2022年12月31日(土) |
髪結床(かみゆいどこ)の修行 |
昨今、美容師志望者は増えているのに、理容師志望者は減少しているという。理容師養成の専門学校生の減少が著しい、という記事が新聞にも載っていた。その理由は、ハサミによる刈り上げやカミソリによる顔剃りなど、理容師は技術習得がたいへんだからという。
技術習得がたいへんだったのは、江戸時代の髪結床でも同様だった。それは、当時の男たちのヘアースタイルがちょん髷(まげ)だったからだ。そのため、修行には10年からの年季がかかったという。『増補幕末百話』には、次のような話が載っている。
最初は徳利(とっくり)の口へ髪の毛を結わえておき、これでちょん髷の形(かた)を稽古する。これだけで2、3年かかった。
次に月代(さかやき)が剃れるようになるために、まずホウロクの尻を剃って稽古する。ホウロクに穴が開くまで、来る日も来る日もカミソリで剃る練習をしたという。ホウロクに穴が開くと、次は自分の膝頭で練習した。
膝頭が剃れ、徳利でちょん髷が結えるようになると、いよいよ人間相手の実践だ。しかし最初はおびえてしまい、実地での失敗は少なくなかった。特に頭を剃るのが難しかったという。
失敗すると、「烈火の如(ごと)く憤(おこ)」る客がいた。こうして職人は「辛(つら)い目に遭(あ)い遭いして修行を積んだ」のだという。
【参考】
・篠田鉱造『増補幕末百話』1996年、岩波文庫、P.154~155
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2022年12月30日(金) |
槍は「ほこ」と読んだ |
槍・鑓・鎗という三つの漢字。これらはすべて「やり」と読むとばかり思っていた。ところが、近藤好和氏の著書には次のように書いてあった。
「やり」は、現在「槍」と表記して何の疑いも持たれていない。しかし、槍の読みは古代・中世では「ほこ」で、近世以降「やり」と読まれた。中世では「やり」は鑓または鎗が正しく、近世も同様である。なお、「鑓」は国字つまり日本で成立した漢字であった(注)。
「やり」という漢字一つとっても、思いこみで誤ったまま理解していた。つねに勉強が必要。
【注】
・近藤好和『武具の日本史』2010年、平凡社新書、P.156~157 |
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2022年12月29日(木) |
垢つきの羽織 |
天明8(1788)年、松平定信が京都に上ったときのこと。
町外れで禁裏付き・二条城付きの重立った武士たちが、定信一行を出迎えた。このとき、定信の袴は葛布、羽織は麻という質素なものだった。
浪速巡検の際も、質素な綿服を着用していた。この時、摂津神崎の俵屋孫三郎が出迎え、定信に謁見した。定信は、道中着用していた木綿の羽織を彼に与えた。
また、大坂の商家瓦屋藤兵衛(かわらやとうべえ)には、垢(あか)つき(高貴な人が下賜した衣服の称)の羽織を与えた。表は紺色の真岡木綿(もうかもめん)で、裏地は黄色のふつうの木綿だったという。
定信は質素倹約の決意を、老中自ら綿服を着用して範を示したのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之六、「御老中 松平越中守定信」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月27日(火) |
定信の心遣い |
松平定信が老中を退隠した後の話である。
文化4(1807)年6月、奥蝦夷島(おくえぞがしま)でいわゆる「文化の露寇(ろこう)」が起こった。幕府は若年寄堀田正敦(ほったまさあつ。1755~1832)・大目付中川忠英(なかがわただてる。1753~1830)らに奥右筆(おくゆうひつ)二人を添えて蝦夷地に派遣した。
途中白河領(松平定信の領地)に宿泊した。するとその夜、右筆たちの宿舎に定信の使者が来訪し、次のような口上を述べた。
「御用の文書ども載(の)せらるる長持(ながもち)あれば、もし火災あらん時の手当(てあて)として、人数数多(あまた)具して隣舎にあり。もし火あらば速(すみやか)に馳来(はせく)べき其由(そのよし)申せとの旨(むね)なり。」
(幕府公用の文書類を入れた長持ちがあるので、万一火災があった時の備えとして、隣の建物に多人数を率いて滞在しております。もし火災があれば即時に駆けつけますとの主人の言伝(ことづて)でございます。)
道中さまざまのもてなしもあったが、こうした心遣いはほかにはなかったと、右筆たちは感じ入ったということである。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之六、「御老中 松平越中守定信」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月26日(月) |
罪人を取り押さえる |
勘定奉行の根岸鎮衛(ねぎしやすもり。1737~1815)が、白州で罪人を吟味していた時に事件は起こった。
突然、罪人が近くにいた留役(とめやく。記録係の役人)に飛びかかり、その場にあった燭台を取るや、彼をしたたかに打ちつけたのである。根岸は自ら罪人に立ち向かって取り押さえると、背に膝を掛けてその動きを封じた
根岸はこの「武勇伝」に内心誇るところがあった。
ある時、老中松平信明(まつだいらのぶあきら。1763~1817)に用事があった。その話のついでに、先日の「武勇伝」を披露した。しかし、信明が発したのは次の一言だけだった。
「扨(さて)も不用心なる事に候(そうろう)。」
この言葉を聞いて、根岸は己の失言を悔いた。
今回の出来事は、奉行配下の諸役人が正々堂々と詰めているべきはずの白州で起こった。諸役人が罪人に襲われても対処できず、奉行自らが罪人を取り押さえるという事態だった。そんな不祥事を招いたのは、不測の事態に対するふだんの備えを怠っていたからである。そう信明は指摘したのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之六、「御老中 松平伊豆守信明」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月25日(日) |
常夜灯 |
板倉重宗が京都所司代だった頃、播州明石城主へ次のような申し出をした。
「貴殿の御城内には、古来より柿本人麻呂をまつる神社があると伺っております。
かの人麻呂は和歌三神(住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂)のひと柱に数えられるほどの和歌の名人。歌道を志す者は、誰もが参詣したいと願っております。
明石御城内のことゆえお願いするのに遠慮があり、むなしくうち過ぎてまいりましたが、神社を御城内から海辺の高い所に移築して、往来する者たちにも参詣できるようにしていただけませんでしょうか。
そうしていただければ、私も灯籠を寄進いたしましょう。」
和歌の道に入ることを「山柿(さんし)の門に入る」(山は山部赤人または山上憶良、柿は柿本人麻呂)という。万葉歌人柿本人麻呂は「歌聖」とよばれるほど、古くから別格扱いされてきた。明石は人麻呂終焉の地とされ、明石城内には柿本神社が建立されていた。そのため、当社参詣をのぞむ者は多かったのだ。
京都諸司代板倉周防守重宗のたっての願いある。明石城主は、城内から海辺の高台に神社を移築した。約束通り、重宗は大きな常夜灯を寄進した。
ところで、播磨灘は海上交通上の難所であった。夜中に風向きが変わるなどして、明石沖では破船事故がしばしば起こった。それが、神社の移築以降は常夜灯の明かりを目当てに航行するようになったため、破船の憂いがなくなった。
もとより、重宗の狙いは常夜灯の設置にあったのだ。
そこで、明石城主に神社を移築するように勧め、それにあわせて常夜灯を寄進するという手順を踏んだ。一見遠回りな方法をとったのは、自分の功をひけらかさないよう配慮したためだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月24日(土) |
泊りがけで鷹狩りに行く |
家光が食あたりをおこし、一昼夜意識不明になった。急を知らせる飛脚が諸国に派遣され、天下は大騒ぎになった。とりわけ、京・大坂の騒ぎはひどかった。
幸いにも、家光の病は翌日快復し、大事には至らなかった。
「第一番に京都へ報告せよ。」
そこで継飛脚が京都に走った。
しかし京都所司代板倉重宗からの返事が来ない。再度飛脚を送った。
ようやく返事がきた。するとその端書(はしが)きに、この間鷹狩りに外出していたため返事が遅れた旨が書かれていた。
将軍の危急を知りつつ、重宗は鷹狩りで外泊していたというのだ。何という不謹慎であろうか。
しかし、家光は
「扨(さて)ハ京都も能々(よくよく)騒ぎけると見えたり。」
と言ったきりで、腹を立てる様子もない。将軍のそばにいた中根壱岐守は、一晩考えても家光が発した言葉の意味を理解できなかった。
翌日、重宗が鷹狩りで外泊していた話を聞いた酒井讃岐守が、
「扨は京都も以(もって)の外(ほか)さハぎ申(もうし)たると相見(あいみ)へ候(そうろう)。」
と家光に言上した。昨晩の上意と同様のことを酒井が言ったのだ。
中根は、御前退出後の酒井を待ち受けた。そして、上意と酒井の言葉の意味するところを尋ねた。すると酒井は笑いながら、
「京都町人騒ぎ出しては、何と制しても合点(がてん)すまじ。優長(悠長)に遊びて見せねばならず。」
と言い捨てて去って行ったのである。
京都の町人が騒ぎ出しては、どのような説明しても納得などせず、騒ぎは収まるまい。それなら、重職にある京都所司代の遊んでいる姿を町人たちに見せるのが一番だ。悠長に鷹狩りしている所司代の姿を見れば、将軍の病が大したものでないと町人たちも納得し、自然と騒ぎは収まろう。
家光と酒井は、
「京都所司代が悠長に遊んでいる姿を見せねばならないほど、京都が大騒ぎになっていたようだ。」
と言ったのだった。
中根は老後まで事あるごとにこの話をしては、家光・重宗・酒井ら当時の君臣たちの利発さに感心していたという。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月23日(金) |
親孝行者かよ |
寛政改革の折り、松平定信は民衆教化の一環として、孝行者・農業出精者・忠義者など庶民(一部武士やその他の身分を含む)の善行表彰者の報告を全国に命じた。その報告は1801(享和元)年、『官刻孝義録』50巻として出版された。同書に所載された人数は8600余名。表彰時期は17世紀初期から18世紀末までの間。表彰者の8割が18世紀後半に集中している。
各巻の構成は表彰者名簿が大半を占め、その中から摘出された表彰者の伝を載せる。伝の文章には長短があるが、内容は同じような趣旨の繰り返しになっている。こうした定型化された文章からは、当時の為政者が考える善行者の理想像が見えてくる。
たとえば「孝行者」として表彰された「かよ」(水戸藩領那珂郡大岩村に住む百姓次郎左衛門の娘。43歳。明和4年に褒美)の伝は次のようなものだ。ここには、わが身を犠牲にしながらも年貢納入を優先し、病身の父母の孝養・介護に精魂を尽くす女性の姿が描かれている。
なお、史料は読みやすくするため句読点等を適宜付すなどした。
「孝行者かよ
かよハ那珂郡大岩村百姓次郎左衛門が娘なり。父母ハ病多き者にて、田畑も手余りけれバ、年貢のおひめ弥(いよいよ)増(まさ)りて、年々に困窮をぞしける。
かよ、十四歳の歳より七年の間人に仕(つか)へ、その給金をもて父の不納を贖(あがな)ひぬれバ、父母はかよをよび返し、聟(むこ)をもむかへしが、聟の身持(みもち)あしかりけれバ、つゐに是(これ)をいだしやりき。
その後、父は心ミだれ、母は悪き病をうけ、十三石余の田畑つくりうる事ならざりけれバ、貢(みつぎ)のおひめかさなりしかば、聟にならんといふ人もなし。
かくてハ、村のなさけかうぶらんより外(ほか)ハあらじとて、村長(むらおさ)とはかり、近きあたりの与四兵衛といふ者に家財までのこりなくあづけ、年貢・公役をバすべて彼にたのミをき、をのれハ別家をまうけて父母を養ひけり。
もとより男にまミえん事を思ハざりけれバ、二十八歳の時髪をおろし、木綿ををり、又ハ物洗(ものあら)ひなどして人に雇(やと)はれ、その賃(ちん)をもて二、三年が程父母を養ひしに、すぎはいも心に任せず、十三年さきより一食になりけれバ、人のもとにて食物あたへられし時、家に持(もち)かへりて父母にすすむ。
父はかたのごとき病なれバ、筋なき事のミ常にいへど、いささかも心にたがふことなく、夜昼側(そば)にありて介抱(かいほう)をぞしける。父うせにしのちも、母によくつかへ、のちにハ与四兵衛が力をもからずして貢もをこたりなく納(おさめ)けり。
このよし領主に聞(きこ)えしかば、明和四年十二月に籾(もみ)そこばくをあたへ、母ともども生涯稗扶持(ひえぶち)をあたへて、その孝を賞せられしとなん。」
【参考】
・『官刻孝義録・八・常陸国』国立国会図書館デジタル、請求記号:136-197
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2022年12月22日(木) |
重宗、「親孝行者」の話を聴く |
次に重宗は、親孝行者との評判の高い金屋作次を呼びだした。
すると、作次は思いもかけないことを言い出した。「親孝行者」と呼ばれるのは、おおいに迷惑だというのだ。
作次の言い分は次のようなものだった。
自分は親から蔵五つ、屋敷二カ所を譲り受けた。しかし贅沢(ぜいたく)になずみ、島原の遊里(ゆうり)に入れ込み、蔵の半分を失った。
その上悪友が多く、それらに「器量者(きりょうもの)」などとおだてられ、「得(とく)を取るより名を取れ(金より名誉が大事という慣用句)」とうそぶき、金屋の身代(しんだい)を傾けてしまった。
こうした遊興生活に懲りて再起をはかったものの、親から譲り受けた財産を台無しにしてしまった。その後悔の念から、親には心をつけて仕えているのである。
その上、当時の自分の悪行を知る者が、この世間には少なからずいる。だから、世間から後ろ指をさされないよう、やむなく他人の機嫌をうかがいながら生活している。これを「親孝行者」などと取りざたされては罰が当たる、と。
見かけの行動が同じでも、動機が同じとは限らないのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月21日(水) |
重宗、「親不孝者」の話を聴く |
京都六条に住む金屋作次という町人は、たいへんな親孝行者という風評があった。一方、下立売(しもたちうり)に住む草刈新五郎という浪人は、とんでもない親不孝者という風評があった。
ある時、京都所司代板倉重宗に対し下役人から、金屋・草刈それぞれに賞罰を与えるべきだ、との上申があった。
しかし重宗は、
「孝・不孝の賞罰の判断は至難なことだ。よくよく慎重に調査せねばならない。」
と考えていた。
そこでまず、親不孝者という風評のある草刈を呼び出し、取り調べた。すると、親不孝の事実など何ひとつ見つからなかった。
草刈が言うことに、当地に転居した際、転入者が近所に酒を振る舞うという習慣があった。しかし、老親を養いかねるほどの貧乏浪人に、そんな金銭的余裕などない。そこで、酒を飲みそこなった者たちは、草刈を「人でなし」のようにののしった。
さらに、とっつきにくい生真面目さが「いつも強面(こわおもて)で刀をはなさず、風体もくずさない」と誤解され、ますます近所から疎まれるようになった。
ほどなく子どもが流行病に罹(かか)った。こうした場合、近所に餅をついて配る習わしがあった。しかし、独楽(こま)を作り縄をなう内職でようやく生計を立てる草刈に、そのようなことなどできようはずがない。親の悪口を真似たのか、子どもたちまでもが「浪人のけちんぼうめ。餅もつかないのか」とののしる始末。
つまり、草刈の悪い風評は、貧乏による近所づきあいの悪さに起因していたのだ。
重宗は草刈を家に帰らせると、すぐに下立売の町年寄を呼び出した。そして、
「草刈が親不孝者というのなら、それを裏付ける事実を書き上げて報告せよ。」
と命じた。
しかし、「草刈が親不孝者」という風評は、もとより根も葉もない言いがかりに過ぎない。それで報告書には
「何事もなき人にて候(そうろう)。」(親不孝の事実など何一つない人でございます。)
とのみ書いてあった。
世間の評判は、時にはいい加減だ。それのみで判断すると、真実を見誤ることがある。
何事にも事実による検証が必要だ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月18日(日) |
恐ろしい占い(殷の神権政治) |
祭と政はともに「マツリゴト」と訓じる。かつては、政治上の決定を神意にゆだね、国家を運営した時代があった。中国古代王朝の殷(いん。正名は商)でも、そうした祭政一致の政治がおこなわれた。
殷では、神意をうかがう手段が卜占(ぼくせん)だった。獣骨や亀の腹甲などの甲骨に小刀のようなもので願い事を刻み、それを火にくべ、表面に生じたひび割れによって吉凶を占った。
殷が残した卜辞(ぼくじ)によって、祭祀の実態の一端がわかる。陳舜臣他『故宮・第1巻』があげている事例によれば、それは次のようなものであった。
祭祀には生贄(いけにえ)が必要だった。そこで願い事をする際には、たとえば
「十人の羌(きょう。少数異民族の名)の首を斬(き)るか。」
と占った。凶とでれば、再度甲骨を火にくべ
「十五人の羌の首を斬るか。」
と占った。これがまた凶とでれば、三たび甲骨を火にくべ
「三十人の羌の首を斬るか。」
と占った。この時吉とでれば、神が30人の生贄に満足し、願い事を受け入れたことになる。よって30人の首が刎ねられた。
吉が出るまで祭祀は続けられたから、吉が出なければ生贄の数は際限なく増え続けることになる。もっとも多い時には、2,650人が犠牲になったという。
【参考】
・陳舜臣他『故宮・第1巻』1996年、NHK出版、P.152~153・P.162~163 |
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2022年12月17日(土) |
吉凶を占う |
神社に参拝すると、おみくじをひいてわが身の吉凶を占う。吉は縁起がよいこと・運がよいことを意味し、凶はその逆だ。
ところで、この吉凶という漢字には、本来どのような意味があったのだろうか。
吉は、士と口からなる漢字だ。白川静氏によれば、口は「サイ(言霊(ことだま)を入れた容器)」を、士は鉞(まさかり)をそれぞれあらわすという。だから吉は、大事な言霊(吉兆のしらせ)を入れた「サイ」を鉞で守っている字形で、めでたいという意味をあらわすのだ。
一方凶は、死者の胸に朱字で「×」をしるし、悪霊が入り込むのを防ぐ字形という。死に関連する文字のため、凶事の意味をあらわすのだ。
そういえば、「胸騒ぎ」という言葉は凶事を予感させるし、中国本土への侵入を繰り返した「匈奴(きょうど。北方遊牧民族の名称)」の語感は脅威を連想させる。それもこれも、「胸」「匈」の中に「凶」という文字を含むためだろう。 |
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2022年12月15日(木) |
徳政令 |
徳川家光の時代のことという。
「今日より天下の万民、是迄(これまで)の貸借(たいしゃく)に勘定(かんじょう。代金を支払うこと)なし。」
とするお触れが出された。本日以降は、これまでの負債を弁済せずともよいとする、いわゆる徳政令だ。
その晩、近江国(おうみのくに。現、滋賀県)大津の旅籠(はたご)に宿泊した旅人がいた。翌朝、出立しようとした旅人が、宿に預けた自分の荷物を受け出そうとした。すると、宿の亭主がとんでもないことを言い出した。徳政令のお触れが出たので、預かった荷物は返せない、自分の物になったというのだ。
旅人が抗議しても埒(らち)があかない。ついには京都所司代に訴え出た。
この訴訟を聴いた所司代板倉重宗は、次のように断を下した。
「宿(やど)やの亭主が申処(もうすところ)、余儀(よぎ)なきすじなり。御触前(おふれまえ)に預りたるものならば、その品々悉(ことごと)く其方(そのほう。亭主)の物にすべし。
扨(さて)、又旅人も御触前に借(かり)たる家なれば、家・家財とも返すに及(およ)バず。残らず受取(うけとり)、其方(そのほう。旅人)が物にすべし。」
旅人の荷物は亭主のものだが、旅籠・家財は宿を借りた旅人のものだ、というのだ。亭主はわずかな欲心を起こしたばかりに、家・財産まで失うはめになった。
しかし、亭主が詫びを入れたため、板倉はこの訴えを示談にしたのである。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月14日(水) |
狼少年 |
中国周王朝第12代の王、幽王(在位前781~771)は「愚王の典型」として有名だ。女の笑顔見たさに王朝を傾け、自身は殺されるはめになったからだ。
幽王には、皇后申后(しんこう)と彼女の生んだ太子宜臼(ぎきゅう)がいた。しかし、美女の褒姒(ほうじ)にうつつを抜かし、皇后・太子を廃してしまった。そして褒姒を正夫人とし、その子伯服(はくふく)を太子としたのである。
ところで、この褒姒という女性は、幽王に笑顔を見せたことがなかった。
幽王はある時、何も異状がないにもかかわらず、国境で狼煙(のろし)をあげさせた(国境には外敵の侵入を知らせるための狼煙台がおかれていた)。
狼煙の合図を見た諸侯たちは、あわてて都に参集した。しかし何事もないので拍子抜けした。そんな滑稽なありさまを見て、褒姒が大笑いをした。
これに味をしめた王は、褒姒の笑顔見たさに偽の狼煙をあげさせ続けた。度重なる虚報に諸侯たちは、ついに狼煙の合図を信用しなくなった。
皇后・太子を廃された申后の一族は、遊牧民族の犬戎(けんじゅう。西戎の一種という)をそそのかして都に攻め込ませた。王は狼煙をあげて諸侯を呼び寄せようとしたが、虚報の狼煙に懲りて馳せ参じる者が誰もいない。結局幽王は、驪山(りざん)のふもとで犬戎に殺されてしまった(前771年)。
イソップ寓話に、「狼が来るぞ」と何度も嘘を重ねたため、本当に狼が来たとき、村人たちに信用してもらえなかった少年の話がある。この寓話から同じ嘘を繰り返す者を「狼少年」という。
幽王も「狼少年」と同じ過ちをしたのだ。
【参考】
・貝塚茂樹『中国の歴史・上』1964年、岩波新書、P.100~101 |
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2022年12月13日(火) |
天井が高い |
昔の小・中・高校の天井は高かった。自分が子どもだったので、そのように感じていたのかも知れない。
しかし大竹文雄氏の『行動経済学の処方箋』によると、実際昔の学校の方が天井は高かったという。
同書によれば、建築基準法で2005年までは小・中・高校の天井の高さは3メートル以上が必要とされていた。その後、2.1メートル以上に規制緩和されたのだという。
昔の学校の天井が高かった理由は、石炭ストーブを使用する際の空気汚染対策のためだった。しかし現在、石炭ストーブはほとんど使われなくなった。また天井が高いと建築コストも多くかかる上、エアコンによる冷暖房の効率も悪い。それで天井が低くなったのだ。
なるほど、天井を低くし、さらに部屋の密閉性を高めれば、冷暖房効率をあげる効果はあろう。
しかしその一方、換気の悪い小さな空間(教室)に大勢の生徒たちを押し込めることは、感染症のリスクを格段に高めてしまうことにもなる。
コロナ禍の今になって思うには、天井が高く、すきま風が吹き抜ける昔の教室の方が、感染症に対しては強い建築だった、ということだ。
【参考】
・大竹文雄『行動経済学の処方箋ー働き方から日常生活の悩みまでー』2022年、中央公論新社(中公新書)P.78~80 |
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2022年12月12日(月) |
青標紙(あおびょうし) |
『青標紙(あおびょうし)』という携帯用に作られた小型の折本(おりほん)がある。前編・後編の2帖から成り、前編は天保11(1840)年刊、後編は翌12(1841)年刊。それぞれ「300部の限定出版」という形で刊行された。著者は旗本の大野広城(おおのひろき。1788~1841)。
その内容は、武家諸法度、御番衆勤方掟書(ごばんしゅうつとめかたおきてがき)、二条・大坂在番掟書並年割(にじょう・おおさかざいばんおきてがき、ならびにねんわり)、御軍令・御軍役之次第(おんぐんれい・おんぐんやくのしだい)等々。武士に必要な法令や勤番規定をはじめ、屋敷・衣服・関所通行・時刻等多くの情報が詰め込まれている。幕臣にとってはたいへん便利なハンドブックといえる。
しかし、こうした幕府内情に関わる情報を出版という形で公にするのは問題だった。
天保12(1841)年、大野の著作(『青標紙』『泰平年表』『殿居嚢(とのいぶくろ)』)はすべて絶板となり、版元も処罰された。大野自身は丹波国綾部藩に永預けとなったが、同地ですぐさま病没してしまった。
現在、中高生が使っている歴史教科書・史料集には江戸幕府の内情が豊富に書かれている。もしも、江戸幕府が今も存続していたら当然没収されていただろうし、教科書出版会社も処罰の憂き目にあっていたはずだ。
【参考】
・大野広城『青標紙』前編・後編、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:152ー0027 |
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2022年12月10日(土) |
原マルチノのラテン語 |
戦国時代、わが国にキリスト教が伝来し、各地にセミナリオ(神学校)やコレジオ(宣教師の養成学校)が設立された。それらの学校では、教科の一つとしてラテン語が教授された。
難解な外国語を、当時の日本人がどの程度習得できたかは不明だ。しかし、中にはかなり高いレベルまで、ラテン語を習得できた者もいたらしい。天正遣欧使節の副使原マルチノ(?~1629)も、そうしたラテン語習得者のひとりだった。
原は、日誌をラテン語で記したり、ゴア(インド)でラテン語演説をおこなったりしている。そして、帰国後はラテン語の教師になり、ラテン語・ポルトガル語・日本語の辞書編集や、ラテン語宗教書の翻訳・出版などに従事した。
しかしその後わが国は、いわゆる「鎖国」政策へと梶をきる。「鎖国」へのあゆみなかで、原は元和2(1616)年マカオに追放され、同地で死去。
原の卓越したラテン語能力は、その後のわが国の発展に生かされることはなかったのだ。
【参考】
・小林標(こばやしこずえ)『ラテン語の世界』2006年、中央公論社(中公新書)、P.274~275 |
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2022年12月9日(金) |
若い女房 |
洛外(らくがい)嵯峨の道筋に、68歳ばかりになる山伏が住んでいた。その女房は年がいまだ40歳に届かず、娘も7歳と幼かった。
山伏は、毎月法要のために檀家のいる丹波国へ往来していた。しかしある時、1カ月過ぎても自宅に戻ってこなかった。
山伏の不在を不審に思った近所の者が、その行方を女房に尋ねた。すると女房は次のように答えた。
「丹波の国へ旦那(だんな)めぐりとて毎月初(はじめ)つ方(かた)立帰(たちかえ)りけるが、先(さき)にて煩(わずら)ひけるにや、未(いまだ)帰らず候(そうろう)。されど、往先(ゆきさき)の知れざれバ、何方(いずかた)を住家(すみか)と尋(たずぬる)べき様(よう)もなし。」
(丹波国へ檀家めぐりに行くと毎月初め頃には帰宅していましたが、逗留先で病気になったものかいまだ戻ってきません。しかし、行き先がわからないので、どこに滞在しているものか尋ねるすべもありません。)
疑念をもった近所の者は、ひそかに京都所司代に訴えた。
事情を聞いた所司代板倉重宗は、山伏の娘を呼び寄せた。そして、一両日食事を与えるなどして警戒心をとき、打ち解けた頃合いを見はからって、自宅に出入りし寝泊まりなどする者がいないかを尋ねた。子どもは正直である。子どもの口から、間男の存在が暴露された。
そこで女房を拷問すると、密通した男が夫を殺してその死体をうしろの山に埋めたと自白した。
間男と女房はともに磔(はりつけ)に処せられた。
ふたりの結末は自業自得だ。しかし、ひとり残された幼い娘は、その後どうなったのだろうか。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
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2022年12月8日(木) |
仏法僧 |
綾小路に居住する外科医が、京都所司代に訴人した。そのあらましは次の通りである。
二十日ばかりほど前のこと。黄昏(たそがれ)過ぎ、突如自宅に押し入ってきた男どもに縛りあげられると駕籠に放り込まれ、そのまま連行された。どこをどう行ったのかまるでわからぬ。駕籠からおろされると、そこには大きな家が一軒あるばかり。主人とおぼしき男が次のように言った。
「我(わが)手下の者どもに手負(ておい)あり。貴様(きさま)は外科のよし。何卒(なにとぞ)金瘡(きんそう。刃物による切り傷)の療治(りょうじ)を致(いた)しくれよ。」
そこで傷を縫い、薬を与えるなどけが人の治療にあたった。おおかた全快すると、主人の男が喜んで
「今ハ故郷に送り返すべし。大義也(たいぎなり。ご苦労だった)。」
と言って金子5両をくれ、再び駕籠に乗せられると夜中に自宅に送り戻された。送り届けた男たちはいつのまにか消え失せていたという。
板倉重宗は、医者に尋ねた。
「其方(そのほう)逗留中(とうりゅうちゅう)、何ぞあやしき事ハなきや。」
医者が答えた。
「何事も替(かわ)りし事、御座(ござ)なく候(そうろう)。只(ただ)彼(かの)山に仏法僧(ぶっぽうそう。コノハズクの鳴き声)と呼ぶ鳥御座候(ござそうろう)。此(この)鳥、高野(こうや。紀伊国)と日光山(下野国)の外(ほか)にはなき鳥と或人(あるひと)申候(もうしそうろう)。」
天狗の仕業(しわざ)でもあるまいし、京都から高野山・日光山までは連行するまい。重宗は即座に与力・同心数十人を討手(うちて)として、松尾山(まつおやま。京都市西京区にある標高223mの山)に差し向けた。そして山中において山賊数十人を捕縛したのである。
なぜ松尾山とわかったのか。重宗は一首の古歌をあげた。
松の尾の山の奥にも人ぞすむ 仏法僧の啼(な)くにつけても
一見職務とは関係のない古典の素養が、事件の解決に役立った。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年12月6日(火) |
鞘を割る |
京都六波羅に住む町人が夜間に斬り殺され、金銀を強奪された。
事件を詮議するため、京都所司代板倉重宗は被害者の女房を呼び出した。その際女房の口から、三人の男たちが被害者宅によく出入りしていたという事実をつかんだ。その男たちは博奕にうつつを抜かす身持ちのよくない連中で、大脇差を携行していたという。
重宗は直ちに三人を捕縛し所持品を没収した。しかし脇差を調べたものの、刀身から人を斬った痕跡を発見することはできなかった。
ただ一本だけ、研いだばかりのような引目の新しい刀身のあったのが、妙に引っかかった。そこで、鞘を割って調べたところ、果たしてその内側に新しい血糊(ちのり。また乾かない粘りけのある血)がべっとりと付着していたのである。
三人のうち、二人が強盗犯だった。
重宗が迅速に行動したため、犯人たちは証拠を完全に隠滅する時間がなかったのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
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2022年12月5日(月) |
値踏み |
京都の七条道場の門のところで、土器(かわらけ。素焼きの陶器)売りの商人が足を止めた。そして担いでいた荷物をおろすと、道場から聞こえてくる融通念仏を耳を傾けていた。
ところがその隙に、ひょっこり現れた男が商人の荷物を横取りすると、そのまま担いで逃走してしまった。
驚いた商人は
「昼盗人(ひるぬすっと)!」
を声をあげて追いかけた。
やっとのことで追いついたが、盗人が居直ったため両者はもみあいになった。その騒ぎを聞きつけて、近所から大勢の人々があつまってきた。
大人数に取り囲まれたふたりは「この荷物は自分の商売物だ」と言い争い、互いに譲らない。周囲の者たちは、どちらが商人でどちらが盗人か判断がつかない。これでは埒があかないので、みんなでふたりを京都所司代まで連行しようということになった。
話を聞いた所司代板倉重宗は荷物の土器を半分に分けると、ふたりにそれぞれの商品の値段がいくらなのか判別するように命じた。
盗人は商品の値踏みに時間がかかった。商人は自分の荷物だったため、すぐさま商品の値段を申し述べた。
こうして重宗は、たちどころに盗人を見分けたのだった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
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2022年12月4日(日) |
お八つは十三里 |
享保17(1732)年、虫害のため山陽・南海・西海・畿内地方で大飢饉が発生し、多くの餓死者がでた。幕府・諸藩は拝借金・夫食米(ふじきまい。庶民への食料)貸与、施米(せまい。庶民への米の施し)などの対策をおこなうが、米価は激しく上昇。翌年、江戸の窮民たちは米問屋高間伝兵衛(たかまでんべえ)を襲撃、各地でも打ちこわし(米屋・富商などへの襲撃)が起こった。
青木昆陽(1698~1769)は、甘藷(かんしょ。甘い芋の意。サツマイモのこと)こそ人々を飢えから救う有力な救荒作物(凶作時であっても収穫できる作物)と考えた。そうして昆陽が著した『蕃薯考(ばんしょこう。蕃は外国の意)』が町奉行大岡忠相の目に留まり、甘藷の試作が命じられた。
幕命によって青木昆陽が甘藷を試作した場所は小石川薬園(現、東京都文京区白山。現在の小石川植物園)、下総国馬加村(まくわりむら。現、千葉県千葉市花見川区幕張町)、上総国不動堂村(ふどうどうむら。現、千葉県山武郡九十九里町)の三カ所。享保20(1735)年、試作に成功すると(ただし不動堂村での試作は失敗)甘藷は次第に全国へ普及し、飢饉時に多くの人々の命を救うことになった。
甘藷はまた、庶民の食事・お八つとして重宝された。
江戸で焼芋屋が最初に登場したのは寛政5(1793)年冬のこと。本郷四丁目の番屋で焼芋を売り出したのがその嚆矢(こうし)という。江戸時代には各町の出入り口に木戸があり、治安のため夜間は閉ざしていた。そこに番所が置かれ、そこの番人が小遣銭稼ぎに焼芋を売ったのだ。
焼芋屋には「八里半」と書かれた行灯が掲げられた。八里半は、芋の味が九里(栗)に近いの意。『燕石雑誌』(滝沢解著)にも
「近属(ちかごろ)江戸にて琉球芋(りゅうきゅういも。関東では薩摩芋、関西では琉球芋といった)を焙烙(ほうろく)もて蒸焼(むしやき)にしたる、八里半と号(なづ)けて売(うる)なり。こは甘くして、甘味(かんみ)くりにちかしという謎(なぞ)なり。」
とある。
また「十三里」という看板もあった。こちらは「栗よりうまい(9里+4里=13里)」としゃれたのだ。十三里は江戸・川越(現、埼玉県川越市)間の距離。川越の甘藷は、幕張種芋(昆陽が馬加村で試作した芋)を使って栽培されたものの子孫という。
【参考】
・寺門静軒著、朝倉治彦・安藤菊二校注『江戸繁昌記・1』1974年、平凡社(東洋文庫)、P.160~166
・千葉県ホームページ内、九十九里町の国・県指定文化財「青木昆陽不動堂甘藷試作地」、千葉市の国・県指定および国登録文化財「青木昆陽甘藷試作地」 |
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2022年12月1日(木) |
耳の薬 |
耳の聞こえが悪い。これでは日常生活に支障をきたす。そこで耳鼻科に行った。医者によると、原因は加齢でなくて耳垢(じこう。みみあか)だった。耳の奥で飴耳が固まっていたのだ。取り除いてもらうと聴力が回復した。医者には
「たまれば耳垢は勝手に外へ出てくる。だから耳の掃除はしないように。」
と説教される。耳掃除をすると、知らず知らずのうちに耳垢を耳の奥に押し込んでしまうんだそうな。
ところで、山東京山(さんとうきょうざん)作の合巻(ごうかん)に『朧月猫草紙(おぼろづきねこのそうし)』という作品があり、その冒頭で「みけ村にやうあん(三毛村にゃう庵)」なる猫医者が「耳の薬」の製法を伝授するくだりがある。もとよりふざけた効能をもつ薬だ。お慰みに次に紹介しよう(読みやすくするため句読点・「」等を補った。現在では不適切な表現もあるが、原文のままとした)。
○猫の声を解傳(ききわけるでん)
京山、ちかごろ耳がとほ(遠)くなりて、
「先生、ほととぎす(時鳥)をおき(聞)きなされたか。」
とい(言)へば、
「さやうさ、よいてんき(天気)でござります。」
ととんだあいさつ(挨拶)に、きやく(客)もはなし(話)を大ごゑ(声)でするなど、人もこま(困)りわれ(我)もこま(困)るゆゑ、耳のくすり(薬)をさまざまもちひても、つんぼほどもき(効)かず。
ここにみけ村にやうあんとてねこ(猫)又ばし(橋)のいしやどの(医者殿)、みみ(耳)のりやうぢ(療治)の名人とき(聞)きて、此人(このひと)をまね(招)きしに、ねこせなか(猫背中)のろうじん(老人)、ねこなでごゑ(猫なで声)をして、
「やれやれ、さぞかしこま(困)り玉ふらん。これにハよ(良)きくすり(薬)あり。くろねこ(黒猫)の耳をくろや(黒焼)きにして、ねこ(猫)のよだれ(涎)にてみみ(耳)へさ(挿)し給(たま)へ。」
とをし(教)へにまかせ、いぬ(犬)のく(食)ひころ(殺)したるくろねこ(黒猫)の耳をとりてくろや(黒焼)きになし、ぽちと名づけしかひねこ(飼い猫)にまたたび(木天蓼)をく(食)ハせてよだれ(涎)をとり、みみ(耳)へさ(挿)しけるに、ふしぎ(不思議)や、き(聞)こえざりしみみ(耳)ぼんとあきけるが、これよりねこ(猫)のこゑ(声)をき(聞)けバ、人のものい(言)ふごとくなに事もよくわかることふしぎ(不思議)なり。これねこ(猫)のみみ(耳)のくろや(黒焼)きをみみ(耳)へさ(挿)したるゆゑなるべし。されバ、ねこ(猫)のはなし(話)をき(聞)きて此(この)ねこ(猫)のさうし(草紙)をつく(作)れり。
【参考】
・山東京山作、歌川国芳画『朧月猫草紙・初篇、二篇』国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:207ー1423 |
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2022年11月30日(水) |
一筆書き添える |
京都所司代の板倉重宗が、放火犯を見つけだすため京都各所に高札を立てさせた。その際「放火犯の情報提供者には黄金20枚を与える」旨を記載させた。しかし訴え出る者はだれもいなかった。
そこで一計を案じ、高札の「黄金弐十枚」と書いてある脇に、次のように一筆書き添えた。
「金五枚御増下候(おましくだされそうら)ハバ、訴人(そにん)仕(つかまつ)るべく候(そうろう)。」
(賞金をあと5枚増やしてくださるのなら、犯人を訴え出ましょう。)
これを知った首謀者は、てっきり仲間の中から裏切り者が出たと勘違いした。そこで露見する前に自首すると、共犯者の名前を洗いざらい白状したのだった。
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【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年11月24日(木) |
茶を挽く |
京都所司代板倉周防守重宗が、決断所において訴訟を聴取する姿は一風変わったものだった。
重宗は明かり障子を立ててその内に座り、茶臼で茶を挽きながら訴訟人の訴えを聴いたという。
明かり障子を隔てて訴訟を聴くのは、訴訟人の容貌を見ないためである。憎らしげな顔、誠実そうな顔、いかにも心がねじ曲がっているような顔などを見ると、知らず知らずのうちに先入観をもってしまう。そこで、そうした先入観を排除して公平な裁断をするため、お互いの姿が見えないように座を隔てたのだ。
また茶臼で茶を挽くのは、心の冷静さを保つためである。公正無私な裁断をするためには、心を冷静に保たねばならぬ。心が冷静で無心である時には、いかにも細やかな茶が挽けたという(『藩翰譜』『雑話燭談』)。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年11月23日(水) |
書物の伝承(パピルスから羊皮紙へ) |
パピルスは、古代エジプトの沼沢地に生えていた葦の一種。エジプト人はこの茎の皮を利用して一辺50cm程の正方形の薄いシートを作り出し、筆写に使用した。
古代ローマ人は、長い文章を書く際には、何枚かのパピルスをつなぎ合わせて「一巻の書物」にした。そもそもパピルスは冊子形状では保存しづらい。パピルスはもろく、何度か冊子を開閉するうちに綴じ紐の部分から書物が損傷してしまうからだ。
パピルスはもろく、損傷・磨耗しやすかったため、読めなくなる前にそのコピーをとっておく必要があった。こうして書物は、多くの人々の「手による筆写(マニュスクリプト、manuscript)」の繰り返しによって、現代に伝承されてきた。
しかし、幾世代にもわたって人から人へと筆写されてきたため、どうしても途中で誤写や書き換え等のコピーミスが生じた。ゆえに、現在に伝わる古典テキストが、どこまで原著に忠実なものかはわからない。
写本の信頼性は、原著からの「手による筆写」回数がなるべく少ないほど高められる。「手による筆写」回数を減らすためには、書物が長期間保存に耐えることが何よりも重要だ。
その期待に応えたのが、羊皮紙だ。羊皮紙の登場により、パピルスの弱点とされた書物の耐久性は格段に向上した。さらに羊皮紙は、両面に書くことができたので、書物を冊子形状にすることができた。その結果、書物の閲覧性・検索性などの利便性も一段と向上した。
しかし、羊皮紙にも欠点がある。
1冊の書物を作るのに莫大な手間と金がかかることだ。たとえば聖書1冊を作るために、500頭もの羊を殺さなければならなかった。そのため羊皮紙で作られた書物は、非常に高価で貴重なものだった。特権身分でもない限り、容易に閲覧したり所有したりできるものではなかったのだ。
また、羊皮紙が高価で貴重だったがため、新しい本を製作する場合には、不要と見なされた書物の文字を丹念に削り取り、その上から新たな文字を書き加えるという手法がとられた。こうして新たに作られた写本をパリンプセストという。中世ヨーロッパではキリスト教が絶大な権威をもった。そのためキリスト教関係書物の筆写・保存が優先され、パリンプセストを作成する際には、多くは他分野の書物が犠牲になった。
近年では試薬と紫外線照射という科学的手法の開発によって、パリンプセストから当初の文献が復元されるようになった。こうしていったん失われたアルキメデスやキケロなどの著作が、現代によみがえることになった。
【参考】
・小林標『ラテン語の世界』2006年、中公新書、P.241~244参照。 |
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2022年11月22日(火) |
割れ鏡(3) |
村正は、徳川氏にとっては不吉な刀剣だった。
たとえば、家康の祖父松平清康は村正で斬られて落命し、家康の長子信康が切腹した際、その介錯(かいしゃく)に使用された刀も村正だったとされる。
こうした不祥事が相次いだため、村正にはその後妖刀伝説までささやかれるようになった。ゆえに、徳川氏に仕える直臣(じきしん)はもとより陪臣(ばいしん)にいたるまで、村正を所持しようとする者はいなかったという。
ならば、そうした不吉な刀剣を、なぜ竹中は多数所持していたのか。
村正の刀剣は、徳川氏の世にあっては評価されない。しかし、村正には傑作が多いのだ。もしも徳川氏の世が終わり、他氏の時代にもなれば、村正は高額で取引きされるに違いない。そんな下心があって、竹中は村正作の刀剣を収集していたのではないか。もしそうだとすれば、竹中はとんでもない不忠者ということになる。
「不忠(ふちゅう)と云(いい)無道(むどう)と云(いい)不足評(ひょうするにたらず)。此刀・脇指(このかたな・わきざし)無之(これなく)ば、自然(しぜん)遠島たるべきか。御悪深き故(ゆえ)に切腹被仰付(おおせつけらる)。」(4)
竹中が手に染めた「奸曲」の罪科は、遠島処分が相当だった。それが村正の刀・脇差を多数所持していたがために徳川氏への二心を疑われ、重い切腹処分になったというのだ。
【注】
(4)『通航一覧』巻139、P.58~59 |
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2022年11月21日(月) |
割れ鏡(2) |
竹中重義(たけなかしげよし)は豊後(ぶんご)府内藩2代藩主だった。
そもそも長崎奉行は、旗本のなかから選任されるものであった。竹中のように、大名がこの職に就任するのは異例である。背後に、幕閣有力者の強い推挙があったとされる。竹中が長崎奉行に就任した頃は、九州のキリシタン迫害が激しくなっていった時期でもあった。
竹中の「奸曲」はひとりの商人の訴えにより露見した。
『通航一覧』によると、訴え出たのは、長崎に居住する平野屋三郎右衛門という商人だったという(3)。
三郎右衛門には妻がなく、妻同然の妾(めかけ)がいた。その美貌が好色な竹中の目にとまり、妾は奪いとられてしまった。その上、三郎右衛門は長崎追放の身となり各地を流浪。ついには乞食同然となって江戸に流れつき、町奉行所に竹中の不正を訴え出るに至ったという。
三郎右衛門の訴状には、竹中の交易貨物の着服・公事の不正・不正蓄財等の悪事が書き連ねてあった。町奉行所が取り調べたところ、三郎右衛門の訴状内容は紛れもない事実と判断された。その結果、竹中采女正は切腹処分とされた。
ただし、竹中采女正の悪事は、ふつうなら遠島処分が相当だったという。ところが、没収された竹中の財産の中から、村正の刀・脇差が24腰も出てきた。これが竹中の処分を重くした理由だったとされる。
【注】
(3)『通航一覧・巻139』P.58~59 |
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2022年11月20日(日) |
割れ鏡(1) |
名京都所司代としてその名をはせた板倉重宗(いたくらしげむね)。時折、懐中から割れた鏡を取り出しては、これをながめていた。
この割れ鏡のいわれを、重宗は次のように語った。
「此鏡(このかがみ)は竹中采女正(たけなかうねめのしょう)といひし長崎奉行の所持なり。此采女(このうねめ)、大名なれども職に奸曲(かんきょく)ありて切腹仰付(おおせつけ)らる。夫(それ)を思ふべき為(ため)なり。」(1)
重宗が所持していた鏡は、長崎奉行だった竹中采女正のものだった。悪事を働いて切腹処分になった竹中を反面教師とするため、重宗は竹中の割れ鏡を所持していたのだ。
竹中采女正は竹中重義(たけなかしげよし。または重興(しげおき)。?~1634)のこと。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には次のようにある。
「重義(しげよし)
采女正(うねめのしょう)
母ハ遠江守(とおとうみのかみ)某(なにがし)が女(むすめ)
台徳院殿(秀忠)につかへたてまつり長崎奉行をつとむ。
( 中略 )
(寛永)十年二月十一日、務(つとめ)をゆるさる。
十一年二月二十二日、さきに職にありしときの始末を糾明(きゅうめい)せらるるのところ、
奸曲(かんきょく)のはからひあるにより切腹せしめらる。」(2)
しかし、この史料では竹中の「奸曲のはからひ」の具体的な内容がわからない。一体竹中は、どのような「奸曲のはからひ」をして切腹させられるに至ったのか。
【注】
(1) 内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉周防守重宗」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
(2)堀田正敦編『寛政重修諸家譜・1520巻』国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:828ー1、62コマ |
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2022年11月17日(木) |
仕事をおしつける |
板倉勝重が、京都所司代辞職の件を将軍秀忠に願い出た。当職に就任してからかれこれ20年ほど経つ。しかし、相変わらず後任者が見つからないことを理由に秀忠はこれを許さない。幕府は多くの人材を抱えている。京都所司代の適任者がまったく見つからないはずなどない。
その後も勝重はたびたび辞職を願い出る。そこで秀忠は、
「ならば、おまえが後任者を推挙せよ。」
と命じた。
しかし「後任者を推挙せよ」と言われても、自分は長らく京都暮らし。江戸にいる幕臣たちの情報など皆無に等しかった。
しかしこの時、勝重の脳裏にある適任者の名前が思い浮かんだ。
周防守重宗(すおうのかみしげむね)。
勝重は、わが子を将軍に推挙した。
秀忠は重宗を呼び出した。しかし京都所司代はとんでもない重職。自分には荷が勝ちすぎる。重宗は固辞した。しかし秀忠は次のように言うと、なかば強引に京都所司代職を拝命させた。
「『子を知るは父にしかず(子どもの能力は父親が一番知っている)』といふことあり。汝(なんじ。おまえ)の父がすすめにてあれば辞する所あらじ。」
将軍に押し切られた重宗は、父勝重に向かい泣く泣く愚痴をこぼした。
「重宗、いかで此職(このしょく。京都所司代という重職)にたえ候(そうろう)べき。情(なさけ)なふ(無情にも)も御推挙(ごすいきょ)にあずかり候(そうろう)もの哉(かな)。」
重宗の恨み言に、父親の勝重は笑って次のように答えたという。
「おことは世話(せわ)を知り給(たま)ハぬ候(そうろう)よな。『爆火(はぜび)を子にはらふ』といふことハ、此(この)父が事にて候(そうろう)ぞ。」
(おまえは、世間の言い種(ぐさ)を知らぬと見えるな。「爆火(はぜび)を子に払う」というのは、このわしのことであるぞ。)
「爆火(はぜび)を子に払う」(また「熱火(あつび)を子に払う」)という言い回しは、「火に焼かれそうなときは、最愛のわが子の方へ火を払ってでも逃れようとする」という意味の慣用句。「危急の場面に直面すると、人間は極端な利己心を露わにする」というたとえだ。
勝重は京都所司代を辞めたいがために、後任をわが子に押しつけたのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉伊賀守勝重」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年11月16日(水) |
八つ裂きにされても |
元和年中(1615~1624)のことである。
京都六角堂の付近に貧しい商人が住んでいた。ある夜、何者かに寝首をかかれて殺されてしまった。事件は翌朝、京都所司代のもとに注進された。
京都所司代板倉伊賀守勝重(いたくらいがのかみかつしげ)は、被害者の女房・町年寄・十人組・隣家の者たちを集めた。いろいろと詮索したものの、事件について知る者は誰もいなかった。
ただ、被害者は他人に恨みを買うような人物でない。町年寄以下、誰もが異口同音にそう証言した。
そうなると、まず怪しいのは被害者の女房だ。
板倉は女房を推問した。しかし、24、5歳の血気盛りの女は口を割らず、水責めの拷問にも一向ひるむ気配がない。
そこで被害者宅を捜索させたところ、果たして女房の手道具(てどうぐ)の中から一通の艶書(えんしょ。恋文)が出てきた。やはり色情にからんだ殺人だったのだ。
捕縛された密夫は、女にそそのかされて犯行に及んだと白状した。男の自白を知った女は、次のように吐き捨てた。
「扨(さて)も比興(ひきょう。卑怯、臆病)なる男かな。我(われ)ハ首(くび)の坐(ざ)になほり、八ツ裂(やつざき)にさかるるとも白状はすまじきに。」
(なんと情けない男だろう。自分だったら土壇場(打ち首にする処刑場)にすわらされ、からだを八つ裂きにされるとも自白などしないものを。)
その後、二人は磔(はりつけ)に処せられた。
恐るべきは女である。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉伊賀守勝重」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年11月15日(火) |
羊、羊、羊 |
中国の五胡十六国時代の「五胡」とは、漢民族が五つの遊牧民族に対してつけた呼称だ。すなわち、匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、てい(「氏」の下に「一」)、羌(きょう)の五つをいう。
このうち、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ。去勢した羊の意)、羌(きょう。牧羊の民の意)のそれぞれの漢字の中には「羊」という文字が隠れている。彼らの遊牧生活を反映したものだろう。
ところで、漢字のグループ分けの一つに「品字様(ひんじよう)」がある。口という文字を三つ重ねると品になり、木という文字を三つ重ねると森になる。このように、同じ文字三つから構成される漢字グループのことだ。
遊牧民族がおもに飼っていたのは牛・馬・羊だ。これらにはそれぞれ品字様の漢字がある。牛を三つ重ねると「犇く(ひしめく)」。馬を三つ重ねると「驫く(とどろく)」。そして羊を三つ重ねると「なまぐさい」。
羊の肉はうまいが独特の臭みがある。だから昔の中国人も羊肉の放つあの臭いに閉口して「なまぐさい」という漢字を作ったのだろう。 |
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2022年11月11日(金) |
女房に相談してから(2) |
京都所司代への就任は、たいへんな出世であった。しかし板倉勝重は、本多正信に向かって次のように言った。
「今度大役を仰付(おおせつけ)らるるに付(つい)てハ罷帰(まかりかえ)り、女房に相談仕(そうだんつかまつり)得心(とくしん。納得)仕(つかまつり)候(そうら)ハバ、相勤(あいつとめ)申(もうす)べし。若(もし)不同心(ふどうしん。不承知)に候(そうろらは)ば、追(おっ)て御断(おことわり)申上(もうしあぐ)べし。」
帰宅して女房と相談しなければ、京都所司代を引き受けるか断るかの判断ができない、というのだ。
本多はうなずき、
「最(もっと)もなり。」(なるほど、もっともだ。)
と理解を示した。
大役は、本人ひとりで背負いきれるものではない。どうしても家族の協力が必要になる。とりわけ妻の力は絶大だ。400年前の官僚は、そんな当たり前のことをすでに認識していたのである。
妻の許諾を得た板倉は、京都所司代に就任した。その後板倉は当職を約20年勤め、
「むつかしき京都を守護し、無事に事(こと)を取治(とりおさ)めける器量たぐいなし。」(『流芳録』巻之八)
「(京都所司代は)いふ計(ばかり)なき要枢(ようすう。最も重要)の職なれど、事一ツとして淹滞(えんたい。とどこおる)なく、物一ツとして廃闕(はいけつ。すたれ欠ける)なく、天下皆(みな)其能(そののう。板倉の能力)を称せずといふものなし(賞賛しない者はいなかった)。」(『藩翰譜』)
と評価された。
板倉勝重は、名所司代としての名を人々の記憶に刻んだ。しかし、それも妻の協力があったればこそのことだった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉伊賀守勝重」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年11月10日(木) |
女房に相談してから(1) |
慶長6(1601)年のことだった。家康は、京都所司代(きょうとしょしだい)奥平信昌(おくだいらのぶまさ。1555~1615)の後任を、誰にするかで悩んでいた。
当時は関ヶ原合戦(1600)の直後。江戸幕府はいまだ成立せず(開幕は2年後の1603年)、天下の人心がことごとく徳川氏に帰服していたわけではなかった。京近くには淀君・豊臣秀頼母子がおり、太閤秀吉の往昔を偲ぶ大名・町衆たちが少なくなかったのである。そうした状況のもと、朝廷・公家の監察から神職・寺務・農工商らの支配に至るまで京都施政のいっさい、西国大名の監察等をつかさどるのが京都所司代だった。大役である。
そこで家康は、腹心の部下本多正信(1538~1616)に相談した。本多は板倉勝重(1545~1624)を推挙した。
当時板倉は500石を領し、江戸道奉行をつとめていた。家康も板倉の才を買い、彼を京都所司代にという思いがあった。しかし、京都所司代に任じるとなると、役職相応の加増をせねばならぬ。本多は
「板倉には2万石も与えればよい。」
と簡単に言った。一挙に40倍の加増だ。さすがに家康も
「それは多過ぎよう。」
と難色を示した。しかし本多は
「諸司代(京都所司代)ハ官禄(かんろく。官位と俸禄)を以(もっ)て威(い。威厳)有事(あること)にて、京都を押(おさ)へ難(がた)し。」
と言って家康を説得した。官禄が低いと京都の朝廷・公家衆らになめられる、というのだ。
よって家康は、板倉勝重を加増して2万石の大名とした(1)。
【注】
(1)京都所司代任命時の加増額には異説がある。この時、板倉勝重の石高は6千石余、あるいは1万5千石、あるいは2万石になったという。『流芳録』巻之八、「板倉伊賀守勝重」の項。 |
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2022年11月9日(水) |
瓢箪 |
京都四条通り御旅所(おたびしょ。神社の祭礼で祭神巡行の際、仮に神輿を鎮座しておく場所)の近所に、裕福な商人が住んでいた。息子が三人いたが、死期に及んでそれぞれに瓢箪を一つずつ与えた。そして、遺言書も残さず、そのまま亡くなってしまった。
数日たって親族たちが集まった。家督相続者を決めねばならないからだ。
親族たちは瓢箪を調べてみた。故人の書付けでも入っているかも知れぬ。しかし、どの瓢箪も空っぽで、各瓢箪にはそれぞれの息子の名前が書き付けてあるばかりだった。
考えあぐねた親族たちは、京都所司代板倉勝重(いたくらかつしげ。1545~1624)に裁断を仰ぐことにした。
板倉は三つの瓢箪を取り寄せた。それぞれを立たせてみたところ、一つだけがまっすぐに立った。そこで板倉は次のような裁断を下した。
「三瓢(さんぴょう)の内、末子(まっし。三男)に与置(あたえおき)たるハ其侭(そのまま)に立(たち)、嫡子(ちゃくし。長男)・次男に与へたるハ物によりかかりては立(たつ)なり。然(しかれ)ば、末子に家督相続の器量(きりょう。ふさわしい能力)あるかと推量するぞ。
(息子たちへの財産分与は)町役人・一門も会合して能様(よきよう)に配分し、勿論(もちろん)本家は重く、分家は軽くすべし。是(これ)本末を正す所なり。」
そこで親族たちは、本家を三男に継がせることにし、財産の5分の4を三男に、残り5分の1を長男・次男に配分することにした。
三男は、父の代に変わらず本家をもり立てた。ふたりの兄たちは、3年もたたぬうちに財産をすっかり使い果たしてしまった。
「子を見ること、親に如(し)かず(親は、自分の子の性質・能力をだれよりもよく知っている)」とはよく言ったものだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之八、「京都所司代 板倉伊賀守勝重」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年11月8日(火) |
寛政改元 |
天明飢饉の傷がまだ癒えぬなか、天明8(1788)年正月に京都で大火があった。町家ばかりか、御所・二条城まで焼失した。被害は市街地の9割に及んだという。
これらの災害が契機となって翌天明9(1789)年正月25日、「寛政(1789~1901)」と改元された。菅原胤長(すがわらのたねなが)の勘申(かんじん。先例故実を考えて出した意見)による。
出典は『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』昭公二十年(紀元前522年)の「施之以寛、寛以済猛、猛以済寛、政是以和」(孔子の言葉)(1)。
「政治が寛大だと民は放漫になり、放漫になれば厳格によって締め直す。厳格で民が傷つけば、こんどは寛大によって緩める。寛大によって厳格を調え、厳格によって寛大を調えれば、それで政治は和する」(2)の意味という。
天皇は光格天皇、将軍は第11代徳川家斉。
【注】
(1)以上、米田雄介編『歴代天皇・年号辞典』2003年、吉川弘文館、P.327による。
(2)小倉芳彦訳『春秋左氏伝(下)』1989年、岩波文庫、P.220 |
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2022年11月6日(日) |
御所御千度参り |
天明の飢饉がおこると、あちこちで富商・米屋をねらった打ちこわしが起こった。しかし、京都だけはちがった。
「誠ニ餘国(よこく。他の国々)ニハ家を打(うち)つぶしの騒動御坐候処(そうどうござそうろうところ)、京都ハ打(うっ)テ替(かわ)り」
打ちこわしが起こらなかったという。なぜか。
天明7(1787)年の夏、誰が言い出したものなのか、御所(皇居)を参詣する御千度参(おせんどまい)りが始まった。
寺社境内を百度周回しながら祈願する「御百度参(おひゃくどまい)り」はよく耳にする。しかし、今回のような御所を周回する御千度参りなど聞いたことがなかった。
最初は百人ばかりだったという。それが日を追って数を増し、京・近在から老若男女・貴賤を問わず、参詣に訪れる人々は途切れることがなかった。南門・唐門(からもん)の前には、毎日30~40貫文(1貫文=1,000文)もの賽銭(さいせん)がうずたかくあがった。
あまりの人の多さに両御門を警衛する武士が、人々の参詣禁止を後桜町上皇に打診した。しかし上皇は
「(人々は)信心(しんじん)ニて参詣致候事故(さんけいいたしそうろうことゆえ)、其侭(そのまま)ニ致置候(いたしおきそうろう)」
ようにと指示した。
暑い時節の参詣者を心配した御所側は、周囲の溝(みぞ)を浚(さらっ)て清掃させると、そこに湧き水を流させた。有栖川宮(ありすがわのみや)は参詣者のために湯茶を用意した。上皇からはりんご3万個が参詣者ひとりひとりに配られたが、昼過ぎには早くもなくなってしまった。
御千度参りの噂を聞きつけて、大坂はじめ周辺地域からも人々が京都に浮かれ出てきた。そのありさまは、明和8(1771)年のお蔭参りさながらだったという。そうした大群衆を見ようと、人見物(ひとけんぶつ)に繰り出す連中も出る始末。そのうち、東西茶屋町・祇園町・島原あたりからから、美服を着飾った綺麗どころまで参詣に合流しはじめた。
御千度参りは、早朝明六時(あけむつどき。現在の午前6時頃)から、夜中まで途切れることはなかったため、さすがに夜参りは禁止となった。
暑さが強烈だったため、昼間の参詣者は少なかった。しかし、日射しの弱まる八半時(やつはんどき。午後3時頃)ごろからおびただしい人々が御所の周辺に浮かれ出てきた。そうした人々を当て込んで、菓子類・酒肴(さかな)類・トコロテン・瓜(うり)類などの商人たちも集まってきた。そうした物売りだけで500~600人にも及んだという。
御千度参り以降は天候もよろしく、「これは豊作の印」と人々は予祝した。いよいよ増す信心に、参詣の群集も絶えることはなかった。人々は
「御千度ハ京中之悦(きょうじゅうのよろこび)ニ御坐候(ござそうろう)。」
と言い合った。
それまでは、奉行所に窮民御救いを何度嘆願しても、なしのつぶてだった。町人たちは、頼りにならない奉行所へではなく、御所へ直(じか)に嘆願しようと考えを改めた。また、町同士で申し合わせ、自力で各町ごと米や銭を窮民に施行(せぎょう)しようということになった。
禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)では朝廷の政治への口出しは禁止されている。それに抵触しない形で、天皇から幕府へ窮民救済の申し入れがあった。
御所御千度参りは、民衆の天皇崇拝と朝廷の政治関与のきっかけをつくった。
【参考】
・『落穂集』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:210-0165。 |
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2022年10月26日(水) |
趣味は金魚 |
11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり。1773~1841)は金魚を好んだ。そこで、大きな飼育容器をいくつも作らせ、その中で金魚を飼いたいと言い出した。
家斉近侍(きんじ)の者たちは
「この程度のことなら問題あるまい。」
と思い、御側役(おそばやく)に伺いを立てた。御側役は、将軍補佐役の松平定信(1759~1829)にも意見を聞いた。すると定信は次のように言って、金魚の飼育容器を作ることに反対した。
「何事(なにごと)も『是程(これほど)の事(こと)ハ苦しからず』と申候(もうしそうら)ヘバ、末々(すえずえ)ハ何にても大なるものぞかし。
只今(ただいま)迄(まで)の金魚ハ少し計(ばかり)の事なり。
『最早(もはや)此上(このうえ)ハ、御無用(ごむよう)に遊バされ候(そうら)へ』と申上(もうしあげ)候へ。」
何事であれ「この程度なら構わないだろう」と思って始めたことが次第にのめりこんでしまい、のちのち大事(おおごと)になることはよくある。
家斉が現在飼育している金魚の数は、ほんのわずか。しかし、家斉の希望を容れて、いくつも大きな飼育容器を作らせれば、飼育する金魚の数は際限なく増えていくだろう。
だから、現状で満足するよう家斉に進言せよと、定信は御側役にアドバイスしたのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之六、「御老中 松平越中守定信」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年10月25日(火) |
好物はイチゴ |
ある大名の留守居(るすい。大名が江戸屋敷に置いた武士。幕府・他藩との連絡などを担当)が、松平輝貞(まつだいらてるさだ。1665~1747)の屋敷へ使者として遣わされた。
その際留守居は、輝貞の好物を表用人(おもてようにん。大名家の家政をつかさどった武士)に尋ねた。用人は何の気なしに「主人はことのほか覆盆子(イチゴ)がお好きです」と答えてしまった。
当時のイチゴは、木イチゴや野イチゴの類だ。現在われわれが食するようなイチゴは、天保年間(1830~1844)に海外からわが国にはいってきて、オランダイチゴの名で呼ばれたという。
大名の留守居から情報が漏れたのであろうか、ほどなくあちらこちらから、進物として覆盆子(イチゴ)が輝貞のもとへ届くようになった。
輝貞は用人を呼び出すと次のように言って、進物の覆盆子(イチゴ)をすべて処分させた。
「我等(われら。私)平生(へいぜい)に覆盆子(イチゴ)を好(この)ミ候(そうろう)ハ、他人の知るべきよふなし。然(しかる)に所々より同様に『好物の品』といふ口上(こうじょう)にて贈(おく)られ候(そうろう)ハ、何とも合点(がてん)まいらざるなり。家来共(けらいども)の内、何者(なにもの)か其義(そのぎ)を他人に申聞候(もうしきかせそうろう)や。
是等(これら)の事より、内談(ないだん)取入(とりいり)の手筋(てすじ)も出来(でき)、以(もって)の外(ほか)宜(よろし)からず事(こと)に候(そうろう)。」(『名君徳行録』)
(私がふだんイチゴを好むことを、他人が知るはずがない。それなのに、各所から「松平殿の好物のお品を贈ります」という口上付きでイチゴを贈ってくる。何とも腑に落ちないことだ。家来の誰かが、他人に話したのだろうか。こんなことから、相談事を頼み込もうとする手づるもできるのだ。とんでもないことである。)
松平輝貞は5代将軍綱吉の寵臣(ちょうしん)のひとりだった。「名におふ柳沢同様の寵臣(有名な柳沢吉保と同様な綱吉の寵臣)」(『傾日文耕録』)に取り入ろうとするやからが多いことを、輝貞は百も承知していた。だからこそ律儀な輝貞は、いわれのない進物はわずかであっても拒否したのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之七、「御側御用人 松平右京大夫輝貞」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
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2022年10月18日(火) |
松平定信の心遣い |
江戸北町奉行石河土佐守政武(いしことさのかみまさたけ。1724~1787)は、政治向きの相談事で松平定信宅へ行くことが多かった。
ある日のこと、ことのほか用談事が多く、気がつけば夜になっていた。そこで定信は石河のために、一汁二菜(湯漬けと焼き豆腐の煮物・メバルの色つけ焼き)の夕食を用意した。
「能(よく)参(まい)り候(そうら)へ。腹中(ふくちゅう)透(すき)候(そうらい)ては申談(もうすだん)も不調(ととのわず)。供中(ともじゅう)へも支度(したく)申付候(もうしつけそうろう)。」
(十分お召し上がりください。腹が減っては相談事もできません。お供の方たちへも食事の支度を申しつけてございます。)
石河は定信の心遣いに感激した。他の老中宅では、夜遅くまで打ち合わせすることがあっても、これまで夕食の心配までされたことなどなかったからだ。しかも家来たちの食事の心配までされ、ひどく恐縮した。
帰宅した石河は供頭(ともがしら)を呼びだし、定信邸でどのようなもてなしを受けたのか確かめた。なにぶん多人数だったので、てっきり湯漬け飯のみ供されたと思っていた。
供頭が言うに、定信からは次のような挨拶があったという。
「老中職に就任し役宅へ引き移ったばかりなので、お世話が十分に行き届かず申しわけございません。せめて町の方で夕食を召し上がって下さい。」
そして、武士には徒士(かち。徒歩で主人の警護をつとめた下級武士)にいたるまでひとりにつき銭100疋(ひゃっぴき。1疋=10文とすれば1000文に相当。または1疋=25文)ずつ、中間(ちゅうげん。武士に仕え雑務に従事した者)には南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん。8枚で1両。1両=4000文とすれば500文に相当)1枚ずつが下賜されたという。
「誠以(まことにもって)御老中様方(ごろうじゅうさまがた)より蒙仰(おおせをこうむり。お言葉をかけていただき)、拝領物(はいりょうぶつ)仕候段(つかまりそうろうだん)、冥加至極(みょうがしごく。分に過ぎてもったいない)難有(ありがたき)義也(ぎなり)。」
と、供人たちは定信の心遣いに大いに感激したという(1)。
それはそうだろう。定信は老中首座。現在なら内閣総理大臣に相当する役職だ。そんな人物から、末端の者にまで細やかな心遣いをされたのだ。心に響かないはずはない。
こうした心配りができる者が、本当に人の上に立つ人なのだろう。
【注】
(1)以上、湯浅明善『天明記4』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0144、22~23コマによる。 |
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2022年10月17日(月) |
税はどこへ消えた |
松平定信が老中になったのは、天明飢饉(1783~1787)の直後だった。民衆の負担を軽減するため、江戸中の町方の諸運上(営業税など)を次々に免除した。町人たちが喜んだのは言うまでもない。
ところが、税収支を点検したところ、奇妙なことがわかった。諸運上を徴収していた時と、諸運上の徴収をやめた時とを比較すると、税収入に変化がなかったのだ。
徴収されていた時の諸運上は、いったいどこへ消えたのだろう。
担当者の仕事が杜撰(ずさん)で、数字を間違えたのだろうか。それとも、誰かがねこばばしたのだろうか。
「(諸運上は)何方(いずかた)へ納損(おさまりぞん)仕候哉(つかまつりそうろうや)、行衛(ゆくえ)相知(あいし)れ不申由(もうさざるよし)。」(1)
結局、わからず仕舞いだった。
【注】
(1)以上、湯浅明善『天明記2』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0144、28コマによる。 |
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2022年10月15日(土) |
老中の登城 |
江戸時代、登城するに際し、老中には二つの奇妙な習わしがあった。
一つは、駕籠や供回りの者たちの間を詰めさせ、足早で登城すること。
もう一つは、老中たちが互いに遠見をたてて月番老中の居宅をうかがい、月番老中が登城すると見るや扇をあげて合図し、一斉に出宅することである。
足早の登城は、駕籠訴を嫌ってのことといわれる(1)。また、老中一斉出宅は、老中合議の場である御用部屋への遅入りを嫌ったためだろう。
こうした習わしが老中にはあったため、新たに老中となった松平定信に、家臣が次のように尋ねた。
「今後の登城は、他の老中方と同じように駕籠を急がせますか。」
これに対して定信は次のように指示した。
「老中は訴訟を聞き届けて取り扱う職である。しかるに、足早で登城して訴訟の道を閉ざすのは本意ではない。他の老中たちはいざ知らず、自分たちの駕籠は今まで通りゆっくりでよい。」
また、老中の一斉出宅に対しても、定信は次のように言って遠見をやめさせた。
「老中は一斉に出宅しているが、老中の登城時刻は決まっている。少々の遅速があってもかまわないので、遠見を置くことは今後無用である。」(2)
【注】
(1)本ホームページ「あれやこれや2022」の「老中たちはなぜ急ぐ」(2022年9月24日)を参照。
(2)以上、湯浅明善『天明記1』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0144による。 |
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2022年10月14日(金) |
忘れ候 |
老中の権威を傷つけると思ったのであろうか、いつ頃からか老中は「忘れ候」という言葉を使わなくなった。
しかし老中の堀田正亮(ほったまさすけ。1712~1761)は、そんな慣習は意に介さなかったという(『せめてハ草』)。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 堀田相模守正亮」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年10月13日(木) |
大御所家斉の死 |
江戸幕府の公式発表では、大御所家斉の逝去は天保12(1841)年閏正月30日ということになっている。しかし、すでに7日に亡くなっていたという。『井関隆子日記』には次のようにある。
「(閏正月)なぬか(七日)のゆふ(夕)、日のくだ(降)ち、ひかりかくれさせ給へりとほの聞ゆ。後の御おきてとも大方ならぬ御事なめれバ、世にひ(秘)めさせたまひて、いまだおはしますにかはらず、うへ(上。将軍)もたびたびわたらせ給ひて何くれの御沙太どもあめり。」(1)
大御所逝去にともない、さまざまな事後処理の打ち合わせなどが必要だったのだろう。家斉の死は秘匿され、しばらくの間はいまだ生存しているかのように取り扱われたという。
享年69歳。将軍職にあること50年、その後も死ぬまで大御所として政治の実権を離さなかった。従一位(死後贈正一位)太政大臣の極官にのぼりつめ、
「何事もミ心のままに人ののぞみ、世のたぬ(楽)しミきはめ尽させ給へバ、あ(飽)かぬ御事ハおはしまさ」(2)
なかった家斉だったが、寿命にだけはあらがえなかった。
【注】
(1)(2)『井関隆子日記』天保12年閏正月10日の項。昭和女子大学図書館蔵。史料はインターネット上に公開されている。 |
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2022年10月12日(水) |
家斉の述懐 |
11代将軍家斉が老臣の一人を召し出して、政務に関して論じていた時のことだった。話のついでに家斉が、自分の若いころのことを、次のように述懐したという。
「我等(われら。私)少年の時、越中(えっちゅう)・伊豆(いず)・弾正(だんじょう)等(など)が諫申(いさめもうす)詞(ことば)、耳にさかひ好ましからず覚(おぼ)へしが、今齢(よわ)ひたけておもへバ、一々思ひあたる事こそ多けれ。
西の方へもあの様(よう)のものを付置(つけおき)たし。重立(おもだち)たる役人の撰(えら)ミには、其心(そのこころ)して念入(ねんいる)べし。」
(私が若かったころ、松平定信(越中守、老中・将軍補佐。1759~1829)・松平信明(伊豆守、老中。1763~1817)・本多忠籌(ほんだただかず。弾正大弼(だんじょうだいひつ)、老中格。1740~1813)たちの諌言(かんげん)の言葉は、耳に逆らい嫌なことに思った。しかし、今この年齢になって思い起こすと、いちいち思い当たることが多い。
西の丸(将軍の世子)へも、あのような者たちをつけおきたい。主となる役人の人選には、そのよう心して念を入れるように。)
若いころには定信らを煙たがっていた家斉。逆耳(ぎゃくじ)の言を薬石とするには、ある程度年齢を刻むことが必要なのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之六、「御老中 松平越中守定信」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年10月11日(火) |
遊び盛り |
徳川家斉(1773~1841)は将軍就任時、まだ15歳(数え年)だった。現在ならば中学2年生相当。遊び盛りの年齢だ。しかも将軍なら思い通りにならないものはない。
しかし現実は違った。
「将軍御幼稚(しょうぐんごようち)」ゆえ、松平定信(1759~1829)が家斉の補佐役となった。定信が老中首座になったのは30歳の時だった。定信は質素倹約・文武奨励等をむねとし、綱紀粛正をはかる政治を展開した(寛政の改革)。家斉には将軍としてのしつけ・教育が施された。
「将軍御幼稚」ゆえ、家斉は自分の思い通りにならないと、すぐに怒り出した。短慮は本人のわがままから発する。無理な命令は上意といえども取り合ってはならぬ、と定信は家斉側近に厳命した。
「将軍御幼稚」ゆえ、家斉は朝寝坊の上、菓子ばかりを間食していた。そのため朝晩の食事にほとんど手をつけない。定信は間食を禁止した。そして、いつもより2時間早く家斉をたたき起こし、朝食前まで武芸稽古をさせた。空腹にすれば朝食を平らげると思ったからだ。
「将軍御幼稚」ゆえ、何かにつけて定信は、家斉に厳しいしつけを施した。すべては立派な将軍に育てるためだった。
しかし家斉の立場にたてば、こうした日常はたまったものではない。
ある日の夕方のことである。家斉が近侍の者に
「越中守(定信)が退勤したか、確認してこい。」
と命じた。
「すでに退出されました。」
という報告を聞くや、家斉は小性たちとはしゃぎ回って遊びはじめたという。このエピソードを伝える『天明記』は、
「(家斉は定信のことを)斯迄(かくまで)憚(はばか)らせ給(たま)ふと聞(きこ)えし。」
と記す。家斉にとって定信は、息の詰まるような存在だったのだ。
数年後、定信が老中を罷免されるのは、将軍が成長した証しとしてある意味必然だった。
【参考】
・湯浅明善『天明記1』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0144。 |
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2022年10月9日(日) |
バンシュウショシャザンノシャソウソウダイ |
江戸城では毎年正月6日、寺社参賀がある。諸寺諸山諸社の出家や社人らが新年祝賀に登城するのだ。その際、謁見者らの名前を読み上げて将軍に披露(ひろう)するのが、奏者番(そうじゃばん)の役目である。
ところが寺社参賀の謁見者のなかには、奏者番にとっての難敵がいた。「播州書写山(兵庫県姫路市にある圓教寺)の社僧惣代」である。
「バンシュウショシャザンノシャソウソウダイ」とは何とも読みづらい。10人中9人までが言い損なってしまうという。(そのため現在でも、アナウンサーがろれつが回るように訓練する早口言葉の中に、「播州書写山の社僧正(しゃそうじょう)」(歌舞伎「外郎売口上(ういろううりこうじょう)」に登場する早口言葉)があるという。)
そこで、寺社参賀当日の当番にあたる奏者番は、前年のうちから「バンシュウショシャザンノシャソウソウダイ」と「不断(ふだん。いつも)口の内に言習(いいなら)ひ、舌の廻(まわ)るやうに心掛(こころがけ)」て入念に準備をしていたという。
当日の奏者番は井上河内守だった。事前の準備を怠ったのか、「バンシュウショシャザンノシャソウソウダイ」を言い損なってしまった。しかし井上は、自分の失敗を恥じる素振りなど見せず、将軍の顔を仰ぎ見るとニカッと笑ったのだった。
将軍は、この行動にかちんときた。
「此披露(このひろう)申違(もうしちがい)はくるしからねども、河内守迷惑(めいわく)も不致(いたさず)、大胆(だいたん)の至也(いたりなり)。」
(謁見者の名前を言い損じたのはやむをえない。しかし、失敗を恥じる様子もなく、河内守のずうずうしさはこの上ない。)
しばらくして井上は御役御免になったという。
【参考】
・馬場文耕『近代公実厳秘録・1』所載「井上河内守御役御免の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211-0002 |
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2022年10月7日(金) |
恋がたき |
大岡忠光には政治的野心がなかったとされる。しかし、権勢をもった寵臣の周囲で、トラブル起きないはずはなかった。
たとえば、先代の将軍吉宗に抜擢された老中松平右近将監正元(まつだいらうこんのしょうげんまさちか)は、将軍・老中間に大岡という寵臣が介入することを嫌った。そのため大岡との仲はよくなかったという。
また大岡は、目付宮城越前守を公の前で罵倒して、宮城の出勤拒否・御役御免願い提出という事態を招いている。宮城とのトラブルがあったのは、宝暦7(1757)年6月15日の山王祭においてのことだった。
家重親子が上覧所から祭を見物していたところ、突然夕立に見舞われた。祭に参加していた町人たちがあわてて四散したため、上覧所の前には泥でよごれた多くの草履が脱ぎ捨てられ、いかにも見苦しいありさまとなった。
そこで宮城は町奉行出役(しゅつやく)依田和泉守(よだいずみのかみ)に、配下の者をつかって草履を片づけるよう要請した。しかし宮城の度重なる要請を、依田は一切無視した。そこで宮城は、やむなく配下の小人目付(こびとめつけ)に命じて草履を片づけさせた。
するとこれを見ていた大岡忠光が、突然上覧所から躍り出てきたのである。大岡は激怒して、宮城を激しく罵った。
「匹夫(ひっぷ)町人の草履を公儀衆(こうぎしゅう)へ申付(もうしつけ)られ候(そうろう)事、格外(かくがい)無礼の振舞(ふるまい)、嘸(さぞ)かし御小人共(おこびとども)無念に存ずべし。左様(さよう)に組子(くみこ。配下の部下)を土芥(どかい)の如(ごと)く取扱(とりあつか)ハれ候(そうらい)ては、平生(へいぜい)御支配の当(あた)りハ思ひ遣(や)られ候。」
いやしい町人どもの草履を、直参(じきさん)の武士に片づけさせるなどまったく無礼なふるまい。草履の片づけを命じられた小人目付たちは、さぞかし無念だったろう。かように部下をゴミ同様に扱うようでは、日頃の勤務が思いやられる。
そう罵るだけ罵ると、大岡は上覧所に戻ってしまったのである。
宮城は「御出頭(ごしゅっとう)第一の若年寄(若年寄は目付を管轄)、雲州(大岡忠光)の権勢に何と答らる詞(ことば)」もなく、怒りで顔が真っ赤になった。そして翌日から病気と称して出勤しなくなった。そしてちょうど1年後の宝暦8(1758)年の6月15日、幕府に御役御免を願い出たのである。
大岡と宮城には、家重に小性(こしょう)として近侍していた同僚の時期があった。その頃、松平縫殿頭(ぬいのかみ)という少年をふたりで争い、宮城が恋の勝者になったという。これを恨んだ大岡は、以来何かにつけて宮城と衝突を繰り返すようになったとされる(『頃日文耕録』)。
以上の話が事実だとすれば、大岡は部下となったかつての恋がたきをこの機会に叩き潰し、長年の私怨を晴らしたことになる。
大岡忠光が没したのは、それから2年後の宝暦10(1760)年のことだった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 松平右近将監武元」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
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2022年10月6日(木) |
大岡忠光の権勢 |
大岡忠光(1709~1760)は、9代将軍家重時代の寵臣(ちょうしん)である。
家重には言語障害があり、他人との意志疎通がむずかしかった。しかし、小性時代から家重に仕えた忠光だけが、その意を理解することができた。そこで家重は、忠光を常に身近に置くようになったのである。
忠光は旗本だった。それが幕政に参画するようになり、宝暦4(1754)年に若年寄、同7(1757)年に側用人となり、最終的には武蔵国岩槻藩(むさしのくにいわつきはん)2万3千石を領する大名となった。
重臣たちも、大岡忠光という「通訳」を介さなければ、将軍の意向を確認したり決裁を仰いだりすることができなかった。そのため、大岡の威勢はいやがおうにも高まった。大岡より重職にある高官でさえ、大岡には追従する者が多かったという。
「当将軍家(9代将軍家重)に及(および)て御側(おそば)出頭(しゅっとう)大岡出雲守(いずものかみ。大岡忠光)威勢高く、老中・若年寄も兎角(とかく)出雲守の便(たよ。頼)りて、御前(ごぜん。将軍)へ窺(うかが)ひ旁(かたわら)につき差支(さしつかえ)のなき様に諂(へつら)う人多し。
是(これ)全く御名代(ごみょうだい。将軍の代理)に大形(おおかた)の事を取計(とりはから)ふ故(ゆえ)に、老中迄(まで)も内証(ないしょう。内々に)より賄賂(わいろ)し追従(ついしょう)する人多し。
毎月御用番(ごようばん。月番)勤役(きんやく)の人々、月の朔日(さくじつ。1日)には先月の御用番たる老中・若年寄・御留守居・寺社奉行よりして交肴(まぜざかな。進物に贈る数種の鮮魚)壱折(ひとおり)宛(ずつ)、毎度使者を以(もって)雲州(大岡忠光)の宅へ蹲踞(そんきょ。両膝を折ってうずくまり頭を垂れておこなう礼)す。
『先月御用番、貴客(きかく。あなた様)の御影(おかげ)を以(もって)御前向(ごぜんむき)諸事滞(とどこおり)なく相勤(あいつとめ)、大慶(たいけい)致候(いたしそうろう)。』
との附届(つけとどけ)、当時定式(じょうしき。定まった儀式)になりたり。」
9代将軍家重の側近第一、大岡出雲守の威勢は高く、老中・若年寄も何かと出雲守を頼り、将軍への伺いに支障が生じないよう媚びる者が多い。
これはまったく大岡が将軍の代理として大概のことを取り計らうからであって、ゆえに老中であっても内々に大岡へ賄賂を贈りへつらう者が多いのだ。
毎月、月番交代で勤務に就く役人たちの場合。月番を勤めた老中・若年寄・御留守居・寺社奉行たちは、翌月の1日になると交肴(まぜざかな。進物に贈る数種の鮮魚)一折ずつ持たせた使者を大岡宅へ遣わし、礼を述べることが慣例となっていた。
『先月の月番につきまして、貴殿のおかげをもちまして公務を滞りなく勤めることができ、喜ばしい限りでございます。』
と謝礼を贈るのが当時の決まりごととなっていた。
大岡の権勢は、老中さえしのぐものだった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 松平右近将監武元」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年10月5日(水) |
何をやろう |
封建制度の原則は、土地の授受を通して武士が主従関係を結ぶというものだ。主君は臣下に封土(ほうど)を与え、臣下はその見返りとして軍役などを負担した。
しかし日本の領土は狭い。「恩賞に土地」というシステムはいつかは必ず行き詰まる。
それを見越したのか織田信長は、土地の代わりに茶道具を下賜し、功臣には茶会を開く権利を与えはじめた。そのおかげで信長の臣下たちは、信長の茶器コレクションの中から由緒ある名物を下賜されることを強く望むようになった。広大な領地よりも、ちっぽけな茶碗の所有をありがたがった。
戦争があれば、戦場には膨大な武具・武器類が残される。それらを回収し、鑑定家に値踏み・評価させた上折紙(鑑定書)をつけ、臣下に下賜したのが秀吉だ。拝領した刀剣類には、それにまつわる由緒来歴や因縁などの物語が付随し、先祖の武功を想起させる装置となって、各家に代々伝承されていった。いわゆる「伝家の宝刀」である。
しかし、名品というものは、無限に存在するわけではない。
そこで、大名に実体のない官位(官職・位階)を与えるという仕組みをつくったのが家康だ。江戸幕府は慶長16(1611)年以降、武家の官位を公家の官位と別立てとした。だから、大名を好きな官位に自由に任じることができた。
幕府の方では、大名の官位を朝廷に推薦する。幕府から連絡を受けると朝廷の方では任命書類を交付する。この時幕府の懐は痛まなかった。この任命書類の作成に、多額の礼金を支払ったのは大名の方だったからだ。中将クラス(仙台藩伊達家、薩摩藩島津家)で250両(1両=10万円とすると約2500万円)ほどの費用がかかったという。こんな大金を支払っても、大名は自分の名誉欲を満足させてくれる官位を得ることをありがたがった。
一方、朝廷の方でも、労せずして懐に大金が転がり込むこの仕組みを喜んだ。
こうして、幕府・大名・朝廷の三者ともにウィンウィンの関係が成立した。
これは幕府の大名支配にもメリットがあった。江戸城内で大名は官位順に並べられ、将軍の前に彼らの序列が一目瞭然となったのである。
【参考】
・遠山美都男外『人事の日本史』2021年、朝日新書、P.331~337(山本博文氏、「名誉欲」が治まらない殿様たち) |
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2022年10月4日(火) |
台の物 |
寛政の改革を断行した老中松平定信(1759~1829)は、賄賂(わいろ)・音信(いんしん)などを嫌った。
そうしたなかある大名が、九月十三夜(八月の十五夜についで月が美しいとされる夜)に金百両(1両=10万円とすれば、現在の貨幣価値で約1000万円)ばかりで台の物(大きな台にのせた進物)をあつらえ、定信のもとへ贈るよう指示した。
主人の命に対し用人(ようにん。大名家で家政をつかさどった武士)たちは
「台の物を贈っても、越中守殿(定信)は受領いたすまい。」
と忠告したが、大名は
「とりあえずは贈ってみよ。受け取ることがあるやも知れぬ。」
と答えた。
そこで台の物を贈ったところ、案に相違して受納したのである。
それから一、二日過ぎた頃、定信から大名のもとに答礼品が届いた。見ると、金百五十両であつらえた台の物だった。
贈られたものより高価なものを贈り返すことによって、賄賂・音信のたぐいは一切受け取らないという意志を改めて示したのである。
それより、諸方からの定信への進物のたぐいは、一切止んだという。
【参考】
・湯浅明善『天明記2』(写本)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:150-0144。 |
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2022年10月3日(月) |
蚊 |
松平武元(まつだいらたけちか)は篤実の人だった。
宝暦7(1757)年6月、上野において有徳院殿(ゆうとくいんどの。8代将軍吉宗)の七回忌の法事があったときの話である。
9代将軍家重が御成(おなり)になる前、御霊屋(みたまや)に人々が参集した。
夜が明けて、御霊(みたま)の前にそろった人々の姿を見ると、各人の白帷子(しろかたびら)にはところどころ赤いシミがついてる。御霊屋(みたまや)のある場所が山奥で蚊が多かったため、各人が扇子でたたいて蚊をつぶしていたため、蚊の血が染みついたのだった。
そうした中、武元の白帷子だけにはシミがまったくついていなかった。周囲の人々が怪訝(けげん)そうに、
「御手前様(おてまえさま)には蚊取付(とりつき)申さず候(そうろう)や。」
とたずねた。すると武元は、私とて蚊がとりつかないことはないとして、次のように答えた。
「有徳院殿(吉宗)には常憲院殿(じょうけんいんどの。5代将軍綱吉)と御相殿の御霊屋に候(そうら)へば、私は常憲院殿への為(ため)蚊を追申(おいもう)さず。常憲院殿には生類(しょうるい)を御憐(あわれ)ミ給(たま)ひしかバ、神を祭るいますが如(ごと)くすると申(もうす)言葉に習ひ、拙者ハ蚊を殺す事を遠慮仕候(つかまつりそうろう)。」
(吉宗・綱吉両公をともに祭った御霊屋なので、自分は綱吉公を思い蚊を追わないのだ。綱吉公は生前、生類をあわれまれた。神を祭るには神がいまそこにいるかのようにせよとの言葉にならい、私は蚊を殺すのを遠慮しているのだ。)
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 松平右近将監武元」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年9月30日(金) |
お水(2) |
話はおおごとになった。
大奥・数寄屋坊主の双方から報告があり、老中の判断が求められた。こうしたトラブルがあった場合、真実がどうであれ、たいていの老中は大奥の方に軍配をあげて解決をはかってきた。
しかし、日頃から大奥女中たちの仕打ちを知る松平武元(まつだいらたけちか。1714~1779)は、次のように女中たちをたしなめて、和解するように勧めた。
「御水桶に髪の毛の入(いり)し由(よし)、殊(こと)に長き毛ならば女の髪の毛にて候(そうら)ハん。
表(おもて。江戸城の公的な政治の場)には左様の毛はなき筈(はず)なり。殊(こと)に御数寄屋方(おすきやがた)は俗人壱人もなけれバ、髪の毛一筋もなき事眼前(がんぜん)なり。其上(そのうえ)手前(てまえ)の不調法(ぶちょうほう)となる事、大切の御水(おみず)に麁末(そまつ)あるべき様なし。
此事(このこと)御詮議(ごせんぎ)を厳敷(きびしく)いたし候(そうら)ハバ、先(まず)差当(さしあた)り髪の毛の長き女中方へ急度(きっと)御詮議をかけ申さず候(そうらい)てハなる間敷候(まじくそうろう)。然(しから)バ多くの人、難儀する方も出来(しゅったい)申(もう)さん。
兎角(とかく)内々にて御済(おすま)しなされべく。」
水桶にとりわけ長い毛が混入していたというのなら、それは女性の髪の毛だろう。
表に勤務する役人たちにそのような長髪の者はいないし、ましてや数寄屋坊主はみな僧形(そうぎょう)なので髪の毛一本もないことは誰の目にも明らか。その上、大切なお水を粗末に扱うなど、自分たちの落ち度となるようなことをするはずがない。
この件の詮議を厳重にしろというならば、まずはさしあたり髪の毛の長い大奥女中方を厳しく詮議せねばなるまい。そうなると、困る方が大勢出てくるのではないか。とにかく、内々でお済ましなされよ。
騒ぎ立てていた女中たちは赤面した。話はそれきりになった。
それ以来、水桶には錠をおろさず、坊主衆・大奥女中双方立ち会いの上でお水を改めてから大奥へ廻すようになった。松平武元のはからいであった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 松平右近将監武元」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
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2022年9月29日(木) |
お水(1) |
毎朝、大奥の御遣水御用(おやりみずごよう)は数寄屋坊主(すきやぼうず。幕府で茶礼・茶器を司った小吏)が水桶に入れて、大奥の女中に渡すことが慣例となっていた。
ところが女中のなかに坊主衆と仲の悪い者たちがいた。彼女たちは日頃から坊主衆に対し、たちの悪い迷惑行為を繰り返していた。
そんなある日のこと、大奥の女中たちが水当番の数寄屋坊主を呼びつけ、次のような難癖をつけた。
「御水桶の中に長き髪の毛入(いり)てあり。近頃(ちかごろ)不吟味(ふぎんみ)千万(せんばん)なり。御前(ごぜん)の御上(おあが)り水にて候所(そうろうところ)、不調法(ぶちょうほう)至極(しごく)。急度(きっと)老中方へ申上候(もうしあげそうろう)。」
水桶の中に長い髪の毛がはいっていた。最近、お水のチェックがいい加減ではないか。貴人が飲まれるお水であるのに不調法にもほどがある。厳重に老中へ苦情を申し入れる、というのだ。
かつてそんな落ち度をしたことはない。お水の吟味には毎回念には念をいれ、その上で水桶にふたをして錠(かぎ)までかけ、大奥に渡しているのだ。万一、髪の毛が混入したとすれば、大奥の方で混入したのではないか。
水当番がそう反論すると、女中たちが騒ぎ始めた。自分の落ち度を大奥になすりつけるなど何といやしい心根であることか、と。
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2022年9月28日(水) |
乱心(3) |
一方、被害者の細川越中守宗孝。
殺害された原因が、乱心者の思い違いにあったとするなら、とんだ災難であった。しかも細川越中守はいまだ若く、跡継ぎを指名していなかったため、肥後熊本藩は突如として改易(かいえき。領地を没収して家を取り潰すこと)の危機に見舞われることになった。
細川の死去したのは、公式には事件翌日の16日ということになっている。しかし実際は事件当日、江戸城内ですでに事切れていたという。そこで細川家では、越中守はいまだ存命であると偽り、帰宅後弟紀雄(のりお)を末期養子(まつごようし)に立て、翌日に越中守死去と幕府に報告して改易の危機を脱したといわれている。
実際は、幕府の方で、細川忠興以来の名家の存続をはかろうと配慮したのだという。『近代公実厳秘録』によれば、老中が細川越中守死亡を報告したにもかかわらず、大御所(吉宗)は聞こえなかった振りをし、越中守がさも生存しているかのような対応をとらせたとされる(1)。
『寛政重修諸家譜』(「細川宗孝」の項)によれば、大御所(吉宗)は医師たちを派遣して越中守を診察させ、高価な朝鮮人参等を下賜し、越中守主従を平川口から退出させる際にも「途中の警固薬物の恩賜最厚」くこれを遇した。そして、細川の親族織田山城守邸に使者を派遣すると、
「相手勝該(板垣)すでに捕へをかるるうへは、宗孝(細川)が家のためをおもはば、家臣等穏便にしずまりをるべき」
という老中の意向を伝えさせ、家臣たちの軽挙妄動を戒めたという(2)。
大名の改易数が集中する時期は、いわゆる「武断政治」がおこなわれた江戸初期であり、幕藩体制が安定期(特に6代将軍家宣以降)にはいると改易処分となる大名数は激減する(3)。板倉修理の刃傷事件が起きた時期には、よほどのことがなければ、幕府が積極的に大名を改易に処することなどなかったのである。
さて、事件の加害者が板垣修理であると判明すると、板垣身寄りの老中たちは恐れ入ってみな退出してしまった。板倉には幕閣に縁者が多かったため、残ったのは堀田相模守正亮(ほったさがみのかみまさすけ。1712~1761)と御用番のみだったという。
堀田は次のように大御所(吉宗)に上申した。
「越中守国元へ御暇(おひま)下され候節(そうろうせつ)、弟仮養子(かりようし)に罷成申候(まかりなりもうしそうろう)。右の例にて万一の事も有之候(これありそうら)ハバ其(その)弟に跡式(あとしき) 仰付(おおせつけ)られべく候間(そうろうあいだ)、家督(かとく)の心遣(こころづか)ひなく大切に保養いたし候様(そうろうよう)に上使遣(つか)ハさるべく哉(や)。」
これに対し大御所からは
「其通(そのとおり)に其方(そのほう) 上使(じょうし)勤候様(つとめそうろうよう)」
にとの指示があった(4)。
よって『寛政重修諸家譜』の「細川宗孝」の項には次のようにある。
「老職堀田相模守正亮をして尋(たずね)させ給(たま)ひ、もし危急(ききゅう)にをよぶとも、さきに弟紀雄(のりお。細川重賢)をして仮の養子と定めをく上は、遺領の事今さら請申(うけもうす)に及ばず、心安く保養を加ふべきむね恩命をかうぶる。十六日卒(しゅっ)す。年三十二。」(5)
かくして名門細川家は、無事に御家存続を果たしたのである。
【注】
(1)『近代公実厳秘録』は馬場文耕による実録本であり、記述の信頼性は低い。『近代公実厳秘録・2』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211ー0002、39コマには次のようにある。
「細川越中守事(こと)、既(すで)に板倉修理に切殺(きりころ)され申候(もうしそうろう)と申上(もうしあげ)けれバ、大御所様(おおごしょさま)以(もって)の外(ほか)愁(うれい)させ給(たま)ひ、
『痛敷(いたましき)次第なり。修理事乱心の儀、何共(なんとも)詮方(せんかた)無之(これなき)事也(ことなり)。乍去(さりながら)越中守いまだ手疵(てきず)ハ重くとも死(しに)ハせまじ。手負(ておい)ハ殊(こと)の外(ほか)かわく物也(ものなり)。送師に命じてよくよく保養させ、且(かつ)湯漬(ゆづけ)を進むべし。』
と被仰付(おおせつけられ)けれバ、御老中方
『最早(もはや)とふに事切候(こときれそうろう)。』
と言上(ごんじょう)す。大御所様(おおごしょさま)其段(そのだん)ハ御聞被遊(おききあそばれ)ぬ御体(おんてい)に
『湯漬を申付(もうしつけ)て早々(そうそう)参(まい)らすべし。』
との御意(ぎょい)也(なり)。」
なお『近代公実厳秘録』に主として依拠し、当該事件を取り上げた小説に芥川龍之介『忠義』(青空文庫で閲覧可能)がある。
(2)『寛政重脩諸家譜・第1輯』1922年、國民圖書、P.626
(3)竹内誠監修・市川寛明編『一目でわかる江戸時代』2004年、小学館、P.104~105
(4)内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 堀田相模守正亮」の項による(『せめてハ草』を引用)。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
(5)『寛政重脩諸家譜・第1輯』前出、P.626 |
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2022年9月27日(火) |
乱心(2) |
板倉修理が細川越中守への刃傷は、『窓のすさみ』によれば板倉の思い違いに起因する突発的な事件だった。あるいは幻覚を見たのかも知れない。
これに対し、板倉は個人的な恨みのある人物の殺害を企て、紋所が似通った細川越中守を誤って襲撃してしまったとする説、細川家に恨みがあり最初から細川越中守をねらったとする説がある。いづれにせよその真相は不明である。
さて延享4(1747)年8月23日、板倉修理が切腹を命じられた。しかし、板垣は茫然自失のままだったという。『窓のすさみ』が伝える板垣切腹の経緯は、以下のようなものであった。
板倉修理に切腹の上意を伝えるため、大目付をはじめとする諸役人が水野監物邸に到着した。しかし、板倉はまったく気づかない。なだめすかし、やっとのことで対面の場に連れ出した。大目付が切腹を命じる上意を読みあげるが、板倉は茫然としたまま。切腹するよう再三うながしても反応がなく、しばらくしても短刀をとらない。
その時、板垣が姿勢を変え少しうつむきかげんになった。その瞬間を狙って、介錯人(かいしゃくにん)が刀をふりおろしたのである。板倉の首を手にとって検使の役人に見せると、「手際(てぎわ)なり」との賞詞があったという(1)。
こうして旗本板倉家は、「修理勝該がとき狂気して家た」(2)えたのであった。
【注】
(1)『窓のすさみ』前出、10~11コマ。
(2)『寛政重脩諸家譜・第1輯』前出、P.470。 |
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2022年9月26日(月) |
乱心(1) |
延享4(1747)年8月15日、江戸城月例参賀の当日、旗本の板垣修理勝該(いたくらしゅりかつかね。?~1747)が乱心し、肥後熊本藩主細川越中守宗孝(ほそかわえっちゅうのかみむねたか。1716~1747)に刃傷(にんじょう)に及ぶという事件が起こった。『窓のすさみ』によると、事件のあらましは次の通りである(1)。
15日の朝五つ時(午前7~9時頃)過ぎ、江戸城大広間の御縁で倒れている負傷者が発見された。御徒歩目付(おかちめつけ)が現場に赴くが、流血で顔・総身ともに判別がつかぬ。被害者に素性をたずね「細川越中守」と確認された。
付近を探索すると、小便所の廊下に抜き身の脇差が捨ててあった。奥雪隠(おくせっちん)に誰か潜んでいる気配があったので、誰何(すいか)すると「板倉修理」と声がした。男は次のように答えた。
「誰共(だれとも)しらず、脇差抜(ぬき)し様に見へしゆへ抜合(ぬきあわ)せたりしが、其後(そのご)のことは一向覚(おぼ)へず。されども人に疵付(きずつけ)立難(たちがた)きことゆへ、鋏(はさみ)にてたぶさを切(きり)、此所(ここ)に隠れ居し也。脇差もそれゆへすて置きたり。」
(誰かはわからないが、脇差を抜いたように見えた。そこで、自分も脇差を抜き合わせたが、その後のことはまるで記憶にない。しかし人を負傷させてこのまま無事では済まないので、はさみで髻(もとどり)を切ってここに隠れていた。脇差もだから捨てたのだ。)
乱心と見えたので、とりあえずその男を一間に押し込めた。
越中守の傷は、首筋に横7寸程(約20cm)、左肩6・7寸ばかり、右肩5寸程、左右の手4・5カ所、鼻の上・耳脇・頭に小さな傷2・3カ所。そして背中を右の脇まで筋違いに1尺4・5寸(約45cm)ほどにわたって斬られていた。
公的には、細川越中守は負傷がもとで翌16日死去(享年32歳)(2)。板倉修理は乱心していたが、被害者が死去したため、8月23日、預かり先の水野監物忠辰(みずのけんもつただとき)の屋敷において切腹を命じられた(3)。
【注】
(1)室鳩巣『窓のすさみ・2』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:211ー0011、9~11コマ。
(2)『寛政重脩諸家譜・第1輯』1922年、國民圖書、P.626の「細川宗孝」の項。
(3)『寛政重脩諸家譜・第1輯』1922年、國民圖書、P.471の「板倉勝該」の項には次のようにある。
「八月十五日殿中にをいて狂気し、大広間北の落縁にして白刃をふるひ、細川越中守宗孝にきずつけしにより、水野監物忠辰にめしあづけられ、二十三日かの邸宅にをいて死をたまふ。これ狂気とはいひながら、宗孝かのきずによりて卒(しゅっ)するがゆへなり。」 |
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2022年9月24日(土) |
老中たちはなぜ急ぐ |
従者を引き連れた大名の江戸登城といえば、のんびりしたイメージがある。しかし老中たちには、急用のないふだんの時であっても、急いで登城するという習わしがあった。
これを不審に思った土岐丹後守(ときたんごのかみ)(1)は、ある時土圭(とけい)の間(老中・若年寄の部屋に接し時計が置かれた部屋)で同僚の松平伊豆守(2)にたずねてみた。
「老中たちは江戸城往来の際、乗物をことのほか急がせる。これはなぜなのか。」
これに対する伊豆守の答え。
「不意に願人どもが駕籠訴(かごそ)に及ぶことがあれば面倒なことになる。だから、それを嫌って老中たちは乗物を急がせるのだ。」
この答えに対し土岐は反発した。
「願人がいればその善悪にかかわらず、訴えを聴くのがわれわれ老中の役目ではないか。そんな理由なら駕籠訴ができるように、今後拙者の駕籠は急がせまい。」
しかし老中が駕籠を急がせるのは、そんな理由からではないという。松平右近将監(まつだいらうこんのしょうげん)(3)によれば、そこには意外な理由があった。
「老中が乗物を急がせるには理由がある。
ふだん、御用のない時にも急いでいれば、急な御用があった際に急いでいても目立たない。
しかし、急御用があった時にだけ老中が急げば非常に目立つ。これでは、事がほかに漏洩してしまうおそれがある。
だから、老中はふだんであっても駕籠を急がせているのだ。」(4)
【注】
(1)土岐頼稔(ときよりとし。1695~1744)。老中在職は1742~1744。
(2)松平信祝(まつだいらのぶとき。1683~1744)。老中在職は1730~1744。
(3)松平武元(まつだいらたけちか。1714~1799)。松平武元の老中就任(在職1747~1779)は土岐頼稔の没後。もし本文中の発言が土岐生前の同僚老中のものであるなら、「右」近将監(松平武元)は「左」近将監(松平乗邑。老中在職1723~1745)の誤り。
(4)以上内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 土岐丹後守頼稔」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年9月19日(月) |
今日は敬老の日 |
今朝の新聞を見ると、65歳以上の高齢者人口が前年より6万人増えて3627万人となり、総人口に占める高齢者の割合が29.1%になった。高齢者人口・高齢化率ともに過去最高を更新したことになる。
とくに目をひいたのは、働く高齢者が増えたという事実だ。高齢人口に占める就業者の割合は21.5%で、これを65~69歳に限ると割合は50.3%となり、初めて5割を超えたという(1)。
「生涯現役」といえば聞こえはいいが、年金が年々減額される中この異常な物価高。「超」のつく節約をしても暮らしが困難。なかなか楽隠居させてもらえぬ世の中になったということか。
そういえば、江戸時代の幕臣たちはご先祖様の武功のおかげで、働こうが働かなかろうが収入は確保されていた。役職につけば加増もあった。ある意味、気楽だったといえる。
ただし、幕臣は死ぬまで将軍にご奉公するのが建前だった。そのため、現職中に高齢で亡くなる人も多かった。
また年をとると、加齢にともなう身体の不調・気力の衰えはどうしても避けられない。そこで70歳を超えると、「老衰御褒美(ろうすいごほうび)」なるものを下賜され、引退することが許されたという。
国立公文書館のホームページには、老衰御褒美を下賜された実例があげられている。それによると、寛政2(1790)年に御褒美を下された河合武左衛門(かわいぶざえもん。御附人(おつきびと)・田安賄頭(まかないがしら)台所頭(だいどころがしら)兼)は、当時何と90歳だった。70年以上の勤務を評価されて定例の倍額である「銀十枚」が下賜されたという(2)。
「お年寄りは国の宝」とうそぶきながら、現在の労働環境は江戸時代に回帰しているのかも知れない。
【注】
(1)朝日新聞(朝刊)、2022年9月19日付け1面。
(2)国立公文書館ホームページ「旗本御家人Ⅱ」の「17 老衰御褒美之留」の解説による。
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2022年9月16日(金) |
長寿 |
松平輝貞(まつだいらてるさだ。1665~1747)は、5代にわたる将軍に仕えた。延享2(1745)年に80歳になった輝貞は、さすがに退隠の願いを幕府に提出した。吉宗は輝貞を御前によび、
「その方の長寿といっさいの幸いを、息子の家重に引き継がせたい。その方の腰の物(大刀・小刀)を家重に献上するように。」
との上意を伝えた。
「人生五十年」という。事実、江戸時代の大名の平均寿命は50歳前後であったというから(1)、長寿のうえ80歳まで現役だった輝貞の例は珍しい。
輝貞が隠居すると、嫡子の輝規(まつだいらてるのり。1682~1756。松平信定の子で、1715年に従兄輝貞の養子となった)が家督を相続した。この時、輝規はすでに64歳に達していた(2)。ふつうなら引退する年齢だ(事実、輝規は2年後に致仕)。吉宗は輝規を御前によぶと
「故伊豆守(曾祖父信綱)の旧功と右京大夫(養父輝貞)の功績にかんがみ、その方を四位に叙任する。」
との上意を伝えた。
四位は従四位下(じゅしいのげ)のことである。一般大名の位階はふつう従五位下であり、30年を超えて藩主の座にあった場合に特典として従四位下にあがる。これを「四品(しほん)」といい、当時たいへんな名誉とされた(3)。
家督相続して藩主になったばかりの輝規だったが、その年齢と輝貞らの功績とを勘案して、長年藩主をつとめなければ得られない特典を授与したのだ。
吉宗の粋なはからいだった(4)。
【注】
(1)『寛政重修諸家譜』に基づく全404名のデータによると、大名の死亡平均年齢は49.1歳という(竹内誠監修・市川寛明編『一目でわかる江戸時代』2004年、小学館、P.35による)。
(2)『一目でわかる江戸時代』(前出)P.35によると、大名の家督年齢は20~29歳時が404名中106名(26.2%)ともっとも多く、60歳以上で家督相続した者はわずか2名(0.5%)しかいない。
(3)山本博文『江戸の組織人』2008年、新潮文庫、P.35
(4) 以上内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 松平右京大夫輝貞」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年9月15日(木) |
偏屈者 |
松平輝貞(まつだいらてるさだ。1665~1747)は偏屈者として知られた。
5代将軍綱吉に小性時代から仕えた輝貞は、その後側用人として重用され、総計7万2千石を安堵された。そのため綱吉の恩義を深く胸に刻み、将軍が代替わりしても綱吉時代の風儀を彼ひとりかたくなに守り続けた。
たとえば生類憐(しょうるいあわれ)みの令は、綱吉が死に臨んでもその存続を強く望んだ法令だった。しかし、綱吉が死去するやすぐさま廃止された。ただ輝貞のみは相変わらず魚鳥類を食べず、屋敷内にも入れようとしなかった。
6代・7代将軍時代の輝貞は不遇だった。綱吉側近は排除されたからである。輝貞は側用人を解任され、上野国(現、群馬県)高崎藩から越後国(現、新潟県)村上へ転封(てんぽう)になった。左遷である。
そんななか、時流に乗ってうまく立ち回る者もいた。たとえば黒田直邦(くろだなおくに。1667~1735)は、綱吉によって旗本から大名に取り立てられた武士だったが、新将軍のもとで老中にまで出世した。輝貞は黒田を、恩知らずの「腰抜け武士」と罵った。
輝貞の偏屈は、綱吉への忠義心が強いがゆえであった。
8代将軍となった吉宗はその心根を不憫に思い、輝貞を老中格(老中の定員外にあって、老中の資格で政務にたずさわる者)に任命した。ただし、加判(公文書に花押を加える)・月番(1カ月交代で役を勤める)を免じ、出仕も勝手次第としたのである。
【参考】
・以上内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 松平右京大夫輝貞」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年9月14日(水) |
能吏 |
老中首座の松平乗邑(まつだいらのりさと。1686~1746)は能吏であった。
名町奉行として才知を世に知られた大岡忠相(おおおかただすけ。1677~1751)でさえ、常々同僚には
「松平左近将監(まつだいらさこんのしょうげん。乗邑)計(ばかり)ハ其(その)才智(さいち)の敏捷(びんしょう)なる事、梯(はしご)しても及(およぶ)べからず。」
(松平乗邑の頭の回転の速さときたら、梯子にのぼったとしてもとうてい及ぶものではない。)
と語っていたという。
また乗邑は、上司として人を扱う術(すべ)にも長けていた。これまた能吏として知られた勘定奉行神尾春央(かんおはるひで。1687~1753)は、
「左近将監ほど人をよく使ふ人ハなし。あの如(ごと)く使ハれてハ、誰にても働らかねばならぬ。」
(松平乗邑ほど人使いがうまい者はいない。あのように扱われては、誰しも働かざるをえない。)
と評している。それは、神尾には次のような経験があったからだ。
ある時、神尾は病気が癒えぬまま登城したことがあった。乗邑から「病は全快したのか」と尋ねられると、「いまだ全快しておりませんが、仕事に差し支えがあると思い、押して出勤しました」と答えてしまった。乗邑は真顔になると、
「其許(そこもと)出勤せずとて、御用の差支(さしつかえ)ハあるべしや。」
と言い放った。お前ひとり出勤せずとも組織の運営に何ら支障はない、うぬぼれるな、というのだ。失言を悔いた神尾は退散するしかなかった。
神尾が帰宅すると、乗邑からの使者が小さな重箱と書状を届けにきた。書状には次のようにあった。
「病後、食気も未だ薄かるべし。此品(このしな)、調理ほぼよく覚(おぼ)へたれば分(わか)ち進ず。」
(病後は食欲もあまりないでしょう。この料理は、あなた向けにほどよい調理となっていると存じますので、おすそわけいたします。)
小さな重箱を開くと、調理した鱚(きす)が入っていたという。
【参考】
・以上内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 松平左近将監乗邑」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年9月10日(土) |
松平乗邑の高笑い(2) |
将軍でさえ、乗邑には憚(はばか)るところがあった。吉宗が御用取次衆に
「この事、かの左近(松平乗邑。左近将監(さこんのしょうげん)だった)承知するかすまじきか、先(まず)試(こころみ)に申(もうし)てみるべし。」
(この案件を、あの乗邑が承知するかしないか、まずはためしに聞いてこい。)
と命じたことがあった。そこで御用部屋に行ってその事を伺うと
「御無用、然(しか)るべし。」(不承知である。)
と答えることが時々あった。戻ってその事を伝えると吉宗は
「そりや見た事か。それならよしにせよ。」(それ見たことか。乗邑が不承知ならやめにせよ。)
と言ったという。松浦静山は
「これ、わざと老臣の威権(権威)を加(くわえ)らるる御深慮(ごしんりょ)なるべし。誠に君徳の大なる事、百載(ひゃくさい。百年)の後に聞きて仰感(ぎょうかん)に堪(た)へず。」
と評している。静山は、こうした吉宗の言動は老臣の権威を高めるための政治的な配慮であろうと推測し、名君として吉宗をべた褒めしているのだ(『甲子夜話』)。
【参考】
・以上内山温恭編『流芳録』巻之五、「御老中 松平左近将監乗邑」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年9月9日(金) |
松平乗邑の高笑い(1) |
8代将軍吉宗を支えた老臣のひとり、松平乗邑(まつだいらのりさと。1686~1746)は剛毅な性格で知られた。
あるとき、御用部屋(老中や若年寄などの執務室)で乗邑が書き物をしていた。そこへ将軍の居室と御用部屋との間の連絡役、御用取次衆(ごようとりつぎしゅう)が
「御用(ごよう)の事(こと)候(そうろう)。参(まい)らるべし。」(上様からのご用務がございますので、おいで下さい。)
と伝えにきたところ、乗邑は返事もせずに書き物を続けている。そこで再度催促すると、
「我等(われら)も御用にて認物(したためもの)を為(し)て居(おり)候。」(わしも上様からのご用務で書き物をしておるのだ。)
と威圧されたという。こんな有様だったので、御用取次衆たちは乗邑に対しては戦々恐々として、常にその顔色をうかがっていた。
乗邑には、機嫌がよいと高笑いする癖があった。そこで、乗邑に用務を伝える御用取次衆は、まずは御用部屋の入口で茶坊主をつかまえ、
「例の笑(わらい)は出(いで)候(そうろう)や。」(乗邑殿に、いつもの笑い声は出たか。)
と尋ねるの常だった。茶坊主が
「例の如(ごと)く高笑(たかわらい)出候(いでそうろう)。」(いつものように、高笑いをされました。)
と言えばすぐさま御用部屋に入り、乗邑に用件を伝える。しかし、
「今朝(けさ)ハ未(いま)だ笑出申(わらいだしもう)さず。」(今朝はまだ、笑い声がありません。)
と聞けば御用部屋には入らず、そのまま戻ってしまったという。 |
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2022年9月7日(水) |
800年間 |
イベリア半島の南東端に突き出した小半島にあるジブラルタルと、アフリカ大陸のモロッコにあるセウタとの間にジブラルタル海峡はある。ヨーロッパ地中海から外洋に抜けるためには、かならずここを通らなければならない。ゆえに古くから海上交通の要衝だった。
ジブラルタルの地名は、アラビア語のジャバル・ターリク(「ターリクの山」の意。イベリア半島の大半は岩山)が転訛(てんか)したものという。ターリクとは711年、アフリカからこの海峡をわたってイベリア半島に攻め込み、当地にあったゲルマン人の王国(西ゴート王国)を滅ぼしたイスラーム将軍の名前である。
西ゴート王国をイスラーム勢力(ウマイヤ朝)が滅ぼした事実は、高校世界史の授業で学ぶ。そしてその後イスラーム勢力が、約800年間(711~1492)にわたってイベリア半島を支配することも。この間「キリスト教徒は地中海に板切れ1枚浮かべることができなかった」といわれた。
ところで800年間というのは、考えてみると、とてつもなく長い時間だ。
イベリア半島がイスラームの支配下にあった時期は、わが国ではちょうど平城京遷都(710)から応仁の乱が終わったころ(1477)の時期に相当する。奈良・平安・鎌倉・室町と4つの時代にわたるほどの長さなのだ。
また現在(2022年)から800年間さかのぼるならば、鎌倉時代の初め、承久の乱(1221)あたりに行き着く。
日本史は、世界史の厚みには負ける。 |
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2022年9月6日(火) |
小早川秀秋はためらわない |
天下分け目の関ヶ原の戦い(1600)。
家康軍(東軍)への寝返りの密約をかわしながら、その場に臨んでためらい、なかなか西軍を裏切ろうとしない小早川秀秋(1582~1602)。業を煮やした家康は、部下に命じて小早川軍に向かって鉄砲を打ち込ませた。家康の怒りにあわてふためいた秀秋はついに意を決し、同じ西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ)軍へとなだれ込んだため、西軍は総崩れになった…。
映画やドラマなどでは、以上のように描かれることが多い。
しかし、『武徳大成記』(1686年成立。林鳳岡らによる)は次のように記す。
「神君(家康)、奥平藤兵衛貞治(おくだいらとうべえさだはる)ヲ松尾山(まつおやま。秀秋軍)ニ遣(つかわ)シ、秀秋ガ軍(いくさ)ヲ発セン事ヲ催(もよお)ス。秀秋畏(かしこま)リヲ申ス。( 中略 ) 秀秋、一萬餘騎(いちまんよき)ヲ率(ひきい)テ大谷吉継(おおたによしつぐ)ガ陣ニ向(むか)フ。」
『武徳大成記』には、家康が小早川軍に鉄砲を打ち込ませて寝返りを督促した記述はない。家臣の奥平貞治を小早川軍に遣わし、進軍を催促しただけのことになっている。しかも家康の催促をすんなり了解した秀秋は、ただちに1万騎を率いて大谷軍に向かった、と書いてある。
案に相違して、小早川秀秋は何らためらうことなく西軍を裏切っているのだ。
「小早川軍に鉄砲を打ちかけた」とする記述があるのは、たとえば『大三川志(だいみかわし)』(松平頼寛著)だ。ただし「鉄砲(空砲)を打ちかけても秀秋は動かなかった」と書いてある。秀秋は、家康側から打ちかけられた鉄砲をきっかけに、あわてて東軍に寝返ったわけではないのだ。
「火砲(かほう)二十挺(ちょう)、松尾山ニ向(むか)フテ釣瓶(つるべ)ニ放ツ(秀秋軍に向かって鉄砲の打ち手が並んで立て続けに打った)。然(しか)レドモ、秀秋敢(あえ)テ動カズ。 ( 中略 )
(秀秋がいまだ寝返りしないことにあせった黒田長政の臣大久保猪之助が、秀秋の老臣平岡重定に詰め寄った際、平岡の言葉)
『万事我ガ心ニアリ。兵ヲ進ムル軍機(ぐんき)ハ我ニ任サルベシ。必(かならず)心ヲ悩(なやま)サルコトアル可(べか)ラス。』(すべてはわが心のうちにある。いつ進軍するかは私に任されよ。ご心配なさるな。) ( 中略 )
奥平藤兵衛貞治モ秀秋ニ告(つげ)テ、
『戦(たたか)ヒ已(すで)ニ然(しか)ルベシ。盟約(めいやく。寝返りの密約)ノ事、如何(いかが)。』
秀秋、許諾(きょだく)ス。」
どちらの書物も後世に書かれたものだ。しかも徳川方が残した史料なので信憑性は今ひとつ。しかし両史料をみる限りにおいては、秀秋が西軍を裏切ることに逡巡していたとする件(くだり)はない。鉄砲を打ち込まれようが打ち込まれまいが、秀秋はためらわず、東軍へ寝返っているのだ。
これらの記述を信用するならば、当初から秀秋は裏切りの好機をうかがい、家康との密約を忠実に実行しただけだったことになる。
【参考】
・国立公文書館ホームページの『武徳大成記』『大三川志』の解説を参考にした。
・林鳳岡等『武徳大成記』第19巻、1686年成立、国立公文書館所蔵、請求番号:150-0009
・松平頼寛『大三川志』第54巻、1700年代後半成立、国立公文書館所蔵、請求番号:特03-0002 |
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2022年9月3日(土) |
古新聞紙の使いみち |
インターネット上では、無料の情報提供が当たり前となっている。そうしたなか、新聞各社の経営がピンチという。新聞の売り上げ部数が年々減少し、赤字が常態化しているというのだ。
ちなみに、2022年現在の年齢別新聞購読者の割合を見るに、購読者のほとんどは60代以上が占め、40代まで下ると購読者はわずか1割になってしまう(1)。このように新聞購読者が減少してきたため、古新聞紙のない家庭が当たり前になってきた。
しかし、古新聞紙の使いみちは意外に多い。
たとえば、荷造り用の緩衝材や梱包材として、小動物のペット(小鳥やハムスターなど)の巣材として、料理の際に出る廃油の処理用として、古新聞紙はさまざまに活用される。
こうした需要があるためか、思わぬ事態が起こっている。
ホームセンターに行くと、なんと古新聞紙が売られているのだ。しかも美麗な古新聞紙ほど値段が高い。そして、無地(活字が印刷されていない)の新聞用紙までもが売られているのだ。
そこで古新聞紙の使いみちに関して、思い出したことがひとつ。
鹿鳴館時代、夜会において女性踊り子が足りなかったため、高等師範学校の女子学生がかりだされた。しかし、イブニングドレスがない。彼女たちはやむなく、寄宿舎のカーテンをはずしてドレスは作った。しかし、今度はドレスをふくらませるペチコートが手には入らない。そこで新聞紙をつぎあわせ、ペチコート代わりにスカートの下に着込むことにした。
お茶の水の寮を出る頃には、新聞紙がゴワゴワと音を立てていた。それが日比谷の鹿鳴館に着く頃にはすっかりこなれて、静かになっていたという(2)。
かつての文明開化の達成には、古新聞紙も一役買っていた。
【注】
(1)「ビジネス ジャーナル」2022年5月5日付けのインターネット記事「新聞業界、衰退を招いた怠慢…40代の購読者は1割、大判は明治時代から変わらず」(あかいあおい氏)による。2022年9月2日閲覧。
(2)近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』1983年、講談社文庫、P.142~144 |
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2022年8月31日(水) |
中身を取り違える |
小田原侍従忠朝(おだわらじじゅうただとも)が老中だった時の話という(1)。
ある大名の使者が、国元からの封書を忠朝のもとに届けた。ところが使者が藩邸に戻ると、忠朝から再度来訪するようにとの知らせが来た。
そこで使者は、あわてて忠朝のもとに参上した。使者は一室に通され、そこに忠朝が直々にあらわれた。
忠朝は、先ほどの封書を取り出し、
「是(これ)見られよ」
と封を開いてその書を示した。それを見た使者は、驚きのあまり言葉を失った。
中に入っていたのは、書き損じの反故紙(ほごし)だったのである。
清書した書状ではなく、誤って下書きの方を入れて封じてしまったのだ。忠朝は言った。
「取違(とりちがえ)てかかる事も有(ある)まじき事ならず。此義(このぎ)沙汰(さた)有(あり)てハその役々の者の為(ため)重き事なり。何方(いずかた)にも判紙(はんし)と言(いう)もの有(ある)ものなり。書改(かきあらため)て候(そうろう)かし。か方(なた)迄(まで)こざるべし。あなかしこ、帰りても此事(このこと)深くかくし申されよ。」
(取り違えてしまい、このようなこともないわけではない。この件を国元に知らせては、担当者たちにとって容易ならざる事態となる。どこにでも清書用の紙はあるもの。書き直されよ。そしてこの件は国元には知らせず、ゆめゆめ帰国後も深く秘密になされよ。)
使者は忠朝の配慮に感涙を流した。そして書き改めた書状を提出し直したのである。
忠朝から他言無用と釘を刺された使者だったが、さすがに自分の胸のなかにしまっておくわけにはいかない。ひそかにこの件を、出府してきた主君の耳に入れた。
主君は江戸城登城の機会をとらえ、ひそかに忠朝に謝意を告げようとした。すると忠朝は
「いなとよ、そこに御聞(おきき)有(ある)ことには無之候(これなくそうろう)。」
(いいえ。貴殿がお聞きになったようなことはございませんでした。)
とだけ答えたという(2)。
【注】
(1)大久保加賀守忠朝(おおくぼかがのかみただとも)のこと。大久保が老中に就任したのは延宝5(1677)年7月25日。大久保は延宝8(1680)年8月18日侍従に任ぜられ、貞享3(1686)年正月21日に小田原城主となった。
(2)以上内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 大久保加賀守忠朝」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年8月30日(火) |
あ~あ、緊張した |
5代将軍綱吉は学問を好んだ。家臣たちを前に自ら経書(けいしょ。儒教の経典で四書五経の類)を講義するばかりか、貞享の頃(1684~1688)からは重臣たちに対しても将軍の御前で講義するように命じた。
ある時、老中の大久保忠朝(おおくぼただとも。1632~1712)が最初に講義し、次に阿部正武(あべまさたけ。1649~1704)が講義をするよう担当を割り振られた。
正武は忠朝より17歳も年少だった。しかし、御前講義を仰せつかったことが嬉しく、いさんで講席に臨んだ。正武は武家諸法度(天和令)作成を担当し、『武徳大成記(ぶとくたいせいき。松平氏から徳川家康の事跡を記した歴史書)』を監修するなど、根っからの学問好きだったのだ。
そうそうたる重臣たちが列座するなか講義を終えた正武は、差し障りのない文談(文学・文章などに関する談話)などして綱吉の御前を退くと、同僚たちに講義の感想を聞いて回った。
そんななか、講義を先に終えた忠朝だけは大汗をかいていた。汗をぬぐい扇子を使いながら、忠朝は次のように言った。
「今日の講釈、我身(わがみ)につミて存ずるゆへ、嘸(さぞ)や豊州(ぶしゅう。阿部正武は豊後守だった)難義にあるべし。若(もし)又(また)理(ことわり)の違ひやあると手を握り、言い損じもなく、首尾の能(よき)やうにとのミ存(ぞんず)る外(ほか)ハなかりし。」
(わが身にひきくらべて拝察するに、本日の御前講義にさぞや阿部殿も難儀されたことでしょう。もしや道理に誤りがあるのではないかと緊張でこぶしを握り、ただただ言い間違いなく無事に講義が終わるようにと願うばかりでした。)
忠朝は「生得(しょうとく。生まれつき)律儀(実直)第一の人」と評された人物だ。
忠朝は、大過なく御前講義を終えるようにとのみ願い、緊張のあまり大汗をかいていた。そして正武も、さぞかし自分と同じように難儀しているだろう、と同情していたのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 大久保加賀守忠朝」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。 |
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2022年8月22日(月) |
稲葉紀通の「謀反」(3) |
一連の稲葉紀通の「謀反」事件は、福知山騒動または稲葉騒動と呼ばれる。「稲葉の自殺によって福知山藩稲葉家も改易となった」と言われるが、直ちに改易となったわけではない。
稲葉紀通には三人の男子がいた。
しかし寛永18(1641)年に長男の竹松は4歳、次男岩松も2歳でともに夭折(ようせつ)。残る三男大助は、当時生まれたばかりの赤ん坊だった。大助はいったん稲葉美濃守正則(いなばみののかみまさのり)のもとに預かりとなったものの、稲葉紀通の「謀反」が冤罪(えんざい)なのは明らかだったので、慶安2(1649)年に父の資財の相続を許されたという。しかしその2年後、大助は疱瘡(ほうそう)に罹患(りかん)して4歳でこれまた夭折してしまった。
こうして紀通の血筋は断絶したのである。
『藩翰譜』は
「紀通が謀反、跡方(あとかた)もなき空言(そらごと)なりけるに、忽(たちま)ちにかく亡(ほろ)びしこそ哀(あわ)れなり」
と記す。
真相は実際のところわからない。しかし、少なくとも稲葉紀通に謀反の企てはなかっただろう。
ただし稲葉の「乱気(乱心)」の内容については諸説ある。
人々の耳目をひく事件というものは、伝聞されるうちとかく話が大きくなりがちだ。 |
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2022年8月21日(日) |
稲葉紀通の「謀反」(2) |
『藩翰譜』には「或人(あるひと)」の話として、稲葉紀通が自害に至った経緯を次のように書き記している。
稲葉に処罰された家来が二人いた。その一族がこれを逆恨みし、稲葉が福知山城を補修したことを
「謀反の企(くわだて)あるが故(ゆえ)に、かくは要害(ようがい)を専(もっぱ)らにしける」
などと根も葉もない噂を流していた。
こうした噂が流れるなか、稲葉は宮津藩の京極丹後守高広(きょうごくたんごのかみたかひろ)のもとに使者を送り、京極領内で産する鰤(ぶり)を給わんことを願った。福知山藩は内陸にあったため、海産物がとれなかったのである。
京極は「稲葉はわが領の鰤(ぶり)を、政府要人に贈る賄賂(わいろ)にするつもりだな」と邪推した。怒りっぽい性格だった京極は、鰤百匹の頭をすべて切り落とした上で稲葉のもとへ送りつけた。頭のない魚など贈答用にはできない。
京極の非礼に腹を立てた稲葉は、恨みを晴らす機会をうかがっていた。たまたま京極の飛脚が領内を通過しようとしたので、櫓(やぐら)の上から鉄砲を放った。しかし弾は逸れ、他国の飛脚にあたってしまったという。
ただでさえ稲葉淡路守謀反の噂が取りざたされるなか、話には尾鰭がついていった。大坂に滞在する阿部重次のもとへ稲葉が弁明に向かうとした頃には、事態は収拾できないほどの大騒ぎになっていたのである。
「かくて紀通、大坂に行き向て申披(もうしひら)かんとせし時に、寄手(よせて。追討軍)既(すで)に近づきぬと、国中乱れ騒(さわ)ぎし程(ほど)に、
『此上(このうえ)は力なし。我(われ)今(いま)何事(なにごと)を恨(うら)み参(まい)らせて、謀反(むほん)を企(くわだ)つべきや。これ偏(ひとえ)に近国の大名等(だいみょうら)が我が家亡(ほろぼ)さんが為(ため)に、かくは結構(けっこう。もくろむ、計画すること)しけるとこそ覚(おぼ)ゆれ。とても遁(のが)れぬ者ゆゑに、恥(はじ)がましき(恥ずかしい、外聞が悪いの意)死をせんより、自害せんにはしかじ』
とて鉄砲の火薬まき散(ちら)して
『死しなん後に、これに火付けて焼き立てよ』
とて自ら腹切って失(う)せぬ(自ら切腹して死んだ)。火、かの薬に移りしかど希有(けう)にして燃え出(い)でず(火は火薬に燃え移ったが、かろうじて燃え出さなかった)。夫(それ)を自ら鉄砲にて腹うち貫(つらぬ)きて死せしなど、世には言ひしと云々(うんぬん)。」
稲葉紀通の最期は切腹だった。しかし世間では、鉄砲で自分の腹を打って死んだなどと取り沙汰したという。 |
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2022年8月20日(土) |
稲葉紀通の「謀反」(1) |
「稲葉淡路守、福知山にて乱気(らんき。乱心)、家人(けにん。家臣)を大勢あやまち(殺傷し)、城の櫓(やぐら)に登り往還(おうかん)の人を鉄砲にて打殺(うちころ)す。依(よっ)て隣国より早打(はやうち。馬などを走らせて急報する。またその使者)を以(もっ)て江戸へ注進(ちゅうしん)す。」(『君臣言行録』)(1)
慶安元(1648)年8月、丹波福知山城主の稲葉淡路守紀通(いなばあわじのかみのりみち。1603~1648)が謀反(むほん)を企(くわだ)て、すでに往来の旅人を殺害しているとの噂が聞こえてきた。
周章狼狽(しゅうしょうろうばい)した隣国大名たちは軍勢を引き連れて国境を固めるとともに、江戸へ早馬を走らせてこの事態を注進した。
これを聞いてもっとも驚いたのは稲葉紀通本人だった。すぐさま京都所司代板倉重宗(いたくらしげむね)のもとに使者を立てて、自身の無実を訴えた。
板倉は言った。幸いにも老中職にある阿部重次(あべしげつぐ)が近くまで来ている(2)。すぐさま大坂の阿部のもとへおもむき、無実を弁明すべきだ、と。
ところが、稲葉は大坂に出立する準備をしていたものの、突然腹を切って自害してしまった(享年46)(3)。
いったい何があったのか。
【注】
(1)内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部対馬守重次」の項から引用。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
(2)正保4年11月、大坂城代勤務中に阿部備中守正次が没した。そこで慶安元年8月、諸事引き取りのため息子の阿部対馬守重次が来坂していたのである。
(3)以下新井白石著『藩翰譜.巻7』1952~1954年、出版者吉川半七(国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:4-278イ、51~52コマ)によって事件の経過をたどる。なお、史料は読みやすくするため漢字は新字体に直し、句読点等を付け直すなどした。 |
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2022年8月10日(水) |
皇帝の妻たち |
古代、わが国では唐の律令制を導入し、天皇を中心とした中央集権国家の建設をすすめた。しかし、都の大きさや官僚の数をはじめ、なにごとにおいても本家のスケールにはかなわなかった。
たとえば后妃の定員について見ると、日本の令(養老令)では次のように規定されていた。
后(こう)1名 妃(ひ)2名 夫人(ぶにん)3名 嬪(ひん)4名
つまりわが国の天皇は、制度上は最大10人まで妻帯が可能だったのだ。
これに対し、わが国がお手本にした唐では、正妻は皇后1名であったものの、側室の数がやたらと多かった。
側室の最上位を「四夫人」とよんで、貴妃(きひ)・淑妃(しゅくひ)・徳妃(とくひ)・賢妃(けんひ)がいた。玄宗の寵愛を独占した有名な楊貴妃(ようきひ)は、側室のナンバーワンだったわけだ。
この「四夫人」の下に、昭儀(しょうぎ)・昭容(しょうよう)・昭媛(しょうえん)・脩儀(しゅうぎ)・脩容(しゅうよう)・脩媛(しゅうえん)・充儀(じゅうぎ)・充容(じゅうよう)・充媛(じゅうよう)の「九嬪(きゅうひん)」が続いた。
さらに、その下には婕妤(しょうよ)・美人(びじん)・才人(さいじん)が各9名ずつ計27名おり、これを「二十七婦」といった。
側室の最下位は室林(しつりん)・御女(ごじょ)・采女(さいじょ)で、各27名ずつ計81名おり、これを「八十一御妻」といった。
したがって唐の皇帝は、制度上は最大122名までの妻帯が可能だったことになる。
1+4+9+27+81=122
なるほど、華流の歴史ドラマで、后妃たちの嫉妬や策謀による足の引っ張り合いが大きなテーマになるのも道理だ。
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2022年8月3日(水) |
心がけ |
夏休みである。
息子・娘夫婦が田舎に帰省してくる時節だ。短期間の帰省とはいえ、まず問題となるのが毎日の食事。
簡単に済ますため、ファミレスや回転鮨に連れて行く方々も多かろう。しかし、孫に食べ盛りの男の子が数人でもいれば、事情が変わってくる。
腹をすかしているとついつい食べ過ぎる。そのまま回転鮨にでも連れて行けば、何十皿平らげるかわからない。底なしの食欲に、祖父母の財布がまず底を尽く。
そこで田舎のジジ・ババは一計を案じる。事前に家でトウモロコシやおにぎりを孫たちにたらふく食べさせ、彼らの胃袋に鮨のはいる隙間(すきま)がないようにしておくのだ。
閑話休題。
将軍の鷹狩りのお供から戻った松平信綱。最初に湯漬けを食べ、そのあとで汁かけ飯を食べるのが常だった。ある人がその理由を尋ねた。信綱は次のように答えた。
「飢候時分(うえそうろうじぶん)、直(すぐ)に飯喰候(めしくいそうら)ヘバ喰過候(くいすぎそうろう)。先(まず)湯漬(ゆづけ)を喰候(くそうらい)て飯を給候(たべそうら)へば喰過(くいすぎ)ず候(そうろう)ゆへ、養生の為(ため)なり。御奉公大切に存候(ぞんじそうら)へば、一日も煩(わずら)ハざる様にとの心懸(こころがけ)なり。」
(空腹時にすぐ食事をすると食べ過ぎてしまう。最初に湯漬けを軽く食べておくと、食べ過ぎないですむ。これは健康のためです。御奉公を大切に思うので、一日も病気などにならないようにとの心がけなのです。)
信綱の心がけは食事ばかりではない。明日のことは今日のうちから、来年のことは今年のうちから準備しておいた。ある人がそうした心がけのわけを尋ねると、信綱は次のようにこたえた。
「其義(そのぎ)なり。未(いまだ)御奉公仕(つかまつり)たらず候(そうろう)ゆへ、か様(よう)に仕(つかまつ)るなり。死(しし)ても一日ハ御奉公仕りこす。」
(そのことです。いまだ御奉公をし足りないので、事前に準備しているのです。これなら死んでも一日分の御奉公はできるでしょう。) (以上、『寛明日記』)
なにごとも、日頃の心がけが大切だ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之三、「御老中 松平伊豆守信綱」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年8月1日(月) |
意臨 |
書道の展覧会に行くと、作品の最後に「太郎臨(りん)」「花子臨」と署名してあるものが飾ってある。古典作品をお手本とした臨書作品だ。
「何だ。他人の作品をコピーしただけじゃないか。」と憤る人がいる。
なるほど、他の芸術分野では他人の作品をそっくり写すことは御法度だ。コピーはオリジナルより低く評価され、コピーであることを明記しなければ盗作として弾劾されることさえある。
しかし、書道においては事情が異なる。
臨書を見れば、その古典作品の書風・書体を本人がどれほど深く理解しているか、その技法に本人の技術がどれだけ習熟しているかなどをはかることができる。場合によっては、作者の創作作品より高く評価される場合さえあるのだ。
さて、臨書は原本そっくりに書くことが基本だ。しかし、原本とはまったくかけはなれた臨書作品もある。たとえば、王鐸(おうたく。1592~1652)の「臨褚遂良尺牘(ちょすいりょうのせきとくをりんす)」は、原本とは書風・書体とも似ても似つかない。こうした臨書を「意臨(いりん)」という。
しかし意臨までくれば、もはや臨書とはいえまい。王鐸のまったくのオリジナル作品だ。
さてこの王鐸だが、在世中は「当代並ぶ者がいないほどの書の名手」と評価された。しかし、その後長らく中国では正当に評価されず、むしろ無視される傾向にあったという。
それは王鐸が明・清両朝に仕えた「二臣(じしん)」だったからだ。「忠臣は二君(じくん)に見(まみ)えず」というのに、王鐸はさっさと清朝に降るとそのもとで礼部尚書にまで出世した。中国人の王鐸憎しの感情が、その作品の評価までおとしめてしまったのだった。
時が移り、王鐸の作品そのもののは、近年再評価されているという。
【参考】
・陳舜臣『中国の歴史コンパクト版』第6巻、1986年、平凡社、P.438 |
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2022年7月22日(金) |
大仏を鋳つぶす |
室鳩巣(むろきゅうそう。1658~1734)は8代将軍徳川吉宗に侍講として仕えた儒学者。朱子学の立場から、教訓的随筆『駿台雑話(すんだいざつわ)』を著している。そのなかで、松平信綱の三つの施策を次のように評価している。
(旧漢字は現行のものに改めてある。)
「伊豆守(いずのかみ。松平信綱)善政多き中に、始(はじめ)て上聞(じょうぶん)して天下の殉死(じゅんし。武家の主人が死ぬと家臣があと追い自殺をすること)を禁じ、諸国の人質をやめ、大仏を銭に鋳(い)られし、此三(このみっつ)をば世にも大器量の事にいひ伝えしなり。殉死を禁ぜられしは、ながく後世の害を除き、人質をやめられしは、あまねく諸国の患(うれい)をすくひ、大仏の銭を鋳られしは、おおきに古今の惑(まどい)をとく。天下後世において大功徳ありといふべし。」(1)
三つの事績のうち、殉死の禁止と大名証人制の廃止は俗に「寛文の二大美事」と称されるもの。家綱政権下で、武断政治から文治政治への転換をはかった政策として知られ、高校日本史の教科書にも載る。
三つ目の「大仏を銭に鋳られし」というのは、豊臣氏ゆかりの方広寺(ほうこうじ。京都)の金銅製大仏を鋳つぶして、寛永通宝を製造(これを当時「大仏銭」と俗称した)をしたことを指す。鳩巣はこの政策について、次のように述べている。
「松平故伊豆守信綱執政(しっせい。老中)の時、千年以来金仙(きんせん。仏のこと)を尊(たっとみ)て、かく成(なり)たる風俗の後に出て、京の大仏を鋳て銭とし、天下を利益(りやく)せられしこそ、先にも後にもきかざる事なれ。其(その)卓識(たくしき)誠に古今に傑出(けっしゅつ)すともいふべし。」(2)
人々は長らく仏教の影響下にあったため因果応報の迷信にとらわれ、平重衡(たいらのしげひら)や松永久秀(まつながひさひで)が東大寺大仏を焼いたことを大罪と考えるようになっていた。
そのような世間的常識のもとで、経済発展にともなう世上の貨幣不足を補うためには大仏を鋳つぶすこともいとわず、貨幣流通量を増やして「天下を利益した」信綱の政策は画期的なものだった。
信綱の功績を、鳩巣は高く評価していたのだ。
【注】
(1)室鳩巣著・森銑三校訂『駿台雑話』1936年(第6刷による。1988年)、岩波文庫、P.190~191
(2)『駿台雑話』前出、P.190 |
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2022年7月18日(月) |
今日は海の日 |
今日は海の日。そこで、海にちなんだ話題をひとつ。
「領海12海里」とか「排他的経済水域200海里」とかいう言葉を最近よく耳にする。ところで、この「海里」というのは何だろう。
「海里」は海上での距離を測る単位だ。1海里は1.852kmと決められている。
しかしながら、1kmとか2kmとかいうきりのいい数字を使わず、なぜこんな中途半端な数字を採用したのだろう。
それは、地球の中心角1分に相当する長さを1海里と決めたからだ。
地球全周の長さ÷360度÷60分=中心角1分に相当する長さ(=1.852km)
(注)1度=60分。
昔の航海は、海上での天体観測をもとにおこなわれた。だから、地球の中心角に比例した距離を使った方が、航海には都合がよかったのだ。
また、1時間に1海里進む船の速度を1ノットという。つまり、1ノットは時速1.852kmだ。このノット(knot)という単語を英和辞典で引くと「結び目」と書いてある。
昔は船の時速を測るのに、結び目(ノット)をいくつもつけたロープをブイで流した。そして、1時間当たりに結び目がいくつ繰り出すのかを数えたという。
結び目の数で、船が海上を1時間にいくら進んだのかその距離がわかる。それを1.852kmで割ればその船の時速がわかるという仕組みだ。 |
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2022年7月17日(日) |
念には念を |
寛永年間の頃、井上新左衛門という武士がいた。老中のもとで働いていたが、その飾らない人柄が松平信綱に気に入られていた。
あるとき信綱が
「なにごとも、念には念を入れた方がよい。」
というと、新左衛門が次のように応じた。
「皆様におかれましては、念には念を入れた方がよいでしょう。しかし、あまり念を入れすぎるとかえってよくないこともあるものでございます。」
その場にいた人々は
「また新左(しんざ)が、いつものつまらないことを言っている。」
と思った。
さて、島原・天草の一揆(1637~1638)が起こった。信綱は、一揆を鎮圧するため九州行きを命ぜられた。
ほどなく一揆を鎮圧すると、信綱は急ぎ江戸に戻った。将軍への報告が終わると旅装もとかず、在城の人々を前にして信綱は次のような話を始めた。
「天草において、諸大名と示し合わせ一揆勢に一斉攻撃をかけることに決まった。その際には私が本陣において鐘をつき、それを合図にすることになった。
しかし今夜にでも、一揆勢にしろ馬鹿者にしろ誰かが忍び込み、鐘をつきでもすればどうなるか。諸大名たちは一斉攻撃と勘違いしてしまうにちがいない。そこで念のため、撞木(しゅもく)を取りはずして自分のそばに置くことにした。
しかし鐘は、鉄砲のようなものでも打ち鳴らすことができる。ここは念には念を入れることとし、鐘を地上に下ろし薦(こも)を巻いておくことにした。
ところが突然一揆勢が攻撃をしかけてきて、思いがけない戦闘となった。
いざ鐘をつこうしたものの、鐘を再度釣り上げ、薦を取り除くのには手間がかかる。ついには間に合わず、ただ攻めに攻めて相手を攻め潰したのだった。
そのとき、いつぞや新左衛門が「念を入れすぎるとよくないこともある」と言ったのは、かようのことであったかと思いいたったのだった。」
【参考】
・室鳩巣著・森銑三校訂『駿台雑話』1936年(1988年第6刷による)、岩波文庫、P.191~193 |
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2022年7月16日(土) |
御遺書(2) |
水戸藩邸で光圀と対面した忠秋は、時節の話などをするばかり。水戸藩士の処罰の件については一切触れない。しばらくして、忠秋は次のように切りだした。
「今回来邸いたしましたのは、御三家様(尾張・紀伊・水戸の徳川家)に一通ずつ遣(つか)わされた大猷院殿(たいゆういんどの。3代将軍家光)の御遺書(ごいしょ)を拝見するためです。」
故将軍の御遺書が見たいという。思わぬ申し出であった。光圀は近臣に命じると御遺書を取り寄せた。すると忠秋は次のように言う。
「手に取るのは恐れ多い。読み上げてくださいますように。」
そこで近臣に御遺書を高らかに読み上げさせた。その中に次のような一箇条があった。
「竹千代様(4代将軍家綱の幼名)御幼年の事ゆへ、年寄共(としよりども。老中たち)申上(もうしあげ)るに任(まか)せられ然(しか)るべし。家中・他家共に大身・小身によらず喧嘩(けんか)ハ両成敗(りょうせいばい)たるべし。」
(新将軍がご幼少なので、老中たちの意見に任せるべきこと。家中・他家とも身分の高下によらず、喧嘩は両成敗とすること。)
そこまで聞くと忠秋は
「もはやそこまでで結構です。私どもが記憶しているとおりに相違ございませんでした。」
と述べたのである。この時光圀は、はたと自分の過ちに気づいた。
「自分の了簡違いであった。加害者の藩士には切腹を命じよう。」
光圀の言葉を聞くや忠秋は謹んで頭(こうべ)を下げ、次のように挨拶したという。
「まことに天下泰平の基(もとい)、恐悦(きょうえつ)の御事(おんこと)にて候(そうろう)。」
こうして使命を達した阿部忠秋は、水戸藩邸を退去したのである(『明良洪範』)。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年7月15日(金) |
御遺書(1) |
4代将軍家綱の時代の話である。
水戸藩士と江戸城本丸勤めの御小人(おこびと。雑役に従事した御家人)と喧嘩し、水戸藩士が御小人を斬り殺すという事件が起きた。
しかし水戸藩2代藩主徳川光圀(とくがわみつくに)は、
「相手は御家人とはいえ、軽輩なので斬り殺しても問題ない。」
と言い張って、加害者を処罰しなかった。これに対し老中たちは
「加害者の水戸藩士を切腹させるべきである。」
と主張した。両者は反目した。水戸家へは
「本日の御登城はお控(おひか)え下さるように。」
と、老中たちからの連絡があった。しかし光圀はそれを無視して江戸城へと向かった。
これを聞いた老中阿部忠秋は、光圀と懇意な太田備中守を呼んだ。光圀卿の登城を是が非でもお止めせよ、と。太田は急ぎ水戸家の登城行列に駆けつけて、光圀を説得した。それでも強引に登城しようとする光圀。ついに太田は腰の大小を投げ出し
「光圀卿の御登城を止められぬなら、私はこの場所にて切腹いたします。」
と必死の訴え。さすがの光圀も当日の登城をあきらめ、ひどく立腹したまま水戸藩邸へと引き返した。藩邸に戻った光圀は、
「そのうち阿部忠秋が来邸するだろう。加害者を切腹させよと申し立てるだろうが、誰が承知などしようものか。」
と吐き捨て、阿部忠秋の来訪を待ったのである。
一方忠秋は、光圀の登城を命がけで阻止した太田をねぎらうと、直ちに水戸藩邸へと向かった。 |
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2022年7月13日(水) |
贈り物を突き返す |
明暦3(1657)年2月27日のことという。
伊達大膳大夫(だてだいぜんのだいぶ。宇和島藩主伊達秀宗)が「参勤の祝儀」という名目で、老中の酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋それぞれの家来3人ずつに小袖2枚ずつを贈った。
忠清・信綱の家臣たちは小袖を受け取ったが、忠秋の家来たちは返還した。伊達家の使者は怪訝(けげん)に思い、次のように尋ねた。
「たいした進物ではございません。ですから、雅楽頭殿(酒井忠清)・伊豆守殿(松平信綱)のご家来たちは受納くださいました。あなた方ばかりなぜ返還されるのですか。」
これに対し忠秋の家来たちは次のように答え、贈り物の受け取りを最後まで拒否した。
「火事(1657年の正月には明暦の大火があった)に付(つき)、公義(公儀。幕府)への献上並(ならびに)老中への音物(いんもつ。贈り物)減少の所を、主君所の音物に超(こえ)て我々に過分の御音物心得(こころえ)がたく、豊後守聞候(ききそうら)ハバ尤(もっとも。当然)曲事(くせごと。違法行為として処罰する)に申付(もうしつく)べし。
他家の事は存ぜず。豊後守ハ少々の物をも受納無用の旨、堅(かた)く制禁(せいきん。禁止)なり。」(『元延実録』)
(大火直後のことで、幕府や老中への贈り物は減少しております。そのような折りに、主君の所を超えて家来のわれわれに過分な贈り物をされるのは腑に落ちません。主君の豊後守が聞いたなら、必ずやわれわれを処罰するでしょう。他家のことはさておき、わが主君はわずかの贈り物でも、受け取りは無用ときつく禁止しているのです。)
高価なものでないといっても、いわれのない贈り物は受け取るべきでない。要職にある者はもちろんのこと、その部下も同じだ。
汚職は、わずかな心の隙から始まるのだから。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年7月10日(日) |
捨て子を拾う(2)
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「皆共(みなども。お前たち)、能(よく)了簡(りょうけん。考える)せよ。
抑(そもそも)親子ほど恩愛深い者ハなし。殊(こと)に乳房(ちぶさ)のみどり子、何と思ひ切(きり)て捨(すて)られん。何共(なんとも)養育ならざるゆへを以(もっ)てこそ捨(すつ)るなり。其(その)父母の心に成(なり)て見よ。
是(これ)を拾ひ育置(そだておけ)ば相応に見立(みたて)、召仕(めしつか)ふ時は軽きもの共(身分の低い使用人)に譜代(ふだい。世襲の家来)多くなる故(ゆえ)、さのミ費(ついえ)にならず。
是(これ)を養(やしない)て家中を苦(くるし)めバ我(わが)誤(あやまり)なり。家来を扶持(ふち)し、其(その)余慶(よけい。祖先の善行のおかげで子孫が受ける幸福)を以(もっ)てなす事、外(ほか)の遊興(ゆうきょう)に費(ついや)さんとはいづれぞ。
其(その)上(うえ)、我ごとき御口(おくち)まね(将軍の口真似をする)をもする役にてハ、天下(てんが。一国の政治)を思ふべき事なり。捨子のあるハ天下の恥なり。其(その)恥を取隠(とりかく)す所、則(すなわち)老臣の役なり。」
皆の者たち、よく考えよ。
そもそも親子ほど恩愛の深いものはない。それなのにとくに乳飲み子を、何と思い切って捨てられるのだろうか。(生活に窮迫して)どうしても養育できないから捨てるのだ。そうした父母の心情を考えてもみよ。
(お前たちは、捨て子養育は無駄な出費というが)成長すればそれぞれの適性に応じ、召使う際には身分の軽い譜代ばかり多くなるので、さほど出費はかさまない。
もし捨て子養育が家中の者たちを苦しめる結果になるなら、私のあやまちだ。しかし、家来たちには扶持(ふち)を与え、捨て子養育には余力をあてている。遊興に浪費するのとはちがうのだ。
その上、私のように老中職にある者は、国政を第一に考えるべきだ。捨て子があるのは政治の恥である。そうした政治の欠陥を補うのがわれわれ老臣の役目だ。
こうして忠秋は、毎年数十人の捨て子を養った。その多くはよい奉公人となった。男は相応の禄を得て働き、女は忠秋の屋敷に出入りする町人などのもとに縁づいていったという(『雑話燭談』)。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。
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2022年7月9日(土) |
捨て子を拾う(1) |
阿部忠秋が寛永寺・増上寺(ともに徳川家の菩提所)に将軍の代参を勤める時は、いつも早天だった。
早朝、道端にはよく赤ん坊が捨てられていた。忠秋は、捨て子を見つけるとすぐに拾いあげ、自分の屋敷で養育させた。そこで生活に窮迫した者たちは、忠秋の往来する頃合いをねらい、捨て子をするのだった。
これが毎度のことで、拾った子どもは年に数十人に及んだ。見かねた家司(けいし。家政をつかさどった家来)が忠秋に異見した。
「殿様は捨て子を憐れんで拾われます。しかし、その慈悲心につけこまれ、下民たちから捨て子を押しつられるのがなんとも悔しい。またその養育は無駄な出費です。」
部下の忠告を聞いた忠秋は笑って、次のように答えた。 |
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2022年7月8日(金) |
忠秋、牢人の江戸払いに反対する |
由井正雪の乱(幕政に不満を持つ牢人たちの陰謀事件。1651)が未然に防がれた。
事件後、江戸城の白書院に大老・老中らが集まり、今後の牢人(浪人)対策を話し合った。その席上、事件の再発防止のため牢人たちの江戸追放が提案された。
多くが賛同するなか、ひとり異議を唱えたのが阿部忠秋だった。
そもそも牢人が江戸に集まるのは生業の道を探るためである。参勤交代によって日本国中の諸大名が江戸に集まるので、江戸は再就職のためには何かと都合がよいからだ。もし、牢人たちを江戸追放にでも処せば、生活の道を失い、進退窮まって難儀に及ぶことは目に見えている。なかには辻斬り・追い剥ぎなど悪の道に走る者もあろう。それをわかっていながら牢人たちを江戸追放に処し、諸国に流浪させるのは不憫である。今まで通り、差し置かれてはいかがか。
評議は紛糾したものの、井伊直孝が忠秋に賛同した。
「豊後守殿(ぶんごのかみどの。阿部忠秋)申さるる所も其理(そのことわり)あり。
此後(こののち)諸浪人一揆を企(くわだつ)る事ありとも何の恐れか有(ある)べき。然(しか)るに、今度正雪が徒党に驚きて浪人払い仰付(おおせつけ)られなば、却(かえっ)て御仕置(おしおき。取り締まり)の浅きにいたり、只々(ただただ)唯今(ただいま)迄の通(とおり)に捨置(すておか)れ然(しか)るべきか。」
直孝の発言により評議は一決した(『寛明日記』)。
同年幕府は、牢人発生の原因のひとつとなっていた末期養子の禁をゆるめる。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。
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2022年7月7日(木) |
蛤を投げる |
正保2(1645)年10月19日、3代将軍家光が、江戸城の堀周辺で鴨を捕ろうと鷹狩りを行った。神田橋外へ向かうと、鎌倉河岸の堀に鴨の大群を発見した。
家光が「礫(つぶて。小石)を打って、鴨を追い立てよ」と御徒衆(おかちしゅう)に命じたが、周辺には礫にすべき石など落ちていない。そこで機転を利かした久世広之が、
「小田原町に蛤(はまぐり)を置いてある店がある。それを礫の代用にせよ。」
と命じた。投げた蛤に追い立てられた鴨は、鷹狩りの絶好の獲物となった。思い通りに鴨を獲た家光は、この時
「御機嫌(ごきげん)御快然(ごかいぜん)」
だったという。
翌日久世は、鷹狩りにおいて蛤を礫代わりにした話を同僚の老中たちに披露した。
阿部忠秋は「蛤を提供した商人には、その代金を補償いたしましょう」と言った。これに対し松平信綱は「上様のご用に立つのは名誉である。代金を支払う必要はあるまい」と応じた。
しかし忠秋は次のように言って、信綱をたしなめた。
「商人は少しの利徳(りとく)に依(より)て妻子を養育す。然(しか)るに損失してハ、公儀の御用に立(たっ)たる詮(せん)なし。 ( 中略 ) 況(いわん)や、天下の御政道に民の損失を労(いた)ハり給(たま)ハざるべきや。」
(商人はわずかばかりのもうけによって、家族を養っている。それなのに、蛤の代金をもらえず損失をこうむっては、上様の御用に立ってもその甲斐がない。民に損失を与えないように配慮するのが天下の御政道ではないのか。)
その場にいた面々は忠秋の意見に賛同した。よって商人には、町奉行を通じて白銀が下賜されたという(『武林隠見録』)。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年7月6日(水) |
鶉(うずら) |
阿部忠秋は鶉(うずら)を飼うのが趣味だった。
ある時、糀丁(こうじちょう。麹町。現、東京都千代田区内)によい鶉があると聞いたので、手に入れたいと思った。しかし、法外な値段であったので購入をあきらめた。これを聞き知った人が、その鶉を買い取って忠秋に贈った。
すると忠秋は、それまで飼っていた鶉を残らず放してしまった。
ゆえに、忠秋へ賄賂を贈る者は誰もいなかった(『故諺記』)。
忠秋の鶉の逸話はよほど有名だったらしい。諸書に散見される。
ただし細かな部分で異同がある。たとえば、幕府医官の岡本玄冶(おかもとげんや。1587~1645)を通じて鶉を贈りたいと申し出たのは大名の細川氏だった(『謙亭筆記』)。また「世上第一と聞ゆる鶉」の献上をと申し出たのは、とある富商であった(『窓の寿佐美』)。
しかしいずれにせよ、鶉はすべて放たれたことになっている。
重要なポストにいる者の元には、伝手(つて)を求めて下心ある者が群がって来る。その際には、ゴルフや麻雀・飲酒など趣味の分野からつけいられる場合が多い。
ゆえに
「重職の人ハ物を好む事、大なる誤(あやまり)」(『窓の寿佐美』)
であると悟った忠秋は、利益を求める者たちのつけいる隙を自ら絶ったのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年7月5日(火) |
大名の贈り物 |
4代将軍家綱の時代のことである。
松平伊豆守信綱(まつだいらのぶつな)が雑談のついでに、同役の老中たちに次のような提案をした。
「総じて諸大名からの贈り物は受け取らない方がよいと存ずる。これ以降は老中で申し合わせ、贈り物を固辞する旨、諸大名の留守居役に伝えましょう。」
信綱の提案に阿部忠秋(あべただあき)は「なるほど、その方がよろしかろう」と応じたが、「ただし」と言葉を続けた。
「伊豆守殿(松平信綱)へは、贈り物をされる大名方がおられると見える。しかし、われらの方には贈り物を贈ってくる者などだれもいないので、そもそも贈り物を断るにも断りようがござらぬ。」
これを聞くと信綱は赤面した(『続明良洪範』)。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年7月4日(月) |
保科正之の阿部忠秋評 |
会津藩主で4代将軍家綱の補佐にあたった保科正之(ほしなまさゆき。1611~1673)が、老中阿部忠秋(あべただあき。1602~1675)の人柄を語っている。
「阿部忠秋は、情が厚く誠実な人である。
そもそも権力者の家には「門前、市をなす(権力を慕い出入りする者が多いたとえ)」というのが古今の通例だ。しかるに、阿部家の門前に群集したなどと聞いたことがない。
大猷院殿(たいゆういんどの。3代将軍家光。正之は家光の異母弟)が阿部忠秋を最初から御幼君(4代家綱)付きにしたわけも、まことにうなづけることだ。」(『せめてわ草』)
篤実であっても公私の区別に厳格な人だったため、権勢家に取り入ろうともくろむ下心のある者は、そもそも阿部家には近寄らなかった。
忠秋は清廉な人でもあった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。
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2022年7月3日(日) |
阿部忠秋の評判 |
寛永の初め頃、世人は天下の諸侯を評して、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)・池田光政(いけだみつまさ)・阿部忠秋(あべただあき)・板倉重矩(いたくらしげのり)の4人を「四君子」と称した。
老中をつとめた阿部忠秋(1602~1675)の評判は
「忠を専(もっぱら)として人の善を好めり。物いはずして信あり。語らずして徳あり。其(その)愚(ぐ。ばか正直)には及ぶべからざるの気象あり 。( 中略 )
細川武蔵守入道常久(ほそかわむさしのかみにゅうどうじょうきゅう。室町幕府3代将軍足利義満を補佐した管領細川頼之のこと。1329~1392)このかたの執権なり。」(『白川伝信録』)
と評された。
質朴な人柄だった上、政治家としては「細川頼之以来の執権」とまで見なされていたという。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之四、「御老中 阿部豊後守忠秋」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年6月29日(水) |
僧侶殺し |
同心屋敷の下女の寝室に、僧侶が夜這(よば)いに忍び込んだ。それを主人の同心に盗賊と誤認されて、惨殺されるという事件が起きた。
事件の詮議には阿部対馬守、次いで阿部豊後守があたったが、事件の顛末に何ら疑わしき点はなかった。
しかし、将軍の家光から「改めて松平伊豆守(信綱。1596~1662)に詮議させよ」との上意があったので、再三にわたり詮議が行われることになった。
信綱は当事者の同心・下女を呼び出した。すると下女はまだ12、3歳ほど。それなのにお歯黒をつけて眉毛を抜き、留め袖を着ていた。年齢と容貌(お歯黒等は既婚者の容貌)があまりにも不釣り合いだ。違和感を覚えた信綱は、下女だけその場に残して尋問した。
聞けば、下女が年増(としま)姿になったのは、僧侶惨殺以後のことという。僧侶が夜這いするには下女はあまりにも幼さすぎた。
下女を年増(としま)に見せようとする作為を感じた信綱は、さまざま言葉を尽くして下女を問い詰めた。すると下女はついに真相を自白した。
事件の当日は、同心の父の命日だった。そこで旦那寺の僧侶を屋敷に招き、食事をふるまい風呂を勧めたという。ところが僧侶が湯に入っている間、持ち物の袋の中を同心が改めると小判が7、8両も入っている。たちまちに悪心を起こした同心は、僧侶に酒を勧めて酔わせた上、寝入ったところを絞め殺して金を奪ったのである。下女には口止めとして金3分を与え、でっちあげた供述で口裏を合わせるよう強要したのだった。
信綱は犯人の同心を呼び出すと、次のように申し渡した。
「汝(なんじ)よく聞け。軽(かろ)き者といへども御扶持人(ごふちにん)なり。斬罪(ざんざい)にあひ申(もうす)べきハ別(べっ)して面目なき事也(ことなり)。此上(このうえ)は有様(ありよう)に申上(もうしあぐ)るならバ切腹を仰付(おおせつけ)らるる様(よう)に申上(もうしあぐ)べき。」
(お前、よく聞くがよい。軽輩の同心とはいえ、幕府から御扶持をいただく身分である。それが斬罪に処せられるなどとは面目ない次第だ。かくなる上は、真相を自白するなら切腹を命ぜられるよう取りはからおう。)
同心は真相を自白し切腹に処せられた。家光は、真相を究明した信綱の手腕に、改めて感じ入ったという。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之三、「御老中 松平伊豆守信綱」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年6月23日(木) |
あとから描き加える |
大坂落城により、徳川氏の天下一統がなった。
ところが、西国巡見の御使番(おつかいばん)から「福岡藩主黒田長政が軍船を建造中」との報告がもたらされた。すわや謀反か。江戸城内では早速対応策が鳩首協議された。
その席上、老中の安藤重信(あんどうしげのぶ。1557~1621)は、
「今、天下太平に治(おさま)り候節(そうろうせつ)、何の怪しき事も有間敷候得(あるまじくそうらえ)ども、猶又(なおまた)御聞糺(おききただ)しあるべし。定(さだめ)て献上にいたすべしとの事なるべし。」
(天下が平穏に治まっているこの時節、何の疑わしきこともなかろうが、とりあえず確認はすべきだ。黒田の建造船は、きっと幕府へ献上するためのものだろう。)
と述べ、黒田の謀反説を否定した。その後退出すると安藤は、黒田の元に内々次のような内容を伝えさせた。
「御領分にて兵船を造り立るとの沙汰(さた)あり。幸(さいわ)ひ其許(そこもと。あなた)の御紋(ごもん)は丸餅(まるもち)なれバ、其中(そのなか)へ葵(あおい)の御紋(ごもん)をすへられ、早々献上いたさるべし。」
(貴公の領内で軍船建造の嫌疑がかけられている。幸いにも黒田家の家紋は白餅(しろもち。丸だけの形の紋。黒田家では白餅紋を表紋、藤巴紋(ふじともえもん)を替紋(かえもん)としていた)。その中に徳川氏の葵の御紋を描き加えて、さっさと幕府に船を献上してしまいなさい。)
そこで、黒田は葵の御紋をすえた船を幕府に献上した。こうして黒田は謀反の嫌疑を払拭することができた。
黒田は安藤の機転に感謝し、
「是(これ)より黒田・安藤志厚く、今以(いまもって)一家のごとし」
という関係が続いたという(『明良洪範』)。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 安藤対馬守重信」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年6月20日(月) |
補欠 |
仁治3(1242)年、四条天皇が12歳で亡くなった。天皇に皇子がいなかったため、思いがけず皇位にのぼることになったのが後嵯峨天皇(1220~1272)だった。
後嵯峨は同年正月20日、にわかに土御門殿(つちみかどどの。祖母の屋敷)で元服して邦仁(くにひと)と名づけられ、冷泉万里小路殿(れいぜいまでのこうじどの。権大納言四条隆親の屋敷)で践祚(せんそ)、3月18日太政官庁で即位の儀をおこなった。
この時、後嵯峨は23歳。元服適齢期は「天皇であればおおよそ11歳から15歳まで、皇太子であれば11歳から17歳までのうちに行われ」(1)たというから、かなり遅い元服だった。
元服すると、縫腋袍(ほうえきのほう。脇を縫ってふさいだ衣)を着し、髪は髷(まげ)にして冠をかぶり、眉毛を剃ってその上方に高眉(たかまゆ。墨で丸くかいた眉)をかき、歯を黒く染める(お歯黒)のである。
ところで、23歳で元服したということは、その時まで後嵯峨は闕腋袍(けってきのほう。脇の開いた衣で動きやすい)を着し、髪をミズラに結った童子姿で日常を過ごしてきたということになる。つまり、いい大人がこのときまで子どもの恰好のまま過ごしてきてわけだ。
なぜ、こんな奇妙なことが起こったのか。
後嵯峨は時の皇統からはずれていたため、本来皇位にのぼる可能性は低かった。そんな後嵯峨が俗人として成人すると、時の皇統からライバルとして疎まれる。さりとて、出家してしまうともやは皇位につく可能性はない。そのため、時の皇統に万一の事態があった場合に備えて、後嵯峨はぎりぎりまで童子姿にとどめられていたという(2)。
後嵯峨は、皇位継承者に欠員が生じた場合、それを埋めるためのいわば「補欠」だったのだ。
【注】
(1)国立国会図書館リサーチナビ、「本の万華鏡」の「第31回成人の儀式ー古代から近世まで」による。
(2)週刊朝日百科「週間新発見!日本の歴史 19号」2013年、P.20
【参考】
・米田雄介編『歴代天皇年号事典』2003年、吉川弘文館 |
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2022年6月17日(金) |
本多正信、家康の怒りをとく |
ある時家康が、過(あやま)ちを犯した近習(きんじゅう。主君の側近く仕える侍)をひどく叱ったことがあった。
本多正信(1538~1616)が
「殿(家康)は何をお怒りになっているのですか。」
と尋ねると、興奮気味の家康は口に泡を飛ばしながら
「これこれのことがあって叱るのだ。」
と答える。
「なるほど、殿がお怒りになるのはごもっとも。お前はどうしてこのような馬鹿を尽くすのか。」
と言うや、正信は家康よりも激しく近習をののしり始めた。そのあまりの激しさに呆気(あっけ)にとられ、言葉も出ない家康。そのうちかえっておかしく思う心の余裕が出てきた。
家康の怒気が少々おさまった様子を見すますと、正信は家康に聞こえるように近習に教訓を垂れ始めた。
「ちまたを行く赤の他人がたわごとを言っても何とも思わぬが、自分の甥子(おいご)がたわごとを言えば怒って叱るのが道理。これは親疎によるものだ。
殿がお前を叱るのは、お前を身内のごとくに召し使ってやろうとの御心があるからだ。お前の祖父・父の武功・忠義を、殿はお忘れではないのだぞ。」
家康が近習の祖父・父の働きを思い起こし、正信の言に納得している様子を察すると、正信はさらに次のように言った。
「人は怒れば火気がのぼり、のどが渇くものだ。お茶をたてて殿にたてまつれ。」
近習がいったん家康の前を退き、お茶を点(た)てて戻ってきた。家康がそのお茶でのどを潤していると、正信は近習への言葉を次のように締めくくった。
「お前は、今日よりはいよいよ進んで御奉公を勤めよ。少しも気を屈することはない。殿もそのような思召(おぼしめ)しだ。」
お茶を飲んで一服し、正信の諭言(ゆげん)を聞くうち、家康の怒気はすっかりおさまっていた。
近習を教諭しつつ、家康の怒気を解いた正信の高等テクニックだ。家康にこうしたとりなしができたのは、正信のほかは見あたらない。その証拠に『諺芥集(げんかいしゅう)』は、
「正信存生(ぞんせい)の間ハ、御前を退(しりぞけ)られ、又は閉門したる近習の侍なかりしとなり。」
と伝える。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 本多佐渡守正信」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年6月13日(月) |
人を遺す(2) |
「私の寿命はやがて尽きます。そこで人材を育成し、紀州侯に進上するためにかようにしているのです。」と。
利勝が納得しかね、押し黙っていると、安藤は次のように言葉を継いだ。
「私がすべて指図してしまえば、役人たちは何でも私に聞けばよいと心得て、何の苦もなく考えなしに私の前に出てくることになる。これでは、よい役人は育ちません。」
指示待ち人間はよい役人にはならない。試行錯誤しながら自ら考え、課題を解決できる人材を、私は育てている。紀州侯のために人を遺そうとしているのだ。安藤はそう答えたのである。
人材を遺すことは、人の上に立つ者の大切な役割だ。
安藤に学んだ利勝は、次のように部下たちを指導したという。
「利勝ハ、諸役人御用を伺(うかが)ハれ候時(そうろうとき)、心に叶(かな)ハざる時ハ、
「如何(いか)にも尤(もっとも)に候(そうら)ヘども、未(いま)だ何とやらん仕様(しよう)のあるべき様(よう)に存候間(ぞんじそうろうあいだ)、特(とく)と仲間衆へも相談申され候上(そうろううえ)、申出(もうしいで)らるべく候(そうろう)。仲間の相談にて極(き)めがく候(そうら)ハバ、親類衆又は御自分の家来などへ相談致され候(そうらい)て申出(もうしいで)らるべく候(そうろう)」
よし、申され候。
其人(そのひと)、そのごとく相談の上、了簡(りょうけん)致(いた)され申出(もうしいで)られ候時(そうろうとき)、尤(もっとも)と思ハれ候(そうら)ヘバ、
「一段(いちだん)尤(もっとも)に候。如何(いか)にも其(その)通りに致さるべき」
よし、指図(さしず)ありしとなり。」(『故諺記』)
多くの人材を遺し、人望の厚かった土井利勝は、
「執事(しつじ)・大老の中にて、抜群(ばつぐん)名を得たる人」(『改正太平秘記』)
と評価された。
家光に将軍職を譲った秀忠は、次のように述懐したという。
「大猷院殿(たいゆういんどの。家光)ヘハ天下と大炊頭(おおいのかみ。土井利勝)を御譲(おゆずり)り遊(あそ)バされ候(そうろう)。」(『別本金玉詞林集』)
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 土井大炊頭利勝」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年6月12日(日) |
人を遺す(1) |
土井利勝(1573~1644)がまだ秀忠の側(そば)に仕えていた頃の話。
ある時、紀州邸への秀忠の御成りが決まった。そこで秀忠から利勝に次のような指示があった。
「このたび紀州邸を訪問するにあたり、安藤帯刀(あんどうたてわき。紀州藩家老)が諸役人にそのための準備をさせている。お前は紀州邸に日参し、安藤の指図の仕方を勉強してこい。」
そこで利勝は毎日紀州邸に通い、安藤の諸役人への指図(さしず)の様子を観察させてもらうことにした。
しかし、安藤は何の指図もしなかった。
ただ、役人たちから
「この件は、これでよろしいでしょうか。」
と尋ねられると、よい場合にはうなずき、悪い場合には「いや、それはよくない」と言うばかり。役人たちはその都度相談して改正案を練り直し、安藤が「よし」と言うまで何度もうかがい直すというありさまだった。
何という効率の悪い仕事ぶりだろう。役人たちが初案を持ってきた際、不備な点があればその場で指摘し、すぐに改善するよう指導すればよい。その方が、何倍も仕事がはかどるではないか。
利勝がこうした疑問を口にすると、安藤から意外な答えが返ってきた。 |
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2022年6月9日(木) |
四つ四つの時日は入りにけり |
昔、次のようななぞなぞがあった。
四つ四つの時、日は入りにけり
このなぞなぞの答えは「三井寺(みいでら)」。なぜ、このような答えになるのだろう。
わが国では昔、時刻をはかるのに日時計や腹時計(?)などでなく、水時計を利用したことがわかっている。わが国最初の水時計を漏刻(ろうこく)といった。
それでは漏刻で知った時刻は、どのように表現したのだろうか。
平安時代に成立した『延喜式』によると、当時の朝廷では定時法を採用していた。時刻は1日を12等分し、真夜中から2時間(これを1辰刻(しんこく)という)ずつ子(ね。23:00~1:00)の刻(こく)・丑(うし。1:00~3:00)の刻・寅(とら。3:00~5:00)の刻・卯(う。5:00~6:00)の刻…と12支の名をつけて表示した。
朝廷では守辰丁(しゅしんちょう)という役人が、鐘鼓(しょうこ)を打つ回数をかえることによってそれぞれの時刻を報知した。室町末から江戸時代になると、鐘鼓を打つ回数から、時刻のことを九(ここの)つ・八(や)つなどとよぶようになった(ただし江戸時代は不定時法だった。昼と夜をそれぞれ6等分したため、昼夜で1刻の長さが異なった)。
時刻と鐘鼓を打つ回数の関係をまとめると、次のようになる。
子(ね)・午(うま) →9回(九つ)
丑(うし)・未(ひつじ)→8回(八つ)
寅(とら)・申(さる) →7回(七つ)
卯(う)・酉(とり) →6回(六つ)
辰(たつ)・戌(いぬ) →5回(五つ)
巳(み)・亥(い) →4回(四つ)
そこで、なぞなぞの答えの解説。
四つ四つの時、日は入りにけり
「四つ・四つ」は「巳(み)・亥(い)」。「時、日は入りにけり」は「時」という漢字から「日」が脱落して「寺」。
よって答えは「三井寺(巳亥寺、みいでら)」となる。三井寺(園城寺(おんじょうじ))は天台宗寺門派の名刹(めいさつ)だ。
【参考】
・和田英松著・所功校訂『新訂 官職要解』1983年、講談社学術文庫、P.86 |
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2022年5月31日(火) |
殿様だって楽じゃない |
旧大名の浅野長勲(あさのながこと)が、殿様時代の窮屈な日常生活を語っている。殿様だって、楽じゃなかった。
たとえば、便所に行く際。
いっしょに若年寄が便所の入り口までついて来る。女中が便所の戸を開ける。殿様の用が済むまで外で控えている。そのため、おなら一つするのにも気をつかったという。
たとえば、風呂に入る際。
風呂は焚かずに湯を湯船に入れる。その湯が熱くても冷たくても、自らは指図できない。湯殿には側坊主(そばぼうず)がいるが、身分が低いので殿様と直接会話することができないからだ。そこで、熱ければ「熱い、熱い」と独り言を言う。それを聞いた側坊主が、湯殿の戸口にいる小性(こしょう)のもとに行き「何か御意(ぎょい)があります」と言う。小性が「何か」と尋ねる。そこで初めて「湯が熱いというご様子でございます」と答える。その間、殿様は裸で突っ立っていなければならなかったという。
親子であっても気軽に会うことはできなかった。
その上、親子間で話をする際も、政治上の話や相談は全くしなかった。親と相談すると間違いのもとになるからだった。
浅野家の場合、親が隠居すると親は子を「太守(たいしゅ)」と呼ぶ。呼び捨てにしたり、名前を呼んだりしない。子は親を「少将殿(しょうしょうどの)」とか「侍従殿(じじゅうどの)」とか、官名で呼ぶ。これまた名前を呼ぶことはない。
親子が対面する際には、子は必ず袴(はかま)を付けて敷居(しきい)越しに礼をする。親の「入れ」という言葉を聞いて、初めて敷居の内側にはいった。子は親の顔を直接には見ない。浅野家では、親の胸を見るようにすることが口伝(くでん)になっていたという。
これでは子であっても、親の顔を忘れてしまうだろう。
【参考】
・柴田宵曲編『幕末の武家』1971年、青蛙房 |
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2022年5月30日(月) |
無理難題 |
家光が若年だった頃の話。
家光から突然、「御殿を改装せよ」との命令があった。しかも「普請は本日中に終わらせよ」との無理難題。この命を受けたのが、「知恵伊豆(ちえいず)」とよばれた松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)だった。
信綱は急ぎ工匠たちを集めると、ただちに御殿の改装作業に取りかからせた。
しかし白壁を塗るべき所は、乾燥させて仕上げまでに時間がかかる。今日中にはとても終わらない。そこで奉書紙(高級な和紙)を貼らせることにより、白壁らしく作り上げることにした。こうした才覚によって信綱は、若い将軍からの無理難題をどうにかこなしてしまったのである。
翌日、自分好みに改装された室内を見た家光は、大いに機嫌がよかったという。
しかし、この話を聞いた土井大炊守利勝(どいおおいのかみとしかつ)は、信綱をよぶと次のように諫(いさ)めた。
将軍家の御威光をもってすれば、一日で家を建てることさえ容易だろう。しかし、そんな無理な注文でも通ることを知れば、お若い上様のことだから、今後は物事を軽く気ままに考えるようになる。ゆえに、一日で改装できた御殿など、上様のお目にかけてはいけないのだ。そのしわ寄せは下々の者たちに及び、多くの弊害を生じる原因になる、と。
現代でも、親会社や上司等から無理難題な仕事を振られることがある。しかし、心身を削られる思いをしながらも、ひとたびそうした注文にこたえてしまうと、彼らはそれを当たり前としか思わず、さらに過酷な要求を重ねてくるようになる。
時には「無理なことは無理」「従業員に無理を強いればできるが、弊害が大きいのでやらない」と、断る勇気も必要だ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 土井大炊頭利勝」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年5月28日(土) |
木材泥棒 |
【問い】
ある時、家光が櫓(やぐら)に上って往来を見ていると、木材泥棒が御普請小屋(ごふしんごや)から大きな木材の切れを大量に盗み出し、どこかへ運び出す様子が見えた。驚いた家光が、近侍していた土井利勝にそのことを言うと、利勝は何と答えただろう(3択)。
1.大胆な木材泥棒め。ただちに捕縛し、斬首いたしましょう。
2.こんなに大量に盗まれるとは、何ともおめでたい次第でございます。
3.不要な木材の切れなので、処分する手間が省けて大助かりです。
【答え】2
土井利勝は次のように答えたという。
「誠に天下長久、目出度(めでたき)御義(おんぎ)に候(そうろう)。三州・遠州に御座遊(ござあそ)バされ候時(そうろうとき)は、中々(なかなか)盗申様(ぬすみもうすよう)に申付候(もうしつけそうらい)てもケ様(かよう)に夥敷(おびただしく)ハ御座有間敷候(ござあるまじくそうろう)。天下の公の下にケ様(かよう)に下々(しもじも)の潤(うるお)ひを請候事(うけそうろうこと)、御代(みよ)長久の基(もとい)と奉存(ぞんじたてまつる)。」(『雑話燭談』)
(まことに天下長久のめでたいできごとでございます。徳川氏が三河・遠州の領主だった時代には、盗んで持って行けと言っても、これほど大量に盗んで持って行く物資はありませんでした。幕府のもとでこれだけ下々の者たちがめぐみをうけているということは、徳川氏の御世の長久たる基と拝察いたす次第です。)
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 土井大炊頭利勝」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年5月27日(金) |
的を射た意見 |
老中土井利勝の判断は、常に的を射ていた。その明察ぶりに感心した人が、利勝にその秘訣を聞いた。次がその回答。
「先(まづ)下坐(しもざ)の各(おのおの)に所見を述(のべ)させ、其(その)衆言(しゅうげん)の中に必(かならず)我が及ばざる所あり。因(より)て其言(そのげん)を取(とり)、少しく潤飾(じゅんしょく)して己が見(けん)となす。故(ゆえ)に過(あやま)ち寡(すくな)きや。」
(先ずは、下座の者からそれぞれの意見を述べさせる。そうした多くの意見の中には、必ず自分より優れた意見があるものだ。よってそうした意見を採用し、少し潤色して自分の見解をつくる。それゆえ、あやまちが少ないのだろう。)
土井利勝は多様な意見に耳を傾け、そのなかから最良のものをすくい上げて決断の資としていた。独断を回避する謙虚な心がけが、正しい決断につながっていたのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 土井大炊頭利勝」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。
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2022年5月25日(水) |
秘密の会議 |
これも『改正太平秘記』の中にある話。内密の会議をする場合、情報漏洩を防ぐため、普通なら小部屋や離れの別室を用意する。しかし、土井利勝の考えは違った。
「御本丸(ごほんまる。江戸城の本丸)にて御隠密(ごおんみつ。秘密)の御相談(ごそうだん)の節(せつ)ハ、むかし大方(おおかた)御数寄屋(おすきや。茶室)なりしに、大炊頭(おおいのかみ。土井利勝)発明(発案すること)して千畳敷(せんじょうじき)の真中(まんなか)へ出御(しゅつぎょ)あり。四方の襖(ふすま)を取り払ひ、少(すこし)も隠(かく)れなく見渡(みわた)す様(よう)にもうけられ、硯(すずり。筆記用具)は旗本支配の役ニて持参しける。」
見晴らしのよい巨大会議場の真ん中で相談されては、聞き耳を立てることもできまい。逆転の発想だ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 土井大炊頭利勝」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年5月24日(火) |
髭を剃る |
土井利勝はその容貌が家康に似ていた。そのため、江戸時代から家康の御落胤(ごらくいん)説がささやかれた。『改正太平秘記』にある次の話もその一つ(1)。
利勝は水野下野守(みずのしもつけのかみ)(2)が一子(いっし)の様(よう)に申(もう)せども、誠は東照宮(家康のこと)の御胤(おたね。子ども)なりと、此家(この家。土井家)にてハいふなりき(3)。
或人(あるひと)、
「大炊頭(おおいのかみ。土井利勝)の髭(ひげ)はさながら東照宮に見まがひたる」
やうに申(もうし)けるを、一座の面々
「実(げ)にも能(よく)似させ給(たま)ふもの哉(かな)。」
と挨拶(あいさつ。応答する)しけるを、
「何と東照宮に似たるや。」
と其(その)翌日の出仕(しゅっし)に髭を剃落(そりおと)して登城なり。
此時(このとき)迄(まで)ハ、男たるもの髭を第一に立(たて)けるに(4)、大猷院殿(たいゆういんどの。徳川家光)御髭(おひげ)を剃(そら)せられけるゆへ、大炊頭が心ありて剃捨(そりすて)たるを世上にしらずして、上(うえ。家光)の御真似(おまね)を致(いた)さるる様(よう)に申(もうし)けるとかや。
其(その)のちハ毛之立(けのたち)少し計(ばかり)を立(たて)けるに、是(これ)さへ延宝(えんぽう。1673~1680)の初(はじめ)より悉(ことごと)く剃捨(そりすて)ける。其元(そのもと)ハ大炊頭なりと古き人申(もうし)ける。
【注】
(1)以下『流芳録』巻之二(前出)、「御老中 土井大炊頭利勝」の項による。
(2)土井利勝の実父は水野信元。のち土井利昌の養子となり土井家を継いだ。
(3)土井家の系図『系図家譜』(愛知県図書館蔵、請求番号Wラ/A288/トイ/840885。貴重和本デジタルライブラリーで参照できる)には次のようにある。
「利勝 甚三郎 大炊頭 生于遠州濱松
實家康公子也。母産利勝之後、嫁土居利昌、養育利勝於利昌家。故冒土居氏、後故居字為井字。家康公近臣屡語其事實、天下衆亦知之。」
(利勝は家康の実子である。利勝を産んだのち母親が土居利昌に嫁し、土居家で利勝を養育した。利勝は土居家を継いだが(実子でなかったため)、土居の字を土井にかえた。家康の近臣がその事実をしばしば語っていたため、天下衆知のことになった。)
(4)戦国時代の遺風を一掃しようとした4代将軍家綱の時代に蓄髭が禁止されると、医者など特定職種の者を除き髭は見られなくなった。髭の復活は近代になってからである。明治天皇がカイゼル髭を生やすと再び蓄髭が流行した。明治期の官吏・議員には現在よりも若年の者が多かったため、民衆に対し威厳を保つために蓄髭したという。 |
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2022年5月23日(月) |
酒井忠世の印籠割り(2) |
「以前、大殿様(おおとのさま。家康)駿府(すんぷ)に御在城(ございじょう)の節(せつ)、夕御膳(ゆうごぜん)御給仕(ごきゅうじ)に何某(なにがし)と申す御小性(おこしょう)着(ちゃく)し候(そうろう)袴(はかま)を御覧遊(ごらんあそ)バされ、
『それハ何と申(もうす)ものぞ。』
と御尋遊(おたずねあそ)バされ候(そうら)へバ、彼者(かのもの)茶宇(ちゃう)(1)と申(もうす)ものの由(よし)申上(もうしあげ)けれバ、
『おのれハにくきものかな。天下久敷(ひさしく)乱に及び、漸(ようや)く比日(ひじつ。この頃)少し静(しずか)になり、万民も安き様に見へ候(そうろう)所に、名をも知(しら)し召(めさ)れぬ程(ほど)の衣類を着したる事、天下の奢(おごり)を始め乱のはしを発(ひら)く不届者(ふとどきもの)なり。御前(ごぜん)を退き候(そうら)へ。』
と以(もって)の外(ほか)御機嫌(ごきげん)損じ、夕御膳(ゆうごぜん)を召上(めしあが)られず故(ゆえ)、某共(なにがしども)種々(しゅじゅ)に御わび言(ごと)申上候(もうしあげそうら)ひし。
御先祖様にはかくの如(ごと)くに候(そうろう)。天下の花美なる遊具を御賞翫(ごしょうがん)遊バされ候事、以(もって)の外(ほか)。」
このように述べると、持っていた印籠を庭の石にあてて打ち砕いてしまった(2)。忠世はこのような厳しい態度で、家光の華美を戒めたのだ。
【注】
(1)茶宇(茶宇縞)はインドのチャウル産の薄地琥珀織の絹で、わが国へはポルトガル人が舶載した。
(2)以上、内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 酒井雅楽頭忠世」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。
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2022年5月22日(日) |
酒井忠世の印籠割り(1) |
酒井雅楽頭忠世(1572~1636)は、家光の後見として尊敬された人だった。
ある時、家光の御前に出たとき、床の上にその当時流行していた刑部梨子地(ぎょうぶなしじ)の印籠が置かれているのを目にした。
刑部梨子地は蒔絵の一種。金箔を置いた上に大きめの不整形な金粉(これを刑部梨子地粉といった)を一粒ずつ隙間なく置いたもので、非常に高価なものだった。
忠世が
「あれハ何にて候(そうろう)か。」
と問うと、家光は何を思ったのか赤面しつつ
「加賀守(かがのかみ)が…」
とだけ答えた。加賀守は堀田加賀守正盛のこと。当時家光は女性に関心が薄く、複数の寵臣を身辺に侍らせていた。堀田はそうした寵臣の一人だった。
忠世が小性(こしょう)たちに向かい、
「あれ、これへ。」(あの印籠を、ここにもって参れ)
と命じたところ、小性たちは家光の顔色をうかがい立ちかねている。
「とりて遣(つかわ)し候(そうら)へ。」
との上意があったので、小性は印籠を取ると忠世の前にそれを置いた。忠世は印籠を手に取ると、
「加賀守御懇意(ごこんい)にあまへて、若き者ゆへ加様(かよう)の花美(かび)なる物を指上(さしあげ)しと相(あい)見へ申候(もうしそうろう)。」
(加賀守は上様と御懇意なことに甘えて、若輩者ゆえこのような華美な品物を贈ったものと見える。)
と言い、さらに言葉を続けた。 |
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2022年5月3日(火) |
青山忠俊の諫言(2) |
家光が傅役(もりやく)の青山忠俊(あおやまただとし。1578~1643)に蟄居(ちっきょ)を命じた。その経緯を『故諺記(こげんき)』は次のように伝える。
当時の家光は、伊達(だて)姿で踊ることを慰みごとにしていた。伊達とは、戦国時代末期から江戸時代にかけて生まれた美意識である。旗本奴(はたもとやっこ)や町奴(まちやっこ)とよばれる無頼(ぶらい)の連中が、「男を立てる」ととなえては派手な服装や振る舞いをしていた。
その日も家光は、2枚の合わせ鏡をつかって流行(はや)りの髪型のセットに余念がなかった。そこへ来あわせた青山忠俊は、家光から鏡を取り上げると、それらを庭へ投げ捨てて次のように諫言した。
「天下を知(しろ)し召(めす)御心(みこころ)にて、ケ様(かよう)なるはしたなき事、是(これ)乱の元なり。」
(天下を統治する将軍が、このようなはしたない真似をするのは世が乱れる原因である。)
激怒した家光はその無礼をとがめ、青山に「御前遠慮(ごぜんえんりょ)」を申し渡した。
その後、多くの臣下が家光に青山のことをさまざまに取りなした。そこで家光も思い直し、青山を赦免(しゃめん)することにした。しかし、頑固者の青山は次のように言うと、終生出仕することはなかった。
「御前(ごぜん)の思召(おぼしめし)さへ御直(おなお)り遊ばされ、拙者(せっしゃ)申上候処(もうしあげそうろうところ)を能(よき)とさへ思召(おぼしめさ)れ候(そうら)へバ、罷出(まかりいずる)に及(およ)び申(もう)さず候(そうろう)。」
(家光公のお気持ちがお直りになって、私の諫言を「よし」とさえ判断されたのなら、もはや出仕するには及ばない。)
そして寛永20(1643)年4月15日、蟄居先(相模国小泉村)で没したのである。享年66歳だった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 青山伯耆守忠俊」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。
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2022年5月2日(月) |
青山忠俊の諫言(1) |
青山忠俊(あおやまただとし。1578~1643)は、家光の傅役(もりやく)だ。家光への諫言(かんげん)を主な役目とした。
しかし家光が、青山の諫言(かんげん)を常に受け入れるとは限らなかった。「生まれながらの将軍」とはいえ、何せ3代目。世間知らずの未熟な若者だ。ちょっとした注意であってもすぐに感情を害し、正論であっても断固はねつけてしまうところがあった。
一方、青山も簡単には引き下がらなかった。何せ、家康・秀忠のふたりから直々に「家光のことを頼む」と教導役を頼まれたのだ。
そんな青山の直諫(ちょっかん)の有様を、『改正太平秘記』は次のように伝える。
「忠俊は直諫を申上(もうしあげ)て御難渋(ごなんじゅう)なさるる時は、無刀になり、大肌(おおはだ)ぬぎにて御膝(おひざ)の上へはいかかり、
『某(それがし)を御成敗(ごせいばい)ありて上の御心を直(なお)させられ候(そうら)へ。』
と強く諫(いさめ)申上(もうしあぐ)る事(こと)度々(たびたび)なり。」
(忠俊が直諫しても、家光公がなかなかお聞き入れなされない。そんな時忠俊は、帯から刀をはずして着物のもろ肌を脱ぎ、家光公の膝の上に這ってまつわりつき、「私めを斬罪(ざんざい)に処し、ご自身のご性根を直されよ。」と強く諫言することがたびたびに及んだ。)
青山の厳しい諫言は、彼の忠義心に発している。しかしこうした行動が度重なれば、家光から煙たがれるのも当然だ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 青山伯耆守忠俊」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。
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2022年4月30日(土) |
家光の教導役 |
秀忠は、嫡子竹千代(家光)の教導役に酒井忠世(さかいただよ。1572~1636)、土井利勝(どいとしかつ。1573~1644)、青山忠俊(あおやまただとし。1578~1643)の3人を当てたいと考え、家康に相談した。
「竹千代に附申(つけもうす)家老共(かろうども)の儀(ぎ)、私(わたくし)所存(しょぞん)には酒井雅楽(さかいうた。忠世)を後見(こうけん)に備(そな)へ、土井大炊(どいおおい。利勝)を諫言(かんげん)の臣となし、青山伯耆(あおやまほうき。忠俊)をもりに付申(つけもうす)べくと存候(ぞんじそうろう)。如何(いかが)御座(ござ)あるべく哉(や)。」
(竹千代につける家老たちの件ですが、私は酒井雅楽頭を後見役、土井大炊頭を諫言役、青山伯耆守を傅役(もりやく)にと考えております。いかがでございましょうか。)
家康は秀忠の人事案に賛同し、次のようなお墨付きまで与えた。
「一段(いちだん)尤(もっとも)然(しか)るべきなり。竹千代をば彼等(かれら)三人に任せられ、脇より何様の事を申共(もうすとも)少しも聞入(ききいれ)ず、彼等三人一同にして守立(もりたて)よと申付候(もうしつけそうら)ハバ、竹千代は名将軍に成申(なりもうす)べし。」
(最適な人事だ。竹千代を彼ら3人に任せ、ほかからどのようなことを言おうとも少しも聞き入れず、「3人一同で竹千代を守り立てよ」と申しつければ、竹千代は将来名将軍となろう。)
こののち家康は、3人を召し出して
「秀忠同前に我も頼むぞ。」
(秀忠同様、私からも竹千代のことを頼むぞ。)
とじきじきに孫の教導を依頼し、
「汝等(なんじら)三人一和して諫言(かんげん)をせよ。」
(お前たち3人協力して、竹千代に諫言せよ。)
と命じた。
歴代将軍からのじきじきの頼みである。3人は命がけで家光(竹千代)の補佐に当たり、「寛永の三輔(さんすけ)」とよばれた。
しかし、家光(竹千代)にしてみれば、口うるさい3人の重臣から入れ代わり立ち代わり厳しく叱責される。たまったものではない。しばしば癇癪をおこし、怒りがおさまらないこともしばしば。
たとえば、青山忠俊は大坂の陣で勇名を馳せた武将だったため、家光への諫言もついついきびしくなりがちだった。その結果、家光の勘気(かんき)にふれ武蔵岩槻(むさしいわつき)4万5千石から上総大多喜(かずさおおたき)2万石に減封され、蟄居(ちっきょ)中にその生涯を終えるはめになった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 酒井雅楽頭忠世」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年4月15日(金) |
本多正信、加増を断る |
石川正西の『聞見集』によれば、本多正信の家は見るからに粗末で、衣服なども質素。持ち鑓(やり)などの鞘留(さやど)めは紙縒(こより)で済ませていたという。一事が万事この調子で、外見・外聞にこだわらない質素な生活を送った。
そもそも本多正信といえば、家康・秀忠2代の将軍につかえた重臣である。関東総奉行や老中職をつとめ、2代の将軍から絶大な信頼を得ていた。
しかし、正信の石高はわずか1万石(のち秀忠時代に加増されて2万2千石)に過ぎなかった。重臣にしてはあまりに少ない。そもそも老中に任命される条件は、石高2万5千石以上を領する城持ちの譜代大名ということになっている。正信は城さえ持っていなかった。
そこで正信に対し、将軍家からたびたび加増の打診があった。しかしその都度、正信は固辞していたのである。
「城ある所にて佐渡殿(本多正信)へ知行(ちぎょう)遣(つか)ハさるべきよし上意(じょうい)御座候(ござそうら)へども、達(たっ)て辞退あって終(つい)に城主に成候(なりそうら)ハず候(そうろう)。」(『聞見集』)
「(正信は加増を)かたく辞し申(もうし)て給(たま)ハらず。地を領することわずかに二万余石といふ。」(『藩翰譜』)
なぜ、正信はかたくなに加増を断り続けたのだろうか。
それは正信が、大名家断絶の原因の多くは
「大身(たいしん。禄高が多いこと)と奢(おごり。ぜいたく)とのふたつにあり。」(『改正太平秘記』)
と考えていたからだ。そこで2代将軍秀忠には、嫡男本多正純の処遇について次のように頼んでいたという。
「正信が奉公の労をわすれ給(たま)ハで長く子孫の絶(たえ)ざらん事(こと)を思召(おぼしめ)さバ、嫡男(ちゃくなん)上野介(こうづけのすけ。正純)が所領今のままにてこそ候(そうろう)べけれ。かならずあまた(数多。たくさん)給(たま)ふべからず。」(『藩翰譜』)
(私の功労をお忘れにならず、本多家の永続を希望されるならば、嫡男正純の所領は現状のままにしておいてくださいますように。決して多くを下賜されてはなりません。)
しかし正純の石高は、元和2(1616)年、家督の相続によって3万3千石から5万5千石に増えた。さらに3年後には、宇都宮城主に封ぜられて15万5千石を領することになった。実に父の7倍もの石高を領する「大身」となったのである。
ほどなく正純は、謀反の罪で羽州由利へ配流になった。正信が恐れていたとおり、
「(本多正純は)所領多く給(たま)ひしが、はたして其家(そのいえ)絶(たえ)」(『藩翰譜』)
てしまった。
【参考】
引用史料はすべて内山温恭編『流芳録』巻之二、「御老中 本多佐渡守正信」の項、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004による。 |
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2022年4月14日(木) |
本多正信の人がら |
本多正信の人がらをうかがい知る逸話。『聞見集』による。
大閤(太閤。豊臣秀吉)御代(みよ)の内にて、大方御所様(徳川家康)は京・伏見・大坂おつめ(お詰め。勤番をする、控えている)被成候(なられそうろう)。関東中は本田佐渡殿(本多佐渡守正信)仕置(しおき。統治、管理)次第(しだい)に被成(なられ)、将軍様にも御異見(ごいけん。意見、忠告)御申候(おんもうしそうろう)。
佐渡殿、御かたぎ(気質。性質、気風)は家作りなどもいかにもそさう(粗相。質素、粗末)に見ぐるしく(見た目がよくない)、衣装(いしょう)なども丹後つむぎ(くず繭などで織った着物)などやうなるものばかり、ふとん(蒲団)・こたつがけ(炬燵掛け)などもにたりもめん(似たり木綿。木綿に似せた布)にてめ(召)され候(そうらい)つる。
もちやり(持ち鑓)などもさやどめ(鞘留め)をくわんぜより(観世縒。こより)にめ(召)され、何にも万事(ばんじ)かまハずの御かたぎ(気質)にて、げすちかい(下種近い。身分の低い者、使用人)かやうのものも直(じか)に御用等(ごようなど)をも申候(もうしそうらい)つる。
瓜(うり)・なすび(茄子)のやうなるもの進(まいらせ。献上する)候(そうら)へバ手づから一ツ御取(おとり)、ほうし(芳志。親切な心遣い)にとるとて残りをバ御返し被成候(なられそうろう)まま、諸人(しょにん)忝(かたじけな)がり申(もうす)なる。
ある時、ひたちかしま(常陸鹿島。常陸国一宮鹿島神宮のこと)の鳥居(とりい)の木を将軍様よりつかハされ候(そうろう)。其(その)御礼(おれい)として神主江戸へ参上、佐渡殿へ嶋田次兵衛殿同道(どうどう。一緒に)にて御出候(おいでそうろう)折柄(おりがら)に、杉原(すぎはら。書写用の杉原紙)を持参被仕候(つかまつられそうろう)ヲ佐渡殿御覧(ごらん)じて被仰候(おおせられそうろう)ハ、
「よくこそ遠路(えんろ)御越候(おこしそうろう)。杉原は祝着(しゅうちゃく。ありがたく思う)いたし候へ共、返す。」
と御申候(おんもうしそうろう)。一見(いっけん)神主迷惑がり被申候(もうされそうろう)様子(ようす)を見及(みおよび)、次兵衛殿御申(おんもうす)は
「鳥居のいはゐ(祝い)に進被申候間(しんじもうされそうろうあいだ)、御おさめ可然(しかるべし)。」
の由(よし)、取合(とりあい。とりなしをする)にて候へバ、佐渡殿御笑(おわらい)ながら、
「此(この)杉原は、こねぎ共(小禰宜ども。神主より下の神職たち)の前より代物(しろもの。品物)をあつめ取(とり)て神主持参たるべし。神前へは我等(われら)からこそ何ぞきしん(寄進)申(もうす)べけれ。」
とて御返被成候(おかえしなられそうろう)。
我等(われら)居合(いあわせ)て見申候(みもうしそうらい)つるままに、今忘不申候(わすれもうさずそうろう)。(1)
【注】
(1)石川正西『聞見集 坤』、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0188、19コマ~20コマ。 |
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2022年4月12日(火) |
人材を抜擢する |
古代の三関(さんげん)といえば、伊勢国鈴鹿関(すずかのせき)、美濃国不破関(ふはのせき)、越前国愛発関(あらちのせき)の総称だ。畿内から見てすべて東国にある。ゆえに三関は、本州を東西に二分する要衝の地でもあるのだ。
弘仁元(810)年、愛発関にかわり近江関(おうみのせき)がおかれた。近江関はふつう近江国逢坂関(おうさかのせき)を指すと考えられているが、勢多関(せたのせき)という説もある。
勢多は、琵琶湖から瀬田川が流れ出る地点に位置し、
「其(その)のどくびを縊(くび)りて、其背(そのせ)をうつべきの要害の地」(1)
だった。そこで関ヶ原合戦(1600)後、家康はこの地に膳所城(ぜぜじょう。現、滋賀県大津市)を築くことにしたのである。
しかし、城を守護すべき武将がいない。おもだった武将たちはすでに各地の要害の地に配置され、残る者がだれもいなかったのだ。
そこで、家康は本多正信を呼んで相談した。正信は、戸田一西(とだかずあき)を推挙した。
「戸田左門一西(とださもんかずあき)、其器(そのうつわ)に當(あた)れり。武勇といひ、律儀(りちぎ)なる侍(さむらい)に候(そうろう)。」(2)
しかし、家康は難色を示した。戸田の石高はたかだか3千石に過ぎない。小禄の士に一城の主などまかせられない、というのだ。
これに対し正信は、次のように反論した。
「私ハ人の吟味(ぎんみ)を仕(つかまつ)るなり。小禄を大身(たいしん)になし給(たま)ふハ、君の御心(みこころ)にあり。」(3)
私は、膳所城主に最適任者を推薦した。小禄が人材登用の障害なら、大名に取り立てればよい。それは家康の決断一つにある、と。
そこで家康は、戸田に2万7千石を加増した。石高3万石の大名として、膳所城主に抜擢したのである。
有用な人材は世にあふれている。しかし、人材を見極める伯楽(はくらく)や決断力のある上司は少ない。だから、求人・転職サイトがこれほど盛況なのだろう。
【注】
(1)(2)(3)内山温恭編『流芳録』巻之二、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。「御老中 本多佐渡守正信」の項。 |
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2022年4月11日(月) |
本多正信の居眠り |
本多正信(ほんだまさのぶ。1538~1616)は、徳川家康の側近のひとり。
永禄7(1563)年、三河で一向一揆が起きた際には、一揆側に加担して家康と交戦。三河から一時退去したが、家康に召し返されて再度出仕。
天正14(1586)年、従五位下佐渡守(さどのかみ)に叙任。
天正18(1590)年には家康の「関東御打入(かんとうおんうちいり)」(関東入国)につき従い、その後1万石を下賜されて関東総奉行(かんとうそうぶぎょう)となった。
慶長10(1605)年には秀忠付きとなって秀忠政権を支え、加増され2万2千石を領した。
そして元和2(1616)年6月7日、家康が逝去した1カ月半後に没。享年79歳。
正信の功績は
「軍国の機務に預り、その功莫太(ばくだい)なり」(1)
と評価されている。
しかし正信は、口角泡をとばして直諫(ちょっかん)するでもなく、微にいり細にいり理路整然と説明するでもない。贅言(ぜいげん)を費やさず、意見は一言、二言を発するだけ。家康の意見に不同意の時は、居眠りを決め込んだという。
「正信、大御所の仰(おおせ)られし所、我(わが)心に得ざる時ハ打眠(うちねむ)りてのミ居(い)て、申旨(もうすむね)もなし。又、の給(たま)ふ所よしと思へる時には、ほめ参(まい)らする事限りなし。」(2)
(正信は、家康の意見に納得できない時は眠ったふりをして一言も発しなかった。一方、その意見をよしと思えば、家康をべた褒めした。)
こうした意思表示の仕方は、正信と上司(家康・秀忠)との日頃の信頼関係に由来する。
他の権臣たちが家康を「大御所」、秀忠を「将軍家」と呼ぶのに対し、正信は家康を「大殿(おおとの)」、秀忠を「若殿(わかとの)」と呼んだ。家康からは友人扱いされ、秀忠からは年長者の礼をもって遇せられていた。
こうした親密な間柄だったからこそ、以心伝心も可能だったのだ。
【注】
(1)(2)内山温恭編『流芳録』巻之二、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。「御老中 本多佐渡守正信」の項。 |
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2022年4月10日(日) |
大久保忠隣の改易(2) |
大久保忠隣(おおくぼただちか)は、なぜ突然改易されたのか。
当時でさえ「人々其故(そのゆえ)を知らず」(3)という状況だったため、その処分理由をめぐってはさまざまな憶測が飛び交った。現在も諸説あるものの、大久保長安(おおくぼながやす)の不正事件への連座とする見方が一般的だ。
だから忠隣の処罰を冤罪(えんざい。濡れ衣)と見て、同情する声もあった。
配所(近江国)生活が数年に及んだ頃、彦根藩主の井伊掃部頭直孝(いいかもんのかみなおたか)が忠隣に向かい、次のように言った。
「罪(つみ)なくて空敷(むなしく)なり給(たまわ)んこそいたわしけれ。申披(もうしひら)き給ふべきにて候(そうろう)」(4)
(無実のまま一生を終えられるのはお気の毒です。弁明すべきです。)
これに対して、忠隣は次のように答えた。
たとえ私に弁明すべきことがあったにせよ、私を処罰した大御所(家康)はすでに亡くなっている。今私を赦免(しゃめん)にでもすれば、それは息子である将軍(秀忠)が父親(家康)の判断を誤りだったと認めることも同じだ。そうなれば、世間の人々の大御所(家康)への信頼はゆらぐだろうし、将軍(秀忠)は父親(家康)の名誉を傷つけた親不孝者になってしまう。それは私の本意ではない。
「只(ただ)、此(この)侭(まま)にこそ候(そうろう)べけれ。」(5)
だから、現在の流謫(るたく)の身のままでいるのがよいのだ。忠隣はそう言ったのである。
配所で空しく一生を終える道を選んだ忠隣は、寛永5(1628)年6月27日に没した。享年76歳だった。
【注】
(3)(4)(5)内山温恭編『流芳録』巻之二、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。「御老中 大久保相模守忠隣」の項。 |
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2022年4月9日(土) |
大久保忠隣の改易(1) |
慶長19(1614)年正月、老中大久保忠隣(おおくぼただちか)は、当時京都の藤堂高虎(とうどうたかとら)邸に滞在し、将棋をうっていた(1)。そこへ板倉伊賀守勝重らが来邸し、忠隣に小田原城6万5千石を改易する旨の幕命を伝えた。
かくして62歳の閣老は突然に失脚したのである。
寝耳に水の報に、一番驚いたのは京都の市民たちだった。
大久保忠隣は歴戦の兵(つわもの)。幕府の処分に不満をもち、一戦に及ぶやもしれぬ。洛中洛外は、避難をはじめる人々で騒然となった。
「すハや、事(こと)の出来(いでく)ることぞと、資財(しざい)・雑具(ざつぐ)を爰(ここ)かしこに持運(もちはこ)び、以(もって)の外(ほか)騒動(そうどう)す。」(2)
この騒ぎを知った忠隣は、武器類をことごとく板倉勝重の元に送り、臣下たちはすべて解雇して関東にかえした。
よって、ほどなく京都の人心は収まったのである。
【注】
(1)忠隣の京都出張の目的は、キリスト教取り締まりにあった。『寛政重修諸家譜』には次のようにある。
「台徳院殿(秀忠)忠隣をめされ、近年京都耶蘇宗門の徒邪法をすすめ、年を追て群をなし、人を惑はしむるの害甚し。汝かの地におもむきこれを糺問し、もしその事明察しがたきにをいては、また長崎につかはされ、西國をたださるべきのよしおほせをかうぶり、十九年正月十七日京師にいたり藤堂高虎が邸に宿す。ときに耶蘇宗門の師四條の二寺にあり。忠隣急にかの二寺を焼しめ、その徒を捕ふ。その師二人は西國に遁れ去る。」(『寛政重脩諸家譜.第4輯』1923年、國民圖書、P.797。国立国会図書館デジタル、請求記号:63-238。)
(2)内山温恭編『流芳録』巻之二、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。「御老中 大久保相模守忠隣」の項。 |
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2022年4月8日(金) |
大久保忠隣の機転 |
文禄4(1595)年、太閤秀吉から謀反の企てがあると疑われた関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ。1568~1595)。こうなった上は、秀吉によって殺されることは必至。
当時、徳川秀忠(とくがわひでただ。1579~1632)が京都の屋敷にいた。そこで、秀忠を捕えて人質にし、徳川家康に秀吉へのとりなしを頼もうと考えた。
4月3日の暁(あかつき)、秀忠のもとに関白秀次の使者がやってきて、次のような口上を述べた。
「今朝(けさ)の朝餉(あさげ、あさかれい)まいらせん。」
(本日の朝食をご馳走いたしましょう。)
応対に出た大久保忠隣(おおくぼただちか。1553~1628)は、直ちに秀次の意図を察知した。これは、秀忠を人質に取るための口実だと。そこで、次のように告げて、いったん使者を帰らせた。
「忠隣謹(つつしみ)て仰(おおせ)を承(うけたまわ)りぬ。秀忠未(いま)だ幼く、いつも日たけて起(おき)ぬ。御返事(ごへんじ)遅々(ちち)に及(およ)ばん事(こと)、憚(はばかり)少なからず。先(まず)御使(おつかい)をば返し畢(おわんぬ)。忠隣仰(おおせ)を伝へて頓(やが)て参(まい)らすべきにて候(そうろう)。」
(この忠隣が謹んでお話を承りました。しかし秀忠はまだ(17歳と)若いので、いつも日が高くのぼる頃にならないと起床しません。それではご返事が遅くなり、御使者をお待たせするなど心苦しい限り。まずは御使者にお帰り願い、秀忠起床後にこの忠隣が言づてし、直ちに参上させることにいたしましょう。)
使者を返すと、忠隣は土井甚三郎(土井利勝。1573~1644)ら5、6人の者を供につけ、密かに秀忠を屋敷から伏見の館へ脱出させた。その後も、関白秀次から催促の使者がたびたびに及んだ。
忠隣はふたたび使者に対面すると、とぼけて次のように応えた。
「秀忠兼ねてより云合(いいあわ)する人有(あり)て、茶の会せんとて今暁(こんぎょう)伏見に赴(おもむ)く。忠隣さる事ありとも存ぜず、例の日たけて起(おき)る事よと心得て候(そうら)ひき。今こそ斯(かく)とは承(うけたまわ)れ。返す返すも恐入(おそれいり)ぬ。」
(秀忠にはかねてから茶会を約束した人がいて、今朝早くに伏見に行ったとのこと。私はそんなこととはつゆ知らず、いつものように日がたかくなってから起床するものと思い込んでおりました。今しがたこのことを知らされたのです。まことにお詫びのしようもございません。)
日はすでに午(うま)の時(昼12時頃)。もはや、追いかけていって秀忠を捕まえることもできない。秀次は悔しがったが、自身はほどなく高野山に追放されて自害を命じられた。
忠隣の機転は、大久保家の大功の一つとされたという。
【参考】
・新井白石『藩翰譜.巻2』1952~1954年、P.9~10(大久保忠隣)。国立国会図書館デジタル、請求記号:4ー278イ。
・新井白石『藩翰譜.巻3』1952~1954年、P.8~9(土井利勝)。国立国会図書館デジタル、請求記号:4ー278イ。 |
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2022年4月7日(木) |
のりかけ |
江戸時代の史料を読んでいると、「乗掛(のりかけ)」という表現が出てきた。乗掛は、人が乗る駄賃馬のことだ。
江戸時代、荷物を運搬して賃金を得る駄賃馬には、本馬(ほんま)、乗掛(乗懸。乗尻(のりじり)ともいう)、空尻(軽尻。からじり)の区別があった。
本馬(ほんま)は、40貫目(約150kg)まで荷物を積むことができる
駄賃馬のこと。この場合、人が乗ることはできない。
乗掛(のりかけ)は、人ひとりが馬に乗り、荷物を積むこともできた。馬の両側に葛籠(つづら。これを明荷(あけに)といった)二つを渡し、その上に敷いた蒲団に人が乗った。荷物は最大20貫目(75kg)まで載せられた。人と荷物の重量を合わせると、ほぼ本馬の積載量と同等だった。
空尻(からじり、かるじり)は、本馬の積載量の半分(20貫目、約75kg)までを乗せた。人(または荷物)が乗っていない「空(から)の馬」であるところから「空尻」といった。荷物をつけずに人ひとりが乗ることもできた。その場合は、手回り荷物を5貫目(約20kg)まで乗せることが許された。
乗掛以外に、複数人を乗せて運ぶ駄賃馬もあった。馬の背の両側に方形の枠をつけて二人乗るものを二宝荒神(にほうこうじん)、馬の背と左右に枠をつけて三人乗りができるようにしたものを三宝荒神(さんぽうこうじん)といった。重量制限があり、女性や子どもの利用が多かったという(注)。
なお、荒神は仏法僧の三宝(仏教)を守護する神。火で不浄を焼き払うとされたところから、近世以後民間では台所に竈神(かまどがみ)としてまつった。
【注】
・歌川広重の『東海道五十三次』の内「吉原」には、乗掛と三宝荒神が描かれている。 |
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2022年4月6日(水) |
異国船打払令が対象にした異国船とは? |
異国船打払令は文政8(1825)年、幕府が全国に発令した。この法令に関しては、「オランダ・中国・朝鮮・琉球以外の異国船を、武力で打ち払うことを幕府が命じたもの」という説明がよく見られる。
本当だろうか。
日本沿岸に居住する民衆に、初めて見る異国船がどこの国の船なのか判別などできたのだろうか。フェートン号事件(1808)では、幕府ですらイギリス船(フェートン号)の長崎侵入を許してしまっているのに。
法令を読むと、唐(清国)・朝鮮・琉球の船は、船形や人物で判別もできようが、オランダ船はほかのヨーロッパ系の異国船とは見分けがつきにくい。間違って打ち払ってしまっても処罰しないから、異国船を見かけたら
「二念なく(迷うことなく)打ち払ひを心掛け、図を失はざる様(時機を失しないよう)取計(とりはから)ひ候(そうろう)」
ようにと命じている。
この法令中の「二念なく打ち払ひを心掛け」という文言から、異国船打払令は別名「無二念打払令(むにねんうちはらいれい)」ともよばれている。つまり、いずれの国の船なのかは判別しがたいので、見誤っていても構わないから、異国船を見かけたならただちに打ち払ってしまえ、と言っているのだ。
したがって、異国船打払令の対象はすべての異国船だったのだ。 |
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2022年4月4日(月) |
大筒と石火矢 |
近世の火器に、大筒(おおづつ)と石火矢(いしびや)がある。その字面(じづら)を見ての先入観によるものなのだろう、どちらもその実体がよく誤解される。
たとえば、大筒(おおづつ)といえば砲身からボーリング球(だま)大の砲弾が飛び出す大砲のようなものを思い浮かべ、石火矢(いしびや)といえば砲身から火のついた矢が飛び出すような武器を想像する、といったたぐいだ。
実際には口径の大きい短寸の鉄炮のうち、筒が肉厚で玉目が数百匁(もんめ)に及ぶ大型のものを大筒という。いわば火縄銃の大きなものだ。大筒といっても、鍛造技術の関係で口径はせいぜい5cm程度が限界だったという(1)。直径5cmの砲弾というと、こどもの拳(こぶし)ひとつ分ほどの大きさだ。
鉄製の大型砲である大筒に対し、青銅製の大型砲を石火矢(いしびや)といった。石火矢は鋳造製だったので、大筒より口径を大きくできた。それでもその大きさは、せいぜい10cm程度だったという(2)。
つまり、大筒にせよ石火矢にせよ、近代的な大砲を連想するのは誤りなのだ。
【参考】
(1)(2)近藤好和『武具の日本史』2010年、平凡社新書、P.258~259
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2022年4月1日(金) |
うわなりうち(2) |
愛人宅が襲われた翌日、頼朝は遊興にことよせ、鐙摺(あぶずり。現葉山町)にあった大多和義久(おおたわよしひさ)の家に行った。そこで、居宅を破壊された伏見廣綱(ふしみひろつな
)から事件のあらましを聞くと、平伏している牧宗親の髻(もとどり)を自ら切りとり、次のように叱責した。
「御臺所(みだいどころ。政子)を重んじ奉(たてまつ)事に於(おい)ては、尤(もっと)も神妙(しんみょう)なり、但(ただ)し彼(か)の御命(ぎょめい。命令)に順(したが)ふと雖(いえど)も、此(こ)の如(ごと)き事は、内々盍(なん)ぞ告げ申さざるや」(1)
政子を重んじる姿勢は、まあよい。しかし、政子の命令とはいえ、愛人宅を襲撃するなら、内々に俺に知らせるべきだろう。そう言って頼朝は怒ったのだ。
髻(もとどり)を切られるというのは、当時としてはひどい恥辱だったという。そのため、『吾妻鏡』によれば
「宗親泣いて逃亡す」
とある。牧宗親は、北条時政の後妻牧の方の兄(または父)である。宗親が大恥をかかされたことに腹を立てた時政は、にわかに鎌倉から伊豆へと立ち退いてしまった。
頼朝はその後どうしたか。
愛人宅の襲撃からちょうど1カ月後、『吾妻鏡』の寿永元(1182)年12月10日の条には次のようにある。
「十日、丙午(ひのえうま)、御寵女(ごちょうじょ。愛妾の亀の前)、小中太光家(こちゅうたみついえ。中原光家)の小坪(こつぼ。現逗子市)の宅に遷住(せんじゅう。引っ越す)す、頻(しき)りに御臺所(みだいどころ。政子)の御氣色(みけしき。機嫌)を恐(おそ)れ申(もう)さると雖(いえど)も、御寵愛(ごちょうあい)日を追ひて隆盛(りゅうせい)の間(かん)、憖(なまじい。なまじっか)に以(もっ)て仰(おおせ)に順(したが)ふと云々(うんぬん)、」(2)
頼朝は愛人を別の部下の家にかくまい、相も変わらず密会していたのだ。本当に懲りない男である。かつても頼朝に愛人との密会場所を提供した光家(3)は、政子の機嫌を損なうことを恐れながらも、頼朝の再度の要求を強いて拒みきれなかったのだ。
12月16日、頼朝の愛人(亀の前)を居宅にかくまって破却の目に遭った伏見廣綱(ふしみひろつな)が、遠江国(とおとうみのくに。現静岡県)に流罪となった。理由は
「是(これ)御臺所(みだいどころ)の御憤(おんいきどおり)に依(よ)るなり」(4)
という。政子の怒りはおさまってはいなかったのだ。
【注】
(1)龍肅訳注『吾妻鏡(一)』1939年、岩波書店、P.108
(2)『吾妻鏡(一)』P.109
(3)『吾妻鏡(一)』P.101
(4)『吾妻鏡(一)』P.110 |
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2022年3月31日(木) |
うわなりうち(1) |
NHKの大河ドラマ(鎌倉殿の十三人)で「うわなりうち」を取り上げていた。
北条政子は出産直後、夫頼朝が愛人と浮気を繰り返していた事実を知る。そこで夫の裏切りに激怒した政子が、愛人宅を「うわなりうち」と称して襲うという設定だ。ドラマでは、申し訳程度に建物を壊すつもりであったものが、家を全壊させた上、放火までするという大事件になってしまっている。
手元の日本史辞典で「うわなりうち」を引くと、次のような説明がある。
「うわなりうち【後妻打ち】女の騒動打ちとも。後妻を迎えるとき、前妻が意趣晴らしに親しい女たちと団結し、生活用具を武器に後妻を襲い、家財などを打ち壊す行動。男がこれに加勢することはなかった。( 後略 )」(1)
頼朝は政子を離縁して後妻をもらっているわけではないし、政子自身が女仲間と共謀して後妻宅を襲ったわけでもない。実際は男(牧宗親(まきむねちか))に命じて、愛人が潜んでいた家屋を破却させたのだ。
政子の行動は、本当に「うわなりうち」といえるものなのか。『吾妻鏡』にも、政子の行動を「後妻打ち」とは書いてはないのだが。
とりあえず参考までに、『吾妻鏡』の該当部分を掲げておこう。
「(寿永元(1182)年11月)
十日、丁丑(ていちゅう、ひのとうし)、此間(このかん)、御寵女(ごちょうじょ。愛妾)亀前(かめのまえ)、伏見冠者廣綱(ふしみのかじゃひろつな)の飯島(いいじま。現逗子市)の家に住するなり、
而(しか)るに此事(このこと)露顯(ろけん。ばれること)して、御臺所(みだいどころ。頼朝の正室、政子)殊(こと)に憤(いきどお)らしめ給(たま)ふ、是(これ)北條殿(ほうじょうどの。時政)の室家(しっか。妻)牧御方(まきのおかた)、密々(みつみつ)申(もう)さしめ給(たま)ふの故(ゆえ)なり、
仍(よ)つて今日、牧三郎宗親(まきのさぶろうむねちか。牧の方の兄。または父という)に仰(おお)せて、廣綱の宅を破却し、頗(すこぶ)る恥辱(ちじょく)に及ぶ、廣綱彼人(かのひと。亀の前)を相伴(あいともな)ひ奉(たてまつ)り、希有(けう)にして(命からがら、かろうじての意)遁(のが)れ出(い)で、大多和五郎義久(おおたわごろうよしひさ)の鐙摺(あぶずり。現葉山町)の宅に到(いた)ると云々(うんぬん)」(2)
(寿永元年11月10日、丁丑の日。頼朝の愛人である亀の前が、廣綱宅に身を寄せていた。しかしこれがばれて、政子の激しい怒りを買った。これは政子の義理の母牧の方が告げ口したからだ。そこで今日、政子は牧宗親に命じて廣綱宅を破壊させてはずかしめた。廣綱は亀の前を連れて命からがら逃げ出し、大多和義久の家に到ったということだ。)
【注】
(1)『日本史広辞典』1997年、山川出版社、「うわなりうち」の項。
(2)龍肅訳注『吾妻鏡(一)』1939年、岩波書店、P.107 |
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2022年3月28日(月) |
尚侍(ないしのかみ)が消えた |
尚侍(ないしのかみ)は内侍司(ないしのつかさ)の長官で、養老令によれば定員が2名の後宮職員だった。
尚侍(ないしのかみ)は常に天皇に近侍し、各役所からの上奏を天皇に取り次いだり、天皇の命令を各役所に伝達したりする奏請伝宣のことや、女嬬(にょうじゅ。定員100人)の監督に当たる等の仕事にあずかった。
尚侍(ないしのかみ)は、摂関政治期には藤原氏の娘の多くがこの任にあった。
たとえば、朱雀天皇(すざくてんのう)の時の尚侍(ないしのかみ)貴子(きし)は太政大臣藤原忠平の娘、円融天皇の時の尚侍婉子(えんし)は太政大臣藤原兼家の二女、一条天皇の時の尚侍妍子(けんし)は左大臣藤原道長の二女である。
尚侍(ないしのかみ)を足がかりとして、天皇と姻戚関係を結ぶこともあった。尚侍(ないしのかみ)だった藤原妍子は、のち三条天皇の女御(にょうご)となり、ついで中宮(ちゅうぐう)にのぼった。
藤原氏による摂関政治の時期には、
「尚侍(ないしのかみ)は執柄(しっぺい。摂関家)の女(むすめ)などこれに任ず。女御(にょうご)・更衣(こうい)同程のことなり。」(『百寮訓要抄』)
とされたが、堀河天皇以降、尚侍(ないしのかみ)の任命はふっつりとなくなった。この時期は、ちょうど院政がはじまった時期と符合している。
それはつまり、藤原氏が自分の娘を皇后・中宮などとして天皇と婚姻関係を結び、生まれた新天皇の外祖父として権力を握るという摂関政治の時代が終焉したことを意味するものだ。
【参考】
・浅井虎夫著・所京子校訂『新訂女官通解』1985年、講談社学術文庫、P.149~155 |
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2022年3月26日(土) |
目指すはナンバー2 |
「女は内侍(ないし)のすけ。内侍。」(清少納言『枕草子』)
平安時代、宮仕えする女性が目指したあこがれの官職は、典侍(ないしのすけ)だった。典侍(ないしのすけ)は、内侍司(ないしのつかさ)の次官をいう。
内侍司(ないしのつかさ)は、天皇・官人間の取り次ぎ(奏請・伝宣)や後宮の礼式などを司る役所で、職員はすべて女性だった。彼女たちを束ねるトップが、尚侍(ないしのかみ)である。
しかしなぜ、平安時代のキャリアウーマンは、トップである尚侍(ないしのかみ)を目指さず、ナンバー2の典侍(ないしのすけ)を目指したのだろうか。
それはこの時期の尚侍(ないしのかみ)は、上流貴族の娘しか就任することができなかったからだ。
尚侍(ないしのかみ)には、天皇の身辺の世話をするとともに、天皇の就寝時には添い臥(ぶ)し(添い寝する)をする役目があった。これはまるで夫婦と同じ。
つまり摂関期の尚侍(ないしのかみ)は「后(きさき)がね」(天皇の将来の后妃候補生)として、摂関家など有力貴族の娘しかその地位に就くことはできなかったのだ。
その結果、内侍司における事実上のトップは、次官の典侍(ないしのすけ)であった。
だから、平安時代の宮仕え女性の理想は、典侍(ないしのすけ)になることだったのだ。
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2022年3月25日(金) |
女房があるなら |
伊勢貞丈(いせさだたけ。1717~1784)は有職故実の第一人者だ。その貞丈が、古文辞学派の儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい。1666~1728)を、「物知らず」と罵倒した。
発端は、徂徠が『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』のなかに「男房(なんぼう)、女房(にょうぼう)」という言葉を見つけたことにある。
徂徠はこれを根拠に「昔は女房(部屋を賜って禁中に仕える女官)ばかりでなく、男房もいたのだ」と言った。これに対し貞丈は、「男房などいない。古書でも見たことがない。女房と言った言葉の勢いで、戯れに男房と書いただけだ」とその存在を真っ向から否定した。その上、
「荻生は隣(となり)の国の事をば委(くわ)しく知りたれ共(ども)、我(わが)居住する日本のことには甚(はなは)だうとき人にありしゆゑ、たまたま男房と云(い)ふ事を見つけて、おどろきたるなり。」
(徂徠は中国のことには詳しいが、自分が住む日本のことにはたいへん疎い人だ。それで、偶然「男房」という言葉を見つけて驚いたのだ。)
と言って嘲笑したのだ。
しかし、浅井虎夫氏は、節度を欠いた貞丈の反論を、次のように批判する。
「自己の目に偶(たまたま)ふれざりしことをもって、古(いにしえ)なしと断ずるは、あまりに早計なるが上に、徂徠を駁撃(ばくげき)するの度を失する、また甚(はなは)だしというべし。」
(貞丈は、「男房」と書いてある史料を自分がたまたま目にしていないことを根拠に、「昔は男房などなかった」と断定した。その判断はあまりに早計だ。しかも、徂徠への反駁(はんばく)の態度が、はなはだしく度を失している。)
そして、浅井氏は「男房」を載せる史料を提示すると、徂徠が正しく貞丈が誤りであると断じたのである。
「有職故実の専門家」という自負が裏目に出たのか、貞丈には謙虚さが足りなかった。その結果、思わぬ所で後世の碩学(せきがく)の反駁(はんばく)に遭(あ)ったのだ。
なお、『広辞苑』は「男房」について、次のように記す。
なん-ぼう【男房】・・バウ
局(つぼね)を賜って禁中に仕える男子。特に蔵人(くろうど)の称。保元物語(金刀比羅本)「御所中の女房・-・・・皆涙を流し」←→女房 (『広辞苑』第6版)
【参考】
・浅井虎夫著・所京子校訂『新訂女官通解』1985年、講談社学術文庫、P.69~70 |
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2022年3月24日(木) |
かにもり |
大老の井伊直孝(いいなおたか)は「掃部頭(かもんのかみ)」だ。掃部頭の本来の意味は、宮中の清掃・敷物・設営のことを掌る役職の長官のことという。
ところで、なぜこうした職を「かもん」と称するのだろう。調べてみると、そもそも「かもん」は「かにもり」に由来する言葉だという。
『古語拾遺(こごしゅうい)』には、次のような起源説話を載せる(1)。
神代のこと、天祖彦火尊(あめのみおやひこほのみこと)が海神(わたつみ)の娘豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と結婚して彦瀲尊(ひこなぎさのみこと。神武天皇の父)を生んだ。
その際、海辺に産屋(うぶや)を建てると、天忍人命(あめのおしひとのみこと)がほうきを作って蟹を掃(はら)った。そこでこうした職を「蟹守(かにもり)」と号したのだという(2)。のちにこの職は、斎部広成(いんべのひろなり。生没年未詳。平安初期の官人で『古語拾遺』の撰者)の時代には、「借守(かりもり)」と称していたという。
つまり、もともと「かにもり」と称していた言葉が、平安時代の初期には「かりもり」の発音に転じていたというのだ。後世、この「かりもり」が「かんもり」、さらに「かもん」へと転じたのである。
ただし上記の「かにもり」起源説話は俗説であって、「かにもり」と蟹は本来無関係であるとする異論もある。
「かにもり」の「かに」は「かむ」「かみ」の転訛(てんか)であって、殿上・座上を意味する。よって「かにもり(かむもり、かみもり)」とはもともと「殿上を掃除して守る職」を指す言葉ではなかったか、というのだ(3)。
【注】
(1)斎部広成撰・西宮一民校注『古語拾遺』1985年、岩波文庫、P.31
(2)『古語拾遺』の筆者斎部広成は「蟹守(かにもり)」を「箒(ほうき)で蟹をはらう」意と解釈した。しかし実際にはその逆で、「出生児の守護動物たる蟹が逃出さぬように番をする人」が「蟹守」なのだという。(同書注68、P.82~83。同書解説、P.174)。
(3)『大百科事典・第3巻』1984年、平凡社、「かにもり(掃部)」の項(石上英一氏執筆)。 |
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2022年3月23日(水) |
几帳面な秀忠 |
2代将軍徳川秀忠(1579~1632)は几帳面な性格だった。いったん自分が決めたことは、必ず実行した。
たとえば鷹狩りに行った際。狩猟開始時刻を辰刻(たつどき。午前8時頃)といったん決めたら、時計が辰刻を告げたと同時に、食事途中であっても箸を投げ捨てて鷹狩りに出ていくのだった。
そこで近習(きんじゅ、きんじゅう。将軍にそば近くに仕える者)たちは、秀忠の食事が済むまで時計が鳴らないように細工した。秀忠にしっかり食事を摂ってもらおうという心遣いだった。
これを聞いた大老の井伊掃部頭直孝(いいかもんのかみなおたか。1590~1659)は、近習たちを叱り飛ばした。理由はどうあれ、臣下が将軍の意向に背き、主人をだましたことには変わりがなかったからだ。
「君、正しき道を御好(おこのみ)なされ候(そうらえ)へバ、随分(ずいぶん)と面々も正しき道理を助け申さるべきに、左(さ)ハなく、偽事(いつわりごと)して御心(みこころ)に合(あわ)んといたさるるハ不届沙汰(ふとどきざた)の限り。君をだまして能(よき)事や。
是(これ)ハ僅(わず)かの事なりと心得(こころえ)られなば、弥(いよいよ)不届(ふとどき)なるべし。すべて信を失ふとて、上よりの御法令ハ、山ハ崩(くず)るるとも動(うごか)すべからざる事也(ことなり)。
左様(さよう)にて君をだましたらんには、下々(しもじも)ハ上に遠ければ上の正しきを御好(おこのみ)なされ候(そうろう)事ハ知らず。上を怨(うらむ)るもの出来(いでき)て、終(つい)には君と下と相(あい)遠ざかりて、奸臣(かんしん。悪だくみをする家臣)さまざまの儀を仕出(しだ)すものなり。
以来、急度(きっと)慎(つつし)まれよ。」
(主君が正しい道を好み、それを実行しようとしている。臣下ならそれを手助けするのが道理。それを、いつわりごとで対処するなどとはもってのほか。そもそも主君をだましてよいはずがない。
これをささいなことと軽く考えるなら、ますますもって不届きな心がけだ。総じて信頼を失うもとなので、主君の命令は決してゆるがせにしてはいけないものなのだ。
かように主君をだましていると、主君から遠い位置にいる下々の者は、主君が正しい道を好むことなどわからない。そのうち主君を怨むものが出てきて君臣の離間がおこり、そこにつけこんだ奸臣がさまざまな悪事を働くようになるものだ。
以後、こうしたことは厳に慎まれよ。)
善意であっても、些細なごまかしの積み重ねが、とんでもない事態につながることがある。「蟻の穴から堤(つつみ)が潰(つい)える」こともあるのだ。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之一、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。「御大老職 井伊掃部頭直孝」の項。 |
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2022年3月22日(火) |
何の間に合わせた? |
問.「間合紙(まにあいがみ)」という和紙がある。いったい何に使われた紙なのだろうか(三択)。
1.江戸時代、トイレの落とし紙として使用された。
2..江戸時代、大福帳の用紙として使用された。
3..江戸時代、目録の紙として使われた。
【答え】 3
間合紙(間似合紙)は、本来は雁皮(がんぴ。ジンチョウゲ科の落葉低木の表皮)繊維に色土を混ぜて漉(す)いた大型の和紙のこと(その後、三椏(みつまた)を使用)。その用途は襖(ふすま)・屏風(びょうぶ)用だった。横幅を長く漉いて「襖の幅である半間(はんけん。1間の半分で約90cm)の間(ま)に合うように作った」たため、この名がある。
「3.江戸時代、目録の紙として使われた。」の「目録」とは、領知宛行状(りょうちあてがいじょう)に添付された目録(領知目録)を指す。
4代将軍徳川家綱の時代から、大名・公家・寺社には領知宛行状が発給されるようになったが、大名(蝦夷地の松前氏を除く)と一部の大寺院には国郡の石高・村数・村名を記した目録(領知目録)が、別紙として添付された。
領知宛行状の料紙には大高檀紙(おおたかだんし。縮緬状のしわのある高級紙)を、目録の料紙には間合紙をそれぞれ用いるのが決まりだった。
目録は、縦38.9cm×横95cmの間合紙1枚の使用が原則だった。しかし、大名によっては郡村数がやたら多い場合がある。その際には、間合紙が3枚継ぎ(長さ3m弱)になることもあったという。
【参考】
・『広辞苑(第6版)』、『マイペディア』等
・日本歴学会編『概説古文書学・近世編』1989年、吉川弘文館、P.15 |
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2022年3月21日(月) |
大老はうるさいやつばかり |
酒井雅楽頭忠清(さかいうたのかみただきよ)に代わり、天和元(1681)年に老中から大老職に就任したのが堀田筑前守正俊(ほったちくぜんのかみまさとし。1634~1684)だった。
正俊は貞享元(1686)年8月28日、殿中において稲葉石見守正休(いなばいわみのかみまさやす。1640~1684)に刺殺されるが、世間の同情はむしろ加害者の正休の方に集まった。大老としての正俊には驕慢(きょうまん)さが目立った、というのがその理由だった。
しかし、綱吉政権期の前半、「天和の治(てんなのち)」と後世評価される善政を主導したのは正俊だった。将軍に対してもずけずけ意見し、「おもねり申事(もうすこと)は一度も無之(これなし)」(『鳩巣小説』)という正俊の姿勢が、外部の目には驕慢と映ったのかもしれない。そんな正俊がいなくなると、ついつい暴走しがちな綱吉の手綱を取るものが、誰もいなくなった。
綱吉は能狂いと思われるほど、能に耽溺(たんでき)した。
自ら能を舞い、大名や家臣たちにも能を舞うよう強要した。そのため大名や家臣たちは、将軍の歓心を買うため、能の修行につとめなければならなかった。そのうち綱吉は、能役者を自分の近辺に置きたいがために、幕臣に取り立てもした。
こうした公私混同は、正俊が存命中であったなら、決して起きないことだった。
「堀田筑前守正俊存生(ぞんせい。生きている時)の内は、常憲院殿(じょうけんいんどの。綱吉のこと)何(いずれ)にても御気随(おきまま)なる事(こと)ハ無之候(これなくそうろう)。何(いず)れも筑前守死後ニて候(そうろう)。役者を御取立(おとりたて)なされ候事(そうろうこと)など、急度(きっと)申上(もうしあげ)られ候故(そうろうゆえ)、正俊居(お)られ候内(そうろううち)は、役者御近習(ごきんじゅう)に召仕(めしつか)ハれ候事(そうろうこと)、無之候(これなくそうろう)。」(『鳩巣小説』)
(堀田筑前守正俊の存命中には、綱吉公にも勝手気ままなふるまいなどなかった。そうした行動をするようになったのは、すべて正俊死後のことである。正俊は、能役者を幕臣に取り立てることなどには、きっぱりと反対した。それゆえ、正俊存命中は、能役者を将軍の近習に召しつかうことなどなかったのである。)
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之一、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。「御大老職 堀田筑前守正俊」の項。 |
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2022年3月20日(日) |
下馬将軍の評判 |
酒井雅楽頭忠清(さかいうたのかみただきよ。1624~1681)は「下馬将軍(げばしょうぐん)」の異名をとるほどの権勢家で、4代将軍家綱の後継に宮将軍擁立を主張したという。何かと評判の悪い人物だ。
しかし、そんな評判の悪い人物を重用するほど、江戸幕府がまぬけだったとは思えない。曲がりなりにも大老に就任するほどの人物なのだ。
したがって、忠清の悪評はその死後、政敵などによって意図的に拡散された可能性もある。
事実、忠清に関しては好意的な人物評も残っている。忠清の下着は継ぎ接ぎだらけで奢侈(しゃし)を好まず(『常山紀談』)、「公儀を重じ、律儀なる」(『雑話燭談』)人柄だったという。
またその有能ぶりを示す、次のような逸話も残る。
寛文8(1668)年、2月1日から6日まで、江戸市中が大火に見舞われた。その対応に老中が集まって
「誠に天下の大変なり。諸寺諸山(しょじしょざん。諸寺院)に御祈祷(ごきとう)仰付(おおせつけ)られ然(しか)るべし。」
(まことに天下大変の災害である。諸寺院に命じて天下の安全を祈祷させるのがよかろう。)
などと話し合っていた。
忠清はその案を退けた。
「此度(このたび)類焼(るいしょう)申候(もうしそうろう)小身(しょうしん)の諸旗本(しょはたもと)其外(そのほか)町中へ御蔵(おくら。幕府の米蔵)開き、拝借(はいしゃく)仰付(おおせつけ)られ尤(もっとも)に候(そうろう)。」
(このたび類焼した中小の旗本たちやその外町人たちのために、幕府の米蔵を開放して米の拝借を命じられるべきである。)
まずは早急に、被災民救済策を打つが先決だと言ったのだ(『葛藤別紙』)。
また、大老という役目がら、将軍に対しても歯に衣(きぬ)着せず意見した。
将軍の綱吉(1646~1709)がよく調べもせず、ささいな落ち度に腹を立て、蜂須賀家を改易(かいえき。お家取り潰し)処分にしようとした。この時忠清は、綱吉に断然抗議した。
「御吟味(ごぎんみ)不足にて大名壱人(いちにん)御潰(おつぶし)し遊(あそ)バされ候(そうらい)てハ、 (中略) 天下の御為(おんため)も如何(いかが)に御座候(ござそうろう)。」
(ろくろく調べもせず、大名一人を改易に処しては、決して将軍のおためにはなりません。)
結局、蜂須賀家は閉門処分にとどめられ、改易を免れたのである(『葛藤別紙』)。
時として忠清の諌言(かんげん)に、綱吉は機嫌を損ねた。しかし、心ある者は、
「さすが天下の大老。外(ほか)の者ならバ中々(なかなか)ケ様(かよう)に申上(もうしあげ)る事(こと)、成間敷事(なるまじきこと)ニ候(そうろう)。皆以(みなもって)、天下の御威光(ごいこう)御為(おんため)と思ハれての事」
(さすがは天下の大老である。ほかの者なら、このような諌言を将軍に申し上げることはなかなかできないことだ。こうした諌言はすべて、将軍の御威光を保つためにと思われてのことだ。)
と忠清を評価していたのである(『葛藤別紙』)。
しかし、耳に痛いことをずけずけ言う忠清は、綱吉にとっては「目の上の瘤(こぶ)」以外の何物でもない。綱吉は将軍に就任した延宝8(1680)年のうちに、忠清の大老職を罷免。忠清は翌天和元(1681)年2月に隠居し、5月には死去してしまった。享年58歳だった。
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之一、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。「御大老職 酒井雅楽頭忠清」の項。 |
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2022年3月19日(土) |
知行100石と蔵米100俵、どっちがお得? |
江戸時代、幕府から旗本への給与の支払い方法には、土地給付と現米支給という二通りがあった。
それでは、100石の土地をもらう地方知行(じかたちぎょう)と、米100俵をもらう蔵米(くらまい)取りとでは、どちらが得なのだろう?
知行100石とは、玄米生産力が100石ある土地の支配をまかせられるという意味だ。しかし、100石全部が領主の収入にはならない。農民の手元にも生活費等を残さなければならないからだ。
領主(公)の取り分と農民(民)の取り分は、江戸初期は4公6民(税率40%)、享保年間には5公5民(税率50%)だったと高校日本史教科書には書いてある。しかし、実際には税率35%が一般的だった。
そうすると、知行100石の場合、
100石×0.35=35石
となり、玄米35石が収入となる。
ただし、豊凶によって収入は必ずしも安定しない。収入を増やすために税率を無理にあげようものなら、農民の反発を買う。下手をすれば百姓一揆が起きる。また、知行地から江戸への米輸送にも手間や費用がかかる。なかなかにたいへんだ。
一方、蔵米100俵支給の場合、幕府の米俵は3斗5升(0.35石)入りだから
0.35石×100俵=35石
となり、収入は玄米35石となる。
つまり、知行100石と蔵米100俵では、収入に実質的な差はないのだ。
蔵米取りは年3回(春・夏・冬)に分けて、浅草にある幕府の米蔵から玄米を受け取る。しかし、江戸で生活するには現金が必要だ。そこで、自家消費する分を除いた残りの米を、札差(ふださし)という業者に依頼して換金してもらった。
蔵米取りには地方知行のような煩わしさがない。そのためか、高給取りの旗本(だいたい500石以上)を除き、中小の旗本は地方知行から次第に蔵米取りへと移行していったのだ。 |
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2022年3月11日(金) |
スパイダーウーマン |
享保10(1725)年頃の話という。
武州熊谷新堀村(にいぼりむら)に住む百姓左五右衛門(さごえもん)の女房が子どもを亡くした。そこで熊谷寺(ゆうこくじ。浄土宗)に参詣し、子どもの頓証菩提(とんしょうぼだい。死者の極楽往生)を一心に祈るようになった。
そのうち女房が念仏を唱えると、花や舎利(仏の骨)が空から降ってくることがあった。なにより不思議なことは、両手を合わせて念仏すると、指先から蓮糸(蓮糸には極楽往生の縁を結ぶという俗説がある)のようなものが出て、念仏をやめるとたちまち出なくなることだった。
「是(これ)、唯事(ただごと)にあらず。」
女房のまわりには僧俗参集して、その不思議に眺めいった。
「誠に念仏の奇特(きとく、きどく)、ありがたし。偏(ひとえ)に中将姫(ちゅうじょうひめ。蓮糸で当麻曼荼羅(たいままんだら)を織ったと伝える)の再来なるべし。」
こうして近郷の者たちの間で広まった噂は、次第におおごとになっていった。女房の指先から出る糸を1、2寸ずつ切っては菩提のためにといって分けてもらい、左五右衛門の家には多額の金穀が寄付されるようになった。左五右衛門はその金で大きな念仏堂まで建立した。
噂は江戸にまで聞こえた。
喜んだ浄土宗僧侶は、話に尾鰭(おひれ)をつけて宣伝した。そして、女房を江戸へ呼び出して宿泊させ、念仏させた。増上寺では女房を弟子にとり、蓮糸尼(れんしに)と名のらせた。諸大名から町家まで、蓮糸尼の噂で持ちきりだった。噂は将軍の耳にまで達した。
合理主義者の吉宗は、次のように一蹴した。
「右の次第、有りがたくも忝(かたじけなく)もなく、只(ただ)おもしろからぬ事也(ことなり)。 (中略) 一同馬鹿成事(ばかなること)を申唱候(もうしとなえそうろう)。」
吉宗は、人間の体から蓮糸など出るはずもない、病気だろう、何という病気か調べよ、と奥医師に命じた。しかし、調べてみたがとうとうわからず仕舞い。
奥医師からの報告を聴くと吉宗は一笑に付し、話はそれっきりになった。
【参考】
・村岡良毅筆者『はつか艸』文政12年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0092 |
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2022年3月10日(木) |
筋は通っている |
ある年、公家衆をもてなすため、江戸城中で能を催した。
ところが、御前置(おまえおき。前列)の御徒(おかち。歩行の警固役)前島半左衛門(まえじまはんざえもん)という男の行儀がひどく悪い。能の上演中も手足をさすったり、伸(の)びをしたり。
そこで御目付(おめつけ)・御徒頭(おかちがしら)らが半左衛門をよび、その不行儀を厳しく叱責した。これに対し半左衛門は次のように申し開きをした。
能を拝見いたしますに、行儀よく畏(かしこ)まっておりますと、能の終演時分には足がしびれてようやくと立つという有様。手足もかがまってしまい、なかなか思うようには動かせません。これではまったくの不用心。そもそもわれわれ御徒のお役目は、不慮の事態に備えての警固。しかし、これでは万一の緊急事態に、即座に対処ができません。ゆえに
「手足をかがまり候(そうらい)ては不成哉(ならざるや)と相心得(あいこころえ)、手足を大事にいたし、くつろげ置申候(おきもうしそうろう)。」
と臆することなく答えた。
なるほど、道理である。筋は通っている。しかし、不行儀の咎(とが)は問わねばならぬ。そこでいったん半左衛門には閉門を申しつけることにした。
のちに閉門を解くと、加増のうえ御徒の組頭に任じたという。
【参考】
・村岡良毅筆者『はつか艸』文政12年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0092注】
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2022年3月9日(水) |
鯉を射る |
谷金五郎という旗本がいた。8代将軍吉宗が御成(おなり)の際には、たびたび御供弓(おともゆみ)として随行した。しかし、ついぞ獲物を射止めたことがなかった。
江戸城還御(かんぎょ)のおり、虎の門に入ろうとしたその時、吉宗から
「金五郎を呼候(よびそうら)へ。」
と、突然のお召しがあった。急ぎ金五郎が御前に出ると、
「あの堀の内の鯉(こい)を射留候(いとめそうら)へ。」
との上意。そこで金五郎が堀の中に一矢放つと、あやまたず鯉を射止めることができた。
その翌日、吉宗から金五郎へ褒美の品が与えられた。
人の上に立つ者には、こうした「御仁慮(ごじんりょ)」(部下への心配り)が必要なのだ。
【参考】
・村岡良毅筆者『はつか艸』文政12年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0092 |
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2022年3月8日(火) |
鴨を射る |
ある時、8代将軍の吉宗が外出したおり、両国川の上あたりで鴨が三羽いるのを見つけた。吉宗は、急ぎ御供弓(おともゆみ)の者を呼んで射させようとした。
射手は郷渡三郎兵衛(ごうどさぶろべえ)という者だった。
しかし三郎兵衛は弓を引きしぼると、ゆるゆるとその状態を保ったままで、なかなか矢を放とうとしなかった。このままでは、鴨が飛んで逃げてしまう。
「最早(もはや)よろしきぞ。放(はな)し候(そうら)へ、放し候へ。」
と吉宗は三度もせっついた。しかし、三郎兵衛に矢を放つ気配は一向にない。少しムッとした吉宗。御側衆(おそばしゅう)も苦々しい思いでその様子を眺めていた。
三羽の鴨がちょうど並んだところを狙って、三郎兵衛は矢を放った。鴨は飛び立とうとしたものの、その一矢にて残らず射落とされた。
「誠に弓術の名人なり!」
感嘆の声があがった。吉宗の機嫌も直り、一同手を打って感じ合ったという。
とかく専門家の前では、素人がむやみに口を差しはさむべきではない。
【参考】
・村岡良毅筆者『はつか艸』文政12年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0092 |
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2022年3月7日(月) |
オタネニンジン |
江戸時代、朝鮮半島から輸入される薬材に、朝鮮人参があった。朝鮮人参は高麗人参ともいい、ウツギ科の多年草だ。サポニン成分を多く含み、健胃・強壮・疲労回復等に薬効があるといわれたが、非常に高価だった。
8代将軍吉宗は、これを何とか国産化できないかと考えた。
しかし朝鮮人参は、そもそも種子を発芽させること自体が難しかった。さらに収穫までには4~6年もかかり、強烈な連作障害があって一度栽培した畑は二度と栽培することができないという、たいへんやっかいな作物だった(1)。
8代将軍吉宗は、薮田助八郎(やぶたすけはちろう)に朝鮮人参の種子を渡し、その栽培を命じた。案の定、種子を蒔いてもまったく発芽しなかった。翌年、蒔き方をいろいろ工夫して再度試みたが、ふたたび失敗。
3年目には「理系」将軍吉宗(2)から薮田にアドバイスがあった。
「ひよ鳥などが如(ごと)き小鳥の籠(かご)のうちへ種を入置(いれおき)、食候(くわせそうらい)て糞(ふん)を蒔候様(まきそうろうよう)に。」(3)
(ヒヨドリなどのような小鳥を飼うかごの中に種子を入れ置き、小鳥に食べさせたのち種子を含んだ糞を蒔いてみるように。)
そのようにして種子を蒔いたところ、ついに発芽したという。鳥の消化器官を通過するうち、種子をおおっていた果肉の生長抑制物質が除去されたのかもしれない。
こうした種々の試みの結果、その栽培法に目途(めど)がつくと、幕府は朝鮮人参の種子の配付や栽培法を公開して、その栽培を全国に奨励した。
幕府から「御種(おたね)」を拝領して栽培が広まった人参は、オタネニンジンとよばれた。
【注】
(1)五十嵐裕二「オタネニンジンの新しい『国産化』」-『生物工学』第97巻第4号、2019年、P.236~238ー
(2)吉宗は「実用的・実証的な政治に役立つ学問には異常な関心をもっていた」という。大石慎三郎『大岡越前守忠相』1974年、岩波新書、P.37~38参照。
(3)村岡良毅筆者『はつか艸』文政12年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0092 |
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2022年3月4日(金) |
なんで100通も? |
日明貿易では、中国の皇帝が代替わりごとに勘合を発給した。
勘合とは「照合する」という意味で、明の皇帝から冊封(さくほう。明の皇帝を君、諸国の王を臣として結ばれる主従関係)された王の派遣した正式外交使節であることを証明する渡航証明書だ。
日本から明に向かう遣明船は本字勘合、明から日本に向かう明船は日字勘合を、それぞれ船1艘につき1通の勘合を持参することになっていた。
礼部(れいぶ。北京)と浙江布政司(せっこうふせいし。寧波(ニンポー))には本字勘合の底簿各1冊が置かれ、遣明使節は携行した勘合を各所で底簿と照合して審査を受ける。明使を日本に派遣する場合には、明使が携行した勘合を、日字勘合の底簿が置かれた礼部と室町幕府で照合することになっていた。
明としては、朝貢に対する返礼として大量の下賜品を与える(回賜(かいし))建前だったので、財政的には大きな負担だった。だから本音では、外交団が大勢で頻繁に来航することを、快く思っていなかったのだ。それで、日明貿易に制約を加えてきた。
宣徳帝の時に決められたとされる宣徳要約では、「10年1貢3艘」に制限したという。派遣は10年に1度、船数は3艘までとしたのだ。
制限されても、約束はしばしば破られた。それだけ日明貿易はうまみがあり、派遣する側としては儲けが大きかったからだ。
一方、貿易を制限しておきながらも明では相変わらず、皇帝一代につき日字勘合・本字勘合をそれぞれ100通ずつ発給した。
10年に1度ずつ、3艘の船の派遣なら、100年間であっても必要な勘合の数量は、
3通×100年/10年=30通
で済んでしまう。だから100通といえば、300年以上分にも相当する数量なのだ。
いくら長寿の皇帝であっても、300歳以上生きることなどできまい。だから、そもそも勘合を100通も発給する必要などないのだ。
それでも明朝は100通の勘合を作成した。これは、ただ旧習を継承して100通としたのだろうか。それとも、皇帝の長寿を祈念する意味合いがあったのだろうか。
なお、皇帝が代わると、未使用分の勘合は明に返納することになっていた。そのため、勘合の実物はわが国に残っていない。
【参考】
・陳舜臣『中国の歴史 コンパクト版.第6巻』1986年、平凡社、P.144
・村井章介『世界史のなかの戦国日本』2012年、ちくま学芸文庫、P.22~27 |
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2022年3月3日(木) |
竜涎香(りゅうぜんこう)とマカオ |
中国の香港・マカオは、アジア最後の植民地といわれた。
このふたつの土地については
「中国はアヘンのために香港を失い、竜涎香(りゅうぜんこう)のためにマカオを失った」
という言葉がある。
香港はアヘン戦争(1840~1842)で清朝が敗北した結果、イギリス領となったものだ(中国返還は1997年)。
一方のマカオは、16世紀にポルトガル人の居住を明朝が許可し、葡清友好通商条約(1887年)でポルトガル領になった(中国返還は1999年)。
そもそも明朝がポルトガル人のマカオ居住を認めたのは、竜涎香獲得のためだったとされる(諸説あり)。
竜涎香といえば、マッコウクジラの腸内で生成される蝋状の物質で、香料の材料だ。稀少なものであるため、現在でも良質のものは億単位の値段で取り引きされるという。
明朝時代、竜涎香はなおさら珍重された。皇妃をはじめとする後宮の女性たちが、竜涎香を是非とも必要としたからだ。
しかし、竜涎香はその稀少性ゆえなかなか入手できなかった。入手先は中国南方のポルトガル人にほぼ限られていた。
そこで採香使(さいこうし)の宦官(かんがん)が、マカオにアジア貿易拠点をつくりたいと望むポルトガルの歓心を買うために、賄賂としてポルトガル人のマカオ居住を黙認したというのだ。
【参考】
・陳舜臣『中国の歴史 コンパクト版.第6巻』1986年、平凡社、P.217~218 |
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2022年3月2日(水) |
海からの贈り物 |
現在でも時おり、海岸に鯨が打ち上げられることがある。江戸時代にはこれを寄鯨(よせくじら)といった。
寄鯨があると、まずは役所に注進する。役所からは見分の役人がやってくる。見分が済んだ鯨は商人に売却される。売却代金の三分の一を領主へ運上(税)として納めれば、残りは村方の所得となった。
寄鯨以外にも、猟(突鯨(つきくじら)といった)によらない流鯨(ながれくじら)や切鯨(きりくじら)というのがあった。
流鯨は、沖合に漂流している鯨をいう。これを見つけると早船を出してつなぎとめ、大勢で海辺へ引き上げた。売却代金の十分の一が領主への運上、残りが村方の所得になった。
沖合に流鯨を見つけたものの、磯に引き上げる人数や用意が間に合わない場合がある。うかうかしていると、鯨が沖合に流されてしまう。そんなときには、漁師が各自早船を出し、手に手に包丁を握って鯨の上に跳び移る。そして、可能な限り鯨肉を切り取るのである。これを切鯨(きりくじら)といった。
陸に戻った漁師たちは、切り取った鯨肉を取り集め、商人に売却した。売却代金の二十分の一が領主への運上、残りが切り取った漁師たちの所得となった。
いずれにせよ、思いがけない臨時収入となったのだ。
【参考】
以上は『日本財政経済史料.第1巻』P.168~175を参考にした。同書には次のような内容が記載されている。
(1)突鯨・寄鯨・流鯨の運上の割合(正徳2年6月。御勝手方定書下)
(2)流鯨注進書・鯨吟味の心得(正徳2年6月。地方留書1)
(3)寄鯨・切鯨(地方活法18)
(4)寄鯨運上の減額(明和3年6月10日。刑銭須知9) |
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2022年3月1日(火) |
雅楽由来の言葉 |
古典芸能を紹介するNHKの番組で、「打ち合わせ」「千秋楽」など雅楽を語源とする言葉を紹介していた。
歌舞伎の言葉が日常語に入り込んだ例は山ほどある。近世以降歌舞伎には、一般大衆の娯楽として発展してきた歴史があるからだろう。
これに対して雅楽は、一般庶民には馴染み薄い。
歴史は古いが、もともとが儀式用舞楽として中国(唐楽)や朝鮮半島(高麗楽(こまがく))からわが国に伝わったという性格ゆえだろう。さらに京都が応仁の乱で戦火を被り、雅楽自体が衰退したという事情もあったろう。そのためか、雅楽に由来する言葉は、歌舞伎ほどには多くないように思える。
それでも次のような数々の言葉が、雅楽由来のものだという(ただし、異説もある)。
打ち合わせ
演奏の時に事前に打ち物を打って拍子をとってリズムを合わせること。ここから、事前の話し合いを「打ち合わせ」というようになった。
打ち止め
曲を途中でやめる時、打楽器で合図を出すこと。ここから、物事の終わりのことを「打ち止め」というようになった。
楽屋
楽人たちがここに控え、また演奏した。そこから出演者の控え室の意味になった。
様(さま)になる、うまい
舞楽には、唐経由の左舞(さまい。左方舞)と朝鮮半島経由の右舞(うまい。右方舞)があった。左舞に上達することから「様(さま)になる」、右舞が上達することから「上手い」という言葉が生まれたという。
甲高(かんだか)い
高音域の音を「甲(かん)」といい、「甲高い」はこれに由来。
乙(おつ)
低音域の音を「乙(おつ)」といい、渋みのある味わいをいう「乙」はこれに由来。
序(じょ)・破(は)・急(きゅう)
雅楽で3段階になる時の楽曲構成。序は無拍子、破は緩徐の拍子、急は急速な拍子。
千秋楽(せんしゅうらく)
雅楽の最後に演奏する楽曲。ここから相撲や興行の最終日を意味するようになった。
二の舞(まい)を踏む
舞楽「安摩(あま)」のあとに舞われる「二の舞」。「安摩」の舞を真似るが失敗し、観客の笑いを誘う滑稽な舞。ここから同じような失敗を繰り返すことを「二の舞を踏む」という。
ろれつがまわらない
2つの音階、呂と律が合わないことを「呂律が回らない」と言った。転じて、泥酔し言語不明瞭なさまを指すようになったという。
【参考】
・「雅楽が語源となった言葉」http://kamikawa-gagaku.main.gogen/gogen.html(2016年6月24日参照) |
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2022年2月28日(月) |
倭寇の被害 |
倭寇による甚大な被害の例として、貝塚茂樹氏の『中国の歴史・下』に次のような記述がある。
「1555年にはわずか6、70人の一隊が浙江湾(せっこうわん)に上陸し、紹興(しょうこう)・杭州(こうしゅう)から山地を通って、南京をおかし、ついに無錫(むしゃく)の近所で撃滅された。80日間に所在の軍民4、5千人を殺傷したといわれる。」(1)
倭寇には「海賊」というイメージがある。しかし、船で移動できる大陸沿岸部や内陸河川沿岸部だけが危険なわけではない。倭寇は陸上であっても移動し、襲ってくるからだ。実際、上の記述では「山地を通って」南京を襲撃した、とある。
100人に満たない倭寇集団であっても、数千人規模の犠牲が出ている。倭寇の被害がいかにひどいものであり、また地方の治安維持体制がいかに脆弱(ぜいじゃく)だったかがわかる。そのため、中国の東南地方に住む人びとは、一時は都城を捨てて奥地に逃げ出す有様だったという。
明朝衰退の原因となった国難を「北虜南倭(ほくりょなんわ)」という。北方からの異民族の侵入と、南方からの倭寇の跳梁という意味だ。
しかし、官僚の腐敗や地方防備体制の緩み等で、明朝の衰退はすでに明らかだった。だから、「北虜南倭」が明朝衰退の原因になったのでなく、明朝が衰退したから北方異民族の侵入や倭寇の跳梁を招く結果となったのだ。
【注】
(1)貝塚茂樹『中国の歴史・下』1970年、岩波新書、P.36~37
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2022年2月25日(金) |
海賊なのに水戦は苦手 |
寧波(ニンポー)の乱(1523)に激怒した明は、日本に対し「閉関絶貢(へいかんぜっこう。関を閉ざして貢を絶つ)」すなわち貿易禁止を宣言した。これを機に、後期倭寇(こうきわこう。16世紀以降の倭寇を指す)の跳梁(ちょうりょう)がはじまった。
倭寇といっても「真倭(しんわ。日本人倭寇)」は10人中3人(『明史』)または10人中1人(『洋防輯略』)くらいで、ほとんどは中国人や朝鮮半島の人々だったという。
倭寇の残虐さは有名で、明軍からも恐れられていたほどだった。だから倭寇の格好さえしていれば誰もが逃げ出してしまい、略奪し放題だったのだ。
そこに目を付けた野盗たちは、月代(さかやき)を剃(そ)り褌(ふんどし)姿で日本刀を持つという出で立ちで略奪行為を行った。こうした偽日本人の倭寇を「仮倭」といった。また、倭寇集団に属すればいい稼ぎができるので、雇われてその手下になる者もいた。これを「従倭」といった。
倭寇は海賊だ。しかしその実、水戦は苦手で、おもに荒らし回ったのは陸上だった。船は移動するための手段だったのだ。船に乗り込んでは大陸沿岸部をはじめ、河川に沿って内陸奥地にまで侵入し、略奪を繰り返した。
明との交易が禁止されていたため、生業が苦しくなって倭寇となる者が多かった。だから、武力討伐一辺倒だけでは倭寇の跳梁を鎮めることは難しかった。だから、交易や渡航の禁をゆるめることによって、やっと倭寇の活動を抑えることができたのだ。
【参考】
・陳舜臣『中国の歴史 コンパクト版.第6巻』1986年、平凡社、P.147~149 |
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2022年2月24日(木) |
ちゃぶ台 |
コロナ禍の中、家で中国ドラマを見る機会が増えた。
現在、靖難(せいなん)の変から奪門(だつもん)の変あたりまでを扱った「大明皇妃(だいみんこうひ)」という番組を視聴している。
このドラマで気になった点がある。
皇帝の前に出ると、大臣たちが跪(ひざまづ)いては地面にはいつくばって挨拶することだ。皇帝が「起て」と言うと、大臣たちは「陛下(へいか)、感謝します」と応じ、そこではじめて起立する。仰々しい屈辱的な所作が幾度も繰り返される。見ていて、あまり気持ちのよいものではない。
こうした跪拝(きはい)は、皇帝の絶対的権力を視覚化させるための演出として取り入れられたものだ。そもそも、皇帝・大臣の間にこれほどの隔絶はなかった。
以前は大臣が政務を皇帝に報告する際、皇帝と大臣は向かい合って椅子にすわった。
それが宋代になると大臣は起立し、皇帝は椅子にすわったまま大臣の報告を聴くようになった。
時代がくだって明代になると、椅子にすわった皇帝の前に大臣たちは跪(ひざまづ)かなければならなくなったのだ(1)。
その点、茶の間の「ちゃぶ台」は素晴らしい発明だ。天板が丸いので、どこに着席しても上下の別が生じない。いたって民主主義的だ。
【注】
(1)陳舜臣『中国の歴史 コンパクト版、第6巻』1986年、平凡社、P.155~156 |
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2022年2月23日(水) |
ずぶ濡れになって帰ると歌書を買い(江戸時代の川柳から) |
太田道灌(おおたどうかん。1432~1486)が和歌に志すきっかけとなった有名な逸話(1)。
太田左衛門大夫(さえもんのたいふ)持資(もちすけ。太田道灌)は上杉宣政(うえすぎのりまさ)の重臣だった。
ある日、鷹狩りに出た折り、雨に降られた。とある小屋に駆け込んで蓑(みの。雨具)を借りようとしたところ、若い女が何も言わずに折った山吹の花一枝を差し出した。
「花を求むるに非(あら)ず。」
(蓑を借りたいのであって、花を求めているのではない。)
持資はそう言うと、怒って帰ってしまった。これを聞いた人が、
「其(そ)れは、
七重(ななえ)八重(やえ)花は咲けども山吹のみの一つだに無きぞ悲しき
といふ古歌の意(こころ)なるべし。」
と持資に教えた。八重の山吹は実をつけない。「実の一つだに無きぞ」に「蓑一つだに無きぞ」を掛けて、女は家に蓑のないことを伝えようとしたのだ。
あのような娘さえ知っている古歌を、自分は知らなかった。これを恥じた持資は、これをきっかけに歌道に志したのだという。
ちなみに、この古歌の作者は『菟裘賦(ときゅうのふ)』で有名な兼明親王だ(2)。
【注】
(1)以下、湯浅元禎『常山紀談』1926年、有朋堂文庫、P.17~18(国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:543-22、コマ番号26~27)による。
(2)太田持資の逸話に続けて、『常山紀談』には次のようにある。
「雪玉實隆(せつぎょくさねたか)の歌に、
雨に著(き)るみの(な)しとてや山吹のつゆにぬるるは心つかじを 袖中後拾遺和歌集
小倉の家に住み侍(はべ)る頃、雨降り侍りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり。心も得(え)でまかり過ぎて、又の日山吹心得ざる由(よし)言ひおこせて侍りける。返(かえし)に言ひ遣(つかわ)しける。兼明親王、
七重八重花は咲けども山吹のみの一つだに無きぞあやしき(かなしきカ)」
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2022年2月22日(火) |
ウサギの皮ごろも(3) |
『菟裘賦(ときゅうのふ)』の意味を知らぬ不肖(ふしょう)の息子源伊陟(みなもとのこれただ)は、世間にその無学さを笑われる羽目になった。
「さる才藝(さいげい)の人の御子(みこ)にも、かかる人おはしけり。」(3)
(兼明親王のような博学多才のご子息にも、このような無学な人がいらっしゃったのだ。)
伊陟(これただ)にしてみれば、とんだとばっちりである。次は江戸時代の川柳。
獅子(しし)の子に兎(うさぎ)を産んだ兎裘(ときゅう)の賦(ふ)(4)
(ライオンがウサギを産んでしまった。親は博学、子は無学。「鳶が鷹を産む」の逆。)
兎(うさぎ)とは書(しょ)に目を赤くせぬ不覚(ふかく)(5)
(目が赤くなるほど読書していれば、とんちんかんな答えなどせず済んだ。日頃の勉強不足が露呈した。)
しかし、さすがに息子が亡父の『菟裘賦(ときゅうのふ)』を知らぬわけがあるまい。そこで『十訓抄詳解・下巻』には、一説として
「伊陟(これただ)いかに文盲(もんもう)なりとも、文(ふみ)か裘(かわごろも)かを分別(ふんべつ)せざる程(ほど)の人にはあらざるべし。わざと知らざるまねして、この文を御覧(ごらん)に供(そな)えしは、即(すなわ)ち藤氏(とうし)の跋扈(ばっこ)を諷(ふう)する意ならんといへり。」(6)
とある。当時専権をふるっていた藤原道長を風刺するため、わざと知らぬ振りをして『菟裘賦(ときゅうのふ)』を一条天皇に奉ったというのだ。
【注】
(3)『十訓抄詳解・下巻』前出、P.51。
(4)(5)大曲駒村『川柳大辞典・下巻』1962年、高橋書店の「兎(うさぎ)」「兎裘賦(ときうのふ)」参照。
(6)『十訓抄詳解・下巻』前出、P.52。 |
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2022年2月21日(月) |
ウサギの皮ごろも(2) |
ある時、一条天皇(980~1011)が兼明親王(かねあきらしんのう)の息子源伊陟(みなもとのこれただ。938~995)に、次のように尋ねた(1)。
「故宮は、常に何事をかせられし。」
(生前の兼明親王は、ふだんは何をなさっていたのか。)
天皇の下問に対し、伊陟(これただ)は次のように答えた。
「うさぎのかはごろもとかや申す物をこそ、常はもてあそばれ侍(はべ)りしか。」
(ウサギの皮ごろもとかいう物を、ふだんもてあそんでおりました。)
そこで後日、伊陟(これただ)に父の遺品を献上させたところ、それはウサギの皮ごろもでなく、一巻の文であった。開いてみると『菟裘賦(ときゅうのふ)』とあった。
「菟裘(ときゅう)」とは「ウサギの皮衣(かわごろも)」の意。しかし、この場合は魯(ろ)の隠公(いんこう)が退隠先とした「菟裘」(地名)(2)のこと。隠退を表現する言葉として用いた。「賦(ふ)」は心に感じたことを叙述した漢詩文のこと。
晩年、兼明親王は嵯峨野の亀山に退隠した。退隠後に自らの思いの丈を吐露したのが『菟裘賦(ときゅうのふ)』だ。その中で兼明親王は、共謀して自分を陥(おとしい)れた円融天皇や兼通・頼忠らを
「君昏(くら)くして臣諛(へつら)う」(天皇は暗愚で、臣下はへつらうばかりだ。)
と痛烈に批判していた。
【注】
(1)以下、石橋尚宝著『十訓抄詳解.下巻』1904~1905年、明治書院、P.51(国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:116-120)による。原文は村上天皇となっているが、明らかな誤りなので一条天皇に訂正した。
(2)『春秋左氏伝』隠公11年による。なお、岩波文庫版『春秋左氏伝・上巻』(小倉芳彦訳、1988年)所載「斉・魯・衡関係図(隠公~宣公期間)」で「菟裘」の位置が確認できる。
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2022年2月20日(日) |
ウサギの皮ごろも(1) |
兼明親王(かねあきらしんのう。914~987)は醍醐天皇(885~930)の第12皇子である。母親は藤原菅根(ふじわらのすがね)の娘淑姫(よしひめ)。920(延喜20)年、7歳の時に臣籍降下して源兼明(みなもとのかねあきら)と名乗った。その後順調に累進出世し、971(天禄2)年に左大臣に就任した。
ところが977(貞元2)年、だしぬけに円融天皇(えんゆうてんのう。959~991)の勅があり、皇籍に復帰させられた。兼明は親王に復し、二品(にほん)に叙せられた。名誉職の中務卿(なかつかさきょう)に就任したことから中書王(ちゅうしょおう。中務卿の唐名)また前中書王(さきのちゅうしょおう。後中書王(のちのちゅうしょおう)は甥の具平(ともひら)親王)とよばれる。
臣籍降下してから57年、兼明はすでに64歳になっていた。
真相は、関白内大臣藤原兼通(ふじわらのかねみち。925~977)が藤原頼忠(ふじわらのよりただ。兼通の従兄弟で右大臣。924~989)を左大臣に据えるために、邪魔だった兼明を左大臣の地位から追い出したのだ。兼明に「病あり」と誣奏(ぶそう)した上で皇籍復帰と名誉職就任という形をとり、敬して遠ざけたわけだ。
憤懣(ふんまん)をかかえた兼明は、そののち嵯峨野の亀山に退隠した。 |
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2022年2月19日(土) |
御用部屋の炉は何のため? |
江戸時代初期には江戸城内に特別な会議室などなく、重臣たちは将軍の居室である御座之間(ござのま)近くの部屋に集まっては、諸事相談した。最終決裁者(将軍)の部屋近くで相談するのは、何かと都合がよかったからだ。
そんなわけで、のちには御座之間の「三之間」が相談部屋に当てられた。
ところが1684(貞享元)年、大老堀田正俊(ほったまさとし。1634~1684)がこの場所で殺害されるという事件が起こった。犯人の稲葉正休(いなばまさやす。1640~1684)は大久保忠朝によってただちに殺害されたものの、再び同様の事態が起こった場合、このままでは将軍の身の安全を確保できない。そこで、御座之間から相談部屋を遠ざけることにした。
隔離された相談部屋は、御用部屋といった。
オンライン会議などなかった時代だ。御用部屋が御座之間から隔離されると、両者の間に連絡係が必要になった。これが側用人(そばようにん)だ。
御用部屋では老中や若年寄が執務した。大老(臨時の最高職)が設置されたときは、大老もこの部屋で執務した。
御用部屋には炉がきってあり、中には椿灰(つばきばい。椿の葉を燃やしてつくった灰)が敷き詰められていた。火箸は複数本が用意された。
防音設備のなかった時代だ。障子のかげで立ち聞きする者がいるやも知れぬ。そこで、重要事項を審議する際には秘密の漏洩を防ぐため、火箸で灰の上に文字を書いて密談したという。
【参考】
・村井益男『江戸城』1964年、中央公論社(中公新書)、P.113~114 |
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2022年2月18日(金) |
博奕(ばくえき)を禁止する |
幕府が禁止しても止まぬものがある。それが博奕(ばくえき、ばくち)だ。
ある時、8代将軍吉宗が、博奕の取り締まり状況を町奉行能勢肥後守頼一(のせひごのかみよりかず。1690~1755)に尋ねた。
すると、取り締まりの結果、博奕はおおかたやんだ、とのこたえ。そこで吉宗は、次のようにねぎらった。
「夫(それ)は重畳(ちょうじょう)成事(なること)なり。益(ますます)油断致間敷(ゆだんいたすまじく)。」
(それはめでたいことだ。今後いっそう油断なくつとめるように。)
町奉行の退出後、入れ替わりに小納戸(こなんど)の高島近江守(たかしまおうみのかみ)がやってきて、次のように言った。
「只今(ただいま)肥後守申上候通(もうしあげそうろうとおり)、博奕(ばくえき)はひしと相止(あいや)み候(そうろう)と相見申候(あいみえもうしそうろう)。私、日々(ひび)登城仕候(とじょうつかまつりそうろう)途中(とちゅう)、昌平橋外(しょうへいばしそと)の辺(あたり)、辻々(つじつじ)の寄合博奕(よりあいばくえき)も見へ不申(もうさず)。御威光難有(ごいこうありがたし)。」
(今しがた肥後守が申し上げたように、博奕はぴたりと止んだように見受けられます。私が毎日登城するおり、昌平橋外のあたりや辻々で見かける寄合博奕も今は見えません。これも上様の御威光のおかげかと存じます。)
これに対する吉宗の一言。
「天下の博奕(ばくえき)が止(や)むものか。」
「天下の博奕」が止まないのは、ギャンブルに依存性があるからだ。ギャンブル依存症が根深いものであることは、吉宗ならずとも誰もが知っている。
困ったことに現代では、為政者までもがギャンブル依存症で、公営カジノの導入に熱心になっている。
【注】
・村岡良毅筆写『はつか艸』文政12年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー0092 |
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2022年2月17日(木) |
言い間違い |
誰にでも言い間違いはある。
しかし、政府の要職にある人物が、しばしば言い間違いをするのは問題だ。国政に重大な支障をきたすやも知れぬ。だから現代でも、そんな人物を任命した総理大臣はその見識を疑われ、責任を追及されるのだ。
さて、これもまた『十訓抄』(巻1第39話)の中にある話。
「楊梅大納言(やまももだいなごん)」とよばれた源顕雅(みなもとのあきまさ。1074~1136)は、若い頃から言い間違いの多い人だった。
神無月(かんなづき。旧暦10月)の頃、ある宮様の屋敷に立ち寄った際、時雨(しぐれ)が降ってきた。
顕雅の牛車(ぎっしゃ)は外にあった。そこで車を中に入れさせようと思い、雑色(ぞうしき。従者)に次のように命じた。
「車のふるに、しぐれさし入れよ。」(牛車が降ってきたので、時雨を中に入れよ。)
これを聞いた女房が
「車軸(しゃじく)とかや、おそろしや。」(車軸が空から降ってくるとは、恐ろしいことです。)
と言って、顕雅の言い間違いをからかった。
ある女房が顕雅に忠告した。神仏に祈願して言い間違いを除くべきだと。
「なるほど」と思った顕雅は、三尺(さんじゃく。約1m)ばかりの観音像でも造ろうと考えたのだろう。しかしその時、ネズミがたまたま近くを走り過ぎた。そこでまた言い間違えてしまった。
「三尺の鼠(ねずみ)を作りて、供養(くよう)せんと思ひはべる。」
(言い間違いが治るように、三尺のネズミの像を作って供養しようと思います。)
【参考】
・石橋尚宝著『十訓抄詳解.上巻』1904~1905年、明治書院、P.107~108。国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:116-120 |
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2022年2月16日(水) |
小心者 |
すばらしい技量をもっていても本番ではあがってしまい、思わぬ失敗をしてしまう。そんな経験は誰にもあることだ。次は『十訓抄』(巻1第38話)にある話(1)。
寛治年間(1087~1094)のことという。堀河天皇(1079~1107)は和歌管弦の道に造詣(ぞうけい)が深かった。
当時、明宗(あきむね)という笛の名手がいた。その噂を聞いた天皇は、特別にその者を召し出し、御前で笛を吹かせることにした。
しかし、小心者だった明宗(2)はひどく怖じ気づいてしまい、とうとう笛を吹くことができなかった。
そこで天皇は懇意の女房に命じ、明宗を密かに招いて人知れず、笛を吹かせることにした。こうして天皇は、隠れて明宗の笛を聴いたのである。果たして、その腕前は期待以上に見事なものだった。
天皇は人を明宗のもとに差し向け、その妙技を賞賛した。
しかし、天皇が隠れて聴いていたことを知った明宗は、たちまち臆病な気持ちがわき起こり、にわかに縁(えん)から地面に転げ落ちてしまった。
これを聞いた世の人々は、明宗に「安楽塩(あんらくえん)」という異名をつけて笑ったという(3)。
【注】
(1)以下は、石橋尚宝著『十訓抄詳解.上巻』1904~1905年、明治書院、P.105~106(国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:116-120)を参照した。
(2)明宗は笛の名手だったが小心者として有名だった。『十訓抄詳解.上巻』の解説には「秋宗(あきむね)ハ、高名ノ笛フキナリケレドモ、餘(あま)リノ臆病者ニテ、人三人トモ集リタル所ニテハ、樂(がく)一ツヲウルハシクエ吹カザリケリ」(『躰源抄(たいげんしょう)』を引用)とある。
(3)『十訓抄詳解.上巻』は、「安楽塩(鹽)」は楽曲の名で「斯(か)く異名(いみょう。あだ名)をつけしゆゑは、樂鹽(らくえん)を、落縁(らくえん)に取りなしたるなり」と解説する。つまり「あな、落縁(ああ、縁から落ちた!)」と語感が似ている「安楽塩(あんらくえん)」というあだ名をつけて、明宗の小心ぶりを笑ったのだ。 |
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2022年2月15日(火) |
タイムマシンがあった? |
平安時代の能書家小野道風(おののとうふう。894~966)の書跡は、「野跡」と称されてとりわけ珍重された。兼好法師の『徒然草(つれづれぐさ)』第88段には、次のような話がある。
ある男が、小野道風筆の『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』を秘蔵していた。
しかし『和漢朗詠集』を撰(せん)した藤原公任(ふじわらのきんとう。966~1041)は、小野道風が亡くなった966年に生まれた。だから、藤原公任の作品を小野道風が筆写することなど、あり得ない。
そこで、ある人が次のように指摘した。
「四條大納言(しじょうだいなごん。藤原公任のこと。公任は権大納言で四条に屋敷があった)撰(えら)ばれたる物を、道風書かん事、時代や違ひ侍(はべる)らん。」
(藤原公任が撰んだ書物を小野道風が書くというのは、時代が合わないのではないでしょうか。)
すると男は
「さ候(そうら)へばこそ、世にありがたき物にて侍(はべ)りけれ。」
(だからこそ、世にも珍しい物なのですよ。)
と言うと、いよいよ秘蔵したという。
【参考】
・西尾実校注『徒然草』1977年第62刷(1928年第1刷、1965年第46刷改版)、岩波文庫、P.73 |
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2022年2月14日(月) |
桂園時代(7)-工場法- |
都市部では、急激な資本主義進展のひずみが長時間労働や女子・年少労働者の酷使など劣悪な労働環境となって顕在化し、大きな社会問題となっていた。
そこで政府は、労働力の保全のはかり、頻発する社会運動の沈静化をはかるためには、労働条件に法的規制をかけることが必要と考えた。
そこで第2次桂太郎内閣が交布したのが工場法(1911年3月29日公布)だ。
工場法はすでにその必要性が認識されていたもの、紡績業界などの猛反対により、それまで成立の見通しがたたなかった。それが1911(明治44)年、ようやく議会を通過させることができたのだ。
工場法の要点は、年少労働者・女性労働者の酷使を禁止した次の2点。
① 労働者の最低年齢は12歳とする。
② 15歳未満の者と女性の労働時間は12時間以内とする。
そのほか休憩時間は1日1時間、休日は月2回設けることなどが決められた。
しかし資本家の反発を考慮した政府は、施行を1916(大正5)年からと遅らせ、その適用を15人以上の工場に限定した。
当時わが国に大工場は少なく、ほとんどが零細工場ばかりだった。そのため、せっかくの労働者保護規制も名ばかりで、多くの工場には適用されなかったのである。
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2022年2月13日(日) |
桂園時代(6)-地方改良運動- |
戊申詔書の発布をうけて、内務省が主導して地方財政の健全化、地主中心の農村秩序の再編、農村の生活・習俗の改良等を目指した官製運動が進められた。これを地方改良運動という。
この名称は、内務官僚の指導によって開催された「地方改良事業講習会」に由来する。
政府は、韓国の植民地化や中国東北地方(満州)への進出を念頭に、軍備拡張政策をとっていた。しかし、日露戦争遂行のための増税や兵馬の徴集などによって農村はすでに疲弊・荒廃し、これ以上の増税継続は困難な状況だった。
まずは、地方財政の再建が必要だったのだ。
そこで政府は、青年団や産業組合、各地域の在郷軍人会や婦人会、納税組合・貯蓄組合といった組織を通じて、次のような諸対策を実行するよう地方を指導していった。
部落共有林野の統合による町村有財産の一本化
神社合併(一村一社化)
産業組合や農事改良組合の設立
運営計画である町村是の策定 など
これらの諸対策を実行するため、精神的シンボルにまつりあげられたのが二宮金次郎(尊徳)だった。
各地に結成された報徳社を通じて、勤勉・公共心・共同体意識等の重視(報徳精神)が説かれ、そのシンボルとして二宮金次郎像が各地の小学校に設置された。金次郎像は「薪を運ぶ合間も寸暇を惜しんで本を読む」という姿に造形された。
こうして金次郎少年の偶像は、勤労・勤勉のお手本として日本全国の少年少女の脳裏に刻み込まれていくことになった。 |
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2022年2月11日(金) |
桂園時代(5)-戊申詔書- |
日露戦後におこった恐慌以来、国民生活は深刻な経済不況のもとにあった。社会主義運動の活発化・労働争議の頻発などの中で、家族制度や地方の共同体は動揺した。
一方、日露戦争の勝利は国民生活の向上に何ら結びつかず、ロシア打倒という国家目標も達成されてしまった。そのため、国民の中には虚脱感・閉塞感がただよっていた。とりわけ、顕著だったのは青年層においてだった。
青年たちの多くは国家や政治から離れ、個人主義や実利主義に走った。恋愛や人生等に悩んで「煩悶(はんもん)」した挙げ句に自殺を選択したり、人生の目標に金儲けを優先したりする若者が相ついであらわれるようになった。
「正義だの、人道だのという事にはお構いなしに一生懸命儲(もう)けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」(3)
「煩悶」は当時、一種の流行語になった。政府はこうした風潮を「思想の悪化」と見なし、憂うべき事態ととらえた。
このような社会体制の危機を克服することが、第2次桂内閣の喫緊(きっきん)の課題だった。その対策として桂は「教育に因(よ)り国民の道義を養う」(施政方針における桂の言葉)ことを考えた。動揺する民心に国民道徳を注入して、その引き締めをはかろうとしたのだ。
そのために桂は、天皇の絶対的権威を利用しようと考えた。こうして1908(明治41)年10月13日、発布されたのが戊申詔書(ぼしんしょうしょ)である。この年の干支が戊申(つちのえさる)だったため、かく称する。
その内容は、国民に勤倹貯蓄(きんけんちょちく。勤勉・倹約し貯蓄すること)・産業奨励・去華就実(きょうかしゅうじつ。虚飾を捨て実質を重んじる)等の生活規範を説くものだった。
「宜(よろ)シク上下(しょうか。治者と人民)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシ、忠実(ちゅうじつ)業(ぎょう)ニ服(ふく)シ、勤倹(きんけん)産(さん)ヲ治(おさ)メ、惟(こ)レ信(しん)、惟(これ)レ義(ぎ)、醇厚(じゅんこう。人情などの厚いこと)俗(ぞく)ヲ成(な)シ、華(か。虚飾)ヲ去(さ)リ実(じつ。実質)ニ就(つ)キ、荒怠(こうたい。なすべきことを怠ること)相誡(あいいまし)メ、自彊(じきょう。自らつとめ励むこと)息(や)マザルベシ」
これ以前に出された軍人勅諭(1882)や教育勅語(1890)がその対象を軍人・学校に限定していたのに対し、戊申詔書の全国民を対象としていた。
そのため、戊申詔書は毎年10月13日の奉戴日(ほうたいび)や祝祭日等の儀式の際に奉読(ほうどく)されるとともに、国民はその暗誦(あんしょう)を強要されることになった。
戊申詔書が教育勅語とともに失効するのは、1948(昭和23)年6月19日のことだ。
【注】
(3)石川啄木「時代閉塞の現状」1910年8月稿(石川啄木『時代閉塞の現状・食うべき詩』1978年、岩波文庫、P.110~P.111)
【参考】
・隅谷三喜男『日本の歴史22・大日本帝国の試煉』1974年、中公文庫、P.343~346
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2022年2月10日(木) |
桂園時代(4)-二流の人- |
桂太郎(1843~1913)以前の首相経験者を、受験生は苗字の頭文字を連ねて「イクヤマイマイオヤイ」と覚える。延べ10人いるが、実人数は伊藤博文・黒田清隆・山県有朋・松方正義・大隈重信の5人だ。
この5人には共通した経歴がある。太政官時代の参議経験者であり、明治維新で抜群の功績をあげ、その後は明治政府の中心的存在となったのだ。
しかし、桂にはそうした輝かしい経歴がない。そのため、歴代首相経験者と比較されては、何かと小物扱いされる。
そんな桂内閣を、口の悪い庶民がほうっておくはずがない。
「花がない」から「緞帳内閣(どんちょうないかく。緞帳芝居には花道がないことから)」だとか、大臣が小粒ばかりの「第二流内閣」だとか、閣僚が山県有朋(やまがたありとも)の息のかかった官僚ばかりだったため「小山県内閣」だとか、さんざん揶揄(やゆ)された。
それでも首相を3度つとめた桂は、戦前における最長(第1次桂内閣、4年7カ月)・最短(第3次桂内閣、53日。大正政変で辞職)内閣の首相という、二つの大記録をもっている。
記録だけは一流だった。 |
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2022年2月9日(水) |
桂園時代(3)-安定した時代- |
約12年間続いた桂園時代は、政治的にも安定した時期だった。
この間、任期満了にともなう衆議院議員総選挙が2回(第10回、第11回)行われた。わが国憲政史上、任期満了にともなう衆議院議員総選挙が行われたのは、この2回をおいてほかはない。
評論家の徳富蘇峰(とくとみそほう。徳富猪一郎。1863~1957)は桂園時代を「桂、西園寺の天下」と称し、ゆえに「内政的な泰平(たいへい)を維持」したとして、次のように述べている。なお、文章は読みやすくするため旧字は新字に改め、仮名遣いも現代仮名遣いに改めてある。
「明治三十六年より、明治四十五年に亘(わた)る、約十年間は、桂、西園寺の天下と云(い)うも溢言(いつげん。言い過ぎ)にあらざりし也(なり)。
桂、内閣に立てば、西園寺は政友会を率(ひき)いて、之(これ)を衆議院に援護し、西園寺、内閣に立てば、桂は其(そ)の党与(とうよ。仲間、党類)とも云う可(べ)き、貴族院の多数と与(とも)に、之を幇助(ほうじょ。手助け)したり。
此(こ)の如(ごと)く桂の後には、必らず西園寺来る可(べ)く予期せられ、西園寺の後には、必ず桂来る可(べ)く予定せらるる。首相の候補者も、既(すで)に確定して、何人(なにびと)も之(これ)を争うを敢(あえ)てする者なく、政権の中心点も、自(おの)ずから存続して、何物(なにもの)も之(これ)を撹乱(こうらん。かき乱すこと)し、之(これ)を動揺せしむる者あらず。
此(かく)の如(ごと)くして、十年間の内政的泰平(ないせいてきたいへい)を、維持(いじ)したりし也(なり)。」(2)
【注】
(2)徳富猪一郎『大正政局史論』1916年、民友社、P.6 |
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2022年2月8日(火) |
桂園時代(2)-その意義- |
山県有朋(やまがたありとも)の後継者で陸軍長州閥に属して官僚勢力を代表する桂太郎(かつらたろう。1843~1913)と、伊藤博文の後継者で立憲政友会総裁として政党勢力を代表する西園寺公望(さいおんじきんもち。1849~1940)が「情意投合(じょういとうごう。官僚勢力と政党勢力の相互協力をいった桂の言葉)」して交互に政権を担当した。
桂が3度、西園寺が2度、それぞれ首班をつとめた1901(明治34)年から1913(大正2)年に到る約12年間を、二人の名字から1文字ずつとって「桂園時代(けいえんじだい)」とよぶ。
明治以来、官僚勢力と政党勢力はずっと敵対関係にあった。その仇敵(きゅうてき)同士がなれ合いの上、「政権のたらい回し」をはかったのだ。議会政治の理念を無視するとんでもない暴挙といわざるを得ない。
しかし、桂園時代は新しい時代への転換点でもあった。
桂園時代以前の歴代内閣は、伊藤博文・山県有朋ら元勲(げんくん)とよばれた大物政治家が、交代で政権を担当してきた。そうした元勲政治家たちが「元老(げんろう)」となって政界の第一線から退き、やっと後継者たちにその席を譲ったのだ。
第二世代の後継者たちは、新たな政治基盤を整備した。
ゆえに桂園時代は、それまでの藩閥政治から政党政治への橋渡しをになった時期ともいえるのだ。
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2022年2月7日(月) |
桂園時代(1)-新しい時代の幕開け- |
1901(明治34)年、第1次桂太郎(かつらたろう)内閣が成立した。
しかし、桂内閣は衆議院に支持政党を持たなかったため、政権運営は前途多難が予想された(1)。衆議院では民党(特に立憲政友会)が多数派を占め、このままでは政府の提出案件は民党の反対によってことごとく廃案に追い込まれるだろうことは、明らかだったからだ。
予想した通り、政府が日露戦争講和案を提出した際、衆議院での審議が難航した。
日露戦争では甚大な戦費・犠牲を払った。それにもかかわらず賠償金が1円もとれない講和条約案など、衆議院で賛同を得られるはずなどなかった。
講和案をまとめるには、衆議院の最大勢力だった立憲政友会の支持がどうしても必要だ。そこで桂は、立憲政友会総裁の西園寺公望に「講和を支持してくれれば、見返りに政権を譲渡する」と約束し、立憲政友会の支持をとりつけて講和を成立させると、内閣総辞職したのである。
これが桂園時代(けいえんじだい)の幕開けとなった。
【注】
(1)のちに桂は自らの支持基盤の政党(立憲同志会)の設立を宣言するが、実際の結党は桂の没後だった。 |
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2022年2月6日(日) |
魂の形 |
「仏作って魂入れず」という慣用句がある。広辞苑によれば「苦労して物事をほとんど達成しながら肝要の一事を欠くことのたとえ」のこと。
ところで仏(仏像)の魂は、いったいどのような形をしているのだろうか。
実は「仏の魂」をおさめた仏像がある。平等院鳳凰堂本尊の阿弥陀如来像(平安時代。国宝)だ。その像内には蓮華台に載った丸い円盤が納入されている。これが「仏の魂」なのだという。
ヒノキで作られた丸い円盤(厚さ2cm、直径31cm)には、四重の同心円状に梵字(ぼんじ)が配置されている。阿弥陀如来の威光をたたえる呪文(じゅもん)だ。この円盤の中心に仏の魂があるのだという。
円盤は満月をかたどり、悟りを開いた完璧な仏の魂を表現している。ゆえに、これを「心月輪(しんがちりん)」といった。
満月の形なら、円盤でなく球体の方が正解に近い。そう考えたのか、「心月輪」を水晶の玉で表現する場合もあるという。
【参考】
・山本勉著・川口澄子イラスト『定本仏像のひみつ』2021年、朝日出版社、P.96
・四国新聞2005年4月22日「平安の色彩、鮮やかに復活/平等院で月輪と蓮台公開」インターネット版 |
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2022年2月3日(木) |
書香の家 |
かつて中国には、科挙という官吏登用試験があった。
科挙の難関たることや、他に類を見ない。紅顔の美少年のころに受験をはじめたものの不合格が重なり、やっと合格を勝ち得た時にはすでに老人になっていたという話はざらだ。
だから科挙を受験させるような家庭では、子どもが数え年5歳(満3、4歳)くらいになると、そろそろ家庭教育をはじめたという。
家庭教育は主として母親の役目だった。しかし、忙しいときは手のあいている者が担当した。
科挙を受験させるような家庭は知識階級だ。だからみんな本が読める。子守がてらに誰もが字を教え、本の素読をさせたのだ。
そうやって育った子は、ほかの子どもたちより早く字を覚え、経書(けいしょ)の素読もできた。早熟なので、周囲からは「神童」と呼ばれる。
そんな知識階級の家は、たいていが代々の蔵書家だ。だから、本のにおいが壁にまで染み着いていた。これを「書香(しょこう)の家」という。
嗅覚は、人にさまざまな記憶を呼び起こさせる。
潮(しお)の香から家族との海水浴の記憶を想起し、囲炉裏のにおいから田舎の祖父母の家を思い起こす。そのような人は幸いだ。
科挙受験者たちは、本のにおいにどんな記憶を呼び起こしただろうか。
【参考】
・宮崎市定『科挙』1963年、中央公論社(中公新書) |
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2022年2月2日(水) |
和歌のテーマパーク |
六義園(りくぎえん。現、東京都文京区本駒込6丁目)といえば、元禄文化を代表する大名庭園のひとつとして有名だ。
もともとは5代将軍綱吉から拝領した約5万坪の土地に、柳沢吉保が造成した庭園である。
吉保はこの庭園を造成する際、園内に和歌的世界をぎゅっと詰め込もうと考えた。つまりは「和歌のテーマパーク」だ。
そこで園内には、和歌の神衣通姫(そとおりひめ)をまつる神社の設置や、和歌浦(わかのうら)や妹背山(いもせやま)など古歌にちなむ名所(のミニチュア)の配置が計画された。そもそも、「六義園」という命名自体、和歌の6種の表現方法である六義(りくぎ)に由来している(1)。
こうして和歌にまつわる名所に見立てた築山・池・橋等があちこちに造成された。吉保は、これを「八十八境」と名づけた。
八十八境には、「88=8×(1+10)」という吉保のちょっとした「算数」が隠されている。
「八十八の数ハ、八の数を十一合(あわ)せたり。八は八雲(やくも)に叶(かな)へり。惣(そう)じて吾朝(わがちょう。日本)にて八の数をおほき事(こと)に用(もちゆ)。十は数の極(きわみ)、一は数の始(はじめ)なり。八十八ハ、八雲(やくも)の道その至極(しごく)に至(いた)り、終(おわ)りてハまた始(はじま)り、春夏秋冬の廻(めぐ)りて至(いた)る。さるごとく窮(きわまり)もなく至(いたら)む事もなく、天地(あめつち)と共(とも)に長久(ちょうきゅう)なる心なるべし。」(2)
わが国最初の和歌とされるのが「八雲立つ出雲(いずも)八重垣(やえがき)妻ごみに八重垣作るその八重垣を」(古事記・上・歌謡)。これにちなみ、和歌(和歌の道)のことを「八雲(八雲の道)」と別称する。ゆえに8は和歌を表象する数字である。
また島数が多いことを「八十島(やそしま)」、数多(あまた)存在する神々を「八百万(やおよろず)の神々」などというように、わが国では数が多いことを8という数字で表現した。
ゆえに、和歌と数多(あまた)を表象する8に、数のはじまりの1と数の極(きわ)みである10を合わせた11を乗じた88で、和歌の道が長久であることを示したというのだ。
【注】
(1)六義は中国最古の詩集『詩経』における詩の分類法で、内容別分類の風(ふう)・雅(が)・頌(しょう)、形式上分類の賦(ふ)・比(ひ)・興(きょう)の六つをいった。通説によれば、風は民間歌謡、雅は雅言(標準語)による歌、頌は祖先の功徳をたたえる歌のことで、賦は比喩なし、比は比喩(とくに風諭)、興は隠喩の文体のことという。
これがわが国に伝わると、和歌の六種の表現方法に適用された。『古今和歌集』仮名序では風・雅・比・興・雅・頌をそれぞれ、「そへ歌、かぞへ歌、なずらへ歌、たとへ歌、ただごと歌、いはひ歌」と言い換えている(以上加納喜光氏による。小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』)。
(2)『六義園記』(『賜蘆拾葉(写)・第七集』所収。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:217ー0011) |
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2022年2月1日(火) |
公家の遊興を注意する |
京都所司代になると、まず手を焼いたのが公家衆・僧侶たちの遊興だった。
とくに「若き殿上人(でんじょうびと)などあやしき姿にやつされ(若い公家たちが身分の低い者の姿に変装し)」「網笠(あみがさ。編笠)などと申物(もうすもの)」(1)をかぶって顔を隠して、京の繁華街四条河原(芝居小屋等が立ち並んでいた)を徘徊(はいかい)したり、島原の遊郭(ゆうかく)などいかがわしい場所へ好んで出入りしたりしていたのだ。
歴代の京都所司代たちがいくら厳しく禁止しても、その場限り。彼らの素行はなかなかおさまらなかった。
「公家衆忍びて、嶋原其外(そのほか)遊所へ遊びに行く事多かり。何程(なにほど)制法ありけれど止(やま)ざりける」(2)
というありさまで、歴代の京都所司代たちはいずれもその取り締まりに手を焼いていた。
他の身分の者だったらともかく、相手は天子様(天皇)をとりまく高貴な方々だ。直接には注意しにくい上、それが宮様(天皇の子)の場合であればなおさらだった。
戸田越前守忠昌(とだえちぜんのかみただまさ)が京都所司代のだった時のこと。
ある日、侍姿に変装して四条河原に遊びにいく有栖川宮(ありすがわのみや)(3)を、目付が複数回目撃した。大小二本差しで編笠をかぶり、従者を一人連れるという出で立ちだった。目付がその「侍」を尾行すると、再び有栖川邸に戻ってきた。目付は、「侍」が玄関の式台(しきだい)から邸内に入るのを確認すると、上司の戸田に子細を報告した。
戸田は有栖川邸に赴くと、宮様には直接注意せず、代わりに家老衆を叱りつけた。
「只今(ただいま)此(この)御門内(ごもんない)へ、編笠(あみがさ)冠(かぶ)りながら一僕(いちぼく。ひとりの従者)つれ、御式台よりあがり申(もうす)もの候(そうろう)由(よし)、承(うけたまわ)りぬ。
( 中略 )
さりとては各(おのおの。家老衆)の油断(ゆだん)に候(そうろう)。宮様方(みやさまがた)へ何ともゑしれざるもの(何とも得体の知れない者。不審者)入候(いりそうろう)を見咎(みとが)め申(もう)さざるハ、不届(ふとどき)と存(ぞんず)る」(4)
「宮邸に不審者(実は変装した有栖川宮)の出入りを許すとは何事か」と家老衆を責めることで、有栖川宮の行動に釘を刺したのだ。
さすがに、宮様の遊所徘徊は鳴りをひそめたという。
【注】
(1)内山温恭編『流芳録』巻之九、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。「京都所司代 松平因幡守信興」の項。
(2)『流芳録』巻之九、「京都所司代 松井紀伊守信庸」の項。
(3)第3代当主有栖川宮幸仁親王(1656~1699)か。幸仁親王は後西天皇(後西院天皇)の第2皇子。
(4)『流芳録』巻之九、「京都所司代 戸田越前守忠昌」の項。
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2022年1月31日(月) |
出家した天皇 |
仏教に帰依した天皇(・上皇)のなかには、出家して仏弟子となった者も多い。その際、法名(ほうみょう)を名乗った。
さて、次の法名を名乗った天皇(・上皇)は、いったい誰だろう。
1.勝満(しょうまん)
2.融観(ゆうかん)
3.空覚(くうがく)
4.行真(ぎょうしん)
5.円浄(えんじょう)
【答え】
1.聖武天皇(701~756。在位724~749)。
749年に大仏に塗る黄金が陸奥国から貢進されると、東大寺に行幸(ぎょうこう)して自ら「三宝(さんぽう。仏教)の奴(やっこ)」と称し、天平感宝と改元。いわゆる勅施入願文(ちょくせにゅうがんもん)に「太上天皇沙弥(しゃみ)勝満」の名乗りが見える。出家時期は不明。
2.白河天皇(1053~1129。在位1072~1086)。
後世「院政」とよばれる政治形態を創始したことで有名。1096年に最愛の皇女が亡くなったことをきっかけに出家、融観と号した(ただし法号を定めなかったとする説もある)。
3.鳥羽天皇(1103~1156。在位1107~1123)。
女御(にょうご)得子(とくし。美福門院)との間に皇子(のちの近衛天皇)が生まれると、崇徳(すとく)天皇に皇子への譲位を迫った。この頃、鳥羽上皇は出家して法皇となり、空覚と名乗った。近衛が病死すると、崇徳上皇の子をさしおいて後白河天皇を擁立。崇徳はこれを恨み、保元の乱(1156)の一因となった。
4.後白河天皇(1127~1192。在位1155~1158)。
平清盛と謀って六条天皇を退位させ、高倉天皇を擁立した後白河上皇は反対勢力を一掃して権力を掌握。1169年に法皇となり、行真と称した。
5.後水尾天皇(1596~1680。在位1611~1629)。
1651年に出家し、円浄と称した。紫衣事件によって有名。 |
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2022年1月30日(日) |
公方様を見下ろした |
ある時、将軍(吉宗か)が上野に外出し、その帰城途中でのこと。
すでに行列が通り過ぎたものと勘違いしたのだろう、ある町家の2階の戸があけられ、2、3人の男が顔を出していた。それを運悪く、駕篭廻(かごまわ)りの武士が見つけてしまった。
公方様の御成行列(おなりぎょうれつ)を2階から見下ろすなど、とんでもない不敬行為である。お咎(とが)めは免れまい。『はつか艸』は次のように記す。
「或時(あるとき)、上野御成(うえのおなり)の節(せつ)、三枚橋辺(さんまいばしあたり。現、東京都台東区上野)町家(ちょうか)より、もはや還御(かんぎょ。将軍の帰還)済候義(すみそうろうぎ)と心得違(こころえちがい)いたし候(そうろう)や、二階の戸を明(あ)け、両三人男顔を出し居(おり)候を、御駕籠廻(おかごまわ)りの面々見付(みつけ)、
「これは如何(いかが。どうしたことだ)!」
と存(ぞん)じ候所(そうろうところ)、はや御前(ごぜん。将軍)より御声(おこえ)を被出(だされ)、
「あの二階を明け、顔を出し候はよき女子(おなご)にて候。女房に候哉(そうろうや)、娘に候哉、承参候様(うけたまわりまいりそうろうよう)に。」
との御意(ぎょい)にて無難(ぶなん)に相済(あいすむ)。」(1)
顔を出していたのは明らかに男どもだった。それを駕籠廻りの武士が見咎めるや、彼らが行動を起こす前に駕籠の中から将軍の声が聞こえた。
「あの二階の戸を明けて、顔を出している美女は人妻なのか、娘なのか、聞いてまいれ。」
そんなすっとぼけたことを言って武士たちの気勢をそぎ、不敬を不問に付したのだった。
【注】
(1)『はつか艸』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0092 |
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2022年1月29日(土) |
難儀な御成(おなり) |
貴人が外出することを御成(おなり)といった。江戸の庶民にとって、身近だったのは将軍の御成だ(1)。
将軍の御成の日程が決まると、事前にその道筋となる町々に連絡がくる。すると、それぞれの町名主は人を使って、頭に金属の輪がついた鉄棒をジャラジャラ鳴らしながら、御成があることを町内に触れ歩かせた。この鉄棒を俗に「鈴虫」といった。
御成の最中、もっとも警戒がきびしかったのは火事だった。
火事騒ぎで行列が乱れるのは避けたい。また、火事騒ぎがおこれば、その混乱に乗じて無法を働くやからが出てこないとも限らぬ。それなら、御成の間は火を使わせぬに限る。ゆえに御成の間は煮炊きが禁止された。これを「煙止(けむど)め」といった。
篠田鉱造著『増補 幕末百話』の中には、正月二十日の初御成(はつおなり。将軍の上野御霊屋への参詣)の際の「煙止め」の話が出てくる(2)。
それによると、江戸市中では御成当日、明け六つ(午前4時)から火の使用ができなかったという。そのため、家々では七つ時(午前3時)から家内中起きだして煮炊きをし、御成前には朝食を済ませておいたという。
また御成の際には、各家の戸を閉め、二階のある家は窓を閉ざし、戸の合わせ目には半紙を切って横に張った。隙間から将軍をのぞき見しないように、封印したのだ。高貴な人を見下ろすなど、もってのほかの無礼と考えられていたのだろう。
男子は軒先にむしろを敷き、平伏して行列を拝することができた。しかし、女子や子どもの拝観は許されなかったという(異説あり)。
そのため、御成の間は女子や子どもらは家の中で息をひそめ、犬・猫は縄につながれ自由を奪われていた(5代将軍綱吉の時は、御成の際に犬・猫をつなぐに及ばない、とした)。
江戸市中の庶民にとって、将軍の御成は難儀だった。
【注】
(1)以下の記述の大部分は、長谷川渓石画、進士慶幹・花咲一男注解『江戸東京実見画録』2014年、岩波文庫、P.51~55によった。
(2)篠田鉱造著『増補 幕末百話』2021年第30刷(1996年第1刷)、岩波文庫、P.26 |
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2022年1月28日(金) |
甲州勝手小普請 |
甲州勝手小普請は「甲府詰めの小普請」の意味だ。寛政改革の一政策として寛政元(1789)年に新設された。
その設置目的は「不良幕臣の事実上の配流先確保にあった」と通常は理解されている。
甲州勝手小普請に、そうした懲罰的意味合いがあったことは確かだ。しかし、本来の創設目的は違ったところにあった。
寛政期の江戸・甲府間の人流を見ると、甲州勝手小普請として甲府入りする者がいる一方、甲府から江戸へ転出している「行状よき者」(植崎九八郎の言葉)もいた。また甲州勝手小普請の中で昇任する者や、そこから江戸へ転出する者もいたのである。
つまり、甲州勝手小普請を創設したそもそもの趣旨は、岩本馨氏によれば「一方的な配流というよりも綱紀粛正を意図した幕臣団の流動化」(1)にあったのだ。
ところが、時代が下るにつれ、こうした本来の趣旨は忘れられてしまう。
天保改革期(1841~1843)の江戸・甲府間の人流を見ると、江戸から甲府へは64名もの幕臣が甲州勝手小普請として送られてきている。しかし、甲府から江戸への転出者はわずか1名に過ぎないのだ。
こうした事実は、甲州勝手小普請が不良幕臣の「一方的な配流」先としてしか幕府に認識されなくなっていたことを示すものにほかならない(2)。
こうして「甲州勝手小普請=不良幕臣の懲罰」と一般にも理解されるようになったのだ。
【注】
(1)岩本馨「直轄城下町甲府の都市空間-武家地の分析を通して-」2003年-『日本建築学会計画系論文集、第573号』、P.179-
(2)岩本馨「同上」P.180~181 |
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2022年1月27日(木) |
制裁 |
3000石以下の幕臣で、高齢・幼少・病弱等のために仕事に耐えられない者は小普請に入れられた。
また不行跡な旗本の制裁に、幕府が「小普請入り」を命じることもあった。
小普請入りすると、仕事を奪われた上(無役)、罰金(小普請金)を納入し続けなければならない。身体壮健な者にとっては、なるほど「制裁」の意味合いを持つのだろう。
小普請入りを命ぜられると、毎月2、3度、支配のもとへご機嫌伺いに参上しなければならない。これを俗に「対談日」と唱えていた。
これでも本人の不行跡が直らないと、「お預け」になる。1000石以上の旗本の場合の「お預け」とは、次のようなものだったという。
事前に屋敷の一間(ひとま)に入る座敷牢を、ほかの場所に準備しておく。この牢は切り組み式になっており、現場で即座に組み立てられる。そして、いよいよ「言渡(いいわた)し」の当日を迎える。篠田鉱造著『増補 幕末百話』には次のようにある。
当人にはなるべく知らせず、秘密にして置いて言渡(いいわた)しを申聞(もうしき)かせる世話取扱(せわとりあつかい)一人、肝煎(きもいり)二人、親類二人以上、これら人々が立会の上不品行先生(ふひんこうせんせい。不行跡な旗本)を一間(ひとま)へ請(しょう)じ入れ、サテ「御自分儀(ごじぶんぎ)風聞(ふうぶん)宜(よろし)からざる趣(おもむき)に付き一間(ひとま)住居(ずまい)申付候(もうしつけそろ)」、 署名者は小普請支配(三千石高)で、前記の世話取扱が申し聞かせます。申聞(もうしき)かすや否や、ソコに牢を咄嗟(とっさ)に仕組んで、直様(すぐさま)入れてしまうという誂(あつら)えで、…なかなかの騒ぎであります(1)。
これでも改悛しない者は、甲州勝手小普請(こうしゅうかってこぶしん)を命じられる。甲州における小普請入りのようなものだ。仕事はなく金だけ取られる。しかも、繁華な江戸から遠く離される。これが一番つらい。
これになると「暗い淵瀬(ふちせ)へ沈むようなもの」(2)で、さすがの不行跡者もその辛(つら)さが身に沁(し)みたという。
【注】
(1)(2)篠田鉱造著『増補 幕末百話』2021年第30刷(1996年第1刷)、岩波文庫、P.169~171 |
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2022年1月26日(水) |
小普請(こぶしん) |
江戸時代、幕臣の数は増加している。
綱吉(館林藩)、吉宗(紀伊藩)など、外部から迎えた将軍が自分の家臣団を引き連れてやってきて、それらを幕臣に組み入れたからだ。
その結果、旗本・御家人の中には、幕府から家禄を支給されながらもふだんは仕事がまったくない、無役の者が数多くいた(なかには老幼・病気・処罰等をその理由とする場合もあった)。
幕臣は増加して人件費がかさむ一方なのに、仕事のない無役の者たちばかりが増加するという矛盾。
もちろん旗本・御家人には、危急の際将軍直属軍として出動するという役割がある。しかしそれは建前であって、平和な時代にあっては、そのような軍役をつとめる機会はまずない。
そこで無役の旗本・御家人のうち、3000石以下の者はその家禄や扶持米に応じ、江戸城内諸門の石垣修繕などに人足を提供することになった(1)。
こうした小規模な土木作業(普請)の負担は、「小普請(こぶしん)」と称された。
本来、人足を提供する負担だったが、そのうち小普請金(こぶしんきん。または小普請人足金ともいう)と称する金銭納入にかわった(2)。
人足提供から金銭納入への転換時期は不明だ。ただし、幕府が元禄2~3(1689~1690)年にかけて、無役の旗本・御家人から小普請金を徴収するための細かな規定を整備したことはわかっている。
この時期は、5代将軍綱吉の治世(1680~1709)に該当する。
綱吉が連れてきた館林家臣団の幕臣への組み入れにより、小普請の数は増大した。その一方、明暦の大火(1657)後の江戸復興、「元禄風」と呼ばれる生活水準の向上にともなう出費増などによって、幕府財政は逼迫するようになっていた。
したがって綱吉政権が、小普請金の徴収方法を細かく規定したのは、「無役の旗本・御家人を幕府財政の補てんに活用するためであった」のではないか、と山本英貴氏は見ている(3)。
【注】
(1)旗本のうち、3000石以上ないし布衣(ほうい)以上の者で無役は「寄合(よりあい)」といった。
(2)江戸時代の幕府の職掌・沿革等を記した『明良帯録』には次のようにある。
「此(この)人足ハ、古(いにしえ)は小普請の面々より出すハ古例(これい)なれども、今ハ小普請金にて事満(ことみち)たり。」(『明良帯録・2』、「小普請奉行」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ。請求番号:152-0067、コマ番号:9)
(3)山本英貴『旗本・御家人の就職事情』2015年、吉川弘文館(歴史文化ライブラリー)、P.107
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2022年1月25日(火) |
旗本・御家人の学力 |
篠田鉱造著『増補 幕末百話』の中にある話。
明治政府が成立して、静岡の沼津城に兵学校が設けられた。ここに旧幕府時代の旗本・御家人等500人が入校し、試験が行われた。
この時、太平の世に馴れた旧幕府の世襲役人のボロが、はからずも露呈した。
本を読ませると、旧幕府の重職面々の名前さえ、ろくすっぽ読めないのだ。
酒井雅楽頭を「さかいがらくのかみ」と読む(正しくは「さかいうたのかみ」)。桜田門外の変でも有名な井伊掃部頭は「いいはらいべのかみ」だ(正しくは「いいかもんのかみ」)。
また、『十八史略』中に「安禄山(あんろくざん。中国唐代、玄宗皇帝の時代に「安史の乱」を起こした人物のひとり)」という人名が出てくると、
「唐(から。中国)の山で、富士山より高い」
などと言い出す始末。
なるほど、これでは徳川(江戸幕府)が他愛なく滅びたのも道理だ、と妙に納得させられたという。
【参考】
・篠田鉱造著『増補 幕末百話』2021年第30刷(1996年第1刷)、岩波文庫、P.236~240
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2022年1月24日(月) |
異国人が上陸してきた(6) |
大津浜へのイギリス人上陸は、はからずも異文化接触の機会となった。
われわれの祖先は、自分らとは異なる容貌や立ち居振る舞い等を奇異の目をもって観察し、それらを記録に残した。『通航一覧』には、次のようにある。
「其様体(そのようてい)猿(さる)の如(ごと)く、丈(たけ。身長)高く、髪(かみ)の毛ちぢれ赤候(あかくそうろう)。二、三寸位(に、さんずんくらい。6~9cmくらい)髭(ひげ)も赤くちぢれ、色の白きもあり、又(また)殊(こと)に黒きも御座候(ござそうろう)。是(これ)は黒人と申候(もうしそうろう)。
十ニ人の内一人黒く見え、衣服は猩々緋(しょうじょうひ。赤色)羅紗(らしゃ)或(あるい)は黒白、いづれもぬひぐるみ致着用候(ちゃくよういたしそうろう)。
足は股引(ももひき)の様成(ようなる)物をはき、沓(くつ)をはき、底は金(かね。金属製)の様子に相見候(あいみえそうろう)。」(1)
しかし、この時のイギリス人船員たちの立ち居振る舞いは、日本人の目にはたいへん行儀の悪いものとうつった。
「食物は飯を少々宛(ずつ)五、六度食申候(たべもうしそうろう)。箸(はし)は不持(もたず)、手握(てにぎり)に食申候。
菜(さい。副食)は生ねぎ、生大根、青梅、生鶏抔(など)食申候(たべもうしそうろう)。醤油(しょうゆ)・塩にて煮(に)候(そうろう)物は、一向(いっこう。全く)食不申(たべもうさず)。」(2)
「辞義合(じぎあい)をしらずと見へ、食事するにも我(わが)ままに喰(くら)ふ也(なり)。( 中略 )
大小用をしても手をあらはず、かん処(かんじょ。便所)へ出入(でいり)、また外へ出るともくつをはいて、ままに足を洗ふといふことなし。」(3)
遠く離れた異国の人びとが、「イギリス人は飯を手づかみにし、ネギ・ダイコン・鶏などを生で食う。トイレに行っても手も洗わない」と思っている。そんな芳しくない評判を知ったら、イギリス本国の「紳士・淑女」たちはどのような顔をしただろうか。
【注】
(1)(2)『通航一覧・第6巻』前出、P.457~458
(3)加藤松蘿篇『文政七庚申夏異国伝馬船大津浜へ上陸並諸器図等(写)』茨城県立図書館蔵、資料番号:001051192704/請求記号:W-092-580-43、P.49(茨城県立図書館デジタルライブラリー、「郷土ボランティアの解読資料」から閲覧できる) |
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2022年1月23日(日) |
異国人が上陸してきた(5) |
幕府代官古山善吉らの迅速な対応により、大津浜事件は穏便に解決した。
しかしその一方、こうした幕府の措置を手ぬるいと批判し、不満を漏らす人びとも存在した。
たとえば、対外的危機意識を強めていた水戸藩の藤田幽谷(ふじたゆうこく。1774~1826)は、息子藤田東湖(ふじたとうこ。1806~1855)に命じ、大津浜で軟禁されているイギリス人船員たちを皆殺しにしようと企てた。しかし、東湖が水戸を出発する前、すでにイギリス人たちが解放されていたため、実行には至らなかったのだ。
当時19歳の東湖は、決死の覚悟を固めていたものの、肩すかしをくらった形になった。後年この事件を「自分が死を覚悟し、しかも死ななかった最初の出来事だった」と述懐している(藤田東湖『回天詩史』)(7)。
また、水戸藩から筆談役の一人として現地に派遣された会沢正志斎(1782~1863。藤田幽谷の高弟。筆談記録は『諳夷問答(あんいもんどう)』(8)として現在に残る)も、イギリス人の来航目的は捕鯨にはなく、領土的な野心にあると疑っていた(9)。そこで会沢は文政8(1825)年、『新論』を著して尊王攘夷を訴えるのである。
その後『新論』は、幕末期の政治運動に大きな影響を及ぼしていくことになる。
また、大津浜の事件がおきた同じ年(1824年)、薩摩の宝島ではイギリス人が上陸して野牛を奪うという事件が発生した。
頻発する異国船接近・異国人上陸事件によって、幕府は従来の対外政策に変更を迫られることになった。そこで文政8(1825)年、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を発令して、従来の穏便路線から強硬路線への転換をはかるのである。
【注】
(7)『回天詩史』は、藤田東湖の自伝的回顧録。原漢文。『新定東湖全集』所収。
(8)会沢正志斎『諳夷問答』は、武藤長蔵著『日本交通史之研究』1942年3版、内外出版印刷、P.469~477に所収(国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:210.18-M996n-(th)、コマ番号:294~298)。
(9)会沢正志斎は「グリーンランド等、イギリスの近海には鯨が多く棲息する。それにもかかわらず、はるばる東洋にまで来航する意図は何か」と論じ、「悪(いづく)んぞ今日の漁船商舶(しょうはく)、果して異日の戦艦たらざるを知らんや」とイギリスに侵略的意図を疑っている(会沢安著・塚本勝義訳註『新論・廸彝篇』1974年第5刷(1931年第1刷)、岩波文庫、P.121)
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2022年1月22日(土) |
異国人が上陸してきた(4) |
異国人たちが上陸した事情は次のようなものだった。
彼らはイギリスの捕鯨船員で、18ヶ月前にロンドンを出帆したという。現在、沖合には類船が30艘ばかり、散在している。それらは「都(すべ)て鯨漁の船」であり、「日本地方近海において、近年鯨漁多取れ」るために日本近海にやってきたものだという。そして今回彼らが上陸した理由は、船中で「敗血病(ビタミンC欠乏からおこる壊血病)人」が発生したためで、薬用のための果実・野菜等を入手するためである、と(4)。
現地に派遣された幕府代官古山善吉らは、イギリス人たちの上陸目的は薬用の食料調達にあり他意はなかった、と判断した。そこで、次のように申し渡し、果実・野菜等を与えて彼らを放免することにしたのである。
「此度(このたび)其方共(そのほうども)、我国々近海へ船を寄(よす)るのみならず、不法に上陸いたし候儀(そうろうぎ)我国の禁を犯し、容易ならざる事なれども、其方共、此儀(このぎ)一切(いっさい)弁(わきま)え知らず、唯(ただ)病人ありて、是(これ)が為(ため)に、果実(かじつ)、野菜(やさい)の類を得度(えたき)ゆゑの由(よし)に有之故(これあるゆえ)、此度(このたび)は差免(さしゆる)し、且(かつ)乞(こう)にまかせ、薬用の品々、我等(われら)の差略(さりゃく)を以(もって)さし遣候間(つかわしそうろうあいだ)、早々帰帆(きはん)いたすべし」(5)
この時、彼らに下賜した品目は次の通り。
リンゴ350個、ビワ4升、大根500本、サツマイモ32本、鶏10羽、「ひよう(ヒユか)」1籠、酒1樽(5升入り)(6)
これらを入手したイギリス人たちはボートで本船へ戻り、いずこへともなく立ち去った。諸藩から出張してきた人数も追々現地を引き払い、こうして事件は穏便に済んだのである。
【注】
(4)『通航一覧.第6巻』前出、P.462~463
(5)『通航一覧.第6巻』前出、P.463~464
(6)『通航一覧.第6巻』前出、P.464 |
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2022年1月21日(金) |
異国人が上陸してきた(3) |
沖合には4艘の巨大な異国船が見えた。またそれよりはるか沖合には、さらに10余艘ほどの異国船が控えている、との風聞があった。
たまたま異国船の方で、三百目玉(さんびゃくめだま。約1.1kgの弾)ほどもあろうか、「鳥銃(ちょうじゅう。小銃)」を2、30回ほど発射し、その銃声(砲声)が陸地にまで到達した。
人びとの間に緊張が走った。
「諸人(しょにん)上下の差別なく、今にも合戦(かっせん)にも相成候様(あいなりそうろうよう)に被存候(ぞんぜられそうろう)。依(よっ)て農家は手後(ておく)れに相成(あいなり)、漁事(ぎょじ)は出船(しゅっせん)不被致候(いたされずそうろう)に付(つき)、一向無之(いっこうこれなく)、誠に大難渋(だいなんじゅう)に御座候(ござそうろう)。」(2)
(誰もが今にも合戦がはじまるのではないかと思った。そのため仕事が手につかず、農作業は時機を失し、漁船は出港できず、まことにもって大難渋のありさまだ。)
そのうち、異国船本船からボートをおろし、大津浜に向かっているとの情報が入った。
それらは捕虜の返還要請のために漕ぎ寄せたボートであり、彼らに敵意はまったくなかった。しかし、事情を知らぬ警備兵たちは火縄銃の火縄に点火し、弓矢や大砲の準備をしはじめた。
このような緊迫した状況のもと、地域住民の間では不安が急速に高まり、大騒ぎしながらあわてて逃げ出す者が出はじめた。
「大(おおい)に騒立(さわぎたて)、家財道具を脊負(せお)ひ、皆々奥山(おくやま)に引去候間(ひきさりそうろうあいだ)、家数(いえかず)十四、五軒明家(あきや)に相成候(あいなりそうろう)。」(3)
しかし、武力衝突など起こらなかったのである。
6月10日、幕府代官の古山善吉(ふるやまぜんきち)一行が到着した。古山らは、当日のうちに異国人捕虜の事情聴取を開始した。そして、その上陸をやむを得ない事情によるものと判断すると、彼らにわが国の国法を申し諭し、食料を与えて速やかに本船へと返還したのである。
【注】
(2)『通航一覧.第6巻』前出、P.460、コマ番号:235(以下省略)
(3)『通航一覧.第6巻』前出、P.461 |
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2022年1月20日(木) |
異国人が上陸してきた(2) |
文政7(1824)年5月28日、水戸藩領北端の大津浜(現、茨城県北茨城市)沖に突然国籍不明の異国船が現れた。そして、本船からおろしたボート2艘に分乗した乗組員12人が、武器を携行して上陸するという事件が発生した。
『通航一覧』(巻261)はその概要を次のように伝える(読みやすくするため句読点をふり直し、旧漢字を現行漢字に改めるなど、一部表記を変えた)。
「文政七(1824年)甲子(きのえね)五月廿八日(5月28日)、常陸国大津浜(割注:「多賀郡に属す。水戸殿家老中山備前守領地なり」)に異船ニ艘来(きた)り、十二人鉄砲を携(たずさ)へ上陸す。時に中山備前守が人数、之(これ)を捕(とら)ふ。然(しか)るに、本船の人数よせ来るべき形勢により、同廿五日(本ノママ)水府(すいふ。水戸藩)に加勢を請(こ)ふ。よて同日より一番手(いちばんて)・二番手(にばんて)追々(おいおい)出張あり。」(1)
割注(わりちゅう)に、大津浜は「水戸殿家老家老中山備前守領地なり」とあるのは、大津浜は水戸領松岡村に属し、当時水戸藩附家老(つけがろう。幕府から藩主に付けられた家老)中山備前守信情(なかやまびぜんのかみのぶもと)の知行地内にあったからだ。別高(べつだか)扱いにされていたが、同じ水戸藩領だった。
中山は、多賀郡手綱(てづな。現、茨城県高萩市)の陣屋(じんや)から役人を現場に急行させて異国人のボート2艘を押収するとともに、乗組員12人を捕らえ軟禁した。そして、事件を水戸藩庁に報告するとともに、加勢を依頼した。
そこで水戸藩庁では、先手総頭(さきてそうがしら)・目付(めつけ)・筆談役(ひつだんやく)・徒目付(かちめつけ)・大筒役(おおづつやく)ら200余人を現地へ急派した。
事情を知った棚倉(たなぐら。井上河内守領分)・磐城平(いわきたいら。安藤対馬守領分)・泉(いずみ。本多越中守領分)などの近隣諸藩も沿岸地域に加勢を派遣し、大津浜や周辺沿岸地域は一時騒然となった。
【注】
(1)『通航一覧.第6巻』1911~1913年、国書刊行会、P.455(巻261、諳厄利亜國部十「狼藉始末 常陸國大津濱」)。国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:343-4は、コマ番号:232 |
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2022年1月19日(水) |
異国人が上陸してきた(1) |
19世紀になると、水戸藩領の東海沖合にも異国船がしばしば出没するようになり、藩では「外患」が頭痛の種となった。そもそも水戸藩は太平洋側に長い海岸線を有していたため、どうしても対外的な危機意識とは無縁でいられなかったのだ。
たとえば文政6(1823)年6月9日、国籍不明の異国船1艘が那珂湊沖合に出現したことがあった。
東廻り海運の寄港地であった那珂湊は、太平洋から那珂川を介して物資を運び込む水戸城下の外港でもあり、軍事上の要衝でもあった。
驚いた水戸藩庁は武器を携行させた郡奉行・先手物頭(さきてものがしら)ら数十人を現地へ急派した。しかしその間、異国船はすでに姿を消していたため、この時は何事もなく済んだのである。
文政6年から翌7年にかけて、年表をちょっと調べてみるだけで、水戸藩領ではこういった異国船関連事件が日常茶飯に起こっていることがわかる。
文政6(1823)年5月25日 漁船が海上で異国船に接触。乗り移って酒・菓子等を得て帰る。
6月9日 那珂湊沖に異国船出現。
6月10日 那珂湊沖に異国船出現。
6月11日 那珂湊沖に異国船出現。
6月12日 村松(現、茨城県東海村村松)沖合で異国船の目撃情報。
文政7(1824)年3月15日 那珂湊沖でロシア船の目撃情報。
4月3日 那珂湊沖合に異国船出現。
4月15日 那珂湊沖に異国船出現。
5月2日 那珂湊沖に異国船出現。
5月4日 那珂湊沖に異国船出現。
こうした状況のもと、文政7(1824)年5月28日、水戸藩領の北端に位置する大津浜(現、茨城県北茨城市)に、2艘の異国船が接近した。そして、本船から2艘のボートをおろすと浜辺に漕ぎ寄せ、武器を携えた乗組員12人が上陸してきたのである。
知らせをうけた水戸藩や周辺諸藩では、軍隊まで出動させるという大騒ぎになった。 |
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2022年1月17日(月) |
吉雄忠次郎 |
高橋景保の命で『諳厄利亜人性情志』を和訳した吉雄忠次郎(よしおちゅうじろう。1787~1833)は、幕府の天文台詰通詞(てんもんだいづめつうじ)。文政5(1822)年に先任の馬場佐十郎(ばばさじゅうろう)が病死したため、文政6(1823)年に天文台詰通詞となったのだ。
吉雄は長崎で、オランダ商館長ブロムホフからオランダ語と英語を学んだ。
当時、外国の言葉といえばオランダ語や中国語が中心だったから、英語ができるということは一つの強みだった。
たとえば文政7(1824)年、常陸国大津浜イギリス人上陸事件が起きた際にも、吉雄の英語力は遺憾なく発揮された。
水戸藩では筆談役を現地に派遣したものの、英語が話せるわけではなかった。ほとんどが身振り手振りでの応対だった。悪戦苦闘の末、かろうじて外国人がイギリスの捕鯨船員で、薪水食料を求めての上陸ということがわかったのだった。
これに対し、応接通弁として幕府から派遣された吉雄は、現地に到着したその日のうちにイギリス人たちの取り調べを開始した。そして翌日には取り調べを終えたので、幕府代官の古山善吉はわが国の国法を諭(さと)して帰帆を命じ、彼らを解放したのである。この時吉雄は、自分が英訳した「諭書(さとしがき)」を船員たちに渡している。
文政9(1826)年、吉雄は天文台詰通詞の職を辞し、長崎に帰った。長崎ではシーボルトのために翻訳を手伝ったり、高橋景保のために書籍送付の斡旋をしたりした。しかし、ふたりとの関わりが、吉雄に思わぬ災いをもたらす。
シーボルト事件である。
伊能図等を持ち出そうとしたシーボルトは国外追放処分となった。
シーボルトに伊能図を渡した高橋景保は牢死。死体は塩漬けにされたのち、取り捨てられた。
吉雄は永牢(えいろう)となり、米沢藩上杉家にお預けになった。そして3年後の天保4(1833)年に病没した。47歳だった。
【参考】
・片桐一男『阿蘭陀通詞』2021年、講談社(学術文庫)、P.353~P.354 |
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2022年1月16日(日) |
『諳厄利亜人性情志(あんげりあじんせいじょうし)』(2) |
『諳厄利亜人性情志』には、イギリスの歴史と国民性が述べられている。高橋景保の序文に要点が示されているので、その一部を示そう。
「諳厄利亜人性情志序
此(この)編(へん)ハ欧羅巴洲(ヨーロッパしゅう)諸国の性情志(せいじょうし。国民誌)中より、抄訳(しょうやく。抜き出して和訳する)せしめしなり。
蓋(けだ。思うに)彼諸国(かのしょこく。ヨーロッパ諸国)の人、諳厄利亜人(あんげりあじん。イギリス人)を品(ひん。批評)して、性情(せいじょう。気性、国民性)甚(はなは)だ異なりとす。況(いわん)や我(われ)よりこれを視(み)るをや。
試(こころみ)に其(その)梗概(こうがい。概略、あらまし)を論ずるに、俗(ぞく)都(すべ)て悍(かん。あらあらしい)黠(かつ。わるがしこい)、死を軽(かろ)んじ、己(おのれ)が為(なさ)んと欲(ほっ)する所、誓(ちかい)て必(かならず)果(はた)し、苟(いやしく。かりそめに、かりに)も逆詞を受(うけ)れバ、却(かえっ)て激(げき)するに死を以(もっ)てす。
中古改革このかた、政刑法典皆一国の議(はか)り立(たつ)る所にして、王も背(そむ)く能(あた)ハず。
乃(すなわち)政法ハ国の政法なり。王の政法に非(あら)ずとし、執政(しっせい。宰相)・権貴(けんき。権勢がある高位の者)の威(い。権威)も其(その)下(人民)を御(ぎょ。制御する、支配する)するに足らず。下民ハ能(よ)く権貴の威を挫(くじ)くをもて潔(いさぎよし)とす。
これ君臣上下の別ありと雖(いえど)も其(その)実(じつ。実際には)ハ無(なき)が如(ごと)く、然(しか)り而(しか)して此(この)編(へん)謂(いい)て、寛裕(かんゆう。心がひろくゆとりがある、寛容な)の政(まつりごと)とす。 ( 以下略 ) 」
『諳厄利亜人性情志』は、ヨーロッパ諸国の国民性(性質・心情)を記した本からその一部を抜き出し和訳したものという。
ヨーロッパ諸国の人々でさえ、イギリス人の気性は自分たちとはずいぶん異なる、と考えている。まして、日本人の目から見れば、それはなおさらのこと。
大ざっぱに言うなら、イギリス人は総じて気性があらくずる賢い。目的を達成するためなら死をもいとわぬ激しい気性をもつ。
またイギリスでは、古くから国王であっても背くことができない国法を整備してきた。政治家・権門勢家はその権威で人民を支配することができず、かえって人民はその権威をくじくことを平気でする。これでは、君臣上下という身分階級は、あってなきがごとしだ。
このように、高橋景保はイギリス人の国民性を理解していたのだ。
【参考】
・吉雄永宜訳・浦野元周校『諳厄利亜人性情志』(文政8(1825)年序)、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:185-0334 |
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2022年1月15日(土) |
『諳厄利亜人性情志(あんげりあじんせいじょうし)』(1) |
19世紀になると、クジラ猟を目的とする外国漁船が、頻繁に日本近海に出没するようになった。
クジラ猟は長期間にわたる航海になるため、どうしても途中、食料・水などの補給が必要となってくる。そのため、薪水・食料等を求める外国船が日本沿岸に接近・上陸するようになり、地域住民とのトラブルが多く発生するようになった。
しかし言葉が通じないので、なかなか埒(らち)があかない。そこで幕府は、江戸天文台に勤務する天文台詰通詞(てんもんだいづめつうじ)を外国船来航地に出張させて、その応接にあたらせた。
たとえば、ゴロウニンらロシアン人との通弁にあたった足立左内(あだちさない)と馬場佐十郎(ばばさじゅうろう)も、文政元(1818)年の英船ブラザース号の浦賀来航、同5(1822)年の英船サラセン号の浦賀来航の際には現地へ赴き、その応接にあたっている。
また、同7(1824)年には常陸国大津浜(現、茨城県北茨城市)にイギリスの捕鯨船2艘が来航し、12人の乗組員が上陸して食料を求めるという事件が起きた。この時には、足立左内と吉雄忠次郎(よしおちゅうじろう)が幕吏とともに現地へ出張し、イギリス人との応対にあたっている。
この大津浜へのイギリス人上陸事件は、同年の薩摩国宝島へのイギリス人上陸事件とともに、翌年(1825年)の異国船打払令発令の直接の契機となったとされる。
こうしたたび重なる外国船への脅威に対処するために、沿岸防備に力が入れられた。しかし、それだけでは十分でない。海外情報を広く収集して、世界の情勢に気を配っておく必要がある。とりわけ、フェートン号事件(1808年)以来、頻繁にトラブルを持ち込んでくるイギリス人については、その国情やら国民性やらを知っておく必要があろう。
そう考えた幕府天文方の高橋景保(たかはしかげやす。1785~1829)は、天文方詰通詞の吉雄忠次郎(1787~1833)に命じて『諳厄利亜人性情志(あんげりあじんせいじょうし)』(1825年の序あり)を和訳させた。「諳厄利亜人(あんげりあじん)」とはイギリス人のことだ。 |
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2022年1月12日(水) |
足立左内、ピタゴラスの定理を証明する |
大坂御鉄砲奉行同心だった足立左内信頭(あだちさないのぶあきら。1769~1845)は、麻田剛立(あさだごうりゅう。私塾を先事館といった)の門下生で、高橋至時(たかはしよしとき。伊能忠敬の師)・間重富(はざましげとみ。大坂の質店十一屋の主人)らと並ぶ実力者として知られた。
その実力を買われて寛政8(1796)年、改暦御用の下命をうけ天文方高橋至時の手付(てつけ。助手)となり、京都(天文観測は、従来京都でおこなわれてきた)で御用を勤めた。こうして完成したのが寛政暦である。
御用が済むと元の職に戻ったが、文化6(1809)年にはまたしても同心身分のまま江戸への出役を命じられ、幕府天文方高橋景保(たかはしかげやす。高橋至時の子でシーボルト事件で処罰)の手付として改暦作業にあたった。
天文方に昇任したのは天保6(1835)年、67歳の時だった。昇任が遅かったのは、実力より家格がものをいう時代だったからだろう。
左内は天文暦法ばかりか、語学にも才があった。文化10(1813)年には、オランダ通詞馬場佐十郎(ばばさじゅうろう)とともに松前に出張し、捕虜(ほりょ)となったゴロウニンらからロシア語を学び、ロシア人との交渉に携わった。
ゴロウニンらは、左内を「アカデミーク(学士院会員)」、馬場佐十郎を「オランダ通詞」と呼んだ。左内を学者と認識していたのだ。
ロシア人たちは左内との問答の中で、左内が新旧暦法・コペルニクスの天体説・三角関数等を理解していることを知った。
するとゴロウニンは、日本人が幾何学の定理をどのように証明するのか知りたいとの興味にかられた。そこで、ピタゴラスの定理を証明するよう、左内に求めた。
ピタゴラスの定理とは「直角三角形の斜辺の長さの平方は、残りの二辺のそれぞれの平方の和に等しい」という、現在ではよく知られた初歩的数学の定理だ。
左内はまず、紙の上に直角三角形とそれぞれの辺を一辺とする三つの正方形を描いた。次にそれらの正方形を切り抜くと、二辺上の二つの正方形を折って細かく切り、斜辺上の大きな正方形の上に並べはじめた。そして、正方形の全面積をすきまなく埋めて見せたのである。
こうして左内は「最も論争の余地のない方法でそれ(ピタゴラスの定理)を証明してみせた」(ゴロウニン)のだった。
【参考】
・『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)、「足立左内」の項。
・ゴロウニン著、徳力真太郎訳『日本俘虜実記(下)』1984年、講談社学術文庫、P.152~P.156 |
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2022年1月9日(日) |
早起きは三文の徳 |
「早(朝)起きは三文の徳(得)」という。
広辞苑(第6版)には「早起きすると良いことがあるということ」とある。朝寝を戒め、早起きを奨めるためにできた諺だろう。
しかし、なぜ「一文の徳」ではなく「三文の徳」なのだろう。「早起きすれば、少しはよいことがある」といいたいなら「一文の徳」でよさそうなものだ。
そこで『江戸語の辞典』で「三文」の項を引くと
「①銭三文。②転じて、極めて少額の銭。最少額。「一文」というより古風な言い方。」
とあった(1)。また同辞典には、三文絵(さんもんえ。一枚三文の絵。粗末な安物の絵)、三文花(さんもんばな。一束三文の切り花)、三文判(さんもんばん。出来合いの粗末な印形)、三文野郎(さんもんやろう。取るに足らぬ男)など、三文を付した熟語が並んでいる。
これらから「三文」が最低をあらわし、「一文」よりは古い言い方ということはわかった。しかし、なぜ「三文」なのかは、依然としてわからずじまい。
一説によるとこの諺は、昔の銭に関する慣行に由来するという。
中世日本では銭不足を補うため、銭の穴に紐(ひも)を通して97文つないだものを100文と見なして通用させる慣行があった。これを省陌(せいはく)という。
しかし、バラバラの銭のままだと、100枚なければ100文として通用しない。だから早起きして、バラバラの銭を紐でつなげば三文得することができたのだ。
これが「早起きは三文の徳(得)」の由来という(2)。
【注】
(1)前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社(学術文庫)による。
(2)高木久史『通貨の日本史』2016年、中央公論新社(中公新書)、P.48。ただしこの由来説も、そもそも省陌が97文でなければならなかった理由が不明のままだ。 |
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2022年1月8日(土) |
永楽通宝 |
「10世紀後半の乾元大宝(けんげんたいほう)の発行をもって、律令国家は貨幣鋳造をやめてしまった。しかしその後の流通経済の発達にともない、わが国では銭不足が深刻化していった。しかし、当時の国家には銭を発行する能力がなかったため、輸入銭に頼らざるを得なかった。そのため、日明貿易でも大量の銅銭が輸入された。」
以上のように、高校日本史の授業では教わる。そして、その輸入銭の一例として、たいていの教科書には永楽通宝の写真が載っている。
しかし日明貿易で輸入された銅銭の主流は、永楽通宝をはじめとする明銭ではなかった。日本で出土する銅銭の8割は北宋銭であり、明銭の割合は1割にも満たない。
明では銭から銀財政への転換がすすみ、15世紀前半には銭の鋳造を停止し、16世紀からは断続的・少量ずつしか銭を発行していなかった(1)。だから、明銭が輸入銭の主流となるはずがないのだ。
また「日明貿易で大量に輸入されたのは銅銭」というのも誤った先入観だ。大量に輸入されたのは、日明貿易の開始時くらいである。
実際には15世紀後半以降、政府間ルートでの銅銭輸入はなくなるか急減する(2)。ゆえに、政府間における当時の銅銭輸入の量を過大評価すべきではないのだ。
したがって、日明貿易の輸入銭に関する教科書の記述も、そのうち書き換えられるかもしれない。
【注】
(1)(2)高木久史『通貨の日本史』2016年、中央公論新社(中公新書)、P.44~47 |
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2022年1月7日(金) |
往復の間に代替わり |
建文帝・永楽帝に関する話題をもう一つ。
足利義満が日明貿易の開始を打診するため、博多商人肥富(こいつみ)某(なにがし)や僧祖阿(そあ)らを明に派遣したのが応永8(1401)年5月のこと。このときわが国の使節を謁見したのは、建文帝だった(明の建文3年)。
しかし翌年(1402年)、燕王(えんおう)朱棣(しゅてい)が甥の建文帝から皇位を簒奪(さんだつ)して即位する(永楽帝)。
2年後の応永11(1404)年5月、明使が来日し、義満に「日本国王之印」(1)・勘合(渡航証明書)等をもたらした(明の永楽2年)。
したがって義満が受領した勘合は、建文勘合ではなく、永楽勘合(2)だったのだ。
【注】
(1)明の皇帝を君、諸国の王を臣とする冊封体制のもとでは、外交に参加できるのは皇帝・国王のみだった。これを「人臣に外交なし」と表現した。ゆえに、日明貿易をおこなうにあたって義満は、どうしても「日本国王」になる必要があったのだ。
(2)日明関係の場合、皇帝1代ごとに100通の勘合が交付された。勘合は、各皇帝の固有の年号を付して、「永楽勘合」「宣徳勘合」などとよばれた。(村井章介『世界史の中の戦国日本』ちくま学芸文庫、P.24) |
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2022年1月6日(木) |
幸田露伴の文体(「運命」から) |
昨年末からテレビドラマ「大明(だいみん)皇妃」を視はじめた。中国明代に取材した歴史エンターテイメントで、燕王(えんおう)朱棣(しゅてい。のちの永楽帝)が甥(おい)の建文帝(けんぶんてい)から皇位を簒奪(さんだつ)する「靖難(せいなん)の変」の場面から始まる。
それでふと思い立って、同じ「靖難の変」を扱った幸田露伴の歴史小説「運命」を読み返してみた。
「歴史は繰り返す」という。永楽帝の息子高煦(こうく)もまた父の「靖難の変」に倣(なら)い、甥の宣徳帝(せんとくてい)からの皇位簒奪をはかる。
高煦の挙兵から結末までを、露伴はどう書いたのか。その該当部分が次だ。
なお、「運命」は露伴の最高傑作ともいわれる作品のひとつ。しかし、露伴の「鋼鉄のような」「古い文体による文章」(1)は、現代人にはお世辞にも読みやすいとは言えない。また、使用される語句・表現も難解だ。そこで読みやすくするため、適宜改行し読みがなや注等を付した。
たまには明治の文豪の格調高い文章に触れる機会があってもいい。
「漢王(かんおう)高煦(こうく)反(はん)す。
高煦は永楽帝の子にして、仁宗(じんそう。永楽帝の長子)の同母弟、宣徳帝(せんとくてい。仁宗の子、永楽帝の孫)の叔父(しゅくふ)なり。燕王(えんおう。永楽帝)の兵を挙(あ)ぐるや、高煦父に従(したが)つて力戦す。材武(さいぶ)みづから負(たの)み、騎射(きしゃ)を善(よ)くし、酷(はなは)だ燕王に肖(に)たり。
永楽帝の儲(ちょ。跡継ぎ)を立つるに当(あた)つて、丘福(きゅうふく)、王寧(おうねい)等の武臣意(こころ)を高煦に属するものあり、高煦亦(また)窃(ひそか)に戦功(せんこう)を恃(たの)みて期(き。皇位につきたいと心に思う)するところあり。然(しか)れども永楽帝長子を立てて、高煦を漢王とす。高煦怏々(おうおう。不満がある様子)たり。仁宗立つて其歳(そのとし。皇帝に即位して1年も経たないうちに)崩(ほう。皇帝が死ぬこと)じ、仁宗の子(宣徳帝。高煦の甥)大位(たいい。皇位)に即(つ)くに及(およ)びて、遂(つい)に反(はん)す。
高煦の宣徳帝に於(お)けるは、猶(なお)燕王(永楽帝)の建文帝に於(お)けるが如(ごと)きなり。其父(そのちち。永楽帝)反して而(しか)して帝たり、高煦父の為(な)せるところを学んで陰謀(いんぼう)至(いた)らざる無し。然(しか)れども事(こと)発するに至つて、帝(宣徳帝)親征(しんせい。自ら兵を動かして)して之(これ)を降(くだ)す。高煦乃(すなわ)ち廃(はい)せられて庶人(しょじん。皇族の身分を剥奪されて庶民に落とされる)となる。
後(のち)鎖シツ【執の下に糸】(さしつ。鎖につながれる)されて逍遙城(しょうようじょう。紫禁城の西安門内に造られた建物)に内(い)れらるるや、一日(いちじつ。ある日)帝(宣徳帝)の之(これ)を熟視(じゅくし)するにあふ。高煦急に立つて帝の不意(ふい)に出(い)で、一足(いっそく)を伸(のば)して帝を勾(こう。引っかける)し地に踣(ばい。倒す)せしむ。
帝大(おおい)に怒(いか)つて力士(りきし)に命じ、大銅缸(だいどうこう。大きな銅製の甕)を以(もっ)て之(これ)を覆(おお)はしむ。高煦多力(たりょく。力が強い)なりければ、缸(こう)の重さ三百斤(さんびゃくきん。1斤は0.6kg。三百斤は180kg)なりしも、項(うなじ)に缸(こう)を負(お)ひて起(た)つ。帝炭(すみ)を缸上(こうじょう)に積むこと山の如(ごと)くならしめて之(これ)を燃(もや)す。高煦生きながらに焦熱地獄( しょうねつじごく)に堕(だ。落ちる)し、高煦の諸子(しょし。子どもたち)皆死を賜(たま)ふ。」(2)
【注】
(1)塩谷賛の解説による。幸田露伴『運命』1988年第21刷(1938年初刷、1972年第16刷改版)岩波文庫、P.169。なお「運命」は1919年、雑誌「改造」創刊号で発表された。
(2)『運命』同上、P.129〜130。 |
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2022年1月5日(水) |
門松の竹はなぜ斜めに削いであるのか |
正月の門松は、もともとは松だけ飾る簡単なものだった。そのうち「松竹(しょうちく)」でめでたい竹もコンビで飾るようになったという。
当初、竹は真横に切った「寸胴(ずんどう)」だった。そのうち頭を斜めに切り落とした「削(そ)ぎ」が登場し、関東ではこれが門松の主流になった。
削ぎ竹の起源については、三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗した徳川家康が、門松に八つ当たりして刀で竹を斜めに切り落としたから、とする俗説がある。
しかし、この俗説の出所がわからない。ただし、江戸幕府には、「武田の首を切り落とした」ことに見立てて削ぎ竹を吉例として飾るようになった、という伝承はあった。
後世のものだが、徳川幕府の年中行事(安永~文化頃)を記載した『要筐辨志年中行事(ようきょうべんしねんじゅうぎょうじ)』(1812年の序あり)には、次の記載がある。
「一、御松餝(おんまつかざり)、竹ハ葉なし、竿(さお)に等敷(ひとしく)、裏を切先(きっさき)の如(ごと)く切り、松を添(そう)。( 中略 )
此(この)恒例(こうれい)ハ天正(てんしょう)・元亀(げんき)の比(ころ)、
神君(しんくん。徳川家康)浜松御在城(はままつございじょう)の砌(みぎり)、甲斐信玄(かいしんげん。武田信玄)と御合戦被遊候節(おんかっせんあそばされそうろうせつ)、敵方(てきがた)歳旦(さいたん)の発句(ほっく)とて
松かれて、竹たぐひなきあした哉(かな)
と認(したため)送り越(こし)候処(そうろうところ)、御前(ごぜん)ニ酒井左衛門尉忠次(さかいさえもんのじょうただつぐ)詰合(つめあい)罷在(まかりあり)、左様(さよう)ニて有間敷(あるまじき)とて
松かれで、武田首なき旦(あした)哉(かな)
と奉称(しょうしたてまつり)、御運得給(ごうんえたま)ふより御吉例(ごきちれい)と相成候由(あいなりそうろうよし)、( 中略 )
今、御餝松(おかざりまつ)、武田の首を扮(ふん)し侍也(はべるなり)と申傳(もうしつた)ふ也(なり)」(1)
三方ヶ原の戦いに惨敗した翌年、敵方の武田から徳川方に手紙が届いた。見ると歳旦(さいたん。元旦)を祝賀する発句(ほっく)が書いてある(2)。
松枯れて、竹たぐひなき、あしたかな
徳川の旧姓松平に掛けて、松(徳川氏)が枯れて竹(武田)が繁栄するめでたい新年の朝であることよ、の意味である。家康の御前にいた酒井忠次が機転を利かせて、濁点の場所を変えるだけでまったく違う意味の発句に作り変えた。
松枯れで、竹だくびなき、あしたかな
松は枯れないで、武田の首がなくなるめでたい新年の朝であることよ、の意味だ。
これ以降徳川氏の運が開け、ついに天下を掌握した。それでこれを吉例とし、以後、武田の首に見立てた竹の頭を斜めに削ぎ落とし、正月飾りにするようになったのだという。
【注】
(1)『要筐辨志年中行事』文化9(1812)年序。『新日本古典籍総合データベース』のサイトから検索すると、盛岡市中央公民館蔵の写本が閲覧できる。
(2)新年には吉日を選んで歳旦開(さいたんびら)きが行われた。歳旦開きは、歳旦を祝賀する句を連歌師や俳諧師らが披露する会のこと。 |
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2022年1月4日(火) |
アワビを食べるのはタブー |
わが国では古くから重要な食材のひとつと見なされてきたアワビ。
しかし江戸時代、アワビを食べることをタブー視する家があったという。『遊歴雑記』は、そのいわれを次にように記す。
「管沼藤十郎(すがぬまとうじゅうろう)家にてハ、代々鮑(あわび)を禁じて喰(くら)ふ事を法度(はっと)とせり。
是(これ)も寛永十四年丁(ひのと)の丑(うし)年(1637年)、天草表(あまくさおもて)を凱陳(がいじん。凱陣。天草・島原一揆を鎮圧して自陣に戻ること)して大坂へ着岸したるに、船底に抜群(ばつぐん。飛び抜けて、はなはだしい)の大鮑(おおあわび)吸付(すいつき)て居(い)たりしまま放(はな)し見るに、繰明(くりあけ。刃物でえぐって穴をあける)たる大なる穴あり。是(これ)一揆等が武功(ぶこう。戦争であげた手柄)を猜(そね。嫌う、憎む)ミ、船底を繰抜置(くりぬきおき)、大洋(たいよう)の中にして鏖(みなごろし)せんと工(たくみ)しもの也(なり)。
若(もし)、此(この)鮑(あわび)吸付居(すいつきい)ずんバ、主従(しゅじゅう)幾百人(いくひゃくにん)海中の鬼(き。霊魂、亡霊)となるべきに、はるばるの海上安全にして帰国せしハ、鮑の救(すく)ひによつて也。
しかれば鮑は永く命の親、家名を起(おこ)すの元なれバとて、夫(それ)より以来、堅く禁止して下々(しもじも)、一季(いっき。一年契約)・半季(はんき。半年契約)の奉公人(ほうこうにん)まで、決して鮑を喰(くら)ふ事なし。新来(しんらい。新しくきた人、新参)の者など竊(ひそか)に秘(かく)して食(くら)えば、果(はた)して吐血(とけつ)すといふ。依(よっ)て管沼の家にてハ厳敷(きびしく)法度とするとなん。」(1)
島原・天草一揆を鎮圧した凱旋軍を乗せた船が大坂に着岸した。ところが、その船底には一揆勢の企(たくら)みによって大きな穴が刳(く)りあけられていた。危うく沈没させられるところを、大アワビが穴をふさいでくれたお蔭(かげ)で、数百人が海の藻屑(もくず)と成らずに命拾いした。それ以来、管沼家ではアワビに感謝し、これを食すことを厳しく禁じたという。
それにしても、アワビはひとつでも数千円はする高級食材だ。それが大穴をふさぐほどの「抜群の大鮑」なのだから、売れば途方もない値(ね)がついたことだろう。
【注】
(1)津田敬順『遊歴雑記・十三』五編目之第壱。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:177−1167 |
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2022年1月3日(月) |
佐竹の人飾り |
江戸時代、秋田藩佐竹氏の屋敷では正月に松飾りをせず、門の左右に足軽を三人ずつ立たせた。これを「佐竹の人飾り」という。津田敬順の『遊歴雑記』によれば、その由来は次のようなものだという。
「東武(えど)三味線堀(しゃみせんぼり。現、東京都台東区小島町2丁目付近)佐竹右京太輔(さたけうきょうのだいぶ)上屋敷(かみやしき)に、家例(かれい。家の吉例)として年々「人餝(ひとかざり)」と号(ごう)する事(こと)ありて、数多(あまた。数多く)ある諸侯(しょこう。大名)の家々に比類(ひるい。くらべるもの)なき事也(なり)。
是(これ)ハ例年、正月七草の日まで、表門の外(そと)中(なか)を三、四間(けん)明(あけ)て敷石(しきいし)の上左右にわかれて、足軽(あしがる。最下層の武士)三人づつ行儀(ぎょうぎ)よく立(たち)て居(い)る事也。諸侯・大夫又ハ一族の人々入来(じゅらい)するといへども前後をかえり見ず、言(ものいわ)ず、會釈(えしゃく)・辞宜(じぎ。お辞儀)などする事なく、振向(ふりむき)もせで往来を見張(みはり)立(たち)て居(い)る也。
是(これ)、松かざりの代(かわり)にして、門外に松餝(まつかざり)等なし。是を「佐竹の人かざり」と称す。一風(いっぷう)なるもの也。但(ただ)し、半刻(はんとき。約1時間)替(がわ)りに終日(ひねもす)入替(いれかわり。交代)て勤仕(きんし)す。
これハいかなる故(ゆえ)ぞといふに、むかし寛永十四丁(ひのと)の丑(うし)年(1637年)、天草一揆(島原・天草一揆、1637~1638)の節、大小名(諸大名)の面々(めんめん)肥前(ひぜん)の国天草へ渡海(とかい)し、討手(うちて)を蒙(こうむ)りしが(鎮圧軍として出動するよう命じられたが)、既(すで)にその年の暮(くれ)より早春(翌年のはじめ)の頃ハ、世上(せじょう)の浮説(ふせつ。根拠のない噂)取沙汰(とりざた)区(まちまち)にして(1637年の年末から翌春にかけてのころは、世の中にはさまざまな噂がとびかって)、
「一揆等が謀略(ぼうりゃく)によつて過半(かはん)戦死して、無事帰国するもの稀(まれ)なり(一揆勢のはかりごとによって鎮圧軍の大半は戦死して、無事帰国する者はほとんどいない)」
との風説(ふうせつ。噂、風評)のミにぞ。
更(さら)に便宜(びんぎ。便り、音信)なければ、留守(るす)の家々ハ正月の規式(ぎしき。儀式)待(まち)もうけ、松かざり処(どころ)にあらず(留守を預かる各家庭では、松飾りなど正月儀式の準備などするどころの話ではない)。上下主従ともに打湿(うちしめ)りて種々(しゅじゅ)に案(あん)じ、夫(おっと)あるものハ皆(みな)討死(うちじに)とこころえ(覚悟し、あきらめて)、香(こう)花(はな)手向(たむけ)るもありけり(霊前に手向ける香花を飾る者もいた)。
去(さる)にても有無(うむ。生死、無事かどうか)の便(たより)聞(きき)たしと、門外まで人を出向(でむか)ハせ、
「今や今や(生死の連絡を伝える飛脚の到着はまだか、まだか)」
と待(まち)し処(ところ)に、元日の夕方、存(ぞんじ)よらず(思いがけず)無事の便(たより)ありて、主従堅固(けんご。無事に)に帰国せし程(ほど)に、却(かえっ)て松かざりせざるを吉例(きちれい)とし、その頃門前まで飛脚(ひきゃく)の着(ちゃく)を見ほしに出せし足軽を以(もっ)て、又(また)目出度(めでたき)家のためしとして、今にいたるまで人かざりといふ事をなして、門外に松かざりせず。只(ただ)、玄関の左右にのミ葉竹(はだけ)三株づつたてるハ此(この)謂(いわれ)也。」(1)
【注】
(1)津田敬順『遊歴雑記・十三』五編目之第壱。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:177−1167
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