あれやこれや2023
一日の計は朝(あした)にあり
一年の計は春にあり
一生の計は少壮の時にあり 
 (安井息軒「三計の教え」)


 今年は卯年。世間では、ウサギになぞらえて「飛躍の年」だと験担ぎされています。
そんな一足飛びの上昇は望みません。「一歩なりとも前進ができれば」と思います。

 
2023年12月27日(水)
倹約家(黒田如水の逸話)
 戦国武将の黒田如水(黒田孝高(よしたか)。1546〜1604)は非常な倹約家で、吝嗇家(りんしょくか)の噂が立つほどだった。『茗話記(めいわき)』には次のようにある(1)


 
黒田如水は若き時より物毎(ものごと)に費(ついえ)をいとひ、たとえば陣具(じんぐ。陣中で用いる器具)に渋紙(しぶがみ。防寒・防水のため、柿渋を塗ってかわかした和紙)を歩行士(かち。騎乗を許されない下級武士)に申付(もうしつけ)て拵(こしら)へらるるに、反古(ほご。不用になった紙)の端(はし)を喰裂(くいさき)し其(その)くずを戸板(といた)に吹付(ふきつけ)て干置(ほしおき)、扨(さて)普請奉行(ふしんぶぎょう。土木工事担当の役人)に渡し白土のすさ(壁土のつなぎ材料)とせらる。

 味瓜
(あじうり。マクワウリの別名)を近習(きんじゅう。主人に近侍する武士)の者に食(くわ)せられ、その皮を集(あつめ)て賂奉行(まかないぶぎょう。食事調理担当の役人)へ渡し、

「冷漬
(ひやづけ)にし、下部共(しもべども。召使いたち)が菜(さい。おかず)にすべし。」

と申付らる。

 斯
(かく)つましき(倹約する)(ゆえ)、心なき者は吝嗇人(りんしょくにん。けちな人)(なり)とおもへり。



 ある時、秀吉が日根野備中守(ひねの・びっちゅうのかみ)を朝鮮に派遣したことがあった。しかし、日根野家では財政が逼迫していて、渡航のための準備をととのえることができない。やむなく知人を介して、「吝嗇人」の噂のある黒田如水から銀300枚を借用した。ところが帰国後、如水のもとに銀子を返済しに行くと、如水は銀子を受け取らず次のように言ったのである。


「我等(われら)常々(つねづね)倹約をし申(もうす)は、かやうの役に立(たつ)べき為(ため)なり。」


 一切の無駄を嫌った黒田如水。しかし、そうした倹約生活も、不時の用に備えるためだった。『茗話記』には如水のことを、


「事に寄(より)ては更(さら)に過分の物入(ものいり。出費)にても、いとはるる事曽(かつ)てなし。」


と記す。

 なお、如水が日根野備中守に銀を貸す類話は、『老人雑話』
(2)や『常山紀談』(3)にもある。ただし、どちらも借用した銀子は100枚(『老人雑話』では返却時に利息として「銀拾枚を持参」したとする)とし、記述も簡略だ。『茗話記』の記述がもっとも詳しい。


【注】
(1)
筆者不詳『茗話記』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0148、34〜36コマ目。
(2)江村專斎選、伊藤坦庵録『老人雑話・巻上』(近藤瓶城編『史籍集覧・第10冊、改定』1906年、近藤出版部、p.10)。国立国会図書館デジタルコレクション、151コマ目。
(3)湯浅常山著、杉山藤次郎評注・増補『常山紀談』1887年、鶴声社、P.地53。国立国会図書館デジタルコレクション、199コマ目
2023年12月25日(月)
「ふかのひれ」の残り肉
 江戸時代、輸入された中国産生糸等の代価に宛てられた俵物(たわらもの)。その中身は干し鮑(あわび)、いりこ(海鼠(なまこ)を干したもの)、ふかのひれ(鱶の鰭)だった(俵物三品)。いずれも高級中国料理の食材だ。

 このうち、中国では魚翅(ぎょし)とよばれた「ふかのひれ」。ふか(鱶)はホシザメなどのサメ類をいう。「ふかのひれ」が重要な輸出品のひとつだったため、サメ類の需要は高かった。だからこそ『名所図会』(日本橋魚市)の中にサメを運ぶ市場関係者の姿が確認できるし、サメを描いた浮世絵も残っているのだ。

 しかし、あれだけ図体の大きなサメからひれだけを切り取って、残りの肉部分はどうしたのだろう。サメ肉はアンモニア臭をともなうため、江戸時代は下級の食材とされた。さぞかし持て余していたにちがいない。

 しかし実際には、カマボコやハンペンなどの練り物にして消費していた。

 江戸時代の日本橋魚市近辺には、蒲鉾屋が林立していたという。カマボコはサメなどの魚肉から作る。またハンペンもサメ肉に山芋等を混ぜて作られる。ハンペンの老舗、日本橋「神茂(かんも。江戸時代の屋号は神崎屋)のHPにも次のように記載されている。


「鮫のヒレは幕府の重要な輸出品で、そのヒレを取った残りの鮫を利用して半ぺんを造りはじめました。」


 江戸時代、生食用としてのサメ肉自体に人気はなかったが、練り物製品に加工すれば大衆に消費された。不要なものだからといってそのまま廃棄してしまわず、ほかに用途はないかと考えをめぐらす。そうした知恵は現在も必要だろう。


【参考】
・東洋経済オンライン「日本人が忘れてしまったサメとの深い関係」2018年8月16日付の記事。
2023年12月21日(木)
安藤家の正月飾り
 江戸時代を通じて安藤対馬守家には、将軍家から毎年正月飾りが贈られたという。そのいわれが『掃聚雑談』に書かれている。碁の相手だった安藤重信(あんどうしげのぶ。1557〜1621)を帰宅させないため、家康が自宅の正月飾りを安藤家に贈ったのがはじまりという。

 しかし、年末の忙しい時期だ。碁の相手をさせられた重信は、内心さぞや迷惑だっただろう。


 
安藤対馬守(つしまのかみ)先祖(安藤重信)、三河にて神君(しんくん。徳川家康)と常々(つねづね)碁を囲(かこみ)(たま)ふこと度々也(たびたびなり)。比(ころ)は極月(ごくげつ。12月)廿七、八日の時節にや。神君と囲碁の最中より宿(屋敷)よりひたと(突然。にわかに)(よび)に来(きた)る。


「何事にや。」


と御尋
(おたずね)(あり)ければ、


立出(たちいで)て聞(きく)に、『正月かざり仕候
(つかまつりそうろう)。支度(したく)帰りて見候(みそうら)へ』と申(もうす)。私不参(まいらず)ば、埒明申間敷(らちあきもうすまじく)。」


と申上
(もうしあげ)る。神君の仰(おおせ)に、


「然
(しか)らば、此方(こなた)かざりの内(うち)を遣(つか)はせ。」


と仰
(おおせ)られ御とめ置(おき)、碁を遊(あそば)しける。

 其
(その)翌年の軍(いくさ)に安藤無比類(ひるいなき)手柄(てがら)してけり。


「御飾
(おかざり)被下候(くだされそうろう)ゆへ、当年は仕合(しあわせ。事のなりゆき)よし。」


と申上る故
(ゆえ)


「是
(これ)を嘉例(かれい。めでたい先例)として、毎年かざり致(いた)すべし。」


と被仰
(おおせられ)、不相替(あいかわらず)かざりを被下(くだされ)けり。

 依之
(これにより)当時(とうじ。現今)も御台所より対馬守正月飾りは今に致すと也(なり)。今は格別麁相(そそう)也。是(これ)を「対馬守がかざり」と申(もうす)とかや。(1)


【注】
(1)
『掃聚雑談・3』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-00142、24〜25コマ目。
2023年12月19日(火)
公私の別
 御徒頭(おかちがしら)の甲斐庄喜右衛門(かいのしょう・きえもん。1661〜1717)の妹は、土屋主税(つちや・ちから)の妻だった。しかし、主税が妻を離縁したため、喜右衛門と主税は絶交状態になった。

 その後、主税も喜右衛門と同じ御徒頭を拝命した。この人事を知った喜右衛門は、早速主税の屋敷に赴くと、主税に面会を求めた。そして次のように言った。


「只今迄(ただいままで)は不通(ふつう。絶交)に候(そうろう)

 然
(しかり)といへども、同役に罷成候上(まかりなりそうろううえ)は御奉公(ごほうこう)(かく)る間(あいだ)、其段(そのだん)は不忠なり。向後(こうご)、意趣(いしゅ。いきがかり。恨み)を忘候(わすれそうらい)て、随分(ずいぶん)申合(もうしあわす。相談する)べく候。

 我は先役
(せんやく。古くからその役にある者)たる間、少しは功もまいり候。何事も尋(たずね)らるべく候。存候丈(ぞんじそうろうだけ)は、指引(さしひき。指図すること。差配)いたすべき。」

(今までは絶交状態でした。しかし同役となった以上、そんな状態では御奉公に差し障りがあり、それでは主君に対し不忠というもの。今後はこれまでの行きがかりは忘れ、いろいろと相談いたしましょう。私は先役として少しは年数も経験しております。何でも尋ねてください。知っている限りは、お世話をいたしましょう。)



 喜右衛門の申し出に、主税も次のように応じた。


「過分至極(かぶんしごく)に候。御自分(ごじぶん。あなた)に任置候間(まかせおきそうろうあいだ)、能々(よくよく)指南(しなん)頼入候(たのみいりそうろう)。」

(たいへん過分なお申し出です。あなた様にお任せいたしますので、よろしくご指導をお頼みいたします。)



 ただし、喜右衛門は帰り際(ぎわ)に、次のような言葉を主税にかけることを忘れなかった。


「主税殿かやうに申候(もうしそうら)へども、貴殿(きでん)御役(おやく)(かわ)り、拙者(せっしゃ)も代(かわ)り候(そうら)はば、又々(またまた)元の如(ごと)く不通たるべく候間(そうろうあいだ)、左様(さよう)心得(こころえ)られ候(そうら)へ。」

(あなたは「よろしくお願いします」とおっしゃいましたが、もしあなたか私のどちらかが他の職へ転出したなら、再び以前のように絶交いたします。そのようのご承知おきくだされ。)


 仕事に支障が出ないよう、私生活上の恨みはいったん忘れて協力しよう。しかし、仕事上の協力関係が解消されれば、再び断交すると宣言したのだ。

 公私の別が明瞭で、その言葉はむしろ潔い。


【参考】
・以上内山温恭編『流芳録』巻之十三、「御徒頭 甲斐庄喜右衛門正永」の項による(『南山聞書』を引用)。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。
2023年12月14日(木)
吉良の引っ越し
 赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良邸は、本所松坂町(現、東京都墨田区両国3丁目)にあった。しかし、もとから当地にあったわけではない。実は、吉良は二度引越しをしている。

 最初の吉良邸は鍛冶橋門(かじばしもん。現、東京都千代田区丸の内3丁目)内にあった。それが元禄11(1698)年の江戸大火(勅額火事)で屋敷が類焼したため、呉服橋門(ごふくばしもん。現、東京都中央区八重洲1丁目)内へと移ったのである。これが一度目の引っ越し。

 その後元禄14(1701)年に例の松の廊下刃傷事件がおこると、奥高家(おくこうけ。官にある高家)だった吉良は自ら免官を願い出て非役(表高家)となった。このとき幕府から二度目の引越しを命ぜられて、本所松坂町に移ったのだった。

 鍛冶橋にしろ呉服橋にしろ江戸城のすぐ近くだ。しかし、赤穂浪士が討ち入った本所の吉良邸は、江戸城から見ると東の方角でかなり遠方、両国橋を渡った隅田川の向こう側である。江戸城近くの鍛冶橋・呉服橋とは異なり、本所は警備がかなり手薄な場所だ。これが赤穂浪士の討ち入りを容易にした。

 ただし幕府には、吉良をわざわざ警備の手薄な場所に追いやって、赤穂浪士の討ち入りに加担する意図など毛頭なかった。

 そもそも江戸幕府は、その役職の重要度にしたがって、江戸城近くから順々に周辺へ向かって幕臣の屋敷地を配置する方針をとっていた。だから、幕閣の中枢をになう老中の屋敷地は江戸城大手門前に配置され、親衛隊である大番組は江戸城背面に配置されていたのだ。

 一方非役の幕臣は、幕府にとっては無用の存在だ。そこで、吉良をはじめとする非役の幕臣たちの屋敷地は、江戸城からは遠い川向こうに追っ払われたのだ。


【参考】
・稲垣史生『楽しく読める江戸考証読本(3)-大名と旗本編』2010年、新人物往来社、P.66〜67
2023年12月13日(水)
今日はクイズ
 問題である。

 次の川柳は、和暦で何年何月何日の情景を詠んだものだろうか。


   
あくる日は夜討と知らず煤(すす)をとり(1)


【答】元禄15年12月13日

 江戸時代、年末の大掃除は煤払い(すすはらい)とか煤掃(すすは)きなどといって、12月13日に行うのが恒例だった。江戸では江戸城から長屋にいたるまで、この日に一斉に大掃除を行なった
(2)。それは、吉良邸とても例外ではない。

 赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸に討ち入ったのは元禄15年12月14日(1703年1月30日)のこと。だから上記の川柳は「吉良邸では翌日に赤穂浪士の夜討ちがあることも知らずに、12月13日に煤払いをしたのだろう」の意。類句が次。


 
  さつぱりと掃除をさせて首を取(とり)(3)  


【注】
(1)
山澤英雄選・粕谷宏紀校注『柳多留名句選(下)』1995年、岩波文庫、P.157
(2)本HP「あれやこれや2021」2021年12月13日(月)の「12月13日は煤払い」を参照。
(3)『柳多留名句選(下)』前出、P.157  
2023年12月12日(火)
鶴盗人
 土井利勝(どいとしかつ。江戸幕府の老中・大老。1573〜1644)は、何よりも公正を重んじた人だった。  

 ある時、伊丹順斎(いたみじゅんさい。伊丹康勝。1575〜1653)とともに江戸城から退出したおり、中間(ちゅうげん)が食材の鶴を盗んで台所から出てくるところに出くわした。ふたりに気づいた中間は、鶴を入れた箱を取り落とすと、あわてて逃げていった。

 これを見た順斎老は非常に立腹し、台所の奉行衆を呼びつけると次のように叱りつけた。


「各(おのおの)不詮議(ふせんぎ)なるゆへ、是等(これら)の事(こと)あり。急度(きっと)穿鑿(せんさく)して、後(のち)の為(ため)なれば、死罪(しざい)に行(おこな)ふべし。」

(お前たち奉行衆がよく管理しないから、こうした鶴の盗難という不祥事が起こるのだ。厳しく調べ上げて、今後のためにも犯人を死罪にせよ。)



 しかし、利勝は次のように言って、奉行衆を前に息巻いていた順斎老をたしなめたのである。

 なるほど、あなたのご立腹はもっともです。しかしだからといって、犯人を死罪に処すというのはいかがでしょうか。わたしのような者の台所においても、鶴こそ盗まないものの、使用人がわずかの食材をくすねるということはあることです。それが江戸城の台所のように食材があふれているところなら、これくらいの盗難は予想されるでしょう。ただ、上様(将軍)にとっての鶴の扱いは、わたしの家の台所で食材にする雀よりも軽いもの。


「我等(われら)の台所にて雀を盗みたればとて、よも人の命は殺さんなれば、ゆるがせにめされよ。」

(私の家の台所から雀を盗んだからといって、よもやその者の命までは奪いません。どうか、寛大に対処されますように。)  



【参考】
・以上、日下部景衡編『遺老物語・3(故諺記)』写本、1876年、内務省。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0159、45〜46コマ目による。
2023年12月10日(日)
牛を殺す
 前田玄以(まえだげんい。徳善院と号す。1539〜1602)は、もとは僧侶だった。それが還俗(げんぞく)し、織田信長の嫡男信忠(のぶただ。1557〜1582)付きの家臣となり、その後信長の次男信雄(のぶかつ。のぶお。1558〜1630)に仕え、京都所司代(きょうとしょしだい)職に就任した。次の逸話はその時のものか。

 前田玄以が京都所司代に就任した際のこと。京都の内外を巡見していると、東寺の辺りで牛車が道路を塞(ふさ)いでいた。玄以は非常に怒って、

「所司代が通る行く手を塞ぐとはけしからぬ。あの牛を切れ。」

と従者に命じた。従者は、本気ではないと思っていたが、またも玄以が

「命令に従わないとはけしからん。」

と散々に悪口(あっこう)するので、やむなく牛を切り殺した。

 これを見聞きした京都の人々は、

「今度の所司代は、乱心(逆上すると分別をなくす)であろう。牛さえ切られるのだから、まして人は気に入らないことがあれば、一言の聞く耳をもたずに切られるに違いない。どのようなひどい目に遭うかわからないぞ。」

と非常に恐れた。こうして玄以が京都所司代職にあった時期は、牛一頭を殺しただけで、訴訟ということもなく、その後人を殺す(処刑する)ということもなかったという。

 腹立ち紛れに牛でさえ切り殺してしまう所司代だ。うっかり訴訟ごとでも起こしたら、自分たちがどんな理不尽な目に遭うかもしれない。そうして戦々恐々、京都の人々は息をひそめて過ごしていたのだ。京都の治安は維持されただろうが、これでは恐怖政治と変わらない。


【参考】
・日下部景衡編『遺老物語・3(故諺記)』写本、1876年、内務省。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0159、39〜40コマ目による。原文は以下の通り。読みやすくするため、カタカナをひらがなに改め、句読点を付すなどした。

 
徳善院玄意(とくぜんいん・げんい。前田玄以のこと)、京都の所司代請取被申時(うけとりもうさるとき)、洛中洛外順見(巡見)せらるる剋(とき)、東寺辺にて牛車(ぎっしゃ)道路を塞ぎ横(よこた)はれり。玄意、以の外(もってのほか)腹立(はらだち)して、
「所司代の通る先に、道をふさぐこと奇怪也(きっかいなり)。あれ、きれ。」
と云付(いいつけ)らる。徒者(かちしゃ。従者か)、誠しからずとおもひ居けるが、又主人の
「下知(げち)を背(そむ)く、曲事(くせごと)なり。」
と数々悪口せられければ、無是非(ぜひなく。仕方なく)牛を切殺す。
 是(これ)を見聞(みきく)京都の貴賤(きせん)、
「此度(このたび)の所司代は、乱心なるべし。牛をさへ切らるる上は、人の気に違(たが)ふことあらば、一言もいはせず切らるべし。如何様(いかよう)の憂目(うきめ)をか見ん。」
と甚(はなはだ)恐れければ、玄意所司代の内牛一疋殺し、公事(くじ。訴訟)といふこともなく、其後(そのご)人も殺(ころ)し給(たま)はざりしとなり。
2023年12月9日(土)
暇つぶし
 織田信長(1534〜1582)といえば酷薄苛烈の人という印象があるが、その実、正義と名誉を好む人でもあった(ルイス=フロイスによる)。

 ある時、信長が雪隠(せっちん。トイレ)に行ったおりのこと。主人が用を足し終える間の暇つぶしだったのだろう、信長の刀持ちの小姓が幾度も刀の刻み鞘(きざみざや。横に刻み目をつけた鞘)の刻みを数え直していた。それを知っていた信長は、数日後、何かのついでのおりに自分の刀を取り出して、


「此刀(このかたな)の鞘の刻みの数を云当(いいあて)たらん者に褒美(ほうび)有るべし。」


と言った。その場にいた小姓たちは、われもわれもと刻みの数を申し上げた。ところが、雪隠にお供したあの小姓だけが、素知らぬ顔をしている。そこで信長は、


「汝(なんじ)は如何程(いかほど)可有之(これあるべし)とおもふ。」(お前は、いくつあると思うか。)


と尋ねた。するとその小姓は、


「某(それがし)は数を存候間(ぞんじそうろうあいだ)、申上間敷(もうしあげまじ)。」(私は刻みの数を存じておりますので、申し上げません。)


と言い、雪隠にお供したおり刻み鞘の刻みを数えたので覚えているのです、と正直に答えた。

 信長は、


「正直なる申様(もうしよう)、侍に似合いたる。」


と感心すると、自分の刀をその小姓に下賜したという。

 なお、この逸話を記した『故諺記』には、欄外に次のような書き入れがある。


 「父石翁云(いわく)、此小性(このこしょう)森蘭丸(もり・らんまる)(なり)。」


【注】
・以上、日下部景衡編『遺老物語・3(故諺記)』写本、1876年、内務省、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0159、43コマ目による。なお原文は読みやすくするため、カタカナをひらがなに改め、句読点を付すなどした。
2023年12月7日(木)
金三枚
 寛政2年(1790)2月19日、幕府は火附盗賊改加役(ひつけとうぞくあらためかやく)の長谷川平蔵宣以(はせがわ・へいぞう・のぶため。1745〜1795)に命じて、江戸石川島(隅田川河口に築いた島)に人足寄場(にんそくよせば)を建設させ、その取り締まりにあたらせることにした。

 当時は天明飢饉の傷跡がいまだ残り、江戸市中には引受人のいない無宿人(むしゅくにん。住所不定者)や、農村に人返しできない者たちが多く滞留していた。そうした


「溢(あぶ)れ者ども、或(あるい)はをのが主・親の家を欠落(かけおち。失踪)して寄(よる)べき所なき類(たぐ)ひ皆召捕(めしとり)て彼嶋(かのしま。石川島)へ遣(つかわ)し、大なる長屋をたてて、上より食を賜りて、其者共(そのものども)の仕覚(しおぼえ)たる業(ぎょう。大工・髪結いなどの仕事)をさせて」(1)


社会復帰への助成としたのである。

 この施策により江戸の治安も回復し、江戸市中には


「怪しげなるもの徘徊(はいかい)せず、奇麗(きれい)に成」(2)


ったという。

 こうした成果をあげたことにより、長谷川平蔵は同年11月14日、幕府から褒賞を受けている。


「一、同二年(寛政2年。1790)十一月十四日、長谷川平蔵人足寄場の儀、骨折相勤候(ほねおりあいつとめそうろう)に付(つき)
金三枚、時服(時節の服)三つ被下候旨(くだされそうろうむね)、御右筆部屋(ごゆうひつべや)縁頬(えんづら。えんがわ。江戸城などでおもだった座敷と廊下との間にある畳敷の控えの間)におゐて松平伊豆守(松平定信)申渡(もうしわた)され、若年寄衆侍座(じざ)。」(3)


 さて、この時長谷川平蔵が拝領した品のうち「金三枚」というのは何だろう。金のプレート(板)なのか、それとも金貨なのか。金貨なら、なぜ「金三両」とか「金三十両」とか書かないのだろうか。

  実は、「金三枚(黄金三枚)」とは「大判金三枚」の意味だ。

 大判金は武士の儀礼用・贈答用に使われた金貨で、小判や一分金などの流通貨幣と違って、庶民の使用が禁止されていた。そのため、大判金はそのままでは市中で使用できない。だから大判金を拝領した武家は、両替商で流通可能な小判などに換金しなければならなかった。

 大判の表面には「十両」と墨書されている。それなら「金三枚」は「金三十両」とすべきだろう。

 しかし実際には、そうはいかない。

 額面の「十両」というのは名目であって、ただちに小判10両との等価交換を意味するものではなかったからだ。大判金の価値を決めるのは、あくまで金の含有量だ。そのため大判金の価値は、7両2分とされていた。だから「金三枚」を拝領した長谷川平蔵が両替商で大判金を換金すると、(両替商の手数料を無視したとすると)実際に手にできたのは22両2分だったことになる。

 ただし、大判金はその稀少価値から、両替商での売買は市中価格で20両~40両近くしていたというから驚きだ。
(4)


【注】
(1)(2)
森山孝盛『蜑の焼藻(あまのたくも)』(内山温恭編『流芳録』巻之十二、「火附盗賊改加役 長谷川平蔵宣以」の項で引用。国立公文書館デジタルアーカイブ請求番号:159-0004。)
(3)『年録』(『流芳録』巻之十二、前出、「火附盗賊改加役 長谷川平蔵宣以」の項で引用。)
(4)小川恭一『江戸の旗本事典』2003年、講談社文庫、P.315 。
2023年12月4日(月)
ずけずけ言う
 「鬼作左(おにさくざ)」の異名をもつ剛勇の士、本多作左衛門重次(ほんだ・さくざえもん・しげつぐ。1529〜1596)は、主君の家康にずけずけと諫言し続けた。それは時として傲岸不遜な態度ともとれた。

 たとえば、秀吉の小田原征討(1590)のおりのこと。家康は駿府城を秀吉軍のために提供せねばならなくなった。しかし、これは作左衛門にとって許せない行為だった。それゆえ、秀吉配下の武将らや諸大名が並み居るなかでも、

「国持大名が居城の本丸まで他人に貸し出すなどとは、何と馬鹿げたことか。」

と主人の家康を罵るだけ罵るとそのまま宿へ帰ってしまったのである。家康がその場を取り繕うなか、諸大名らは

「よい人材を持たれることは、さても貴重なものでございますよ。」

と、饗応役の家康を気遣った。
(1)

 彼らの言葉は単なる外交辞令だったかもしれないが、直諫(ちょっかん)の士を貴重とする認識があったことは確かだ。

 なお同史料は、家康の言行録である『披沙揀金(ひさかんきん)』にも採用・収録されている。
(2)


【注】
(1)
大道寺重祐著『岩淵夜話別集』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0029、46〜47コマ目。原文は次の通り。

一、右作左衛門儀、太閤秀吉小田原へ進発の砌(みぎり)、駿府の御城を被明候(あけられそうらい)て秀吉を御招請被成(ごしょうせいなられ)、形のごとく御馳走を被遊(あそばさる)。
 其節(そのせつ)作左衛門義は、御用の義に付(つき)他方へ罷越(まかりこし)、秀吉浜松へ御到着の日罷帰(まかりかえる)。旅出立(たびいでたち。旅装)にて直に致登城(とじょういたす)。御軍旅の義とは乍申(もうしながら)、秀吉初めて御入の儀故(ゆえ)、御馳走の粧(よそおい)美々しく、御城中も賑々敷(にぎにぎしき)様子也(ようすなり)。作左衛門、苦々敷(にがにがしき)不機嫌成(ふきげんなる)顔色にて、秀吉の旗本衆並(ならびに)上方大名も列座の中にて、家康公へ向奉(むかいたてまつ)り、
「殿(との)、殿。」
と呼懸申(よびかけもうす)。
「扨々(さてさて)、殿は珍敷(めずらしき)馬鹿をめされ候物(そうろうもの)かな。抑(そもそも)国持大名(くにもちだいみょう)といわるる人が、我(わが)居城の本丸迄(まで)を明(あけ)て、一夜にても人に借(か。貸与)すといふ事が有物(あるもの)にて候(そうろう)や。左様の御分別からは、殿は女房衆をも人にかし給(たま)ふべし。ちと嗜(たしなみ。慎むこと)せられよ。」
とにがにが敷(しく)詈(ののし)り、其侭(そのまま)宿所へ罷帰(まかりかえ)る。家康公は、
「何をうつけを尽(つくす)ぞ。」
と被仰(おおせらる)。扨(さて)一座の衆中へ被仰(おおせられ)けるは、
「只今の奴(やっこ。男伊達)がけんきやう(牽強。道理に合わないこじつけ)を御聞候哉(おききそうろうや)。今日の義にも御座候処(ござそうろうところ)に、近比(ちかごろ)是非不及仕合(ぜひにおよばざるしあわせ。仕方のない成り行き)に候。
 あの男めは本多作左衛門と申(もうし)て、当家普代(ふだい)の者にて、我等(われら。私)若年の時より奉公を仕(つかまつり)、出陣毎に供を不欠(かかさず)、形(かた)の如(ごと)く武篇(ぶへん。武辺。戦場で勇敢に戦うこと)場数(ばかず)もある奴にて候得(そうらえ)ども、大なる気随(きまま)の我侭者(わがままもの)にて、人をば生(いき)たる虫とも不存(ぞんぜず)。生付(うまれつき)の奴にて候。各(おのおの)御聞候所(おききそうろうところ)にてさへ只今の通(とおりに)候得ば、我等と指向(さしむかい)の時の義は御推量あられ候(そうら)へ。常々は兎(と)も角(かく)も、当日の儀にも候処(そうろうところ)に不届千万(ふとどきせんばん)の義に存候(ぞんじそうろう)。」
と被仰(おおせられ)ければ、一座の衆中口々に、
「其(その)作左儀は、上方にて内々承及(うけたまわりおよび)たる事、御座候(ござそうろう)。能人(よきひと)を御持被成候(おもちなられそうろう)は、扨々(さてさて)御重宝(ごちょうほう。貴重で大切なもの)成事(なること)に候。嘸(さぞ)御秘蔵に可被思召(おぼしめさるべし)。」
と各(おのおの)御挨拶被申(ごあいさつもうされ)けると也(なり)。


(2)『披沙揀金・巻9』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0060、17〜18コマ目。
2023年12月1日(金)
和久半左衛門(3)
 半左衛門はよほど硯水にこだわったらしい。「柳の水」以外にも次のような逸話がある。この時、義山公(ぎざんこう。伊達忠宗。政宗の次男。1600〜1658も半左衛門の言葉を疑った。政宗・忠宗ともに疑り深いところはさすがに親子である。

 なお、原文には読点等がないので、読みやすくするためを適宜それらを加えた。カタカナはひらがなに、漢字は現行のものに改めてある。


 
義山公(伊達忠宗)、或時(あるとき)安是(半左衛門の号、是安。以下同じ)に硯水の良否を問ふ。安是曰(いわ)く、


「城州
(じょうしゅう。山城国。現京都府)加茂川の水を一等と為(な)せり。」


と。公(忠宗)
(ひそ)かに侍臣(じしん。側に仕える家来)に命じて之(こ)れを齎(もた)らし来(きた)らしめ、坐前に安是の書を徴す。ここに於(おい)て安是、水滴(すいてき。水差し)より水を硯に濺(そそ)ぎ墨を磨(ま)す。黙回(もくかい)すること数次(すうじ)。而(しこう)して遂に其水(そのみず)を口中に含み、味(あじわ)ふるものの如(ごと)し。且(かつ)左右を顧みて問ふて曰く、


「此水
(このみず)、何地より来(きた)る。」


と。近侍輩
(きんじのやから)曰く、


「乃
(すなわ)ち城水なり。」


と。安是曰く、


「果
(はた)して城水ならば、乃(すなわ)ち加茂水に何ぞ譲らんや。希有(けう。滅多にない)の名水なり。」


とて称歎
(しょうたん。感心しほめたたえること)(や)まざりき。公(忠宗)(こ)を聞き、


「硯水すら此
(こ)の如(ごと)し。以(もっ)て其書(そのしょ)鍛錬(たんれん)の妙(みょう)、知るべきのみ。」


と是より益々
(ますます)寵重(寵遇(ちょうぐう)か)を加らるると云(い)ふ。(1)


 能書家として知られた半左衛門。しかし、半左衛門が能技としていた自負していたのは書でなく、音律と尺八だったという。藤原公任(ふじわらのきんとう)の「三舟(さんしゅう)の才」にも通じる逸話である。


【注】
(1)
以上、「和久半左衛門伝」、前出、13丁オ・ウによる。
2023年11月30日(木)
和久半左衛門(2)
 能書家だった和久半左衛門の逸話が『掃聚雑談』にある。史料中に登場する「柳の水」は、現在の京都府中京区西洞院通三条下る東側にあった名水で、千利休(1522~91)も茶の湯に用いたという。書の達人だった半左衛門は、墨を磨る水にもこだわった。


 
大坂陣の節、伊達正宗(伊達宗。1567〜1636。表記は原文のまま。以下同じ)へ秀頼公(豊臣秀頼。1593〜1615)より和久半左衛門と云(い)ふ者を使者に被遣(つかわさる)。此度(このたび)の事(大坂の陣での豊臣方への加勢)、頼み思召(おぼしめす)よし也(なり)。正宗承引(しょういん)なく、 将軍家(2代将軍徳川秀忠)へ半左衛門を召連(めしつ)れ候(そうろう)よし申上る。御機嫌限りなく、大坂落城已後(いご)、和久半左衛門は奥州(仙台藩。伊達政宗)の家人(けにん。家臣)になる。半左衛門、能書なる故(ゆえ)、正宗、


「何ぞ書
(かい)て見せ候(そうろう)へ。」


と云
(い)ふに、半左衛門、


「奥州は下国故
(ゆえ)に水悪(あし)く、書(かか)れ不申(もうさず)。」


と也
(なり)


「何
(いず)れの水にても替(かわ)りは有るまじけれども、やうだいなる(様体なる。勿体ぶっている)こと。」

と正宗申さるる。半左衛門、


「左
(さ)にてなし。京都『柳の水』ならでは書れ不申。」


と云
(い)ふ故(ゆえ)、ひそかに『柳の水』を取り寄置(とりよせおき)、半左衛門を呼(よび)て又物を書(かかす)と、


「好まる紙は結構に候
(そうら)へども、水悪(あ)しくて書(かか)れ不申候(もうさずそうろう)。」


と云
(いう)。筆をてんじて一(ひと)くだるる書(かく)と、


「是
(これ)は能(よ)き水かな。是(これ)にてこそかかれ申候(もうしそうろう)。」


と言
(いう)。正宗、


「是
(これ)は当所(仙台)の清水なり。」


と申さるれば、半左衛門、


「是は合点
(がてん)不参(まいらず)。全く『柳の水』と存候(ぞんじそうろう)。」


と申上
(もうしあげ)る。正宗、


「汝
(なんじ)、あまり水あしきと申故(もうすゆえ)、京都『柳の水』を取寄て、此水(このみず)にても小言(こごと。不平をいはば恥をかかせんと思ひしが、其方(そのほう)の手跡(しゅせき。筆跡)は能(よく)極(きわ)まりし能書(のうしょ)。」


と感心有
(あり)と也(なり)(1)


【注】
(1)
以上、『掃聚雑談・4』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-00142、37〜38コマ目、「和久半左衛門名筆の事」による。
2023年11月29日(水)
和久半左衛門(1)
 和久半左衛門(わくはんざえもん。1578〜1638)は名を俊英(としひで)、字(あざな)を宗友(そうゆう)、是安(ぜあん)と号した。

 天正6(1578)年、父和久又兵衛(宗是と号す)・母和久掃部女(わくかもんのむすめ)との間に大坂に生まれ、律呂(りつりょ。音楽)を大森宗薫(大森宗勲(おおもりそうくん)。一節切(ひとよぎり)尺八の名手。1570〜1625)、乗馬を森左源太吉則(もりさげんたよしのり)、書を近衛信尹(このえのぶただ。1565〜1614)に学んだ。

 なかでも書は幼くして善くし、ついには三藐院流(さんみゃくいんりゅう)の奥義をきわめた。書の師近衛信尹は名高い「寛永三筆」のひとり(他は松花堂昭乗と本阿弥光悦)で、当時一流の能書家だった。

 豊臣秀頼(1593〜1615)に仕えた半左衛門は、その能筆によって右筆に挙げられ、采邑(さいゆう。知行地)を摂津国(現、大阪府)太田郡に賜った。慶長19(1614)年、秀頼の内命を受け、上阪途中の伊達政宗を下野小山に訪ね、味方となるよう依頼したが政宗はこれを拒否。そのまま、将軍秀忠の命で伊豆三島に20余月の間監禁されることになった。

 その後豊臣氏が滅亡。元和2(1616)年5月、秀忠は半左衛門を赦し、政宗に与えた。政宗は半左衛門を食邑(しょくゆう。知行地)百貫文(仙台藩では江戸時代も貫高制を継続。1貫=10石換算で石高千石に相当)で召し抱え、近習の列に加えた。

 半左衛門は仙台藩で多くの門弟に書を教えた。「和久半左衛門伝」に死の前日の記事がある(原文には読点等がないので、読みやすくするためをそれらを適宜加えた。漢字は現行のものにあらためてある)。


 
安是(あんぜ。半左衛門の号、是安)、其邑(そのゆう。知行地)栗原郡沼倉村に館を築き居住し、晩年書法益々(ますます)進み、来(きた)つて従学するもの最も多し。易簀(えきさく。学徳の高い人の死をいう)の前日、門生等(もんせいら)に謂(いい)て曰(いわ)く、


「老来
(ろうらい。年をとってこのかた)(はじめ)て筆迹(ひっせき。書きぶり)の円滑(えんかつ。なめらか)なるを覚(おぼ)ふ。」


と。明日
(みょうにち。その翌日)(つい)に起(おき)ざるに至る。寛永十五(1638)年八月廿一日なり。享年六十有一。本郡(栗原郡)宮野村妙圓寺(みょうえんじ)に葬むる。(1)



【注】
(1)
以上、「和久半左衛門伝」、養賢堂同窓会『藩学雑纂・第3号』1899年、12丁オ〜13丁オによる。土屋家旧蔵文書デジタルアーカイブ (東京大学経済学図書館) URL http://www.lib.e.u-tokyo.ac.jp/digitalarchive/tsuchiya_html/27/088/08803.html (2023年11月26日閲覧)
2023年11月27日(月)
瓢箪から駒
 大坂冬の陣(1614)の和睦交渉がはじまった際のこと。休戦となったため、徳川方に参陣していた諸大名は、にわかに暇をもてあますことになった。そこで、景品を賭けた香合わせ(種々の香を焚いて嗅ぎ当てる遊戯)が催された。そこへたまたま伊達政宗(1567〜1636)が来合わせた。


「幸也(さいわいなり)。香(こう)御ききあれかし。」(ちょうどよいところに参られた。聞香(もんこう)をなされませ。)


 勝負が終わり、一同が景品を出し合った。陣中のことゆえ、鎧(あぶみ)や泥障(あおり。馬の泥除け)などといった武具・馬具類がその場に並んだ。そうしたなか、政宗が出した景品は、自分の腰につけていた瓢箪だった。これを見た者たちは、


「おかしき景物(けいぶつ。景品)かな。」


とあきれた。「奥州の大将(政宗)の景物」にしてはあまりにも粗末すぎる。

 景品を選び取る段になって、瓢箪を選ぶ者は誰もいなかった。さすがに、これではまずいと思ったのだろう、亭主(香合わせの主催者)の家臣が気を利かせて政宗の瓢箪を選び取った。こうして香合わせは無事に終わった。

 さて、帰り際に政宗は、瓢箪を選んだ武士を自分のもとに招いた。そして、


「ひやうたん(瓢箪)から駒(こま。馬)が出(いで)しなり。」


と言うと、自分が乗って来た馬をそのままくれてやったのである。

 奥州は名馬の一大産地である。それも「奥州の大将」が乗る名馬中の名馬を、鞍・鎧などの馬飾りをすべて装備したまま、政宗本人から贈られたのだった。

 政宗の瓢箪を笑った者たちは、一転これを羨んだという。
(1)


【注】
(1)
以上、『掃聚雑談・4』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-00142、46〜47コマ目、「伊達正宗(政宗)瓢覃(瓢箪)の事」による。
2023年11月22日(水)
クモが苦手
 誰しも苦手なものはある

 福井藩主の松平吉品(まつだいらよしのり。1640〜1711)は、クモが苦手だった。

 吉品は、ふだん「荒き人にて六ヶ敷(むつかしき)人」だったという。そんな吉品が小姓たちのクモを使ったいたずらにちぢみあがり、腹をたてて小姓たちを叱る逸話がある。

 吉品は己の体裁を取り繕うため、強がって自分の膝頭の上でクモをつぶして見せる。その姿が大人気なくて何とも言えない。ま、何にせよ、人の嫌がることはせぬに越したことはない。

 わかりやすい文章なので原文のまま示そう。


 
越前少将兵部太輔(ひょうぶだゆう)どの(松平吉品)は荒き人にて六ヶ敷(むつかしき)人也(なり)。しかれども、蜘(くも)を見るとひとちぢみに成り怖(こわ)がり給(たま)ふ。

 或時
(あるとき)、小姓共と噺(はな)して居(い)られしに、蜘(くも)這出(はいいで)ぬ。小姓共いたづらに、そろそろ追(おっ)て少将の前へ遣(やり)てとき、少将以の外(もってのほか)腹立(はらだち)あり。


「誰も好き嫌ひは有
(ある)事なり。然(しか)れども、女子の蛇を見て目をまはすとは、聊(いささか)違ふべし。是(これ)を見よや。」


とて蜘を指にてつまみ、膝頭
(ひざがしら)を引(ひき)まくり、蜘(くも)を押付(おしつけ)てしばしこらへて捨(すて)られ、


「是
(これ)を見よや。至極(しごく)きらひなれども、こらへんと思へば如此(かくのごとし)。」


とひざを見せ給ふに、蜘の形
(かたど)りに血寄りて、跡付(あとつき)ぬ。


「我嫌ふを知りつつ致
(いた)す事、不調法(ぶちょうほう)(なり)。」


と呵
(しか)られける。(『掃聚雑談』)(1)



【注】
(1)
『掃聚雑談・3』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-00142、6〜7コマ目、「越前兵部太輔吉品蜘嫌らひの事」による。
2023年11月21日(火)
気前がいい男
 大久保玄蕃頭忠成(おおくぼ・げんばのかみ・ただなり。(1578(または1565)〜1672)は、家康に仕えた重臣大久保忠世(おおくぼただよ)の四男で、5000石を知行する旗本だった。24年間(在職1633〜1656)の長きにわたり、駿河城代の職にあった。(1)

 忠成は、とにかく気前のいい男だった。ほめられると、何でも人にやってしまうのだった。その結果、自分や家来たちが不自由を強いられることもしばしば。そうした事情を承知している人々は、いつしか忠成の持ち物をほめなくなった。また家来たちの方でも、主人には内緒で、忠成の持ち物を褒めないよう客に頼んでいた。

 ある時、茶湯によばれた客がいた。茶席では亭主の茶道具をほめねばならぬ。困った客は苦しまぎれに茶釜の蓋(ふた)をほめた。 『掃聚雑談』には次のようにある。


 
茶にてはほめねばならずも、ほめると呉(くれ)るゆへ、了簡(りょうけん)して釜の蓋をほめけり。玄蕃頭(忠成)


「釜はいかに。」(釜本体の方はいかがでしょうか。)


といふ。


「釜はさほど存候(ぞんじそうら)わず。ただ、ふたが見事に候(そうろう)。(釜自体はそれほどよいとは思いません。蓋が素晴らしい。)


といふ。茶済
(すみ)て釜のふたを紙に包(つつみ)てやらるると也(なり)


 釜の蓋だけもらった客はさぞ困ったことだろう。しかし、これはまだよい方だった。

 別の日のこと。

 忠成は自分の屋敷の境に、家来が住む長屋を普請した。できあがったので見分(けんぶん)にいくと外越しに、


「扨々(さてさて)、結構成(けっこうなる)家かな。」


という長屋をほめる声が聞こえる。そこで忠成は、長屋をほめた町人を連れて来させると、


「左(さ)あらば地共ともに汝(なんじ)にくれる。」(それならば、土地とともに長屋をお前にやろう。)


と言った。驚いたのは家来である。必死に主人を諌めた。しかし、いったん言い出したらきかない性分である。

 こうして新築なった長屋を忠成は、見も知らぬ町人に土地ごとくれてやったのだ。(2)



【注】
(1)
『寛政重脩諸家譜・第4輯』1923年、國民圖書、P.815〜816。国立国会図書館デジタルコレクション。
(2)
以上『掃聚雑談・3』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-00142、27〜28コマ目、「大久保玄蕃頭物くれ好の事」による。
2023年11月17日(金)
破戒僧
 魚をこっそり食べる僧侶など、まだかわいい方だった。なかには魚肉食はおろか、大酒を飲んだり、遊里に通ったりする不埒なやからもいたのだった。

 そこで、寛政8年(1796)年7月28日、29日、8月1日、2日の4日間のうちで、吉原・品川・新宿・板橋・千住等の遊所において、破戒僧の摘発がおこなわれた。この短期間で捕縛された僧侶の数は、なんと数百人にものぼったという。

 当時の江戸町奉行は坂部能登守広高(さかべ・のとのかみ・ひろたか。在職1795〜1796)。坂部は、念には念を入れて裁きをする奉行だった。そのため、坂部が裁きをすると


「念を入過(いれすぎ)て其末(そのすえ)広がり、咎人(とがにん)多く出来(しゅったい)(『野翁物語』)


する有様だったという。目こぼししてやろうという発想自体がそもそもなかった。

 その結果、諸宗の住持(じゅうじ。寺の住職)31人が、日本橋に晒(さら)されたのち遠島になった。また所化(しょけ。修行僧)61人が各寺院に引渡され、それぞれの寺法に従って処罰された。


【参考】
・以上、『野翁物語・2』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0099、11コマ目、「四十七 坂部能州捌きの事」による。
2023年11月15日(水)
精進料理に魚?
 ある時、下谷の魚屋から奉行所に訴えがあった。寺院が魚の代金を支払ってくれず困っている、その総額は百両あまりにのぼる、というのだ。

 魚屋は、各寺院の詳細な購入リストを持参した。寺社奉行の大岡越前守忠相(おおおか・えちぜんのかみ・ただすけ。1677〜1751)はそのリストを受取ると、いったん魚屋を家に帰した。そして該当する八か寺に対し、差紙(さしがみ。召喚状)を送ったのである。

 召喚された僧侶たちは、早朝から夕方まで奉行所に待機させられた。越前守が下城(江戸城から退出)するまで何もすることがない。僧侶たちはおおいに退屈して、そのうち入れ代わり立ち代わり便所にたった。すると便所の壁に何か張ってある。見ると、

「〇〇寺の魚の未払い代金は〇〇両」

と書き連ねてある。張り紙を見た僧侶たちは仰天した。

 便所という不浄の場に、そこに入った者だけがわかるよう、各寺院の生臭物(魚)購入リストが掲示してあったのだ。

 僧侶の魚肉食等はもちろんタブーだったが、密かにおこなわれてはいた。しかし、これほど大量の魚類が寺院で消費されている実態が、裁判を通じて表沙汰になるのはさすがにまずい。公にしないためには、急いで魚屋に未払金を返済するしかない。しかし、この奉行所という場所に拘束されている限り、なすすべがないではないか。

 ややあって、用人が僧侶たちの前に現れると、次のように言った。

「越前守は下城しましたが、体調不良のため皆さんにお会いすることができません。本日はこれにてお引き取りください」
 
 こうして奉行所から解放された僧侶たちは、あわてて魚屋に代金を皆済したのだった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、「町奉行 大岡越前守忠相」の項(『甲子夜話』を引く)。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
2023年11月14日(火)
狭き門
 小納戸は若年寄の支配に属し、将軍の衣類・月代(さかやき)剃り・食膳など、身辺雑事を担当した。下位旗本が就任する役だったが格式は布衣(ほい)で、儀式での無紋狩衣(かりぎぬ)着用を許可され、6位叙位者と同等に扱われた。定員は時代によって20人〜100人と変動があったが、その選考は狭き門だった。

 小納戸の選考に関しては、『江戸時代制度の研究』に次のように説明がある。なお、( )内は引用者の注である。


(小納戸の選考は)数次(すうじ。数回)の引接(いんせつ。候補者を呼んで面接すること)を以て詮考(せんこう。選考)簡抜(かんばつ。選抜)し、且(かつ)吹上(ふきあげ。吹上御庭)に於(おい)て将軍家(しょうぐんけ。将軍)の透見(すきみ。のぞき見のこと。こっそり面通しする)あるなり」(1)


 『野翁物語』には、「数次の引接」による小納戸の「詮考簡抜」について、もう少し詳しい記述がある。たとえば、候補者の年齢制限が寛政頃には撤廃されたとか、最初千人ほどいた候補者が最終的には二、三十人しか残らないとか、など。これらは、ふつうの『日本史辞典』には見られない記述だ。そこで参考までに、史料全文(適宜句読点や注を付した)を掲載しておく。


「御小納戸御吟味有(あ)るには、先(まず)年齢に定(さだめ。規定)(あり)て十五、六歳より三十才迄(まで)とる。(または)十七歳以上、三十四、五歳までとる。

 是
(これ)を限りて御沙汰あれば、頭(かしら)支配の宅へ同役集りて、其組(そのくみ)の面々并々(なみなみ。ひと通り)(ならびに)部屋住(へやずみ。嫡子でない者。次・三男)の者までも面会して、同役評義の上にて書上れば、其者共(そのものども)若年寄にて吟味有(ぎんみあり)。其節(そのせつ)は家督(かとく。嫡子)も部屋住も諸向(しょむき)残らず一日の内に吟味有事故(ぎんみあることゆえ)、凡(およそ)千人近き人数也(なり)

 是等
(これら)の内より撰出(えらみだ)して御側御用人(おそばごようにん)の御宅にて吟味の節は、逢(あう)に減じて二百人には足らず。

 三度目は御用取次御側衆
(ごようとりつぎおそばしゅう)の宅にて吟味す。又減じて五、六十人也。其内にて可然(しかるべき)人柄也(ひとがらなり)て、親類書(しんるいしょ)を差出すべきよしを命ぜらるる者三、四拾人ありて、扨(さて)御小納戸は二、三十人被仰付事(おおせつけらること)

 いつも斯
(かく)の如(ごと)く有しが、寛政の頃よりは第一年齢の限りなし。兼(かね)て諸向(しょむき)より相応の人を書上置(かきあげおき)て、其内(そのうち)を二、三十人宛(ずつ)も若年寄にて御逢(おあい)有り。また御側衆(おそばしゅう)へも相越也(あいこすなり)

 両三度御吟味に出て御小納戸へ出るも有
(あり)、五度も七度も御吟味計(ばかり)出るもありとなり。

 吹上御庭
(ふきあげおにわ)にて御側衆吟味(おそばしゅうぎんみ)といふ事始(はじま)りしは、寛政八辰年(1796年)よりの事なり。」(2)


【注】
(1)
松平太郎『江戸時代制度の研究・上巻』1919年、武家制度研究会、P.362。国立国会図書館デジタルコレクション。
(2)『野翁物語・4』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0099、7〜8コマ目。「百七 御小納戸御吟味の事」。
2023年11月11日(土)
詐欺師たちの末路
 江戸時代、甲府で変わった詐欺事件がおこった。

 犯人は、甲府勤番(こうふきんばん)大久保遠江守
(1)支配松田嘉八郎、甲府勝手小普請(こうふかってこぶしん)服部角左衛門、そして遠江守組同心松蔵の父岸彦十郎という3人の男たちだった。『野翁物語』によると、事件のあらましは次のようなものだった(2)

 甲府城下の町家に、妻を亡くして嘆き悲しんでいる


「富饒(ふじょう。ふにょう)にて後生一篇(ごしょういっぺん。「後生一遍」は信心以外に欲がないこと)の律儀なる親仁(おやじ)(裕福で信心深い律義者の中高年の男性)


がいた。その噂を聞きつけた松田ら3人は、この町家の主人から金をだましとろうと企んだ。

 そこである夜、3人は地蔵菩薩・閻魔大王・青鬼の姿に仮装して、くだんの家に忍び込んだ。そして寝ていた主人を起こすと、次のように告げたのである。


「其方(そのほう)妻、故障ありていまだ浮(うか)み兼(かね)たり。法事いたし遣(つかわ)すべし。」 (お前の女房は、支障があっていまだ往生できていない。そこで法事をしてやらねばならない。)


 信心深い主人はその話をすっかり信じこみ、


「其(その)法事は如何(いかが)すべしや。」(その法事というのは、どうすればよいのですか。)


と尋ねた。すると「わしらがよきに
取りはからってやろう」というので、言われるがままに金子15両を差し出したのである。

 金をだまし取られたとも知らず、信心深い主人は涙を流してありがたがり、3人に対して低頭三拝するありさま。その姿が3人にはおかしくてたまらない。つい調子に乗って「餅を供えよ」と言うと、主人は三方(さんぼう。神饌を載せる儀式用の台)に餅を積み上げて持ってきた。そこで、閻魔に扮した男がその餅を取ってかぶりついたところ、罰(ばち)が当たったのだろう、


「丸喰(まるぐい)に致(いた)す拍子(ひょうし)に餅を咽(のど)へ引かけて、跡(あと)へも先(さき)へも引(ひか)ず。目を白く黒くするゆへ、青鬼見兼(みかね)(閻魔の)背中を叩(たた)き又はさすり」


などするが、閻魔の男はますます苦しくなってのたうちまわる始末。そうこうしているうち、不審に思って出てきた家内の者たちに、3人の男たちは捕(つか)まってしまったのである。

 その後3人は江戸の評定所に送られて詮議されたのち、遠島に処せられたという。


【注】
(1)
この支配関係の記述が正しいとするなら、大久保遠江守教近(のりちか。1741〜1800)が甲府勤番を勤めた天明8(1788)年9月28日から御槍奉行に転出する寛政7(1795)年12月12日の間に起こった事件ということになる(『寛政重脩諸家譜・第4輯』1923、國民圖書、P.807)。また『野翁物語』に、評定所でこの事件が詮議されたのは「卯八月廿四日」とある。該当する卯年は寛政7(乙卯)年である。
(2)『野翁物語・1』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0099、55〜57コマ目。
2023年11月9日(木)
若い連中は何をしていた?
 天明4(1784)年3月24日の九つ頃(昼ごろ)、執務を終えて部屋から退出する若年寄の田沼山城守意知(たぬま・やましろのかみ・おきとも。1749〜1784)に、新御番(しんごばん)蜷川相模守(にながわ・さがみのかみ)組の番士佐野善左衛門政言(さの・ぜんざえもん・まさこと。1757〜1784)が脇差で切りつけた。

 この刃傷(にんじょう)事件の詳しい原因は今なお不明だが、注目すべきは事件の顛末よりも、この時現場に居合わせた幕臣たちの行動だ。その無責任な対応ぶりには唖然とさせられる。

 事件直前まで佐野とともに番所に詰めていた同僚4人(萬年六三郎・猪飼五郎兵衛・田沢伝左衛門・白井主税)は、意知殺害のため番所を飛び出した善左衛門の姿を見ている。彼らは、善左衛門を制止するため一度は立ったものの、番所を留守にはできないと、何もせずに戻ってきたという。



 
其方共(そのほうども)御番所(ごばんしょ)に罷在候処(まかりありそうろうところ)、善左衛門駈出候節(かけだしそうろうせつ)、差留可申(さしとめもうすべし)と罷在候所(まかりありそうろうところ)、善左衛門義中之間(なかのま)に罷出候節(まかりいでそうろうせつ)、御番所明候間(あけそうろうあいだ)立戻候(たちもどりそうろう)(『営中刃傷録』)(1)


 まさに殺人事件が進行中にもかかわらず、意知とともに部屋を退出した3人の若年寄(酒井忠休(ただよし)・米倉昌晴(まさはる)・太田資愛(すけよし))も、結局善左衛門を取り押さえることはしなかった。近くに目付がふたり(跡部良久、松平恒隆)いたが、彼らも善左衛門を取り押さえようとしなかった。彼らのほかにも現場には、退勤する若年寄らを見送るため多くの諸役人がいたはずなのに、みんな傍観しているだけだった。

 この間、意知は防戦一方(殿中を憚って鞘から刀を抜かなかった)だったため、善左衛門に斬られ放題だった。結局深手を負った意知は、8日後の4月2日に息絶える。

 この時、果敢にもひとり走り出し、善左衛門を羽交い締めにしたのは、大目付の松平対馬守忠郷(まつだいら・つしまのかみ・たださと。1715〜1789)だった。『営中刃傷録』には、


 
善左衛門山城(田沼意知)を見失ひ、中之間(なかのま)方へ取(とっ)て返(かえし)候所(そうろうところ)を大目付松平対馬守走出(はしりいで)取押(とりおさえ)(『営中刃傷録』)(2)


とある。

 ここでひとつ気になったのは、『田沼実秘録(遠相実録)』にあった次の記述だ。


「私(松平忠郷)義、老年の義に御座候間(ござそうろうあいだ)(3)

「此対馬守
(松平忠郷)老年候得共(このつしまのかみ、ろうねんにそうらへども)(4)


 そこで松平忠郷の年齢を調べてみた。すると事件当時、忠郷は70歳の高齢だったのだ。ちなみに忠郷が取り押さえた善左衛門は28歳。被害者の意知は36歳だった。

 さて、現場にいあわせた無責任な役人たちの多くが、処罰を受けたことは言うまでもない。ただひとり、松平忠郷だけはこの時の働きを将軍家治(いえはる。1760~1786)から賞されて、200石の加増をうけたのである。(5)



【注】
(1)
『営中刃傷録』。国書刊行会編『新燕石十種・第2』明治45~大正2年、国書刊行会、国立国会図書館デジタルコレクション、P.465。
(2)『営中刃傷録』前出、P.458。
(3)(4)『田沼実秘録・中』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:166-0477、24コマ目。
(5)『寛政重修諸家譜』に次のようにある。

「天明四年三月二十四日佐野善左衛門政言殿中にして腰刀をぬきて、田沼山城守意知に傷けし時、其座にありあふ人々多き中に、忠郷速に政言をとらへしかば、四月七日これを賞せられて、上野國新田郡のうちにして、二百石の地を加へ賜はる。」(『寛政重脩諸家譜・第1輯』1922年、國民圖書、P.164。国立国会図書館デジタルコレクション)
2023年11月6日(月)
大根ばっかり
 旗本の天野長重(1621〜1705)(1)は、ずけずけ物を言う人だった。『干城録』に、次のようなエピソード(『明良洪範』から引用)がある(2)

 家光が諸士を集め、鷹狩りの獲物の鳥を調理させて下賜した時のことだ。長重も登城して料理(鳥肉と大根の吸い物)を頂戴した。

 翌日、みんなは老中のもとに行き、料理(吸い物)の礼を述べた。長重も同じように礼を述べたが、

「鷹狩りの大根をたくさんいただき、ありがとうございました。」

とあいさつした。のち、松平信綱が長重に向かって、

「みんなは『鷹狩りの鳥を頂戴しました』と言うのに、そこもと一人だけ『大根を頂戴しました』と言ったのは、どのような理由か。」

と尋ねた。長重は、

「ごもっともなお尋ねです。

 相当な身分の方々は鳥肉をも頂戴したでしょうが、私ごとき末座の者のもとには大根ばかりで、鳥肉はまわってきませんでした。そうはいっても、ありのままに(鳥肉はまったく残ってなかったので大根しか食べていませんとは)言いにくいので、さも鳥肉を食べたふりして、みんなは『鳥を頂戴しました』と言ったのでしょう。私はそんな偽りごとを言うことはできません。

 すべて世の人々のかようなお追従(ついしょう)は非常に不愉快なものですな」

と答えた。

 長重はこのような性格だったので、先輩に対してもへつらうことがなく、よからぬ事にはずけずけ直言することも多かったという。


【注】
(1)
天野長重は旗本天野長信の子として武蔵国に生まれ、長三郎、弥五右衛門と称した。14歳の時、はじめて二条城で将軍家光に拝謁した。島原の乱(1637〜1638)がおこると松平伊豆守信綱に属して戦地に赴き、寛永15(1638)年に御書院の番士に列した。正保2(1645)年に父長信が亡くなるとその遺跡を継いだ。同年、豊後国に赴き御目付代をつとめた。慶安3(1650)年、日光石垣修補の奉行を勤め、翌4年には綱吉の御館造営の事に預かった。その後先手鉄炮頭、鎗奉行、旗奉行等を勤め、元禄14年(1701)に81歳で辞職。その4年後に85歳で永眠した。
(2)『干城録』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:155-0077、No.2051「天野甚右衛門藤原繁昌」の項。原文は次の通り。

 
大猷院殿(3代将軍家光)諸士を召(めさ)れ、御拳(おこぶし)の鳥(鷹狩りで獲った鳥)を調理して賜(たま)ふ時、長重も登営(とうえい。登城)してたまはれり。
 翌日、人々老職(老中)の許(もと)にゆき、御礼をのぶ。長重も同じく行ていふやう、
「御拳の大根多く賜はり、かたじけなし」
といふ。後(のち)松平信綱、長重にむかひ、
「皆、『御拳の鳥賜はりし』といふに、そこはひとり『大根をたまはりし』といはれたるは、いかなるゆへにや」
と問けるに、長重、
「尤(もっとも)なる仰(おおせ)なり。其故(そのゆえ)は、さるべき人々は御鳥(おとり)をも賜ひしならん。長重ごとき末座に倶(ぐ)せし輩は大根のみにて、鳥はなかりしなり。さりとて、有(あり)のままにいひがたさに、猶(なお)喰(くい)たるさまして、皆『鳥たまはりし』といひつるならん。我はさるひが事(道理や事実に合わないこと)をばえいはず。都(すべ)て世の人のかく軽薄(追従。お世辞)なる、いと苦々しさよ」
とぞいふける。
 かかる本性なれば、先輩に対しても諛(へつ)らふ事なく、よからぬ事はうちつけて(露骨に。遠慮なく)諫(いさ)めし事もおおかりしとぞ。〈割注「明良洪範◯今の御小納戸天野弥五右衛門昌著が祖なり。」〉
2023年11月4日(土)
食いしん坊将軍
 吉宗は食事も質素で、黒飯と野菜料理が中心だった。しかし、大食漢で大酒飲みだったという。ただし酒に関しては、紀州家を相続してから以降は飲酒量を決め、節制に努めていた。『兼山麗澤秘策』には、次のように書かれてある。


 
蔬菜の御料理・黒飯、御大食(ごたいしょく)被遊候由(あそばされそうろうよし)。御酒(ごしゅ)も余程被召上候由(よほどめいあがられそうろうよし)。但(ただし)最前主膳様と申時分(もうすじぶん)は、御大酒(ごたいしゅ)にて御座候処(ござそうろうところ)、紀州家御相続の時分より分量御極被遊(おきめあそばされ)、御大酒は不被遊候共申候(あそばされずそうろうとももうしそうろう)(1)


 さて、将軍・大名といえば毒殺を恐れ、食事毎に毒味役に毒味をさせ、口に入れる物には万全の注意を払っていたと思われがちだ。しかし、少なくとも吉宗は違っていたらしい。

 ある時、薩摩守(島津吉貴か)から檜(ひのき)の重箱に入れた菓子が献上された。吉宗はその菓子を食べると言った。すると臣下が「献上品は食べないものです」といって止めた。

 そもそも、外様大名のしかも島津(薩摩藩)が贈ってきたものだ。薩摩藩は関ヶ原の戦い(1600年)では敵方の西軍に与(くみ)し、東軍の敵中突破を敢行して多大な犠牲者を出した。関ヶ原の戦いから100年以上たっているとはいえ、その時の怨恨は残っていよう。表向きは幕府に恭順しているが、献上品に毒を盛っていないなどとは断言できない。

 しかし、吉宗は重箱の中の菓子を眺めると、次のように言った。


「献上と申候得(もうしそうらえ)ば、精々(せいぜい)被入御念(ごねんをいれられ)、誰々(だれだれ)も可為其通候(そのとおりになすべくそうろう)。そのうへ薩摩守、何の遺恨有之(いこんこれありて)、毒害可仕哉(どくがいつかまつるべきや)。是非(ぜひ)上之候様(これをのぼせそうろうよう)に。」(2)

(献上品といえば、念には念を入れて準備する。誰もがそのようしているものだ。そのうえ薩摩守が俺にどんな恨みがあって、毒害しようとするのか。かならずその菓子を食膳に出すように。)



 そう言うと献上された菓子を食べたというのだ。

 献上された菓子を躊躇なく食べたのは、吉宗が旧例にとらわれない合理主義者だったからなのだろう。ただし、吉宗については


「御大食にて、至極(しごく)(あやし)き物を被召上候(めしあがられそうろう)(3)


という記述もある。もしかすると、単なる食いしん坊だったのかも知れない。


【注】
(1)
室鳩巣『兼山麗沢秘策・3』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:204-0253、15コマ目。
(2)(3)『兼山麗沢秘策・3』前出、16コマ目。
2023年11月2日(木)
じっと見る
 新将軍吉宗の生活は、質素倹約を絵に描いたようなものだった。『兼山麗沢秘策』には、次のような記述がある。


 縮帷子(ちぢみかたびら)御好(おすき)にて被為召候(めさせられそうろう)。至極(しごく)太き
縮布にて御座候。常に御帷子も殊外(ことのほか)太布にて御座候由。冬は御膚着(おはだぎ)は木綿にて御座候。長福様(吉宗の長男。のちの徳川家重)も綿衣のみ被召候由(めされそうろうよし)(1)


 
吉宗は、縮帷子(ちぢみかたびら。縮織りの帷子)を好んで着した。ずいぶん太い縮布を使ったものだったという。冬の肌着は木綿だった。子どもの家重にも綿衣を着せていた。  

 また、次のような逸話もある。

 ある時、御側衆(おそばしゅう)の北条対馬守(氏澄)が御前に伺候(しこう)していたところ、吉宗がじっとこちらの方を見ている。あまりにも注視され続けるので、どうにも居心地が悪くなってその場を退出した。御次之間(おつぎのま。控えの間)に小笠原肥前守(胤次)がいたので、



「何とぞ、私、不調法
(ぶちょうほう)の仕方(しかた)も候哉(そうろうや)。」

(私が何か不調法なことでもいたしましたか。)



と尋ねてみた。小笠原は、吉宗が紀伊藩から連れてきた臣下のひとりだった。小笠原は、


「多分、御自分(ごじぶん。あなた)御着用(ごちゃくよう)の綸子(りんず。絹織物の一種)に御目(おめ)を被留候(とめられそうろう)ものと存候(ぞんじそうろう)。」


と答え、次のような助言をした。

 吉宗はぜいたくな衣服を好まない。その上、紀伊藩主時代から「別(べっし)て綸子は女の様(よう)に見へ申(もうす)」と言って、とくに綸子を嫌っていた。だから、吉宗が紀伊藩から連れて来た臣下に、綸子を着用する者はいない。あなたも綸子でなく、質素な衣服に着替えて御前に出れば、何の問題もないでしょう、と。

 そこで北条は、小笠原のアドバイスにしたがって衣服を着替えると、ふたたび御前に出た。すると吉宗は、平生の様子と少しも変わるところがなかったという。
(2)


【注】
(1)
室鳩巣『兼山麗沢秘策・3』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:204-0253、15コマ目。
(2)以上、『兼山麗沢秘策・3』前出、21〜22コマ目。
2023年11月1日(水)
吉宗の散歩
 「健康のために1日1万歩、歩きなさい」と医者がいう。これから寒さに向かうのに、毎日そんなに歩いてばかりいたら、かえって病気になりそうだ。

 そんな中、最近では巨大ショッピングセンターなどが「健康のためにセンター内を歩きましょう」と案内してくれる。雨雪・寒暖差など関係なく歩けるので、なかなかにありがたい。ついでにセンター内で昼飯を食べてショッピングをした上、設置してあるマッサージ機まで使える。こうして、まんまとショッピングセンターの策略にのって、夕飯のオカズまで買って帰るはめになるのだ。

 さて、8代将軍に就任するため、江戸屋敷にやってきた吉宗。食後には必ず歩いて、屋敷内を2往復するのが日課だった。これで1里(約4km)ほどの距離を歩いた計算になったという。これだけ広い屋敷なら、わざわざショッピングセンターまで出かけずともよい。

 またある時は、供先をつとめる奴(やっこ。下僕)の伊達(だて)を気取った動作(「奴を振る」といった)を真似して「手を振(ふり)、足音高く踏付(ふみつけ)」ながら屋敷内を歩いてみたところ、ひどくくたびれた。これでは危急の際、何の役にも立つまい。それでこれ以降、奴を振らせることをやめさせたという。

 自分で試してみて、「これはだめだ」となると躊躇なく廃止する。こんなところからも、吉宗の合理主義的な性格とフットワークの軽さが見て取れる。原文を示しておこう。


 
戸御屋敷の内、二返程(にへんほど)往来仕候(おうらいつかまつりそうら)へば、一里の道程(みちほど)有之所(これあるところ)に御座候由(ござそうろうよし)。平生(へいぜい)、御食後(おしょくご)には必(かならず)御行歩被遊候(ごこうほあそばされそうろう)

 然処
(しかるところ)、一日(いちじつ。ある日)御行歩被遊候(ごこうほあそばされそうろう)時分、御慰(おなぐさみ。気晴らし、楽しみ)に御自身にも御近習(ごきんじゅう)も手を振(ふり)、足音高く踏付(ふみつけ)、供の下々のやつこ(奴)をふり候様(そうろうよう)に被遊候(あそばされそうらい)て、一返御行歩被成(なられ)御仕廻候(おしまいそうらい)て被仰候(おおせられそうろう)は、


「やつこを振候
(ふりそうろう)は、手足共に草臥申(くたびれもうす)ものにて、ケ様(かよう)にては何の役にも立不申筈(たちもうさずはず)に候間(そうろうあいだ)、供の下々のやつこ為振候事(ふらせそうろうこと)、向後(こうご。今後)は必(かならず)無用に可仕(つかまつるべく)


(むね)被仰出(おおせいださる)。夫(それ)より御家中迄(ごかちゅうまで)も異形成仕形(いぎょうなるしかた。普通とはちがう身振り)の供廻(ともまわり)、且(かつ)て無御座候由(ござなくそうろうよし)(1)



【注】
(1)
室鳩巣『兼山麗沢秘策・3』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:204-0253、14〜15コマ目。
2023年10月31日(火)
新しい上司のうわさ
 『兼山麗沢秘策(けんざん・れいたくひさく)』は、江戸幕府の儒者室鳩巣(むろきゅうそう。家宣・家継・吉宗3代の将軍に仕えた。1658〜1734)の正徳・享保期(1711〜1731)の書簡を、弟子の青地兼山(斎賢)・麗沢(礼幹)兄弟が編んだもの。後世に書かれた回顧録とは異なり、その時々の状況に応じてリアルタイムに書かれたものなので、正徳・享保期の政治・社会情勢等やそれに対する鳩巣の意見が生き生きと伝わってくる。

 ところで、部署異動や新任者等についての情報が飛び交うなど、人事異動についての関心が高いのは昔も今と同じだった。『兼山麗沢秘策』には、8代将軍に就任することになった吉宗の噂や評判等が書き留められている。いまだ得体の知れないよそ者の上司(吉宗は紀州藩からの将軍就任)に、役人たちは戦々恐々。そうした中で、吉宗に関する噂や評判などが雑多に収集されていったのだ。

 『兼山麗沢秘策』中にある吉宗に関する記述は、よく知られた史料だ。しかし、改めて読んでみると、吉宗の人柄の一端が知れてなかなかに面白い。


 
今般(こんぱん)御相続被遊候事(ごそうぞくあそばされそうろうこと)、天下御政務の儀迄と被思召候故(おぼしめされそうろうゆえ)、只今迄(ただいままで)の上様(うえさま。将軍)と違申候(ちがいもうしそうろう)て、事(こと)により御軽々敷儀(おんかるがるしきぎ)も可有之候(これあるべくそうろう)

 存外成儀
(ぞんがいなるぎ。予想もしないこと)をも被仰出候事(おおせいだされそうろうこと)も可有之候間(これあるべくそうろうあいだ)、兼(かね)て其段心得可申旨(そのだんこころえもうすべくむね)、御書立(おかきたて)に御座候由(ござそうろうよし)(1)


 今までの上様(歴代将軍)とは違って、新将軍には「御軽々敷儀」もあり、また「存外成儀をも被仰出候事」もあるので、それらのことについては心の準備をしておくように、とある。何を命令されるか予想できないというのだから、役人たちは戦々恐々だったろう。

 それにしても「御軽々敷儀」というのは、軽率という意味なのだろうか。それとも、腰が軽いという意味なのだろうか。どうとでもとれる言葉は、さらに不安をあおる。


【注】
(1)室鳩巣『兼山麗沢秘策・3』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:204-0253、13〜14コマ目。
2023年10月30日(月)
心に響く
 平岡美濃守頼長(ひらおか・みののかみ・よりなが。1735〜?)は実直誠実な善人だった。
   
 徳川家基(家治の世子。18歳で死去し将軍にはならなかった)が新井宿村(あらいじゅくむら。現、東京都大田区)の山荘で病気になった際、自ら世子を抱き抱えて駕籠に乗せ、急ぎ帰城したことが語り草になっている。長らく御側御用取次(おそばごようとりつぎ)の役目を誠実に勤めあげ、最期は老死した。

 ある時平岡が、奥勤めの人びとを戒めて、次のように諭した。


「凡(およ)そ人は、御役 仰付(おおせつけ)られたる日の心を、いつ迄(まで)も忘るべからず。

 畢竟
(ひっきょう。結局)、月日を重(かさね)て常の事になるより、物事怠慢して過(あやまち)も出来(いできた)るものなり。

 自分は此年
(このとし)になるまで、日々に御役仰(おおせ)(こうむ)りし日の心を忘れず。」



 初心を忘れてはいけない。月日を重ねて仕事に慣れ、次第にルーティン化してくると、物事をいい加減にとりあつかって間違いも出てくるものだ。だから、自分は老境になった今も日々、初心を忘れぬようにおのれを戒めているのだ、と。


 「初心忘る(る)べからず」という言葉は、ある意味使い古された言葉だ。古来、同じ趣旨の陳腐な戒めを発した上司は、数多かったにちがいない。

 しかし、平岡の言葉に「人々歎服(たんぷく。感服)し」た、とある。

 おのれの仕事を誠心誠意、実直に勤め上げた平岡の言葉だったからこそ、役人たちの心に響いたのだろう。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、「御側衆 平岡美濃守頼長」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 
2023年10月27日(金)
漢詩を作る
 ある会合で漢詩を賦した際のこと。

 ひとりが


  「石見国(いわみのくに。現在の島根県西部)は硯(すずり)の如(ごと)し」


と吟じ、これにしっくりくる対句を作るよう一座に求めた。

 石見の二文字を横にくっつけると、「硯」という字になる。だから「石見国は硯のようだ」と言ったのだ。これでは単なる漢字遊びに過ぎない。

 一同苦吟していると、梁田蛻巌(やなだぜいがん。儒学者、漢詩人。1672〜1757)がたちまち次のように朗吟した。


 
「竹生島(ちくぶじま。琵琶湖に浮かぶ小島)は笙(しょう。雅楽の管楽器の一つ)に似たり」


 竹生の二文字を今度は縦にくっつけると、「笙」という字になる。こちらも地名を読み込み、書に関連する硯に対し、楽に関連する笙を配したのだ。

 一座の人びとは、蛻巌の機知に驚嘆したという。


【参考】
・原念斎著、源了圓・前田勉校注『先哲叢談』1994年、平凡社(東洋文庫)、P.306。
2023年10月26日(木)
御神体
 神が宿るとされる御神体(しんたい)にはさまざまなものがある。「海の正倉院」とよばれる宗像(むなかた)大社では島(沖ノ島)が、「酒造りの神様」として杜氏(とうじ。酒作りの職人)たちが信仰する大神(おおみわ)神社では山(三輪山)がそれぞれ御神体となっている。神社によっては鏡、岩、石などと、御神体の種類は様々。

 そうした中でも、石碑を御神体としている珍しい神社がある。栃木県大田原市湯津上にある笠石神社(かさいしじんじゃ)だ。

 笠石神社の御神体は、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ。国宝)という石碑(花崗岩製)。多胡碑(たごひ。群馬県高崎市)・多賀城碑(たがじょうひ。宮城県多賀城市)とともに、書道史上の日本三古碑のひとつに数えられている。江戸時代、草むらに埋もれていたこの石碑を旅僧が偶然発見し、それを伝え聞いた水戸藩主徳川光圀が石碑保護のために碑堂を建てさせた。

 碑文には1行19字で8行全152文字が、中国六朝(りくちょう)風の楷書体で陰刻されている。内容は、国造(くにのみやつこ)から評督(こおりのかみ)となり、永昌元年(唐と新羅で使用された年号。700年)に亡くなった豪族那須直韋提(なすのあたいいで)の遺徳を一族が偲んだもの。

 この碑文からは、地方豪族が官人へと転身していく様子や、石碑建立に新羅系渡来人の関与があったことなどがうかがわれる。また、大宝律令制定(701年)以前の地方行政区名として、「郡(こおり)」ではなく「評(こおり)」の文字が使用されていた事実なども確認できる。地方の古代史にかかわる重要な碑文なのだ。

 笠石神社の御神体(那須国造碑)は、平成31年度大学入試センター試験日本史Bの問題にも取り上げられた。笠石神社に参拝すれば受験生に御利益があるかも。


【参考】
・「笠石神社縁起」(笠石神社社務所)、「那須国造碑と侍塚古墳」(大田原市なす風土記の丘湯津上資料館等)などのパンフレット類を参照した。なお、笠石神社社務所に予約し拝観料を支払えば、御神体(那須国造碑)を見ることができる。ただし写真撮影は不可(御神体なので)。
2023年10月23日(月)
信長の髑髏盃
 織田信長の冷酷さ・残虐さを示す有名なエピソードがある。

 浅井・朝倉両家を滅ぼしたのちの年賀の酒宴でのこと。信長は、3個の頭蓋骨で作らせた盃を披露した。金箔で飾られたそれらの盃は、浅井久政(あざいひさまさ)・長政(ながまさ)父子と朝倉義景(あさくらよしかげ)の頭蓋骨から作られたものだった。明智光秀は若い頃、朝倉義景の元に身を寄せていた。義景は光秀の恩人だったのだ。信長はその義景の髑髏盃(どくろはい)で酒を飲めと光秀に強要した。信長への忠誠心を試されていると察した光秀は、義景の髑髏盃で酒を飲み干したという
(1)

 しかし、このエピソードを直接語る史料はない。『信長公記(しんちょうこうき)』には、天正2(1574)年元日の酒宴(馬廻り衆のみの内輪の宴会)の際、信長が3人の箔濃(はくだみ。漆と金粉で塗り固めること)の首(こうべ)を披露したとある
(2。また『浅井三代記』にも、信長が披露したのは長政・義景の首を朱塗りにしたものとある。ともに髑髏盃ではなかったのだ。


「信長卿御にくみや深かりけんこの長政の首と義景の首とを肉にさらし取朱ぬりに被成安土にて其翌年より正月の御礼に参上せらるる大名衆へ御盃の上に御肴にそ出にける」(『浅井三代記』)(3)


 
太田牛一(おおたうしかつ)の書いた『信長公記』は、本人の記憶違い等はあるものの、筆者の創作が一切ない第一級史料とされる(4)。一方、其阿(ごあ)雄山(遊山)が書いた『浅井三代記』(近江国(現、滋賀県)小谷城(おだにじょう)に拠った浅井亮政(あざいすけまさ)・久政・長政3代の興亡を記した軍記)は、「軍談的な虚構が随所に認められ」「史料的信憑性は低い」とされる(5)

 それでも両史料とも、信長が酒宴で長政ら2人または3人の首を飾ったという点は共通している。ただし、どちらにも髑髏盃の記述はない。よって髑髏盃に関しては、史料の拡大解釈または創作と見るほかない。

 それなら髑髏盃のエピソードを、まるで歴史的事実だったかのようにわれわれに印象づけたのは、一体何だったのか。おそらくは司馬遼太郎氏の小説『国盗り物語』を核に作られたNHK大河ドラマ『国盗り物語』(1973年放送)などの影響ではなかったか。

 信長が光秀に髑髏盃での飲酒を強要するという狂気じみた行為は、高橋英樹・近藤正臣ら名優たちの迫真の演技と相まって、強烈なインパクトをわれわれに残した。信長の髑髏盃のエピソードの流布には、そうしたドラマの影響が強いと私は思うのだが、どうだろうか。


【注】
(1)
『週刊日本の100人・001号 織田信長』2006年、デアゴスティーニ・ジャパン、P.14による。
(2)和田裕弘(わだやすひろ)『信長公記ー戦国覇者の一級史料』2018年、中公新書、P.129〜130。
(3)近藤瓶城編『改定史籍集覧・第6冊』1919年、近藤出版部、P.277。
(4)『信長公記ー戦国覇者の一級史料』前出、P.13。
(5)日本史広辞典編集委員会編『日本史広辞典』1997年、山川出版社、「浅井三代記」の項。
2023年10月21日(土)
本業が大事
 熊谷広政の子に熊谷宮内(くまがいくない。?〜?)という者がいた。後年、水戸光圀(徳川光圀。水戸藩第2代藩主)に仕官した。

 宮内は能の達人だった。そこで、光圀は宮内にたびたび能を所望した。しかし、いつも病気などと理由をつけて、ついぞ披露したことがなかった。

 ある時、江戸で客人を接待することになった。そこで、客人への馳走として、宮内に能を命じた。今回、宮内は辞退しなかった。光圀は内心、

「当日になればいつものように、仮病を使って断ってくるだろう。」

と思っていた。

 しかし当日、宮内からは何も言ってこなかった。宮内は能装束をまとうと、舞台に登場した。なるほど評判通りの能の上手で、光圀も感心するほどの出来ばえだった。しかし、宮内は楽屋へ戻るや病気と称し、それから50日ほども出仕しなかった。以後光圀が、宮内に能を所望することはなかった。

 ただ、光圀にどのような意図があったものか、それから鷹狩りの供の人数に、必ず宮内を入れるようにした。

 ある夜、鷹狩りの宿での雑談のおり、話題が諸芸に及んだ。その時、宮内が話したのは次のような内容だった。


「第一は、士は芸の為(ため)に名を奪(うばわ)れぬ事、大事なり。あしく心得(こころえ)(はべ)れば、肩に出来たる病(やまい)の首を押(おし)のけるごとく、芸計(げいばかり)に成(なり)て、其身(そのみ)は無用の人とおもはれ候(そうろう)。」


 武士は、末芸(まつげい。つまらぬ技芸)によって名を知られるべきでない。末芸ばかりが有名になれば、その身は無用の人と思われよう。光圀が再三能を所望しても、宮内がいっこう承諾しなかったのは、宮内にこうした思慮があったからだ。

 宮内の話に感じ入った光圀は、たわむれて


「流石(さすが)に親が子也。」(さすがに、あの親にしてこの子あり、だ。)


といった。

 その後1、2年のうちに、宮内は重用されて藩政に関与するようになったという。


【参考】
・以上、永山利貞『太平将士美談』正徳2(1712)年序、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0100、19〜20 コマ目による。原文は次の通り。

一、此宅右衛門(熊谷広政)子熊谷宮内は、後水戸光国公(徳川光圀)に仕奉る。是又不思議なる者にて、水戸公の御心にも叶たるものなり。
 能の達人なりける由被聞召、度々被仰付けれども兎角に病気など申立、終に御覧に入奉らず。江戸におゐて御客設(おきゃくもうけ)の時、又々被仰付ければ、相勤可申よし御請申ける。水戸公も、必其日に至り作り病を仕御断可申上と被思召たる由也。
 然ども、其日に至りても何事も不申上、心よく衣裳をつく舞台に出けるが、音に聞へたる如く、御感ある程の上手なり。  扨、楽屋へ入りて直に病と称し、五十日程罷出ず。夫より後は絶て不被仰付。いかなる思召にかありけん、やがて足軽御預被成、御鷹野などの御供には不絶撰り人にて召れらる。
 ある時、御鷹狩の御宿にて御夜話ありけるに、さまざまの咄を申上、諸芸の咄に成りて宮内申けるは、
「第一は、士は芸の為に名を奪れぬ事、大事なり。あしく心得侍れば、肩に出来たる病の首を押のけるごとく芸計に成て、其身は無用の人とおもはれ候」
と申ければ、甚御感ありて、
「流石に親が子也」
など御戯あり。其後、御側の衆へ御物語ありけるは、
「宮内が、我等が能申付たるを度々うけかわぬ事、いかさまにも思慮あるべしと思けるに、我存込みたる通」
にて御悦思召す由、仰也。
 一両年の内に、御政事にもあづかりけり。
2023年10月20日(金)
詩歌をたしなむ
 これも『太平将士美談』にある熊谷広政の話。熊谷が秀句好きだったからだろう、知行所の百姓が自作の詩歌を熊谷のもとに持参した。それを見た熊谷は、次のように言ったという。

「飯は食べるにはすぐれたものだが、手足につけば邪魔なもの。お前の詩歌の趣味も、手足についた飯に同じ。」

 相手が百姓だから「生業に勤(いそ)しめ」という意味で言ったのだろうか。


【参考】
・以上、永山利貞『太平将士美談』正徳2(1712)年序、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0100、19コマ目による。原文は次の通り。

 
此人(このひと。熊谷広政)、何事によらず理にさとくて、世に的中する言多し。
  ある時、知行所の百姓、歌をよみ詩を作りて熊谷にまいらせければ、其(その)詩歌を賞し、
「かならず子共などへは無用の事ぞ。飯はすぐれたるものながら、手足につきてはわるき物也。其方(そのほう)、詩歌のたしなみも如此(かくのごと)し。」
といへり。
2023年10月19日(木)
熊谷広政の狂歌
 明智左馬助(明智秀満。?〜1582)の家臣に熊谷広政(くまがいひろまさ)という男がいた。いつも戯言(ざれごと)を好んで、敵と鑓(やり)をまじえている間でさえ、さまざまな秀句(しゅうく。掛け言葉などを巧みに利用した面白い言葉)を口にするのである。

 ある時、左馬助の知人が土地紛争で、双方人数5、60騎と足軽が入り乱れる血戦になった。これを伝え聞いた左馬助は、物頭(ものがしら。足軽大将)阿木弥市(あぎやいち)に熊谷ら七、八騎を差し添えて、知人の安否確認に向かわせた。その際、目立たぬかっこうで出発させ、知人に加勢するようにと命じた。

 時は陰暦7月3日の初秋。阿木らは馬を激しくせめ急がせ、14、5里(約60km)の距離を一昼夜で駆けつけた。すると、敵は 「明智の加勢が雲霞(うんか)のごとく到来する」 と聞き誤って、ちりぢりに逃げ去ったあとだった。そのことを迎えに来た使者から知らされて、熊谷がたちどころに詠んだ狂歌が次。


    
阿木来ぬと 目にはさやかに見へねども 加勢の音に(ぞ)驚かれぬる(1)
    
(阿木が来たと、目にははっきりとは見えないが、加勢の音で気づいたことだ。)  



 これは、中学・高校の国語の授業で習う有名な和歌のパロディー。次がその本歌。  


       
秋立日(あきたつひ)よめる  藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん)

    秋きぬと めにはさやかにみえねども 風のをとにぞおどろかれぬる
(2)
    
(秋が来たと、目にははっきりとは見えないが、風の音で気づいたことだ。)



 これを聞いた者はみな、熊谷の頭の回転の速さを誉めたという。


【注】
(1)
以上、永山利貞『太平将士美談』正徳2(1712)年序、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0100、19コマ目による。原文は次の通り。

 
明智左馬助の臣熊谷宅右衛門広政は不思議の者なり。常に戯言(ざれごと)を好みて鑓(やり)を合する間も、種々の秀句を云(いい)けり。
 ある時左馬助、知音(ちいん)の方へ地ぜり合ありて、双方の人数五、六十騎足軽をかけ合血戦す。此事(このこと)を左馬助聞伝(ききつた)へて、物頭(ものがしら)阿木弥市(あぎやいち)に熊谷が輩(やから)七、八騎差添(さしそえ)安否を問(とい)、且(かつ)は着込(きこみ)などにて花々しからぬやうに出立(しゅったつ)、加勢すべしと云付(いいつけ)やられける。
 扨(さて)七月三日、もみにもんで右の在所へ立越(たちこし)けるに、十四、五里を一日一夜に駆付(かけつく)るに、敵方には明智の加勢雲霞のごとく来(きた)るよし告(つぐ)るもの有て、散々(ちりぢり)に逃去りけり。其事(そのこと)を知音の方より途中まで出ける士語りければ、熊谷言下(げんか)に狂歌をよみける。
  
 阿木来ぬと 目にはさやかに見へねども 加勢の音に驚かれぬる
 人皆その捷敏(しょうびん)を称しけり。


(2)尾上八郎校訂『古今和歌集』1927年、岩波文庫、P.49による。
2023年10月18日(水)
口のきき方が悪い
 水野勝成(みずのかつなり。1564〜1651)は水野忠重の息男で、徳川家康の従兄弟に当たる。小牧・長久手の戦いでは敵の首級三つをあげる武功をたてたものの、父親の不興を買って勘当され、しばらく放浪生活を送ることになった。

 とりあえずは上方へでも行ってみようと思い立ち、落髪して奈良の興福寺に身を寄せた。

 興福寺では一ヶ月に6度ずつ、衆徒(興福寺の下級僧侶で武装して寺院警護にあたった。僧兵)の風呂焚きが順番でまわってきた。霜月(旧暦11月)の頃、勝成が風呂焚きの当番だった日のことである。勝成が薪をくべていると、風呂場の方から若い坊主たちが「湯がぬるい」といってわめく声が聞こえた。そのうち悪口雑言になった。


「けふ(今日の湯番はどの坊主めにて、此(この)寒空に加様(かよう)にぬるゆに入れ候(そうろう)や。上(あがりて、きつとせんぎすべし(風呂から出たら、厳しく風呂番をとっちめてやる)。」  


 これを聞くや勝成は、釜のなかへ山のごとく薪を放り込むと、刺股(さすまた。U字形の金属を棒の先につけた捕物道具)を火の中で焼き始めた。次第に湯は沸き出して熱くなる。すると今度は風呂場から、


「水をさし候(そうら)
へ。」


と口々に言い出した。そこで勝成は怒鳴り返した。


「水をさし候
(そうろう)事ならず。 ( 中略 ) 湯がぬるくば

『たき候へ
(焚いて下さい)。』

とこそ申
(もうす)べきに、何(なに)、坊主め、

『出てせんぎせん
(湯からあがったら風呂番をとっちめてやる)。

(など)と坊主に似合ぬ悪言。

 我
(われ)は水野六左衛門勝成坊主なり。数千の戦場のなかにてさへ、終(つい)に左様の聞苦しき詞(ことば)をうけたる事はなし。 ( 中略 ) おのれら如(ごと)きの下司(げす。品性の下劣な者)坊主に悪言を請(うけ)ては暫(しばら)くもこらへ難(がた)(少しもがまんなどできない)

 一々焼殺すべし
(ひとりひとり焼き殺してやる)。湯あつくしてた(耐)へがたくば、是(これ)へ出よ。」



 そういうと勝成は、風呂場の出口の板の間に、真っ赤に焼けた刺股を持って仁王立ちしたのである。湯はますます熱くなる。さりとて湯から出れば、勝成のあの剣幕だ。真っ赤に焼けた刺股によって焼き殺されるだろう。衆徒たちの進退はきわまった。

 その時、ひとりの老僧が勝成の前に詫びに立った。あやつらは常日頃から素行が悪い衆徒らだ、悪僧たちはただちに寺から追放する、ゆえにこの老僧に免じて許してくれ、と。勝成はようやくのことでおのれの怒りをしずめた。

 勝成は歴戦のつわものだ。もしも老僧の詫びがなかったら、勝成の気性からして衆徒たちは茹で殺されていたか、焼き殺されていたに違いない。

 口のきき方が悪かったために、衆徒たちはあやうく命を落とすところであった。


【参考】
・『反古撰・2』写本、宝暦6(1756)年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0078、3〜7コマ目、「水野日向守勝成の事」
2023年10月16日(月)
小栗又市
 旗本の小栗又市(小栗忠政。1555〜1616)は歴戦の勇者だった。

 出仕は永禄10(1567)年、13歳の時にはじまる。最初は家康づきの小性であった。

 その3年後、姉川の合戦(1570)があった。この時、敵兵が家康の床几(しょうぎ)近くまで迫ってきた。近侍していた16歳の又市は、とっさに家康の鑓(やり)を手に取ると、その敵兵と鑓をかわして主人の危急を救った。その行動に感じた家康は


「一番鎗にもひとしかるべし」(一番鎗にも匹敵する功名である)


と賞し、自身の鑓を又市に下賜したのである。

 又市はその後も鑓を振りまわし、手柄をあげ続けた。そこで家康は 「今より名を又一と改むべし」 と言って「又市」から「又一」への改名を命じたという。「又」もや随「一」の功名をあげた、の意である。これ以降、又市(以下も「又市」と表記)は御使番・大番頭・御鉄炮頭などをつとめた。そして、いくさがあると敵の首級をいくつもあげた。

 しかし、そうした歴戦での功名には、武勇だけでなく、抜け駆けをよしとする独断専行の気質が必要だった。時にそうした行動は軍規を乱す。実際、天正6(1578)年の駿河国田中城攻めの際には軍令違反を犯して家康の堪気をこうむり、しばらく遠江国大須賀康高のもとに雌伏せざるを得なかった時期もあった。
(1)

 又市には己の武功を誇るところがあった。『反古撰』には次のようなエピソードがある。(2)

 大坂陣後の論功行賞で、久世三四郎(久世広宣。1561〜1626)と坂部三十郎(坂部広勝。1561〜1622)は5千石ずつ賜ったのに、又市には2千石しか下賜されなかった。又市は不満だった。

「武功の数でいったら俺のほうが上なのに、恩賞はふたりの半分もない。こうなったらふたりを討ち果たしてしまおう。」

 そう決意した又市だったが、とりあえずはふたりに次のようにたずねてみた。

「おのおのどのようなわけで、知行を多く拝領されたのか。承りたい。」

すると、ふたりはそれぞれの耳たぶを引いて、

「ただ、これだけのことと存じます。」

といった。それを聞くと又市は

「それなら致し方ない。」

と言って妙に納得してしまったという。

 又市の不穏な様子を察知したふたりは、とっさの機転で自分の耳たぶ(福耳になぞらえたか)を引っ張って見せ、「加増が多かったのは単なる僥倖(ぎょうこう)だった(運が良かっただけだ)」と謙遜して、小栗を拍子抜けさせたのだろう。

 『反古撰』には


「加様(かよう)に智恵(ちえ)違候故(ちがいそうろうゆえ)、高名(こうみょう)の数に寄(よら)ず」


に恩賞を与えた、と書いてある。取った敵兵の首級という外面(そとづら)の数字のみで、論功行賞が決まったわけではないのだ。


【注】
(1)『寛政重修諸家譜』巻第四十五による。(『寛政重脩諸家譜 第1輯』1922年、國民圖書、P.233〜234)
(2)『反古撰・1』写本、宝暦6(1756)年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0078、17コマ目、「小栗又市事」。原文は以下の通り。

 
大坂御陣後、久世三四郎・坂部三十郎を召て五千石づつ被下(くだされ)、其次(そのつぎ)に御使番小栗又壱を召て弐千石被下候。いづれも御前に於ては
「難有奉存候(ありがたくぞんじたてまつりそうろう)」
旨御請(おうけ)して退き、又市存念(ぞんねん)には
「武辺(ぶへん)の数は両人より増(まさり)たる処に知行半分も不被下候段(くだされずそうろうだん)、不足に存(ぞんず)。所詮(しょせん)二人を相手にして可討果(うちはたすべし)。」
と存(ぞんじ)、
「各(おのおの)は何事にて、知行(ちぎょう)多(おおく)拝領致されしぞ。承度(うけたまわりたし)。」
と申候処(もうしそうろうところ)に、三四(久世)・三十(坂部)耳たぶを引(ひき)、
「只(ただ)是(これ)ゆへと被存候(ぞんぜられそうろう)。」
と申す故(ゆえ)、
「然(しか)らば是非なき。」
とて、又市其分に差置候(さしおきそうろう)。
 加様(かよう)に智恵(ちえ)違候故(ちがいそうろうゆえ)、高名(こうみょう)の数に寄(よら)ず、御前(ごぜん)得(とく)を被下候(くだされそうろう)と云(い)へり。
2023年10月13日(金)
大儒か、山師か
 歴史上の人物評価はむずかしい。

 同時代人の史料であっても毀誉褒貶がいりまじる。新史料の発見等によっては後世、その評価が一変する。 それは、研究者の立場や研究の進捗状況などによって、その人物の評価が変わってくるからだろう。

 そもそも人間そのものが多面性をもつ生き物なのだから、断片的に残された史料からその人物の思想等を云々(うんぬん)すること自体に無理がある。たとえば「あれやこれや2023」10月12日付け「方便」に登場する三輪執斎についても、それが言える。  

 三輪執斎(みわしっさい。1669〜1744)は江戸中期の儒学者。京都の医者沢村自三(1622〜1681)の次男として生まれた。諱(いみな)を希賢(まれかた)、字(あざな)を善蔵、号を執斎、躬耕廬(きゅうこうあん)などと称した。執斎13歳の時に父が死去したため、はじめ大村彦太郎(日本橋の呉服商白木屋の創業者)に養育され、のちに真野氏の養子となった。しかし、先祖が大和国三輪神社の司祝(ししゅく。神職)の出であることにより、本姓の三輪に復したという。

 執斎は佐藤直方(さとうなおかた。山崎闇斎の弟子で「崎門三傑」のひとり。1650〜1719)に入門し朱子学を学んだが、のちには陽明学に傾倒していった。当時の大儒のひとりと評価される。

 ところで執斎は、公卿で歌人の中院通茂(なかのいんみちしげ。後水尾院から古今伝授を受ける。1631〜1710)から和歌をも学んでいる。執斎は漢詩文をあまり得意としなかったようだが、和歌は


「其(そ)の秘に通ず」


るほどの腕前だったという。『先哲叢談』は


「蓋(けだ)し儒にして倭歌(わか)を善(よ)くする、未(いま)だ伊(こ)の人の如(ごと)きは有(あら)ざるなり。」(同書、「三輪執斎」第八条)


とベタ褒めにしている。
(1)

 その一方で、『隠秘録』という史料に書かれている三輪執斎の評価は、次のようにさんざんだ。


「飯田町辺に三輪執斎と云(いう)儒者有けり。殊外(ことのほか)門弟も多く、御旗本中、多くは奥向(おくむき)の衆中歴々のみ来(きた)り玉ふ。此(この)執斎、大金持にて、歴々へも貸金致し、金の威勢甚敷(はなはだし)。 (中略) 如斯(かくのごとく)大繁昌の大儒也。 (中略) 山師(やまし。詐欺師)儒者なりと笑ふ人も多かりき。」(2)

(江戸の飯田町あたりに三輪執斎という儒者がいる。ことのほか門弟も多く、旗本ではその多くが将軍近辺に仕えるお偉方ばかりがやってくる。この執斎は大金持ちで、そういったお偉方たちにも金貸しをしている。金の力のはなはだしいことと言ったらない。このように、執斎は大繁盛の大儒であるが、執斎のことを「山師儒者」と言って笑う人も多かった。)



 
大儒か、山師か。それにしても、これらの史料は、本当に執斎の真実を伝えているのだろうか。


【注】
(1)
原念斎著、源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』1994年、平凡社(東洋文庫)、P.302。
(2)『隠秘録』写本、明和6(1768)年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0095、「江戸町中へ学問勧る謀略の事」。
2023年10月12日(木)
方便
 江戸に田所平蔵という町人がいた。平蔵は田所町の家主で、儒学者の三輪執斎(みわしっさい。1669〜1744)に入門して学問にいそしんでいた。

 ある日、町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)から突然呼び出されると、奉行直々に次のような褒詞(ほうし)を賜ったという。


「其方儀(そのほうぎ)、三輪執斎が弟子になりて学問を情(精)出す由(よし)。町内の事を司(つかさど)り支配する身には尤(もっとも)の事也(ことなり)。此上(このうえ)随方不打捨(うちすてず)に学問致すべし。此段(このだん)御上(おかみ)にも相聞(あいきこ)へ、

『呼出
(よびだ)し褒美(ほうび)(つかまつ)れ』

との御老中方より被仰渡也
(おおせわたさるるなり)。難有奉存候得(ありがたくぞんじたてまつりそうらえ)。」



 一介の町人に過ぎないのに、自分の学問出精が幕府にまで聞こえ、ご褒美まで下さる。なんという身に過ぎた誉れだろうか。平蔵は、


「冥加至極(みょうがしごく)、難有被存候(ありがたくぞんぜられそうろう)。」


とうやうやしく返答すると、奉行所を退出した。

 こののち、江戸市中は平蔵の話で持ちきりになった。そしてこれをきっかけに、江戸各地の町名主や裕福な町人たちが、にわかに学問に励みだしたのである。

 このパフォーマンスは、町人たちに学問を勧めるための幕府の方便(策略)だったという。


【参考】
・『隠秘録』写本、明和6(1768)年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0095、「江戸町中へ学問勧る謀略の事」。
2023年10月9日(月)
助言で負けて腹を立てる
 京都のある町人の家で二十三夜待ちがあった。二十三夜待ちは月待講(つきまちこう)のひとつで、旧暦二十三日の夜に人々が寄合い、飲食等をともにしながら月の出を待ち、月を拝して悪霊をはらうといった民間信仰行事だ。

 さて、月の出を待つ間、碁や将棋に興じていたところ、かたわらの者から助言を受けていた男が負けてしまった。負けた男はよほど腹が立ったのだろう、助言した者を罵倒したあげく、脇差を抜いて殺そうとまでした。

 それで、その場にいた人が男を取り押さえ、抜き身の脇差を取りあげようとした。ところが、どうしたはずみにか、脇差がその人の肩先をしたたかに突き通してしまったのである。

 人々は、京都所司代板倉重宗のもとへ訴え出た。重宗は次のように言った。

「両人の口論は、不届き千万である。仲裁に入った者は、仁心より出た行為であるので神妙というべきだ。それを、不慮のけがとは気の毒なこと。よくよく療治せよ。けが人が平癒したのち裁断いたそう。」

 その後20日ばかりを経て、けが人が全快したとの報告があった。そこで重宗は、次のような判決を下した。

「まずは助言をした者。不届きではあるが、けんかで脇差を抜き合わさなかったことは神妙である。罰金として医者へ薬代を出すこと。

 次に、けがを負わせた者。100日間の入牢を申しつけるはずであるが、それではけが人のためにならない。金子5両を出すこと。出さなければ、100日間の牢舎を申しつける。」

 両人とも罰金刑に同意した。5両の金は、医者とけが人に医療費・見舞い金として渡された。

 助言をきいて勝負に負けたからといって、その責任を他人に転嫁するなどとんでもない。まして暴力沙汰に訴えるなどとは言語道断だ。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、天保7(1836)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号159ー0004。「京都所司代板倉周防守重宗」の項。
2023年10月5日(木)
阿曽沼の鴛鴦
 それほど遠くはない昔の話という。

 下野国(しもつけのくに。現、栃木県)に鷹狩りを好む男がいた。男は、阿曽沼(あそぬま)というところでオシドリを一羽捕獲し、それを餌袋(えぶくろ。鷹の餌や獲物を納める竹かごなどの容器)に入れて持ち帰った。

 すると、その夜の夢に上品な装いの美しい女が現れ、恨み深い様子でさめざめと泣くと、

「どうして情けなくも、わたしの夫を殺したのですか。」

と言った。男は、

「思いもよらぬことだ。そんなことはしていない。」

と言う。しかし、女は、

「確かに今日、あなたは私の夫を殺しました。」

と言い張る。男は身におぼえがないので、強く反論した。すると、女は次の一首の和歌を詠じた。


  
日暮(くる)ればさそひしものを阿曽沼の 真菰(まこも)(がく)れの独り寝(ひとりね)ぞ憂(う)


 そしてふっと立った女を見ると、それはオシドリの雌だった。

 夢に驚いた男が夜明けになって餌袋のなかを見ると、昨日獲った雄のオシドリのくちばしに雌が自分のくちばしをくい合せて死んでいたのである。

 これを見た男はたちまち発心し、出家したという
(1)


 以上は『反古撰』という書物に載っていた「阿曽沼の鴛鴦(えんおう)」という話。

 これは中世に流行した歌物語の一つで、『古今著聞集』はじめ諸書に散見されるよく知られた伝承。阿曽沼氏の先祖が下野国で遭遇した奇談と伝える(2)

 オシドリは昔から夫婦仲のよい鳥と考えられてきたため(実際の生態では毎年相手をかえるという)、こうした夫婦相恋譚が生まれたのだろう。


【注】
(1)
『反古撰・1』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0078、58〜59コマ目による。原文は次の通り。

 中頃(なかごろ)、下野国に殺生を好む者、阿曽沼といふ所にて、鷹狩の帰りに鴛(おし)どりの雄を一つとりて休袋(餌袋か)に入て帰(かえり)しに、その世の夢に装束じんじやう成(なる)女のかたち宜(よろ)しきが、恨(うらみ)ふかきけしきにてさめざめとなきて、
「いかにうたてく、わらわが夫をば殺させ給(たま)ふ」
といふに、夢の心に、
「思ひ寄(よら)ぬ事や。左様の事は候(そうら)はず」
といふに、
「たしかにけふ、召(めし)とり給ひつる物を」
といへ共、覚へなければかたくろんじけるに、かの女
「日暮ればさそひし物を阿曽沼の まこも隠れの独(ひとり)ねぞうき」
と打詠(うちよみ)て、ふつと立(たつ)を見ればおし鳥の雌也。
 打驚(うちおどろき)て衾(ふすま)に思ひけるに、夜明て見ればきのふの雄に觜(はし)くい合せて、雌の死してあり。是(これ)を見て忽(たちまち)発心(ほっしん)出家せしと也。


(2)金子浩昌外『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.84〜85。
2023年10月3日(火)
吉宗、肥桶に落ちる
 8代将軍に就任することになった徳川吉宗。紀州藩という外部から就任する将軍だったため、どのような人柄なのかわからず、その人物像についての取り沙汰がいろいろなされた。

 吉宗に関する情報を収集していた小谷勉善(こだにべんぜん。室鳩巣の門人「室門の七才子」の一人。1657〜1720)は、正徳6(1716)年6月21日付の書状の中で、吉宗の人となりを


「只今迄(ただいままで)の上様(うえさま。将軍)と違申候(ちがいもうしそうろう)て、事(こと)により御軽々敷儀(おんかるがるしきぎ)も有之候(これありそうろう)(1)

(今までの将軍とはちがい、ことによっては軽薄なふるまいもあった。)



と評し、吉宗についての伝聞情報を報告している。

 次は、小谷が書きとめたそうしたエピソードのひとつ。


 紀州に被成御座候(ござなられそうろう)時分、御鷹野(おんたかの)に御出被遊(おいであそばされ)、糞桶(くそおけ)の中へ御落被遊(おおちあそばされ)、御惣身(ごそうしん)不潔に御汚被遊候処(およごれあそばされそうろうところ)


「其
(その)糞桶の主(あるじ)を呼出候様(よびだしそうろうよう)に。」


との御意
(ぎょい)にて、


「御前
(ごぜん)へ罷出候得(まかりいでそうらえ)ば、定めて御手討(おてうち)にも被遊候哉(あそばされそうろうや)。」


と何
(いず)れも奉存候処(ぞんじたてまつりそうろうところ)、左様(さよう)にては無之(これなく)


「其方
(そのほう)、定(さだめ)て大切に可存(ぞんずべき)物にて候処(そうろうところ)、与風(ふと)思召懸(おぼしめしかかり)も無之(これなく)、卒忽(そこつ)の儀(ぎ)被遊候(あそばされそうろう)。」


(むね)被仰出候(おおせいだされそうらい)て、其時分(そのじぶん)汚れ候御衣類分は勿論、御腰物迄被下候由(おこしものまでくだされそうろうよし)(2)


 紀州藩主だった頃、鷹狩りに出られた際、肥桶(こえおけ)の中に落ちて全身不潔にもよごれてしまったところ、

「その肥桶の所有者を呼んでくるように。」

とのご命令で、

「御前に出れば、所有者の百姓はきっと御手討ちになるだろう。」

とだれもが思っていたところ、そうではなく、

「お前が大切にしていた肥桶に、ついうっかりとして、粗忽なことをしてしまった。」

とおっしゃって、その時よごれた衣類はもちろんのこと、お腰のものまで下賜されたという。

 「事により御軽々敷儀」と評された吉宗。

 しかし、肥桶に落ちたことを怒るどころか、百姓の大切な下肥に損害を与えてしまったことを率直に謝罪する吉宗。そうした上記のエピソードからは、むしろ吉宗の気さくな人柄が見てとれまいか。


【注】
(1)
室鳩巣『兼山麗沢秘策・3』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:204-0253、13〜14コマ目。
(2)『兼山麗沢秘策・3』前出、14コマ目。
2023年10月1日(日)
奥御右筆(3)
 『明良帯録』には、奥御右筆衆の職務内容について次のように書かれてある。


「奥御右筆衆  諸向御奉書・奥向書物、其外捧杭等諸認物(したためもの)等あり。それぞれ懸り懸りあり。骨折場(ほねおりば)にて遠国御用(おんごくごよう)等を引請(ひきうく)る。」(1)


 奥御右筆というと、江戸城内の御右筆部屋に閉じこもって、物書きに専念しているというイメージだ。しかし、「骨折場にて遠国御用等を引請」(たいへんな職場で地方出張も引き受け)たとあるから、遠方への出張もあったのだ。パソコンで手軽に報告書を作成できる時代ではなかったので、出張者は複数名の奥御右筆衆を帯同したのだ。また、インターネットで文書を送信できるわけでもなかったので、奥御右筆衆は筆墨紙等を入れた長持等をわざわざ持参し、帰府する際にはその中に御用文書(報告書)を入れて持ち帰ることになる。

 たとえば文化4(1807)年6月、奥蝦夷島(おくえぞがしま)でいわゆる「文化の露寇(ろこう)」が起こった時のこと。幕府は若年寄堀田正敦(ほったまさあつ。1755~1832)・大目付中川忠英(なかがわただてる。1753~1830)らを現地に派遣したが、一行には奥御右筆二人を帯同させた。

 この時一行は、途中奥州白河藩領(現、福島県。松平定信の領地。当時定信はすでに老中を引退)に宿泊した。その夜、奥御右筆衆の宿舎に定信の使者が来訪して、次のような口上を述べたという。


「御用の文書ども載せらるる長持あれば、もし火災あらん時の手当(てあて)として、人数数多(あまた)具して隣舎(りんしゃ)にあり。もし火あらば速(すみやか)に馳来(はせく)べき其由(そのよし)申せとの旨(むね)なり。」(2)

(幕府公用の文書類を入れた長持ちがあれば、万一火災があった時の備えとして、隣の建物に多人数を率いて滞在しております。もし火災があれば即時に駆けつけますとの主人の言伝(ことづて)でございます。)


 
何よりも重要なのは御用文書類の保全だ。かつて幕閣の中心として、公文書の重要性を認識していた定信ならではの心遣いだった。


【注】
(1)
『明良帯録・6』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:152-0067。
(2)内山温恭編『流芳録』巻之六、「御老中 松平越中守定信」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。  
2023年9月30日(土)
奥御右筆(2)
 奥御右筆は、老中が執務する御用部屋(ごようべや)の隣りに詰めた。天保期の人数は35名で、申渡し書類の作成、願いや伺への回答など、その基本的な書類のすべてを準備した(1)

 文書を作成する上では、細々とした約束事があった。たとえば、老中名義で出す文書(老中奉書)を作成する場合には、奉書1枚におさまるように作成せねばならなかった。そのため、文章の長短にかかわらず無理やり1枚におさめなければならず、字数が少ないと変に大きな字になったり、反対に字数がやたら多いと極端に小さな字になったりして、ひどく体裁の悪い文書になってしまうのだった(2)

 奥御右筆は老中・若年寄からの命令ばかりでなく、他の部署からの依頼についても調査する。しかし、調査する内容の難易によっては報告に遅速が生じる。場合によっては、書類がいつまで待ってもできあがってこないという事態になる。そこで明和・安永の頃(1764〜1781)には、御右筆方には「地獄箱」なるものがあって、そこに放り込まれた諸書類は後回しにされる、という俗説があった。何のことはない。「これは急ぎだ」という申し送りがあったり、付け届けがあったりするものは早く調べて差し出すが、そうでないものはいつまでたっても後回しにされてしまうのだった。

 奥御右筆は激務だった。「大きな葛籠(つづら)に充塞(いっぱい)になっている帳面を夜中調べることなどが多」かったという(3)

 しかし、たいへんな職務の割には、昇進には縁遠い部署だった。奥御右筆からほかの部署へ転出する者は少なく、あってもせいぜい同等の部署へ異動するのが関の山だった。

 そんななかにも、奥御右筆から御簾中様(ごれんちゅうさま)御用人となり、御普請奉行(ごふしんぶぎょう)にまで出世した中根平蔵という男がいたという。中根は40年間奥御右筆を勤めても芽が出ず、自身の半生を述懐する戯れ歌を詠んだ。それがたまたま将軍の上聞に達し、抜擢されたのだという。その時の戯れ歌が次。


  筆とりて天窓(あたま)かくかく四十年 男なりやこそ中根(中根に泣かねを掛ける)平蔵(4)


 中根の出世が特筆されたのは、奥御右筆からの出世が稀だったからだろう。多くの奥御右筆たちは出世とは無縁で、頭をかきかき愚痴をこぼしながら、己の職務に忙殺されてそれぞれの生涯を終えたのだろう。

【注】
(1)大友一雄「国文学研究資料館の収蔵品35、幕府老中を支える者たち」、文部科学教育通信381(2016年2月8日発行)号による。なお、元禄2(1689)年10月26日に、初めて本丸付き奥御右筆を設置した時点での定員は23名だった(『吏徴』による。国書刊行会編纂『続々群書類従・第7・法制部』1969年、続群書類従完成会、P.25)。天保の改革のために増員したものと見られる。
(2)旧事諮問会編・進士慶幹校注『旧事諮問録(下)』1986年、岩波文庫、P190。幕末に奥御右筆を勤めた河田凞の回想による。
(3)『旧事諮問録(下)』前出、P.197。
(4)『明良帯録』による(「奥御右筆(1)」の【注】(1)「奥御右筆組頭」を参照)。
 ただし、人名や戯れ歌の内容等については、史料によって若干の異同がある。
 たとえば、鼠渓『寐ものがたり』(安政3年序)には享保年中のこととして、次の記事を載せる(森銑三・北川博邦編『続日本随筆大成・11』1981年、吉川弘文館、P.5)。

「享保の頃、御祐筆を年久しく勤られし人
    筆とりて天窓かくのも四十年男なりやこそ中根半平
 此ざれ歌、上聞に達し、出世しられしとぞ。」

 また、『頃日文耕録』には次のようにある(『頃日文耕録』写本、明治8年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0091、17コマ目、「御祐筆神保左兵衛秀句之事」の項)。

「先年中根半七ト云御祐筆ハ五十年御役勤ケリ。五十年メノ春、御祐筆部屋御縁頬ニテ反古ノ裏へ一首ノ狂歌ヲ書置ケルヲ御老中方御覧被成候ニ
   五十年筆テアタマヲ書暮ス 男ナリヤコソ中根半七
 如此認置ケルヲ御老中方御覧被成候テ、誠ニ不便(ふびん)ノ事ナリトテ御加増百表(俵)被下ケル社(こそ)オカシクモ又難有ケレ。」
2023年9月29日(金)
奥御右筆(1)
 御右筆(ごゆうひつ。御祐筆)は江戸幕府の書記官僚のことだ。

 御右筆には、大別すると一般的な業務を扱う表御右筆と、幕府の機密等に関与する奥御右筆とがあった
(1)。それぞれの部署の主任が、表御右筆組頭と奥御右筆組頭だ。両者を比較すると、奥御右筆組頭の方が格上だった。旗本・御家人の役職一覧である『布衣以上大概順(ほいいじょうたいがいじゅん)』(1802年以降の成立)の記載事項をまとめると、次のようになる(2)


 奥御右筆組頭 布衣以上 若年寄支配 役高400俵 役料200俵、そのほか24両2分御施季施代
 表御右筆組頭 布衣以下 若年寄支配 役高300俵 役料150俵



 奥・表とも御右筆組頭には旗本が就任する。布衣(ほい)とは無紋の狩衣(かりぎぬ)のこと。6位以下の者のうち、式日(しきび。幕府の儀式の日)にその着用を許された者が「布衣以上」である。同じ旗本であっても、布衣以上の旗本の方が格上だ。ゆえに、表御右筆組頭より奥御右筆組頭の方が格上ということになる。

 両者の格の違いは役高・役料の上にもあらわれている。役高とは、その役職に任命されるのに必要な家禄基準のことだ。奥御右筆組頭になるには家禄が400俵なければならない。役料は、役職手当のこと。奥御右筆組頭には役料200俵のほか、御施季施代(おしきせだい。時服を与える代わりに支給された金銭)として24両2分が支給された。役高・役料をとっても、表御右筆組頭より奥御右筆組頭の方が格上だった。


【注】
(1)
幕府の各役職の職掌・沿革等を記した『明良帯録』には、奥御右筆組頭・表御右筆組頭・奥御右筆衆・表御右筆吟味方の名があがっており、それぞれの職務内容について次のように書かれてある(『明良帯録・6』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:152-0067) 。

奥御右筆組頭  御用部屋日々の御用向等(ごようむきなど)取調(とりしら)べ、諸向(しょむき)被仰渡(おおせわたさる)の書物・御奉書(ごほうしょ)の類を認(したた)む。其日(そのひ)の御用向を御老若方へ申上る也。  諸願向も取調る事故(ことゆえ)、明和・安永の頃は、御右筆方の「地獄箱」と俗にいひたる事あり。吹挙(すいきょ)もなく無縁のもの、賄賂もなきは、諸願を「地獄箱」に入るといふ。調べ大(おおい)に遅し。跡より願ても早く被仰付は、吹挙(すいきょ)・縁有て、賄賂の筋有は早く調べて差出すゆへの俗説なり。  此場(このば)、昇途(しょうと)遠きゆへ、他場所へ出る人少(すくな)し。此場より、 御簾中様(ごれんちゅうさま)御用人となり、御普請奉行に昇りたる仁(じん)あり。中根平蔵は四十年此場を勤め、述懐の狂歌を詠(よみ)し。其事聞へて昇進す。先(まず)同寮(地位が同等の職)をありく計(ばか)り也。 筆とりて天窓(あたま)かくかく四十年 男なりやこそ中根平蔵

表御右筆組頭  右同断。諸調物、筆・墨・紙、其外に至る迄省略を付て世話致し、諸書物の吟味等を致す。

奥御右筆衆  諸向御奉書・奥向書物、其外捧杭等諸認物(したためもの)等あり。それぞれ懸り懸りあり。骨折場にて遠国御用等を引請る。御規式・御大礼向・御新葬・御法事等、何にても掛り合役なり。

表御右筆吟味方  諸調物・認物を改め吟味して組頭へ出す。尤(もっとも)骨折場也。


(2)『布衣以上大概順』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:152-0054。
2023年9月21日(木)
「格さん」の菊
 安積覚(あさかかく。1656〜1737)は字(あざな)を子先(しせん)、通称を覚兵衛(かくべえ)、号を老圃(ろうほ)、澹泊斎(たんぱくさい)、老牛居士(ろうぎゅうこじ)などと称した。常陸国(現、茨城県)出身の儒学者で、水戸藩第2代藩主徳川光圀(とくがわみつくに。1628〜1701)に仕え『大日本史』の編纂に従事した。

 しかし、現代のわれわれにとっては、テレビドラマや映画などでの『水戸黄門』のお供、「格さん」のモデルとしての方が馴染み深い。

 さて「格さん」の号のひとつ老圃(ろうほ)には「経験豊かな農夫」の意がある。しかし、「格さん」が好んで栽培したのは、野菜でなく菊だった。

 「格さん」の菊好きは、当時有名だったらしい。『先哲叢談』には


「澹泊甚(はなは)だ菊を愛す。園中多く之(こ)れを栽(う)う」


とある。かつて百種の菊を、守山侯(もりやまこう。水戸藩の支藩)に献上したこともあった。

 「格さん」の庭では秋がくるたびさまざまな品種の菊が咲き乱れ、五色燦然(さんぜん)として人の目を奪うほどだった。「安積氏の菊、国中に聞ゆ」とまで言われたという。


【参考】
・原念斎著、源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』1994年、平凡社(東洋文庫)、P.236
2023年9月20日(水)
本を読む
 儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい。1666〜1728)には、これといった趣味がなかった。

 ある人が徂徠に、

「学問以外で、先生は何を好まれますか?」

と尋ねたことがあった。その時の徂徠の答えが次。


「余(よ)(た)の嗜玩(しがん)無し。惟(ただ)炒豆(いりまめ)を噛(か)んで、宇宙間の人物を詆毀(ていき)するのみ。」(1)

(わしの道楽は、炒豆を噛みながら世間の人物の悪口を言うこと以外にない。)



 徂徠が無趣味だったのは、その青年時代の過ごし方に一因があった。

 徂徠の父方庵(1626〜1706)は将軍綱吉に仕える医者だったが、延宝7年(1679)讒言によって江戸払いとなり、上総国長柄郡二宮庄本能村(現、千葉県茂原市・大網白里市内に位置)に移り住んだ。そのため徂徠は、14歳から25歳までの青年時代を、苦労しながら田舎で過ごさざるを得なかった。田舎なので、音曲芝居等の娯楽に接する機会がない。徂徠には、本を読むほかするべきことがなかった。

 その代わり、その読み方は徹底していた。この時の読書習慣が、その後の徂徠の学問や博学多識をかたちづくった。

 徂徠は寸暇を惜しんで読書した。朝起きると一日中読んだ。日が傾いて部屋の中が暗くなってくると、縁側に出て本を読んだ。縁側で文字が判別できなくなると、書斎にはいって灯火のもとで読書した。とにかく朝から深夜まで本を閉じることがなかった。
(2)

 ある年の正月のこと。

 弟子の服部南郭(はっとりなんかく。1683〜1759)が、年頭の祝辞を述べるため徂徠宅を訪れた。徂徠は机に寄りかかって『孫子』を読んでいた。その姿を見るに、顔は洗わず垢だらけ、髪の毛は梳(くしけず)らず乱れ放題。読書に夢中で年が明けたことなど知らぬ様子だった。

 南郭はとうとう新年の挨拶をする機会を失したという。
(3)


【注】
(1)
原念斎著、源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』1994年、平凡社(東洋文庫)、P.288。
(2)(3)
『先哲叢談』P.286。
2023年9月19日(火)
直諫の人
 中世まで、儒学は仏教の付属学問の地位に甘んじていた。そんな儒学を独立した学問として体系化したのが藤原惺窩(ふじわらせいか。1561~1619)だった。この功績により惺窩は「近世儒学の祖」とよばれる。

 惺窩のもとには優秀な弟子が集まった。惺窩の高弟のうち、特に林羅山(江戸幕府に仕えた林家の祖。1583〜1657)・那波活所(なわかっしょ。紀伊藩に仕える。1595〜1648)・松永尺五(まつながせきご。貞門派俳諧師貞徳の子で、私塾を経営し多くの弟子を育成。1592〜1657)・堀杏庵(ほりきょうあん。尾張藩に仕える。1585〜1643)を「惺門(せいもん)の四天王」という。

 このうち、那波活所の人となりを『先哲叢談』は


「剛直にして苟(いやし)くも合せず。其の仕に就(つ)くや、謇諤(けんがく)の節(せつ)を尽くす」(1)


と記す。「謇諤(けんがく)の節(せつ)」とは、直言してへつらわない節操のこと。権貴におもねらず、諫言する気概をもった「直諌の人」だったのだ。

 『先哲叢談』には「直諌の人」活所の逸話を載せる。

 紀伊藩主徳川頼宣(とくがわよりのぶ)は、新たに刀剣を入手すると、その斬れ味を試すため必ず人間を斬ったという。ある時、備前長船作の一刀を得た。この時も、罪人を自ら試し斬りにした。居並ぶ家臣たちが頼宣の勇武を讃えるなか、ひとり活所だけが次のように諫言した。


「人君手づから人を斬りて、心に快とする者(こと)、古(いにしえ)の人之(こ)れを行ふ者有り。夏(か)の桀(けつ)・殷(いん)の紂(ちゅう)(こ)れなり。」(2)

(君主が自ら人を殺して楽しむなど、中国古代の暴君夏の桀王・殷の紂王と同じである。)



 またある時、頼宣が慨嘆して次のような言葉を漏らした。


「吾(われ)不幸にして良臣を得ず。」


 これに対する活所の言葉。


「悪(ああ)、是(こ)れ何の言ぞ。惟(おも)ふに今、君の部下、智勇の士、其の人に乏しからず。而(しか)るに以(もっ)て未(いま)だ足らずと為すは、但(ただ)君の知らざるのみ。」 (3)

(これは何というお言葉か。考えるに今、主君の配下に智勇すぐれた人材は山ほどいる。それを「人材がいない」と言って嘆くのは、主君がそれを認識していないだけなのだ。)



 ただ、活所がいくら諫言しても、主君に聞き入れてもらえなければ意味がない。諫言をした活所もえらいが、それを受け入れる度量をもった頼宣もえらかった。


【注】
(1)
原念斎著、源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』1994年、平凡社(東洋文庫)、P.82。
(2)(3)『先哲叢談』P.83〜84
2023年9月17日(日)
狸(3)
 なぞなぞの答えは「きぬた(砧)」。

 砧は、衣をうってやわらかくしたり、光沢を出したりするための道具。女性が多くこの作業に従事した。かつては秋夜になると、あちらこちらから衣をうつ砧の音が聞こえ、秋の深まりを感じさせる風情のひとつだったという。

 玉川は川の名。全国に6カ所ある「六玉川(むたまがわ)」は、古来より和歌の名所として知られた。なかでも摂津国三島の玉川は、別名「砧の玉川」と呼ばれる。


   松風の音だに秋はさびしきに 衣うつなり玉川の里 (源俊頼、千載和歌集)


  ヒントの解説もしておこう。

1 「きぬた」の上の字をとって読むと、食べ物の「ぬた」(酢味噌で和えた食べ物)になる。
2 「きぬた」の下の字をとって読むと、裁縫で使う「きぬ(絹)」になる。
3 「きぬた」の中の字をとって読むと、方角の「きた(北)」になる。
4 「きぬた」の中の字をとって下から読むと、水の「たき(滝)」になる。
5 「きぬた」の下の字をとって下から読むと、大工が使う「ぬき(貫。木造建築で柱と柱の間に通す水平の部材)」になる。
6 「きぬた」を逆さにすると、「
たぬき(狸)」となって、化け物が狸の正体をあらわすというわけだ。


【参考】
・鼠渓『寐ものがたり』(安政3年序)。森銑三・北川博邦編『続日本随筆大成・11』1981年、吉川弘文館、P.72。  
2023年9月16日(土)
狸(2)
  なぞなぞである。

 真っ直ぐに読めば玉川辺に多くあるもの。歌の題材にもなり風流なものといえば何?


(ヒント)
1 上の字をとって読むと、食べ物になる。
2 下の字をとって読むと、裁縫で使う材料になる。
3 中の字をとって読むと、方角になる。
4 中の字をとって下から読むと、水になる。
5 下の字をとって下から読むと、大工が使う物になる。
6 逆さにすると、正体をあらわす。
2023年9月15日(金)
狸(1)
 安政5(1858)年、長崎から広がったコレラは、またたくまに江戸にまで拡大した。

 この病はコレラ菌で汚染された食物・水などを摂取すると発症する急性感染症で、下痢やそれに伴う脱水症を主症状とする。罹患すれば三日のうちに死にいたるといわれ、人びとはこの病を「三日コロリ」と呼んで恐れた。このときの死者は江戸だけでも3万人と言われ、死者の埋葬・火葬もままならず、火葬場は棺桶であふれかえったという
(1)

 謎の奇病に対する恐怖心は、架空の妖怪「虎狼狸(ころうり)」を生み出した。頭が虎、胴体が狼、下半身が狸という化け物だ。怪しげな民間療法や風説が世上に流布するなか、その他の妖怪たちの跋扈も噂された。次の古狸(こり)の化け物もそのひとつ。


 
(ある)大諸侯(だいしょこう)の藩士木津氏なる人、元来剛勇の気象(きしょう)にて、武術も又類(たぐい)なき達人なるが、今度或夜の事なりとかや、宿直(とのい)より退出して宿所(しゅくしょ)に至るが、此人(このひと)(いま)だ妻もなけれバ、勝手知りたる我が家の戸を引明け、内に入て寐所(しんじょ)に赴(おもむ)かんとするをり、屏風(びょうぶ)の中(うち)より最(いと)(すさま)じき異形(いぎょう)の妖怪忽然(こつぜん)として顕(あらわれ)れ出(いで)、木津氏に飛かゝるにものものし、ごさんなれと身をはづして腰刀(ようとう)を抜より疾(はや)く妖怪の真向(まっこう)目がけて切付(きりつく)るに、此(この)形勢(いきおい)にへきえき(辟易)してや、かの妖怪ハ身をおどらし外(と)の方(かた)さして迯(にげ)んとするを、木津氏透(すか)さず追(おい)とどめ、辛(から)くして是(これ)を生捕(いけどり)、燭(しょく)をてらしてよくよく見るに、是(これ)年経(としふる)狸にて、当時奇病の流行せるその虚(きょ)に付込(つけこみ)、諸人(もろびと)たぶらかしなやむるものとぞ聞えし。(2)


 ここには、民話に登場するどこか間の抜けたユーモラスな狸の姿はない。狸が純粋な化け物として描かれている。


【注】
(1)(2)
紀のおろか序『安政午秋頃痢流行記』安政5年刊、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:195-0364。
2023年9月14日(木)
このしろを焼く
 江戸城はたびたび火災に遭っている。西の丸御殿だけでも4回被災したという。

 天保9(1838)年3月10日には、明け方に西の丸膳所台所人下部屋(2階)付近から出火し、西の丸御殿が全焼している。当時は、12代将軍徳川家慶の治世だったが、当時西の丸には退隠した家斉が大御所として居住していた。この時、庶民が叩いた無駄口が次。


   
このしろを焼て隠居が味噌をつけ(1)


 「このしろ」は魚の名。「此城(このしろ)」に掛ける。江戸時代は、武家はこの魚を決して食べなかったという。その理由を『塵塚談』は次のように書く。


「河豚(ふぐ)・鰶魚(このしろ)、我等(われら)若年の頃ハ武家ハ決して食せざりしもの也。鰶魚(このしろ)ハ此城(このしろ)を食(くう)といふひびき(響き。音通)を忌(いみ)て也。河豚は毒魚をおそれて也。二魚とも卑賎(ひせん)の食物にて、河豚の価(あたい)一隻銭拾弐文くらい、鰶魚(このしろ)ハ二、三銭ニて有(あり)し」(2)


 「隠居」は大御所家斉のこと。「味噌をつける」は失敗して面目を失うこと。昔は火傷を治すのに患部に味噌を塗ったことから。


【注】
(1)
鼠渓『寐ものがたり』(安政3年序)。森銑三・北川博邦編『続日本随筆大成・11』1981年、吉川弘文館、P.190。
(2)小川顕道『塵塚談・1』(文化11年跋)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0021、47コマ目。なお、このしろの俗信については、本ホームページ「あれやこれや2019」2019年12月20日(金)の項を参照。
2023年9月13日(水)
狂歌の功徳
 ある男が、浅草蔵前の札差のもとへ金を借りに行った。借金をなかなか返済しない客だったのだろう、たびたび通い詰めているものの、札差の方ではいっこうに貸してくれない。さらに懲りずに行くと番頭から

「できません。」

の一言。とりつく島もない。男はしばらく考え込んでいたが、筆紙を請うと何かを書きつけ番頭に渡した。そこにあったのが次の一首。


 わが恋は深草ならぬ浅草へ通ひつめたる少々の金


 恋を成就させるため、小野小町の元に百夜通いをした深草少将が、望みを遂げずに九十九日目に絶命。そんな伝説を踏まえて、「少々(深草少将に掛ける)の金を融通してほしい」と懇願した狂歌だった。

 番頭は大いに感じいったところがあったのだろう、

「これは返済に及びません。」

というと、金2分(1両の半分)を男にくれてやったのである。

 洒落のわかる番頭だったと見える。


【参考】
・鼠渓『寐ものがたり』(安政3年序)。森銑三・北川博邦編『続日本随筆大成・11』1981年、吉川弘文館、P.5。
2023年9月12日(火)
なぜか恐れられる
 片桐市正(かたぎりいちのかみ。片桐且元)の家士に板井勝重という者がいた。板井は弁舌が人にすぐれていた。そこで市正は、むずかしい交渉ごとの使者役があった場合には、すべて板井にまかせていた。

 板井は正直者で徳義を重んじる人物であり、決して威圧的な男ではなかった。ところが、どうしたわけか、人びとから恐れられることが多かった。板井にもその自覚があったのだろう。周囲に溶け込もうと、腰を低くして交際するように努めてはいた。それでもどうしたものか、人びとはいっそう板井のことを恐れるようになるのだった。

 板井の友人に村上藤助という浪士がいた。村上は才気煥発な男だった。

 ある日、村上は板井に次のように言った。


「貴殿ほど人に恐(おそれ)らるる者なし。貴殿も是(これ)を知りて、常に謙(へりくだ)り交(まじわ)らるると見ゆれども、人却(かえっ)て疑(うたがい)遠ざけるなり。」


 そう言うと村上は、


「我、此頃(このごろ)一つ噺(はなし)を聞(きき)たり。」(これは最近聞いた話だが)


と前置きして、次のような話を語り出した。

 あるところに善神をまつる社があった。ある時、善神が人びとに善を示そうとその姿を現したところ、人びとは妖怪が出たと勘違いした。ある者は逃げ出し、ある者は悶絶するというありさま。これを悲しんだ善神は、いろいろな姿に変じて人びとの前に現れるのだが、かえって人びとは

「妖怪が、さまざまに姿を変えて現れる。」

とますます恐れおののいた。そして夜ともなると、社の前を通る者がだれもいなくなってしまった。


「是(これ)、貴殿の人に親(したし)まんとて、返(かえっ)て疎(うと)まるるに似(に)たる。」
(この善神の話は、貴殿が人びとに溶け込もうとして、かえって人びとから疎まれる状況と似ているではないか。)



 村上がそう言うと、板井と村上はふたりして大笑いしたのだった。

 時に、本人の思惑と周囲の反応が、とんでもなくずれてしまうことはあるものだ。


【参考】
・永山利貞『太平将士美談』正徳2年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0100。
2023年9月11日(月)
広告塔
 元蘭学者で医者の滝野玄朴(たきのげんぼく)という男がいた。

 この男がまだ貧しかった頃、近所に按摩が住んでいた。ある時、その按摩をつくづくと見て、

「あなたの目は療治すれば治る。」

と言ったが、按摩は笑って取り合わない。そこで再び

「治ることを保障するから、療治してやろう。」

というと按摩は、

「目が見えるようになったら(按摩の仕事ができず)おまんまの食いあげです。」

と答える。

「それなら、新たな仕事に就くための元手の金を貸してやろう。」

と言う。そこまで言うならと、按摩は治療を承諾した。するとたちまちのうちに、按摩の両眼は開いたのである。

 喜んだ按摩は、それから刻み煙草屋になった。そして、今まで按摩として出入りしてところへ商いに行った。すると、どこにいっても

「どうやって目が明いたのだ。」

と問わぬ者はいなかった。その都度、按摩は

「玄朴先生に療治してもらったのです。」

と答えるので、玄朴の名はまたたく間に広まった。

 もともと玄朴は蘭学もよく研究し、医者としての腕もよかったので、たちまちのうちに大家となった。その後、いかなる理由があったものか、姓を改め伊東玄朴(1801〜1871)と名乗ったという。

 才能や技術があっても世に埋もれる人材は多い。はからずも按摩は玄朴の広告塔となり、その才能が世に出るきっかけをつくったのだ。


【参考】
・鼠渓『寐ものがたり』(安政3年序)。森銑三・北川博邦編『続日本随筆大成・11』1981年、吉川弘文館、P.27。
2023年9月8日(金)
平賀源内のアドバイス
 ある時、平賀源内のもとにひとりの儒者が訪れた。その儒者がこぼすことに、

「私は、学問では決してあなたに引けはとっていない思うのに、人びとはあなたのことを知ってはいても、私のことを知らない。これはいったいどういうわけですか。」  

これに対する源内の答え。

「有名になるには著述をするのが一番。あなたほどの学力があって本を書いたなら、すぐにでも有名人になるでしょう。」

(儒者)「しかし出版するだけの金がない。」

(源内)「人に借りればよい。」

(儒者)「借りても返済することが難しい。」

(源内)「ほかの者からまた借りて返せばよい。またその金を返済する期限になったなら、また借りて返しなさい。」

(儒者)「それでは終始借金で、とうてい返済できないのでは。」  

 すると源内は真面目な顔をすると、次のように言った。


「其内(そのうち)には貴所(きしょ。あなた)が死(しぬ)るか、借(かり)たる人が死(しぬ)かして仕舞(しまう)べし。」(1)


 不満だけ言ってなかなか行動をおこさぬ儒者。それに対し源内は「借金の心配などせずに、まずは行動せよ」と言いたかったのだろう。源内には次のような言葉もある。


「何なりとも御はじめ、二つも三つも御しくじりなされ候(そうら)へば、自(おのずか)ら巧者(こうしゃ)に相(あい)成り候(そうろう)。手を空しうして日焼を待つは愚民の業にて御座候(ござそうろう)。 ( 中略 ) 考へて見ては何でも出来申さず候。我らはしくじりを先にし候。」(2)                 


【注】
(1)
以上、鼠渓『寐ものがたり』(安政3年序)。森銑三・北川博邦編『続日本随筆大成・11』1981年、吉川弘文館、P.14。
(2)源了圓『徳川思想小史』1973年、中公新書、P.121~122。
2023年9月7日(木)
財政難の原因
 肥後熊本藩50万石は非常な財政難にあった。『武林隠見録』巻之一「細川越中守常江戸噂の事」によれば、その原因はお殿様の浪費にあったという。


一、細川越中守(第3代綱利か)二歳にて家督を取、六丸と号す、成長以後越中守に成(なり)、年六十余に成(なり)し時分、領分肥後熊本へは十三、四年も行(いか)ずして、ゑよふ(栄耀。派手でぜいたくな暮らしぶり)に金銀を遣(つか)ふ事ちりあくた(塵芥)の如(ごと)く、其節(そのせつ)長岡佐渡(ながおかさど)弟に同監物(けんもつ)とて壱万五千石にて江戸家老勤めしが諫言(かんげん)して、


「御台所
(おだいどころ)つまり申候間(もうしそうろうあいだ)、ちと御つめ被成候様(なられそうろうよう)に。」
(家計が逼迫しておりますので、少々節約してくださいますように。)


と申す。越中守申さるるは、


「我等
(われら。私)二歳の時より代を取り候得共(そうらえども)、一日も五拾万石取候様(とりそうろうよう)には存ぜず。常々(つねづね)艱難(かんなん)を致(いた)し候(そうろう)。今六十に余り候(そうら)へば余命もなく候。まげて、今迄(いままで)の通りに致し呉候様(くれそうろうよう)に。」
(私は2歳で家督を相続してから、1日も50万石の大大名だと実感したことがなかった。いつも苦労のしどおしだった。今60歳を過ぎ、余命はいくばくもない。ぜひとも今まで通り、好きなように金を使わせてくれ。)


と申され候。
  ( 中略 )

 江戸家中困窮しける間、熊本の家老長岡佐渡、家中の為
(ため)に五万両金子(きんす)を下しける処(ところ)に、越中守にて留置(とめお)き、おどり子の為に百五十両、弐百両と給(たま)はる。家中へは一円渡さずと也。 (江戸屋敷が困窮しているというので、国元(熊本藩)の家老長岡佐渡が家中のために5万両を江戸へ送金した。しかし越中守の手元に留め置かれ、踊り子のために150両、200両と使われ、家中へはまったく渡されなかった。)



 『武林隠見録』はわざわざ「江戸噂の事」と断っているから、この記事の信憑性は定かでない。しかし人びとの噂にのぼるほどだから、熊本藩の財政難はよほどひどいものだったのだろう。


【参考】
・小柴研斎『武林隠見録・1』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027。「細川越中守常江戸噂の事」。
2023年9月4日(月)
家康と福島正則
 豊臣恩顧の大名福島正則は、徳川氏に臣従後も、何かと豊臣氏への忠誠心を忘れなかった。そこで家康は、大坂の陣には正則を従軍させずに江戸留守居を命じ、その後も国元の広島へは帰らせなかった。警戒していたのだ。ゆえに早晩、正則は些細な過失を咎められて、広島藩50万石を改易される運命だったのだ。

 さて、家康は元和2(1616)年4月14日頃、福島正則を病床に呼ぶと形見分けをし、遺言を伝えた。『武林隠見録』には次のようにある。


 家康は福島正則を呼んで御暇(おいとま)を与え、直々に形見の品として名物の茶入を与えた。正則も落涙することしきりだった。この時家康は、


「先年、将軍へ讒言する者がいて、お前に逆心があるように吹き込んだ。だから、お前は警戒されて、江戸住まいが長期に及んだのだ。お前にそんな逆心がないことは明らかなので、今回御暇をたまわるのだ。安心して国元で2、3年も休息すればよかろう。」


と言いながら、次のような言葉をつけ加えたのである。


「汝(なんじ) 将軍家へ不足の旨(むね)もあらば、帰国の上、逆謀(ぎゃくぼう)を企(くわだつ)るともいか様にも仕(つかまつ)るべし。」
(お前に将軍家に対する不満があるなら、帰国後、謀反を起こすなり何なりせよ。)



 正則は大声をあげて泣くばかりだったが、帰りに本多正純をつかまえて愚痴をこぼした。家康は、正純に


「正則は何と言っていたか。」


と尋ねた。正純は


「徳川家には少しも粗略なく仕えてきたのに、ただいまのお言葉。このような情けない目にあったことはない。」


という正則の言葉を伝えた。これを聞いて、家康が発した言葉が次。


「最早(もはや)ざつと事済候(ことすみそうろう)。其一言(そのひとこと)を聞出(ききいず)らるべき為(ため)。」
(これで一通りことが済んだ。正則からその一言が聞きたかったがために、あのように言ったのだ。)


 徳川氏にとって最も危険な存在として警戒されていた福島正則でさえ、徳川氏が打ち立てた絶対的な覇権の前にはなす術がなく、ただ保身をはかるのみだった。そのことを正則に改めて思い知らせるために、家康は「謀反を起こせるものなら起こしてみよ」と正則を挑発したのだろう。


【参考】
・小柴研斎『武林隠見録・1』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027。「東照宮御不例重らせらるゝニ付諸侯へ被 仰渡之事」。
2023年9月2日(土)
家康の加藤嘉明評
 外様大名たちを前に「徳川氏の天下を奪えるなら奪ってみろ」と、大見得を切った家康。しかし外様大名に対しては、たとえ徳川氏に忠勤を励んでいる者であっても、決してその警戒心は解かなかった。

 それがわかるのが、家康が死ぬ直前に下した大小名の人物評。次は、家康の加藤嘉明(1563〜1631)評だ。

 加藤嘉明の伝は『寛政重修諸家譜』巻第七百七十三にある
(1)。嘉明は三河国に生まれたが、父が三河の一向一揆に参加したため出奔。のち秀吉に仕えて、賤ヶ岳七本槍・秀吉子飼の七将のひとりに数えられるまでになった。秀吉死後は武断派のひとりとして石田三成ら文治派と対立、以後徳川家康に従ったのだ。

 家康は、次のように秀忠に言った。


「加藤嘉明は三河者であって、秀吉在世中より徳川氏に心を寄せていた。ゆえに豊臣恩顧の大名とはいえ粗略に扱ってはならぬ。律儀者なので十分目をかけてやれ。ただし、決して心を許してはならぬ。」


 これに対し、秀忠が


「嘉明は小心者と聞き及んでいます。よもや謀反の心などないでしょう。」
(左馬助(加藤嘉明)事は小気者と及承候(うけたまわりおよびそうら)へば、異心(いしん)も有べからずや。)


と応じると、家康は秀忠の言葉をすぐさま否定し、次のようなたとえ話を言って聞かせた。


「たとえば、おどりを踊る際、幼い子供であっても音頭をとるのが上手であれば、老人までもが浮かれたって踊りだすものだ。たとえ本人にその気がなくとも、わきで謀反の音頭をとる者がでないとも限らぬ。ゆえに嘉明が小心者だからといって、油断してはならないのだ。」
(縦(たとえ)ば、おどりを踊るに稚(おさな)き子共にても、今様(いまよう)の音頭を上る者上手なれば、老人迄も浮立(うきたち)て踊る者也。其者いやがりても、脇より取立る者なるぞ。左馬助小気なりとて油断すべからず。)(2)


 作家の司馬遼太郎は、家康の言葉を次のように解説している。


「家康は嘉明だけを論じているのではなく、器量人としては秀忠がみても小さな評価しかできない嘉明をまないたにあげることによって、『嘉明にしてしかり。ましてその他の者には心を許しては大変なことになる』ということをいっているのである。」
(3)


 元和偃武(げんなえんぶ)が成ったとはいえ、乱世に育った大名たちがまだまだ多かった当時。徳川氏が覇権をにぎったとはいえ、まだまだ油断ならない時代だったのだ。


【参考】
(1)
『寛政重脩諸家譜・第5輯』1923年、國民図書、P.23〜25。
(2)以上、小柴研斎『武林隠見録・1』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027、「東照宮御不例重らせらるゝニ付諸侯へ被 仰渡之事」による。
(3)司馬遼太郎『覇王の家(後編)』1973年、新潮社、P.269。
2023年8月31日(木)
家康、大見得をきる
 家康の病状はその後悪くなるばかりだった。

 元和2(1616)年3月28日頃、家康は与安法印(片山宗哲)を呼んで薬を調合させた。しかし、これを服用したところ、残らず吐瀉してしまった。体が薬さえ受けつけない。もはやこれまでと悟った家康は、病床に秀忠を呼び寄せた。また、外様大名たちを呼び出して以下のように申し渡した。


「わしの寿命は目前に迫っているが、すでに秀忠が将軍として政務をみているので後顧の憂いはない。

 ただし、もし将軍が非道な政治をするようなことがあれば、お前たちのうちで誰なりとも、天下の権を奪うがよい。天下は将軍ひとりの天下ではない。天下の天下なのだ。

 よって早々に帰国せよ。そして将軍から下知があり次第、江戸に参勤せよ。」  


 諸大名たちは帰国を許されたことに驚きを隠せなかった。

 このような場合、家康死去の機会を狙っての謀反を恐れ、外様大名たちを国元へ帰さぬのが常識だ。外様大名とは、関ヶ原合戦以後に家康に臣従した大名たちをいう。それ以前は、家康の傍輩だったり敵だったりした者たちで、徳川氏に臣従してからの日も浅い。信用のおけない連中なのだ。現に、豊臣恩顧の大名福島正則などは、ここ数年間江戸に留め置かれて、国元に帰ることを許されていないではないか。


(家康の)薨御(こうぎょ)あらば、五三年(ごさんねん。数年間)も国大名(国持大名。多くは外様大名)在江戸(ざいえど)たるべし」


と覚悟を決めていた外様大名たちは、こたびの「大度(たいど)の鈞命(きんめい。家康の命令)」に驚き入るばかりだったという。

 もはや徳川氏の天下は動かない。そんな自信を見せつけるために「天下を奪えるなら奪ってみろ」と、家康は外様大名たちに大見得を切ってみせたのだろう。


【参考】
・小柴研斎『武林隠見録・1』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027。「東照宮御不例重らせらるゝニ付諸侯へ被 仰渡之事」。
2023年8月31日(木)
家康、発病する
 年老いてからも意気盛んだった家康は、健康オタクだった。

 ふだんから食事に気をつけ、薬も自ら調合し、運動も盛んにおこなった。運動のなかでも生来鷹狩りを好み、その生涯における放鷹回数は1,000回以上と推測されている
(1)

 そんな家康が、元和2(1616)年正月に突然発病し、その3ヶ月後の4月17日には帰らぬ人になった。

  次は『武林隠見録』巻之一の「神君御病根之事」。家康の発病原因(?)が書かれてある(神君とは家康のこと。家康は死後、神にまつられて東照神君・東照宮などとよばれた)。


一、元和二年の春、京都より茶屋四郎次郎駿府へ参勤仕候処(さんきんつかまつりそうろうところ)、参州(さんしゅう。三河)以来御用達し、御懇意を懸(かけ)られし者故(ゆえ)に御目通へ召出されて御雑話の序(ついで)


「何ぞ上方に珍敷
(めずらしき)がはやる」


と仰
(おおせ)ければ、


「大坂・京都両所共に鯛を油あげに仕、料理致し候得
(そうらえ)ば、扨々(さてさて)其味至極能(そのあじしごくよく)、諸人賞味仕候(しょにん、しょうみつかまつりそうろう)」


と申上る。

 折しも榊原内記が領知、久能より新敷鯛
(あたらしきたい)を献上す。則御料理仰付られ、油あげにして召上らるる処(ところ)に、夫(それ)より御腹痛ありし。是(これ)御病根と云(いう)(2)



 元和2(1616)年、正月21日、家康は駿河国の田中に鷹狩りに出た。この鷹狩りには茶屋四郎次郎が供をしていた。

 茶屋家は徳川家の呉服師。糸割符貿易や安南(ベトナム)貿易で巨富を蓄積した豪商だ。茶屋家の当主は代々四郎次郎を名乗り、この時は3代目清次(?〜1622)だった。

 さて家康は、懇意だった四郎次郎との雑話のついでに


「何ぞ上方で、めずらしいものが流行っていないか。」


と尋ねた。四郎次郎は


「大坂・京都ともに、鯛を油で揚げた料理が流行っております。非常に美味なので、だれもが賞味している次第です。」


と答えた。ちょうどこのとき、榊原内記(榊原清久)の領知から新しい鯛が献上された。そこで早速鯛を調理させて食べたところ腹痛を起こしてしまった。これが家康の病根という。

 実際、鯛を食べたその夜、家康は痰をつまらせ床に伏している。しかし、この時の鯛の揚げ物が直接の原因だったか、真偽のほどは不明だ。家康は翌22日にはいったん回復し、しばらく田中にとどまったのち、25日には駿府へ戻っている(3)


【注】
(1)金子浩昌外『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.103。
(2)以上、小柴研斎『武林隠見録・1』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027。「神君御病根之事」 の項。
(3)
藤井譲治『徳川家康』2020年、吉川弘文館(人物叢書)、P.389。
2023年8月30日(水)
大坂状
 大坂状は江戸時代初期に成立した往来物のひとつ。往来物とは手紙の体裁をとった教科書のことで、寺子屋などで手習いに使用された。その内容は、大坂の役(1614、1615年)前夜における家康・秀頼間の往復書簡という体裁をとった創作物。このうち、秀頼の返状の概要は次のようなものだ。


 家康の無理難題はいささかも承服できない。先年(1603年)石田三成が自身の一存で関ヶ原の戦いをおこしたとき、私に逆心があったといいがかりをつける。当時幼少だった私に、どうして別心などあろうか。家康の嘘つきは前代未聞だ。太閤の厚恩を忘れ、私に一カ国も与えず孤立させて滅ぼそうとたくらんでいる。もはや私は一国一城なりとも日本を引き受け、死ぬ覚悟だ。もしも神仏がこの願いを納受するなら、家康・秀忠親子の命はないだろう。一戦におよぶ時を待つ。


 秀頼の返状であるから、当然のことながら家康に好意的なはずがない。返状の中で家康を「表裏侍」(裏表のある侍。嘘つき侍)と罵倒している。

 しかし、これはある意味おどろきだ。

 なにしろ江戸時代といえば、徳川氏への批判が一切封じられていた時代だ。そんな時代に、家康の悪口を書いた教科書が、あちこちの寺子屋で堂々と使用されていたのだから。


【参考】
・『新版 大坂状』、望月文庫(東京学芸大学附属図書館)、請求記号T1A0/32/57、
識別子http://hdl.handle.net/2309/00178548による。

 秀頼の返状の原文は以下の通り。

「芳墨令披見(ほうぼく、ひけんせしむ)。被仰越之難題之旨(おおせこささるるのなんだいのむね)、聊可承引事無之(いささかもしょういんすべきこと、これなし)。
 然而父太閤(しかりして、ちちたいこう)、秀頼及十五歳(ひでよりじゅうごさいにおよばば)、天下可相渡旨(てんかをあいわたすべきむね)、日本諸侍(にっぽんしょざむらい)、数通之起請文上候事(すうつうのきしょうもんあげそうろうこと)、不可有紛(まぎれあるべからず)。
 然処先年石田治部少輔(しかるところに、せんねんいしだじぶのしょうゆう)、一身以才覚(いっしんのさいかくをもって)、雖覆天下(てんかをくつがえさんといえども)、為不運(ふうんにして)、不遂本望(ほんもうをとげず)。其次国々乍窺異見云(そのついで、くにぐにいけんをうかがふといいながら)、秀頼逆心之体(ひでよしぎゃくしんのてい)承候(うけたまわりそうろう)。何幼少而有別心哉(なんぞようしょうにして、べっしんあらんや)。
 併家康表裏侍(しかしながら、いえやすひょうりのさむらい)、前代未聞候(ぜんだいみもんにそうろう)。早晩太閤之忘厚恩(いつしかたいこうのこうおんをわすれ)、秀頼一ケ国茂不宛行(ひでよりにいっかこくもあておこなわず)、孤成可討果計略(みなしごとなし、うちはたすべきけいりゃく)、不及是非(ぜひにおよばず)。
 一国一城共(いっこくいちじょうなりとも)、日本引請後代之事(にほんひきうけ、こうだいのこと)、尸上可為面目(かばねのうえのめんぼくたるべし)。若関白叶天道正理(もし、かんぱくてんどうしょうりにかない)、仏神三宝之納受有之者(ぶっしんさんぽうののうじゅこれあらば)、将軍父子之露命可危者也(しょうぐんふしのろめい、あやうかるべきものなり)。猶期一戦之節候(なお、いっせんのせつをごしそうろう)。恐惶謹言(きょうこうきんげん)。」
2023年8月28日(月)
鍋をうち砕く
 ある時、松平越中守が老中たちに料理をふるまう機会があった。その時、料理人が鶴の汁物をこしらえたが、鳥が古かったのだろう、料理から変な臭いがした。すると料理人はそのまま鍋を庭へ持ち出すと、その場で打ち砕いてしまった。人びとが驚き騒ぐなか、料理人は、

「いや、乱心したのではありません。

 この鶴は少し古かったのですが、ほかによい材料がなかったのでとりあえず料理してみました。しかし、今日の南風のせいでさんざん臭(くさ)くなってしまったので、これを出すより鍋を打くだいた方が皆様のもてなしになろうと思ったのです。代わりにざくざく汁を出しましょう。

 私はこれより戻り、切腹の沙汰を待つことにします。」

と言うと、さっさと帰ってしまった。

 この話を聞いた越中守は激怒した。

「料理が済んだなら、そいつを下げ切りにしてやる。」

 この時、老中の秋元但馬守(喬知。1649〜1714)が越中守に対し、意外な申し出をした。

「鍋を打ち割った料理人の器量は、あっぱれ、頼もしい。その料理人は私がもらいうけたい。」

 越中守は

「罪人を差し上げることはできません。ご容赦ください。」

と答えた。すると秋元は、

「それならば、料理人はお取り立てになってお使いなさるべきです。御用に立つ者です。」

と言った。

 老中が誉めた者を、無下に処罰するわけにもいかない。越中守は料理人を呼び出すと、百石加増して馬廻り役に抜擢したのだった。

 松平越中守は短慮な人だった。あのままでは料理人は本当に「下げ切り」にされたかも知れない。秋元但馬守の機転のおかげで、料理人は加増されたばかりか出世までしたのだった。


【参考】
・『掃聚雑談・1』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0142、「松平越中守事」による。
2023年8月26日(土)
白石の逸話(2)
 白石が将来大儒となることを見込んだ河村瑞賢が、その娘を家つきで白石に嫁がせようとしたところ、白石がその申し出を断ったとする有名な逸話。しかし、実際は瑞賢の娘ではなく孫娘。白石の学友だった瑞賢の子通顕(みちあき)が、亡兄政朝(まさとも)の娘を白石に娶(めと)らせたいと希望したものだったとされる(1)

 この逸話のねらいは、貧窮にあっても学者をめざし続けた白石の志を賞賛する点にあるのだろう。しかしながら、若い白石を評価して縁談をもちかけた瑞賢の人物を見る確かな目、白石の方で絶交を宣言しながらも白石が仕官すると祝いの品を贈った瑞賢の度量の大きさ。これらの方が、むしろ強く印象づけられる逸話となっている。

 さて、高い学識を有する白石は、相手を徹底的に論破する「議論の鬼」だったという。また、思い詰めると、信ずる道を一途に突き進む頑固者でもあったようだ。

 たとえば、白石が6代将軍家宣の侍講だったときのこと。勘定奉行荻原重秀の罷免をたびたび進言したことがあった。重秀は悪人である、今すぐ罷免すべきだ、と。しかし、家宣は重秀の才を惜しみ、白石の要求を拒絶した。そこで白石は「かかる姦邪(かんじゃ)の小人、用ひさせ給ふの御あやまりを十条」記した意見書を家宣に提出。白石の「言(げん)の激切(げきせつ)なる」ことに気圧(けお)された家宣は、ついに重秀を罷免せざるを得なかった(2)

 そんな白石の狷介(けんかい)な性格を見ぬいたのだろう。白石が牧野家に仕官したときの傍輩が「幕府の儒官ならいざ知らず、ふつうの大名家に仕官すれば、いずれ災厄に遭うだろう」と白石に忠告
(3)。白石もまた、己をかえりみて納得するところがあったのだろう、その傍輩の忠告に謝意を表している。

 新井白石は、6代・7代将軍のもとで「正徳の政治」を推進し、将軍家宣への日本史講義ノートである『読史余論(とくしよろん)』や大名諸家の系譜『藩翰譜(はんかんふ)』など多数の著作を残した。もしも、白石がふつうの大名家に出仕していたなら、これらの業績はなかったはずのものだ。


【注】
(1)古田良一『河村瑞賢』1988年(人物叢書新装版。初版発行は1964年)、吉川弘文館、P.82〜83。また新井白石著・羽仁五郎校訂『折たく柴の記』1949年(改版。初版は1939年)、岩波文庫、P.68〜70 。
(2)『折たく柴の記』前出、P.166〜167 。
(3)白石は天和3(1683)年に堀田家(当主は大老の堀田正俊)に仕官したが、その後正俊が江戸城内で若年寄の稲葉正休に殺されると、堀田家は国替を命ぜられ古河・山形・福島と各地を転々とした。こうして不幸がうち続き財政も逼迫した堀田家では、家臣も貧窮に苦しみ離散していった。この時白石も堀田家を退き浪人したのである。
2023年8月25日(金)
白石の逸話(1)
 新井白石が浪人していた時、本町に住み文筆で生計を立てていた。富商の河村瑞賢とは懇意で、白石はよくその屋敷に出入りしていた。

 瑞賢にはひとりの娘がいた。瑞賢が白石に、

「屋敷をつけて、娘をあなたに嫁がせよう。」

と言うと、白石は

「あなたの婿になるのは小さな疵(きず)である。のちに私が出世すれば大きな疵となる。お許し下さい。」

と答えた。

「こんなことを言ったので、ご立腹でしょう。今後、あなたのお宅には出入りいたすまい。」

といって二度と行くことはなかった。その後、白石は堀田正俊家に500石の俸禄で仕官が決まった。堀田家での面接が済んだあと、白石は瑞賢のもとへ使者を送り、

「今まで懇意にしていただきましたゆえ、仕官したことをお知らせいたします。」

と言わせた。瑞賢は

「めでたいことだ」

と言って、白石に祝いの柚餅(ゆずもち)をおくったという。

 さて、堀田家に勤めていたときのこと。心安くしていた傍輩が、

「話したいことがある」

とたびたび言う。

「たとえ、同意できないことだしても聞いておきましょう。お話し下さい。」

と言うと、傍輩は

「この屋敷を出て、すぐに浪人しなさい。さもなければよくないことが起こりましょう。」

と無理にも言うので、白石は浪人して再び町宅へ引き移っていた。その後、あの傍輩が訪ねてきて、

「今はもう安心です。しかし、またほかの大名家に奉公したなら、同じことになるでしょう。幕府の儒者になるなら話は別ですが、あなたは大名家の奉公には向かぬ人です。奉公すれば不幸な目にあうでしょう。」

と言った。白石は、身に覚えがあったのだろう、

「ご忠告、ありがたく存じます。」

と礼を述べた。

 その後、甲府(徳川綱豊。のちの6代将軍家宣)への出仕が決まり、主君が6代将軍になると江戸に御供して千石を領し、筑後守に任ぜられた。


【参考】
・『掃聚雑談・1』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0142、「荒井筑後守君美事」による。なお、原文は以下の通り。

 
荒井筑後守(新井白石)、浪人の時は本町にて筆耕して歩行しに、河村随見(河村瑞賢)へ懇意に立入る。随見、壱人の娘あり。 「町屋敷を添(そえ)て伝蔵〈割注「筑後守初の名〉へやらん。」 と言へば、 「貴殿聟(むこ)に成るは小疵なり。後に我等(われら。自分の一人称)立身すれば大疵なり。御免あれ。」 と云ふ。 「かく申(もうさ)ば御腹立(おはらだち)あらん。向後(こうご)、出入致すまじ。」 とて重て行ず。其後(そのご)、堀田筑前守(堀田正俊)へ五百石にて呼出さる。相済て随見へ使を遣し、 「懇意に預(あずか)りし故、知らせ申也(もうすなり)。」 と云(い)ひ送る。随見、目出度(めでたし)とて柚餅(ゆずもち)を送るとなり。

 堀田家に勤め居しに、心安き傍輩一人来て、 「異見あり」 と度々(たびたび)云(いい)ける故(ゆえ)、 「たとへ互(たがい)にあはぬ事なりとも用ゆべし。咄(はな)され候(そうら)へ。」 と云ふ。此人(このひと)申(もうす)は、 「此(この)屋敷、早く浪人あれ。左(さ)なくば宜(よろし)かるまじ。」 とわりなく申(もうす)ゆへ、夫(それ)より浪人して又町宅へ移りしに、彼人来りて、 「今は御安堵(ごあんど)也(なり)。此上にも外(ほか)へ奉公あらば、同じ事なり。御家人の御儒者は格別、家中の奉公ならぬ人也。奉公あらば不幸あるべし。」 と云ふ。伝蔵、身に覚へこそ有つらめ、 「御異見、忝(かたじけな)し」 と一礼を述(のぶ)ると也。

 其後甲府(徳川綱豊。のちの6代将軍家宣)へ被召出(めしだされ)、夫より御供して千石を領し筑後守にはなりたりける。
2023年8月24日(木)
女奉公人の採用
 『野翁物語』に宝暦(1751〜1764)頃の女奉公人の採用方法が書いてある。


「女の奉公人は三月六日・七日の頃、幾人(いくにん)共なく連来るを、其中(そのかな)にてやうすも知たる相応の者を召留て飯に付る。夕方なれば翌日呼て仕事をさせ、または呼出し側にて遣(つか)ひ、試たる上にて請状(うけじょう)する事、定式(じょうしき)(なり)

 飯焚女
(めしたきおんな)は、田舎より夥敷(おびただしく)連来りて我勝(われがち)に奉公を望故(のぞむゆえ)に、此方より召する事はなし。いつ共なく飯焚女(めしたきおんな)少くなりて、所々を頼(たのみ)て漸(ようやく)(かかえ)る事となり、夫(それ)につれて女奉公人、前の如(ごと)くならず、五三日(ごさんにち。数日間)も宿にて休息し、それより目見(めみえ)に出る。此方(このほう)にては召仕(めしつか)ふ人にはこまり居(お)る故(ゆえ)、来るを幸(さいわい)に相談して、得(とく)と見もせずしてあわてて召抱(めしかかえ)る事と成たるは近来の事也。」


 上記の史料は、宝暦年中頃の女奉公人について書かれたものだ。奉公人は事前に試用して、その仕事ぶりを確かめてから採用するのがきまったやり方だった。ところが、かつては田舎から大挙押しかけてきていた飯炊女(飯炊きに雇われる下女)でさえ、いつのころからか希望者がめっきり少なくなり、雇用者側は来るを幸いに人柄をしっかり見きわめもせず、あわてて採用する始末だという。

 この女奉公人は、短期契約の出替奉公(でがわりぼうこう)だろう。出替奉公は1年契約または半年契約がふつうで、それぞれ一季居奉公人(いっきおりほうこうにん)・半季居奉公人(はんきおりほうこうにん)と呼ばれた。

 上記史料には「三月六日・七日の頃」、江戸に奉公の希望者を連れてくると書いてあるが、出替奉公の切替え日は3月5日(または9月5日)と決まっていた。期日を固定したのは、無職者を江戸から一掃するための治安上の理由からである。

 「江戸中の白壁(しらかべ)は皆旦那」という言葉がある。大店(おおだな)がひしめく江戸では新参者(しんざんもの。新入り)でも奉公先に事欠くことはなかった。裏を返せば、需要は常にあったのだ。だから、地方からの奉公人の供給が減ると、たちまち人手不足に陥ってしまったのだ。


【参考】
・『野翁物語・5』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0099「百廿七 奉公人の事」。
2023年8月23日(水)
大仰な名乗り
 酒井讃岐守の知行地若狭国小浜に、畠山左衛門佐(はたけやまさえもんのすけ)という百姓がいた。 百姓には似つかわしくない、名門の武士のような名乗りだった。いかなる理由か不明だが、先祖代々このように名乗ってきたのである。

 ただ、あまりにも大仰な名前だ。役人の方でも、殿様にでもいそうな立派な名前を呼びあげて、その百姓に命令するのに違和感があったのだろう。そこで左衛門佐に対し、百姓らしい平凡な名前に改名するようたびたび申し入れをしてきた。しかし左衛門佐は、先祖代々継承してきた名乗りだったので、あえて取り合おうとしなかったのである。

 そこで、領主の酒井はその百姓を呼び出すと、次のように申し聞かせることにした。


(畠山左衛門佐という名乗りは、いかにも)百姓の名には不相応(ふそうおう)(なり)。併(しかし)、先祖より名乗来(きた)るとあれば、今更(いまさら)変名(へんめい。改名)せんもう(憂)かるべし。

 然(しから)ば今迄(いままで)の家名を転倒(てんとう。ひっくりかえ)して、山畠助右衛門(やまばたけすけえもん)と変名せよ。」



 左衛門佐は畏(かしこ)まって酒井の提案を承り、以後「山畠助右衛門」と名乗ったのだった。

 ところで、畠・山を引っくり返すと山・畠だが、左衛門・佐を引っくり返すと助・左衛門のはずだ。助・右衛門だと左右までもが転倒してしまっている。領主の命令だからといって、左衛門佐はこの改名に本当に納得したのだろうか。

 「海」とか「陸」とか「空」とかとてつもなく大仰な名前であっても、他から文句を言われない現代は幸せである。


【参考】
・『茶飲夜話集』写本、明和3年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0027、「酒井讃州頓智の事」。
2023年8月22日(火)
フグ料理
 江戸時代の大名は大身であっても、常にうまい物を食べていたというわけではなかった。

 ある日、藤堂和泉守が客の相手をしていると、たまたま料理の話題になった。客のひとりが、


「鰒(ふぐ)ほどうまき物は世になし。毒あるやうに申せども、却(かえっ)て薬のやうに思はる。」


とフグ料理の絶品なることを吹聴した。和泉守はついぞフグを食べたことがなかった。そこで客たちと期日を約し、和泉守邸でフグ料理を賞翫することになった。

 約束の当日、フグ料理が振舞われた。しかし、それはフグとは違う種類の魚料理だった。何かの手違いだろう。客のひとりが台所へ確認しに行った。

 料理人頭は吉河三右衛門という男だった。しかし吉河は「あれはフグだ」と言い張る。客は「いやいや、フグではない」と言う。押し問答になった。すると、吉河は顔をしかめて次のように言った。


「旦那(だんな)は大名。もしあたつた時は、料理人申分けもなし。惣体(そうたい)大名へ御出(おいで)、喰物(くいもの)の事御差図(おさしず)御無用也(ごむようなり)。家の風儀ある也。重て喰物咄(くいものばな)し御無用可然(しかるべし)。」

(わが主人は大名である。万一フグ毒に当たりでもすれば、料理人たちは申しわけが立たない。そもそも大名家を訪問して、食事のことを指示されるのはやめていただきたい。当家には当家のならわしがある。重ねて、食物に関する話題はご無用にされたい。)



 その日の「フグ汁」はアイナメを調理したものだった。

 大名は多くの使用人を抱えている。興味本位で本物のフグ料理に手を出し、命を落とすことにでもなれば最悪その家は潰れ、何百人もの家臣やその家族たちが路頭に迷う。客は、吉河の正論に返す言葉がなかった。

 本物のフグ汁を食べ損なった和泉守は、吉河の判断を


「尤(もっとも。なるほど、その通りである)。


と評価した。それで、吉河には200石を加増したのである。
(1)

 なお、フグの猛毒を知りつつも、ついつい誘惑に負けてそれを口に運んでしまう先人たちは多かった。命拾いしたからこそ、次の俳人たちの句が残っているわけだ。
(2)  


   あら何ともなきのふは過てふくと汁   芭蕉

   河豚汁の我いきてゐる寝覚めかな   蕪村


【注】

(1)以上、『掃聚雑談・1』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0142。「藤堂和泉守料理人事」、21コマ目。
(2)俳句は、岩満重孝『百魚歳時記』1980年、中央公論社(中公文庫)、P.227からの引用。
2023年8月21日(月)
日本の利得
 第一次世界大戦が終了すると、1919年、パリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が調印された。高校日本史教科書によると、この時戦勝国の一員だった日本には、次のような二つの利得があった。


「日本はヴェルサイユ条約によって、山東省の旧ドイツ権益の継承を認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。」(山川出版社刊『詳説日本史』2016年発行版、P.326による)


 大学入試でよく出題されるので、受験生はこの項目を丸暗記する。しかし、これら利得の重要性について、教科書には何も書かれていない。そこで、これら二つの利得の意味するところを確認しておきたい。  

 まずは、山東省の旧ドイツ権益の継承について。

 これは、青島(チンタオ)と済南(チーナン)を結ぶ膠済(こうさい)鉄道を日本が入手したことが重要。これで日本は、海上と陸上(青島-済南-天津-北京)から中国の首都北京を、政治的・経済的・軍事的に攻略可能となった。ゆえにこの直後、旧ドイツ権益の中国への直接返還を求める五・四運動がおこるなど、中国側の激しい反発を招くことになった。

 次に、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権について。

 日露戦争後、日本の南満州権益独占にアメリカが反対して、日米関係が急速に冷え切っていった。そうしたなか、1906年にはサンフランシスコで日本人学童の入学拒否事件がおこり、またカリフォルニアを中心にアメリカ各地で日本人移民排斥運動が激化していった。こんな状況では最悪の場合、日米開戦の可能性もある。もしも日米戦を想定するならば、旧ドイツ領南洋諸島を日本支配下におくことには意味がある。同地は太平洋を横断する要衝に位置するからだ。

 なお、日本と日英同盟を結んでいたイギリスは、日米関係の悪化によって自らがアメリカとの戦争に引きずり込まれることを恐れた。四カ国条約締結(1921)による日英同盟の廃棄は、そうしたリスク回避の意味があった。

 またイギリスが、赤道以南の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を獲得したのは、オーストラリアやニュージーランドなどイギリス連邦諸国を日本の南下から防衛するための予防措置でもあった。


【参考】
・加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』2009年、朝日出版社、P.196〜198・204〜206
2023年8月20日(日)
親の仇の出世を願う
 『雑事記』にある逸話である(1)

 永井伝八郎(永井直勝。1563〜1626)は長久手合戦(1584)において、秀吉方の武将池田勝入(池田恒興。1536〜1584)の首をあげた。徳川方で一番の功名だったと言ってよい。この大功により、永井は6千石の旗本に取り立てられた(2)

 これに不満を持ったのが、池田勝入の次男池田輝政(1563〜1613)だった。


「父勝入を討しは永井伝八郎と云(いう)小冠者(こかんじゃ。若造)なれば、世間の唱も面目なし」


と思ったのだ。

 猛将だった父が、たかだか22歳の無名の若造に討ち取られたのだ。無念としか言いようがない。おまけにその褒賞は6千石と聞く。6千石は高禄ではあったが、輝政にしてみれば「猛将と恐れられたわが父の首は、たった6千石の価値しかなかったのか」と、悲嘆の種でしかない。これでは世間に顔向けできぬ。

 そこで、輝政は家康に次のように申し入れた。


「御旗本に永井伝八郎と申(もうす)若武者(わかむしゃ)、御存知の通(とおり)、父勝入を討取候(うちとりそうろう)は無比類(ひるいなき)御忠義に奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)

 此者
(このもの)を御取立被下(おとりたてくだされ)、大名に被成下候(なしくだされそうら)はば、亡父(池田勝入)の威光にも可罷成(まかりなるべく)と奉存(ぞんじたてまつる)。」  


 これを聞いた家康は、


「其方(そのほう)申所(もうすところ)、尤至極也(もっともしごくなり)。」


と答えると永井を大名に取り立て、常陸国笠間藩(現、茨城県笠間市)にて7万石を与えたという
(3)

 池田輝政は父の「威光」を守るため、親の仇である永井を大名に出世させるよう家康に要請したのだ。


【注】
(1)石川勝任編『雑事記』写本、天保8年〜、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0032。No.362「永井伝八郎池田勝入を討取事、永井伝八郎御取立の事」 による。
(2)実際は5千石だった。
(3)
『雑事記』のこの記述は事実と異なる。永井が笠間藩藩主(3万2千石。のちに2万石加増)となったのは家康没後の元和3(1617)年のこと。7万2千石を領するのは下総古河藩主となった元和8(1622)年のことである。ともに、長久手合戦(1584)からはるか後年のこととなる。      
2023年8月19日(土)
雪笹の太刀
 長久手の戦い(1584)で、秀吉方の武将池田勝入(池田恒興。勝入は入道名。1536〜1584)を安藤彦兵衛(安藤忠次。1555〜1635)が鑓で突き留めた。そこへ永井伝八郎(永井直勝。1563〜1626)が飛びかかり、勝入の首を取った。

 この時永井は、のちの首実験の際の証拠として、勝入が帯びていた太刀を分捕った。この太刀は「雪笹」という名前だった。

 この太刀については、『明良洪範』に次のような記載がある(原文には句読点がない。読みやすくするため、漢字は現行のものにあらため、適宜句読点等を補った)。


「勝入(池田恒興)の長久手にて討死の時帯せし刀は、和泉守兼定の作、二尺三寸三分(約70.6cm)ありて乱れ焼なり。

 以前、池田家にて大小の類(大刀・小刀の類)をためしけるに(死体を試し斬りしたところ)、ふじ身の者(頑強でなかなか斬れない死体)ありて切れざりしを、片桐與三郎(かたぎりよさぶろう)と云(いう)近習(きんじゅう)の差したりしにてためしければ(近習が腰に差していた太刀で試し斬りにしたところ)、快く切(きり)し故(ゆえ)、又々(またまた)死人の切口(きりくち)より青竹をし通(とお)(真っ二つに斬った死体の切り口に青竹を通して元のようにし)、片桐を寄で切らせられしに、土壇(どだん。斬首刑を行うために築いた土の壇)(まで)切落しける故、勝入、其(その)刀を所望(しょもう)せられ(片桐から譲ってもらい)、「篠(ささ)の雪」と名付(なづけ)、中ご(茎。日本刀の柄の中にはいる部分)に「片桐與三郎、二つ胴を落す」と象眼(ぞうがん)入りあり。」(1)



 この太刀を「雪笹」または「篠の雪」と命名したのは、「払へば落るといふ心」(2)からだという。

 笹に積もった雪を払うように、この太刀はたやすく首を落とすことができる、という意味なのだろう。


【注】
(1)
真田増誉『明良洪範:25巻、続篇15巻』1912年、国書刊行会、P.285〜286
(2)石川勝任編『雑事記』写本、天保8年〜、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:213-0032。No.362「永井伝八郎池田勝入を打取事」。
2023年8月17日(木)
素知らぬ体をする
 家康の人使いの極意は「素知らぬ体(てい)」をすることだった。『故老諸談』には次のようにある。

 上に立つ者は心を大きくゆったりともつべきで、些細なことに目くじらを立ててはならない。人を使うにはそれぞれの長所を用い、短所についてはやむなしと思い、目をつぶるべきだ。

 武田信玄や上杉謙信が有能な部下を誅殺(ちゅうさつ)してしまったのは、すべて猜疑心(さいぎしん)よりおこったものだ。生かしておけば、必ずや股肱(ここう)の臣となるべき者たちだったのに、彼らを殺してしまったのはその度量が狭かったからだろう。

 さて、わが一族をはじめ譜代の家来たちは、多くは敵方に加担したり日和見を決め込んだりと、役に立たない連中が多かった。しかし、わが武運が開けてくると、みんなが自分に従って軍忠に励むようになった。

 それもこれも、自分が素知らぬ体をしたからだ。素知らぬ体をして彼らを使ったので、みんな忠実な家来となり、軍功をあらわしたのだ(我、そしらぬ体(てい)をし、能(よく)つかひしかば、皆股肱(ここう)となり勇功を顕(あら)はしたり)、と。

 かつて、三河で一向一揆がおこった時、家臣たちの大部分は敵方の本願寺に走り、主人の家康に刃向かった。しかし、家康は一揆を平定すると、帰参した家臣たちを何事もなかったかのように受け入れ、以前のように使ったのだった。信玄や謙信だったなら、裏切り者たちを決して容赦しなかったに違いない。

 つまり家康は、「一族を初(はじめ)普代の郎従共、多くは敵方に与力(よりき)し、或は日和(ひより)を見合」という彼らの過去(古傷)には一切触れず、「素知らぬ体」をして彼らを受け入れたのだ。そうした家康の配慮が、家臣たちの強い忠義心や、死に物狂いの軍功につながったのである。


【参考】
・『故老諸談・1』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0167、6〜7コマ。参考までに、原文(全文)を次に示す。なお、読みやすくするため句読点・濁点等を適宜付してある。

「一、本多豊後守(本多康重。1554〜1611)物語に、東照君(家康)、或夜(あるよ)話の序(ついで)に宣(のたま)ふ。

 惣じて大将たらん者は、物事に付て大法器量を宗(むね。おおもと)とし、胸中に余地あり。指(さし)て大節を破らずんば、外(ほか)の瑣細(ささい)なる義は捨(すつ)べきことぞかし。

 水至(いたっ)て清ければ魚すまず、人至て察すれば交(まじわり)なしとかや。人を遣(つか)ふにはそれぞれの善所を用ひ、外の悪きことは叶(かま)はぬ成(なる)べしと思ひ棄(すつ)べし。

 天地の間を見よ。馬牛有て人の用を達すれば、虎狼有て人を害す。薬草を生ずれば、毒草も生ず。いか様、善き者もまた悪しき所あらんか、悪しき所にも事に依(より)て用(もちい)る品あれば、たやすく捨(すつ)べからず。

 武田信玄が海勢(海平の誤りか)頼平・望月幸義を亡(ほろぼ)し、上杉謙信が長尾義景(長尾政景か)・同謙忠を討(うち)し事、皆疑心より起(おこり)て再び思慮をねらず。さしも親しき一族にて、我股肱(ここう)とも成べき者を捨たる。胸中の狭き故(ゆえ)ならん。

 されば、我父広正(広忠の誤り)公の御時、病身に渡らせ給ふにより、武道少(すこし)衰(おとろえ)たり。一族を初(はじめ)、普代の郎従(ろうじゅう)共、多くは敵方に与力(よりき)し、或は日和(ひより)を見合、我幼少の頃迄用に立ざる輩(やから)多かりしが、我武運時来、皆随従(ずいじゅう)し軍忠を励む。

 我、そしらぬ体(てい)をし、能(よく)つかひしかば、皆股肱(ここう)となり勇功を顕(あら)はしたり。

 若(もし)、彼信玄・謙信のごとく、昔年の疑(うたがい)を挟み、事に寄(よせ)て誅(ちゅう)しなば、天下に手をひろげし時、羽翼(うよく)乏く、旧好すくなかるべきに、我汪洋(おうよう。ゆったりとして広大なさま)なる胸中を専(もっぱら)としければ、虎狼も牛馬の用をなし、毒草却(かえっ)て薬種となれり。

 但(ただし)、士卒を遣ふには、胸中汪洋にして、心の曲尺(かね)を忘るべからず。胸中狭ければ、疑心多し。疑心あれば、人を多(おおく)遣ひがたし。
2023年8月15日(火)
眼気(がんき)(
 老中をつとめた小笠原佐渡守長重(おがさわら・さどのかみ・ながしげ。1650〜1732)は、気骨のある人だった。

 5代将軍綱吉が、寵臣の柳沢吉保(やなぎさわよしやす。1658〜1714)へ甲府城を下賜し、薙刀(なぎなた)御免を認めようとした。長重は、綱吉の不興を買うのを承知でこれに反対した。案の定、綱吉との関係は悪化した。

 6代将軍家宣の時代になると、能役者出身の間部詮房(まなべあきふさ。1666〜1720)が側用人として台頭した。長重は間部が気に入らなかった。そこで、


「眼気、悪敷候(がんき、あしくそうろう)(視力が衰えまして)


と言いながら、老中が連署する際の花押(かおう。サイン)をわざと見苦しく書きつけ、


「最早、加様に御坐候(もはや、かようにござそうろう)(目が見えなくなって、もはやこのような体たらくです)


と申し出ると、さっさと老中を辞めてしまった。その後、剃髪すると佐渡入道(後に峯雲(ほううん)と称す)と称し、悠々自適の隠居生活を送った。

 ある時、8代将軍吉宗から眼気(視力)の具合を尋られた。すると峯雲はすっとぼけて、


「御代(みよ)に罷成(まかりなり)、不思議に眼気宜敷罷成候(がんき、よろしくまかりなりそうろう)
(吉宗公の時代となりまして、不思議なことに視力が回復いたしました)


と答えた。

 峯雲は享保17年(1732)8月4日に亡くなった。当時としては86歳という長命だった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 小笠原佐渡守長重」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
 
2023年8月14日(月)
リストラ
 享保の改革を行なった8代将軍吉宗。財政再建をめざす上で、大奥の人員削減に着手した。

 吉宗に仕えた儒学者室鳩巣(むろきゅうそう)は、その書簡のなかで吉宗のリストラ手法を次のように書きとめている。

 吉宗から、大奥の「容色よき女中」を残らずリストアップするよう指示があった。「将軍側室になるチャンス到来」と期待した女中の父母たちは、大喜びして前祝いまでする始末。しかし、吉宗の口から発せられたのは意外な言葉。大奥で礼儀作法を身につけた美女たちは、世間では引く手あまた。だから彼女たちを解雇し、再就職の道が困難な「容色見悪(みにく)き女」ばかりを大奥に残すという。

 解雇される側としては、何とも文句がつけにくい逆説的な論理。鳩巣も「こんなことはついぞ聞いたことがない(かやうの義、終に不承事と奉存候)」と言っている。

 さて、該当する原文は次のとおり。読みやすくするため、句読点等を適宜補った。


 先日、御城中女中衆、御前代(前将軍の時代)より大分(だいぶ)有之候処(これありそうろうところ)


「容色よき女中をえらび候(そうらい)て、不残(のこらず)申上候様(もうしあげそうろうよう)に」


との事(こと)に候故(そうろうゆえ)


「定(さだめ)て御あたり可申歟(もうすべきか)


とて、容色有之(これある)女中の父母等(ふぼら)、殊の外(ことのほか)よろこび候(そうらい)て、前にいはひ(前祝い)(など)いたし候由(そうろうよし)、慥成事(たしかなること)にて候。

 五十人余名を記し候(そうらい)て申上候時(もうしあげそうろうとき)に、


「此分(このぶん)、いとま被下候(くだされそうろう)
 容色見悪(みにく)き女は、人の妻にも望申間敷候(のぞみもうすまじくそうろら)へば、御いとま被下候(くだされそうら)はば難義(なんぎ)に及可申候間(およびもうすべくそうろうあいだ)、容儀(ようぎ。顔立ち)悪敷分(あしきぶん)は其侭(そのまま)可被 召使(めしつかわるべし)


(よし)に候。

 かやうの義、終(つい)に不承事(うけたまわらざること)と奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)


【参考】

・室鳩巣『兼山麗沢秘策・4』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:204-0253、56コマ目。
2023年8月13日(日)
乱心の理由
 1700年代初めの頃、京都・大坂在番(大坂城などを警固する役目)となった番士(警固当番の武士)たちに、乱心する者が続出したという。

 乱心とは文字通り「心が乱れた」精神状態をいう。見境なく相手に斬りかかってケガをさせたり、殺したりした場合、多くは「乱心者」として処理された。

 なぜ、上方に赴任した番士たちに、乱心する者が多かったのだろうか。

 その理由は、番士の仕事があまりにも退屈だったからという。『続明良洪範』には次のようにある。


「京都・大坂在番の人々乱心するは、多くは御城内徒然(つれづれ。やることがなくて手持ち無沙汰なさま)のあまり酒狂せしを、乱心と申立(もうしたつ)


 時はまさに天下泰平の元禄時代。上方では豪商たちが自由な消費生活を謳歌し、元禄文化が花開いていた。そんな平和な時代に、上方や西国を軍事防衛する必要性などほとんどない。閑職だったのだ。だから番士たちは暇を持て余した。

 あまりにも退屈だったので、暇つぶしに酒でも飲むしかない。そうやって酒を飲み、酒に飲まれた連中が喧嘩口論を繰り返した。こうした醜聞が表沙汰になった場合、当事者たちの家名に傷がつかないように「乱心した」と申したてたのだ。

 しかし、相手を死亡させてしまった場合には、乱心者であっても切腹または死罪は免れない。

 あまりにも暇すぎると、ろくなことがない。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 秋元但馬喬朝」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。  
2023年7月30日(日)
忠孝の道
 5代将軍徳川綱吉(1646〜1709)は、代替わりの『武家諸法度』の第1条を、従来の「文武弓馬の道、専(もっぱ)ら相嗜(あいたしな)むべき事」から「文武忠孝を励(はげま)し、礼儀を正しくすべき事」に改めた。

 これ以降、武士に要求されるものが、武道を意味する「弓馬の道」から「忠孝」「礼儀」へと重心が移った。主君・父祖に対する「忠孝」と「礼儀」による上下秩序が、平和な時代の支配論理となったのである。

 このうち「忠孝」は、そもそも封建道徳の根幹をなすものだった。江戸幕府で大老をつとめた井伊直孝(1590〜1659)は、その教訓書の冒頭で


「人間一生の勤(つとめ)は忠孝の道也(なり)(1)


とまで述べている。

 それでは、なぜ武士は「忠孝の道」に励まねばならないのか。井伊直孝によれば、その論理は次のようなものだ。

 百姓・町人が昼夜をおかず苦労して働くのは飢寒を防ぐためだ。それでも飢寒に陥ることがある。それにくらべ、武士にはその憂いがまったくない。


「武士は生(うまれ)ながらの飢寒なし。みなみな父母妻子兄弟を養ひ、家来を使ひ、安楽にくらす。」(2)  


 それもこれも、実は主君や先祖のおかげなのだという。

 江戸時代の武士の給与は、将軍・藩主らから土地(石高で土地生産力を表示)または現米で支給された。支給額は先祖の功績によって決まっており、その家の子孫に対して代々一定額の給与(家禄)が支給された。後継者が絶えたり、当主がとんでもない不行跡でもしない限り、武士の生活は保証されていたのである。

 ゆえに、


「毎日食に向ひ、衣服を着る時、主君并(ならびに)先祖父母の恩徳を思ふべき」(3)


ということになる。こうして主君や先祖に対する「忠孝の道」の実践が、武士には要求された。

 しかし、そうは言っても、すべての武士が殊勝に「忠孝の道」を実践したわけではあるまい。先祖が忠臣であっても、不肖の子孫は必ず生まれるものだ。

 たとえば庄内藩に、知行500石を領する横山平六という藩士がいた。ふだんから平六は、鼻毛の先にトンボをくくりつけて周囲に見せびらかすなどの愚行を繰り返していた。自他ともに認める大馬鹿者だったのだ。 そんな平六が他人から馬鹿者扱いされると、「馬鹿でも五百石!」とうそぶいたという
(4)

 無能であっても500石もの家禄が支給されたのは、ひとえに御先祖様の勲功のおかげ。その事実を平六は、ほんとうに理解していたのだろうか。

 平六が主君や先祖に敬意を払い、常日ごろから「忠孝の道」を実践していたとはとうてい思えないのだが。


【参考】
(1)(2)(3)
『井伊直孝公御夜話』(『松のさかへ』巻之三所収、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:217-0024)
(4)柳角子著・古田忠義補『続編武林隠見録』寛延3(1750)序、巻之七「横山平六馬鹿者の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035
2023年7月21日(金)
リーダーの素質
 江戸時代に書かれた『茗話記(めいわき)』(著者不詳)という本がある。書名は茶飲み話の意。歴史上のさまざまな有名人を批評の俎上にあげ、それらを論断している。

 たとえば、『太平記』は新田義貞・楠正成ら南朝方びいきの記載が目立つ書物。しかし、そんな『太平記』でもよくよく読むと、世間が良将と評価する新田義貞よりも、凡将と見なされる足利尊氏の方が、すぐれたリーダーとして描かれているという。

 原文のまま次に示す。(読みやすくするため、旧漢字は現行漢字に改め、適宜句読点を付すなどした。)


 旧(ふる)き友の物語に、

「新田義貞(1301〜1338)は智勇兼備の良将(りょうしょう。立派な大将)なれ共、不運にして越前黒丸の城責(しろぜめ。城攻め)の時、流矢(ながれや)に中(あた)り討死(うちじにし、足利尊氏(1305〜1358)は庸将(ようしょう。凡庸な大将)なれ共、後醍醐天皇(1288〜1339)闇主(あんしゅ。暗愚なあるじ)(ゆえ)、人望に背(そむ)き給(たま)ふにより、終(つい)に天下を取れし如(ごと)くに今は世の人思ふ者多し。

 『太平記』に所載の事跡をつくづくと見るに、尊氏は大量
(度量が大きい)にして温和に、いかにも『天下の大器(たいき)』なり。

 毎々
(ことごとに)戦ひ敗北すれ共、人、蟻(あり)の如くに集(あつまり)(したが)ふ事、風に竹木のなびくが如し。大量にして財をおしまず、英雄豪傑の士には分に過(すぎ)て賞禄(しょうろく。ほうび)を与へ、小過(しょうか。ささいなあやまち)は空不知(そらしらざる)ふりをして咎(とが)めず。物毎(ものごと)に温和に事を捌(さば。手際よく処理する)く故なり。」(1)


 これに対し、義貞はリーダーとしては狭量(きょうりょう)であって、尊氏に及ばないという。

 また義貞は、「智勇兼備」の武将と世間では評されるが、実際、義貞が諸戦で勝利し得たのは、すべて弟脇屋義助(わきやよしすけ。1306〜1342)・執事船田義昌(ふなだよしまさ。?〜1336)・楠正成(くすのきまさしげ。1294〜1336)らの計略のおかげであった。しかも船田・楠らが戦死してしまうと、義貞は一度も戦いに勝利することができず、ついには越前で討死するしかなかった。

 したがって、尊氏と義貞のリーダーとしての優劣は、「是等(これら)を以(もって)考知(かんがえし)るべし」というのだ。


【注】
(1)『茗話記』巻之上、写本。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-04148。
2023年7月15日(土)
和子の入内
 元和6(1620)年6月18日、秀忠の八女和子(かずこ、まさこ。東福門院。1607〜1678)が、14歳で後水尾天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)した(4年後の寛永元(1624)年に中宮となる)。

 武家の娘の入内は先例がない。平清盛の娘徳子(建礼門院)の時は、後白河法皇の猶子(ゆうし。養子)になるという手順を踏んだ。したがって、鎌倉幕府草創以来、将軍の娘の入内などまったく先例のないことだった。

 そのため、公家側の反発も強かった。

 次は巷間に伝わる、そうした公家と武家とのせめぎ合いの逸話。藤堂高虎(1556〜1630)の活躍で和子の入内が実現したように書いてあり、事実ではなかろうが公武対立の雰囲気は伝わる。


 寛永年中、秀忠将軍の姫君入内の事に付て、御名代(ごみょうだい)として藤堂和泉守、京師(けいし。京都)に至りしに、諸卿(しょけい)評義(評議)の上、


「本朝(ほんちょう。わが国)、武家より中宮に入せられし、其例(そのためし)なし。」


とて既(すで)に事不行(ことおこなわれず)

 藤堂和泉守が吾妻男(あずまおとこ)のむくつけなる(無骨な。むさくるしい)を、若公家(わかくげ)生笑(なまわら)ひ罵(ののし)りければ、和泉守、素袍(すおう)の袖(そで)をかかげ、高欄(こうらん)のもとに大(だい)の眼(まなこ)を見開き、


「なに、今迄(いままで)武家より中宮に立給(たちたま)ひし例(ためし)なしとや。既(すで)に建礼門院は清盛の姫にあらずや。なま公家原(くげばら。公家達)、事(こと)の評義悪(あ)しきと、江戸将軍に伺ふに及ばず。悉(ことごと)く解官(げかん。官職を免ずる)して遠嶋・死罪、此(この)和泉守高虎が執計(とりはから)ふべき。」


と大声に呼(よばわ)りければ、其(その)(いきお)ひ、偏(ひとえ)に礬會(正しくは樊噲(はんかい)。鴻門の会で、機転により劉邦を謀殺から救った武将)がごときに恐れて評義一決して、将軍家の姫君入内ましまし、東福門院と申奉(もうしたてまつ)は此姫君の御事也(おんことなり)けり。 (1)



 なお、和子の入内総費用は70万石にも達した。これは薩摩・仙台両藩の1年分の年貢収入に相当するという。二条城から皇居へ運び込まれた長持・諸道具類だけで378荷にも及んだ。しかも、総奉行の土井利勝(1573〜1644)の指示で、諸道具などを京都の業者に発注する際、最も高値に見積もった者を選んだ。それが将軍家の威勢を示し、京都の繁盛にもなって、ひいては天皇を尊ぶことになるという理由からだった
(2)


【注】
(1)
『茶飲夜話集(写本)』明和3(1776)年筆写、「藤堂和泉守、智勇の事」 。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0027。
(2)内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 土井大炊頭利勝」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
【参考】
・辻達也『日本の歴史13・江戸開府』1974年、中公文庫、P.375〜376。
2023年7月14日(金)
大酒のみの秘密
 『茶飲夜話集』は、茶飲み話・暇な夜にする話、の意。気軽な話というだけあって、興味本位の話やうさん臭い話も多い。たとえば、次のような大酒飲みの話を載せている。


 越後国蒲原郡(かんばらぐん)は、越後少将上総介(かずさのすけ)忠輝卿(松平忠輝は徳川家康の六男。1592〜1683)の領地である。

 寛永年中(1624〜1644)、蒲原郡に猩々庄左衛門(しょうじょうしょうざえもん)という漁師がいた。この男は、酒をいくら飲んでも酔うことがなかった。これを聞いた忠輝卿は、庄左衛門を御前に召し出し、酒をたらふく飲ませることにした。

 庄左衛門が飲むこと4斗5升。1升は約1.8Lだから、4斗5升(45升)は81Lにも相当する。しかしこれだけの量を飲んだあとである。あと1升ほどが飲めず、さすがの大酒飲みも前後不覚になり、寝入ってしまった。

 それにしても、あれほどの酒量はどこに消えたのか。好奇心をおさえがたい忠輝卿は、こともあろうに庄左衛門を殺害してその腹を割き、その中を覗いたのである。

 しかし、腹の中からは一向に酒の臭いがしない。そこで、腹の中を探ると、右の胆腑(たんぷ)の上に小さな石甕(いしがめ)のような物が二つあった。果たして、それら甕の中から、それまでに庄左衛門が飲んだ酒が数十斗も出てきたのである。

 忠輝卿は、その二つの石甕を家宝とした。しかし、のちに忠輝卿が罪を得て改易処分となると、石甕は行方知れずとなったいう。


 中国の短編小説集、蒲松齢(ほしょうれい)の『聊齋志異(りょうさいしい)』には、大酒飲みの体内に潜む酒虫(しゅちゅう)の話がある。酒虫がいると、酒に酔うことがないという。石甕にしろ、酒虫が棲んでいるにしろ、酔えないなら酒を飲む意味がない。

 それにしても、桁外れの大酒飲みというだけで、殺害されたうえ腹まで割かれた庄左衛門は哀れだ。



【参考】
・『茶飲夜話集(写本)』明和3(1776)年筆写、「猩々庄左衛門が事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0027。
2023年7月13日(木)
味噌を焚(た)く
 斎郷某(さいごうなにがし)という浪人が語った話である。

 浪人した某は、江戸本所に住する柴田平六殿の家中に親族がいたので、それを頼ってしばらくの間世話になった。柴田氏は、織田信長の家臣で勇名を馳せたあの柴田勝家の後胤(こういん)だった。

 さて、この柴田家には不思議な禁忌があった。

 当時は自家製の味噌を作ることは当たり前だったが、どうした子細があったものか、柴田家では味噌を作ることを禁忌としていた。もしも、この禁忌を犯せば様々な怪異が現れる、との言い伝えがあった。

 しかし、柴田氏は、


「往昔(おうせき)は左様の事も有らん。年来(としごろ)おし移れば、今は何事かあらん。」
(昔はそうした怪異もあったかもしれない。しかし、時代が推移した今となっては何事が起ころうか。)



と意に介せず、庭に大釜を据えさせて豆を煮ることにした。

 ところが、未明から日暮れまで焚き続けたのに、釜のなかは相変らず水のままだった。柴田氏は、不思議なこととは思いつつ、薪(まき。たきぎ)をいよいよ多くくべさせ、一晩中焚き続けるよう下男たちに命じた。そこで下男たちは、薪を山のように積んでさかんに火を焚くが、いつまでたっても釜のなかは水のままだった。

 その夜の九つ時分(現在の午前零時ころ)、あまりにくたびれた下男たちは少々寝入ってしまった。ふと目を覚ますと、あれだけ山のように積んで置いた薪を背負って門を出る者がいる。見れば、その背丈(せたけ)は軒(のき)の高さと変わらぬ。

 大坊主だった。下男たちは肝をつぶした。

 夜が明けて、恐る恐る釜のなかを見ると、相変わらず水のままで豆は煮えていなかった。

 それにしても、あの大坊主は大量の薪をどこへ持ち去ったのか。また、それにはいかなる理由があったのか。いずれもわからずじまいだった。

 その後、柴田家で味噌を焚くことはいっさいなかった。


【参考】
・『茶飲夜話集(写本)』明和3(1776)年筆写、「柴田家にて味噌を焚ざる事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0027。
2023年7月5日(水)
イエネコ
 わが国には古くからヤマネコ(野生の猫)はいた。しかしイエネコ(家畜化された猫。飼い猫)はおらず、わが国には仏教伝来以降、仏具・経典・書籍等を食い荒らすネズミ駆除のために将来されたものと考えられてきた。したがって、わが国にイエネコが渡ったのは6世紀ころ(仏教公伝は538年説と552年説)だと考えられてきた。

 ちなみに文献や絵画資料を捜索しても、それ以上時代を遡ることは困難だった。

 文献上で、初めてネコという単語が登場するのは僧景戒(きょうかい)の『日本霊異記(にほんりょういき)』(平安初期成立)
(1)

 一方、描かれた最古のイエネコが登場するのは『信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)』(平安後期)。紡錘車で糸撚り作業をしている女性の背後、民家の中にちょこんと描かれているのがそれだ。

 ところが近年、考古学上の発見が相ついで、イエネコ登場の年代が大幅に遡ることになった。2011年の発掘調査で、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡(弥生時代の環濠集落跡)からイエネコの橈骨(とうこつ。前腕の骨)が出土し、放射性炭素年代測定法による鑑定の結果、この骨が紀元前2世紀頃のものと判明したのだ。一挙に定説が、800年も遡ったことになる。

 さて、平安時代の貴族は、愛玩用にイエネコを飼った。また社寺でも、経巻・書画・供物等を食い荒らすネズミの駆除を目的にイエネコを飼った。

 しかし、一般庶民の間では、イエネコという当時としては珍しい動物を飼う習慣はそれほど普及していなかったはずだ。そのため、イエネコの実態は想像するしかなかっただったろう。

 この「得体の知れないもの」という印象が後世、ネコマタ(尾が二股にわかれているネコの妖怪)をはじめとするさまざまな怪異談を生むきっかけになったのではなかろうか
(2)


【注】
(1)
ただし表記は「狸(ヤマネコ、ノネコの意)」であり、この語に「ねこ」という読みがついている。板橋倫行校註『日本霊異記』1957年、角川文庫、P.60。
(2)千葉徳爾「猫股」(金子浩昌外『日本史のなかの動物事典』東京堂出版、1992年、P.58〜59)参照。
2023年7月4日(火)
富上り文句
 宝くじのコマーシャルが盛んに流れている。高額当選金であることを吹聴し、有名人を多数起用してあれだけ金がかかる宣伝をしても元がとれるのだから、胴元はよほどもうかっているに違いない。

 さて、江戸時代には現在の宝くじを富札(とみふだ)といい、当選者の抽選方法を富突きといった。富「突き」といったのは、富箱(とみばこ。上部に穴が開いている)にいれた富駒(とみこま。富札と同じ番号が書かれた小札)を、富箱の上部の穴から富突錐(とみつききり。先端に錐がついた長い棒)で突き刺すという抽選方法だったからだ。

 富突きというと江戸のものが有名だが、その他の地域でもおこなわれた。

 このうち関西には少し変わった習慣があった。富札購入者と当選者が同一人物かどうかを確認するため、事前に合言葉などを決めて主催者側に渡しておくことがあったのだ。この本人確認のためのいわばパスワードを、「富上り文句」といった。

 当選者の福にあやかりたいと願うのは当時の人々も同じ。そこで当選者発表後には、この富上り文句を採録した冊子(富上り文句帳)が作られ、縁起物として売り出された。

 日本銀行金融研究所貨幣博物館の企画展「江戸の宝くじ『富』 一攫千金、庶民の夢」(2018年12月1日〜2019年2月24日の展示図録、p.43〜44。同館のホームページに掲載されているので閲覧可能)には、同館が所蔵する富上り文句帳の写真が掲載されている。拾い読みしてみると、なかなか面白い。それで展示図録に掲載されている「紀州熊野三之山 御富興行於大坂今宮広田境内」(紀伊国熊野三之山が主催し、大坂の今宮戎(いまみやえびす)神社境内でおこなった富興行で発行された富上り文句帳)から、富上り文句を次にいくつか紹介しよう。


・あたりました、弐千両
・心當(こころあた)りのこの札ニ、富が當つた、ありがたひ
・弐千両手ごたへ
・おもひ成就
(じょうじゅ)
・外(ほか)へハやらぬ
・天命を楽
(たのしん)で待(まつ)
・千両いらぬ、百両でよし



 
一攫千金を夢見る人々の思いは今も昔も変わらない。
2023年7月3日(月)
馬鹿のふりをする
 備前国岡山の城主浦上宗景(うらかみむねかげ)の家臣に、浮田四郎左衛門(うきたしろうざえもん)と嶋村観阿弥(しまむらかんあみ)という者がいた。観阿弥は、四郎左衛門の武勇をねたみ、これを闇討ちにして殺した。

 四郎左衛門には八郎という幼少の息子がいた。伯母から、観阿弥が父の仇と知らされた八郎はその後「偽(いつわり)申作(もうしつく)り馬鹿に成(なり)て観阿弥を油断させ、或時(あるとき)不意に仕懸(しかけ)、観阿弥を討取(うちと)」(『浮田秀家記』)ったという(1)

 見事に本懐を遂げたわけだが、その手段は騙(だま)し討ちだった。この八郎がのちの浮田直家(うきたなおいえ。1529〜1589)(2)。ただし、この『浮田秀家記』の記述は史実と異なるという。

 それはさておき、気になったのは、目的を達成するするために「偽申作り馬鹿に成て」というくだり。つまり、馬鹿のふりをして周囲を欺いたという記述だ。

 古来、敵の目を欺くために、同様の手段をとった例は多い。有名なものでは有間皇子(ありまのみこ。640〜658)の例がある。皇位継承のライバルとして中大兄皇子に命を狙われた有間皇子は、身の保全のため「陽狂(いつわりたわぶれる。心の病のふりをする)」(『日本書紀』斉明天皇3年9月の条)したという
(3)

 江戸時代なら、加賀藩第2代藩主の前田利常(まえだとしつね。1594〜1658)が幕府の警戒を避けるため、わざと鼻毛を伸ばし暗愚をよそおったとする逸話がある
(4)。鼻毛を伸ばすのが、馬鹿振りをアピールするもっとも手っ取り早い手段だった(5)

 「偽申作り馬鹿に成て」というなら、八郎はどのような行動によってその馬鹿ぶりを周囲にアピールしたのだろうか。


【注】
(1)
富田覚真著『浮田中納言秀家記』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:155-0209 。
(2)八郎(直家)の息子が、のちに豊臣秀吉の五大老の一人となり関ヶ原の戦いでは西軍に属して大敗する宇喜田秀家(1572〜1655)である。
(3)有間皇子の「陽狂」は作為でなく、強度の神経衰弱(ノイローゼ)だったのではないか、と推測する説もある。直木孝次郎『日本の歴史2・古代国家の成立』1973年、中公文庫、P.234。
(4)真田増誉『明良洪範:25巻續篇15巻』1912年、国書刊行会、P.23~P.24。
(5)たとえば、柳角子著・古田忠義補『続編武林隠見録』寛延3(1750)序、巻之七「横山平六馬鹿者の事」(国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035)には、自他ともに馬鹿者と認める横山平六なる武士が登場する。平六は、長く伸ばした鼻毛の先にトンボを結んで周囲に見せびらかしたという。
2023年7月1日(土)
寺つつき(2)
 芭蕉が黒羽の雲巌寺(臨済宗妙心寺派)を訪れたのは元禄2(1689)年4月5日のこと。ここには、芭蕉の参禅の師、仏頂和尚(ぶっちょうおしょう。1641~1715)(1)が山居修行した旧跡があった。

 『おくのほそ道』には次のようにある。


 当国雲巌寺の奥に仏頂和尚山居の跡あり。( 中略 )

 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後(うしろ)の山によぢ登れば、石上(せきしょう)の小庵、岩窟(がんくつ)に結び掛けたり。妙禅師(みょうぜんじ)の死関(しかん)、法雲法師の石室を見るがごとし。

   啄木(きつつき)も庵(いお)は破らず夏木立(なつこだち)

と、とりあへぬ一句を柱に残しはべりし。

(当下野の国雲巌寺の奥に、仏頂和尚の山ごもりされた跡がある。さて、かの山居の跡はどのあたりであろうかと、寺の後ろの険阻な山をよじ登ると、石の上に小さな庵が岩窟にもたせかけて建ててある。まことに、伝え聞く妙禅師(中国南宋時代の禅僧。天目山張公洞に死関と書した額を掲げ坐禅15年に及んだという)の死関や法雲和尚(中国宋代法雲派の禅僧か)の石室(せきしつ。禅窟)をまのあたりに見る思いがする。

   啄木も庵は破らず夏木立
-あの、寺をつつきこぼつといわれている啄木も、この草庵だけはやぶらなかったのだ。そして、それは今、自分の目の前の鬱蒼(うっそう)たる夏木立の中に幽邃澄心(ゆうすいちょうしん)の別天地を存していることよ。-

と当座即興の一句を書きつけ、庵の柱に掛けて記念に残したことだった。)(2)



   啄木も庵は破らず夏木立


 芭蕉のこの一句には、仏頂和尚に対するあつい敬意が込められている。

 仏教排斥派の物部守屋(もののべのもりや)が、仏教崇拝派の蘇我馬子(そがのうまこ)や厩戸王(うまやとおう。聖徳太子)らによって滅ぼされたのは587年。守屋の魂は化してキツツキとなり、厩戸王ゆかりの四天王寺や法隆寺を破壊しようとしたという。それゆえ、寺をこぼち破るキツツキには「寺つつき」の異名がある。

 しかし、そんなキツツキでさえも、仏頂和尚が修行したこの尊い小庵だけはつつくことを遠慮した。それが証拠に、今も小庵は夏木立の中にたたずんでいるではないか。芭蕉はそう言っているのだ。


【注】
(1)
仏頂は常陸国(現、茨城県)出身の禅僧。鹿島根本寺(こんぽんじ)二十一世。江戸の深川臨川庵(りんせんあん)滞在中、芭蕉参禅の師となったとされる。芭蕉と仏頂の交遊は『鹿島詣』にも見える。芭蕉は根本寺に仏頂を訪ね、そこで宿泊している(中村俊定校注『芭蕉紀行文集』1971年、岩波文庫、P.58)。なお、仏頂はしばしば雲巌寺に滞在して山居修行をおこなったという。
(2)本文・評釈とも潁原退蔵・尾形仂訳注『おくのほそ道』1967年、角川文庫、P.19~20(本文)、P.76~77(本文評釈)による。
2023年6月30日(金)
寺つつき(1)
 江戸時代後期、水戸藩の下吏だった加藤寛斎(かとうかんさい)が著した『加藤寛斎随筆』を読んでいると、次のような記述が目にとまった(なお、読みやすくするため、読みがな・濁点等を補った)。


一、上金沢より雲岩寺、御朱印百五十石、三井五橋景地(けいち)(なり)、 ( 中略 )

  山の後
(うしろ)に山庵(さんあん)とて芭蕉翁(ばしょうおう)の住せし庵(いおり)あり、

    木つつきも庵
(いお)ハ破らじ夏木立

  翁の旧跡とて雅人騒客尋ね来る、詩歌発句
(しいかほっく)あり、余も僧に好まれて、
 
        山庵にて
    さぞむかし涼しかりけん此木立
(このこだち)  拾葩(しゅうは)(1)



 上金沢は常陸国北西部に位置した村(現、茨城県久慈郡大子町上金沢)。上金沢に「雲岩寺」という寺はなく、実際の「雲巌寺」は上金沢から13kmほど離れた下野国黒羽の地に存在する(現、栃木県大田原市雲岩寺)。

 ただし、雲巌寺には「芭蕉翁の住せし庵」はない。誤伝である。山庵は芭蕉ではなく、芭蕉の参禅の師がこもった旧跡だ(後述)。


【注】
(1)
茨城県史編さん近世史第1部会編『近世史料Ⅳ・加藤寛斎随筆』1975年、茨城県、P.53~54
2023年6月22日(木)
秘すれば花
 新型コロナが流行しているころはみんながマスク姿で、初対面の人の顔全体を知る機会が少なかった。そのため、入学式から卒業式まで、同級生の素顔を知らなかったという話もざらに聞く。

 みんながマスクをしていたころは、心なしか美男・美女が多かったように思う。脳みそが勝手にマスクの下の顔を想像して、鼻から口元、あごのラインなど美化していたからだろう。マスク姿も「夜目、遠目、笠のうち」と同様だったのだ。

 新型コロナの流行が一段落して、みんながマスクを外してみると、果たして平凡な顔が多かった。

 マスクは秘事に似ている。

 世阿弥は言う。諸芸において、それぞれの家には秘事(秘伝)というものがある。それは、かくすことに大きな効用があるからだ。だから、秘事を公開すれば、さほどのことではないものだ。だからといって、秘事を「たいしたことでもない」と言う人は、秘事の大きな効用を知らないのである、と。


「諸道藝において、その家々に秘事と申(もう)すは、秘するによりて大用(たいよう)あるが故(ゆえ)なり。しかれば、秘事といふことを顕(あら)はせば、させる事にてもなきものなり。これをさせる事(にて)もなし云(い)ふ人は、未だ、秘事と云ふ事の大用を知らぬが故なり。」(1)


 かくされているからこそ面白い。

 華麗なマジックも、種明かしされればたいしたトリックではない。種がわからないから面白いのだ。かくされていたものがさほどでないと知った時、われわれが経験するのはそれを知りえた喜びか、それとも期待を裏切られた幻滅かであろう。

 「秘すれば花」とはよくも言ったものだ。


【注】
(1)
世阿弥作、野上豊一郎・西尾実校訂『風姿花伝』1958年、岩波文庫、P.103
2023年6月21日(水)
土屋家の人々(5)-土屋政直-
 土屋数直の長男土屋政直(つちやまさなお。1641~1722)は、駿河国(静岡県)田中藩主を経て常陸国(茨城県)土浦藩主に復帰し、最後は9万5千石を領する大大名となった。1698年に老中首座となり、4代にわたる将軍(綱吉・家宣・家継・吉宗)に仕えた。

 政直は短気な性格だった。しかもいったん怒り出すと小言が延々と続く。『武林隠見録』には、そんな政直を適当にあしらう近習たちの逸話が語られる。


 土屋相模守(つちやさがみのかみ。政直)ハ但馬守(たじまのかみ。父の土屋数直)家督相續(かとくそうぞく)して、次第ニ立身して今九万五千石也(なり)

 此人(このひと)も極めて正直なる氣質なれ共、短慮にしてむか腹(向か腹。やり場のない怒り)を立るる事有(あり)。然(しか)れ共(ども)、念深く憤(いきどお)らるる様成事(ようなること)なし。近習の者など、何ぞ氣に背(そむ)く事あれバ、しかるるに良(やや)久し。( 中略 )  

 近習の者を叱らるるに餘(あま)り永くして退屈し、或(あるい)は小用(しょうよう)などたしたき時は、次の間に居(い)る傍輩(ほうばい)を招き、替(かわ)りに置(おき)て休息所ヘ行(いき)、茶・たばこ抔(など)(のま)せて又本の所へ帰(かへり)て替りしと也(なり)。其内(そのうち。近習を叱っている間)相模守後(うしろ)を見らるる事なし。誰にても時々の返事をさへすれバ、夫(それ)にて事済(ことすみ)けり。極めて邪念なき人といへり。(1)
 


 小言は長いが執念深くない。そもそも、正直で邪念のない性格は愛されるものだ。


【注】
(1)
小柴研斎『武林隠見録・2』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027、「土屋之家代々由緒立身の事」。
2023年6月20日(火)
土屋家の人々(4)-土屋直樹-
 土屋宗家は久留里藩第3代藩主の土屋直樹(なおき。通称平八郎。1634~1681)の時、存続の危機に陥った。直樹の狂気を理由に1679年、改易となったのである。『武林隠見録』には次のようにある。  


 右二代の民部少輔(みんぶしょうゆう。久留里藩2代藩主土屋利直)、子を土屋伊豫守(つちやいよのかみ。直樹)と云(いう)

 此人(このひと)極めて悪人にて、家中の者を多く手討(てうち)にし、其外(そのほか)百姓當(あた)りも宜(よろ)しからざる故(ゆえ)、積悪(せきあく)重りて知行を被召上(めしあげらる)

 嫡子(ちゃくし)主税(ちから。逵直(みちなお))に新知(しんち。新たに入手した領地)三千石被下(くだされ)けり。今、其子(そのこ)土屋午八(ママ。長男亮直の通称は惣八郎、または平八郎)と云(いう)(1)



 しかし、幕府は武田以来の名門土屋宗家の断絶を惜しみ、長男逵直(みちなお。通称主税。1659~1730)に遠江国(静岡県)周智郡のうちから3千石を与え、旗本として家名の存続をはからせた。直樹は逵直のもとで余生を送り48歳で没したが、その後土屋宗家は大名に復帰することのないまま幕末まで存続した。


【注】
(1)
小柴研斎『武林隠見録・2』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027、「土屋之家代々由緒立身の事」。
2023年6月19日(月)
土屋家の人々(3)-土屋数直-
 忠直の長男土屋利直(としなお。1607~1675)は、家督を相続して久留里藩第2代藩主となった。

 一方、次男の土屋数直(かずなお。1608~1679)は、常陸国(茨城県)土浦藩主土屋家初代となった。1665年に老中に就任し、1669年には4万5千石を領した。

 数直は質素を好み、華美を嫌った。『武林隠見録』には次のようにある。


(忠直には)子供両人有り。

 惣領(利直)は家督相續して土屋民部少輔(つちやみんぶしょうゆう)と云(いう)。

 次男(数直)は土屋但馬守(つちやたじまのかみ)と云(いう)。纔(わずか)の分知(ぶんち。領地の分割相続)なりしが、次第に立身(りっしん。出世)して四万石にて老中に被成(なられ)けり。

 此人(このひと。数直)(はなはだ)質素にして花美成事(かびなること)を嫌われ、髪を結(ゆ)ハせて、其跡(そのあと)にてみづから櫛(くし)を取(とり)てびん(鬢。耳ぎわの髪の毛)を逆(さかさ)になでて(髪の毛に櫛を入れて)、毛のぱつと逆立様(さかだつよう)にして登城せられし由(よし)

 又大小(大刀・小刀)の柄糸(つかいと。刀の柄に巻く組糸)など巻直し出来たる時、態(わざ)と手をよごして柄頭(つかがしら。刀の柄の先の部分)をこきて(こするように手前に引いて)、糸を少し垢(あか。汚れ)つけて指(ささ)れしと也(なり)(1)  



 4万5千石の大名になっても、数直は質素に徹した。整っているものをわざとくずし、新しいものをわざと汚し、はた目にも華美に見えないように心がけた。そうした心がけがあったからこそ分家ながら老中にまで出世し、またその地位を保つことができたのだろう。


【注】
(1)
小柴研斎『武林隠見録・2』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027、「土屋之家代々由緒立身の事」。
2023年6月17日(土)
土屋家の人々(2)-土屋忠直-
 土屋忠直(ただなお。1578~1612)は土屋昌恒(まさつね。惣蔵)の長男で、通称を平三郎といった。『寛政重修諸家譜』巻第87に忠直の小伝があり、次のように記載されている。

 忠直5歳の時、父昌恒が武田勝頼に殉死すると、甲斐国(山梨)から母(駿河の岡部丹波守某の娘という)とともに駿河国(静岡)に逃亡、楞厳院(りょうごんいん)の住持塞妙(ママ。寒妙か)の養育をうけ、のちに清見寺(せいけんじ)において成長した。1588年、徳川家康が鷹狩りの休息で清見寺に立ち寄った際に見出され、家康の側室阿茶局(あちゃのつぼね)の養子となった。翌1589年より秀忠の近習となり、秀忠の「忠」の偏諱(へんき)を与えられて忠直と名乗る。そして1602年には、上総国(千葉県)久留里(くるり)藩主土屋家初代となった
(1)

 家康と忠直の出会いの場面を、『武林隠見録』は次のように描写する。


 此子(このこ。昌恒(惣蔵)の子忠直)(いまだ)幼少なりしが、後に駿州清見寺(せいけんじ)に養ひ置(おき)、小性並(こしょうなみ)の如(ごと)くにして置(おか)れけるに、 大神君(だいしんくん。徳川家康)駿州(すんしゅう)御手(おて)に入(いれ)て清見寺へ御腰(おこし)を懸(かけ)られたる時、右の童(わらべ)十一、二計(ばかり)にて御給仕(おきゅうじ)に出(いで)たりしに、其(その)(うま)れ甚(はなはだ)美麗(びれい)にして立振舞(たちふるまい)も又すこやかなれバ、和尚(住持の大輝)


「いかなる者の子ぞ。」


と御尋(おたずね)(あり)けれバ、和尚つつまずして委敷(くわしく)被申上(もうしあげられ)けれバ、 大神君、


「扨(さて)こそ只者(ただもの)ならず見へたり。是(これ)ハ某(それがし)に給(たまわ)り候(そうら)へ。召仕(めしつか)ハん。」


と有けれバ、和尚も大きに悦(よろこ)び領掌(りょうしょう。了承)あり。

 夫(それ)よりして御側(おそば)に被召仕(めしつかわれ)、甚(はなはだ)御意(ぎょい)に入(いり)けれバ、次第次第に御取立(おとりたて)有て弐万三千石に成り、上総久留理(久留里藩)の城主となる。是(これ)を土屋民部少輔(つちやみんぶしょうゆう)と云(いう)(2)


 もしも家康が鷹狩りの際、清見寺で休息をとらなければ、忠直との出会いはなかった。この出会いがなければ、のちに老中を輩出する土屋家の繁栄もなかったのだ。


【注】
(1)『寛政重脩諸家譜・第1輯』1922年、國民圖書、P.496~497
(2)小柴研斎『武林隠見録・2』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027、「土屋之家代々由緒立身の事」。  
2023年6月16日(金)
土屋家の人々(1)-土屋惣蔵-
 武田氏が滅亡することになった天目山の戦い(1582)。勝頼を見限って離散する家来が多い中、『武林隠見録・2』には武田勝頼に最後までつき従った土屋惣蔵(つちやそうぞう。昌恒(まさつね)。1556~1582)以下、土屋家の系譜が綴られている。


一、土屋の家は元甲陽信玄(こうようしんげん。甲斐の武田信玄)に仕(つか)へて金丸筑前(かなまるちくぜん)と云(いう)者、四人の兄弟有(あり)

 兄は金丸平三郎
(かなまるへいざぶろう)とて信玄の御近習(ごきんじゅう)たりしに、不幸にして傍輩(ほうばい)落合彦助(おちあいひこすけ)が為(ため)に討(うた)れたり。

 二男は右衛門尉
(うえもんのじょう。昌続)と云(いう)。信玄段々取立(とりたて)(たま)ひし大将たりしに、勝頼の代に長篠合戦(ながしのかっせん。1575)に討死す。

 三男
(実際は四男。三男秋山昌詮は病死)は金丸助六郎(かなまるすけろくろう。定光)と云(いう)

 四男
(実際は五男)土屋惣蔵とて勝頼(武田勝頼)の代に侍大将たりしが、勝頼滅亡の時天目山(てんもくざん)ニて一所に死す。(1)



 『寛政重修諸家譜』
(2)によると、勝頼自害の時、従う家臣は土屋惣蔵(昌恒)ら40余人のみ。惣蔵は、滝川一益ら織田勢と戦って討死した、とある(享年27)。

 しかし、勇者の死を惜しむは人情の常。その活躍にはさまざまな潤色が加えられ、多くの異説が生じる。たとえば、『三河物語』では、惣蔵は討死したのではなく、勝頼親子を介錯したのち壮絶な割腹自殺を遂げたとする。


 土屋(惣蔵)は其(それ)より矢たばねといて(矢をたばねたものを解いて)(おし)みだし、さし取(とり)引詰(ひきつめ)さんざんに射(い)てまハり(立て続けに矢を弦につがえてはさんざん射てまわって)多くの敵をほろぼして、とって帰(かえる。最初の地点に戻る)

 御前
(ごぜん。勝頼の妻)と御そばの女房たちに御いとま参(まい)らせ給(たま)ひて、勝頼と御ざうし(御曹司。勝頼の子信勝)の御かいしゃく(御介錯)(もうし)て、身も腹十文字にきりて、しで(死出)三づ(三途。三途の川)の御供(おとも)(もうし)たる土屋惣蔵が有様(ありさま)、せうこ(往古か)もいまも有難(ありがた)しと、ほ(誉)めぬ者はなし。(3)



 また、現地に残る伝承では、惣蔵は狭い崖道を進軍してくる織田勢の前に立ち塞がると、片手で藤蔓をつかみ、片手のみで敵兵を次々に斬り伏せたという(片手千人斬り)。このため、崖下の日川(ひかわ)は、惣蔵によって突き落とされた犠牲者の血で真っ赤に染まった。血の色は三日間も引かなかったという話になっている(三日血川(みっかちがわ))
(4)


【注】
(1)小柴研斎『武林隠見録・2』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027、「土屋之家代々由緒立身の事」。
(2)『寛政重脩諸家譜・第1輯』1922年、國民圖書、P.496。
(3)大久保忠教『三河物語・3』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:169-0001、30コマ目 。
(4)南アルプス市ホームページによる(HOME〉観光情報〉歴史を辿る〉市指定文化財〉史跡〉土屋惣蔵昌恒の墓)。  
2023年6月13日(火)
佐々と近松は友人だったか
 『加藤寛斎随筆』は、水戸藩後期の下級郡吏だった加藤寛斎(1782?〜1866)が著した随筆だ。その中に、佐々宗淳と近松門左衛門との間に交友関係があったとする記事がある。


「佐々介三郎 西山公(徳川光圀)に奉仕ス、後に宗淳(むねきよ)と改(あらた)む、比叡山の僧なりしが、空門(くうもん)に入事(いること)二十年也、是(これ)を悔(くい)て還俗(げんぞく)し江戸に出、鵜飼金平(うかいきんぺい。儒学者鵜飼錬斎(れんさい)のこと)知音(ちいん)たるにより、鵜飼が推挙を得て、義公(徳川光圀の諡号)に召(めさ)(1)

 此時(このとき)近松門左衛門も仏門の同侶(どうりょ)なりしが、江戸に同伴し、諸侯召るるもの互(たがい)ニ通すべしと約シけるととなん、近松は諸家に不仕(つかえず)、浄瑠理(じょうるり。浄瑠璃)戯場者となりて諸民を救(すくう)べしと、義太夫本(ぎだゆうぼん)といふを製し、忠孝義礼を勧めけるとなん、( 後略 )(2)



 佐々介三郎は、佐々宗淳(さっさむねきよ。1640〜1698)の通称。佐々は号を十竹(じっちく)、字(あざな)を子朴(しぼく)といい、水戸黄門漫遊記(フィクション)のお供の一人、助さんのモデルといわれる。15歳で仏門にはいったが、仏教の教えに疑問をいだき還俗。江戸に出て、水戸藩2代藩主徳川光圀に仕えることになった。以後水戸藩の『大日本史』編纂事業に携わり、史料調査のために日本各地に派遣された。

 佐々が仏門にあった期間は20年(1654〜1673)。最初京都妙心寺に入り、その後多武峰(とうのみね)・高野山(こうやさん)・比叡山等でも修行したという。

 一方、近松門左衛門(1653〜1725)は、三井寺三別所(微妙寺・尾蔵寺・近松寺)のひとつ近松寺(ごんしょうじ)で1672〜1674年の3年間を過ごしたという
(3)

 『加藤寛斎随筆』の記述が仮に事実とするならば、佐々と近松が「仏門の同侶」になる可能性があるのは、近松が近松寺を訪れた1672年から佐々が還俗する1673年までの2年間である。

 しかし、これはあくまで可能性だ。『加藤寛斎随筆』は佐々・近松らが没してから百数十年後に書かれた伝聞記事である。たやすく後世の伝聞史料を信じるわけにはいかない。

 佐々・近松の交友関係を証明するには、両者が交友関係にあったとする当事者が残した書簡なり日記なりの一次史料が必要だ。


【注】
(1)
鵜飼錬斎が水戸藩に出仕するのは1678年からであり、佐々の出仕(1674年~)後。よって、鵜飼の推挙で佐々の水戸藩出仕が決まったとは考えにくい。
(2)
茨城県史編さん近世史第1部会編『近世史料Ⅳ・加藤寛斎随筆』1975年、茨城県、P.195
(3)「三井寺のホームページ」には次のようにある(ホーム〉三井寺について〉歴史散歩(三井寺を旅した人)〉天才戯曲作家、近松門左衛門の謎をさぐる。)。

「近松門左衛門(杉森信盛、通称平馬)が近松寺を訪ねたのは寛文十一年(1672)二十歳の時であった。平馬は武門の家系の次男に生まれた。杉森家は詩歌に秀でた家系で、若くして徒然草を学び、歌も詠んだ。 寛文十一年山岡元隣編『宝蔵』に平馬が”しら雲やはななき山の恥かくし”とよんだ歌が残されている。平馬が何処で生まれ、何処で育ったか、なぜ三井寺(近松寺)へ行ったかは定かでない。世は泰平、武門の次男に生まれた平馬は武士としての就職先はない。 この先どう生きるべきか近松寺で平馬は考えていたのだろう。平馬は近松寺で三年の月日を過ごしている。」
2023年6月9日(金)
へい、へい、へい
 保元4(1159)年4月20日、「平治」と改元された。二条天皇(1159〜1160)代始めによる改元だった。出典は『史記』夏本紀の「天下於是大平治」。太平な治世を期待しての元号だったが(1)、皮肉なことに同年末に平治の乱が起こった。

 平治の乱(1159)は、これに先立つ保元の乱(1156)とともに、都の貴族達にとっては衝撃的な事件だった。長らく平穏だった都が戦火にさらされ、多くの被害者・死傷者が出た。人々は「武者の世」の到来を思い知らされることとなり、また平氏政権が成立する契機ともなった。

 このふたつの兵乱は、貴族にとっては忌々しい事件としてその脳裏に深く刻まれることになった。ゆえに、この事件以降朝廷は、元号の選定にあたって二字の上に「保」と「平」の文字を置くことを嫌ったのである
(2)

 また、『平治物語』には次のようにある。


「去年四月に保元を改(あらため)て、平治に定(さだまり)し、平氏繁昌して、天下を治むべき年号か」


と申(もうし)しが、果して源氏ほろびて平家世をとれり。其時(そのとき)大宮左大臣伊通(これみち)公は、


「此(この)年号甘心(かんしん)せられず。平治とは、山もなく河もなくして、平地(へいち)なり。高卑(こうひ)なからんか」


と咲(わらひ)給ひしが、つひに皇居は武士の住家(すみか)となり、主上(しゅじょう。天皇)は凡人の亭にやどらせ給(たまい)けるこそ不思議なれ。人の口こそおそろしかりける事はなし。(3)



 貴族にとっては忌むべき元号も、平氏にとってはめでたい元号だった。また、平重盛は「平治」を論拠として、平氏の戦勝を予言したという。


 年号は平治なり、花の都は平安城、われらは平家なり。三事(さんじ)相応して、今度の軍(いくさ)に勝たんことなんの疑(うたがい)かあるべき。


 ここには論理の超越がある。「平治・平安城・平家」の「へい、へい、へい」という同一音韻の繰り返しだけを論拠にして人を説得しようとしている。屁理屈にもかかわらず「なんの疑かあるべき」とくれば、もはや信仰でしかない(4)


【注】
(1)米田雄介編『歴代天皇・年号事典』2003年、吉川弘文館、P.188
(2)この点で「平成」は異例だった。尾藤正英『日本文化の歴史』2000年、岩波新書、p.112。
(3)岸谷誠一校訂『平治物語』1991年(第9刷。1934年第1刷)岩波文庫、P.90
(4)織田正吉『ジョークとトリック』1983年、講談社現代新書、P.124〜125
2023年6月7日(水)
荻生徂徠の逸話
 ある日、荻生徂徠(おぎゅうそらい。1666〜1728)が岡井郡太夫(おかいぐんだゆう。讃岐高松藩の儒者。1702〜1765)とともにある兵法家に入門した。

 ところが、そのセンセイの講義が聞くに堪えない。いちいち文字の意味から説きおこし、非常に煩わしい。しかも兵法家流独自の字義解釈であるため、誤りも多い。非常に退屈な講義だった。

 ほとほと疲れたふたり。帰る道すがら、郡太夫から誘いがあった。


「扨(さて)もけふの講釈は退屈せり。一日の鬱滞(うったい)(さん)ぜん為(た)め、某(それがし)が許(もと)に立寄給(たちよりたま)へかし。」

(さてさて、本日の講釈は退屈だった。この一日の鬱屈した気分を晴らすため、拙宅にお立ち寄りください。)


 そこで徂徠は、郡太夫宅に立ち寄ることにした。

 さて、郡太夫が夜食のしたくをしていると、徂徠が本日の兵法講義についてひとつひとつ弁じはじめた。


「何の文字をかく解せしハ誤(あやまり)なり。又何の字を何と弁ぜしハ差(たが)へり。」

(兵法家の先生のこれこれの文字の解釈は誤りだ。またかくかくの文字をしかじかと解説したのは間違いだ。)



 あまりの細かい指摘に、郡太夫は感嘆して次のように言った。


「扨(さて)も能(よく)覚へ給(たま)ひたり。我は退屈のあまり一ツも耳に留(とどま)らざりし。」

(さてもよく覚えておいでのことよ。私は退屈のあまり、なにひとつ耳に残りませんでした。)



 これに対する徂徠の言葉が次。


「善(よ)くも悪(あ)しくも物聞(ものきき)に罷(まか)りしものを、無益(むえき)にききなすべき事にあらず。」


 そもそも、自ら人の話を聞きに行こうと思ったのだ。それが期待通りの内容だったにしろ、期待に沿わぬ内容であったにしろ、無駄に聞き流すべきではない。そこから何かしら有益な教えは汲み取れるはずだ。そのように徂徠は言ったのだろう。

 徂徠にしろ白石にしろ、彼らの心がけはわれわれ凡人でも十分実行可能なものばかり。 違いがあるとすれば、そうした心がけを継続できるか否かなのだろう。


【参考】
・杉田玄白著『形影夜話・乾』、国立公文書館蔵、請求番号:195-0627
2023年6月4日(日)
新井白石の逸話
 ある時、新井白石(1657~1725)のもとに人々が夜話に集った。夜も更けたので、人々が暇を告げて帰ろうとしたとき、白石が次のように言った。


「各(おのおの)ハ能(よく)(おぼゆ)と見得(みえ)たり。羨(うらやま)しき事なり。」

(皆さんは記憶力がよくて、うらやましい限りです。)



 思わぬ言葉に、人々は口をそろえて、


「何故(なにゆえ)(さ)ハの玉(たま)ふぞ。我々ハ記憶あしし。」

(なぜそのようにおっしゃるのですか。私どもは記憶力はよくありません。)



といぶかしんだ。なにしろ新井白石といえば6代・7代将軍に仕えて「正徳の治」を主導し、博覧強記で世に知られた人物だ。そんな「知の巨人」に「物覚えが悪い」などということがあろうか。

 人々の不審に対し白石は次のように答えた。


 皆さんに「記憶力が悪い」などということはありません。その証拠に、宵から今まで話された内容を、皆さんはすべて記憶されているではありませんか。

 それに対し、私はほんとうに物覚えが悪い。だから、本日の話のひとつひとつをメモするしかない(白石は日頃より反故紙を綴じ合わせ、その裏にメモをとっていた)。そしてそれらのメモを、皆さんがお帰りになったのちに清書しておくほかないのです、と(1)


 われわれが人物を評価する場合、ついついはなばなしい業績に目を奪われがちだ。しかし、その背後には、それらを成し遂げるためのたいへんな努力が必ずあったはず。

 白石がえらいのは、己の物覚えの悪さを自覚しながらも、それを補うためのすべを考えだし、それを不断に実行していたことだ。


「かほどまでにも学びなせし事は、( 中略 ) 世の人の一たびし給(たま)ふ事をば十たびし、十たびし給ふ事は百たびせしによれる也。」(2)


 己の弱点を自覚し、その克服に努力を惜しまぬ人にはかなわない。


【注】
(1)杉田玄白著『形影夜話・乾』による。国立公文書館蔵、請求番号:195-0627
(2)新井白石著・羽仁五郎校訂『折たく柴の記』1977年第21刷(1939年第1刷)、岩波文庫、P.61
2023年6月2日(金)
好きこそ
 一芸に秀でたいと思うなら、まずその技芸自体が好きであることが前提だ。

 好きでなければ努力が長続きしない。長く努力できるからこそ、技芸の上達が見込めるというものだ。そうやって習得された技芸は、老齢に及んでも衰えることはない。

 無名であっても己の道に精進し、達人の域に到達した人々はおおぜいいる。


 たとえば、富岡杢右衛門(とみおかもくえもん)という砲術家は、生まれついてのひどい近視だった。土瓶の口がどこにあるかさえ見分けられず、熱湯を茶碗に注ごうとして自分の股にかけてやけどしてしまうほど。しかし、ひとたび鉄砲を取れば10間(18m)・20間(36m)先の的をはずすことがなかった。

 山田半助(やまだはんすけ)という馬術家は老衰して足腰が立たなくなり、家の中ではい回ることしかできなかった。しかし人に介助されて馬に乗せてもらえば、いかなる悍馬(かんば)でさえ思うがままに乗り回した。
 
 窪島俊哲(くぼしましゅんてつ)という鍼医者(はりいしゃ)は中風を煩ったため、焼き豆腐を箸ではさみ切る力さえなかった。しかし針治療の腕前は、病前・病後ともにまったく変わることがなかった。

 宇田川平兵衛(うだがわへいべえ)という裁縫家はものさしを用いず、正確な長さに布を裁断できた。老衰で目測の狂いが生じたが、それを頭の中で補正できたため、裁断の正確さはいっこうに変わらなかった。


 それぞれの道の達人たちについて、杉田玄白は次のように評す。


「是等(これら)皆親しく交(まじわ)りし人どもなり。

 何
(いず)れも何(いず)れも深切(しんせつ)に己が道を好(す)き学べる輩(やから)にて、暫時(ざんじ)も懈怠(けたい)なく修行せし男共(おとこども)なり。かくありしにより、妙手(みょうしゅ)の処(ところ)を得(え)たると知らる。」

(これらの者たちは、私(玄白)が親しく交流した人々ばかりである。いずれも、それぞれの道を深く好んで学んだ者たちで、わずかな時間であっても怠ることなく修行に明け暮れた男たちだ。こうした心がけによって、それぞれの道で名人の域に達したというのが知られる。)



 まさしく「好きこそ物の上手なれ」だ。


【参考】
・杉田玄白著『形影夜話・乾』、国立公文書館蔵、請求番号:195-0627
2023年6月1日(木)
シーボルト事件の落書
 シーボルト事件の顛末を記録した『蠻蕪子(ばんぶし)』。書名は景保の号に由来する。景保は「蠻蕪臼(バンブース)」と名乗った。「バンブ」はオランダ語で竹の意。高橋の高と竹の音通から。「ース」は尊称という。

 同書にはシーボルト事件に関する当時のちょぼくれ・落首なども所載されている。限られた情報下であったものの、当時の人々がこの事件をどう見たかを、その一端がかいまみえる。

 次はそうした史料の一つ。


 厳眼逢身罸刑馬歌(きびしひめにあふみばつけいのばか)(1)

粟津  國圖(くにず)の制禁  今上(いまかみ)の御政道
 いつのまにわが国ゑづがおらんだの 羅紗(らしゃ)・珊瑚珠(さんごだま)ニ化(ばけ)た大変

石山  大山に御目が附き  手附少将香觸(かぶれ)朝臣(あそん)
 天工文(あまぐも)もつつミ兼(かね)るや漏出(もれいず)る うんのつきをけふ見つる哉(かな)

唐崎  高橋の涙雨 父子宰相罪科(つみとが)
 つぼまらぬへたなお尻が出た故ニ 臭イ中迄鼻がびくびく

堅田  岡田の落命(2)
 あいたいたかいたゑづ故けふは又 恥をかいたもかいたゑづ故

矢走(やばせ)  山師の気侭(きまま)  図書頭兼天文博士大頬朝臣(ずしょのかみけんてんもんばかしおおづらあそん)
 人妻(まおとこ)を仕たり國図を渡したり 物は取たり身ハ取られたり(3)

比良  卑劣な陰説  入牢衛門入道立身(じゅろうえもんにゅうどうりっしん)が女(むすめ)
 あすこから三拾俵をひり出して 親結構なとんだ火の番

勢田  したハ内証  前の手附の頭永井が妻(4)
 をもてにはさらに女房の貌(かお)をしてさすがくぐつのぬけつくくつつ

三井  筒井の番所(5)  詮議の沙汰吉卿
 たて板に水を流せる筒ゐづつ はや高橋も落ぬとぞきく



【注】
(1)厳眼逢身罸刑馬歌は「厳しい目にあう」と「近江八景の和歌」を掛けた狂歌の意。近江八景は以下の八つ。 粟津晴嵐(あわづのせいらん)・石山秋月(いしやまのあきのつき) ・唐崎夜雨(からさきのよるのあめ)・堅田落雁(かたたのらくがん) ・矢橋帰帆(やばせのきはん)・比良暮雪(ひらのぼせつ)・勢多夕照(せたのせきしょう) ・三井晩鐘(みいのばんしょう) .
(2)岡田は高橋景保の部下で画工の岡田東輔(画名月釣)。事件発覚後自殺。
(3)当時噂された高橋景保の行為を列挙した。高橋景保は人妻に不義を仕掛けたり、日本地図をシーボルトに渡したり、見返りの品を取ったり、その身は捕縛されたりと。
(4)永井は大御番小笠原備後守同心永井甚左衛門。『蠻蕪子』によれば、高橋景保が永井の妻に不義を仕掛けたが、妻は貞節を守って拒絶したという。
(5)筒井は町奉行筒井伊賀守政憲。狂歌は、筒井の追及に高橋も罪を自白したの意。
2023年5月31日(水)
高橋景保への罪状申渡し
 文政13(1830)年3月26日、牢死した高橋景保に「存命に候得(そうらえ)ば死罪」との罪状申渡しがあった。

 『文政雑記』
(1)に高橋景保への罪状申渡し文があったので、全文を次に載せる。なお、判決が死罪だったため、塩漬けにされた景保の死骸は取捨てるよう非人頭(ひにんがしら)車善七(くるまぜんしち)に指示された(『蠻蕪子』)。


          御書物奉行天文方兼
                   高橋景保

 地誌並(ならびに)蘭書和解
(2)(らんしょわげなど)の御用相勤罷在候(ごようあいつとめまかりありそうろう)に付(つき)、御用立候(ごようだちそうろう)書類取出(とりだし)差上候得(さしあげそうらえ)ば、御為筋(おためすじ)にも可相成(あいなるべし)と兼(かね)て心懸候由(こころがけそうろうよし)申立候得共(もうしたてそうらえども)去る戌年(いぬどし)(3)江戸参府の阿蘭陀人(おらんだじん)外科シーボルト(4)儀、魯西亜人(ろしあじん)著述の書籍(5)・阿蘭陀属国の新図所持致し候趣(おもむき)、通詞(つうじ)吉雄忠次郎(よしおちゅうじろう)(6)より及承(うけたまわりおよび)、右書類手に入(いれ)、和解致(わげいたし)差上度(さしあげたく)一図(いちず)に存込(ぞんじこみ)、懇意致候得共(こんいいたしそうらえども)容易に不手放候間(てばなさずそうろうあいだ)、忍び候(そうらい)て度々(たびたび)旅宿(りょしゅく)へ罷越(まかりこし)、懇意を結び候上(そうろううえ)、右書類交易(こうえきの義申談候処(もうしだんじそうろうところ)、シーボルト儀日本並蝦夷地(えぞち)宜図(よきず)有之候(これありそうら)はば取替可申旨(とりかえもうすべきむね)申聞(もうしきき)、右地図異国へ相渡候義(あいわたしそうろうぎ)は御制禁に可有之哉(これあるべきや)と存候得共(ぞんじそうらえども)、右にかかわり珍書(ちんしょ)取失(とりうしな)ひ候(そうろう)も残念に存(ぞんじ)下河辺林右衛門(しもこうべりんえもん)(7)に申付(もうしつけ)、先年御用にて仕立候(したてそうろう)測量の日本並(ならびに)蝦夷の地図、地名等差略致(ちめいなどさりゃくいたし)新規仕立させ、両度に差贈(さしおくり)、右書貰請(もらいうけ)、並(ならびに)東韃紀行(とうだつきこう)(8)・北夷紀行(ほくいきこう)・九州小倉下の関辺の測量切絵図(きりえず)等貸遣(かしつかわす)

 其後
(そのご)シーボルトより、ヱトロフ・ウルツプ辺迄引続候(ひきつづきそうろう)縮図仕立呉候様申越候(しゅくずしたてくれそうろうようもうしこしそうろう)に付(つき)、差送候心得(さしおくりそうろうこころえ)にて、是亦(これまた)林右衛門へ申付(もうしつけ)、仕立出来致候得共(したてできいたしそうらえども)、右絵図は不差贈(さしおくらず)

 右次第及露顕
(ろけんにおよび)、御詮義(ごせんぎ)の上シーボルト帰国不致内(きこくいたさざるうち)、地図其外(そのほか)御取上候(おとりあげそうら)へ共(ども)、右体(みぎてい)不容易品(よういならざるしな)阿蘭陀人へ相渡(あいわたし)、重き 御制禁を背候段(そむきそうろうだん)、不届(ふとどき)の至(いたり)

 剰
(あまつさえ)平日役所御入用筋(ごにゅうようすじ)の儀、縦令(たとい)私欲は無之候共(これなくそうろうとも)、勝手向入用(かってむきにゅうよう)と打込(うちこみ)に遣払紛敷取計(まぎらわしきとりはからい)、其上(そのうえ)身持不慎(みもちつつしまざる)の儀も有之(これあり)、旁(かたがた)御旗本身分有之間敷(おんはたもとみぶんにこれあるまじき)重々不届(じゅうじゅうふとどき)の至(いたり)に候(そうろう)

 存命に候得
(そうらえ)ば死罪被 仰付(おおせつけらる)もの也(なり)


【注】
(1)
「66 高橋景保・土生玄碩等申渡之覚」文政13年(『文政雑記』国立公文書館蔵。請求番号:150-0142)。
(2)
蘭書和解 オランダの書物の翻訳。
(3)去る戌年(いぬどし) 文政9(1826)年(丙戌、ひのえいぬ)。
(4)
阿蘭陀人(おらんだじん)外科シーボルト シーボルトはドイツ人。
(5)
魯西亜人(ろしあじん)著述の書籍 クルーゼンシュテルンの『世界周航記』のこと。
(6)
吉雄忠次郎(1787~1833) 名は永宣。忠次郎は通称。小通詞助役。シーボルトのために翻訳を手伝い、高橋景保に書籍送付の斡旋をした。シーボルト事件においては天保元(1830)年江戸の町奉行に引き渡され、5月25日永牢の判決が下し、米沢の上杉佐渡守勝義へ御預けとなった。天保4(1833)年2月29日病没。47歳。(片桐一男『オランダ通詞』2021年、講談社学術文庫、P.353~354参照)
(7)
下河辺林右衛門 二丸火の番、高橋景保手付暦作測量御用手伝出役。シーボルト事件においては中追放処分となった。
(8)
東韃紀行 間宮林蔵口述、村上貞助編の地誌・探検記『東韃地方紀行』のこと。本書の内容がシーボルトによってヨーロッパに紹介され、間宮海峡(樺太(サハリン)が島であることを発見)の存在が知られることになった。
2023年5月30日(火)
塩漬けの意味
 高橋景保(1785~1829)は江戸後期の蘭学者・天文学者。字(あざな)を子昌、通称を作左衛門、号を蛮蕪(ばんぶ)といった。

 高橋景保の名は高校の日本史教科書にも載っている。それは彼が、シーボルト事件に関与したからだ。オランダ商館付医員のシーボルトに、クルーゼンシュテルン(ロシア海軍提督)の『世界周航記』(1803~1806年におこなわれたロシア初の世界周航の記録)などと交換に、当時海外持ち出し禁止だった日本地図を与えて罪に問われたのが景保だった。

 その後景保は牢死してしまったが、ショッキングなことに罪科が確定するまで、その死骸は大瓶に入れられ塩漬けにされた
(1)

 そもそも


「磔(はりつけ)已上(いじょう)の大罪人ニ無之候(これなくそうら)ヘバ塩漬ニは相成(あいな)らざる」(2)


ものだった。

 御定書の規定で塩漬けにされるのは、主殺し・親殺し・関所破りなどの重科人の死骸である。前例では丸橋忠弥(由井正雪の乱、1651)の死骸が塩漬けになっている。つまり、景保の行為は丸橋らの謀反事件にも相当するものと見なされていたわけだ
(3)。当時の政権担当者たちの驚愕ぶりが目に見える。

 結局景保は、斬罪という「厳科」に処せられた。


【参考】
(1)『蠻蕪子(ばんぶし)』(国立公文書館蔵、請求番号:166-0189)によると、文政12(1829)年2月16日に高橋牢死(享年45)、同18日に御目付本目帯刀と御徒目付上村吉兵衛・吉川十郎兵衛による死骸見分、19日に死骸の塩漬けが指示されたという。保管場所は、浅草溜内車善七構内の葭簀張りの小屋で、その中に大瓶を据えて死骸を塩漬けにした。瓶の口は厚板で蓋をして重しの石を置き、荒縄できつく固定されたという。
(2)『蠻蕪子』(前出)による。
(3)南和男『江戸の町奉行』2005年、吉川弘文館、P.76。
2023年5月26日(金)
ただ者ではない
 白樺派を代表する小説家・劇作家のひとりとして知られる武者小路実篤氏(1885~1976)。自筆の色紙を大量に遺した。氏の作品は「素朴である」「味がある」「誠実な人柄がにじみ出ている」などと形容される。なるほど、いずれの絵も書も味わい深い。

 しかし、技法にのみ限って見れば、お世辞にも上手とは言いがたい。もちろん、氏は専門の画家・書家ではないから、そもそも技術面のことを云々するのはお門違いだ。

 それを承知で野暮を言うのは、そもそも氏が生真面目な努力家で、技術面でも上手くなるために精進していたということを知ったからだ。

 氏が絵筆をとったのは40歳頃と遅かった。しかし、それから1日に3枚ずつ絵を描き続き、生涯では5万4千枚もの作品を残したという。

 これほどの情熱を傾け努力し続けたのにもかかわらず、絵も書もついに上達しなかった。

 この驚くべき事実に関して、直木賞作家の山口瞳氏(1926~1995)は次のように言う。


 私にとって「勉強すれば偉くなる」とか「勉強すれば上達する」ということよりも「いくら勉強しても上手にならない人もいる」ということのほうが、遙かに勇気を与えてくれる。


 こんなところでも他人に勇気を与えられる人。武者小路氏はただ者ではない。


【参考】
・竹内政明『名文どろぼう』2010年、文春新書、P.209~210
2023年5月22日(月)
側用人と御用取次
 江戸幕府の似たような役職に側用人(そばようにん)と御用取次(ごようとりつぎ)がある。

 『日本史広辞典』(山川出版社)によると、側用人は


「将軍の命を老中に伝え、老中からの上申を将軍に伝達するのを職分とした」(「側用人」の項)


とあり、御用取次は


「将軍と老中以下諸役人の間にあって未決・機密の案件の取次を職分とした」(「側御用取次」の項)


とある。いったい、どこがちがうのだろう。

 5代将軍綱吉の時代、御用部屋で稲葉正休が大老堀田正俊に刃傷に及ぶという事件がおこった。江戸城内であっても、このような突発的な事件の発生は避けられない。しかしいかなる場合であっても、将軍に危害が及ぶことだけは絶対に避けなければならない。

 そこで将軍の安全を確保するため、それまで近接していた将軍の御座所と老中が執務する御用部屋とを離すことにした(御用部屋を中奥から表へ移した)。

 しかしそうなると、将軍と老中が直接対面できなくなるので、両者間のコミュニケーションがとりにくくなる。その欠点を補ったのが側用人だ。

 役割は連絡係なので電話やインターフォンと同じだ。しかし、将軍の代弁者なので、自然と側用人ひとりに権力が集中してしまう。

 吉宗が8代将軍に就任すると、側用人を廃止して御用取次を設置した。紀州時代からの腹心の部下数名をこれに任じ、将軍と老中以下諸役人との間の御用を取次がせた。

 側用人と大きく異なるのは、幕政上の機密事項にも触れ、将軍からの政務の相談にも預かるなど、幕府の政策決定に積極的に関わっていた点だ
(1)

 吉宗はこの御用取次を巧みに使って享保の改革を推進した。

 吉宗の8代将軍就任を支持したのは門閥譜代層だった。改革を推進するためには、彼らの幕府内における地位・役割を尊重しつつも、彼らからの掣肘をできるかぎり排除しなければならならい。

 そこで、まず御用取次を介して関係部署の役人たちに政策を立案させる。そして原案が煮詰まったところで、将軍が政策の執行を老中に命令するのだ。老中は政策の執行を関係部署に命令するが、政策はすでに御用取次・関係部署間で練りあがっているからスムーズに実行される。

 こうして幕府本来の職制にのっとった政策の立案・決定・執行をしつつも、実質は老中の制約をうけない政治運営を行おうとしたのだ。
(2)


【参考】
(1)あれやこれや2021年8月10日参照。
(2)藤田覚『近世の三大改革』2002年、山川出版社、P.91~92。
2023年5月19日(金)
蔵米の支給
 江戸時代、蔵米取りの幕臣の給与(俸禄米・扶持米)は、浅草にあった幕府の米蔵から現米で支給された。

 本来、新米の収穫時期は秋だから、収穫された米で蔵が満たされたのち、旗本・御家人たちに支給するのが筋である。しかし、それでは次の俸禄支給まで、丸々1年待たなければならない。その間食いつなげず、潰れてしまう幕臣が出てくるおそれがある。

 そこで幕府は、支給を年3回の分割払いにすることにした。春(2月)に1/4、夏(5月)に1/4、そして新米収穫後の10月に残り1/2を支給することにしたのだ。

 2月分と5月分の支給は、受取人の側では形式上10月に受け取るはずの俸禄を前借りすることになるので、それぞれ春借米(はるかりまい)・夏借米(なつかりまい)といった。これに対し、本来の支給時期である10月分は冬切米(ふゆきりまい)といった。切米は分割払いの意味だ。だから2月・5月・10月の3回の分割払いを「三度切米(さんどきりまい)」ともいった。

 さて、江戸時代がいくら「米遣いの経済」だといっても、人間米ばかり食べて生活できるわけでもない。家族・使用人らの食い扶持分の米を差し引いた残りを現金化し、一般経費にあてなければならない。幕府もそんなことは百も承知で、実際には2/3を金で、残り1/3を米で支給したのである。

 現金支給分は、俸禄米を幕府が買い取る形で支給された。しかし、米相場は日々変動する。また、時代がくだってくるとインフレが進み、また「諸色高(しょしきだか)の米価安(べいかやす)」(諸物価が高騰するのに、米価は下落)という現象さえおこってくる始末。換算率はどうしたのだろう。

 幕府は、幕臣の生活困窮を救うため、市価より高く米相場(買取り価格)を設定したのだ。幕府公定の米相場は、たとえば「百俵につき40両(100俵を40両で買い上げる)」と奉書紙に書き、これを江戸城本丸の中之口(なかのくち)の廊下に張り出した。これを「張紙相場(はりがみそうば)」とか「張紙値段(はりがみねだん)」とかいった。

 ただし、幕末になって幕府財政が逼迫してくると、さすがに張紙相場の換金率は下がっていったという。


【参考】
・稲垣史生『楽しく読める江戸考証読本(三)ー大名と旗本編』2010年、新人物往来社、P.93~94
2023年5月12日(金)
江戸城の入口
【問題】
 江戸時代、江戸城への入口は複数箇所あったが、登城者の身分や役職によってそれぞれ異なっていた。

 それでは次のうち、老中が使用した入口はどれだろう。


    (1)大玄関
(おおげんかん) 
    (2)御納戸口
(おなんどぐち)
 
   (3)中之口(なかのくち)
    (4)御風呂屋口
(おふろやぐち)



【答え】
(2)御納戸口

 老中や若年寄・側用人など幕府要職にあった者たちは、御納戸口から本丸御殿にあがった。ゆえに納戸口は俗に「老中口」ともよばれた。(1)の大玄関から出入りするのは大名や番方(武官)の旗本など、(3)の中之口は役方(文官)の旗本などが使用した。(4)の「御風呂屋口」は大奥近くにあった。台所口とともに、将軍が外出する際の出入りに使われた。


【参考】
・稲垣史生『楽しく読める江戸考証読本(三)―大名と旗本編』2010年、新人物往来社、P.105~106

2023年5月11日(木)
一竿子忠綱(いっかんしただつな)の大脇差
 天明4(1784)年3月24日、江戸城本丸御殿中之間で、新御番(しんごばん。江戸幕府五番方のひとつ)佐野政言(さのまさこと。1757~1784)が若年寄田沼意知(たぬまおきとも。1749~1784)を脇差(わきざし)で刺して深手を負わせた。この傷が原因で、田沼は数日後に死去する。
 
 この時、田沼暗殺に使われたのが一竿子忠綱(いっかんしただつな。二代近江守忠綱)作の大脇差(おおわきざし)だった。

 脇差は刃渡り1尺(30.3cm)以上2尺(60.6cm)未満の小振りの刀で、「腰脇に差す刀」のこと。なかでも1尺8寸(54.5cm)以上の脇差は「大脇差」とよばれた。

 しかし、一竿子忠綱作の大脇差は、2尺1寸(63.6cm)もあったという。規定以上の長さである。

 武士は、打刀(うちがたな)に添えて脇差を腰に差した。いわゆる「二本差し」である。しかし、江戸城御殿内では、脇差しか差せない決まりになっていた。

 したがって、暗殺を企てるにしろ、不意打ちに対処するにしろ、脇差が主要な武器となる。ならば、少しでも刃渡りの長い脇差を持った方が有利だ。脇差の刃渡りだけを比較しても、最短のものと最長のものとでは30cmもの開きがある。

 松の廊下で、浅野長矩(あさのながのり。1667~1701)が装束用(しょうぞくよう)の馬手刺(めてざし)で吉良義央(きらよしなか。1641~1702)に斬りつけた時には、小さ刀(ちいさがたな)を振り回しただけだったので相手に軽傷しか与えられなかった。

 一方、田沼が致命傷を被ったのは、佐野が一竿子忠綱作の大脇差で相手を突き刺したからにほかならない。 
2023年5月10日(水)
高齢者の保養書
 香月牛山(かつきぎゅうざん。1656~1740)は江戸中期の医者。中津藩医や小倉藩医をつとめ、『養生訓』を書いた貝原益軒(1630~1714)とも親交があった。

 香月牛山の著書といえば『小児必用養草』が有名だが、その一方で『老人必用養草』という高齢者対象の保養書も書いている。

 このたぐいの著作では、それまで高齢者そのものを対象にしたものはなかった。

 たとえば、貝原益軒の『養生訓』(1713)にしても対象は一般向けであり、高齢者に関しては部分的に扱っているにすぎなかった。ゆえに「老人必用」を書名に付し、高齢者だけを対象にした本書は、わが国における高齢者保養書の先がけという(1)

 『老人必用養草』は5巻5冊から成る。天寿を全うする保養の秘訣を総論(1巻)、飲食(2巻)、衣服・居処・四時保養(3巻)、七情保養・形体保養・色欲(4巻)、疾病医療等(5巻)に分けて述べている
(2)

 本書を60歳の時に著した香月はその後85歳まで生き、その天寿を全うした。


【注】
(1)中村節子・平尾真智子「香月牛山『老人必用養草』(1716)にみる老人の保養観」ー第112回 日本医学史総会 一般演題ー
(2)香月牛山『老人必用養草』正徳6年刊、花洛書舗(粕淵権兵衛)。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:195-0155。
2023年5月1日(月)
飛耳長目
 飛耳長目(ひじちょうもく)という言葉がある。手元にある電子辞書には次のようにあった。


《遠くのことをよく見聞きする耳と目の意から》
1.観察が鋭く深いこと。
2.見聞・知識を広める書籍のこと。長目飛耳。(デジタル大辞泉)


 この飛耳長目に関し、卒業式等でよく引用される荻生徂徠(おぎゅうそらい。1666~1728)の文章がある。「見聞や知識を広めよ、井の中の蛙になるな」。これは何百年たとうが変わらぬアドバイスだろう。


「惣じて学問ハ、飛耳長目の道と荀子(じゅんし)も申候(もうしそうろう)

 此國
(このくに)に居(い)て、見ぬ異国の事をも承(うけたまわり)(そうろう)ハ、耳に翼(つばさ)出来(いでき)て飛行(とびゆき)(そうろう)ごとく、今の世に生れて、数千載(すうせんざい。数千年)の昔の事を今目にミるごとく存(ぞんじ)候事ハ、長き目なりと申(もうす)事ニ候。

 されバ見聞
(けんぶん)(ひろ)く事実に行(いき)わたり候を学問と申(もうす)事ニ候故(ゆえ)、学問は歴史に極(きわ)まり候事ニ候。

 古今和漢へ通じ不申
(もうさず)(そうら)へば、此国(このくに)今世の風俗の内より目を見出(みいだ)し居(おり)候事にて、誠に井の内の蛙(かわず)に候。」(1)



 なお、吉田松陰(1830~1959)も飛耳長目を重視していたという。


【注】
(1)根遜志録『徂徠先生答問書・上』享保10(1725)年序、早稲田大学図書館蔵、請求記号:ロ1301204。
2023年4月28日(金)
見た目が9割(2)
 来訪者は「幕府御小納戸役(おこなんどやく)青木伊織」と名乗った。小納戸役は将軍側近の役職で、将軍の日常生活の世話をする職務だ。青木と名乗る男は、次のように用件を告げた。


「一位様(将軍綱吉の生母桂昌院と)今夜急に金子三百両御入用の事あり。豆州(伊豆守。堀田正虎)御用立(ごようだて)(たま)ふに於(おい)ては御喜悦(ごきえつ)(ある)べし。若又(もしまた)滞る事有て指上(さしあげ)られずと云供(いえども)苦しからず。さあれば、又他へ罷越(まかりこす)べきとの令命(れいめい)(あり)。」

(桂昌院様が、今夜急に300両の金子を必要とする事態になりました。そこで堀田殿が300両御用立て下されば、桂昌院様もお喜びなさりましょう。しかしながら、支障があって用立てできなくても差し支えはありません。そうであれば、他家に用立てを依頼するように指示されておりますから。)



 相手が将軍生母とあれば、ここでその依頼にこたえて恩を売っておくに限る。堀田家の家名を挽回するのに、またとない好機である。

 しかし何とも腑に落ちない。正虎の重臣のなかに、男を見知った者が誰もいないのだ。しかし、


「彼男の月代(さかやき)の剃(そ)り様(よう)、髪の結(ゆい)ぶり、浅黄(あさぎ)の無垢(むく)に黒小袖(くろこそで)着し、大小の作り、さげたる印籠(いんろう)の風(ふう)まで、あくまで御小納戸衆に紛(まぎれ)なし。」


と思えた。そのほか玄関に脱いだ草履、持参した紋付きの提灯にいたるまで、何らあやしむべき点はない。

 そこで300両を用立てることにしたのである。しかし、男への疑念がまったく払拭されたわけではなかった。そこで男を返すにあたり、堀田家の用人を付き添わせることにした。

 堀田家をあとにした男が、浅草川のとある場所にいたったときのことである。男に、少し立ち止まるような気配が見えた。すると突然小船へととび移り、そのまま夜の闇のなかへと姿を消してしまった。男は盗賊だったのだ。

 用人は万一に備えて騎馬で男に付き添っていた。しかし、船で逃げられてしまっては何の役にも立たなかった。

 この事件は外聞が悪いので堀田家では内密にされた。そんなことも承知のうえで、盗賊は詐欺の相手に大名家を選んだのだろう。


【参考】
・『武林隠見録・4』「堀田伊豆守公儀向を繕ふ方便並盗賊屋敷へ来事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年4月27日(木)
見た目が9割(1)
 「人は見た目が9割」という。

 たしかに多くの人は、見た目や肩書きで相手のことをわかった気になっている。だから詐欺師は、警官や銀行員・市役所職員など、社会的に信用のある職種を詐称するのだろう。

 ところで、堀田正虎(ほったまさとら。1662~1729)は、大老だった堀田正俊の次男で、堀田正仲の双子の弟である。兄正仲に嫡子がいなかったため、その養子になっていた。その後兄が33歳の若さで病死してしまったので、堀田家当主となった。

 しかし、正俊の横死以来、堀田家は家運が傾き台所は火の車だった。「諸家に比類なき内証不如意」だったため、主君の居間すら板張りでなく簀掻き(すがき。板や竹をすのこ状に並べた質素な床)という有様だった。

 それでも正虎には、何とかして堀田家の威名を挽回したいとの強い思いがあった。そこで、政府要人に取り入るため、金には糸目をつけなかった『続編武林隠見録』には次のようにある。


(正虎は)家相続して後、

『何とぞして上を繕(つくろ)ひ、家名を快(こころよく)せん。』

と松平美濃守(幕府の実力者柳沢吉保のこと)を初(はじ)め大小の諸役人に取入(とりいり)、毎日音信(いんしん。贈り物)(たや)す事なし。金銀悉(ことごと)く是(これ)が為(ため)に費すと也(なり)。」


 そうした折り、正虎の屋敷に見ず知らずの侍がひとりで訪れ、300両の金を用立てて欲しいと申し出たのである。

 仮に1両を現在の10万円相当とすれば、3,000万円もの大金だ。ふつうならそんな男は即座に怪しいと判断し、玄関先で追い払ってしまうだろう。ところが、堀田は男の素性に疑念を抱きつつも、300両の大金を男に渡してしまったのだ。

 一体、どうしたことか。
2023年4月26日(水)
代償
 父親(堀田正俊)横死の際、醜態をさらして武門の面目を失った堀田正仲(ほったまさなか)。何とか挽回しようと諸役人にあれこれ手をまわし、御能拝見(おのうはいけん)(1)を願い出た。

 ようやくその願い出が聞き届けられ、「幾日(いくにち)に罷出(まかりいず)べき」ということになったが、そのころ運悪く泄瀉(せっしゃ。下痢)を煩ってしまった。下痢ばかりか、数度の喪心(そうしん。気を失うこと)までともなう。これでは一日がかりの御能拝見などとても無理だった。

 だからといって今回出席しなければ、ますます御上の印象を悪くしてしまうだろう。

 そこで正仲は、医者を呼んで相談した。何とか1日だけでも下痢を止める方法はないものかと。医者が答える。あるにはあるが、そのようなことをすれば後の治療がことのほか難しく、どうなるかわからぬと。

 それでも正仲は


「其義(そのぎ)はたとへ死しても苦しからず。」(たとえ死んでしまってもかまわぬから頼む。)


と言う。そこでやむなく医者が投薬すると、果たして症状は改善した。おかげで首尾よく御能拝見を済ますことができた。

 しかしその代償は大きかった

 その後正仲の病状は悪化。ついに回復することはなかった。享年33歳。「たとへ死しても」といったその言葉通り、正仲は御能拝見と自分の命を引き替えにしてしまったのだった(2)


【参考】
(1)
東京都立図書館のホームページにある「御能拝見」の解説は次の通り。

「将軍代替わりなどの慶事の際には、朝廷からの勅使饗応のため本丸御殿大広間前の表舞台で能が催された。御三家・諸大名とともに、町方からも八百八町の家主など一町のいうち2名が招かれ、裃を着けた町人が青竹を巡らした大広間の白州で能を観賞した。町人には饅頭や、昼食時には御握りなどの弁当も出された。また、晴雨にかかわらず傘を与えるのが慣例となっていた。(以下略)」
(東京都立図書館ホームページ(library.metro.tokyo.lg.jp)、同館所蔵史料「10.旧幕府御大禮之節町人御能拝見之圖」の解説による。)
(2)以上、『続編武林隠見録・4』「堀田下総守首尾不宜事付死去の事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035による。
2023年4月25日(火)
気が動転する
 貞享(1684)年8月28日、江戸城内で大老堀田正俊(ほったまさとし)が若年寄稲葉正休(いなばまさやす)によって刺殺された。犯人の正休はその場にいた老中たちに直ちに斬り殺されてしまったため、殺害動機は不明である。そのためさまざまな憶測がとびかった。

 そのひとつに綱吉黒幕説がある。

 正俊は綱吉を5代将軍に擁立した立役者のひとりだった。そのため大老にも抜擢された。しかし、この頃は権勢に奢るようになり、綱吉は正俊の存在を煙たく思うようになっていた。そこで綱吉は、正休をつかって正俊を殺させ、ついで老中らに正休の口封じをさせて真相を闇に葬ったというのだ
(1)

 閑話休題。

 刺された正俊にはまだ息があった。しかし血の穢
(けが)れをはばかり、嫡子の堀田正仲(ほったまさなか。1662~1694)が同駕して江戸城を退去した。

 この時、正仲は親(正俊)の悲惨な状況を目のあたりにして気が動転し醜態をさらした。綱吉は正仲の臆病さに不快感を示し、よって堀田家では家名挽回のためにしばらくのあいだ苦しむことになったという。『続編武林隠見録』には次のようにある(2)


 御城中(ごじょうちゅう)(けがれ)の事を憚(はばか)り、未(いま)だ息の通(かよ)ひ有由(あるよし)にて下総守(しもふさのかみ。堀田正仲)と同駕(どうが)になして退去となり。

 彼時
(かのとき)正仲、筑前守(ちくぜんのかみ。堀田正俊)の体(てい)を見て肝(きも)を消され、わなわな振(ふる)ひ腰の抜(ぬけ)たるごとく立事(たつこと)あたわず。皆々是(これ)を見て余りに側(かたわら)(はず)かしく思ひ、取(とり)て引立(ひきたて)介抱(かいほう)して退(しりぞ)けしむと云(いえ)り。

 此
(こ)の義を綱吉公聞召(きこしめさ)れ、


「父の死を見て驚きたるは勿論
(もちろん)の義ながら、何とて左様(さよう)にうろたへたるや。武門に生れたる身、右のごとくにて何の用にか立(たつ)べき。」


と上意
(じょうい)(あり)けるよし也(なり)けるが、是(これ)より甚(はなは)だ不首尾(ふしゅび)なりけると云(いえ)り。



【注】
(1)
安藤優一郎『大名廃業』2023年、彩図社、P.48~51。
(2)『続編武林隠見録・4』「堀田下総守首尾不宜付死去の事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年4月21日(金)
1日1万歩
 宮本茶村(みやもとちゃそん。1793~1862)は潮来村(いたこむら。現、茨城県行方郡(なめがたぐん)潮来市)の庄屋である。

 若い時には江戸で山本北山(やまもとほくざん。折衷学派の儒学者。1752~1812)に儒学を学び、のちには水戸藩の郷学延方郷校(のぶかたごうこう)で教鞭をとるほど学問熱心だった。こうした功績が評価され、のちに水戸藩の郷士にあげられた
(1)

 折りしも、水戸藩では9代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき。1800~1860)が藩政改革を実施していた。ところが弘化元(1845)年、突然幕府から藩政改革の内容を咎められて、斉昭は致仕(ちし。退隠)・謹慎処分(江戸駒込の別邸に幽閉)を言い渡されたのである。

 主な原因は、斉昭のおこなった改革のなかでも、寺院破却・梵鐘没収・一村一社の鎮守制及び氏子制といった一連の宗教改革にあったといわれる。幕府の宗教政策の根幹である寺請制度を脅かす改革だったからだろう
(2)

 この時茶村は江戸に上り、紀伊徳川家などへ斉昭の無実を訴えるという挙に出た。しかしこの雪冤(せつえん)運動があだとなり、茶村は弘化2(1845)年、水戸藩の役人に捕らわれ、水戸赤沼(あかぬま。現、茨城県水戸市東台)の牢獄に3年間幽閉されることになってしまった。

 狭い獄中ではろくな運動もできない。長らく投獄された囚人は足・腰が弱って立てなくなってしまう。そのため出獄した者は、山駕籠(やまかご。竹づくりの簡単な駕籠)に乗って故郷に帰るのがふつうだった。

 しかし、獄中での茶村は、毎日1万歩ずつ歩くことを心がけていた。そのかいあって出獄した際には、水戸から潮来まで約60kmの距離を歩いて帰ることができたという
(3)。この時(1847年)、茶村は55歳だった。


【注】
(1)
潮来市ホームページ、その他。
(2)鈴木暎一『藤田東湖』1998年、吉川弘文館、P.178~182。
(3)茨城県立歴史館史料部編集『茨城県立歴史館史料叢書5・近世地誌Ⅰ』2002年、茨城県歴史館、P.16。
2023年4月20日(木)
馬鹿殿
 江戸時代のお殿様の評判は毀誉褒貶さまざま。なかには「馬鹿殿」と評された大名もいる。

 本来なら不名誉なレッテルだ。しかしなかには「実は名君なのに、幕府にはばかるところがあって馬鹿殿のふりをしているのだ」とわけ知り顔に解説する史料がある。

 たとえば、加賀百万石の藩主前田利常(1594~1658)はだらしなく鼻毛を延ばしていたが、それは幕府の警戒心をといて前田家を存続させるために「馬鹿殿」を自演していたのだという
(1)。ただし、本人がそのように弁明しているから、こちらも「はい、そうなんですか」と相槌を打っているにすぎない。重要なのは、その史料(真田増誉『明良洪範』)に書かれた事柄の信憑性だ。

 閑話休題。『異説まちまち』によれば、松平下総守忠雅(1683~1746)もそうした「馬鹿殿」と噂された大名のひとり。しかし、時おり「馬鹿殿」らしからぬ行動が見られたため、「そら馬鹿」(馬鹿のふり)との説もあったという。原文は以下の通り。


 松平下総守忠雅公を愚者と云(いう)(せつ)(はなはだ)多し。

 しかるにある時、五節句にや有(あり)けん、諸家中列座の礼をうけて後、甚(はなはだ)不機嫌(ふきげん)(なり)。家老共より不審がりて伺(うかがい)けるに、


「我が紋付(もんつき)を着たる物(者)多し。」


と云(いわ)れけると也。家の軽く成(な)るを歎(なげ)かれたる成(なる)べし。

 又ある時、国元にて碁を打居(うちい)たれけるに、家中の喧嘩(けんか)壱人即死、一人とらへ置(おき)たるよしを云達(いいたっ)して、


「御政道の儀、江戸表(えどおもて)宮内(くない)様へ相伺(あいうかがい)、御仕置(おしおき)可申付(もうしつくべし)。」


と申(もうし)ければ、


「味噌・塩の事ハ宮内、宮内。喧嘩は両成敗(りょうせいばい)。」



といはれける故(ゆえ)、早速壱人を切腹云付(いいつ)けると也(なり)

 久しければ異変あるまじきにとあらず。定(さだま)りたる作法の事早速に云付られたる所、おもしろし。

 此(この)両条を見れば、その比(ころ)の公儀に憚(はばかり)ある事もありて「そら馬鹿」にやと云(いう)説あり。(2)



【注】
(1)
「あれやこれや2021」2021年11月9日付けの項参照。
(2)『異説まちまち・1』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:212ー0294。
2023年4月19日(水)
家光のヒゲ自慢
 3代将軍徳川家光の時代までは戦国時代の遺風が強く残っていた。

 その一つがヒゲを蓄えることで、武士たちは自慢のヒゲを競っていた。『異説まちまち』には家光のヒゲ自慢の逸話が載る
(注)


 家光公、御ひげ御自慢にて有(あり)しと也(なり)。御側衆(おそばしゅう)に問給(といたま)はく、


「當時
(とうじ。現在)の鬚(ひげ)は誰をか誉(ほむ)るや。」と。


「御前
(ごぜん。家光公)と御籏本衆(おはたもとしゅう)の内(うち)(なにがし。誰々)と御二人(おふたり)。」と申(もうす)


 翌日、右の御籏本衆のひげをそり候様
(そうろうよう)にと被仰付(おおせつけらる)。其(その)翌日、


「何の某
(なにがし)は鬚そりたるならん。よきひげハ我壱人なり。」


と被仰
(おおせられ)しと也(なり)


 家光は将軍権威を乱用してライバルのヒゲを剃らせ、ひとり悦に入ったのだった。

 しかし、こうしたヒゲ自慢の風習も、4代将軍家綱の時代になると廃れた。武断政治から文治政治への転換の中で、戦国時代の遺風の一掃がはかられたからだ。

 そのひとつとして、かぶき者がむくつけきヒゲを蓄えることを禁止した。それゆえ、4代目以降の歴代将軍の肖像画を見てもヒゲはないし、医者など特定職業の者を除きヒゲは見られなくなった。

 ヒゲが復活するのは明治時代になってからだ。

 明治天皇がカイゼルヒゲを蓄えると、政府役人や国会議員たちの間にもヒゲが流行した。彼ら新しい時代の支配者層には若者が多かった。そのため「若造」が民衆から馬鹿にされないよう、威厳を保つためにヒゲを蓄えたのだ。


【注】
・『異説まちまち・1』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:212-0294
2023年4月18日(火)
黒田直邦の『老話』(6)
(21)一、連枝はおなじく親の血氣をうくるもの也。親に次て連枝ほどしたしきはなし。生るるに前後あるゆへ、したしき中にも次第あるを以て道とす。兄は弟をいつくしみ、弟は兄をうやまいいつくしむ。惣領はことに父になぞらへてうやまいあつかるべし。常に互に心のへだてなからん事をおもふべし。

(22)一、親の子をおしゆるに遠慮はなき也。
 兄の弟をおもふにすこしづつの事はたがいにあるとも見ゆるしあるべし。さもなければ愛のみちたちがたし。弟の兄につかゆるには何ほどの事ありとも、不足をおもふべからず。不足をおもへば不礼いできて敬愛の道立がたし。

 右はうちおもひたるささの事どもをかたりまいらせ、天下の事はひろし、一座の談話にはつくべきにあらず。


 瀬名貞雄
(1)云、
 黒田豊州、享保十七年七月廿九日寺社奉行より西丸御老中被仰付、同廿年三月廿七日卒去。尤段々立身御加増にて一万石に成る。
 覃
(2)按、『春臺先生紫芝園稿』(3)所謂「沼田侯」也。
 観海先生(4)所著『春臺行状』曰、「沼田侯直邦」とあり。   <翻刻終わり>


【注】
(1)瀬名貞雄(せなさだお。1716~1776)は幕府旗本。1789年奥右筆組頭格となり、『藩翰譜続編』の編集にあたった。武家故実に詳しい。
(2)覃は大田南畝(1749~1823)の本名。大田は武家故実等に関する疑問を瀬名に質問し、瀬名の応答を『頼田問答(らいでんもんどう)』(国立公文書館蔵)として残している。なお「頼田」は瀬名・大田の意。
(3)『春臺先生紫芝園稿(しゅんだいせんせいししえんこう)』は太宰春台の漢詩文集(稲垣長章・堤有節編、宝暦2年刊)。太宰の著書に黒田直邦が登場するのは、太宰・黒田ともに儒学者荻生徂徠の門人だからである。
(4)最初漢学者を目指していた大田は、太宰春台の門人で儒学者・漢詩人として知られた松崎観海(1725~1776)に師事した。
2023年4月17日(月)
黒田直邦の『老話』(5)
(16)一、風雅をよしとするは、内につむ徳あつければ其心廣躰ゆたなり。その氣従容としてせまらず。その起居ふるまい、このむ所する所皆風雅也。詩歌管絃は皆従容不迫の意にして、風雅の言葉に出、聲にうつる也。此ゆへに詩歌管絃を以て優雅のうはもりとす。
 いにしへの武士は風雅の心ありて、武威につのる薩摩守忠度は軍中に歌を詠じて箙<えびら>につけ、源太景季は梅花を折て箙にさす。近代の太田道灌は鑓つけをうけながら辞世をよみて名を残す。かかるいそがわしき間、死生のさかいに武勇うすくしては風雅の氣あらめや。風雅をうしなわずして武威ますますつよし。たとへば鷹は勇猛の鳥也。空中に舞事きわめて優なり。此優氣よりして勇猛のわざをなすなり。
 風雅なるものはけやけきわろさしゐてなす、無理をしてもとむるやうの事、まして残暴のあらきわざなどはなきもの也。然共一むきに風雅を用ゆ事は、すえに流て本をわすれ、実にうすき事のみおほく、武毅をやはらかになるなり。何わざにても一へん成はよからぬなり。猶心得べきなり。

(17)一、世間に用らる茶湯といふもの、はるかに風雅のすえなるものなり。慈昭院殿、物の結構にあきて寒微なる事をおもしろく思はれ、世捨人・隠遁者のわざをまねられたりしよりおこれる也。美麗を防ぐに便あり。今の世には風雅をしらぬ人おほければ、せめて茶湯にても優雅の氣を心得なばよろしかるべし。料理をすき道具をもてはやすになりては、又閑居隠遁の心にあらず。本を失ふてよからぬ事になりもてゆく也。

(18)一、学問をするに、世俗の言葉に岸くづしと言と、しらげ米といふとの仕方あり。
 岸くづしといふは、書物のはじめよりをのが心に得たる程に一段づつきはめゆくなり。岸をかたはしよりくづしゆくがごとし。これはてま入やうなれど、一段づつ極めゆく故、さきに極めたるちからをもて後に極むる心得となりて、かへつてはかゆく也。
 しらげ米といふは、こころには得ねどもとかくまつはかをやり、あれこれを習ておほく讀力にて自然と理を得るを云。米をしらぐるにおほくの友すれにてしらげらるる心也。是ははじめよりとくとくと心得る事なきゆへ、後に習ふことのたりに成事なくて心得る方にはてま入る也。
 諸藝の道もそのごとく、何にてもわがおもひよりたる方を一精出せば、一年計の程には大概手に入ゆへ、外の藝をふにその業はちかへ共、手に入わけを自然と心得て、前に習ひたる所後のたりになる事有。
 年たけて藝を習ふ者、一品づつ極めゆかんとすれば外の藝おくれになる事あり。たとへば弓馬・劔術・鑓・長刀の類にても、かつて不調法成は當分事かけ成程に、少づつこころがくるうちにおもひ寄たる藝を一向極めおくがよきなり。さもなければ藝能あまた習ひ覚ゆといへども、一色も用に立ものなきなり。

(19)一、道を得たる人はつねに道に心ありて、氣ざしもすくやかにやまひもうすく、外の慰は求るにたらず。
 其已下の人は身をつつしみ業をたしなむのみにては氣鬱を生じ、つとむる事も物うくなりゆくゆへ、くるしからぬあそびは氣をやしなふたすけと成べし。
 偏屈なるものは遊藝はすまじき事とのみ心うるはせまき事也。
 一向に遊藝をやむれば、まぎるる事なきゆへ房事・飽食にて日をおくる、大酒・夜行にて夜をあかす、小うた・三味線などこそ丈夫の手に入ものにはあらざるべし。能・はやしなどは折ふしのなぐさみには害なからん。楽の琴・笛などをたのしまんは、猶さら古人の心にかなふべし。

(20)一、親につかふまつる事は、高位の人は志をやしなひ、卑賤のものは口腹をやしのふやしのふ〈衍字〉。こころざしをやしのふとは、親の志所はその志の立やうに心をつくすべし。親の好む所にしたがひ、きらふ事をさくべし。心をつくすとは真実をつくすなり。
 父は天のごとく、草木のその下にありて雨露のめぐみをうくるがごとし。父にあらざれば此身を立る事なし。母は地のごとし。草木の地にはらまれて生るがごとし。母にあらざれば此身を寄る方なし。このゆへに父をば天のごとくうやまふ。敬の至りなり。母は地のごとくしたしみいつくしむ愛の至り也。父母は血氣をうくるの本なり。したしみ厚くして愛ふかし。このゆへに父は敬愛をならべつくす。
 惣じて孝の道は理屈なきもの也。ただ和順を第一として真実を尽すなり。若父母のいかりにふれば、おそるる中にも猶さらに和順をうしなはずして受したがふべし。おのれに道理有事をおもふべからず。
 <以下続く>
2023年4月16日(日)
黒田直邦の『老話』(4)
(11)一、才智ありて能人をば邪智あるものは嫌ふ物也。平生の事を弁ぶるには正智も邪智もかくべつのちがいなきゆへ、人君かの邪智なるもののいふことを聞入給へば、正智の才徳あるものをしりぞけ給ふ事、唐・日本共にむかしより多事なり。是人君の智恵のうすきゆへなり。
 邪智なるものの人のささえをいふ事は、年月を経てたくみにこしらへなす事もあり。急に手のひかれぬやうにしてささゆる事もあり。おほくは人君の好む所の氣をうけきらふ事の心をはかりて、違停する事をもふけてささゆるなり。人君よく心をつけ給へばあやまちはなき也。

(12)一、学問をよくすれば萬の事是非邪正わかれ、下より訴る善悪・人のささえにまどはず、訴状・願書などの文段の上にもおのづからその心ねまでしるる事あり。このゆへに学問厚ければ益おほく、浅くても夫程の益あり。然ども誠ならねば私欲・利勘の事に学才を用ゆるゆへ、学問還てあだとなりて、むかしより学者のよからぬ人もおほきなり。
 年たけては学問のつとめ全くは成がたし。志あらばかなものにても古今歴代の事跡をみづからも見、人にもよませて聞がよきなり。智恵は身にそなへてあれどもみがかねは暗し。みがくといふは古き事どもを詮議して、よきわろきを極めしり、聖人の書一句、二句なりとも尋問て義理をきわめしるは、則智恵をみがくなり。

(13)一、日本にては道とする事三筋あり。神道・儒道・佛道也、正道なるは三筋ともに皆よきなり。師の邪曲なるは三ながら皆悪く取成也。神道より儒道をば外国のおしへなれば此国には用ゆまじき事とす。儒道よりは神仏は人まどはすあるまじきの地とす。仏道よりは神儒は世間にくらみて一大事をしらぬおろか成おしへとす。皆おのおの一筋の知る所にかたよる故、互にあだ・かたきのごとくおもふ也。
 道の至れる所は三筋ともに一におつれ共、一すぢさへ得るものたやすからねば、三道を極むる事はかたきゆへ、一に落るきわ迄をしる人はまれ也。むかし聖徳太子三道を鼎の三足に比して本邦に儒佛を廣め、此国の人に唐の文字をよみ習せ給ふゆへ、後の人儒仏の書をよむ事を得たり。先佛の道のあがむべき事をいはば、此国はもと神の築はじめ給ひ、神の主じ給ひて今にその御子孫を主上とあがめ、生るる所、おる所、領する地、皆神の守り給ふ地也。食物・衣服を出す田畑のみのり皆神のしわざ也。殊に人と生れくる事父母の氣をうくれども、其時の天地の氣をもうくるゆへ、此国の人はみな〈脱文あり、『秘籍大名文庫』により補う。「此国のしり給ふ所なり、神をうやまはされは立」〉がたし。儒道のおしへは五倫五常の道、天下国家を治るには儒道に過たるはなし。仏道は心事をおしゆる事、仏道よりくはしきはなし。心事をきわめしれば、情にながれ欲に迷ふことなきゆへ、道に至るの助おほし。爰〈ここ〉を以て聖皇〈割注「聖徳太子也」〉鼎の三足に比し給ひ、代々の帝王・将軍家皆信仰し、国家安全を祈り給へり。
 此国を治給ふには三道ともにあがめ給ふべし。道を得ぬ儒者の不行義なると寺院・社家の人まどはすなどは、其道の咎にはあらざる也。

(14)一、世の人天道をおそるといふ事あり。天子・将軍家の威をもおそれぬものは天道なり。これ孔子の罪を天に獲つれば祷るに所なしとの給ふ天の道也。是を天理ともいふ。天理の降る所を天命ともいふ。儒仏神の道とは外のやうにおばゆるは僻事〈ひがごと〉也。神道にては神中の神といひ、理の躬の神といふ是なり。仏道にては法身の仏大日如来といふは是也。天理にそむきては天道の罸をうくる。是みづからとるのつみにしてのがれがたし。つつしむべし。

(15)一、弓馬・劔術などは、尤武家のたしなむべきわざなればいふにおよばず。然共諸藝共に一へんにかたぶく時は、また政事を恐れ徳義を失ふに至る。習得て後は程よきをよしとす。
 <以下続く>
2023年4月15日(土)
黒田直邦の『老話』(3)
(6)一、上より出る事は大事也。義と利とを明らめて、少にても利方なる事はさくべきなり。上にては少しのあやなれば、みづからの心にはおぼえ給はねども、そのすえに至りてはひろごりて、ひとへに利方のことあきらかに聞ゆるゆへ、民の心安からず思ふて上のおきてを用ひず。上をあなどりはなるる心あり。是政の大なる害なり。

(7)一、天下の事は一己の心ひとつにて極ればしそんじあるもの也。このゆへにむかしの大聖人も問事を好み給へり。人に尋給ふて其了簡おもはしからねば用るにたらねども、みづからのおもふと畢竟〈ひっきょう〉にたるやうの事ならば、人のいふに随をよしとす。上より物をたづね給ふに、取つきならばその者と熟談あらせ給へ。自直に尋給はば心服を尽し聞給へ。さもなければは一とをりに受て心服を尽さず。または遠慮もありて言葉をのこす。その誠をのべざれば尋給ても益もなきなり。

(8)一、人を用ゆるに誠ある人を第一とすべし。誠ある者はすへずへたのもしきもの也。何ほど利口發明にて才智ありとも、誠なきものには油断あるべからず。然れ共才智あるものも又捨べからず。事を弁ずるにも才智なければ弁じがたし。誠ある者を第一とし才智有者を次とすべし。

(9)一、上に少なりとも利を好み給へば、下の役人才智あるもの上の氣をとりうけて、才智もつて利をたすくるゆへ、卑劣の事あるまじき事のみ出来て、下民上をあなどりあざける也。かかるものは政事の大成あだ也。然れ共、上の人誠を厚し義をたて利をさくれば、才智ある者又此氣をとりうけて義をたつるやうに取計るゆへ、あだと成者かへつて政事のたすけとなる。しかれば上に有人つつしみて利をさくべき也。

(10)一、質素に事をはぶくと利潤に心をつくるとは、似たるよやうにて大なる違あり。無益の費をはぶき美麗を好まざるは質素也。利徳に心をよせてわづかの事にても物をふやさんとするは利也。礼物を程よくおくるは人をうやまひ、事をおもんずる礼也。花麗を好て人の目をおどろかすはおごりなり。
 <以下続く>
2023年4月14日(金)
黒田直邦の『老話』(2)
 『老話』の翻刻はHP上に公開されている国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0033によった。写本1冊、本文は9丁。題僉には「黒田家老話 全」とある。


 翻刻に際し、読みの便をはかるため次のような操作をした。
 1、片仮名はすべて平仮名にし、適宜濁点を付した。
 2、踊り(繰り返し記号)は漢字の「々」以外は用いなかった。
 3、適宜句読点等を付した。
 4、22ある一つ書きの頭に、(1)(2)(3)のように通番の数字をふった。
 5、HP作成者の注記は〈 〉で示した。


 なお、『老話』を所載した既刊本には次のものがある。

・福井久蔵編『秘籍大名文庫・第1』1937年、厚生閣(国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:67-532)
・『内閣文庫所蔵史料叢刊18・大名著述集』1982年、汲古書院


<翻刻文>


 私書、魏徴唐太宗<李世民>ノ臣ニシテ聖ニ近キ人也。
 ○唐書曰、魏徴薨、大宗臨朝歎曰、以銅為鑑可正衣冠、以古為鑑可知興替、以人為鑑可明得失、朕常保此三鑑、内防已過、今魏徴逝一鑑亡矣。
〈一行下げ〉是以見ときは、誠直邦公は近代の為仁者。其行こと三教共不騫。有位たけからず。此書誠の為座右の銘九牛が一毛得行ことは難し。然朝夕不如見。天子より以至庶人壹身ををさむるを道とす。尊卑の無差別、其行ふ所者一也。人の可見に不有は覺に書。


老話


 客問云、吾子唐の魏徴が職におり、漢<三国時代の蜀のこと。蜀漢>の諸葛亮が如く後主を託せば政事を補佐せん事いかが。
 答云、政は人君自身を以て天下に教へ、徳を以て萬民を安じ給べし。補佐の任は人君と合躰し、君徳を助て天下を安ぜんのみ。いささかおもふ所のあらましを述べむをば、ねん比〈ごろ〉に聞給へ。

(1)一、人君の世を治る事は天の万物をめぐむ心をうけつぎて、仁愛を専にして萬民をめぐみ、おのおのそのところをえてやすんずるを第一とす。世事萬変に應じて或はとり用ひ或は捨置、または禄をあたへ罸を行ふ事、みな正直にはからい給へば民帰服して天下治るなり。

(2)一、人君の身を以て天下を教る事、替りたる事にもあらず。有べきようのみにて孝弟慈の道をたて、ただ何事も誠の道を勤て假初〈かりそめ〉にも悪事をせざるよりほかはなき也。

(3)一、誠の道は君につかへて忠、親にむかへは孝、民にのぞめは慈なり。ただ真実におもひはかる也。この真実といふもの、内にありてはいかやうといふかたちなく、何さまの色もなし。しかもたかきいやしき誰々も内にそなへてあるゆへ外にもとむる事もなく、むつかしくたづぬる道にもあらず。心にだにつくればえらるる誠也。則是天の道にして人にそなはるものなり。

(4)一、下民をおしゆるに、法度・條目しげきは宜からず。夫もなければかなはざる義もあるべし。然共法度・條目しげく出せば人くるしみてよからず。無為にしておさむるをよしとす。

(5)一、無為にして治るとは、あるべきやうの外に何事もせざる也。先代に有来る礼式等をあらためず。惣て仕置の事何にてもあらたに出す事なく、利口才覚成をこのまず。ただみづから誠の道をあつふすれば、ちかきもの悦び遠きは傳へききて、皆ことごとく信服するゆへ、おのづから国治なり。    <以下続く>
2023年4月13日(木)
黒田直邦の『老話』(1)
 江戸時代の随筆『異説まちまち』は


「黒田豊前守直邦(なおくに)公、三教(儒・仏・神道)へ疎通(そつう)し給(たま)ひ世に賢者と称し誉(ほめ)る也(なり)(1)


と直邦を評している。学識の深い大名として知られた直邦が、晩年著した為政者としての教訓書が『老話』である。今回は『老話』(国立公文書館蔵)を翻刻・紹介するが、その前に直邦の経歴を略述する。


 黒田直邦の小伝は『寛政重修諸家譜』巻第六百六十にある(2)。同記事及び酒入氏の記述(3)等によれば、直邦の略歴は次のようなものである。

 直邦は、中山藤兵衛直張の三男として寛文6(1666)年に誕生した。中山氏は鎌倉時代に台頭した武士団武蔵七党の一つ丹治党に属し、直邦は自身を「丹治中山」と称していたという。

 母は上野国館林(たてばやし)の家老黒田信濃守用綱(もちつな)女(むすめ)である。幼稚より外祖父黒田氏に養育され、黒田姓を称した。

 初め直重(なおしげ)、三五郎、のちに直邦と称し、琴鶴(きんかく)、瓊山(けいざん)と号した。貞享4(1687)年に従五位下豊前守、享保17(1741)年従四位下侍従に叙任。

 最初徳川綱吉の子徳松に近侍。徳松逝去後は一時小普請となったが、その後は小納戸、小姓へとすすみ次第に加増さた。

 元禄9(1696)年に足立(あだち)・比企(ひき)・入間(いるま)三郡のうちにおいて7,000石を知行し、同13(1700)年に3,000石を加増されて1万石の大名となった。同16(1703)年には下館城(しもだてじょう)を与えられ、常陸国真壁(まかべ)・下野国芳賀(はが)両郡のうちにおいて1万5,000石を領した。そして宝永4(1707)年には武蔵国高麗(こま)・播磨国美嚢(みのう)両郡のうちにおいて5,000石を加増され、2万石となった。

 綱吉薨去後は落髪し、6代・7代将軍の時代には役職に就かなかった。

 吉宗の代に再登用され、奏者番・寺社奉行兼帯となり、のち西丸老中となった。この間、享保17(1741)年に領地を下館から上野国利根・山田、武蔵国榛沢(はんざわ)・幡羅(はたら)・児玉(こだま)・賀美(かみ)6郡のうちに移されて2万5,000石となり、沼田城主となった。同年さらに5,000石を加増され、3万石を領した。

 享保20(1744)年卒去。享年70。武蔵国高麗郡中山の能仁寺に葬る。室は柳沢吉保の養女土佐子。


【注】
(1)『異説まちまち・2』巻之七、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:212-0294。
(2)『寛政重脩諸家譜・第4輯』1923年、國民圖書、P.510~511。国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:63-238。
(3)酒入陽子「下館藩主黒田直邦の暇-正徳三年『暇之記』に見える黒田直邦-」(『小山工業高等専門学校研究紀要第42号』、2010年所収)。
2023年4月8日(土)
長雪隠の長者
 2代将軍徳川秀忠の時代、武蔵国に小川久左衛門という者がいた。先祖はある大名に仕えた一廉の武士だったが子細あってその家を退き、子孫は田野を住居として月日を送っていた。

 久左衛門は、最初150石余の田地を所有していた。そのうち20年ほどで田地を400石に増やし、多くの使用人を召し使うまでになった。当時は70歳余になっていたが、体はいたって頑健で薬を服したことがない。四男一女の子どもたちは、いずれも優秀なうえ親孝行だったので、世間で久左衛門を羨まない者はいなかった。

 ただ、この久左衛門には妙な欠点があった。風呂が嫌いなうえ、雪隠(せっちん。トイレ)が長いのだ。

 とりわけ久左衛門の風呂嫌いはひどかった。

 放っておけば、たとえ10年たとうが風呂には入るまい。周囲がいくら説得しても、とかく理屈をつけて風呂に入ろうとしない。そこで大勢で一斉に久左衛門に飛びかかり、無理に裸にして風呂に入れてしまうのだった。そうやってからだを洗うと、久左衛門はまるで子供のように泣き叫んだという。

 風呂嫌いだから垢(あか)がたまる。久左衛門には、背中を掻いてその垢を食べるという癖があった。さすがに汚い。そこで妻や召使いの者たちが、こぞって久左衛門に注意する。


「是(これ)こそ、さりとはきたなきことにて候(そうろう)。御たしなみ候(そうら)へ。」

(垢を食べるなんて汚いことです。おつつしみなさい。)



 そう言われると、さすがの久左衛門もみんなの前ではおとなしくしている。しかし人目がないと、いつも癖がついついはじまるのだった。

 久左衛門はまた雪隠が長かった。

 いったん雪隠に入ると一時(いっとき。現在の約2時間)は出てこない。あるいはそれ以上の時間、雪隠の中にこもっている。だから久左衛門に急用があっても、間に合わないことが多かった。

 世間では久左衛門のことを「長雪隠(ながせっちん)の長者」と呼んだという。


【参考】
・『続編武林隠見録・3』「小川久左衛門多福の事」 。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年4月6日(木)
運がいい
 元禄の頃、御徒士組頭(おかちくみがしら)を勤めていた渥沢弥太夫(あつざわやだゆう)という男がいた。弥太夫は巨体の上もみ髭(ひげ)を生(は)やし、眼光すさまじく、人を人とも思わぬ乱暴者だった。

 当時は生類憐みの令が頻発されていた頃である。

 しかし、弥太夫は殺生禁断などまったく意に介さない。釣竿を肩にかけては浅草川へ行き、白昼堂々と釣をしていた。これを見つけた小人目付(こびとめつけ)らが弥太夫に注意すると、かえって眼を怒らし大声で怒鳴りつける。


「此(この)弥太夫に向(むかい)て、汝等(なんじら)すいさん(推参)なる。」

(この俺様に向かって、お前ら差し出がましい。)


 それゆえ、役人たちは弥太夫を恐れて逃げ去ってしまうのだった。

 しかし、こうした行為がたびたびに及んだので、さすがに捕縛されて揚り屋(あがりや。未決囚を収容した牢屋)入りになった。詮議の上、罪状は遠島と決まった。

 ところが「憎まれっ子世にはばかる」のたとえもある。いまだ島へ出発しないうちに綱吉が薨御(こうぎょ)したのである。

 綱吉の中陰(ちゅういん。死後49日の間、霊魂が中有に迷っているとされた期間)明けに恩赦があり、弥太夫は遠島を許されたばかりか旧役復帰を命ぜられ、その後は何事もなく勤仕したという。


【参考】
・『続編武林隠見録・3』「渥沢弥太夫遠流の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年4月5日(水)
運が悪い
 元禄の頃、小林源太夫という200石取りの小普請(こぶしん)の男がいた。

 本所に屋敷があったが、妻子もなく家人もいなかった。ただ一人、こわれ屋敷の片隅にあった小さな長屋に住んでいた。

 仲間から何か連絡の廻状(かいじょう)が来れば自身で受取り、脇差を一本さして尻をひっからげ、中間(ちゅうげん。武士に仕えて雑務に従事した者)のかっこうをして次の連絡先に廻状を持参する。そして、


「小林源太夫の使者でございます。」


と口上を述べては状箱を渡して帰った。

 御切米(おきりまい。幕府から支給される俸禄米)の支給日になると、米では受領せずすべて換金した。そしてその金を近所の河内屋という酒屋へ預け置くと、毎日酒屋にかよっては居酒(いざけ。酒屋で酒を飲むこと)を楽しんだ。

 町へ出るにも木綿布子(もめんぬのこ。木綿の綿入れ)を着て脇差一本さした姿で往来した。だから、源太夫を知らない者が見ると、てっきり中間(ちゅうげん)だとしか思わなかった。

 こうして気ままな一人暮らしをしていたが、ふと家の存続を考えたのか、晩年になって養子をとった。

 しかし運が悪いことに、その養子のために命を落としてしまったという。


【参考】
・『続編武林隠見録・3』「小林源太夫人柄の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年4月3日(月)
年寄りあつかいするな
 堀田筑前守(ほったちくぜんのかみ)の従臣に小野十兵衛という70歳余の男がいた。十兵衛は、自分の年齢をひた隠しにしていた。

 江戸時代の平均寿命は現代にくらべるとかなり短い。だから70歳越えは誰が見ても老人だった。しかし十兵衛は、老人扱いされるのを極度に嫌った。会話中でも年齢の話になるとひどく怒り出すので、十兵衛の前では年齢に関する話題はタブーだった。

 ある時、十兵衛が堅い餅を食べていた。それ見た岡田という男が、何の気なしに次のように訊(き)いた。


「なんとまあ、十兵衛殿は歯が丈夫なことですな。いま、おいくつになられましたか。」


 これを聞くと十兵衛の顔色が見る間に変わった。そして脇差(わきざし)の柄(つか)に手をかけてしっかと握ると、岡田をにらみつけて次のように言い放ったのである。


「貴殿はわしを年寄りの役立たずと侮(あなど)って、かく申されたのか。もし今戦さが起これば虎口(こぐち)城攻(しろぜ)めの働きをし、貴殿らに少しもおくれをとるとは思わぬ。わが太刀先(たちさき)を試(ため)そうと思うならば、少しも引きはせぬ。お望みとあれば今すぐお相手つかまつろう。」


 決闘も辞さない十兵衛の剣幕に、岡田はあきれ果てた。しかしとりあえずはこの場をおさめねばならぬ。そこで


「ぶしつけな質問をしてお気にさわりましたか。不調法(ぶちょうほう)の段はどうかお許し下さい。」


と言って謝罪した。すると十兵衛は


「気が長いわしだったからよかった。かようなぶしつけなことを言っても謝罪で済む。しかし、相手が短気者なら容易に勘弁してはくれまい。以後注意されよ。」


と岡田に説教したのである。岡田は内心「何というたわけ者だろう」とは思いながら、


「ご忠告、ありがたく存じます。」


と答えてその場をやりすごしたのだった。


【参考】
・『続編武林隠見録・3』「小野十兵衛年寄嫌ひの事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年4月1日(土)
「水祝い」はなぜ消えた
 江戸時代には婚礼の際、新郎に水を浴びせる慣習があった。この行為は「水祝い」または「水かけ」「水あびせ」などと呼ばれた。

 「水祝い」を『江戸語の辞典』は次のように説明する。
(1)


 婚礼の際または新婚の翌年正月に若者たちが新郎に水を浴びせかける祝い。火がとまる(妊娠)(2)ようにとの呪いという。水あびせ。安政四年・傾城玉菊序幕「まづ花聟の水祝ひ」


 現在一部地方を除き、この「水祝い」の行事はほとんど残っていない。なぜ、消えてしまったのか。その理由は二つ考えられる。一つには、水をかけられることがそもそも迷惑だったこと。二つには、この慣習が原因でトラブルがおこりがちだったこと。

 まず、この「水祝い」は新郎にとって、はなはだ迷惑な慣習だった。何せ婚礼という晴れの場や正月という寒い時節に水を浴びせかけられるのだ。ゆえに『続編武林隠見録』には、


「我(われ)に水懸(かけ)んと思わば、首骨の用心せよ。」(3)

(俺に水をかけようと思うなら、首の骨をへし折られる覚悟をしておけ。)



と近習たちにすごみ「水祝い」を断固拒否する新郎の話が出てくる。
 
 また、「水祝い」にはトラブルがつきものだった。小山田与清(1783~1847)の随筆『擁書漫筆(ようしょまんぴつ)』には次のようにある(読みやすいように、一部表記を改めた)。


「年わかき輩(ともがら)、血気(けっき)の盛(さかん)なるに任(まか)せて、此(この)(たわぶれ。「水祝い」の水かけのこと)をなし、身をそこなひ、或(あるい)は口論闘争(とうじょう)に及(およぶ)事侍(はべ)る。慎(つつしん)で相止(あいやめ)、強(しい)て好むべからず。」(4)

「互(たがいに)(うらみ)(あだ)を含(ふく)む基(もとい)となり、喧嘩闘争(けんかとうじょう)不止(やまず)。依(よっ)て今世(いまのよ)厳(きびしく)制禁(せいきん)と成(なり)て、水浴(みずあび)せの名のみ人知れり。」(5)


 往々にして若者たちによる水かけ行為はエスカレートしがちだった。悪ふざけが過ぎて、けが人が出たり喧嘩口論がおこったりすることがしばしば。もともと婚礼を祝うめでたい慣習だったはずが、「互(たがいに)怨(うらみ)讐(あだ)を含む基(もとい)」となってしまった。それゆえ厳に禁止されてしまったというのだ。


【注】
(1)前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社学術文庫、「みずいわい」の項。
(2)「火が止まる」の火は月経のこと。かつては月経を不浄なものと見なし、その期間中は別火を構えたのでかくいう。よって「火が止まる」は月経がとまる、すなわち妊娠する。
(3)『続編武林隠見録・2』「助四郎、大膳亮に水を懸る事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
(4)(5)小山田与清著『擁書漫筆・第1巻』「十九」の項。早稲田大学図書蔵、請求記号:イ05 00055。
2023年3月31日(金)
大男好み
 本多忠晴は生まれながらの大力が自慢だった。それゆえか、大力自慢の大男をそばにおくことを好んだ。

 江戸中で男ぶりのよい六尺(ろくしゃく)がいると聞けば、他家より多くの給金を払って雇うのが常だった。六尺とは身長が6尺(約1.8m)ほどある使用人を指す言葉で、駕籠かきなどの力仕事に従事した。当時の成人男性の身長が5尺(約1.5m)くらいというから、1.8mはかなり高い。

 ところが忠晴が採用した六尺はさらに高く、みな8尺(約2.4m)くらいあったという。

 そんなわけで、忠晴を乗せた駕籠は飛ぶように疾駆した。少しでも遅いと、駕籠の内から扇子などで六尺の尻をつつき、速度をあげるよう指示した。

 屋敷に帰ると、六尺たちを居間の縁頬(えんづら。座敷・廊下間にある畳敷きの控えの間)へ呼出し、酒を飲ませたり菓子を取らせたりしてかわいがった。とにかく自分のそばにっ屈強な六尺を置くことが楽しみだった。

 そのため、六尺の仲間どうしの話でも、「本多家に雇われた」といへば江戸では一目置かれたという。


【参考】
・『続編武林隠見録・2』「本多弾正少弼力量附六尺を好まるゝ事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月29日(水)
300両を拾う
 老中の土屋政直(つちやまさなお。1641~1722)、他人が珍らしい道具をもっていると知ると、まずは一見を希望する。そして、気に入れば所有者に要望してわが物とするのが常だった。

 桑山志摩守のもとに、幕府御用絵師狩野探幽(かのうたんゆう)の筆になる「竹に虎」の掛物があった。どこから伝え聞いたものか、土屋が掛物の一見を桑山に要望してきた。土屋は幕閣の重鎮である。その要望を無下に拒否することなどできない。栗山は掛物を土屋のもとに送り一見させた。

 掛物は3日後に返還された。ところが、10日ばかり過ぎてまた土屋からの使者がやってきて、例の掛物をもう一度拝見したいと言ってきた。掛物への土屋の執心が見て取れた。いかがするべきか。

 桑山の家老河野九郎右衛門は次のように言った。

「土屋殿は、自分が欲しい道具は何としても手に入れる方だと聞いております。再度申し入れてきたところを見ますと、次は必ず所望してくるはず。無下に拒否することもできず、さりとて大切な掛物を理由もなく渡してしまうのも無念なこと。それでは次のように返答されてはいかがでしょうか。

『わたくし、手元不如意のため、あの掛物を質物にして遠方の知人から300両借用しました。そんなわけですので、自由に掛物を取り寄せることができません。300両あれば、取り寄せてお目に懸けることができるのですが。』

 それで相手が300両を持参して、その上で掛物が欲しいというのなら差し上げてしまいなさい。300両の金額では不足ですが、質物を口実にするのであればそれ以上はふっかけられません。」

 桑山が家老の言葉通りに返事をすると1、2日を経て使者が300両を持参し、掛物を早く請け出すように催促してきた。そこで4、5日も過ぎたころに例の掛物を送ったところ、またまた使者がやってきて予想通り掛物を所望してきた。そこで桑山は「よきほどに」と挨拶して、掛物を土屋に譲ったのだった。

 桑山は探幽筆の掛物を、ただで土屋に譲ることを免れた。そこで桑山は家老の河野に向かって、


「偏(ひとえ)に汝(なんじ)が智恵(ちえ)を以(もって)三百両拾(ひろ)ひたり。」


と言ったという。


【参考】
・『続編武林隠見録・2』「土屋相模守桑山志摩守に探幽繪を望事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月28日(火)
面をはる
 上杉景勝(うえすぎかげかつ)の従士に栗生美濃守(くりおみののかみ)という男がいた。上杉家の菩提寺であることを笠にきた横柄な振る舞いがあったのだろう、栗生は林泉寺の住職を憎んでいた。栗生が


「若(わか)の御帰依僧(ごきえそう)にてはあれ共(ども)、林泉寺がつら程(ほど)にくきはなし。心の侭(まま)になるべき事ならば一こぶしはってやりたきこと。」

(若様の御帰依僧ではあるが、林泉寺の坊主の面ほど憎いものはない。もしも思いどおりになるなら、あの面をひとこぶしぶんなぐりたいものだ。)



と言うのを聞いた慶次。


「それこそ安き事なれ。、我(われ)(いき)てはって来るべし。」

(そんなことは簡単だ。おれが行って代わりになぐって来よう。)



と請け負うと、巡礼姿になって林泉寺に向かった。

 林泉寺では住職が碁を打っていた。慶次は碁好きの振りをして住職に近づき、対局することになった。その時慶次は冗談めかした口振りで、勝った方が負けた方の「面をはる」という賭けを提案した。住職は大笑いして気軽に同意した。

 一局目は慶次がわざと負けた。住職は大いに笑って、慶次の顔に爪はじきを当てた。現代でいうデコピンだ。

 ついで第二局目。今回は慶次が勝った。「さらば、かけの通(とおり)」(それでは負けたので賭けの通りに面をはっていただきましょう)と住職が言う。

 そこで慶次は「然(しか)らば」(それでは失礼)と言ってこぶしを握りすますと、力任せに住職を殴りつけた。住職は気絶し、周辺の人々は皆肝をつぶした。

 「やれ、水よ、気付(きつけ)よ」と大騒ぎする中、その場にすでに慶次の姿はなかった。


【参考】
・『続編武林隠見録・2』「慶次、林泉寺を囲碁の上にて面をはる事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035
2023年3月26日(日)
300両が400両になる
 前田慶次の家士に何某(なにがし)という忠勤の者がいた。生活が非常に苦しく、俸禄の前借りを願ってきた。慶次がいろいろ事情を聞くと、前借りだけでは不足だとわかった。そこで慶次は各所に高札を立てさせた。その文言は次の通り。


「某(それがし)家来何某(なにがし)、尓々(しかじか)の所に於(おい)て金子(きんす)三百両落(おと)し候(そうろう)。もし是(これ)を拾ひたる者有之(これある)に於(おい)ては持参致(いた)し、右の者へ返し与へ給(たま)はるべし。其礼(そのれい)として其方(そのほう)より金子四百両可遣之候(これをつかわすべくそうろう)。右金子家来に直に差遣候義(さしつかわしそうろうぎ)安き事に候(そうら)へ共、此(この)金尓々(しかじか)の寺院へ奉納の志(こころざし)、大勢丹誠(たんせい)の金にて候(そうろう)。依之(これにより)(ひき)かへ候段(そうろうだん)本意に非(あらず)、如此候(かくのごとくにそうろう)。」

(私の家来誰々がこれこれの場所で300両を紛失した。もし拾った方がいれば持参し、右の者に返却されたい。謝礼として当方より400両差し上げよう。この400両を300両紛失した家来に直に与えるのは簡単だが、この金はこれこれの寺院への奉納するため大勢の者が丹誠をこめて集めた金である。よって引き替えるのは本意でないため、以上のようにするのである。)



 この高札を見た茶屋伊右衛門という強欲な金持ちがいた。300両を持参すれば400両の謝礼がもらえる。差し引き100両の儲けだ。伊右衛門は早速慶次の屋敷に赴くと、300両を拾ったという嘘の申告をした。

 ところが、伊右衛門から300両を受け取った慶次の家来は、


「能(よく)こそ持参いたしつれ。差置(さしおき)帰るべし。」

(よく持参されました。300両を置いてお帰り下さい。)



と言ったのだ。驚いた伊右衛門「お約束の御礼金の400両は?」、家来「いや今はありません。来年おいでなさい」、伊右衛門「いや、今すぐ下され」と押し問答。

 ふたりのやりとりを聞いていた慶次は、玄関へと躍り出た。そして、眼をくわっと見開くと、すさまじい剣幕で伊右衛門を叱りつけた。


「此度(このたび)の義、汝(なんじ)大きなる偽也(いつわりなり)。拾(ひろ)はざる金を以(もっ)て拾ひたる由(よし)(いい)て、猥(みだ)りに利を求(もとめ)んと欲す。  ―中 略―
(これ)を捕(とら)へ奉行所へ達せんと思へ共(ども)、慈悲の為(ため)に是(これ)を免許す。速(すみやか)に罷帰(まかりかえ)るべし。若(もし)遅滞(ちたい)せしめば則(すなわち)囚人とせん。」

(今回のお前の申告は大嘘だ。拾ってもいない金を拾ったと偽り、みだりに利益を得ようとした。お前を捕らえて奉行所を突きだしてもいいが、今回だけは大目にみてやる。早々に帰れ。ぐずぐずするようなら、牢にぶちこむぞ。)


 詐欺行為を暴かれたこともあり、慶次のあまりの怒気に恐れをなした伊右衛門はあわてて逃げ去っていった。

 これを見た慶次は大笑いした。そして、


「扨(さて)も扨(さて)も能(よ)き気味(きみ)かな。あの如(ごと)く富(とみ)て欲深き者の金をば、おんなじに取(とり)てつかふたるこそよけれ。あの者が如斯(かくのごとく)(いで)んとしりなば、千両とも書(かき)て立(たつ)べかりしを残念にありける。」

(さてさて、いい気味だ。伊右衛門のような裕福で欲深な者の金を、どうせならとりあげて使った方がよい。あの男がこうしてやって来るとわかっていたなら、1000両とも高札に書いて立てたものを残念なことをした。)


と言って、伊右衛門からせしめた300両を件の忠勤の家士に与えたという。


【参考】
・『続編武林隠見録・2』「慶次従者に金を与へし謀の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月25日(土)
仮病
 会津に町野玄徳という医師がいた。

 医業は繁盛していたものの、自慢話がはなはだしく、傍若無人な振る舞いに世間の人々は「医者としての腕は確かだが、あの自慢話はいただけない」と噂し合っていた。

 これを聞いた慶次は、ある日玄徳に往診を依頼した。使者に持たせた手紙には次のようにあった。


「昨夜より持病俄(にわか)にさし発(おこ)り、悪寒(おかん)(はなはだしく)頭痛致(いた)し難儀(なんぎ)せしめ候(そうろう)。御入来(ごにゅうらい)、様子(ようす)(こころ)みて給(たまわ)るべし。」

(昨夜からにわかに持病がおこり、ひどい悪寒と頭痛で難儀いたしております。ご来訪いただき、様子を診ていただけないでしょうか。)



 やがて玄徳がやってくる。居間に通されると、慶次が大蒲団を三、四枚敷かせた上に大夜着を何枚もかけて寝ている。そして「寒い、寒い」と言いながら、大きな唸(うな)り声をあげていたのである。

 玄徳は慶次の脈を診ると、次のように病状を見立てた。


「御持病(ごじびょう)強く起(おこ)り、其上(そのうえ)時気(じき)に感冒(かんぼう)なされたり。され共(ども)御気遣(おきづかい)無之候(これなくそうろう)。」

(持病が強く起こった上に感冒に罹患したのです。しかし御心配にはおよびません。)


 すると慶次はむくりと起きあがり蒲団の中から飛び出した。そして次のように言い放ったのである。


「我(われ)気分少(すこし)も悪からず。成程(なるほど)心持(こころもち)能也(よきなり)。聞(きけ)ば御手前(おてまえ)療治甚(はなは)だ自慢のよし。依之(これにより)上手と思ひ、様子見ん為(ため)に斯(かく)の如(ごと)し。然(しか)るに脉(みゃく)を取(とり)て無病(むびょう)をしらず。扨(さて)さて、大きなる下手(へた)かな。」

(自分はまったく病気ではない。むしろ調子がいいくらいだ。聞くところによると、お手前は療治のたいへんな腕自慢とのこと。そこで、いかほど腕のたつ医者なのかと思い、様子を見るためにこのような仮病をつかったのだ。ところが脈診しても無病を見抜けないとは、なんともひどい藪医者であることよ。)



 玄徳は返す言葉もなく、赤面して退散したという。


【参考】
・『続編武林隠見録・2』「前田慶次郎町野玄徳が醫術を試る事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月24日(金)
立派な僧衣
 会津での前田慶次は剃髪・僧形だった。そこでいたずら心から、托鉢僧のふりをして市中の民家を歩き回ってみた。

 最初は破れた僧衣を着て托鉢して歩いた。しかし、恵んでくれる者はだれもいなかった。次に、新品の立派な僧衣を着て歩いてみた。すると今度は、行く先々で米銭を恵んでくれたのである。こうして手に入れた米銭は、すべて貧しい人々に施してしまった。

 さて、慶次が立派な僧衣を着て托鉢にまわっていたところ、ある家で声をかけられた。


「明日は志(こころざし)の日にて候(そうら)へば、斎(とき)を進度候間(しんじたくそうろうあいだ)、明朝御出(おいで)(たま)はらばや。」

(明日は追善供養の日でございます。食事を差し上げたいと存じますので、明朝お出で下さいませ。)



 そこで翌日その家へ行くと、亭主が挨拶ののち膳を勧めてきた。ところが、慶次は着ていた衣を脱ぐと膳の前に置き、そのまま帰ろうとする。驚いた亭主が理由を尋ねると、慶次は次のように答えたのである。


「されば、先日破れたる衣を着してはつ(托鉢)(いた)し候(そうら)へば、毎日毎日何にても賜(たま)はらず。其後(そのご)(よろ)しき衣を着して参(まい)り候へば、其度(そのたび)に賜(たまわ)り候(そうろう)。然(しか)る時は此(この)(とき)、全く我等(われら。私)に賜はるに非(あら)ず。衣への志なり。依(よっ)て衣を差置(さしおき)、某(それがし)は帰るなり。」

(先日、破れた衣を着て托鉢したところ、毎日歩き回っても何もたまわらなかった。その後、立派な衣を着て托鉢したところ、行く先々で米銭をたまわった。つまり、この食事も私にではなく、衣に対して施されたものである。だから衣を置いて私は帰るのだ。)



【参考】
・『続編武林隠見録・2』「慶次僧を真似て民家を廻る事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月23日(木)
力だめし
 前田慶次の屋敷の庭に、長さ6尺ほど(約1.8m)大石があった。

 ある時慶次のもとを訪れた男たちの間で、あの石を持ちあげられるかどうかが話題になった。これを聞いた慶次は


「我はあの石を目の上に致(いた)する成り候(そうろう)。」


と言う。これを聞いた男たちは


「いや、慶次さへ持つ石を持(もた)ぬは無念。さり共、目より高く上(あげ)んと云(いう)は偽(いつわ)りなるべし。」
(いや、慶次でさえ持ち上げた石を、自分が持ち上げられぬでは無念。しかし、目より高く持ち上げたというのは嘘であろう。)



などと評して、次々と庭にとびおり、大肌脱ぎになって石を持ち上げようとする。しかし、だれも持ち上げられない。そのなかでも屈強そうな若者ひとりふたりが、やっとのことで持ち上げてはみた。それでも膝までは上がらない。これを見た慶次は


「扨(さて)も弱し。」(何とも弱いことだ。)


と言って笑った。それにしても実際、こんな大石を目の上の高さまで持ち上げられるのか。男たちは慶次の自慢話には納得しかねて、


「誠ならば、目より上へ上げて見せられよ。」


と言う。慶次は「安き事」と言って庭へ駆けおりる。そして石のきわにかがみ込むと頭を地面につけ


「是(これ)、目より上へ致(いた)し候(そうろう)。」


と言ったのである。

 これを見た男どもは、いつもの慶次の軽口にしてやられたと苦笑した。とりあえず「あの石を目の上に致す」ということについては納得もしようが、われらに対し「扨も弱し」と言ったのはいかなる理由か、と問いつめた。

 慶次は次のように答えた。


「あの石、何として持上らるべき。それを持(もち)たると思ひ、我に勝んとて大汗をながし、大息つきて持(もた)んとせらるるおかしき。扨(さて)も智量(ちりょう)弱しと云(いう)事なり。」

(あんな大石、どうやって持ち上げることができようか。それをわしが持ち上げたと早とちりし、慶次に勝ってやろうと大汗を流し、大息をついて持ち上げようとしているありさまは滑稽だった。だから「何とも知力が弱い」といったのだ。)



【参考】
・『続編武林隠見録・2』「慶次力様しの事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月21日(火)
大ふへんもの
 慶次の旗指物(はたさしもの)(1)は変わっていた。白布の四半(しはん)(2)に「大ふへんもの」と平仮名で書きつけてあった。

 これを見た将士たちからは批判が百出した。

 腕に覚えがあって「だいぶへんもの(大武辺者。大武勇の士の意)」と書いたのだろうが、何と傍若無人な旗指物であることよ。上杉家は代々武名の誉れ高く、知略剛勇の将士は多い。上杉家に遠慮というものがないのか、等々。

 こうした批判に対し、慶次はからからと笑うと、次のように言った。


「さてさて、おのおの方は仮名の清音・濁音の読み方さえ知らないと見える。それがしは前の主人の家を出奔して、長らくの浪人暮らし。それで「大ふべんもの
(大不便者)」と記したのだ。」と。


【注】
(1)戦場で武士が自分や自分の部隊の目印として鎧(よろい)につけた小旗や飾り物。
(2)「幟半(しはん)」とも書く。幅2、長さ3の割合にした幟(のぼり)。
【参考】
・『続編武林隠見録・1』「慶次指物人に変りし事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月20日(月)
慶次、上杉家に仕官する
 前田利家のもとを出奔した慶次は会津に走り、上杉景勝(うえすぎかげかつ。1555~1623)に仕官した。しかし、このことが前の主人前田利家の耳にはいることを恐れ、


「只今は長袖(ちょうしゅう。長袖の衣服を着た人。僧侶)にて候(そうろう)。」


と称して、剃髪(ていはつ)・褊綴(へんてつ・へんとつ。羽織のような僧衣)姿で景勝には謁見した。

 もともと慶次は儒学に志があり、儒学者は江戸初期まで僧体をしていたのだ。慶次の才智は群を抜き、弁舌もさわやかだった。武勇においても慶次にならぶ者などなく、戦場で数々の武功をあげた。そんな慶次だったが、平生は気軽なおどけ者だった。そのギャップが景勝の心にかなったのだろう、景勝は


「能(よ)き士を得たるものかな。」


と言って、慶次を得たことを非常に喜んだという。


【参考】
・『続編武林隠見録・1』「慶次會津へ行景勝に仕ふる事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月19日(日)
いたずら者
 前田慶次は加賀大納言前田利家の従弟という。その人物像はさだかでなく、人を食ったような逸話がいくつか伝わる。『続編武林隠見録』が所載するのも、そうした逸話のひとつ。

 慶次は世間を軽んじ小馬鹿にする言動から、いつも主君の利家から小言をくらっていた。

 そんな慶次がある日、利家に茶を差し上げたいと願い出た。これを聞いた利家は大いに喜んだ。慶次もやっと改心し、主君を尊敬する気持ちが芽生えたのか、と。こうして利家は、慶次の屋敷を訪問した。

 いつもとは異なり、慶次は利家を丁重に扱い、言葉態度も恭しく饗応も贅を尽くしたものだった。上機嫌の利家に向かい、慶次が平伏して言った。


「私はこれまで主君に対し不敬を重ね、我(が)を通してばかりでした。利家公がたびたび諫言されましたのに、その道理をわきまえないばかりか、ご教訓を厭うありさま。はなはだ君恩を失する罪は、悔やんでも悔やみきれません。今後は改心いたします。」


 慶次の神妙な言葉に感激した利家は、


「いざ酒一つ汲(くみ)て、うきたる物語して聞せよ。」


と言葉をかけ、そのまま酒宴が始まった。

 時は10月20日余り(現在の11月下旬)。その日は寒々しい時雨模様の天候だった。

 慶次が、御湯殿の準備ができていると申し上げる。

 「寒い時節には、何よりの馳走」と利家は御湯殿へと向かった。先に立った慶次が湯桶に手を入れ、入念に湯加減を確認する。慶次が


「よい湯加減でございます。」


と言う。利家は衣を脱ぐと、ざんぶと風呂の中へ飛び込んだ。はっと驚く利家。何と冷水だったのだ。怒った利家が


「それ、いたずら者逃すな。」


と下知した時にはすでに遅かった。慶次は御湯殿を出るやいなや駆け出し、門前に用意しておいた名馬松風にとび乗ると、いずこへか出奔してしまったあとだった。


【参考】
・『續編武林隠見録・1』「前田慶次郎、加賀利家の家を出奔の事」。 国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月16日(木)
親の身になって察せよ
 大嶋織部(おおしまおりべ)の臣下に福田忠左衛門という用人がいた。他に抜きんでた忠義の士だったが、老年に及んで病死した。

 忠左衛門には平五郎という子がいた。しかし幼少より病気がちで、乱心の気があった。周囲の者たちの見立てでは、平五郎に跡目を継がせるのは無理だろうとの評判だった。しかし主人の織部は、平五郎に跡目を相続させた。

 平五郎は年を経ると精神が安定した。幸いにも乱心ではなかったが、無類の馬鹿者だった。何の仕事の役にも立たなかった。しかし織部は平五郎を見捨てず、神仏の代参などの仕事を与えた。

 口さがない人々は


「平五郎は神仏にどのように礼拝するのか、心許(こころもと)ないことだ。」


と嘲笑した。織部は


「神仏への使者には平五郎のような私心のない者の方がよいのだ。」


と言ってかばった。それでも、とやかく平五郎の悪口言う者が後を絶たない。そこで織部は言った。


「平五郎は忠士の子である。親の身になって察せよ。」


 織部の言葉に、臣下たちは自分の身に引き替えて考えた。織部は平五郎のような者であっても、臣下を決して見捨てない。すると織部の臣下への扱いが温情にあふれたものであったことに気づき、その後は平五郎のことをとやかく言う者はなくなったのである。


【参考】
・『続編武林隠見録・1』「大嶋織部能臣下を召仕ふ事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035。
2023年3月13日(月)
岡玄策
 水戸藩の下吏加藤寛斎(かとうかんさい。1782~1866)が残した『常陸国北郡里程間数之記・第三冊』の「磯部村(現、茨城県常陸太田市)」の項に、岡玄策(おかげんさく)の伝が書きとめられている。読んでみるとなかなかの奇人だ。

 岡玄策は腕のよい医者だった。しかし、行動は一般的な医者のそれではなかった。病人の前で生死を語り、回復の見込みなしと判断すると念仏を唱えて帰ってしまう。薬は大きな紙袋から手で調剤する。晴れた日には高下駄に樫の棒を突いて歩き、夏には丸裸に水桶を持って村内を行き来する。医書の記述の真偽を確かめるため、わが子ふたりを実験台にしてともに失明させてしまった、など。 

 短いので、次に全文を載せる。なお玄策は、都々逸で有名な都々一坊扇歌(どどいつぼうせんか)の父でもある。


「岡玄策

 玄策ハ以医業
(いぎょうをもって)(しょく)とす。南陽原玄與(原南陽)先生の高弟也(なり)。妻ハ桜井与六郎の女(むすめ)也。

 玄策、常ハ病家に往
(ゆき)てハ死生ヲ病人に談ず。病家、其(それ)を不興(ふきょう。嫌がる)とす。脉(みゃく)を診して、死(しぬ)ものハ其(その)席をして念佛(ねんぶつ)を唱へて去る。薬を投ずるに、大ナル紙の袋より手をして以(もっ)て調剤す。氣象(きしょう)を不知(しらざる)もの必(かならず)(あやし)ミ患(わずら)ふ。

 医術ニ秀
(ひいで)タルハ南陽の門にして此(この)玄策に先んずるものなしとぞ。

 病家に往
(ゆく)に羽織をつけず。快晴の日、五寸歯下駄(ごすんばげた。高さが15cmもあるような高下駄)ニ樫(かし)の棒を突く。夏日、汲水(くみみず)して桶(おけ)(さげ)て丸裸にて宿並(しゅくなみ。町の中)を往行(おうこう)す。里人(りじん。村人)、不珍(めずらしからず)して敢(あえ)て評せずと云(いう)

 嫡子・二男あり。二人、時
(ときに)痘瘡(とうそう)を憂(うれ)ふ。玄策思ひらく、痘瘡に鰹(かつお)を禁ずと醫(い。医書)ニ見ゆ。然共(しかれども)虚実未(いまだ)しる事なし。吾子(わがこ)二人痘瘡を病(やむ)。試みばやとて指身(さしみ)てふ生肉をして兄弟二人に与ふ。夫(それ)よりして二人共両眼忽(たちまち)ニ盲となる。

 嫡子、江戸へ出て針術
(しんじゅつ。鍼術)に達す。二男、後ニ江戸ニ出、三都(さんと。江戸・大坂・京)(ならびに)諸邦(しょほう。諸国)ニ巡行して戯場唄(ぎじょううた)ヲ著作して美音妙域ニ入る。是(これ)ヲ都々一坊扇哥(どどいつぼうせんか)ト云(いい)て雷鳴(雷名。世間に広く知れ渡る、名声が響きわたる)す。

 此
(こ)の都都一坊、幸運にして如元(もとのごとく)眼愈(癒、いえ)て國ニ下(くだ)ル。水戸上・下町ニテ興行の時、夜毎ニ木戸を入テ見、三千人ト云(いう)。摂州大坂ニテ興行の時、奇トシテ又如此(かくのごとし)トゾ。」


【参考】
・加藤寛斎著『常陸国北郡里程間数之記・第三冊』「磯部村」の項。国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:亥二-22
2023年3月12日(日)
手裏剣
 江戸久保町の堀端を、西の方から進んできた柳沢吉保の駕籠と、東の方からひとり歩いてきた50歳ばかりの侍がちょうど行き合った時だった。

 突然侍が、吉保の駕籠めがけて手裏剣を打込んできたのである。

 吉保の供人たちは騒然とした。侍を取り押さえようと大勢で飛びかかった。しかし侍は、いち早く堀の中へと飛び込むと、そのまま水中に姿を消してしまった。

 ただ、手裏剣と思われたのは、よくよく見ると一本の扇子であった。開いてみるとそこには落首が一つ。


   さらぬみの 伊勢(いせ)ゐますますかがや(輝)かん
      ただただおも(思)へ 亢龍(こうりょう)の悔(くい)



 「さらぬみの」は「身の」に「美濃(吉保の受領名、美濃守)」を掛け、「伊勢ゐますますかがやかん」は「威勢」に「伊勢(吉保の嫡子吉里の受領名、伊勢守)」を掛けている。柳沢家の権勢はますます盛んになっていくだろうが、栄達を極めた者は必ず衰えるもの。そうした「亢龍の悔(天に上りきった龍はあとは下りるしかないことを悔いるの意)」を思い知れ、と言っているのだ。

 落首を見た吉保は次のように言った。


「我が為(ため)に云(い)へるか、世の為に云へるか、何(いず)れにも奇特(きとく)かな。変り者こそ世上にはあれ。」

(わしのためにする忠告なのか、世のためにする警告なのか。いずれにせよ奇特なことだ。世の中には変わり者がいるものよ。)



 周囲から妬みそしりを買わぬよう万事を慎め、という吉保への忠告だったのか。それとも、いつかは経験するであろう没落の憂き目を覚悟しておけ、という警告だったのか。侍が落首にこめた真意はわからずじまいだった。


【参考】
・『続編武林隠見録・1』「松平美濃守へ簡を捧る事」 、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:170-0034
2023年3月10日(金)
けちん坊
 江戸時代の京都に、松屋九郎兵衛という商人がいた。金貸しを生業として江戸・京都間を往来し、大名屋敷へも出入りしていた。
 
 この九郎兵衛の人柄を『武林隠見録』は次のように記す。


(九郎兵衛は)京都の者なりければ、小道(こみち。金銭にこまかい、けちくさいの意)にして甚(はなは)だしわき(吝き。けち、しみったれの意)気質也(なり)。」


 当時「京都人は吝嗇(りんしょく。けち)」とする社会通念があった。九郎兵衛は、そんな京都人を代表するようなけちん坊だった。

 ある時九郎兵衛が月代(さかやき)を剃ろうと思い、髪結(かみゆい)を呼んだ。その際、規定の料金をひどく値切った。

 そうして剃り始めてみると、髪結が使う剃刀(かみそり)の切れ味が鈍いせいか、とにかく痛い。あまりの痛さに耐えきれなくなった九郎兵衛が


(剃刀を)(よく)とぎてそるべし。」


と言うと、髪結は平然と次のように答えた。


「いや、御極(おき)めの安き直段(じきだん、ねだん)にては、左様に能(よく)とぎてはあい不申候(もうさずそうろう)。随分(ずいぶん)とぎてそり候(そうろう)には、とぎ賃彼是(かれこれ)一倍(いちばい。2倍のこと)の余も出申候(いでもうしそうろう)。夫(それ)にて御合点(ごがってん。同意する、承知する)ならば致(いた)すべし。」

(いえ、お決めになった安い料金では、剃刀をよく研いでいては手間賃に見合いません。しっかり研いで剃るのであれば、研ぎ賃がかれこれ2倍余もかかります。それでよいのでしたら剃刀を研いでから剃りましょう。)



 九郎兵衛はやむなく追加料金を支払った。

 なまじいわずかの料金をけちったため、定額より多くの金を支払うはめになってしまったのだった。


【参考】
・『武林隠見録・4』「松屋九郎兵衛月代をそらせて迷惑せし事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:170‐27。
2023年3月9日(木)
穴に落ちる
 穴というと、都会では道路の陥没を想起する。道路の真ん中に突然大きな穴が出現し、自動車がそこに落ちるというニュースを時たま聞くことがある。原因は、地下鉄工事の影響だったり、水道管の破裂だったりとさまざま。

 一方、田舎の場合、穴があるのは人里離れた山の中。昔話なら、穴の中に落ちるのは「おじいさん」と決まっているが、実体験を語るのは山仕事に従事する人々だ。その際、穴の中に猛獣が棲んでいたと語られる場合がある。しかし、その真偽のほどは確かめようがない。

 たとえば、漢籍から話題を収集した『鳥けもの孝義伝』の中にも、木こりが大きな洞穴に落ちる話がある。この場合、穴の中に棲んでいたのは虎の親子だった。幸いにも虎は木こりに危害を加えず、かえって獲物の鹿肉を分け与えてくれたので、命をつなぐことができたという。のちに虎が人間に捕まると、木こりが今度は虎を助けた。そこで


「皆人あつまり見て、虎の木こりをたすけ、木こり虎を助たりし事を感じ、その所を義虎亭と名づけけるとぞ。」(1)


というハッピーエンドで話は終わる。

 日本に虎はいない。代わって登場するのが熊だ。

 越後塩沢の人鈴木牧之(すずきぼくし)は


「人熊の穴に墜(おちいり)て熊に助けられしといふ話(はなし)諸書に散見すれども、其(その)實地(じっち)をふみたる人の語りしは珍ければここに記す。」


と前置きし、穴に落ちて熊に助けられたとする老夫の体験談を紹介している。
(2)

 何はともあれ、猛獣は御免こうむりたい。どうせ穴に落ちるなら、昔話の「おむすびころりん」よろしく、ネズミの国の住人たちの歓待を受けたいものだ。


【参考】
(1)
成島峰雄『鳥けもの孝義伝』「虎」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:190‐0324
(2)鈴木牧之著・岡田武松校訂『北越雪譜』1936年、岩波文庫、P.43~49、「熊人を助(たすく)」
2023年3月8日(水)
猿と勝負する
 鑓(やり)の鍛錬をよほど心がけ、その腕前を自負する浪人がいた。浪人は、有名な剣術家の柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)と手合わせしたいと願っていた。そこで縁を求めて但馬守のもとに赴いた。

 但馬守は、浪人との手合わせを快諾した。だがその時、突拍子のないことを言い出した。


「去(さり)ながら、先(まず)(この)猿と立合(たちあい。試合する)見被申(みもうされ)よ。」
(さりながら、まずは私が飼っているこの猿と立合ってみられよ。)



 侮辱されたと思った浪人は、腹を立てた。


「某(それがし)に畜生の相手仕(つかまつ)れとは、余り成(なる)御事(おんこと)。」


 しかし但馬守は再度促す。


「去(さり)ながら、先(まず)立合(たちあい)見給(みたま)へ。」


 そこで浪人はしぶしぶ鑓を取り、小さな竹刀(しない)を持った猿と対峙することになった。

 浪人は一突きで決着をつけようと、鑓を繰り出した。ところが猿は、鑓の柄をかいくぐると、難なく浪人を打ちすえたのである。まさかの敗北に今一番の立合いを所望するも、再び猿に一本とられてしまった。

 浪人は、大いに面目を失った。

 それから4、50日間、昼夜を分かたず、浪人は工夫に工夫を重ねた。そして「これなら負けることはあるまい」という域にまで達した。そこで柳生屋敷を再訪し、猿との再試合を申し込んだのである。

 浪人と対面した但馬守は、次のように言った。


「其方(そのほう)工夫殊(こと)の外(ほか)(あが)り候(そうろう)と見へ候間(そうろうあいだ)、今度は猿は中々(なかなか)(なり)(もうす)まじ。然共(しかれども)、先(まず)立合見給へ。」
(貴殿の鑓の腕前は格段に上達したように見うけられる。今回猿が貴殿に勝つことはなかなかできまい。しかしながら、まずは立ち合ってみられよ。)



 こうして浪人と猿は互いに向かい合った。ところが、浪人がいまだ鑓も出さないうちに、猿は大いになき叫ぶとその場から逃げ出してしまったのである。

 猿は、自分に勝ち目のないことを直感的に悟ったのだ。

 そこで但馬守は浪人を自身の門弟にすると、剣術の奥義を伝えたのである。


【参考】
・『武林隠見録・4』「柳生但馬守猿を飼ふ事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:170‐27。
2023年3月7日(火)
劉備の愛馬
 江戸幕府の御書物奉行(おしょもつぶぎょう)だった成島峰雄(なるしまみねお。通称仙蔵、号衡山。1748~1815)の著作のひとつに『鳥けもの孝義伝』がある。内容は、中国の諸書から鳥獣虫魚類の忠孝譚22話を収録したものだ。寛政9(1797)年序文。全1冊。原本は、インターネット上の国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている。請求番号:190ー0324。

 読み物として面白いので、内容の一部をかつてこのHPで取り上げた。今回取り上げるのは、劉備玄徳の愛馬「的盧(てきろ)」について。

 なお、成島峰雄の伝は『寛政重修諸家譜』巻1248にある(1)


 的盧は張武という猛者の馬だったが、その死後は劉備玄徳の所有に帰した。この馬には額に白い星、目の下に涙槽(るいそう)があった。主人に災いをなす凶相とされたが、玄徳は意にとめず的盧をかわいがった。

 玄徳が、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとに滞在していた時のことだった。劉表の妻蔡夫人(さいふじん)が部下の蔡瑁(さいぼう)らと謀り玄徳の暗殺を企てた。計画を知った玄徳は、酒宴のさ中厠に行く振りをして的盧にまたがると、守備の手薄な西門から逃走した。しかし前方を大河に阻まれ、後方からは追っ手が迫る。やむなく川に馬を乗り入れたが、馬の頭が見えぬまで沈み入ってしまった。この時玄徳は鞭をふりあげ、

「的盧、的盧。今日、主人に災いをなすのか」

と声をかけると、馬は奮い立って一丈(約3m)ばかり躍(おど)りあがった。やがて西の岸に着くと、ついに主人の危難を救ったのだった。

 その後も戦さのたびに、玄徳は的盧に乗って敵を破った。そして漢(蜀漢)の皇位を継承することとなったのである。
(2)


【注】
(1)
『寛政重脩諸家譜・第7輯』1923年、國民圖書、P.556。
(2)以上の話は『三国志演義』等に見られる。『鳥けもの孝義伝』の原文は次の通り。

「馬

 的盧(てきろ)とよべるは張武といへるたけきつはものの乗けるが、かれ殺されしのち劉玄徳いとおしみ、かひて常にのりけり。この馬、額に白き星あり。目のしたに涙槽(るいそう)とてあしき相あり。あるじにわざはいすといひつたへ、こと人はいみきらひけれど、玄徳はいとどめで養ひけり。

 玄徳、荊州の劉表がもとにおはせし頃、劉表がめ(妻)の蔡夫人(さいふじん)、その臣蔡瑁(さいぼう)等とはかりて、ある日あるじもふけ(饗設け。供応、もてなし)するにことよせ玄徳を殺さむとはかりけるを、玄徳はやくそのたばかりごとをしりて、酒のみ興じけるほどに、あからさまにかはや(厠)にゆくまねしてひそかにかの馬に打のり、西の門のかためざりしかたよりにげゆきつ。道のほど檀渓といふ深く大きなる川ながれ、うしろには蔡瑁等あまたつはものをしたがへ追来れり。玄徳せんすべなく、川に馬をのり入しかば、馬のかしらも見えぬまで沈入ぬ。玄徳、鞭をあげ、

『的盧、的盧。けふ妨(さまたげ)なすや。』

といひければ、その馬ふるひたち、波を蹴あげ一丈ばかり飛おどりて、やがて西の岸にのぼり、終にあるじの危を救ひけり。

 それよりのちも、戦のたびごとによくは(馳)せて敵を破(やぶる)。玄徳、漢の世のまさしきすべらぎのつたへをうけつる事とはなりぬ。」
2023年3月6日(月)
客の名前
 江戸に発句を好む男がいた。

 発句の会でもあったのだろう、ある家に客として招かれた。

 その際、名札に「匸」と書いて、取次ぎに渡した。しかし、取次ぎの者には客の名前が読めない。おおいに困惑して主人に取り次いだ。しかし、主人も誰なのか一向に見当がつかない。そこでやむなく


 「先(ま)づはこちらへ其者(そのもの)を通すべし。」


と指図した。

 入ってきた客の顔を見ると、上野傳七(うえのでんしち)であった。主人はそこでハタと気づいた。

 「匸」は「七」の上が出ていない形。「上の出ん七」の洒落だった。


【参考】
・『武林隠見禄・4』「上野傳七之事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:170‐27。
2023年3月3日(金)
コイはめぐる
 園池三位卿(そのいけさんみきょう)と浦井なにがしという町人、それに鍼医師(はりいし)の三人は、身分の違いはあれ心やすい間柄だった。

 ある時浦井から鍼医師のところへ立派な鯉が届けられた。鍼医師は、


「ケ様(かよう)に見事成(みごとなる)魚、手前にて賞翫(しょうがん。食べる)せんより園池卿へ差上(さしあげ)ん。」(こんなに立派な鯉を私が食べてしまうより、園池卿に差し上げよう。)


と思い、鯉を園池卿におくった。園池卿は園池卿で、


「久鋪(ひさしく)浦井が方へ不沙汰(ぶさた)したりしに、幸(さいわ)ひの事成(ことなり)。」(浦井にも長い間ご無沙汰している。これ幸いに浦井への贈物としよう。)


と思い、鯉を浦井におくったのである。

 浦井はおくられてきた鯉に見覚えがあった。そこで鍼医師を呼ぶと、


「貴殿は折角(せっかく)(つかわ)したる魚を、園池卿に上(あげ)られたり。」(あなたは私がせっかく贈った鯉を園池卿に差し上げたのですね。)


と言って笑った。鍼医師は驚いて、


「何として知られたり。」(どうしてわかったのですか。)


と尋ねた。浦井は事の次第を語って、お互い興じあったのだった。その後、鍼医師は園池卿のもとに行って、右の次第を語った。園池卿も面白がって、一首の狂歌を書き付けると

「是(これ)を浦井へ見せよ。」

と言った。その狂歌が次。


  針先(鍼医師に掛ける)に  かかりし魚を  その池(園池三位卿に掛ける)
     はなせば  もとの浦井
(浦井何某に掛ける)へぞ行(いく)



【参考】
・『武林隠見録・4』「園池三位狂歌の事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:170‐27
2023年3月2日(木)
落書
 柳沢吉保(やなぎさわよしやす。1658~1714)は、5代将軍綱吉の寵臣だった。松平の家名を賜り、幕府の重要拠点のひとつ甲府を領するなど、高恩を得た。この時、何者かが吉保の門前に落書(らくしょ)を立てた。


 目出度(めでた)さよ
 柳を松に植えかへて
(家名が「柳沢」から「松平」へ)
 ミの
(「身の」に吉保の受領名「美濃守」を掛ける)行末(いくすえ)
 伊勢
(嫡子吉里は伊勢守)のはん昌(じょう)



 これを聞いた吉保はまんざらでもなかった。「誰が作った落書か。よくぞわが家の繁栄を祝している。作者は申し出よ。褒美をとらせよう」と。

 これを聞きつけたのだろう、再び落書が立った。


 ほふび(褒美) いや(嫌)
 小金
(こがね)色よく こめやすく
 運上やめて さけがのミたし



 幕府は貨幣改鋳でその品位を落とした。貨幣の流通量を増やすのと出目(でめ。差益金)を得るためだった。この時、金の含有量をひどく減らしたため、小判は黄金色でなく偽金かと見誤るような色をしていた。

 低品位の貨幣が大量に流通したため、諸物価が上昇。米の値段も高騰した。

 幕府は米価の上昇を抑えるため、米を原料とする酒造りを禁止した。しかし、制禁を犯してまで密造する者が絶えない。そこで、酒屋から運上をとることに方針転換した。その結果、今度は運上を課された分、酒の値段が高くなった。

 ゆえに、褒美などもらうより「貨幣の品位を回復してもらって、米価安にしてもらいたい。運上を廃止してもらって、安い酒が飲みたい」と庶民の願いを代弁したのだった。

 幕府政治の中枢にいる者が、己の出世・栄華に浮き足だっている時ではない。世の有様をよく見ろ、というわけだ。


【参考】 
・『続武林隠見録・2』「松平美濃守門に落書之事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:170-0034
2023年3月1日(水)
井の中の猫(2)
 「天野五郎太夫」は天野正勝(あまのまさかつ)といい、その伝が『寛政重修諸家譜』巻886にある(ただし漢字は現行のものに改め、注を付した)。


「父が遺跡を継(つぎ)、御台所頭をつとむ。貞享四(1687)年二月四日さきに御厨(みくりや。台所)の井に不浄の事あり。これ正勝等が常に心を用ふることの等閑(とうかん。なおざり)なるによれりとてその始末を糺問(きゅうもん)せらるるのところ、まうす状もまたふつつかなるにより、死刑に処せらるべしといへども、これを宥(なだ)められ(寛大な処置をとって)八丈島に遠流(おんる)せらる。元禄六(1693)年三月二十日赦免あり。七年五月十日廩米(りんまい)二百俵をたまはりて小普請(こぶしん)となり。九年七月五日致仕(ちし)し、十五(1702)年八月二十三日死す。年七十二。法名幽閑。」(1)


 ここには「御厨の井に不浄の事あり」とあるだけで、「不浄」の内容はわからない。しかし幕府の記録『徳川実紀』には、


「台所頭天野五郎大夫正勝、八丈島に遠流せらる、庖所(ほうしょ。台所)の井に猫落(おち)て死せし事によてなり」(2)


と、その内容が書かれている。

 綱吉政権下のことである。天野を、生類憐みの令の犠牲者のひとりと見る向きもある。

 しかし実際には、『武林隠見録』『寛政重修諸家譜』『御当代記』
(3)等にあるように、天野の処罰理由は台所頭としての職務怠慢にあった。

 なお『寛政重修諸家譜』には、職務怠慢(正勝等が常に心を用ふることの等閑なる)のほかに、天野の不適切な申し開き(まうす状もまたふつつかなる)があったことを記している。

 さて、激怒した綱吉は天野を死罪に処そうとした。しかし、さすがに死罪は重すぎる。結局、八丈島遠島に落ちついたのだった。

 累は家族にまで及んだ。二人の息子(正之、正村)は鳥居左京亮忠則(のち溝口信濃守重雄)に、孫(正方。正之の子)は外戚中川勘三郎忠雄にそれぞれ預かりとなった。

 彼らは6年後の元禄6(1693)年3月20日になって、やっと赦免されたのだった。


【参考】
(1)
『寛政重脩諸家系譜・第5輯』1923年、國民圖書、P.640~641(国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:63‐238)
(2)『常憲院殿御実紀』貞享4年2月4日の条
(3)戸田茂睡『御当代記』にも「天野五郎太夫を遠島に仰せ付られ候。是れは御本丸御膳井へ、猫二疋まで落入り申し候を存ぜず、毛もぬけうきあがり候時に、見付け出したるゆへなり。」とある。(徳富蘇峰『近世日本国民史・元禄時代政治篇』1982年、講談社学術文庫、P.188から引用)
2023年2月28日(火)
井の中の猫(1)
 『武林隠見録』に次のような話がある。

 5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし。1646~1709)の治世のこと。御台所頭(おだいどころがしら)に天野五郎太夫(あまのごろうだゆう)という者がいた。

 ある日、御城の屋根の上を歩いていた年を老いた猫が、御膳所(ごぜんしょ。台所)の井戸の中に落ちて死んだ。そこで、人足を井戸に入れて猫の死骸を取り出し、井戸浚(いどざら)いをした。すると、井戸の底からもう一匹猫の死骸が出てきた。

 これまで将軍の御膳に供する料理は、この井戸の水を使って調理してきたわけである。激怒した綱吉は、


「ケ様之仕方(かようのしかた)、常に御奉公麁末故也(ごほうこうそまつゆえなり)(このような不始末は、普段からの職務怠慢の結果である)


とし、責任者の天野を三宅島(正しくは八丈島)への遠島処分にしたという。


【参考】
・『武林隠見録・3』「天野五郎太夫遠流附御膳所井戸より猫の死骸を取出す事」国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月26日(日)
綱吉は根に持つタイプ
 延宝8(1680)年5月8日、4代将軍徳川家綱(とくがわいえつな。1641~1680)が亡くなった。家綱には嗣子がいなかった。そのため江戸城内では、将軍後継者を誰にするか評議がおこなわれた。

 大老の酒井忠清(さかいただきよ。1624~1681)は、後西天皇(ごさいてんのう)の皇子有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう。1656~1699)を新将軍に推した。鎌倉幕府の皇族将軍の前例にならったのだ。

 「下馬将軍」酒井忠清の提案に、面と向かって反対したのは老中の堀田正俊(ほったまさとし。1634~1684)だった。正俊は、家綱の弟で上野館林(こうずけたてばやし。現、群馬県)藩主徳川綱吉(とくがわつなよし。1646~1709)を、新将軍に強く推した。


「天下三家(尾張・紀伊・水戸の各徳川家)と云(いう)を立置(たておき)、天下断絶に及ぶの時は是(これ)より相續可有之事也(そうぞくこれあるべきことなり)。増(まし)て眼前に御舎弟(ごしゃてい)館林殿(たてばやしどの。徳川綱吉)を差置候(さしおきそうらい)て、血脉(けちみゃく)も無之御方(これなきおかた)御養君(ごようくん)にハ難成候(なりがたくそうろう)。天下の万民、評判もいかがに候(そうろう)。」

(将軍家は御三家を創設し、将軍家断絶の危機に及ぶ際には御三家から将軍後継者を出すことに決めている。まして、眼前には家綱公の弟君綱吉公がいらっしゃる。これを差しおいて、将軍家と血縁のない有栖川宮を将軍後継者にたてることなどできない。天下の万民も納得しまい。)


 堀田正俊の意見は筋が通っている。5代将軍は徳川綱吉に決定した。その後正俊は大老となって、初期の綱吉政権を支えた。

 一方の酒井忠清は大老職を取り上げられ、遠慮(えんりょ。自宅謹慎)を申しつけられた。大手門下馬札前にあった上屋敷は没収され、大塚の下屋敷へ立ち退いた。そしてほどなく病死してしまった。

 遠慮中の死去だったため、綱吉は自分への当てつけに自殺したのではないかと疑った。そこで真相を確かめるべく、忠清の死骸を調査するよう命じた。

 こうした綱吉の一連の仕打ちに、酒井一族は反発した。


「我々(われわれ)申上候処(もうしあげそうろうところ)、病死に紛(まぎれ)なく候(そうろう)。御検使(ごけんし)可被遣由(つかわさるべきよし)、御疑心(ごぎしん)の程(ほど)心外(しんがい)。


と不快感を露わにした。さすがに検使派遣は中止された。

 酒井一族は、綱吉政権下では不遇のままだった。


【参考】
・『武林隠見録・2』「厳有院公薨御ニ付館林宰相殿御養君ニ立給ふ事、附酒井雅楽頭御役御免遠慮并死去之事」 、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月25日(土)
隠居の贈り物
 いつの夏の頃のことであったか、将軍家(徳川綱吉)から徳川光圀のもとに上使を派遣した。その頃、光圀はすでに隠居していた。

 用事が済むと光圀は、上使を労(ねぎら)うために何か進上したいと言った。


「ただし、自分はすでに隠居し、現在は百姓同然の身であるので」


と断った上で、麦の粉三袋と痩せ馬壱疋を上使に贈ったのだった。


【参考】
・『武林隠見録・2』「黄門光圀卿 上使江御挨拶被下物之事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月22日(水)
主人の名は
 ある旅僧。近くまで来たついでに水戸見物をしようと思い立った。

 途中、ひとりの隠居から声を掛けられた。いろいろ話しているうち、隠居の庵(いおり)で一泊させてもらえることになった。そこで、ふたりは連立って隠居の庵へと向かった。

 ふたりは明け方の七つ頃(今の午前4時)まで、囲炉裏の火にあたりながら四方山話に花を咲かせた。さすがに眠くなったので、ふたりはそれぞれの部屋で就寝することにした。

 僧が小坊主に起こされたのは、五つ頃(午前8時頃)だった。疲れていたのだろう、それまでぐっすりと寝入ってしまった。

 目が覚めて、明るくなった室内を見回した。すると、三方とも押入れになっていた。押入れの中には、大量の書物が一面に詰め込まれている。

 田舎の百姓家には似つかわしくない。

 僧は小坊主に主人の名前を尋ねた。すると小坊主は、とんでもない名前を口にした。


「水戸黄門様(黄門は中納言の唐名。前水戸藩主徳川光圀)ニて御座候(ござそうろう)。」


 僧は胸に冷たいものが流れたのを感じた。すぐにでも逃げ出そうとしたその時、間の悪いことに当の光圀と出くわした。

「もう四、五日もご逗留されればよかろう」と光圀。しかし、生きた心地のしない僧は「用事もございますので」と言い訳して、そそくさと暇乞いをした。

 「それなら」と言って光圀は、旅僧に金子5両を路銀として与えたという。


【参考】
・『武林隠見録・2』「光圀卿旅の出家を宿し給ふ事附旅僧甚だ迷惑せし事」 、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月21日(火)
鶴を捕れば死罪(2)
 ある時、水戸領において鶴を密猟して捕らえられた男がいた。鶴を捕れば死罪である。しかし藩主の徳川光圀は、


「いかに天下の法とはいえ、鳥類のために尊い人命を奪うのは不憫である。どうにかして、法をまげずに助けるすべはないものか。」


と思い一計を案じた。

 藩主自ら法を曲げることはできない。そこで男の公開処刑を布告し、城下の寺々の僧侶たちにも見物するよう促すことにした。仏の慈悲を説く僧侶のことである。大勢の僧侶の前で公開処刑をおこなうとなれば、必ずや僧侶一同で罪人の命乞いをするに違いない。それをしおどきにして「今回だけは格段のお慈悲によって罪を許す」とする心積もりだった。

 ところが案に相違して、大勢の僧侶がいるにもかかわらず、誰ひとり罪人の命乞いを願い出る者がいない。出過ぎた真似をして、累がわが身に及ぶことをおそれたのだ。

 やむなく光圀は、「急用ができたため処刑を延期する」という出まかせの口実で、罪人をいったん牢屋に戻した。そして、知り合いの僧侶を呼ぶと、事前に罪人の命乞いをするよう申し含ませて、次の公開処刑日に男を助けたのである。

 光圀は、公開処刑見物に集まった僧侶たちをすべて呼び出すと、次のように申し渡した。


「各(おのおの)出家の法を不知(しらず)。左様の出家は我(わが)領分に不可叶(かなうべからず)。各(おのおの)寺を被開候得(ひらかれそうらえ。開くは終わる・逃げるの忌み言葉)。」
(おのおのは、仏法の慈悲を知らない。そんな僧侶はわが領内にふさわしくない。おのおのの寺をたたまれよ。)


 僧侶たちにとっては、とんだとばっちりであった。


【参考】
・『武林隠見録・2』「水戸黄門光圀卿御寛仁の御仕置之事附御隠居之節御暮しの事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月20日(月)
鶴を捕れば死罪(1)
 江戸幕府は、将軍放鷹の獲物を確保するため各所に御留場(おとめば。禁猟区)を設定し、鳥見役人をおいて鳥類の捕獲・殺生を禁じた。

 ただし、享保改革の際に編纂された『公事方御定書』を見ると、御留場においての鳥密猟の処罰は過料(罰金)である
(1)。必ずしも厳罰というわけでもなかった。

 しかし、これより以前の処罰は苛烈だった。特に、鶴の密猟は厳罰に処せられたという。

 たとえば、4代将軍家綱の生母おらくの方(宝樹院)の父親は、鶴密猟が露見してために処刑されたという。また、下総国相馬郡押付新田(現、茨城県)には、延宝5(1677)年に鶴1羽を殺したため10人の農民が処刑されたとする伝承が残る(2)

 こうした話が伝わったのは、鶴が権力者間の贈答に使われる特別な鳥だったからだ(3)


【注】
(1)
『公事方御定書』には次のように規定されている。

「御留場鳥殺生致し候者御仕置之事
一、網或(あるい)ハ黐網(もちあみ)ニて鳥殺生之者過料。右村名主・組頭過料。
一、飼附(かいつけ)之鳥追立候(おいたてそうろう)ものハ戸〆(とじめ)、或(あるい)ハ為過怠(かたいとして)其村(そのむら)之名主へ預(あずかり)。 (以下略) 」
(2)金子浩昌外『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、「禁鳥」の項を参照。
(3)『日本史のなかの動物事典』「鶴」の項を参照。
2023年2月18日(土)
賃上げ
 久世大和守(くぜやまとのかみ。広之か)のもとに、用人たちが相談にやってきた。最近台所向きの物入りが多いので、よくよく吟味しなければならない。その上、小役人たちがどうも物品を横領しているようだ。厳しく追及したい、とのこと。

 用人たちの言い分に耳を傾けていた久世は、


「台所で召し使っている小役人たちの俸禄はいかほどか。」


と尋ねた。


用人「4、5両に2人扶持ほどでございます。」


 1両を現在の10万円と換算すれば4、5両は年収40、50万円ほど。1人扶持はひとりあたり1日玄米5合として計算し、現物または現金でまとめて支給される。2人扶持なら成人2人を1年間養える。


久世「その給与で、何人ほどが暮らせるか。」


用人「夫婦ふたり、あるいはそれに子供二、三人を加えたほどでしょうか。」


久世「その人数で余裕のある暮らし向きはできるのか。」


用人「なかなかにきびしいでしょう。」


 そこまで聞くと、久世は次のように言った。


「其(その)(くら)しにくきを知りて吟味(ぎんみ)せざるハ其方共(そのほうども)不調法(ぶちょうほう)(なり)。彼等(かれら)(ぬすみ)をせずして何とて妻子を養ふ事(こと)可成哉(なるべきや)。夫(それ)を咎(とがめ)に行(おこな)ふハ大(おお)き成(なる)落度(おちど)(なり)。能々(よくよく)吟味して妻子を養ふべき程(ほど)の身上(しんしょう)に加増して遣(つか)わすべし。然(しか)らバ自ら盗ミを致すまじき。」


 小役人たちの俸禄が少なくて生活しがたいという事実を知りながら、改善の手だてを講じないのはお前たちの失態だ。それでは台所の品物に手を出さずして、どうやって家族を養うことができよう。それを罰しようとするのは大きな落ち度である。よくよく検討して、家族を養うことができるほどに俸禄を増額せよ。余裕ある生活ができれば、自ら盗みなどしないものだ。


【参考】
・『武林隠見録・2』「久世大和守おほやけの噂之事」 、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月17日(金)
生まれながらの将軍
 徳川家光が3代将軍に就任した。代替わりに際し、家光は国持大名(くにもちだいみょう。徳川氏に臣従した時期が遅い外様大名が多い)をことごとく江戸に呼びつけ、つぎのように申し渡した。


「家康公がおのおのの助力を得て天下を取り、秀忠公も昔はおのおのの傍輩だった。そのため、おのおのを丁重に客人扱いしてきた。参府の際にも、品川・千住まで将軍がおのおのに上使を遣わすほどだった。

 しかしわが代に及んでは、自分は生まれながらの将軍である。

 以後はおのおのも、譜代大名(ふだいだいみょう。関ヶ原合戦以前から徳川氏に臣従してきた大名)と同じくわが家来である。今後は諸事扱いを家来同前とするので、そのように心得よ。

 もしも納得できなければ、国元で3年間の猶予がある。その間じっくり考え、謀反を決するのも勝手次第である。」


 国持大名たちは「あっ」と応え、一同平伏した。
 
 『武林隠見録』は家光の威を誉めたたえている。しかし幕府も、3代将軍の頃ともなれば、その支配体制の基盤はほぼ固まっていた。すでに日本全土の大名を支配下におき、最大の軍事力を擁していた幕府に対し、無謀な戦いを挑もうとする大名などそもそもいるわけがなかったのだ。

 家光が大見得を切れたのも、下剋上の時代ではもはやなかったからだ。


【参考】
・『武林隠見録・2』「大猷公御代初天下之威を取給ふ事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月16日(木)
森川重俊の殉死
 寛永9(1632)年正月24日亥(い)の刻(今の午後10時頃)、大御所秀忠が亡くなった。

 この日、西丸年寄の森川出羽守重俊(もりかわでわのかみしげとし。下総国生実(おゆみ)藩1万石。1584~1632)が殉死した。同じ西丸年寄の永井信濃守尚政(ながいしなののかみなおまさ。下総国古河藩8万9千石余。1587~1668)は殉死しなかった。そこで殉死しなかった永井を誹謗する落書が、江戸城下馬札辺に立てられた。


   永井(長居に掛ける)して人の誹(そし)りや尚政る 出羽に越されて信濃わるさよ


 しかし実際は、森川の殉死をいぶかる声の方が多かった。森川に殉死すべき理由はなかったのだ。

 森川は重職にあったとはいえ、秀忠に特別目をかけられていたわけではなかった。森川に倍する恩顧をこうむり、殉死しなかった重職は何人もいる。殉死しなかった永井の方にこそ理があった。

 では、なぜ森川は殉死したのか。それは、家光・忠長兄弟の嫡嗣相続争いに因があった。

 幼弱の家光は能力が平凡な上、鷹狩りばかりして遊んでいた。一方、忠長は利発な上、将軍にふさわしい器量を備えていた。そのため秀忠・崇源院(お江与の方)夫妻も忠長を寵愛し、森川ばかりでなく多くの家臣たちが忠長を嫡嗣にと期待していたのである。しかし、長幼の順を重んじる祖父家康の鶴の一声によって、嫡嗣は家光と決定されてしまった。

 そのため家光が3代将軍に就任したあとも、忠長に心酔していた森川の仕事ぶりは「万事家光公に仕(つか)ふる事、第二とする風情(ふぜい)に見え」た。

 こうしたなか寛永8(1631)年、忠長は家光から甲府蟄居(ちっきょ)を命じられたのである(2年後に上野国高崎で自刃)。この上秀忠も他界したうえは、日頃の疎意な勤めぶりを家光に咎(とが)められるのは必定(ひつじょう)。そうなれば森川家の存続も危うかろう。

 だから殉死せずともよかったものの、森川はさっさと殉死したのだ。世上ではかように噂されたという。


【参考】
・『武林隠見録・2』「台徳公御他界に付世上物そう並び森川重俊殉死評判之事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月15日(水)
夢解き
 初夢の話だったのだろう。2代将軍秀忠が夢見の悪さをこぼしていた。歯がぽろぽろ抜け落ちる夢だったという。

 この話を聞いた観世太夫(かんぜだゆう)は、


「是(これ)、吉(よ)き御夢(おんゆめ)(なり)。」


と言上すると、その場で謡曲『高砂(たかさご)』の一節を謡い始めた。


  所は高砂の尾上(おのえ)の松も年ふりて
  老(おい)の浪も寄りくるや
  此(この)下陰(したかげ)の落葉
  かくなる迄(まで)命ながらへて
  猶(なお)いつ迄(まで)もいきの松
  それも久敷(ひさしき)名所哉(めいしょかな)



 「落葉」に「落歯」、「名所」に「名将(名将軍)」を掛け、秀忠の長寿とその治世長久を言祝(ことほ)ぐめでたい吉夢と夢解きしたのだ。

 観世太夫の機知のおかけで、秀忠の憂鬱な気分は払拭された。褒美は何がよかろう。とりあえず秀忠は、着ていた肩衣(かたぎぬ)を脱ぐと、それを観世太夫に与えた。

 これが吉例となって、御謡初(おんうたいぞめ)の時には、諸大名も観世太夫に肩衣を下賜することが始まったという(1)(2)


【注】
(1)
『武林隠見録・2』「御謡初に諸大名肩衣脱るる例の初の事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
(2)『御城之年中行事(元禄三年版『江戸惣鹿子』)』の正月三日の項に次のようにある。

「同夜に入御謡初、酉刻大広間へ出御、御譜代大名、四座猿楽板縁に並居、老松、東北、高砂以上三番、小謡(こうたい)時々うたふ、此日観世太夫、諸大名かたぎぬを下され候由こうれい也」(三田村鳶魚編・朝倉治彦校訂『江戸年中行事』1981年、中央公論社(中公文庫)、P.13)
2023年2月14日(火)
恐怖
 松平忠直(まつだいらただなお。1595~1650)と言えば越前福井藩68万石を領する大大名である。結城秀康を父に、徳川家康を祖父にもつ。

 また勇猛果敢な武将でもあり、大坂夏の陣(1615)では大坂城一番乗りという抜群の戦功をあげた。しかし、見返りの恩賞がなかったことから自暴自棄になり、粗暴な「悪行」を繰り返すようになった。ついには幕府に咎められて福井藩主の座を追われ、流謫(るたく)の地豊後(現、大分県)萩原で病没したのである。

 そんな忠直が、越前福井藩主だった頃のこと。

 ある日、忠直邸の庭に忍び入って、忠直秘蔵の牡丹を切り取った者がいた。

 異変に気づいた忠直は大きな楷(かい)の木の棒を突いて現れた。そして、男を見つけると激怒して


「何者(なにもの)ぞ。」


と誰何(すいか)した。

 すると不敵にも男は名乗りをあげ、抜け抜けと次のように答えた。


「今日、諸客(しょかく)を得(え)候間(そうろうあいだ)、馳走(ちそう)の為(ため)御庭(おにわ)の牡丹を盗(ぬすみ)に参り、則(すなわち)切り申候(もうしそうろう)。」
(本日来客があるので、もてなしのため御庭の牡丹を盗みに参り、切り取ったのです。)


 男は片手に抜身の脇差を持ちながら、まったく動じる気色がない。

 剛の者で知られた忠直だったが、男の威に呑まれ、一言も発することができなかった。さらに不穏な空気を感じとったのだろう、急ぎ邸内に戻ろうとした。

 すると背後に男が迫り、あとを追ってくる気配がするではないか。忠直はあわてて居間に飛び込んだという。

 忠直を恐怖せしめた男は、一体何者だったのか。『武林隠見録』にその記載はない。


【参考】
・『武林隠見録・2』「越前の忠直卿御身持の次第附岩崎大膳情にて女之命を助く事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月13日(月)
秀吉の器量(3)
 秀吉が家康とともに鷹狩りに出た時のこと。

 秀吉は自分の従者をあとに残し、家康の側近だけ連れて野山を歩行した。その際、自分の腰の物(大刀・小刀)を家康の側近に預けた。この時、秀吉は丸腰だった。

 ある時は、家康の膝を枕としてそのまま寝てしまうということがあった。

 当時はまだ下剋上の世の中だった。家康には秀吉を亡き者にし、天下人となる機会が幾度もあった。しかし秀吉の度量の大きさが、そうした気を起こさせなかったのだ。


【参考】
・『武林隠見録・2』「太閤秀吉公大器有事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27  
2023年2月12日(日)
秀吉の器量(2)
 太閤秀吉がある時、戦場で野陣を取った。そしてそこに幕を打ちまわすと、能を始めた。

 武将たちは、秀吉の陣営の前までくると下馬の礼をとり、兜を脱いで通って行った。

 そのうち、花房助兵衛(はなぶさすけべえ)という武士が、馬上のまま秀吉の陣営にさしかかった。しかし、助兵衛は下馬もせず兜をも脱がず、ぬさぬさと通り過ぎようとした。番人たちが見咎めてこれを制止しようとすると、助兵衛は大音声(だいおんじょう)をあげて一喝した。


「戦場に於(おい)て能をして遊ぶ様なるたはけたる大将に下馬すべきか。」

(戦場で能をして遊ぶような馬鹿な大将(秀吉)に、下馬の礼など取れるか。)



 秀吉を「たわけ」呼ばわりし、下馬の礼を取らなかっただけではない。助兵衛は、秀吉の方に向かって唾を吐き捨てて通っていった。

 秀吉は激怒した。助兵衛の主君宇喜多秀家(うきたひでいえ)を呼びつけると、


「助兵衛儀、しばり首を可打(うつべし)。」(助兵衛を縛り首にせよ。)


と命じた。秀家には詫びる機会さえ与えられなかった。しかし御前を下がった秀家は、1町(約109m)ばかり行ったころ、秀吉に呼び返された。恐る恐る御前に出た秀家に、秀吉は次のように言った。


「一たんの怒(いかり)にてしばり首とハ言(いい)たれども、さすがの侍(さむらい)をさも成(なる)まじ。切腹申付(もうしつけ)られよ。」
(一時の怒りにまかせて縛り首にせよと言ったが、さすがに武士を縛り首にはできまい。助兵衛には切腹を命じよ。)



 秀家は畏(かしこま)って秀吉の御前から退出した。すると1、2町も行ったところで、ふたたび秀吉に呼び返された。今度は何事やといぶかる秀家に、秀吉は次のように申し渡した。


「今、天が下に於(おい)て、某(それがし。秀吉)に向(むかい)てケ様(かよう)に大言(たいげん)せん者、覚(おぼえ)なし。天晴(あっぱれ)、大剛(だいごう)の武士也(なり)。かかる侍を殺さんは惜(おし)き事也。命を助ケ、加増して召仕(めしつかわ)るべし。」


 過ちを改めるのをはばからず、しかも迅速だった。秀吉の器量というべきだろう。

 
【参考】
・『武林隠見録・2』「花房助兵衛秀吉公へ乗打之事附秀吉公寛仁大度之事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27  
2023年2月11日(土)
秀吉の器量(1)
 秀吉は外出するたび、銀貨をいっぱいにつめこんだ大財布を従者に持たせた。そして、途中に遊んでいる子どもや物乞いらを見かけると、それらをすべて撒いて帰った。

 金蔵に金銀がたくさん貯まってくると、「蔵払い」と称してそれらを取り出しては大名たちにくれてやった。また大名に加増する際には、千石・二千石の単位でなく、一カ国・二カ国を与えた。

 秀吉のあまりの気前のよさに困惑したのが家来たちだった。

 ひとりの家来が秀吉に諫言した。そんなに大盤振る舞いばかりしていると、御蔵が空っぽになってしまいます、と。

 すると秀吉は次のように応えた。


「我は天下を取れバ、大名に遣(つかわ)すとても皆(みな)我国(わがくに)(なり)。某(それがし)蔵入(くらいり)なくバ、毎日諸大名より一飯(いっぱん)を養(やしな)バ迚(とて)も済事(すむこと)也。」


 俺は天下を取ったのだから、大名にくれてやった領地もすべては俺の国のうち。金がなければ、毎日大名たちから飯を食べさせてもらえば済むことだ、と。

 そう言って秀吉は、諫言を意にも介さなかったという。


【参考】
・『武林隠見録・2』「太閤秀吉公大器有事」国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月10日(金)
細川三斎
 正保2(1645)年12月、細川三斎(忠興。1563~1645)が亡くなった。三斎は細川幽斎(藤孝。1534~1610)の嫡子で、戦場でたびたび武功をあげ、その名を知らぬ者はいなかった。また和歌・有職(ゆうそく)・茶道(千利休門下七哲の一人)にすぐれ、父に劣らぬ文武両道の達人でもあった。

 ある夜、家光が江戸城の櫓で三日月を上覧した際、その場に三斎が伺候していた。家光から不意に


「此(この)三ヶ月(三日月)に付(つけ)て發句(ほっく)(つかまつ)れ。」


との上意があった。三斎はたちどころに次の発句をものした。


 月は弓 誰も射て(居て)見る 矢倉かな


 
三日月を弓に見立て、弓・射る・矢の縁語を重ねた見事な発句だった。家光は、三斎の才にはなはだ感服した。

 また家光は、毎度三斎を御前に召し出しては、古戦場の物語を聞くのが常だった。

 だから家光も、細川三斎の死をひどく惜しんだのだった。


【参考】
・『武林隠見録・1』「細川三斎御前ニ於て發句の事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27  
2023年2月9日(木)
市川団十郎のニラミ
 寛保2(1742)年、2代目市川団十郎(1688~1758)が大坂佐渡嶋長五郎座で「鳴神北山桜」の狂言で大当たりをとった。その年の夏、団十郎は役者仲間とともに、涼を求めて天満あたりの茶楼に繰り出した。

 ところが、その家には重病人がいるらしく、医師が帰ったかと思うと、入れ替わりにまた別の医師がやって来るという様子。聞けば、一人娘が昨年秋より瘧(おこり。マラリアなどの伝染病)に罹(かか)り、いろいろと手を尽くしてみたところ回復の兆しがまったくないとのこと。

 亭主と懇意という役者仲間のひとりが、団十郎に次のように頼み込んだ。

「願ハくバ貴客(きかく)、今般の不動の威力にて落して見給(たま)へかし。」(今回の狂言であなたは不動明王役を演じられた。どうかその不動明王の威力によって、娘の瘧を落としてみてくださいませ。)


 そこでやむなく団十郎は、うがい・手水して手拭いで頭を包み、懐中していた汗手拭いを出し、差してきた小脇差しを携えると、病人の寝室に向かったのである。そして病人を抱き起こさせると、「我面(わがおもて)を見さしめ給(たま)ふべし」と指示した。そして


「短刀を抜放(ぬきはな)し、汗手拭いを握りて縛(しばり)の縄にしつつ立上(たちあが)り、病女を白眼(にらみ)し勢ひ、まことに別人のごとし」


だった。
 
 病人は、団十郎のニラミを一目見るなり「戦慄(みぶるい)甚(はなはだ)しく其(その)まま打臥(うちふ)」してしまった。その後、滝のような汗を流すと、瘧は跡形もなく落ちたのだ(全快した)という。

 団十郎の短刀と汗手拭いは、不動明王が右手に持つ降魔(ごうま)の利剣と左手に持つ三枚の縄の見立てだ。市川家は成田山新勝寺(成田不動尊。現、千葉県)を厚く信仰し、狂言でも不動明王に扮する「神霊物」をお家芸の一つとしていた。

 しかし何よりも、団十郎のニラミに迫力があったからこそ、そのニラミに瘧を落とすほどの霊験が宿っていると周囲に信じられたのだろう。


【参考】
・燕石十種第四輯巻五『中古戯場説・上巻』「柏莚」の項。早稲田大学図書館蔵、請求記号:イ04_00679。史料はインターネット上に公開されている。
2023年2月7日(火)
落語のような問答
 3代将軍家光は寛永15(1638)年、品川に万松山東海寺(ばんしょうざんとうかいじ。臨済宗大徳寺派)を創建すると、その開基に禅僧沢庵宗彭(たくあんそうほう。1573~1645)を招いた。東海寺の寺域は47,600余坪(約157,000平方メートル)にも及び、最盛期には塔頭(たっちゅう)が17院も建ち並んでいたという。

 ある日、品川方面に鷹狩りに出た家光は、突然東海寺に立ち寄って休息する言い出した。その旨を急ぎ東海寺に知らせると、家光一行が到着する頃には門前まで沢庵が出迎えに出ていた。

 沢庵に会うと家光は、次のように問いかけた。


「いかに沢庵、か程(ほど)に海近きてらを、とうかい寺とハいかに。」


 沢庵は、家光の問いに問いをもって応じた。


「か程に大軍にて入らせ給(たま)ふ公を、せう軍とハ如何(いか)に。」


「こんなに海近くにある寺を、海から遠い寺(東海寺)というのはどうしたわけか」という問いに、「これほどの大軍を率いてお出でなされた家光公を、小軍(将軍)というのはどうしたわけでしょうか」という問いで応じたのだ。

 沢庵の機転の利いた受け答えに満足した家光は、ことのほか機嫌よく寺に入ったという。


【参考】
・『武林隠見録・1』「家光公澤庵和尚と御問答之事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月6日(月)
おかしな酒癖
 家光が月見の宴を開いていたときのこと。

 当時御番衆のなかに、前田五左衛門という酒飲みがいた。おかしな酒癖が有名で、その噂は家光の耳にも届くほどだった。

 その五左衛門の酒癖を、是非とも見たい。家光がそう言い出した。偶然にもその夜、五左衛門が宿直当番で城内に勤務中だった。しかし、彼一人だけ御前に呼び出すとなると、不審がられよう。それなら月見の宴を口実に、「上様が御酒(ごしゅ)を下さる」といって当番全員を召し出せばよかろう、ということになった。こうして、その夜当番になっている者たち全員が、御酒を賜ったのだった。

 五左衛門も最初はかしこまっていたが、そのうちついつい我を忘れ、いつもの酒癖がでてしまった。その酒癖というのは、次のようなものだった。


「大盃(おおさかずき)にて酒を静(しずか)に是(これ)をつぐ程(ほど)、盃を左の手に持(もち)、右の手の大指と中指とさし合せて摺(す)る事良(やや)(ひさ)し。其後(そのご)息を以(もっ)て酒の息を吹(ふき)、口を付(つけ)ると否(いな)や息をもせず一息(ひといき)に是(これ)を呑(のみ)、其後(そのご)鼻の下を横に摺る事二、三十度、次に鼻を又(また)(たて)に摺る事四、五十度。此内(このうち)ハ目をふさぎ、てっぺん(頭)を押(おさ)へ、嘯事(うそぶくこと。口をすぼめて息を吐くこと)(しばら)くして、


『扨
(さて)も能(よ)き氣味(きみ)か。』


と高聲
(たかごえ)にて呼(よばい)て後(のち)(め)を開く。」


 
 しかし目を開けると、そこは将軍の御前。はたと我にかえった五左衛門は大いにあわてふためき、逃げるように退出した。御番所に戻った五左衛門は、溜息をつくと次のようにこぼした。


「一盃(いっぱい)(たまわ)りし迄(まで)ハ随分(ずいぶん)(つつし)ミたりし。二盃めにハ我を忘れて例の癖(くせ)(ことごと)く出し、剰(あまつさ)へ嘯(うそぶき)、聲(こえ)を發(はっ)して『能氣味(よききみ)』と呼(よば)ハりして、定(さだめ)て切腹 仰付(おおせつけ)られんか、扨(さて)ハ遠嶋(えんとう)たるべし。」


 しかし、そもそも家光が五左衛門の酒癖を見たいがために、彼に酒を飲ませたのだ。お咎めなどあるはずもなかった。事情を知らぬ五左衛門は、翌日何事もなく帰宅できてやっと生きた心地がしたという。

 一方の家光は、五左衛門のおかしな酒癖に大いに笑い転げたという。


【参考】
・『武林隠見録・1』「同御月見の御遊、前田五左衛門健呑上戸 上覧の事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月5日(日)
悪ふざけで改易(原文)
一、加藤肥後守・同豊後守御預ケの事、并(ならびに)廣瀬庄兵衛戯気者(たわけもの)の事


 同九壬申(みずのえさる。寛永9年)六月朔日(さくじつ)巳ノ刻(みのこく。今の午前10時頃)、出仕(しゅっし)の諸大名留置(とめおか)れ、御白書院(おんしろしょいん)に於(おい)て加藤肥後守(忠広)・同豊後守(光広)御不審の儀有之(これあり)。

 依(よっ)て肥後守儀は肥後国召上(めしあげ)られ、羽州庄内(うしゅうしょうない)へ差遣(さしつか)ハされ、酒井宮内太輔(さかいくないたいゆう)に召預(めしあずけ)られ、堪忍分(かんにんぶん)として壱万石是(これ)を下(くだ)し置(おか)る。豊後守義は飛騨国へ是を遣ハされ、百人扶持(ひゃくにんぶち)被下也(くださるなり)。右の方、老中別座にて仰渡(おおせわた)さる。

 其筋以(そのすじもって)如何(いかが)と尋(たずぬ)るに、肥後守嫡子豊後守家来に廣瀬庄兵衛と云(いう)者、其(その)性質魯鈍(ろどん)にして甚(はなは)だ戯気(たわけ)也(なり)。常々(つねづね)豊後守、渠(かれ)を呼びたわむれを云(いい)、妄言(もうげん)を以(もっ)て慰(なぐさみ)とす。

 ある時豊後守、小膳と云(いう)禿(かぶろ)を呼び、使として庄兵衛を召(めし)、たわむれて曰(いわく)、


「我今日思ひ立事有り。汝(なんじ)を一方の大将とし、人数を預(あずく)べし。」


と也。庄兵衛、例のたわけ故(ゆえ)是(これ)を実(まこと)とし、大将の事頻(しき)りに辞退す。

 其後(そのご)豊後守、江戸御城の絵図を出し、彼(かの)絵図を見せしめ、


「汝は何(いず)れの口より責(せむ)べき哉(や)。」


と問(とう)。庄兵衛、驚き騒ぐ事限りなし。側(かたわら)には近習の者計成故(きんじゅのものばかりなるゆえ)に、是を以て甚(はなはだ)興(きょう)とす余り、興に乗(じょう)じて曰(いわく)、


「井上新左衛門、常に睦(むつみ)し。かれを誑(たぶらか)して遊ぶべし。」


とて、謀叛(むほん)の状を認(したた)め、是(これ)を封(ふう)じ状箱(じょうばこ)に入れ、潜(ひそか)に近臣に言付(いいつけ)、或朝(あるあさ)未明に井上が玄関に往(ゆ)かしむ。上書ハ他への名を記す。井上が亭番、是を請取(うけとる)。未明なれバ未(いま)だ起(おき)ず。故(ゆえ)に使(つかい)に対して


「是(これ)を見すべき間、暫(しばら)く御待(おまち)。」


と云(いう)言釈(いいわけ)して奥に入る。此(この)間に彼使(かのつかい)は立帰(たちかえ)る。井上披見(ひけん)し大に驚き、


「其使(そのつかい)を留(とどむ)べし。」


と下知(げち)してミづから出て詮義(せんぎ)する処(ところ)に、使は逐電(ちくでん)して誰が使といふ事を知らず。  

 井上、則(すなわち)彼状(かのじょう)を土井大炊頭(どいおおいのかみ。利勝)宅に持参し是(これ)を訴(うった)ふ。


「是(これ)謀叛(むほん)の廻状(かいじょう)、連判(れんぱん)の大名多し。其(その)(きた)る所を知らず。」  


 新左衛門并(ならびに)其家人(そのけにん)、男女に限らず召出(めしいだ)し詮義を遂(とぐ)るといへ共(ども)、然(しか)れ共知る者なし。井上が亭番を召預(めしあずか)りて糺明(きゅうめい)せらる。亭番申様(もうすよう)、


「某(それがし)、件(くだん)の状を請取(うけとる)。則(すなわち)井上が厩(うまや)の者、彼使(かのつかい)の者と立並(たちならび)て物語をなすと見へたり。召捕(めしとり)て御糺明(ごきゅうめい)。」


と申(もうす)。 依之(これにより)、則(すなわち)彼(かの)馬屋の口取(くちとり)を召出(めしいだ)され、


「汝、以前使の者と物語したる由(よし)。其(その)主人を知りたるや。誰が家中の者也(なり)や、尋(たずね)て参(まい)るべし。」


と也(なり)。口取(くちとり)が曰(いわく)、


「其者(そのもの)ハ去々年(きょきょねん)浅野因幡守殿(あさのいなばのかみどの)家中の所に傍輩(ほうばい)にて罷在(まかりあり)しが、去年の春、渠(かれ)も我(われ)も暇(ひま)を取り、彼是(かれこれ)いたし、其後(そのご)何方(いずかた)に有りやしらざる。」


の由(よし)申す。 然共(しかれども)先(まず)籠舎(ろうしゃ)せしめ、大炊頭(おおいのかみ)分別(ふんべつ)して曰(いわく)、


「彼(かの)小者(こもの)をバ見知りたる者なれバ、尋出(たずねいだ)バ状持参の者は必(かならず)知るべし。」


とて、彼(かの)厩(うまや)の者に足軽(あしがる)四、五人付(つけ)て毎日江戸中をつれ廻(まわ)す時に、廿日(はつか)余りを経て件(くだん)の小者(こもの)に行逢(いきあ)ひ、則(すなわち)是(これ)を搦捕(からめと)り、大炊頭宅(おおいのかみたく)へ連来(つれきた)り推問(すいもん)せしむるに、


「某(それがし)は加藤豊後守近習の士、臼杵平四郎(うすきへいしろう)と申者(もうすもの)の小者也。」


と云(いう)。


「去る頃未明に、井上方へ主人平四郎状箱を持参したるや。」


と問ふに、


「成程(なるほど)、参(まい)りたる。」


由(よし)答へけるに依(より)て、彼(かの)臼杵を呼尋(よびたずね)らる処(ところ)に、初(はじめ)は暫(しばら)く陳(のべ)ずといへども、小者委細(いさい)是を申す。仍(より)て陳防(ちんぼう)する事あたわず。

 此時(このとき)、豊後守亭番廣瀬庄兵衛も公儀へ呼(よば)れ、江戸絵図の事、大将になすべきとの事、小膳を以(もって)度々(たびたび)呼(よば)れし事を申す。其(その)申状(もうしじょう)、其男(そのおとこ)の気質(きしつ)誠に戯気(たわけ)とハ思ひながら其侭(そのまま)差置(さしおか)れ難(がた)く、父子共に配(はい)せられ、臼杵は誅(ちゅう)せらる。井上新左衛門ハ漸々(ようよう)難を遁(のが)れぬ。


【注】
・『武林隠見録・1』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月4日(土)
悪ふざけで改易
 寛永9(1632)年、加藤肥後守忠広(1601~1653)が突然、肥後国熊本藩52万石を改易された。

 忠広は出羽国庄内藩へ流され、酒井宮内大輔忠勝(さかいくないたいゆうただかつ。1594~1647)預かりとなり、堪忍分(かんにんぶん。客分の者に給与する俸禄)として1万石が下された。また、子の光広(1614~1633)は飛騨国高山藩に流され、金森出雲守重頼(かねもりいずものかみしげより。1596~1650)預かりとなり、堪忍分として百人扶持(ひゃくにんぶち)が下された。

 改易の理由については種々取り沙汰された。『武林隠見録』によると、直接の原因は光広の悪ふざけだったという。

 光広の家来に広瀬庄兵衛という者がいた。彼の性質が愚鈍であるのをいいことに、光広はいつも馬鹿げたことを言っては庄兵衛をからかい、己の慰みにしていた。

 ある日、光広は庄兵衛を呼び出すと江戸城の絵図を広げ、


「お前を一方の大将に任じて、人数を預ける。江戸城をどこから攻めたらよいと思うか。」


と、さも謀反を企てているかのように装ってからかった。光広の言葉を真に受けた庄兵衛はひどく慌てふためいた。その狼狽する有様を見て、光広と近習たちは面白がったのだ。
 
 これで止めておけばよかったものの、光広は「常に睦(むつみ)みし」井上新右衛門という男もだましてからかってやろうと考えた。そこで、よりにもよって謀反の連判状を偽作すると、それを状箱に入れて井上のもとに届けさせたのである。

  しかし謀反の連判状に驚いた井上は、直ちにこの連判状を持って幕府の重臣土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)のもとに注進してしまう。そこから探索の手が伸び、光広の仕業と露顕してしまったというのだ。

 加藤家取り潰しの実際の理由が何であったかは、よくわからない。しかし、豊臣氏恩顧の大名(加藤忠広は加藤清正の子)を排除するためには、いかなる口実であってもよかっただろう。


【参考】
・『武林隠見録・1』「加藤肥後守同豊後守御預ケの事并廣瀬庄兵衛戯気者の事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
2023年2月3日(金)
与力家庭の節分
 『江戸の町奉行』という本に、町方与力家庭の年中行事が記述されている。江戸時代に町方与力だった者たちが著した『江戸町方与力』(大正7年稿、謄写版刷、国立国会図書館蔵)からの引用だ。

 与力家庭の年中行事など、他書ではまずお目にかかれない。また、現代の年中行事と種々異なる点もあり、短いながら興味深い史料だ。

 時節柄、この中から節分の項目を抜き出し、現代語訳して次に示そう。


「節分の夜は、大豆を煎(い)って枡(ます)に入れ、三方(さんぽう。神仏に供え物をするときなどに使う白木の台)に載せて部屋ごとに豆まきをする。

 終わると家族一同でまいた豆を拾い、封をして守り袋の中に納める。入れる豆の数は、自分の年齢(数え年)に一つ加えた数とする。

 また、同数の豆と鐚銭(びたせん)一文を紙に包んでひねり、これで身体をぬぐう。これを「厄払い」と称する者に与える。」


 この史料には、豆を年齢の数だけ食べるという風習はない。豆は守り袋の中に納めるという。年をとって歯の悪い者にとっては、その方がありがたい。


【参考】
・南和男『江戸の町奉行』吉川弘文館、P.211~217
2023年2月2日(木)
下馬評
 江戸時代、諸大名は臣下や中間(ちゅうげん)たちを率いて江戸城に登城した。

 江戸城に到着すると、城門の下馬札(げばふだ)があるところで主人は乗り物から下りた。それより先へは、主人が数名の供のみ連れて徒歩で移動した。

 下馬札が建つ場所を下馬先(げばさき)といった。残りの供の者たちは下馬先で待機し、主人の退出を待った。

 その間、各大名の供の者たちが大勢下馬先に滞留した。そのため、下馬先の混雑状況は目も当てられぬほどだったという。だから喧嘩やもめ事等がよく起こった。

 主人が退出するまではとにかく暇だった。

 そこで下馬先では暇つぶしに歌を歌ったり、寝そべったり、博打が行われたりした。上役の悪口やら興味本位の噂話やらする「下馬評」も、そうした下馬先での暇つぶしから生まれた言葉だ。


【参考】
・篠田鉱造『増補幕末百話』1996年、岩波文庫、P.94~97
2023年2月1日(水)
雪下ろし
 先週、関東では久々に雪が降った。子どもや犬は大喜びだが、豪雪地帯の人々の労苦はいかばかりか。

 雪下ろしの労苦について、江戸時代の雪国生活の詳細を紹介した『北越雪譜』は次のように書く(漢字は現行のものに改めた)。


「大家は家夫(わかいもの)を尽(つく)して力たらざれば掘夫(ほりふ)を傭(やと)ひ、幾(いく)十人の力を併(あわせ)て一時に掘尽(ほりつく)す。事を急に為(な)すは掘る内にも大雪下(くだ)れば堆(うずたか)く人力におよばざるゆゑなり。小家の貧しきは掘夫をやとふべきにも費(ついえ)あれば男女をいはず一家雪をほる。」(1)


 しかし、苦労してやっとのことで除雪しても、再び大雪が降れば元の木阿弥。


「此(この)雪いくばくの力をついやし、いくばくの銭を費し、終日ほりたる跡へその夜大雪降り夜明(よあけ)て見れば元のごとし。かかる時は主人(あるじ)はさらない、下人(しもべ)も頭(かしら)を低(たれ)て歎息(ためいき)をつくのみなり。」(2)


 毎年この時期になると、雪下ろし中の高齢者が屋根から転落したというニュースが聞こえてくる。世の中がこれだけ進んだのに、こうした痛ましい事故がなくならないのは、何とも切ない。

 雪下ろしの労苦を、何とか軽減できる手だてはないものだろうか。


【注】
(1)(2)
鈴木牧之著・岡田武松校訂『北越雪譜』1936年、岩波文庫、P.28~29 
2023年1月31日(火)
本当はびっくりした?
 伊達政宗に関する逸話をもう一つ。

 政宗が幕府の重臣土井利勝(どいとしかつ)の屋敷に招かれた時のこと。

 いよいよ帰る段になって、土井は家臣の折下外記(おりしたげき)に政宗の見送りを命じた。

 政宗はそれを聞くと、駕籠の側まで来るよう外記に伝えた。外記は駕籠脇に伺候した。しかし政宗は、何の言葉も発しない

 するとすらりと刀を抜くや、その切っ先を外記の鼻先に突き出したのである。

 しかし外記はまったく動じない。謹んでその場に伺候したままだった。

 そこでやっと政宗は、口を開いた。


「見られたか。よく出来(でき)たる道具也(なり)。相贈(あいおく)る。」


 そう言うと政宗は、直々に外記に自分の刀を与えたという。


【参考】
 『酒井空印言行録・1』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー112による。
 なお、折下外記はもと直江兼継配下の武士で、勇者として知られた。土井利勝の元に身を寄せた経緯は『折下外記先祖並武功之譜』(茨城大学図書館蔵、インターネットで閲覧可能)に詳しい。政宗が抜き身の真剣を相手の鼻先に突き出すという突拍子のない行動をとったのも、相手が折下と知ってその胆力を試すためだったのかもしれない。
2023年1月30日(月)
ゑせ者
 太閤秀吉が大坂城玄関に大きな猿をつながせた。

 この大猿は性質が凶暴で、人と見ると歯をむいて飛びかかろうとする。何も知らずに登城した大名は、突然猿に襲われそうになってあわてふためくのだ。

 そうした大名たちのさまざまな反応を、秀吉はこっそり覗き見しては面白がっていた。

 政宗はこの話を聞くと、仮病を使って登城をとり止めた。そして、八方手を尽くして例の大猿を猿引きから借り出すと、大坂城玄関とよく似た場所につなぎ置かせた。

 政宗がそこを通りかかると、大猿はいつものごとく、歯をむいて飛びかかろうとする。そのつど政宗は、大猿をこっぴどく鞭で打ち据えた。これを繰り返すうち、大猿は政宗の姿を見ただけで身を縮め尻込みするようになった。そこまで仕込むと、政宗は大猿を猿引きに返却した。そして何食わぬ顔で登城したのである。

 そんなことなどつゆ知らぬ秀吉。大坂城玄関に大猿をつながせ、いつものように大名の登城を覗き見していると、そこへやってきたのが伊達政宗。

 大猿はいつも通り、歯をむいて飛びかかろうとした。ところが相手はあの政宗。政宗がジロリと睨みつけると、大猿は恐怖のあまりしおしおと後ずさりしたのである。

 こうして政宗に自分の悪戯(いたずら)の裏をかかれた秀吉は、


「ゑせ者が又先へ廻(まわ)したるよ。」(くせ者が、また先回りしたな。)


と言って笑ったという。


【参考】
・『酒井空印言行録・1』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-112
2023年1月29日(日)
野讃岐
 ある日、家光が放鷹(ほうよう)のために郊外へ出た。

 鷹場において家光は、御鷹師(おたかし。鷹匠)の小野久内(おのくない)を召し出した。そして突然、次のような質問をした。


「汝(なんじ)を世上に『野讃岐(のさぬき)』と称する由也(よしなり)。何の故(ゆえ)ぞ。」
(おまえのことを世間では「野讃岐(小野讃岐守)」と呼ぶようだが、その理由は何か。)



 思いもかけぬ質問に、小野は次のように返した。 


「夫(それ)は人の承違(うけたまわりちがい)にて候(そうろう)べし。世人、某(それがし)に異名(いみょう)を付(つけ)て『野狸(のだぬき)』と申由也(もうすよしなり)。」
(それは人の聞き違いでございましょう。世間では私のことを「野狸」と称しているとのことです。) 


 「のさぬき」でなく「のだぬき」だという。それならと、家光が「野狸」の理由を重ねて尋ねる。小野の答え。


「狸と云(いう)者は野辺の通路を能(よく)知りぬ。久内も野部(のべ)の案内を知る事、恐らくハ狸に劣らずとて如斯(かくのごとく)(ごう)するよし、兼(かね)て承る。」
(狸という動物は、野辺の道をよく知っております。私も鷹野で野辺の道案内をいたします。おそらくは、それが狸と同じというので「野狸」と名付けられたものと承知しております。)


 これを聞いた家光は笑(えみ)を含むと、それ以上は尋ねなかった。


 当時「讃岐」といえば、誰しもが酒井讃岐守忠勝(さかいさぬきのかみただかつ。1587~1662)を連想した。忠勝は老中・大老をつとめたほどの重臣で、将軍に次ぐ権力者である。

 ところが一介の御鷹師が、幕府権臣の受領名(ずりょうめい。武家の非公式の官名。ここでは讃岐守)で呼ばれているという。家光が興味を引かれたのもうなずけよう。

 ただ、世間が勝手につけた異名であっても、一介の御鷹師が権臣の受領名を名乗るなど僭越である。ゆえに小野はとっさの機転で、家光の質問を受け流したのだ。

 実際のところ、「野讃岐」の「讃岐」は酒井讃岐守の意味だった。酒井讃岐守は公儀向きの無二の出頭人(注)である。そこで、讃岐守に劣らずとの意味合いで、小野久内は「野讃岐」(野辺の出頭人)との異名を付けられたのだ。

 なお、春日局の補佐役として大奥支配にあたった素心尼(祖心尼。孫娘お振の方は家光側室。1588~1675)も、「女讃岐」(大奥の出頭人)とよばれたという。


【参考】
・『武林隠見録・1』「御鷹師小野久内、野讃岐と云異名を附らるる事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-27
【注】
 江戸初期、幕府の役職や制度が整備されつつあった時代、本多正信・正純父子や松平信綱らの将軍側近は、主君の特別の恩寵をうけ、主君と旗本・大名とのあいだを取り次いで強い権勢をふるった。彼らは出頭人(または近習出頭人)と呼ばれた(藤田覚『近世の三大改革』2002年、山川出版社(日本史リブレット)、P. 84~85による)。
2023年1月28日(土)
良臣(2)
 また、こんな話もあった。

 ある学問好きの武士が、懇意にする者と途上で出会った。師匠の名を問われたので答えると、「馬鹿なやつだ。そんな所へ行くよりも清助の所へ行け」と言われたという。

 清助は岡田寒泉(おかだかんせん。1740~1816)のこと。昌平坂学問所の儒官で、定信の朱子学重視政策(寛政異学の禁)を推進した人物の一人だ。

 知り合いの男は、さらに次のように言い放った。


「ぼら(ボラ目ボラ科の魚)の五本も持て弟子入(でしいり)をしやれ。弟子入計(でしいりばかり)で御番入(ごばんいり。非役の旗本・御家人が番方や役方に採用されること)をする。」(『よしの草子』)


 「岡田清助の弟子」になりさえすれば、その看板だけで役人に登用される。これでは馬鹿らしくて、学問に精進する者など誰もいなくなろう。


 ところで、そもそも定信が発掘しようとしていた「良臣」とは、一体どのような人材だったのか。『よしの草子』には、人材登用に関する次のような記事がある。


「遠山久四郎ハ才略ハ無御ざ候(ござなくそうら)へ共(ども)、随分(ずいぶん)律儀ニて後生大事に巡見を相勤(あいつと)め、罷帰候(まかりかえりそうろう)後も立身望等(りっしんののぞみなど)は御時節柄(ごじせつがら)(けっし)てならぬ事だろふと存居(ぞんじお)り候処(そうろうところ)、御徒頭(おかちがしら)ニ被仰付(おおせつけられ)一倍の御足高(おんたしだか。石高の加増)を頂戴致候(ちょうだいいたしそうろう)は誠(まこと)ニ難有(ありがたし)、前後を忘ずる程ニてあらふとさた仕候由(つかまつりそうろうよし)。」(『よしの草子』)


 遠山が御徒頭(徒歩で戦う士分の隊である御徒組の統率者)に抜擢されたのは、「才略(知恵とはかりごと)」はないが「随分律儀ニて後生大事に巡見を相勤め」るような人物だったからだ。

 つまり定信が求めた「良臣」とは、頭が切れる「才略」ある者などではなく、官僚として仕事を実直にこなす「律儀」な人材だったのだ。


【参考】
・湯浅明善『天明記』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0144
・森山孝盛『蜑の焼藻の記』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:166ー0185
・水野為長『よしの草子』(駒井乗邨編『鶯宿雑記』所収、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:238-1)
2023年1月27日(金)
良臣(1)
 天明7(1787)年、本多忠籌(ほんだただかず。1740~1813)が若年寄に就任した。この時松平定信(1759~1829)は


「幾重(いくえ)にも良臣を御撰出(おんえらびだ)し公用筋(こうようすじ)御申付候事(おんもうしつけそうろうこと)、忠節と申すもの也(なり)。」(『天明記』)


と本多に助言した。


 寛政改革を実行する上でも、「良臣」確保が重視された。そこで定信自身も、文武奨励を掲げて士風の刷新をはかり、学問吟味・芸術見分等さまざまな手段を講じて「親疎貴賎を分(わか)たず」「賢愚によりて」(『蜑の焼藻の記』)「良臣」を選出しようと努めている。


 それでは実際、「良臣」は選出できたのか。


 たとえば、朱子学の学識を問う「学問吟味」を始めた。役職に登用されることを願って、多くの旗本・御家人が試験に臨んだ。

 しかし、学問吟味では、受験者の人物・人柄は問われない。朱子学の解釈にいかに合致した答えをするか否かだけを評価した。

 そこで、日頃は遊びほうけていた不良たちが、にわか勉強をはじめたという。こうして試験場には、有象無象の連中が集まってきた。


「儒家にては人物・人がらはいかにもあれ、其日(そのひ。試験当日)に当りて講釈弁書の聖教(せいきょう・しょうぎょう。朱子学)に的当(てきとう。的を射る)したるならでは上科(成績上位者)とせず。

 されば血気
(けっき。向こう見ずなこと)放蕩(ほうとう。酒・女遊びに溺れること)のやからハ、不敵(大胆でおそれを知らないこと)なる根性にまかせて、きのふ迄(まで)浄瑠璃(じょうるり)・三味線に心耳(しんじ)をこらしたる者が、四、五十日が内にそこら講釈を聞覚(ききおぼ)へて、試学に出るやから多し。」(『蜑の焼藻の記』)



 学問吟味では、朱子学の模範解答通りの解釈が求められた。

 その結果、師匠の言ったことを一言一句そのまま丸暗記できた者だけが「上科(成績上位者)」と評価された。

 一方、長年学問にいそしんだ者は、洽覧深識(こうらんしんしき。広くて深い学識)がかえって災いした。解釈に、ついつい自分の見識がまじったり、学問上の迷いが生じたりしたのだ。そうした者たちは下等(成績下位者)と評価された。

 皮肉なことに学問吟味が、将来の「良臣」となるべき有為な人材をふるい落としてしまったのだ。
2023年1月26日(木)
天明の打ちこわし(2)
 「衆寡敵せず」。

 打ちこわしの暴徒集団の前においては、町奉行所の貧弱な警察力ではまったく役に立たなかった。そこで幕府は、先手組(さきてぐみ)から10組を投入する。
(4)

 先手組とは鉄砲隊20組・弓隊9組から成り、合戦の際は最前線で戦うことを前提とした部隊だ。各組の人数は与力が6~10騎、同心が30~50人から成る。したがって、10組というとざっと400~600人の大部隊となる。

 時代劇では「火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため。放火犯・盗賊の追捕を任務とする役人)」というのがよく登場する。これは町奉行所の貧弱な警察力を補うための機動部隊で、先手組の中から1~2組にその任を兼ねさせたものだ。

 この時、先手頭(さきてがしら)の一人として「鬼平」こと長谷川平蔵も出動している。

 この時の鎮圧は容赦がなかった。

 打ちこわしの参加者はもちろん、騒動を見物に来ていた野次馬連中まで、だれかれ構わず召し捕った。誤認逮捕してもお咎めなしとしたからである。その結果、逮捕者は牢舎に入りきれないほどのおびただしい数にのぼった。(5)

 ただし『兎園小説』によれば、入牢者のほとんどは、打ちこわしに乗じて盗みを働いた者たちばかりだったという。(6)

 打ちこわしは10日ほどで終焉を迎えた。激しかったのは5月19日から22日ごろまでの期間だった。

 打ちこわしが短期間で鎮静化したのは、江戸中の米屋を残らず打ちこわして人々の気がおさまったのと、幕府が窮民救済を実施するとの風聞が広まったためという。(7)

 幕府は伊奈忠尊(いなただたか。1764~1794)に命じて米穀の調達・御救米の実施等、窮民救済の諸対策を実行させた。
(8)その結果、米価は下落した。

 打ちこわしのそもそもの原因は、米価の異常な高騰にあった。原因が取り除かれたので、打ちこわしは鎮静化したのだ。


【注】
(4)
『兎園小説(写)』前出、163コマ 
(5)5月23日の朝には入牢者が1000人にもなった。満舎になって支障が出たためだろう、喧嘩扱いにしてその日のうちに入牢者を「皆、御赦免(ごしゃめん)」にして解放したという(南和男『江戸の町奉行』2005年、吉川弘文館、P.149による)。
(6)(7)『兎園小説(写)』前出、164コマ(頭注)
(8)『天明記・巻之一(写)』前出 
2023年1月25日(水)
天明の打ちこわし(1)
 天明7(1787)年、5月20日の夜から23日にかけて、江戸で米穀商らを襲う打ちこわしが発生した。その原因・経過について、湯浅明善(ゆあさあきよし。1749~1799)の著書『天明記』は次のように伝える。


「近年諸国凶作打(うち)つづき米穀高価、其上(そのうえ)去年洪水ニ而(て)江都中(こうとじゅう。江戸中)別而(べっして)米穀払底(ふってい)、諸人甚(はなはだ)困窮におよび、末々餓死に及(およば)んとす。

 しかるに町々の米屋ども、諸人の苦
(くるし)ミを不顧(かえりみず)、銘々米を買い込(こみ)(しめ)うりなすによつて、市井無頼(ぶらい)の輩(やから)(あつま)りて倶々(ともども)力を合(あわせ)て、天明七丁未(ひのとひつじ)五月廿日の夜より始めて町々の米屋を打(うち)こわし、家財雑具を微塵(みじん)に砕き、同廿三日迄(まで)昼夜となく先々へ押而廻(おしてまわり)、鯨波(げいは)の声を揚而(あげて)家居(いえい)を打(うち)こわしける音ハ、左(さ)ながら火事場(かじば)のごとし。」(1)


 そこで町奉行所がこの騒動の鎮圧に乗り出した。しかし、町奉行所の脆弱(ぜいじゃく)な警察力では


「官吏ども制する事あたハず」(2)


で、まったくのお手上げ状態だった。かえって無頼の者たちに凄(すご)まれて、すごすごと退散せざるを得なかったという。『兎園小説(とえんしょうせつ)』には次のようにある。


「此時(このとき)町奉行曲渕甲斐守(まがりぶちかいのかみ。曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ))・山村信濃守(やまむらしなののかみ。山村良旺(やまむらたかあきら))なりしが、町家のやうす見廻(みまわ)らんとも大勢にて出(いで)しかど、西河岸辺(にしかしへん)に三百、五百の組を立たるあぶれ者(無頼漢、ならず者)、石・瓦などを積(つみ)まうけ

『無事なる時ハ奉行を恐るべし。此節
(このせつ)ニ至(いたり)てハ何の憚(はばか)るべきことあらん。近付(ちかづか)バ打殺(うちころ)すべし。』

と、かくにののしりし故
(ゆえ)に、両奉行もすごすごと引(ひき)とりしとぞ。」(3)


【注】
(1)(2)
湯浅明善『天明記・巻之一(写)』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150ー0144
(3)『兎園小説(写)』大洲市立図書館蔵。国文学研究資料館撮影、163コマ目
2023年1月20日(金)
幼児将軍
 正徳2(1712)年10月、6代将軍家宣(いえのぶ)が亡くなった。

 翌正徳3(1713)年、子の家継(1709~1716)が7代将軍に就任した。この時家継は、満3歳2カ月(数え年では5歳)の幼児だった(3年後に満6歳9カ月で夭折)。

 幼かった家継は、側用人(そばようにん)の間部詮房(まなべあきふさ。1667~1720)を父のように慕った。次はそんな逸話。


 頃日(けいじつ。近頃)間部殿(間部詮房)、増上寺(徳川家の菩提所)へ参詣(さんけい)にて帰られ候(そうろう)時分(じぶん)


「越前
(間部詮房)が迎(むかえ)に出(いず)べし。」


と上意にて
(家継が言って)、御玄関迄(おげんかんまで)御出(おいで)なされ候(そうろう)。越前守参られ候(そうら)ヘバ、


「越前、帰りたる。」

と仰
(おおせ)られ候(そうらい)て御悦(およろこび)なされ、越前守に御抱(おんいだ)かれ候(そうらい)て入御(にゅうぎょ。建物に入る)(あそ)バされ候由(そうろうよし)


 如何成
(いかなる)奇縁(きえん。不思議なめぐりあわせ)に候や、御親子様(おんおやこさま。家宣・家継親子)(とも)に加様(かよう)に御意(ぎょい)に応(こたえ)られ候事(思し召しにかなうこと。気に入られること)、珍敷(めずらしき)義と皆々(みなみな)沙汰(さた。噂する)(つかまつり)候。是(これ)は御なじみ候ゆへ、加様にもこれ有(ある)べきに御座候(ござそうろう)

 右の通
(とおり)に候(そうら)へども、殊(こと)の外(ほか)越前守を御おそれなされ候。御わやく(わがままなこと)(おおせ)られ候節(せつ)


「越前守に聞
(きか)せ申(もうす)べく(間部殿に言いつけますよ)。」

 
と申候
(もうしそうら)ヘバ其侭(そのまま)御止遊(おやめあそば)され候由(そうろうよし)。少しにても悪敷事(あしきこと)ハ、越前守急度(きっと。厳しく)申上(もうしあげ)られ候由(そうろうよし)に候。(1)


【注】
(1)
内山温恭編『流芳録』巻之七、「御側用人 間部越前守詮房」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
2023年1月19日(木)
再建されなかった江戸城天守閣
 今から366年前、明暦3(1657)年1月18、19日に明暦の大火がおこった。この時、江戸城天守閣も焼失した。

 大火後、江戸城諸施設の再建が行われた。しかし、土台の石積みまで完成しながら、天守閣はとうとう再建されずじまいだった。

 これには、将軍補佐にあたった保科正之(ほしなまさゆき。1611~1672)の意見があったからという。保科の事跡を記した『千年(ちとせ)の松』によれば、それは次のようなものだった。


「天守ハ近代織田右府(おだうふ。織田信長)以来の事にて、さのミ城の要害に利あると申(もうす)にても無之(これなし)。ただ遠く観望いたす迄(まで)の事也(ことなり)

 当時
(今、現在)武家・町家大小の輩(やから)、家作(かさく。家普請)仕候砌(つかまつりそうろうみぎり)に、公儀(こうぎ。幕府)の御作事(おさくじ。土木工事)永引候(ながびきそうら)ヘバ下々(しもじも。庶民)の障(さわり)にも可相成(あいなるべき)か。

 加様
(かよう)の義に国財(こくざい)を被費候(ついやされそうろう)時節に有之間敷(これあるまじく)、当分御延引(ごえんいん。天守閣再建の延期)可然(しかるべし)。(1)



 天守閣は、江戸城防衛にそれほど意味はない。ただ、遠くを観望するだけのものだ。そんな天守閣の再建工事に大勢の大工・職人たちが奪われれば、その分江戸の復興が遅れる。

 保科は、未曽有の非常時に、天守閣再建に国力を費やすべきでない、と反対したのだ。


【注】
(1)
大河内長八『千年の松・2』写本、1874・1875年、内務省。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:158ー0341、28コマ目。

※1月19日は「119番」への連想から「家庭消火器点検の日」になっているという。
2023年1月14日(土)
芭蕉の「言葉遊び」
 かつて真珠は目薬に用いられた。『眼病秘伝巻』という医書には、真珠散、大真珠散の薬名が見える。真珠の主成分は炭酸カルシウムなので、消炎剤として用いられたらしい(1)

 ところで芭蕉が唐招提寺を訪れ、鑑真和上像と対面した際の有名な一句。


    若葉して御(おん)めの雫(しずく)ぬぐはばや(『笈の小文』)


 幾多の困難の末、ついに来日を果たした鑑真和上。そうした労苦を偲び、盲目となった鑑真和上像の御目の雫(涙)を、瑞々しい若葉で拭って差し上げたい。それがこの句の意味だと思っていた。

 しかし、この句には芭蕉の「言葉遊び」が含まれているという(山田あい氏による)。

 季語の若葉は、新樹(しんじゅ)と言い換えられる。この句には、新樹に真珠をかけた連想が隠されているという。


    若葉=新樹(しんじゅ)→真珠(しんじゅ)=目の薬


 よって、山田氏によるこの句の解釈は次のようになる。


(鑑真が)ようやく念願叶って来日したときには、既に失明していたのだから、この日本の地も新緑も見ることができなかった。なんとかして、失明した目を治してさしあげたい。和上が命を懸けてまで熱望した日本の地を見せてあげたい。古俳諧以来「新樹は目の薬」だという。だから、この若葉で、その目を癒せたならば。(2)


 当時の俳諧師たちにとっては「新樹→真珠」の連想は自明のものだったろう。しかし、当時の俳諧師と同じ文学的教養を持ち得ないわれわれは、ついついうわっすべりな解釈に陥りがち。

 それにしても、芭蕉は「言葉遊び」の達人だ。
 

【注】
(1)
内藤記念くすり博物館『くすり博物館だより』第30号、1993(平成5)年10月、「企画展 病む目とめぐすり」解説
(2)深沢眞二『芭蕉のあそび』2022年、岩波新書、P.50
2023年1月13日(金)
青い火柱
 さくら坊芳盛(歌川芳盛)の浮世絵『本能寺合戦之図』(1)は、題名に「本能寺」とうたっているものの、実際は幕末の上野戦争(1868)を描いたものだ。

 画面の右手には激戦地の黒門、中央に清水観音堂、左手には炎上する吉祥閣(きっしょうかく)が描かれている。

 この図では、吉祥閣から吹き出す炎は赤色のように見える。しかし、実際の炎の色は赤ではなかった。

 明治維新前後の古老の聞き書き『戊辰物語』には次のようにある。
(2)


 黒門内の吉祥閣には、勅額(3)がかかっていたので「何ぼ無茶な官軍でも勅額に大砲は撃つまい」といって安心している中にこれが燃えた。一同吃驚(びっくり)したが、もう仕方ない。

 この楼閣の屋根は銅だったが、その燃える勢は大変なもので「上野の山から青い火柱が立った、立った」と、下町などで騒いだもの。殊に神田和泉橋附近などでは目を開いて見ていられないほど物凄い炎の色だったと、故大倉喜八郎翁
(4)が話していた。


 
ナトリウムや銅などの塩類を燃やすと、各金属特有の色を呈する。ナトリウムは黄色、カリウムは紫色というように。昔、理科の時間に習った炎色反応だ。

 吉祥閣が炎上して「青い火柱」が立ったのは銅葺きの屋根が燃えたから。銅は燃えると青緑色を呈するのだ。


【注】
(1)
さくら坊芳盛『本能寺合戦之図』具足屋・具足屋嘉兵衛、明治2(1869)年、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:寄別7-4-1-2。https://dl.ndl.go.jp/pid/1305668(参照2023-01-12)
(2)
東京日々新聞社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、P.263
(3)
天皇自筆の額。
(4)
大倉喜八郎(1837~1928)は実業家。幕末に鉄砲店を開き軍の御用商人として巨利を得た。明治6(1873)年に大倉組商会を設立し、貿易を中核に大倉財閥を形成。大倉商業学校(現、東京経済大学)や大倉集古館を設立。
2023年1月12日(木)
命名者は中国古典
 元号の明治・大正は『易経』(「明(めい)にむかいて治(おさ)む。」・「大いに亨(とお)りて以(もっ)て正し。」)、昭和は『書経』(「百姓昭明して万邦を協和す」)に由来する。

 これらと同じように、中国古典を典拠として命名された企業がいくつかある。それでは、次の1~3の古典を典拠に命名された企業は何だろうか。


1.「至(いた)れるかな坤元(こんげん)。万物(ばんぶつ)(と)りて生(しょう)ず。」(易経)
(大地の徳は何とすばらしいものか。すべてのものはここから生まれる。)

2.「勝者の民を戦わしむるや、積水を千仞
(せんじん)の谿(たに)に決するがごときは形なり。」(孫子)
(勝者が人民を戦わせる際は、満々とたたえた水を深い谷底に切って落とすような勢いでする。そうした必勝の態勢を準備しておくことが大切だ。)

3.「吾
(われ)日に吾(わ)が身を三省(さんせい)す。」(論語)
(私は一日に自分の行動を三度反省する。)


【答え】
 1.資生堂      2.積水化学    3.三省堂(書店)
2023年1月11日(水)
松平元康の去就
 NHKの大河ドラマ『どうする家康』の第1回放送は、桶狭間の戦い(1560)で今川義元の敗死まで。

 この時、松平元康(のちの徳川家康。1542~1616)は今川方の武将として大高城(おおだかじょう)まで兵粮を運ぶ任にあった。その後の元康の去就は、大道寺友山(1639~1730)の『岩淵夜話別集』によれば次のようなものだったという。


 大高の城より御帰陣(ごきじん)被遊(あそばされ)、今川氏真(いまがわうじざね。義元の子)へ御使者を以(もっ)


「義元の吊合戦
(とむらいがっせん)被思召立候(おぼしめしたたれそうろう)ニ付而(つきて)ハ、片時も早く尤(もっとも)ニ候(そうろう)。於去(さるにおいて)ハ元康義、信長備(そなえ)へ向ひ、錆矢(さびや)の一筋(ひとすじ)も討掛(うちかけ)、義元の御恩を報じ申度(もうしたし)。」


と云
(いえ)ども、氏真一圓(いちえん)同心無之(これなし)。佛事(ぶつじ)・法事の吊(とむらい)(まで)ニ懸(かか)り、忌中(きちゅう)も頓而(やがて)過行比(すぎいくころ)ニ成(なり)、元康公被仰(おおせられ)けるハ


「親の吊合戦などをすると云ハ、其期
(そのき)を延(のば)さぬ様にしてこそなれ。我々義元への志ハ是迄(これまで)なり。不及是非(ぜひにおよばず)。」


と被仰けるとなり。
(1)



 元康は氏真に、義元の弔い合戦を進言した。しかし、氏真にその気はまったくなく、義元の仏事・法事でむなしく日々を送り、ついにその時機を失してしまった。こうした氏真の煮え切らない態度を見て、元康は今川氏を見限ったという。

 なお以降、今川氏真は戦国大名の地位から転げ落ちていくものの、名家としての血筋、公家・文化人らとの人脈、和歌・蹴鞠等の諸芸がその身を助けることになる。氏真は家康の保護を受け、その子孫は江戸幕府の高家(こうけ。儀式・典礼を司る職)となって存続した。


【注】
(1)大道寺友山(重祐)『岩淵夜話別集』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0029、59コマ中8コマ目。
2023年1月10日(火)
徳川家康の言行録(3)
3.家康の女性観


 女の物詣
(ものまいり)などに顔あらハしたるハ茶屋女(ちゃやおんな)(1)の類(たぐい)なり。かづき(2)・ふくめんにて顔かくし、人を恥(はじ)て通る躰(てい)はハ、女らしく尤(もっとも)に見ゆる。

 しかしながら、武士の女房は上臈
(じょうろう)(3)めいたより、顔つきの少(すこし)あらあらしきが相応なる物なり。古(いにしえ)武道専(もっぱら)にせし世ハ、女の容色第一にせし大切の眉毛(まゆげ)を剃落(そりおと)して、顔のあらあらしく見ゆる仕形(しかた)、女も武を専(もっぱら)にせしゆへなり。

 依之
(これにより)戦國の時の女ハ、今時(いまどき)の男子よりかいがい敷(しき)働きありと。(4)



 女性が寺社参詣などに顔を晒して出向くなどは、茶屋女のたぐいであってはしたない。被衣(かづき)・覆面で顔を隠し、人目を恥じる様子はいかにも女らしく見える。

 しかしながら武士の女房は、公家めいたよりも少々荒々しい顔つきの方がふさわしいものだ。昔、武道をもっぱらにしていた時代は、女性も容色の中で一番大切な眉毛を剃り落として顔が荒々しく見える身ぶりをしたのは、女も武を第一としていたからだ。

 だから戦国時代の女性は、今時の男子よりもかいがいしい働きがあったのだ。


【注】
(1)
茶屋女 茶屋で客に酌・給仕・遊興等の相手をする女性。私娼化しているものが多かったという。
(2)
かづき(被衣) 身分ある女性が外出時に顔を隠すために頭から被った衣服。
(3)
上臈 公家など身分の高い女性。貴婦人。
(4)
『披沙揀金』巻第二十四、国立公文書館蔵、請求番号:159-0060、コマ目。
2023年1月9日(月)
徳川家康の言行録(2)
2.将軍が鍛錬すべきもの


 権現様被仰候(おおせられそうろう)は、

「天下の主
(あるじ)にてもはげミ勤(つとむ)べき藝(げい)二ツこれあり。馬と水なり。是(この)弐ツ(ふたつ)、名代(みょうだい)ならぬものなり。

 あきない二ツ在之
(これあり)。馬と米なり。米は國の通用すべきため、馬は飼殺(かいごろ)すべき道理なき故(ゆえ)なり。

 刀の目利
(めきき)ハしらずんば有(ある)べからず。不絶(たえず)腰間(ようかん)の主人公に備(そな)へ置(おく)刀・脇指(わきざし)、新身(あらみ。新刀)・古身(ふるみ。古刀)を知らず、金味(かなあじ。刃物の切れ味)も知らず、武将になるべきは本意にあらず。

 是
(これ)を重々夜話に将軍へ可申(もうすべし)

と御諚
(ごじょう)なり。

 其後
(そのご)御咄(おはな)しに、如此(かくのごとき)御意(ぎょい)候由(そうろうよし)申上候得(もうしあげそうらえ)バ御感じ遊(あそ)バし、馬・水練たへず御稽古(おけいこ)、本阿弥(ほんあみ)も召(めし)よせられ御目利(おめきき)も不絶(たえず)(あそば)し候(そうろう)と高山様御物語の由(よし)(3)


 家康公が仰せになった。

「将軍であっても努め励むべき芸が二つある。それは馬術と水練だ。この二つは人が代われないものだ。

 商売には二つある。それは馬と米だ。米は国の通用すべきため、馬は飼い殺しすべき道理がないからだ。

 刀の目利きは知らなければならない。常に腰に差しておく刀・脇差が新刀か古刀か、切れ味がどうかも知らない者が武将になるのは不本意なことで残念だ。

 この趣旨をよくよく夜話の際にも将軍(秀忠)へ言上するように。」

との、仰せであった。

 その後将軍へのお話の機会に、以上のような家康公のお言葉を申し上げたところ、御感あって馬術・水練を絶えずお稽古。刀剣鑑定家の本阿弥を呼ばれ、刀剣の目利も絶えずなされたと、高山様が語られたということだ。


【注】
(3)『披沙揀金』巻第二十四、国立公文書館蔵、請求番号:159-0060、4コマ目。
2023年1月8日(日)
徳川家康の言行録(1)
 NHKで徳川家康を主人公とする大河ドラマが始まる。そこで、番宣を兼ねた関連番組が花盛りだ。とりあえずはよい機会だ。この時代を学び直すきっかけになる。

 ところで家康に関する史料といえば、『披沙揀金(ひさかんきん)』という史料がある。

 書名は、「砂を撰り分けてその中から金を拾い出す」という意味だ。諸家に伝来する記録や古老の筆記・雑録等の中から、家康(・秀忠・家光)の言行に関する記述を抜き出したのでこの名がある。つまりは家康の言行録だ。

 同書は、林述斎(1768~1841)が中心となって編纂。天保7(1836)・8(1837)年の成立という。幕府の文庫である紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)の旧蔵本で全34冊。現在は国立公文書館の所蔵となっている(請求番号159-0060)。インターネットで同館のデジタルアーカイブを検索すれば、パソコン上で史料の閲覧ができる
(1)

 家康はいったいどのような言葉を述べたのか。興味深いのでいくつか抜き書きしてみよう。



1.治乱は天気と同じ


 権現様(ごんげんさま。家康)御意(ぎょい)被成候(なられそうろう)ハ、

「治乱ハ天気と同事なり。

 晴
(はれ)かかりたる時ハ、少々降(ふり)さうにてもふらぬものなり。降りかかりたる時ハ、少々晴さうにてもふるものなり。

 治りかかりたる時ハ、乱れさうなる事少々これありても治り、乱れかかれバ、少々治まりさうに有ても乱るるものなり。」(2)


 
家康公が仰せになった。

「治乱は天気と同じだ。

 晴れかかる時は少し降りそうであっても雨は降らぬが、降りかかる時は、少し晴れそうであっても降るものである。

 治まりかける時は、乱れそうなことが少々あっても治まるが、乱れかかれば、少々治まりそうであっても乱れるものである。」


【注】
(1)
国立公文書館ホームページ「徳川家康」資料解説による。
(2)
『披沙揀金』巻第二十四、国立公文書館蔵、請求番号:159-0060、コマ目。