に集合の命をくだした際、鎌倉に一番に馳せ参じた。貧しても鎌倉武士の気骨を見せたのだ。


【参考】
・葛飾戴斗画『画本柳樽.12編』写(自筆)、早稲田大学図書館蔵、請求記号:チ05_03811。  
2024年5月29日(水)
豊島屋酒店のにぎわい
 江戸鎌倉町の酒店・豊島屋は、慶長元年(1596)の創業という。東京でも老舗(しにせ)のひとつだ。

 豊島屋は酒店だったが、そのうち店内で客の居酒(いざけ)を始めた。酒の肴に自家製の豆腐田楽を販売するようになると、店はますます繁盛した。居酒屋のはしりである。

 豊島屋が繁盛したのは、販売価格の安さに秘密があった。酒も豆腐も元値(仕入れ価格。原価)で売ったのだ。だから客が押しかける。しかし元値で売っては利益が出ない。酒店なのに酒では儲けず、どうやって利益を出したのか。

 実は毎日大量に出る空き樽を売って儲けていたのだ。酒が売れれば売れるほど空き樽が出る。樽1つが1匁(もんめ)から1匁3分ほどで売れたという。

 そうしたわけで、他店よりも格段に安く酒が飲める。だから、行商人や馬子・駕籠舁きといった人々まで豊島屋に飲みに来た。そのうち、通いで酒を買いに来る小口の客ばかりか、大名・旗本ら大口の顧客までついた。

 酒問屋の方でも現金が急に必要になると、元値を引いてでも豊島屋へ酒を納めるようになった。酒樽を何百駄送っても返品されることがなかったからだ。
(1)

 豊島屋の名物といえば、桃の節句の白酒だ。


  山なれば富士、白酒なれば豊島屋


とまで詠(うた)われた。『江戸名所図会』中の「鎌倉町豊島屋酒店、白酒を商ふ図」に、次のような説明書きがある。


 
例年二月の末、鎌倉町豊嶋屋の酒店に於(おい)て雛祭(ひなまつり)の白酒を商ふ。是(これ)を求(もとめ)んとて遠近の輩(やから)、黎明(れいめい)より肆前(しぜん。店の前)に市をなして賑(にぎわ)へり。(2)


 豊島屋が白酒を販売する日には  「酒・醤油相休申候
(さけ・しょうゆ、あいやすみもうしそうろう)」 と大書した大札を立てて、白酒以外の商品販売は差し止めた。店の入り口には柵を設け、不測の事態に備えて医者を待機させた。そして白酒を大量に用意して、準備万端の上で店を開くのだった。

 白酒販売当日のありさまを詠んだ狂詩(原漢文)が残っている。


  
白酒の高名豊嶋屋  氣強く色薄し一家風  人人買(かわ)んと欲すれども多くは買(か)ひ難(がた)
  賣
(う)り始め賣り終り半日の中(3)
  


 当日は、とんでもない数の客が豊島屋に殺到する。大量に用意した白酒は早くも半日で売り切れ、白酒を入手できず空しく帰る客も多かったというのだ。


注】
(1)
以上おもに、岸井良衞『江戸の町』1976年、中央公論社(中公新書)、P.36〜37による。
(2)斎藤長秋選、長谷川雪旦画『江戸名所図会・1』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:174-0036。50コマ目。
(3)方外道人作『江戸名物詩・初編』天保7年(1836)刊、味の素食の文化センター蔵、デジタル請求記号:DIG-AJNM-00258。33コマ目。
【参考】
・豊島屋本店ホームページ等
2024年5月27日(月)
惚れ薬
 菊山栄氏(早稲田大学)が、イモリの雄が分泌する雌誘因物質を発見し、これにsodefrin(ソデフリン)と名づけた。中大兄(なかのおおえ)・大海人(おおあま)両皇子に愛された額田王(ぬかたのおおきみ)の和歌、


 
  あかねさす紫野(むらさきぬ)(ゆ)き標野(しめぬ)(ゆ)
             野守
(ぬもり)は見(み)ずや君(きみ)が袖振(そでふ)(1)



に因む命名という。袖を振るのは、相手に合図をおくったり愛情を表現するための手段だ。

 さて、ソデフリンは、イモリの雌に対しては効果のある「惚れ薬」だが、人間にとってはイモリの黒焼きが「惚れ薬」だと考えられてきた。「イモリの黒焼き」を辞典で引くと、次のように書いてある。


 
イモリの雌と雄を焼いて粉末にしたもの。「ほれぐすり」として想う相手にこっそりふりかけたり、酒に入れて飲ませたりすると、ききめがあるという。(2)  


 そもそもイモリが「惚れ薬」の原料とされたのは、「イモリは淫乱な生き物」という偏見があったからだ。『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』には、


 
性淫能交(性淫にして能(よ)く交(つるむ))(3)


とある。

 しかしこれはイモリにとっては濡れ衣だ。中田友明氏(日本獣医生命科学大学)によれば「田植えや稲刈りの時期に水田や水路のあちらこちらで求愛行動を繰り返すイモリは、とても性行動の観察しやすい動物であり、そのことが、イモリの体内には恋愛や性に関する薬効をもつ成分があるという俗説となった」
(4)らしいとのこと。

 そもそもイモリの黒焼きの効能に関しては、われわれだって眉唾物として扱ってきた。だから艶笑物の落とし話の中などで、面白半分のネタとして扱われるのが関の山だった。しかし、中には固有名詞をあげて「惚れ薬として実際の効能があった」と主張する噂話もあった。

 老中田沼意次の家来黒沢一郎右衛門という者が、イモリの黒焼きの粉を意次にひそかに振り掛けたところ、主人の覚えもめでたくなり、運気もあがったというのはその一例
(5)

 しかし、どれもこれもが胡散臭い話だ。もしも、イモリの黒焼きが人間に本当に実効があるならば、未婚率が高くて人口減少に苦慮する国々の政府によって、今頃イモリは取り尽くされてしまっているに違いない。


【注】
(1)
万葉集巻1・20。読みは斎藤茂吉による(同氏『万葉秀歌・上巻』1968年改版(1938年初版)岩波新書、P.25)。
(2)広辞苑第6版。
(3)寺島良安『和漢三才図会』巻45龍蛇部「蠑螈(ゐもり)」の項。
(4)中田友明「イモリの性フェロモンとは – “惚れ薬”の正体に迫る」2017年3月1日、https://academist-cf.com/journal/
(5)『甲子夜話』巻26の16、「田沼氏の臣黒沢、守宮の黒焼の事」。
2024年5月25日(土)
武勇伝
 大嶋某(童名、西翁丸)には光宗(みつむね)という子がいたが、美濃において国郡の士卒と地を争って戦死した。そのため、光宗の子光義は幼少で孤独となった。長ずると彼もまた、国人と地を争って合戦に明け暮れる日々をおくった。

 光義は射芸にすぐれた勇者であった。江戸幕府が編纂した『寛永諸家系図伝』には、まるで講釈師(「講釈師見てきたような嘘を言い」というが)が語るような光義の武勇伝が綴られている。

 ある時、敵兵が木かげに潜んでいた。そこで光義は、隠れていた木ともども敵兵の首を射抜いた。光義の弓勢(弓の威力)に、さすがに敵方も驚いた。そこで敵方は、矢を抜かないまま(射抜いた様子がわかるようにして)その木と首を切り、光義のもとにおくったという。


 
(ある)とき、敵兵樹陰(じゅいん)にかくれをる。光義、其(その)樹木を射(い)つらぬき、敵の首にあたる。敵兵、光義が弓勢(ゆんぜい)を感じて、その樹ならびに首を切てその矢をぬかずして光義がもとにをくる。光義が射藝(しゃげい)あまねく世にきこふ。(1)


 また光義が織田信長に属していた時のこと。本能寺の変がおこり、安土城にいた光義は城を脱出。行く手を阻んだ一揆勢を弓一張りで蹴散らし、無事美濃まで生還したという。


 
路次にて一揆蜂起す。光義、弓一張(ひとはり)にて大勢を射はらひ、つゝがなく本国にかへる。(2)  


 またある時は、八坂の五重塔の最上階の窓に、10筋の矢を射込んだ。光義の弓勢を後世の者に伝えるため、それらの矢は塔内にとどめおいたという。


 
其後(そのご)秀吉に属して弓大将となる。秀次の命をうけて、矢十筋を八坂の塔の五重の窓へ射こむ。後人(こうじん)にその弓勢をしらしめんがため、件(くだん)の矢を塔内におさむ。(3)


 その後光義は徳川氏に仕えた。そして、慶長9(1604)年8月23日、97歳で亡くなった。法名を道林といった。


【注】
(1)(2)(3)
『寛永諸家系図伝』清和源氏・甲九、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:特076-0001。
2024年5月24日(金)
三つでも蝶
 『寛永諸家系図伝』によると、徳川氏に仕えた大嶋家の先祖に、大嶋某(おおしま・それがし。生没年不詳)という者がいた。某は童名(わらわな)を西翁丸(さいおうまろ)といい、幼いながらも和歌を好み、その才智は天朝にまで達した。よって、参内の誉れを賜る機会を得たのである。

 禁庭には梅の木があった。折しも胡蝶が飛び来たり、梅花に三つとどまった。この時、


「これ何ぞや」


と勅問があった。西翁丸が


「蝶なり」


と答えると、続けて勅使が次のように問いかけた。


「三あるものハ其数(そのかず)(はん)なるを、いかんとしてか重(ちょう)とは申(もうす)ぞ」

 半は奇数、重は偶数のこと。「三は奇数なのに、なぜ蝶(重(偶数)の意を掛ける)と言うのか」という謎かけである。西翁丸はたちどころに次の一首を詠んでこれに応じた。


  
一つある鳥も千鳥といふなれバ 三つあるとてもてふといはまし  
  
(一羽でも千鳥というからには、三つ(奇数)を重(偶数)と言っても不思議はない)


 この西翁丸の当意即妙な才智に感心した主上は、「梅樹と三蝶を、以後大嶋家の家紋とせよ」との勅諚(ちょくじょう)を下したという。

 ただし『寛永諸家系図伝』には次のような注記がある。


「今案ずるに、西翁丸参内勅問の事、詳(つまびらか)ならずといへども、しバらく彼(かの)家傳(かでん)をのす」(1)
(このエピソードは真偽不明だが、とりあえずは大嶋家から幕府に報告された「家伝」をそのまま載せておく)


 なぜ、わざわざこのような注記を入れたのか。それは、幕府が『寛永諸家系図伝』作成のため諸家に家譜・家伝の報告を命じた当時、これに酷似する和歌が世上に広く流布していたからだ。

 たとえば、江戸初期に刊行された仮名草子『薄雪物語(うすゆきものがたり)』には佐藤義清(さとうのりきよ。のちの西行)が詠んだという次の和歌を載せる。


  
ひとつをもちとりといへる鳥あれハ 三つありとてもてふはてふなり(2)
 
 (一つをも千鳥と言へる鳥あれば、三つ有りとても「ちょう」は「ちょう」なり)  



 また江戸初期に刊行された笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』にも、ある児(ちご)が詠んだという同趣向の和歌を載せる。


  
一つをも千鳥といへる名のあれば 三つをもてふといふべかりけり(3)
  (一つをも千鳥と言へる名のあれば、三つをも「ちょう」といふべかりけり)


 さらに、大嶋家先祖の前記エピソードには年月日も天皇名も欠く。したがって、このエピソードを裏づける物証等でもない限り、とうてい事実とは認め難いのだ。


【注】
(1)
『寛永諸家系図伝』清和源氏・甲九、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:特076-0001。30コマ目。
(2)『うすゆき物語・上』早稲田大学図書館蔵、請求記号:ヘ13_02744。19丁ウラ。
(3)安楽庵策伝著・鈴木棠三校注『醒睡笑(上)』1986年、岩波書店(岩波文庫)、P.273。
2024年5月23日(木)
八百蔵と善左衛門(3、終)
 佐野の墓所に連日おしかけた群集は、賽銭を手向け、「世直し大明神」と大書したのぼり旗まで立て、神のごとくに佐野をあがめたてまつった。はからずも、田沼政治に対する不人気ぶりが露呈し、人々の反感が一挙に噴出する形になった。佐野への賛美は田沼に対する憎しみの裏返しである。しかも佐野を賛美する者は一般庶民にとどまらず、旗本・御家人から幕府の高位高官の者にまで及んだという。

 こうした有様を記録した志賀は、しかし佐野に対しては批判的だった。佐野の行動は家族等に迷惑を及ぼし、佐野家断絶に直結するものであった。それにもかかわらず、あと先のことを考えずに、私怨から刃傷事件をおこしたのだ。ゆえに志賀は、佐野を「空気者(うつけもの。馬鹿者)」と一刀両断している。

 さらに志賀の批判の鉾先は、佐野の菩提寺にも向けられる。寺の住職は、佐野に元良院釋以貞(げんりょういん・しゃくいてい)という不埒(ふらち)な諡(おくりな)を与え、その墓所に賽銭箱まで設置して金儲けに走ったのである。寺を大いに儲けさせてくれた佐野は、寺にとってはさぞかし「元良(大きな善徳)」だったろうと。


 
(よ。志賀紀豊)(この)号を考るに、『尚書(しょうしょ)』大甲(たいこう)の篇(へん)に、

「壱人
(いちにん。天子)元良(げんりょう。大きな善徳)にして、万邦(ばんぽう。万国)(もっ)て貞(てい。みさおが正しい)す」

とあり。注に

「一人は天子也
(なり)。大善(たいぜん)あれば則(すなわち)天下其(その)(ただし)きを得(う)

と見へたり。是
(これ)より出たるの名なるべし。

 され共
(ども)、此(この)語は天子(皇帝、天皇)の御事(おんこと)にして、是(これ)に善政(ぜんせい)あれば兆民(ちょうみん。万民)正くして、是(これ)によるの謂(いい。意味)也。何ぞ此(この)空気(うつけ)なる者(佐野善左衛門を指す)に元良の事ありて、万邦以(もっ)て正(ただし)き勲功(いさおし)の有(ある)べきや。誠に勿体(もったい)なく憚(はばか)るべき事ならずや。

 今の世の売僧
(まいす。物品の販売などをする堕落僧。えせ坊主)文盲(もんもう。学問がない)にして道を知らず。百世万古(ひゃくせいばんこ。永遠に)の下(もと)に笑(わらい)を残すもの也。され共此(この)の如(ごと)く、仏経(仏教の経典)の内に此(この)出証(しゅっしょう。典拠)あるや。

 しかのみならず、かれが墓所へ賽銭箱
(さいせんばこ)を出(いだ)し置(おき)たる由(よし)。是(これ)(まった)く物取(ものとり)にして、今坊主(いまぼうず。今時の僧侶)の習ひ也。是(これ)に依(より)て知(しる)べし。

 されば、寺には大
(おおい)に仕合(しあわせ)したる事なれば、寺の為(ため)にはかの元良(げんりょう)ならんかも。(5)



【注】
(1)
志賀紀豊著『燕雀論』寛政元年序、国文研蔵、和古書請求記号:MX-491-3。58コマ目。 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018497/
(2)京山岩瀬百樹編『蛛乃糸巻・2巻』、江戸後期、写。 国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:WA19-3。9コマ目。 https://dl.ndl.go.jp/pid/2545197
(3)『燕雀論』前出。60コマ目。
(4)『燕雀論』前出。56〜57コマ目。
(5)『燕雀論』前出。57〜58コマ目。
2024年5月22日(水)
八百蔵と善左衛門(2)
 一方、後者の佐野善左衛門(1757〜1784)は言うまでもなく、殿中において若年寄田沼意知(たぬまおきとも。老中田沼意次の子)に刃傷(にんじょう)に及び、これを死に至らしめた人物。切腹後、浅草徳本寺に葬られた。享年28。刃傷に及んだ佐野の動機は私怨によるものと言われる。

 佐野が死ぬと、こちらの墓所にも大勢の参詣人が押し寄せた。『燕雀論』にはその有様が詳細に描かれている。


 
(さて)も善左衛門、揚り座敷(あがりざしき。旗本の未決囚を入れた独房)に於(おい)て切腹せしかば、浅草本願寺(正しくは徳本寺)地中に葬りしに、いかなる事にや、諸人大きに傷(いたみ)悲しみ、町家の者共は考妣(こうひ。亡き父と亡き母)をも喪(も)するが如(ごと)く思ひ、彼が墓所に来て香花(こうげ)を供(そなえ)、賽銭(さいせん)を手向(たむけ)なんどして礼拝し、中にも甚敷(はなはだしき)者は幡(はた)・幟(のぼり)を立て、「佐野大明神」、或(あるい)は「世直大明神(よなおしだいみょうじん)」抔(など)と大筆に書(かき)、参詣して大(おおい)に尊敬せり。斯(かく)の如(ごと)くなる事、日を重ねて弥(いよいよ)(さか)んに人々群集して、世人(せじん。世の人々)神明(しんめい。神々)の如(ごと)く思へり。

 いかなる故
(ゆえ)なれば、彼(かの)田矦(でんこう。田沼意次)の下を恵まず、諸人困窮に至る事甚(はなはだ)多し。専(もっぱ)ら賄賂(わいろ)を以(もって)邪曲(じゃきょく)なる事のみ有ければ、佐野氏が山州矦(さんしゅうこう。山城守だった田沼意知)に刃傷(にんじょう)に及び、程(ほど)なく山州矦死せられければ、世人是(これ)を大きに悦(よろこ)び抃躍(べんやく。手を打ち踊り上がって喜ぶこと)して、

「誠に是
(これ)より世も直(なお)るべい。年も豊(ゆたか)ならん」

などいふて、

「世直大明神也
(よなおしだいみょうじんなり)

とて普
(あまねく)(よろこ)びあへり。

 爰
(ここ)に於(おい)て、田矦の万民に憎(にくま)れたる事を知(しる)べし。彼(かの)佐野氏は俗にいふ怪知付(けちつけ)たるといふもの也。是を誉(ほむ)る者は一文不通(いちもんふつう)の町人共なれば、左(さ)も有べし。御旗本・御家人の族(やから)、又は歴々の輩(れきれきのやから。身分・家柄の高い人々)(これ)を悦(よろこ)び、

「世直也
(よなおしなり)

と是を賛美する者も少なからず。
(3)
2024年5月21日(火)
八百蔵と善左衛門(1)
 下級幕臣だった志賀紀豊(しがのりとよ)が、18世紀後期ころ(天明~寛政初年)の見聞を随筆『燕雀論(えんじゃくろん)』に記録している。このなかに、


 
近年死して四方に名を轟(とどろか)せし者ハ、安永年中(1772〜1781)に死にたる市川八百蔵(いちかわやおぞう)と佐野善左衛門(さのぜんざえもん)と也。(1)


という記述がある。死後のふたりの人気ぶりは、度を越したものだった。

 前者の市川八百蔵(二代目。1735〜1777)は、荒事・和事双方を得意とした人気歌舞伎役者。それがふとした風邪から病床につくとそのまま帰らぬ人となった。享年43。美男だったのでとりわけ女性の贔屓客(ひいききゃく。ファン)が多く、墓所の浅草観蔵院には大勢の女性たちが押しかけた。山東京山の『蛛乃糸巻(くものいとまき)』には次のようにある。


 
(この)八百蔵、其頃(そのころ)役者中の美男にて、婦女としてひいきせざるハなく、中車(ちゅうしゃ。八百蔵の俳名)うせたる初七日、婦女の参詣(さんけい)多く、浅艸(あさくさ)近辺のしきミの花(樒(しきみ)は仏前に供える植物)(うり)きれしと、京山母の物語りにきゝぬ。

 墓所に中車の紋所
(もんどころ)をつけし銀のかんざし、参詣の婦女手向(たむけ)の心にて地上にあまたさしおきしとぞ。

 又、戒名一枚百疋
(ひゃっぴき)づゝにて、寺より与へしとぞ。(2)

(市川八百蔵はその頃の役者中の美男で、女性の贔屓客が多かった。初七日は八百蔵の墓所に女性の贔屓客が押し寄せ、浅草近辺の樒の花が売り切れたと、私(京山)の母が語った。墓所には八百蔵の紋所をつけた高価な銀の簪が地上にたくさん刺さっていた。女性たちが手向けたものという。また寺では、八百蔵の戒名を書いた紙を1枚につき100疋(1疋は10文。100疋は1貫目。仮に1文=40円とすると4万円)の金をとって与えていたという)



 また、死絵(しにえ)と呼ばれる追善の役者絵が売り出されると、飛ぶように売れた。この絵を見て女性たちは悲嘆の涙に暮れたという。


 
(その)(うれ)たる事、日々千万の数を以(もっ)テし、彼(かの)贔屓(ひいき)なる女等(おんなら)、此画(このが)を求めて朝夕香花(こうげ)手向(たむけ)、懇(ねんごろ)に回向(えこう)す。

 甚敷
(はなはだしき)者ハ泪(なみだ)を流し、聲(こえ)を出して悲(かなし)めり。(3)
2024年5月18日(土)
勉強嫌いの子どもたち
 『寺子短歌』は18世紀半ばに成立した青本だ。当時の寺子の手習いの有様を少々戯画化しつつも「いろは歌」形式で紹介している。

 『寺子短歌』が刊行された時期は、寛政改革の学問奨励の風潮もあって寺子屋が簇生(そうせい)した頃だ。同書にも


  
 はつ午(うま)ごとの寺のぼり、まひ年ふえる子供達(1)


と、年々学童数が増加する様が詠まれている。

 「初午(はつうま)」は陰暦2月最初の午の日のこと。「寺のぼり」は寺子屋に入門すること。「寺のぼり」と表現したのは、当時寺入り(入門、入学)を山登りになぞらえ「初山踏(ういやまぶみ)」とか「初登山(しょとうざん)」などと言ったため。江戸時代には子どもが数え7、8歳になると親に連れられ、初午の日に寺子屋の師匠のもとに入門の挨拶に行った。

 学童数が増えると思わぬ諸問題が表面化する。特に師匠や親の頭を悩ましたのが子どもの勉強嫌いだ。当時の学習方法は退屈な反復練習が主だったため、幼い子どもたちはすぐに飽きてしまうのだった。

 十返舎一九の黄表紙に『初登山手習方帖(しょとうざんてならいほうじょう)』(寛政9年(1797)成立)という作品がある。この本の主人公の長松が、そうした典型的な勉強嫌いなのだ。

 長松もすぐ手習いに飽きてしまい、「草紙(手習草紙。文字を書くための練習帳)へやたら水をぶっかけ」
(2)はじめる。 これは「当時手習草紙は墨で書いたあと、それを乾かしさらにその上へ何回も書いて練習した。書く手間を怠けて乾かす時間をかせぐため水をかけ」(3)たのだ。『寺子短歌』にも


  
 にんぎやうばかり書(かき)たがり、草紙にそつと水をかけ(4)
   (落書きの人形描きばかりをしたがり、手習草紙にはこっそり水をかけている)


とあるから、当時はさぼるための常套手段だった。

 手習いに飽きて、おしゃべりや落書きをはじめる寺子はまだかわいい方だった。なかには師匠の目を盗み、芝居(しばい)・軽業(かるわざ)の真似事や喧嘩まではじめる悪童たちまでいる。


   
わるあがきして芝居のまね、机や硯をこわすな(5)
    (芝居の真似事の悪ふざけで、机や硯をこわすな)
 


 そんな寺子たちには師匠の教育的指導がはいる。当時のお仕置きには、昼食を食べさせぬ「食止め(じきどめ)」、水の入った茶碗を持たせて机の上に正座させる「捧満(ほうまん)」などがあった。現在から見ればほとんど体罰である。さらに、度を過ぎた悪戯(いたずら)をしたり、改善の見込みがないと判断されたりした寺子は破門(退学)となる。

 もっとも、当時の寺子屋にはあやまり役という慣行があった。寺子に代わってあやまり役が師匠に詫びを入れて許しを乞うたという。子どもに改心を迫るための一種馴れ合い芝居だった
(6)


【注】
(1)
『寺子短歌』。参照した東京都立中央図書館蔵本は、宝暦12年(1762)版(刷りは寛政6年(1794)以降)。
(2)(3)小池正胤外3名編『江戸の戯作絵本(四)』1983年、社会思想社(現代教養文庫)、P.146、本文及び注。
(4)(5)『寺子短歌』前出。
(6)あやまり役は、学友の中での年長者や近所の老人などがつとめたという。本人に代わって第三者があやまることで、本人に反省をうながし、師匠は機嫌を直して本人を許す。こうした段取りで、師匠と寺子の関係修復に一役買った。その様子は、傍(はた)からは芝居がかって見えたという(『日本史広辞典』1977年、山川出版社、「あやまり役」の項) 。 
2024年5月16日(木)
赤い糸
 これも成島峰雄(なるしまみねお。通称仙蔵、号衡山。1748〜1815)の『鳥けもの孝義伝』におさめられている話のひとつ(1)

 燕は人家の軒下に営巣して育雛(いくすう)の様子が観察しやすいため、わが国の昔話や伝説等のおいては親子愛の強い鳥と見なされてきた。ここでは、燕の夫婦愛が主題になっている。


 衛敬瑜(えいけいゆ)の妻が16歳の時に、夫の敬瑜が亡くなった。女はまだ年若く容姿も美しかった。女の両親は、娘が寡婦のまま生涯を終えるのを不憫に思い、しかるべき再縁先をさがしていた。しかし女の操はかたく、再縁の勧めを頑として聞き入れなかった。しかし、両親が親しい者を通じてさかんに縁談話を勧める。そこで女はひそかに自分の耳を削ぎ、改めて再縁しないという堅固な意志を示したのである。かくしては両親も、娘の再嫁をあきらめざるを得なかった。

 さて、女が住んでいた家の軒には、毎年春になるとつがいの燕が飛来し巣を営んでいた。ところが雄が亡くなったのだろう、ある年の春、雌だけがやってきた。これを見た女は


「なれもやもめにやなりにけむ(お前も寡婦になったのか)


と哀れに思い、その燕の脚に赤い糸を結んで放した。

 翌年の春、赤い糸をつけたあの燕がまた一羽だけでやってきた。ひとしお哀れを催した女は、次の詩を詠んだ。


  
昔年無偶去(せきねん、つれあいなくてさる)    今昔猶獨歸(こんせき、なおひとりかえる)
  故人恩已重
(こじんのおん、すでにおもし)     不忍復隻飛(しのびず、またならびとぶに)



 こうして6、7年ばかり、春秋を送り迎えたという。


【注】
(1)
成島峰雄著『鳥けもの孝義伝』寛政9(1797)年序文、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:190ー0324。  
2024年5月14日(火)
贔屭 (ひき・ひいき)
 石碑・墓石等の台座に、四肢をふんばった亀形の石が置かれていることがある。この台座の装飾を亀趺(きふ)という。亀趺はもとは中国で生まれ、朝鮮半島を経てわが国に伝来した。

 亀趺というものの実は亀ではなく、贔屭(ひき)という名の中国伝説上の神。龍が産んだ9頭の子ども(龍生九子(りゅうせいきゅうし))のうちのひとつで、姿が亀に似て重い物を背負うのが好きという変わった性質をもっている。だから土台の装飾に用いられたのだ。

 贔屭という漢字を見ると、貝の文字が六つも含まれている。貝という漢字は子安貝をかたどったものだ。子安貝は古代中国では貨幣として用いられたため、財・寶(宝)・賣(売)・買など財貨にまつわる漢字には貝の文字が含まれる。

 贔屭にも、もともとは「財貨を多く抱える」という意味があった。そこから「重荷を背負う」という意に転じ、さらには「力を尽くして働く」の意味になった。

 現在では贔屭というと「ひいき」と読んで、「自分が好意をもつ者に目を掛けて力添えすること・引き立てること」の意味で使われる。薄幸の主人公や弱者等に同情する「判官贔屭(はんがんびいき・ほうがんびいき)」や、お気に入りにだけ強く肩入れする「依怙贔屭(えこひいき)」の贔屭がこの意味合いだ。

 時に度が過ぎた贔屭は、かえって相手に迷惑を及ぼす場合がある。これを「贔屭(ひいき)の引き倒し」という。この言葉は、土台の贔屭(ひき)を無理に引っぱると、その上に置かれた石碑や柱が倒れてしまうことに由来するという。

 現在使われている言葉「贔屭の引き倒し」の中に、古代の「贔屭(ひき)」が生きながらえているとは何とも不思議な気がする。
2024年5月13日(月)
スッポンの恩返し
 動物が人間から受けた恩に報いるという動物報恩譚(どうぶうつほうおんたん)は、わが国では鶴の恩返しや舌切り雀、鼠浄土などの昔話や説話等において数多く見られる。それは中国においても同じらしい。

 幕府の御書物奉行だった成島峰雄(なるしまみねお。通称仙蔵、号衡山。1748〜1815)の著『鳥けもの孝義伝』には、そうした動物・鳥・魚・虫などの報恩譚が20話以上おさめられている(1)。次の話もそのひとつ。


 ある男が大きなスッポンを手に入れた。煮るのに釜のフタがなかったのだろう、竹笠で代用した。そろそろ煮えた頃だろうと思い、笠を取り除いてみると、笠の緒にスッポンがかたく取りすがっていた。肩の方は煮ただれていたものの、腹の方は何ともなく、頭や手足を伸び縮みさせていた。これを見て憐憫の情をもよおした男は、そのスッポンを前の川に逃してやった。

 その後、男は熱病を煩い、死の床にあった。

 ある夜、寝ていた男の胸に何かが這い上がる気配がした。すると、胸のあたりがすっと冷ややかになった。目覚めてから胸のあたりを見てみると、胸一面に川底の泥が塗りたくってあった。 ふと見ると、あのスッポンが外に出ていくところであった。去りぎわに、スッポンは男の方を三度まで振り返った。

 ほどなく、男の病は癒えたという。


【注】
(1)
成島峰雄著『鳥けもの孝義伝』寛政9(1797)年序文、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:190ー0324。原文は次のとおり。

「鼈(べつ)

 黄徳懐といへるもの大きなる鼈を得て烹けるに、釜のふたやあらざりけむ、䇹笠(たけがさ)をおほひてけり。今ハいかにもよく烹つらんとおもふほど、笠をとりて見けれは、鼈笠の緒にかたくとりすがりあふぎ、腹をそらさまになしてありけるまゝ背のかたハ湯にひたり烹たゞれけれども、腹ハにられず。かしら・手・あしなどのべちゞめはたらきけり。徳懐見てあはれミ、前の川にはなちぬ。

 その後徳懐熱をやミ死ぬべかりしに、夜に入、何なるらん、やをら胸のあたりへはひのぼるとおぼえしに胸ひやゝかに成て、めさめ見れは河の游泥(ひじりこ)を胸におほくぬりつけたり。鼈、外のかたへ出ゆくとて、しきミのあたり尾をひき、三たびまてかへりミ去ぬ。その日より病とミに愈(癒)けるとなり。」
2024年5月4日(土)
九九
 現在、小学校の2年生で九九を学ぶ。この九九は、もともとは中国で生まれた。中国では春秋・戦国時代(前770〜前221)に一般に広まり、わが国へは飛鳥時代(593〜710)に伝わったとされる。

 九九は田畑の計測や税の計算などで、役人たちにさぞや重宝されただろう。その後九九の知識は一般にも根づいていった。たとえば、『万葉集』に次の短歌がある。


  
若草の新手枕(にいたまくら)をまきそめて 夜を隔てむ憎くあらなくに(11巻・2542)


 この短歌の最終句は、原文(万葉仮名)では次のようになっている。


  
八十一不在國


 「に(二)
・くく(八十一。「九九八十一」)・あらなくに(不在國)」というわけだ。ほかにも十六、二五をそれぞれ「しし」「とお」と読ませた戯訓(ぎくん)の例が『万葉集』に見られる。

 九九はもともと「九九八十一」から始まるものだった
(1)。だから、九九といったのだ。それがいつ頃からか「一一が一」のように、小さい位から始まるようになった。それは中国では宋代(960〜1279)、わが国では安土・桃山時代(1568〜1600)から江戸時代初期にかけてのことだったといわれている(2)

 ところで一時期、19×19までの九九を暗唱させるインド式教育法が脚光を浴びたことがあった。文系出身の自分としては、そこまで覚える必要があるのかと疑問に思ったが、19×19までとはいかずとも二桁までの九九を学ぶのは英語圏ではふつうのことらしい。和英辞典で「九九」の項を引くと、次のように書いてあるからだ。


「the multiplication table ( 中略 ) 英米の表は 12×12 まである」(研究社新和英中辞典)


 九九で12×12まで学ぶのは、英語圏ではダース(1ダース=12)、グロス(1グロス=144=12×12)といった十二進法が浸透しているためだからだろう。


【注】
(1)
わが国の『口遊(くちずさみ)』(源為憲著の教科書・事典。平安時代中期成立)・『拾芥抄(しゅうがいしょう)』(洞院公賢撰・洞院実煕増補の百科便覧。南北朝時代成立)に載せられた九九表はすべて「九九八十一」から始まる。
(2)ポルトガル出身のイエズス会宣教師ロドリゲス(1561?〜1634?)が作った『日本大文典』(1604〜1608)には「九九八十一」から始まる九九と、「二二が四」から始まる九九が共存していたことが記されている。
 なお、江戸時代初期に成立した和算書『塵劫記』の九九表は、寛永4年版(1627)が一の段、寛永8年版(1631)が二の段から始まっている(吉田光由著・大矢真一校注『塵劫記』1977年、岩波文庫、P.23等による)。
2024年5月1日(水)
『偐紫田舎源氏』はなぜ絶板となったのか
 柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の合巻『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』が絶板処分(板木を没収したうえ焼却処分)になったのは、11代将軍の大奥生活を風刺したためだと従来考えられてきた。ところが近年、こうした「定説」に対して、実践女子大学教授の佐藤悟氏から異論が出た。

 超高精細4Kマイクロスコープを使った調査によって、『偐紫田舎源氏』に使用された紙が充填剤・平滑剤として大量の米粉を入れた三椏だったことがわかったのだ。この用紙は多色刷りに適した高級紙である。その上、当時は紙の値段が高騰しており、豪華な多色刷り表紙で装丁した『偐紫田舎源氏』の値段を一挙におしあげていた。幕府が倹約令を出し、贅沢な出版物を禁止していたさなかのことである。

 そこで佐藤氏は「『田舎源氏』絶板はその内容によるのではなく、幕府の物価統制に反するような価格であったことが原因と考えられる」
(1)と結論づけたのだ。


【注】
(1)
佐藤悟「『偐紫田舎源氏』の用紙について-なぜ絶板となったのか-」 https://www.jissen.ac.jp/bungei/event/r28lrh0000003hpb-att/2021SymposiumShiryo_1add.pdf
2024年4月30日(火)
人麻呂のご利益
 万葉歌人として知られる柿本人麻呂(人丸とも)。後世「歌聖」(1)とあがめられ、ついには神にまで昇格した。和歌三神の一柱とされ(2)、明石には柿本神社(一名、人丸神社)まで建立された(3)

 神様だったら、信者にご利益をもたらすはずだ。一体、どんなご利益があるのだろうか。

 まずは「歌聖」なので学問の上達は当然だろう。次に「人丸(人麻呂)=人生まる」から安産のご利益
(4)。また、同じ駄洒落から「人丸(人麻呂)=火止まる」で防火のご利益。

 しかし、江戸時代の民衆がもっとも人麻呂(人丸)に期待したのは、早起きができるようにとのご利益だった。 『古今和歌集』(巻九。読み人知らずだが、人麻呂の作とされた)の次の和歌、


  ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれ行く舟をしぞ思ふ


の上の句(五七五)を唱えてから寝ると、翌朝早起きできると信じられた。そして、目覚めるとすぐさま下の句(七七)を唱えるの決まりだった。次の江戸川柳が残っている。


  末世まで明石の浦で目を覚まし


 人麻呂の神通力は絶大で、寝ている者の寝ぼけまなこを開かせるばかりか、盲人の目をも開かせたという
(5)。しかし、人麻呂の神通力をもってしても、そのご利益からこぼれ落ちてしまう者は必ずいるものだ。次の川柳がある。


  
人麻呂に恥をかかせる寝濃(ねご)いこと


 「寝濃い」は寝坊のこと。早起きのまじないをしたにもかかわらず寝坊して、人麻呂に恥をかかせたという意味だ。


【注】
(1)
歌道に入門することを「山柿(さんし)の門に入る」という。山は山部赤人(または山上憶良)で柿は柿本人麻呂。
(2)和歌三神は住吉明神・玉津島明神(衣通姫)・柿本人麻呂。
(3)兵庫県明石市人丸町1-26。
(4)明石市の柿本神社では筆柿がご神木。この実を懐妊した婦人が懐中すると産が軽いとする。
(5)
明石の柿本神社に参詣した盲人の目が開き、不要になった桜の杖を捨てたところ、その枝に花が咲いたという(盲杖桜(もうじょうざくら)の伝説)。
(6)本文で引用した和歌・川柳はすべて次の書籍からの引用である。
  ・山澤英雄選・粕谷宏紀校注『柳多留名句選・(上)』1995年、岩波文庫、P.238。
  ・同上『柳多留名句選・(下)』1995年、岩波文庫、P.84。
  ・小栗清吾『江戸川柳おもしろ偉人伝100』2013年、平凡社新書、P.36〜37。
2024年4月26日(金)
大きな擂鉢
 備前国(現、岡山県東南部)に行った人が、ある瀬戸物屋の店で大きな擂鉢(すりばち)を見かけた。擂鉢は、すりこぎで食物を磨りつぶす陶器製の鉢のこと。当時、擂鉢は備前産のものが最上とされた。

 驚いたことに、その擂鉢は二間(にけん。約3.6m)四方の大きさだったという。これはとんでもない大きさだ。

 たとえば、畳一枚の大きさは縦一間(いっけん。約1.8m)、幅半間(はんけん。約0.9m)だ。したがって二間(約3.6m)四方は、八畳間の部屋と同じ大きさということになる。もっとも擂鉢というからには口縁部は円形だったろうから、「二間四方の擂鉢」というのは「口縁部の直径が3.6mの擂鉢」ということなのだろう。

 それにしても巨大な擂鉢であることに変わりはない。これほど大きな擂鉢を、一体何に使うのだろうか。興味をそそられた旅人が店主に尋ねたところ、次のような答えが返ってきた。


「これは久留米矦(くるめこう。久留米は現福岡県久留米市で、領主は有馬氏)より注文にてこしらへ進じたる時、かけがへ(掛け替え。予備のため用意しておく同種のもの)に出来したる也(なり)

 有馬の御在所
(ございしょ。国元)御別荘の手水鉢(ちょうずばち。手や口を洗いきよめる水を入れる容器)にせらるるよしにて、代金百三拾両に請合(うけあい)こしらへさせ侍(はべ)れど、如此(かくのごとく)(だい)なる物(もの)(ゆえ)、土にてこしらへ立(たつ)る間(あいだ)にふち(縁)よりくづ(崩)れて、七つにてこしらへそん(損)ぜし故(ゆえ)、百三十両にて請合侍(はべ)れど、大(おおい)に損耗(そんもう)に及(および)たり。

 これはその七つの内、餘計
(よけい)に焼(やき)たるが残りたる也。今ほど大なる物(もの)(ゆえ)、外(ほか)に望(のぞむ)人これなく、こまり侍(はべ)り、今は鳥目(ちょうもく。銭の異称)三十貫文にも賣申度(うりもうしたし)(1)

(これは久留米の有馬侯の注文で作った擂鉢の予備として作ったもの。国元の別荘の手水鉢とするとのことで、130両(1両10万円とすれば1300万円)の代金でその製作を請け負ったものの、このように大きなものなので、作るそばから口縁部から崩れてしまい、七つも造り直すはめに。これで130両では大赤字。店にある擂鉢はその七つ作ったうち、余分に焼いて失敗せずに残ったもの。しかし、こんなに大きな擂鉢なのでほかに買う人もなく、店としては困っている。今となっては銭30貫文(1両=銭4貫文とすれば7両2分で75万円)の捨て値でもよいから売ってしまいたい)


 「久留米矦」は筑後久留米藩21万石の第7代藩主有馬頼徸(ありまよりゆき。1714〜1783)のこと。

 有馬頼徸は関流算術にすぐれ、算学大名として世に知られた。著書に和算書『拾璣算法(しゅうきさんぽう)』5巻がある。また、同時代の溝口直温(みぞぐちなおあつ。越後新発田藩6万石、第7代藩主。1716〜1780)・松平宗衍(まつだいらむねのぶ。南海と号した。出雲松江藩18万6000石、第6代藩主。1729〜1782)とともに風流を愛する大名としても知られた。

 しかし、これほど巨大な擂鉢を大金を投じて造らせ、それを手水鉢に転用するなどといった行動は、奇趣・奇癖のたぐいと言っていい。この逸話も、


「大名の物数奇(ものずき)には無類成事(むるいなること)なり。彼矦(かのこう。有馬頼徸)、寛溶(かんよう)を好(このま)れ俠者(きょうしゃ。男伊達)(なる)ゆへ、かかる趣向もありしことにや」(2)


という感想で締めくくられているのだ。


【注】
(1)(2)
津村正恭『譚海・十二』写本、京都大学附属図書館蔵、請求記号:10-05/タ/5,547コマ。 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012471
 参考までに、有馬頼徸の逸話の続きを載せておく(『譚海・十二』前出、,547〜549コマ)。

 
亦(また)此(この)有馬矦、江戸品川に下屋敷(しもやしき)あり。海に臨て面白き家作(かさく)なり。朱の勾欄(こうらん)など設(もうけ)られて、珍敷(めずらしき)普請(ふしん)也。

 土用(立秋直前の夏の土用)中、宝生太夫(ほうしょうだゆう。能楽師の姓のひとつ)親子にて暑気見廻(みまわり)に参(まいり)扣(ひかえ)せし時、品川の下屋敷ニ矦の居(い)らるるよし聞(きき)て、箕田より直にかしこに趣(おもむき)しに、宝生太夫参上のよし聞れて、此矦(このこう)逢(あう)べしとて居間へよばれける。


 其日(そのひ)甚(はなはだ)暑成(あつくなり)しに、程〻(ほどほど)の蒲團(ふとん)を高くいくらも積重(つみかさ)ねて、有馬矦はだかにて紅の絹の犢鼻褌(ふんどし)一つ付られ、ふとんのいただきに座し、黒塗(くろぬり)に蒔繪(まきえ)したる七つはしごを双方ニかけて、給仕(きゅうじ)の婢(はしため。召使いの女)両人、絽(ろ。からみ織りの一種で透き目のある絹織物)の帷子(からびら。裏をつけない衣服の総称)一重(ひとえ)着て、はしごをおり登りする所也。

 宝生親子呼出(よびだ)されければ、宝生はふとんの下にうづくまり居(い)て、暑中の伺(うかが)ひを述(のべ)けるに、有馬矦上より声をかけて、

「けふは殊外(ことのほか)暑気也。ゆるりと休(やすみ)てかへるべし。なんと、女子共(おなごども)の内股(うちまた)は、下から見へるにや」

と申され、父子大(おおい)に迷惑して退出せりと人のかたりし。

 此(この)矦の奥へ時〻戯者(おどけもの)をまねかれ、終夜(しゅうや)芝居狂言(しばいきょうげん)有事(あること)時〻に及べり。戯者を奥へ通さるる通路、表の内玄関の側(かたわら。そば)に穴蔵(あなぐら)ありて、夫(それ)より入れば地道(地下道)を過(すぎ)て奥の舞臺(ぶたい)へ直に通らるるやうに構へられたるとぞ。

 諸藩中に比類なき俠客(きょうかく)成(なる)人なれども、朔望(さくぼう。陰暦の一日と十五日。大名の江戸城登城日)の勤(つとめ)怠(おこたり)なく、殊に年臈(ねんろう。年功)にて少将(左少将。歴代藩主より上の官位)に奉任あり。

 又数学は無双の事にて、家司(けいし。家政をつかさどった職)にも入江平馬などといふ儒者をはじめ、数学に達せし人多く有て、新著の算術の書抔(など)板行(はんこう。出版)にせられたるあり。算人(さんじん。算術の達人)も未(いまだ)解しかねたる法迄(まで)術を付(つけ)たる書にて、天下の数学は嘆美(たんび。感心してほめる)する事共(ことども)多しとぞ。
2024年4月24日(水)
江戸の再生紙
 Reduce(リデュース)、Reuse(リユース)、Recycle(リサイクル)の3Rが推奨されている。このうちリサイクルは資源の再利用を意味する。たとえば、古新聞紙を段ボール紙に再生して利用するなどの例がある。

 しかし、再生紙の利用は今にはじまったことではない。江戸時代にも浅草紙(あさくさがみ)という再生紙があった。

 紙屑拾いが江戸中から回収した屑紙を材料にして、江戸の浅草山谷(あさくさ・さんや)に居住していた紙漉き職人たちが漉き返したのが浅草紙だ。東京都台東区浅草1丁目には、今も紙洗橋(かみあらいばし。隅田川につづく山谷堀にかけられていた橋。現在は公園になっている)の地名が残る。紙漉きの準備段階として、ここで材料の屑紙を川の水にさらしたのだ。

 ただ、当時はひとつやっかいな問題があった。文字を書くのに墨を使っていたため、漉き返した紙の色がどうしても黒くなってしまうのだ。浅草紙は黒くて粗悪な紙だったっため、用途は便所の落とし紙(トイレットペーパー)や鼻紙等に限られた。値段も100枚100文ほどだったという。
(1)

 そんな粗悪で安価な浅草紙は、草双紙(くさぞうし)にも使用された。草双紙の草というのは、正統派の双紙(そうし。冊子、草子、草紙)に対して、本格的なものではないという意味だ。おなじ草の字を冠した草相撲・草野球・草競馬などと同様の意味合いである。
(2)草双紙はそもそもが読み捨てられるものだったから、粗悪で安価な再生紙が使用されたのだろう。

 たとえば、草双紙のジャンルのひとつに黄表紙(B6判を一回り小さくした大きさで、挿絵と仮名書き中心の文章からなる大人の絵本)というのがある。これにも浅草紙が使われた。少々厚みのある表紙・裏表紙は鬱金(うこん。ターメリック。カレー粉や漢方薬等に使用される)で黄色に染められているため、一見すると何の紙を使用しているのかわからない。しかし、本文を繰ると紙質がごわごわし色も黒ずんだ、いかにも粗悪な浅草紙なのである。


【注】
(1)
喜多川守貞著・宇佐美英機校訂『近世風俗志(1)』1996年、岩波文庫、P.266。

(2)ただし曲亭馬琴の解釈は違う。馬琴は『近世物之本江戸作者部類』の中で「この冊子は書皮(ひょうし。表紙)に至るまで薄様の返魂紙(すきかえしがみ。再生紙、浅草紙)にて悪墨のにほひ有故(あるゆえ)に臭草紙(くさぞうし)の名を負(おわ)したり」と言っている。紙が臭うので「臭い双紙(冊子、草子、草紙)」という解釈だ。(佐藤悟「草双紙の造本形態と価格」、近世文芸56号、1992年、P.47の引用史料による)
2024年4月21日(日)
元禄地震
 4月17日の23:00過ぎ、愛媛・高知でM6.4の地震が発生、最大震度6弱を観測した。就寝中の突然の地震に、驚いて飛び起きた方々も多かろう。被害の少なさを願うばかりだ。

 ところで、寝込みを襲った地震といえば、元禄地震が想起される。元禄16年11月23日丑の刻(1703年12月31日午前2時頃)に相模トラフで発生した海溝型巨大地震で、最大M8.2前後と推定されている。(1) 当時の史料には次のようにある。


 
同十一月廿二日江戸大地震、神社仏閣破損、甲府様御長屋ゆりくづれ、其外(そのほか)諸大名方御屋敷大破、殿様御奉書(ごほうしょ)ニ而(にて)御火消(おんひけし被仰付候(おおせつけられそうろう)。 ( 後略 )

 地震ハ一日に十二、三度計
(ばかり)ニ而止不申(やみもうさず)、廿二日之地震ニハ、地割或(あるい)ハ津波立申候。(2)

(11月22日(実際は23日)に江戸大地震があった。神社仏閣は破損。甲府藩邸内の長屋が地震で倒壊。そのほか諸大名の屋敷も大破した。山形藩上杉家では幕府老中からの奉書を受け火消し作業に当たった。地震は1日に12、3度ばかりあって止まず、22日の地震では地割れや津波が立った)



 この史料には、地震による建物の破損・倒壊、火災の発生、余震の頻発、地割れや津波の発生などあったことが記録されている。

 新井白石の自叙伝『折たく柴の記』には、地震直後の江戸の状況が具体的に描かれている。白石は当時、甲府藩主徳川綱豊(のちの6代将軍家宣)に侍講として仕え、湯島天神下に居を構えていた。

 自宅で被災した白石は、妻子を連れて庭に避難。倒れた戸を地面に敷並べて地割れの危険から家族を守ると、主君の安否を確認するため江戸城日比谷門外にあった甲府藩邸を目指した。神田明神の東門下あたりで、再び激震に襲われた。ここらの商家では戸を開けて、大勢の人々が小路に集まっていた。家の中に明かりが見えたので、火災の発生を懸念した白石は、


 
家たふれなば、火こそ出べけれ。燈うちけすべきものを(3)

 (家が倒壊すれば火事になろう。明かりを消せ)



と叫びながらその場を走り抜けた。すると神田橋手前でまた激震。多くの家屋が倒壊する音や人々の叫び声だろうか、たくさんの箸をへし折るような、また蚊が多く集まって鳴くような音が聞こえた。また石垣から石が転がり落ち、土が崩れて塵ぼこりが起きて空をおおった。


 
おほくの箸(はし)を折るごとく、また蚊の聚(あつま)りなくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人のさけぶ聲(こえ)なるべし。石垣の石走り土崩れ、塵(ちり)起りて空を蔽(おお)ふ。(4)


 
火災も発生していたが、消火するにも水が尽きて手の施しようがない。


 
かくてかの火出しところにゆきて見るに、たふれし家に、壓(おさ)れ死せしものどもを、引出したる、こゝかしこにあり。井泉ことごとくつきて水なければ、火消すべきやうもあらず。(5)  


 こうした大地震直後の生々しい被災状況が『折たく柴の記』には記録されている。その中には、地割れから水が噴出するという液状化現象らしき記述もある。現在われわれが目にするような災害現象のほとんどは、過去にすでに起こっていたのだ。

 過去の貴重な災害事例に学ぶことは、今日、防災を考える上においてきわめて有効だ。


【注】
(1)
元禄地震の災害教訓の継承に関する検討会『1703元禄地震報告書』平成25年3月、内閣府(防災担当)、「はじめに」。
(2)『鶏肋編』第58冊。 東京大学地震火山史料連携研究機構「地震史料集テキストデータベース」による。
(3)新井白石著・羽仁五郎校訂『折りたく柴の記』1977年(21刷。1939年初版、1949年改版)、岩波文庫、P.82。(4)(5)『折りたく柴の記』前出、P.84。
2024年4月19日(金)
牡丹の人
 北村季吟の俳諧季寄せ『山之井』を眺めていると、夏の季語「牡丹」の項に


 
ぼたんハ重衡(しげひら)の形にもたとへ(1)


という記述があった。

 平重衡(たいらのしげひら。1157〜1185)は平清盛の五男で、宗盛・知盛の同母弟(母は平時子)。正三位左近衛権中将だったので、三位中将と称せられた。

 『平家物語』(巻第十・千手前)によると、重衡は一ノ谷で捕虜となり鎌倉へ護送された。この時源頼朝は、武勇の人とばかり思っていた重衡が、実は風雅を愛する文化人であることを知った。頼朝側近の中原親能(なかはらのちかよし)は、重衡の人物像を頼朝に次のように語っている。


 
平家はもとより代々の歌人・才人達で候也(そうろうなり)。先年この人々を花にたとへ候(そうらい)しに、此(この)三位中将(重衡)をば牡丹の花にたとへて候しぞかし。(2)


 また、室町時代の成立ではあるが、平家の人々を花にたとえた『平家人物論』(『平家花揃(へいけはなぞろえ)』とも)は、重衡のことを次のように書く。


 ことさら人のためおもひやりふかく(思いやり深く)、心ざま(心様。気立て)なつかしく(親しみやすく)、なさけなさけしく(情け情けしく。情愛深く)もてなし(振る舞い)、みめ(見目。容貌・器量)もれいの一もとゆへにや(例の平家一門のゆかりだけあってか)いとよくて(たいそう美しく)、うちわらひたまへるなどこそ(ふと笑われた様子など)ことにみまほしけれ(とりわけ見るかいがあるものだ)

 
ぼたんの花の匂(におい)おほく咲(さき)ミだれたるあさぼらけ(朝ぼらけ。夜明け方)に、初時鳥(はつほととぎす。初夏、初めて声を聞くホトトギス)の一聲(ひとこえ)おとづれるほどとやきこへん。(3)


 重衡は明るく情愛深い人だった。だから、その華やかな人柄を牡丹の花に譬えたのだろう。

 しかし南都焼討ち(なんとやきうち。東大寺・興福寺を焼討ちにした)の罪を問われた重衡は、鎌倉から奈良に護送された。そして木津川畔において斬首されたのち、奈良坂に梟首されたのである。29歳だったという(生年に異説あり)。


【注】
(1)
北村季吟『山之井』早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫31 A0017。
(2)梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(四)』1999年、岩波文庫、P.66 。
(3)『平家人物論』(旭岱子編『墨海山筆』別集8所収)国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:217-0031。
2024年4月16日(火)
桜田事件の新史料
 2024年4月10日放送のNHK総合TV「歴史探偵」で、鳥取藩士安達清一郎の日記(個人蔵)が紹介されていた。番組によると、安達は桜田門外の変(1860)の当事者である水戸浪士の関鉄之介を匿った人物。安達は関から、井伊の致命傷はピストルによるものだったことを聞き、それを日記に記録した。この井伊の死因こそが新事実という。

 たまたまインターネット上に鳥取県立博物館から産経新聞に提供された日記の写真(該当部分)があったので、それを読み下してみた。読みやすいように、適宜句読点や注を入れておいた。


 
江戸ニテ銕ノ助(てつのすけ。関鉄之助)ハ同志十七人ト相議(あいぎ)シ、芝居料理屋(しばいりょうりや)ニテ身ヲ潜(ひそ)メ形迹(けいせき)ヲ隠シ、二日(安政7年(1860)3月2日)ノ夜ハ品川ノ大相模(おおさがみ。旅籠屋の相模屋で通称は「土蔵相模」)ナル妓楼(ぎろう)ニテ大愉快(だいゆかい)ヲ盡(つく)シ、三日早天(3月3日の早朝)支度(したく)シテ愛宕(あたご)ニ上リ、木綿ヲ買フテタスキヲ掛ケ、赤合羽(あかがっぱ)ヲ上ニ着テ、下ハ皆馬乗リ袴(ばかま)(あるい)ハ小袴(こばかま)等也(などなり)

 折節
(おりふ)シ雪緊(きび)シク咫尺(しせき。わずかの距離)モ辨(べん)ゼザレバ、天ノ幸(さいわ)イト早朝ヨリ桜田ニ待カケ居(い)タリ。 銕ノ助ハ(井伊の行列が)屋敷ヨリ出(い)ズルヲ見届ケント、彦根(井伊の屋敷)ノ門前ヲ徘徊(はいかい)セシニ、五ツ時(辰の刻。午前八時頃)開門アツテ出(い)ヅ。

 乃
(すなわ)チ奔(はし)リ来(きた)リテ同志ト示シ合セ、合図ノヒストン(ピストル)ヲ打出(うちだ)シケレバ、彦根ノ供廻(ともまわ)リハ皆駕(かご)ヲ擲(なげつ)ケテ(駕籠を投げ捨てて)八、九間(十五、六メートル)(あと。後ろ)エ退キヌ。

 乃
(すなわち)(かご)ノ戸ヲ開ケバ、ヒストンノ玉(井伊直弼の)胸先ニ中(あた)リテ死シ居(お)リヌ。乃チ引出シテズタズタニ切付(きりつけ)ケ、首ハ薩州ノ有村(薩摩浪士の有村次左衛門)打取(うちとり)リテ所持ス。水戸人ハ十六人ニテ薩人ハ只一人故(ゆえ)、首ハ薩人へ譲リシ也(なり)

 本望ヲ達シタリト大音
(だいおん。大音声)ヲ揚(あ)ゲ、引取(ひきと)ラントスル時、五、六人抜(ぬ)キ連(つ)レテ来(きた)レドモ、三、四人打斃(うちたお)シケレバ皆迯(にげ)(ち)リヌ。

 存
(ぞん)ノ外(ほか)ニ腰ノ抜ケタル侍ノミニテ、初(はじめ)ヨリケ様(かよう)ニ容易ニハ仕遂(しと)ゲマジト思ヒシニ、誠ニ容易ナリケル由(よし)


【補足】
 安政7年(1860)3月3日の上巳(じょうし)の節句を狙い、井伊暗殺は決行された。井伊家から桜田門まではわずか400メートルの距離。当時、井伊の供廻りは約60人おり、襲撃した水戸浪士ら(18人)の3倍の人数だった。その上、井伊直弼は居合の達人だった。それがやすやすと水戸浪士らに討たれてしまったのはなぜか。

 事件が起きると、井伊の乗った駕籠を投げ捨てて、従者たちの大半が逃走した。彼らは行列の体裁をつくろうための臨時雇いに過ぎなかった。実際の彦根藩士は26人だけだったのだ。

 また、事件当日は3月にはめずらしく降雪があった。彦根藩士たちは笠・合羽を着用し、刀の柄に覆(おお)いをつけていた。これが徒(あだ)となった。寒さで手が悴(かじか)んですぐには刀の覆いがはずせず、突然の襲撃に俊敏な対応ができなかった。このため水戸浪士らに次々と斬り伏せられたのだ。

 なお、水戸浪士らは少なくとも3挺のピストルを所持していたことがわかっている(関鉄之介、森五六郎、森山繁之介が各1挺ずつ)が、井伊に致命傷を与えた銃弾を誰が撃ったのかは不明。直訴状を掲げて井伊の行列を止め、警護の武士を切り伏せたのち、至近距離から井伊の駕籠めがけて銃弾を放った森五六郎の可能性が一番高いという。(NHK「歴史探偵」の放送内容を参考) 
2024年4月14日(日)
逃げ足
 昌平坂学問所の教授には、旗本・御家人の中から優秀な人材を選抜した。

 人材を幕臣に限ったのは、ほかから優秀な人材を招聘しても諸藩で人材を出し惜しみしたからだ。

 たとえば、佐賀藩儒だった古賀精里(こがせいり。1750〜1817)は、幕命で昌平坂学問所の儒官に呼び出された。しかし、藩では精里の他出を惜しんだ。そこで、精里が国を出る際には鎗を持って追いかけたという。

 精里が幕府儒官になれたのは、追っ手に追いつかれなかったからだ。ただし、追っ手の方でも「内々は(精里が幕儒となることを)承知で追駆けたのか知らぬが、とにかく追い付かずに帰って来た」
(1)ということになっている。

 もっとも、精里は本当に逃げ足が速かったのかも知れない。


【注】
(1)
旧事諮問会編・進士慶幹校注『旧事諮問録(下)』1986年、岩波文庫、P.159
2024年4月10日(水)
水戸藩の敬老会
 ある年の9月下旬、水戸藩9代藩主徳川斉昭が偕楽園(かいらくえん。現、日本三大名園の一つ)内にある好文亭(こうぶんてい)で敬老会を催した。

 招待者は諸士は80歳以上、それ以下の身分の者は90歳以上が対象だった。出席者には酒食が振る舞われ、書画詩歌に自信のある者は藩主の御前でその腕前を披露する光栄に浴した。

 招待者の中には100歳の農夫もいた。行歩が思うに任せないというので、当初は出席を渋っていた。しかし、


「駕(かご)もて出(いで)て亭(てい)に休共(やすむとも)、何歟(なにか)苦とせん。頓(とみ)に出(いで)よ」

(駕籠に乗ったまま出てきて、好文亭で休息していても構わない。すぐに出てくるように)


との藩主の強い意向である。そこで駕籠に乗ってお庭まで参上した。しかし起き上がることができない。結局は、駕籠の中に伏せながら酒食を頂戴したのである。  

 さて、宴の最後に、斉昭から老人たちに次のような言葉があった。


「寒からざる様(よう)製し、且(かつ)裏は袖口(そでぐち)までも外面より見へ候様(そうろうよう)仕立(したて)べく」


 そして老人たちへ一様に、表地用の結縮緬(むすびちりめん。短い生糸を手で結んでつなぎ、緯糸(よこいと)に使用したもの)、裏地用の本紅(ほんもみ。紅花だけで染めた紅染(もみぞめ))、そして中に入れる真綿一結を下賜したのである。

 この日の豪華な下賜品は、武士より下民に至るまで差別なくすべて同一の品物だった。

 実は前日まで、農民への下賜品には違った品物が用意されていた。ところが敬老会当日、農民に下賜する衣服を見た斉昭が、


「表地(おもてじ)尚更(なおさら)、裏も狭く麁末(そまつ)なり。ケ様(かよう)なる品は手づから遣(つかわ)しがたし。捨(すて)て仕舞(しまえ)

(表地ばかりか、裏地も狭く粗末だ。こんなひどい品物を、藩主の手から老人たちに下賜などできない。廃棄してしまえ)


と怒ったのだ。そこで役人たちは急遽呉服屋まで走り、代わりの品を用意するはめになった。それゆえ、反物を衣服に仕立てる時間などなかったのである。

 こうした斉昭の「尊慮」を聞いた者たちは、「感涙(かんるい)袖(そで)を潤(うるお)し」たという。


【注】
以上、加藤寛斎『寛斎筆記・人』岩瀬文庫蔵、請求番号:13825注95-146による。 
2024年4月9日(火)
鬼犾頭(きぎんとう)
 日本の歴史的建造物には木造が多い。木造建造物の一番の大敵は何といっても火災だ。そこで火災よけのまじないとして、さまざまな想像上の生き物の飾りが屋根の上にのせられてきた。そうした装飾品は中国伝来のものが多い。鴟尾(しび)、魚虎(しゃち。しゃちほこ。鯱鉾)、鬼犾頭(きぎんとう)などがそれだ。

 これらの装飾のうち、鴟尾(しび)は東大寺大仏殿などの仏教寺院に、魚虎(しゃち。しゃちほこ)は名古屋城天守閣などの城郭建築によく見られるので、われわれにとって馴染み深い。しかし、鬼犾頭(きぎんとう)だけはピンとこない。それは鬼犾頭を見たり聞いたりする機会が少ないためだろう。そもそも「鬼犾頭」は文字自体も難しく、初見ではまず読めない。

 鬼犾頭(きぎんとう)が見られるのは、たとえば湯島聖堂。大成殿の屋根の大棟に鎮座している。大成殿は孔子廟(こうしびょう。孔子を祀った霊廟)のこと。孟子が孔子を、智徳すべてを集めて「大成」した人物と評したため、かく命名された(殿は建物の意)。ちなみにこれが「集大成」の語源である。

 さて、鬼犾頭(きぎんとう)の力及ばず、関東大震災(1923)に際しては湯島聖堂も罹災した。現在の大成殿は昭和10年(1935)に再建されたもの。この時、伊藤忠太氏が設計した現在の鬼犾頭(きぎんとう)などの霊獣たちも屋根の上にのせられた。

 鬼犾頭(きぎんとう)は魚虎(しゃち。しゃちほこ)によく似ている。寺島良安の『和漢三才図会』には


「城楼(じょうろう)の屋棟(やね)の瓦に龍頭魚身の形を作り置く。これを魚虎(しゃちほこ)と謂(い)ふ」


とあるが、ふつう魚虎は虎頭魚身の姿に造られる。

 一方、鬼犾頭(きぎんとう)は竜頭魚身で双角双脚をもつ。遠目では魚虎(しゃち。しゃちほこ)とよく似ているが、頭から勢いよく水を噴き上げているところで区別がつく。
2024年4月7日(日)
狂歌で出世
 木室卯雲(きむろぼううん。1714〜1783)は名を朝濤(ともなみ)、通称を庄七郎、庄左衛門、七左衛門といった。御家人でのち旗本となった幕臣だった。『寛政重修諸家譜』1484巻に伝がある。(1)

 卯雲は文人としても知られ、白鯉館(はくりかん)卯雲の号で狂歌をよくした。著作に、噺本(はなしぼん)『鹿の子餅(かのこもち)』、随筆『見た京物語』、狂歌集『今日歌集(きょうかしゅう)』などがある。

 さて、卯雲は御徒目付(おかちめつけ)を振り出しに、長らく小普請(こぶしん)方を勤めたが、なかなか芽が出なかった。老境に入り、頭が禿げて赤くなった。そこで次の狂歌を詠んだ。


  
色黒く頭の赤きわれなれば、番(ばん)の頭(かしら)になりさうなもの


 狂歌は「番の頭」に「鷭(ばん)の頭」が掛けてある。鷭はツル目クイナ科の水鳥で、全身黒褐色で額から嘴(くちばし)の基部にかけてが赤い。鳴き声が人間の笑い声のように聞こえる。

 鷭の姿にわが身の老いた容貌を重ね、「いい年になったのでそろそろどこかの番の頭になってもよさそうなものなのに」と久しく昇進がかなわぬわが身の境遇を自嘲的に詠んだのだ。

 いつしかこの狂歌が幕府老中の耳に達し、卯雲は明和5年(1768)、御広敷番頭(おひろしきばんのかしら。大奥の警備を担当)に昇進したという。


【注】
(1)
『寛政重脩諸家譜・第八輯』、1923年、國民圖書、P.864。
(2)太田南畝『奴師労之』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:218-0002。
2024年4月4日(木)
旌桜(はたさくら)
 茨城県常陸太田市瑞龍町(ずいりゅうちょう)字(あざ)旌野(はたの)の旌桜寺跡(せいおうじあと。かつて白雲山旌桜寺という寺院があった跡地)には、地元の人々が「旌桜(はたさくら)」と呼ぶ桜がある。

 開花した花を一輪ずつさがすと、雄蕊(おしべ)の先にもう一つ小さな花びらをつけたような花が見つかる。その姿はあたかも旗(旌)を立てたようだ。

 この「旌桜」には次のような伝承がある。

 堀河天皇の御代、源義家が奥州反乱を鎮定して京都へ凱旋する途中、当地で兵馬を休息させた。そのとき桜の木を用いて旌竿(はたざお)とした。しかし当地を離れる際、旌竿を残したまま出発してしまった。のちにこの旌竿から根が生じ、桜の大樹となったのだという。
(1)

 水戸藩2代藩主徳川光圀もしばしば観桜に当地を訪れた。現在の桜樹は3代目と伝わる。


【注】
(1)
水戸藩の下吏加藤寛斎が著した『加藤寛斎随筆』に次のようにある。

土人相伝、堀川天皇ノ世源義家討奥賊凱旋、結営此地休息兵馬、義家用桜樹為旌竿、掌旌者樹於地、及徹営帰去掌旌者遺旌竿去ル、竿根入地生萠芽、明年三月開花、終為大桜樹、後人名曰旌桜云」
(茨城県史編さん近世史第1部会編『近世史料Ⅵ・加藤寛斎随筆』1975年、茨城県、P.38)
2024年4月3日(水)
大島桜と日立銅山
 茨城県日立市には「大煙突」で有名な日立銅山があった。この日立銅山は大島桜と縁がある。

 日立銅山の開発は江戸時代に遡るが、本格的な開発は近代になってからだ。電気材料としての銅需要の高まりから、足尾(栃木)・小坂(秋田)・別子(愛媛)の各銅山とならんで銅の採掘量が急増した。当時は「銅は国家なり」とまでいわれたという。

 しかし、銅鉱石を精錬すると、硫黄など不純物を含んだ鉱滓(こうさい。スラグ)や亜硫酸ガスなどが大量に排出される。公害防止技術の未熟な時代のことだ。足尾では渡良瀬川の鉱毒水問題がおこったが、日立では亜硫酸ガスによる煙害問題がおこった。煙害によって山々の木々が枯死して一帯は禿山(はげやま)となり、地域の林業・農業等に大きな被害を与えた。

 しかし、企業側も手をこまねいていたわけではない。煙害防止のために、次のようなさまざまな対策を試みたのである。

 ・各所に気象観測所をもうけ、気象条件が悪く亜硫酸ガスの被害が出そうになると精錬を制限した。
 ・百足煙道(むかでえんどう)・達磨煙突を次々建設して煙害軽減をはかった(いずれも効果なく失敗)。
 ・大煙突(高さ155.7m。当時世界一の高さ)を建設し、上昇気流にのせて亜硫酸ガスの希釈をはかった。
 ・地域住民への煙害補償、植樹用の杉苗等の無償配布、など。

 こうした努力もあって、煙害を被ったかつての禿山は、現在緑におおわれている。ヤシャブシやカエデなど雑多な樹種が生育するなか、当地にはなかった大島桜も見られる。煙害対策の研究をおこなっていた企業側が「火山島(伊豆大島)に生える木なら煙害にも強かろう」と、煙害被害地に大島桜の苗木を無償配布したからだ。

 大島桜の葉は塩漬けにされ、桜餅を包む材料として利用される。そのためか桜餅を食べるたびに、大島桜と日立銅山のこのエピソードが思いおこされる。

 ちなみに日立の市街地にはソメイヨシノが植樹された。日立駅前から平和通りへとのびる一帯は現在、桜の名所として知られる。
2024年4月2日(火)
桜餅の葉
 ふつうの桜餅(関東風桜餅)は、塩漬けにした桜の葉一枚で餅を包んである。しかし江戸向島の長命寺桜餅は、葉を三枚も使用している。なぜ枚数が多いのだろう。

 そもそも長命寺桜餅が最初に作られたのは、江戸時代だった。享保年間、8代徳川吉宗が隅田川の堤防に桜を植樹させたのが長命寺桜餅誕生のきっかけという。

 墨堤には4代将軍家綱の代、すでに桜が植えられていたが、吉宗がさらに100本の桜を植樹させたという。それは、大勢の花見客の往来によって、堤防を踏み固めさせようと目論んだからとされる。

 しかし延々と植えられた桜樹が落葉すると、その量が半端ない。落葉期の掃除に辟易していた長命寺の門番山本新六は、桜葉の利用法を考えていたが、ふと桜餅に利用することを思いついたという。これが長命寺桜餅の由来とされる。桜の葉がふんだんにあったため、新六は惜しげもなく桜葉を三枚も使用したのだろう。

 もっとも現在は、長命寺桜餅には墨堤の桜樹(ソメイヨシノをはじめ品種さまざま)の葉でなく、西伊豆・松崎産の大島桜の葉を使用しているという。
(1)


【注】
(1)
「長命寺桜もち 山本や」のHPによる。https://sakura-mochi.com
2024年4月1日(月)
御恥辱を顧みられず
 8代将軍吉宗は享保7年(1722)7月3日、諸大名に対して1万石につき100石の上米(あげまい。献米)を求めた。幕府財政の悪化は甚だしく、このままでは数百人の御家人を解雇せざるを得ないというのだ。そして、上米の見返りとして吉宗は、諸大名に参勤交代の在府期間の半減を約束したのである。


 
御代々(おんだいだい)御沙汰(ごさた)これ無き事に候得共(そうらえども)、万石以上の面々(大名のこと)より八木(はちぼく。米のこと)差し上げ候様(そうろうよう)に仰(おお)せ付けらるべしと思(おぼ)し召し候(そうろう)。左候(さそうら)はねば御家人の内数百人、御扶持(おふち)を召し放さるべきより外はこれ無く候故(そうろうゆえ)、御恥辱(ごちじょく)を顧(かえり)みられず仰(おお)せ出(いだ)され候(そうろう)(1)


 文中の「御恥辱を顧みられず」という文言からは、幕府財政の窮状を率直に吐露した吉宗の苦しい胸のうちが読み取れよう。

 ところで、この言葉は幕府役人の作文でなく、吉宗自身の文言だった。そして吉宗はこの文言にご満悦だったという。その理由を福留真紀氏は次のように解説する。


 
これは( 中略 )将軍らしからぬ、フットワークが軽く、大胆な吉宗の性格がにじみ出た、申し渡しといえるのでないだろうか。紀伊国の大名だったからこそ諸大名の気持ちを鑑み、吉宗は、「将軍である私がここまで腹を割ったのだから、お前たち頼むぞ」というメッセージを込めたかったのであろうし、それが表現できたことで、自分の文章に御満悦だったのである。(2)


 しかし、「御恥辱を顧みられず」というフレーズは、儒学者たちを当惑させた。

 たとえば、荻生徂徠は「有徳廟(ゆうとくびょう。吉宗)ノ上米ヲ命ゼラレタル時、恥辱ヲステテ仰出(おおせいだ)サルトアリケルヲ大ニ譏(そし)」
(3)ったといい、また室鳩巣は、吉宗は「御文盲(ごもんもう。学問がない)」なので率直に自分の考えを書いたのだと言っている(4)

 建前から言えば、大名が統治する領地は本来は将軍の領地である。したがって、将軍が大名にお願いするという姿勢が不適切なのだ。これでは将軍の権威を損なうばかりでなく、「御恥辱を顧みられず」という言葉が後世に残り、後人の非難を受けてしまう恐れがある。そこで儒学者たちは「書くならもっと別な書きようがあったのに」と考えたのだった。


【注】
(1)
『御触書』のうちNo.44「御切米御足高被下金拝借并上納等之部」享保七年寅年七月の条(27コマ目)を読み下した。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:180-0039。
(2)福留真紀『将軍と側近』2014年、新潮新書、P.219。
(3)湯浅常山識、湯浅明善校『文会雑記』巻之一、早稲田大学図書館蔵、請求記号:イ17_00069。
(4) 『将軍と側近』前出、P.218。
2024年3月28日(木)
船はどこから
 海辺にはさまざまな物が漂着する。それが椰子の実なら詩心も誘われよう。しかし、ペットボトル・レジ袋等のゴミなら顰蹙(ひんしゅく)せざるを得ない。

 さて、江戸時代にも変わった物が漂着している。たとえば、宝永2年(1705。または宝永5年(1708)ともいう)7月には、三河国渥美郡田原(現、愛知県田原市)の海辺に無人の「琉球船」が漂着した。

 「琉球船」の長さは1丈2尺ほど(約3.6m)で、幅は4尺(約1.2m)ほど。ただし、この船を「琉球船」と判断した根拠は不明。船の外観が朱塗りだったからだろうか。

 ただ、この「琉球船」の積載物は、次のように奇妙なものばかりだった。

  ・直径7cmほどの甲(かぶと)が九つ
  ・50cm弱の長刀(なぎなた)が一振(ひとふり)
  ・周囲が12cmほどの小皿が4枚
  ・米が積まれており、その大きさが日本産の米粒の半分ほど

 おもちゃのような小さなものばかりが積まれていたのだ。そこで、 人びとは


 右、何
(いず)れより来(きた)りし共(とも)不知(しれず)。若小人嶋(しょうじんじまのごとき)より流れ来(きた)るかと取沙汰(とりざた)(そうろう)

(右の船はどこから流れ来たのか不明だ。小人島のようなところから流れ来たのではないかと取り沙汰された)


という。
(1)


【注】
(1)
以上、『諸留書・三』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0122による。全文は次のとおり。

一、同年七月、三宅備前守殿(みやけびぜんのかみどの)領分(りょうぶん。大名の領地)三州(三河国)田原海辺へ琉球船流来。
 船長サ壱丈弐尺(いちじょうにしゃく)程(ほど)、巾(はば)四尺(よんしゃく)程、外朱(しゅ)、梁(はり)内黒ぬり、
 四分一金物、シンチウ(真鍮)ノ鉄打(かねうつ)、人ハ無之(これなし)

    船の内(うち)有之(これあり)具(ぐ。道具)
  一、指渡(さしわた)し弐寸三分(にすんさんぶ)程  甲(かぶと)九ツ  
  一、小斧(こおの) 一挺
  一、一尺六寸(いっしゃくろくすん)程長刀(なぎなた) 一振(ひとふり)、柄(え)共
  一、金入純子切(きんいりどんすきれ。純子は緞子(どんす)。金糸入りの緞子の布)
  一、小(ちいさ)キ袋三、四分 袋大キサ米壱合五勺(いちごうごしゃく)程入、内ニ米有之(これあり)、
    米ハ此地(このち。日本産)の米半粒(はんつぶ)程有之
  一、米一斗五升(いっとごしょう)程入袋、壱勺(いっしゃく)袋上書(うわがき)ニ弟子季中米と書付(かきつけ)有(あり)
  一、四寸廻(まわ)り程の皿四枚

 右、何れより来りし共不知。若小人嶋より流れ来るかと取沙汰候。
2024年3月21日(木)
御箪笥
 正徳5年(1715)8月、内山伝八郎の家を多々木喜八郎という者が訪問した。伝八郎は行水の最中だった。伝八郎の女房が喜八郎の来宅を告げると、座敷へ通すようにとのことだった。女房は3歳の息子に乳を与え、勝手の方にいた。

 伝八郎が座敷に出て挨拶(あいさつ)しようとすると、客はいきなり脇差を抜いて伝八郎に切りつけた。刃傷に及んだ理由は史料には記されていない。

 伝八郎は丸腰だった。そこで敵に組みついたが、二の太刀で左肩から右下にかけて切り下げられてその場に倒れた。

 それを見るや女房は、抱いていたわが子をうち捨て、脇差を持って夫のもとへと向かった。しかし夫は絶命。女房は脇差を抜くと敵の肩に切りつけた。敵が振り返って脇差をふりあげたところへまた一太刀。すると敵の右腕が落ちた。そしてそのまま敵の胴体を背中まで突き通して、夫の仇をとったのである。
(1)


 ところで、内山伝八郎は御箪笥同心(おたんすどうしん)だったという。御箪笥同心とは、一体どのような仕事をする役人だったのだろうか。

 現在、「箪笥」というと、食器や衣類をしまう引き出しのついた家具を思い浮かべる。それなら御箪笥同心は、食器や衣類を管理する下級役人(同心)だったのだろうか。東京都公文書館のHPには、「箪笥」について次のような記述がある。


「江戸東京の町名(新宿・旧牛込区)~牛込神楽坂駅「箪笥町」の由来から

 大江戸線牛込神楽坂駅にある区民センターの名称に「箪笥」とあり、町の名前であるらしい。一体、どういう由来のものであるか知りたい。

 「箪笥」と聞くと、引き出しのある「タンス」を思い浮かべますが、この、箪笥町の「箪笥」は、"家具"ではなく、"武器"に関係するものです。江戸時代、箪笥町の辺りには、幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷がありました。幕府の武器を総称して、「箪笥」と呼んだことから、正徳3年(1713)年、町奉行支配となった際、町が起立し、牛込御箪笥町となりました。その後、冠称の「牛込」がとれ、現在の箪笥町という名前に至ったのです。」
(2)


  つまり「御箪笥」とは幕府の武器の総称で、御箪笥同心は鉄砲などの武器管理に当たった役人のことだったのだ。
(3)


【注】
(1)
『諸留書・4(承寛雑録)』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0122。
(2)東京都公文書館HP(東京都公文書館>江戸東京を知る>江戸東京の町名(新宿・旧牛込区))より。
(3)小泉和子氏著『箪笥』の中に関連記事がある。
「御留守居役の下には数多くの役職が配属されていたが、その一つに鉄炮御箪笥奉行があった。当時、鉄砲は竹橋御門内と新蔵、紅葉山御鉄炮蔵に収蔵されていて、この鉄砲の整備、保管、出納を掌り、あわせて城門警護をするのが仕事で、定員は時により出入りはあったが、奉行二人、その下に組頭四名、その下に同心がだいたい二十名から三十名くらいであった。この鉄炮御箪笥奉行配下の役人たちは幕府から拝領地を貸し与えられており、これが御箪笥町とよばれていた。」(小泉和子『箪笥・ものと人間の文化史46』1982年、法政大学出版局、p.55)
2024年3月20日(水)
ブランド米とブレンド米
 江戸時代、将軍の御膳にのぼる飯米は、美濃国(現、岐阜県南部地域)の幕領のうち、限られた地域で栽培された美濃米と決まっていた。なぜ美濃米なのか、その理由は不明。

 将軍の口に入るものゆえ、その栽培法には細心の注意が払われた。肥料も下肥(しもごえ。人糞)の使用は禁止され、干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)などの金肥(きんぴ。購入費料)が使われた。収穫された御膳籾(ごぜんもみ)は江戸に運ばれ、江戸城の御舂屋(おつきや)で精米されたのち、欠米(かけまい)などを除去するため一粒ずつ選り分けられた。
(1)そうやって選りすぐられた米が、御膳所(将軍の食事を担当する台所)で調理されたのである。

 『旧事諮問録』によれば、将軍の主食は蒸飯だったという。調理法は、笊(ざる)にいれた米を沸騰する湯の中に入れて煮あげ、さらにそれを釜で暫時蒸すというものだった。味はきわめて淡白なものだったという。
(2)

 将軍の口に入る米は、美濃米という「ブランド米」だった。一方、(知行地を領する上級旗本を除いた)一般の幕臣たちは、浅草にあった幕府の御蔵から知行米・俸禄米・役料等の名目で米を支給されたが、その産地は選べなかった。

 役職の高い者にはよい米が割り当てられたが、下級の者たちにはどんな米が割り当てられるかわからなかった。

 たとえば、2代将軍秀忠の時代の記事に次のようにある。御蔵の中には米俵を何百俵も積み上げて置くものだから、自然と欠米や鼠食(ねずみくい)の損米が出る。また、非常時を考慮して大量に備蓄しておくものだから、数年間保存されていた「越米(こしまい。古米)」は「悉(ことごと)く虫喰(むしくい)に罷成(まかりな)」っていた。そこで、運悪く「左様(さよう)なる俵に取当(とりあた)りたる末々(すえずえ)の者どもは殊(こと)の外(ほか)迷惑」したという。
(3)

 しかし、これはまだよい方だった。当時、さらに低身分とみなされていた能役者のような人びとには、掃寄米(はきよせまい)が割り当てられた。掃寄米とは、御蔵内に散乱している米を箒(ほうき)で掃き集めた米の意である。最下等の悪米だ。さすがにこんな「ブレンド米」はひどすぎよう。そこで、悪い米を渡す代わりに、米の量を倍にして支給していたという。(4)


【注】
(1)
長谷健生氏「美濃国幕領御膳籾」2023年9月15日、JAぎふHP(トップページ ≫ 新着情報一覧 ≫ 美濃国幕領御膳籾)による。
(2)旧事諮問会編・進士慶幹校注『旧事諮問録(上)』1986年、岩波文庫、P.44。
(3)内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 土井大炊頭忠勝」の項(『落穂集』を引用)。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。
(4)『旧事諮問録(上)』前出、P.101。
2024年3月19日(火)
寓話
 ある時山中で、山の神と百足と蛇が出会って問答した。知足安分を説いた寓話。わかりやすいので、原文(読み下し文)のみ掲げよう。


 山の神と百足と蛇と山中にすみて隔(へだて)なく出合けるが、百足、山の神に云(いい)けるは、


「我は足百あれ共、多くて用にたらぬ足と云
(いう)もなし。汝(なんじ)は足一つにて、歩行嘸(さぞ)くるしかるべし。今九十九足を付(つけ)られよ」

といふ。山の神が云
(いわく)


「我、足一つにておどり歩行
(あるく)に不足なし。汝も九十九の足切(きり)すてよ」


と云
(いう)。蛇、是(これ)を聞(きき)


「我は一つも百も足なけれ共、腹を以(もっ)てありくに事かけず。百も一つも捨(すて)よ」


と云。


 此事
(このこと)を思ふは誠に然(しか)り。知行(ちぎょう)俸録(俸禄)多き人も、大勢をはごくめばあまり有共(ありとも)見へず。むかでの如(ごと)し。わづかに壱人のあてがひ(一人扶持)を受(うく)る人も、其分(そのぶん)を知(しり)て世を渡(わたる)事かけず(欠けず)。山の神の如し。又主人なき者も、誰よりはごくみとはなけれ共、物をあきなひ又ハ一日づつやとはれて、天必(かならず)うへずこごへず(飢寒することなく)世を渡し給(たま)ふ。蛇の如し。

 宮もわらや
(藁家)もはてしなし。とてもかくても有(ある)にまかせ、外を求むまじき事也(なり)
(1)


【注】
(1)『反古撰・2』、「蛇百足問答の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211−0078。
2024年3月17日(日)
隠居の受難
 浅草蔵前に和泉屋清兵衛という札差(ふださし)が住んでいた。奥に離れ家(はなれや)があって、80歳あまりの老母が隠居ずまいしていた。

 ある夜ふけ、離れ家の方から


「人殺し、人殺し」


と叫ぶ声がする。その声を聞きつけた隣の寺の和尚が、母屋(おもや)の清兵衛まで注進してきた。

 
清兵衛と手代たちが急ぎ離れ家に駆けつけると、入り口の戸はかたく閉まっている。戸を蹴破って中に入ると、そこには老母づきの下女がひとりいた。老母の様子をたずねると、


「何も替
(かわ)りたる事もなく、今能(よく)寐入居給(ねいりいたま)ふ」



との返事。しかしどうにも様子がおかしい。かまわず奥につき進むと、そこには血まみれの老母の姿。驚いて事情をたずねると、


「夜中、枕元にて人音する故(ゆえ)(とが)めぬれば、忽(たちま)ち夜着(よぎ)の上よりのし掛(かか)り、小刀を突(つか)んとするゆへ聲(こえ)を上(あげ)ければ、薪(まき)を以(もっ)て打擲(ちょうちゃく)す。

 老年の事なれば、すべきやうなしとて、是
(これ)までの命と明(あき)らめ、観音を念じけるに、表の方に人音せし程(ほど)に其人(そのひと)は立去りぬ」



とのこと。

 老母を襲った犯人は下女だった。女は奉行所に突き出され、日本橋で晒(さら)された。

 この女はこれまであちこちの奉公先で盗みを働き、そのたびごとに暇を出されていた。和泉屋へも一月ほど前にやってきたばかり。女は当年23歳。中肉・色白・面長で、目元涼しく鼻筋が通っていた。その上、なかなかの利発者だったので老母付きとなったのだった。「外面菩薩、内心夜叉(やしゃ)」とはこの女のことだった。

 幸い老母は軽傷だった。これも日頃信仰している観音のご加護と、和泉屋ではいよいよを信心を深めたという。


【参考】

・以上、『野翁物語・2』、「六十五 和泉屋か母横難の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0099による。
2024年3月15日(金)
在着使者
 大名・旗本が幕府に対して文書で質問し、その回答を編集した『的例問答(てきれいもんどう)』という史料がある。一種の公式文書集だ。この中に、在着使者に関する記述がある。(1)

 大名が将軍にいとま乞いして国元に戻った際、大名には無事到着したことを書状か使者によって報告する義務があった。この使者を在着使者といった。

 在着使者が謁見・報告する先は、大名の家格に応じて決まっていた。大名は家格ごとに将軍・老中・奏者番のいずれかに報告することになっていた。将軍自らが謁見するのは特別な場合で、老中が国持大名、奏者番が平大名の応対にそれぞれあたった。

 問題が起きたのは、南部藩の在着使者の取り扱いをめぐってであった。

 南部家は平大名だったが、先例によって国持大名並の家格として扱われてきた。つまり、在着使者の謁見は老中がするのが慣例だったのだ。それが宝暦5年(1755)、老中多忙を理由に奏者番が代わって謁見。この時は南部藩も幕府の指示を飲んだものの、宝暦7年(1757)、幕府は再び奏者番による謁見を南部藩に指示してきたのだった。

 これが先例となれば、南部藩は国持大名並の扱いから平大名の扱いへと降格されるかもしれぬ。そう憂慮した南部藩の使者2名が、主君への忠誠心から幕府に猛然と抗議したのである。

 これに対し幕府内では「(南部藩使者の)殿中にての過言(かげん)難打捨置(うちすてがたく)」「急度(きっと)重く可被 仰付(おおせつけらるべし)」(殿中の秩序を乱す過言は見過ごすことはできない。使者を厳罰に処すべきだ)という意見が大勢が占めた。しかし使者の行動を擁護する意見に傾き、結局は軽い処分で済んだという。

 大名家の家格や体面をめぐって起こった問題だった。現代なら報告もメールで済んでしまうから、こんな問題は起こらないだろう。なお、当事件を扱った実録物に、馬場文耕の『森岡貢物語』(国立公文書館その他蔵)がある。


【注】
(1)
『的例問答・1』「四品以下在着使者謁有無之事(しほんいかざいちゃくししゃえつうむのこと)」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:181-00137。  
2024年3月14日(木)
3月14日
 松の廊下で刃傷事件(にんじょうじけん。刃物によって人を傷つける事件)が起こったのは、元禄14年(1701)3月14日の巳の下刻(みのげこく。午前11:30頃)だったとされる。

 事件の現場となった松の廊下とは、江戸城本丸御殿の大広間から白書院(将軍との対面に使用される公的な部屋)へ向かう畳敷の大廊下のことだ。松と千鳥の障壁画が描かれていたのでこの名がある。

 事件当日は、朝廷から派遣されていた勅使を幕府が迎えていた(勅使が暇乞いに訪れる最終日)。5代将軍綱吉からすれば、将軍権威づけの儀式の大事なしめくくりの日だった。

 ところがそうした大切な日に、よりにもよって勅使饗応役の浅野長矩(あさの・ながのり。赤穂藩主。1667〜1701)が高家肝煎(こうけきもいり)吉良義央(きら・よしなか、よしひさ。1641〜1703)に小さ刀(ちいさがたな。儀式用に身につける小刀)で背後から切りつけ、殿中を血でけがしたのである。

 浅野が切りつけた理由は今もって不明だ。大紋(だいもん。5位の武士が着用する礼装)という動きにくい装束で、儀式用の小さ刀で(突かずに)切りつけたわけだから、もとより致命傷を負わせる可能性は低かった。事実、吉良は軽傷であった。ゆえに発作的・突発的な事件だったと見られる。

 吉良は刀を抜かず無抵抗だった。そのため喧嘩と認定されず、喧嘩の当事者双方を処罰する喧嘩両成敗は成立しなかった。激怒した綱吉はその日のうちに浅野を切腹させ、赤穂藩は断絶となった。この日の事件が2年後の赤穂事件へとつながる。
2024年3月13日(水)
食い逃げ
 寛政8年(1796)の2月、2代目中村野塩(なかむら・のしお。1759〜1800)による「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」の所作事(しょさごと。歌舞伎のおもに長唄を伴奏とした踊り・舞踊劇)がかつてない大当たりをとった。そのため多くの人びとが歌舞伎見物に繰り出した。

 本所南割下水(ほんじょ・みなみわりげすい。現、東京都墨田区北斎通り)に居住する服部市郎右衛門(はっとり・いちえもん)も例外ではない。5、6人と連れ立って昔馴染みの茶屋へと出かけた。

「(質素倹約を掲げる寛政改革中という)時節柄(じせつがら)をはばかって歌舞伎見物はご無沙汰だったが、今回の大評判を聞いて我慢できずやってきたのだ」

と言うといつものように料理など注文し、芝居見物後もゆるゆると酒宴する。この時、大ヒラメのあんかけ料理がことのほか気に入り、3枚もたいらげるというありさま。

「本日の代金はいつものように屋敷まで取りに参れ」

と言うと、市郎左衛門らは帰っていった。

 後日、茶屋の者が服部家まで付け代金の受取りに行った。ところが驚いたことに、市郎右衛門はすでに7年も前に死去していたのだった。

 それではあの日、大ヒラメを3枚もたいらげていったのは誰だったのか。あの時の皿には大ヒラメの頭も骨もまったく残っていなかった。あとから思い返してみれば、ただごとではなかったのだ。やはり猫股(ねこまた。尾が二つに裂けた猫の化物)など、化物の仕業だったのだろうか。

 食い逃げしたのが何者かわからぬまま、結局茶屋は3両あまりの損害をこうむったのだった。


【参考】
・『野翁物語・2』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0099、「四十五 化物戯場見物の事」による。
2024年3月3日(日)
江戸時代の「馬鹿あほう」
 前回紹介した「浮世馬鹿あほうの番附」(注)の中から、意味の通りやすいものをいくつかあげてみよう。果たしてわれわれは、江戸時代より少しは進歩したのだろうか。


  めうとげんくわしてはこざらわりあとでついでみておしがつている人

 「夫婦喧嘩しては小皿割り、後で継いでみて惜しがっている人」。夫婦喧嘩は犬も食わない。それは今も昔もおなじ。


  ほうき立るのもしらずしてながばなししていなぬ人

 「箒立るのも知らずして、長話して往なぬ(帰らない)人」。陰で箒を立てるのは、長居の客を帰らせるまじない。しかし電気掃除機やロボット掃除機全盛の現代、こんなまじないを知る子どもは少なかろう。


  よい手でもないくせにほうぼうへてんごうかきする人

 「能い手(能書)でもないくせに方々へ転合書きする人」。字がたいしてうまくもないのに、やたらと人生訓など揮毫したがる人がいる。色紙をもらった方はありがた迷惑。転合書きはいたずら書きの意。


  ぬす人にあふてほうのけいこするひと

 「盗人に遭ふて棒の稽古する人」。これは泥縄(どろなわ。泥棒を見て縄をなう)と同じ意味。現代なら棒ではなく刺股(さすまた)の扱い方やカラーボールの投げ方の訓練か。いずれにせよ、防災・防難には日頃の備えが大切。


  のきの下あるいてかんばんであたまうちあちらでさすつている人

 「軒の下歩いて看板で頭打ち、あちらでさすっている人」。江戸時代の看板は、通行者の目につきやすいよう軒下にぶら下げている店が多かった。軒下を歩いていて低い看板に頭をぶつけ、照れ隠しに人目のないところで頭をさすっているのだ。


  孫みたやうなかかにはなげのばしてまかれる人

 「孫みたやうな嬶に鼻毛伸ばしてまかれる人」。孫のような年の離れた女房をもらった老人のでれでれぶりを揶揄したのだ。しかし、古今東西見渡せば、年の差婚など珍しくもない。かのファーブル(二度目の妻)やピカソ(最後の妻)も年の差婚だ。わが国でも蓮如
(2)の例が思い浮かぶ。


【注】
(1)
「浮世馬鹿あほうの番附」文政年間、早稲田大学図書館蔵、請求番号:文庫10-8054-1。
(2)本HP「あれやこれや2015」の2015年1月4日(日)付け「兄弟の名前が覚えられない?」を参照。
2024年2月27日(火)
くいごく
 かな文字ばかりで書いてある史料の判読はむずかしい。

 先日も「浮世馬鹿あほうの番附(ばんづけ)」
(注)という見立番付(みたてばんづけ)を読んでいると、次のような文につきあたった。


  めい月のまめくいごくしてあとでりびやうやむ人


 この中の「まめくいごくして」の意味がわからない。辞書に載っていなかったので、ネット検索すると「食い極」という言葉が見つかった。食べて食べて食べまくることらしい。これで、史料の意味がすっきり通じた。  


  名月の豆食い極して 後で痢病病む人


 旧暦九月十三夜は豆名月。茹でた枝豆を供える。豆類は食物繊維が豊富で、摂取すれば便通がよくなる。それをあと先の考えなしに食べに食べまくったものだから、あとでひどい下痢になってしまった馬鹿者という意味だったのだ。


【注】
(1)
「浮世馬鹿あほうの番附」文政年間、早稲田大学図書館蔵、請求番号:文庫10-8054-1。精細画像とともにネット上に公開されている。
2024年2月23日(金)
月代願
 幕臣は頭髪を剃るか伸ばすかについても、幕府にお伺いをたてなければならなかった。

 員外だった医師・同朋・坊主衆などは剃髪していたが、一般の役職につく幕臣は前髪をとった月代(さかやき)が原則だった。ただし隠居した場合は、届け出れば剃髪にするのも総髪にするのも許された。

 『公用雑纂』には、旗本(寄合)の筑紫主水(つくしもんど)が、文化7年(1810)3月21日付で若年寄の堀田摂津守(堀田正敦(ほったまさあつ)。1755〜1832)に届け出た「月代願」が収められている。
(1)

 
おそらく本人は総髪だったのだろう。更年期障害によるものなのか、のぼせが強いことを理由に月代にしたいと書いてある。付札(つけふだ。幕府の回答)には「月代可被致候(さかやき、いたさるべくそうろう)」とあり、この「月代願」が承認されたことがわかる。

  

【注】
(1)
『公用雑纂』五巻、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:181-0124。史料全文は次の通り。

   月代願
 文化七午年三月、堀田摂津守殿へ進達。上包(うわづつみ)美濃紙(みのがみ)折懸(おりかけ)。
     月代願  寄合 名

  (上包)「月代願   寄合 筑紫主水」

 私儀(わたくしぎ)、先達而中(せんだってちゅう)より積気(しゃくき。胸から腹にかけ激痛が走る症状。癪気)ニ而相勝不申候(あいすぐれもうさずそうろう)ニ付(つき)、河野良以(こうのりょうい。奥医師。1768〜1829)薬腹用(ふくよう。服用)仕候處(つかまつりそうろうところ)、此節(このせつ)逆昇(のぼせ。逆上)強御座候(つよくござそうろう)ニ付、月代仕候(さかやきつかまつりそうろう)は可然旨(しかるべきむね)、良以申聞候(もうしきかせそうろう)。
 依之(これにより)、為養生(ようじょうのため)月代仕度奉願候(さかやきつかまつりたく、ねがいたてまつりそうろう)。以上
  三月廿一日  筑紫主水

 御附札「月代可被致候」
2024年2月21日(水)
外泊不可、ひとり歩き禁止
 江戸で暮らす大名・旗本には、窮屈でこまかな制限がいろいろあった。

 たとえば、大名・旗本の当主は、勝手に外泊などできなかった。当主は自邸(上屋敷)にいるのが建前だったからだ。そのため外出するにしても、旅行先は日帰りで行ける範囲に限られた。

 先祖の墓が遠方にあって、どうしても外泊しなければならない場合には、事前に幕府に届け出て許可を得る必要があった。また近くであっても、先代の隠居(自分の親)が中屋敷に居るからといって、訪問してそのまま宿泊することもできなかった。それもこれも幕府から急使があった場合、当主不在が公になると問題になるからだった。
(1)

 ひとりで町なかを気ままに散歩することもできなかった。大名・旗本は外出する際、それ相応の供まわりを従えていなければならず、ひとりで歩くことは禁止されていたからだ。
(2)

 リハビリのため、親族の家や郊外にある下屋敷まで歩きたい場合であっても、事前に幕府の許可を得る必要があった。次の史料は、『公用雑纂』(大名・旗本らの問い合わせに対する幕府の回答を項目別に編纂したもの)に収める「歩行願」。

 なお、史料中ある「疝癪(せんしゃく)」は疝気(せんき)や癪気(しゃくき)のこと。疝気(せんき)は男性特有の下半身が痛む症状(睾丸炎・脱腸等)の総称で、癪気(しゃくき)は胸から腹にかけ激痛が走る症状(胃痙攣・胆石症・急性膵炎等)の総称。また「寄合」は、三千石以上の上級旗本の無役者、また布衣(ほい。礼式日に布衣という独特の装束を着す。六位相当)以上の退職者の家格をいう。


「  歩行願

 私儀
(わたくしぎ)疝癪(せんしゃく)差發(さしおこり)足引釣(あしひきつり)、歩行不自由罷在候(ほこうふじゆうにまかりありそうろう)ニ付(つき)、先達而(せんだって)より小川玄孝(おがわげんこう。幕府医員)薬腹用仕(くすりふくようつかまつり)、少々宛(しょうしょうずつ)快方御座候得共(かいほうござそうらえども)、今以(いまもって)出来・不出来御座候ニ付、為養生(ようじょうのため)歩行仕候(ほこうつかまつりそうら)ハバ可然旨(しかるべきむね)玄孝申候(もうしそうろう)

 依之
(これにより)、一類共(いちるいども。親族の家)(ならびに)下屋鋪(しもやしき)へ歩行仕度奉願候(ほこうつかまつりたくねがいたてまつりそうろう)。以上

    三月廿一日        
               
寄合(よりあい) 武田河内守(たけだかわちのかみ)(3)


【注】
(1)
小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社文庫、P.282〜283。
(2)『江戸の旗本事典』前出、P.283。
(3)『公用雑纂』五巻、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:181-0124。
2024年2月19日(月)
茣蓙目
 『江戸問答』を読んでいたら「小判が俵の文様」という記述に出会った。(1)

 小判の表裏一面には、米俵の藁(わら)目を模したような短い横線が多数刻まれている。これを茣蓙目(ござめ)という。楕円形の小判に茣蓙目。なるほど、米俵に見えなくもない。

 そもそも江戸時代は石高制を基礎とする「米遣いの経済」の時代だった。米はわれわれ日本人にとってはとりわけ重要な農作物で、宝物は「田から物」、すなわち田からの生産物である米に由来するという説もあるほど。ならば、同じ宝物の小判を米俵に似せたとする説は、かなり説得力がある。

 ただし、仮に小判のデザインが米俵を文様として取り入れたものだとしても、わざわざ茣蓙目を小判の表裏一面に打刻した理由はそれだけだったのだろうか。

 「耳をそろえて借金を返す」という慣用句がある。借金全額を間違いなく返済するという意味だが、「耳をそろえる」とは小判を重ねて左右の耳(両端)が揃っていることをいう。昔は、小刀などで小判の両端(耳の部分)を削って金の屑を溜め込む不埒なやからがいたらしい。小判が金貨だからこそ行われる違法行為だ。そのため、小判を何枚か重ねれば、削られた小判は耳がそろっていないのですぐにわかったという。

 小判の表裏に茣蓙目やら極印(ごくいん)やらが打刻されているのは、こうした削り取り防止のためだろう。現在、各国で発行される金貨の側面にはギザギザが刻まれている。これも手にする時の滑り止めというよりは、同様の理由からだと思われる。


【注】
(1)
田中優子・松岡正剛『江戸問答』2021年、岩波新書、P.171の松岡氏の発言。「小判が俵の文様であるというのは非常に象徴的ですね。」
2024年2月14日(水)
棄捐令と旗本養子
 寛政元年(1789)、老中松平定信が棄捐令を出した。貨幣経済にまきこまれて困窮する旗本・御家人を救済するため、札差からの6年以前(1784年以前)の借金を返済免除とし、また札差に借金利息の引き下げを命じたのだ。

 棄捐令は札差に大打撃を与えた。その一方、借金に苦しんでいた旗本・御家人たちは、借金が帳消しになると大喜び。あちらこちらで定信を神のごとくにまつりたて


「御神酒(おみき)を上げ、拝(おがま)ぬ者は無之(これなし) (1)


という有様。放蕩無頼の徒までもが


「とかく此節(このせつ)、身代(しんだい)を直さねが直す時はない」(2)


などと殊勝な決意を口にする始末。


 こうした騒ぎのなか、養子縁組の話を進めていたある旗本は、その約束を反古にしたという(3) 。その理由は棄捐令にあった。旗本の養子縁組と棄捐令との間に、一体どのような因果関係があるのか。

 江戸時代は身分制度が固定化されていたと思われがちだが、庶民であってもまとまった金を用意し、御家人株を買えば御家人になることができた。しかし、旗本株というものはない。どうしても旗本になりたければ、御家人身分を獲得したのち、旗本の養子になって家督を相続するしかなかった。
(4)その際、旗本の家に養子に入るには、多額の持参金が必要だった。

 つまり、借金で首が回らなくなったある旗本の家では、持参金目当てで養子縁組の約束をしていたのだ。それが棄捐令のおかげで借金返済の必要がなくなったので、養子縁組の話を解消したのだった。


【注】
(1)(2)(3)
水野為長著『よしの冊子』(「駒井乗邨編『鶯宿雑記』巻482・483、写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:238-1、26コマ目。
(4)氏家幹人『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.123。  
2024年2月12日(月)
江戸城の御台所
 江戸城内で将軍が中奥で食事をとる場合には御膳所が調理を担当し、大奥で食事する場合には奥御膳所が調理を担当する。御台所は、将軍以外の大名・諸役人の食事を担当した部署だ。

 ところが、この御台所の仕事ぶりはぞんざいで、ここでの食事はとても食べられる代物ではなかったという。『よしの冊子』の寛政元年(1789)の記事には次のようにある。(1)


 江戸城の台所と言えば、上からのお手当もよく食材もよい物を使っているが、仕事ぶりがぞんざいで、一口でも食べられたものではない。

 たとえば、豆腐の食いかけをそのままつけて出す。また、香の物二切れのうちにも大小がある(大きさを切りそろえていない)。あるいは塵などついてるものも多く、食器もろくろく洗わない。だれかが食べたあとの食器へそのまま盛りつける。非常にきたならしい。

 御台所から人がはけた頃合いを見はからって、係の御目付が見分(仕事のチェック)に来るのだが、ただ「しっ、しっ」と言って一通り見通すだけで帰ってしまう。見分とは名ばかり。しかも、

「人の食べ残しなどがついてないようにしてあれば、それでよい。」

と指示したという。


  現在の飲食店でこうした不衛生な実態が公になったら、すぐさま営業停止処分となるだろう。

 「見ぬもの清し」という言葉がある。上記のようなぞんざいな仕事ぶりの実態を知らなかったからこそ、江戸城内の人々はこうした不衛生な食事でも食べられたのだろう。


【注】
(1)
水野為長著『よしの冊子』(「駒井乗邨編『鶯宿雑記』巻482・483、写、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:238-1、22〜23コマ目。史料全文は次の通り。

一、御本丸の御台所、上よりの御手当(おてあて)も宜(よろ)しく、御品(おしな)も宜く候(そうら)へ共、御台所向(おだいどころむき)取扱(とりあつかい)甚(はなはだ)あしく、誠に一と口(ひとくち)もいただき兼申候由(かねもうしそうろうよし)。

 たとへば、とふふの喰(くい)かけを其侭(そのまま)付候(つけそうらい)て出し、香物(こうのもの)二切れの内にも大小御座候(ござそうらい)て、或(あるい)は塵(ちり)など付候物等(つきそうろうものなど)多く、膳・椀等(ぜん・わんなど)もろくろく洗候事等(あらいそうろうことなど)も無之(これなく)、人の給(た)べ候跡(あと)へ直(じか)に盛候(もりそうろう)様子に相見へ、甚(はなはだ)むさき事の由(よし)。

 御台所出候(いでそうろう)時分には、掛(かか)り御目付(おめつけ)相廻(あいまわ)り見分仕候事(けんぶんつかまつりそうろうこと)の由。是(これ)も名目計(めいもくばかり)にて、只(ただ)「しつ、しつ」と申(もうし)、ずつと一通り見通し候のみにて引(ひき)申候(もうしそうろう)に付(つき)、見分の名のみ計(ばかり)に候由(そうろうよし)。

「きれいに人の喰(くい)かけ等(など)の付(つか)ぬ様(よう)にして下されば能(よし)。」

とさた仕候(つかまつりそうろう)よし。
2024年2月9日(金)
お目々ぱっちり
 目付は有能な旗本が就任する職だ。目付から奉行に昇進する例が少なくない。その役目は若年寄支配下の監察官で、旗本・御家人の統制や、諸役人の勤務など政務全般に目を光らせた。

 目を光らせて監察するためには、両眼をしっかり見開いておかねばならない。そのため、目付に就任する者には「両眼がしっかり開いていること」という例規があったという。

 そんなおかしな例規が存在したとは、浅学にして知らなかった。氏家幹人氏の著書
(1)によって初めて知った次第だが、この例規は幕府時代旗本だった大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう。1838~1897)が明治時代になって綴った『醇堂叢書(じゅんどうそうしょ)』(国立国会図書館蔵)の中に記載されているそうだ。

 それなら、眼疾・眼傷等のため両眼をしっかり開くことができない者は、いくら優秀であっても目付になれなかったのだろうか。

 氏家氏は、大谷木醇堂が挙げる羽太右京(はぶと・うきょう)の例を紹介する。羽太右京は何かしらの理由で片目を損傷していた。そこで羽太は鋭い眼光を得るため、損傷した片目を玉眼(ぎょくがん。義眼)に代えたのである。羽太は当時「入れ目の御目付」とあだ名されたという。

 つまりは玉眼であっても(たとえ片目が見えてなくても)両眼がしっかり開いていればよかったのだ。

 しかし世の中には、起きているか寝ているかわからないような細目の人だっている。両眼の視力に何ら問題がなくとも「両眼がしっかり開いていない」という理不尽な理由で、細目の幕臣は目付の選考から落とされたのだろうか。


【注】
(1)
氏家幹人『旗本御家人』2011年、洋泉社(歴史新書y)、P.25
2024年2月8日(木)
神仙になる方法
 わが国にも文字を神聖視した時代があったのだろう。文字の呪術性に由来すると思われるさまざまな俗信行為が存在する。

 たとえば、あがり症の人が本番に臨む際、手のひらに「人」という字を書いて飲み込む真似をすると、その場の雰囲気にのみこまれることはないという。

 また、「鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)の御宿(おやど)」と書いた札を戸口に貼っておくと、源為朝の武威を恐れて疱瘡神が家の中に侵入してこない
(1)、など。

 しかし、漢字の本場中国には、もっと変わった俗信があった。
(2)

 書物や衣服を齧(かじ)って穴をあけるシミという厄介な害虫がいる。紙や衣に穴をあけてしまうので、漢字では「紙魚」とか「衣魚」とか表記される。このシミが道教の経典のなかにはいり、「神仙」という文字を齧るとその身が五色に変化するという。そして、その五色のシミを食べた人間は、神仙になるというのだ。

 これを信じたある男。「神仙」という文字をたくさん書くと、それを切って瓶(かめ)の中にいれ、その中にシミを投じた。そして、シミが「神仙」の文字を食(は)んで五色に変化するのを待ったのである。しかし、男の願いはかなうことなく、ついには精神を病んでしまったという。

 明代の医者で本草学者でもある李時珍(りじちん。1518〜1593)は、上記の話をとんでもない俗信であると否定している。


【注】
(1)
本HP「あれやこれや2020」の2020年4月21日(火)付け「鎮西八郎為朝の御宿」を参照。
(2)以下、伊藤令子「漢字の小径・文字を食べる”紙魚”」(漢検生涯学習ネットワーク会員通信、Vol.44、2024年2月、P.5)による。
2024年2月4日(日)
仕事の愚痴をこぼす
 『よしの冊子』には江戸時代中期のさまざまな雑説・噂話等が記録されている。その中に、江戸城御右筆(御祐筆とも。公文書・記録等の作成を担当した事務官僚)の役人たちが、仕事上の愚痴をこぼしている箇所がある。


 
御祐筆方、打寄候節(うちよりそうそうせつ)の咄(はなし)に、

(前略)当時(いま、現在)の御祐筆は昔より御用は多く相成(あいなり)、朝から晩迄勤(つとめ)ぬいても、今は御政事にもかからぬ様に聞(きこ)へ候間(そうろうあいだ)、人の用ひもあしく、何もくれもせず。そのくせ御用多くて遊山(ゆさん。物見遊山)には出かね、たまたま出ても石部金吉(いしべきんきち。真面目で融通がきかない堅物)で面白くもなし。誠に椽(えん)の下の力持(ちからもち)とは此事(このこと)だ」

と内話有之候由
(これありそうろうよし)(1)



  昔にくらべると仕事の量が増え、朝から晩まで働き続けなければならないのが現状。その割に、今は政務上の事務にもかかわってないというので、人使いもぞんざいにされ、差し入れとてない。仕事が忙しいので遊びには出かね、たまに休みがとれても真面目人間なので面白くもない。まさに、自分たちの部署は「縁の下の力持ち」だ、とでもいったところか。

 天明7(1787)年の記事とはいうものの、仕事への不平・不満をかこつ姿は、昔も今もそうは変わらぬ。


【注】
(1)
水野為長著『よしの冊子』(「駒井乗邨編『鶯宿雑記』巻452.453、写、国立国会図書館デジタルコレクション、84〜85コマ目。
2024年2月2日(金)
百段
 「鬼武蔵」こと森長可(もり・ながよし。1558〜1584)が騎乗した名馬を百段(ひゃくだん)といった。その風変わりな名前は、森氏の居城、美濃金山城(みの・かねやまじょう。現岐阜県可児市にあった山城)の石段百段を一気に駆け上った健脚に由来するという。

 ところで、小牧・長久手の戦い(1584)に出陣した猛将「鬼武蔵」は、鉄砲でその眉間を撃ち抜かれあっけなく絶命する。長可がこの時乗っていた馬が百段だった。百段は、落馬した主人を守るため、敵中に駆け込んでは獅子奮迅のはたらきをした。そして、二ヶ所の鎗傷を負うものの無事に帰還した。

 それから30年後。百段は、こたびは長可の弟森忠政(美作津山藩初代藩主。1570〜1634)を乗せて、大坂冬・夏の両陣(1614・1615)に参戦した。馬の寿命はふつう20〜30年という。百段はその寿命をとうに越えていた。かかる年数を経ても、百段の歩(ほ)は少しも滞ることがなかったという。

 その2年後、百段は死んだ。その死を憐れ惜しんだ忠政は、百段を神にまつり社殿を営んだという。
(1)


【注】
(1)
筆者不詳『茗話記』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0148、64〜65コマ目。百段のついて語る『茗話記』の全文を次に示す。

一、森武蔵守長可(もり・むさしのかみ・ながよし)が秘蔵せし百段といへる馬も、佐瀬が馬(蘆名盛氏の家臣佐瀬源兵衛の鹿毛馬。主人の危機を二度救ったという)に劣(おとら)ぬ良馬也(なり)と聞(きく)。

 武蔵守、長久手に於(おい)て神君(しんくん。徳川家康)御旗本へ向(むかい)て一戦の時、井伊直政(いい・なおまさ。1561〜1602)が手より横合(よこあい)に打懸(うちかけ)し鉄炮に眉間(みけん)を打貫(うちぬか)れ、馬より落ると等しく、彼馬(かのうま。百段)俄(にわか)に怒りをあらわし、敵中へ駆入(かけいり)、縦横無碍(じゅうおうむげ)に馳廻(はせまわ)り、敵を拒(ふせ)ぎ、前足にて掻倒(かきたおし)、又ははね倒す。此間(このかん)に長可が従兵馳来(はせきたり)、主人(長可)を肩に懸(かけ)て引退(ひきの)く。

 百段も鎗疵(やりきず)二ヶ所被りけれ共、命を全(まっとう)して馳帰(はせかえ)りしが、是(これ)より後三十年過(すぎ)て、武蔵守が子(正しくは弟)忠政、彼(かの)百段に乗て大坂夏冬両度の御陣を勤られしに、斯(かく)年経ても少しも蹄(ひずめ)泥(なず)む事なし。

 其後(そのご)二年過(すぎ)て此(この)百段死(しに)ければ、忠政甚(はなはだ)憐惜(れんせき)して神にいわひ、宮を立(たて)、社殿迄(まで)寄附せらる。彼百段が社、今に美作国(みまさかのくに。現、岡山県北東部)に在(あり)と聞(きく)よし語りき。
2024年2月1日(木)
若白髪
 世に埋もれ、その生涯を終えた逸材は数知れず。それは人に限らない。若白髪(わかしらが)という頼朝の愛馬についてもそれがいえる。

 佐々木高綱(ささき・たかつな)と梶原景季(かじわら・かげすえ)による宇治川の先陣争いは、『平家物語』等で名高い。このエピソードにより、ふたりが騎乗した生食(いけづき)・磨墨(するすみ)は名馬の代名詞となった。

 なるほど、生食・磨墨とも良馬にはちがいない。しかし、どちらも若白髪のスペアに過ぎなかった。若白髪こそが頼朝の所有する名馬中の名馬で、生食・磨墨は二番手・三番手の馬だった。二番手以下の馬だったから、頼朝は生食・磨墨を高綱・景季にくれてやったのだ。

 しかし、抜群の名馬でありながら現在、若白髪の名を知る者はまれだ。これは一体どうしたことだろう。

 皮肉なことに、それは若白髪が抜群の名馬だったからだ。名馬であるがゆえに頼朝によって秘蔵され、その能力を発揮する機会を与えられなかった。そのため、厩舎(きゅうしゃ)の中で空しくその生涯を終え、人々にその名を記憶されることがなかったのだ。

 『茗話記(めいわき)』は言う。


「事に臨み、能(のう)をほどこすと施さざるとにて、能も埋(うも)れ、人に知れず。

 池月(生食)・摺墨(磨墨)は宇治川を渡し、其(その)能を施せし故(ゆえ)、今の世までも其名高し。若白髪は頼朝秘蔵して厩(うまや)に立置(たちおか)れ、終(つい)に其能をほどこさず。

 依之(これにより)、知る人稀也(まれなり)(1)
と。


【注】
(1)
筆者不詳『茗話記』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0148、62〜63コマ目。
2024年1月29日(月)
おじいさんは背が高かった
 松平定信(1759〜1829)が幕政の表舞台に登場した当初、清新な政治への世間の期待が高かったためだろう、人々はまだ見ぬ定信を聖人君子のようにあがめたてまつった。定信の自伝『宇下人言』には


 予が不德にても此(この)ころ(天明8年頃)人の賞譽(しょうよ)するは聖賢のやうにいふめり。(1)


とある。これには定信本人も、面映(おもは)ゆい思いをしただろう。次の噂話もそうした定信評のひとつ。


 越中様(松平定信)は男はちいさいが知恵は天下を治するに足り、小さき御胸腹より大きな知恵はどふして出るものと咄合候(はなしあいそうろう)よし。(2)


 この記述は、定信の臣水野為長(1751〜1824)が各方面から収集した風説雑話の類を書き留めた『よしの冊子』のなかにある。こうした定信に関する評判も、定信本人の目に触れた可能性は高い
(3)

 ところで前掲の史料には、定信は「男はちいさい」のにその「小さき御胸腹」から大きな知恵が出るのは不思議だ、と書いてある。

 定信の祖父は8代将軍徳川吉宗(1684~1751)。吉宗は頑健な肉体をもち、身長も常人の頭ひとつ抜きんでいたという
(4)

 これって、おじいさんは高身長だったけど、孫はおチビさんだったってこと?(5)


【注】
(1)
松平定信著・松平定光校訂『宇下人言・修行録』1942年、岩波文庫、P.124〜125。
(2)水野為長著『よしの冊子』(駒井乗邨編『鶯宿雑記』巻452.453、写、国立国会図書館デジタルコレクション、83コマ目。 https://dl.ndl.go.jp/pid/10303794 (参照 2024-01-26))
(3)『宇下人言』の原本頭注に「此處(ここ)へ爲長(水野為長)なんどきき及びしその比(ころ)稱譽(しょうよ)せしことをかくべし」(『宇下人言・修行録』前出、P.125)とある。
(4)吉宗は当時の男性としては高身長で、6尺(約1.8m)あった(ただしこれを疑問視する向きもある)。狩猟で800人ばかり勢子(せこ)に囲まれた際、吉宗の頭はひとつ飛び出して見えたという(本HP「あれやこれや2017」2017年3月9日(木)の項を参照)。
(5)定信を噂に聞くだけだった町人たちは、定信を色黒・髭面で40〜50歳くらいの大男だと勝手に思い込んでいた。しかしいざ、将軍御成りに随行した定信を実見すると「小男で色白く、とんだいひ色男で、まだ廿四、五位」(『よしの冊子』前出、86コマ目)だったという。やはり定信は小男だったのだ。
2024年1月28日(日)
老衰御褒美
 江戸幕府の役人は生涯現役が建前だった。現在のような定年制はなかったのである。

 しかし、高齢になるとどうしても気力・体力等が衰え、職務に支障が出る。そこで幕府は、70歳以上の者が引退を希望する場合には引退を認め、老衰御褒美(ろうすいごほうび)を与えることにした。この制度は貞享3(1686)年に始まったという。

 こうした老衰御褒美の関連史料(『老衰御褒美之留』、『恩賜例』など)が国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている。次はそのひとつで、老衰御褒美を下賜される役人とその下賜物(時服、金・銀)のついての規定。役職のランクによって下賜物にも差が設けられている。興味深い史料なので、全文を紹介しよう(1)

 なお、時服は四季それぞれの時候に応じて着用する衣服のこと。また「金一枚」とか「銀二枚」と書かれた金・銀は、武家の間で使われた儀礼用・贈答用の貨幣。これを下賜された幕臣は、市中の両替商で換金した。金は大判金のことで1枚が7両2分の価値。銀は「しろかね」ともいい、白銀1枚は銀貨43匁(161.25g)に相当した。
(2)


  老衰御褒美

 当勤十年七十歳以上の者、御役御免の節御褒美被下。但八十歳以上は当勤年数に不拘被下。〈割注「享保五年
(1720)庚子二月、御書付出る」〉
 十ヶ年已来御加恩被下候者、并同断他国御用・同在番等病気にて御断申上候者、及五ヶ年以来閉門・逼塞被 仰付候者は御褒美不被下。

 御側衆・御留守居・三番頭・御三卿家老・大目付・町奉行・御勘定奉行、時服五
 布衣以上御役人、時服三 奥医師并奥詰医師、金三枚
 布衣以下小役人 表御台所頭以上、金弐枚
 御同朋頭・数寄屋頭、同上 小十人同格・御庭番、金拾両
 布衣以下小役人 御畳奉行以下、銀拾枚
 御目見以下席以上并奥坊主組頭・紅葉山〈割注「御宮・御霊屋」〉附坊主・御数寄屋坊主組頭・表坊主組頭、銀拾枚
 同席以下、銀五枚 同三枚
 御三卿御附人八役以上、金壱枚

 弘化三年
(1846)丙午七月六日、御蔵奉行格御大工頭金田藤七郎、老衰役義御免付、金壱枚被下。
 貞享三年
(1686)丙寅九月廿五日、御番衆七人、七十歳有余迄相勤候付、金弐枚宛被下。是老衰御褒美の権輿(けんよ。はじまりの意)也。



【注】
(1)
『蠧余一得(とよいっとく)』(国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0031)所収、No.169「老衰御褒美」。
(2)鈴木恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社文庫、P.315。
2024年1月25日(木)
10文字の励み
 藤原公任(ふじわらのきんとう。966〜1041)といえば、和歌・漢詩・管絃の諸道に秀でた才人。しかし後半生は願った昇進がかなわず、また次々と娘たちを亡くす不幸が重なった。こうしたできごとが動機となったのか、公任は出家すると洛北の山間(やまあい)に隠棲してしまったのである。

 ある日、公任の長男で歌人の藤原定頼(ふじわらのさだより。995〜1045)が、月見で詠んだ人々の和歌を詠草(えいそう。和歌の草稿)にして、公任のもとに送り届けたことがあった
(1)


 人々遍照寺(へんじょうじ。山城国葛野郡広沢池の西北にあった寺)にて、山家秋月といふ事をよみけり。其(そ)の中に、範永朝臣(のりながあそん。藤原範永。993頃〜?)、蔵人(くろうど)たる時の歌、

   住む人もなき山里の秋の夜は 月のひかりもさびしかりけり

とあるを、件(くだん)の懐紙(かいし)(2)の草案どもを、定頼中納言とりて、公任卿(きんとうきょう)の出家して居(い)られたる、北山の長谷(山城国愛宕郡にある山間地。公任の山荘があった)といふ所へ、見せにつかわしたりければ、範永の歌を深く感じて、彼の歌のはしに

「範永誰人哉、和歌得其体(範永は誰人なるや。和歌、其の体を得たり)(範永とは何者なのか。和歌の本質をついた作品である)

と自筆にてかき付けられたりけるを、範永聞きて感にたへず、其の草案を乞ひ取りて、錦(にしき)の袋に入れて、宝物として持(も)たりけり。



 あの「三舟(さんしゅう)の才」の逸話で知られる公任が、無名の自分の作品を絶賛してくれたのだ。和歌の道を志す者にとってこれに勝る光栄があろうか。そこで範永は、公任の書き入れのある草案を強いて貰い受けると、家宝にしたというのだ。

 その後も「範永誰人哉、和歌得其体」の10文字は、和歌の道に精進する範永の励みになり続けたに違いない。


【注】
(1)
石橋尚宝『十訓抄詳解・上巻』1901・2年、明治書院、P.138、国立国会図書館デジタルコレクション。 https://dl.ndl.go.jp/pid/877560 (参照 2024-01-24) なお、原文の表記を少し改めた。
(2)最初ふところ紙を用いたところからかく言う。歌会で和歌・連歌を詠進する際用いる料紙(和歌懐紙)で、檀紙または杉原紙を用いた。書式があって、官位姓名などを記した。
2024年1月22日(月)
運をつかむ
 高校教員の知人から聞いた話。大学共通テストの前日、質問に来た女子高生の制服に何やら白いものがついていた。確認すると鳥の糞だったという。

 糞害(ふんがい)は憤慨ものだが、鳥や動物の排泄物はわれわれ人類の歴史にさまざまなかたちで恩恵をあたえてきた。農作物の肥料としての牛糞・馬糞やグアノ(海鳥の糞に由来)はもちろんのこと、西インド地方ではインド更紗(さらさ)の下染めに際してソーダ水とラクダの糞で布を洗うというし
(1)、ラクダやヒツジなど家畜の糞を家の壁材や燃料に利用する人々もいる。

 そうはいっても、糞といえばやはり汚いもの・つまらないものの代表例だ。もしも、「糞」という名のついた食べ物を目の前に出されて「食べろ」といわれれば、いささかギョッとしよう。

 たとえば、鴨屎香(おうしこう)というお茶がある。烏龍茶の一種で、香味豊かで美味という。そのため茶樹を盗まれることを恐れた農民が、わざと「鴨の糞のような臭いのするお茶」というひどい名前をつけたとされる。一説に、茶葉の形状が鴨の糞に似ているところからの命名とも。いずれにせよ、汚名を着せて盗難防止としたのだ。

 また京都東福寺(臨済宗)では、涅槃会(ねはんえ。釈迦入滅の2月15日におこなう法会)法要の際、供物・献花をした参拝者へ返礼品として配るお菓子を「はなくそ」(「お釈迦様の鼻糞」と揶揄されたという)といった。これは正月、ご本尊に供えた鏡餅のお下がりから作ったあられだ。お菓子らしからぬ見た目と「はなくご(花供御。供物・献花すること)」の音転から「はなくそ」と呼ばれるようになったという
(2)

 さて、高校教員の知人が「ウン(運)がついているね」と鳥に糞をかけられた受験生を励ますと、「そう思って頑張ります」との答え。果たして彼女は運をつかむことができただろうか。


【注】
(1)
鈴木誉志男「染色のふるさと西インドを旅する」コーヒージャーナルNo.82、2023年11月25日発行、サザコーヒーホールディングスによる。
(2)東福寺HPの「花供御(はなくそ)販売のご案内」の「花供御の由来」による。
2024年1月20日(土)
手書きの処世訓
 『大高氏記録』は、水戸城下馬口労町(ばくろうちょう。現、茨城県水戸市末広町)の町年寄大高織衛門(おおたか・おりえもん)が幕末期の水戸の出来事を記した町方記録だ。原本は東京大学史料編纂所蔵。茨城大学図書館に写本が保存されている。この写本が非常に丁寧に清書されており、たいへん読みやすい。

 ネットで公開されている同史料(写本)を流し読みしていると、次のように記載された箇所に目が止まった。


   心 気 色 勤 身(1)


 活字では何のことやらわからない。「心」の字はやや大きめで、「気」の字は縦長に書かれ、「色」の字は薄墨を用い、「勤」の字は角張って書かれている。これは一種の処世訓だ。読み方の和歌が添えられている。


  
気をながく、心をひろく、いろうすく、つとめはかたく、身はしたにもて(2)


 そういえば昔、わが家にも似たような処世訓を書いた色紙が飾ってあった。それは次のようなものだったと記憶する。


   気 心 人 己 腹


 こちらは「気」の字が縦長に、「心」が丸文字で書かれ、「人」の字が大きく、「己」の字が小さく書かれていた。そして「腹」の字は横倒しになっていた。これで、


  気は長く、心は丸く、人を大きく、己は小さく、腹を立てるな


と読ませた。

 手書きでないと、これら処世訓の妙味は伝わるまい。


【注】
(1)(2)
『水戸大高氏記録・1』(写)。茨城大学図書館のホームページから「茨城大学デジタルコレクション>図書館貴重資料>大高氏記録>無題(日記帳)」を選択し、『水戸大高氏記録・1』87コマ目を開く。
2024年1月18日(木)
得意なこと、不得意なこと
 ある時、黒田如水(1546〜1604)の家に糟屋助右衛門(かすや・すけえもん)・遊佐新左衛門(ゆざ・しんざえもん)ら心やすい者たち三、四人が集まった。よもやま話をしていたおり、誰かが如水に向かって次のような質問をした。


「貴公の武辺(ぶへん。武勇)は皆人知る所ながら、いまだ御直取(ごじきとり。自ら敵の首級をあげること)の高名(こうみょう)は承不及(うけたまわりおよばず)。何方(いずかた)にてもなかりしにや。」


 この質問は、糟屋(糟屋武則(かすやたけのり)。1562〜?)あたりから出たものだったかも知れない。糟屋は「賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)」のひとりとして、賤ヶ岳の戦い(1583)で活躍した。加藤清正・福島正則とともに一番槍の賞詞を秀吉から得ている。腕には相当の自信があったはずだ。

 如水は笑って次のように答えた。


「惣(そう)じて人には得手・不得手(えて・ふえて)有る者也(ものなり)。我等(われら。私)は若年より鎗(やり)の柄(え)を握り、又は太刀を取りて、相手がけ(敵陣に突入すること)の一騎働(いっきばたらき。一対一の勝負)は不得手に候(そうろう)

 乍併
(しかしながら)、采幣(さいへい。戦場で大将が士卒を指揮する道具。采配)を振(ふっ)て、一度の敵を千も二千も討取事(うちとること)は得手物(えてもの。得意)に候。」

(概して、人には得意・不得意があるものだ。自分は若い頃より、鑓や太刀をとっての戦場での個人戦は不得意だった。しかし采配を振って、一度に千人・二千人の敵を討ち取ることは得意である。)  


 敵陣に攻め込んでひとり・ふたりばかりの首級をあげることは不得意だが、千人単位で敵兵を討ち取ることは得意だ、とうそぶいたのだ。そして、次の言葉を最後に付け加えることを忘れなかった。


「此義(このぎ)一々不及申(もうすにおよばじ)。御存(ごぞんじ)の事也(ことなり)。」

(これはいちいち事例を申し上げるまでもない。皆様ご存知の通りである。)



【参考】
・以上、筆者不詳『茗話記』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0148、33〜34コマ目による。
2024年1月15日(月)
御家人株の相場
 江戸時代、百姓・町人であっても御家人株を取得できれば、御家人となることが可能だった。しかし実際、その相場はいくらだったのだろう。

 御家人株の相場は、明確にはわからない。ただし、俗に「与力千両、同心二百両、御徒五百両」といわれたという
(1)。仮に1両=10万円とすれば、現在の貨幣価値で与力になるには1億円、同心は2千万円、御徒は5千万円が必要となる。これでは御家人株を取得できるのは、裕福な豪農・豪商に限られよう。

 姜鶯燕氏の論文には、江戸後期の武士株売買・持参金養子の事例17件が紹介されている
(2)。このうち3例のみ金額が判明している。これを見ると「御徒(おかち)、30両に小袖等」、「同心、40両」、「同心、38両」とある。これなら同心・御徒が40両ほど。これなら現在の貨幣価値で400万円くらいなので、庶民でも手の届く範囲だ。

 ただし、事例があまりにも少なすぎる。広く史料を渉猟してもっと多くの事例を発掘しなければ、本当のところはわからない。


【注】
(1)
レファレンス共同データベース、「時代小説で御家人が身分を金で売るというような話があるが、そういう事実があったのか。また、事実なら売買の金額も知りたい。」への回答。https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000240579
(2)姜鶯燕「近世中後期における武士身分の売買について:『藤岡屋日記』を素材に」ー『日本研究 第37集』2008年、日本文化研究センター、p.197〜198ー http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/nike/2008-03-31/s001/s031/pdf/article.pdf 26
2024年1月13日(土)
出世の糸口
 江戸幕府は軍事政権だ。そのため役人の序列制度は番方(軍事職)重視で、役方(行政職)は一段低く見られた。しかし平和な時代が長く続くと、計算(勘定)・土木建築(小普請方)・渉外(広敷用達)など実務系の仕事の比重が高まってくる。こうした需要の高まりに対して、従来の旗本の人材では対応できず、新たな人材が求められようになった。そうした人材の供給源が御家人層だった(1)

 御家人とは、御目見以下(おめみえいか。将軍に謁見できない)の下級幕臣をいう。当時、百姓・町人であっても、金を貯めて御家人株(御家人の身分)さえ買うことができれば御家人になれた。つまり御家人層とは、下級武士ばかりか一部百姓・町人までをも含んだ人材バンクだった。

 もしも特別な才能、たとえば高い計算能力を身につけていれば、勘定所(かんじょうしょ)などがその能力の発揮場所となろう。場合によっては、出世の糸口となるやも知れぬ。

 勘定所(本丸内の御殿勘定所と大手門横の下勘定所のふたつがあった)は、御勘定奉行以下の役人たちが幕府財政を運営する役所である。家筋・禄高重視で採用が決まる他職と異なり、勘定所では実務能力が重視された。そのため、御家人出身者が何人も 御勘定奉行に就いている
(2)。つまり、御家人であっても実力が認められれば御勘定(ごかんじょう。旗本が勤める職)になり、さらにそれ以上の出世が望める役所なのだ。

 参考までに、『流芳録』(『太平秘覧』からの引用)に載せる神谷久敬(1672〜1749)の例を、次に抜き出しておく。


 
享保年中(1716〜1735)から元文(1736〜1741)の頃迄(まで)御勘定奉行(おかんじょうぶぎょう)(つとめ)られし神谷志摩守(かみやしまのかみ)は、元来卑賎(ひせん。低い身分)より起(おこ)りし人なり。

 其初
(そのはじめ)は甲州(現、山梨県)の百姓の二男。少年の時より学問好き、算筆(計算と読み書き)にも達し、仕官の望(のぞみ)ありしゆへ、金子(きんす)少々持(もち)江戸へ出て、西丸御切手同心(にしのまるおきってどうしん。通行手形を改める下級武士)の明(あ)きを買候(かいそうらい)て相勤(あいつとむ)る内に又金子を貯(たくわ)へ、御徒(おかち。警衛にあたる歩卒)の跡(あと)を買候(かいそうらい)て相勤(あいつとめ)ける。

 算筆は元より達者なれば、御徒の内より支配勘定御吟味
(しはいかんじょうぎんみ)の時に撰(えら)ばれ支配勘定になり、段々(だんだん)精出し相勤(あいつとめ)、御勘定(おかんじょう)仰付(おおせつけ)られ百五十俵下さる。 ( 中略 )

 其後
(そのご)帰府(きふ。大坂から江戸に帰る。享保飢饉時、神谷は大坂に米の買付けにおもむいていた)いたし候処(そうろうところ)、新地百石下され御勘定吟味役(おかんじょうぎんみやく)仰付られ、享保の末(1734年)御勘定奉行 仰付られ志摩守に任官、三千石下され候なり。(3)



【注】
(1)
小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社文庫、P.38・P.80。
(2)山本英貴『旗本・御家人の就職事情』2015年、吉川弘文館、P.46〜47。
(3)内山温恭編『流芳録』巻之十四、「御勘定 神谷武右衛門久敬」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。

【参考】勘定所での出世
   支配勘定(御家人が勤める役。人数不定。100俵)
 →御勘定(ここから旗本が勤める役。人数不定。150俵)
 →御勘定組頭(10名程度。350俵)
 →御勘定吟味役(4〜6名。500石)
 →御勘定奉行(4〜5名。3000石)
2024年1月7日(日)
金持ちになる方法
 本HPの「あれやこれや2021」で、山東京伝作『松魚智慧袋(かつおのちえぶくろ)』という本を紹介した(1)。実用的な方法・技術を指南するハウツー本の体裁をとった戯作本(げさくぼん)で、脇差(わきざし。短い刀)を鞘(さや)ごと呑む方法、火の上を走る方法、醜女(しこめ)を美女に変える方法など、21に及ぶ怪しげな「秘術」を紹介したものだ。

 この中に「金持ちにたちまちなる伝(でん。秘伝)」というのがある。初笑いネタの一つとして、京伝流の出まかせ秘術を次に紹介しよう。なお原文を読みやすくするため漢字・かな交じり文にして、適宜句読点等を付してある。


 
まづ三七日(さんしちにち。21日)が間(あいだ)断食をし、毎日垢離(こり。神仏に祈願する前に冷水を浴びて心身を清めること。水ごり)を取り、身を清浄(しょうじょう)にして随分(ずいぶん)(信心)を起こし、扨(さて)どこでもよいから至っての高山を見立て(見て選ぶ)、山深く分け入り、その山の峰までよぢ登り、その峰のてっぺんに生へてゐる大木の上にのぼり、枝につかまへて(枝につかまって)だんだんとその木のうら(末。枝の先。こずえ)へのぼりつめ、いっち(一番。最も)末の細き枝のへなへなするやつを両手にてつかみ、さてまづ右の手を離すべし。そののち、又左の手をも離すべし。

 しかれども、此
(この)左の手を離す時は、たちまち遥(はる)かの谷底へ落ちて、体は微塵(みじん)になるべし。人として命の惜しくない者のあるべきか。たとへいかやうのことありとも、此左りの手に握った枝ばかりは、どうも離すことはならぬなり。ただし(もしくは。ひょっとしたら)、離されようか。どうも離されはせまい。どうしても離されるぬか。

 そんなら、金を握った時、その通りに離さっしゃんな。たちまち金持ちになる事、疑ひなし。(2)



 なお、この秘術によって大金持ちになった人物の言葉が次。


「又、蔵(くら)で金が唸(うな)るさうな。昨夜(ゆうべ)は義太夫(ぎだゆう。義太夫節)を唸ったが、今夜は河東節(かとうぶし)を唸るはへ。おらが金蔵(かねぐら)は、とんと(まったく)銭湯(せんとう)のやうだ。」(3)


 「金が唸る」は金銭がありあまっているたとえ。義太夫節・河東節はともに浄瑠璃の流派の一つで、三味線伴奏に合わせて物語の筋やセリフをうたったり語ったりするもの。大衆浴場で庶民が浄瑠璃をのどをしぼるように低音でうたったり語ったりするように、金蔵の中でも蓄財された金銀が浄瑠璃を唸っていると大法螺(おおぼら)を吹いているのだ。


【注】
(1)
あれやこれや2021年3月10日(水)の「山東京伝の知恵袋」。
(2)(3)山東京伝撰『三国一本松魚智慧袋』寛永5(1793)年序、早稲田大学図書館蔵、請求記号:へ13 02821。 
2024年1月4日(木)
物は言いよう
 安土桃山時代の名医、曲直瀬道三(まなせ・どうさん。曲直瀬正盛。1508〜1595)が織田信長に謁見した折のこと。進物用に扇子を二本持参した。御前に伺候(しこう)していた人々は、あまりにも簡素すぎる贈り物を見て、みな一様に


「あら、些少(さしょう)のいたりや」


という顔つきをした。この時、曲直瀬は取次役に対し、信長へ次のような口上を伝えるよう依頼した。


「言上(ごんじょう)あれ。これは目出(めで)たう日本を、御手の内に握らせ給(たま)ふやうに」


 扇の「二本」に「日本」の意を掛けて、信長の日本掌握を予祝したのである。信長がどんな反応を示したか、『醒睡笑』には書かれていない。しかし、見え透いたおべっかであっても、野心を抱いていた信長にとっては満更でもなかったはずだ。

 気の利いた物言い一つで、「些少の」品物であっても印象には残る。物は言いようだ。


【参考】
・安楽庵策伝著・鈴木棠三校注『醒睡笑(下)』1986年、岩波文庫、P.265.