あれやこれや 2021 

 昨年以来、新型コロナの流行により見通しのつかない巣ごもり生活を余儀なくされ、社会には不安と閉塞感が漂っています。

  言い古されたたとえですが、夜は必ず明けますし、冬のあとには必ず春が待っています。

  コロナの早期終息を願うばかりです。 
2021年12月21日(火)
月光院の逸話(2)-座禅豆-
 『はつか艸』にはもう一つ、月光院の質素な生活ぶりを示すエピソードが紹介されている(1)


「月光院様、常々
(つねづね)(すて)り候(そうろう)ものを御手(おて)(みずから)御干(おほ)し被成(なられ)、ざせん豆へ御入(おいれ)被召上候由(めしあがられそうろうよし)。」


 月光院は、料理の際に出る野菜屑(くず)を捨てず、自ら干して保存していた。そして、それらを座禅豆(黒豆または大豆を甘く煮しめたもの)に入れて食べていたという。

 この箇条には次のような注記がある。

 大屋四郎兵衛(大屋正巳。『はつか艸』の元になった談話会の主催者のひとり)
(2)が御納戸(おなんど)の番士だった時、同僚の長坂新八郎(3)の家に年頭の挨拶に行った。

 そこでの昼食の際、正月料理を詰めた重箱の中に、座禅豆に何かを混ぜたような見慣れない料理があった。そこで尋ねると、「これは野菜の皮(かわ)・端(はし)などは何でも干しておいて、座禅豆の中に入れてあるのだ」という答えだった。たまたま新八郎の父長坂源十郎
(4)が「月光院様御用人」を勤めていたため、月光院の質素な生活ぶりを知り、それを長坂家でも見ならったものだった。大屋もまたこの話に感心させられた。

「其以来
(それいらい)四郎兵衛方(大屋四郎兵衛正巳の家)正月組重(くみじゅう。正月料理の重箱)へも入(いれ)、常々もざぜん大豆ニ入候(いれそうろう)て、菜(さい。おかず)に仕候事(つかまつりそうろうこと)ニ候(そうろう)。」

(それ以来大屋四郎兵衛宅でも、座禅豆の中に野菜屑を入れた料理を正月の重箱に入れたり、日頃のおかずにしたりすることにした。)

 月光院本人があずかり知らぬところで、座禅豆の感化は思わぬ広がりを見せていた。


【注】
(1)『はつか艸(写本)』国立公文書館蔵、請求番号159-0092
(2)(3)(4)大屋四郎兵衛(正巳)が御納戸の番士に列したのは明和4(1767)年から安永4(1775)年までの期間(『寛政重脩諸家譜・第5輯』1923年、国民図書、P.480による)。また長坂新八郎(基清)が御納戸の番士に列したのは明和2(1765)年から明和5(1768)年までの期間(『寛政重脩諸家譜・第7輯』1923年、国民図書、P.544による)。ゆえに両人が同僚だった時期は明和4(1767)年から翌5(1768)年までの期間である。なお、長坂新八郎の父源十郎(基保)の略歴も『寛政重脩諸家譜・第7輯』P.544にある。
2021年12月20日(月)
月光院の逸話(1)-おねだり-
 お喜世の方(また左京の局とも。1685~1752)は6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の側室で、7代将軍家継(いえつぐ)の生母。家宣が没すると落飾して月光院と称した。

 若い未亡人(月光院)と権臣間部詮房(まなべあきふさ)の仲を疑う好奇の目や、月光院付き女中江島にまつわる疑獄事件(江島・生島事件)の世間に与えた衝撃等
(1)から、大奥を舞台にしたフィクションにおいては何かと虚像がひとり歩きしがち。

 しかし、実際の月光院は「学芸を好み、家継の教育にも熱心で」
(2)、落飾(らくしょく)後はつましい生活を送っていた。

 『はつか艸(くさ)』には、月光院に関するエピソードが二つ紹介されている。次はその一つ。


「其比(そのころ)御女中様方(ごじょちゅうさまがた。殿中の女性たち)より思召思召(おぼしめしおぼしめし。思い思い)の御(お)ねだり事(ごと)有之所(これあるところ)、月光院様計(ばかり)何のおねだりも無之(これなき)ゆへ、徳廟(とくびょう。徳川吉宗)より

「何
(なん)ぞ御ねだり被成候様(なられそうろうよう)ニ」

との御沙汰
(ごさた)ありける所(ところ)、月光院様仰(おおせ)ニハ

「今の身分、何をか可奉願
(ねがいたてまつるべき)。無勿躰(もったいなし。過分のことで畏れ多い)

との御請
(おうけ。お応え)ニ付(つき)、猶又(なおまた)上意(じょうい。将軍の思し召し)ニハ

「外様
(とざま。ほかのひとびと)御一統(ごいっとう。一同、みなみな)(ゆえ)、御壱人御分り(おわかり。別になること)被成候義(なられそうろうぎ)御心障(おこころざわり。気がかり)ニ付(つき)、何ニても御ねだり被懸候様(かけられそうろうよう)ニ」

と再応
(さいおう。再度)上意ニ付(つき)、月光院様より

「左候
(さそうら)(それなら、の意)、年来(ねんらい)(のぞ)み居候(おりそうろう)壱・弐尺(いち・にしゃく。30~60cmほど)の桜の実生(みしょう。種子から芽を出し生長した植物)三本、拝領仕度(はいりょうつかまつりたし)

と被仰進候旨
(おおせまいらせられそうろうむね)、有徳院様(ゆうとくいんさま。吉宗)上意ニ

「流石
(さすが)ニ候」


との御沙汰ニて、ことの外
(ほか)御感じ被遊候(あそばされそうろう)よし。」(3)


 
おそらくほかの女中たちは、吉宗に櫛だの着物だの世俗的な「御ねだり」をしたのだろう。何の「御ねだり」もしない月光院が、吉宗の再度の促しによって申し出た「御ねだり」は「桜の苗木三本」。吉宗は、この風雅な申し出に「月光院様は流石である」と感じ入ったのだ。


【注】
(1)奈良本辰也『日本の歴史17・町人の実力』中央公論社(中公文庫)、P.97~137
(2)『日本史広辞典』1997年、山川出版社、「月光院」の項。
(3)『はつか艸(写本)』国立公文書館蔵、請求番号159-0092
2021年12月17日(金)
セミクジラ
 江戸時代、年末の煤払(すすはら)いで食べられた鯨汁は、おそらくはセミクジラの肉だったろう。

 セミクジラといっても、セミのようにミーンミーンと鳴くわけではない。

 セミクジラは漢字では「背美鯨」と書く。江戸時代には「せびくじら」と呼んでいた。それが転じて「せみくじら」となったのだ。もともとは「背面が美しいクジラ」という意味だ。

 海水面にその背面を見せるクジラは、絶好の捕鯨対象ということをも意味する。発見しやすく、網をかけて銛も突き立てやすい。

 その上セミクジラは、沿海や浅瀬を比較的ゆっくりと泳ぎ、性質も比較的おとなしい。

 漁師にとってさらに都合がいいことに、体にたっぷり脂肪を蓄えているため、しとめたあとも体が海に沈まない
(1)。そこで、クジラに巻き付けた綱を陸側から引いて、容易に海辺に引き揚げることができた。

 わが国では沿岸に近づく脊美(せび。セミクジラ)、座頭(ざとう)、長須(ながす)、児鯨(こくじら)などを捕獲対象としたが、なかもセミクジラが「第一の上品」だったという。

 江戸後期、肥前の捕鯨の有様を絵入りで解説した『勇魚取繪詞(いさなとりえことば)』には次のような記述がある。


「脊美
(せび)は第一の上品なれば、これを賞(めで)て本魚(ほんいお)といひ、自餘(そのほか)をば雑物(ぞうもの)といふ。脊美一本の價(あたい)、雑物二本に相當(あた)れば、たとへ雑物を取巻(とりまき)たるをりにても、脊美を見出(みいず)れば打捨(うちすて)て、脊美に取掛(かか)るなり」(2)


 欧米の捕鯨は油を取るのを主目的
(3)として、肉・骨・内蔵その他の部位はすべて海洋に投棄してしまう。これとは対照的に、わが国ではクジラのあらゆる部分を利用した。

 肉は食用に
(4)、油は害虫駆除に利用された(大蔵永常『除蝗録』)。また、セミクジラのヒゲにはバネのような性質があったため、文楽人形やからくり物のゼンマイなどに利用された(5)


【注】
(1)セミクジラを英語でライトホエール(right whale)という。「人間にとって都合がよい(捕まえやすい、殺しやすい)」という意味で、船乗りが名付けたという。
(2)『勇魚取繪詞・上』文政12(1829)年跋。早稲田大学図書館蔵、請求記号:ナ08 03297。
(3)アメリカは油を採取するため、脂肪の多いセミクジラやマッコウクジラを捕獲の対象とした。油のおもな用途は照明用や機械油だった。石油が利用されるまで、クジラは「洋上を泳ぐ油井」だった。
(4)マッコウクジラなどのハクジラ類の肉は、人間の胃腸では消化できない成分が含まれているため食用にはされなかった。
(5)欧米ではセミクジラ・ホッキョククジラのヒゲをペティコート、コルセット、傘の骨、乗馬用の鞭、縄などに使用した(大隅清治外3名「座談会 鯨捕りと漂流民・ペリー来航前夜」-有鄰・第445号、2004年-)。
2021年12月13日(月)
12月13日は煤払い
 江戸時代、年末の大掃除を煤払い(すすはらい。煤掃(すすは)き)といい、12月13日に行うのが恒例だった。江戸城の煤払いがこの日だったからで、江戸では商家から長屋にいたるまで一斉に煤払いを行った。

 江戸の空に煤(すす)ぼこりが舞うのはこの日一日限りなので、翌日から清々しく正月準備に取りかかることができるのは合理的でもあった。ゆえに煤払いはまた、新年を迎えるための清めの儀式でもあった。

 大掃除で「煤を払う」のは、当時の生活用具が竈(かまど)や囲炉裏(いろり)などで、家の中で火を燃やす道具が中心だったからだ。薪炭を燃やすと煤や灰がたまる。照明で菜種油(なたねあぶら)や魚油(ぎょゆ)を燃やしても、夏の蚊遣(かや)り火をたいても、それらの煤が天井や障子につく。

 天井等に付着した煤・塵(ちり)・埃(ほこり)などは煤竹(すすだけ)を使って払い落とした。煤竹とは先の方に葉を残した竹のことだ。束(たば)ねた笹(ささ)や藁(わら)を竹の先に付けて用いもした。時期になると、煤竹売りが売り歩いた。

 奇妙なことに、煤払いではみんなで胴つき(胴上げ)をする習慣があった。なぜ胴つきをするようになったかは不明だが、当時の人びとには健康を祈る習わしとして認識されていた
(1)。煤払いを扱った当時の川柳にも胴つきが詠まれている


  十二日から色男
(いろおとこ)ねらわれる(2)
  十三日腹を立つてもその日きり
(3)


 上の句。煤払いの前日の12日から、美男子が胴つきの標的として女性たちに狙われていることを詠んだもの。

 下の句。胴つきが嫌でも胴つきの洗礼からは逃れられない。腹を立てても、それは煤払いの13日だけのことだ、の意。日頃から憎まれている人物は落とされることもあったらしい。それならなおさら腹が立ったことだろう。

 煤払いは、蕎麦(そば)や鯨汁(くじらじる)を食べてお開きになるのが慣例だった
(4)。当時の川柳。

 
  鯨汁 椀
(わん)をかさねて叱(しか)られる(5)


 何せ、18世紀初頭には百万都市の江戸のことだ。煤払いのために食われた鯨は何頭分に及んだのだろうか。


【注】
(1)石川流宣の『大和耕作繪抄』(元禄頃か)には次のようにある。
「煤掃(すすはき)
 師走(しわす)八日を御事(おこと)おさめといふて、今年の祝儀(しゅうぎ)をおさむる。九日より春のよそおひをととのゆるに、まつ家をきよむると、煤掃(すすはき)をすること上下なべてなり。位(くらい)ある主人なりとも寿(ことぶき)とて、其身(そのみ)をまめやかにかたくするとて胴をつく事、此(この)日のわざとする。間(ま)を見合(みあい)、下女(げじょ)はしたまでのこらずたがひにつくほどに、にぎわひ笑(わら)ふ事(こと)此(この)ときなりとぞ。
   胴築(どうづき)や 栄(えい)さら栄(えい)よ 煤拂(すすはらい)」
(黒川真道編『日本風俗図絵.第5輯』1914~15年、日本風俗図絵刊行会、所収。国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:195ー176)
(2)(3)(5)「煤払い」に関連した川柳は、山澤英雄選・粕谷宏紀校注『柳多留名句選(上)』1995年、岩波文庫、P.46~48から引用した。
(4)煤払い当日に鯨汁を食すのが一般的になったのは、江戸時代後期のことと思われる。たとえば、次のような記述がある。
「文化・文政期(1688~1829)には、鯨は生産量が増加したので、鯨肉は塩漬をしてから江戸などに輸送するようになった。江戸では12月13日の煤払いの日は、煤払いが終了すると塩クジラが入った汁物を食べる習慣があった」(江間三恵子「江戸時代における獣鳥肉類及び卵類の食文化」-日本食生活学会誌第53巻第4号、2013年、P.249-)。
2021年12月11日(土)
奏者番
 譜代大名の役職の出世は、多くは奏者番からはじまる。

 奏者番のおもな役割は、将軍に拝謁する大名らの取次や、儀礼の円滑な進行だった。譜代大名の中から優秀な若手20~30人ほどが任命され、本丸・西丸をそれぞれ一人ずつ日番制で勤務した。勤務中にさらに優秀な人材と認められると寺社奉行を兼帯し、そこからさらに昇進していく者もいた。

 しかし奏者番は、些末で煩雑な儀礼に習熟していなければならなかった。たとえば、拝謁者の将軍への披露一つ取ってみても、月次(つきなみ)拝礼・お暇(いとま)拝礼・参勤交代その他お礼拝礼・節句拝礼それぞれの場面によって、披露の仕方が異なっていた
(1)。 

 そのため奏者番は、


「君辺第一之職にて、言語伶利
(れいり。怜悧)、英邁之仁(えいまいのじん)にあらざれば堪(た)へず」(2)

とされた。

 将軍の面前で行われる公務だったため、失敗は絶対に許されないものだった。そのため、万治2(1659)年から貞享3(1686)年まで奏者番を務めた松平備前守正信(1621~1693)は、


「我々如
(ごと)きは三寸の舌先少しの誤(あやまり)を以(もって)(かえっ)て我身(わがみ)を害すべき恐(おそ)れあれバ、常に謹慎すべきは一言なり」(3)


と一言発するにも神経を尖らせ、日頃から多言を控えていたという。

 実際に「三寸の舌先少しの誤」で閉門となった奏者番に、井上相模守正任(いのうえさがみのかみまさとう。1630~1701)がいる。井上は寛文9(1669)年、当職に任ぜられたが、延宝2(1674)年に次のような失態を犯してしまった。


「延寶二年六月五日さきに申次
(もうしつぎ)のあやまちありて蟄居(ちっきょ)し、今日また松平兵部大輔吉品(まつだいらひょうぶたいゆよしのり)が家臣御前に出るのとき、主人及び家臣の名兩度(りょうど)までまうし落(おと)せしにより御氣色(みけしき。将軍の意向)かうぶり、務(つとめ)をゆるされ閉門(へいもん。門や窓を閉じての謹慎の罰)せしめらる。」(4)


 奏者番は常に神経を張りつめているような仕事だったが、老中にのぼりつめる家格の大名であっても、奏者番は必ず務めるべきものとされた。

 多くの大名は、幼少期から家臣たちにかしずかれて生育した。しかし、そうした「殿様御前風(とのさまごぜんふう)」のままでは、仕事上で失敗するのは目に見えている。そこで、奏者番の仕事を通して、先輩から勤務の厳しさを教え込んでもらう必要があったのだ
(5)


【注】
(1)東京都公文書館「史料解説-将軍への披露 あれこれ」https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0703kaidoku13_2.htm
(2)『明良帯録(写本)』明治9(1876)年、内務省。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:152-0067
(3)内山温恭編『流芳録』巻之十、「奏者番 松平備前守正信」の項(『雑話燭談』を引く)。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0004。
(4)『寛政重脩諸家譜・第2輯』1923年、國民圖書、P.242
(5)山本博文氏による-遠山美都男外2名『人事の日本史』2021年、朝日新聞出版(朝日新書)、P.286-
2021年12月10日(金)
葛根湯
 頭が痛い、肩がこる、風邪っぽい。そうした時には、まずは葛根湯(かっこんとう)を服用するのが昔の習いだった。

 そもそも葛根というのは、文字通りクズの根のことだ。

 葛根には良質のデンプンが含まれているため、古くから食用(クズ粉)とされた(クズの名称は、食用クズの生産地大和国「国栖(くず)」に由来するという説がある)。しかし、葛の根そのものからデンプンを採取するには大変な手間と時間がかかるので、現在では、安価なクズ粉はジャガイモのデンプン粉で代用しているという。

 しかし、クズ粉を湯に溶けば葛根湯ができるわけではない。それでは葛根湯ではなく、ただの葛湯(くずゆ)だ。

 実際の葛根湯は、葛根のほかに麻黄(まおう。シナマオウ)、生姜(しょうきょう。ショウガの根茎)、大棗(たいそう。ナツメの実)、桂皮(ケイの枝皮)、芍薬(しゃくやく)、甘草(かんぞう)などの多くの漢方薬を配合して作られている。

 葛根湯は風邪、肩こり、蓄膿症(ちくのうしょう)、中耳炎、気管支炎、高血圧、歯痛、関節痛などに幅広く処方された。だから昔の薮医者は、患者が来るとそれぞれの病症に関係なく、とりあえずは葛根湯を処方して済ましていたという。そんな藪医者のことを、「葛根湯医者」と言った。「葛根湯医者」は落語の中でもその藪医者ぶりを揶揄(やゆ)されている。 
2021年12月7日(火)
鴨川の堤防
 京都所司代の板倉重矩(いたくらしげのり。1617~1673。在職1668~1670)は、寛文9(1669)年から翌年にかけて、代官の鈴木伊兵衛に命じて鴨川に堤防を築かせた。この結果、川幅広く蛇行していた川筋は、狭く直線的なものに変更された。現在も鴨川右岸には、当時の石垣護岸が残る。

 この築堤工事は


「賀茂川洪水の節、禁裏
(きんり。皇居)御築地(おんついじ)の内へ悪水(あくすい)押入候故(おしいりそうろうゆえ)


と、洪水防止を名目のひとつにしていた。

 しかし、不思議なことに、この新堤には洪水予防効果がほとんどなかったという。

 それならなぜ、一見無駄とも思える土木工事を起こしたのか。

 それは生活困窮者の救済が、この土木工事のもうひとつの目的だったからだ。

 板倉が京都所司代に就任した頃の京都は


「近年飢饉
(ききん)打ち続き、八木(米)高直(こうじき。高値)にして飢渇(きかつ)餓死(がし)の者多し」


という有様だった。当時の京都は、慢性的な飢餓状態の中にあったのだ。 

 そこで板倉は土木工事を起こし


「老若男女の嫌ひなく鳥目
(ちょうもく。賃銭)を取(とら)せ、直に河原の砂石をさらひ持運(もちはこ)バせ堤を築」


かせた。臨時の事業を創出することで、男女別なく子どもから老人にいたるまで仕事を与え、収入の道をつくったのである。

 板倉の救済事業はこればかりではない。

 東山・北野の両所に施行小屋(せぎょうごや)を設けて官倉を開くと、寛文9(1669)年正月には米392石8斗8升1合、3月2・3日には1,015石2斗の備蓄米を放出して粥(かゆ)を施行している。

 また、貧窮のため米穀売買できない町人のために幕府からは2万石の米を融通してもらっている。また自らの拝領米のうち、家来へ配分した残り分を、三条堀川通町屋敷(祖父板倉勝重の隠居所)において人々へ安価に分けている。

 こうして板倉は、新堤築造をはじめとする諸政策により、生活困窮者を救済しようとしたのだ。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之九、「京都所司代 板倉内膳正重矩」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。 
・湯谷祐三「京都所司代板倉重矩の知られざる出版活動-その思想と影響-」2013年、名古屋外国語大学外国語学部紀要第45号
2021年12月6日(月)
梵鐘(ぼんしょう)の供出
 今朝の新聞に、太平洋戦時中の金属類回収令(1941)に応じ、全国の浄土真宗寺院のうち9割が寺の梵鐘(ぼんしょう)を供出した、という記事が載っていた。全国規模でこうした実態が明らかになるのは初めてのことという(朝日新聞、2021年12月6日付け「戦時下、寺の鐘9割供出」)。

 しかし、寺の梵鐘供出は、太平洋戦争時が初めてではない。幕末、開国直後にもあった。

 安政元(1854)年12月23日、攘夷強行論者の孝明天皇(1831~1866)が、諸国の寺院に対し梵鐘供出を命じた太政官符を出させた。海防強化のため、名器・時鐘(じしょう。時刻を告げる鐘)以外の梵鐘は大砲・小銃に鋳直(いなお)せ、というのだ。

 とりあえず幕府は翌安政2(1855)年3月3日、上記の太政官符に応じて次のような御触(おふれ)を出した。 


「○安政二乙卯
(きのとう)年三月御触(おふれ)

 海岸防禦之義
(かいがんぼうぎょのぎ)、此度(このたび)諸国寺院之梵鐘しょこくじいんの(ぼんしょう)、本寺之外(ほんじのほか)、古来之名器(こらいのめいき)及(およ)び當節時之鐘(とうせつのときのかね)ニ相用候分(あいもちいそうろうぶん)ハ相除(あいのぞ)き、其餘(そのよ)可鋳換大砲・小銃之旨(たいほう・しょうじゅうにいかえらるべくむね)従京都(きょうとより)被仰進候(おおせまいらせそうろう)

 海防之義
(かいぼうのぎ)、専(もっぱ)ら御世話(おせわ)有之候折柄(これありそうろうおりがら)、叡慮(えいりょ。天皇のおぼしめし)之趣(おもむき)深く御感(ぎょかん)(いただ)き被遊候事(あそばされそうろうこと)ニ候間(そうろうあいだ)、厚相心得(あつくあいこころえ)、海防筋義(かいぼうすじのぎ)(かねて)可相励旨(あいはげむべきむね)被仰出候(おおせいだされそうろう)

 右之趣
(みぎのおもむき、諸寺へは寺社奉行(じしゃぶぎょう)より申渡候間(もうしわたしそうろうあいだ)被得其意(そのいをえられ)、取斗方等(とりあつかいかたなど)委細之義(いさいのぎ)は追而(おって)可相達候(あいたっすべくそうろう)

         三月           」
(1)


 当時の落首が残されている
(2)


 今よりはこころ長閑
(のどか)になりにけり かねのねきかぬ里とおもへば

 (鐘の音が鳴り響かなくなると思うと、これからは心穏やかになる。)


 春毎に花をちらせしむくひにや 今はたたら
(精錬炉)に入相(いりあい。夕暮れ)のかね

 (春が来るごとその響きで花を散らした報いなのか。今となっては、精錬炉の中に入れられてしまった入相の鐘よ。「たたらに入る」と「入相の鐘」を掛ける)


 さて、御触の最後には「取斗方等委細之義は追而可相達候」とある。孝明天皇の顔を立てて御触れを出すには出した。しかし「取りはからい方法等についての詳細は追って通知する」としたのは「詳細が決定しないうちは実行せずともよい」ということの裏返しでもある。幕府も心中では、そんな姑息(こそく)な手段では外国勢力に対抗できない、と思っていたのだろう。

 おまけに同年の10月2日、安政の大地震(マグニチュード6.9)が江戸市中を襲った。大砲・小銃の鋳造うんぬんどころの話ではなくなってしまったのだ。


【注】
(1)(2)
『安政雑記』1983年、内閣文庫所蔵史籍叢刊第36巻、汲古書院、P.79による。 
2021年12月5日(日)
生類憐みの令のころ
 生類憐みの令が発令された頃、司法の現場でも違反者の取り扱いをめぐって葛藤があった。『流芳録』(巻之九、「京都所司代 松平紀伊守信庸」の項)から該当部分を示す。ただし、読みやすくするため適宜句読点等を付すなどし、注をつけた。
 

篠山侍従(ささやまじじゅう)京の司(つかさ)たりし時、元禄(1688~1704)の頃にや、悲田寺(ひでんじ)領の屠夫(とふ)、病馬の皮を剥(はぎ)しと訟(うったう)る者あり。其頃(そのころ)ハ殊(こと)殺生の禁(はなはだ)しく、何(いず)れは囚獄(しゅうごく)して後例(こうれい)の如(ごと)く死刑に處(しょ)すべきの由(よし)両奉行(りょうぶぎょう)よりしばしば伺(うかがわ)れけれどもゆるされず。

「先
(まず)、其(その)まま」

とて沙汰
(さた)に及(およ)バず。

 侍従
(じじゅう)の心、

「屠夫
(とふ)の皮剥(かわはぎ)ハ所業(しょぎょう)なり。病馬の事さだかならず。萬々一(まんまんいち)も誤(あやまり)て刑する時ハ、屠夫(とふ)といへども誅(本ノママ。ちゅう)あるべからず。然共(しかれども)時令(じれい)(げん)なるおりなれば、容易(ようい)に決断(けつだん)なりがたし。年月を歴(へる)とも暴殺(ぼうさつ)すべからず」

と思ひて、右の如
(ごと)くなりとぞ。

 兎角
(とかく)する程(ほど)に九年を歴(へ)て正徳年中(1711~1716)に及びて、さして制禁もなかりし時、常例(じょうれい)ハ死刑の罪にあらざる故(ゆえ)(ゆる)されけり。

 此時
(このとき)に及(および)て侍従の心始(はじめ)て安堵(あんど)なりしとぞ。(『窓の寿佐美追加』)


【注】
(1)篠山侍従 松平信庸(まつだいらのぶつね。1666~1717)。丹波篠山藩5万石第4代藩主で、元禄10(1697)年従四位下侍従に叙任された。
(2)京の司  京都所司代。
(3)悲田寺  貧窮者・病者等を救うための施設。
(4)屠夫  牛馬などを解体する人。
(5)殺生の禁 生類憐みの令。1685年以来しばしば発令、1709年廃止。
(6)囚獄  牢屋に入れる。牢獄。
(7)後例  のちの例のように。
(8)両奉行  京都町奉行。奉行所は東西に分かれて2カ所あった。
(9)時令  時節。
(10)暴殺  暴力で殺すこと。
(11)常例  つねのならわし。
2021年12月3日(金)
財布を拾う
 京都の粟田口(あわたぐち)あたりで、3両の金がはいった木綿財布(もめんざいふ)を拾った男がいた。財布の落とし主を見つけ


 「此金
(このかね)を受取候(うけとりそうら)へ。」


と返そうとした。すると、落とし主は思いも寄らぬ屁理屈をこねだし、その受け取りを拒否した。


「いや。其元
(そこもと)(ひろ)ハれしものなれば、その許(もと)の宝なり。落(お)としたるハ我々が不調法(ぶちょうほう)。何とて取申(とりもうす)べきや。」

(いいえ。あなたが拾った財布ですからあなたのお金です。落とした当方が悪いのです。どうして受け取ることができましょうや。)


 お互いが財布を押しつけあって埒(らち)があかない。そこで、京都所司代板倉重矩(いたくらしげのり)のもとへ訴え出た。

 訴えを聴いた板倉は妙に感心し、次のように断を下した。


「扠
(さて)、世の中には人の金を盗(ぬすみ)、終(つい)に命を捨(すつ)るものあるに、落(おと)したる金を譲り合(あう)とハ神妙(しんみょう)なるもの共(ども)なり。依(より)て御褒美(ごほうび)として下(くだ)し置(おか)る。」


 そう言うと、落とした金に1両を加え、両人に褒美として金子2両ずつを与えたのである(『官中要録』)
(1)

 落語「三方一両損」の原話を彷彿(ほうふつ)とさせる判決だ。


【注】
(1)
以上、内山温恭編『流芳録』巻之九、「京都所司代 板倉内膳正重矩」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。
  
2021年12月2日(木)
親孝行のご褒美
 江戸時代には、役所が親孝行者を表彰した。

 近所に評判の親孝行者がいると、役所がその者を呼び出して金穀等の褒美を与え、その行いを顕彰したのである。そのため、『孝義録』という孝行者の名簿まで残っているくらいだ
(1)

 親孝行は誰の目にもとまりやすく、庶民にとっては儒教道徳のまたとないお手本になる、と為政者たちは考えたのだろう。

 さて、京都に評判の親孝行者がいた。京都所司代の板倉重矩(いたくらしげのり)は、その者を呼び出すとご褒美を与え、その孝行ぶりをたたえた。

 親孝行者が住む同じ町内に、とんでもない親不孝者がいた。ところが、親孝行者が褒賞(ほうしょう)されたと聞くやこの男、別居していた親と突然和解し、親孝行の真似事をはじめたのである。

 こうした男の豹変(ひょうへん)ぶりを見て、男の日頃の親不孝を苦々しく思っていた町内の者が、


「御褒美
(ごほうび)を貪(むさぼ)るべき工(たく)ミなり。」(これは親孝行のご褒美を狙っての企みごとである。)


と役所に訴え出た。

 しかし、訴えを聞いた重矩は、次のように言ったという。


「偽
(いつわり)にても善人を学(まなば)バ善人なり。」

(偽りであろうが善人の行為を学んで善行をする者は善人である。)



 そして、この男にも褒美を与え、親によくよく孝行を尽くすように申し諭したのである。

 その後、男はいよいよ孝行を尽くすようになった(『板倉政要記』)
(2)

 男は善人の真似事をするうちに本物の善人になった。これこそが、ほんとうのご褒美だろう。


【注】
(1)
『孝義録』は享和元(1801)年、江戸幕府が官版として出版。親孝行者(孝子)ばかりでなく節婦、忠僕、奇特者など8,614名に及ぶ表彰者の名簿。国会図書館デジタルコレクション、請求記号:136ー197。
(2)以上内山温恭編『流芳録』巻之九、「京都所司代 板倉内膳正重矩」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。
 
2021年12月1日(水)
阿部正次の最期(2)
 正次が大坂城代職を拝命した際、家光から次のような上意(将軍の言葉)を賜ったという。


「汝
(なんじ)は旧功(きゅうこう)普代(ふだい)のものなり。其上(そのうえ)元和(げんな)元年大坂軍(いくさ)の時も御用に立(たち)、武勇の覚(おぼえ)も少なからず。去(され)バ、大坂城は四国・西国・中国の押(おさえ)として大切の要害なり。故(ゆえ)に汝(なんじ)を遣(つか)ハさる。相構(あいかま)へて其旨(そのむね)を心得よ。」

(おまえは、長年徳川氏に仕えてきた普代の者だ。その上元和元(1615)年の大坂冬の陣でも軍功をあげ、武勇の腕前にも自信がある。大坂城は四国・九州・中国各地方を押さえるための重要な城だ。だからおまえを大坂城代として派遣するのだ。よくよくこの趣旨を肝に銘じよ。)


 上司から直々に「お前だからこそ、この重要な仕事を任せるのだ」という、部下泣かせの言葉を掛けられたのだ。

 将軍の厚い信頼に対し、正次は命懸けで任務にあたることを誓った。


「万一不慮
(ふりょ)の事(こと)(そうら)ハん時、正次の命のあらん限りハ 御城(おしろ)を他の手に渡すべからず。」


 ゆえにまだ自分の息(いき)が通ううちは、上様からお預かりした大切な御城を上意もないのに他人の手に委ね、別所に移るなどできない、というのだ。

 そして「御城にて相果(あいはて)なば御城を穢(けが)す憚(はばかり)あり」(城中で死ねば、死穢(しえ)がはばかられる)という意見に対しても、正次は次のように反論した。


「城を堅
(かた)めて人をも多く殺し、我も城を枕(まくら)として討死(うちじに)し、或(あるい)ハ自害す。然(しか)る時ハ、城は勇士の墓所(ぼしょ)なり。死穢(しえ)を忌(いま)んには、城中にて軍(いくさ)をせぬにしかじ。軍(いくさ)をせずんば城郭(じょうかく)又何の益(えき)かあらん。故(ゆえ)に唯(ただ)養生(ようじょう)(かな)ひがたく、死に及(およぶ)とも、城を開(ひらく)事且(かつ)(もって)本意(ほんい)にあらず。」

(城を防固して敵を多く殺し、自らも城を枕に討死にし、または自害する。そのような時には、城は勇士の墓所である。もし死の不浄を忌むのなら、城で戦さをしないにこしたことはない。しかし戦さをしない城郭に何の益があるというのか。だから療養かなわず死ぬとしても、開城するのはいささかも本意でない。)


 そこで父子それぞれの所存を書面にしたためて幕府に言上し、公裁を仰ぐことにした。江戸から折り返し、継飛脚によって上意が伝えられた。その老中奉書には「弥(いよいよ)城中に於(おい)て相果(あいはつ)べき」とあった。正次の我意が通ったのである。

 『藩翰譜(はんかんふ)』は次のように伝える
(2)


「同十六日、飛脚はせ帰り、正次 仰
(おおせ)を伝へ聞(きき)て感涙(かんるい)にたへず。わづか一日をへて卒去(しゅっきょ)(3)。いかに思ふ所やありけん、遺言して淀川のほとりにて火葬し、骨をも灰をも同じく水中にしづめけり。」

(11月16日に飛脚が走り帰り、上意を伝え聞いた正次は感涙にむせんだ。わずか一日後の11月17日に正次は死去した。何か思うところがあったのだろう、遺言によって遺体は淀川のほとりで火葬にし、骨も灰も水中に沈めたという。)


【注】
(1)(2)
ともに引用は内山温恭編『流芳録』巻之九、「大坂御城代 阿部備中守正次」の項による。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。
(3)『寛政重修諸家譜』には「十四日大坂城にをいて卒(しゅっ)す。年七十九。豪翁覺了英隆院と號す。遺言により摂津國川邊郡にをいて火葬し。分骨を武蔵國淨國寺に葬る。のちおほせによりて増上寺山内に墓所を築く。」(『寛政重脩諸家譜・第4輯』1923年、国民図書、P.349)とあり、正次の死去を11月14日とする。
2021年11月30日(火)
阿部正次の最期(1)
 阿部備中守正次(あべびっちゅうのかみまさつぐ。1569~1647)は、大坂城代職を寛永3(1626)年から正保4(1647)年まで、22年の長きにわたって務めた。

 正次は在職中に病没した。正次が死去したのは正保4(1647)年11月14日。正次の最期を『武林隠見録(ぶりんいんけんろく)』は次のように伝える
(1)

 11月1日に、江戸幕府に阿部正次重病の知らせが届いた。その容態を心配した将軍家光は2日、正次の嫡子(ちゃくし)阿部対馬守重次(あべつしまのかみしげつぐ)を呼び出し、見舞いの旨を伝える上使として正次のもとに送った。その夜出立した重次は8日、大坂に到着した。

 大坂城内で父に対面すると、正次はもはや衣服の着脱はできず、歩行もかなわぬ有様。それでも、手を清めうがいをした正次は、病床から抱き下ろしてもらうと、肩衣(かたぎぬ)を掛け、たたんだ袴(はかま)を膝の上に置いて、正装の体をつくろった。そして、平伏して上意を承ったのである。

 父親の重篤な様子を目の当たりにした重次は、大坂両町奉行らを集めて次のような相談をした。


「正次、気色(けしき)火急(かきゅう)に見えたり。然(しかる)に御城中に於(おい)て終焉(しゅうえん)(つかまつ)らん事、御城を穢(けが)すの恐(おそれ)あり。下屋敷へ移し、彼所に於て臨終然るべしや。」

(正次の容態は緊急を要するようだ。大坂城中で終焉を迎えれば、御城を父親の死で穢す恐れがある。正次を下屋敷に移し、そこで臨終を迎えた方がよかろう。)


 
一同、重次に同意見だった。

 しかし正次は、大坂城から離れることを頑として拒否したのである。
2021年11月29日(月)
貝原益軒の学問
 高校日本史教科書では、本草書『大和本草(やまとほんぞう)』の著者として知られる貝原益軒(1630~1714)。益軒のことを本草学の専門家と思いこんでいる高校生も多い。

 しかし「貝原益軒」を手元にあった日本史辞典(角川新版日本史辞典)で引いてみると


「江戸前期の儒者・福岡藩士。名は篤信
(あつのぶ)、字(あざな)は子誠、通称は久兵衛など、号は損軒、晩年に益軒と改める」


と出てくる。

 意外なことに、貝原益軒は本草家ではなく、儒者なのだ。

 しかし『近思録備考』『小学句読備考』など、益軒の手になる儒学関連著作は少なく、儒者としての同時代における評価も高くない。

 その一方益軒は、一見すると儒学とは関係がなさそうな各分野で膨大な著作を残している。

 それも『和俗童子訓』『養生訓』などの啓蒙的教訓書をはじめ、『黒田家譜』『筑前国諸社縁起』など歴史・地理関係書籍、『日本釈名』『和字解』などの字書・事典類など、タイトルだけでも100種類あまり、巻数にして数百巻にも及ぶ膨大な量をである。

 なぜ、益軒は多岐にわたるジャンルで膨大な著作を残したのか。

 益軒は、儒学に関しては偉大な先人たちの書物に依拠すれば十分であり、新たな知見の発明など自分のよくするところではない、自分の役割はほかにある、と考えた。そして、自分の使命を庶民生活に役立つ「民生日用(みんせいにちよう)」の書を著すことに求めた。

 そもそも朱子学は、学問の対象を人間ばかりでなく「万物」としていた。しかし実際には、対象を人間世界に限定し人倫の問題に回帰させていた。これに対して益軒は、人の生き方(人倫)より「物」そのものに関心をもったのである。

 益軒が唱えた「民生日用」とは、他者(人)と万物(自然)に対する正しい関わり方を具体的に示した庶民生活に有用な知識をいう。人に対する正しい関わり方を「礼」、万物に対する正しい関わり方を「術」という。「礼」を重視する儒者は多い。益軒は「術」を重視した。

 万物(自然)に対する正しい関わり方である「術」を知るためには、先ずは個々の「物」の「性」(本性)を明らかにしなければならない。

 たとえば、農作物の栽培にも、それぞれ作物の「性」を知る必要がある。いつ種を蒔けばよいのか、どのような土壌がよいのか、日当たりはどうか、どのような肥料を与えればよいのか等々がわからなければ、農作物は順調に生育しない。

 このように考えれば、農作物の栽培法からはじまってぬかみその漬け方にいたるまで、この世に「術」をともなわないものなどない。しかし「術」は生まれながら身についている知識ではないため、学習して獲得しなければならないのだ。

 だからこそ益軒は、庶民生活に有用なさまざまな「術」を、だれもが学べるように平易な和文で著すことにしたのだ。それで、多様なジャンルのハウツー本が大量に書き残されることになったのだ。


【参考】
・辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』2021年、岩波新書、「第四章 貝原益軒のメディア戦略-商業出版と読者」参照。
2021年11月22日(月)
板倉重矩の後悔
 牧野佐渡守親成(まきのさどのかみちかしげ。在職1654~1668)が京都所司代だった時、難波屋十右衛門(なにわやじゅうえもん。?~?)という町人を投獄した(1)(2)。この男はその驕奢(きょうしゃ)ぶりが当時の常識を越えていたため、咎められたという。

 居宅に美麗を尽くたことはもちろん、畳は高価な天鵞絨(ビロード)で包んで、その中に木綿を敷き入れるという驕(おご)りぶり。また醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぽういん)の門主の峰入(みねいり。奈良の大峰山に入って修行すること)の際には、大名のいでたちでその行列に加わるという始末。

 板倉内膳正重矩(いたくらないぜんのしょうしげのり。在職1668~1670)が京都所司代になると、しばらく投獄していた十右衛門を出所させることにした。その際、首代(くびだい。斬首刑を免れるために出す金)として、傷んでいた宇治橋の架け替えを命じた。

 ややあって江戸(幕府)の方から、板倉の判決に対する風聞が伝わってきた。


「此
(この)仕置(しおき。裁定)、利勘(りかん。勘定高いこと)なる事なり」

(板倉の判決は、首代にかこつけて宇治橋架橋を民間に丸投げする打算のたまものだ。)


 こうした批判に対して、重矩は次のように反論した。


「我等(われら。私)少しも利堪(りかん)の志にあらず。

 若
(もし)利堪を思ハバ彼者(かのもの)を追放し、家財・雑具等欠所(けっしょ。死罪・追放など重罪の付加刑として財産を没収すること)すべし。左(さ)もあらバ大名・町人へ貸置候(かしおきそうろう)證文(しょうもん)を以(もって)金子(きんす)取立候(とりたてそうら)ハバ、貴賎(きせん。身分の高い低い、多くの人びと)(ことごとく)難儀(なんぎ)に及ぶべきもの多かるべし。

 左
(さ)あれば、加様(かよう)に申付候事(もうしつけそうろうこと)、偏(ひとえ)ニ御仕置(おしおき)永く相立候(あいたてそうろう)所存(しょぞん。考え)たり。其故(そのゆえ)は、彼者(かのもの)の名を橋の擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうし。欄干の柱頭などにつける宝珠の飾り)に誌(しる)し置(おき)、宇治橋あらん限りハ往来の貴賎の見せしめに致(いた)す処(ところ)なり。

 昔も首代に橋を懸
(かけ)るといふ事、古例ある事なり。」


 
自分には少しも打算の考えなどない。

 もしも計算高く考えるなら、十右衛門を追放刑に処して、全財産を没収する欠所にした方がよい。しかしそうすれば、十右衛門の貸し付け証文を調べて、負債のある大名・町人からも借金を回収することになる。そうなれば、難儀する者が多く出るにちがいない。

 だから、首代として宇治橋の架橋を十右衛門に申しつけ、このたびの判決を永く世に伝えようと考えた。橋の擬宝珠に十右衛門の名前を記し置き、宇治橋がある限り、通行する人々の見せしめにしようとしたのだ。

 昔も首代として架橋させたという古例があるではないか。


 しかし実際には、板倉の思惑はまったくはずれてしまった。『雑話燭談(ざつわしょくだん)』
(3)では後日談を次のように伝える。


「一ヶ月金銀の利息程も入用なくて、新
(あらた)に作り出し、己が姓名を橋の擬宝珠に彫(ほら)せて名聞(みょうもん。世間の評判)を悦(よろこ)びける。」

(難波屋が一ヶ月に商う金銀の利息ほどにもならぬ工事費で、宇治橋の新築架け替えが成った。十右衛門は、自分の名前を擬宝珠に彫らせて世間の評判になったことをかえって喜ぶ始末だった。)


 
宇治橋工事が世間への見せしめにならぬばかりか、十右衛門に難波屋の財力を誇示させる機会を与え、かえって図に乗らせてしまったのだ。

 板倉重矩はこの判決を一生悔いたという。


【注】
(1)以下の記事は『流芳録』による。内山温恭編『流芳録』巻之九、「京都所司代 板倉内膳正重矩」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。
(2)正しくは那波屋十右衛門(なばやじゅうえもん)。那波屋は当時京第一・第二の富豪とされた両替商。醍醐寺(真言宗醍醐寺派の総本山)の子院三宝院の金銀御用達(きんぎんごようたし)をつとめた。驕りに過ぎた振る舞いを咎められ、京都所司代板倉重矩から兄九郎左衛門(くろうざえもん。1633~1697)とともに宇治橋の架け替え工事を命じられた。なお、十右衛門の妻は豪華な衣装をまとい、江戸の豪商石川六兵衛の妻と「伊達くらべ」をしたことでも有名。
(3)『流芳録』が引用する『雑話燭談』による。
2021年11月21日(日)
「虫目鏡」に興奮
 随筆『蜑の焼藻(あまのたくも)』の著者で知られる旗本の森山孝盛(もりやまたかもり。1738~1815)。その日記『自家年譜』には、森山が平賀源内宅を訪問した記述がある(安永7年8月26日の条)。

 『自家年譜』は国立公文書館のホームページから検索することができる。ただし残念なことに、上記の該当部分の文章一行分が日記の綴じ目に隠れてしまっていて、判読できない
(1)

 本文は12行ばかりで、その半分弱が源内を紹介する記述。残りはほとんど「虫目鏡(むしめがね)」(顕微鏡か。台にレンズが三段ほど重なった物という)をのぞいて、さまざまな物を見たという記述だ。細かな記述から、森山の興奮ぶりが伝わってくるようだ。該当部分は抜き出してみよう。


「燈心
(とうしん)、太きみみず程(ほど)に見ゆる。
  
(途中、判読不能)
 其外
(そのほか)、のみ・虱(しらみ)すさまじく覧(み)ゆる。髪之毛(かみのけ)の根にふけの附(つき)たる様子、柏餅(かしわもち)の付(つき)たる如(ごと)く也(なり)。芥子(けし)、ゆびの腹程(はらほど)にみへ、かち栗のごとき筋(すじ)有之(これあり)。かびの生(はえ)たる、かびの形ミな木の子(茸)の形也(なり)。」

(細い灯心が、太いミミズほどの大きさに見える。そのほか、ノミ・シラミがすさまじく見える。髪の毛の根元についたフケのありさまは、まるで柏餅がくっついたようだ。ちっぽけなケシ粒が、指の腹くらいの大きさに見え、カチグリのような筋があるのがわかる。カビの生えたのを見ると、その形はみなキノコの形をしている。)


 無味乾燥な記述が続く森山の日記において、珍しく生き生きとした記述だ。初めて見るミクロの世界に、よほど魅了されたのだろう。


【注】
(1)
森山孝盛『自家年譜・安永七年ー同九年』国立公文書館蔵、請求番号:165-0059
2021年11月20日(土)
土器による製塩
1.上高津貝塚の製塩土器

 茨城県土浦市に位置する上高津貝塚(かみたかつかいづか。縄文時代)からは、完形の製塩土器が出土している。製塩土器は熱効率を重視したため、一般の土器よりも肉薄に作られている。そのため壊れやすい。したがって、完形の製塩土器の出土は珍しいのだ。

 上高津貝塚がある土浦市は、茨城県の中央内陸部に位置する。近くにはわが国第二の面積を有する湖沼、霞ヶ浦がある。

 現在の霞ヶ浦は淡水湖だが、なぜ淡水湖の周辺で製塩が行われたのか。

 実は、霞ヶ浦はかつては海で、貝塚はその周辺に分布していたのだ。それがのちに砂州によって外海と隔てられた海跡湖(かいせきこ)となり、そこに周辺の河川から淡水が流れ込んで淡水化したのだ
(1)

 貝塚から出土した土器が、なぜ製塩土器とわかるのか。それは、①肉薄の土器の形状(前述)、②土器内面にこびりついた塩分と③そこに付着したウズマキゴカイ等からわかるのだ。

 ③のウズマキゴカイとは、海草などに着生する環形動物の一種だ。土器の中からこびりついた塩とともにウズマキゴカイの貝殻が見つかるということは、海草類などを利用して製塩した証拠になるという。


2.あまのたくも

 海藻ではないが、古来製塩に利用されてきた植物のひとつにアマモがある。

 アマモはヒルムシロ科の多年生の海産種子植物で、根茎に甘みがあって食べられるのがその名の由来だ。植物名としてはもっとも長い「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(竜宮の乙姫の元結いの切り外し)」という別名があることでも有名。

 アマモは、浅海の泥土上に群生するので採取しやすく、また海岸に大量に打ち上げられているため集めやすかった。古来製塩に利用されてきたので、海藻ではないものの「藻塩草(もしおぐさ)」の別名でよばれた。

 かつては海人(あま)がこのアマモを海辺で刈り取ったり、また海岸に打ち上げられたアマモを大量にかき集めたりして、海浜に積み上げる作業が見られた。塩分を多量に含んだ灰を得るため、海人はつみあげたアマモに海水を注ぎかけて1週間ほど乾燥させたのち、それらを砂浜で焼いた。こうした一連の製塩作業が「あまも刈る」とか「藻塩焼く」などと表現され、風情あるものとして和歌などにも多く詠まれてきたのである。

 また、アマモを大量にかき集めて積み上げる「掻き集む(かきつむ)」作業から、音通する「書き集む(かきつむ)」(書いた文章を寄せ集める)にかけて、古人は「藻塩草」に筆記類や随筆の意味をもたせた。たとえば、江戸時代の旗本森山孝盛(もりやまたかもり。1738~1815)の随筆『蜑の焼藻(あまのたくも)』の書名もこれに由来する
(2)


3.製塩土器による製塩

 アマモなどを焼いて塩分が含まれた灰が得られても、このままでは食用にはならない。灰から塩だけを取り出さなければならない。そこで登場するのが製塩土器だ。

 製塩土器による製塩手順は、次のようなものだと考えられている。

 砂浜でアマモを焼いた灰を土器の中に入れ、火で熱しておく。そこに海水を注いで煮詰める。すると、灰の中にしみこんだ海水が毛細管現象により、濃い塩水となって灰の上部に向かって上昇する。上昇した塩水は灰の表面で水分が蒸発し、析出した塩が土器の内側に付着する。こうしてできた塩を掻き取って利用したのだろう。

 
【注】
(1)「あれやこれや 2020」12月9日を参照。
(2)森山孝盛『蜑の焼藻の記』寛政10(1798)年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:166-0815。
2021年11月19日(金)
大名なんかになるものではない
 元安芸国広島藩42万6500石の藩主だった浅野長勲(あさのながこと。1842~1937)が、明治になって「殿様時代」の日常生活を率直に語っている(1)

 大名は、面倒な儀例・慣例等によってがんじがらめにしばられ、自由というものがほとんどない。「大名などするものではありません」という浅野の言葉には、窮屈な「殿様生活」を送った大名の本音が込められている。

 そうした浅野の話のなかから、「殿様生活」の断片を二つばかり紹介。


その1

 参勤交代では生活道具一式を持参して移動する。道中は本陣(大名や貴人の宿泊所)に宿泊する。軍役なので本陣という名称なのだ。建前は常在戦場だったので、すべてが陣屋の仕組みになっていた。

 寝るときも、殿様の枕元には軍器が並んでいた。戦場では、いつ寝込みを襲われるかも知れない。だから終夜不寝であることを示すため明かりを灯し、枕元には小性が二人すわって一晩中軍記物を読み上げる(小性も眠いものだから、うっかり同じところを二度読んだりしている)。

 明るい上にうるさいものだから、熟睡などできない。移動中の期間は、こうした生活がずっと続く。だから睡眠不足で、道中の駕籠の中で眠らざるを得なかったという。


その2.

 大名とはいえ、平常の食事はいたって質素。

 朝食のおかずは焼味噌に豆腐くらい。昼・晩が一汁二菜。飯も多く食べたり少なく食べたりができない。食事の量が減りでもすると、台所奉行が調べにくるという。

 食事は台所奉行が食味をし、次に近習(きんじゅう)が毒味をしてから出すので、まずくても文句が言えない。嫌いなものが出て、目を白黒させて呑み込んだという話もある。

 時には食物のなかにゴミがはいっていることがある。それがわかると家来の落ち度になるので人に見せないように隠す。一度鼠の糞がはいっていて隠しおおせず、大騒動になったことがある。このままでは家来が切腹しなければならなくなるので、苦し紛れの理由をつけて特別に許したという。

 青虫くらいなら呑み込めよう
(2)。しかし鼠の糞ではどうにもならなかったようだ。


【注】
(1)柴田宵曲編『幕末の武家』1971年、青蛙房
(2)「あれやこれや 2021」9月15日の記事参照。
2021年11月18日(木)
鹿鳴
鹿は晩秋の紅葉の頃、牡(おす)が牝(めす)を求めて鳴くという。その声は晩秋のものさびしさを深めるものとして、古くから風流人の心をとらえてきた。


   奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
(『古今集』よみ人しらず)

    (奥山で、萩の黄葉を踏みわけながら鳴く鹿の声を聞くときが、とりわけ秋は悲しい。
     旺文社『全訳古語辞典・第三版』による)



 ただ、山中に遠く聞こえるその声は、鳥の鳴き声と勘違いされることもあったという。そこで、鹿には紅葉鳥(もみじどり)の別名がある。

 ところで、鹿の鳴き声から連想されるのは、明治外交史上「鹿鳴館時代」で有名な「鹿鳴館」だろう。『広辞苑・第五版』で「鹿鳴」を引くと「宴会で客をもてなすときの詩歌・音楽。また、宴会。」とある。鹿鳴館とはまさしく、外国人賓客をもてなすための建物だった。

 「鹿鳴」が客をもてなす意味をもつのは、詩経「鹿鳴」篇のなかにある「よう(口へんに幼)よう(口へんに幼)たる鹿鳴、野の苹(くさ)を食(は)む、我に嘉賓(かひん)あり」を出典とする。

 この中国古典によって鹿鳴館と命名したのは、旧薩摩藩士の中井弘(なかいひろし。号は桜洲。1839~1894)である
(1)

 ただし『詩経』の中で草を食んでいたのがもしも鹿でなかったら、牛鳴館(ぎゅうめいかん)とか馬嘶館(ばせいかん)とか、違った名前がついていたかもしれない。


【注】
(1)近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』1983年、講談社文庫、P.39~40
2021年11月17日(水)
楢林重兵衛
 寛政10(1798)年11月26日は西暦1798年の元旦にあたる。芝蘭堂(しらんどう)では新元会の宴会が催された。いわゆる「オランダ正月」だ。

 この時、余興として「蘭学者相撲見立番付(らんがくしゃすもうみたてばんづけ)」が作られた
(1)。仲間内で戯れに作った蘭学者のランク表だが、東方の張り出しに星野良悦(ほしのりょうえつ)、西方の張り出しに楢林重兵衛(ならばやしじゅうべえ)の名があがっている。張り出しになったくらいだから、当時は芝蘭堂関係者たちから一目置かれていた人物だった。

 星野良悦についてはすでに紹介した
(2)。わが国初の木製人体骨格模型(星野木骨)を制作した人物だ。

 一方の楢林重兵衛(1750~1801)は、長崎のオランダ通詞だ。そのレベルの程はわからないが、オランダ語の通訳ができるというのは、「鎖国」当時のわが国においては有用な特殊能力だった。そこで今回は、楢林重兵衛の履歴を『阿蘭陀通詞由緒書(おらんだつうじゆいしょがき)』から紹介しておく
(3)
 
 なお、通「詞」はオランダ通詞、通「事」は唐通事のこと。オランダ通詞の上下関係は「大通詞(おおつうじ)-小通詞(こつうじ)-稽古通詞(けいこつうじ)」。


「一五代  楢林重兵衛 高廣

 俊明院様
(しゅんめいいんさま。10代将軍徳川家治の諡号)御代明和二酉年(めいわにとりのとし。1765年)、父重右衛門(14代楢林高通)小通詞相勤候節(あいつとめそうろうせつ)、稽古通詞罷成(まかりなり)、安永六酉年(あんえいろくとりのとし。1777年)父跡職(あとしき)被仰付(おおせつけられ)、小通詞助役罷成、同八亥年(どうはちいのとし。1779年)小通詞罷成(まかりなり)、御扶持方(おふちかた。給与)三人扶持(さんにんぶち。1人扶持は年に米1石8斗支給)被下置(くだしおかれ)、天明八申年(てんめいはちさるのとし。1788年)大通詞罷成、御御扶持方五人扶持(ごにんぶち)被成下(なしくだされ)、寛政二戌年(かんせいにいぬのとし。1790年)阿蘭陀人ヨリ差出候(さしだしそうろう)御請横文字和解違之儀付(おうけよこもじわげちがいのぎにつき。担当したオランダ語翻訳に誤訳があったので)御咎被仰付(おとがめおおせつけられ。処罰を受け)、寛政三亥年(かんせいさんいのとし。1791年)御役儀被召上(おやくぎめしあげられ。通詞職を解任され)五ヶ年蟄居被仰付(ちっきょおおせつけられ。謹慎を命じられ)、同九巳年(どうくみのとし。1797年)被召出(めしだされ。処分を許され)御用(ごよう)阿蘭陀書物和解(わげ。翻訳)(ならびに)年若之者蘭学取立等(としわかのものらんがくとりたてなど。後進の通詞の育成など)可致旨(いたすべきむね)被仰付(おおせつけられ)、三人扶持被下置(くだしおかれ)、同十午年(どうじゅううまのとし。1798年)四月急就御用(いそぎごようにつきて)此度(このたび)松前表(まつまえおもて。現在の北海道)エ被遣候付(つかわされそうろうにつき。派遣されることになったので)四、五日之支度(したく)ニテ江戸表エ可罷越旨(まかりこすべきむね)松平伊豆守殿(まつだいらいずのかみどの。老中松平信明)御下知(おんげち。ご命令)之旨、長崎奉行松平石見守(まつだいらいわみのかみ。松平貴強)ヨリ被仰渡候付(おおせわたらせそうろうにつき)、五日之支度ニテ長崎表出立仕(しゅったつつかまつり)、御下知之通(おげちのとおり)松前表エ罷越(まかりこし)御用相勤候付(ごようあいつとめそうろうにつき)、江戸表エ帰著(きちゃく。帰着)之上為御褒美(ごほうびとして)白銀五枚(白銀1枚は通用銀の3分にあたる)頂戴仕(ちょうだいつかまつり)、且(かつ)蛮船造小船乗様等之儀(ばんせんづくりこぶねのりようなどのぎ)骨折候為御手当(ほねおりそうろうおてあてとして)白銀二枚頂戴仕(ちょうだいつかまつり)、十一未年(じゅういちひつじのとし。1799年)正月水戸様(水戸徳川家)御国エ被遣度旨(つかわされたきむね)仰立有之候付(おおせだてこれありそうろうにつき)四十日程之心得(しじゅうにちほどのこころえ。40日間ほど滞在の心づもり)ニテ可罷越旨(まかりこすべきむね)戸田采女正殿(とだうねめのしょうどの。老中戸田氏教)御下知之旨、松平石見守ヨリ被仰渡候付(おおせわたされそうろうにつき)、彼地(かのち。水戸藩)エ罷越候末(まかりこしそうろうすえ)帰郷可致旨被仰渡(ききょういたすべきむねおおせわたされ)、同年(1799年)十二月長崎表帰著(きちゃく)。享和元酉年(きょうわがんとりのとし。1801年)三月廿一日(にじゅういちにち)病死仕候(びょうしつかまつりそうろう)、五十二(享年52歳)


【注】
(1)松平斉民収集『芸海余波』所収、早稲田大学図書館蔵、請求記号:イ0501646。
(2)「あれやこれや 2021」1月14日・15日参照。
(3)『阿蘭陀通詞由緒書(写)』1881年、早稲田大学図書館蔵、請求記号:ヌ0404621。
2021年11月16日(火)
歴史の色は
.中国では歴史に色が付いている。一体何色だろうか。


答.


 中国では歴史の別名を「青史(せいし)」という。歴史は青いのだ。

 なぜ青なのか。

 実はこの青はblueではない。青竹の青、すなわちgreenのことだ。

 中国で安価な紙が作られるようになったのが前漢時代。紙がなかった時代には、高価な帛(はく。絹の布)や、青竹を割いてつくった細い札(竹簡)などに文字を書いていた。

 竹簡に歴史をしたためたので、歴史の別名を「青史」というのだ。

 ただし竹簡は、そのままでは利用できない。竹には油分が含まれるため、水分を含んだ墨ははじかれてしまい、文字を書くことができない。そこでいったん火にあぶって油を抜き、漆で文字を書いた。

 この油抜き作業の際、青竹から油分が汗のように染み出た。これを「汗青(かんせい)」「汗簡(かんかん)」といい、これもまた歴史の別名になった。

 なるほど、歴史は無数の人びとの汗の上に成り立っているから、言い得て妙である。
2021年11月15日(月)
鴆毒(ちんどく)
 毒薬というと、中国やわが国では「鴆(ちん)」という鳥からつくるという「鴆毒(ちんどく)」が有名だ。

 たとえば、小宮山楓軒(こみやまふうけん)の『懐宝日記』文化9年7月の条にも次のようにある
(1)


「佐野善左衛門
(さのぜんざえもん。佐野政言)、田沼山城守(たぬまやましろのかみ。田沼意知)ヲ斬(き)ラントスルトキ、其家(そのいえ)ニ畜置(かいおけ)ルチンヲ伐(き)リ、血祭(ちまつり)シテ出仕(しゅっし)セリ。是(この)チンノ血ニ毒アリテ、其刃(そのやいば)ヲ以(もっ)テ人ヲ斬ルトキハ必ズ死スト云(い)フユヘナリ。浅草門跡(もんぜき)ノ子院(しいん)ニ佐野ノ墓アリ。其旁(そのかたわら)ニチンノ塚モアルナリ。其時(そのとき)江戸ニ在(あ)ルモノノ談(だん)ナリ.。」


 江戸城内で、旗本の佐野政言(さのまさこと)が若年寄の田沼意知(たぬまおきとも)に刃傷(にんじょう)に及んだ際、意知の息の根をとめるため、刀に猛毒の鴆の血を塗っていたという。また処刑された佐野の墓のそばには「鴆の塚」もあったという。

 『懐宝日記』には「其時江戸ニ在ルモノノ談ナリ」と断り書きがあるが、信ずるに値しない噂話だ
(2)。意知は毒死したわけではないし、鴆自体が中国古本草上の伝説の鳥だからだ。

 ところが近年になって、ニューギニアのジャングルで発見されたモリモズ属の野鳥から毒性物質が発見されたという。その研究結果が『サイエンス』誌に報告されたのは1992年のことである
(3)

 『懐宝日記』の「鴆の血」は眉唾(まゆつば)だが、ニューギニアの毒鳥発見のニュースにより、「鴆」自体の存在に可能性がでてきた。


【注】
(1)小宮山楓軒『懐宝日記 15巻』国立国会図書館蔵、請求記号826ー65
(2)佐野政言の刃傷事件については「あれやこれや 2021」2月27日~3月2日の記事を参照。
(3)真柳誠「目で見る漢方史料館(59) 伝説の鴆鳥と世界初発見の毒鳥」-『漢方の臨床』40巻2号、1993年2月-
2021年11月14日(日)
大名行列とシュリーマン
 ハインリッヒ・シュリーマンがトロイア発掘を始める6年前のことだ。

 彼は世界旅行を思い立ち、中国各地を訪ねたあと、アメリカに向かおうとしていた。その途中、幕末の日本にも立ち寄っている。

 シュリーマンが横浜に上陸したのは、慶応元(1865)年5月11日のことだった。

 その直後、14代将軍徳川家茂(いえもち)一行が東海道を通過する旨、幕府から外国人居留地の通告があった
(1)

 通告の意図は、外国人たちが興味本位で行列見物のため、街道まで出ないように要請するためだった。3年前には、島津久光一行と出くわしたイギリス人が、薩摩藩士によって殺傷されるという生麦事件(なまむぎじけん。1862)が起こっている。薩摩藩の尻ぬぐいのため幕府はさんざんな目にあい、すっかり懲りていたのだ。

 しかし、滅多に見られない将軍の行列だ。多くの外国人が見物を熱望した。そこでイギリス総領事が幕府に掛け合った結果、5月16日に指定場所での見学が特別に許可されたのである。

 街道から少し離れた指定の場所に、100人ばかりの外国人が集まってきた。1時間半ほど待ったあと、ようやく行列がやってきた。大勢のお供の人びとが通り過ぎたあと登場した将軍の姿を、シュリーマンは次のように記録している。


「いよいよ大君
(たいくん。将軍)が現われた。他の馬と同様、蹄鉄(ていてつ)なしで藁(わら)のサンダルを履(は)かせた美しい栗毛の馬に乗っている。大君は二十歳くらいに見え、堂々とした美しい顔は少し浅黒い。金糸で刺繍(ししゅう)した白地の衣装をまとい、金箔(きんぱく)のほどこされた漆塗(うるしぬ)りの帽子を被(かぶ)っていた。二本の太刀を腰に差した白服の身分の高いものが約二十人、大君のお供をして、行列は終わった。」(2)


 この後家茂は翌年(1866)8月21日、第二次長州征討のさなかに大坂城中で没する。21歳だった。


 さて、大名行列見物の翌朝、東海道を散歩していたシュリーマンは、街道の真ん中に死体が三つ転がっているのを目撃する。

 あとで聞けば、一人目は将軍の行列と知らずに横切ろうとした百姓。二人目は、その百姓を殺すことに躊躇した部下。そして三人目は、百姓を殺せと命じたのに従わなかった部下に激怒し、百姓・部下のふたりを殺した下士官。

 この下士官は気が狂っていると判断され、上級士官の命令によって直ちに殺されたのだという。


【注】
(1)この時の将軍一行の移動は、長州再征を孝明天皇に奏上して勅許を得るための上京だった。
(2)ハインリッヒ・シュリーマン、石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』1998年、講談社学術文庫、P.98
2021年11月13日(土)
大名行列のトイレ
 参勤交代の大名行列では、藩によっては殿様専用のトイレや風呂桶まで運んだという。しかし、そのほかのお供たちは、移動中のトイレをどうしたのだろうか。

 数千人にも及ぶ大集団ともなると、次の宿場や茶屋まで尿意や便意をがまんできない者も出たはずだ。山野にかけこんで大自然の中で用を足す者もいたろうが、実際はどのように処理していたのだろう。

 これに関しては、江戸時代にわが国にやってきたケンペルやツュンベリーらが記録を残している。彼らの見聞談によると、街道沿いには農民の建てた小屋が2、3里ごとにあって、休息やトイレができるようにしてあったという。

 なぜ、農民がトイレを建てたのか。

 それは、下肥(しもごえ)を入手するためだった。トイレを建てておけば排泄物が無償で手に入る上、農民より武士の方がよい物を食べている分、品質が高いと見なされていた。街道上に落ちた馬糞も良質の肥料として、農民たちに拾われていた。

 インターネットを検索すれば、大名行列の移動中のトイレについて書いてあるホームページが見つかる。よって、ここでは詳述しない。 
2021年11月12日(金)
大名行列の草鞋
 大名行列では多人数が長距離を歩く。当時の履き物は人も馬も草鞋(わらじ)だった。人の履く草鞋は、40~50km歩くと破れたりすり切れたりして使い物にならなくなった。

 加賀藩の大名行列では、約2,000人から多い時で4,000人もの集団が移動したという。こんな多人数が一斉に茶屋や宿場で草鞋を買おうとすれば、大混乱が起こるだろう。また、田舎道の真ん中で草鞋がだめになることもあったろう。しかし、大名行列図で、供人のひとりひとりが何足もの草鞋を腰にぶら下げ、歩いている様など見たことがない。

 大名行列では、替えの草鞋をどうしていたのだろう。

 歌川広重の浮世絵『東海道五十三次之内 関 本陣早立(ほんじんはやだち)』の中にヒントがある。関宿は現在の三重県亀山市。この浮世絵には、出発の準備をする午前4時頃の本陣(大名や貴人の宿泊所)でのありさまが描かれている。

 この浮世絵の左下の方を見ると、三角形の駕籠(かご)と二人の男の姿が目にはいる。三角形の駕籠は「うま」とよばれた運搬具で、なかには草鞋が積まれている。

 つまり、草鞋番がみんなの替え用の草鞋を担いで運搬し、草鞋がだめになるとこの替え用の草鞋と交換していたのだ。

 なお、草鞋づくりは街道沿いの農民の副業となったうえ、捨てられた草鞋は拾い集められ田畑の肥料に再利用されたという。


【参考】
・牧野健太郎『浮世絵の解剖図鑑』2020年、エクスナレッジ、P.115
2021年11月11日(木)
大名行列の財布
 参勤交代を実施するにあたって、大名は莫大な支出を強いられた。

 その際、大名行列という団体旅行での移動中、食事・宿泊等の現地での支払いはどうしたのだろう。江戸時代の旅行は現金払いが原則だから、当然財布は持参したはずだ。どんな財布だったのだろうか。

 なにしろ、現在のようなクレジットカード払いなどできなかった時代だ。軽い紙でできた藩札は領内でしか通用しないし、全国で使用できる紙幣などはそもそも存在しなかった。当時の支払いは、金貨・銀貨・銭貨という重くてかさばる金属貨幣だった。

 こうしたなか、各宿場での支払いの大半は銭貨だったはずだ。

 それでは大名行列の移動には、どれくらいの銭貨が要したのだろう。

 たとえば天保5(1834)年4月13日に江戸を出発した加賀藩一行約2000名の例では、中山道から北国街道を経由して、119里(約467km)の距離を13日間かけて金沢まで帰っている(4月25日着)。これにかかった費用は、銭で9,100貫文だったとされる。1文が約3.75gだから約33tもの重さになる。5t積みの大型トラックなら7台分弱の分量である。

 とても長距離を陸上輸送できる重さではない。そこで重量を軽減するため、貨幣価値の高い金貨・銀貨で運び、現地では両替商や旅籠屋などで必要な金額を少しずつ両替して、支払いながら旅をするという工夫がされた。

 だからこのとき加賀藩では、実際には金貨2,025両(小判900両・一分金1,125両)、銀貨15貫目(丁銀12貫目・豆板銀3貫目)を運んだのだ。この重量総計は約83kgだった。すべてを銭貨とした場合にくらべ、重量は約400分の1に軽減できたわけだ。

 それでもまだ83kgある。当たり前だが、こんな金貨・銀貨が入る大財布などない。

 実際には金貨・銀貨を入れた長持(ながもち)を、人足が数人掛かりで担いで運んだという。


【参考】
・日本銀行金融研究所貨幣博物館「企画展 おかね道中記-旅で使う貨幣-(会期2012年11月10日~2013年5月12日)」パンフレット、2012年による。
2021年11月10日(水)
蒲編を披き竹簡を削る
 小中学校でもパソコンやタブレットなど、デジタル機器を使用した学習が推奨されている。学習手段の選択肢が広がり、新たな技術に接することができるのは喜ばしい。

 しかしその一方、通信環境の整備やデジタル機器の購入が家計を圧迫し、悲鳴を上げる家庭も多いと聞く。

 現代のパソコンやタブレットのように、かつては文房具も高価だった。そんな時代に勉強する機会があったのは、裕福な特権階級だけだった。

 だからお隣りの中国では、子ども向けの漢字学習書『三字経(さんじきょう)』で、「貧乏だからといって勉強をあきらめるな」と数百年間にわたって、子どもたちを励まし続けてきたのだ。『三字経』には次のようにある。


   蒲編
(ほへん)を披(ひら)き竹簡(ちくかん)を削(けず)る。

  彼
(かれ)、書(しょ。本)(な)きも、且(か)つ勉(つと)むるを知る。


 紙がまだなかった前漢時代、文字は竹簡(竹を細長く削いだ札)や帛(はく。絹の布)に書いた。貧乏だった路温舒(ろおんじょ)は蒲(がま)を切ってそれに文字を練習し、公孫弘(こうそんこう)は自分で竹簡を削って本を筆写した。だから、君たちもがんばれ、と。
 
 その後、機械による大量生産で鉛筆・ノート類が安価になって入手しやすくなり、教育の平等化が進んだ。しかし、今度はパソコンやタブレットという新たな「デジタル文房具」の登場で、貧富による教育格差が拡大しようとしている。

 蒲を切ったり竹簡を削ったりしたようには、パソコンやタブレットは自作できない。

 路温舒や公孫弘が今の社会を見たら、どのような感想を持つだろうか。
2021年11月9日(火)
鼻毛の殿様
 前田利常(まえだとしつね。1594~1658)は「鼻毛の殿様」としても有名だ。『明良洪範』には次のようにある。


 利常の鼻毛のびすぎていて、何ともみっともない。殿様に鼻毛を抜いてほしいが、恐れ多くて臣下の者からは言い出しづらい。そこで、臣下の気持ちを伝えるため、さまざまな工夫を繰り出す。

 たとえば、本多安房守(ほんだあわのかみ)という臣下は、鏡を利常の近習(きんじゅう)に渡し、夜勤の際に鼻毛を抜くというパフォーマンスをさせる。また、横山左衛門佐(よこやまさえもんのすけ)という臣下は、利常近くに仕える掃除坊主に命じて、入浴の際に鼻毛抜きを持参させる。

 こうした臣下の様子を見た利常は、彼らを呼び集めて、次のように言った。


「我
(わが)鼻毛の延(のび)たるを何(いず)れも笑止(しょうし)に思ひ、世上(せじょう。世間)にて、鼻毛の延たる虚気者(うつけもの。愚か者)などいふは、利常も心得(こころえ)て居(お)るぞ。 ( 中略 )

我、今大名の上座にして、官禄
(かんろく)日本に知れたる。利常、利口を鼻の先に顕(あら)はす時は、人気遣(きづか)ひし大きに疑ひ、存(ぞん)じ寄(よら)ざる難を請(うく)る者也(なり)。我、たはけを人に知らせてこそ心易(やす)く三ヶ国をば領し、何(いず)れも楽(たの)しましむるは。」(1)


「わしののびた鼻毛を、だれもがおかしなことに思って、世間では『鼻毛がのびた馬鹿者』と評判していることは百も承知だ。

 わしが、今大名の中では上座を占め、その高い官職・禄高を知らぬ者はいない。そんなわしが、賢さをひけらかしでもしたら、人びとは変に気をまわして(謀反などの企みがあるのではないかと)大いに疑い、思いもかけぬ災難をうけるものだ。だから『加賀の殿様は馬鹿者だ』と人びとに思わせてこそ、安心して三カ国(加賀、能登、越中)を領有し、みなの者を安息させることができるのだ。」

 利常の鼻毛には、加賀百万石がぶら下がっていたという逸話だ。


【注】
(1)真田増誉『明良洪範:25巻續篇15巻』1912年、国書刊行会、P.23~P.24。読みやすくするため漢字を現行のものに改め、適宜句読点等補った。
2021年11月8日(月)
大名の立ちション
 江戸城で働く幕府役人の殿中規則(1605)に「便所以外で小便をしてはならない」とあったという(1)

 このことで思い出すは加賀藩の大名前田利常(まえだとしつね。1594~1658)の逸話だ。『明良洪範(めいりょうこうはん』には次のようにある。


「利常御登城
(ごとじょう)の時、御城中に小便禁制(きんぜい。禁止)の場あり。若(もし)法を破る輩(やから)は、黄金一枚過料(かりょう。罰金)たるべきよしの札(ふだ)(たて)られしを見て、其(その)まま立(たち)ながら小便せられ、則(すなわち)金一枚を出して、

「大名ほどの者、黄金を惜
(おし)み、こらへ難(がた)き小用(しょうよう。小便)をこたへ忍(しの)ぶべきや」

と有
(あり)し故(ゆえ)に、誰(だれ)も汚(けが)す者なし。」(2)


 利常が江戸城に登城した折り、城中に小便禁止の区域があった。「もしもルールを破れば黄金一枚の罰金」という札が立っていた。それを見た利常は、そのまま立ち小便をして黄金一枚を出した。

「大名ほどの者が、たかが黄金一枚の罰金を惜しんで、ガマンできない小便を耐え忍ぶだろうか(がまんなどするまい)。」

 利常がそう言ったことから、その後誰もそこで立ち小便をしなくなったという。


 ところで、ある国では、公共の場でたばこを吸うと罰金を取る、という。しかしそこでは、喫煙をガマンできない外国人観光客が、罰金を片手に持ちながら堂々とたばこを吸うそうだ。しばしも我慢できないたばこの中毒性も問題だが、「罰金を払えば文句はないんだろう」という成金根性からくる傲慢(ごうまん)さが透(す)けて見え、何とも嫌らしい。罰金だけでは、人びとの行動を制御できないのだ。

 利常は、立ち小便の制止も、罰金によって解決できる問題ではない、と言いたかったのだろう。確かに、公共心や遵法(じゅんぽう)精神など、個人の心に帰すべき問題だ。

 もっとも、広大で部屋数が多い江戸城内のこと。尿意をもよおした大名が、わかりにくく不慣れな場所でトイレを探しても、間に合わない場合もあったろう。大名の立ちションにはやむにやまれぬ事情があったのかもしれない。
 

【注】
(1)「あれやこれや 2021」11月5日参照。
(2)真田増誉『明良洪範:25巻續篇15巻』1912年、国書刊行会、P.23。読みやすくするため漢字を現行のものに改め、適宜句読点等補った。
2021年11月5日(金)
レベルの低い殿中規則
 江戸城中に勤務する役人の殿中規則(1605)が、村井益男著『江戸城』に紹介されている。同書に紹介されている現代語訳の史料は、次のようなものだ(一部省略)。



一、殿中で行儀が悪かったり、慮外
(りょがい。無礼)の体(てい)のある者は見つけ次第言上せよ。

一、殿中で一所に寄り集まり、高声で雑談してはならない。

一、囲碁、将棋、竹刀打
(しないうち)、扇子きり(扇子を使う遊戯の一種)、すまい(相撲)などをしてはならない。

一、祇候
(しこう。貴人のお側に奉仕すること)した者は座敷そのほかへちりを捨ててはならない。

一、掃除をきちんとせよ。便所以外で小便をしてはならない。 」
(1)


 行儀よくせよ、大声で騒ぐな、相撲などして遊ぶな、ところ構わずゴミを捨てるな、掃除を適当に済ませるな、用を足すならトイレでせよ。

 江戸幕府草創期とはいえ、これが江戸幕府の殿中に勤務する役人が順守すべき規則なのだ。一読して、その内容のレベルの低さに驚いてしまう。

 もっとも、江戸城内に勤務する役人の中には、御小性(おこしょう)などに年少者もいた。子どもなので、時には仲間内でふざけあって、将軍秘蔵の屏風を破ってしまったり、御殿の軒下に巣くった雀の雛を捕らえようとして地面に落ちてしまったりなどした失敗のエピソードも残っている
(2)。だから、年少者向けに上記のような規則が必要だったのかもしれない。

 しかし、のちに「落書きをした者は、大人なら死罪、子どもなら流罪」(罰則が厳しすぎる!)という条文が付加されているところを見ると、上記規則の対象者は年少者に限ったことではない。

 大人であっても行儀が悪く、大声で騒いだり、城中で相撲をとったり、ところかまわずゴミを捨てたり、トイレ以外で小便をしたりするような者が少なからずいたからこそ、そうした行為を禁止する殿中規則ができたのだ。

 まるで、しつけのなっていない幼児のようだ。


【注】
(1)村井益男『江戸城』1964年、中公新書、P.152
(2)松平信綱のエピソード。「あれやこれや 2021」7月6日・8日等の記事を参照。
2021年11月4日(木)
『流芳録』(3)-『流芳録』例言-
 『流芳録』の編纂意図や編纂方針等を知るために、首巻の例言(全文)を挙げておく。


「一、国家昇平
(しょうへい)の久しき、振古(しんこ)(いまだ)(かつ)て聞(きか)ざる所なり。謹(つつしみ)て按(あん)ずるに、
東照大神君
(とうしょうだいしんくん)、撥乱(はつらん)反正(はんせい)の芳烈(ほうれつ)、創業(そうぎょう)垂統(すいとう)の聖跡(せいせき)はいふも更(さら)なり。歴代(れきだい)の名君、守成(しゅせい)・繼體(けいたい)・政績(せいせき)(しか)らしむる所(ところ)なりといへども、抑(そもそも)(また)名臣・良弼(りょうひつ)相繼(あいつぎ)て輔翼(ほよく)・裁成(さいせい)の効(こう)によれり。爰(ここ)に於(おい)て雑書を渉猟(しょうりょう)し、上ハ慶元歳(けいげんのとし)に始(はじま)り、近くハ寛政年間(かんせいねんかん)に至(いた)るまで、名相(めいしょう)・循吏(じゅんり)の言行(げんこう)を摘抄(てきしょう)し、分類(ぶんるい)・臚列(ろれつ)し、名(なづけ)て流芳録(りゅうほうろく)といふ。蓋(けだし)遺芳(いほう)・餘烈(よれつ)千載(せんざい)の下(もと)、仰景(ぎょうけい)すべきの義(ぎ)に取(と)れり。

一、今
(いま)(この)(しょ)を輯(あつむ)むる意、実に官幾(かんき)にあり。故(ゆえ)に役名をもて排列(はいれつ)し、職中の言行、官途(かんと)の事実に関係するもの而已(のみ)を抄載(しょうさい)す。よて一人にして幾條(いくじょう)に出(いだ)すも多し。其(その)居家(きょか)の嘉言(かげん)・善行(ぜんこう)に至(いたり)てハ皆(みな)省去(しょうきょ)して採(と)らず。是(これ)後来、軌範(きはん)の萬一(まんいち)にも採用せらるべきかとの微意(びい)なり。

一、凡
(およそ)事実同(おなじく)して紀事(きじ)・実聞(じつぶん)あるものハ、一格(いっかく)を低(ひくく)して其(その)事歴(じれき)を抄載(しょうさい)す。

一、凡
(およそ)二部を引用するものハ、二部を参考・折衷(せっちゅう)して採録せしなり。諸書に散見すといへども事実同じきものハ必(かならず)しも数部を引用せず。

一、凡
(およそ)各名の下、其(その)人の小傳(しょうでん)を挙(あぐ)。當役(とうやく)拝罷(はいひ)・傳遷(でんせん)の年月、及び俸禄(ほうろく)の数等を略載(りゃくさい)し、讀者(どくしゃ)の便覧(びんらん)に備(そな)ふ。されど渉猟(しょうりょう)の序(ついで)、偶(たまたま)採録する所にして其(その)謬誤(びゅうご)(きわめ)て多かるべく、又疑(うたがい)を闕(かき)しも鮮(すく)なからず。且(かつ)執参(しっさん)の如(ごと)きは大低終身の剔歴(てきれき)を挙(あぐ)といへども、其(その)(よ)の諸官ハ當役(とうやく)拝除(はいじょ)以前の事跡(じせき)ハ頗(すこぶ)る詳(つまびらか)に記せど、他役(たやく)に傳(てん)ずる後の事実は略せり。これ煩(はん)に過(すぎ)んを恐(おそ)るる故(ゆえ)なり。又小吏(しょうり)の如(ごと)きハ記載尤(もっとも)(とぼ)しく、採録するによしなし。覧者(らんしゃ)、是(これ)を恕(じょ)せよ。

一、凡
(およそ)(この)書を編抄(へんしょう)する、もとより偸閑(とうかん)の餘事(よじ)、温(たずね)て閲(けみ)し温(たずね)て抄(しょう)す。且(かつ)事実の疑(うたがわ)しきも姑(しばら)く採抄(さいしょう)せしもあり。脱漏(だつろう)・遺編(いへん)は尚(なお)續編(ぞくへん)の採録に入(いれ)んと欲(ほっ)す。

一、諸役の序次
(じょじ)、大低(たいてい)官職の序次に従(したが)ふといへども錯次(さくじ)多かるべし。醫師(いし)(および)軽輩(けいはい)に至(いたり)ても一、二條(じょう)を得(え)たり。是(これ)(また)抹去(まっきょ)すべきにあらず。故(ゆえ)に末に採録す。
                    天保七年十一月  内山温恭識    」



【語句注】

・昇平(しょうへい) 昌平とも。国家の勢い盛んで太平なこと。
・振古(しんこ) 振も古も古いの意。大昔・太古。
・撥乱反正(はつらんはんせい) 撥はおさめる意。乱世を収束させ、平和な世に戻すこと(春秋公羊伝、哀公十四年)。
・芳烈(ほうれつ) 芳香の強いこと。また義烈。
・創業垂統(そうぎょうすいとう) 新たに事業をはじめ後世に伝えること(孟子、梁恵王・下)。
・守成(しゅせい) 創始者の意志を継承し、強固なものにすること。
・繼體(けいたい・けいてい) あとつぎ・よつぎ。
・政績(せいせき) 政治上の功績。
・名臣(めいしん) すぐれた臣。
・良弼(りょうひつ) よい補佐役の臣。
・輔翼(ほよく) たすける。補佐する。
・裁成(さいせい) ほどよくとりはからって成し遂げる。
・渉猟(しょうりょう) 多くの書物を読みあさる。
・名相(めいしょう) すぐれた宰相。
・循吏(じゅんり) 忠実でよく民を治める役人。良吏。
・摘抄(てきしょう) 抜き書きする。
・臚列(ろれつ) 臚も列も並べる意。
・流芳(りゅうほう) 名声を後世に伝える。後世に伝えられた名声。
・遺芳(いほう) 後世に残る故人の業績。
・餘烈(よれつ) 故人の残した功業。遺烈。
・千載(せんざい) 千年。長い年月。
・仰景(ぎょうけい) 慕いあおぐ。景仰(けいぎょう・けいこう)。
・嘉言(かげん) 戒めとなるよい言葉。
・善行(ぜんこう) 道徳にかなったよい行い。
・規範(きはん) 手本。模範。
・微意(びい) 自分の意志を謙遜していう語。微志。寸志。
・紀事(きじ) 記事。
・事歴(じれき) 物事の来歴。
・拝罷(はいひ) 官職の拝命(任命)と罷免(免職)。
・傳遷(でんせん) 官職就任の履歴。
・謬誤(びゅうご) 誤謬。あやまり。
・執参(しっさん) 宰相など。執権。執柄。
・小吏(しょうり) 地位の低い役人。
・偸閑(とうかん) ひまを盗んで。ひまを見つけて。
・餘事(よじ) 余力でする仕事。余暇でする仕事。
・閲(けみ)する あらためみる。調べる。
・姑(しばら)く とりあえず。
・脱漏(だつろう)・遺編(いへん) ぬけやもれ。遺漏。
2021年11月3日(水)
『流芳録』(2)-『流芳録』の構成-
 『流芳録』は、首巻1冊と本編1~14巻の計15冊から成る。

 首巻には編者内山温恭の例言、引用書目106部の目録、本編各巻に所載された役職名・人名の目次が記載されている。

 本編全14巻には、ほぼ上位の役職から順に、職名・人名・略歴・逸話が記載される。

 収録延べ人数は計185人である。ただし、役職の累遷(るいせん)があるため異なる職名で複数回登場する人物が21名(3回が6名
(注)、2回が15名)いる。ゆえに、実人数は158人である。

 本編全14巻に所載された役職・人数(延べ人数)は次の通り(ただし、10巻以降は職数と総人数のみを表示)。


  1巻 大老 4人
  2巻 老中 10人 
  3巻 老中 1人
(松平信綱)
  4巻 老中 9人
  5巻 老中 14人
  6巻 老中 2人
(松平定信、松平信明)
  7巻 側用人4人

  8巻 京都所司代2人
(板倉勝重、板倉重宗)
  9巻 京都所司代9人、大坂城代3人
 10巻 11職38人
 11巻 3職21人
 12巻 14職37人
 13巻 7職18人
 14巻 11職13人



 全巻の前半部にあたる第7巻までで、幕府政治中枢の大老・老中・側用人3職・44人の事項が記載される。

 このうち36人を老中が占める。『流芳録』本編全14巻のうち、全体の1/3強にあたる5巻が老中に割りあてられていることからして、老中の役割がとりわけ重要視されている。

 そうした老中のなかでも記載量が突出して多いのが、松平信綱・松平定信・松平信明の3人である。「知恵伊豆」松平信綱のみで1巻、松平定信・松平信明の寛政改革コンビ2人で1巻を占める。この3人に多くのスペースが割かれたのは、彼らが高官で個性的な能吏だったこともあろうが、当時から世間の耳目を集めるほど逸話に事欠かず、関連史料が本人や周辺人たちによって多く残された結果だろう。

 たとえば第8巻は、京都所司代の板倉勝重・板倉重宗父子のみで1巻を成している。これはふたりとも名裁判官として高名で、後世まで巷間に人気があったためである。しかしその人気ぶりのため、本人たちのあずかり知らぬ話まで本人たちの事跡として喧伝されたり、反対に彼らの業績が他人(たとえば大岡忠相)の業績にすり返られたりすることにもなった。

 さて、後半部にあたる第8巻から第14巻までには、49職141人が名を連ねる。巻をくだるにしたがい(特に第10巻以降)、登場する役人たちは、われわれ現代人にとっては馴染みが薄い無名の人びとばかりである。

 しかしそこには、自分の職務を誠実に遂行しようとする真摯な姿がある。自分の職務に誇りをもち、時には己の信念を貫き通そうする剛直な姿は、ある意味爽快でさえある。

 『流芳録』は、そうした中間管理職や無名の小吏たちの知られざる逸話を紹介した後半部こそが興味深い。本ホームページが前半部の有名人でなく、後半部の(しかも10巻以降の)無名の人びとの逸話を取り上げてきた理由でもある。


【注】
 『流芳録』に3回登場する人物のみ書き出しておく。計6人とその職名は次の通り(五十音順)。
   ・板倉重矩(老中、京都所司代、大坂城番)
   ・大岡忠相(寺社奉行、町奉行、山田奉行)
   ・松平信綱(老中、若年寄、小性)
   ・森山孝盛(火附盗賊改加役、目付、小普請組頭)
   ・横田義松(大目付、百人組之頭、火消役)
   ・依田政次(留守居、町奉行、小納戸)
2021年11月2日(火)
『流芳録』(1)-『流芳録』とはどのような史料か-
 コロナ禍の巣ごもり期間中、古文書解読の練習のために、『流芳録(りゅうほうろく)』の翻刻を日課としようと思い立った。「あれやこれや 2021」で紹介してきた江戸時代の役人の逸話は、ほとんどがこの『流芳録』によっている。
 
 『流芳録』は、江戸幕府の「名相(めいしょう。名宰相)・循吏(じゅんり。能吏)」の言行・逸話を、内山温恭(伝不が詳)が広く雑書から抜粋し、役職ごとに分類・紹介した書物である。上は大老・老中・側用人といった重職から、下は先手与力(さきてよりき)・徒(かち)といった小吏(しょうり)に至るまで、幅広い人びとが取り上げられている。

 国立公文書館のホームページによれば、当時どのような人物が「役人の鑑(かがみ)」とされているかを知るためにも、貴重な資料であるとされる。

 引用文献は106種、対象時期は慶長・元和年間(1596~1624)から寛政年間(1789~1801)に至る約200年間、採録された大名と旗本・御家人は185人(延べ人数)にのぼる。

 内山温恭編。天保7(1836)年成立。全15冊(首巻1冊、本編1~14巻の14冊)。昌平坂学問所旧蔵。国立公文書館デジタルアーカイブ上で公開されている(請求番号:159ー0004)。
2021年11月1日(月)
部下を推薦する
 安藤伊賀守重元(あんどういがのかみしげもと。1601~1668)が御書院番の頭(かしら)を勤めていた時のことである。

 老中から両番(りょうばん。大番と書院番。または書院番と小性組番)の頭(かしら)たちに対して、「御役入(おやくいり)書出(かきだ)し申」すよう依頼があった。それぞれの配下のなかに有能な者がいれば登用したいので、推薦者名を書き出して提出せよ、というのだ。

 そこで安藤も、推薦者を書いて提出したところ、老中たちからクレームがついた。安藤の推薦した男は、以前に上様から「御勘気(ごかんき。おとがめ)を蒙(こうむ)」た者だった。この者は除くように、との指示だった。

 安藤は反論した。


「尤
(もっとも)、最前ハ御勘気(ごかんき)を蒙(こうむ)り候得共(そうらえども)、只今(ただいま)ハ御赦免(ごしゃめん。罪を許されること)に候(そうろう)。其上(そのうえ)、最前の行跡(ぎょうせき。行状、素行)相改申候(あいあらためもうしそうろう)。私支配の内にて、此者(このもの)器量の仁(きりょうのじん。才能・力量にすぐれた人物)に候(そうろう)。此外(このほか)の者、無之候(これなくそうろう)。」

(たしかに以前、この者はお咎めを受けました。しかし、現在はご赦免の身になった上、以前の(悪い)素行も改まっております。私の配下で、この者ほどの優秀な人材はおりません。)


 しかし、老中たちは安藤の言葉に耳を貸さず、


「達
(たっ)て差除申(さしのぞきもう)すべき。」

(強いて、その者は推薦から除くように。)



と申し渡した。これに対して安藤は一歩も引かなかった。


「惣(そうじ)て人と申(もう)すものハ、始終(しじゅう。最初から最後まで、いつも)(まった)く宜敷(よろしき)は稀(まれなる事に候(そうろう)。各様(おのおのさま)も只今(ただいま)こそ加様(かよう)に結構(けっこう)なる御役儀(おやくぎ)をも勤(つとめ)なされ候(そうら)へども、御若年(ごじゃくねん)の時分の事ども思召出(おぼしめしいだ)され候(そうら)ハバ、惣身(そうみ)に汗を御かきなされ候程(そうろうほど)の事、いくらもこれあるべくと存候(ぞんじそうろう)。」

(そもそも人というものは、始めから終わりまで聖人君子のような者はめったにおりません。皆様方も、今でこそ御老中というたいそうなお役目を勤められておられますが、ご自身のお若い時分のことを思い出してみられよ。全身に冷や汗をかくほどの失敗や失態など、いくらでもあったのではございませぬか。)


 
若気(わかげ)の至りで過(あやま)ちを犯すことなど、誰にでもあろう。しかし、その過去をいつまでも引きずって、有能な人材に活躍のチャンスを与えないのはいかがなものか。安藤は剛直にそう主張したのである。

 その後、安藤が推薦した部下に、役職就任の命が下った。有能だった部下は職務に精励し、次第に立身出世していったという
(1)

 有能な人材は人材派遣会社にばかりいて、身近にはいないと思いがちだ(テレビの人材派遣会社のCMでは、そのような演出をしている)。しかし実際は「灯台もと暗し」である場合が多い。

 部下の能力を正しく評価できる伯楽(はくらく)と、そうした人材に適材適所の活躍の場を与えることができる組織が、そもそも少ないのだ。


【注】
(1)
以上、内山温恭編『流芳録』巻之十、「御書院番頭 安藤伊賀守重元」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004による。
 なお、安藤重元の小伝は『断家譜巻』(『断家譜・第2巻』1968年(再版)、八木書店、P.311)にある。
2021年10月29日(金)
上司としての水野山城守
 肥前平戸藩主だった松浦静山(まつらせいざん。1760~1841)の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に、水野忠英(みずのただふさ。1699~1758)の名前が出てくる。

 静山が生まれる以前に水野はすでに亡くなっているから、ふたりの間に面識はない。しかも晩年の静山が『甲子夜話』を書く頃には、水野の死から数十年が経っていた。

しかし、静山は次のように書く。


「享保中
(1716~1736)、番頭(ばんがしら)(つとめ)し水野山城守、初めは十兵衛と呼びしが、今に人口に膾炙(かいしゃ)する一代の偉人なり。」


 よほど水野の個性が強烈だったのだろう。死後半世紀以上経っているのに「いまだに人々の話題にのぼる一代の大人物である」というのだ。

 上記の文章に続けて、静山は二つのエピソードを紹介している。『流芳録』から、全文を紹介しよう。


「若き時、いまだ寄合
(よりあい。大身の旗本で非役の者)にて在(あり)し頃、徒士(かち)なども大男を撰(えら)び召連(めしつれ)て道の真中(まんなか)を通(とおり)けるに小身の御旗本衆、侍に草履取(ぞうりとり。草履持ちの下僕)(ばかり)の行粧(よそおい)にて来(きた)りしが、是(これ)も同じく道の真中を通りて避(さけ)ず。既(すで)に口論に及(およば)んとせしがとかくして済(すみ)ぬ。

 後に城州
(じょうしゅう。水野山城守忠英)、両番頭(りょうばんのかしら。大番と書院番、または書院番と小性組番の頭)となりし時、その人、組の番士(ばんし)たりしが、勇気ありとて城州目を掛(かけ)しとなり。」


 水野が若い時、いまだ寄合にいた頃の話である。供回りの徒士などにも大男を選んで引き従え、道の真中(まんなか)を闊歩していたところ、侍に草履取(ぞうりとり。草履持ちの下僕)くらいを連れた小身の旗本と出くわした。この旗本も、水野たちと同じく道の真中をやってきて、お互いに道を譲らない。一触即発の状態になりかかったが、その場は何とか無事に収まった。

 のちに水野が両番の頭となった時、かつて道で出くわしたあの旗本が自分の部下となった。「(水野を恐れなかった)勇気ある男だ」と言って、水野はその部下に目を掛けたという。



「又、組より進物番
(しんもつばん。大名・旗本等からの進物、将軍の下賜等を司る役)へ出役(しゅつやく。役目として出張すること)せしもの、何(いずれ)の時にや、席の畳目(たたみめ。身分により座る畳の場所、同じ畳でも座る位置が異なる)を違(ちがえ)し事ありて、とやかく六ヶ敷(むつかし)かりしを、城州一向に聞入(ききいれ)ず、

「我等
(われら。自分、私)見て居候(おりそうろう)が、畳目は違(ちがい)(もうさ)ず。」

と云張
(いいはり)て、その者の不調法(ぶちょうほう)にせず。

 扨
(さて)その後、その者を呼(よび)

「頃日
(けいじつ。先日)の事ハいかにも畳目違(ちがい)たり。然(しかれ)ども、武士を畳目の違たるなどといふ事にて恥(はじ)かかする事やあるべきと、我等御役(おやく)に替(かえ)て云張(いいはり)たり。併(しかし)、もし事に臨(のぞみ)たる時、一足も引(ひか)ば、それは許しハいたさぬ」

とぞ戒
(いまめ)しとなり。」


 
また、水野の組から進物番へ出向した部下がいた。いずれの時だったか、その者が席の畳目を間違えた。とかく面倒な苦情を水野は頑として聞き入れず、

「私は見ておりましたが、畳目は間違ってはいませんでした。」

と言い張って、部下の失敗とはしなかった。

 あとでその者を呼び出すと、次のように戒めたという。

「先日のことは、まさしく畳目が違っていた。しかし、畳目の違いなどというつまらぬ事で、武士に恥をかかせるべきではない。それで、俺は自分の役職にかえてお前をかばったのだ。

 しかし、もし大事に臨んだ時に一歩でも引くようなことがあれば、その時は許さんぞ。」
(1)


【注】
(1)
以上、内山温恭編『流芳録』巻之十、「御小性組番頭 水野山城守忠英」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004による。
2021年10月28日(木)
「鬼」の水野山城守(3)
 水野忠英(みずのただふさ)が大坂在番中に大病となった。そこで、息子の正勝(まさかつ)が父の看病のため、江戸から大坂に赴くと手紙で知らせてきた。

 忠英は激怒した。正勝あての返書には次のようにあった。


 年寄りが死ぬのは当たり前である。特に仕事先で死ぬのは、戦場での討ち死と同じで、わが本望である。しかるに、おまえは大切なご奉公(正勝は当時、将軍世子の御小性をつとめていた)を放り出し、父親の看病などのためにはるばる大坂に来ようというのか。もし、父の言葉にさからい、大坂に来るようなことがあれば、勘当(かんどう。親子の縁を切ること)を申しつける。


 正勝は是非なく大坂行きをとりやめた。

 忠英は養生の甲斐なく、大坂にて死去した。60歳だった
(1)


【注】
(1)
以上、内山温恭編『流芳録』巻之十、「大御番 水野山城守忠英」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004による。
2021年10月27日(水)
「鬼」の水野山城守(2)
 若いときの水野は、有名な男立ての人だった。しかし、そうした荒々しい性格も、歳を取るにしたがって次第に穏便になっていったという。

 ただ、心の底に眠っていた「鬼」の気性は、ふとした拍子に目を覚ますことがある。たとえば、次のようなエピソードがある
(1)

 水野が大番頭に登用された年の11月末、水野配下の同心が、尾張藩の小荷駄運びの者に殺されるという事件が起きた。

 同心は所用に行く途中、たまたま尾張藩の小荷駄の者たちと遭遇した。すると、尾張藩御用荷物に触ったと因縁をつけられ、路上に引き倒された。その上で、8人の小荷駄運びの者たちによってなぶり殺しにされたのである。

 御三家尾張藩の威光を借りた殺人だった。

 事情を聞いた水野は激怒した。ただちに尾張藩邸に乗り込み、「狼藉者(ろうぜきもの)8人の首を刎(は)ね、それを見ないうちは藩邸を退出せぬ」と主張した。

 これに対し尾州侯は、「首謀者ひとりだけは打ち首にしよう。しかし、8人の者すべてを処刑するわけにはいかない」と拒絶した。しかし水野は、次のような不退転の決意を示して、御三家筆頭たる尾州侯の言葉をはねつけたのである。


「軽きものにても天下の直参
(じきさん。将軍の直臣)なりけるを殺す程(ほど)の無礼もの。殊(こと)に八人にて打殺(うちころ)し候(そうろう)上ハ、是非(ぜひ)八人共に首刎(はね)らるべし。

 若
(もし)、右の奴原(やつばら。者たち)御囲(おかこ)ひなされ候(そうら)ハバ、彼(かの)組子(くみこ。殺された同心)の為(ため)に此(この)御館(おやかた)を借用(しゃくよう)(つかまつり)、山城守切腹仕(つかまつ)るべく哉(や)。但(ただ)し、今日中に八人、首を刎(はね)られて御見(おみ)せなさるべきや。」

(同心は身分が軽い御家人とはいえ、天下の直参である。それを殺害するほどの無礼者。しかも8人がかりで殺害したのであるから、8人ともに首を刎ねてしかるべきである。もし、右の者どもをかばうのであれば、殺された部下のため、このお屋敷のこの場を借りて私めが切腹いたしましょうや。それとも、今日中に8人の狼藉者の首を刎ねて、お見せ下さいますでしょうか。)


 「鬼」の剣幕に気圧(けお)された尾州侯は、やむなく8人全員を処刑して事をおさめたのである。

 水野には、こうした「鬼」の気性が内在していた。しかしながら、このような水野であったからこそ、部下も水野に絶対の信頼をおいたのである。


【注】
(1)
以下、内山温恭編『流芳録』巻之十、「大御番 水野山城守忠英」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004による。
2021年10月26日(火)
「鬼」の水野山城守(1)
 宝暦4(1756)年5月1日、水野山城守忠英(みずのやましろのかみただふさ。1699~1758)は、御書院番頭(ごしょいんばんがしら)から大番頭(おおばんがしら)に抜擢(ばってき)された。

 将軍家重から上意を賜った時、水野は感激の余り、平伏したまましばらく頭をあげることができなかった。水野が御次の間(おつぎのま。貴人の居室のつぎの間)に退出したあと、畳の上を見ると落涙の痕(あと)が残っていた。

 それを見た家重は、水野がいた席を指さし、小姓たちに次のように言ったという。


「見よ。鬼の涙はこれぞ。」
(1)


 将軍からも「鬼」と評された水野山城守とは、いったいどのような人物だったのか。


 『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』
(2)によれば、水野忠英(ただふさ)は初め忠賢(ただかた)と称し、造酒之助(みきのすけ)、十兵衛などともいった。水野隼人正忠直(みずのはやとのしょうただなお)の六男だったが、兄忠富(ただとみ)の養子となって正徳3(1713)年家督を継いだという。

 その後、延享2(1745)年5月に御持弓(おんもちゆみ)の頭(かしら)となり、同年10月には布衣(ほい、ほうい。6位相当の格式の者が儀式に着用する無文の狩衣(かりぎぬ))の着用を許可され、同年閏(うるう)12月に百人組の頭に転じた。延享4(1747)年7月、小性組番頭にすすみ、同年12月には従五位下山城守に叙爵。寛延2(1749)年7月に御書院番頭に転じ、宝暦4(1754)年5月、大番頭となった。そして2年後の宝暦6(1756)年6月10日、大坂城守衛中に病没したという。

 一貫して、番方(軍事・警衛)を進んだ武勇の人だった。


 江戸時代の随筆『翁草(おきなぐさ)』には、水野の性格を窺い知る記述がある(旧字体は新字体に改めるなど、一部表記を読みやすくした)。


「水野山城守
(割注「采邑(さいゆう。知行高)六千石」)は、始(はじめ)十兵衛と号し、若き時はばさらを好み、角力取(すもうとり)を抱(かかえ)て徒士(かち)とし、奴僕(ぬぼく)(まで)も究竟(くっきょう。屈強)の壮者(そうしゃ)を揃(そろ)へて、供立(ともだて)(さわやか)に振立(ふりたて)させ、仮初(かりそめ)の事にも肱(ひじ)を張り、我心(わがこころ)に応ぜぬ事は、上に対しても無憚所(はばかるところなく)放言し、無隠(かくれなき)男伊達(おとこだて)の名を取りし人なりし。」(3)


 若いときの水野は、派手好みの破天荒な人だった。相撲取りを従者とし、下々の召使いに至るまで屈強な男どもをそろえ、それらの供回りの者たちを引き連れては颯爽(さっそう)と天下の大道を闊歩していたのである。また今風に言えば「とんがった性格」で、自分の意に沿わないことがあれば、上の者に対してもずけずけと放言するような、誰知らない者がいない「男伊達(おとこだて)」の人であった。


【注】
(1)以上、原典は松浦静山の『甲子夜話』による。内山温恭編『流芳録』巻之十、「大御番 水野山城守忠英」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
(2)『寛政重脩諸家譜・第2輯』1923年、國民圖書、P.905~906。国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:63-238による。
(3)神沢貞幹編他『翁草:校訂.5』1905~1906年、五車楼書店、P.2~3。国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:187-380
2021年10月25日(月)
66文字
 江戸時代、将軍が代替わりするごとに、諸大名は新将軍に忠誠を誓う誓詞(せいし)を幕府に提出することになっていた。これを「代替誓詞(だいがわりせいし)」といった。

 代替誓詞は、本紙と神文から成っていた。

 本紙は、起請文(きしょうもん)前書きの部分であり、誓約する内容を三カ条列挙したもの。神文は、誓約に違反した場合には神罰・仏罰を蒙(こうむ)ると宣言したものである。

 料紙は、本紙と神文に別々の紙を使用した。

 本紙には、奉書紙(ほうしょがみ)など厚手の高級な白紙が用いられた。

 神文には、寺社が発行する霊紙が用いられた。よく用いられたのは 、熊野三社で発行された牛玉宝印(ごおうほういん)の紙背(しはい。紙の裏面)である。牛玉宝印の表面には、熊野の神の使わしめと考えられた多数の烏と宝珠(ほうじゅ)が木版印刷されてあった(烏点宝珠(うてんほうじゅ))。

 代替誓詞の本紙と神文は、糊で貼り継いで1枚にした。

 この時、本紙の表の左端に糊を塗り、これに神文の右端の裏を重ねて貼り合わせた。これは、通常の料紙の貼り継ぎ方とは逆である。 神文を上に貼ることで神仏に敬意を表したのである。これを起請文継ぎといった。

 ところで、本紙は行書(ぎょうしょ)で、神文は楷真字(かいまなじ。楷書の漢字)で書くのが作法だった。このうち神文の文字数を数えてみると、不思議なことを、どの神文も文字数は66文字(ないしは66文字前後)になっている。

 代替誓詞には「書札礼」(しょさつれい。決められた書式)があり、神文は66文字で書く決まりになっていたからである。この数字は日本全土66カ国を表しており、「日本国中六十六カ国の神祇(じんぎ。神々)を勧請(かんじょう)する意」があるからという。

 66文字の制限字数にぴったり収まるように書かなければならないため、神様・仏様のどれを入れてどれを削ろうか、昔の人も頭を悩ませたに違いない。


【参考】
・日本歴史学会編『概説古文書学 近世編』1989年、吉川弘文館、P.35~P.39
2021年10月22日(金)
算用を学ばせる(2)
 北条氏綱のエピソードを紹介した医者の香月牛山(かつきぎゅうざん。1656~1740)は、算用学習の重要性を次のように説いている。


「天文地理の学問をなし、千歳(せんざい。千年、長期間)の日至(にっし。冬至・夏至)・日月の蝕(しょく。日食・月食)などと云(いう)事もミな算用を以(もっ)てしる事なり。士農工商(しのうこうしょう)(とも)に算用をしらずして何事か成就(じょうじゅ)すべき。」

(算用は天文・地理の学問の基礎であり、長期間に及ぶ夏至・冬至・日食・月食なども、すべて算用によってわかることなのだ。ゆえに、身分・職業にかかわらずだれであっても、算用を知らないでは何事も成就することはできない。)


 
そうは言うものの、いまだ「貴穀賤金(きこくせんきん。穀物を尊び、金銭を卑しむ)」道徳に侵されていた江戸時代前期のことだ。算用の重要性を頭では理解していたものの、


「いとけなき子の十露盤
(そろばん)はやく人の前にて算用、金銀利徳(利得)、売買の事をいふハ見苦しい事なり。」


と、幼少の子が人前でおおっぴらに金銭・金利の計算などすることには抵抗があった。そこで香月は


「算用の事などハ人前
(ひとまえ)に押(おし)出して習ふ事にしもあらず。 ( 中略 )
一切(いっさい)の藝能(げいのう)は、しりてしらぬ(知っていながら知らないふりをする)といふ事あり。その藝をかくして、入用(必要)の時取出(とりだ)すべきなり。」


と言って、お茶を濁している。

 その点、今の時代は幸せだ。世間に気遣いすることなく、プログラミングだろうが水泳だろうが、子どもの好きなことを何でも習わせることができる。

 ただ、習いごとの選択肢が多すぎて、かえって子どもの負担が大きくなってしまいがち。現代は現代で、別の心配が出てきている。



【参考】
・香月牛山著『小児必用養育草(しょうにひつようやしないぐさ)』正徳4(1714)刊、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:195-0153
2021年10月21日(木)
算用を学ばせる(1)
 小田原城を拠点とした戦国武将、北条氏綱(うじつな。1487~1541)が、息子氏康(ほうじょううじやす。1515~1571)の教育について、老功の臣たちを集めて相談したことがあった。


「氏康、已
(すで)に十歳におよぶ。何事(なにごと)の藝(げい)をかならわしめん。」

(氏康も10歳になったので、何を習わせるのがよかろうか。)



 これに対し、大道寺(だいどうじ)という老臣が次のように提案した。


「算用
(算数、数学)をまずおならわせあるべし。」

(第一には算用を習わせるべきです。)



 これを聞いた近習(きんじゅう)の若侍(わかざむらい)たちは、笑い出した。算用などというのは賤しい商売人が学ぶべきもの。武士たる者が学ぶべきものではない、との思いこみからだった。


 しかし、氏綱は次のように言って、近習たちの無礼を叱ったのである。


「何を笑ふぞ。大道寺が云(いう)(ところ)、尤(もっとも)至極(しごく)なり。兵書に、兵を出すには日に千金を費すと説き、又兵食の多寡(たか。多いと少ないと)を算(さん。計算)すと見えたれば、人に将(しょう。大将)たらん者は算用をしらずしてハ、軍旅(ぐんりょ。行軍)の事調(ととのい)がたかるべし。大道寺、此(この)(こと)をよく勘弁(かんべん。考慮する)して申(もうし)たるなり。吻黄(くちさきのき。くちばしが黄色い、ヒヨコ)なる者のしる事にあらず。」

(何を笑うか。大道寺が言うことは、たいへん的を射たものだ。兵書に「出兵するには一日千金の費用がかかる」とあり、また「軍糧の量を計算する」とあれば、人の上に立つ大将たる者が算用を知らないでは、行軍の準備を整えることはできない。大道寺は、このことをよく熟慮して提案したのだ。くちばしの黄色い未熟者の知るところではない。)


【参考】
・香月牛山著『小児必用養育草(しょうにひつようやしないぐさ)』正徳4(1714)刊、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:195-0153
2021年10月20日(水)
男立て(2)
 旗本の岡部丹波守与賢(おかべたんばのかみともかた)は「双(なら)びなき男立(おとこだて)」で知られた。近世武家の逸話集『武家秘笈(ぶけひきゅう)』は、岡部主従の「男立て」のありさまを次のように紹介している(1)


「岡部左衛門佐盛明(さえもんのすけもりあき)の次男を丹波守与賢と申(もうし)ける(2)。甚(はなは)だ心剛にして、假(かり)にも軽薄に似たる事にてを云(いわ)ず。双(なら)びなき男立(おとこだて)なりけり。付随(つきしたが)ふ近士(きんし。主人に側に従う武士)に白髪素兵衛(しらがもとべえ)、土鞘茂介(つちざやもすけ)、死人藤左衛門(しびととうざえもん)などと云(いい)て、劣(おと)らぬ者共(ものども)なり。

 白髪素兵衛は三十才計
(ばかり)より髪の先に少し白髪(しらが)の生(はえ)たりけれバ、似合(にあわ)ぬ白髪の生(はえ)ぬるとての仇名(あだな)なり。

 茂介ハ就中
(なかんずく。特に)のいたづら者にて、大小の鞘(さや)に白土をぬり入(いれ)さめ鞘(鮫皮で装飾した鞘)のごとく拵(こしら)へさしつつ人込(ひとごみ。人混み)の場所に至りてもみ合い、人の鞘にすり當様(あたるよう)さしつる故(ゆえ)の仇名也(なり)

 藤左衛門は刀・脇指
(わきざし)をためす(試し斬りにする)とて、先年寺地の跡(あと)(あり)けるが、屋敷主(やしきぬし)なくて野のごとく荒果(あれはて)たるに行(いき)つつ、方々(ほうぼう)を掘(ほり)て死人を掘出して其刀(そのかたな)を以(もっ)てためしける故の仇名と也。 ( 中略 )

 かかる曲者共
(くせものども)を召仕(めしつか)ひ、主従して男達(おとこだて)をしてあるかれけれバ、人皆仇名を付(つけ)て、山の手奴(やまのてやっこ)とぞ申(もうし)ける。其頃(そのころ)与賢、山の手の屋敷に住居せられける故也(3)。」


 
こうした与賢の余りに「男立て」に過ぎたふるまいに、眉(まゆ)を顰(ひそ)める人びともいた。しかし、その剛勇に恐れて、口に出して批判することはなかった。また、与賢の叔母(おば)が将軍家の養女だったため、批判を憚(はば)かったのだともいう。

 叔母の権威を笠に着ての「男立て」だと他人に思われるのは本望ではない。これでは遠慮して、言いたいことも言えなくなってしまう。



「物毎
(ものごと)に付(つき)て遠慮がちにて云(いう)べき事も多くは控(ひか)へ、女子(おなご)のくさりたる様(よう)にて打過(うちすぐ)る事の無下(むげ)に悔(くや)しき」


 
そう嘆きながらも与賢は、相変わらず、誰彼かまわずにずけずけと言いたいことを言うのであった。

 与賢の男立ては、将軍の耳にまで達した。しかし与賢は、「勤仕(ごんし)の事、一生丹誠(たんせい)を抽(ぬき)んでられし人」だった。そこで「勧(すす)めて隠居(いんきょ)仰付(おおせつけ)られ」て嗣子(しし)に家督(かとく)を継承させることにした。その上で、与賢には千石もの隠居料を支給したという。

 
【注】
(1)『武家秘笈』巻之十、「岡部与賢剛強付近士類ひを集る事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:211-0284による。
(2)誤り。与賢の父は岡部内膳正長盛である(母は松平因幡守康元の女)。岡部左衛門佐盛明は与賢の孫(『寛政重修諸家譜』873巻、国会図書館、請求番号:828-1」による)。
(3)江戸時代、山の手は大名・旗本の屋敷地だったので、旗本奴をこのようにも称した(また、赤坂奴とも)。現東京都港区六本木には岡部丹波守与賢の組屋敷があり、丹波谷坂(たんばだにざか)の地名が残る。
2021年10月19日(火)
男立て(1)
 「おとこだて」は、男立て・男伊達・男達・侠などと書く。

 損得勘定など度外視して、弱きを助け強きを挫(くじ)くふるまいをいう。男立てとは、こうした粋(いき)で男気にあふれた気質や心意気をあらわした言葉のはずだった。しかし、これがかぶき者や遊び人らアウトローの美意識としてもてはやされるようになると、話は変わってくる。

 月代(さかやき)を剃(そ)らずに髪を長く伸ばした立て髪にし、大髭(おおひげ)をたくわえ、白衣(びゃくえ。白小袖に袴など着けた下着姿)に白い長鞘(ながざや)の刀を帯びるなどした異形(いぎょう)のやからが、徒党を組んで江戸の市中を闊歩(かっぽ)した。そして、男立てと称して、相手かまわず喧嘩をふっかけ、博打(ばくち)などの違法行為を繰り返したのである。

 徒党を組んだのは、旗本や町人が多かった。旗本は中下層の者が大半だったが、なかには上層旗本や大名が含まれていることもあった。

 おもに旗本の無頼の徒がつくったグループを「旗本奴(はたもとやっこ)」といった。白柄組(しらつかぐみ)・大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)・鶺鴒組(せきれいぐみ)などと名乗り、大きなグループが6組あったので「六方(ろっぽう)」とも称した。

 これに対し、町人の無頼の徒がつくったグループを「町奴(まちやっこ)」といった。

 面子(めんつ)や意地の張り合いから、旗本奴と町奴との間に抗争が起こり、大きな事件に発展した例がある。

 1664(寛文4)年には、旗本奴のひとつ大小神祇組の首領水野十郎左衛門成之(みずのじゅうろうざえもんなりゆき。?~1664)が、町奴の頭目幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ。?~?)を謀殺(ぼうさつ)し、幕府が水野を切腹させるという事件が起こっている。この事件は歌舞伎の演目として脚色・上演されることによって、人口に膾炙(かいしゃ)されることとなった。

 直参(じきさん)旗本たちの「男立て」を標榜(ひょうぼう)した無軌道ぶりは、幕府にとっては頭痛の種だった。そこで幕府は、無頼の徒をたびたび取締った。その結果、17世紀後半には旗本奴・町奴ともに消滅することになったのである。

 時代は、武断政治から文治政治への転換期にあたっていた。
2021年10月17日(日)
「情張り殿」岡部与賢(5)
 岡部与賢(おかべともかた)には変わった特技があった。

 樫(かし)の木で作った孫の手を尻にはさんで、それを人に引っ張らせた。ところが、どうやっても引き抜くことができない。15、6歳ばかりの小性3、4人がかりで引っぱっても、とうとう孫の手を引き離すことはできなかったという。

 異常なくらい、尻の力が強かったのだ。だから、与賢は笑いながら、次のような冗談を言っていたという。


「我
(わ)れ、尻の力ほど腕(うで)に力の有(あり)なバ一簾(本のまま。「一廉(ひとかど)」の誤り)の男なるべきが、不入処(いらざるところ)に力を持(もち)たる事かな。母の生(う)ミ付ケやうのわるさよ。尻力に於(おい)てハ古(いにし)への朝比奈(1)・弁慶(2)と云(いう)とも又憚(はばか)る所あらじ。あハれ、其時(そのとき)に生(うま)れ合(あい)たりせバ、油断を見すまし尻にて首の廻(まわ)りをはさみ、彼等(かれら)にこまらせんするものを。」(3)

(俺に、尻の力ほどの腕力があれば、ひとかどの男になれただろうに、余計なところに力を持ったことよ。母親の産みつけようが悪かったのだ。しかし尻力においては、昔の朝比奈義秀・武蔵房弁慶といった剛の者が相手でも、気後(きおくれ)れすることはあるまい。ああ、もしその時分に生まれていたなら、油断を見すまして首のまわりを尻ではさみ、奴らを困らせてやろうものを。)



【注】
(1)朝比奈は、鎌倉前期の武士朝比奈義秀(和田義秀とも。?~?)のこと。安房国(あわのくに)朝夷郡(あさひなぐん。現、千葉県鴨川市・安房郡。近世以降は「あさいぐん」と訓じた)を本拠にしたので朝比奈三郎と称した。勇猛な武人としてして知られ、曲亭馬琴の読本『朝夷巡島記(あさひなしまめぐりのき)』や鬼狂言『朝比奈(あさひな)』など、数々の小説や戯曲などの主人公とされた。
(2)弁慶は、義経の郎従武蔵房弁慶(?~1189)のこと。『吾妻鏡』にその名が見えるので、実在の人物とされる。しかし『平家物語』や『義経記』などで著しく虚構化されているため、実像は不明。鬼神のごとき怪力の持ち主だったとされる。
(3)『武家秘笈』巻之十、「与賢有尻力事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:211-0284による。
2021年10月16日(土)
「情張り殿」岡部与賢(4)
 岡部与賢(おかべともかた)の第一の家臣に栢山甚右衛門(かやまじんえもん)という者がいた。忠義の武士で、ことあるごとに与賢を諫(いさ)めた。与賢は甚右衛門の諌言(かんげん)をうるさく思いながらも、しぶしぶ従うこと度々だった。

 しかし、「情張り殿」の与賢のことである。甚右衛門の諌言をまったく容れず、心のままに行動することも多かった。そんな時は、甚右衛門は色を正して退出し、自宅に引きこもって出仕しなかった。

 与賢は人を遣わして甚右衛門宅を訪問させた。甚右衛門は言った。


「諌
(かん)(おこなわ)れず。然(しか)るときの我が職、いたづらなり。出仕して何の益なし。」

(諌言が聞き入れられないのだから、私の役割は無駄である。出勤しても何の意味もない。)


 「情張り殿」の与賢もさすがに困り果て、次のように伝言させた。


「重
(かさね)てハ諌(かん)を用(もち)ゆべき間(あいだ)、出仕してくれ候(そうら)へ。」

(再び諌言を聞きいれるので、出仕してくれ。)


 そうすると甚右衛門は、


「又(また)(お)だましにても候(そうろう)らん。」(また、私をおだましになるのだろう。)


と言いながら再び出仕するのである。


 与賢は忠臣を大事にした。

 「情張り殿」のあの与賢が、忠臣には頭を下げるというその弱点を、当時の人々は「鬼の眼に泪(なみだ)なり」と評したという。



【参考】
・『武家秘笈』巻之十、「栢山甚右衛門事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:211-0284
2021年10月15日(金)
「情張り殿」岡部与賢(3)
 ある人が大番頭(おおばんがしら)の岡部与賢(おかべともかた)に「大番頭はまことに結構なお役ですが、なおも御留守居役(おるすいやく)などへの昇進もあるでしょう」と言うと、与賢は色を正して次のように言った。


「某
(それがし)不敏(ふびん。才知才能に乏しいこと、自分を謙遜していう)の処(ところ)、當(とう)御役(おやく)を給(たま)ハり、誠に身に過(すぎ)たる大職、本懐の至(いたり)なり。此上(このうえ)登庸(とうよう)の慮(おもんぱか)り曽(かつ)て無之候(これなくそうろう)。但し、もし御留守など仰付(おおせつけ)られたらんには中々(なかなか)(いき)てハ罷在(まかりある)まじ。腰抜役(こしぬけやく)何にかせん。主君に左様なる役に見立(みたて)られては生(いき)たる甲斐(かい)はあらじ。」

(私めは不才の身で大番頭(おおばんがしら)のお役を給りました。身に余る大職であり、本望の至りです。この上の出世など毛頭考えたことなどありません。ただし、万が一にでも御留守居役などに任じられたなら、かえって私めは生きてはおりませんでしょう。御留守居役などは腰抜けがする仕事です。主君に、そんな腰抜け役をあてがわれては、生きる甲斐がありません。)


 武士ならば番方(ばんかた。軍事職)に任命されることこそ本望。役方(やくかた。行政職)は腰抜けが就(つ)く仕事。出世であっても、役方をあてがわれるなら死んだ方がましだ、と言い放ったのだ。

 与賢は大番頭の仕事に精勤し、理非の決断も明らかだった。仕事に関しては有能だったのである。ゆえに、将軍家でも、ゆくゆくは与賢を大名に取り立てて、重職をまかせようと考えていた。

 しかし、あまりにも男気(おとこぎ)に過ぎる与賢の情張りぶりがわざわいした。そのため、与賢はついに4,000石の小身のままで終わったのである。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、「大御番 岡部丹波守與賢」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年10月14日(木)
「情張り殿」岡部与賢(2)
 岡部与賢(おかべともかた)が大坂在番(おおさかざいばん。大坂城の警衛)の任にあったときのこと。大坂城代(おおさかじょうだい)青山因幡守宗俊(あおやまいなばのかみむねとし。1604~1679)に大坂定番(おおさかじょうばん)の面々や大番頭(おおばんがしら)らが同道して、大坂城内を見回ったことがあった。

 青山は、こと細かにじっくりと見分(けんぶん)する上、いろいろと話などもする。こうした様子がさもてれてれしているように感じられたのだろう、最初は欠伸(あくび)ばかりしていた与賢だったが、そのうち退屈すぎて、青山に向かって意見をし始めたのである。


「是
(これ)、因幡守殿(いなばのかみどの)! 見分(けんぶん)し給(たま)ハバ先(まず)(と)くと御仕廻(おしまい)、隙(すき)になりて緩々(ゆるゆる)と他の物語し給(たま)へ。我々ハ御城内(ごじょうない)見分とあるゆへ、御同道中(ごどうどうちゅう)なり。貴所(きしょ。あなた、貴殿)の咄(はなし)(きく)には参(まい)らず。馬さへ以(もっ)て足の遅きは役に立(たた)ずまじとや。人のふらふらと埒明(らちあか)ぬは散々(さんざん)の事、人々いやがり申候(もうしそうろう)。皆々(みなみな)ハ存(ぞん)ぜず、某(それがし)などは先刻(せんこく)より殊(こと)の外(ほか)あき果(はて)申候(もうしそうろう)。」

(もし、因幡守殿! 見分するならさっさと済まして、暇になってからゆっくりほかのお話をなされよ。我々は御城内見分というので同道しているのであって、貴殿の話を聞くために参ったのではない。馬さえのろいのは役立たずという。ましてや人がふらふらとしていて決まりがつかないのは見苦しく、人々が嫌うところ。ほかの方々はいざ知らず、自分などはとっくに飽きてしまい申した。)


 与賢のこんな無礼な物言いは珍しいことではない。しかし、相手はよりにもよって大坂城代である。


「御城内悉
(ことごと)く其(その)支配たる間(あいだ)、在番の諸侍(しょざむらい)、是(これ)に背(そむ)く事能(あた)ハず、専(もっぱら)服従せるなり。」

(大坂城内はすべて大坂城代の管轄なので、大坂在番の諸侍は城代に背くことはできず、絶対服従である。)


という上役なのである。同僚たちは、青山の顔色をうかがって、手に汗を握った。

 しかし、青山の方でも与賢の気質を聞き及んでいたのであろう。にこやかに笑って「まことに役にも立たぬ話をして、叱られてしまったことだ」と言うと、さっさと見分を済ませると帰って行ったのである。


 またある時、与賢と青山が途上、たまたま出くわしたことがあった。与賢がかぶっていた頭巾(ずきん)を取ろうとしたので、青山は「そのままにて」と言って制止した。挨拶するのに、わざわざ頭巾を取るには及ばないと。しかし、与賢は次のように返したのである。


「いや、貴所
の礼にはあらず。暑くなり候(そうろう)ゆへ、はづし申(もうし)たり。」

(いや、貴殿への挨拶のために脱ぐのではない。暑くなったから、脱いだのだ。)


 人々は、


「とかくに、こじたる返答をする人かな。」
(与賢は、何かにつけてひねくれた返答をする人よ。)


と言って、与賢の相変わらずの情張り(強情)ぶりを笑ったという。
 
 
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、「大御番 岡部丹波守與賢」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年10月13日(水)
「情張り殿」岡部与賢(1)
 旗本の岡部与賢(おかべともかた。1605~1686)は、強気を挫(くじ)き弱気を助ける男気(おとこぎ)にあふれた人だった。それにもまして人々に知られたのは、偏屈とも思われるほどの強情ぶりだった。

 与賢の強情ぶりは、傍目(はため)には身分をわきまえない不遜な行動と映ったろう。しかし、本人に私意などさらさらなかった。

 京都所司代の板倉周防守重宗(いたくらすおうのかみしげむね。1586~1657)は、与賢を「情張り殿(じょうばりどの)」と呼んでいた。「強情殿」という意味だ。こんなあだ名で呼ばれたら文句の一つも言われずにおれない与賢。しかし、相手が一目置く重宗だったので、さすがの与賢もこの時ばかりは似非(えせ)笑いをしているだけだったという。

 重宗の与賢評。


「此男(このおとこ。岡部与賢)の様(よう)なる我侭(わがまま)のかたぜうばり(片情張り。強情者)こそなけれ。( 中略 ) 御用に立(たつ)べき人なり。」

(この与賢のように、思うがままに強情を張れるような男など見たことがない。与賢は御用に立つ人物だ。)


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、「大御番 岡部丹波守與賢」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年10月12日(火)
「兵部卿(ひょうぶきょう)瑞賢」-河村瑞賢の逸話(4)-
 幕府の御用を勤めた年来の功績が認められて、ついには旗本になった瑞賢。多くの使用人を雇い、大きな屋敷に住んで何不自由ない身となっても、毎朝早起きし、杖をついて外に出ると、杖の先に古草履(ふるぞうり)・古草鞋(ふるわらじ)を引っかけて帰ってくる。何にするのかというと、壁土にまぜるスサに利用するというのだ。何であろうと、むやみに物を捨てて、国の費えになることを嫌う性格だった。

 しかしその一方で、他人から見ると無駄遣いと思われるほど、金を使った。ほかの町人が何かの仕事を請け負ったと聞くと、お祝いだといって酒肴(さけ・さかな)を用意して客に呼び、家内の者たちにまでご馳走を振る舞った。なぜ、大金を出してまで他人の儲け仕事を祝うのか。瑞賢は次のように答えた。

 幕府や諸大名の蔵の中には、埋もれている金がある。世上に出れば、職人や日雇(ひよう。日雇い)などのふところにはいる。世上にある金というのは、こうして回り回って自分のところへもめぐってくるものだ。だから、こうして私が人を祝った金も、酒屋や魚屋などの手に渡る。どうして金を使わないことがあろうか、と。

 金を持っている連中が、金を独り占めにしていては世の中は潤わない。世上に吐き出してこそ積極的に経済活動が行われ、庶民の手元にも金が回ってくる。そう瑞賢は考えたのだ。

 ある時、瑞賢が幕府の役人衆へ、その場の戯れに次のようなことを言った。


「某
(それがし)も段々(だんだん)御普請(ごふしん)御用(ごよう)被仰付(おおせつけられ)、数年相勤候(あいつとめそうろう)御褒美(ごほうび)に、任官(にんかん)被下(くだされ)かし。」

(私めも幕府から数々の土木建築のお仕事を命じられ、長年勤めてまいりましたご褒美に、何か官職を下さいまし。)


 役人たちは笑って、次のように応じた。


「なる程
(ほど)。任官申(もう)すべし。兵部卿(ひょうぶきょう。軍事をつかさどる兵部省の長官)と唱(とな)へ申(もうす)べし。しかし文字(もじ。漢字)にて書事(かくこと)ハ無用たるべし。かなにて書(かく)べし。」

(なるほど、もっともな申し出だ。それでは、任官するとしよう。兵部卿と唱えるがよい。しかし漢字で書くことは無用。かなで書くように。)


 これ以降世間では、瑞賢を「兵部卿瑞賢(ひょうぶきょう・ずいけん)」と呼んだという。

 ところで、「兵部卿」を歴史的仮名遣いで書くと「ひやうふきやう」となる。これは「日雇奉行(ひようぶぎょう)」とも読める。日雇取(ひようとり。日雇い人夫)たちの元締めという意味だ。

 さまざまな土木事業を請け負い、大勢の日雇取に仕事を与え続けた瑞賢にふさわしい「官職」であろう。


【参考】
・小柴研斎写『武林隠見録(写)』安政3年写、巻之拾五「瑞軒大度の器量有事附任官に預る事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027
2021年10月11日(月)
屋根を修理する-河村瑞賢の逸話(3)-
 ある時、増上寺本堂の棟瓦(むねがわら)が数枚破損して落ちたことがあった。

 破損した瓦はわずかで、必要な瓦職人も少人数だった。しかし、本堂の屋根まで足場を組む必要があったので、そのための工事費用が膨大だった。
 
 業者間で競争入札をさせると、河村瑞賢が他の業者の3分の1の費用で落札した。

 折節、春の東風(こち)吹く季節だった。瑞賢は本堂の前で凧(たこ)を揚げさせた。

 凧が本堂の上をまたいだのを確認すると、その凧を本堂の後ろ側へ落とさせた。

 それから、本堂前の凧糸の端に少し太い糸を結びつけさせると、本堂後ろに落ちた凧側の糸を引っ張らせて、その少し太い糸が手元にくるまで続けさせた。こうして少し太い糸が本堂の屋根の上を通ると、さらに太い糸を一方の端に結びつけて引っ張らせた。こうして、同じ作業を何回か繰り返させた。

 最後になると、糸は釣瓶縄(つるべなわ)ほどの太さになった。そこでさらに太い縄を二筋(ふたすじ)結びつけて引っ張らせ、本堂の屋根をまたがせた。縄の両端四カ所は、杭を打ってしっかりとめさせると、これを親梯子(おやばしご)にして縄梯子の足場を次々に作らせ、遂に本堂上まで梯子を作らせてしまった。

 こうして2、3人の職人に瓦を持たせてのぼらせて、屋根の補修を容易に終わらせてしまったという。


【参考】
・小柴研斎写『武林隠見録(写)』安政3年写、巻之拾五「瑞軒所々の普請に掛り頓智働有事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027
2021年10月10日(日)
鐘をつるす-河村瑞賢の逸話(2)-
 河村瑞賢(1618~1699)には、頓知話のような逸話が多く伝わる。

 ある時、増上寺の釣り鐘の鎖が切れて、地面に落ちてしまった。元通りに吊り上げるにはおびただしい人夫が必要な上、あれこれ難しい技術上の問題があった。まずは丈夫な足場を組み、そこに大勢の人夫をのぼらせ、大鐘を引き上げるのだ。多大な費用がかかることが予想された。
 
 仕事は入札にかけられた。すると、瑞賢だけが予算の半分にも満たない値段で落札した。普通なら大損する値段である。「いかなる仕形(しかた)にや(どんな方法で釣り鐘を吊り上げるのだろう)」と、人々は興味津々で瑞賢の仕事を見守った。

 瑞賢は人夫を2、30人ばかり連れてきた。そして、増上寺近辺の米屋から大量に米を買い付けて、鐘楼前まで米俵を運ぶよう指示した。米俵を落ちた鐘の周囲に並べさせると、その上に鐘を引き上げさせた。次に一段目の俵の上に二段目の俵を並べさせ、その上に鐘を引き上げさせた。これを繰り返し、ちょうど鐘を吊っていたところまで到達すると、鎖で鐘の竜頭(りゅうず)を釣って吊り下げたのである。

 作業を終えると、大量に買い付けた米俵を、元値より安く払い下げた。米屋は店舗と増上寺間を米俵を運ぶだけで利潤が出るので、喜んで米を引き取りに来た。

 こうして、丈夫な足場を組むことなく、さほど費用も時間もかけずに、増上寺の釣り鐘は元通りに 吊り下げられたという。


【参考】
・小柴研斎写『武林隠見録(写)』安政3年写、巻之拾五「瑞軒所々の普請に掛り頓智働有事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027
2021年10月9日(土)
ガラガラ-河村瑞賢の逸話(1)-
 東廻り海運・西廻り海運を開いて、近世の海上輸送に多大な貢献をした河村瑞賢(瑞軒とも。1618~1699)。

 彼は、明暦の大火(1657)で商運を開いた。自分自身も焼け出されたが、いまだ火災が鎮まらぬ中、江戸復興による材木需要を見越して、いち早く木曽の山を目指し財を築いたのである。

 しかし当時、手元にあった資金はわずか10両足らず。これでは到底、材木の大量買いつけなどできるものではなかった。

 夜を日についで移動し、木曽の材木問屋に着いた瑞賢。見ると、門前で問屋の子どもが遊んでいる。

 すると何を思ったか瑞賢は、財布から小判を3両取り出すと、小刀で穴をあけ始めた。そして、その穴に紙縒(こより)をさし通すと、その端どうしを結んだ。幼児用玩具のガラガラを作ったのだ。瑞賢はそのガラガラを、気前よく門前の子どもにやってしまった。

 店内にはいった瑞賢は、材木を買い付けるために来たこと、代金はのちほど手代等が持参するはずということ、そしてまずは値段交渉をしたい旨を主人に伝えた。

 主人は、瑞賢が子どもに与えた小判のガラガラに度肝を抜かれていたところだった。この商人は途方もない大金持ちに違いない。そう思いこんだ主人は、瑞賢にありったけの材木を残らず売る約束をしたのである。

 瑞賢のあとから江戸の商人たちが木曽に殺到したが、そこには買うべき材木はすでになかった。材木にはすべて瑞賢の刻印が打ってあったのである。

 彼らは、瑞賢から材木を仕入れるほか手段がなかった。わずか10両足らずの資金しかなかった瑞賢は、こうして材木の転売によって巨利を得、数千両に及ぶ分限者となって江戸に帰っていったのである。


【参考】
・小柴研斎写『武林隠見録(写)』安政3年写、巻之拾五「川村瑞見成立附木曽山へ行材木を買分限ニ成し事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0027
2021年10月7日(木)
祝!ノーベル物理学賞受賞の真鍋淑郎先生は90歳
 肥後の細川忠興(ほそかわただおき。1563~1646)の家臣で、物頭(ものがしら。侍大将)に江田源太兵衛という男がいた。隠居後剃髪して宗心と号した。庭いじりが好きで、83歳の時に柿を実植えにした。幼木から育てるのではなく、柿の種を植えたのである。これを見た従者たちは、宗心の行為を大いに嘲笑した。


「八十に余る御身
(おんみ)にて、いつを期(き)して是(これ)を喰(くわ)んとて、実植(みうえ)にハ仕(つかまつり)(たま)ふらん。桃栗三年柿八年といへば、せめて桃栗にてもある事が、撰(えらみ)に撰(えら)ミて柿の実植(みうえ)は。」

(80歳を越えるご高齢の身で、何年後を目標に柿の実を食べようと考えて、柿の種を植えられるのだろうか。「桃・栗3年、柿8年」というからには、せめて3年で実をつけるという桃や栗を植えればよいものを、選びに選んで柿を実植えにするとは。)


 老い先短い身で、いつ生涯を終えるかも知れない。それなのに、結実するまで長期間を要する柿の実を植えるなど、ばかな主人だというわけだ。

 しかし、ただ一人上田藤八郎という若党だけが、宗心の柿の実植えをねんごろに手伝った。

 宗心が94歳の時、柿が実を結んだ。宗心は生まれつき体が頑健で、長命だったのだ。

 柿を収穫した宗心は、自分を嘲笑した従者たちの過去の失言を叱った。
もしかすると、主人は長生きして柿の実を食べられるかも知れない。そうしたことを察することもできず、「猥(みだ)りに発言をなす」のは「士たる者の道に非(あら)ず」と。従者たちはかつての粗言(そげん。ぞんざいな言葉)を恥じ、ひどく赤面した。

 そして、柿の実植えを手伝い、かいがいしく宗心に仕えてきた藤八郎には、収穫した柿を与えるとともに、給与を2倍にしてやったという。

 それにしても11年後、従者たちに竹篦(しっぺい)返しをした宗心の執念深さには恐れ入るが、もし柿が実る前に亡くなっていたら、自分を嘲笑した従者たちを叱る機会は永遠に失われてしまっていた。長生きはするものである。


【参考】
・柳角子著・古田忠義補『続編武林隠見録』寛延3(1750)序、巻之七「江田宗心八十三歳にて柿実植の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035
2021年10月5日(火)
ポンコツ上司に物申す
 老中の松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな。1596~1662)は、「知恵伊豆」と呼ばれるほど才知ある人だったが、自分が同意できない他人の意見には聞こえない振りをしたという。


「何
(なん)と何(なん)と、今一度申(もうし)て聞せられよ。某(それがし)ハ耳の聞(きこ)え兼(かね)て只今(ただいま)の義ども、しかじか承(うけたまわ)り分(わか)らず候(そうろう)。」


ととぼけると、もう一度部下に最初から一々説明させるのだ。そんなあからさまな不同意のサインを上司から送られたら、自分の意見を取り下げてしまう部下も多かったに違いない。

 ある時、大番頭(おおばんがしら)の岡部与賢(おかべともかた。1605~1686)が、自分が管轄する組中のことに関して、信綱に相談することがあった。そのなかで、岡部の話に同意できぬことがあったのだろう、信綱は例のごとく耳が聞こえぬ振りをして、岡部にもう一度説明するよう求めた。

 しかし、岡部は色を正して次のように述べ、再度の説明を拒否したのである。


「こは笑止
(しょうし)なる御事(おんこと)に候(そうろう)。老中は天下の善悪を考察し、賞罰(しょうばつ)するの職なり。然(しか)るに耳悪(わる)ふして聞違(ききちがへ多くバ大切の儀に於(おい)てハ危(あやう)き事に候。今談話(だんわ)(つかまつる)(たぐい)の旨趣(ししゅ。趣旨)、大事に候(そうら)ハずといへども又これをおろそかにすべからず。右のごとく耳あしく候ハれんには、又述(のぶ)るといへど又聞違給(ききちがいたま)わん事(こと)心元(こころもと)なし。再び申(もうす)べきにあらず。他の老中に就(つい)て申述(もうしのべ)ん。」


 これはお笑い草である。老中といえば天下の善悪を判断し、賞罰を決定する重職。その重職にありながら、耳が悪くて聞き間違いが多いという。それで国家の大事を扱うなどとは危いというほかない。今、私が相談するたぐいの内容は、そうした重要事ではないものの、おろそかに扱うべきものではない。かように耳が悪いなら、再び説明してもまた聞き違えがあろうとおぼつかなく存ずる。ゆえに再度説明すべきではない。貴殿以外の老中に説明いたすことにする。

 岡部はそう言うや立ちあがり、その場から退いたのである。

 岡部与賢は剛毅な人だった。自分が納得できぬことには、相手が誰であろうと、歯に衣着せずに物言う人だった。人の話をまともに聞けぬポンコツ上司など相手にせず、他の有能な上司に相談する、と言い放ったのだ。

 さすがの信綱もあわてた。あわてて岡部の袂(たもと)をとらえてなだめすかし、岡部の意見のおおかたに同意を示したのである
(1)

 部下だからといって、上司の意向ばかり常にうかがう必要などない。理不尽なことに対しては、正論を堂々と主張すべきである。


【注】
(1)以上、内山温恭編『流芳録』巻之十、「大御番 岡部丹波守與賢」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004による。なお、岡部与賢(與賢)の伝は、『寛政重脩諸家譜』第5輯、1923年、國民圖書、P.572(国立国会図書館デジタル)を参照。
2021年10月4日(月)
家禄
 江戸時代の武士の給与は、玄米に換算した決められた額が藩主から支給された。支給額はご先祖様の功績によって決まっており、代々その家の子孫に支給されたので家禄(かろく)といった。

 仕事をしようがしまいが、子孫には一定額の給与が支給される仕組みで、よほどの不始末でもしでかさない限り、家禄が没収されてしまうことは、まずなかった。ご先祖様々である。

 さて、出羽国(でわのくに)庄内(しょうない)藩主酒井左衛門尉忠義(さかいさえもんのじょうただよし。1644~1681)の家臣に、知行500石を領する横山平六という男がいた。父親は半兵衛といって番頭(ばんがしら)をつとめた才知利発の士であったが、平六は不肖(ふしょう)の子だった。

 平六は、みっともなく長く伸びた鼻毛に糸を結びつけると、これに捕らえたトンボをくくりつけ、周囲に見せびらかしながら歩くという比類なき馬鹿者だったのである。平六は、こうしたたぐいの愚行を繰り返して、いつも周囲から失笑を買っていた。

 平六自身にも馬鹿者という自覚があった。そこで、常に従者には、


「平六の馬鹿よ、馬鹿よ。」


と言わせていた。すると平六は、次のような言葉を返したという。


「馬鹿でも五百石!」


【参考】
・柳角子著・古田忠義補『続編武林隠見録』寛延3(1750)序、巻之七「横山平六馬鹿者の事」。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0035
2021年9月28日(火)
にがり
 平安時代末、備中国青江(現、岡山県倉敷市内)に安次・守次という刀工が住んでいた。彼ら父子を祖とする一派が製作した刀を「青江物(あおえもの)」と総称する。そうした青江物のなかでも「にがり」は名物(めいぶつ。すぐれた由緒ある刀)として知られる。

 「にがり」という不思議な名前の由来については諸説ある。『見聞談叢』の中に紹介されているのは、その中の一説。


 浅野弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)長政(1547~1611)の徒士(かち。小身の侍)が、使いで伊勢に赴いた折りのこと。

 夜半、墓場を通り過ぎた時、変化(へんげ)のものが現れた。体に火焔をまとい、まるで不動明王の姿のよう。炎の光の中にその顔が見える。変化のものは、「にがり、にがり」と打ち笑いながら、こちらに近づいてくる。

 そこで、徒士は刀を抜くや、これを斬った。火の光はたちまち消えて暗闇になった。

 翌日、伊勢での用事を済ませた徒士は、帰り途に変化のものと出会った場所を再び通過した。するとそこには、苔むした石仏の頭から血を流している姿があったという。

 こんな話などしても誰も信用すまい。そこで親しい友人にだけひそかに語り、変化のものを斬った刀を見せた。その刃には血がつき、石を斬った引き目はあったが、刃こぼれは見られなかった。

 事の子細は長政の知るところとなり、秀吉(1537?~1598)の耳にまで達した。

 秀吉がその刀を召し寄せると、長さ二尺五寸(約75cm。現在は刀身が短くなっている)の青江物の名物である。そこで秀吉は、「にがり」という異名をつけてこの刀を秘蔵した。「にがり」は、のちに京極若狭守(わかさのかみ)忠高(1593~1637)の家に伝えられた(現在は香川県の丸亀市資料館蔵。一般には「にっかり青江」の名で知られる)。


【参考】
・伊東梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.228~229
 
2021年9月24日(金)
薩摩人の勇
 3代将軍家光の時分の話。

 薩摩の男が水を担(にな)って過ぎようとするところ、早使いに行く他の家中の徒士(かち)と出会った。徒士は息を切らし


「其水
(そのみず)すこしたびなんや。」(その水を少しもらえないか。)


と男に頼んだ。男は


「これ飲まれよ。」


と、荷桶(におけ)から水を柄杓(ひしゃく)に汲(く)んで与えた。徒士は半分ばかり水を飲むと、その余りを柄杓ごと荷桶の中へ投げ入れて、礼も言わずに走り去った。男は怒り、荷桶の棒をひっさげて


「礼もしらざる士かな、是
(これ)はわが主人の茶の水也(なり)。のみたるあまりをうつし入れて水をけがすと云(いう)事やある。やるまじ」

(礼儀も知らない武士だな。これは、わが主人が茶の湯に使用する水である。そこに、飲み残した水を移し入れて、水を汚すということがあろうか。逃がさんぞ。)


と言って追いかけた。徒士は足を止めると


「さきをいそぐにまぎれ、あやまりて候。御免
(ごめん)あれ。」

(先を急ぐあまりに、とんだ粗相をした。許してくだされ。)


と謝罪した。これを聞いた男は


「御免との詞
(ことば)をきく上に、とかく申さばひが事(ひがこと。道理に合わないこと、誤り)ならん。申分(もうしぶん)は候(そうら)はず。」

(謝罪の言葉を聞いた上は、あれこれ言えばいいがかりになろう。これ以上言うことはない。)


と言って徒士を行かせた。男は


「主人にかれ等(ら)がのみさしをまひらすべきやうなし。無礼者にであひ、用なき骨を折るよ。」

(主人に、あいつめが飲み止(さ)した水を進上するわけにはいかない。無礼者のおかげで、無用の骨折りをすることよ。)


と言うと荷桶の水を溝(みぞ)の中へこぼした。そして、そこより14,5町(約1.5km)の道を戻って新たに水を汲むと、屋敷へ帰って行った。

 薩摩人の風儀とは、おおかたこのようなものであったという。



【参考】
・伊東梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.228
2021年9月23日(木)
一伯侯と茶童
 一伯侯(いっぱくこう)(1)は気性が激しいことで有名だった。主君の気性は、家臣にまで影響を及ぼすものか、一伯侯の家臣もまた気性が激しかった。

 ある時、茶童に一伯侯の気に沿わないことがあった。立腹した一伯侯は、茶童の右手をつかむや煮えたぎる茶釜のなかに突っ込んだ。見る見るうちに茶童の手は茹(ゆ)で蛸(だこ)のようになった。しかし、茶童は平気な顔をしている。そこで一伯侯は「許す」と言って、茶童の手を離した。茶童は「ありがたし」と言うや、そのまま茶釜を提げて出た。そして、石に打ち当てると、微塵(みじん)に砕いてしまったのである。砕かれたのは、東大寺の九輪釜(くりんがま)という名だたる茶釜だったという。

 茶童が茶釜を砕いたのは、腹立ち紛れからではない。


わたくしの手をゆでさせ玉へるくわんす(罐子。茶釜のこと)にては、殿(との)へ御茶はあげられず、しかればありても詮なし。」

(私の手をゆでた釜では、殿様へのお茶は差し上げられません。それならば、あっても無用のものです。)



 一伯侯は茶童の言葉に感心した。その後取り立てられた茶童は、一伯侯に忠節を尽くしたという(2)



【注】
(1)一伯侯は、越前北庄(きたのしょう)67万石の藩主、松平忠直(まつだいらただなお。1595~1650)のこと。大坂の陣での戦功が報われなかったため、幕府に不満を持ち、反抗的な行動が多かった。そのため、元和9(1623)年改易されて豊後(大分県)萩原に流された。後に一伯と号し、茶の湯にいそしんだという。松平忠直については、本ホームページ「あれやこれや2021」の「真田幸村の最期」(2021年7月21日)を参照。
(2)以上、伊東梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.249
2021年9月22日(水)
石田三成の茶
 信長・秀吉の時代には、茶の湯が各方面で大きな役割を果たした。時には、人材登用や主従関係の強化などにも貢献した。

 次は、子どもだった石田三成(いしだみつなり。1560~1600)が茶を介して、秀吉に見いだされることになった有名なエピソード。『見聞談叢』から採録した。なお、読みやすくするため、句読点など表記の仕方を少々変えた。 


「石田三成はある寺の童子なり。太閤
(秀吉)、一日(いちじつ。ある日)鷹野(たかの。鷹狩り)に出(い)で玉(たま)ひ喉(のんど)かわく。其(その)寺に至りて、

「誰かある。茶くれよ」

とあれば、三成大きなる茶碗に七、八分にぬるくたてて持ち参る。太閤それをのみ、舌をならし、

「気味よし
(うまい。気味は物の香と味のこと)。今一つ(もう一杯)

とあれば、又たててささぐ。前よりは少しあつくして、茶碗に半分ほどあり。太閤それをのみ、又こころみに

「今一つ」

とある時、三成この度
(たび)は小茶碗(こちゃわん)に少しばかりなるほどあつくたてて奉(たてまつ)る。太閤それを飲み、その気のはたらき(よく気のまわる。細やかな配慮が行き届く)を感じ、住持(じゅうじ。住職)にもらひ、近習(きんじゅ、きんじゅう。主君の側に仕える家臣)に使ひ玉ふ。次第にとりたてて奉行(ぶぎょう)職をさずけらる。」


【参考】
・伊東梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.201
2021年9月21日(火)
針屋宗春の茶室
 太閤(秀吉)時代の茶人は、明け方まで茶室の茶釜のお湯をたぎらせておいた。見知らぬ人であっても、通りがけに露地から茶室にあがりこみ、自分で茶を点(た)てて飲んでいくという風儀があったという。

 そんなわけで、京都の上立売(かみだちうり)にあった針屋宗春(はりやそうしゅん。?~?)の茶亭にも、見知らぬ人々が多く訪れた。

 ある夜更け、どこからの帰りか、太閤がふと「こんな時分でも、湯を沸かしている所はないだろうか」と尋ねた。お供の者は「針屋宗春のところ以外、ありますまい」と答えた。そこで、宗春の茶亭に赴くと、果たして茶釜に湯がたぎっている。そこで、太閤は茶を賞翫(しょうがん)できたという。

 またある夜更け、誰かが宗春の茶室で茶を点てている。宗春が人を遣わして見に行かせると、若党を大勢引き連れた男であった。男の名は、石川五右衛門(いしかわごえもん。1558?~1594)。のちに京都三条河原で釜煎(かまいり)で処刑されるあの大盗賊だった。


【参考】
・伊東梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.257~258
2021年9月20日(月)
人をもてなす
 太閤(秀吉)が伏見において、徳川家康・前田利家・蒲生氏郷(がもううじさと)らを饗応することになった。聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)で遊興した後は、太閤が家康の屋敷に寄るという。

 聚楽第では美食を尽くすだろうから、茶を振る舞うのがよかろう、と考えた家康は、宴会の前日にその準備にとりかかった。座敷と庭を清め、自ら茶壺の封を切って茶一袋を取り出し、茶童の朱斎(しゅさい)に碓(うす)で茶を挽(ひ)いておくよう命じた。

 翌日、聚楽第で宴会が催された。家康は、茶席の準備のため、一足先に帰ってきた。ところが、太閤のために挽かせておいた茶が減っているではないか。家康は朱斎をよぶと、大いに怒った。

 朱斎が弁明することには、犯人は水野堅物(みずのけんもつ)であるという。朱斎が「上の御茶なり(家康様のお茶です)」と制止したにもかかわらず、勝手に飲んだというのだ。水野は家康お気に入りの美童であった。

 やむをえず家康は、新たに壷の口を切って茶を一袋取り出し、茶童の休閑(きゅうかん)に挽かせることにした。

 ところが、早くも太閤御成りの報。加々爪隼人(かがつめはやと)が、家康に次のように進言した。


「唯今
(ただいま)ひきては遅かるべし。初めの御茶減少なりとも、献(けん)じ奉(たてまつ)るほどはあるべし。」

(ただ今茶を挽いていては間に合いません。最初のお茶は減っているとはいえ、太閤にお出しするほどはありましょう。)


 これに対し、家康は次のように言って、加々爪の進言を退けた。


(たとい)茶をひきいださずして、太閤(秀吉)いたづらに(無駄に、むなしく)かえらせられて、無興(ふきょう。不機嫌)なるとも、已(すで)に人の飲(のみ)たる余(よ)を献(すすむ)る道やあらん。其(その)志ならば、汝(なんじ)が奉公正しからじ。」

(たとい茶を挽きおえずに、太閤をむなしく帰らせることになってご不興をこうむることになろうても、すでに人が飲んだ残りを客に勧める道があろうか。そのような心根ならば、おまえの奉公は正しくない。)


 
「人をもてなす」という精神では、家康の言い分こそが正論だ。


【参考】

・伊東梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.193
2021年9月19日(日)
観世左近のいましめ
 伊東梅宇の『見聞談叢』に、芸道修行に関する次のような言葉が書きとめられている(旧字体は新字体に直してある)。


「観世左近は、謡
(うたい)に名を得たる者なり。後剃髪(ていはつ)して安休と号す。平生いへるは、謡に三つのやまゐあり。こゑのよきと、覚へのつよきと、ひやうしのききたると、この三事そなわれる者多くは謡にならずしてやむと人に教えぬ。」

(観世左近は、謡の名人である。後に剃髪して安休と名乗った。日頃から「謡には三つの病がある」と言っていた。「声がよく、物覚えがよく、リズム感がよくと、この三つが揃っている者の多くは、謡にならないうちに挫折してしまう」と人には教えた。)


 観世左近は、能のシテ方観世流家元の通り名である。そのため、観世左近を名乗る者は歴史上複数名いる。しかし、剃髪して安休と称したというから、上の言葉は観世左近重成(1601~1658)のものだ。

「謡の才能があるにもかかわらず、その器用さがかえって災いし、この道で大成する者は稀だ」と左近は言っている。左近の言葉に、梅宇は次のような解説をつけ加えている。

 左近の戒しめは、いずれの芸道にもあてはまる。器用頼みの者は自慢を必ずするものだ。自慢をする者は、工夫を積まない。工夫を積まない者は諸芸の奥義を悟りがたい、と。

 つまるところ、謙虚さが大事なのだ。常に自らの芸の未熟さを自覚する謙虚さがあってこそ、上達しようとしてさまざまな工夫・努力をする。そうした工夫を積み重ねて精進していかない限り、芸の極みには達することができない、というのだろう。


【参考】
・伊東梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、P.195
2021年9月18日(土)
上司の資質
 板倉重矩(いたくらしげのり。1617~1673)が大坂御定番(おおさかごじょうばん)として京橋口の警衛の任にあった時のこと。

 寛文5(1665)年正月2日の亥刻(いのこく。午後10時ころ)、大坂城に落雷があった。天守より出火、たちまちのうちに燃え上がった。

 大坂市中は騒然となった。とりわけ、町人たちの動揺がはなはだしかった。

 実は万治3(1660)年にも雷火があった。この時の火災では、城中に保管してあった煙硝(えんしょう)に火が移り、おびただしい死傷者が出た。その時の惨状を、町人たちが聞き及んでいたのだ。

 まずは人心の動揺を鎮めなければならない。板倉は、町奉行の彦坂壱岐守(ひこさかいきのかみ)・石丸石見守(いしまるいわみのかみ)の両人に、次のように命じた。


「御城内焔硝
(えんしょう。「硝」の原字は火に肖)ハ悉(ことごと)く御堀(おほり)の中へ打込(うちこみ)たる由(よし)(ふれ)られよ。」

(城内の煙硝はすべて堀の中へ投げ込んだので発火の危険はない、と人々に周知せよ。)


 すると、たちどころに市中の騒ぎはおさまった。

 板倉は、日頃から警固の備えを怠らなかった。尼崎から青山大膳亮(あおやまだいぜんのすけ)が人数を率い応援に駆けつけたが、板倉らの警固の手際のよさにいたく感心させられた。

 板倉の活躍は江戸にも伝わった。それを褒賞する奉書が、幕府から板倉の元に届けられた。

 板倉は家臣たちを集めて幕府からの奉書を披露すると、次のように言った。


「皆、其方共
(そのほうども)が働きゆへに、我等(われら)かく御賞美(ごしょうび)に預(あず)かりぬ。」(1)


 板倉は、手柄をわがものとせず、功労を家臣たちに譲ったのだ。

 板倉は常々「大切成(たいせつなる)は人なり」
(2)を信条としていた。部下を大事にするのが、上司にとっては必要な資質だ。

 なお、大坂城で火災があった同年(寛文5年、1665)、板倉は49歳で老中に栄転している。


【注】
(1)以上、内山温恭編『流芳録』巻之十、「大坂御定番 板倉内膳正重矩」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
(2)『板倉重矩遺書』(同文館編輯局編『日本教育文庫、家訓篇』1910年、同文館、P.412)国立国会図書館デジタルコレクションによる。
2021年9月17日(金)
加賀藩の未払い金(2)
 「御成りの際の諸費用が諸方に支払われていない」という話は、藩の家老の耳にまで届いた。そこで留守居役(るすいやく)を呼びつけ、


「御成之節
(おなりのせつ)の御入目銀(ごにゅうもくぎん)等諸方へ御払(おはらい)不被成候(なられずそうろう)。御払(おはらい)被成事難成儀(なさることなりがたきぎ)に候哉(そうろうや)。」

(将軍御成りの際の諸費用等が、各方面に支払われていない。支払うことが難しいのか。)


と尋ねた。留守居役は


「いかにもいまだ払不申候
(はらいもうさずそうろう)。払申事(はらいもうすこと)不罷成候(まかりならずそうろう)と申儀(もうすぎ)にては無御座(ござなき)銀子之儀(ぎんすのぎ)有之候(これありそうろう)。」

(いかにも未払いのままです。しかし、支払いができないというわけではありません。金はあるのです。)


と答えた。

 それならば、なぜ支出しないのか。その理由について、留守居役は次のように述べた。


「加賀守
(藩主前田綱紀)儀、何之御用(なんのごよう)にも立不申候間(たちもうさずそうろうあいだ)、せめて何ぞの節(せつ)御旗本をすくい候(そうらい)て、御用に立可申(たちもうすべし)と存(ぞんじ)、其用意仕(そのよういつかまつり)罷有候(まかりありそうろう)。今度諸方へ之払方(はらいかた)を払候(はらいそうら)へばすくい申事(もうすこと)不罷成候(まかりならずそうろう)ゆへ、見合(みあわせ)罷有候(まかりありそうろう)。」

(加賀守様は「何の貢献もしていないので、せめて何かがあった場合に旗本を救済して役に立ちたい」と考え、その用意をしてまいりました。今、そのために準備してきた資金を諸方への支払いにあててしまうと、旗本を救済することができなくなります。そこで諸方への支払いを見合わせているのです。)


 加賀藩が危急の際に備えてきた資金を拠出して、今回の支払いにあててしまうとその目論見は潰れてしまう。だから、町人たちへの普請代や賃金等の支払いを見合わせているのだ、という。
 
 しかし、加賀藩の諸費用未払いのために、商家が潰れ、諸職人が困窮しているという現実がある。

 留守居役の言い分は、未払い金を正当化する理由にはならない。


【参考】
・長谷川強校注『元禄世間咄風聞集』1994年、岩波文庫、P.252~253
2021年9月16日(木)
加賀藩の未払い金(1)
 元禄15(1702)年4月26日、江戸本郷にあった加賀藩(現在の東京大学の地 )に将軍綱吉の御成りがあった。将軍御成りは名誉ではあったが、物入りも莫大だったため、はなはだ迷惑なものでもあった(1)

 将軍御成りの準備・接待等のため、加賀藩が負った借金は36万両に及んだ。いかに加賀百万石の大藩とはいえ、おいそれと返済できる金額ではなかった。

 そのため、御成普請を請け負った三文字屋常貞は、加賀藩からの支払いが少なかったために滅亡したという
(2)

 諸職人にも賃金は未払いだった。そこで職人たちは賃金支払いを求めて、加賀藩上屋敷に押し寄せた。門前に500~600人ばかりが参集し、太鼓を打ち鳴らしながら


「日用銀
(ひようぎん。賃金)被下置候様(くだしおかれそうろうよう)に。」

(未払い賃金をお支払い下さいますように。)


と騒ぎ立てた。すると屋敷内から人が出てきて


「さわがしき。何事か。」


と言って叱責した。

 この拍子に、門前に集まった職人たちがドッと高笑いした。何せ、500~600人にも及ぶ大集団だ。その哄笑の声は、不忍池を越えて下谷あたりまで聞こえたという。


【注】
(1)本ホームページ「あれやこれや2020」の「はた迷惑な御成り」(2020年11月5日)を参照。
(2)これ以降の記述は、長谷川強校注『元禄世間咄風聞集』1994年、岩波文庫、P.252による。
2021年9月15日(水)
菜の虫
 3代将軍家光の治世、御側衆を勤めていた久世大和守広之(くぜやまとのかみひろゆき)は、4代将軍家綱の時代に若年寄を経て老中にまでのぼりつめた人物だ。

 ある日、家光が食事をしていた時のこと。汁物のふたをとったところ、その中に「菜の虫」(大根・蕪など菜の葉を食害する虫)が入っていた。

 それを見た家光は、箸でその虫をはさみ取ると、すぐに久世を呼び寄せた。御膳方の役人たちの粗相を、叱責するためだ。


「是
(これ)見よ。」


と先ほどの虫をはさんで差し出す家光。すると何を思ったか、久世は両手でその虫を受けとるや謹んで押しいただき、そのままパクリと食べてしまった。


「夫
(それ)ハいかに!」


と驚く家光。これに対して久世は次にように答えた。


「御塩梅
(ごあんばい)を見よ、との義(ぎ)と存候(ぞんじそうろう)。」

(「料理の味加減を見よ」との御意(ぎょい)かと存じました。)


 久世の真意を悟った家光は、


「役人共をかばふな。」


とは言ったものの、機嫌を損ねた風でもなかった。さすがに汁物には手をつけなかったが、普段通りに食事を済ませると、御膳方の役人たちには何の沙汰もなかった。

 上記の件を後になってから知った御膳方の面々は、久世を神のごとく尊んだという。

 昨今は秘書や部下に不始末の責任をおしつけ、何くわぬ顔をする政治家や上司が少なくない。「神のごとく」うやまわれる政治家や上司など、今の時代に一体いるのだろうか。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、「御側衆  久世大和守広之」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年9月14日(火)
権平のこんにゃく
 元禄(1688~1704)の頃、権平(ごんべい)というこんにゃく売りがいた。よそで売っているこんにゃくより大きくして値段を安くすれば売り上げが伸びるだろう、と思いついた。

 そこで、大きなこんにゃくを製した。よそでは3文で売るのに、2文で売った。

 思惑通り、大きくて安いこんにゃくは飛ぶように売れた。毎日毎日、作っても作っても、売り尽くすほど。

 数日たって、売り上げを計算してみた。

 原料費や原料買い付けのための旅費など必要経費を差し引いたところ、手元には1文も残らなかった。こんにゃくの大きさや値段が、利潤を含めた上での設定ではなかったので、こんな失敗をしたのだ。

 人々は権平を「権平こんにゃく辛労(しんろう)が利」と言って冷笑した。「骨折り損のくたびれもうけ」と同じ意味だ。この言葉は、元禄年間の流行語になったという。


【参考】
・山中共古著・中野三敏校訂『砂払(上)』1987年、岩波文庫、P.111
2021年9月13日(月)
小砂利の値段
 昔の日本酒は不純物がいろいろと混ざり、濁っていた。そこで、桶のなかによく洗った砂や砂利を入れ、酒を濾過(ろか)して飲む方法があった。これを「砂漉(すなご)し」といった。

 ある時、将軍の吉宗が飲む酒は「砂漉し」にするようにと沙汰があった。そこで、相模国(さがみのくに)の代官小野小左衛門に、小砂利を江戸へ届けるよう命じた。小野は、大磯で小砂利3斗(54リットル)を買い上げた。

 しかし、その請求された代金に、勘定奉行の杉岡(すぎおか)佐渡守(さどのかみ)・筧(かけい)播磨守(はりまのかみ)は大いに驚いた。

 何と小砂利3斗が15両もするではないか。

 現在の貨幣価値に換算するに、1両=10万円とすれば150万円、1両=20万円とすれば300万円にも相当する。いくら大磯から運んだにしても、たかだか小砂利3斗にこの値段は法外だ。

 勘定奉行が代官手代の成田清六にそう言うと、成田は次のように反論した。

 15両というのは、むしろ格安の値段である。この小砂利は「こま石」といって、磯辺1間(いっけん。約1.8m)に1粒か2粒しか拾えないもの。100粒拾ってやっと1勺(いっしゃく。0.018リットル)にしかならない。

 小砂利とはいえ、人件費がかかるのだ。お上の権力を使って夫役(ぶやく。労役)を命じれば、人手は簡単に集まろう。しかしこの農繁期に、農民を夫役にかり出すなどとはもってのほかの「不仁の御政道」。そこで賃金を支払って人手を集めることにした。

 小砂利1合(いちごう。0.18リットル)集めるのに40人分の賃金(日当か)が必要なので、小砂利3斗で15両というのは破格の安値なのだ、と。

 小砂利1合(0.18リットル。「こま石」1,000粒分)集めるのに40人分の賃金が必要なら、1升(いっしょう。1.8リットル)なら400人分、1斗(いっと。18リットル)なら4,000人分の賃金が必要だ。集めた小砂利は3斗分(54リットル)だから、延べ12,000人分の賃金が必要となる。

 大磯から江戸まで小砂利運搬費用を考慮せずに、仮に1両=10万円とした場合、小砂利3斗分の費用150万円(15両の現在貨幣価値)を人数(12,000人)で除すと、1人分の賃金は125円にしかならない。1両=20万円で計算しても、1人分は250円だ。

 なるほど、成田の言うとおり「十五両と申(もうす)ハ至極引下(ひきさ)ゲ候(そうろう)賃割(ちんわり)」なのだ。

 若年寄の本多伊予守の口添えもあって、代金の15両は全額滞りなく支出されたという
(1)

 とはいえ、事前に砂・砂利等の産地に関して、情報を収集しておくべきだった
(2)。近場で採取できれば、大きな出費も防げたはずだ。


【注】
(1)以上、『はつか艸』国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-092による。
(2)砂漉し(濾過)用の砂・砂利が違うだけで、酒や水の味が大きく変わるらしい。だから、次のような情報が記録されている。

「観世新九郎(小鼓方観世流宗家、七世豊房)咄(はなし)
一、酒にても水にても砂ごしいたし候によき砂は、目黒行人坂(めぐろぎょうにんざか。目黒区下目黒1丁目)下に小川有(あり)、此(この)川砂よく候(そうろう)。此(この)砂に増(まし)候は無之(これなき)よし。」(長谷川強校注『元禄世間咄風聞集』1994年、岩波文庫、P.299)
2021年9月10日(金)
毒断ち
 関ヶ原の戦いに敗れた石田三成(1560~1600)が、京都で斬首されることになった。その最期にまつわる有名な逸話。出典は『茗話記(めいわき)』。読みやすくするため、句読点等を付してある。


(ひとつ)、石田三成生捕(いけどら)れ、京都に於(おい)て誅(ちゅう)せらるる日、途中にて湯を乞(こい)しに、其(その)(あたり)になかりしにや、警固(けいご)の者、

「湯ハ求
(もとめ)がたし。喉(のど)(かわ)かば爰(ここ)にあまほうし(割注「柿(かき)也(なり)」)を持合(もちあわせ)たり。是(これ)を喰(くわ)れよ」

と云
(い)ふ。三成聞(きき)て、

「夫
(それ)ハ痰(たん)の毒(どく)也。食(しょく)すまじ」

と云ふ。警固の者笑
(わら)ひて、

「只今
(ただいま)首を刎(はね)らるる人の毒断(どくだち)ハおかしき事(こと)(なり)

と云
(いう)。三成が曰(いわく)

「汝等
(なんじら)ごときの者の心には、尤(もっとも)の了簡(りょうけん。思案、考え)也。大義を思ふ者は、首を刎らるる期迄(まで)も命を惜(おし)むハ、何とぞ本意(ほんい、ほい。本懐)を達(たっ)せんと思ふゆへ也。燕雀(えんじゃく。小鳥)、鴻鵠(こうこく。大鳥)の志(こころざし)を知らざるに同じ」

と云
(いい)しとかや。


 柿は、鎮咳(ちんがい)・去痰(きょたん)に効果があるというが、「痰の毒」という話は聞いたことがない。「毒断(どくだち)」は病気の時、身体の害となる飲食物を避けること。「燕雀、鴻鵠の志を知らざる」は、陳勝(ちんしょう。秦末の陳勝・呉広(ごこう)の乱の首謀者のひとり)の言葉「燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや(凡人は大人物の遠大な志を知ることができないの意)」(『史記』)を引用したもの。

 出典の『茗話記』(著者不詳)は江戸時代に書かれた。新芽を摘む「茶」に対し、そうでないものを「茗」という。ゆえに「茗話」も「茶話」に同じ。すなわち、仲間うちの茶飲み話だ。新田義貞・足利尊氏・今川義元などといった歴史上の人物をとりあげ、仲間内で論評を加えるという体裁をとっている。


【参考】
・著者不明『茗話記』写本、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:170-0148
2021年9月7日(火)
夢をうばう
 『宇治拾遺物語』のなかに、他人の吉夢を奪う話がある。そのあらましは次の通り。


 昔、備中国(びっちゅうのくに。現、岡山県)の郡司の子に「ひきのまき人(びと)」という者がいた。ある日、自分が見た夢を解釈してもらうため、夢解(ゆめと)きの女のもとを訪れた。

 用事が済んで女と話し込んでいると、大勢の話し声が近づいてくる。上の部屋に入りこんで身を潜め、下の部屋をうかがっていると、四、五人の供を連れた国司の息子がはいってきた。息子も夢解きをしてもらいにきたのだ。かくかくしかじかと夢の内容を伝えると、女は次のように答えた。


「よにいみじき夢なり、必
(かならず)大臣までなりあがり給(たまう)べき也(なり)

(本当にすばらしい夢です。必ずや大臣にまで出世することでしょう。)


 うれしくなった息子は、自分の着ていた着物を脱ぐと、女にくれてやった。

 一行が帰ったあと、「ひきのまき人」は「国司の息子の吉夢を自分にくれ」と夢解き女に言った。国司は、在任期間の4年を過ぎれば都に戻ってしまう。だが、自分は地元の人間だ。大事にすべきは地元の人間の方だろう、と。

 なるほどと納得した夢解きの女。吉夢の持ち主を、国司の息子から「ひきのまき人」へと移し替える方法を伝授した。こうして「ひきのまき人」は、国司の息子の吉夢を、まんまとわが物とすることに成功した。

 その後「ひきのまき人」は学問に励んだ。その学才は朝廷にまで聞こえた。天皇が「ひきのまき人」に接見すると、まことに才人である。そこで、もろこし(唐)に派遣してさまざまな事を学ばせることにした。天皇の期待にこたえた「ひきのまき人」は帰国後、ついには大臣の地位にまでのぼりつめたのである。

 一方国司の息子は、官職を就くこともなく、その身を終えた。ゆえに、自分が見た吉夢を他人に聞かせるものではない、と人々は語り伝えたということだ。


 ところで、この「ひきのまき人」には、モデルがいるのだろうか。

 吉備国の豪族出身で学才があり、遣唐使として派遣されて多くの文物をわが国に伝え、大臣にまで出世した人物と言えば、吉備真備(きびのまきび。695~775)だ。おそらく「ひきのまき人」は、吉備真備の訛伝(かでん)だろう。

 吉備真備は地方豪族出身であるものの、留学生(るがくしょう)として唐に渡り、帰国後は橘諸兄政権下で活躍。不遇の時代はあったものの、のちには称徳天皇のもとで右大臣にまで出世した。秀れた学才は、説話絵巻『吉備大臣入唐絵巻』などによって、広く人々にあいだに知れ渡っている。

 しかし、いかに飛び抜けた学才があったとはいえ、真備のような地方出身者が、中央政界で異例の出世をすることなど、奈良時代であってもまれな出来事だったにちがいない。そうしたまれな出来事が起きた理由は何か。その理由を説明するのに、人々は頭を悩ませただろう。

 そこには何か、人知の及ばぬ理由があったはずだ。そこで、「よにもいみじき夢」を他人から奪い取ったから、という神秘的な理由が後付けされたのだろう。そうして、一地方出身者の異常な出世譚が説話となって、人々にあいだに流布していったものと思われる。


【参考】
・渡辺綱也校訂『宇治拾遺物語・下巻』1952年、岩波文庫、P.87~88、「165 夢買人事」
2021年9月3日(金)
井上筑後守の諫言(かんげん)
  3代将軍の徳川家光が風流(ふりゅう)見物をした折りのこと。

 風流とは、さまざまな趣向を凝らした作り物を繰り出し、思い思いに着飾り、仮装などもして群舞する芸能である。そこで家光は、風流の雰囲気にあわせて、派手な伊達衣装(だていしょう)を着用して来るようにと、譜代衆へ命じた。

 風流当日、老中をはじめ諸大名は、紅裏染(もみうらぞめ。着物の裏地に紅染めの絹布をつけたもの)の小袖など、派手な衣装を身にまとい登城した。そうしたなか、大目付の井上筑後守政重(いのうえちくごのかみまさしげ。1585~1661)だけは、武士の礼装である熨斗目(のしめ)麻裃(あさかみしも)姿のままだった。

 カーニバルの集団のなかに、ひとりスーツ姿の男が混じっているようなものである。井上の姿は、すぐに家光に見咎(みとが)められた。

 家光は井上を呼びつけると「伊達衣装を着てこいと命じたのに、その恰好は一体どういうつもりだ」となじった。井上は「私どもの役人は、伊達衣装を着用せよとのご命令にしたがうつもりはございません」と答えた。

 井上の答えに機嫌を損ねた家光は「おまえは乱心したのか」と吐き捨てた。すると、井上は次のように返答した。

「少
(すこし)も乱気(らんき)(つかまつ)らず候(そうろう)。唯(ただ)老中共(ろうじゅうども)乱気(らんき)(つかまつり)ける。」

(私は少しも乱心などしておりません。乱心しているのは老中たちの方です。)


 老中と言えば、現在なら内閣総理大臣にも相当する重職。そうした幕閣のトップ層までもが、一同ド派手な衣装に身を包み、風流見物に浮き足立っている。これを乱心と言わず、何と言おう。

 しかし、家光の腹の虫はおさまらない。家光の不興を見かねた役人が、


「不調法
(ぶちょうほう)の御挨拶(ごあいさつ)、以(もって)の外(ほか)

(上様に対しそのような不作法な返答をするなど、言語道断)


と井上をたしなめた。しかし井上は、次のように言って、家光をさらに挑発したのである。


「扨々
(さてさて)御慈悲(おじひ)なる儀(ぎ)、難有(ありがたき)仕合(しあわせに)奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)。御手打(おてうち)に罷成(まかりなる)べく」

(さてさて、上様が御情け深いことには、感謝申し上げる次第です。それでは上様手ずから、私めを成敗していただくことにしましょう。)


 ここを斬れ、とばかりに自らの首を差し出す井上。しかし、家光は何も言わず、そのまま行ってしまった。

 井上は、事の次第を老中に申告すると、遠慮(罪ある武士が閉門・籠居(ろうきょ)すること)伺(うかがい)を提出した。しかし、その後しばらく何の沙汰もなかった。

 2、3カ月も過ぎたころ、井上に5,000石が加増された。

 これを知った人々は、家光公は「誠に有がたき御明君」である、と感じ入ったという。


 諫言する側には、並々ならぬ覚悟が必要だ。せっかくの諫言が上司の逆鱗(げきりん)に触れ、不幸な結末となった例は古来数多い。

 諫言は耳に逆らう。ゆえに、部下の諫言に真摯(しんし)に耳を傾け、それを改善に生かせる上司というのは、度量の大きな人物といえる。しかし、そんな出来た上司など、めったにいるものではない。

 だから、家光のことを「誠に有りがたき(本当にめったにいない)御明君」と言っているのだ。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、「大目付 井上筑後守政重」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年9月2日(木)
依怙贔屓(えこひいき)はやめよう
 寺院がやたらと新規寺院(新院)を建立しては、その所有地を広げていた。これを憎んだ幕府は、天和年中(1681~1684)に新院整理に着手した。その際、寺院を由緒ある古跡と、近年建立された新院とに分類し、古跡を残し新院を廃止することに決めた。

 この仕事を担当したのが、寺社奉行の水野忠春(みずのただはる。1641~1692)、本多忠当(ほんだただまさ。1642~1712)、坂本内記(さかもとないき。1630~1693)らだった。

 彼らが新院整理を進めていく中で、川田ケ窪(かわだがくぼ。現、新宿区市谷柳町)辺りに建立された月桂寺という新院が問題となった。この寺は、5代将軍綱吉の寵臣、牧野成貞(まきのなりさだ。1634~1712)の檀那寺(だんなでら。菩提寺)だったからだ。

 この寺だけ特別扱いして整理の対象から外すべきか。新院改めの役人たちや本多・坂本らは、頭を悩ませた。しかし、水野は次のように言って、彼らの背中を押したのである


「新地あらためらるる上ハ、何とて古跡になるべき由緒(ゆいしょ)だにあらバ檀那(だんな)の高下(こうげ)によらず、立置(たておか)れよ。新地にまがひなきをば、牧野備後守(まきのびんごのかみ)が申(もう)せばとて差置(さしおか)れては、世上(せじょう)の批判宜(よろし)かるまじ。役義に付(つき)ての依怙(えこ)なれバ、天の照覧(しょうらん)(こと)に憚(はばか)るべし。先(まず)備後守旦那寺(だんなでら)第一に寺号を召上(めしあげ)てこそ、御仕置(おしおき)の筋(すじ)も立(たつ)べけれ。」

(新院整理をするのであれば、古跡とすべき由緒ある寺院は、檀那(檀家)の身分の高下などに関係なく、そのまま残せばよい。新院に紛れもないのに、牧野成貞の檀那寺だからといって整理しなかったら、世間の強い批判をうけることになろう。役職についての贔屓(ひいき)など天の知るところ、とりわけ慎むべきものだ。まずは、牧野のような権臣の檀那寺を第一に廃止してこそ、お上のお仕置きの筋目もたつというものだ。)



 「ルールにしたがって公正にやればよい。権力者に忖度(そんたく)して、依怙贔屓(えこひいき)するなどとは論外」。そう水野は言ったのだ。理屈は単純明快で、内容は至極まとも。

 ところで数年前、権力者に忖度したお役人が、部下に命じて国の公文書を改竄(かいざん)させるといったとんでもない事件をおこした。

 「ルールにしたがって公正にやればよい。権力者に忖度(そんたく)して、依怙贔屓(えこひいき)するなどとは論外」。水野がこう言ったのは、300年以上も前のこと。

 現代のお役人たちは、いまだにこんな単純明快でまともなことを、実行できないでいるらしい。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、「寺社奉行 水野右衛門大夫忠春」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年9月1日(水)
できるのならさせていいだろう
 コロナ禍の巣ごもり生活で、テレビの○○講座を見る機会が増えた。しかしながら、無表情で原稿をそのまま棒読みにするなど、お話があまりお上手でない先生方が多い。

 専門家というのは確かに尊い。

 われわれは、そうした専門家という肩書き(権威)に弱い。近所の中学生が説明できる内容であっても、○○大学のエライ先生が話すと、わかりにくい説明であっても、ありがたがって拝聴する傾向にある。

 しかし、お話が不得意ならエライ先生には監修にまわってもらって、「わかりやすく、楽しく教えることができる」人材に講師役になってもらった方が、どれほどわれわれ国民のレベルアップに寄与することか。

 最近、テレビ朝日の「博士ちゃん」という番組が面白い。好奇心のおもむくまま、自分が興味をもった事柄をどんどん突き詰めていった子どもたちが、日頃の研鑽(けんさん)の成果を披露する番組だ。知らない世界に分け入っていく楽しさ、今までできなかったことが上達していくうれしさ。そうした子どもたちのワクワク感が、こちらにまで伝わってきて元気をもらえる。

 吉田松陰(よしだしょういん。1830~1859)が藩校明倫館(めいりんかん)で講義をしたのは満8歳の時、藩主に進講したのは満10歳の時という。

 田中優子氏は次のように言う。


「そんな子どもによく講義なんかさせるなと思うんですが、そういうことが平気なんです。大人だから、子どもだからというような感覚がなくて、できるのならさせていいだろうみたいな軽さ、柔らかさがありますね。」
(注)


 堅苦しい肩書きなどにはとらわれず、「できるのならさせていいだろう」というしなやかさが、昔のわれわれの間にはあったのだ。そうした感覚を、われわれはもう一度思い出す必要があるのではないか。
 

【注】
・田中優子・松岡正剛『江戸問答』2021年、岩波新書、P.107
2021年8月31日(火)
今日は二百十日
 江戸時代の幕臣の給与は、現在のような現金支給ではなかった。

 一部の旗本は知行地(ちぎょうち。年貢米を徴収する権利をもった土地)支配を認められていたが、たいがいの旗本・御家人は浅草にあった幕府の米蔵から給与として、玄米を現物支給されていた。これを俸禄制(ほうろくせい)という。

 玄米なので、そのまま食用にするにはいいが、衣服や消耗品を買うにしても、奉公人に賃金を支払うにしても、江戸の都会生活で先立つものはまずは現金である。だから、食べる分を差し引いた残りの俸禄米は、現金に換える必要があった。

 幕臣相手に、俸禄米を現金に換えて手数料をとっていたのが札差(ふださし)という金融業者だ。札差は、幕府の米蔵付近に店舗を構えていた。この店舗を蔵宿(くらやど)という。現在国技館がある蔵前は、蔵宿が軒を並べていた「幕府の米蔵の前」に由来する地名である。

 江戸時代の川柳に、


「蔵宿へ二百十一日に行き」


というのがある。

 二百十日(立春から数えて210日目。今年は8月31日)は、昔から台風が来襲しやすいとされた災厄日(さいやくび)。二百十一日はその翌日にあたる。台風の翌日に蔵宿へ行くのは、米の値上がりを見込んで少しでも高く米を売らんがためである。

 幕臣たちに支給される俸禄米は家禄(かろく)ともいった。加増でもない限り、先祖代々、基本的には給与は定額だったのだ。しかし米価の高下によっては、ふところにはいってくる現金の額は変わる。そこで幕臣たちは、浅草の米相場の高下に一喜一憂したのだった。

 株価の高下に一喜一憂する現在の投資家のような姿が、江戸時代にも見られたのだ。


【参考】
・浜田義一郎『川柳・狂歌』1977年、教育社(教育社歴史新書)、P.88
2021年8月26日(木)
田楽豆腐
 『はつか艸』の中に、次のような逸話がある。


「或時(あるとき)御膳(ごぜん)田楽(でんがく)、ことの外(ほか)御意(ぎょい)ニ叶(かな)ひ、明日も御三度(ごさんど。食事)之節、田楽可差上旨(さしあぐるべきむね)、御膳番(ごぜんばん)依田平次郎(よだへいじろう。割注「後ニ和泉守とも豊前守とも改」)へ上意有之処(これあるところ)、翌日御三度の節、平次郎はたと失念、指上(さしあげ)ざりしかバ、

「田楽はどうじや、どうじや」

と御沙汰に臨て、俄
(にわか)に御豆腐屋へ早使(はやづかい)ヲ以(もって)取寄(とりよせ)、漸々(ようよう。やっとのことで)と差上(さしあげ)けれバ、御前もはや御湯(おぶ。お茶、お湯)之所ニ而、

「最早
(もはや)(よ)イ」

と御意被成
(ぎょいなられ)、御手(おて)を付(つけ)られざりしかバ、御小性(おこしょう)野村筑前守(のむらちくぜんのかみ)つつと出(いで)

「乍恐(おそれながら)其田楽(そのでんがく)、只一口(ただひとくち)被召上(めしあがれ)被下候様(くだされそうろうよう)奉願候(ねがいたてまつりそうろう)。御人(おひと)壱人(いちにん)、棄(すつ)り候儀(そうろうぎ)に候(そうろう)

と申上
(もうしあげ)けれバ、

「成
(なる)ほど」

と御意被遊
(ぎょいあそばされ)、御酒(ごしゅ)を持候様(もちそうろうよう)と有之(これあり)

「昨日の田楽よりハ一段と出来たり。膳所のものを誉
(ほ)め遣候(つかわしそうら)へ」

とて、御舌打被遊
(おしたうちあそばされ)夥敷(おびただしく)被召上(めしあがられ)たりしとなり。」(1)



 ある時吉宗(1684~1751)は、食事の際に出た田楽(田楽豆腐のこと。豆腐を長方形に切って串に刺し、豆腐の表面に味噌を塗って焼いたもの。)がことのほか気に入った。そこで明日の食事にも田楽を出すよう、御膳番の依田平次郎に申しつけた。

 しかし、翌日の食事の際、依田はそのことをすっかり失念していて、田楽を出さなかった。

「田楽はどうした、どうした」

という吉宗の言葉で気がつき、急ぎ豆腐屋へ早使いを出して豆腐を取り寄せた。やっとのことで田楽を用意したところ、食事はすでに済み吉宗はお茶を飲んでいた。吉宗は

「田楽はもうよい」

と言い、田楽に手をつけなかった。

 それを見かねた御小姓の野村筑前守が、つつと吉宗の御前に進み出ると、

「恐れながら、その田楽をただ一口なりとも、召し上がってくださいますようお願い申し上げます。さもなければ、誰か一人、責任をとらねばならないことになりましょう」

と申し上げた。吉宗は

「なるほど」

と得心すると、酒を用意するよう指示した。そして

「きのうの田楽より格段にうまい。台所の者を誉めておけ」

と言うと、舌鼓(したづつみ)をうちながらたいそうな量を召し上がったという。


 吉宗もはまった田楽は、江戸時代には酒の肴(さかな)として人気があった。江戸時代に居酒屋が誕生したのは、そもそもこの田楽人気がきっかけだったという。

 江戸時代の初めには、店内で酒を飲ませる専門店舗などなかった。小売り酒屋の店先で、客が買った酒を飲むくらいだった。この客の行為を「居酒(いざけ)」と言った。

 ところが当時、江戸城付近の神田鎌倉河岸で営業していた豊島屋が、居酒の客につまみとして田楽を出したところ、これが大ヒット。豊島屋の田楽は、豆腐が大きいのに安く、味噌が辛めだったので酒がどんどん進んだという。この田楽目当てに、居酒の客が大いに増えた。

 豊島屋の成功にあやかろうとしたものか、その後、田楽などのつまみを出して、居酒をメインとする酒屋(居酒屋)が次第に増えていった。酒だけ小売りするより、店内で飲食させた方が利益率が高かったからだろう。「居酒屋」が文献上に登場するのは、吉宗の晩年、寛延年間(1748~1751)のことだという
(2)


【参考】
(1)『はつか艸』国立公文書館蔵、請求番号159-0092
(2)以上、安藤優一郎『大江戸の飯と酒と女』2019年、朝日新書、P.157~160による
2021年8月25日(水)
彦左衛門の皮肉(2)
 大久保彦左衛門はその著書『三河物語』で、「礼儀作法に精通し、御座敷の中で立ち回りのよい人物が、多くの知行(領地から年貢米を徴収する権利)をとる」と言って、幕府の人事を批判している。武辺者(戦場での勇士)の彦左衛門としては、大した功績のない者が畳の上の立ち回りのうまさのみで高禄をはむことが許せなかったのだ。

 たとえば、つぎのような逸話がある。


「彦左衛門、年頭などニ装束
(しょうぞく。束帯・衣冠・直衣(のうし)など、儀式の際に着用する礼服)ニて御前(ごぜん)へ罷出(まかりいで)、御盃(おさかずき)被下候(くだされそうろう)時分、態(わざ)とつまづき倒れ候(そうらい)て、御盃を打落申候(うちおとしもうしそうろう)。如何之儀(いかがのぎ)と御尋之時(おたずねのとき)、我らハ只今も具足(ぐそく)を着候得(ちゃくしそうらえ)バ歩行(かち)も自由ニ御座候(ござそうろう)。ケ様(かよう)之装束ニて畳の上之作法ハ不罷成候(まかりならずそうろう)。」


 彦左衛門が年頭などに、礼装して将軍の御前にまかり出た。将軍から御酒(ごしゅ)を賜った際、わざとつまづいた振りをして倒れ、さかずきを取り落とした。「どうしたのだ」と将軍がたずねる。その時、彦左衛門は次のように答えた。「私は、老人となった今でも甲冑(かっちゅう)を身につければ歩行は自由自在。しかし、こんな礼服を着て畳の上でする礼儀作法などはさっぱりです。」

 相手が将軍とはいえ、このありさま。頑固な年寄りの扱いに、将軍もさぞかし手を焼いたことだろう。


【参考】

中村克正『松雲公御夜話・下』享保10(1725)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0118 
2021年8月24日(火)
彦左衛門の皮肉(1)
 旗本の大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもんただたか。1560~1639)は、16歳で初陣を飾り、その後多くの戦さに従軍。数々の功名をあげてきた。しかし、戦さがなくなり平和な時代になると、彦左衛門のような武辺者には活躍の場がなくなり、窓際族へと追いやられるようになった。

 こんな時代に出世するのは、計算ができる行政畑の役人たちや、お座敷の中での立ち回りがうまい奴ばかり。腕に覚えがある頑固一徹の彦左衛門には、そこのところが我慢ならない。自然と愚痴や皮肉が多くなる
(1)

 たとえば、こんな逸話がある。

 家康の頃のことだったろうか。将軍の御前で、幕臣たちの武芸鍛錬の成果を披露する「武道之御吟味(ぶどうのごぎんみ)」を実施することになった。これに反対したのが、「天下のご意見番」彦左衛門である。


「建久四年、頼朝卿(よりともきょう)富士巻狩之時分(ふじのまきがりのじぶん)より武道ハすたり申候間(もうしそうろうあいだ)、不及御吟味(ごぎんみにおよばず)。」(2)

(建久4(1193)年に源頼朝が実施した富士の巻狩の頃から武道は廃れた。今さら武道吟味をするには及ばない。)



 
その理由を尋ねると、彦左衛門は次のように答えたという。


「曽我の五郎をかかへ留申候
(とめもうしそうろう)五郎丸(ごろうまる)ニハ褒美(ほうび)無之(これなく)、頼朝の表へ被出候(でられそうろう)を留申(とめもうし)たる犬坊(いぬぼう)ニハ大国を被下候(くだされそうろう)。加様之不吟味(かようのふぎんみ)ニて武道すたり申候間(もうしそうろうあいだ)、只今(ただいま)不及御穿鑿旨(ごせんさくにおよばざるむね)申上候(もうしあげそうろう)。」
(3)

(曽我の五郎を抱えとめた五郎丸には何の褒美もなく、頼朝が宿所の外に出ようとするのを制止しただけの「犬坊」には褒美として大国を下された。このような不公平な論功行賞によって武道は廃れたので、さきほど、武道吟味はする必要がないと申し上げたのです。)



 富士の巻狩のおりに、曾我兄弟の敵討ちがおきた。

 曽我兄弟は、父の敵工藤祐経(くどうすけつね)を討ったものの、兄の十郎祐成(すけなり)は新田忠常にただちに斬り殺される。一方、弟の五郎時致(ときむね)は、頼朝を狙ってその宿所に走った。それを組み捕らえたのが御所五郎丸(ごしょのごろうまる)。命がけで、頼朝の危機を救ったのである。しかし五郎丸には何の褒美もなかった。一方、宿所から出ないよう頼朝を制止しただけの寵臣「犬坊」
(4)には、褒美として大国が与えられたという。

 頼朝が、かような不公平な扱いをするから、武道が廃れたのだ。源氏の子孫、徳川氏がつくった幕府の人事も同じである。武功のあった者は軽んじられ、たいした功績のない者ばかりが出世している。それを今さら「武道之御吟味」などとは、ちゃんちゃらおかしい。そう、彦左衛門は皮肉ったのだ。


【注】
(1)以上、遠山美津男他『人事の日本史』2021年、朝日新書、P.292~297(山本博文氏執筆分)による。
(2)(3)中村克正『松雲公御夜話・下』享保10(1725)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0118
(4)大友能直の誤り。犬坊は犬房丸(いぬぼうまる)で、曽我兄弟に討たれた工藤祐経の子、伊東祐時(いとうすけとき)のこと。
2021年8月22日(日)
武士の義理にあらず
 信長の後継者をめぐる争いから、柴田勝家(?~1583)と羽柴秀吉(1537~1598)の間に賤ヶ岳(しずがだけ)の戦い(滋賀県木之本町。1583年)がおこり、秀吉に敗れた勝家は本拠地の越前北庄(きたのしょう。福井県福井市)に退いた。

 途中、越前府中(ふちゅう。福井県武生市)を、主従わずか七騎で通りかかった。ここには、勝家方に与(くみ)した前田利家(まえだとしいえ。1538~1599)が在城している。利家と対面した勝家が


「加様
(かよう)打負(うちまけ)、無念

(このような負け戦さは無念。)



と言うと、利家は


「北庄
(きたのしょう)ニて随分(ずいぶん)敗軍之士(はいぐんのし)を可被集候(あつめらるべくそうろう)。府中ハ堅(かた)ク御守(おまもり)可被遊候間(あそばさるべくそうろうあいだ)、可心易(こころやすかるべし)。」

(北庄で敗残兵を集め、再起をはかるべきです。府中は堅く守備しますので、ご安心あれ。)


とこたえた。

 この時、大井久兵衛という武士が、主君の利家に次のような進言をした。


「能(よき)時節(じせつ)ニ候間(そうろうあいだ)、御討留(おんうちとめ)可被遊候(あそばさるべくそうろう)。私、可追掛(おいかくべし)。」

(柴田勝家を討ち取る絶好の機会です。私めが勝家を追いかけて討ち取りましょう。)


 
勝家を討ち取りその首を秀吉のもとに届け、手柄にしようとの提案である。しかし、利家は久兵衛の胸ぐらをつかむと、その進言をただちに却下した。


「侍の義利
(義理)にあらず。」

(そのような行為は、侍の道にはずれるものだ。)


 
ほどなく、秀吉軍が利家の守る府中に攻め入ってきた。その後、秀吉・利家間で和睦が成立した。利家は、秀吉方へ寝返った恰好(かっこう)になった。

 利家は、勝家の助命を秀吉に嘆願した。秀吉は承諾した。しかし出馬した利家が目にしたのは、すでに火の手があがった北庄城だった。

 利家は



「今少
(すこし)はやく候(そうら)ハバ、勝家が命を御助可被遊候(おたすけあそばさるべくそうろう)。

(もう少し早ければ、勝家の命を助けることができたものを。)


と悔やんだという。


【参考】
・中村克正『松雲公御夜話・下』享保10(1725)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0118
2021年8月14日(土)
五里行っても食べたいもの
 近世初めの笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』にある話。

 亭主が客に「飯はあるが麦飯なので嫌だろう」という。客は「私は生来、麦飯が好きです。麦飯だったら三里行っても食べましょう」という。「それほど好きなら」と、亭主は客に麦飯を振る舞った。他日、例の客がまたやってきた。「あなたは麦飯好きなので、米の飯はあるが出しません」と亭主が言う。すると「いや、米の飯なら五里行っても食べましょう」と言って、また食べた
(1)

 麦飯より米飯の方がうまいという笑い話。

 かつては、誰もが日常的に米飯を食べられたわけではなかった。西川如見の『百姓嚢(ひゃくしょうぶくろ)』には


「田家
(でんか。農家)の食物麦を第一とす」


とある
(2)。江戸時代の農村では麦飯や、麦・粟・稗・芋・野菜などと混ぜて炊いたかて飯などを常食とし、ふだんは米を多く食いつぶさないようにした。それは石高制の下、米は年貢として領主に納入する貴重品だったからだ。
 
 しかし、新田開発によって米の生産量が増大すると、米価も下落してくる。そのおかげで、江戸などでは、庶民も米飯(それも玄米ではなく精白米)常食の恩恵にあずかれるようになった。

 その一方、白米を常食するようになったことで、玄米食だったら摂取できていたビタミンB1が不足しがちになった。そのため、江戸に住む人びとの間には「江戸煩い(えどわずらい)」(脚気。ビタミンB1欠乏症)と称する奇病が広がることにもなった。

 農村部では、相変わらず主食は麦飯やかて飯等だったが、「江戸煩い」に悩むことはなかった。明治時代後半になっても、事情はさほど変わらなかった。都会に嫁入りして白米食に慣れた娘が里帰りして、麦入りご飯は嫌だと言って駄々をこね、母親を困らせたこともあったという
(3)

 現在では、健康やダイエットのためと称して、わざわざ麦・粟・稗等を加えた雑穀米や玄米を食べるようになった。白米食にあこがれた江戸時代の農民がこの有様を見たら、どのような感想を持つだろうか。


【注】
(1)安楽庵策伝著、鈴木棠三校注『醒睡笑(上)』1986年、岩波文庫、P.166~167による。
(2)西川如見著、飯島忠夫・西川忠幸校訂『町人嚢・百姓嚢 長崎夜話草』1942年、岩波文庫、P.189
(3)五味文彦・鳥海靖編『もういちど読む山川日本史』2009年、山川出版社、P.268
2021年8月12日(木)
ナスの形
 ここ1、2年、プランターを買ってきて、ナスやミニトマトを栽培している。ナスは、定番品種の「千両2号」を苗から育てている。長ナスの代表品種だ。現在、スーパーマーケットの野菜売場で売られているナスも、長ナス系が主流だ。

 しかしかつては、ナスの主流は長ナスではなかった。

 ナスはインド原産で、奈良時代に中国からわが国に渡来した。江戸時代までに数多くの品種ができたが、その頃までナスといえば丸ナスが主流だった。

 江戸時代の絵入り百科事典『訓蒙図彙(きんもうずい)』には


「茄
(か・きや)。なすび、茄子(かし)也。又落蘇(らくそ)、酪酥(らくそ)と名づく。銀茄(ぎんか)、今按ずるに、しろなすび。水茄(すいか)、今按ずるに、ながなすび。」(1)


とあり、丸い「しろなすび(銀茄)」と細長い「ながなすび(水茄)」を紹介している。しかし、挿し絵はどう見ても白い丸ナスだ。子どもが読む絵入り事典に「しろなすび」を描いたのは「ナスといえば丸い形」という固定観念があったからにちがいない。

 その証拠に、戦国大名が愛蔵した茶道具の唐物茄子茶入(からものなすちゃいれ)も、みな丸い形をしている。唐物茄子茶入というのは、「中国から伝来した茄子形の茶入」という意味だ。丸といえばまずは丸ナスを連想したから、丸い茶入に「茄子」と命銘したのだ
(2)

 現在のわれわれの多くは、ナスといえば長ナスの細長い形状を連想する。しかし、かつてはナスといえば丸い形状が一般的だった。時代によって常識は変わる、という一例だ。


【注】
(1)石川阿希『江戸のことば絵事典 「訓蒙図彙」の世界』2021年、角川選書、P.196~197
(2)ちなみにもっとも著名な唐物茄子茶入は、静嘉堂所蔵の「大名物(おおめいぶつ)唐物茄子茶入(からものなすちゃいれ)付藻茄子(つくもなす)」(南宋~元時代、13~14世紀)。足利義満・義政、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉等錚々たる有名人の間を転々とし、大坂落城でバラバラになったものの、灰の中から捜索されて復元されたという数奇な運命をもつ。「付藻茄子(つくもなす)」という銘の縁で、岩崎家(九十九商会(つくもしょうかい)=三菱)の所有に帰した。静嘉堂文庫のホームページ参照。
 
2021年8月11日(水)
『はつか艸』
 8代将軍徳川吉宗の逸話を紹介する際、ネタ本のひとつが『はつか艸(ぐさ)』。

 書名の由来は、大屋某(おおやなにがし)を中心とする知人たちが毎月20日に寄合い、そこで話題となったさまざまな逸話を書き留めた草子(冊子)の意。また、二十日草は牡丹の異名であることから、別名『牡丹華』といったという
(1)(2)。逸話の中でも吉宗のものが多くを占める。18世紀末~19世紀初め頃の成立。国立公文書館に納められ、国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧できる。請求番号159-0092。昌平坂学問所旧蔵。写本全1冊。

 この寄合の中心になった大屋某は、旗本大屋正巳(おおやまさみ。1745~?)と見られる。その根拠は次の通り。

 この逸話集には、ところどころ話の出所について記されている箇所がある。

 たとえば、吉宗が雑司ケ谷に御成りになったときの話。音羽町五丁目で鼬(いたち)が飛び出して駕籠の前を横切った。吉宗が駕籠から顔を出し「憎いやつかな」と言うや、将軍の御威光におそれいった鼬はその場で頓死したという。この逸話は、当時の御駕籠頭(おかごがしら)原井喜右衛門が語ったとされ、この条にはさらに次のような割注(わりちゅう)がある。


「此趣
(このおもむき)は、大屋四郎兵衛実家永田藤四郎家来後藤金右衛門次男を原井喜右衛門方に養子ニ遣(つかわし)、喜右衛門より金右衛門江(え)毎々(まいまい)(はなし)(そうらい)て奉落涙候(らくるいたてまつりそうろう)事なり。」


 大屋という苗字で本書の各所に登場する人物は大屋四郎兵衛である。ゆえに大屋某とは、大屋四郎兵衛であることが知られる。そして大屋の実家は永田藤四郎家だという。『寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』の中から該当者をさがすと、大屋正巳(おおやまさみ)の名が見つかる
(3)

 同書によれば、大屋正巳は久米吉また四郎兵衛と称し、永田藤四郎直良の三男だったが、大屋正真(まさざね)が死に臨んで養子とした、とある。明和3(1766)年5月に正真の嫡子正傭(まさやす)が25歳で没したので、急養子を迎えたのだ。その後正真も同年8月、68歳で正傭の後を追って亡くなり、11月には養子の正巳が家督と知行220石余を相続している。正巳はこの時22歳だったというから、延享2(1745)年生まれのはずである。正巳はその後代官などを勤めるが、仕事上の失態等があって処罰され、不遇の日々を送ったようである。


【注】
(1)国立公文書館蔵本の末尾には次のようにある。

「此書大屋某之黨、毎月廿日集會而記之、卒業不全、僅為一冊綴而名牡丹華云」。

 また段落を下げ、本書の由来について次のような注記がある。

「右壱冊、紀州家大番頭村岡六蔵良毅、文政十二己丑年孟夏ミつから写して按るに、此書傳寫の誤不少、世に類書少故にその誤の侭に写せり、他もの校訂を俟のミ」。

(2)二十日草は牡丹の異名。中国唐代、牡丹の名所西明寺の様子を詠んだ白居易の詩の中に「花開花落二十日、一城之人皆若狂(牡丹の花が咲いて花が落ちる、その間二十日。長安城中の人々はみな平常心を失っているかのようだ)」の文言がある(白居易「牡丹芳」、『白氏文集』巻四)。これを下敷きにして、藤原忠通(ふじわらのただみち)が詠んだ和歌に「咲きしより散りはつるまで見しほどに花のもとにて二十日経にけり」(『詞花集』巻之一、春)がある。
(3)『寛政重脩諸家譜 第五輯』1923年、國民圖書、P.480~481(国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:63-238)
2021年8月10日(火)
上司を説得する
 忠言は耳に逆らう。

 いかに立派な諫言(かんげん)・直言をおこなっても、上司が耳を傾けてくれなくては意味がない。だから、忠臣と評された人々は、いかに忠言を上司の心に届けるか、さまざまに工夫した。

 たとえば、8代将軍徳川吉宗の時の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)だった小笠原石見守(おがさわいわみのかみ)・加納遠江守(かのうとおとうみのかみ)・有馬備後守(ありまびんごのかみ)の三人は、いずれ劣らぬ忠臣として評判の者たちだった。彼らは吉宗の不興を買おうが、懇々と理を説いた。また吉宗が決断しかねている政策については、次のような連係プレーで吉宗を説得した。

 吉宗が決断をためらっている政策に、軌道修正が必要な時。退去した三人は申し合わせ、数日の冷却期間をもうけたのち、まず一人目の御用取次が吉宗の御前に罷(まか)り出て、過日の政策について修正案を進言する。しかし、この時はまだ吉宗の我が強く、上意(自分の考え)を曲げることは少ない。そこで、今一人控えている者がおります、その者にも意見を聞かれてはいかが?、と水を向ける。

 そこで、吉宗は二人目の御用取次を呼んで意見を聞く。すると、二人目の者は次のように答える。


「乍恐
(おそれながら)私義(わたくしぎ)は誰レ(だれ)申上候方(もうしあげそうろうほう)宜様(よろしきよう)ニ奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)。乍然(しかしながら)(いま)壱人(いちにん)、これも只今(ただいま)御用透(ごようすき)ニて罷在候間(まかりありそうろうあいだ)、被召(めされ)御尋被遊(おたずねあそばされ)可然(しかるべし)。」

(恐れ多いことながら、私は一人目が進言した内容の方がよろしいように思います。さりながら、たった今仕事の手が空いた者が一人おりますので、その者も呼んで諮問されてはいかがでしょうか。)


 そこで、三人目の御用取次を呼ぶ。三人目を呼んで意見を聞くと、その者は次のように答える。


「両人
(りょうにん)申上候通(もうしあげそうろうとおり)、至極之的當(しごくのてきとう)と存候(ぞんじそうろう)。」

(一人目・二人目の者が申し上げたことが、最も的を射ていると考えます。)


 誰を呼びだしても、上意と異なる意見の方がよいという。さすがに吉宗も「しからバその通り(それならば、お前たちが言うとおりにする)」と言って政策の軌道修正をする。上意と異なる結論になっても、しこりが残ることは少しもなかった。

 こうした手段によって三人は、吉宗の政策決定に誤りがないように忠言を繰り返したのだ。そのうち吉宗も、御用取次の者が御前に出て控えているのを見ると、


「又あそこへだれか出ておるな。おれがわるいと見へる。」

(またあそこへ御用取次の者が誰か出ているな。おれの考えが間違っていると見える。)


と言って笑ったという。

 忠言は耳に逆らう。

 そうした耳に痛い言葉であっても耳を傾け、自分に過ちがあれば素直に認め、直ちにそれを正すのが名君だ。ならば、吉宗はまさしく名君なのだろう。


【参考】
・『はつか艸』国立公文書館蔵、請求番号159-0092
2021年8月9日(月)
長崎の義夫(ぎふ)
 江戸時代の初め、長崎に小篠吉左衛門(こざさきちざえもん。?~?)という者がいた。清貧を苦にせず、生来の酒好きから自ら酉水軒(ゆうすいけん)と号した。酉にさんずい(水)を加えれば、酒の字となる。人々は吉左衛門を、中国東晋時代の隠士になぞらえて「(陶)淵明(えんめい)」と呼んだ。読書と飲酒を楽しみとし、交友に老若を選ばなかった。

 延宝(1673~1681)の頃、長崎で飢饉があった。

 多くの人々が飢え苦しむ中、ある寺が粥(かゆ)を施行(せぎょう)した。日ごとに数千人の飢民が寺に押し寄せた。そうしたなか、吉左衛門は寺のそばにも近づかなかった。物乞いの徒になることを恥じたのである。

 旧知が米穀などを贈ってくることがあれば、その義に感じて受け取ることはあった。しかし、それ以外からの米銭は、みな受け取らなかった。その理由を吉左衛門は次のように語った。

 旧知でもなく、その人のために労を尽くしたわけでもない。そんな人たちから米銭を受けるのは物乞いの徒である。急難に瀕し他人から施しを受けるという習いもあろうが、すでに私は老いた。そうした恩に報いるだけの寿命が私には残っていない。だから施しを受けないのだ、と。

 その後吉左衛門は、書見台に寄りかかったまま餓死した姿で発見された。書見台には『近思録(きんしろく)』(宋学の入門書)が開かれたままだった。

 武士であっても、落ちぶれれば節操を破る者が多い。吉左衛門は、市井の人ながら己の節操を守って餓死した。これをあわれんだ西川如見(にしかわじょけん)は、「長崎義夫(ながさきのぎふ)」として、自分の著書にその名を書きとどめた。


【参考】
・西川如見『長崎夜話草』による(西川如見著、飯島忠夫・西川忠幸校訂『町人嚢・百姓嚢 長崎夜話草』1942年、岩波文庫、P.290~291)
2021年8月8日(日)
桃の種に猿を彫る
 後藤祐乗(ごとうゆうじょう。1440~1512)といえば、日本史上に残る有名な金工だ。その刀剣装具の彫刻は、武士たちから圧倒的な支持をうけ、後藤祐乗一門の金工が彫った小道具類は「家彫(いえぼり)」と称して、将軍家・大名家の正式の拵(こしら)えには必ずこれが用いられるほどだった。とりわけ初代祐乗、2代宗乗(そうじょう)、3代乗真(じょうしん)の作品は、「上三代(かみさんだい)」と称して珍重された。

 そんな初代祐乗の卓越した技術は、次のようなエピソードとともに語られてきた。

 8代将軍足利義政の近侍(きんじ)だった祐乗は、その才能を同僚から妬(ねた)まれ、讒言(ざんげん)によって投獄された。酷暑のおり、獄卒(ごくそつ)が祐乗をあわれみ、渇きをいやすために桃の実を与えた。桃を食べ終えると祐乗は、役人から小刀を借り受け、桃の核(さね)を彫りはじめた。そして、日吉(ひえ)の山王七社の神輿(みこし)の船17隻と猿6匹を彫りあげると、役人への謝意のしるしとしたのである。その緻密な細工に驚嘆した役人は、これを義政に献上。この細工を見た義政は直ちに祐乗を出獄させ、刀剣装具彫刻の御用を命じたという
(1)

 たまたま『明良帯録』を繰っていたら、「後藤彫物家(ごとうほりものけ)」の項目のところに、後藤祐乗の伝説が書かれてあった。投獄され桃の種(または核)に彫刻するというあらすじは一緒だが、上記の話とは少し異同がある。参考までに原文を次に示そう。


「祐乗
(ゆうじょう)、字(あざな)は瑞之。法印(ほういん)。生国(しょうごく)濃州(のうしゅう。美濃国、現岐阜)(なり)。後花園院(ごはなぞのいん)、永亨(えいきょう。永享年間)の人也。金・銀・銅・錫(すず)を以(もっ)て草木鳥獣の象(かたち)を彫る名誉(めいよ。名高い、有名である)あり。将軍普廣院(ふこういん)義教公(よしのりこう。室町第6代将軍足利義教。普廣院はその院号)に仕(つか)ふ勇士(ゆうし。武士)たり。

 性
(せい)色を好ミ、将軍の愛し玉(たま)ふ美少年あり、瑞之是(これ)と通ず。傍人(ぼうじん。そばにいる人)(これ)を讒(ざん)し、将軍怒(いかり)テ瑞之を獄(ごく)に下(くだ)す。

 囚獄
(しゅうごく。牢屋の役人)尚友(しょうゆう。友人)たるを以(もっ)て桃一■(元字は禺に頁。ぎょう)を與(あた)ふ。瑞之、是(これ)を食(く)ひ、其実(そのみ)あり。小刀を是にて彫物(ほりもの)す。則(すなわち)日吉(ひえ)の祭禮(さいれい)なり。唐崎松(からさきまつ)、猿猴(えんこう)六十余頭を彫りて囚獄に謝(しゃ)す。囚獄、幸然(こうぜん)として手を拍(うち)て感じ、是(これ)を将軍にけんず。将軍是を見て大(おおい)に感じて罪を赦(ゆる)す。

 此時
(このとき)工人(こうじん。職人)と成(なり)勇士(武士)を止(や)む。」(2)


 『明良帯録』では祐乗の仕えた将軍を足利義教とし、投獄の原因を将軍寵愛の美少年に祐乗が密通したためとする。

 投獄されて桃の種(または核)に日吉神社の祭礼を彫刻するという話は同じだが、「日吉の山王七社の神輿(みこし)の船17隻と猿6匹」を彫るにしても、「唐崎松、猿猴60余頭」を彫るにしても、あの小さな桃の種(または核)に有り合わせの小刀を使って彫りあげるというのは、いかに名人とはいえ至難の業(わざ)。

 祐乗に与えられたのが桃の実ではなく、種がやたらと大きな枇杷(びわ)の実だったら話は別?


【参考】
(1)野呂肖生『final 日本史こぼれ話 古代・中世』2007年、山川出版社、P.181~183による。
(2)『明良帯録』第6冊、「後藤彫物家」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:152-0067
2021年8月7日(土)
御勘定 神谷武右衛門久敬(2)
 享保の頃、西国地方で虫害により飢饉が発生し、多くの人々が飢餓に苦しんだ。そこで幕府は、全国の米が集散する大坂で米を買い上げて、被災地に送ることにした。その任務を帯びて、大坂に派遣されたのが神谷だった。

 しかし、大坂の米商人たちはこれを金儲けの好機ととらえ、米の値段を一斉に引き上げた。

 神谷は大坂に到着するや否や、大坂中の米屋を呼びだした。そして、飢民救済のための米買い上げについて切り出すと、大坂の米商人たちは口をそろえて次のように答え、神谷に米を売ることを拒否した。


「米ハもはや売払
(うりはら)ひて、私共(わたくしども)所持(しょじ)ハ御座(ござ)なく候(そうろう)(あいだ)、御用(ごよう)に候共(そうろうとも)差上(さしあげ)がたく存候(ぞんじそうろう)。」

(米はすでに売り尽くして、私共の手元には残ってございません。よって、幕府の御用といえども、お売りすることはできません。)


 米屋の回答に対して、神谷は次のように言った。

 米屋に米がないならば、米の生産地である奥羽・北国筋の大名の米を買い上げて、被災地へ送るしかない。大坂の米屋の土蔵がどこも空っぽだというのなら、土蔵は封印することにしよう。

 こうして大坂中の米屋の土蔵を残らず封印したのである。そのため、商売ができなくなった米屋たちは、困窮して音を上げた。土蔵の封印を解くよう謝罪してきた米屋たちに対し、神谷は次のように叱り飛ばした。


「町人とは申
(もうし)ながら不届(ふとどき)至極(しごく)なり。餓人(がじん。食料のない被災民)の為(ため)に命を御救(おすくい)なされ候(そうろう)(こめ)を難渋(なんじゅう。売り惜しみ)(もうす)(こと)言語道断(ごんどどうだん)。」

(商売人とはいえ不届き至極。被災民を救命するための米を売り惜しみするなど言語道断である。)


 そして、本来なら罪科に問うべきところであるが、今回は大目に見よう、その代わりに米の値段を安く提供するように、と申し渡したのだった。

 こうして神谷は、安価に買い上げた米を被災地に送り、自分の任務をまっとうすることができた。

 その後、江戸に戻った神谷は勘定吟味役に任ぜられた。享保19(1734)年には勘定奉行に昇進し従五位下(じゅごいのげ)志摩守(しまのかみ)に叙爵(じょしゃく)、3,000石取りとなった。そして寛延2(1749)年、78歳で没した。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十四、「御勘定 神谷武右衛門久敬」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年8月6日(金)
御勘定 神谷武右衛門久敬(1)
 享保年中から元文の頃まで勘定奉行を勤めた神谷武右衛門久敬(かみやぶえもんひさたか。1672~1749)は、卑賤の身から出世した人だった。

 そのはじめは甲斐国(かいのくに。現山梨県)の百姓の次男だったが
(1)、少年の頃から学問好きだった。計算と読み書きに熟達し、仕官の望みがあった。そこで少々の金を貯めて江戸へ出、御家人になった。

 一口に御家人といっても、譜代(ふだい)・譜代準席(ふだいじゅんせき)・抱席(かかえせき)の三種類の家格がある。譜代・譜代準席は幕府から家督相続を認められ、家禄の支給を受けた。これに対し、抱席は与力や同心などに起用される一代限りの御家人で、辞職とともにその身分を失った。元来の身分は、神谷と同じ百姓・町人などだった
(2)

 御家人の身分は、金で買うことができた。

 ちょうど西丸御切手同心(にしのまるおきってどうしん)の御家人株に明きがあったので、まずはこれを買った。御切手門の同心として勤務しているうちにまた金を貯めて、今度は御徒(おかち)の株を買った。

 算筆が達者だったことが神谷の出世を助けた。その能力を見込まれて、御徒の中から選ばれて支配勘定(しはいかんじょう)に抜擢された。さらに精勤していると、元禄5(1692)年に御勘定(おかんじょう)に出世して150俵を賜り、同16(1703)年には勘定組頭(かんじょうくみがしら)となって250俵を支給されるまでになった。

 神谷が頭角を現し得たのは、当時の旗本・御家人の学力レベルが思いの外低かった、という事情があったからかもしれない。

 旗本・御家人の跡取りは、あくせく働く必要がなかった。家督を相続しさえすれば定額の家禄支給が保証されていたからだ。そのため、学問で身を立てようという発想がそもそもなかった。その上、武士は武が専門だから、学問など儒者に任せておけばよいとする風潮があった。だから、旗本・御家人の跡取りに、学力の高い者は少なかったのだ。そのため、旗本であってもその多くは字さえろくに書けなかったという
(3)


【注】
(1)内山温恭編『流芳録』巻之十四、「御勘定 神谷武右衛門久敬」の項には、神谷は「安藤対馬守の臣近藤四郎兵衛の次子なり。(神谷)市左衛門久時養て子とす。」とある(国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004)。
(2)山本英貴『旗本・御家人の就職事情』2015年、吉川弘文館、P.4~5
(3)山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』には次のようにある。

「多くの旗本は、字もろくに書けないまま成長した。(森山)孝盛が大番士だったとき、親類書を番頭に提出するように命じられたことがあった。自分の親類を書き上げて、上司に提出せよ、ということだが、そんな書類すら書けない者が多く、孝盛に代筆を依頼する者が続出し、10日のうちに12通の親類書を書いてやったという。 ( 中略 )
 意外に思えることだが、江戸時代後期に至るまで、学問のある武士は少なかった。もともと学問は儒者の仕事で、武を担当する武士にはそれほど必要ないと考える者が多かったのである。
 孝盛のように、学問を好む旗本もいたのだが、それはむしろ趣味の領域であった。」(山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、日本放送出版協会、P.147~148)
2021年8月5日(木)
存寄(ぞんじより)
 8代将軍徳川吉宗の時代、多門多宮組に属する御徒(おかち)に黒沢清右衛門(くろさわせいえもん。?~?)という者がいた。

 延享元(1743)年9月、江戸城内の紅葉山(もみじやま)において法華八講(法華経八巻を八座に分けて1日に朝夕の二座を講じ、4日間で行う法事)が催された際、舞楽も挙行された。

 しかし、この時舞楽を見物できなかった人々が大勢いたので、日を改めて舞楽だけ披露することになった。

 当日は御三家(ごさんけ。尾張・紀伊・水戸の徳川家)・御家門(ごかもん。徳川氏の親戚)・諸大名・諸旗本など、白書院から黒書院にかけて居並ぶほどに人が集まった。

 楽人たちが控える楽屋には、さまざまな面や装束、諸道具類が置いてあったので、物珍しさからひっきりなしに人々が覗(のぞ)きにやってくる。そのため楽屋が混乱し、迷惑することこの上ない。楽人たちが御目付衆に対し苦情を申し入れた。そこで若年寄が差配して、御徒の黒沢清右衛門を楽屋出入り口の固め(かため。警備)に派遣した。

 そこへ水戸の播磨守(はりまのかみ。常陸国府中藩主松平播磨守頼済か)が三、四人の大名衆を連れてやってきた。清右衛門の制止も聞かず、楽屋の中へ入ろうとする。そこで、両者の間で押し問答となった。

 下っ端(したっぱ)の小役人に制止されたことに、大名のプライドが傷つけられたのだろう。そのうち怒り出した播磨守は、清右衛門を罵(ののし)りはじめた。これに対して清右衛門は


「たとへ御三家ニても通す事
(こと)罷成(まかりなら)ず候(そうろう)。おして御通りなされ候(そうら)ハバ、拙者(せっしゃ。私)にも存寄(ぞんじより。考え、覚悟)御座候(ござそうろう)。」

(たとえ御三家であってもお通しすることはできません。それを押してお通りなさろうというのなら、私にも覚悟がございます。)


と言った。その時の清右衛門の顔つきが尋常ではなかったので、播磨守たちはその場は黙って退いた。

 しかし、その後「固めの御徒(おかち)が、大名の拙者に無礼を働いた」と老中に苦情を申し入れた。清右衛門の方にこそ非があるとして、その不調法を咎(とが)めて謝(あやま)らせ、鬱憤(うっぷん)を晴らそうとしたのだ。

 清右衛門は早速殿中(でんちゅう)に呼び出され、二人の目付衆から尋問を受けた。清右衛門は、御三家だろうが誰だろうが相手の身分は関係ない、己の役義(職責)をまっとうしただけである、と憚(はばか)ることなく主張した。

 目付衆はさらに次のように尋問した。


「然(しから)バ、其方(そのほう)存寄(ぞんじより)あるといひし事(こと)(うけたまわ)りたし。播磨守殿、御老中方へ申(もうし)(ことわ)られしハ、固(かため)の御徒(おかち)、拙者(せっしゃ)へ対し存寄(ぞんじより)ありと申(もうし)(そうろう)。その存寄承りたし。軽(かろ)き奴(やつ)、拙者共へ対し存寄とはいかんとの腹立(はらだち)なり。其(そ)の存寄を申せ。」

(それなら、お前が「存寄(覚悟)がある」と言ったその意味を尋ねたい。播磨守殿が御老中に申し入れた苦情は「固めの御徒が、拙者に対して存寄があると言った、その存寄の意味を聞きたい」とのことだ。「下っ端(したっぱ)のくせに、大名の自分たちに向かって存寄があるとは何ごとか」というのでお腹立ちなのだ。その存寄とやらを申せ。)



 それに対し、清右衛門は次のように答えた。

 自分が警備する場所を破られ、うかうかしているようでは固めの職責は果たせない。それでは臆病未練の者である。よって、固めの場所を強いて押し破る者がいた場合には、その者をただ一打ちに斬り殺すつもりでおりました。すなわち、


「存寄
(ぞんじより。私の覚悟)と申(もうす)ハ切殺(きりころし)(もうす)(こと)に候(そうろう)。」


だと言ってのけた。


 清右衛門の申し開きを聞いた目付衆はあきれ果てて、その旨を老中に報告した。事情を伝え聞いた人々は、きっと清右衛門には後難があるだろうと思った。

 しかし、これを耳にした吉宗は、


「気丈
(きじょう)ものなり。固(かため)の本意(ほんい)、尤(もっとも)(その)通りなるべし。」

(なんと気の強い男よ。固めの職分とは清右衛門の言うとおりのものだ。)


と言うと、かえって清右衛門に白銀5枚を褒美として与えたのである。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十四、天保7(1836)年成立。「御徒 黒沢清右衛門」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年8月4日(水)
適正価格
 水野忠之(みずのただゆき。1669~1731)が若年寄だったときのこと。江戸城内の厨房(ちゅうぼう)で使用している大真名板(おおまないた。大きなまな板)が損じてしまったので新調したい、と料理人から相談があった。

 水野が


「如何程
(いかほど)の御物入(おんものいり)たるべきや。」(どれくらいの費用がかかるのか。)


と尋ねたところ、料理人は


「先規より三十両づつにて出来候
(できそうろう)。」(前々から三十両ずつかかっております。)


と答える。

 そこで実物を取り寄せて、長さをはかるなど子細に調べてみた。武士である水野には、もとよりまな板の値段などはわからない。しかし、いくら城中で使用する大真名板とはいえ、30両というのはいかにも高額過ぎるように思われた。

 とりあえず料理人には、


「宜
(よろし)く詮議(せんぎ)の上、相応の直段(じきだん。値段)とならば、とくと承合(しょうごう。問い合わせること)の上(うえ)申付(もうしつけ)らるべし。」

(よくよく検討した上で適正な価格と判断できれば、業者にしっかり問い合わせたのち注文するように。)


と伝えたが、どうにも納得がいかない。

 そこで、帰宅すると出入りの大工を呼びだし、例の大真名板の長さ等を示し、新調した場合の見積もりを尋ねた。大工は


「金五両にて仕
(つかまつ)るべし。」


と答えた。なんと、料理人が言った値段の6分の1である。

 水野はさらに、次のように質問した。それなら、自分の利潤をしっかり取った上、念には念を入れて仕上げた場合にはいくらになるか、と。

 大工が答える。


「念入
(ねんいれ)(そうろう)(だん)は最前(さいぜん)の直(あたい)にて、残る所なく候。但(ただ)し、手前の勝手(かって)十分との御意(ぎょい)の上は、金七両に仕候(つかまつりそうろう)べし。七両までの物にては御座(ござ)なく候(そうら)へども、十分利潤(りじゅん)を求め積(つも)り候様(そうろうよう)にとの仰(おおせ)ゆへ如此(かくのごとく)申上候(もうしあげそうろう)。」

(入念に仕上げた場合が先ほど申し上げた5両という値段で、それがすべてです。ただし、私が考える十分なもうけを含めた上での見積もりを出せとのお指図ならば、金7両で引き受けましょう。ただし、この大真名板は7両までの品物ではございません。十分なもうけを取った上での見積りを出せとのお言葉でしたので、このように申し上げる次第です。)


 大工によれば、大真名板はいかに入念に作ったとしても5両が相場。たとい大工のもうけを最大限に上乗せしたとしても、7両がいいところ。

 そこで水野は、その大工に大真名板の新調を依頼することにした。そして登城すると例の料理人を呼び出し、できあがった大真名板を見せた。すると料理人は、城中の厨房で使用している大真名板と全く同じものだと言う。

 それを聞くと、水野は次のように言った。


「是
(これ)、某(それがし)が出入の大工に利潤心にあくまで取(とら)せ拵(こしらえ)させ、金七両にて出来(しゅったい。完成)せり。公儀の御用なれば拾両(じゅうりょう)(ばかり)(まで)にて申付(もうしつけ)(しか)るべし。いかに御蔭(おかげ)を得る事なればとて、三十両とは余りなる義なり。各(おのおの)諸事に付(つけ)て宜(よろし)く念入(ねんいれ)(そうろう)べし。人知れず、如何程(いかほど)の御費(おついえ)ありや計(はか)るべからず。」

(この大真名板は、私のところに出入りする大工に、好きなだけもうけをとらせて作らせ、金7両で完成したもの。公儀御用なれば、高くとも10両くらいまでで注文するのが妥当だろう。いかに公儀から民間業者が恩沢を受ける仕事とはゆえ、30両とは余りにも度を越えた価格だ。それぞれ、諸事についてよくよく精査すべきである。人知れず、どれほど無駄な出費をしているかはかりしれない。)


 水野の言葉を聞いた料理人は返答ができず、赤面して座を立ったという。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、天保7(1836)年成立。「若年寄 水野大監物忠之」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年8月3日(火)
女の正体
 季節がら、『野翁物語』の中から怪異談をもう一つ(1)。わかりやすい内容なので、原文のまま次に示そう。ただし、読みやすくするため、適宜句読点を付し、漢字は現行のものに改めるなどしてある。


「明和九(1772)年、目黒行人坂
(めぐろぎょうにんざか)火事とて、江戸中大半焼失せし大火事有(あり)(2)

 其
(その)夜、牛込八幡宮(うしごめはちまんぐう)の脇(わき)に住(すまい)す加藤又兵衛(かとうまたべえ)が中間(ちゅうげん。雑役に従事する武家奉公人)市谷左内(いちがやさない)、坂を通りしに奇麗(きれい)なる女の泣(なき)(い)たるに逢(あい)て尋(たずぬ)るに

「焼出
(やけいだ)されて行(いく)べき方(かた)もなし」

といふ。

「然
(しか)らバ我方(わがかた)へ来(きた)り、一夜を明(あか)し、知れる人の行衛(ゆくえ)も尋(たずぬ)べし」

といふに、やすらかに得心
(とくしん。納得)して連(つれ)帰り、一人の男なれバ差障(さしさわ)るべき心遣(こころづか)ひもなしと、中間の心の内に大(おおい)に悦(よろこ)び、伴(ともな)ひて部屋へ入(いる)

 いろりへ火を沢山
(たくさん)に起(おこ)し、心の及ぶだけ(思う存分)馳走(ちそう。もてなす、世話する)しけるが、覚(おぼえ)ず少し居眠(いねむ)りて、目を覚(さま)せバ彼(かの)(おんな)も居眠り居(い)たりしが、口の端(はし)に長き毛の見ゆる如(ごと)く成(な)りしゆへ、目をひらき急度(きっと。はっと、とっさに)見れバ、いつか(いつの間にか)古狸(ふるだぬき)となり、大睾丸(だいこうがん)を広げて火にあぶり居(お)るゆへ、

「己
(おのれ)、狸め。よく化(ばけ)たり。打ち殺して汁(しる)の実(み。狸汁の具材)にせん」

とうち懸
(かか)れバ、狸初(はじめ)ておどろきて、窓より飛出(とびいで)逃去(にげさ)りたりとかや。」


 狐が化けた怪異談はシリアスなものが多いのに、狸が化けた怪異談の結末はたいていが落語のオチのよう。ユーモラスな分、納涼の「こわい話」にはなりにくい。


【注】
(1)著者未詳『野翁物語』第2冊、「六十六 妖怪物語并狸女に化し事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号211-0099 』
(2)目黒行人坂火事は、明和9年2月29日から翌日にかけて起きた大火。明暦の大火(1657)・八百屋お七の火事(1682)と並称される江戸三大火のひとつ。目黒行人坂大円寺から出火し、死者・行方不明者約2万人の被害を出したという。
2021年8月2日(月)
牛ケ淵の怪談
 西丸(にしのまる)小十人頭(こじゅうにんぐみのかしら)の小林弥兵衛が新御番(しんごばん)を勤めていたころ、麹町(こうじまち)三町目谷に住んでいた。長屋には家来分として、ひとりの浪人を差し置いていた。

 その浪人が、ある夜更けの雨静かな折りに、牛ケ淵(うしがふち)を通りかかったときのことである。連れにはぐれ、道に迷ったという若い女に遭遇した。それで浪人は、女と道連れとなった。

 女は酒に酔ったようなそぶりで、馴れ馴れしく男に話しかけてくる。歩くにしたがい、次第に男のからだに寄りかかってくる。

 すると突然、尋常ではない力で男に押しかかってきた。大の男を瞬く間に土手のはずれまで押しやるほどの怪力である。

 今まさに堀へ押し落とされようとしたその時、柔術の心得があった男はすんでのところで女をかわした。勢い余った女は、真っ逆様になって堀の中へ。

 しかし、実際には跡形もなく、いずこへか消え失せてしまっていたのである。

 男はにわかに恐怖を覚え、急ぎ逃げ帰ったという。


【参考】
・著者未詳『野翁物語』第1冊、「十三 牛ケ淵にて妖怪に逢ふ事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号211-0099
2021年8月1日(日)
直言
 森川出羽守俊胤(もりかわでわのかみとしたね)は初め内膳(ないぜん)と称した。元禄5(1692)年に下総生実(おゆみ)藩1万石を襲封し、奥詰(おくづめ。隔月交替で山水の間に伺候したもの、またその格式)となった。その後、御小性、大番頭に累遷し、従五位下紀伊守(のち出羽守)に叙爵。以後御側衆(おそばしゅう)を経て御奏者番(ごそうしゃばん)となり、寺社奉行を兼帯。正徳4(1714)年には若年寄に補せられた。

 享保元(1716)年、徳川吉宗(在職1716~1745)が8代将軍に就任すると、代始(だいはじ)め(将軍職を継いだ始めの年)の新政を宣言した。享保の改革のはじまりである。しかし、若年寄の森川は、ひたすら新政に反対意見を述べたてた。

 ある日、吉宗の御前で一同が居並ぶ中でのこと。例のごとく、また森川が新政についてとやかく批判を言い始めた。さすがの吉宗も、顔を真っ赤にして怒り出した。


「其方
(そのほう)ハ何の存寄(ぞんじより。考え)を以(もっ)て旗本勢を支配するや。」

(お前は若年寄として、どういう考えをもって旗本支配に臨んでいるのか。)


 森川は少しも臆することなく、吉宗に言い返した。


「権現様
(ごんげんさま。家康)の御大法(ごたいほう。厳重な法規・定め)を以(もっ)て支配仕候(しはいつかまつりそうろう)。」

(私めは、権現様の御大法に従って支配いたしております。)


 自分は職務を遂行する際、権現様の御大法を第一と考えている。家康の孫である将軍もまた、享保改革の基本理念に「諸事(しょじ)権現様御掟(おんおきて)之通り」を掲げているではないか。しかるに、権現様の御大法に従うと宣言しながら、それに背くような改革はおかしい。そう森川は主張しているのだ。

 森川のあまりの剣幕に、見かねた同僚が「出羽守、先づ御次(おつぎ。貴人の居室の次の間)へ立(たた)れ候様(そうろうよう)に」と森川を促し、一緒に隣の部屋に退かせた。

 これより以後、森川は病気と称して自宅に引きこもり、隠居願を提出した。吉宗がさんざん慰留したものの、森川は頑として聞き入れなかった。若年寄はそのまま辞職となった。

 間もなく息子が大番頭(おおばんがしら)に任ぜられた
(注)が、不幸にして病没した。ゆえに、父に引き続いて若年寄となり、将軍に直言する機会は失われた。

 その後、森川は剃髪して悠計(ゆうけい)と号し、延享3(1746)年正月に77歳で没した。


【注】
・『明良帯録』には「若年寄 門地により人材によりて大番頭より昇る」とある。山形豊広『明良帯録1(写)』1876年、内務省、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:152-0067
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、天保7(1836)年成立。「若年寄 森川出羽守俊胤」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月31日(土)
商売替え
 神田元誓願寺あたりに、紺屋(こうや。染物屋)と米屋が隣り合って商売をしていた。

 そのうち、米屋が土蔵を建てることにした。

 紺屋では、染めた布を干す張場(はりば)に近すぎて仕事に支障が出る、土蔵を建てるならもう少し紺屋側から引き下げて建ててくれるようにと頼んだ。しかし、米屋は紺屋の頼みを無視して、土地の境界ぎりぎりに土蔵を建て始めた。

 そこで、紺屋の主人は、町奉行所に仲裁を願い出た。

 町奉行は坂部能登守広高(さかべのとのかみひろたか。在職1795~1796)。坂部が米屋の主人を呼んで話を聴くと、次のように主張するばかり。


「自分の地面へ蔵を建
(たて)(そうろう)に、外より障(さわり)(そうろう)(すじ)は有間敷(あるまじき)。」

(自分の土地に土蔵を建てるのに、外からとやかく言い立てられる筋合いはございません。)


 これでは、とりつく島もない。そこで坂部は、紺屋に次のような提案をした。


「商売に障
(さわ)らバ家業改(あらたむ)べし。金魚屋など然(しか)るべきか。」

(米屋の土蔵ができて紺屋の商売に支障がでるなら、商売をかえよ。金魚屋などがよかろうか。)


 そこで紺屋は、しばらくして金魚屋を始めた。

 金魚を飼うため、米屋の土蔵近くに穴を掘り、そこに水を絶え間なく流し込んだ。すると、たちまち米屋の土蔵は地盤沈下を起こし傾き始めた。そのため、米屋では土蔵を境界線から米屋側に1、2間(けん。1間は約1.8m)ほど引き下げて、普請し直すはめになった。

 紺屋の希望通り、土蔵が米屋側に1、2間引っ込んだ。その結果、紺屋の張場での作業にも支障がなくなり、無事に商売が続けられることになった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 坂部能登守広高」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月30日(金)
山東京伝の販売戦略
 寛政5(1793)年、人気の草双紙作家山東京伝(さんとうきょうでん。1761~1816)が、江戸の京橋銀座1丁目に、煙草入れの販売店「京屋」を出店した。販売は父親に任せ、京伝は煙草入れ等のデザインや商品の販売戦略等を担当した。

 京伝の販売戦略は、現在と変わるところはない。自著の草双紙(くさぞうし)中で店の宣伝をしたり、広告をのせたり、知人の作家に宣伝してもらったり
(1)

 中でもヒットしたのは、判じ物(絵と文字を交えて書いた一種のなぞなぞ)にした口上書(こうじょうしょ。挨拶文)を商品の包装紙にしたことだ
(2)。京伝は画工北尾政演(きたおまさのぶ)としての顔も持つ。機知に富む判じ絵を描くことなど、いとも容易だったろう。そんな京伝作の包装紙目当てに、煙草入れを買いに遠方からも客が押し寄せたのだ。

 『野翁物語(やおうものがたり)』には次のようにある(なお、漢字は現行のものに改め、適宜句読点を付すなどしてある)。


「頃日
(けいじつ。このごろ、山東京伝と云(いい)て当世(とうせい)本草双紙などの作をなして名高し。

 此
(この)者、二、三年以前より京橋へ煙草入(たばこいれ)見世(みせ。店舗)を出しけるが、寛政七(1795年)(う)年九月二十四日、芝(しば)愛宕(あたご)縁日(えんにち)に山内にて安売(やすうり)の引札(ひきふだ。広告のちらし)口上書(こうじょうしょ)を画(え)と文字を交(まじえ)て認(したた)めはんじ物(判じ物)にして配(くばり)たるが、大(おおい)に世に行はれて其(その)摺物(すりもの。印刷物)に包(つつみ)て煙草入を商(あきな)ひしゆへに其(その)(すり)ものを見んとて、京伝が煙草入を遠方よりも買(かい)にやりて大(おおい)に繁昌(はんじょう)せし也(なり)

 其
(その)後より色々画にて絵解(えとき)したる草木(草紙の誤りか)など数多(あまた)出たり。京伝が口上書、此(これ)(はじめ)の作(さく)(なり)(3)


 なお、出店当初は大繁盛した京伝の煙草入れ販売店。しかし、だんだんと売り上げが落ちていったという
(4)。もしかすると、判じ物の口上書をお客さんたちが読めなかったせい?(5)


【注】
(1)たとえば曲亭馬琴の一枚刷り「山東弌凬煙管簿(さんとういつふうきせるのひながた)」など。(服部仁「新出、一枚摺『山東弌凬煙管簿』(袋付)の紹介」実践女子大学文芸資料研究所『絵入本ワークショップⅡ』2006年、P.9~10、https://www.jissen.ac.jp)
(2)この引札は、宮武外骨編『山東京傳』1916年、風俗絵画図書刊行会、P.72(国立国会図書館デジタルコレクション)で閲覧できる。
(3)著者未詳『野翁物語』第2冊、「四十二 山東京傳が事」、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号211-0099
(4)服部仁、前出、P.9。
(5)幸田露伴も判読に苦しんだという。幸田露伴「京伝の広告」に露伴の解読文があるが未確認。
2021年7月29日(木)
桂太郎と「うなぎ会」
 藩閥官僚勢力を代表する桂太郎(かつらたろう。1847~1913)は、1900年代初頭、三次にわたって首相をつとめた。その際、衆議院に支持政党をもたなかったため、西園寺公望(さいおんじきんもち)ひきいる立憲政友会と妥協・提携することによって政権の安定化をはかった。

 政権は両者間で交互に担当した。ゆえに「桂園時代(けいえんじだい)」は、桂・西園寺のなれ合いによる政権のたらい回しとよく批判される。

 しかし「ニコポン」(人心収攬術に長けている、の意)のニックネームがあった桂は、人々の意見もよく聴き、有用と判断した政策はすぐさま実行した。

 たとえば、桂が経済界に協力させるためにとった手段の一つに「うなぎ会」があった。桂が月に1、2回、うなぎの蒲焼きを食べながら財界人と懇談するという催しである。

 そんな会合には、現在であれば、経団連やら経済同友会やらの重鎮が参加するだろう。しかし、桂はそうした大物を除外して、ばりばりの若手ばかりを招いた。そして会の席上では、政府の秘密事項であろうが内外の情勢であろうが、ざっくばらんに披露した。首相の口から直々にもたらされるこうした最新情報が、「うなぎ会」参加者にとっては最高のご馳走だった。

 若槻礼次郎は「うなぎ会」を、後年次のように回想している。


「そこへ出れば、政府の秘密が筒ぬけにわかる。他人扱いでなく、仲間扱いである。そこで自然に協力させることになる。同時に桂公の方でも、形式一ぺんの話では困る、ひとつ各自の希望を述べてもらいたい、それがよければすぐ実行に移そうじゃないかという態度に出た。これが来会者の好感を博したようである。
 ( 中略 )
 
 こんな工合に、「うなぎ会」は皆かみしもを脱いで、打ち解けて話をする。ふだんいわないこともいう。そしてそれがいいとなると、すぐ行われる。原蚕種の統一にしても、農商務省の役人が案を立てて何百万円かの金がかかるというと、反対する者が出たりして、なかなか容易に運ぶものでない。それが総理大臣がまず動いて、財界人が支持するというので、実現も容易であり、結果も非常によかった。」



 桂太郎といえば「長州陸軍閥の巨頭山県有朋(やまがたありとも)の後継者」であり、「日露戦争を遂行した軍人首相」であり、「第一次護憲運動で倒壊した藩閥内閣の首班」だ。いずれも「他人の言葉に聞く耳を持たぬ」というイメージがある。

 しかし実際には、周囲の人々の意見によく耳を傾けた。それが政権維持の秘訣だった。


【参考】
・若槻禮次郎『明治・大正・昭和政界秘史ー古風庵回顧録ー』1983年、講談社学術文庫、P.150~151
2021年7月28日(水)
呼び捨て
 井上河内守正利(いのうえかわちのかみまさとし。1606~1675)は博学の人だった。

 寺社奉行を勤めていたときは、いかなる智識(ちしき。善智識、高僧)・能化(のうげ。一宗派の長老)であろうと、公事沙汰(くじさた。裁判)の際には「小僧(こぞう)、小僧(こぞう)」と呼び捨てにしていた。

 いずれの寺であったか、ある宗派の本寺(ほんじ。本末制度で末寺の上に立つ寺)に属する僧侶が、この「小僧、小僧」という呼び方に腹をたてて文句を言った。


「拙僧
(せっそう。私)も一宗の本寺たる格(かく)にて候(そうろう)(ところ)、小僧とは餘(あま)りなる御事(おんこと)。」

(私も一宗派の本寺格に属する者です。それを「小僧」と呼び捨てにするのは、余りにも失礼なことではありませんか。)


 これに対し、井上河内守は次のように応じた。


「其
(その)格を知らざるにてハなけれども、本寺の職分として餘多(よた)の出家を支配する身にて公事出入(くじでいり)(みずか)ら取捌(とりさばき)(おさむ)ることならずして奉行所へ持出(もちだ)す程(ほど)の短才(たんさい)。たとへ如何程(いかほど)の碩学(せきがく。学識にすぐれた者)たりとも其(その)才智(さいち)小僧にひとし。但(ただ)し、それにても智識(ちしき。高僧)たるや。」

(本寺の格式を知らないわけではない。しかし、本寺の職務として多くの僧侶を支配する身であるにもかかわらず、身内の訴訟出入りを自ら裁断して収拾できずに奉行所に持ち込むほどの能力のなさ。たとえいかなる碩学といわれても、その才知は小僧なみ。それでも「智識」と呼べましょうや。)


 このように言われ、抗議した僧侶は黙ってしまったという。


 その頃、京都所司代は名裁判官で知られた板倉周防守重宗(いたくらすおうのかみしげむね)だった。ある時、井上河内守が「周防守ハ大方(おおかた)如此(かくのごとく)に申付(もうしつ)」けるだろう(周防守ならおおよそこのような判決をするだろう)と言うと、果たしてその通りだった。


 板倉周防守重宗は茶臼を挽(ひ)きながら訴訟を聴き、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただずけ)は毛抜きであごひげを抜きながら判決を考えたという。井上河内守の裁判スタイルもまた変わったものだった。

 平家物語を語るのが好きで、裁判の際には柱にもたれて目をつぶり、平家を語りながら訴訟を聴いた。それで訴訟内容を聴き誤ることは、まったくなかったという。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、天保7(1836)年成立。「寺社奉行 井上河内守正利」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004 
2021年7月27日(火)
御書物奉行
 江戸城内には「御文庫」「官庫」などと呼ばれる書庫があった。明治になって「紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)」と通称されるようになった。この「紅葉山文庫」が所蔵する図書の管理・修復・副本作成等を担当したのが、若年寄の支配下にあった御書物奉行(おしょもつぶぎょう)だ。

 地味な存在だが、御書物奉行の就任者には「甘藷先生(かんしょせんせい)」こと青木昆陽(あおきこんよう)、北方探検家の近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)、シーボルト事件に関与して獄死した高橋景保(たかはしかげやす)ら、高校日本史教科書に登場するそうそうたる有名人が名を連ねている。旧幕府が所蔵した貴重な書物を後世に伝えたことで、彼らの果たした役割や影響は大きい。

 御書物奉行やその部下である御書物同心らの活動は、国立公文書館に残る『御書物方日記』(重要文化財)によってうかがい知ることができる。同史料は、インターネットで「国立公文書館デジタルアーカイブ」にアクセスすることで閲覧できる。
2021年7月25日(日)
価値が生まれる
 酒井忠勝(1587~1662)が伊達政宗(1567~1636)を招いて、自ら茶を点(た)てもてなしたことがあった。茶を飲み終わると、政宗が茶器を拝見したいというので、茶碗や茶杓(ちゃしゃく)などを披露した。

 茶杓は千利休(1522~1591)作である。忠勝が茶杓を政宗に手渡すと、政宗は何度かひねくり回して見ていた。すると、


「此
(この)茶杓は埒(らち)もなきもの」

(この茶杓はつまらないものだ)


と言うと、突然その茶杓をへし折ってしまった。

 何しろ、千利休の茶杓だ。現在なら重要文化財級のものだ。それを目の前でへし折られたのだ。忠勝は内心動揺した。

 しかし相手は、将軍家でさえ一目おく天下の伊達政宗公。お戯(たわむ)れのご挨拶ということで、その場をおさめざるをえなかった。

 政宗が帰ると、ほどなく忠勝のもとに政宗の使者がやってきた。使者は次のような口上を述べると、忠勝に一本の茶杓を差し出した。


「先刻
(せんこく)ハ御茶(おちゃ)被下(くだされ)、辱(かたじけなく)仕合(しあわせ)ニて候(そうろう)。興(きょう)に乗じ、卒忽(そこつ。粗忽)の義をいたし候。右、代(かわ)りの茶杓進上(しんじょう)(つかまつり)(そうろう)。」


 使者が差し出した茶杓は、武野紹鴎(たけのじょうおう。1502~1555)作の茶杓だった。紹鴎は利休の師である。この茶杓は酒井家の重宝となった。


 政宗は忠勝から茶席に招かれた際、古物である紹鴎の茶杓を進上したいと思いついた。しかし、忠勝が使用している利休の茶杓より価値ある品物を、安易に贈るのはいかがなものだろうか。そこで、利休の茶杓を戯れにへし折ったのだろうと推測された。

 のちに上方より茶器の目利(めきき)自慢の町人が、江戸に下ってきた。その際、酒井家の茶杓を鑑定して「これは紹鴎作ではない」と言った。

 しかし、この茶杓は真贋(しんがん)が問題なのではない。

 この茶杓は、政宗のエピソードが付随することで、もはや紹鴎作の真物にも勝る価値を持つことになったのだ。


【参考】
・山口安固『酒井空印言行録』巻一、明和2(1765)年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0112
2021年7月24日(土)
松平正信の処世術
 奏者番(そうじゃばん)の松平備前守正信(まつだいらびぜんのかみまさのぶ。1621~1693)は、松平正綱の子である。兄が早世したため、父の跡を継いだ。

 しかし、父が甥の信綱(大河内久綱の子。のち老中)を養子にすると、家光の側近として重用された信綱が養子ながら嫡家となった。そのため、正信は正綱の実子ながら、庶子となった。

 正信は政治的野心をもたなかった。それが、彼にとってわが身を全うする処世術だったのだろう。

 正信は閑居幽栖(かんきょゆうせい)を好み、書をよくし経書(けいしょ。儒学の書物)に親しんだ。屋敷の庭には野菜を植え、来客があればこの野菜を調味してもてなした。外においても華麗を求めることがなかった。


 また、一生多言を慎んだ。その理由を、正信は次のように語っていたという。


「上士ハ三寸の舌頭
(ぜっとう)を以(もっ)て人を殺し、中士は筆頭(ひっとう)を用ひ、下士は劔刀(けんとう)を用ゆるとは古(いにしえ)の諺(ことわざ)なり。我々如きは三寸の舌先少しの誤(あやまり)を以(もって)(かえっ)て我身(わがみ)を害すべき恐れあれバ、常に謹慎すべきは一言なり。」

(「人を殺すのに、上士は三寸の舌先、中士は筆先、下士は刀剣を用いる」という古い諺がある。しかし、われわれのような者は、舌先から出たわずかな物言いでかえってわが身を損なうおそれがあるものだ。だから常につつしむべきは一言なのだ。


 こうした慎重な心構えが、舌先三寸で奉公する奏者番という役儀を、約30年にわたってつつがなく勤め上げることができた秘訣だった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、天保7(1836)年成立。「御奏者番 松平備前守正信」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月22日(木)
コーヒーには砂糖
 19世紀初頭、オランダ商館長として来日したヤン・コック・ブロムホフJan Cock Blomhoff(1779~1853)。1817年から1823年までの7年間滞日し、この間さまざまな日本人と交遊を結んだ。その際にやりとりした豊富な文書類が、オランダハーグの国立文書館に残されているという。

 オランダ通詞の研究者である片桐一男氏が、その中からブロムホフとオランダ通詞(オランダ語の日本人通訳)との間でかわした手紙をいくつか紹介している。たとえば、次のような手紙がある。


「ブロムホフ様

 どうか、いくらかの砂糖をこのコーヒーに入れて下さい。通詞部屋で当番をしている私の御馳走のために。               敬具
 
              私の主人
                 貴下の下僕
                    庄左衛門」
(1)


 出島の通詞部屋で当直をしていた本木庄左衛門(もときしょうざえもん)が、コーヒーをいれて飲もうとした。ところが砂糖(当時は舶載の貴重品)がない。そこで使いの者に、上の手紙とコーヒーカップを持たせて、ブロムホフがいるカピタン部屋まで行かせたのだ。

 この手紙を読むと、ブロムホフとオランダ通詞のつきあいが、想像以上に親密で気安いものだったことに驚かされる。

 それにしても、通詞部屋とカピタン部屋との往復で、コーヒーカップからコーヒーはこぼれたり、冷めてしまったりしなかったのだろうか。また、カップに入れてもらった砂糖は足りたのだろうか。


【注】
(1)片桐一男『阿蘭陀通詞』2021年、講談社学術文庫、P.227~228
2021年7月21日(水)
真田幸村の最期
 英雄の死にまつわる逸話には諸説紛々。『松雲公御夜話(しょううんこうおんやわ)』には、真田幸村(名は信繁。1567~1615)の最期の様子が記されている。次に全文を掲げる。


「一、大坂御陳
(大坂御陣。大坂夏の陣)之時、真田左衛門(さえもん)幸村を討取(うちとり)たる者ニハ壱万石可被下旨(くださるべくむね)、権現様(ごんげんさま。家康)被仰出(おおせいださる。然(しか)るに越前(えちぜん。福井藩)之士、西尾仁左衛門(にしおにざえもん)討之(これをうつ)。其段(そのだん)、一伯殿(いっぱくどの。福井藩主松平忠直)被仰上候(おおせのぼらせそうら)ヘバ、左衛門(真田幸村)を何として可討(うつべし)ぞと被仰計(おおせらるばかり)ニて万石不被下(くだされず)と也。依之(これにより)一伯殿述懐有(あり)て後狂氣のごとく成給(なりたま)ふよし也。

 右仁左衛門、大坂落城之時分、かしこをあるき候へバ、田のくろ
(畦)に老人腰をかけ居(い)たり。仁左衛門見て、城方の人ならバ勝負を可致(いたすべし)と云(いう)。左衛門(幸村)急度(きっと)見て、何共不言(なにともいわず)、目を塞(ふさ)ぎ、又観念の躰(てい)ニ見ゆる。頻(原字は口に頻。しきり)ニことばを懸(か)けれバ、推参(すいさん)也、見聞も及びつらん、真田左衛門也、討て高名ニせよ、とて鑓(やり)をなぎ出すニ仁左衛門股(もも)に立(たち)けり。是(これ)にもひるまず、終(つい)に左衛門が首をあげしと也。」

(1615年の大坂夏の陣の時、「真田左衛門幸村を討ち取った者には1万石を下賜する」と家康公がおっしゃった。そこで、越前福井藩士の西尾仁左衛門が幸村を討ち取った。そのことを、藩主の忠直殿が報告したところ、家康公は「幸村をどうして討つことができようか」とおっしゃられ、1万石は下賜されなかったとのこと。この論功行賞を忠直殿は不満に思われ、後には狂気のような振る舞いをされるようになったという。

 さて、右の仁左衛門が大坂落城の時分、そこらへんを歩いていたところ、田のあぜに老人が腰をかけていた。仁左衛門はこれを見て「大坂城方(豊臣方)の者ならば、勝負をしたい」と言った。幸村はこちらをきっと見たが、何も言わずに目をつむり、また観念したようにも見えた。仁左衛門がいく度も言葉をかけると、幸村は「参ろう。見聞にも及んでいようが、私が真田左衛門である。私を討ち取って武士の功名とせよ」と言うと鑓をなぎ出し、仁左衛門の股を負傷させた。仁左衛門はそれにもひるまず、ついに幸村の首を取ったということだ。)



 なお、「一伯(いっぱく)殿」は福井藩主松平忠直(まつだいらただなお。1595~1650)のこと。結城秀康(ゆうきひでやす)の次男で家康の孫にあたる。大坂夏の陣では、配下が幸村を討ち取り、また大坂城一番乗りをするなど抜群の功績をたてた。しかし、所領の加増がなく、幕府に不満を持ち「乱行」を繰り返すようになったという。上記史料では、幸村を討ち果たした見返りの恩賞がなかったことが、忠直の「乱行」の発端とする。「乱行」の結果、忠直は越前福井藩68万石の大大名の地位を剥奪され、豊後(現大分県)萩原の地に配流。出家して一伯と号し、同地で病死した。ただし、「乱行」の真偽については議論がある。


【参考】
・中村克正著・成瀬正敦写『松雲公御夜話』第1冊、享保10(1746)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー0118
2021年7月20日(火)
名君の条件
 生類憐みの令は、徳川綱吉が仁政を生類にまで及ぼそうとしたものだ。戦国時代の血なまぐさい遺風を一掃するその高邁(こうまい)な趣旨に反し、いざ実施してみると、かえって多くの人々を損なう悪法となってしまった。

 ある時、加賀藩江戸屋敷の井戸に狐が落ちた。引き上げてみたところ、手当てもかなわず、死んでしまった。事情を幕府の担当役人に報告したところ、加賀藩に落ち度があったとして足軽番人5人を死罪に処するよう下命があった。

 他藩の屋敷では、役人に賄賂を送って手心を加えてもらい、処分を軽く済ませてもらっていた。加賀藩ではそうした不正な手段をとらなかったので、面倒なことを言ってきたのだ。ともかく、足軽を死罪にしなければ加賀藩の立場が悪くなるとの旨が伝えられた。

 そこで、藩主の前田綱紀(まえだつなのり。1643~1724)は老中戸田山城守忠昌(とだやましろのかみただまさ。1632~1699)に面会すると、次のように主張した。


「畜生一疋
(いっぴき)と人とハ御替難(おんかえがたく)被成候(なられそうろう)。」

(畜生と人の命の重さは較べものにならない。人の命を、畜生一匹の命と交換することなどできない。)


 これに対して戸田山城守は、綱紀の言い分に「御尤(もっとも)に候(そうろう)」と同意した。されど、足軽を死罪に処さなければ、綱吉公のお心にはかなわず、加賀藩のためにはなるまいと言った。

 戸田のこの返答に対し、綱紀は毅然(きぜん)として次のように反駁(はんばく)した。

 そもそも加賀藩の足軽たちに落ち度はなかった。それを道理に反して死罪に処すなど、決して承伏できることではない。


「たとへ公方様
(くぼうさま。将軍)思召(おぼしめし)ニ叶不申候(かないもうさずそうろう)とても、是非(ぜひ)も被仰上候様ニ(おおせのぼらせそうろうように)

(たとえ将軍のお心にかなわないとしとも、必ずこの趣旨を将軍にお伝え下さるように。)


 その後、加賀藩に「足軽を死罪にせよ」という再度の沙汰はなかったという。

 相手が絶対的な権力者であれ誰であれ、正論を臆することなく堂々と主張できること。それが名君の条件なのだろう。


【参考】
・中村克正著・成瀬正敦写『松雲公御夜話』第1冊、享保10(1746)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159ー0118
2021年7月19日(月)
ヒヤリ
 加賀藩第5代藩主前田綱紀(まえだつなのり。1643~1724)の言行を記録した『松雲公御夜話(しょううんこうおんやわ)』には、著名人のエピソードがいろいろと紹介されている。伊達政宗(1567~1636)の逸話もその一つ。


 豪胆な戦国大名として知られる政宗。ある時、茶碗を手にとって鑑賞していた。天下に三つしかないという名物(めいぶつ。古来いわれのあるすぐれた茶道具)である。

 ところが、どうした拍子にか、その茶碗を取り落としてしまった。剛胆な政宗が思わずヒヤリとした。

 しばらくすると、今度は怒りが沸々(ふつふつ)とこみ上げてきた。


「我ら事、如何之義
(いかがのぎ)有之(これあり)(そうらい)ても動轉(どうてん)する事もなく恐怖する事せまじと思ひしニ、此(この)茶碗始(はじめ)て動轉せり。無念(むねん)之至(いた)り。」

(自分は、いかなることがあっても動揺したり恐れたりなどしまいと思ってきた。しかしこの茶碗のせいで、初めてヒヤリとさせられた。いかにも無念だ。)


 そう言うと、その茶碗を外に投げ出してしまった。

 この時壊れてしまった茶碗は、その後も名物として伊達家に残っていたという。


【参考】
・山崎克正著・成瀬正敦写『松雲公御夜話』第1冊、享保10(1725)年成立、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0118
2021年7月18日(日)
大岡越前守の毛抜き
 大正4(1915)年、上野不忍池畔で江戸博覧会なるものが開かれた。

 その際、場内に陳列された大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の遺品の中に、4丁の毛抜きがあったという。大きさは3寸(9cm)くらいから7寸(21cm)余まで。見学に行った穂積陳重氏は、毛抜きのあまりの大きさに驚かされたという。

 さて、同氏の『法窓夜話』によると、それら毛抜きの説明書(せつめいがき)には次にようにあった。


「大岡越前守忠相ガ奉行所ニ於テ断獄ノ際、常ニ瞑目シテ腮髯
(あごひげ)ヲ抜クニ用ヒタルモノナリ」(1)


 京都所司代の板倉周防守重宗(いたくらすおうのかみしげむね)は茶臼を挽きながら訴訟を聴いたというが、江戸の町奉行大岡越前守忠相は髯を毛抜きでひき抜きながら目をつぶって訴えを聞いたという。ともに、精神を集中させて公平な裁判をするための所為だ。

 しかし、現在の裁判官が髯や鼻毛を抜き抜き訴訟を聴いていたら、「不謹慎な裁判官」として世間からつるし上げをくらうだろう。武陽隠士ならずとも、


(昔は)閑暇なる事なり」(2)

との感は否めない。


【注】
(1)穂積陳重『法窓夜話』1980年、岩波文庫、P.120
(2)武陽隠士『世事見聞録』1994年、岩波文庫、P.202
2021年7月17日(土)
茶臼と冷え炬燵
 京都所司代をつとめた板倉周防守重宗(いたくらすおうのかみしげむね。1586~1656)は、父伊賀守勝重(いがのかみかつしげ)とともに名所司代として知られた。

 江戸の町奉行に大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が登場するまでは、名裁判官といえば板倉父子と相場が決まっていた。大岡の裁判と伝わる話(大岡政談)のなかにも、実際には板倉父子の事跡がずいぶんと紛れ込んでいるという。

 そんな重宗には、次のような逸話がある。

 重宗は、白州(しらす。法廷)に臨む縁先の障子を締め切りにしておき、その内側に所司代の席を設けさせた。裁判があると、西方を拝したのちその席に座り、茶臼を挽きながら訴訟を聞いたという。

 ある人がその理由を問うと、重宗は次のように答えた。


「凡そ裁判には、寸毫
(すんごう)の私をも挟(はさ)んではならぬ。西方を拝するのは、愛宕(あたご)の神を驚かし奉って、私心萌(きざ)さば立所(たちどころ)に神罰を受けんことを誓うのである。また心静かなる時は手平かに、心噪(さわ)げば手元狂う。訟(うったえ)を聴(き)きつつ茶を碾(ひ)くのは、粉の精粗(せいそ)によって心の動静を見、判断の確否(かくひ)を知るためである。なおまた人の容貌(ようぼう)は一様ならず、美醜(びしゅう)の岐(わか)るるところ愛憎(あいぞう)起り、愛憎の在るところ偏頗(へんぱ)生ずるは、免(まぬか)れ難(がた)き人情である。障子を閉じて関係人の顔を見ないのは、この故(ゆえ)に外(ほか)ならぬ」(1)


 このゆえに重宗には「板倉殿の冷え炬燵」という諺ができた。「冷え炬燵」は「火がない」の意。「周防どの(板倉重宗)は才ある人にて政事行はるるに一生非なし」(其角『五元集』)だったので、「非がない」を「火がない」にかけて「板倉殿の冷え炬燵」といったのだ
(2)

 もっとも、武陽隠士(ぶよういんし)なる人物は次のように批判している(『世事見聞録』)。

 昔は訴訟の数も少なく、人々の人情も素直だった。しかし、訴訟の数はこの百年ほどで「元禄・享保の頃より競(くら)ぶる時は十倍ともなり」、「今(注、『世事見聞録』には文化13年の序がある)の人は道理に構はず、損益・利欲の事のみ争ふ」邪悪な者ばかり。
 

「往昔
(おうせき)、板倉伊賀守(正しくは周防守。伊賀守は父の勝重)の頃は茶臼を挽きながら公事を聴きしといふ。閑暇(かんか。ひま)なる事なり。」(3)

(昔、板倉重宗の頃は茶臼を挽きながら訴訟を聴いたという。なんとものどかなことだ。)



【注】
(1)穂積陳重『法窓夜話』1980年、岩波文庫、P.119~120
(2)喜多村信節『嬉遊笑覧・下』1932年、成光館出版部、P.473
(3)武陽隠士『世事見聞録』1994年、岩波文庫、P.202
2021年7月16日(金)
大岡裁き(6)-和歌の功徳-
 本所石原あたりに渡辺才右衛門という武士がいた。幼少の子がいたので、乳母をつき添わせて遊ばせていた。

 ところがこの乳母は、幼児の世話をほったらかしにて隣家の長屋へ行き、こともあろうに密通をしていた。その間、幼児は隣りの子といさかいをおこし、おもちゃのたたき鉦で隣の子の眉間(みけん)を打ったところ、運悪くその子を死なせてしまった。

 殺された子の父親天野定右衛門は激怒した。大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の番所に訴え出て、加害者の幼児を解死人(げしにん。斬首刑)とするよう願い出た。

 大岡は次のように裁断した。


「十五才以下の子に解死人
(げしにん)といふ法なし。其上(そのうえ)、是(これ)ハ七才未満の事なれば尚々(なおなお)其義(そのぎ)申付(もうしつけ)がたし。されども殺され損といふにハ成難(なりがた)し。十五才にならば出家(しゅっけ。僧侶になること)させ、殺されし子の菩提(ぼだい)を弔(とむら)ハしむべし。」


 次に旦那寺の住職を呼び出し、次のように申し渡した。


(加害者の幼児を)その方弟子となし、出家(しゅっけ)得道(とくどう。悟りを開く)さすべし。此上(このうえ)ハ還俗(げんぞく。俗人に戻ること)せしとて奉行所の無念(ぶねん。落ち度)にハあらず。其(その)住持(じゅうじ。住職)の不調法(ぶちょうほう。落ち度)なり。」


 「幼児を出家させよ」とは言いながら、実際には俗人のまま寺に差し置くようにと申し含ませたのだ。

 最後に乳母を呼び出した。


「その方、小児の傅
(ふ。守り役、付き添い)をしながらその子を捨置(すておき)ておのが不義(ふぎ。密通)を働く段、言語道断(ごんごどうだん)のいたづら者(ろくでなし。淫乱な者)。その科(とが。罪)により、一生新吉原(しんよしわら。遊女街)の奴(やっこ。重罪者の女の本籍を剥奪し婢とするもの)に下(くだ)さる。」


 その時、女が白州(しらす。法廷)において一首の和歌を詠んだ。


「果てしなき うき世の末に 泪川
(なみだがわ。涙が流れるのを川にたとえた語)
      
流れの水を あくまでも(飽き飽きするほどまでに)くむ」


 これを聞いた大岡は、「扨(さて)もやさしき女哉(かな)」(なんとも風流な女だ)と感心し、刑期を一生涯(無期)から5年間(有期)に軽減した。和歌の功徳だろう。

 この女はのち、新吉原角町の万字屋という店で、九重(ここのえ)という名高い遊女になったという。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 大岡越前守忠相」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月14日(水)
石谷十蔵、相撲をとる
 石谷十蔵貞清(いしがやじゅうぞうさだきよ。1594~1672)が御先手鉄砲頭(おさきててっぽうのかしら)だった時の話(また、御目付の時の話ともいう)。

 正保2(1645)年10月12日、3代将軍家光が鷹狩りのため麻布へ御成りになった。その際、白銀台を小荷駄馬に乗って横切る者がいた。将軍の前を乗打ち(馬に乗って通ること)する者は、その場で誅殺(ちゅうさつ)するのが決まりだった。家光は、「あの者を斬(きっ)て捨(すて)よ」と下知した。

 そこで、石谷十蔵が走り出て、馬上から男を引きずり落とした。突然引きずり落とされた男は、


「何人(なにびと)か。理不尽(りふじん)の所為(しょい)なり。」

(誰だ。こんな理不尽なことをするのは。)


と怒り、十蔵に取ってかかった。

 男を斬り捨てるつもりでいた十蔵は、しかしここで思い返した。



「此者
(このもの)ハ馬士(まご)と見へたり。御成(おなり)としらず乗打(のりうち)したり。助けばや。」

(この者は馬士のようだ。将軍の御成りと知らずに乗打ちしたのだ。助けたいものだ。)


 そこで十蔵は男を抱(かか)え倒そうとした。しかし、男も投げられまいとふんばり、両者の相撲になってしまった。

 石谷は力も強く、相撲上手だった。ところが、男も強力(ごうりき)で相撲もなかなか得意な様子。石谷が次々に相撲の技を繰り出すも、男はそれらに耐え、一向倒れる気配がない。熱戦になった。

 すると家光は床几(しょうぎ。携帯用の椅子)を出させ、それに腰を下ろすと、じっくりと相撲観戦をはじめたのである。相撲巧者による白熱した試合展開は面白く、家光自身、大いに笑い声をあげるほどに愉快なものだった。

 さんざんの熱戦の末、ついに十蔵が男を投げ倒し、やっとのことで取り押さえることに成功した。これを見た家光は「出来(でかし)たり」と、十蔵に褒詞(ほうし)を与えた。

 後日、堀田加賀守を通じて、褒美として黄金5枚・小袖1枚が十蔵に下賜された。その際堀田は、次のような話をひそかに十蔵にうちあけた。

 将軍の御成りを知らずに乗打ちしたため、誅殺(ちゅうさつ)されるというのはまことに不憫(ふびん)。それを十蔵が作意によってあの馬士(まご)を助けたので、家光も「御機嫌(ごきげん)御快然(ごかいぜん)」だったと。

 後に聞くところによれば、あの馬士(まご)は小関源太という隠れなき相撲上手で大力の者だったという。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御先手頭 石谷十蔵貞清」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月13日(火)
ふたりの上司
 5代将軍徳川綱吉が、生母の桂昌院(けいしょういん)とともに、護国寺(ごごくじ)に御成(おな)りになった。

 その時、警固を担当していた御先手組(おさきてぐみ)の弓一張りの弦(つる)が切れてしまった。そこで代わりの弦を取りに人を遣わしていたところ、運悪く若年寄の加藤越中守英明(かとうえっちゅうのかみひであき。近江水口藩主、のち下野壬生藩主。1652~1712)に見つかってしまった。

 御先手組(弓組と鉄砲組がある)は組頭・与力・同心からなり、平常は江戸城本丸諸門の警備を担当し、今回のような将軍他行の折りにはその警固にあたった。

 御先手組は若年寄の支配下にある。そこで、若年寄の加藤越中守は、弓の弦が切れていたことを見つけると、御先手頭たちをさんざんに叱り飛ばして行ってしまったのだ。

 しばらくして、同じ若年寄の秋元但馬守喬朝(あきもとたじまのかみたかとも。甲斐谷村藩主、のち武蔵川越藩主。1649~1714)がやってきた。

 秋元も、先ほどの弦の切れた弓を見つけた。しかし、秋元は御先手頭たちを咎(とが)めるどころか、次のような言葉をかけて、むしろ彼らをねぎらったのである。


「各
(おのおの)夜の内より出勤ゆへ御弓の弦を休められしと見へたり。遠所(えんしょ)の御成(おなり)、夜の内より野(の)あひに飾置(かざりおか)れ候(そうろう)ては御弓もそこね申すべし。代(かわ)り代り弦を休められ然(しか)るべし。」

(おのおの方は夜のうちからの出勤ゆえ、弓の弦がのびて使い物にならなくならないように、弦をゆるめているとお見受けします。遠方の御成(おなり)のため夜のうちから平地に弓を立て置かれていては、弓もいたんでしまうでしょう。交代交代で、弦をゆるめられるのが当然でしょう。)


 秋元は、御先手組が夜のうちから現場に来て準備していた労苦をまずはねぎらったのだ。そして「長時間にわたる警固ゆえ、弓は代わる代わる弦を休めておかなければ危急の際には使い物にならない」と言って彼らの面子(めんつ)を立てつつ、弓の一張りぐらい弦が切れていたことなど不問に付したのだ。

 一方は、ささいな瑕疵(かし)をとりあげ、頭ごなしに部下をどなりつける上司。もう一方は、部下の労苦を理解し、その仕事のフォローにまわる上司。どちらの上司に人望が集まるかは、明らかだ。

 当時の御先手組は、組頭から与力・同心にいたるまで、秋元但馬守に心服していたという。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、天保7(1836)年成立。「若年寄 秋本但馬守喬朝」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月12日(月)
ネズミ退治のご褒美
 酒井讃岐守忠勝(さかいさぬきのかみただかつ。1587~1662)といえば3代将軍家光の側近中の側近で、老中・大老までつとめたほどの人物だ。しかし、そんな忠勝にも苦手とするものがあった。

 ある夜のこと。

 どこの隙間(すきま)から侵入したのか、居間のなかをネズミが走り回った。ネズミが苦手な忠勝は、自ら手が下せない。近習(きんじゅう)たちに「早くたたき殺せ」と命じた。しかしネズミはすばっしこく逃げ回り、捕まえることができない。忠勝は次第に苛立(いらだ)ってきた。

 そのネズミを近習のひとりがうまく退治した。忠勝は「でかした」と言うや、一転して上機嫌になったのである。

 忠勝の前から退出した近習たちは、ネズミを退治した仲間に向かって次のように言った。


「御手前
(おてまえ)は御眼前(ごがんぜん)ニて手柄(てがら)をいたし、いつニ無之(これなき)御機嫌(ごきげん)に候(そうろう)。定(さだめ)て一廉(ひとかど)の御褒美(ごほうび)被下(くださる)べし。」

(あなたは忠勝様の目の前でネズミ退治の手柄を立て、忠勝様はいつにない御機嫌の様子。きっとたいそうなご褒美をくださるでしょう。)


 ネズミを退治した近習も「一廉の御褒美」への期待がふくらむ。

 その近習が当番の日、いよいよ忠勝の御前に呼ばれた。すると忠勝は梨を一つ手に取ると、それを小刀で二つに割り、その半分を近習に与えたのである。

 「一廉の御褒美」を期待していた近習は、肩すかしをくらった体であった。

 しかし、よく考えてみると、ネズミを捕まえたくらいで褒美がましい物を期待すること自体が軽率だった。こんな些事でも立派なご褒美を貰えるとなると、今後抜群の忠節を尽くした奉公人が出た場合、その者に与えるご褒美との釣り合いがとれなくなるではないか。

 だから忠勝は「ネズミ捕りの褒美なら梨半分くらいだろう」としながら、手ずから与えることによって労(ねぎら)いの意を近習に伝えたのだ。


【参考】
・山口安固『酒井空印言行録』巻三、明和2(1765)年、国立公文書館デジタルアーカイブ、請求番号:159-0112
2021年7月11日(日)
若者だからといって馬鹿にするな

 島原・天草の一揆(1637~1638)が起きた。幕府は追討軍の目付(めつけ)を派遣するのに、若者の中から人選した。これに対し、腕に覚えがある老人連中から不審の声が挙がった。

 なかでも旗本の大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん。反骨の人として知られ、講談等では「天下の御意見番」と称される。1560~1639)は、声高に次のような嫌みを言うと大笑いした。


「世も末に成りたり。年若
(としわか)の者、軍奉行(いくさぶぎょう)の目付、心元(こころもと)なし。何を目付せんや。」

(世も末になったものだ。若造が軍奉行の目付とは何とも頼りない。何を監察するというのか。)


 目付に任命された者がこれを聞き咎(とが)め、彦左衛門と口論になった。すると若年寄の酒井備後守忠朝(さかいびんごのかみただとも。1619~1662)がそこに割ってはいり、その者に向かって次のように言いその場から退出させた。


「大切の御用を蒙
(こうむ)り、何を私(わたくし)の論を致(いた)され候(そうろう)(や)。早々退出、支度(したく)こそ肝要(かんよう)なり。」

(大切な任務を命じられたのに、何を個人的な話をしているのか。急ぎ退出して、出発の準備をすることこそ肝要だ。)


 そして、今度は彦左衛門の方に向き直ると次のように述べ、彦左衛門を黙らせた。


「御辺
(ごへん)、老功(ろうこう)・武辺(ぶへん)、人のゆるしたる所なり。但(ただし)、今の如(ごと)き言葉、誰しも耳に掛(かけ)申すべし。扨(さて)、御自分(ごじぶん)事、鳶巣城責(とびのすじょうぜめ)一番乗(いちばんのり)を致(いた)されたると常々(つねづね)自讃(じさん)あり。其時(そのとき)、御自分十六才にて初陣(ういじん)の由(よし)、慥(たしか)に覚(おぼえ)たり。然(しか)るに若年(じゃくねん)の人、高名(こうみょう)心元なしとは如何(いかが)。心得(こころえ)がたし。」

(貴殿の年功・武芸は皆が認めたところで、貴殿が今しがた申した言葉は誰しも耳にするものです。ところで貴殿は、鳶巣城攻めで一番乗りの功名をあげたことを常々自慢しておられる。その時貴殿は16才で初陣だった由を、確か記憶しております。しかるに、若輩者だから功名をたてられるかどうか心もとない、などと申されるのはいかがか。納得しかねます。)


 酒井が立ち去った後、彦左衛門は次のように漏らしたという。


「讃岐守
(さぬきのかみ。酒井忠朝の父酒井讃岐守忠勝のこと)が子に油断ならず。若けれども道理分明(どうりぶんめい)なり。恐ろし、恐ろし。」

(酒井忠勝の息子は油断がならない。若いのに理詰めが明快だ。恐ろしいこと、恐ろしいこと。)


 年齢が若いというだけで、その人物の能力まで軽んじるのはお門違い。彦左衛門自身、初陣での一番乗りを常々自慢しているが、あなただってその時はたかだか16歳の若造だったではないか。

 自分の論理の矛盾を酒井に指摘されて、さすがの彦左衛門も返す言葉がなかったのだ。
 

【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、天保7(1836)年成立。「若年寄 酒井備後守忠朝」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年7月9日(金)
御小性松平長四郎(5)
 家光が鉄砲の稽古場に来て、火縄銃を打とうとした。しかし、引き金を引いたものの弾丸は発射されず、火はそのまま立ち消えてしまった。おそらく火薬の詰め方が悪かったのだろう。家光は、その鉄砲をかたわらに置いた。

 その折り、ほかの事に気をとられた家光は、鉄砲を置いたことをうっかり失念し、自ら銃口の前にわが身を置いてしまった。

 この時長四郎は、病後だったため御前から遠くに控えていた。しかし、家光の危うい様子を見るや否や飛び出し、家光の前にあった鉄砲を蹴ったのである。銃口の向きがかわったその直後。立ち消えしていたはずの火薬に火が移り、弾丸が飛び出した。まさに危機一髪だった。

 宿老のひとり青山伯耆守(あおやまほうきのかみ)は、長四郎の咄嗟(とっさ)の行動に感動し、涙ながらに長四郎の忠節を褒賞したのだった。



【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御小性 松平長四郎信綱」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月8日(木)
御小性松平長四郎(4)
 竹千代(家光)が3歳の時のこと。将軍の御寝殿の軒端に雀が巣くい、子どもを産んだ。それを遠くから眺めていた竹千代は、無性に雀の子が欲しくなった。

 そこで長四郎に、雀の子を捕ってくるようにと命じた。しかし長四郎はまだ11歳の少年。自分には無理なご命令と辞退した。しかし、周囲の者たちは、長四郎に無理強いをする。


「昼は驚きて飛去
(とびさ)る事ありなん。巣くひし所よく見置(みおき)て、日暮(ひくれ)てこなたの屋(おく)の軒(のき)にはしごして登り、かしこに忍び行(いき)て取(とる)べし。おとなハ身重く、足音もしなん。只(ただ)(なんじ)とりて参(まい)らせよ。」

(昼間捕りに行くと、驚いて飛去ってしまうこともあろう。巣を作った場所をよく見覚えておいて、日が暮れてからこちらの建物の軒に梯子をかけて登り、あそこまでそっといって雀の子を捕まえよ。大人はからだが重く、足音もするだろう。だからお前が捕って、若君に雀の子を持ってくるのだ。)


 そこでやむなく、日が暮れてから雀の子を捕りにいった。こちらの建物から伝い伝いに行き、御寝殿の軒まできて雀を捕ろうとしたところ、誤って足を踏み外し、そのまま中庭に落ちてしまった。

 物音に驚いた秀忠が、刀をとって障子を引き明けた。御台所(みだいどころ。秀忠の正室お江の方)が灯火を掲げて照らしてみると、そこにいたのは長四郎である。

 不審に思った秀忠が長四郎に尋ねる。


「汝
(なんじ)は何しに爰(ここ)へ来(きた)りぬるぞ」(お前は、何をしにここへ来たのだ。)


長四郎:
「今日昼、此(この)御殿の家の軒端(のきば)に雀の子うミたるを遙(はるか)に見て、余りほしさに参(まい)りて候(そうろう)。」

(今日の昼間、この御殿の軒端に雀が子を産んだのを遠くから見て、あまりの欲しさに参ったのでございます。)


秀忠:
「いやいや、己が心にはあらじ。誰が教へけるぞ。」

(いやいや、お前の一存ではあるまい。誰がそそのかした。)


 しかし秀忠がいくら尋ねても、長四郎は頑として同じを答えを繰り返すばかり。

 業を煮やした秀忠は、「年頃にも似ぬ不敵なれ(幼い年頃にも似ぬ、大胆不敵なやつだ)」と言うや、大きな布袋の中に長四郎を押し込んだ。そして、自ら袋の口を封じると、その大袋を柱に引っかけて、中に押し込んだ長四郎に向かって次のように言った。


「事
(こと)の由(よし)、有(あり)の侭(まま)に申さざらん程(ほど)は、いつ迄(まで)もかくて候(そうら)へ。」

(事の次第をありのままに申すまでは、いつまでもそのまま袋の中に入っていよ。)

 
 朝になった。秀忠は将軍としての勤めがある。常の御座へと出て行った。

 御台所は長四郎の行為の真相を、すでに見抜いていた。竹千代が雀の子を所望したのだ。それなのに長四郎は、自身がつらい目にあうことも顧みず、「若君のご命令でした」などと決して言わないのだ。

 若君をかばおうとする長四郎のけなげな心根に深く感じた御台所は、女房たちに命じて長四郎のために朝食を用意させた。そして、長四郎に食事をさせると、再び大袋の中に長四郎を入らせ、袋の口を元のように縫って置いておいたのだった。

 昼頃になって秀忠が戻ってきた。長四郎にまた同じ質問をした。しかし長四郎は、頑として最初の主張を変えない。

 御台所からの口添えがあったので、秀忠は長四郎を諭したのち放免した。

 そののち、秀忠と御台所は顔を合わせて次のように語り、ことのほか喜んだという。


「彼が今の心にて生立たらんにハ、竹千代の為にはならびなき忠臣にて侍
(はべ)らんものなり。」

(長四郎が今の心のまま成長したあかつきには、竹千代のためには並びない忠臣になるだろう。)


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御小性 松平長四郎信綱」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月7日(水)
御小性松平長四郎(3)
 長四郎が10歳前後だった時のこと。

 ある日、江戸城内の台所で長四郎が食事をとっていた際に、御上よりお呼びがかかった。そこには老中の酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)・土井大炊頭(どいおおいのかみ)・青山伯耆守(あおやまほうきのかみ)らをはじめ重臣たちが居並んでいたが、長四郎は箸を投げ捨て、箱膳(はこぜん)の上を跳(は)ね越えて、御前へと飛び出していった。

 この様子を見た長四郎の養父松平正綱(まつだいらまさつな)は、宿所へ帰ると長四郎を呼び、涙ながらに叱責(しっせき)した。


「今日、御台所ニての体
(てい)たらくを見るに、扨々(さてさて)尾籠(びろう)なる形勢(けいせい)かな。思ふても見られよ。雅楽頭(うたのかみ)(はじめ)、歴々(れきれき)(ざ)せられし中にて前後弁(わきま)へざるふるまひ、詞(ことば)に絶(たえ)たり。不礼千万(ぶれいせんばん)なり。」

(今日、台所でのお前の様子を見るに、なんと不作法なありさまであったことか。考えても見よ。老中の酒井雅楽頭殿をはじめお歴々の方々が居並ぶ中での、あとさきわきまえない振る舞いには言葉も出ない。無礼千万な振る舞いである。)


 これに対し長四郎は、次のように答えた。


「御意
(ぎょい)至極(しごく)に奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)。外よりハ不礼(ぶれい)とも見へ申(もうす)べく候(そうら)へども、今日に限らず、いつとても召(め)せらるる時分は脇(わき)ひとも顧(かえり)ミず、誰の側(そば)に居(い)たまふも思ひも出されず、少(すこし)も早く罷出度(まかりいでたく)奉存(ぞんじたてまつる)の心ばかりニて、御前の儀を一心に大切に奉存(ぞんじたてまつる)の外(ほか)他意(たい)なく、いそぎ候(そうろう)。」

(お言葉、誠にその通りでございます。ただ、外目には無礼とも映りましょうが、本日に限らずいつでも、御上からお呼びがあった際には、わきに誰がいたかも顧みず、誰のそばにいたかも思い出されず、少しでも早くまかり出たいとの心ばかりでございます。御前のことを一心に大切に思うばかりで他意はなく、急いでいるのでございます。)


 これを聞いた養父は、それほど主人第一の心がけがあらば、必ずや立身出世して主君のお役に立つ人物になるだろうと、今度は感涙を流したという。



【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御小性 松平長四郎信綱」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月6日(火)
御小性松平長四郎(2)
 ある日、秀忠が大奥に出向いた際、長四郎が長廊下の暗いところで将軍の御剣を持して伺候(しこう)していた。

 丑(うし)の刻(とき)時分(午前2時頃)になって、秀忠が大奥から戻ってきた。その時、長四郎は仮寝していた。そこで秀忠は、長四郎から御剣を引き抜き、持ち帰ろうとした。それで目を覚ました長四郎は、取られまいと追いかかり、誰ともわからぬままに秀忠に取り付いた。

 この行動を見た秀忠は、長四郎を「奇特(きとく)なる小児かな(殊勝な子どもであることよ)」と感心した。そして、「此心(このこころ)一生放すな」と長四郎に言葉をかけたのである。


 またある日のこと。

 長四郎ら小性たちが控えている御次(おつぎ)の間(ま)には、秀忠が秘蔵している屏風があった。ところが、年長の小性たちとふざけあっているうちに、事もあろうにその屏風を打ち破ってしまった。

 破れた屏風を見た秀忠は、小性たちを問いつめた。


「何者のわざぞ。御次の間に於
(おい)て加様(かよう)の事、何ぞしたりや。」

(だれのしわざだ。御次の間において、このような屏風を破るようなまねを、なぜしたのだ。)


 誰ひとり言葉もない。その中で、10歳ばかりの長四郎だけが「私しかじかの事」と小声になって、秀忠のお側の衆まで申し上げた。

 秀忠は、勇気をふりしぼって正直に申し出た長四郎を誉めた。


「能
(よく)ぞ正直に言上(ごんじょう)(つかまつり)たる者かな。」


 そして、

「去
(さり)ながら重(かさね)てたしなミ申せ。」(しかしながら、今後はつつしむように。)

と諭(さと)したのみで事を済ませたのである。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御小性 松平長四郎信綱」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月5日(月)
御小性松平長四郎(1)
 代官の大河内金兵衛久綱(おおこうちきんべえひさつな)に、三十郎という息子がいた。叔父の松平右衛門大夫正綱(まつだいらうえもんたゆうまさつな)の家によく遊びに行っていた。

 三十郎が6歳の時、正綱に次のように言った。

「苗字が大河内のままでは、上様の御近習(ごきんじゅう)になるのはむずかしいことです。松平の御苗字を下さい。私を叔父さんの御猶子(ごゆうし。養子よりは緩い親子関係)にしていただければ、上様のお側近くにご奉公できるかと存じます。」

 6歳(満5歳)の幼児とはいえ、将来をしっかり見据えたことを言う。正綱は三十郎の願いをいれ、慶長6(1601)年に猶子にし、松平長四郎と名乗らせた。

 慶長9(1604)年7月17日、竹千代(たけちよ。家光)が誕生した。同年7月25日、早速長四郎は若君付きの御小性(おこしょう)の一人として奉公を命じられ、三人扶持を支給された。この時長四郎は9歳だった。翌年、二人扶持を加増された。

 秀忠は、将来竹千代(家光)の側近となるべき者を見極めるために、まずは御小性となった子どもたちを使いこむよう指示した。

 御用の下命を受ける作法は席次順と決まっていた。しかし、若君付きの御小性といっても、みな子どもばかり。わがままを言っては、休んでしまう。そうした中で、長四郎は常に詰所(つめしょ)に詰め、その欠を補った。

 こうしていつも長四郎が御用を承っていたので、自然と秀忠の目にとまるようになった。

 長四郎は、のちの老中松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな。1596~1662)である。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御小性 松平長四郎信綱」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年7月3日(土)
万角と万作(2)
 「万作」の名が登場するのは、天明7(1787)年5月、江戸の打ちこわしの時だ。『蛛乃糸巻(くものいとまき)』には次のようにある。


「翌年天明七丁未
(ひのとひつじ)の年五月、玄米両に弐斗五升、麦八斗、大豆六斗(1両で玄米なら2斗5升、麦なら8斗、大豆なら6斗買えた)

 同月十日頃白米百文ニ付
(つき)三合五勺、豆七合(100文で白米なら3合5勺、大豆なら7合買えた)

 同十八日頃百文ニ三合
(100文で白米3合しか買えない)、御蔵米三十五石ニ金弐百五両、壱両ニ壱斗七升、銭両ニ五貫二百(金一両につき銭五貫二百の交換比率)。茲(ここ)にいたりて米穀動かず。米屋ども江戸中戸を閉(と)(ここにいたって米穀の売買が止み、江戸中の米屋が営業を停止した)

 同月廿日
(はつか)の朝、雑人(ぞうにん)ども赤坂御門外なる米屋を打毀(うちこわ)す。同月同刻、京橋(きょうばし)南傳馬町(みなみてんまちょう)三町目万屋作兵衛(よろずやさくべえ)、万作(まんさく)とて聞(きこ)えたる米問屋を打毀す。」(1)


 この史料の著者京山は、当時19歳だった。打ちこわされた米問屋の有様を次のように書いている。


「此時
(このとき)おのれ(著者の京山)十九歳。こはしたる跡をミたるに、破りたる米俵家の前に散乱し、米ここかしこに山をなす。其(そ)の中にひき破りたる色々の染小袖(そめこそで)、帳面のるゐ(類)、やぶりたる金屏風(きんびょうぶ)、こわしたるしやうじ(障子)・からかミ(唐紙)、大家なりしに内ハミへすくやうに(家の中が見通せるほどに)残りなく打毀(うちこわ)しけり。後(のち)に聞(きけ)ば、はじめハ十四五人なりしに、追々(おいおい)加勢(かせい)にて百人ばかりなりしとぞ。(2)


 唯一固有名詞があがっている米問屋が「万作」の店だ。米の買い占めで、よほど庶民の恨みを買っていたのだろう。だからこそ、パロディ化された「万角」という名前で、黄表紙の中でも打ちこわしにあっているのだ。


【注】
(1)(2)
京山岩瀬百樹編『蛛乃糸巻』国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号WA19-3
2021年7月2日(金)
万角と万作(1)
 『新建哉亀蔵(あたらしくたつや、かめくら』というふざけた内容の黄表紙がある(1)。もっとも、まじめな内容なら黄表紙とはいえないのだが。

 さて、この黄表紙の舞台は鎌倉時代の鎌倉。主要登場人物は、鶴ヶ岡(つるがおか)に住む万年屋角右衛門(まんねんやかくえもん)、通称「万角(まんかく)」という裕福な商人。

 ある時万角は、スッポン料理がはやる今日このごろ、スッポン料理の「おっかぶせ(にせもの)」の亀料理によって、しこたま金儲けをしてやろうと思いたつ。思惑通り、万角の亀料理店は大繁盛する。そこで万角は、材料の亀を龍宮から直に仕入れようと考え、大量の「かめたハら(亀俵)をことごとく龍宮のかりぐらへ舟まハしにしてか(買)いこ」むのである。

 龍宮にまで亀の買いつけに赴き、スッポン料理の「おっかぶせ」料理で大儲けしている万角に怒ったのがスッポンども。共謀して、万角の店の打ちこわしに及ぶのである。

 さて、この黄表紙に登場する「亀」は「米」を表している。だから、「亀俵」は「米俵」を、亀俵を積み入れる「亀蔵」は「米蔵」を、龍宮への亀の買い出しは悪徳米問屋による米の買い占めを、それぞれパロディ化していることになる。

 また「米蔵」の連想から「鎌倉」時代の「鎌倉」に舞台に設定し、「鶴は千年、亀は万年」の連想から、亀を買い占める「鶴ヶ岡」の角右衛門の屋号を「万年屋」としたのだ。

 「万角(まんかく)」こと万年屋角右衛門にはモデルがいる。それは江戸の米問屋商人、「万作(まんさく)」こと万屋(よろずや)作兵衛(さくべえ)だ。


【注】
(1)蘭徳画『新建哉亀蔵』国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号207-209
2021年7月1日(木)
なぜ柿の木を植えるのか

 関東農村の近世文書を読んでいた折り、「漆・楮・柿・茶園等の儀は人家の湿(うるおい)、専一(せんいつ)ニ仕立可申物(したてもうすべきもの)ニ候(そうろう)」という文言に出会った。

 漆は漆器、楮は和紙、茶は緑茶のそれぞれ原料だ。それでは柿はなんのために植えたのだろう。

 柿は柿渋(かきしぶ)をとるために植えたのだ。

 柿渋は傘や紙などに塗沫すると防水・防腐等の効果を発揮し、また頑丈にもなった。そうした用途があったため、農家では柿渋を作って売り、現金収入を得たのである。『広益国産考』には次のようにある(漢字は現行のものに改めた)。


「渋は何国にても酒屋に多く用ひ
(1)、其外(そのほか)傘桐油渋紙等に用ふる事多ければ、随分(ずいぶん)売口(うりくち)多きものなれば、山にて畑にならざる地には此(この)小渋柿を多く植ゑて渋にて売るべし。」(2)


 なお、甘柿は食用柿生産地域でもない限り、畑にはまず植えない。畑に植えると盗難被害にあうからだ。だから甘柿は屋敷内に植え、管理が行き届かない(また作物がとれない)山野には渋柿を植えた。『広益国産考』にも次のようにある。


「甘柿は口近きものゆゑ、家居
(いえい)はなれては作りても盗難あるもの也。依(よ)りて屋敷内に甘柿を植ゑ、少しはなれたる出畑(でばた)に渋の大柿を植ゑ、手遠なる山畑の猪(いのしし)鹿(しか)(うさぎ)等の出(い)づる所には小渋柿を多く作るべし。」(3)


【注】
(1)酒・酢・醤油等の醸造の際、柿渋を塗沫した圧搾袋・濾過袋が使われた。柿渋を塗っておくと繊維が強化される上、圧搾後の糟離れがよいのだという。岩本將稔「清澄剤柿渋の歴史的背景と清酒への応用」(『日本醸造協会誌』108巻5号、2013年、P.319)参照。
(2)(3)大蔵永常著・土屋喬雄校訂『広益国産考』1946年、岩波文庫、P.184

2021年6月28日(月)
二人の出会いはあったのか
 横田次郎兵衛述松(よこたじろうべえのぶとし)が鉄砲百人組の頭だったときの出来事という。

 3代将軍家光の時代、戦国武将の生き残りだった伊達政宗は、幕府から格別の扱いを受けていた。

 ある日、家光から酒を賜った折り、政宗はしたたかに酔いつぶれ、足腰が立たないありさまだった。この様子を見た家光は「玄関近くまで乗物を寄せよ」と命じ、そこから政宗を乗せて退出させた。政宗を病人に準じて、特別にはからったのだった。

 しかし、あの大胆不適な伊達政宗のことである。これ幸いと、その後は江戸城に出仕する時には、下乗場所でも駕籠からおりず、江戸城内各御門の番士が制止するのも聞かず、「先日、御ゆるし有(あり)たる(先日、将軍からお許しをいただいた)」と称して玄関に横付けするようになった。

 これを聞いた鉄砲百人組の頭、横田次郎兵衛は激怒した。そして次のように配下に下知したのである。


「我等
(われら)御預(おあずか)りの御番所に居(い)たらん時に、政宗が登城せぬ事は有(ある)まじ。与力・同心ども能(よく)心得て、我等が下知(げち)次第に陸奥守(むつのかみ。政宗)が乗物をたたき砕(くだ)け。」

(おれが番所の当番でいるような時に、政宗が登城しないことはあるまい。与力・同心ども、肝に銘じておけ。おれが命令を下したら、政宗の乗物をたたき砕くのだ。)


 横田の鉄砲百人組は、江戸城大手門三之門の警衛が担当である。そして、番士の詰所(つめしょ)である百人番所は、大名が乗物からおりる下乗橋をはさんだ両側二カ所にあった。

 横田が当番の日、ちょうど政宗が登城してきた。それを見た番所の与力・同心たちがざわつきはじめた。

 不穏な気配を察知したのだろう。政宗は早々に乗物からおりた。

 そして番所に立っていた横田をさし招くと、笑いながら次のように言い捨てて、番所を歩いて通っていったという。


「年寄
(としより)たる政宗を其侭(そのまま)に乗(のせ)て通されよ。」

(年寄なのだから、この政宗が乗物のまま通過されるのを見逃されよ。)


 なお、横田が鉄砲百人組の頭を拝命したのが万治3(1660)年正月29日。同職にあったのは延宝元(1673)年4月晦日までだ。しかるに、伊達政宗は寛永13(1636)年5月24日に亡くなっている。

 つまり、政宗が直接、百人組頭の横田に声をかけるなどできなかったはずなのだ。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「百人組之頭 横田次郎兵衛述松」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年6月27日(日)
献残屋
 イミテーションの刀と言えば、江戸時代に大名が将軍に、年始の挨拶などで儀礼的に贈っていた刀もイミテーションだった。

 将軍としても、年始の挨拶に大名から毎年毎年何百本の刀をもらっても処分に困るだろう。贈る側の大名としても、毎年毎年贅(ぜい)を尽くした太刀を贈っていたのではたいへんな物入りだ。そこで、「御太刀一腰(おたちひとこし)」と書いた目録にイミテーションの太刀を添えて贈ったのだ。

 この太刀を「上(あが)り太刀」と言った。『近世風俗志』には次のようにある。


「上り太刀と名付けて、木太刀
(きだち)を黒漆(くろうるし)ぬり真鍮(しんちゅう)具の物、ただ太刀の形のみなる物、太刀献上の例にはこれを用(もち)ふ。太刀代(たちだい。太刀の代金)と号して価(か。貨幣)を副(そ)ふるなり。この太刀等他用しがたく再三用ふるなり。」(1)

(贈答用の太刀は「上り太刀」といい、木刀に黒漆を塗って真鍮の金具をつけた、ただ太刀の形をしただけの代物(しろもの)。これを献上する際には「太刀代」と称して金銭を添えた。この太刀は他に使い途がないので、くりかえし献上に用いられるのだ。)



 江戸時代には不要になった「上り太刀」や贈答品を買い取って、リサイクルする商売があった。これを献残屋(けんざんや)といった。「
上品・贈答品の余を商う(店)」の意味だろう。

 喜田川守貞によれば、献残屋は「今世、江戸にありて京坂にこれなき生業」の一つであり(ただし大坂には一戸あったという)、江戸城付近には多数の献残屋が集中していたという
(2)

 何かと贈答品を扱う機会が多い大名屋敷が集中していた地域だ。その分、献残屋の需要も多かったのだろう。


【注】
(1)(2)喜田川守貞著・宇佐美英機校訂『近世風俗志(守貞謾稿)(一)』1996年、岩波書店(岩波文庫)、P.186~187
2021年6月26日(土)
イミテーション
 『平家物語』の冒頭にある有名な話(1)

 平忠盛(たいらのただもり。清盛の父)が鳥羽院の御願寺(ごがんじ。勅願によって建てられた寺)得長寿院(とくちょうじゅいん)を造進し、三十三間堂及び千一体の仏像を寄進した功により、昇殿を許された。昇殿とは、内裏(だいり)清涼殿(せいりょうでん)の殿上の間へ出入りできることで、武士の忠盛が五位以上の貴族と肩を並べたことを意味する。

 これを面白く思わない貴族たちが、豊明節会(とよあかりのせちえ。11月に行われる宮中の宴会)の夜に、忠盛を闇討ちにしようと企んだ。これを伝え聞いた忠盛は当日、大きな鞘巻(さやまき。鞘に糸や革を巻いた鍔(つば)のない短刀)を束帯(そくたい。礼装)の下に無造作に差して参内した。そして、ゆっくりと刀を抜くと、その切れ味を試すために髪を切るような仕草を貴族たちにして見せたのである。
 
 実はこの鞘巻は、木刀に銀箔(ぎんぱく)を押しつけた作ったイミテーションの刀。宮中の宴会に真剣は持ち込めないため、貴族たちに本物だと思いこませて闇討ちを思いとどまらせたのだ。


 ところで、時をはるかくだった江戸時代には、次のような川柳が詠まれている
(2)


「くせのある酒で くじらの太刀をはき」


 「くせのある酒」は酒癖が悪いの意。「くじらの太刀」は、鯨のヒゲ(ヒゲクジラの歯)に銀箔をはったイミテーションの刀身のこと。「くじらの太刀をはき」とあるから、「くじらの太刀」をはいた(差した)酒癖の悪い人物は、武士ということになる。

 つまり、この川柳に詠まれた武士はいたって酒癖が悪く、酔っぱらうと刀を抜いて振り回してしまうという傍迷惑(はためいわく)な人物なのだ。だから、ふだんはイミテーションの刀を差しているというわけだ。

 同じイミテーションの刀を差すにしても、忠盛の思慮深さにくらべると、何と雲泥の差のあることか。


【注】
(1)梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(一)』1999年、岩波書店(岩波文庫)、P.16~23
(2)浜田義一郎『川柳・狂歌』1977年、教育社(教育社歴史新書・日本史)、P.102
2021年6月25日(金)
熱い!

 家光が入浴したときのこと。久庵(きゅうあん)という坊主衆のひとりが、御湯殿(おゆどの)の役を勤めていた。何を間違えたのか、いまだ冷めきらぬ熱湯を、家光に掛け湯してしまった。火傷するほどではなかったが、そのために家光の肌は少し赤くなってしまった。

 よほど熱かったのだろう、家光は激怒した。阿部豊後守忠秋(あべぶんごのかみただあき。1602~1675)を呼びつけると、「久庵父子三人とも死罪にせよ」と厳命した。久庵の子は兄が台所衆として、弟が坊主衆として、ともに江戸城で働いていた。父親の失敗のせいで、息子たちまでとばっちりを被ってしまったのだ。

 しかし、阿部はしばらくして、家光の機嫌が直った頃を見はかって、次にように言上した。


「向
(さき)に久庵父子三人が罪科(ざいか)の品(しな)を承(うけたまわ)り候(そうろう)と雖(いえど)も、御前(ごぜん。家光)御憤怒(ごふんぬ)の御色(おいろ)に恐懼(きょうく)(つかまつり)、厳命を伺(うかがい)(あやま)り候。如何(いかが)(もうし)(きかす)べく候や。」

(先ほど、久庵父子父子三人の罪科の種類をうけたまわったものの、上様の激怒された顔色に恐れおののき、御命令を聞きそこなってしまいました。何と命じればよいのでしょうか。)


 家光はしばらく黙って考えていたが、


「早々
(そうそう)八丈嶋(はちじょうじまへ遣(つかわ)すべし。」

(早々に八丈島へ流せ。)


と言った。

 少し頭を冷やして考えれば、死罪に値するほどの罪ではない。阿部は将軍の命令を確認する振りをして、家光に罪の軽重の再考を促したのだ。この阿部の思慮によって、久庵父子は死罪を免れることができた。

 ただ、現代人の感覚からすれば、これとて度を過ぎた重い処分だ。相手がいくら将軍とはいえ、少々熱いお湯を掛けたくらいで、父子ともども遠島なのだ。十分に過酷な処分だ。
 

【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十、天保7(1836)年成立。「若年寄 阿部豊後守忠秋」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004 

2021年6月24日(木)
関東郡代伊奈半左衛門

 江戸時代の代官といえば、テレビや映画の時代劇の影響で「悪者(わるもの)」というイメージが強い。しかし、そんな「悪代官(あくだいかん)」ばかりが世にはびこっていたわけではない。早川正紀(はやかわまさのり。1739~1808)や寺西封元(てらにしたかもと。1749~1827)、岡田寒泉(おかだかんせん。1740~1816)など善政を布き、地元民から慕われた名代官も数多(あまた)いたのだ。

 そもそも代官とは、幕府直轄領(いわゆる「天領」。「天領」は明治以後の名称)の統治を担った役職名だ。しかし、これには代官のほか、もう一つ郡代というのがあった。

 代官と郡代は、支配領域の広狭によって区別する。狭い範囲の「天領」を管轄するのが代官で、広い範囲の「天領」を管轄するのが郡代だ。郡代が管轄するのは関東・飛騨・美濃・西国筋(さいごくすじ)の四カ所。このうち関東郡代職は代々伊奈氏が世襲しその役目を勤めてきた。

 そんな伊奈氏のひとりに、1712(正徳2)年に兄忠順(ただのぶ)の死去にともない家督を継ぎ、関東郡代に補せられた伊奈半左衛門忠逵(いなはんざえもんただみち。1690~1756)がいる。

 ある時江戸城の夜詰(よづめ。宿直)で、関東郡代伊奈半左衛門が代官の江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)とたまたま同席になった。その席で半左衛門は、農村における租税取り立ての心構えを次のように述べた。

 年貢を完納すると、代官にはご褒美として10両が下賜される。だからといって褒美目当てに、農民が困窮等してても容赦なく、年貢を期限内に取り立てようとするのはよくない。農民が苦労なく完納する場合と、無理にかき集めて完納する場合とでは雲泥の差がある。年貢を完納しようと無理強いしたために農民が困窮に陥り、長くその地域の痛手ともなれば、幕府の利益には決してならない。

 そもそも、農民は国の根本である。農民が豊かになれば、たとえ年貢を完納せずとも、まさかの時はみな将軍のものなのである。おのおのがたも代官職を拝命しておられるのなら、ここのところをよくわきまえてほしい。

 このように言うと半左衛門は、最後に次のように言った。


「もし村々困窮に及びたる所ありて皆済(かいさい。年貢の完納)ならずバならぬままにして置(おき)、随分(ずいぶん)(あわれ)ミをたれ給(たま)へ。若(もし)不吟味(ふぎんみ。職務怠慢)なりとて御咎(おとがめ。処分、処罰)を蒙(こうむ)らバ蒙り給へ。少しも恥辱(ちじょく)に成(なる)まじ。左(さ)いへど、怠るにあらず。とかく困窮せぬ様に取立(とりたつ)る事専要(せんよう)なり。」

(もし村々のなかに困窮しているところがあり、年貢が完納できないなら無理に取り立てることはせず、特段の配慮をしてほしい。その結果、職務怠慢として処分されるなら、甘んじてその処分を受けてほしい。処分を受けることなど、まったく恥辱(ちじょく)にはなるまい。そうはいっても職務を怠るのではない。とにかく農民が困窮しないように取りはからうことが肝要なのだ。)


 
村々が困窮して年貢を完納できない状況にあったなら、農民の生活を優先して、年貢を無理やり取り立てることはしないでほしい。それを職務怠慢と言われ、処罰されるなら処罰されてもよいではないか。そう半左衛門は言ったのである。

 事なかれ主義がはびこる昨今のお役所。半左衛門のような気骨ある役人は、現在どれほど生き残っているのだろうか。



【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十三、天保7(1836)年成立。「関東郡代 伊奈半左衛門忠逵」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年6月23日(水)
タマムシ
 源平屋島の戦い。夕暮れに、平家方から一艘の小舟が漕ぎいだし、汀(みぎわ)から20mばかり沖合にとどまった。。見れば舳先(へさき)に日輪の扇を立て、一人の美女が「これを射よ」と源氏方をさしまねいている。しかし、夕闇迫る中、北風が激しく波は高い。舟が大きく上下する中、馬上から小さな扇の的を狙うのは至難の業。

 大将の源義経が、部下の後藤実基(ごとうさねもと)に尋ねる。


「射(い)つべき仁(じん)は、みかたに誰(たれ)かある。」

(確実に射当てることができる人物は、味方の中に誰かいるか。)


 後藤が答える。


「上手どもいくらも候
(そうろう)なかに、下野(しもつけ。現、栃木県)の住人、那須太郎(なすのたろう)資高(すけたか)が子に、与一宗高(よいちむねたか)こそ、小兵(こひょう)で候へども、手ききで候(そうら)へ。」

(弓の上手は幾人もございますが、なかでも下野の住人で那須太郎資高の子で、与一宗高こそは小柄ではございますが腕達者でございます。)


 
そこで、那須与一宗高(なすのよいちむねたか。?~?)に白羽の矢が立った。命を受けた与一は射損じれば自害する覚悟で、馬を海中へと進ませる。一瞬海が穏やかになったところを見きわめ、強弓(ごうきゅう)につがえた十二束(そく)三(みつ)ぶせ(握りこぶし12と指3本分の長さ)の鏑矢(かぶらや。射ると音が出る)をよく引きしぼってひょうと放った。浦に響きわたるほど長鳴りして飛んでいった鏑矢は、みごと扇の要(かなめ)に当たったのである(1)

 平家方の舟に乗っていた女性は19歳(数え年)で、1,000人の中から選び抜かれた絶世の美女。現在ならミス女子高生、ミス女子大生だ。しかし、名前が残念。

 江戸時代の川柳に次のような句がある。



 「与一が矢 それると虫に 当たるとこ」


 
女性の名は「玉虫の前」(2)。与一の矢が逸(そ)れていたら、この玉虫に当たっていたかも知れない、と川柳子は心配しているのだ。

 いくら見た目がキラキラしているからといって、どうして女性にタマムシなんて名前をつけたのだろう。

 ま、カナブンやコガネムシなんていう名前を付けなかっただけ、まだましか。


【注】
(1)以上の記述は、梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(四)』1991年、岩波文庫、P.162~168を参考にした。
(2)「玉虫の前」の記載は『源平盛衰記』にある。
 
2021年6月22日(火)
火札
 御先手鉄炮頭(おさきててっぽうかしら)の能勢惣十郎元之(のせそうじゅうろうもとゆき。1684~1755)が、火附盗賊改加役(ひつけとうぞくあらためかやく。在職1692~1695)を兼任していたときの話。

 ある町に座頭と娘が住んでいた。何者のしわざか、次のような火札(ひふだ。恨みのある家への放火予告)が立てられた。


「此
(この)座頭、長く置(おき)(そうら)ハバ付火(つけび)いたし候(そうら)ハん。」

(この座頭をここに長く置くなら、放火するぞ。)


 そこで能勢は座頭・娘を呼びだし問いただした。すると、今までこんな火札を立てられることはなかったという答え。

 能勢は、とりあえず娘を揚り屋(あがりや。小伝馬町の牢屋の一つで未決囚を入れた所)に入れ置くと、その町内の17歳から50歳までの者を呼び出し、火札の件につき究明した。

 そして、集めた者たちの中から5人を残すと、次のように言った。


「其方
(そのほう)など別に何の咎(とがめ)もなき者に候(そうら)へ共(ども)、篭舎(ろうしゃ)申付候(もうしつけそうろう)。」

(お前たち5人は何の罪もない者たちではあるが、入牢を申しつける。)


 次に能勢は町中の者を呼び出し、「5人を入牢させたことについて不審があれば申し出よ、そうすれば5人は出牢させる」と伝えた。そこで無実の5人のために町中打ち寄り、火札を立てた犯人を捜索した。しかし、何の手がかりも得られなかった。

 ただ、5人が解放されないと知った真犯人は、「火附盗賊改は5人の中に犯人がいると疑っている」と考える。わが身には捜索の手が伸びておらず、自分はまだ安全だと思い込んでいるはずである。

 ある時、一人の牢人が座頭のもとにやってくると、次のように言った。


「其方
(そのほう)娘、不慮(ふりょ)の事にて揚屋(あがりや)に遣(つかわ)され候(そうろう)。然共(しかれども)押付(おっつけ)御免(ごめん)になるべし。惣十郎殿(能勢惣十郎元之)には心安(こころやすく)出入(でいり)いたし、其上(そのうえ)惣十郎子供衆に鑓(やり)指南(しなん)いたし候(そうろう)(ゆえ)(よく)(ぞんじ)(そうろう)。」

(お前の娘は思いもかけず揚り屋送りになってしまったが、ほどなく解放されるだろう。わたしは能勢殿とは懇意な間柄で、能勢殿の子供たちにも鑓を教えているゆえよく存じているのだ。)


 この牢人の言動に不審をもった者が、能勢に知らせた。とても鑓など指南している様子には見えないと。

 能勢は牢人を呼び出すと次のように叱りつけ、入牢を命じた。


「其方
(そのほう)ハ士に似合(にあわ)ざる虚言(きょげん)(もうし)(そうろう)。終(つい)に其方に逢(あい)(そうろう)(ぎ)無之(これなく)、子供も其方見知(みしら)ざる由(よし)申候。かたがた不届(ふとどき)。」

(お前は、武士にも似合わぬうそを言う。おれはついぞお前に会ったこともないし、子どももお前のことなど知らないと言っている。いずれにしても不届きである。)


 そして、牢人の家を捜索すると、娘からの手紙が大量に出てきた。牢人と所帯を持つのにじゃまな座頭を追い払おうと、娘が牢人をそそのかしたものだったのだろうか。火札の筆跡は牢人のもので、娘が牢人に書かせたものだった。

 牢人と娘は、ともに火罪(火あぶり)になったという。

 火札を立てて脅迫したくらいで火罪とは、何とも厳しい処断である。

 しかし当時は、恨みのある家に放火予告の火札を立てたり、投げ文したりする犯罪行為が頻発していたらしい。『御定書百箇条』には、わざわざ「火札を張(はり)捨文(すてぶみ)致(いたし)候(そうろう)者(もの)御仕置(おしおき)之事」の一条がたてられているくらいだ(第63条)。だからその罰則を「遺恨を以(もって)可火付旨(ひつけすべきむね)張札(はりふだ)又ハ捨文(すてぶみ)致(いたし)候(そうろう)者死罪」と規定しなければならないほど、その取り締まりに手を焼いていたということなのだろう。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「火附盗賊改加役 能勢惣十郎元之」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
・『御定書 全(御定書百箇条)』早稲田大学図書館蔵、請求記号ワ3-6664
2021年6月21日(月)
封印
 北条氏平が(ほうじょううじひら。1637~1693)が江戸の北町奉行(在職1681~1693)だったときの話。

 伯父(おじ)と甥(おい)との間で家督争いがあった。本来、甥が跡を継ぐのが筋目だったが、当時わずか6、7歳の小児だった。

 話を聞いた奉行は、最初に伯父に手鎖(てじょう。手錠)をかけた。次に、甥の両手の親指と親指を重ねて強く結び、封をして押印した。そして、次のように申し渡した。


「此
(この)封印を少しにても損ずる時ハ、急度(きっと)曲事(くせごと)に申付(もうしつく)べし。名主(なぬし)其外(そのほか)(まで)も同様なり。」

(この封印を少しでも汚損した場合には、厳罰に処する。名主・そのほかの者も同罪である。)


 幼い子どものことだ。奉行からきつく申し渡されるとひどく不安になり、悲しくなってぽろぽろ泣き出した。これでは涙ですぐに封印が汚損してしまう。そうなれば、名主・五人組までいかなるお咎(とが)めを受けるやら。本来ならば、この小児が家督を相続するのが正しい筋目なのだ。

 そこで衆議一決すると、その日のうちに奉行所へ甥の家督相続を願い出た。奉行所の判断も願い出通りとした。

 甥が家督相続するのが正しい筋目だったので、小児であっても周囲が納得の上家督相続できるようにとの奉行の作戦だったのだ。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 北条安房守氏平」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年6月20日(日)
縄文キノコ

 北海道の函館市から福島県にかけての縄文遺跡から、キノコの形をした土製品が出土する。出土例は青森・岩手・秋田の順に多いが、青森が質・量とも多い。

 それらのキノコ形土製品は、モデルにしたキノコの種類が確定できるほど、よく観察して作られているものが多い。いったい、何のために作られたのだろうか。

 キノコ形土製品の出土例は、青森を中心に東北地方以北に限られる。関東以南にくらべて東北地方は、キノコの採集期間は短い。キノコは季節限定の貴重な食料だったので、縄文人たちはこれを造形して多収穫を祈願したのではないか。

 しかし、工藤伸一・鈴木克彦両氏はユニークな視点から、キノコ形土製品が作られた動機を次のように推測している。

 縄文時代にも毒キノコを食べて中毒を起こす人はいたはずだ。これを防ぐには、毒キノコを避け、安全なキノコを選んで採集する必要がある。

 その際、他のキノコと紛らわしく、多種類にわたる毒キノコを一つ一つ覚えるよりは、「これは食べても絶対安全・安心」というキノコを数種類覚える方がはるかに容易だ。

 だから縄文人は、採集したキノコが食べても安全かどうかをチェックするために、食用キノコの土製品を造形したのだろう。つまりキノコ形土製品は、現在でいうなら『キノコ図鑑』に相当するものはなかったか、というのである。

 真実は、縄文人に聞いてみないとわからない。現代よりはるかに時間的余裕があった時代だ。実際には、手なぐさみや子どものおもちゃとしてキノコの模型をつくっていたのかも知れない。


【参考】
・工藤伸一・鈴木克彦「キノコ形土製品について」(青森県埋蔵文化財調査センター『研究紀要』第3号、1998年、P.68~73)

2021年6月19日(土)
長谷川屋敷のミステリー

 火附盗賊改加役(ひつけとうぞくあらためかやく)の長谷川平蔵が重病となった。その後任となった森山孝盛(もりやまたかもり)は、平蔵という人物を「小ざかしき生質」と評して心よく思ってはいなかった(『蜑の焼藻(あまのたくも)』)。業務の記帳など地道な仕事をおろそかにし、奇計を弄して悪党を捕縛したり、人足寄場設営を建言したりするなど、やたらと派手な仕事ばかりを好んだからだろう。

 そんな目立ちたがり屋の平蔵は、死んでも世間の注目を集めた。

 平蔵の病臥中から、長谷川屋敷では怪しいことがおきるようになった。平蔵の「死後ハ次第に増長して」、怪異がいっそうひどくなったというのだ。


(長谷川平蔵は)此頃(このごろ)世に名高き御役人成(なり)しが、命数(めいすう)限りあれバ卯(う)の五月死去せり。( 中略 ) 

 然
(しか)るに、平蔵病中より屋敷内に怪有の事有(あり)しが、死後ハ次第に増長して、火の燃(もゆ)る事ハ毎夜なれバ怪しむに足らず。或(あるい)ハ今夜家も潰(つぶ)るるかとおもふ計(ばか)りに震動する時も有り。さも面白く拍子(ひょうし)とりて舞踊(まいおど)る音の聞(きこ)ゆる時も有しが、或時(あるとき)下女、忽(たちまち)分身して二人となり、いづれを化生(けしょう)と見分(みわけ)(がた)し。

 斯
(かく)の如(ごと)き事共(ことども)度重(たびかさな)りければ、召仕(めしつかい)の者共(ものども)追々(おいおい)に暇(いとま)を乞(こい)出行(でていき)し。後(のち)(かわ)りに来る人なけれバ、果(はて)ハ下人なくバ大(おおい)ニ難儀(なんぎ)に及べり。祈祷(きとう)・咒(まじない)、種々手を尽(つく)しけれ共、聊(いささかも)(その)(しるし)なかりしも、時ありていつとなく怪しき事も止(やみ)ぬ。」

(最近、有名な役人だった長谷川平蔵が、寿命が尽きて5月に死去した。( 中略 ) 病臥中から平蔵の屋敷内では怪事があった。平蔵の死後はだんだん妖怪も頭にのるようになり、火が燃えるのは毎夜のこと。このくらいのことは怪しむに足りない。ある時は、今夜家も潰れるのではないかと思うほど震動し、またある時には、さも面白く拍子をとって舞い踊る音が聞えるということもあった。さらには、下女がたちどころに分身して二人となり、どちらが化け物なのか見分けられないということもあった。こうした出来事が度重なるので、使用人たちは次々に仕事をやめて屋敷から出ていく。代わりに来る者などいないから、人手不足でたいそう難儀する。祈祷やまじないなどさまざまな手段を尽しても、一向にその効き目はない。しかしそのうち、いつとはなくこうした怪異もやんだのである。)


 
しかし、何やら楽しそうな怪異ばかり。商魂たくましい現代の旅行会社だったら、「長谷川屋敷ミステリーツァー」を企画するところだろう。


【参考】
・著者未詳『野翁物語』第2冊、国立公文書館蔵、請求番号211-0099

2021年6月18日(金)
町奉行はたいへん
 江戸の町奉行の職務は広範囲にわたり、かなりの激職だった。あまりにも多忙なため、在職中に死亡する奉行が他の職にくらべて多かったという(1)

 さらに気の毒なことには、裁判の責任者でもあったため、無法者たちに逆恨みされることも多かった。

 たとえば松前嘉廣(まつまえよしひろ。在職1697~1703)の場合
(2)

 江戸で大火があった時、所々を見廻りに行った松前が、馬で日本橋を通りかかった。その際、鳶(とび)とおぼしき男がすれ違いざまに、松前の片鐙(かたあぶみ)を持って押し上げ、松前を川へ落とそうとしたのである。松前は、片鐙を強く踏ん張って立ちこらえ、男の髻(もとどり)を左手に握って引きつけると、家来に男をからめ取らせて危うく難を逃れた。

 また渡辺綱貞(わたなべつなさだ。在職1661~1673)の場合
(3)

 ある時、一向に自白しない悪党が「奉行になら直々に白状する」といった。奉行の渡辺も心得たもので、いつもより厳重に縄で縛り上げて、その者を白州に引き出させた。大力無双のその男は、隙あらば奉行に飛びかかって蹴り殺してやろうと、その機会をうかがっていたのだ。しかし、あまりにも厳重に縛り上げられたため何もできず、「此上(このうえ)ハ如何様(いかよう)にも責(せ)め給(たま)へ」(こうなったら、どうとでもせよ)と言ったきり口を閉ざし、そのまま拷問死したという。

 松前は


「上の御政道を守り廉直
(れんちょく)に公事沙汰(くじさた)する伊豆守(自分。松前喜廣)なれば、毛頭(もうとう)(わたくし。私心)なし。然上(しかるうえ)ハ恨(うらみ)を請(うく)べき覚(おぼえ)なし。」


と弁明しているのが、職務がら逆恨みされることがあったのは致し方なかったろう。


【注】
(1)南和男『江戸の町奉行』2005年、吉川弘文館、P.13~15
(2)(3)内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 松前伊豆守喜廣」「町奉行 渡辺大隅守綱貞」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年6月17日(木)
首が飛ぶ(5)-後日談-
 以上の話は『流芳録』から紹介したが、原本は『松波正春記』という史料だ。この原本には続きがある。木薬屋の息子喜十郎の後日談と、矢野清左衛門(吉田求馬)を陥れた奸人(かんじん)田邊軍太夫(たなべぐんだゆう)の末路が書かれているのだ。

 まずは、お富と夫婦となった喜十郎のその後。義父の家を相続して、矢野喜十郎のちに矢野清左衛門と改名し、次第に立身出世してその子孫が今に続いているという。


「忰
(せがれ)喜十郎ハ矢野家督(かとく)相續(そうぞく(つかまつ)るべしとて則(すなわち)矢野喜十郎と改名し、清左衛門も二度の花をひらき、古郷(こきょう)へ錦(にしき)をかざりけるとなり。喜十郎、後清左衛門とあらため、代官役を勤(つとめ)しに、元より利発の者なりけれバ、公事捌(くじさばき。訴訟の裁判)にも依怙(えこ。えこひいき)なく、段々(だんだん)立身して用人(ようにん)の列にくわはり、子孫今に清左衛門とて彼(かの)家中に有之(これある)よし承る。」


 次は悪人たちの末路。軍太夫の奸計で、矢野清左衛門(吉田求馬)は浪々の身となった上、家は闕所(けっしょ。家財没収の刑)。しかも、その家は焼失。近所でもない軍太夫が、遠く離れた清左衛門家の出火を知っていたことを周囲に不審がられるが、百姓十兵衛から知ったと言い逃れる。十兵衛は家財を盗み薪小屋に放火したことを自白。十兵衛は火あぶり、軍太夫は死罪となった。


「軍太夫ハ清左衛門
(の家)から出火のせつ、家根(やね)へもぬけざる事、二、三町(約200~300m)(わき)の軍太夫、人より先に知りし事ミな不審(ふしん)しけるに、其砌(そのみぎり)あやしき事ありけれバ詮議(せんぎ)に及(および)けるに、百性十兵衛が取持(とりもち)なりと申(もうし)けるゆへ十兵衛を召し取り(逮捕して)對決(たいけつ)に及びけれバ、十兵衛闕所(けっしょ。清左衛門の家が闕所になったこと)を知りし故(ゆえ)、道具を運び取り運び取りより、矢野が真木小屋(まきごや。薪小屋)へ火を付けし事迄(まで)白状しけれバ、十兵衛は火あぶり、軍太夫は死罪に行れしとなり。」


 なお、この本の書名は『松波正春録』となっているが、松波の登場部分は判決を言い渡す場面だけである。


【参考】
・梅庇軒雪暁選『松波正春録』国立公文書館蔵、請求番号158-0467
2021年6月16日(水)
首が飛ぶ(4)
 お富は松波の前で、事の次第をありのままに話した。そこで木薬屋と医師の立伯を呼び出して詮議したところ、お富がいうことに少しも相違なかった。

 松波はお富の行動を次のように誉めた。


「是
(これ)ハ娘が尤(もっとも)至極(しごく)なり。身の上のかたきなれバさぞ無念に思ひつらん。武士の娘ほどありて能(よく)したり。」


 判決は、立伯が江戸追放。お富にはお咎めがなかった。また、娘が「ろくろ首」というのはでたらめなので、木薬屋は最初の約束通りに娘と縁組するようにと申し渡したのである。

 ところが、いかに悪事の依頼人とはいえ、これでは太郎兵衛は殺され損である。太郎兵衛の母親が、犯人の処刑をしきりと願い出る。そこで松波は


「右の医師こそ汝
(なんじ。おまえ)が子の敵(かたき)なり。」


と言って、立伯に解死人(げしにん。斬首刑)を申し渡したのである。

 松波の裁きを、世の中の人びとはこぞって賞賛した。

 この話は江戸中で評判になり、吉田求馬(矢野清左衛門)の旧主(広島藩主浅野氏)の耳にも入った。そこで浅野氏は、求馬を呼び戻し旧知の五百石で召し抱えることにした。またお富の嫁ぎ先の木薬屋は、その縁で浅野家出入りを許されることになったという。


 この話は、突っ込みどころが満載だ。

 まずはお富について。縁談を潰された恨みとはいえ、報復の手段が殺人というのはいかがなものか。恋慕するあまり、お富の破談を立伯に依頼した太郎兵衛に弁解の余地はない。しかし、その報いで「首が飛ぶ」とは、余りにも重すぎる代償ではないか。

 しかし奉行は、太郎兵衛を「身の上のかたき」としてお富の殺人を正当化した。そして、お富自身には何のお咎めもないうえ、「さすがは武士の娘だけあってよくやった」と賞賛までしているのだ。

 また立伯の刑罰は、江戸追放という至って軽い処分だった。それを、大家の母親が息子殺しの犯人処罰を訴えたからといって、身に覚えのない殺人罪で斬首刑に変えられてしまった。とんでもない判決だ。そもそも母親の訴えは、息子殺しの犯人として処罰される者が誰もいないという、松波の裁きの理不尽さに端を発したものではないか。

 さらに言うなら、以上のようなとんでもない松波の裁きを、「誠に天晴(あっぱれ)なる捌(さばき。裁判)にて世挙(こぞっ)て称美」したという「世の中の人びと」もどうしたものだか。

 薄幸の父娘の物語がハッピーエンドに終わるのなら、もう何でもあり?


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 松波筑後守正春」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年6月15日(火)
首が飛ぶ(3)

 昔の長屋にはプライバシーがない。部屋同士を区切る壁が薄いので、隣の話が筒抜けなのだ。

 お富が二階へあがって髪を梳(す)いていたところ、壁越しに太郎兵衛と誰かの声が聞こえてきた。しかも、それが悪だくみの相談だ。誰が話しているのか。帰るところを見ると、いつも太郎兵衛方へやってくる医師であった。

 さて木薬屋では、医師の話していた「ろくろ首」が、実は一人息子が婚約した娘のことだと気づいた。すると親の治郎兵衛は次のように言って、息子の婚約をすぐに破棄してくるよう手代に命じた。


「左様
(さよう)の者、嫁(よめ)に取(とり)てハ外聞(がいぶん)実義(じつぎ。真実)(もって)の外(ほか)なり。何卒(なにとぞ)変易(へんえき。かえること)して来(きた)れ。」

(ろくろ首の娘など嫁にしては、外聞が本当に悪い。どうぞ破談にしてきておくれ。)


 求馬方へ赴いた手代は、方便(ほうべん)を用いて穏便のうちに破談の件を求馬父娘に認めさせた。しかし、お富は手代の話をつくづく聞くうち「自分の縁談が破談になったのは、先日漏れ聞いた医師と太郎兵衛の悪だくみのせいにちがいない」と直感した。しかし、お富はこのことを自分ひとりの胸におさめ、鬱々(うつうつ)と日を過ごしたのだった。

 父親求馬が門弟のところに外泊し、留守だった時のことである。自分の縁談をこわされた恨みを晴らす機会がめぐってきた。

 お富ひとりでいるところに、大家(太郎兵衛)の母親がお茶を飲みに来ないか、と誘いにきた。ついでに裏長屋の衆たちも呼んでこようと、大家の母親が走って出ていくと、お富は父の脇差を帯に差し、大家の家の二階へつかつかと駆け上がった。そして脇差を抜くや、朝寝をしていた太郎兵衛の細首を、いともあざやかに打ち落としたのである。

 一方、外から戻った大家の母親が茶を飲んでいると、二階から血が流れてきた。驚いて二階に上がると、そこにはなんと、首と胴の場所を異にした息子の無惨な姿。それから町中大騒ぎになったが、犯人の手がかりは何も得られなかった。

 しかし町の者たちが、自宅にいたお富に事件のことを尋ねると、お富はあっさり犯行を認めた。


「なる程、我等
(われら。私)が手に掛(かけ)たり。子細は奉行所にて申(もうす)べし。」


 そこでよんどころなく、町奉行、松波筑後守正春(まつなみちくごのかみまさはる。1665~1744)の詮議にかけられることになったのである。

2021年6月14日(月)
首が飛ぶ(2)

 木薬屋治郎兵衛の一人息子喜十郎と、吉田求馬の一人娘お富との縁談話は、とんとん拍子に進んだ。

 求馬が娘の縁談話を大家の太郎兵衛に話すと、お富に気があった太郎兵衛はその縁談話をぶちこわしたいと思った。そこで、医師の小野寺立伯に相談を持ちかけた。

 立伯は、医師とは名ばかりで、奉公人を斡旋する口入屋(くちいれや)を世過(よす)ぎにする悪党だった。悪だくみに長けた立伯は、破談にするなど造作もないと、いとも簡単に悪事を請け合った。

 立伯は木薬屋に行くと、ふつうの薬種店では取り扱わないような薬名を書き付けた紙を手代に見せた。手代が「そのような薬は、当店にはございません」というと、立伯はさも困ったといった素振りを見せた。手代が「その薬は、どのような病気に必要なのでしょうか」と尋ねると、立伯はわざと声をひそめ「ここだけの話で他言は無用」と前置きし、次のように語ったのである。


「青山辺
(あたり)にさる浪人の娘あり。此頃(このごろ)何方(いずかた)へか縁組とやら奉公とやらむに遣(つかわ)すよしなり。尤(もっとも)器量もよく利発にもあれど、あたら事に(惜しいことに)わろき病あり。その病症(びょうしょう。病の性質)は飛頭蛮(ひとうばん)とて、俗に云(いう)ろくろ首なり。是(これ)ハ生(うま)れ付(つき)にて一生治(ち)するという事ハならねども、右有付(ありつけ)の當分(とうぶん)(この)(くすり)を飲(いん)すれバ五十日程(ほど)は首ぬけず。此(この)療治(りょうじ)をする医師なきものなり。子細ありて某(それがし)家に代々秘傳(ひでん)せり。彼浪人(かのろうにん。娘の父親)(きき)(およ)びて頼(たのみ)たり。それゆへ江戸中かけ廻(まわ)りけるなり。又下町の方へ行(いき)てさがし見るべし。」

(青山辺りに住むさる浪人の娘が、最近どこぞやへ結婚だか奉公だかに出るとのこと。器量よしの賢い娘だが、惜しいことに悪い持病がある。その病というのが飛頭蛮(首が胴から離れて飛び回るという中国の妖怪の名)。俗にいうろくろ首だ。これは生まれつきで一生治るものではない。しかし、さしあたりこの薬を飲めば50日くらいは首が抜けない。これを療治する医者はいないが、わけあってわが家にはその治療法が代々秘伝されてきた。それを娘の父親が聞きつけて、頼み込んできたのだ。それゆえ江戸中駆けまわって薬をさがしているところだ。また、下町の方を探してみることにしよう。)


 そう言うと、立伯は木薬屋をあとにした。

 青山に立ち戻った立伯は、大家の太郎兵衛に向かい、木薬屋を


「まんまとたばかり
(謀り欺く。だます)たり。大方(おおかた)近日、縁組(えんぐみ)変改(へんかい)(もうし)(きた)るべし。」


と報告した。立伯の謀略が効を奏し、木薬屋の方から破談を申し入れてくるのは時間の問題だ、と言ったのである。

 それにしても言うに事欠いて、娘の持病が、胴体から抜け出た首(頭部)が空中を飛び回る「ろくろ首」だとは。でまかせの病名だとしても、あまりにも現実離れし過ぎている。よもやこんなうそ話など、誰も信じはしまい。

 しかし、木薬屋の者たちは、この話を真に受けてしまったのだ。

2021年6月13日(日)
首が飛ぶ(1)

 元文2(1737)年にあった事件という。

 江戸青山久保町に、吉田求馬という浪人父娘が住んでいた。

 父の求馬は軍学・剣術・和歌を人に教え生計を立てていたが、もとは安芸国広島藩の城主浅野侍従吉長(あさのじじゅうよしなが。1681~1752)に仕える歴(れっき)とした武士で、本名は矢野清左衛門といった。ゆえあって浪人し、8年前に夫婦と娘の3人で江戸へ流れてきたのだ。しかし浪人生活はきびしく、窮乏のうちに妻は4年前に他界した。

 娘はお富といい、今年で17歳になる。容姿端麗で、和歌・管弦の道にもすぐれた素養があった。しかし、家が貧窮していたため、結婚・奉公ともにできずいた。

 求馬父娘が住む長屋の大家を太郎兵衛といった。年齢は25、6歳くらいで独身だった。お富を妻にしたいと思っていたが、親の貧窮を疎(うと)んじたのだろう、そんな素振りなど見せず日々を過ごしていた。

 そんな折り、芝明神前の木薬屋(きぐすりや)治郎兵衛の惣領息子喜十郎が青山辺りに所用があり、求馬父娘が住む長屋の前を通りかかった。この時、たまたまお富を見て、一目惚れしてしまった。

 喜十郎は、相店(あいだな。同じ長屋に借家すること)の薪屋(たきぎや)をつかまえると、求馬父娘のことを根掘り葉掘り聞き出した。そして、娘がいまだ独身ということを確かめた。

 帰宅すると喜十郎は、自分の胸の内を古参の手代に相談した。手代は主人夫婦に相談する。するとすぐに「一人息子のたっての願いとあらば、ぜひともその娘を息子の嫁に」ということに決まった。

 そこで喜十郎の両親は、手代に支度金百両を持たせると、早速求馬父娘宅へ結婚の申し込みに行かせたのである。

2021年6月12日(土)
江戸時代の捨子

 江戸時代のはじめ、江戸の町なかには野犬が横行していた。捨子があると、野犬に食い殺されてしまうこともあったという。

 そうした状況を改めたのが生類憐みの令だった。従来、「犬公方」綱吉の悪政の一つとして糾弾されることが多かった法令が、その本来の目的は生類すべてに仁政を及ぼすことだった。犬牛馬等ばかりでなく、人も保護すべき対象だったのだ。綱吉は、野犬を中野等に設けた犬小屋に収容し、捨子があればその手厚い養育を人びとに命じた。

 しかし、ここに思わぬ落とし穴があった。手厚い保護を目当てに、いとも簡単に捨子がされるようになったのである。

 とばっちりを受けたのは、捨子を預かった地域住民たちだった。捨子の養育には、多くの労力や高額な費用負担が強いられたからだ。『よしの冊子』には次のようにある
(1)


「只今迄(ただいままで)捨子(すてご)御座候(ござそうら)へバ、十五才ニ相成候迄(あいなりそうろうまで)ハ公儀(こうぎ。政府)より町方(まちかた)へ御預(おあずけ)ニ付(つき)、右捨子少しも不快(ふかい。病気)ニ候(そうら)へバ、今朝(けさ)熱気(発熱)御座候(ござそうろう)の、又ハ頭痛届(とどけ)御座候のと、其節々(そのせつせつ。そのたびごとに)名主・五人組・大屋(長屋などの大家)・月行事(がつぎょうじ。町の役人)(ら)付添(つきそい)届出候付(とどけでそうろうにつき)、其節々弁當(べんとう)を初め諸式(しょしき。いろいろな品物)ニ付(つき)、右物入(ものいり。費用がかかる)御座候由(ござそうろうよし)。」

(従来は、捨子は15才になるまで、公儀から町内への預かり物扱いだった。そのため、子どもが少しでも具合悪くなると「今朝熱がでました」とか「頭痛の届けが必要だ」とか、そのたびごとに名主・五人組・大屋・月行事らが付き添って役所に届けを出しに行った。そのため、弁当代をはじめ諸費用がずいぶんとかかったという。)


 
では、どのくらいの物入(ものいり)があったのか。


「只今迄ハ捨子御座候と右検使に二百疋
(ひき。1疋=10文、のち25文)(つかわ)し、其上(そのうえ)ニ一(ひと)かどの料理差出候付(さしだしそうろうにつき)、當日(とうじつ)三両計(ばかり)物入(ものいり)有之(これあり)。始終(しじゅう。すべて)右の子を望(のぞむ)のものへ遣候(つかわしそうろう)までハ十金(じっきん。10両)(ほど)(あい)かかり申候(もうしそうろう)よし。」

(今までは捨子があると検使に来てもらい、検使に200疋支払った。その上、相応の料理を用意したので、当日は3両ばかりの物入りとなった。すべて、子どもを養子に望む者に渡すまでにかかる費用を見積もると、10両ほどかかったという。)


 
そこで町奉行の初鹿野河内守信興(はじかのかわちのかみのぶおき。在職1788~1791)は、捨子を公儀よりの「御預(おあずけ)」でなく、「其方共(そのほうども。町方)へ被下(くだされ)」るので「勝手次第(かってしだいに)養育仕候様(よういくつかまつりそうろうよう)」にと申し渡した。そして以後「公儀ニてハ御構(おかまい)無之(これなし)」と宣言したのである。捨子は町方に下されるので好きなように育てよ、以後公儀は関知しないと。

 この決定に、町方は大いに喜んだ。それなら、子どもが病気になっても名主・組頭・大屋らぞろぞろ大勢で役所に届けを出しに行かなくても済むし、諸費用負担もなくなるからだ
(2)

 なお、町奉行が石河土佐守正武(いしことさのかみまさたけ。在職1787年の3カ月間のみ)のときには「捨子は乞食の子どもにする」と宣言した。時代に逆行する乱暴な措置のように見えるが、世間の評判は上々だった。


「此度之様
(このたびのよう)ニ被下切(くだされきり)ニ相成候(あいなりそうろう)ハ扨々(さてさて)(よき)御捌(おさばき)。

(今回のように、捨子を乞食の子に下され切りとするのは、まことによいご判断。)



 捨子養育にともなう町内の労力・費用等の負担がないばかりか、「是(これ)では捨(すて)るものも有るまい」(乞食の子になることがみすみすわかっているのに、わが子を捨てる親などいまい)と、安易に捨子する親たちに対する抑止効果が期待できたからだ。



【注】
(1)
『鶯宿雑記』巻四百六十六所収。国立国会図書館蔵、請求記号238-1。
(2)
原文は次の通り。
「右に付、町方大悦
(おおよろこび)のよし。左候(さそうら)ヘバ、たとへ病気ニても訴へ出る事も無之(これなく)、すべての物入(ものいり)無之(これなく)、大悦の由(よし)。」

2021年6月11日(金)
覚悟

 天明7(1787)年6月10日、石河土佐守政武(いしことさのかみまさたけ。1724~1787)に、町奉行(北町奉行)就任の命が下った。前任の曲渕甲斐守景漸(まがりぶちかいのかみかげつぐ。1725~1800)が、江戸市中でおきた打ちこわし騒動の不始末で更迭(こうてつ)されたためだ。

 帰宅すると石河は、妻に次のようにこぼした。


「公命ハ難有
(ありがた)けれども、年寄(としより)候(そうら)て迷惑(めいわく)なる仰(おおせ)を蒙(こうむ)りぬ。併(しかし)御奉公の事なれバ、心力(しんりょく)の及ぶ程(ほど)ハ勤(つとむ)べき。」


 石河は当時64歳(数え年)。確かに抜擢(ばってき)してくれるのはありがたい。しかし町奉行は劇職だ。老齢の身になっての就任は、実のところいい迷惑。しかし、御奉公とあればいたしかたない。全力を尽くして勤めるほかあるまい。

 そう腹をくくると、石河は白木の箱を一つ注文した。

 石河は、箱を床の間の正面に飾った。そしてその箱を、毎朝毎夕うやうやしく頂戴することを日課としたのである。これは、石河が京都町奉行(東町奉行)在職中にも行っていた日課でもあった。

 白木の箱の中には、水色の無紋の裃(かみしも)と九寸五分(30cm弱)の短刀の二品(ふたしな)が納められていた。

 町奉行職を拝命した時から、いつでも腹を切る覚悟だったのだ。

 しかし、寿命の方が待ってくれなかった。石河はその年の9月19日に没した。町奉行在職期間はわずか3カ月だった。


【参考】
・町奉行在職中の曲渕については「あれやこれや2021」5月11日、京都町奉行在職中の石河については「あれやこれや2021」5月24日、をそれぞれ参照のこと。
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 石河土佐守政武」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年6月10日(木)
紙が臭い

 虎尾達哉氏の著書『古代日本の官僚』の中には、律令官僚たちのさまざまな怠慢ぶりが描かれている。次はその中の一例。

 桓武天皇は怒っていた。少納言が提出する奏紙(そうし)が、あまりにも臭いのだ。政務とはいえ毎日毎日、臭い奏紙をかがされる。桓武としてはたまったものではない。

 ついに桓武の怒りが爆発した。790(延暦9)年、内侍(ないし。女官)を通じて少納言を叱責した。以後は異臭を放さないきれいな紙のみを奏紙に使え、改善されなければ少納言を処罰する、と。

 紙は、図書寮(ずしょりょう)が管轄する紙戸(かみべ)で漉(す)かれる。この段階で材料の品質や作業工程など、問題があればチェックできたはずだし、紙が漉き上がった段階においても、異臭を放つ紙など不良品は選別できたはずだ。

 さらに、太政官(だいじょうかん)の史生(ししょう)が奏文を書く段階においても、そうした臭う紙を除外することはできたはずだ。

 しかし、紙戸は紙さえ漉けば、それで自分の仕事は完了。史生は奏文を書きさえすれば、それで自分の役目は終わり。少納言は下からあがってきた奏紙を天皇に提出さえすれば、それで自分の役割は終了。誰もがそのように心得、その他については一切関知しなかったのだという。驚くべき無責任体質である。

 その結果、こうした部下たちの怠慢の連鎖によって、桓武は毎日臭い紙をかがされるはめになったのだ。

 いったい当時の紙戸や史生・少納言らは、鼻をつまみながら異臭を放つ紙を右から左へと取り扱っていたのだろうか。
 

【参考】
・虎尾達哉『古代日本の官僚』2021年、中公新書、P.108~110

2021年6月9日(水)
神尾春央(かんおはるひで)の遺言

 神尾若狭守春央(かんおわかさのかみはるひで。1687~1753)が臨終のみぎり、家内の者を集めて次のように遺言した。


「我等
(われら)(しに)(そうら)ハバ、沐浴(もくよく)ハ必(かならず)三河町出入(でいりの)(もの)、是迄(これまで)日々駕籠(かご)を持(もち)(そうろう)六尺(ろくしゃく。駕籠かき)どもに申付(もうしつけ)(そうろう)(よう)ニ。」

(私が死んだら、沐浴は必ず三河町出入りの者で、これまで毎日駕籠をかついだ六尺たちに頼むように。)


 沐浴なら家内で済ませればよい。それをわざわざ六尺に頼めとは、何と奇妙な頼みだろう。みんなが顔を見合わせ返答しかねていると、神尾は重ねて次のように言ったという。


「はて、内の者どもが沐浴をして、世間で若狭守が腹を切たといふべし。六尺どもに沐浴をさすれバ、翌日から大手一盃
(はい)の沙汰(さた)ニて誰も腹を切たといふ人はあるまい。急度(きっと)左様(さよう)可致(いたすべし)。」

(家内の者たちで沐浴させると、世間は『若狭守は切腹したのだ』と憶測するだろう。だが、六尺たちに沐浴させれば、翌日から大いに評判となって、『若狭守が切腹した』などという者は誰もいまい。だから必ず言うとおりにせよ。)


 そこで、神尾の遺言通りに取りはからったという。

 神尾春央は、年貢増徴策を断行した遣り手の勘定奉行として知られた。遣り手ということは、納税者の農民から見れば酷吏でもある。彼が言ったとされる「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど出る」という言葉は有名だ。

 また、勘定奉行は激務の上、場合によっては腹を切って責任をとらねばならぬほど、その任務は重い。

 そんな神尾が死んだとなると、噂好きな世間の人びとの好奇の対象となろう。「酷吏が仕事上の失敗で腹を切らされた」、「お咎めをうけて切腹せざるをえなかった」などの心ない噂に、残された家族が煩わされないよう、神尾はわが身の死後のことまで配慮したのだ。


【参考】
・『はつか艸』国立公文書館蔵、請求番号159-0092

2021年6月8日(火)
天野弥五右衛門(3)-子どもと力くらべ-

 これも『続編武林隠見録』にある天野のエピソード。

 年老いて力が弱ってきた天野だったが、ひどく負けず嫌いな性格だった。子どもたちを集めると、その中から力の強い者を選んで、腕押し・すね押しなどといった力くらべをしたという。

 子ども相手でも、負けると「無念、無念」と言ってひどく悔しがった。

 しかし勝つとたいそう喜んで、調子に乗って次のようにうそぶいた。


「年寄(より)つれ共(ども)、未(いま)だ覚(おぼ)へ在之(これあり)。嗚呼(ああ)、残念は治国(ちこく。平和な時代)に生(うま)れ合(あ)ひたり。哀(あわれ)、戦国のむかしにて有(あり)なバ甚(はなは)だ勇剛(ゆうごう。剛勇)を顕(あら)ハし、末代の記録に名を残すべきものを。」

(年はとったが、いまだ腕に覚えあり。ああ、残念なのは平和な時代に生まれてしまったことだ。ああ、戦国時代の昔に生まれていたなら、わが剛勇を天下にとどろかせて、後世の記録にわが名前を残したものを。)

2021年6月7日(月)
天野弥五右衛門(2)-せっかち-
 『続編武林隠見録』によると、天野弥五右衛門は、とてもせっかちな人だったという。

 ある時、好きな食事を準備してもらっていた時のこと。作りはじめた当初から


「出来
(でき)たるや、出来たるや。」


と、幼い子どものようにたずねる。調理している途中でも、でき上がるのが待ちきれない。


「何を致
(いた)して居(い)るやらん。扨々(さてさて)久しき事かな。いかに、いかに。」


などと言って、いかにも落ち着きがない。

 用事があって人を呼ぶときも、出てくるまでのわずかな時間が待ちきれない。いくどもいくども名前を呼んでは、早く出てくるよう催促(さいそく)する。だから天野に名前を呼ばれると、誰しも急(せ)かされてあわてざるを得なかった。

 それで、こんなことも起こった。

 ある時用人(ようにん。旗本などの家で庶務・会計などする職)が、ねじれた袴(はかま)を穿(は)いて出てきたことがあった。天野にいくども呼ばれ、あわてて袴を穿いて飛び出してきたため、袴をねじれたまま穿いたことに気づかなかったのだ。

 用人のみっともない袴姿を見て、天野は次のように言った。


「是
(これ)(なんじ)があやまちに非(あら)ず。我(われ)せわしなく是を呼ぶに寄(よ)れる也(なり)。」


 自分のせっかちのせいで、他人が迷惑を被っている。天野自身にそうした自覚はあったようだが、せっかちな性格はどうにも治らなかったらしい。
2021年6月6日(日)
天野弥五右衛門(1)-天野の健康法-

 天野弥五右衛門長重(あまのやごえもんながしげ。1621~1705)は、元禄期の名物旗本として知られた。

 天野は享年85歳で亡くなるが、死ぬ直前まで現役だった。御書院番、御使役、御先手鉄炮頭、御鑓奉行、御旗奉行を勤め、引退したのは81歳の時だった(当時の家禄は3,000石余)。

 天野の引退した時、妻も80歳で健在だった。そこで夫婦そろって長寿の祝いをした
(1)。またこの時、妾腹(しょうふく)から子どもが生まれている(2)

 天野が81歳まで元気に働き、子をつくり、健康寿命も長かった要因は何だったのだろう。

 その要因の一つは、よく物ごとを考え、ことあるごとに文字を書くという習慣ではなかったか。こうした活動は脳を刺激してその老化を防止する。

 天野は筆まめで、健康法・武士としての心得・死生観・倫理など、思いついたことがあればそのつど書き留めた。そうやって40年以上にわたって書き継いだ記録は22冊になった。『思忠志集(しちゅうししゅう)』と題されたその記録の収録項目数は、2,015条にのぼる
(3)

 この『思忠志集』の中で天野は、「養生」の要諦を書いている。しかし、それらは「朝おきの事」「よい(宵)にはやくねる事」「身を遣(つかう)事」「楽を求(もとめ)苦をしり候事」など。早寝早起き、体を動かす、など当たり前のことばかりだ
(4)

 健康を損ねるストレスなどは、天野には無縁のものだったろう。

 何しろ天野は、相手が誰であろうとずけずけと物を言った。誰はばかることなく説教を垂れる「ご意見番」であり、それらによってむしろストレスを発散していたと思われるのだ。

 たとえば『流芳録』(『君臣言行録』を引用)には、幕臣で儒者の人見友元(1635~1696)の話として、天野が平川門当番の節、門限を過ぎたことを理由に、夜詰め(夜勤)に向かう春日局の通行を拒絶した話を載せる。その際天野は、権力者である春日局に向かって「士に似合(にあい)申(もうさ)」ぬ「悪口(あっこう)」を平気で吐いている
(5)

 また『続編武林隠見録』によると、ある日天野は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に斬りつけられて負傷した吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷を見舞ったという。そして応対に出た家老たちに「このたびはとんだ災難でしたが、かすり傷で何より」と挨拶すると、次のように言った。


「承
(うけたまわ)れバ、内匠頭の刀、上野介殿の烏帽子(えぼし)に切付(きりつけ)(その)ふちにて留(とま)りたる由(よし)。実(げ)に実に大幸(たいこう)と謂(いい)つべし。御すあたまの時なりせバ、今頃ハ御法事(ごほうじ)の沙汰(さた)のミに候(そうら)ハんに、重畳(ちょうじょう)の時節(じせつ)(なり)。其(その)御烏帽子は誠に御命(おいのち)の親也(なり)。必(かならず)(もっ)ておろそかに思召(おぼしめさ)るる事なかれ。大切になされ朝夕尊敬あるべし。」(6)

(聞くところのよると、浅野が吉良殿の烏帽子に切りつけたので、その烏帽子の縁で刀が止まったとのこと。まことにもって幸いでした。もしも素頭(すあたま)だったら、今頃は法事の相談をしていたことでしょうに、重ねてめでたいことです。その烏帽子はほんとうに命の恩人。くれぐれもおろそかに思ってはいけません。大切にして、朝夕あがめ奉るべきでしょう。)



 皮肉を込めた天野の言葉に、吉良家の家老たちは返す言葉もなく、赤面するばかりだったという。

 自由にずけずけ物を言う天野は、ストレスをためずに長生きした。しかし、言われた側はストレスをため込み、気分ばかりか健康まで害したかもしれない。


【注】
(1)長谷川強校注『元禄世間咄風聞集』1994年、岩波書店(岩波文庫)、P.179
(2)同上『元禄世間咄風聞集』P.178
(3)氏家幹人「『思忠志集』件名細目(上)・(下)」(『北の丸』第46号、第47号)
(4)天野長重『思忠志集』国立公文書館蔵、請求番号190-0181
(5)内山温恭編『流芳録』巻之十二、国立公文書館蔵、請求番号159-0004
(6)柳角子著・古田忠義補『続編武林隠見録』寛延(1750)年序、国立公文書館蔵、請求番号170-0035

2021年6月5日(土)
離縁の理由

 ある時、御小納戸(おこなんど)の何某(なんのなにがし)に、吉宗の上意が伝えられた。


「其方
(そのほう)(こと)、妻(つま)有之(これあり)(そうら)ハバ離縁(りえん)可仕(つかまつるべし)。」(妻がいるなら離縁せよ。)


 
何某は親類を集めて話し合ったが、自分の妻にどのような問題があるのかまったく心当たりがない。しかし上意であるので、よんどころなく離縁することになった。

 30日ばかりたったころ、吉宗から御小納戸の頭取(とうどり)に、次のような確認があった。


「何某
(なんのなにがし)、妻ハ離縁致(いた)し候哉(そうろうや)。」(何某は妻を離縁したか。)


 将軍みずからが部下に離縁を命じるなど前代未聞。何某の妻はいかなる不祥事をしでかしたのか。頭取は吉宗に、離縁の理由を恐る恐る尋ねた。

 すると吉宗は、思いもかけぬことを言い出した。


「あのものの鼻毛を見候哉(みそうろうや)。」(お前はあの者の鼻毛を見たか。)


 吉宗の意外な問いに、頭取は次のように応じた。


「右之者
(みぎのもの。何某のこと)の鼻之毛(はなのけ)、如何(いかが)いたしあのごとく延(のび)(そうろう)や。衆人(しゅうじん)ニ珍敷事(めずらしきこと)の儀(ぎ)、毎々(まいまい)部屋等(など)ニも一同(いちどう)(つかえまつる)坊主(ぼうず)・六尺(ろくしゃく。江戸城台所の使用人、また人夫)ども迄(まで)笑ひ候。」

(あの者の鼻毛は、どのようにすればあれほど長く延びるのでしょうか。あのような者は見たことがないと、それぞれのご用部屋に務める茶坊主や六尺といった者に至るまで笑っております。)


 その鼻毛が問題なのだ、と吉宗は言った。みんなの笑い者になるほどのみっともない鼻毛だ。それなのに、なぜあの者の妻は気づかないのだと。


「右を不心附
(こころづかざる)妻ニ候(そうら)へバ家事は難預(あずけがたき)事ニ候ゆへ離縁いたし候様(そうろうよう)ニと申候(もうしそうろう)。」

(夫の鼻毛にも気づかないようなうかつな妻に、大事な家事を任せることなどできまい。ゆえに離縁せよと言ったのだ。)


 吉宗の真意を伝え聞いた幕臣たちは、「誠に一同感じ奉恐入(おそれいりたてまつ)」ったという。

 恐れ入り奉っている場合ではない。何しろ、江戸城中の誰もが物笑いの種にするくらいに延びた鼻毛だ。どうして同僚たちは何某に向かって「鼻毛がひどく伸びてるよ。みっともないから抜くか切るかしなよ」とアドバイスしてやらなかったのだろう。

 そうすれば、何某は妻を離縁せずに済んだものを。


【参考】
・『はつか艸』国立公文書館蔵、請求番号159-0092

2021年6月4日(金)
辻六郎左衛門(2)

 吉宗から辻に声がかかった。


「六郎左衛門、是
(こへ参(まい)れ、参(まい)れ。」


 そして、吉宗は次のように言って笑ったのである。


「先刻のハをれがわるかつた。其方
(そのほう)が申(もうす)所尤(もっとも)なり。ゆるせ、ゆるせ。」
(先ほどは、オレが悪かった。お前が言ったことが正論だ。許せ、許せ。)


 こうして辻は無事に吉宗の前を退出したのである。

 辻は吉宗から譴責(けんせき)されたときも、謝罪されたときも顔色を変えなかった。勘定所の同僚たちは、辻のポーカーフェイスに舌を巻き、「天晴(あっぱれ)なる御役人」と絶賛した。

 上記の話は、本来は辻を誉めるエピソードだが、むしろ吉宗の人柄を際だたせるエピソードになっている。

 部下に論駁(ろんばく)され、いっとき頭に血が上って謹慎を命じたものの、冷静になって考えると部下の方が正論だった。それを率直に認める素直さ。そして自分の誤りに気づくや、将軍の面子などにはこだわらず、潔く部下に謝罪する誠実さ。さらには、自分を「オレ」と呼ぶその肉声にあらわれた気さくさ。

 吉宗は、その卓越した政治手腕によって悪化する幕府財政を立て直し、在世中から「名君」「明君」と評価されていた。

 しかしそうした評価のいくぶんかは、その気さくで親しみやすい人柄に由来するものではなかったろうか。


【参考】
・『はつか艸(写本)』国立公文書館蔵、請求番号159-0092

2021年6月3日(木)
辻六郎左衛門(1)

 1732(享保17)年、西日本を中心に虫害と冷害による飢饉がおこった。享保の飢饉である。

 この時、辻六郎左衛門守参(つじろくろうざえもんもりみつ)は勘定吟味役(在職1718~1732)だった。幕府財政を預かる勘定所において、勘定奉行に次ぐナンバー2の立場である。

 関東も不作につき、他国からの廻米を増量することになった。その候補として美濃(みの。現、岐阜県南部)・伊勢(いせ。現、三重県)の名が挙がったのであろう、辻が吉宗に呼ばれた。辻は前職が美濃郡代(在職1699~1718)だった。そのときの地方巧者(じかたこうしゃ。農村行政に練達した者)としての手腕を買われて、勘定吟味役に抜擢(ばってき)されたのだった。

 しかし、美濃・伊勢を廻米候補地と考える吉宗に、辻がよほど強硬な反対意見を述べたのだろう、意見の齟齬(そご)から吉宗がひどく機嫌を悪くし、辻に謹慎まで命じたのだ。

 辻がやむなく勘定所内で謹慎していると、しばらくして、御前に参上するよう命があった。

 辻の謹慎に付き添っていた勘定所の人びとは「必定(ひつじょう)御手打(おてうち)」(これは御手打ちに間違いなし)と直感した。勘定奉行の杉岡佐渡守(能連。在職1731~1738)は辻に


「心を落付ケ(おちつけ)罷出
(まかりいずる)な」(心を落ち着けよ。行ってはならぬ。)


と助言した。

 しかし辻は御前に参上した。そして平伏したまま、吉宗からの言葉を待った。


【昨日の問いの答え】 徳川吉宗

2021年6月2日(水)
この人はだれ?

 下の各文章中の( A )には同じ人名が入る。「オレ」と自称するこの気さくなおじさんは、果たしてだれだろう。なお、史料はすべて『はつか艸(くさ)』(国立公文書館蔵)から採った。(答えは明日)


【1】

 ある時、( A )が一緒にいた小性(こしょう)たち・小納戸(こなんど)たちに向かって、次のように注意した。

「此節
(このせつ)は世上(せじょう)(にぎ)やかに聞(きこ)へ候(そうろう)。其方共(そのほうども)も浅草辺などふらつき候(そうら)ハバ、おれハ知りてもよいが、用取次(ようとりつぎ)のもののしらぬ様(よう)ニあるき候(そうら)へ。」

(この頃は、世の中がにぎわうようになった。お前たちもにぎやかな浅草あたりをふらつくなら、オレは知っても構わないが、御用取次ぎの者には知られぬように歩けよ。)


【2】

 ある時( A )が外出して伝い橋(小川などにかけられた小さな板橋)を渡った際、橋板が折れてしまった。思わぬ事態にお供衆はあわててしまったが、( A )は次のように言ってことのほかご機嫌だった。

「年は寄(よせ)たれ、此橋(このはし)踏折(ふみおる)ハ、おれもまだ頼母(たのも)しい」

(年はとったが、この橋を踏み折るとは、オレもまだまだ頼もしいな。)



【3】

 ( A )が大奥に行った際のこと。御錠口(ごじょうぐち。大奥への入り口)で、( A )の刀を渡し受け取る武士と大奥女中が、ふとしたはずみでお互いの手を取りあう形になった。その様子を見た( A )は、中腰になると声をひそめて、

(オレの前で男女が手を取りあうなんて)度々(たびたび)ハするなよ。」

と言った。われに返ったふたりは驚いてその場に平伏した。

2021年6月1日(火)
大岡裁き(5)-縛られ地蔵-

 江戸の深川寺町でおきた事件という。木綿売りが石地蔵の前に荷物を下ろして用足しに行っている隙に、その荷物を奪い取った者がいた。

 木綿売りは奉行所に訴えた。しかし、犯人捜索に何の手がかりもなかった。そこで、町奉行の大岡忠相は、木綿の符帳(ふちょう。値段を示す商品につけた目印の記号)を残らず書留め置くように指示し、次のように申し渡した。


「其
(その)地蔵こそ全く盗人なるべし。厳敷(きびしく)からめ置(おく)べし。」
(その地蔵こそが間違いなく盗人であろう。厳重に縛って置くように。)


 こうして捕縛した地蔵を衆人に晒(さら)し、地蔵が犯人ということでこの事件は一件落着した。

 一方、本物の木綿盗人。地蔵が身代わりに捕まったことで安心し、そろそろ盗品を売りさばくことにした。そんなさなか、奉行所から町なかに次のような触(ふれ)が回った。


「最前留置
(とめお)きし符帳の木綿、買取(かいとり)しものあらバ、早速奉行所へ持参仕(つかまつ)れ。」
(最前書き控えて置いた符帳に合致する木綿を購入した者がいれば、急ぎ奉行所に持参するように。)


 こうしてあちこちから奉行所に持ち込まれた盗品から、売り主の盗人に足がついた。結果、盗人はお仕置きとなったのである。


【参考
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 大岡越前守忠相」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月31日(月)
大岡裁き(4)-手錠がこわれた-

 江戸時代、軽犯罪の庶民に科した刑罰に「手錠(てじょう。手鎖)」というものがあった。

 江戸時代の手錠は鉄製で瓢箪型をしていた。これを左右に開いて両手にはめ、開き口に錠をかけたのち、瓢箪型の中央に紙で封印した。そして受刑者は、その刑の軽重により30日・50日・100日のいずれかの期間、町内預けまたは家主預けとなったのである。

 お仕置き中、手錠をはずすことは許されない。ところが中には不埒者(ふらちもの)がいて、手に油を塗るなどして手錠から両手を抜き、素知らぬ顔で刑期をやり過ごす者もいたという。

 町奉行の大岡忠相が、白州(しらす。法廷)で手錠をかけた男もそうだった。

 浅草辺に住むその男は、家では手錠をそっとはずし、棚に上げておいた。ところが何の拍子か、棚から手錠が落ちてしまった。その際、どこかに強く当たったのだろう、手錠が砕(くだ)けてしまった。

 驚いたのは、奉行所から男を監督するよう仰(おお)せつかっていた家主である。周章狼狽(しゅうしょうろうばい)した家主は、こわれた手錠を奉行所に持参し、正直にその経緯を説明しようとした。

 すると、大岡は家主の言葉を制し、次のように言った。


「其方
(そのほう)が手錠砕(くだ)けたるハ何方(いずかた)にて転(ころ)びたるぞ。その所を書付(かきつ)けて差出(さしだ)すべし。以来(これ以降)、加様(かよう)の節(せつ)ハ其(その)転びたる所にて證人(しょうにん)を取(とり)て申訳(もうしわけ)すべき事(こと)なるぞ。( 後 略 )

(お前の手錠が砕けたのは、どこで転んだからか。その場所を記した書面を提出するように。今後同様のことがあった場合には、その転んだ場所で証人を立てて届け出すること。)


 受刑者のなかに手錠から手を抜くというズル行為をしている者がいるのは、奉行所でも百も承知。だから、手錠がこわれた場合も、いちいち奉行所まで正直に申し出る必要はない。表向き「どこそこで転んでこわれました」ということにしておいて、所轄(しょかつ)の番所に届け出をすればそれでよい、と言外に伝えたのだ。


「先
(まず)此度(このたび)ハ赦(ゆる)す。」(とりあえず、今回は見逃す。)


 そう言うと大岡は、ズルをしていた受刑者に改めて手錠をかけ直したのだった。


【参考
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 大岡越前守忠相」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004


【追記(6月5日)】
 江戸時代初めの頃は、手錠はずしとこれを助けた者の刑罰はきわめて重かった。1682年には手錠をはずしていた者が磔(はりつけ)、1696年には手錠をはずしてやった者が死罪になった例がある。しかし『御定書百箇条』以後は、手錠をはずした者は日数の延長、手錠はずしを助けた者は過料(罰金刑)となり、刑罰は大幅に軽減された。なお、裁判中は手錠を施すよう命じられた未決者(吟味中手鎖)は、手に油を塗ってこれをはずしておき、裁判に出る時だけ自分ではめて出たという(石井良助『江戸の刑罰』1964年、中央公論社(中公新書)、P.84)。

2021年5月30日(日)
大岡裁き(3)-ふたりの母-

 ある武家に奉公していた女が懐胎(かいたい)して、女の子を産んだ。さすがに勤め先のお屋敷で、娘を養育することはできない。そこでやむなく、子どもをしばらくの間預けることにした。

 娘が10歳余りになったころ、娘を引き取るため、実母はお屋敷から暇をもらった。

 しかし、この娘は気だてがよく、どこへ奉公に出しても立派に親のために稼いでくれそうな様子だった。娘を預かった女は子どもを手放すのが惜しくなった。その結果、ふたりの母親の間で娘の取り合いになり、町奉行所へ訴え出ることになった。

 奉行所では、「われこそが実の母親」とお互いが主張して水掛け論になった。そこで町奉行の大岡忠相は、ふたりの女に次のように言い渡した。


「其
(その)子を中に置(おき)て双方より左右の手を取(とり)て引合(ひきあう)べし。引勝(ひきかち)たる方、実母なるべし。」


 そこで娘のそれぞれの手を取り、左右から引き合った。左右の手を思い切り引っ張られるので、娘は痛くて泣き叫んだ。ついに一方の女が引き勝った。

 その時忠相は、引き勝った女に向かって次のように言った。


「おのれ
(お前)こそにせ者なれ。実の母ハ娘の手いたむを悲しミ、思ハずも手を放し、引負(ひきまけ)たり。其方(そのほう)ハ元(もと)他人ゆへ其(その)いたわりなし。只(ただ)勝事(かつこと)にのミ心を用ひし。」


 勝った方の女は縄をかけられて拷問された。そして、実母と偽ったことを認めたのだった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 大岡越前守忠相」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。 
 なお、『棠陰比事(とういんひじ)』に類話がある。おそらくこれが上記の話の原話だろう。桂万栄編・駒田信二訳『棠陰比事』1985年、岩波文庫、P.23を参照。 

2021年5月29日(土)
大岡裁き(2)-猫-

 江戸の四谷大木(よつやおおきど)辺に住む夫婦がいた。夫は仕事で大坂にでかけ、1年ばかり家を留守にした。ところが翌年帰ってみると、女房が妊娠している。いろいろ問いつめたが、女房は密夫(みっぷ。不倫相手)の名前を頑として言わない。ついに男は奉行所に訴え出た。

 町奉行の大岡忠相は、夫に


「其方
(そのほう)留守には誰を添置(そえおき)しぞ。」


と尋ねた。しかし、女房のそばにいたのは飼い猫一匹だけ。ほかには誰もいなかったのである。

 忠相は、その飼い猫を奉行所に連れてこさせると、平生近所に出入りする男たちをことごとく奉行所に集めた。そして、自分の前に猫を置くと、控えさせておいた男たちを一人ずつ白州(しらす。法廷)に呼び出したのである。

 ある男を呼びだしたときのこと。忠相の前から猫がすっと走り出て、その男にはい寄った。そして、男の膝の上にあがると、馴れ馴れしくすわったのである。

 男は密夫であることを白状した。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 大岡越前守忠相」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月28日(金)
大岡裁き(1)-返事をしたのが運の尽き-

 享保(1716~1736)のはじめ、江戸深川に住む医者夫婦が斬殺され、金品が強奪されるという事件が起こった。

 犯人はその家の奉公人で、名前を直助といった。

 奉行所では早速人相書(にんそうがき)をつくり、捜索の手を八方のばしたが、その行方は杳(よう)として知れなかった。犯人は、髪の毛を落とし前歯を欠くなどして、自らの容貌を変えていたからである。しかし、麹町(こうじまち)に潜んでいたとき、ついに捕吏の手に落ちた。

 白州(しらす)に引き出された直助は、町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ。1677~1751)から尋問を受けた。しかし「わたくしは誓って直助という者ではございません」としらを切るばかり。

 忠相が「直助でないならば、立て、立て」と言う。

 内心ほくそ笑んだ直助が、立ち上がって帰ろうとしたその時。突然、忠相が大音声(だいおんじょう)をあげた。「直助、待て!」。

 「はっ」。不意に名前を呼ばれた直助は思わず返事をしてしまった。返事をしたことで、自分が直助であることを自ら認めてしまったのだ。

 観念した直助は罪状を自白。そして、日本橋に三日間晒(さら)された後、磔刑(たっけい)に処せられたのだった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 大岡越前守忠相」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月27日(木)
剛直者(2)

 小栗又市が坂下御門の当番だった日のこと。品川筋へ外出していた将軍家光が、もうすぐ還御(かんぎょ)されると先払いの者が知らせてきた。

 しかし、小栗は開門もせず、御門の前にうずくまったまま。

 家光の輿(こし)が到着し、その中から「又市!」と声があった時、はじめて小栗は御門を開いたという。


【参考】
・内山温恭編『流芳記』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御先手頭 小栗又市政信」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月26日(水)
剛直者(1)

 3代将軍家光の時代、増上寺で法会があった折りのこと。

 御先手弓頭(おさきてゆみかしら)小栗又市政信(おぐりまたいちまさのぶ)の組の陣列が、やや前に出張っていた。松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)が通る際、少々後ろへ下がるよう指示があった。しかし小栗の与力は「他人の命令に従えば、小栗殿が納得しまい」と思い、そのままやり過ごした。

 ことの経緯は小栗に伝わった。小栗は


「いしくも他の下知に従ハざりつる。若
(もし)従ひなバゆるすまじきに。」
(よくぞ他人の命令に従わなかった。もし従っていたら許さなかったものを。)


といい、自分の宿所に何やら文(ふみ)を遣わした。そして、自分自身は信綱のもとに出向き、面会を申し入れた。

 信綱はいまだ帰宅していなかった。屋敷に通された小栗は、信綱の帰りを待った。

 小栗の来訪を知った信綱はうち笑い「さ有(あり)なん」と言った。小栗の来意をただちに了解したのだ。

 信綱はじかに小栗に会うと、次のように述べて謝罪した。


「能(よく)こそ来(こ)られたり。先には組の面々へ指南して候(そうらいし。ふと思ひ寄(より)て卒爾(そつじ。軽率)なる事に候つれ。あやまり候(そうろう)ぞ。心に掛(かけ)られな。」

(よくぞおいでになられました。先ごろあなたの組の面々に指南いたしましたが、ふと思い立って軽率なことをしてしまいました。お詫び申し上げます。どうかお気にかけくださいますな。)


 
これに対し、小栗は次のように答えた。


「某
(それがし。私)が預かりたる組の事を御方(おかた。あなた)なればとて御いらひ(応答。答え)(ある)べき事に候(そうら)ハず。夫(それ)ゆへ其(その)(よし)を承(うけたま)ハるべきとて参(まいり)たるに候。御会釈(ごえしゃく)の上ハ遺恨(いこん。うらみ)もなく候。」

(私が預かっている組のことを、松平殿だからといって、その命令に従うべきことではありません。ですから、筋違いの命令をされた存意をうかがおうと思い参ったのです。しかし、事情を理解しましたので、もはや遺恨もございません。)


 信綱は食事を振る舞うなど、小栗を歓待した。そして、酒が数献(すうこん)に及んだころ、将軍から下賜された貴重な沈香(じんこう。香木の一種)を一節(ひとふし)小栗へ贈り、誠意を示した。

 そのうち、小栗の陪従(べいじゅう)が信綱の屋敷に輿(こし)を持ってやってきた。「死骸(しがい)を請取(うけとり)に参候(まいりそうろう)」と。

 小栗は事前に文を送って、自分の死骸を受け取りに来るよう手配しておいたのだ。最初から死ぬつもりで、信綱の越権行為に抗議しようと訪れたのである。しかし、信綱がその来意を察知し、誠心誠意謝罪したので事なきを得たのだった。

 戦国時代の遺風がのこる江戸初期ころまで、武士の剛強はおおかたこのようなものだったという。


【参考】
・内山温恭編『流芳記』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御先手頭 小栗又市政信」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月25日(火)
公正にして潔白(2)

 なぜ京都の人びとは、石河の「公正にして潔白」な政治を絶讃したのだろう。

 それは、脅迫・不正・賄賂等の横行が日常茶飯事だったからだ。『流芳録』を読んでいくと、たとえば次のような記事が出てくる。

 火附盗賊改加役から京都町奉行に転じた向井伊賀守政暉(むかいいがのかみまさてる)が、京都の米価を上げることを目的に、京中の米屋を呼び出した折りのこと。次のように米屋たちを脅(おど)し、無理やり米価の上昇をはかっている。


「今日よりして高直(こうじき。高値)にすべし。相背(あいそむ)くに於(おい)てハ頭取(とうどり)之米屋、粟田口(あわたぐち。処刑場)へ出し首切て獄門(ごくもん)に掛(かく)べし。」(1)
(今日からは米を高値にせよ。命令に違反すれば頭取を粟田口で斬首し、その首を晒すものとする。)



 
また、町奉行の配下には、かなりろくでもない者もいた。たとえば、松尾与右衛門(まつおよえもん)という下役の評判は、次のようなものだったという。


「市中の公事訴訟
(くじそしょう。裁判訴訟)、願事(ねがいごと)等に金銀賄賂(わいろ)を以(もって)私曲(しきょく。よこしまで不正)の筋(すじ)多く、宜(よろし)からざる取計(とりはからい)のミにて、殊(こと)に金子(きんす)も多く所持いたし、奢侈(しゃし)の者にて市中(京都の人びと)常々(つねづね)(にく)ミ居(おり)ける。」
(2)


 一方、奉行所に出入りする町人のなかにも


「是式
(これしき。これぽっち)には御座候(ござそうら)へども御用にも立候(たちそうら)はバ、難有仕合(ありがたきしあわせ)。」


などと挨拶(あいさつ)し、百両の袖の下を差し出す者がいた。奉行が


「加様
(かよう)の類(たぐい)ハ一向に受納致さず。」(このような賄賂は一切受け取らない。)


と突き返すと、与力はその町人をたしなめるどころか


「弐百両
(にひゃくりょう)にして密(ひそか)に差出(さしだ)し候(そうら)へ。」(200両に増額してこっそり差し出しなさい。)


と余計な入れ知恵までする始末。
(3)


 当時の京都の政治がこんなありさまだったから、市民たちはクリーンな石河に「殊(こと)に正しく、諸人感服する事普(あまね)く、誠に潔白の取扱(とりあつかい)」と最大級の賛辞を送ったのだろう。

 清廉潔白が賞賛されるのは、必ずしもよいことではない。そうでない者が多かったことの裏返しなのだから。


【参考】
(1)内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「京都町奉行 向井伊賀守政暉」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
(2)(3)同上「京都町奉行 池田筑後守長恵」の項。

2021年5月24日(月)
公正にして潔白(1)

 京都東町奉行だった石河土佐守政武(いしことさのかみまさたけ。1724~1787)の政治は、とりわけ公正にして潔白だったという。能吏(のうり)の誉(ほま)れ高かった京都所司代板倉重宗(いたくらしげむね。1586~1656)を引き合いに出し、その政治姿勢を京都の人びとは絶賛した。


「京都の政事殊
(こと)に正しく、諸人感服する事普(あまね)く、誠に潔白の取扱(とりあつかい)にて、板倉周防守(いたくらすおうのかみ)以来の奉行なり。」


 石河の評判は洛中洛外を問わず高かった。そのうち「土佐守の下知(げち。命令)」とさえいえば誰もが従うようになり、人びとは土佐守が末永く京都に在勤することを願った。

 ところが突然、石河は江戸に呼び戻されることになった。大津・草津(現、滋賀県)までも数十人の見送りがあった。石河を慕う人びとは皆涙を流し、その別離を惜しんだという。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「京都町奉行 石河土佐守政武」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月23日(日)
鹿の角切りのはじまり

 溝口豊前守直勝(みぞぐちぶぜんのかみなおかつ。1622~1691)が奈良奉行だった時、春日野(かすがの)の鹿が人を負傷させたことがあった。

 秋になると鹿は発情期を迎え、気が荒だってくる。雄同士で喧嘩をしたり、人に突きかかったりすることもある。雄鹿の角は一種の凶器でもあった。

 溝口は、人びとの安全のため、鹿の角を切ることにした。この処置に対し、東大寺・興福寺の僧徒たちは


「神獣
(鹿は春日大社の神獣とされた)を損ずる事、然(しか)るべからず。」


と大反対した。しかし溝口は


「角あるものは角を切
(きり)、人く(原字は口に敢)ふ馬ハ耳を割(さく)といふ事、聖賢(せいけん)の掟(おきて)なり。」


と言って、発情期を迎える前に鹿を捕獲して角を切らせた。鹿をうしろの方に引き仰ぐようにし、鋸(のこぎり)で切ると思いのほか簡単に切れた。

 鹿の角を切れば、鹿と人の事故は減る。その結果、鹿の角切りは奈良の人びとに受け入れられ、現在にまで続く行事になった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「奈良奉行 溝口豊前守直勝(信勝)」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。
 なお『流芳録』では『新著聞集』を引用し、鹿の角切りの開始は寛文13(1673)年のこととするが、角切りのきっかけ・開始年については異説がある。

2021年5月22日(土)
勇敢な与力・同心

 寛文年中(1661~1673)以前は、犯人捕縛に従事する与力(よりき。奉行の事務を分掌・補佐した役人)・同心(どうしん。与力指揮下の下級役人)たちには、勇敢な者が多かった。わが身の負傷もいとわず、仲間の犠牲をも踏み越え、我先にと犯人に立ち向かった。

 しかしながら、個人のスタンドプレーが目立ち、仲間内で協力しあうということが少なかった。気負いばかりが空回りして、同士討ちをすることさえあったという。

 戦国時代の荒々しい遺風が残っていたとはいえ、なぜ与力・同心たちはそれほどまでに命知らずだったのだろう。

 実は、褒美や下付金目当てだったのだ。

 一番手の者には札物(ふだもの)の刀一腰(ひとこし)が賜与された。札物の刀とは「価格が折紙物(おりがみもの。鑑定書つきの品物)に次ぐもの。価が金一枚から三枚五両まで」(広辞苑)の大刀をいう。二番手の者には脇差(わきざし。小刀)一腰が賜与された。そして負傷した者には、一カ所につき養生代として3両が下付された。

 こうした褒美・下付金目当てに先を争ったのだ。時には手柄の取り合いから、仲間内で争論に及ぶことさえあったという。

 さすがに、これではまずかろう。そこで江戸南町奉行の渡辺大隅守綱貞(わたなべおおすみのかみつなさだ。在職1661~1673)は、次のように申し渡した。


「惣
(そう)じて捕者(とりもの。罪人の捕縛)ある節、与力ハ進退遅速の差図(さしず)を第一とし、同心に捕(と)らせ候様(そうろうよう)にすべき事(こと)、専一に心懸(こころがく)べし。万一同心共(どうしんども)の手に余り、(犯人が)逃出(にげいず)る時ハ、かねて其(その)心得(こころえ)して取逃(とりにが)さぬ様(よう)に働(はたら)き有(ある)べし。必(かならず)一己(いっこ)の働(はたらき)をなすべからず。一体の所を心得申(もうす)べし。同心共も互(たがい)に力を合(あわ)せ捕逃(とりにが)さぬ様に助合(たすけあい)相働(あいはたらく)べし。一人の功をなさんとて、朋友(ほうゆう)の難義を見捨(みすて)(もうす)事あるべからず。」


 こうして犯人捕縛のルールを定めてから、与力・同心の同士討ちもなくなり、褒美を貪る者もいなくなったという。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十一、天保7(1836)年成立。「町奉行 渡邊大隅守綱貞」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月21日(金)
子どもの嘆願

 元文3(1738)年の冬のこと。浪華(なにわ)の福島屋太郎兵衛(ふくしまやたろうべえ)という者が、三日間晒(さら)された後、死刑に処されることが決まった。米船を盗み取るなど、さまざまの謀計が露見したからだ。

 太郎兵衛には子どもが三人いた。長太郎12歳、娘の市、まきともに15歳。子どもたちは、夜も明けないうちから大坂西町奉行佐々美濃守成意(さっさみののかみなりもと。1690~1746)の元を訪れ、「父の代(かわり)に、我々どもを刑せられ、父を免(ゆる)し給(たま)ハれ」とたどたどしい文字で書いた上書を提出し、必死に嘆願した。

 奉行所では、誰かが子どもらに入れ知恵したのではないか、と疑った。ことに長太郎は養子だったからである。

 しかし、いろいろ調査しても、そのような事実は見つからなかった。三人は母親に隠れて嘆願書を書き、奉行所にやってきたのだった。

 思い詰めた子どもたちの様子は、父の助命がかなわなければ、火にでも水にでも飛び込むような勢い。伏し沈み嘆く姿は、傍目(はため)にも見ていられないほどだった。

 大坂町奉行所では、上記の経緯(いきさつ)とともに太郎兵衛の処断について江戸に伺いを立てた。翌年、太郎兵衛は死罪を許されて追放刑を言い渡された。

 父親を慕う子どもたちの至誠に免じて減刑されたのだ。きわめて稀な事例なので、記録に残ったのである。

 
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「大坂町奉行 佐々美濃守成念」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月19日(水)
スリを公認

 天明飢饉の際、窮民たちに向かって「犬を食え」と言ったとされる曲渕景漸(まがりぶちかげつぐ。1725~1800)。大坂西町奉行(在職1765~1769)だった頃には、こともあろうに巾着切(きんちゃくきり。スリ)を公認したことがあった。

 ただし、浅黄(あさぎ。薄い葱(き)の葉の色。薄い藍)色の木綿頭巾(ずきん)をかぶることが条件だった。頭巾をかぶらずにスリを働いた者は、従来通りに処罰したのである。

 その一方で、大坂の市中には次のように触れ回った。


「浅黄頭巾かぶり候
(そうろう)ものハ巾着切ニ候間(そうろうあいだ)、油断(ゆだん)(いた)すべからず。」


 これでは公認されていても、巾着切で生計を立てるのは困難だ。浅黄頭巾をかぶり、町人に警戒されながらもスリを成功させる巾着切は、よほどの名人。

 結局、巾着切を禁止しているのと同じだった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「大坂町奉行 曲渕甲斐守景漸」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月18日(火)
犬を食え

 天明飢饉時、江戸町奉行だった曲渕景漸(まがりぶちかげつぐ。1725~1800)は都市の窮民対策に失敗して、奉行を解任された。

 水野為長(みずのためなが。1751~1824)が記録した『よしの冊子(そうし)』には、曲渕の発した心ない暴言が米屋打ちこわしの引き金になったとの噂を載せる(真相は不明)。


「去夏
(さるなつ。1787年)米屋騒之時分(こめやさわぎのじぶん)不首尾(ふしゅび)二相成(あいなる)は、町人共夫食(ふじき)を願出候節(ねがいでそうろうせつ)、曲渕之申候(まがりぶちのもうしそうろう)ハ、昔(むかし)飢饉之節(ききんのせつ)ハ犬を喰候事(くいそうろうこと)御座候(ござそうらい)て、犬一疋(ひき)が七〆文(ななかんもん)ヅツいたし候。此度(このたび)も犬をくへ、と被申候由(もうされそうろうよし)。夫故(それゆえ)町人共大(おおい)に立腹いたし、米屋騒に決し、夜中等(よなかなど)曲渕をも打てかかり候由。」(注)

(去年の夏(1787年)米屋の打ちこわし騒ぎがあった時のこと。窮民対策が失敗したのは、町人たちが夫食(ふじき。食料または金銭)拝借を願い出た際、曲渕が「昔は飢饉時に犬を食べたことがあった。犬一疋で銭七貫文くらいの値段だった。今回も犬を食えばよかろう」と言ったからだとのこと。曲渕のこの暴言に対して町人たちが激怒し、米屋をおそうことに決定したのだ。夜中には曲渕宅までおそったとのこと。)



 夫食拝借を願い出た窮民に対し、曲渕が「犬を食え」という暴言を放った。それが人びとの憤激を買い、米屋の打ちこわしに発展したというのだ。しかし、曲渕の暴言は噂であって、実際にかような発言があったかどうかは不明だ。

 噂といえば、マリ=アントワネットがパンを求める窮民たちに「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったという話も有名。しかし、このアントワネットの暴言は実際には噂に過ぎず、濡れ衣だった可能性が高い。

 もっともマリ=アントワネットが江戸町奉行だったら、「犬を食え」だなんてハシタナイコトは決して口にしなかっただろうに。



【注】
・駒井乗邨(こまいのりさと)『鶯宿雑記(おうしゅくざっき)』所収、国立国会図書館蔵、請求記号238-1

2021年5月17日(月)
不潔なトイレは嫌

 旅行をした際、観光地のトイレが汚くてがっかりすることがある。不潔なトイレが嫌で、高速道路のサービスエリア以外では、トイレを我慢するというご婦人方も多いらしい。

 そうした悩みは、江戸時代の旅行でも同じだった。『元禄世間咄風聞集(げんろくせけんばなしふうぶんしゅう)』には、次のような本人からの聞き取りを載せる。

 本庄安芸守資俊(ほんじょうあきのかみすけとし。綱吉の生母桂昌院の甥。元禄12年笠間藩5万石、15年に浜松7万石に転)は、不潔なトイレが嫌だった。


「御せつちん
(雪隠。トイレ)などは弥以(いよいよもって)(すこし)もむさき(不潔な)せつちんに御出被成候事(おいでなられそうろうこと)不被為成候(ならせられずそうろう)。」


 それゆえ旅先には、自分専用のトイレを臣下に運ばせたという
(1)

 小田切土佐守直利(おだぎりとさのかみなおとし。2,930石。大坂町奉行、大目付、小性組番頭)もまた「むさきせつちん」が嫌いだった。しかし大名ならいざ知らず、個人専用トイレの携行など、ふつうの武士にはできない相談。そこで小田切は、旅行中はトイレに行かなかったという。貞享3(1686)年に大坂町奉行勤務を命じられ、江戸・大坂間を往復した際にもトイレに行くことはなかった。本人の弁によれば、15、6日くらいトイレに行かなくても平気とのこと
(2)

 ところで、トイレに関しては、かなり「替(かわ)りたる(奇妙な)御腹中相」をもつ人もいた。

 江守十太夫正虎(えもりじゅうだゆうまさとら。150俵。御勘定)は、周囲が静寂でないと排便できないという習癖があった。そこでトイレに行くのは、屋敷中の者たちがすっかり寝静まった九(ここの)つ半・八(や)つ時分(午後1~2時頃)になってからだった。少々の物音にも気が散り、出るものも出なくなる。人の足音が聞こえてもだめだったという
(3)

 トイレに関する悩みは、いつの時代にも尽きない。


【注】
(1)長谷川強校注『元禄世間咄風聞集』1994年、岩波文庫、P.267
(2)(3)『元禄世間咄風聞集』前出、P.268

2021年5月16日(日)
冤罪(えんざい)(2)

 その後しばらくして、天満(てんま)で五郎三(ごろぞう)という盗賊が捕まった。そしてこの五郎三が、昨年苫屋(とまや)から五百両を盗んだ犯人は自分である、と自白したのである。

 早速松浦は、苫屋の者たちを一人残らず奉行所に呼び出した。そして、次のように叱責(しっせき)した。


「汝等
(なんじら)、卒忽(そこつ。粗忽。軽率)の至り。去年金子(きんす)を取(とり)し盗人、外(ほか)に出たり。忠七ハ全く盗人にあらず候所(そうろうところ)に、汝等毛頭(もうとう)(ちがい。間違い)なきと書付(かきつけ。証文)を出せしを以(もっ)て、我(われ)あやまりて罪なき者を殺したり。此上(このうえ)ハ忠七が解死人(げしにん)として苫屋が夫婦・一族、家内残らず皆々首を切らずしては御制法(ごせいほう)(たた)ず。某(それがし。私)も不詮議(ふせんぎ。詮議を尽くさなかった)に至り、御役儀(おやくぎ)相立(あいたた)ず。腹切(はらきり)て死するより外(ほか)なし。汝等(なんじら)壱人(いちにん)も遁(のが)れぬ場所ぞ。」

(お前たち、軽率の至りであるぞ。昨年、金子を盗んだ犯人が外から出た。忠七はまったく盗人ではなかったのに、お前たちが犯人に間違いなしと証文を提出したので、私は無実の者を誤って殺してしまった。こうなった上は、忠七殺しの犯人として苫屋の者どもを一人残らず斬首しなければ、御制法が成り立たない。自分も不詮議の至りで、町奉行の御役儀が立たず、切腹して死ぬよりほかない。お前たち、一人として逃れられぬ所ぞ。)


 これを聞いた苫屋の者たちは魂を失い、白州(しらす。法廷)で生きた心地もない有様。立会人の名主・年寄たちも、苫屋に代わって詫びる言葉が見つからない。

 苫屋の者たちが必死に許しを請う様子を見て、松浦は笑い出した。実は、こうしたこともあろうかと予想して忠七の刑は執行せず、そのまま牢内に留め置いていたのだ。

 松浦は苫屋の者たちに、次のように言い渡した。


「いかに苫屋が者共
(ものども)。汝等(なんじら)、無実を申掛(もうしかけ。陥れる)しゆへ、(忠七は)牢舎(ろうしゃ。牢に入れること)・拷問(ごうもん)に甚(はなはだ)苦しめり。其(その)(かわ)りに忠七へ、苫屋一家より保養金として五百両遣(つかわ)すべし。其(その)過料(かりょう。罰金、償金)にて其方共(そのほうども。お前たち)が不調法(ぶちょうほう。しくじり)御免(おゆるし)下さるべし。」

(どうだ、苫屋の者たち。お前たちが無実の者を罪に陥れたので、忠七は入牢・拷問にひどく苦しんだのだ。そこで償いに、忠七には保養金として五百両を支払え。その償い金で、お前たちの過ちを許すこととしよう。)


 これを聞いた苫屋一族は生き返ったかのように喜び、忠七には五百両の金子を与えて和解したのである。

 こうした松浦の仕事ぶりは江戸にも伝わった。ほどなく江戸に呼び戻された松浦は、勘定奉行・長崎奉行兼勤の要職に就任した。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「大坂町奉行 松浦河内守信正」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月15日(土)
冤罪(えんざい)(1)

 松浦河内守信正(まつらかわちのかみのぶまさ。1696~1769)が大坂奉行だった元文年中(1736~1741)のこと。

 高麗橋筋(こうらいばしすじ)に両替商を営む苫屋(とまや)久五郎という者がいた。ある時、店から五百両が盗まれた。盗賊が外部から侵入した形跡はないように見えた。そこで、使用人たちが疑われた。

 みんなは手代の忠七を犯人と疑った。そこで忠七を捕らえて問いつめた。身に覚えのない忠七は、頑として盗みを否定する。しかし、忠七をはなから犯人と決めてかかっている苫屋は、聞く耳をもたない。大坂町奉行所に訴え出た。


「此
(この)もの金子(きんす)五百両盗(ぬすみ)(そうら)へども陳(ちん)じ申(もうす)ニ付(つき)、何卒(なにとぞ)御仕置(おしおき)仰付(おおせつけ)られ下さるべく候(そうろう)。外(ほか)の見懲(みごら)しの為(ため)に候。」
(この忠七は五百両を盗んだのにもかかわらず盗んでいないと偽りを言うので、どうか法に照らして処罰して下さい。他の者たちの見せしめにしたいのです。)


 松浦は忠七をきびしく尋問した。しかし忠七はいかなる拷問にも屈せず、無実の主張を変えなかった。

 そこで松浦は、苫屋の者たちを奉行所に呼び出し、「外に何ぞ証拠なきや(ほかに忠七が盗んだという証拠はないのか)」と尋ねた。しかし、苫屋の者たちは証拠はさておき、口を揃えて次のように主張するばかり。


「不届者
(ふとどきもの)に御座候(ござそうら)へば中々(なかなか)白状ハ仕(つかまつる)まじく候(そうろう)。去(さり)ながら彼(か)れ盗(ぬすみ)候に毛頭(もうとう)(まぎ)れ御座なく候間(そうろうあいだ、是非是非(ぜひぜひ)御仕置(おしおき)下さるべし。」
(法に背くことをしでかすほどの者ですから、なかなか自白などいたすまい。しかしながら忠七が盗んだのは明々白々。是が非でも忠七を処罰して下さい。)


 苫屋の者たちの主張を聞くと、松浦は次のように言った。

 お前たちがそこまで言うのであるから、よもや忠七が犯人であることに間違いはあるまい。しかし自白もなければ証拠もないのだ。それでも忠七を打ち首に処するとなると、苫屋からの一筆が必要だ。「彼(か)れ五百両の金子(きんす)盗候(ぬすみそうろう)に紛(まぎ)れ無之(これなく)候間(そうろうあいだ)、御仕置(おしおき)を奉願(ねがいたてまつる)」と書いた証文を提出せよ。

 そこで苫屋では、言われた通りに証文を書いて奉行所に提出した。これで忠七は打ち首になる。自分たちの主張が通ったことを喜んだ苫屋の者たちは、大坂町奉行所をあとにした。

2021年5月14日(金)
気の毒な春日局

 『流芳録』のなかでの春日局は、損な役回りばかりで気の毒だ。将軍家光の乳母にして、大奥最大の実力者。それなのに、江戸城の御門さえなかなか通してもらえない。門番たちにその都度通行を拒まれるのだ。

 もっとも、門番たちにしてみれば、相手が権力を笠に着た有名人だからこそ、自慢話が面白くなるのだろう。

 たとえば、こんな話がある。

 家光から「急用があるから、急ぎ大手口から登城せよ」との上意があった。しかし、大奥女中の大手口からの登城は先例がない。ルール違反なのだ。この時には、上意であっても「御書付(おかきつけ。証拠)」がなければ通せないと、門番の近藤貞用(こんどうさだもち)に通行を拒否された。

 また、こんな話もある。

 夜詰(よづめ。宿直)当番のため平川門を通過する際には、門限の暮れ六つ時(現在の午後6時頃)を過ぎていた。そのため平川門番の天野長重(あまのながしげ)に通行を拒否され、同様の理由で、裏門切手番の久松定佳(ひさまつさだよし)にも通行を拒否されている。


 いずれにも共通するのは、相手が誰であろうとルール違反は認めないとする門番の強い決意だ。春日局の名前に掛けて「春日(大明神)にても八幡(大菩薩)にても」、「春日は扨置(さておき)、天照太神宮にても」通さぬものは通さぬ、とまで放言し、門番たちはその覚悟を示す。

 そして、こうした物語のお決まりのパターンが、春日局の将軍家光への直訴だ。しかし家光は、門番たちが己の仕事に忠実で、権力者の圧力にも屈せずその通行を阻止したことをむしろ喜ぶ、というオチになる。

 近藤の場合には「近藤ならばさもありなん。何を命じてもたしかな者だ」、天野の場合には「天野は厳格な男だ。そなたは縛り上げられなかっただけ幸いだった」、久松の場合には「久松のような頑固者がいるから自分も安眠できるのだ」とそれぞれの仕事ぶりに大いなる理解を示し、春日局のたしなめ役に回っているのだ。

 つまり幕府が理想とする良吏とは、相手が誰であろうと忖度(そんたく)なく、自分の役割を忠実に遂行する者だったのだ。


【参考】
・『流芳録』、天保7(1836)年成立。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004。
巻之十二「百人組之頭 近藤登之助貞用」、「御先手頭 天野弥五右衛門長重」の項。
巻之十四「御裏門切手番之頭 久松彦左衛門定佳」の項。

2021年5月13日(木)
赤鰯(あかいわし)

 享保14(1729)年、御使番(おつかいばん。遠国役人の監察使・国目付・巡見使等を勤める役職)の水谷信濃守勝比(みずのやかつとも。1689~1771)が堺奉行(在職1729~1742)に転出した。

 堺へ越してきた水谷は、配下となる与力らを集めて料理をふるまった。

 しかしその料理は、ざくざく汁(菜をざくざく刻んで入れた汁)に赤鰯(あかいわし。糠をまぶして塩漬けにし、または干した鰯)の焼き物、それに香の物ばかりという質素なもの。

 水谷が言うことに、幕府から飲食にも質素倹約を令せられている以上、「物入料理(ものいりりょうり。費用のかかるぜいたくな料理)」を提供するわけにはいかない、とのこと。

 ここから、本日の料理について、水谷の講釈がはじまった。


「此
(この)赤鰯と申物(もうすもの)、殊(こと)の外(ほか(やき)にくきものニて候(そうろう)(ゆえ)、拙者(せっしゃ)随分(ずいぶん)と念を入れ、自分に焼(やき(もうし)(そうろう)。第一(だいいち)焼様(やきよう)二て首落(くびおち)腹切(はらきれ)(もうす)ものニて候(そうろう)。兼(かね)て工風(くふう。工夫)(いた)し焼申さず候(そうらい)ては右の通(とおり)に候(そうろう)間(あいだ)、何茂(いずれも。皆さんも)(たく。自宅)にて焼(やか)れ候とも兎角(とかく)首落(くびおち)申さず、腹きれざる様にやき申され候ヘバ、一入(ひとしお)風味も能(よき)(そうろう)(あいだ)、左様(さよう)相心得(あいこころえ)らるべく候(そうら)へ。」
(この赤鰯という魚は、とりわけ焼くのがむずかしいので、私が細心の注意を払って焼いたものだ。第一、赤鰯は焼き方が悪いと、首が落ちたり腹が切れたりしてしまうもの。そうならないようにするには、前もっての工夫が必要。いずれの方々も自宅で焼く場合には、とかく首が落ちたり腹を切ったりしないように注意して焼かれよ。そうすれば一段と風味よく焼き上がるものだ。そのように心得られよ)


 当時の堺の与力たちは、ことのほか奢侈(しゃし)に流れていた。なかには町人から借金しても返済せず、いろいろと悪事に手を染める者もいたという。

 水谷は、そうした情報を事前に入手していたのだろう。だから、与力たちに料理をふるまって諷諌(ふうかん。遠回しにいさめること)したのだ。

 赤鰯を焼くように、常日頃から細心の注意を払って、身を慎むべきである。そうしなければ、焼き方を失敗した赤鰯のように、打ち首・切腹の憂き目にあうことになろう。肝(きも)に銘(めい)じよと。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「堺奉行 水谷信濃守勝比」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月12日(水)
二人の八左衛門

 中山勘解由直守(なかやまかげゆなおもり。1633~1687)が火附盗賊改加役(ひつけとうぞくあらためかやく)だった頃の話。その峻厳(しゅんげん)な吟味から、中山には「鬼勘解由(おにかげゆ)」の異名があった。

 当時、お尋ね者(指名手配者)に、向溝(むこうみぞ)八左衛門(はちざえもん)という侠客(きょうかく)がいた。ついには捕らえたものの、どこか疑わしい。同名の別人ではないのか。そこで、しばらく投獄して様子を見ることにした。

 すると、これを伝え聞いた本物の八左衛門が「我故(ゆえ)に科(とが)なき者を刑せられんやうなし(自分の身代わりに、無実の者が処罰されるいわれはない)」と考え、出頭してきた。


「某
(それがし。私)こそ御尋(おたずね)の向溝ニて候(そうら)へ。さきに同名の者有(あり)て捕(と)られしと承(うけたまわり)て忍(しのび)がたく、罷出候(まかりいでそうろう)。急ぎ彼者(かのもの)を免(ゆる)し給(たま)へ候(そうら)へ。」
(私がお尋ね者の向溝です。以前に私と同名の者が捕まったと聞き、忍びがたく出頭しました。急ぎその者を放免してください。)


 そこで、最初に投獄しておいた八左衛門を問いただすと、こちらも「我等(われら。私)こそ御尋(おたずね)の者に候(そうろう)なり(私こそがお尋ね者の八左衛門です)」と言い張る。


「只今迄
(ただいままで)ハ何とぞ申遁(もうしのがれ)んと陳(ちん。嘘をいう)じ候へども、かの者を罪に落(おと)してハ本意(ほい)なく候。弥(いよいよ)我等(われら)を刑せられ候へ。」
(たった今までは、何とか罪を言い逃れようと偽りを申しましたが、他人に罪を着せるのは自分の本意ではありません。どうか私を処罰してください。)


 二人とも「我こそが本物の八左衛門である」と言って譲らない。

 中山は、二人の言葉にいたく感じ入った。そこで「八左衛門の旧悪は許されるべきものではない」と前置きした後で、次のように二人に申し渡した。


「只今
(ただいま)義を立(たて)(かた)く守る所(ところ)すぐれたる上ハ、以来悪事あるべきとも思ハれず。向後(こうご。今後)を慎(つつし)めよ。」


 そして二人の義侠心(ぎきょうしん)に免じ、ともに放免したのである。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「火附盗賊改加役 中山勘解由直守」「御目付 宮城甚右衛門和甫」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月11日(火)
刀にまつわる言葉

 鎌倉時代から江戸時代まで、武士中心の世が長かった。そのため現在でも、刀にまつわる言葉が多く残っている。思いつくまま挙げてみた。


・相槌(あいづち)を打つ
 鋼(はがね)を鍛(きた)える際、鍛冶場で師匠と弟子が向かい合って互いに槌を打つこと。相手の言葉に同意を表してうなずく、相手の話に調子を合わせるの意味になった。

・折紙付(おりがみつき)
 保証付きという意味。折紙は、奉書紙を上下二つ折りにした鑑定書。上方に作者名、寸法、鑑定者名などを記載した。室町時代以来、本阿弥家が刀剣の折紙を発行した。

・地金(じがね)が出る
 刀身の外側の鋼が研ぎ減ってしまうと、中から軟らかい地鉄が出てしまう。転じて、本来の醜い姿をさらけ出してしまうこと。

・鎬(しのぎ)を削(けず)る
 鎬(刀身の表面と裏面にある稜線)が削れるほど激しく争うこと。「鐔(つば)ぜりあい」もほぼ同じ意味。

・切羽(せっぱ)詰まる
 切羽は鍔(つば)の上下にはめ、鞘(さや)から刀身が動かないよう固定する金具。転じて、動きがとれない、窮地に陥るなどの意味になった。同様の意味の「抜き差しならない」は、刀が錆びつくと鞘から抜けなくなるところから出た言葉。

・反(そ)りが合わない
 刀の反りは一本一本違うため、違う鞘に入れようとしても入らない。そこから、気が合わない者同士のたとえに使う。また、刀身を本来の鞘に戻すことから、喧嘩した夫婦が和解することを「元の鞘におさまる」という。

・打打発止(ちょうちょうはっし)
 刀などでお互い激しく打ち合う音から、激しく議論を戦わせる様子を表現。

・つけ焼刃(つけやきば)
 鈍刀に鋼の焼刃だけつけたしたもの。テスト前日の一夜漬けの勉強など、急場しのぎに覚えた知識などをいう。

・研(と)ぎ澄(す)ます
 刀や鏡などを、一点の曇りもないように十分に研ぐこと。そこから「神経を研ぎ澄ます」など、鋭敏にするの意味になった。

・なまくら
 刀に焼きがしっかり入らない鈍刀をいう。転じて、腕前が未熟なことやのらくら者(怠け者)を指すようになった。

・抜き打ち
 刀を抜くや否や相手に斬りつけること。そこから「抜き打ちテスト」など予告なく行う、出し抜けなどの意味で使うようになった。

・懐刀(ふところがたな)
 懐刀は、いざという時のために懐中に忍ばせておく小さな守り刀のこと。転じて、秘密の計画などにあずかる近臣や部下のこと。

・目貫(めぬき)通り
 目貫は刀の柄の中央に据えてある金具で、刀身を柄に固定する。刀装の中心として最も目立つ存在なので、「目貫通り」は町の中心となる通り、繁華街を指す意味になった。

・焼(やき)を入れる
 刀に焼刃をつくること。刺激を与えてしゃっきりさせる、処罰するなどの意味がある。同じ「焼(やき)」から派生した「焼が鈍(にぶ)る」「焼が回る」は、年老いて衰えたわが身の身体能力をかこつ際に使われる。


【参考】
・廣井雄一「刀にまつわる言葉-意外に身近な刀剣の世界-」-週刊朝日百科『日本の国宝』第100号所収-

2021年5月10日(月)
ゑこつぼ

 目付(めつけ。旗本・御家人の監察を任とする役目)の宮城和甫(みやぎかずよし。はじめ貞頼)は、鯰江貞勝(なまずえさだかつ)の長子で、通称を甚右衛門(じんえもん)といった。宮城姓は、元和5(1619)年に宮城正重(みやぎまさしげ)の養子となったことによる。

 甚右衛門は、気骨のある武士だった。相手が誰であろうと、歯に衣着せぬ物言いをした。

 ある時、江戸城中において「御老中(ごろうじゅう)は何方(いずかた)に御座(ござ)すや」と尋ねる者がいた。甚右衛門は「ゑこつぼに候(そうろう)」と答えた。「ゑこつぼとは何方(いずかた)か」と再度尋ねると、甚右衛門はぶっきらぼうにこうに答えた。


「其方(そのほう)は愚かなり。ゑこつぼを知らぬか。御老中寄合(よりあい)て依怙(えこ)をなされ候処(そうろうところ)なり。」
(あなたは愚か者だ。ゑこつぼを知らないのか。老中たちが寄り集まって依怙贔屓(えこひいき)の相談する場所だ。)


 
甚右衛門は、老中たちが集まっていた右筆部屋(ゆうひつべや)を「依怙つぼ」と揶揄(やゆ)したのだった。

 ふだんから甚右衛門は、老中の前であっても「今日は如何成(いかなる)依怙(えこ)をなされ候(そうろう)や」と嫌味を言い、老中から話などがあれば「其御咄(そのおはなし)ハ御老中には如何(いかが)」などと、ずけずけ物申した。

 すべてがこうした調子だったので、上司うけはひどく悪かった。だから甚右衛門の出世は遅れた。

 幕府の人事考査は、頭(かしら。所属の上司)がいる部署ではその頭が行い、頭がいない部署では老中が行うことになっていた。重臣と仲が悪い甚右衛門には、推挙人がいなかったのである。

 そんな甚右衛門が寛永19(1642)年、大目付を拝命して2,000石を加増された(総計4,000石)。将軍家光による直々(じきじき)の抜擢(ばってき)である。異例な人事といってよい。

 この時家光は、甚右衛門に次のような上意を伝えた。


「年寄共
(としよりども。重臣たち)が気に入様(いるよう)に仕候(つかまつりそうら)へ」


 あまりの剛直ぶりに、少しは丸くなれ、と将軍自らがたしなめたのだ。



【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十三、天保7(1836)年成立。「御目付 宮城甚右衛門和甫」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月7日(金)
日光梶(2)

 慶安4(1651)年、敬愛する家光が亡くなり、日光に葬られた。

 定良は殉死(じゅんし)を許される身柄ではなかった。それならせめて主君の菩提(ぼだい)を弔(とむら)いたい、そう切望して承応元(1652)年、日光へ移り住んだ。

 毎朝寅の刻(とらのこく。午前4時頃)に起床すると沐浴(もくよく)し、家光の廟所(びょうしょ)に参詣(さんけい)した。そして御縁(ごえん)に座すと「南無大猷院殿(なむだいゆういんどの。大猷院殿は家光の諡号(しごう))」という名号(みょうごう)を1万遍ずつ唱えることを日課とした。この勤行(ごんぎょう)は風雨寒暑にかかわらず、47年間一日も休むことなく続けられた。御縁で雨に打たれても雪に埋もれても厭わず続けられた。

 年を重ねるにつれ、さすがに身体がいうことをきかなくなった。しかし85歳で乗物御免となるまで、参拝に乗物を用いることはなかった。また、御門内では杖を決して使わなかった。生涯独身を通し、養子の勧めも断った。

 元禄11(1698)年、定良は87歳で亡くなった。遺体は、家光の眠る日光山の麓(ふもと)に葬られた。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十三、天保7(1836)年成立。「御小納戸 梶左兵衛佐定良」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年5月6日(木)
日光梶(1)

 ささいなできごとが、人の生き方を決定づけることがある。梶定良(かじさだよし。1612~1698)の場合が、まさしくそうだった。

 定良は、伊勢長島城主菅沼織部正定芳(すがぬまおりべのしょうさだよし)の家臣、菅沼権左衛門定久(すがぬまごんざえもんさだひさ)の子として生まれた。寛永3(1626)年、母方の叔父梶次郎兵衛の養子となったものの、寛永7(1630)年家督・家財等を養父の実子長十郎に譲り、定良自身は別に小十人組(こじゅうにんぐみ)へ奉仕し禄を賜った。寛永16(1639)年に御腰物方(おこしものかた)となり、寛永20(1643)年に御小納戸(おこなんど)になった。御小納戸就任は31歳の時という。

 御小納戸となった定良は、3代将軍家光(1604~1651)の整髪・入浴・衣服の着脱等、身の周りの世話全般を勤めた。役目柄、昼夜家光の側を離れることはなかった。寝所(しんじょ)まで近侍するという濃密な主従関係のうちに時を過ごしたのである。

 ある時、家光が入浴した際、月代(さかやき)を剃(そ)るよう命ぜられた。その際、ふとしたはずみに剃刀(かみそり)を風呂の中に取り落としてしまった。

 将軍の世話係としてはとんでもない失態だ。いかなるお咎(とが)めも覚悟せねばならぬ。定良はその場に平伏した。

 しかし家光は、定良に「どうした」と言葉をかけると、あれこれ用事などを申しつけた。定良の失態を、見て見ぬふりをしたのである。

 主君に四六時中近侍する緊張感、思わぬ失態による動揺、お咎めへの不安等。そうしたものから一挙に解放されたためだろう、家光のささいな配慮に定良はいたく感動した。

 そして、この一事が「此節(このせつ)の御恩骨髄(こつずい)に徹し、身命を差上(さしあげ)、御用に立申(たちもうす)べく」とまで、定良を思い詰めさせることになったのである。

2021年4月30日(金)
わかりやすく書こう

 ある時、大坂町奉行所に江戸から奉書が届いた。中には「在々(ざいざい。村方)町方(まちかた)耶蘇宗門(やそしゅうもん)堅(かた)く改め申すべき」旨が書いてあった。

 大坂町奉行(西町奉行)だった曽我丹波守古祐(そがたんばのかみひさすけ。1586~1658。在職1634~1658)が、右筆(ゆうひつ。書記)たちが書くこうした文章について苦言を呈した。幕府の意図(お触れ)を万民に伝えようとする配慮に欠けるというのだ。

 なるほど、都会やその周辺地域なら「耶蘇宗門(やそしゅうもん)」と書いても、御制禁の切支丹(きりしたん。カトリック)のことだとわかるだろう。しかし、片田舎の人びとが「耶蘇宗門」と聞いて、はたして切支丹のことだと認識できるだろうか。おそらく、次のように思うにちがいない。


「是
(これ)は何といふ宗旨(しゅうし)ぞや。又、切支丹の外(ほか)に宗旨の渡りたる哉覧(やらん)。」
(「耶蘇宗門」というのは何という宗教なのか。また、切支丹とちがう新たな宗教が外国から渡ってきたのだろうか。)


 どこのだれにでもわかるように書くのが、文章の基本。したがって「和語(日本語)を以(もっ)て」書くべきだ。「文躰(ぶんたい)こびたる(学があるように気取ること)詞(ことば)を書入(かきいるる)を書翰(しょかん)の法と心得(こころえ)」てはいけない。

 ゆえにこうした場合、「耶蘇宗門」という一般には馴染みのない漢語表現は避けるべきだ。誰にでもわかるように、ただかな文字で「きりしたん」と書けばよいのだ。曽我丹波守は以上のように語ったのだった。


 わかりやすく「和語(日本語)を以(もっ)て」説明する努力を放棄して、「文躰こびたる詞」を使いたがるやからは現在でも多い。見渡せば、エビデンス(科学的証拠)とかコンテンポラリー(現代の)とかやたらカタカナ語が氾濫している。しかし、そうしたカタカナ語を背伸びして使ってみても、「海老ダンス?」「寒天ポロリ?」と相手に怪訝(けげん)な顔をされてしまっては意味がない。

 コミュニケーション手段としての言葉や文章は、相手に伝わってこそ意味があるのだから。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「大坂町奉行 曽我丹波守古祐」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年4月28日(水)
まずは湯漬けを食べてから

 城郭建築の屋根の両端を飾る鯱(しゃちほこ)は、想像上の海獣だ。頭が虎に似るというので「鯱」と書く。背には鋭いとげをもち、尾を高く反り上げた独特の形状をしている。

 海獣なので防火のまじないとされ、城郭建築等にさかんに取り入れられた。しかし、この防火のまじないが、かえって仇となった事例がある。

 豊臣氏滅亡(大坂の陣。1614、1615)によって荒廃した大坂城は、三期にわたる大工事を経て、寛永6(1629)年にようやく再建が完了。ところが寛文5(1665)年正月2日、よりによって天守の鯱が落雷を誘因してそこから出火、瞬く間に天守を全焼させてしまったのである。以後大坂城天守は、昭和6(1931)年まで再建されることはなかった。

 大坂城の出火で、大坂市中は騒然となった。

 当時の大坂町奉行は、西町奉行が彦坂壱岐守重紹(ひこさかいきのかみしげあき。1619~1697)、東町奉行が石丸石見守定次(いしまるいわみのかみさだつぐ。1603~1679)。

 石丸は、同役の彦坂の屋敷に急いだ。屋敷にあがると、彦坂は湯漬けを食べている。石丸が「早く登城しよう」とせかすのを制し、「城には御城代をはじめ御定番(ごじょうばん)・加番(かばん)ら歴々の者たちが詰めている。また、この非常事態に近隣の大名たちも出動するはずだ。だから何の心配もない」という彦坂。


「我等
(われら)ハ町の騒動を鎮(しずめ)る事大切の事ゆへ、組の者を早速町へ遣(つかわ)し騒動なき様にとふ(触)れさせ候(そうろう)( 中略 ) 町中異変もなきを聞届(ききとど)けたる上、登城然(しか)るべし。」
(われわれ町奉行は、城下の騒動鎮静が大切な役目。早速部下たちを町に派遣し、異変に備えるように命じた。町中に異変ないことを確認した上で登城するのが筋だろう。)


 そして彦坂は、さらにこう付け加えたのである。


「先
(まずは)湯漬(ゆづけ)を食(しょく)し、心静(こころしずか)に組下(くみした)へ申付(もうしつけ)られ候(そうら)へ。」


 まずは腹ごしらえをし、心を落ち着かせた上で、あなた(石丸)の配下へも同様にお命じください、と。

 危急の際にはまずは心を落ち着かせ、自分の果たすべき役割を果たすことが大切だ。
 

【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「大坂町奉行 彦坂壹岐守重紹」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年4月27日(火)
娘を競売にかける(2)
 当時の京都町奉行(東町奉行)は小濱志摩守久隆(おばましまのかみひさたか。1670~1727。在職1725~1727)。小濱は、関係者を呼び出すと、次のように申し渡した。


「其方共
(そのほうども)、娘を両方へ約束いたす段、不届千万(ふとどきせんばん)なり。依(より)て娘を上ケ物(あがりもの。官の没収物)に仰付(おおせつけ)らるるなり。汝等(なんじら)退くべし。」
(婚約の二股(ふたまた)などとはとんでもない。よって娘は奉行所で没収する。帰宅せよ。)


 驚いたことに、娘は没収物扱いとされ、奉行所に留め置かれたのだ。

 しばらくして、関係者が再び奉行所に呼びだされた。そして彼らは、奉行の小濱から次のように告げられたのである。


「上り物
(あがりもの)の娘なれバ御払(おはらい。不用品を売り払うこと)に出さるべし。両方より身代限り(しんだいかぎり)入札(にゅうさつ)にいたせよ。」


 娘は官の没収物なので、競売にかけるというのだ。

 小濱は「身代限り(資産全部)入札(にゅうさつ)にいたせよ」と言ったのだが、入札の札を開いてみると資産家の方には「百五十貫目」、一軒持ちの男の方には「二百貫目」とあった。一軒持ちの男は、資産家の十分の一ほどの財産しかなかった。しかし娘のために、それこそ「身代限り(全財産)」をつぎ込んだのだった。

 結局、娘は一軒持ちの男の方へ嫁入りすることになった。そして、入札金は「上へ御取上(おとりあげ)なさるべき様なし(役所が取り上げるいわれはない)」として、そのまま男に返却されたのである。

 一応メデタシメデタシで話は終わった。しかし、資産家が勝っていたら、結末はやるせないものになっていただろう。

 また「上り物(官の没収物)」にされた娘は、まったくのモノ扱い。当事者の娘の意志とは関係なしに結婚話が進んでいる。これでは娘の人格もへったくれもない。

 オハナシとしては面白いが、これが本当に名裁判と言えるのだろうか。


【参考】
・内山温恭編『芳流録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「京都町奉行 小濱志摩守久隆」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
2021年4月26日(月)
娘を競売にかける(1)

 京都の同じ町内に、念仏講仲間の二人の男がいた。一人は町屋一軒持ちの男で、もう一人は五軒持ちの男だった。

 五軒持ちの男には娘がいた。よほど一軒持ちの男が気に入ったのだろう、一軒持ちの男に自分の娘を嫁にやろうと約束した。

 喜んだ一軒持ちの男が結納の品を贈るという。五軒持ちの男は「いや結納なんてどうでもよい。二、三日中にわが家に来て娘を連れて行け」という。一軒持ちの男は「それはあまりにも性急なこと。十日ばかりして伺いましょう」。そう約束して別れた。

 その間、一軒持ちの男は少々家普請などして、嫁迎えの準備をすることにした。男の婚姻に家族中が喜びにあふれていた。

 ところが五軒持ちの男が帰宅し、女房に娘の結婚話を告げると、女房が猛烈に反対したのである。実は夫に内緒で、娘と資産家との縁談話を進めていたという。女房の言い分。


「我等
(われら。私)も何屋の某(なにがし)へ約束し、此方(このほう)の身体(しんだい。資産)よりもはるかに増(まし)たる事なれば、外(ほか)へ遣(つかわ)す心なし」
(私も、何屋の誰それに娘を嫁がせると約束しています。こちらよりもはるかに資産家です。だから、ほかの男へ娘を嫁がせる気はありません。)


 五軒持ちの男は女房の激しい剣幕に、しぶしぶ一軒持ちの男の所へ結婚破棄を告げに行った。しかし、すっかり嫁迎えの準備を整えていた男が承知してくれるはずもない。

 一軒持ちの男は、京都町奉行所へ訴え出た。

2021年4月24日(土)
鶴が死んで大騒ぎ(2)

 十蔵の報告を聞いた老中は次のように言った。


「自然と死
(しし)て落(おち)たる者なれば吟味(ぎんみ)に及(およ)ばず。」
(自然死して落ちてきた鶴であるなら、詮索するには及ばない)


 こうして鶴の一件は、何事もなく済んでしまった。

 十蔵は帰ってくると組頭を呼びだし、次のように言って例の鶴を渡したのだった。


「鶴の事ハ毒にあたりたる鳥ゆへ、御用
(ごよう)に立申(たちもうす)まじきとて拝領(はいりょう)して帰りたり。昨日からの骨折(ほねおり)に組合(くみあい)寄合(よりあい)、何某(なにがし方に料理いたされ候(そうら)へ。」


 毒に当たって死んだ鶴は食用にはなるまいということで、拝領して帰ってきた。昨日からの鶴騒ぎの慰労(いろう)に、みんなで集まって鶴料理を賞翫(しょうがん)しようではないか、と言ったのだ。

 ちなみに、当時の武家社会では、鶴の肉は最高のものとして珍重された。その半面、鶴は将軍放鷹(ほうよう)の第一の獲物であったため、その保護のため一般庶民には捕獲が禁止されていた。ゆえに、将軍や大名でもない限り、鶴の肉の味を知る者はほとんどいなかったのだ。


【参考
・『流芳録』巻之十三、天保7(1836)年成立。「御徒頭 石谷十蔵貞清」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
・金子浩昌外『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.94~95、P.106~107。 

2021年4月23日(金)
鶴が死んで大騒ぎ(1)

 ある日の夕方、御徒衆(おかちしゅう)の屋敷の裏へ鶴が舞いおりてきた。木を切っていた中間(ちゅうげん。武家の奉公人)が何の気なしに鉞(まさかり)を投げつけたところ、運悪く鶴に当たり即死してしまった。

 この時分、鶴を殺すことは大罪だった。

 驚いた近所の人々が集まっていろいろと鶴の蘇生(そせい)を試みたが、ついに生き返ることはなかった。とりあえずは犯人を縛り上げ、組頭が上司の御徒頭(おかちがしら)のもとに報告に行った。

 御徒頭は石谷十蔵貞清(いしがやじゅうぞうさだきよ。1592~1672)だった。

 「何か変わった事でもあったのか」と十蔵が尋ねると、事件のあらましを組頭が答える。


「今夕方、何某
(なにがし。誰それ)が屋敷へ鶴のおりたるを、召仕(めしつかい)の中間(ちゅうげん)、何の心もなくまさかりをうち付け候(そうろう)(ところ)、鶴にあたり即座(そくざ)に死申候(しにもうしそうろう)。言語道断(ごんごどうだん)の儀、迷惑仕候(めいわくつかまつりそうろう)。」


 まだ言い終わらぬ組頭の言葉をかき消すように、十蔵が大声で次のように言った。


「鶴が死
(しし)て空より落(おち)ちたると申さざるか」


 鶴は殺されたのではなく、「すでに死んでいた鶴が空から落ちてきたのだな」と念を押したのだ。

 犯人をかばおうとする十蔵の心根も知らず、組頭はひたすら「事実」を言い張る。


「いや、
(鶴が)屋敷へおりたるを、中間(ちゅうげん)めがまさかりを投付(なげつけ)死に候(そうろう)。」


 十蔵はさらに大声を張り上げて、次のように言った。


「元より死
(しし)て落(おち)たるは鶴の頓死(とんし)なり。定(さだめ)て毒虫を喰(くい)て死(しし)て落(おち)たるなるべし。いたすべき様なし。明日登城いたし、其段(そのだん)御老中へ申上(もうしあぐ)べし。」
(もとより死んで落ちてきたとなると鶴は突然死だ。きっと毒虫でも食べて死んだものが落ちたにちがいない。どうしようもないことだ。明日登城し、その旨をご老中に報告しよう。)


 そして翌日、登城した十蔵は、老中に「鶴は自然死した」と偽りの報告をしたのである。

2021年4月21日(水)
駿河次郎の舞(3)

 『流芳録』には次のようにある。


「梶原程
(ほど)の勇士が、清重ハ只壱人、三十騎にていかで手ぬるく巻物を焼(やか)せん。梶原が了簡(りょうけん)、関東諸大名、義経へ一味の連判、是(これ)を急に討取(うちとり)なバ頼朝の御前(ごぜん)に出る。しかれバ遁(のが)れぬ所を存じ、関東の諸大名国々に引込(ひきこも)りなば天下の大乱なるべしと考へ、わざと手のひ(火)にや(焼)かせける。案のごとく連判の人々、清重が御判(ごはん)とおぼしき巻物を焼たると聞(きき)し故(ゆえ)、扨(さて)はと安堵(あんど)し、何(いず)れも落付(おちつ)けるとかや。」


 梶原景季ほどの勇士が味方は三十騎、相手は清重ただひとり。それなのに、みすみす清重に連判状を焼かせてしまうということがあるだろうか。
 
 直ちに清重を討ち取ってしまえば、連判状は押収できる。しかし、謀反の動かぬ証拠が頼朝の目に晒(さら)されてしまえば、謀反に加担した関東諸大名に弁明の余地はない。最後の抵抗の意志を固め、それぞれの国に立てこもるだろう。そんな事態にでもなれば、天下の大乱にもつながりかねない。

 そう考えた梶原は、わざと清重に連判状を焼かせる猶予を与えたのだ。思惑通り、清重が巻物(連判状)を焼いて自害したと聞くと諸大名は安堵に胸をなでおろし、争乱がおこることはなかったのである。

 幕府は、由井正雪の一件も、「駿河次郎の舞」(『舞の本』の「清重」)にならって処置すべきと考えたのだ。

 よもや市井の軍学者正雪のみの一存で、天下をくつがえす大それた企てをなすはずはあるまい。必ずや、これに加担した一味連判の諸大名がいるはずだ。もし、正雪一味を直ちに討ち取ってしまえば、連判状などが押収される。それら証拠書類が幕府の手に渡ったと知れば、一味の大名たちは国々にたてこもり、それこそ天下争乱の基となるだろう。

 そうした最悪の事態を避けるには、どうすればよいか。味方に気づかれないようにしつつ、正雪らに証拠湮滅のための時間的猶予をわざと与えるほかはあるまい。

 だから、井伊と松平は「駿河次郎の舞を覚えているか」と駒井に尋ねたのだ。彼らの真意を理解する器量ある人物は駒井のほかにはいまい。そう二人は考えた。だから、幕府に数多(あまた)いる人材を差し置いて、東海道巡見役に出ていた駒井をわざわざ呼び戻して、正雪一味追討の任に当てたのだ。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十三、天保7(1836)年成立。「御使番 駒井右京親昌」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年4月20日(火)
駿河次郎の舞(2)

 駿河では、正雪一味の居所を幕府の捕吏が大勢取り囲んだ。急ぎ押し入ろうとはやる討手たちを押しとどめ、駒井右京はのらりくらりと時を過ごし、なかなか突入の命令を下さない。業を煮やした討手の中からは「手ぬるき事哉(かな)」という非難の声まであがる始末。が、駒井はまったく意に介さない。

 そしてついに


「最早
(もはや)、時分能(じぶんよき)ぞ」


と一斉突入の号令を下した。しかし、討手たちが塀を打ち破って中に押し入って見ると、正雪一味は一人残らず自害していた。

 駒井は江戸城に戻り、事の次第を復命すると、再び東海道巡見使の任に就いたのである。

 この一件に関する駒井の「手ぬるき」対応こそ、「駿河次郎の舞」を念頭に置いたものだった。

 幸若舞の詞章集で読み物にも転用された『舞の本』のなかに、源義経の家来のひとり、駿河次郎清重を主人公にした「清重(きよしげ)」という話がある。「駿河次郎の舞」とはこの「清重」のことだ。その内容は次の通り。

 源義経が、兄の頼朝に対して謀反を企てた。駿河次郎清重は山伏姿に身をやつし、諸大名を味方にするべく義経の廻状を持って関東に赴いた。ところが、二俣川(ふたまたがわ)で頼朝配下の梶原景季(かじわらかげすえ)と行き会い、偽山伏であることが露見してしまう。三十騎の兵士に取り囲まれて最期を覚悟した清重は、笈(おい)の中から連判状の巻物を取り出すとすぐさま焼き捨て、自害してしまうのである。

 清重が連判状を焼いた最後の働きは「天晴(あっぱれ)、武士の手本」と称揚された。

 しかし、由井正雪の乱に際し、駒井右京が参考にしたのは駿河次郎清重のこの行動ではない。敵方の梶原景季の行動を参考にしたのだ。

2021年4月19日(月)
駿河次郎の舞(1)

 1651(慶安4)年、由井正雪(ゆいしょうせつ。1605~1651)の幕府転覆の陰謀事件が発覚した。幕府は東海道巡見使として駿河に派遣していた駒井右京親昌(こまいうきょうちかまさ。1612~1677)を急遽(きゅうきょ)江戸に呼び返し、正雪一味の討伐を命じた。

 駿河に派遣していた駒井右京をわざわざ江戸に呼び戻し、駿河府中にいた正雪一味の討伐を命じて、再び駿河に派遣したのである。

 幕府は優秀な人材を大勢抱えていた。それにもかかわらず、なぜこのような不可解な対応をとったのだろうか。

 駒井右京を呼び返したの井伊掃部頭(いいかもんのかみ。井伊直孝(いいなおたか)。1590~1659)と松平肥後守(まつだいらひごのかみ。保科正之(ほしなまさゆき)。1611~1672)のふたりだった。謀反人一味の討伐を拝命し席を立とうとした駒井に、井伊が声をかけた。


「右京殿。其方
(そのほう)は駿河次郎(するがじろう)の舞(まい)を覚(おぼ)へ給(たま)ふ」かと。


 場違いで唐突な質問に一瞬戸惑ったところへ、松平肥後守が


「誠
(まこと)に右京殿、御覚候哉(おんおぼえそうろうや)


と畳みかける。この時、はたと合点した駒井は


「成程
(なるほど)。覚申候(おぼえもうしそうろう)。」


と答えるや、急ぎ駿河へ向かったのである。

 井伊・松平両人が、正雪一味討伐の討手に駒井をわざわざ任命したのは、駒井なら「駿河次郎の舞」を知っていると踏んだからだ。

2021年4月18日(日)
日暮れに鹿の頭数をかぞえる

 家光が板橋で鹿狩りをした。大量の獲物にご機嫌な家光は、江戸城に戻る日暮れ時分、御徒頭(おかちがしら)の北條氏長(ほうじょううじなが。1609~1670)を呼び出して次のように命じた。


「是
(これ)に御獲物(おんえもの)の数いか程(ほど)有之哉(これあるや)。其組(そのくみ)をつれてかぞへ来(きた)り候様(そうろうよう)に。」
(ここに獲物が何頭あるのか、お前の組配下の者を連れて数えて来い。)


 氏長は畏(かしこ)まって家光の前を退出したものの、日は暮れる、鹿の数は多い。この状況下で、迅速に鹿の頭数を数え上げるなど、至難なことだった。

 すると、氏長は鼻紙を取り出してこれを細く切り分けて、短冊状の紙片を大量につくりはじめた。一定数をつくると、それを配下の御徒衆20人に分配し、次のように指示した。


「鹿の耳に此
(この)紙一つ宛(ずつ)結付(むすびつけ)(きたり)(そうら)へ。残りの紙数ニて鹿数を申上(もうしあぐ)べく候間(そうろうあいだ)、此(この)切割(きりさき)(ふた)つと付申(つけもう)さず、一つ宛(ずつ)(つけ)、餘(あま)れる紙を落(おと)さざる様(よう)に持参(もちまい)れ。」
(鹿の耳にこの紙片を一枚ずつ結びつけてこい。残った紙片数で鹿の数を報告するので、紙片を鹿一頭に二枚つけないように。一枚ずつ付けたら、余った紙片を落とさないように持ち帰れ。)


 ほどなく部下たちが紙片を付けて戻ってきた。残った紙片の数を数えると、鹿の耳に結びつけた紙片の総数がわかる。こうして迅速に鹿数を報告することができた。

 上記のエピソードで取り上げられているのは、小学生でもわかる算数だ。「鹿1頭に紙片1枚が対応する」という、「1対1対応」の考え方である。

 しかし、とっさの場合、こうした簡単なことでもただちに思い浮かぶかどうか。基本的なことであっても、臨機応変にその場その場で応用できる人こそ、本当に頭が良い人というのだろう。

 なお、北条氏長は実学を重視する北條流兵学を創始し、明暦大火後の江戸地図作製の指揮をとった人物としても知られる。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十三、天保7(1836)年成立。「御徒頭 北條新蔵氏長」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年4月17日(土)
御医師 望月三英

 8代将軍吉宗の御側医(おそばい)を勤めた望月三英(もちづきさんえい。1698~1769)は若い頃から学問・研究を怠らず、『明医小史』『医官玄稿』など多くの著書を板行した「医学博識の人」として知られた。

 また、「医は仁術」を本気で実践した人でもあった。病者と見るや、貴賤・貧富を問わず誰にでも治療を施した。
 
 橋の上で菰(こも)をかぶった非人の子が疱瘡(ほうそう)に罹(かか)っていれば、薬を煎(せん)じて持たせてやった。歌舞伎役者の市川海老蔵が大病を患った際には、毎日自宅まで往診に通った。

 幕府に仕える「大医」の中でも、三英ひとりが特異な存在だった。

 そんな三英の行動を苦々しく思い、意見する者がいた。


「大医、公儀
(こうぎ。幕府)の貴師(きし)、役者の方へ御見廻(おみまわり)ハ宜(よろし)からず。」
(高貴な幕府官医が、下賤な役者宅へ回診するのは外聞がよろしくない)


 それに対して三英は、次のような存意を述べた。


「医ハ仁の術と申
(もうす)なり。道路にたをれ候(そうろう)乞食(こじき)にても手をとりて脈を伺(うかが)ひ、薬をあたへけり。某(それがし)が業の根元なり。何ぞ彼が方へ参るに別義有べからず。拙者(せっしゃ)、芝居見物にあらざれバ、療治(りょうじ)の為(ため)なり。」
(医は仁術と申します。私は、道路に倒れている乞食でも手をとり脈を診て薬を与えます。それが私の医業の根元です。どうして海老蔵宅へ参る理由がほかにありましょうか。芝居見物ではなく、治療のために行くのです


 そして外聞などはかまわず、毎日退出がけに海老蔵方へ治療に通ったのだった。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十四、天保7(1836)成立。「御医師 望月三英君彦」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ。請求記号:159-0004

2021年4月16日(金)
機転がきく

 小宮山昌世(こみやままさよ。1689~1774)は通称を杢之進(もくのしん)、号を謙亭(けんてい)といった。下総国小金、佐倉両牧付きの新田開発や小金原の御鹿狩において顕著な功績を上げるとともに、『田園類説』等の農政書を著し、享保期の名代官として令名を馳せた。

 小宮山は機転がきく人物として知られた。

 あるとき、月光院(6代将軍家宣の側室で7代将軍家継の生母)が、桜の名所飛鳥山(あすかやま。現、北区立飛鳥山公園)へ遊覧に出かけたことがあった。

 運悪くにわか雨が降り出したので、近くの金輪寺に雨を避けた。ほどなく雨はあがったものの、山上の芝地は露でひどく濡れてしまっている。履き物が草履では、とても散策などできたものではない。しかし、陪従(べいじゅう。貴人に付き従う)する女中たちは数百人。これだけの人数分の木履(ぼくり。下駄)をただちに用意するのは不可能だ。

 たまたま金輪寺は修繕中で、杉の貫板(ぬきいた)がたくさん置いてあった。

 そこで、一行に随従していた小宮山はそれらをつかって仮の木履に作り出し、たちまち数百人分の履き物を用意してしまったという。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十四、天保7(1836)成立。「御代官小宮山杢之進昌世」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ。請求記号:159-0004による。
 なお、『民蝶半小伝』(国会図書館蔵)にも同様の記載がある。ただし、場所は「飛鳥山」「金輪寺」ではなく「王子筋」「里の在家」となっている。また、この時のエピソードが、吉宗が賤吏だった小宮山を代官に抜擢するきっかけになったという(鈴木淳「小宮山木工進昌世年譜稿」-『国文学研究資料館紀要 第20号』1994年、P.367~369-による)。

2021年4月15日(木)
小松殿と納豆

 平清盛の長男平重盛(たいらのしげもり1138~1179)は、京都六波羅の小松第に住んだので「小松殿(こまつどの)」と呼ばれた。『平気物語』によると、鎮西(ちんぜい。九州)から妙典(みょうでん)という船頭を呼び寄せ、宋の阿育王山(あいくおうざん。育王山(いおうざん)・医王山(いおうざん)とも)に千両、宋朝に二千両を寄進して、自らの後世(ごせ)を弔(とむら)わせるよう依頼したという。

 江戸時代の川柳子は、上のエピソードをいろいろと茶化しているのだが、次のように納豆と絡めた作品が多い。

  異国から 納豆もらう 小松殿
  唐納豆も 来そうなはは 小松殿
  納豆一桶 小松様 医王山
(いおうざん)


 そもそも寺院と納豆には縁がある。納豆の語原自体、寺院の納所(なっしょ。事務所や台所)で作られていたことに由来するという説もある。

 江戸時代には、寺院が檀家に歳暮(または年玉)に納豆を配る風習があった。この時の納豆は、ふだんわれわれがスーパーマーケットで購入する糸引き納豆ではなく、大徳寺納豆などの加塩納豆だ。中国から伝わった黒褐色の納豆で、麹菌を加え塩水に漬けて発酵させたもの。曲げ物の容器に入れて、配ったという。

 魚屋北渓(ととやほっけい。1780~1850)が挿し絵を描いた『評判飲食狂歌合(ひょうばんいんしょくきょうかあわせ)』には、配付用の納豆容器に箱書きする僧の姿がある。その書き入れを見ると、次のようにある。


「おくりつかはすなとうのはこに、大きなるとちひさきがさふらふ。さるハだんなのふせの多少にしたがひてさべち候なり。あなわずらはしや。」
(贈り遣わす納豆の箱に大きなると小さきが侍らふ。さるは檀那の布施の多少に従ひて差別候なり。あな、煩はしや。)


 
江戸時代の納豆配りにも、お布施の多少によって箱の大小があった。だから、上記の川柳は「小松殿は千両も寄進したのだから、中国のお寺(阿育王山)から、さぞや大量の納豆が届いただろう」と言っているのだ。
  

【参考】
・小栗清吾『江戸川柳おもしろ偉人伝100』2013年、平凡社(平凡社新書)、P.100~101
・すみだ北斎美術館Face book、2020年7月10日付け。

2021年4月14日(水)
ダメなものはダメ

 3代将軍家光(1604~1651)の時代、久松彦左衛門定佳(ひさまつひこざえもんさだよし。1586~1659)が御裏門切手番(大奥に通じる裏門の警備と大奥女中の切手(通行証)を査検する役目)の頭(かしら)を勤めていた時分のこと。

 春日局(かすがのつぼね。1579~1643)が宿直の日、宿所を少し遅く出たため、平川梅林までは通過したものの、裏門に至った時には、門限を告げる暮六つ(酉の刻。現在の午後6時頃)の鐘が打たれてしまっていた。そのため門が閉じられ、通ることができなかった。そこで、「春日にて候(そうろう)。御夜詰(およづめ)に罷出候間(まかりいでそうろうあいだ)通し申すべき」旨を申し入れた。

 しかし、彦左衛門は次のように言って、春日局の通行を断固拒否した。


「先達
(せんだっ)て何方(いずかた)よりぞ断(ことわり)有之候(これありそうら)ハバ通すべく候。何方よりも断(ことわり)無之候(これなきそうろう)ニ付(つき)、通し候事罷成(まかりなら)ず候。」
事前にいずれから通行の許可が申請されていれば通しましょう。今回はいずれからも通行の事前許可申請はありません。ゆえにお通しすることはできません。)


 そこで宿所に戻ろうとしたが、門限を過ぎていたため梅林坂の門も閉じられていた。結局、平川梅林と裏門との間で、一晩夜明かしするはめになってしまった。

 腹の虫がおさまらないのが春日局。翌朝江戸城に上ると、早速昨晩の出来事を家光に直訴した。

 涙ながらに訴える春日局をなだめつつも、家光は一段と上機嫌だったという。

 「彦左衛門如(ごと)きの固(かた)き者勤め候ゆへ」、自分も安心して夜も休むことができる。将軍の乳母であり大奥の実力者である春日局であっても、ルールを遵守(じゅんしゅ)して断固その通行を阻(はば)んだ門番に、家光は心から満足したのだ。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十四、天保7(1836)成立。「御裏門切手番之頭 久松彦左衛門定佳」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ。請求記号:159-0004

2021年4月11日(日)
寛永5年の刃傷事件(3)

 『武備目睫(ぶびまつげ)』では、青木義精(あおきよしきよ。?~1628)の家督を生まれたばかりの嫡子が継いで、メデタシメデタシで話が終わっている。実際はどうだったのか。

 それをうかがわせる記事が『寛永諸家系図伝』中にある。全文は次の通り。


「(青木)義精
  久左衛門 生國同前
(近江)
  慶長十七年、大権現
(家康)に拝謁したてまつる。
  大坂両度御陣に供奉
(ぐぶ)。
  元和元年、領地をたまふ。
  同二年より台徳院殿
(秀忠)をよひ将軍家(家光)につかへたてまつる。
  寛永五年八月十日、殿中にをひて豊嶋刑部少輔
(ぎょうぶしょうゆ。信満、井上主計頭(正就)をさしころす。時に義精、形(ママ)部少輔を組ととむ。此時(このとき)(きず)をかうふりて死す。義精か子胎内(たいない)に在(あり)といへとも、父の功によりて其跡(そのあと)をたまふ。其子四歳にして死す。」(1)

 
 
 『寛永諸家系図伝』によると、義精の嫡子は家督を継いだものの、わずか4歳で亡くなったとある。しかし『流芳録』(14巻)によると、義精の子が没したのは寛永7(1630)年だ
(2)。仮に子の出産が寛永5(1628)年とすれば、享年は3歳のはずだ。また、未亡人のその後の消息について記載はない。

 いずれにせよ嫡子の夭死(ようし)によって、青木義精の家そのものは絶えたのである。

 なお、義精には新五兵衛義継(よしつぐ)と市左衛門玄可(はるよし)という弟がいた。義精の嫡子が没した寛永7(1630)年、玄可(はるよし)は兄と同じ小十人組番士として幕府に召し出されている
(3)


【参考】
(1)斎木一馬・林亮勝・橋本政宣校訂『寛永諸家系図伝14』1992年、続群書類従完成会、P.121、122
(2)(3)内山温恭編『流芳録』巻之十四、天保7(1836)成立。「小十人 青木久左衛門義精」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ。請求記号:159-0004

2021年4月10日(土)
寛永5年の刃傷事件(2)

 『武備目睫(ぶびまつげ)』の記事には続きがある。


 猷殿
(ゆうどの。大猷院殿(だいゆういんどの)は3代将軍家光の諡号(しごう))特に新左衛門(正しくは久左衛門)(はたらき)を御感(ぎょかん)(あり)て、

「子はなきか。」

と御尋
(おたずね)ありしに、懐胎(かいたい)の婦人有けれバ、

「随分
(ずいぶん)大切に安産いたさすべし。武邊(ぶへん)の者、遺腹(いふく)の子に女子はなきものぞ。」

と上意有りしと。安産の後、果して男子にて家督
(かとく)相違なく被下(くだされ)けると也(なり)(注)


 家光公は、特に青木義精の働きに感じ入って、

「青木には子どもはいないのか。」

とお尋ねになった。青木に子どもはいなかったが、妊娠している婦人がいた。そこで次のような上意があった。

「じゅうぶん大切にして安産させよ。青木のような武辺者の忘れ形見に女子はないものだ(生まれる子は必ずは男子に違いない)。」

 安産の後、果たして男子が生まれた。そこでまちがいなく家督を継がせられたということだ。

 このあと『武備目睫』は、「番所に詰めている者は、誰もが青木のように異変に応じる心懸けをすべきだ」と結んでいる。

 しかし、残された家族はその後どうなったのだろうか。


【注】
・鵜飼平矩著・松宮俊英校『武備目睫』元文4(1739)年序、高知県立図書館(山内文庫ヤ327-138)蔵(国文学研究資料館のデジタル資料による)。

2021年4月9日(金)
寛永5年の刃傷事件(1)

 寛永5(1628)年8月10日、江戸城内において刃傷事件(にんじょうじけん)がおこった。その概要を『武備目睫(ぶびまつげ)』は次のように伝える。


 寛永五年の頃、豊島刑部
(としまぎょうぶ)と云(いい)し人、御使番(おつかいばん)(なり)しが、取持候(とりもちそうろう)縁組(えんぐみ)違変の儀ニ付(つき)、井上主計頭正就(いのうえかずえのかみまさなり)を殿中(でんちゅう)にて差殺(さしころ)し、かけ出(だし)候時(そうろうとき)、小十人御番所(こじゅうにんごばんしょ)にて青木新左衛門(正しくは青木久左衛門)と申人(もうすひと)、後(うしろ)よりひしと組留(くみとめ)たり。刑部、其儘(そのまま)(もち)たる脇(わき)ざしを取直(とりなお)し、自分の腹より組留たる人の腹迄(まで)突通(つきとお)して弐人(ふたり)ともに相果(あいはてたり。(注)


 これだけでは事実関係がわかりにくい。若干補足して説明しよう。

 寛永5(1628)年8月10日のこと。御使番(目付か)の豊島信満(としまのぶみつ)が、自分の仲介した縁談を一方的に破棄されたことを恨んで、江戸城中で老中の井上正就(いのうえまさなり)を刺殺した。

 豊島は、井上の息子と大坂町奉行(旗本)の娘との縁談を取り持った。しかしその後、井上は豊島が仲介した縁談を一方的に破棄し、春日局が紹介した譜代大名の娘との縁談に乗り換えたのである。

 井上にとってみれば、春日局という権力者の申し出を断れなかった事情があったろう。また、旗本よりは大名と姻戚関係を結んだ方が有利との打算もあったかもしれない。いずれにせよ井上側の事情で、豊島は面子を丸潰しにされた。

 殿中で井上を刺し殺した豊島は、駆けだしたところを背後からひしと組留められた。組留めたのは、小十人組(こじゅうにんぐみ)番士の青木久左衛門義精(よしきよ)。

 小十人組の役目は、将軍の外出時には先駆けとして従い、平時には江戸城本丸の小十人番所に詰めて城内の警衛にあたることにあった。

 組留められた豊島は、脇差(わきざし)を逆手に持ち替え、そのまま自分の腹を突き通して自殺をはかった。しかし刀身は豊島ばかりか、その背後で組留めていた青木の腹まで貫き、そのまま二人とも絶命したのである。


【注】
・鵜飼平矩著・松宮俊英校『武備目睫』元文4(1739)年序、高知県立図書館(山内文庫ヤ327-138)蔵(国文学研究資料館のデジタル資料による)。

2021年4月8日(木)
酒の上での失敗

 近年、健康志向や酔いたくないという思いから、あえて酒を飲まない人が増加しているという。その傾向は特に若い人に顕著で、厚生労働省の調査(2019年国民健康・栄養調査)によると、20代の26.5%、30代では20.3%が「ほとんど飲まない」という。その理由は「酔っぱらうのは時間の無駄」という感覚をもつ人が増えたことや、「酔うと理性を失う」「酔うとセクハラやパワハラのリスクが伴う」といった「酒の上での失敗」を懸念しているからだ(1)

 古来、「酒の上での失敗」は多い。

 江戸時代の詫状(わびじょう)は、酒の上での失態を理由に謝罪するのが定型だった。
(2)また『金々先生栄花夢』で有名な黄表紙作家の恋川春町(1744~1789)の狂歌号は、「酒上不埒(さけのうえのふらち)」だった。 何かしら、酒の上での失敗をやらかしたのだろう。

 「酒の上での失敗」は人間に限ったことではない。

 八俣大蛇(やまたのおろち)は「八塩折(やしおおり)の酒」という強い酒をがぶ飲みし、眠りこけたところを速須佐男命(はやすさのおのみこと)によって退治されてしまった
(3)

 また、丹波大江山に棲む鬼「酒呑童子(しゅてんどうじ)」も、その名前のごとく「酒を呑んで」命を落とした。住吉・八幡・熊野三神から入手した神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ。「神の方便、鬼の毒酒」の意で、頼光らが飲むと薬、鬼が飲むと毒になるという何とも都合のよい酒)を、源頼光(みなもとのらいこう)らにしこたま飲まされたあげく退治されたのだ
(4)

 いわずもがなだが、飲酒はマナーを守ってほどほどに。


【注】
(1)朝日新聞2021年4月7日付け「ニュースQ3」による。
(2)「あれやこれや2020」2020年4月20日「酒上不埒」を参照。
(3)武田祐吉訳註『古事記』1956年、角川文庫、P.36~37
(4)島津久基編校『御伽草紙』1936年、岩波文庫、P.274~292

2021年4月3日(土)
日本語はなぜ右縦書きか

 文字を書く場合、世界の多くの国々では左から右に向かって横書きするが、日本では右から左に向かって縦書きにする。

 どうして日本語は右縦書きなのだろう。

 たまたま今日の新聞を開いてみると、その答えが書かれていた。


「日本語は、漢文の書き方と同じく、昔から右縦書きにするのが当たり前でした。
 ( 中略 ) 右縦書きにすると、(右利きの人の場合は)書いた文字が手で隠れてしまいます。なのに右から書くのは不思議ですが、昔は巻物に書いたため、左手で巻物を広げたり巻いたりするほうが簡単だった、それで右縦書きになったといわれます。」(1)


 日本語が右縦書きになった理由は、中国の書き方にならったものだ。右から書くのは、巻物を扱う上での利便性からだといわれている。

 ならば中国で、そもそも縦書きに漢字をつづるようになったのはなぜなのか。

 それは中国では、文章が書かれるようになった時から、縦書きが基本だったからだという。阿辻哲次氏は次のように説明する
(2)

 中国最古の文字は甲骨文字だ。紙が発明される以前は、非常に硬い亀の甲羅や牛の骨に、文字を青銅のナイフで刻んでいた。しかし文字を刻むには素材があまりにも硬すぎて、ナイフを細かく動かせない。そこで、ナイフを上下方向にだけ動かした。そのときの作業手順は、最初にすべての文字の縦線を刻み、次に甲骨を90度回転させて横線を刻み加えて文章を完成させるというものだった(文字の縦線をすべて刻んだが、横線を途中までしか彫っていない作業途中の甲骨が、中国で実際に出土している)。

 紙が発明される以前の時代には、木簡や竹簡も使われた。木や竹から作った細長い札で、実際の大きさは長さ23センチ、幅7ミリくらいだ。そんな細長い札を手に持って文字を書けば、必然的に縦書きに書かれることになろう。


【注】
(1)飯間浩明「街のB級言語図鑑」。朝日新聞土曜日版別刷り(「be」 on Saturday)2021年4月3日付け。
(2)阿辻哲次「知っておきたい漢字のはなし vol.1」。漢検ジャーナルVol.31。

2021年4月2日(金)
お梶の方の逸話

 お梶の方(1578~1642)は家康(1543~1616)の側室の一人。幼名おはち、のちおかち・梶・勝といい、落飾(らくしょく。貴人が髪を剃って出家すること)後は英勝院(えいしょういん)と称した。家康の五女市姫の実母、水戸徳川家の祖頼房(よりふさ)の養母である。

 『故老諸談(ころうしょだん)』は家康に関する逸話をまとめた書物。時代小説家が、家康の逸話を探す際のネタ本の一つとして知られる。国立公文書館には昌平坂学問所旧蔵本全2冊が所蔵されている。

 この『故老諸談』の中に、お梶の方に関する逸話がある。有名な話だが、その該当箇所の原文写真が国立公文書館のホームページ上に公開されている。その原文を翻刻したものが次。なお、読みやすくするため、適宜句読点・濁点・注記等を付した。読み間違いがあればご容赦を。


 或時
(あるとき)御心あき、故老の衆大久保(忠世)・鳥居(元忠)・平岩(親吉)・本多(正信)など登城せられ、御前(ごぜん。家康の前)におゐて焼火(たきび)を仰付(おおせつけ)られ、昔日(せきじつ)の合戦物語の席に公(家康)(おお)せられし、

「何と思ふぞ。世上に有とあらゆる物の中、第一うまきハ何ならん。」

 面々承り、彼
(かれ)か是(これ)かと争い云(いい)て更(さら)に一決(いっけつ。議論が一つに決まる)せず。折節(おりふし)、おかち(お梶の方)上臈(じょうろう。身分の高い貴婦人)御前に侍(はべり)て、煎茶(せんちゃ)を酌(くみ)て何(いずれ)もへ進ぜられしが、右の争論を聞(きき)にこにこ笑ひけるを、御悦(およろこび)(あり)て、

「何を知りて笑ひけるや。其上
(そのうえ)思寄(おもいより。思いついたこと)あらバ申してミよ」

と宣
(のたま)ふ。何(いずれ。老臣たち)も口を揃(そろ)へて

「和主
(わぬし。あなた)が発明(はつめい。新たな考え)を聞(きか)ん。」

といはる。其時
(そのとき)おかち申されけるハ、

「惣
(そう)じて天下のうまき者ハ塩に増(まさり)たる者なし。何程(なにほど)の料理なり共、物の味を調(ちょう)ずるに塩なくんバうまき事なかるべし。人民の食物、塩なくして一日も過(すごし)がたし。」

と有
(あり)。何(いずれ)も学を極(きわめ)て大(おおい)に感称(かんしょう)し、

「実
(げ)に塩の味に増(まさ)るうまき物なからん。」

とぞ宣
(のたまい)ける。公(家康)又宣(のたま)ふ、

「天下にまずき者は何なるべしや。」

(いずれ)も申様(もうすよう)

「只今の発明及ぶ所に非
(あら)ず。とてもの事に御意(ぎょい)の返答承りたし。」

と有
(あり)。おかち、

「されバ候
(そうろう)。一の味悪(わるき)ものも又塩にて御座候(ござそうら)へ。其故(そのゆえ)ハ一切の味美(うま)き物も塩を過しぬれバ食するにたへず。却(かえっ)て味を失ひ候。」

 公を始め伺候
(しこう)の面々あきれはてて、

「女儀の胸中よりかかる不思議の発明を聞
(きき)しハ初めなり。男子ならバ扨々(さてさて)(よ)き一方の大将たるべきに、惜(おし)き事かな。」

と老将衆深く嘆状
(たんじょう)せり。

 此人
(このひと。お梶の方)は太田源六資高(すけたか)の息女、今は栄松院(英勝院)と云(いい)、水戸中納言殿(水戸藩初代藩主徳川頼房)の御養母也。


 家康が気のおけない老臣たちと昔の合戦物語をしていた時、「この世の中で一番うまい食べ物は何か」と問いかけると、銘々が「あれがうまい」「これがうまい」と議論し、結論が出なかった。家康が、みんなの話を笑って聞いていたお梶の方に話題を振ると、「この世で一番うまいのは塩」という思いもかけない答え。さらに「一番まずいものも塩」だという。その理由に並みいる老臣たちが舌を巻き、「お梶の方がもし男だったら立派な大将ともなっただろうに、惜しい事だ」と激賞したという話だ。

 しかし、お梶の方の答えはこの場合、明らかに反則だ。昔なじみの仲間と談笑していた時に「この世で一番うまい物は何だと思う」という問いに対し、果たして「塩」などと答えるだろうか。

 こうした場合、質問者も回答者も期待していた答えは「抹茶塩で食べる神戸牛のミディアム」とか「○○屋のチョコレートクリームの入ったシュークリーム」とか「冬野菜をたっぷり入れた石狩鍋」とかいったものだったはずだ。

 そんな場において、「塩」という調味料の名前をあげるのは、こうした暗黙のルールに違反する。家康の意図を無視した上、一座の和やかな雰囲気を破壊する。現代風に言うなら「空気が読めない」答え方だ。

 上の史料には続きがある。塩には、適量を用いれば料理をうまくし、入れすぎれば味を損なうという二面性がある。それを指摘したお梶の方に、家康は人材の用い方も同様であることを教えられた、と急に教訓じみたことを話し始めるのだ。

 お梶の方の逸話は、その利発さを賞賛する話になっている。しかし、実際はどうだったのだろう。

 若い側室(生年から計算すると、お梶の方は家康より35歳年下)が突拍子もない答えを言い出し、その理に勝った「正論」に座が白けてしまい、並みいる老臣たちが苦笑している。そこで、何とかその場をとりつくろうと、家康がご立派な教訓話に話題を転換した。

 真相は案外そのようなものだったのではないだろうか。

2021年3月19日(金)
長谷川平蔵の評判

 火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)は、火付けと盗賊の取り締まりを任務とする役職だ。もともとは先手頭(さきてがしら。鉄砲・弓の先手組の頭)が兼務する臨時職(加役)だったものが、のちに通年の職(定加役)になった。

 池波正太郎氏の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」こと長谷川平蔵(はせがわへいぞう)は、火付盗賊改の長官として悪党どもを懲らしめる大活躍をし、大衆の人気を博してきた。

 しかし、実在の長谷川平蔵(1745~1795)の評判は、どうも芳しいものではなかったようだ。たとえば、松平定信の指示で白河藩士水野為長が江戸城中・市中の隠密情報を収集・編纂した『よしの冊子(そうし)』という史料がある。その中で長谷川の評判は次のように書き留められているのだ。


「長谷川は山師
(やまし)・利口(りこう)もの・謀計(たばかり)ものの由(よし)。 ( 中略 ) 甚(はなは)ださへ過(すぎ)た事をいたし申候人故(もうしそうろうひとゆえ)、あぶなきと申候(もうしそうろう)ものも御座候(ござそうろう)よし。」(1)
(長谷川は詐欺師・口先がうまい者・謀略好きな者とのこと。たいへん頭の働き過ぎたことをする人物なので、そのやりすぎを危険だと言う人もいるとのこと。)



 長谷川の後任森山孝盛(もりやまたかもり)はその著『蜑の焼藻(あまのたくも)の記』の中で、長谷川のことを次のように評している。


「長谷川平蔵ハ小ざかしき生質
(性質)にて、( 中略 ) 様々の奇計をめぐらしたるにより、世上ニてハ口々に長谷川が事を批判したりけり」(2)


 長谷川は策略好きの小賢しい人物として、同僚からも世間からもよく思われていなかったらしい。


【注】
(1)水野為長『よしの冊子』(『駒井乗邨叢書鶯宿雑記(こまいのりむらそうしょおうしゅくざっき)』所収、国立国会図書館蔵)。
(2)森山孝盛『蜑の焼藻の記』。内山温恭編『流芳録』国立公文書館デジタルアーカイブの「長谷川平蔵宣以」の項から引用。

2021年3月17日(水)
エレキテル

 山東京伝の『松魚智慧袋(かつおのちえぶくろ)』には、当時珍しかったエレキテル(摩擦静電気発生装置)が出てくる。「出てくる」といっても言葉だけだが。

 エレキテルが出てくるのは「惣傳授仕形之圖(そうでんじゅしかたのず)」の「十三 人のからだより火をとる伝(人の身体から火を取り出す秘伝)」。

 ここの挿し絵で、平賀源内のような人物が、次のような台詞を語っている(原文は、ほぼかな書き。読みやすくするため漢字・かな交じり文にして、適宜句読点を付してある。以下同じ)。


ヱレキテルで火を採(と)るなどハ、まだ手重(ておも)ふござる(まだ容易ではありません)。拙者(せっしゃ)は手拍子(てびょうし)を打って火を採ります。」


 静電気の火花から火を採り出すのかと思いきや、案に相違してこれに関する秘伝が次。


「人の身体より火を採る伝

 人の身体より火を採るを見たしと望む人ある時、握り拳
(こぶし)にてその人の横っ面(よこっつら)を強(したた)か食(く)らハすべし。小鬢(こびん。頭の左右側面の髪)から火の出る事、妙なり。」


 秘伝の内容は、エレキテルに全く関係がない。人の横っ面を思い切りぶん殴ってやると、あまりの痛さに火が出るというのだ。

 平賀源内はエレキテルが静電気を起こす仕組みを、実際には理解していなかったらしい。しかし、エレキテルでこんなふうに茶化されたら、さすがの源内もアキレテルのではないだろうか。


【参考】
・山東京伝撰『三国一本松魚智慧袋』寛永5(1793)年序、早稲田大学図書館蔵、請求記号:へ13 02821

2021年3月15日(月)
山桜 よみ人知らぬ者はなし(江戸川柳より)

 3月14日、東京で桜の開花宣言が出た。平年より12日早い開花で、昨年に続き観測史上最速という。

 開花を宣言するかしないかは、靖国神社境内にある標本木によって決定される。この桜の木は、江戸時代につくられたソメイヨシノという品種だ。

 しかし、昔の人びとが山野で多く目にしたのは、山桜である。ソメイヨシノなどとは異なり、葉が先に出、あとで花が咲く。そこで昔は、出っ歯の人を隠語で「山桜(ハが先に出ているの意)」とよんだりした。

 山桜といえば、何よりも平忠度(たいらのただのり。1144~1184)のエピソードが有名だ。

 平忠度は文武両道に優れた武将だった。平家の都落ちに際し、途中から引き返した忠度は、和歌の師藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)のもとを訪ね、自詠の秀歌百余首を書きしるした一巻を託した。勅撰集への入集がたっての望みだったのだ。この直後、忠度は一の谷の戦いで討ち死にする。

 その心根を哀れに思った俊成は、『千載和歌集』を編纂した折り、忠度が「故郷花(こきょうのはな)」と題して詠んだ次の一首を収録した。


 さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな
(さざ波が打ち寄せる志賀の都(大津京)はすっかり荒れ果ててしまっているのに、長等(ながら)の山の桜だけは昔ながらに美しい花を咲かせていることだ。「さざなみや」は志賀の枕詞。大津京の背後にあった長等山に「昔ながら」の意をかけた)


 採録に際して俊成は、忠度が勅堪(ちょっかん。天子からとがめをうけた人)の身であることを慮(おもんぱか)り、この和歌を「読み人知らず(作者不詳)」とした。

 だから、山桜の和歌は「作者不詳」だ。しかし、『平家物語』のエピソードを通じて、われわれはこの和歌の作者が平忠度であることを知っている。

 なんとも不思議な和歌ではある。


【参考】
・梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(三)』1999年、岩波書店(岩波文庫)、P.94~98 
  

2021年3月14日(日)
六刀先生(ろくとうせんせい)

 伊能忠敬(いのうただたか。1745~1818)の『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』は、わが国初の全国実測地図。これを作成するため、忠敬の全国測量の旅は前後17年にも及んだ。さぞかし、意志堅固で冷静沈着な人物だったろうと想像しがちだ。

 しかし水戸藩の儒者小宮山楓軒(こみやまふうけん。1764~1840)の『懐宝日札(かいほうにっさつ)』(年次順に書いた楓軒の覚書き)には、忠敬を「軽躁(けいそう)ノ人物(軽はずみで落ち着きのない人物)」とする意外な人物評が語られている。

 ほかの史料にも同様な証言が散見されるので、忠敬はよほどせっかちな人物だったらしい。『懐宝日札』によると、人に応対する時には自分が言いたいことだけを言い、相手には口を開かせなかったという。

 また意外だったのは、忠敬が子孫や弟子の教育にたいへん厳格だったという事実だ。嘘・偽りを嫌い、欠伸(あくび)をすると箒の柄(え)でこっぴどく叩いた。こんなに厳しくすると孫が早死にしてしまうと、周囲が心配するほど。それに対して忠敬は次のように言い放ったという。


 「学バズシテ長生センヨリ、学ビテ短命ナルコトマサルベシ。」
  (学ばないで長生きするより、学んで短命である方がよいのだ。)


 ところで、昔「戦国BASARA(せんごくばさら)」というアニメ(またゲームにもなった)が流行った。その中に登場する戦国武将のひとり伊達政宗(だてまさむね)は、六本の刀を操って必殺技を繰り出す人気キャラ。

 実は、忠敬も「六刀先生(ろくとうせんせい)」と呼ばれていた。

 伊能家は代々の帯刀御免、天明の大飢饉に際しての窮民救済の功績による帯刀御免、そして学識による帯刀御免を認められていた。つまり2本(大刀・小刀)×3=6本で、合計「六刀」というわけなのだ。


【参考】
・前田幸子「勘ケ由、軽躁ノ人物ナリ」2015年、『伊能忠敬研究』第76号、P.1~6

2021年3月12日(金)
角(かど)がたつ

 江戸時代のある時期、特定の地域のみで流通した銭貨を地方銭(ちほうせん)という。仙台通宝もそうした地方銭の一つ。天明飢饉(1782~1787)の影響で藩財政が逼迫したため、仙台藩が幕府の許可を得て天明4(1784)年から鋳造した。

 円形方孔の寛永通宝に対し、仙台通宝は方形方孔の変わった見た目をしていた。方形といっても、角に丸みがあったので「撫角銭(なでかくせん)」の別称があった。材料には、仙台藩領で豊富にとれる鉄を使った。

 しかし、発行されるたびに貨幣の大きさは小さくなる。材質も劣悪で、使用している内に壊れてしまうこともしばしば。当初、貨幣価値は公鋳の寛永通宝と同格の1文と定めたが、日を追うごとにその価値は下がり続け、末期には1両=21貫文ほどにまで下落した。

 だから領民は、仙台通宝の使用強制を嫌がった。あまりの悪評に、当初5カ年の鋳造を予定していたが、わずか3年間で終わった。

 当時、幕府巡見使に随行して仙台領に足を踏み入れた古川古松軒(ふるかわこしょうけん。1726~1807)は、仙台通宝について次のように書いている。


「仙台領に入りしよりは、世に通用する銭
(寛永通宝など)は御法度(ごはっと。禁止)となし、石巻にて鋳(い)る仙台通宝の角銭(かくせん)にみにて、それも次第次第に悪しくなりて、国民大いに忌み嫌えども、領主の仰(おお)せ付けなれば是非なくなくに用ゆることなれども、相場賤(いや)しく金一分(4分で1両)に角銭(かくせん)四貫九百文余にかゆることなり。

 それゆえに仙台領に入るより、銭にて物を買うに右の割合ゆえ、昨日まで七、八文にて調
(ととの)へし草鞋(わらじ)が、今日は二十四、五文もせしことなり。至っての悪銭(あくせん)ゆえに、百文遣(つか)う間には二銭も三銭も砕(くだ)けて捨てたりし。

 殊
(こと)に新銭の角ある銭ゆえに、財布に入れて一日もかつぎ歩行(ある)けば、財布忽(たちま)ちに破るといえり。ここにおいて仙台領の者は他国に出ずるに甚(はなは)だこまることにて、世間通用の丸銭(寛永通宝など)は、一銭にても隠し置きて他へ出(い)ずる時の用とす。仙台侯の制度察して知るべし。」(注)


 お金が壊れて使用できない、貨幣価値は毎日下落し続ける、領外では使用できない、おまけにお金を入れておくと財布が破れてしまう。最悪だ。


【注】
・古川古松軒著・大藤時彦編『東遊雑記』1964年、平凡社(東洋文庫)、P.219

2021年3月10日(水)
山東京伝の知恵袋

 江戸時代には『重宝記(ちょうほうき)』や『知恵袋(ちえぶくろ)』などとよばれる実用書が大量に出版された。料理・医術をはじめ、各分野の基本的な知識・情報を提供するものだった。

 こうした実用書と同じ体裁をとった戯作本(げさくぼん)に、山東京伝の『松魚智慧袋(かつおのちえぶくろ)』がある。内容は、狐憑(きつねつ)きを落とす方法、脇差しを鞘(さや)ごと呑む方法、人の心を宙に釣(つ)る方法、火の上を走る方法、金持ちにたちまちなる方法など、何やら怪しげな「秘術」を21も集めて紹介したものだ。

 もちろん京伝流の大法螺(おおぼら)を吹きまくった戯作本(げさくぼん)のことだ。ゆめゆめ信じてはいけない。

 しかし、京伝が伝授する「秘術」とやらはどのようなものか。『松魚智慧袋』の中から二つばかり紹介しておこう。

 一つ目は「師匠に習わないで名歌を詠む秘術」。これは、次のような「秘術」を公開している。なお原文は、ほぼかな書き。読みやすくするため漢字・かな交じり文にして、適宜句読点を付してある。


「習ハずして名歌をよむ伝

 まづ、古道具やなんぞで碁石
(ごいし)の古いのを見つけたら、白き方バかり安く買ひ来たり、その石にいろは四十八文字を一字づつ書き、その石を三十一づつ並べ、毎日毎日暇にあかしてあつちへやつたり、こつちへやつたりすべし。長生(ながいき)をするうちにハ人丸(柿本人麻呂)・赤人(山部赤人)にも劣らぬ名歌が一首できやうも知れず。」


 二つ目は「自分の体内を自由に見る秘術」である。ただし、この「秘術」を使うと、背骨がへし折れてしまうという。


「我が腹の中を自由に見る伝

 何の造作
(ぞうさ)もなきことなり(非常に容易なことだ)。まづ、我が股(また)ぐらへ頭を差し入れ、尻の穴から覗(のぞ)ゐて見るべし。腹の中の様子、ことごとく見へるなり。しかし、見へは見へるが、男ならマアそうして見たがいい。直(じき)に背骨(せぼね)を押っ圧折(おっぺしょ)ることだ(すぐに背骨がへし折れてしまうだろう)。ただし、骨なしなら知らぬこと。」


【参考】
・山東京伝撰『三国一本松魚智慧袋』寛永5(1793)年序、早稲田大学図書館蔵、請求記号:へ13 02821 

2021年3月9日(火)
吉宗の抜き打ち検査

 8代将軍の吉宗(1684~1751)が鷹狩りに出かけた際のこと。江戸城の西御番所(にしごばんしょ)を通りかかると、突然「鉄砲数十挺を提出せよ」と命じ、御番所から鉄砲を取り寄せた。それらを近習衆(きんじゅうしゅう。将軍の側近くに使える者たち)に試射させてみたところ、いずれも玉走りがよく、手入れが行き届いた最上の鉄砲ばかりだった。

 西御番所勤番(きんばん)は中坊秀豊。吉宗から「出来(でか)したり(よくやった)」との褒詞(ほうし)を賜った中坊は面目を施した。

 江戸城各御門には、非常時用の弓・槍・鉄砲等が常備されていた。しかし吉宗の頃ともなると、平和な世の中にすっかり慣れきった役人たちが整備を怠るようになり、ほとんどの武器は実用に耐えなくなっていた。

 そうしたなかで、西御番所勤番中坊秀豊は武備を重視し、万が一にも職務に落度がない人物だった。それをわかった上で、吉宗は抜き打ち検査をしたのだった。

 これを聞いた諸番所の役人たちはあわてた。彼らが管理する武器類はほとんどが錆(さ)び朽ちているか、鉄砲はあっても弾薬がないといった不備だらけ。非常時にはまったく対応できない状態だった。役人たちは自分たちの気の緩みを恥じた。


「甚
(はなはだ)(おこた)りし人々、俄(にわか)に目を覚(さま)し、此上(このうえ)ハいつ何時、御感(ぎょかん)の節(せつ)(など)不意(ふい)に御用(ごよう)あるべくも計(はか)りがたしとて思ひ思ひに改め、武器厳重によくなりし。」 


 吉宗のえらいところは、無作為な抜き打ち検査をしなかったことだ。怠慢な役人をつるし上げて一罰百戒の見せしめとすることを避け、むしろ模範的な役人の職場を抜き打ち検査した。これなら誰も処罰されない。その上で各自が日頃の職務怠慢に気づき、自然と心がけを改めるようになる。そう考えたのだ。 

 賢慮とは、こういうことをいうのだろう。

 
【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十三、天保7(1836)年成立。「西御門勤番 中坊万五郎秀豊」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年3月7日(日)
3月7日は「消防記念日」

 『流芳録』巻之十二に、次のような話がある。

 火消役(ひけしやく)の横田備中守(甚左衛門)は、自分が当番の日には常に革羽織(かわばおり)を着し、火災にいつでも対応できるよう準備していた。車軸を流すような大雨の日でも、横田のそうした生真面目さは変わらない。その様子を見かねた者が次のように言った。


「大雨の時ばかりハ、今少し御心をゆるされたりとも苦しかるべからず」
(大雨の時くらいは、もう少し緊張を解いてもよろしいのではないですか。)


 それに対する横田の答え。


「我かくのごとく心得てだに、汝等
(なんじら)を初めとして左様(さよう)に油断の考(かんがえ)あるなりと。我、緩(ゆるみ)にせばいかばかりにやあらん。惣(そう)じて面々(めんめん)不合点(ふがてん。承知していない)なり。雨だに降(ふれ)バ火事ハなきものと心得て候(そうら)へバ、火事ハ屋根の上より出来(いできた)るものにてハなきものを。」
(私がこのような万全な心構えでいてさえ、おまえたちには左様な油断の考えがある。それなのに、私まで気を緩めたら一体どうなるであろうか。だいたいみなの者には誤解がある。雨さえ降っていれば火事はないものと思っているようだが、火事は屋根の上から起こるわけではないのだ。)


 わずかな油断が、事態をさらに悪化させることはよくある。だから『流芳録』には、常に油断なく自分の職務に愚直に専念する横田のような人物を取り上げているのだろう。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「火消役 横田甚左衛門義松」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年3月6日(土)
他人の痛みを知る

 一橋家斉(ひとつばしいえなり。1773~1841)は天明元(1781)年、9歳の時に10代将軍家治(いえはる)の養子になった。

 13歳のある日、家斉が乗馬に興じていた時のこと。戯れに御伽(おとぎ。主君のおそばで話し相手をつとめる役職)の者たちに向かって、「勝った者が負けた者の耳を引っ張ることにしよう」といった罰ゲームを提案した。御伽の某(なにがし)が乗馬に負けた。家斉は、その者の耳を手加減なく引っ張った。そのため某(なにがし)は耳をひどく痛めてしまい、膏薬(こうやく)を貼って出仕する有様。これを見ていた御伽の一人に、加藤虎之助(かとうとらのすけ。1773~1790)がいた。虎之助は家斉と同い年。

 別のある日、虎之助は家斉に向かって「今日は私が乗馬のお相手をいたしましょう」と提案した。そして容赦なく家斉を負かしてしまうと、虎之助は家斉の耳を思い切り引っ張った。これに腹を立てた家斉は、ぷいと大奥の方へ行ってしまった。近侍の人々は虎之助をひどく叱責した。

 こうした遊びでは上様(うえさま。貴人の尊称)に勝ちを譲るものだ。そもそも上様に勝った者など今までいない。たとえ勝ったにしても、上様の耳を引っ張るなどとは言語道断。こう叱責された虎之助は処罰を覚悟し、謹慎することにした。

 しかし、家斉からは何の咎(とが)めもなかった。むしろ「早く出仕しろ」との上意であった。

 一連のできごとを聞いて感じ入ったのが、松平定信(まつだいらさだのぶ)。早速虎之助を呼び出して、その行動を誉めたという。


「人々の迷惑を 上様には御存知
(ごぞんじ)なきゆへ、御覚(おんおぼえ)へ遊(あそ)バされ様(よう)にとの御諌(おいさめ)の心と見えたり。年もゆかぬに(年端もいかないのに、ずいぶんと若いのに)扨々(さてさて)かうばしき(立派な、みごとな)事なり。自今已後(じこんいご)も弥(いよいよ)忠節を励ミて御奉公勤めらるべし。出(で)かされたり。」
(上様の耳を引っ張ったのは、人々の迷惑をご存じない上様に、そうした迷惑をわからせようとのお諫(いさ)めの気持ちからだな。まだ年少なのに、まことにあっぱれな心がけよ。今後もいよいよ忠節を尽くし御奉公に励め。よくぞやった。)


 江戸幕府は、たとえ身分・役職が低くとも諌言をはばからない剛直な人々を大勢抱えていた。また、そうした諌言の士を大事にする風潮もあった。だから定信は、わざわざ少年の虎之助を呼び出し、その行動を誉めたのだ。

 それにしても、主人の耳を引っ張って他人の痛みを知らしめた虎之助や、その志を尊いものとして誉めた定信。このような人材は、現代の忖度(そんたく)横行の官公庁・会社組織の中にどれほど生き残っているのだろうか。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』巻之十二、天保7(1836)年成立。「御伽 加藤虎之助則茂」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
 なお、同書には虎之助の経歴が以下のように書かれている。
「天明元(1781)年五月三日西丸御伽(にしのまるおとぎ。西丸は将軍の世子の居所)、年々金百両を賜ふ。七年十二月十六日御小性、三百俵を賜ふ。八年二月三日角入袖留(元服に際し少年が着ていた振袖を小袖の丈に詰めること)を命ぜられ、三月廿二日元服。寛政二(1790)年五月十四日死、年十八。」

2021年3月5日(金)
食事の前には手を洗おう

 江戸城御殿には将軍の食事を担当する膳所台所、大奥の食事を担当する奥膳所台所、大名・諸役人の食事を担当する表台所があった。各台所には、組頭・台所人・小間遣(こまづかい)・六尺などのスタッフがいた。これらを束ねる長官が御台所頭(おだいどころがしら)である。お目見え以上の者が就任した。

 鈴木喜左衛門重成は寛永9(1632)年、3代将軍徳川家光の御台所頭(膳所台所頭)に就任した。

 ある日、家光が隅田川に鷹狩りに出かけた。風の強い日で獲物がなく、機嫌の悪いまま休息所に入った家光は「急ぎ食膳を準備せよ」と下命した。鯉(こい)の吸物(すいもの)を食べていると汁の中に砂が混じっている。激怒した家光は「台所頭を切腹させよ」と命じた。

 喜左衛門は、内田信濃守(しなののかみ)を通じて弁明した。

「どうして御膳に砂が入りましょうや。私どもは、滅多に切腹など致すような咎(とが)などいたしません。上様は、野外から戻ってくるなりうがい・手洗いもせず、すぐさま吸物を召し上がられました。今日は風が強くて土埃(つちぼこり)がひどく、口か髭(ひげ)に最初から砂が付着していたものと思われます。」

 そう述べると、敢然(かんぜん)として次のように諌言(かんげん)した。


「御手水
(ごちょうず)遊ばされし以後、御吸物に砂あらバ切腹なり共(とも)打首(うちくび)になり共罷成候(まかりなりそうろう)べし。只(ただ)御腹立(おはらだち)とばかりにては跡(あと)御請申上間敷(候)(おうけもうしあげまじくそうろう)。」
(手洗いうがいをされた後でもお吸物の中に砂があったなら、切腹でも打首にでもなりましょう。ただ虫の居所が悪いというだけ(でこのような理不尽なご下命をされる)なら、以後のお役目は御請けいたしません。)


 そこで家光が手水を使ったのち先ほどの吸物を食べたところ、果たして砂などなかった。

 その後しばらくして、喜左衛門はご奉公に精励したとの理由で200石を加増された。

 家光は慶安3(1651)年に死去した。その翌年、喜左衛門は御台所頭を辞任した。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』天保7(1836)年成立、巻之十四、天保7(1836)年成立。「御台所頭 鈴木喜左衛門重成」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004

2021年3月4日(木)
年の差婚

 家康の信頼厚かった板倉勝重(いたくらかつしげ。1545~1624)が、京都所司代を務めていた頃の逸話(1)

 京都の金持ちの娘が、一門の男と縁組みした。娘の父親が病死すると、母親はこの縁組みを破談にしようとした。男は納得せず、京都所司代に訴えた。この時娘は15歳、男は35歳だった。

 母親は勝重に次のように訴えた。


「私娘ハ幼年なり。約束の夫ハ年行
(としゆき)にて何とも迷惑なり。せめて娘の年、つれ合の男半分の年数にても有之(これあら)バ似合(にあ)たるとも申(もうす)べし。大なる年違(としちがい)にて娘もきらひ候条、何卒(なにとぞ)違変(いへん)仰付給下(おおせつけたまいくだ)され候(そうろう)。」
(私の娘は幼いのに、婚約した男はかなりの年輩者で、何とも迷惑です。せめて娘の年齢が男の半分でもあったなら釣り合いもとれましょう。年齢差が開きすぎていて娘も嫌がっております。なにとぞ破談をお認め下さい。)


 そこで、勝重が「娘の年齢が配偶者の年齢の半分ならばどうか?」と確認すると、母親はそれなら異義はないと答える。そこで「娘の年齢が配偶者の年齢の半分なら娘の婚姻に異義はない」という証文を、町年寄・十人組・一門の者たち立合いのもとで作成して差し出せ、と申し渡した。喜んだ母親はすぐさま証文を書いて提出した。

 それから5年後。勝重は役所に上記の者たちを呼び出した。そして次のように言ったという。


「先年の手形
(証文)を見るに、當年(とうねん。今年)夫は四十歳、娘は二十歳なれバ、母娘願(ねがい)の通(とおり)早々祝言(しゅうげん。結婚)を調(ととの)へよ。我等(われら)も二度の媒妁(ばいしゃく)なれば樽肴(たるさかな)を送り候(そうろう)べし。」
(5年前の証文を見ると「娘の年齢が配偶者の年齢の半分なら娘の婚姻に異義はない」とある。今年で男は40歳、娘は20歳。娘の年齢が男の年齢のちょうど半分で、母娘の希望どおりだ。早々に婚姻の準備をせよ。私も5年前・今回と二度の仲人(なこうど)をつとめることなので、進物として酒樽と肴を贈ることにしよう。)


 上記の例では、男と娘の年齢の開きはたかだか20歳。故安野光雅氏はもっと多彩な年の差婚を紹介している。次に引用しておこう。


「かのパブロ・カザルスは80歳のとき、芳紀まさに21歳になる美貌のマルチータと結婚した。そういえば、わがアンリ・ファーブルは63歳のとき23歳の女性と結婚した。
( 中略 ) また、89歳で亡くなったフェルディナン・ド・レセップス(1805~94、フランスの外交官でスエズ運河の開削者)は、64歳のとき21歳のルイズ・ブラガールと結婚し、男女6人ずつ計12人の子どもをもうけた。」(2)


【注
(1)内山恭編『流芳録』巻之八、天保7(1836)年成立。「京都所司代 板倉伊賀守勝重」の項。国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号:159-0004
(2)安野光雅『新編 語前語後』2013年、朝日新聞出版(朝日文庫)、P.253

2021年3月3日(水)
春の闘鶏

 雄鶏をお互い戦わせて勝敗を競う闘鶏。わが国でも鶏合(とりあわせ)、蹴合(けあわせ)などと称して古くから盛んに行われてきた。

 闘鶏というと、賭物(かけもの)をきそう娯楽的遊技の側面ばかりを連想しがちだ。しかし本来は、勝敗の結果から神意を判定する神占(しんせん)だったらしい。たとえば、『平家物語』には次のような話がある。

 熊野水軍(熊野海賊)を率いる熊野新宮の別当湛増(たんぞう。?~?)は、妹が平忠度(たいらのただのり)の妻だった縁もあり、平家と結んで勢力を伸ばした。しかし、源氏が日ごとに勢力を増し、平家は都落ちしてついには西国に追いつめられた。こうした情勢を見た湛増は、自らの去就を「鶏合(とりあわせ)」の結果に委ねた。


「熊野別当湛増は、平家へや参るべき、源氏へや参るべきとて、田辺の新熊野
(いまぐまの。現和歌山県田辺市にある鳥合王子社)にて御神楽(みかぐら)奏して、権現(ごんげん。熊野三所権現)に祈誓(きせい)したてまつる。「白旗につけ(源氏側に加担せよ)」と御託宣(ごたくせん)(あり)けるを、猶(なお)うたがひをなして、白い鶏七つ、赤き鶏七つ、これをもッて権現の御まへにて勝負をせさす。赤きとり一(ひとつ)もかたず、みな負けてにげにけり。さてこそ源氏へ参らなんと思ひさだめけれ。」(1)


 そこで湛増は、召集した一門2千人余、200余艘の船を率いて壇の浦に押し寄せ、源氏方に寝返ったのである。

 闘鶏はまた、年中行事の一つとして3月に行われることが多い。これも神占に関係がある。闘鶏を清明節に行えば五穀豊穣が約束されるという中国の説が日本に伝わり、闘鶏は春の行事になった。つまり春に行われる闘鶏は、豊作を祈願した一種の年占(としうら)だったのだ
(2)


【注】
(1)梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(四)』1999年、岩波書店(岩波文庫)P.184
(2)金子浩昌他『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.108~109

2021年3月2日(火)
佐野の刃傷事件をおちょくる

 『黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)』の内容はこうだ。

 源頼朝公より10代目の将軍当世公が「箱根関から先は野暮(やぼ)の者はいない」という通(つう)の世の中を現出。そのため謀反人なども出ず、武具・馬具・軍用金も使い道なしという結構な世の中となった。

 しかし、これでは世の中に金が流通しない。そこで梶原の末孫「かぬま」の発案により、「ふんてう」という名目で諸商人へ1カ年に何千両ずつもの金を分配することに決めた。こうして、金を押しつけられた町人たちが、有難迷惑するという物語が始まる。「かぬま」は「田沼」で田沼意次(たぬまおきつぐ。老中)を、「ふんてう」は「うんじょう」で運上(賦課税)をパロディ化しているのだ。

 町家では金の置き場に困り果て、お互い金を押しつけ合う始末。薄着で外出しようものならたちどころに「追剥(おいは)がれ」に襲われ、着物を着せられた上に金まで押しつけられる。家を留守にすると金を放り込まれてしまうので、おちおち外出もできない。黄表紙特有のふざけた物語だ。

 ところで『黒白水鏡』には、「かぬま」の息子「山二郎」が遊女にもてる「佐野之助」をなぶったことから二人が大喧嘩になる一場面が挿入されている。「山二郎」は「山城(守)」で田沼意知(たぬまおきとも。若年寄)、「佐野之助」は佐野政言(さのまさこと)がモデル。「山二郎」をぶつ「佐野之助」の姿は、江戸城内でおこった佐野の刃傷事件(にんじょうじけん)を髣髴(ほうふつ)させるものだった。

 刃傷事件からはすでに5年が経過しており、田沼はすでに失脚していた。しかし、刃傷事件を茶化したことは幕府の忌諱(きい)に触れ、『黒白水鏡』は絶版となる。そして、作者の石部琴好(いしべきんこう。幕府勘定所の用達町人の松崎仙右衛門のペンネーム)は手鎖(てぐさり。手鎖をかけ一定期間の自宅謹慎の刑)に処せられた後江戸払い(江戸からの追放刑)に、画工北尾政演(きたおまさのぶ。山東京伝の絵師としての名)は過料(かりょう。罰金刑)に処せられてしまったのである。


【参考】
・石部琴好作・北尾政演画『黒白水鏡』寛政元(1789)年序、早稲田大学図書館蔵本、請求記号:ヘ13 01961 0147
・水野稔『黄表紙・洒落本の世界』1976年、岩波書店(岩波新書)、P.181~182

2021年3月1日(月)
世直し大明神

 佐野善左衛門政言が田沼山城守意知に江戸城中で刃傷(にんじょう)に及んだ事件は、不思議なことに、その当日のうちに早くも江戸中に知れ渡っていた。しかも、田沼が切られたと聞いた人々は武家・町家の別なくともに喜び、佐野をことのほか称賛した。

 諸負担の増大・物価の高騰・天変地異等の頻発で、人々の憤懣は蓄積していた。そのため人々の憎しみの矛先は、当時の最高権力者である田沼意次(おきつぐ。老中)・意知(おきとも。若年寄)父子に向けられた。佐野の刃傷事件は、そうした人々の鬱憤を一気に晴らす役割を果たしたのだった。

 佐野の遺骸は遺族に引き渡され、菩提所の浅草徳本寺(浄土真宗)に葬られた。佐野家は家名断絶の処分を受け、拝領屋敷は没収された。しかし闕所(けっしょ)ではなかったので、家財は遺族に返還された。

 事件直後物価が下落し始めたこともあって、佐野は民衆から「佐野大明神」「世直し大明神」とたたえられた。佐野の墓前には連日、参詣・見物の群衆が押し寄せた。この大騒ぎは止むことがなく、寺では参詣者の立ち入りを禁止した。寺社奉行は毎日同心を二人ずつ派遣して徳本寺の玄関に詰めさせ、不測の事態に備えた。
 
 事件から5年後の寛政元(1789)年、『黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)』が世に出た。書名の上には「世直大明神、金塚之由来」と角書されている。田沼時代の弊政と佐野の刃傷事件を諧謔的に扱った黄表紙だった。


【参考】
・山田忠雄「佐野政言切腹余話」1988年、三田史学会『史学』第57巻第4号、P.22~23

2021年2月28日(日)
佐野善左衛門、駄々をこねる(2)

 ここで検使役の山川下総守が御徒目付(おかちめつけ)に何やら申し含ませた。御徒目付は曲渕甲斐守配下の与力(よりき)と内談すると山川に何かを報告し、佐野に次のように申し聞かせた。

「願いは下総守殿(山川)が聞き届けた。しかし短刀がこの場にないゆえ甲斐守殿(曲渕)に問い合わせている。その間しばし待つように」と。

 これを聞いた佐野は「誠に忝(かたじけなく)仕合(しあわせに)奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)」と礼を述べた。さらに御徒目付が言うことに、「ただいま差し出した三方は御定式(ごじょうしき)であるから戴(いただ)き置かれよ、と山川下総守殿が申されております」。

 この時、定式通りに掛かりの者たちが相並んだ。そこで、佐野もとりあえずは御定式通りにと、三方を両手に持ち戴いたその瞬間、介錯人が抜き手も見せずに佐野の首を打ち落とした。首は三方の上にうつむきに乗った。佐野の両手は三方を放さないままだった。

 短刀で切腹したいとの佐野の願いは叶えたい、しかし「御定法(ごじょうほう)」を破ることはできない。そうしたせめぎ合いのなかで、山川がとった選択は、佐野の願いをかなえる振りをして「御定法」を優先させた一種のだまし打ちだった。

 山川のこうした処置に対しては「最期に及び彼是(かれこれ)ありてハあしかりなんと下総守(山川)情深く時に取て智謀(ちぼう)なる致方(いたしかた)なり」と高評価が下されている。しかし、だまし打ちだったことにはかわりがない。

 最期に駄々をこねて周囲を困らせたとはいえ、佐野は自分が死んだことさえ知らずに逝(い)ったのだ。
  
 総じていつの時代でも、組織の「御定法」に忠実な人材が高い評価を得る。出世街道を歩むのは大概こういった人たちだ。山川下総守は3年後の天明7(1787)年、目付から一橋家家老に転じている。

 
【参考】
・内山温恭編『流芳録』天保7(1836)年成立、第13冊による。国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧。請求番号:159-0004。
・山田忠雄「佐野政言切腹余話」1988年、三田史学会『史学』第57巻第4号、P.21~35

2021年2月27日(土)
佐野善左衛門、駄々をこねる(1)

 天明4(1784)年3月24日、江戸城内において新番組の旗本佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)が若年寄の田沼山城守意知(たぬまやましろのかみおきとも)に切りつけた。その場で大目付松平対馬守忠郷が佐野を組みとどめたが、重傷を負った田沼は4月2日に死去。翌4月3日、佐野に切腹が申し渡された。

 『流芳録(りゅうほうろく)』13冊の目付「山川下総守貞幹(さだもと)」の項に、佐野善左衛門政言の切腹の様子が子細に記載されている。山川は小伝馬町の牢屋敷へ赴き、揚座敷(あがりざしき)の前庭で佐野の切腹を見届ける検使役だったからだ。

 4月3日、評定所において大目付大屋遠江守明薫、町奉行曲渕甲斐守景漸・目付山川下総守貞幹3人立ち合いのもと、大屋から佐野へ切腹の処置が申し渡された。


「其方儀
(そのほうぎ)、去月(さるつき。3月)廿四日(にじゅうよっか)田沼山城守へ手疵為負(てきずおわせ)、乱心とは乍申(もうしながら)、右疵にて山城守相果候(あいはてそうろう。死去した)ニ付(つき)切腹被仰付者也(せっぷくおおせつけらるものなり)。」


 佐野は、負傷させた田沼が平癒したと思いこんでおり、ひどく落胆していた。ところが、この切腹の申し渡しで田沼の死亡を知って大喜び。大声で「難有仕合奉畏候(ありがたきしあわせにおそれたてまつりそうろう)」とこたえると、即刻評定所から小伝馬町牢屋敷へと移動した。

 佐野は行水したのち髪を結い直し、衣服を無地の麻上下に改めて切腹の場所に着座した。佐野が検使役として立ち合う山川に一礼し、介錯人(かいしゃくにん。切腹の瞬間、斬首する役割)の高木伊介に向かって「御太儀(ごたいぎ)」と声をかけた時、同心が三方に乗せた木太刀を佐野の前に差し置いた。

 今回のような場合、真剣での切腹は許されず、三方の上の木太刀を取ろうと前屈(まえかが)みになったところを介錯人が斬首するのが定法である。

 ところがここで佐野が駄々をこね始めた。


「自身
(じしん)に切腹仕度候(せっぷくつかまつりたくそうろう)。何卒(なにとぞ)真の切物(きれもの。真剣の短刀)御差出(おさしだし)(くだ)され様(よう)奉願候


 短刀で自ら腹を切りたいと言い出したのだ。佐野の最期の懇願である。しかし定法には逆らえない。立合い人たちは当惑した。


【参考】
・内山温恭編『流芳録』天保7(1836)年成立、第13冊による。国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧。請求番号:159-0004。
・山田忠雄「佐野政言切腹余話」1988年、三田史学会『史学』第57巻第4号、P.21~35

2021年2月26日(金)
スーパー小納戸(こなんど)

 江戸幕府の職制のひとつに小納戸(こなんど)がある。将軍のそば近くに仕えて、将軍の御髪月代(おかみさかやき)の手入れ、鷹狩り用の御鷹の世話などの日常雑務を分担する役目だ。若年寄支配で、高は五百石。定員は不定だが、時代によって50人~100人くらいが任命された。

 その中でも9代将軍徳川家重(1711~1761)に仕えた松平忠香(まつだいらただよし。1726~1785)は「スーパー小納戸」ともいうべき人物だった。幕府の役職別に心に残る人物を紹介した『流芳録(りゅうほうろく)』に、その経歴が載っている。


「  松平縫殿頭忠香
(まつだいらぬいどののかみただよし)

 吉之丞
(きちのじょう)と称す。延享元(1744)年十二月十日西丸(にしのまる)御小納戸となり、二(1745)年九月朔日(さくじつ)當役(とうやく。小納戸)となる。三(1746)年十月十二日御小性(おこしょう。御小姓)に轉(てん)じ、四(1747)年十二月十九日従五位下、縫殿頭(ぬいどののかみ)に叙爵(じょしゃく)せらる。宝暦十(1760)年三月廿一日御徒頭(おかちがしら)に移る。( 中略 )

 父ハ松平帯刀
(まつだいらたてわき)とて御先手より盗賊改加役(とうぞくあらためかやく)を勤め後(のち)玄蕃頭(げんばのかみ)に叙任(じょにん)あり。御勘定奉行となり、後西丸御留守居(にしのまるおるすい)仰付候(おおせつけそうらい)し人の嫡男(ちゃくなん)なり。」(1)


 同じ『流芳録』には、松平忠香の次のような逸話が紹介されている。


(松平忠香は)當将軍家(とうしょうぐんけ。徳川家重)の出頭第一の人なり。縫殿頭(ぬいどののかみ。松平忠香)御髪月代(おかみさかやき)仰付候(おおせつけそうろう)

 将軍家御朝寝
(おあさね)の節(せつ)ハ誰々(だれだれ。だれもがみな)も静(しずか)に足音もせぬ様に御目覚(おめざめ)を恐るる内に、縫殿頭(松平忠香)當番の節ハ御目覚遅けれバ御寝所(ごしんじょ)へ這入(はいいり)て無理に御夜具(おやぐ)を取(とり)て引起(ひきおこ)し参(まい)らする程の事なり。

 御月代
(おさかやき)度々(たびたび)遊バされ候(そうろう)も、御嫌(おきら)ひなるを勧(すす)め参(まい)らせて兎角(とかく)(つかまつり)差上候(さしあげそうらい)ける。」(2)


 家重の朝一番のお世話担当係が、縫殿頭だった。家重の月代(さかやき)を剃(そ)り、髪を整える担当だったからだ。家重が朝寝をしていると、将軍を起こさないようにと誰もが気を遣い、足音もたてないよう静かにしようと心がけた。しかし御小納戸の縫殿頭は違っていた。家重の起床が遅ければ御寝所にまでずかずか入り込み、力づくで布団をはぎ取って引き起こしたのだった。

 家重は、月代(さかやき)をたびたび剃られることを嫌がった。月代とは男性の前額部から頭頂部にかけて髪を剃ったもの。その際には毛抜きや剃刀を用いた。剃られる間じっとしていなくてはならず、剃ると頭皮がひりひりした。毛抜きを使用した場合はなおさら痛かっただろう。それを縫殿頭は、なんのかのと家重をなだめすかして整えるのだった。

 家重は生来虚弱で言語も不明瞭(家重の言葉を聞き取れたのは小姓の大岡忠光だけだったという)
(3)。また、長らくじっとしていることができないほどトイレが近く、「小便公方」というニックネームを奉(たてまつ)られるほど(4)

 もしかすると縫殿頭(松平忠香)は、駄々をこねる小学生の息子を叱(しか)り宥(なだ)める母親のような気持ちで、将軍の世話をしていたのかも知れない。


【注】
(1)(2)内山温恭編『流芳録』天保7(1836)年成立、第13冊による。国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧。請求番号:159-0004。
(3)奈良本辰也『日本の歴史17町人の実力』1974年、中央公論社(中公文庫)、P.331
(4)日常生活がこんな有様だったので、家重の将軍としての資質に対する歴史家の評価はいたって低い。たとえば、北島正元氏は「1745(延享2)年、吉宗は将軍職を長男家重にゆずり引退した。しかし家重はまったく不肖の子であった。若い時から大奥で淫蕩な生活にふけり、そのうえ悪い病気にかかり、「小便公方」の綽名まで頂戴したほどの口もろくにきけない半病人であった。だから享保の改革の成果は正しくうけつがれず、時代の進行とともに封建的危機がしだいに表面化してくるのである。」(北島正元『江戸時代』1958年、岩波新書、P.164)と手厳しい評価を下している。

2021年2月25日(木)
読み方のむずかしい名字(2)

 南小柿寧一(みながきやすかず・みながきねいいち。1785~1825)は淀藩(山城国、稲葉藩)の江戸勤め藩医南小柿要仙(みながきようせん)の嫡男として江戸に生まれた。通称を良祐、字(あざな)を清人、号を西崖といった。

 1799年に家督を相続、御医師並(おいしなみ)9石4人扶持を与えられ、その後幕府の奥医師桂川甫周(第4代)について蘭方外科を学んだ。寧一の収入は50石、80石、100石と漸次加増され、1823年には130石になった。寧一への藩の期待の高さがわかろう。日本橋西の居宅を塾とし、解剖学を講義した。

 外科医にして博学多識、絵画にも長じていた。その描く解剖図は精密・克明で、大槻玄沢の『重訂解体新書』附図の原画は寧一が描いた。

 1819(文政2)年には『解剖存真図(かいぼうぞんしんず)』を作成。全83図の解剖図ひとつひとつが迫真的で圧巻。江戸時代の解剖図譜としては内容がもっとも充実し、色彩も実物に近いと評価されている。2003(平成15)年、「江戸時代の実証的解剖図の到達点を示す資料として、わが国医学史上大変意義が深い」との理由で、『解剖存真図』は文化庁から重要文化財指定を受けた(慶應義塾大学所蔵)。

 しかし寧一は41歳で早世。外科医・解剖図の第一人者としてその後も活躍し続けていたなら、当時の医学界に多大な貢献ができただろう。同時に、寧一の名は世間に熟知され、「南小柿(みながき)」は難読名字のひとつにならなかったにちがいない。


【参考】
・石原力「南小柿寧一とその家系」2005年-『日本医史学雑誌』第51巻第2号、P.198~199-
・安田健次郎「重要文化財に指定された塾所蔵の貴重書:『解剖存真図』」2005年-『慶應医学』第82巻第3号、P.109~118-

2021年2月24日(水)
読み方のむずかしい名字(1)

 世の中には、読み方のむずかしい名字がある。たとえば、次のような名字はやさしい漢字ばかりで構成されているのに、まったく読めない。


  1 七寸五分
  2 一二三
  3 七五三
  4 北風原
  5 五月七日
  6 六月一日
  7 物理
  8 釈迦無尼佛
  9 子子子子
  10 言語道断



 これらの難読名字に比べれば、「南小柿」の読み方はやさしい部類だ。「みながき」と読む。歴史上の著名人に、南小柿寧一がいる。


【参考】
・紀田順一郎『日本博覧人物史、データベースの黎明』1995年、ジャストシステム、P.194(篠崎晃雄『実用難読奇姓辞典』1967年からの抜粋)


【解答】 1 くずはた  2 うたかた  3 しのしめ  4 ならいはら  5 つゆり  6 うりはり  7 もとろい  8 にくるべ  9 すねこし  10 てくらだ

2021年2月23日(火)
奥州藤原氏のミイラ

 中尊寺には奥州藤原氏代々のミイラが安置されている。かつて、それらを納めた棺を、黄金目当てに開けた者がいた。1783(天明8)年9月、幕府巡見使に随行してこの地を訪れた古川古松軒(ふるかわこしょうけん。1726~1807)が、そんな伝承を『東遊雑記』に記録している。

 昔、中尊寺に「愚僧」がいた。奥州藤原氏三代(藤原清衡、基衡、秀衡)の墳墓には莫大な黄金が納められているという話を聞いて、

「今一山の寺院が衰廃の危機にある。墳中に納められた黄金を掘り出して寺院を再興したならば、藤原氏三代の心にもかなうだろう」

と考えた。そこで大勢の者を集めて墳墓を開き、棺(ひつぎ)を出してふたを開けて見たところ、


「各
(おの)おの束帯(そくたい。貴族の正装)せし姿ありありとして生けるがごとし。かの僧大いに驚きおそれて、とやせんかくやと走りめぐるうちに、右の姿雪仏(雪をかためてつくった仏像)のきゆる如(ごと)く消えうせて白骨となり、それよりかの僧は狂乱して死す」(注)


 そこで、棺は元の通りにして金色堂に戻したという。

 中尊寺を再興するために黄金を掘り出そうとしたのだ。動機が私欲に発したものではなかったにもかかわらず、罰(ばち)の当たり方が何とも理不尽。棺をあばくこと自体をタブーとする伝説なのだろう。だからこの僧侶を最初から「愚僧」と決めつけているのだ。

 確かに理不尽な伝説だ。しかし、こうした理不尽な伝説のおかげもあって、奥州藤原氏のミイラは現在まで800年以上守られてきたのだ。


【注】
・古川古松軒著・大藤時彦編『東遊雑記』1964年、平凡社(東洋文庫)、P.225

2021年2月22日(月)
杉田玄白の『玉味噌』(5)-本文(4)-

(本文4、最後)

 遠くないうちに世を逃れ、のどかに隠遁すると思えば心もたいそう楽しかろうに、実際はそうではない。老いて戒めるべきは欲にあるという聖人の教えにたがわず、尽きることのないのは欲である。

 恥ずかしながら、また一つの望みがてきた。実現するかしないかは天命だが、陶九成(とうきゅうせい)や蘇東坡(そとうば)のように遁世したらこのようにしようと書き置いた文に倣って、私も隠居したならこのようにありたいと思ってから、おおよその事を試しに書き出してみたところ、およそ昔の賢人が志操堅固に遁世したことに学ぼうと思っても及ぶまい。

 今の世の人々の隠居した有様をつくづくと思ってみるに、「不幸にして世を逃れました」と笑って隠居したのは別として、財産があって何不自由なく人もうらやむほどの隠居は、現役の時とかわらず、その財力に応じたほどの金銀を費やして住居もことごとしく造り、奇石を並べ、珍木を植え、千金の骨董品をつらね、茶事と称して毎日お客を迎え、長夜の飲食をなす。または、囲碁などの会を催すことを風流と心得て、彼には勝ったと心中には笑みを含み、またこれには負けたと憂い、のどかに暮らそうと思った初心の頃とは違って、隠居してかえって苦しみを求める人も多い。

 私も同じようなもので、初めから世を捨てようというつもりはない。先年、造作した小詩仙堂を常の住居と定め置くこととし、その大きさを基準にかの鴨長明の方丈の意にならって、三谷あたりの野辺近い所に別に小家を作って、折々はそこに移り住もうというのだ。


(以下で隠居遁世の夢を述べる。省略)

2021年2月21日(日)
杉田玄白の『玉味噌』(4)-本文(3)-

(本文、3)

 ことにまた先頃、長寿の祝いをしたところ、わが主君をはじめとして御家来の方々、よその大名の御家来より杖・盃・衣のたぐいを数多く賜りお祝いしていただいた。これは誰もが賜るほどの物なのでくどくどしくは書きとめないが、その中でも若君からは狩野永徳作の三福神図の御掛物を下賜された。

 またある時、若君のお召しにあずかり、先年までご病気だったが最近では何の支障もない、これも私が久しくお側で朝夕心を尽くしてきたからであるとお喜びのよしにて、内々に黄金を下賜された。かようなめでたき御代に生まれ、とりわけ医者の家には不用な物の一つではあるが、さすがに武門に仕える身で具足の一領も所持していないのは心中の恥なので、甲(かぶと)から脛当(すねあて)まで明珍(みょうちん。著名な甲冑師の系譜)によきように作らせた。若君から下賜された黄金はその費用に当てたのである。

 また、北の方(奥方)も同じく喜ばれたよしにて、また黄金を下賜された。もとより好まぬ道ではあるが、折にふれ月をも眺め、本をも見よう。そのために野山に遊ぶことがあれば、そのときのためにと茶箱を一具買い置いた。

 かようの品々はみな高貴な方々からお恵みになったものなので、これを忘れないように残し置き、子孫に伝える宝とした。

 そのほか書画・もてあそび品のたぐい、私の好む物は身に応じたほどいただき、とりわけ子が男女5人、孫も男女5人までもうけた。年齢も70歳に余るほど生き延びたのでもはやこの世に望みもなく、明日死んでも残り惜しいことはない身ではある。

2021年2月20日(土)
杉田玄白の『玉味噌』(3)-本文(2)-

(本文、2)

 こうした有様を耳にされたのであろうか、前(さき)の久我(こが)内大臣殿(久我信通(1744~1795)か。武家伝奏(ぶけてんそう)・右近衛大将・内大臣)より御家来の辻信濃守(つじしなののかみ)という人物を通じて

「オランダの言葉は百千鳥(ももちどり)のさえずりのように理解できないものとかねて聞いていたが、今ではその言葉の翻訳もでき、ものの用にもたつということだ。そのことを詳細に述べなさい」

との仰せを下された。当方より畏(かしこ)まり申し上げたのは、

「私はその片端さえわきまえぬものです。どうして詳細を申し述べられましょう」

と固辞したところ、重ねて仰せがあって

「ただ、自分が覚えていることを、いささかなりとも申し述べよ」

と再び仰せをこうむった。こうなったうえは、固辞することも恐れ多い。

「私がオランダ語を学んだありのままを、つつまず申し上げましょう」

と申し上げた。しかし、京都と江戸とは百里の行程を隔てているので、口授しようがない。ただこの書をもってこのようにし、かの書をもってこのようにして下さいと、そのあらましを申し上げた。このことを内大臣殿はたいそう深く喜ばれたということだ。その後、内大臣殿は病気になられてついにお亡くなりになった。今さら思い返すと、涙が落ちるできごとである。内大臣殿の御遺品として、自ら「可楽宝」の三文字を書いて鋳造させた茶釜を下賜された。

 また、いつ頃であったか、当代の禁裏様(きんりさま。光格天皇(1771~1840))の御兄君、安楽心院の宮(公延入道親王(1762~1803)。典仁親王の第四王子)様がご病気になった時、お脈をとれと仰せがあったので、拝診申し上げた。重ねてこのできごとによって、白銀を下賜された。このような白銀をどうして無駄に使うことができようかと思っていたところ、その前年、私の息子の伯元が上京して大嘗会(だいじょうえ。天皇即位の儀式で天明7(1787)年11月27日に実施)が行われたときに遭遇し、この時のお宮抱えの残り木を土産にもってきたことがあった。これを保存しておいたので、この木で医学の祖神である少彦名命(すくなびこなのみこと)の尊像を彫刻した。これは朝夕に礼拝し、治療に誤りのないように祈念するためだ。下賜された白銀はその彫刻費用にあてた。

 またかつて、将軍家(11代家斉)の父君一橋黄門(ひとつばしこうもん。一橋治済(ひとつばしはるさだ)。黄門は中納言の唐名)の第五子久之助君とおっしゃる方に腫れ物があった時、これも拝診したことで同じく白銀を賜った。この時は安田松次という彫工に頼み、かたつむりの小柄(こづか)を彫ってもらった。このたびの白銀はその彫刻費用にあてた。

 このように、上は雲上(うんじょう。宮中)から下は片田舎の人々まで私の名を知り、西は筑紫から東は外ヶ浜(そとがはま)の果ての果てから笈(おい)を背負って入門し、縁故を求めて治療を請う人々が常に絶えない。これこそ幼少より願っていたことで、有名になったからだろう。

2021年2月19日(金)
杉田玄白の『玉味噌』(2)-本文(1)-

 本文には、玄白の回想と夢が述べられている。

 前半は回想部分で、『解体新書』の刊行を機に蘭学の先駆者として名を知られ、将軍はじめ高貴な人々の知遇を得たことや、全国から門人が殺到したことなど、功成り名を遂げた過去が述べられている。

 一方後半では、悠々自適の隠退生活の夢が語られている。理想とする小庵の平面図が描かれ、携帯用道具箱やその中に入れる道具の数々を数え上げている。

 玄白の人となりがよくわかる随筆なので、『玉味噌』の前半部を大意を損なわない範囲で現代語訳してみた(全4回)。なお、玄白は「翁」と自称しているが、すべて「私」に改めた。

 
(本文、1)

 『格古要論(かっこようろん。明の曹昭(そうしょう)が撰述した美術工芸品の評論書)』という本に、高い深山に棲んで捕獲しようとすれば命を失いかねない猛虎の皮であっても望めば得られるし、数万里を隔てた海底に生育する珊瑚珠(さんごだま)であっても望めば必ず得られるのが世上のならいだ、とある。

 私(玄白)は、小国の医者の家に生まれた身なので、もとより高位高官に就きたいという望みはない。強いて望めば実現できないこともないが、わが道に違った望みなので心にとめないのだ。

 主君に長く仕えてきたので、たびたびの加増によって今や20石になった。祖先の時の20口に比較すると2倍を越えている。これは私にとってはいささか分に過ぎたことだ。また、主君の厚い御配慮によって飢寒の心配もなく、この身も安泰だ。ほかに何の望みがあろう。

 ただ、ここに一つだけ望みがあるのだ。この世に生まれながらただ草木とともに朽ち果ててしまうの口惜しいし、先祖から伝わった家名を世に知られないのも本望ではない。そもそも、名を求めることは尽きることのない欲望の一つではあるが、尽きることのある財宝を求めるよりはまだその罪は軽かろう。それゆえ、(名を求めるという)この思いを幼少期から心に深く念じ、しばしも止む時がなかった。

 その験(しるし)あってか、ようやく40歳近い頃から人々に名前を知られるようになった。その後にいたっては『解体新書』という本を著述したところ、それまで中国や日本でこのような西洋の医学書を翻訳した前例がないというので、珍しがられて人々の評判になった。

 故桂川法眼甫三(かつらがわほうがんほさん)君が前将軍家(10代将軍家治)へ献上し、京都では翁の従弟(いとこ)の吉村辰碩(よしむらしんせき)を通じて堂上(とうしょう。公家)の方々にも本書を一部ずつ献上した。そのなかで、近衛太政大臣(近衛内前(このえうちさき))・九条左大臣(九条尚実(くじょうなおざね))・広橋准后(じゅんこう)大納言家(広橋兼胤(ひろはしかねたね))からは、めでたい古歌を書いたものを賜った。また菅原家の末裔東坊城(ひがしぼうじょう)殿からは新作の詩を賜った。

 このようなこともあったから、虚名ながら私の名も次第に各地に知られるようになった。

 私の名を慕って入門した者は、東海道では伊勢・尾張・三河・遠江・甲斐・相模・上総・常陸・武蔵・安房10カ国のうちで26人。東山道では美濃・信濃・上野・下野・陸奥・出羽6カ国のうちで25人。北陸道では若狭・越前・越後・加賀・佐渡6カ国のうちで18人。山陰道では丹波・丹後・石見3カ国で6人。山陽道では美作・備前・備後3カ国のうちで6人。南海道では紀伊・阿波・讃岐・伊予4カ国のうちで10人。西海道では豊前・豊後・肥前・肥後・日向5カ国で12人。さすがに畿内の土地は名医が多いゆえか、山城国京都から山中又玄という男がただ一人入門したのみだった。このほか不幸にして早世して、その名前を除籍した者はこれらの数に入れていない。

 このようなことで、上は各国の大名から下は商人・俳優のたぐいまで、日毎に治療を願い薬を求める者が多くなった。およそ1年間に千人あまり、二千人にも及んだろう。

2021年2月18日(木)
杉田玄白の『玉味噌』(1)-序文-

 『玉味噌』は文化2(1805)年、杉田玄白73歳の時に書かれた和文随筆。玄白没後、遺稿の中から発見された。現在、『耄耋獨語(ぼうてつどくご。ボケ老人の独り言、ほどの意味)』と合綴(ごうてつ)された写本一部が伝わり、慶應義塾大学信濃町メディアセンター北里記念医学図書館(富士川文庫)に所蔵されている。国文学研究資料館新日本古典籍データベースで書名を検索すればデジタル史料(原文)を閲覧できる。

 晩年の玄白の人となりを知る上で貴重な随筆だが、未刊だ。

 書名にある玉味噌とは、大豆を煮てつきつぶして玉状にして藁に包んで発酵させて作った味噌のこと。書名を『玉味噌』とした理由については、本書の自序に書かれている。自序全文は次の通り。なお、読みやすくするため適宜句読点を付し、表記はひらがなに統一し、漢字は現行のものに改めるなどしてある。


「総
(すべ)て味噌の品さまざまあり。それがなりに田舎人の作れる玉味噌といへるものは、味(あじわ)ひあしく、殊(こと)に其(その)(にお)ひも聴(きく)にたへがたきもの也。然(しか)るに又、如何成(いかなる)ゆへにや、自(みずから)の事をみづから慢(ほこ)るを味噌とはいへり。此(この)書は其味噌の中の玉味噌の類(たぐい)にして、聴(きく)に堪(た)へがたし。はた、文にも雅と俗の分(わか)れ(あり)。是(これ)は雅にもあらず、俗にもあらず。打(うち)(まじ)りて味ひのあしき事は、吾妻路(あずまじ)の片田舎にすめるいやしき翁(おきな)が、もの知りがほに書著(かきあらわし)し故(ゆえ)なるべし。そのわるくさくして味ひあしきゆへ、これをもつて玉味噌とは名付置(なづけおき)(ママ、「侍(はべ)りぬ。読(よむ)もの、其心地(そのここち)して見給(みたま)へかし。
                        小詩仙翁自序」



 手前味噌(自慢話)を長々聞かされるのは、耐えがたきもの。その上本書の文章は、雅俗入り混じって味わいも悪い。味わい悪いうえ臭くて耐え難いところは、田舎の玉味噌と同じだ。ゆえに書名を『玉味噌』と名付けた、とある。

 自序の最後に出てくる「小詩仙翁」は玄白の自称。玄白は石川丈山(いしかわじょうざん)に私淑し、丈山の詩仙堂にならって自らの書斎を小詩仙堂と称した。

 なお、本書には玄白による自序のほか、門人岩松義則の漢文序が付いている。それによると、文化14年(1817)5月27日の玄白没後七七忌に、玄白の遺品の中より本書が見つけられたことが書かれてある。

2021年2月17日(水)
ネコの情愛

 幕府の書物奉行、成島仙蔵が著した『鳥けもの孝義伝』から猫の部分(全文)。

 なお、読みやすくするため句読点を付し、一部表記を漢字に改めるなどしてある。


「   猫
(ねこ)

 ある人のもとに女なる猫
(雌ねこ)ふたつ(2匹)飼ひけるに、同じ日、同じやうに子二つ産ミけり。五日、六日ありて、ひとつの母猫、犬やとりけむ(犬が襲ったのだろうか)、かひくれ(全く。まるで)身動(みじこ)ざりけれバ(身体を動かさなかったので)、母失へる子猫ふたつ、ねうねう(ミャアミャア)と泣き悲しミ、はてばて(果て果て。結局)ハ飢へて死なんとするを、今ひとつある母猫、やをら(そっと。おもむろに)ゆきてそのミなしご(孤児)どもをひとつづつ(1匹ずつ)ふくミて(口にくわえて)(おの)が産屋(うぶや)に運び入れ、乳房(ちぶさ)を与へ、頭(かしら)より始め舐(な)め整へ、尿(しと)などとり、養ひ育てける事、己(おの)が産める子にいささかも変わらず。かくて生(おひ)たつにしたがひ鼠を捕(と)り来(きた)りて喰(くわ)するにも、まづ養へる子に喰(くわ)せ、己(おの)が産める子にハ必ず後に喰(くわ)せける。

 かかる際
(きわ。程度、ほど)のものさへかく義を知るうるわしき(立派な、美しい)(おこな)ひをバするかし。いとあさまし(たいそう意外だ、びっくりすることだ)と主(あるじ。猫の飼主)いとど(たいそう)いとおしミ(不憫に思う、大切にする)飼ひける。人として継子(ままこ)(にく)む、うたてしや(嘆かわしいことだ)。」


【注】
・成島仙蔵『鳥けもの孝義伝』寛政9(1797)年序、国立公文書館のホームページ「旗本御家人Ⅲお仕事いろいろ」より。

2021年2月16日(火)
烈狐(れっこ)

 幕府の書物奉行、成島仙蔵が著した『鳥けもの孝義伝』から狐の部分(全文)。

 なお、読みやすくするため句読点を付し、一部表記を漢字に改めるなどしてある。


「   狐
(きつね)

 狐のミめ
(顔立ち、容貌)よき女となりて人の妻となりけるが、しなかたち(人柄と容姿)のうるはしき(美しい)のミならず、心ざま(気だて、性格)さへすぐれてただしく、からうた(唐歌。漢詩のこと)などもよくつくり、手もよくかき(文字も上手に書き)、ものぬふわざ(裁縫)などもかしこく、あはれミふかかりければ(愛情も深かったので)、一家のものかしづきけり(身近に仕え大切に世話した)

 その時、世の乱れたりしかば、ぬす人おほくおこりて里ごとに入
(いり)ミだれ物とる。此家(このいえ)にもおほくむれ来て、あるじ(主人)をはじめ、ずさ(従者)どもミなうち殺し、貨(たから)おほく奪ひけるが、むねとあるぬす人(親玉の盗人)、此妻(このつま)のうるはしきを見てけぞうし(恋慕し)、しゐて(強いて。無理矢理)心にしたがへんとせしかば、妻のかなしミうらミ、身をけがさむよりハ(女子の貞操を傷つけられるよりは)とて、やをら(そっと)ぬす人のうちかたな(打刀(うちがたな)。帯に指した長い刀)うばひて、のんど(喉)つらぬきつ。ぬす人どもおどろきあつまり見ければ、年經(へ)たる古狐のもとのかたちあらハして死(しに)たりけり。

 およそ狐ハすきたはめる
(浮気なたちですぐに相手になびく)ものとのミいへど、そのミさほただしくかしこかりけりとて、後に里人あつまりあはれミ見て、烈狐(れっこ。操の固い狐)となん称しける。」


【注】
・成島仙蔵『鳥けもの孝義伝』寛政9(1797)年序、国立公文書館のホームページ「旗本御家人Ⅲお仕事いろいろ」より。

2021年2月15日(月)
ネズミの孝心

 幕府の書物奉行、成島仙蔵(なるしませんぞう)が著した『鳥けもの孝義伝』という書物がある。中国文献の中から鳥獣類の忠孝譚(ちゅうこうたん)を拾い集めた本だ。その一部が、国立公文書館のホームページで公開されている。公開されているのは鼠、狐、猫の部分だが、面白そうなので翻刻してみた。下は鼠の部分(全文)だ。

 なお、読みやすくするため句読点を付し、一部表記を漢字に改めるなどしてある。


「   鼠
(ねずみ)

 楊天一
(ようてんいつ)といへるものの庭に鼠ふたつ出て、米の散りたるなど食(は)みけるほどに、二尺(約60cm)ばかりなるくちなは(蛇)草むらの陰(かげ)より出(いで)(きた)り、先(さき)なる鼠を一口に呑(の)みてけり。後(あと)なる鼠、山椒(さんしょう)の実の如(ごと)くなる目を見張りて怒りけれど、勢ひの及ぶまじきを知りてたやすくも進まず。くちなは(蛇)は大なる鼠を呑みければ腹は鳴り、ひさご(瓢箪)のごとくにふくらかになりて、心地よげにもごよひ(くねくねする。はいずる)、ゆらゆらと元の穴へ這(は)い入(いり)ぬ。半(なかば)ばかり入(いる)と見るほど、此(この)鼠走りかかりてその尾を嚼(かみ)ければ、くちなは(蛇)穴より出て鼠に向かふ。鼠、疾(と)く馳(はせ去りぬれば、蛇また穴に入を、鼠初めのごとく馳せつきて嚼(か)む。かくする事たびたびになりければ、蛇も屈(くん)(気が滅入る)やしけむ、先に呑みつる鼠を反吐(へど)とともに吐き出して穴に入けり。呑まれし鼠、早(はや)(かしら)など爛(ただ)れたるやうになりて、いかにも生き出べうもなし。此(この)鼠、うち見ていみじく悲しみ、やがてそれをくわえ持ちてかくれ(ものかげ)の方へ走り去りける。親にてやありけむ、子にてやありけむ、おぼつかなし(はっきりとはわからない)。」


【注】
・成島仙蔵『鳥けもの孝義伝』寛政9(1797)年序、国立公文書館のホームページ「旗本御家人Ⅲお仕事いろいろ」より。

2021年2月14日(日)
手討ちの手本

 非常時の武士の対処法を書いたマニュアル本、『武備目睫(ぶびまつげ)』から話題をもうひとつ。

 徳川光圀(とくがわみつくに)が寵臣藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)を手討ちにした。事件は、光圀自らが舞を披露する能興行の合間に起こった。しかし、大勢の家来たちが集まっていたものの、事件の発生を知る者は誰もいなかったという。

 『武備目睫』の著者は、光圀のふるまいを「御仕方、手討(てうち)の手本なるべし」と評価した。その事件のあらましとは、次のようなものだった。


 水府
(すいふ。水戸藩)西山義公(せいざんぎこう。徳川光圀)之寵臣(ちょうしん)藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)、悪行(あくぎょう)重過し御聴(おきき)に達し、御目がねを違(たが)へたる御憤(おんいきどお)り深く、他人の手にかけまじと思召(おぼしめし)(きわ)められたる時、御能(おのう)興行(こうぎょう)有之(これあり)。御家来中之者共(ごけらいちゅうのものども)へ見物被仰付(けんぶつおおせつけられ)、御中入之時(おんなかいりのとき。休憩の時)人なき座敷へ紋太夫を被召(めされ)たり。

 紋太夫罷出
(まかりいで)、敷居(しきい)之外にて脇差(わきざし)をとらんとしけれバ、其侭(そのまま)(さし)て可罷出(まかりいずべし)と御側(おそば)近く召寄(めしよせ)られ、一巻之罪書(いっかんのざいしょ。紋太夫の罪状を書き連ねた書類)を御渡被成候(おわたしなられそうろう)

「そこにて讀
(よめ)

と被仰
(おおせられ)、紋太夫謹而(つつしみて)讀終(よみおわ)りたる時、

「申訳
(もうしわけ)あらば言(いう)べし(釈明することがあれば、言え)

と有之
(これある)

「一言之申訳
(いちげんのもうしわけ)無御座候(ござなくそうろう)

と閉口
(へいこう)す。其時(そのとき)

「申訳無之於
(もうしわけこれなきにおい)てハ覚悟仕候得(かくごつかまつりそうらえ)

と、すつと御より、ひしと捕
(とら)へ、御脇物(おんわきもの)を抜(ぬか)せられ御刺(おさし)とをし、(紋太夫の死体の上に物をうちかけて表(おもて)へ御出(おいで)、常(つね)の如(ごと)(何もなかったかのように)能を御舞被成(おまいなられ)其氣色(そのけしき)も御見へ不成候故(ならずそうろうゆえ)、當座(とうざ)に知れるものなかりしとなり。

 御仕方、手討
(てうち)の手本なるべし。(1)


 なお、光圀(67歳)が藤井紋太夫を手討ちにしたのは元禄7(1694)年11月23日、水戸藩小石川邸においてのこと。当日は幕府の老中、諸大名、旗本等を招いての能興行中で、光圀自ら能装束で「千手(せんじゅ)」を舞った後、楽屋で紋太夫を刺殺した。『武備目睫』には光圀は刺殺後「常の如く能を御舞被成」とあるが、実際は予定の演目「猩々(しょうじょう)」を代行させ、自身は人知れず本邸へ引き上げた
(2)


【注】
(1)鵜飼平矩著・松宮俊英校『武備目睫』元文4(1739)年序、高知県立図書館(山内文庫ヤ327-138)蔵(国文学研究資料館のデジタル資料を参照)。
(2)鈴木暎一『徳川光圀』2006年、吉川弘文館(人物叢書)、P.249~255

2021年2月13日(土)
混雑時を避けるのは当たり前

 『武備目睫(ぶびまつげ)』という変わった書名の本がある。名前は序文に由来する。


「諺
(ことわざ)に秘事は睫(まつげ)といふ事あり。目に近けれども見へぬといふ事なるべし。」(1)


 「秘事は睫」という諺がある。睫は目に近いところにあるゆえ、かえって見えない。秘事(秘伝や奥義)も睫のように身近にあるため、普段はその存在にさえ気付かないのだ、という意味だ。

 『武備目睫』は武士としての心得を書いたもの。ベテランの武士にとっては当たり前のことだが、泰平の世に生まれた若い武士たちには、そんな武士としての基本的な心構えや非常時への対処法さえわからない。そこで、非常時に遭遇した場合の対処法を、具体例をあげて書いてあるのだ。つまりは、一種のマニュアル本だ。

 たとえば、武士の通勤・退勤については次のように書く。


「登城
(とじょう)(あるい)は御老中(ごろうじゅう)門前抔(など)大勢込合(こみあう)(ところ)抔(など)にてハ當(あた)り合(あい)て喧嘩(けんか)口論(こうろん)(ある)べき事也(ことなり。或人(あるひと)、登城はひとより早く、退出は人より後に出給(いでたま)へば込合(こみあわ)ぬ故(ゆえ)ニ心安(こころやすし。少々心労をいとひて、大成禍(だいなるわざわい)を生(しょうじ)る事(こと)(ある)ハ不心得(ふこころえ)・不心掛(ふこころがけ)なりと申されし。」(2)


 登城や老中の門前など、大勢の武士で混雑するような場所では、喧嘩・口論が起こりやすい。混雑時を避けて早く出勤し遅く退勤するようにすれば、そうした心配は無用だ。こうしたちょっとした心がけをないがしろにし、大きな災難を招くことがあっては不心得者と言わざるをえない。

 確かに、当たり前のことが書かれてある。上記の「喧嘩口論」のところを次のように「新型コロナ感染」に置き換えれば、現在でも立派に通用するだろう。 


 大勢込合
(こみあう)(ところ)(など)にてハ「新型コロナ感染等のおそれ」有(ある)べき事也(ことなり)。ゆえに出勤は人より早く、退勤は人より後に出給へば込合(こみあわ)ぬ故(ゆえ)ニ心安(こころやす)し。少々心労をいとひて、大成禍(だいなるわざわい)を生(しょうじ)る事(こと)(ある)不心得(ふこころえ)・不心掛(ふこころがけ)なり。


【注】
(1)(2)鵜飼平矩(うかいひらのり)著・松宮俊英校『武備目睫』元文4(1739)年序、高知県立図書館(山内文庫ヤ327-138)蔵(国文学研究資料館のデジタル資料を参照)。

2021年2月12日(金)
シーボルトの標本-中山作三郎-

 牧野標本館の「シーボルトコレクション」の中に「ヒカンザクラ、通詞サクサブロウから得た日本の植物」というラベルが貼られた植物標本が所蔵されている(1)。これは長崎奉行所のオランダ通詞であった中山作三郎がシーボルトに贈ったものだ。

 中山作三郎(1785~1844)は名は武徳(たけのり)、字は知雄、通称は得十郎のち作三郎。フェートン号事件に関するドゥーフの上申書
(2)を日本語訳した4人のオランダ通詞のうちの一人。蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』作成・校訂にも協力しており、オランダ人からはオランダ語に熟達したオランダ通詞の一人として認識されていた。

 シーボルトの鳴滝塾(なるたきじゅく)は、中山の別荘をシーボルトが譲り受けて開塾した
(3)。シーボルトと親交もあったところから植物標本をシーボルトに贈ったのだろう。中山は、シーボルト事件の際の裁判の通訳もしている。


【注】
(1)東京都立大学牧野標本館ホームページによる。2021年2月12日参照。
(2)「あれやこれや2021」2月3日の項を参照。
(3)鳴滝塾の模型がミュンヘン五大陸博物館に所蔵されており、国立歴史民俗博物館監修『よみがえれ!シーボルトの日本博物館』2016年、青幻社、P.22にはその写真とともに次の解説がある。
「鳴滝の家屋模型 Wooden model of Narutaki-juku  江戸時代後期
 シーボルトが第一次日本滞在中にオランダ通詞中山作三郎所有の別荘を購入し、日本人門人を集めて講義を行った家屋の模型。シーボルト直筆の解説草稿の発見により、鳴滝の家の模型であることが判明した。正面右側に茶室があり、1階に1部屋、2階に2部屋の和室がある。記録によると模型内部には調度品が飾られ、建物の周囲の庭園の模型もあったようだが、現在は失われている。(宮坂)」

2021年2月11日(木)
医薬の祖

 特定の職業に従事する者が、始祖と称される人物や神をまつるのは、先祖崇拝の流れの一つであろうか。わが国の医者は昔から、医祖といわれるスクナビコナノカミ(1)やオオクニヌシノカミ(2)、薬師如来、神農氏、ヒポクラテス(3)などを彫刻や画像にして祭ってきた。

 なかでも多く祭られてきたのが、スクナビコナノカミだ。

 スクナビコナノカミは穀霊神的性格をもち、古くから農業・医薬・温泉・酒造の神としてあがめられてきた。これらはすべて医療と関係が深い。

 薬草石斛(せきこく)がスクナビコノクスネ(「スクナビコノ薬根」の意。延喜典薬式)と呼ばれるのは、スクナビコナノカミがそもそも医薬を司ることに由来するものだ。農業も「医食同源」というし、温泉は湯治(とうじ)と結びつく。また、旧字体の「醫」も「酉(さかとり。酒壷の意)」を含み、酒と医療の関係も深い。

 江戸時代、大坂道修(どしょう)町には薬種問屋が蝟集(いしゅう)していたため、スクナビコナノカミを祭神とする神社を勧請(かんじょう)した。現在でも11月22日、23日には、薬屋全店が休業して大祭が行われるという。この神社を土地の人は「神農さん」と呼んでいる。「神農さん」は中国の医祖神農氏のこと。日中の医祖が合わせ祭られているのだ。


【注】
(1)杉田玄白の随筆『玉味噌』には、安楽心院宮(1762~1803。公延入道親王)を診療したことで下賜された白銀で「醫の祖神少彦命(すくなびこのみこと)の尊像を彫刻し奉れり。是は朝夕に礼拝し、療治にあやまちなきやうに祈り参らすべきため也けり」とある。
(2)記紀ではオオクニヌシノカミの国土経営にスクナビコナノカミが協力したことから、神社では二柱セットで祭られることが多い。オオクニヌシノカミは因幡の白兎伝承で有名。ワニザメに皮を剥ぎ取られたウサギに治療法を伝授したので、医療の神の側面を持つ。
(3)緒方富雄「日本におけるヒポクラテスの画像と賛」1969年、『日本醫史學雜誌』第15巻第2号、P.11~15 

2021年2月10日(水)
赭鞭一撻(しゃべんいったつ)

 牧野富太郎の自叙伝の中に、「余ガ年少時代ニ抱懐セシ意見」という文章がある。そこで牧野は、自らが20歳前後に書いたという「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」と題した勉学上の心得を紹介している。

 「赭鞭(しゃべん)」は赤いムチで、本草を意味する。民に耕作・医薬等を教えたとされる中国伝説上の帝王神農氏(しんのうし)は、赤いムチ(赭鞭)で百草を打ち毒・味等を調べたという。この伝承から本草学者を「赭鞭家(しゃべんか)」ともいう。また「鞭撻(べんたつ)」はムチ打つこと。戒め励ます督励の意味で使われる。よって「赭鞭一撻」とは「本草家としての勉学の心構え」というほどの意味になろう。植物学者を目指した牧野が、15項目にわたる心構えを列挙し私見を述べている。

 文章は漢文体で古めかしいが、青年らしい野心や気負いなど若々しいエネルギーにあふれている。項目だけでも次に挙げてみよう。


 1 忍耐ヲ要ス
 2 精密ヲ要ス
 3 草木ノ博覧ヲ要ス
 4 書籍ノ博覧ヲ要ス
 5 植学
(植物学)ニ関スル学科ハ皆学ブヲ要ス
 6 洋書ヲ講ズルヲ要ス
 7 当
(まさ)ニ画図ヲ引クヲ要ス
 8 宜
(よろし)ク師ヲ要スベシ
 9 吝財者
(りんざいしゃ。けちん坊)ハ植学者(植物学者)タルヲ得ズ
 10 跋渉
(ばっしょう)ノ労ヲ厭(いと)フ勿(なか)
 11 植物園ヲ有スルヲ要ス
 12 博
(ひろ)ク交(まじわり)ヲ同志ニ結ブ可(べ)
 13 邇言
(じげん。身近な言葉)ヲ察スルヲ要ス
 14 書
(本のこと)ヲ家トセズシシテ友トスベシ
 15 造物主
(ぞうぶつしゅ。神)アルヲ信ズルナカレ


 牧野の文章は、青空文庫で読むことができる。巣ごもりの中、自分を励ます「一撻」になるかも知れない。

2021年2月9日(火)
古新聞紙

 『牧野日本植物』を著した牧野富太郎(まきのとみたろう。1862~1957)。生涯収集した植物標本は約40万点にのぼる。しかし、実際に牧野が自ら収集したのはそのうち4割ほどで、残りはアマチュアなどが鑑定依頼のために送ってきたものという。それでも、収集した標本の膨大さに変わりはない。

 それらの標本(牧野コレクション)は1958(昭和33)年、牧野の遺族から東京都立大学理学部に寄贈された(現在は牧野標本館に所蔵)。

 寄贈された際、一つの問題が判明した。標本は、古新聞紙の間に挟んであっただけで、基本的な整理ができていなかったのだ。

 いつどこで採集した標本なのかは、すべて牧野の頭の中に入っていた。牧野自身が研究する際には困らなかった。しかし牧野亡き後、基本的データを欠くのであれば、これらの標本を研究に利用することはできない。そこで大学では、採集日と採集場所を特定し標本を整理する作業に追われることになった。

 手がかりは、標本を挟んであった古新聞紙しかなかった。地方紙に挟んであれば、採集した県名はわかる。あとは新聞紙の隅に書き込んであった町村名のメモから、採集地名を割り出した。

 牧野は幕末に生まれ、明治・大正・昭和と生きた。その牧野が新聞紙にメモしていたのは、旧国名による地名だった。昔の学者は、地名を記載する際、旧国名を使用していたという。たとえば「武蔵和田村」と書いてある。それを現在の「東京都杉並区和田本町」であると推理しなければならなかった。標本整理にあたった人々は、こうした地名の特定作業に大きなエネルギーを費やすことになった。

 なにごとも、日頃からの整理整頓が大事だ。あとはデータのデートアップ(更新)も。


【参考】
・紀田順一郎『日本博覧人物史-データベースの黎明-』1995年、ジャストシステム、P.69~88

2021年2月8日(月)
松波勘十郎(4)-勘十郎堀(2)-

 水戸藩での運河掘削計画は今回が初めてではなかった。すでに寛文年間(1661~73)にも紅葉運河(もみじうんが)の掘削を試みたが、成功しなかったのである。

 松波は宝永4(1707)年夏、紅葉運河の掘削を開始し、同年秋には大貫運河の掘削も開始した。

 しかし、運河予定地の土砂は崩れやすく、すぐに川底が埋まってしまい、莫大な労力と費用を要する補修工事を常に必要とした。

 また、紅葉運河の水位は、巴川(ともえがわ)の水位より約10mも低かった。そのため、運河から巴川に直接船を乗り入れることができず、運河の底を堀留めにし、人足を使って運河に浮かぶ船から巴川に浮かぶ船へと、荷物を積みかえなければならなかった。

 巴川・紅葉運河間の水位差の解消という難問を解決するため、松波は海老沢から2kmほど紅葉方の運河をせきとめて、その溜水に10か所の水門を造った。そして、低い方の水門を閉じ、高い方の水門を開け、人足を使ってろくろで船を巻き上げさせた。もし成功していれば、日本初の閘門式運河(こうもんしきうんが)になっていたという(ただし、この意見に対しては疑義が出されている)。

 しかし、大勢の人足を必要としたため、陸上駄送をしたときの費用よりも高くつく始末だった。また、水深が浅かったため、そもそも通船自体がうまくいかなかった。莫大な資金と労力をつぎ込みながら、結局この運河計画は大失敗に終わったのだった。


 運河の掘削工事には、領内各地から多くの農民が徴発された。宝永5(1708)年に工事にかり出された農民は、延べ130~40万人にのぼったといわれる。しかし前年10月、幕府が全国の藩札使用を禁止したため、賃金は全く支払われなかった。

 農民は約束の賃金をもらえないばかりか、季節を問わず夫役(ぶやく)にかり出されたので、農作業の時期を失して農作物は不作となった。運河敷にあたって潰された田畑の補償もされず、土地を失った農民は困窮した。

 さらに、宝永5年には田租も大幅に引き上げられた。年貢の納期(12月がいわゆる「年貢の納め時」である)の近づいた同年11月、困窮した農民達は郡役所に年貢減免と賃金支払いを求めて出訴した。しかし、郡役人がこれを取り上げなかったため、宝永5年末から翌6年にかけて農民たちは江戸出府を企てた。これを宝永一揆という。

 大挙して出府した農民たちは、水戸藩の分家守山藩(もりやまはん)や水戸藩江戸屋敷に彼らの窮状を訴えた。一方、水戸藩内にも改革のために左遷された役人たちをはじめ、松波の改革に反対する者や不満をもつ者たちが多数いた。

 水戸藩は一揆の鎮静化を図るため、改革の全責任を負わせて松波を追放。のちに捕らえられた松波は、宝永7(1710)年に水戸の赤沼獄(あかぬまごく)で獄死させられてしまったのである。


【参考】
・水戸市史編纂委員会『水戸市史中巻(2)』1969年
・瀬谷義彦「宝永水府大平記」解説(庄司吉之助他『民衆運動の思想・日本思想大系58』1970年、岩波書店所収)
・江口文展『宝永一揆-水戸藩を揺がせた百姓たち-』1981年、筑波書林(ふるさと文庫)

2021年2月7日(日)
松波勘十郎(3)-勘十郎堀(1)-

 茨城県中央部にある涸沼(ひぬま)と県東の北浦(きたうら)との間や、大貫海岸と涸沼川との間には、地元の人びとがカンヂョウボリ・カンジンボリなどと呼ぶ谷津田(やつだ)や湿地があちこちに残っている。これらの呼称は勘十郎堀(かんじゅうろうぼり)がなまったものだ。

 勘十郎は、江戸時代の牢人財政家松波勘十郎のこと。松波の経歴は定かでない。美濃国加納(みののくにかのう。現、岐阜県岐阜市)の出身といわれ、諸藩に招かれて財政立て直しにその手腕を振るい、のちには京都を拠点に備後国三次藩(びんごのくにみなみはん)や奥州棚倉藩(おうしゅうたなぐらはん)などの財政改革も手がけた。

 松波が水戸藩に招かれ、財政改革に乗り出したのは宝永3年(1706)のことだった。これを「宝永の新法」という。勘十郎堀は、水戸領内の流通経済発展のために松波が掘削を計画・実行した運河のことで、「宝永の新法」の中核をなすものだった。


 そもそも水戸藩は太平洋に長い海岸線を有していたものの、鹿島灘(かしまなだ)という波の荒い難所があったため、那珂湊(なかみなと。現、那珂湊市)から海路を経て、直接江戸に物資を輸送することができなかった。沖合では暖流と寒流がぶつかって霧が発生しやすく、また黒潮の流れに阻まれて海上から直接江戸に向かうことができなかったのである。

 そのため、水戸・江戸間の物資回送には、内川廻(うちかわまわ)りと呼ばれる内陸水路を利用した。それは那珂湊から那珂川・涸沼へと入り、巴川(ともえがわ)・北浦を経て、利根川・江戸川へと至るルートであった。東北諸藩が江戸へ米を運び込む際にもこの内川廻りを利用していた。

 しかしこの内川廻りには、水路で結ばれていない区間(涸沼・巴川間の約10km)があって、この区間を陸上駄送しなければならないという大きな弱点があった。

 実際には、川舟で運搬してきた物資を涸沼の西にある海老沢河岸(えびさわがし。現、東茨城郡茨城町)でいったん陸揚げし、下吉影河岸(しもよしかげがし。現、小美玉市)まで陸上駄送した。そこで馬から荷物を下ろして再度舟積みし、巴川(ともえがわ)から北浦に入ったのだ。

 高瀬舟(たかせぶね。底が平らな喫水の浅い川舟)なら一艘で米500俵を運べるところ、馬1頭はわずかに米2俵しか運べなかった。内川廻りで水路を利用できない涸沼・巴川間の約10km区間は、費用・時間・労力等の面から大きな障害となっていたのだ。

 当時は東廻り海運が発展しつつあった。そこで東北諸藩は、水戸藩領の内川廻りを経ずに、海上から直接江戸へ向かうか、銚子から利根川にはいって江戸川を経、江戸へと物資を運び入れるようになっていった。

 こうした現況に対して水戸藩は、東北諸藩の船を水戸領を経由させて通船税の増収をはかるととも、水戸領内の流通経済を発展させるため、内川廻りをすべて水路でつなぐ計画を立てた。こうして掘削された新たな運河がいわゆる「勘十郎堀」だ。

 このとき松波は、涸沼・巴川間を結ぶ「紅葉運河(もみじうんが)」とともに、大貫海岸・涸沼川間を結ぶ「大貫運河(おおぬきうんが)」の掘削をも計画した。大貫運河がもし完成すれば、海上から船を直接涸沼に導くことができるはずであった。

2021年2月6日(土)
松波勘十郎(2)-どこまでが真実?-

 『元正間記』は世上の雑説を記したものだ。そのため、事実誤認や曲解などもあり、全面的に信用することはできない。

 たとえば、1694年にすでに死去していた藤井と松永(1706年に水戸藩に召し抱えられる)が共謀することなどあり得ない。また、松永の財政改革の主軸をなす運河掘削計画や、松波の失脚原因となった百姓たちの江戸出訴(宝永一揆)などの具体的な事実に、『元正間記』はまったく触れていない。そして松波失脚の原因を、単なる民百姓からの搾取に求めている。さらには松波が獄死した事実を無視して、打首・獄門の極刑に処断されたことにして溜飲を下げている。

 これだけを見ても、『元正間記』の記事が、事実からは程遠いことがわかる。

 『元正間記』が記載するのは俗説や風聞だ。言い換えれば、虚実とりまぜての記述である。

 松波勘十郎に関しては、「松波=極悪人」という先入観があったのだろう。極悪人なら私利私欲に走り、民百姓から財産を取り上げ、従わない者は水牢に放り込んで苛(いじ)めたに違いない、というステレオタイプの悪人像を描いているのだ。当時の松波評をうかがう上では有効な記事だが、それをそのまま事実と見なすことはできない。

 松波勘十郎は長らくこうした色眼鏡で見られ続けてきた。中立的な立場で、松波の人物像やその諸政策の実態を解明する研究が始まったのは、つい最近のことだ。  

2021年2月5日(金)
松波勘十郎(1)-松波の悪評-

 松波勘十郎(まつなみかんじゅうろう。?~1710)は諸藩を渡り歩いて財政建て直しを請け負う牢人財政家だった。しかし、水戸藩での財政立て直しに失敗し、大規模な百姓一揆(宝永一揆)を誘発してしまった。その責任を問われ、ついには水戸藩によって捕らわれて獄死させられてしまう。その結果、世間からは「藩財政建て直し」を口実に諸大名に寄生し、私利私欲を貪った極悪人と決めつけられてしまった。

 そうした松波の悪評が、当時の雑説を記した『元正間記(げんしょうかんき)』に記載されている。


「其頃
(そのころ)、江戸に松波勘十郎と言者(いうもの)出所(しゅっしょ)さだかならず。いかさま御旗本衆の家中にて、おのれが謀才(ぼうさい)をもつて立身したるものと見えたり。 ( 中略 )

松波は算術に妙を得(え)、手跡(しゅせき)の才諸人に勝(すぐ)れ、国々の地利を能(よく)知たり。( 中略 )

 其頃、水戸にても御不身上
(ごふしんじょう。財政状態がよくない)の折(おり)からと言(いい)、 ( 中略 ) 松波を三百石にて召抱(めしかかえ)られ江戸・御国許(おくにもと)両所の御台所(おだいどころ)を賄(まかな)ひ、水戸御領国中を順見(じゅんけん)して山を切(きり)、新田を開発して諸役(しょやく)・運上(うんじょう)をきびしく取立(とりたて)、いかにも公儀(こうぎ)の御為(おんため)に相成(あいなる)べき様に見えし所に、百性のいたミと成(なり)て諸役・運上の為(ため)に大きにくるしミに成たり。其上(そのうえ)藤井(藤井紋太夫)としめし合せ、新規に悪運上(あくうんじょう)を取立(とりたつ)る事数ヶ条也(1)。 ( 中略 )

(これ)によつて左様(さよう)の町人、少しにても滞(とどこお)り候者(そうろうもの)を水牢(みずろう)を作りて入れ、家・屋敷を取上(とりあ)ゲ、下(しも)の歎(なげ)き大方(おおかた)ならず。是(これ)皆藤井・松波が私欲より事起(おこ)りぬ。 ( 中略 )

 且亦
(かつまた)其夜(そのよ。藤井が手討ちにされたその夜)の中、江戸より早(はや)打立られ、御国許(おくにもと)にて松波勘十郎を召捕(めしとら)れ、

 数年江戸表を徘徊
(はいかい)致し、諸大名をかすめ渡世(とせい)に致し、殊(こと)に近年水戸へ来て公義の為(ため)(つかまつ)ると申立(もうしたて)、民百性(たみひゃくしょう)をくるしめ悪運上を取立候段(とりたてそうろうだん)、前代未聞の曲者(くせもの)也。民百性を撫育(ぶいく)して国民の潤沢(じゅんたく)をもつて国主の為となすべき所に左(さ)はあらずして只(ただ)(おの)れ等(ら)が私欲の為に数万の人をくるしめし事、松波は国賊(こくぞく)の長(ちょう)なり。其間(そのかん)に御いとま被下(くださる)べき者なれ共(ども)、生(いかして置(おか)ばまたまた自余(じよ)の大名をかすめべき也(なり)

とて打首
(うちくび)仰付(おおせつられける。其(その)獄門(ごくもん))に懸(かけ)られたりとぞ。」(2)


【注】

(1)藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)は水戸藩2代藩主徳川光圀(とくがわみつくに。1628~1700)が小姓時代から用いた腹心の一人。1694(元禄7)年、光圀自身が手討ちにしたことから「名君が直接手を下して成敗した極悪人」として印象づけられた。処分の理由が不明だったため、当時からさまざまな憶測をよび、『藤井大全』『藤井記』『鰐物語』等さまざまな通俗書が世に出た。そこでは、たとえば将軍の側用人柳沢吉保と通謀して光圀幽閉を画策する「君側の奸」として描かれた。
(2)『元正間記(写)』巻廿二「松波勘十郎御仕置之事」、書写年不明、早稲田大学図書館蔵、請求記号:へ13 02697

2021年2月4日(木)
オランダ通詞の語学力

 緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾には、蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』(写本)が一部しかなかった。塾で蘭書の会読があると、その前の晩から辞書が置いてある「ヅーフ部屋」部屋に五人も十人もが集まり、夜通し黙々と辞書を引いてその準備にあたったという。福沢諭吉はこの辞書のボリュームについて、次のように述べている。


「ここにヅーフという写本の字引
(『ドゥーフ・ハルマ』の写本)が塾に一部ある。これはなかなか大部なもので、日本の紙で凡(およ)そ三千枚ある。これは一部こしらえるということは、なかなか大きな騒ぎで、用意に出来たものではない。」(1)


 この大部の辞書を作ったのは、オランダ商館長ヘンドリック=ドゥーフ(1777~1835)と日本人通詞ら。書名を『ドゥーフ・ハルマ(長崎ハルマ)』といった。

 ドゥーフがわざわざこうした大部の辞書を編纂したのには理由がある。それは、オランダ通詞の語学力に問題があったからだ。もし、通詞の通訳や翻訳が信頼できないものだったら、お互いの意思の疎通ばかりかオランダ商館の活動自体にも支障を生じてしまうだろう。


「私
(ドゥーフ)が、日蘭両国語の対訳辞書を作成したい、という考えを抱いたのは、日本の通詞が話すオランダ語は全くひどいもので、翻訳でも多くの言葉を完全に間違った意味にとっている、という経験からである。」(2)


 オランダ語に熟達していた日本人通詞もいることはいた。しかし、ドゥーフが長崎に滞在していた19世紀前半でも、大方の通詞はこうした悲惨な有様だった。過去にさかのぼれば、そうした状態はなおさらだったろう。

 17世紀後半、オランダ人が幕府に提出した訴状(1675年)によれば、通詞たちのオランダ語が未熟なため何を申し上げたくてもできずに困っていたという。同時期に来日したケンペルも「(通詞は)十人いても、その中でまず一人としてオランダ語を話せるものはおらず」
(3)と言っている。

 18世紀に入ると、かなり正確なオランダ語を話す通詞が出てくる。しかし、それとて「その語は欧州で話されるものとは、文章の構造に於いて、また発想に於いて、非常に違つていて、時には想像以外のおかしな言葉や、奇妙な言ひ廻しをすることがある」(ツンベルクの言葉。18世紀に来日)
(4)というレベルのものであった。
 
 もし、『ドゥーフ・ハルマ』のような蘭和辞書だけでも早い時期に編纂されていれば、通詞たちのオランダ語学習はかなり様子の違ったものになっていたに違いない。少なくとも「日本の通詞が話すオランダ語は全くひどいもの」という譏(そし)りは受けなかっただろうに。


【参考】
(1)福沢諭吉著・富田正文校訂『新訂福翁自伝』1978年、岩波書店(岩波文庫)、P.83 
(2)(3)(4)引用した史料はすべて、田中深雪「長崎における阿蘭陀通詞に関する考察-地役人としての立ち位置とその評価をめぐって-」2015年、『通訳翻訳研究』15号、P.55~74による。

2021年2月3日(水)
フェートン号事件(3)-「へんてりき・どうふ」の嘘-

 フェートン号事件が起こった。イギリスは、日本に敵対する意志はないと主張しているが、突然来航したその意図がわからない。そこで、オランダ甲比丹(カピタン。商館長)「へんてりき・どうふ」に、その考えるところを内々に上申せよと命じた。その上申書が次。


( 前略 )
 去年来、御當国
(ごとうち)北地ニヲロシヤ人(ロシア人のこと)乗渡(のりわた)り及乱妨候訳(らんぼうにおよびそうろうわけ)も有之候(これありそうろう)(1)。オロシヤ舟、御當地江乗渡候ハバ究而(きわめて)可被為害候(がいせらるべくそうろう)。依之(これによって)ヲロシヤ・ヱケレス(イギリスのこと)之両国ハ兼て好(よし)ミを結び罷在候(まかりありそうろう)ニ任(まか)せ ( 中略 )

和蘭陀船
(おらんだせん)を妨候(さまたげそうろう)ため渡来仕候趣(とらいつかまつりそうろうおもむき)ニ偽(いつわり)り乗渡候(のりわたりそうろう)  ( 中略 )

オロシヤ人、ゑけれす舟を以
(もって)御當地之様子(ごとうちのようす)を窺(うかが)ひ、其後(そのご)押寄可申(おしよせもうすべし)と相謀(あいはかり)、此節(このせつ)乗渡候儀(のりわたりそうろうぎ)にて有御座間敷哉(ござあるまじきや)(2)

去年以来、日本北方の土地にロシア人が来航しては乱暴を働くという事情もあり・・・ロシア船が長崎に来航すれば必ずや日本の報復を受けるだろう。そこでロシア・イギリスは以前から同盟を結んでいたので・・・イギリスは、オランダ船の妨害が目的だと偽って来航した・・・(実際は)ロシアがイギリス船に長崎の様子を偵察させ、その後侵略しよう計画したのだ。これがフェートン号来航の真意ではあるまいか)


 「へんてりき・どうふ」によると、フェートン号はオランダ船の妨害を目的に、突然来航したのではない。これはカモフラージュであって、真の目的は日本領土の侵略をもくろむロシアの手先となって、長崎偵察をおこなうことにあった、というのだ。

 しかし、これは嘘の上申だった。

 なるほど、1801年以降、ロシアとはイギリスが同盟関係にあったのは事実だ。しかし1807年、フランスとの戦争に敗北したロシアは、フランスと和睦(わぼく)後、イギリスに対し宣戦布告している。したがって、フェートン号事件がおきた1808年の時点で、ロシアがイギリスと同盟していたというのは誤りだ。ましてや、ロシアの日本領土侵略にイギリスが加担しているなどとは、とんでもない言いがかりだった
(3)

 フェートン号の来航目的は、まさしく出島のオランダ船の略奪にあった。しかし、事件の真相(オランダ人がいることが原因でフェートン号事件という面倒が起こった)が日本側に知れるとオランダの評判が落ちるかも知れない。それを恐れて、「へんてりき・どうふ」は上述のような嘘をついたのだ。

 なお、「へんてりき・どうふ」はオランダ商館長ヘンドリック=ドゥーフ(1777~1835)のこと。日本人通詞らとともに、ハルマの蘭仏辞書から蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ(長崎ハルマ)』を編纂したことで知られる。


【注】
(1)1804(文化元)年、長崎にロシア使節レザノフが来航するが、幕府が通商要求を拒否したため、報復に北方で乱暴を働いた。以後、ロシアとのトラブルが続く。ちなみに、フェートン号事件の前年(1807、文化4)にも、次のようなロシア船による事件が北方で多発し、幕府はその対応に追われた。
 4月 ロシア船、カラフト・エトロフ島に来航して会所を襲う。
 5月 ロシア船、利尻島に侵入し、幕府の船を焼く。
 6月 ロシア人、連行の番人を通して通商を要求、拒否の場合は攻撃を予告する。
 12月 幕府、ロシア船打払いを命ずる。
(2)へんてりき・どうふ撰、石橋助左衛門ほか訳、大槻磐水写「当地在番和蘭人加比丹より御奉行曲渕甲斐守様江御内密申上候写」文化5年成立の写、早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫08 A0229
(3)松方冬子『オランダ風説書』2010年、中央公論新社(中公新書)、P.133~134

2021年2月2日(火)
フェートン号事件(2)-やっぱり牛肉が食べたかった?-

 山羊(やぎ)肉は臭くて口に合わなかったのだろう。イギリス人はやはり牛肉が食べたかったのだ。

 それはフェートン号の航海日誌に、地元民からの牛の入手を、わざわざ誇らしく記録していることからもわかる。


「フェートン号は此処
(ここ。長崎)に入港した最初の英国艦であり、更(さら)に住民から食用牛を得た最初のヨーロッパ船である。毎年此処で貿易に従事するオランダ船は食料として山羊(やぎ)を貰(もら)うことを余儀なくされている。というのは、住民の牛馬を常に労役に使用して、決して屠殺(とさつ)させないし、また牛肉を喰わないから。    海軍大尉、シー・ビー・ストックデール」(1)


 江戸前期、九州地方の宗門人別帳には、牛馬の戸籍が併記されていた。これを「人畜改帳(じんちくあらためちょう)」という
(2)。為政者が農村労働力の実態把握のために作成させたものだが、牛馬はあくまで役畜であって食用に供するものではなかった。

 もともとわが国には、家畜を肉食する習慣がなかった。食用対象となったのは雁鴨類や猪・鹿などの野生鳥獣であり、牛馬のような役畜ではなかった。また獣肉に、ぼたん(猪)・もみじ(鹿)・さくら(馬)などの隠語があるのも、通常肉食は避けるべきものだったから。これらを食べるのは滋養をつけるための薬食(くすりぐ)い等に限られていた。

 そんな当時のわが国で、フェートン号はどうやって「住民から食用牛を得た最初のヨーロッパ船」になったのだろうか。買ったのか、貰ったのか、奪ったのか。

 フェートン号事件以降、日本近海にはイギリス船が出没するようになった。1824(文政7)年にはイギリス捕鯨船員が宝島(トカラ列島の一つ。現、鹿児島県)に上陸し、牛を略奪しようとして死傷者を出す騒動となった(宝島事件)。この事件が一つの要因となり、翌年(1825年)幕府は異国船打払令を発することになる。

 もしもこの時、牛肉を食べたいという欲求にイギリス船員が負けなければ、異国船打払令は発令されなかったかも知れない。


【注】
(1)片桐一男「フェートン号事件が蘭船の長崎入港手続に及ぼしたる影響」1967年、『法政史学』19巻、P.93(http://doi.org/10.15002/00011775)。この記述は、1808年10月4日(文政5年8月15日)の航海記録のあとに挿入された「長崎(日本)滞在中の見聞」という文章中にあり、同論文ではその全文を紹介してある。
(2)たとえば細川氏は、小倉藩・肥後藩を領していた時代に「人畜改帳」の作成を支配地に命じた。それらは現在、東大史料編纂所編『肥後藩人畜改帳』(全5巻、1955年、東大出版会)、同『小倉藩人畜改帳』(全5巻、1956~1958年、東大出版会)となって刊行されている。

2021年2月1日(月)
フェートン号事件(1)-そのあらまし-

 ナポレオン戦争によって、オランダ本国がフランスに併合された。フランスに敵対するイギリスは、ここぞとばかりに商売がたきオランダの東南アジアの植民地を侵略。さらには出島のオランダ船を捕獲するため1808(文政5)年、軍艦で長崎に来襲。オランダ商館員2名を拘束するものの、肝心のオランダ船が不在だったため、その目的を達することなく退去。この時、来襲したイギリス軍艦がフェートン号である。

 イギリス軍艦の乱暴狼藉に対し、長崎奉行松平康英(まつだいらやすひで)は直ちに戒厳を令し、長崎防備担当の肥前・筑前両藩には増兵を命令、九州諸藩には援兵を要請した。しかし、長崎警衛当番の肥前藩は、太平の世に馴れて密かに守備兵の人数を削減。そのため今回の非常時に役に立たず、その上九州諸藩からの援兵も来なかった。

 フェートン号は長崎奉行に、長崎から退去するにあたり食料・薪水等の供給を要求した。そして、食料等の受け取り後にオランダ人を解放する、もし拒否すれば長崎港内の日本船・中国船を焼き払う、と脅迫してきた。しかし、兵力をもたない長崎奉行所は、彼らの要求に屈せざるを得なかった。

 こうして食料・薪水を積み込んだフェートン号は、長崎から悠々退去した。その夜、松平康英は引責自刃(いんせきじじん)。遺書には、長崎奉行の身分が低く、直属の兵をもたない苦衷が吐露されてあった。幕府は、長崎警衛の任を怠って密かにその兵員を減じた肥前藩を咎め、藩主を百日間の閉門に処した。

 これ以降、イギリス船が日本近海に出没するようになり、ついには異国船打払令(1825)の発令に至る。

2021年1月31日(日)
蘭山先生(3)-蘭山のようにはなれないな-
 蘭山の勉強法にはひとつ問題があった。書物を書き写すにしろ、山野を採薬のために歩き回るにしろ、講義のための事前準備をするにしろ、膨大な時間を費やすということだった。

 蘭山は「独学(どくがく)自(みずか)ラ本草名物ヲ講明(こうめい)スルヲ遂(と)グルヲ以(もっ)テ己(おのれ)ガ任(にん)」とした。ひとたび志を立てると「勉励(べんれい)非常(ひじょう)昼夜(ちゅうや)巻(かん)ヲ棄(す)テズ(片時も本を離さず勉強に励む)」という学究生活にはいる。自ら仕官の道を絶ち、生涯結婚しなかった。本草学をきわめるため、世事に煩わされる時間を極力排した。

 やがて本草学の大家となり、その名声は天下に聞こえた。蘭山71歳の時、医学館(江戸にあった幕府の漢方医学校)で講義するよう幕命が下った。しかしこの時とて、比叡山で採薬中だった蘭山は、町奉行からの伝達を、さも迷惑そうな様子で聞いていたという。

 やむなく学究生活の場を京都から江戸に移した蘭山。医学館の一隅に居を与えられた。

 本草学の質問に関しては懇切丁寧に答えた。しかし、平日は交友もなく、知り合いに会っても時候の挨拶(あいさつ)を交わすのみ。もともと無口な質(たち)だったが、無駄話で時間を奪われるのを嫌ったのだろう。講義がなければ六畳の座敷に独座し、読書と抄録(しょうろく。本の抜き書き)の日々を送った。

 蘭山がいつ食事しいつ寝るのか、門人で知る者は誰もいなかった。

 蘭山は部屋にこもり、食器と飯櫃(めしびつ)を持ち込んでおき、そこで三度の食事をとった。食事ごとに散蓮華(ちりれんげ。蓮華の花弁に似た陶器製の匙)で酒を三杯ずつ飲むのが楽しみだったという。毎日戌(いぬ。午後8時)に寝、丑(うし。午前2時)に起きた。起きている間はひたすら読書と抄録に励んだ。

 蘭山は、世事や生活常識に関する知識の方はさっぱりだった。

 蘭山が入浴した時のできごと。蘭山が風呂場に行ってからしばらく経つ。しかし、風呂場からは一向に物音すら聞こえない。蘭山の身に何かあったのか。怪しんだ門人が確かめに行った。「先生、どうしたのですか」と尋ねると、蘭山の答え「湯が熱くて入れないのだ」。水を汲み入れて湯の温度を下げればよいものを、熱湯が自然に冷めるのをただ黙然と待っていたのだ。

 蘭山先生のように、一つの道に邁進(まいしん)する姿は尊い。おおかたの凡人は、世事に煩わされて勉強や仕事がはかどらないし、また根気も続かない。それでも、今の凡庸な生活の方を幸せだと思ってしまうのは、われわれが根っからの凡人だからだろうか。


【参考】
・白井光太郎「小野蘭山先生ノ傳」1909年、『植物學雜誌』第269号
2021年1月30日(土)
蘭山先生(2)-その勉強スタイル-

 蘭山はいかにして博覧強記を手に入れたのか。これには、蘭山の勉強法が大きく関わっている。

 勉強の仕方がインプットばかりでなく、アウトプットに徹している。

 本草学に興味をもった蘭山は、本草学の書物を片っ端から全文を手書きで写し取り、また備忘のための抜き書きを作った。それは11歳の時の愛読書(陳扶揺『秘傳花鏡』)の書き写しからはじまって、死ぬまで変わらなかった。その中には全1,000巻に及ぶ『庶物類纂(しょぶつるいさん)』も含まれる。ところが勤務する医学館が火災に見舞われた際、蘭山が書写したこの叢書(そうしょ)もその大半が失われた。しかし蘭山は、焼失した分を再び手写ししたという。

 蘭山は、自分が勉強した内容は塾生に教えた。"To teach is to learn.(教えることは学ぶこと)"の実践だ。しかもその講義内容を著書にまとめるという形で、さらにアウトプットを強化した。最初は自分の学塾衆芳軒(しゅうほうけん)で、後には幕府官学医学館で講義した。

 蘭山の主著『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』は、明の李時珍(りじちん)が書いた『本草綱目』を下敷きにしておこなった講義録がもとになっている。蘭山の講義を門人たちが筆写・編集し、それに蘭山が筆を入れた。

 実地の勉強にも力を入れた。実物に接してこそ、書物の知識は本物になるのだ。

 蘭山は山野に植物採集に出かけては、持ち帰った植物を家園で培養した。そして開花・凋落の様子から花実葉茎根等の状態までつぶさに観察・研究し、実物の知識を養った。また、採薬(薬になる動・植・鉱物等の捜索)に諸国をめぐり、『常野採薬記』『甲駿豆相採薬記』『紀州採薬記』等を著した。

 こうした勉強スタイルが、小野蘭山の博覧強記と学問研究を支えたのだ。
 

2021年1月29日(金)
蘭山先生(1)-博覧強記の人

 小野蘭山(おのらんざん。1729~1810)は江戸時代の本草学者。京都の人。名を職博(もとひろ)、字(あざな)を以文、通称を喜内(記内)、号を蘭山といった。京都に生まれ、のち幕命により江戸へ下り、幕府の学校医学館で講義した。主著に江戸時代最大の博物誌『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』48巻がある。

 蘭山は「性強記ニシテ、一覧久シキヲ経ルモ忘レズ(記憶力にすぐれ、一目見ただけで長年経っても忘れなかった)」という博覧強記の人だった。たとえば、次のような逸話がある。

 ある日蘭山が、若年寄の堀田摂津守の屋敷に招かれた折りのこと。一つの花瓶があった。蘭山はしばらくそれを眺めてから、「これは梅の木ですね。きっと太宰府の梅でしょう」と言った。果たして蘭山の言った通りだった。どうして出所までわかったのか、と尋ねると蘭山の答え。


「予
(よ。私)、少年ノ時、太宰府ニ詣(もう)デシ事アリ。其時(そのとき)梅樹ノ枯レタルヲ伐木(ばつぼく)シテアリシガ、其木(そのき)ノ切口(きりくち)(および)紋理(もんり。すじ、木目)此品(このしな。花瓶に生けてある梅の木)ト能(よ)ク似タレバ必ズ是(これ)ナラント存ジ斯(か)ク申セシ。」(喜多村香城『五月雨草紙』)


 蘭山はこうした博覧強記ぶりと本草学の業績から、「日本のリンネ」(シーボルトの評)、「先生の本草の学に於(お)ける北斗以南一人のみ(本草学の第一人者の意)」(多紀元簡の評)などの賛辞を贈られたのだ。

2021年1月28日(木)
烏の遠島

 元禄期から正徳期頃の雑説を記載した『元正間記(げんしょうかんき)』。雑説だから、内容の信頼性は必ずしも高くはない。しかしその分、面白い話が満載されている。生類憐(しょうるいあわれ)みの令を発した5代将軍綱吉の次のエピソードもその一つ。


「其頃
(そのころ)又、江戸に烏(からす)を取る役人被仰付(おおせつけられ)、所々の広小路(ひろこうじ。幅の広い道)あるひハはきだめ(掃き溜め。塵やゴミの捨て場)(など)にからすが集(あつま)り居(おれ)ば大きなる網を張(はり)て烏を取(とり)、何羽(なんば)と言(いう)限りなく籠(かご)に入(いれ)、小石川にからす屋敷と申有(もうすあり)、彼(かの)屋敷に何羽となく溜置(ためおか)れ、八丈嶌(はちじょうじま)へ烏を渡されけり。これは将軍家(しょうぐんけ。綱吉のこと)、紅葉山(もみじやま)御参詣(ごさんけい)の砌(みぎり)、御頭へ烏が糞(ふん)を落(おと)し、御機嫌(ごきげん)を損じ、右之通被仰付(みぎのとおりおおせつけられ)、江戸中のからすを取て嶋へ被遣(つかわされ)けり。」

 
 5代将軍綱吉の時代、江戸に烏を捕獲する烏役人(からすやくにん)を置いた。広小路や掃き溜めに群集する烏を網を仕掛けて捕獲し、籠に入れては小石川にあった烏屋敷へ運び、ここにため置いた。烏を八丈島へ流すのだ。
 
 なぜ、こんなことをするのか。それは綱吉が紅葉山(江戸城本丸と西丸の間にあった小丘。家康はじめ歴代将軍をまつる御霊屋(おたまや)があり、家康忌日の四月十七日に毎年将軍が参詣した)に参詣した折り、たまたま烏が綱吉の頭に糞を落としたことがあった。そのことが綱吉の機嫌を損ね、烏の追放を命令したのだった。

 生類憐(しょうるいあわれ)みを奨励している手前、烏の殺処分をためらったのだろう。その結果、江戸中の烏が捕獲され、八丈島への島流しになった。大量の烏を押しつけられた八丈島は、さぞかし迷惑だったにちがいない。

 また、江戸中の烏を捕獲しても、すぐさま他所から新たな烏が入りこんでこよう。結局、烏の根絶やしなどできはしまいに。

 もしも、こんなばかげた話が事実だとしたら、烏のフン一つにフンガイして「江戸中の烏を捕まえて島流しにしろ」と命令した綱吉は、何ともおとなげのない将軍ということになろう。


【参考】
・『元正間記』巻之十三、「生類殺生禁制之事」(早稲田大学図書館蔵)

2021年1月27日(水)
『解体新書』の扉絵(2)-コンパス-

 小田野直武(おだのなおたけ。1749~1780)が『解体新書』の扉絵を、何を参考に描いたのだろう。

 それはスペイン人外科医ワルエンダの『人体解剖書』(1566年ラテン語版、1568年オランダ語版を出版)の扉絵だ。下絵をランベルト・ファン・ノルトが描き、銅版をピーター・ホイスが彫った。おそらく小田野直武は、1568年版のワルエンダの『人体解剖書』を参考に『解体新書』の扉絵を描いたと考えられている。

 ところで、『解体新書』扉絵の中央下には、コンパスが描かれている。

 なぜ、コンパスなのか。

 これは小田野直武の加筆ではなく、ワルエンダの『人体解剖書』の扉絵に元から描かれていたものだ。

 『人体解剖書』を出版したのはアントワープのプランタン印刷所(Officina Plantiniana)だ。クリストファー・プランタン(1520~1589)が1555年に開設した印刷所で、1557年から「黄金のコンパス(Guiden Passer)」と「精励と不断(Labore et Constantia)」のモットーを組み合わせた商標を使用し始めた。

 つまりコンパスは、プランタン印刷所が信用の証として自社製品に印刷したマークだったのだ。


【参考】
・印刷博物館ホームページ(展示・コレクションの解説にワルエンダ『人体解剖図詳解』を載せる)
・中西保仁「木製印刷機が語るもの」2016年、『日本印刷学会誌』第53巻第2号
・阿部邦子「小田野直武挿画『解体新書』附図元本調査-ワルエルダ『解剖書』」2020年、『国際教養大学アジア地域研究連携機構研究紀要』第11号

2021年1月26日(火)
『解体新書』の扉絵(1)-差し替えられた図版-
 杉田玄白(1733~1817)らが刊行した『解体新書』(1774年刊)は、ドイツ人クルムス原著『解剖図譜』のオランダ語訳、いわゆる「ターヘル・アナトミア」を漢文に翻訳したもの。何よりも人目を引くのは、小田野直武(おだのなおたけ。1749~1780)が描いた人体解剖図の精密さだ。

 解剖図は「ターヘル・アナトミア」からほぼ転用されている。しかし扉絵は原著のものではない。原著の扉絵には、解剖台上に横たわる女性の死体を左手で示し右手にメスを持つ女性と、カーテンをたくしあげる人物とが描かれている。

 これに対し『解体新書』の扉絵は、相互に向き合って立つ裸体男女の図となっている。男は右手に果実を持ち、左手で陰部を隠している。これは創世記(旧約聖書)に出てくるアダムとイヴに違いない。よりにもよって、キリスト教神話を彷彿させる図柄に差し替えているのだ。

 当時の日本は男性優位の社会だった。女性の死体を女性医師が解剖するという図柄に対し、社会通念上の非難を危惧して、他の図柄へ変更されたのかも知れない。しかし、キリスト教厳禁の江戸時代に、アダムとイヴの図版に差し替えたのは大失敗だった。

 ところが不思議なことに、『解体新書』は幕府や宮中にも献納されたのにもかかわらず、禁教に関わる問題は起きなかった。それはなぜか。

 『解体新書』が刊行された当時は、いわゆる「鎖国」の完成から100年以上も経過していた。キリスト教が厳禁とされていた社会では、潜伏キリシタンの人びとならいざ知らず、旧約聖書の中味を知る日本人はほとんどいなかったはずだ。

 もはやキリスト教の何たるかもわからなくなっていたため、玄白らも検閲した幕府役人もうっかり見過ごしてしまったのではなかろうか。
 
2021年1月25日(月)
明日は文化財保護デー

 1949(昭和24)年1月26日未明、法隆寺金堂が突然炎上し、金堂を飾る壁画の大半が焼損した。その悲報は世界に衝撃を与えた。何しろハギヤソフィヤ聖堂(トルコ)やシスティナ礼拝堂(バチカン)に匹敵するとされた世界的価値が焼損したのだ。

 ただ1945(昭和20)年に金堂上部が解体され、飛天の小壁画は取り外されていた。また解体に先立ち、釈迦三尊像などの諸像は他所に移されていた。これらだけでも難を免れたのは、不幸中の幸いだった。

 1940(昭和15)年から金堂壁画の模写作業が進行中だった。出火の原因・時刻ともに不明だが、冬季の模写作業で暖をとるために使用された電気座布団がその原因ではないかといわれる。

 出火当日の佐伯良謙管主の日記には次のようにある。


早朝六時 分頃修理工事々務所の「サイレン」鳴る 普通の鳴らし方にも非常警報の鳴らし方にも非
(あら)ず 然(しか)る処(ところ)金堂出火の報あり 貫首(かんしゅ)以下一同打驚き遽(あわただ)しく伽藍(がらん)に走り到る 此時(このとき)火は炎々として屋上に吐き出あり 消防隊は当地及隣村より続々駆け着けて ホースを取付けつゝありたり 貫首は直に金堂内陣に飛び込まなんとせしも衆人大(おおい)に危険なるを見て 「あぶない」と叫び皆々抱きかゝへて階段下に連れ下ろしたり ( 中略 ) 堂内の火は少々下火となれるを以(もっ)て 貫首は再度入堂を決心し 外陣迄(まで)入りたるも 内陣皆一面の水に満され入る能(あた)はず 断念出堂したり ( 後略 )(注)


 金堂炎上の翌年(1950年)、文化財保護法が制定された。法隆寺金堂壁画という貴重な文化財焼損への悔恨・反省から、現在1月26日は文化財保護デーになっている。


【注】
・日記の引用は、高田良信『「法隆寺日記」をひらく-廃仏毀釈から100年-』1986年、日本放送協会(NHKブックス)、P.170、172による。

2021年1月24日(日)
連想ゲーム(京都→嵐山→桂川)

 平戸藩松浦侯の侍医判田李庵(はんだりあん。1633~1693)は長崎に赴き、出島のオランダ商館医師ヘルマヌル・カッツ、ダニエル・ブッシュ、ヘルマヌス・フィッセルについて西洋医学を学んだ(注)。この時、西洋医学の習得を証明する蘭文医学修業証書(1665年1月21日付け)を授けられた。これは、わが国現存最古の欧文医学修業証書である。

 その後、京都滞在中に宮中の人々の病気を治して法橋(ほっきょう)に叙せられ、嵐山姓を賜って嵐山甫安庵(あらしやまほあん)と名乗った。著書に『蕃国治方類聚(ばんこくちほうるいじゅう)』がある。

 嵐山甫安の門人から、桂川甫筑(かつらがわほちく。1661~1747)が出た。甫筑は森島姓だったが、師嵐山甫安の流れを汲むことを表すため、桂川姓に改めた。桂川は嵐山を流れる川だからである。

 桂川甫筑の子孫に桂川甫周(かつらがわほしゅう。1751~1809)がいる。杉田玄白・前野良沢らとともに『解体新書』翻訳事業に参加。また漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)からの聞き書き『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』を著したことでも知られる。

 甫周の弟が蘭学者・戯作者の森島中陵(もりしまちゅうりょう。1756?~1810)。弟は旧姓を名乗ったのだ。


【注】
・『蕃国治方類聚』(慶応大学本・京都大学本)序文による。書名に『蕃国治方類聚 的傳』とある場合、「的傳」は直伝の意。

2021年1月23日(土)
芝蘭堂の門人名簿(2)-門人の出身地-

 芝蘭堂の門人名簿には、門人94名の姓名を載せる。その大部分の者についてはその出身地がわかる。

 律儀だった玄沢は、一度他の塾に入門したことがある門人には、前師にはばかって門人帳には署名させなかったという。ゆえに実際には、これより多くの門人が芝蘭堂に学んだはずだ。しかし、門人名簿でその出身地域を概観することはできる。

 今、片桐一男氏が作成した「蘭学塾生徒の地域的分布表」
(1)から芝蘭堂の地域別門人数を抜き出し、その出身39カ国を地方別にまとめたのが次だ(数値は表によった。合計数は94にならない)。


  ・近畿10(山城2、大和1、摂津1、近江2、紀伊1、丹波1、丹後1,播磨1)
  ・中国15(備前2、備中1、因幡3、出雲1、安芸4、長門4)
  ・四国 7(阿波3、伊予3、土佐1)
  ・九州 3(豊後1、豊前1、筑前1)
  ・北陸12(越前1、加賀1、能登1、越中1、越後8)
  ・中部 3(信濃1、駿河2)
  ・関東16(武蔵5、下総2、上野1、下野1、常陸7)
  ・東北24(岩城4、岩代1、陸前10、陸中2、羽前4、羽後1、陸奥2)

  ・不明 3


 地方別では東北地方が一番多く、しかも陸前の10人が群を抜いている。これは大槻玄沢が一関(いちのせき。岩手県)出身だからだろう。ついで芝蘭堂(江戸)の地元である関東地方、中国地方、北陸地方の順に多い。

 注目すべきは、四国・九州地方など、かなり遠方からも門人が参集していることだ。諸藩の江戸屋敷を通じて芝蘭堂の評判が地方に伝わり、また玄沢自身の著作を通じてその名が知られていたからだろう
(2)

 しかし何よりも、蘭学へのあこがれとこれを学びたいという強い情熱が彼らを江戸へと向かわせ、千里の道を遠しとさせなかったに違いない。


【注】
(1)片桐一男「蘭学者の地域的・階層的研究:門人録の分析を繞って」1960年、『法政史学』13巻、P.71。同表は芝蘭堂・小森塾・象先堂・適塾の四塾の門人数を出身地別に一覧にしたもの。
(2)たとえば『蘭学事始』には、大槻玄沢の著書『蘭学階梯』(1788年刊)について次のような記載がある。
「この書(『蘭学階梯』)出でし後、世の志あるもの、これを見て新たに憤ひ(「りっしんべんに非」。発奮)し、志を興せしもまた少なからず」(杉田玄白著・緒方富雄校註『蘭学事始』1959年、岩波書店(岩波文庫)、P.48)
「因州侯(いんしゅうこう)の醫師(いし)稲村三伯(いなむらさんぱく)といふ男あり。その國に在りて蘭學楷(本ノママ)梯を見て憤發(ふんぱつ。発奮)して江戸へ下り、玄澤(げんたく)の門を扣(たた)き、この業を學び、後にかのハルマといふ人著せる言辭(げんじ)の書を石井恒右衛門(いしいつねえもん。儒医馬田清吉)に依(よ)りて譯(やく)を受け、十三巻といふ和語解譯の書(蘭和辞書『ハルマ和解』)を編せり。」(同書、P.52)

2021年1月22日(金)
芝蘭堂の門人名簿(1)-血判-

 芝蘭堂の門人名簿(巻子本、1巻)は、早稲田大学図書館(洋学文庫)のホームページから「載書:磐水門人姓名簿」で検索できる。磐水(ばんすい)は大槻玄沢(おおつきげんたく。1757~1827)の号。1789(寛政元)年から1826(文政9)年までの38年間、94名の姓名を載せる。

 載書(さいしょ)は、誓約の内容を書いた書類のこと。盟書(めいしょ)ともいう。中国では春秋戦国時代、諸侯間で盟約を結ぶ際には牛を殺して耳を切り、その血をすすって誓いを立てた。この時につくる盟約書を載書といい、犠牲の血とともに地中に埋めたという(1)

 芝蘭堂の門人名簿は「載書」であるから、門人たちの血判が押してある。玄沢による巻頭文には次のようにある(原漢文)。


「乃
(すなわち)自らその歳月日時及びその名姓・花押(かおう)をその下に記し、指を刺し血を滴(したた)らせその花押の上に印せよ。これを神文、一(いつ)に誓紙と謂(い)ふ。その師宗を敬い、その法術を尊び、約(やく)に背(そむ)かざるを示す所以(ゆえん)なり。」
(入門者は門人名簿に、自筆で入門年月日および姓名・花押(サイン)を書き、自分の指を刺して血を滴らせ花押の上に血判せよ。これを神文または誓紙というのは、師宗・法術への尊敬し誓約に背かぬことを示すからだ。)


 なぜ、血判を押すのか。

 ふつう入門する際には身元保証人が必要だった(地方の入門希望者が最初に苦労するのは、この身元保証人の確保と入門時に納める束脩(そくしゅう。入学金)の準備だったという)。入門するにあたり、学則を守って不始末をしでかさないことを身元保証人が請け負った。つまり、自分を証明するのに、保証人という他人に頼らねばならなかった。

 赤城昭夫氏は、血判の意味を次のように述べている。


「どちらかといえばまだ門人たちはひそやかな私的技術者集団の名残りをとどめ、私的な術の秘密を守ることを誓って門人本人が血判を押した。自分で自分を証明し、いわば自分が自分の主人であった」
(2)


 芝蘭堂が入門の際に血判を求めたのは、入門者自身に自分を証明することを求めたのだ。


【注】
(1)『世界大百科事典(第2版)』(平凡社)の「会盟」の項
(2)赤城昭夫『蘭学の時代』1980年、中央公論社(中公新書)、P.22

2021年1月21日(木)
皇服茶(おうぶくちゃ)
 北村季吟の俳諧歳時記『山之井(やまのい)』の春の部に、次の句がある。


「  四十二のとし
 守りたまへことしはやくし十二神
 おほぶくをわかすや富貴
(ふっき)じざい釜(がま)(1)


 「四十二のとし」は42歳で男の大厄(おおやく)。厄年は元日から始まる。それなら厄除けも初詣とともに、さっさと済ませてしまおう。それで、厄除けが新年の季語なのだ。

 最初の句「守りたまへ ことしはやくし十二神」。これには次の二つの意味が掛けてある。

  守りたまへ 今年は厄
(やく) 四十二(しじゅうに) 神
  
(守り給え。今年は厄年の四十二歳だから)
  守りたまへ 今年は薬師十二神
  
(守り給え。今年は薬師十二神将に無病息災を願おう)

 次の句「おほぶくをわかすや富貴(ふっき)じざい釜(がま)」。京都・関西では元日に汲んだ若水(わかみず)を沸かしてお茶をいれ、これを「福茶(ふくちゃ)」と称して飲み、無病息災を祈願する習慣がある。これは六波羅蜜寺の「皇服茶(おうぶくちゃ)」が起源という。

 村上天皇が病悩された折り、十一面観音の霊夢によって空也上人が茶を献じたところ、たちどころに平癒した。以来、六波羅蜜寺の茶を元旦に貢進することになったという。

 皇服茶(おうぶくちゃ)は大福茶とも書く。だから、「大福」「富貴」と正月らしいめでたい言葉を連ね、これに茶釜と自在がまを掛けて「大福茶を沸かす釜だから富貴も自由自在」としたのだ。

 ところで、皇服茶・王服茶・大福茶というのはすべてが当て字。おそらく皇服茶という字面(じづら)に引きずられて、前記の村上天皇の起源伝承がつくられたのだろう。原義は御仏供茶(おぶくちゃ。仏前に供えた茶)で、その残りの茶をみなで飲み合ったのだろう。

 群馬県の茂林寺(もりんじ)には分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)の伝承がある。村井康彦氏によれば、その起源も御仏供茶にあり、分福茶釜は「分(ぶん)・仏供茶(ぶくちゃ)・釜」でなかったか。そして、「お湯が汲めども尽きなかった」という伝承は、それが施茶用の千服茶釜でもあったことを暗示すると推測している
(2)


【注】
(1)北村季吟『山之井』慶安元(1648)年刊(早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫31A0017)
(2)村井康彦『茶の文化史』1979年、岩波書店(岩波新書)、P.55~56
2021年1月20日(水)
おねだり禁止

 「組合村六カ村談合掟(くみあいむらろっかそんだんごうおきて)」は下総国匝瑳郡(しもふさのくにそうさぐん。現、千葉県匝瑳市)にあった六カ村(高村、谷中村、蕪里村、高野村、横須賀村、下富谷)が宝暦11(1761)年、幕府法令順守と各村・組合村間の費用分担を取り決めた文書だ(なお、史料は漢字を現行のものに改め、適宜句読点等を付してある)。


「一、御免勧化(ごめんかんげ)ハ勿論、先達て御触
(おふれ)も無之(これなく)、何様之御免(なにさまのごめん)又ハ相対(あいたい。当事者間で、の意)御免勧化等之儀、随分(ずいぶん)於其所ニ(そのところにおいて)相糾(あいただし)引請(ひきうけ)、次村へ人夫差添可申候(にんぷさしそえもうすべくそうろう)( 中略 )

 其外
(そのほか)浪人又ハねだりもの、一通(ひととおりニて不相済(あいすまず)、理(ことわり)(つよく)申募候(もうしつのりそうら)ハバ其所(そのところ)ニ止置(とめおき)、早々組合も立会(たちあい)、埒明可申候(らちあけもうすべくそうろう)。右、理不尽(りふじん)ニて及出訴(しゅっそにおよび)候ハバ其節(そのせつ)割合定(わりあいさだめ)
  其村   五分
  組合村々 五分」
(・・・そのほか浪人やねだり者が、一通りの物乞いでは済まず、極端に悪ねだりしてきた場合にはその場所に留め置き、急ぎ組合村の者たちもその場に立ち会い、かたをつけること。もし、理不尽な要求によって訴訟になった場合、その費用分担の申し合わせ。
  当事者の村の負担 50%
  組合村々の負担  50%)



 史料中の「御免勧化(ごめんかんげ)」は、公許を得て実施された寺院の寄付集めのこと。「○○様の御免勧化」「相対御免勧化」など、さまざまな名目で寄付行為が行われた。なかには失業武士(牢人または浪人と書く)や「ねだりもの」による寄付を「理強申募(ことわりつよくもうしつのる。強要する)」行為があった。

 「ねだりもの」は「悪(わる)ねだりをする者」の意。寄付を「理強申募(ことわりつよくもうしつのる)」行為を「悪ねだり」といった。志(こころざし)次第の貰い物では満足せず、さらなる金品の強要に及んだのだ。江戸時代には、宗教的・芸能的諸勧進者、非人、牢人らによるこうした「悪ねだり」が社会問題化していた。

 「ねだり」は漢字で書くと「強請」。「悪ねだり」は今でいうゆすりのことだ。

2021年1月19日(火)
フィルモアの国書の嘘(3)

 さて貯炭所といっても、日本で石炭を大量に産出するのは北海道、本州の常磐(じょうばん)地方、そして九州くらいだ。このうち、筑豊炭田などの内陸炭田は除かれる。なぜなら石炭は重くかさばり、その輸送が非常にやっかいだったからだ。

 イギリスの炭田は、古期造山帯に属するペニン山脈周辺の内陸部に多く分布する。イギリスではこの石炭を工場や港へ輸送するのに、蒸気機関車(鉄道)を使うことを思いついた。

 しかし鉄道敷設には莫大な費用と長い工事期間が必要であり、当時の日本には、内陸炭田の石炭を沿岸部まで輸送する手段がなかった。そのため沿岸近くに炭田を抱える貿易港が求められた。

 こうした条件に適合するのは長崎だけだった。

 長崎なら、近くに周辺を海に囲まれた炭田(高島・端島など)があり、石炭をすぐさま海上輸送することができた。だから海運業者三菱は後年、現在の国家予算の1/10にも相当する100万円という巨額であったにもかかわらず、高島炭坑を買収したのだ。

 幕末の有力港、神戸・横浜両港も、貯炭所としての条件には合致しなかった。両港の発展要因は、長崎とは異なる経済的要因による。

 長崎から神戸・横浜には船で移動できる。神戸は京都・大坂を中心とした商圏に、横浜は江戸を中心とした商圏にそれぞれ近接している。だから、神戸は関西商圏、横浜は関東商圏への玄関口として、貿易でますます発展していくはずだ。

 そうするためには、それぞれの港とそれぞれの商圏の中心都市を鉄道で連結する必要がある。だから、わが国最初の鉄道は1872(明治5)年、横浜・東京(新橋)間に敷設されたのだ。

2021年1月18日(月)
フィルモアの国書の嘘(2)

 「アメリカ西海岸から蒸気船なら18日で日本まで到達できる」というフィルモアの国書には、もう一つ嘘がある。

 当時、アメリカの西部開拓はいまだ完了してはいなかった。フロンティア(辺境)が消滅したのが1890年代。西海岸の港の整備は、まだまだこれからだった。だからペリー艦隊は西海岸から出港したのではなく、東海岸のノーフォーク港から船出したのだった。

 ノーフォーク港を出発したペリー艦隊は大西洋を渡り、アフリカ南端を回る東方航路をたどって、アジアを目指した。東方航路をとれば、各所にイギリスのP&O社(ピーアンドオーしゃ。The Peninsular and Oriental Steam Navigation Co.の略。1837年設立の英国最大の海運会社)の石炭貯蔵所があった。それでも伊豆下田に入港するまでは、ほとんど海上を帆走した。

 それが下田にはいった途端、帆をたたんで蒸気機関を動かし始めた。巨大な「黒船」が黒煙を吐きつつ航行するというデモンストレーション(ペリーの旗艦サスケハナ号は外輪船)を江戸の人々に見せつけ、その度肝を抜くためだ。

 そして幕府へは実物の1/4サイズの蒸気機関車と1kmの線路、電信機等を贈り、欧米との科学技術の差を見せつけたのである。

2021年1月17日(日)
フィルモアの国書の嘘(1)

 1853年、ペリーがアメリカ大統領フィルモアの国書を携え、日本にやってきた。その国書の一節。


「アメリカ合衆國は、太洋より太洋に跨
(またが)り、又吾(わ)がオレゴン地方及びカリフオルニア州は、陛下の國土と正に相對(あいたい)して横たはる。吾が汽船は、十八日にしてカリフオルニアより日本に達することを得(う)。」(注)


 この国書には嘘がある。「アメリカ西海岸から蒸気船なら18日で日本に到達できる」と言っているにもかかわらず、アメリカを出発したペリー艦隊が日本に到着するまで、実際は半年もかかっているのだ。
 
 確かに、アメリカ西海岸から太平洋を突っ切れば、18日間で日本へ到達できるかもしれない。しかし、そのためには途中に何カ所か石炭と水の補給地を設けなければならない。

 蒸気船は石炭と真水を大量に消費する。石炭は産出地域が決まっており、どこでも手に入るわけではない。また、真水がわりに海水を使おうものなら、海水に含まれる不純物が蒸気機関の細い管をつまらせ、たちどころに爆発事故につながってしまう。

 ペリー艦隊は、太平洋上に石炭・水の補給拠点がなかったので、太平洋を横断できなかったのだ。だからといって、限られたスペースの船内にかさばる重い石炭や真水を大量に積みこみ、蒸気機関のみで大洋を航海するのは現実的ではない。当時は蒸気船といえども帆走を併用しなければ航海できなかった。したがって補給拠点を持たず、蒸気機関のみでの太平洋横断は、この時点では机上の空論に過ぎなかった。

 ペリーが日本にやってきた主要目的は、東洋貿易・捕鯨等に従事するアメリカ船のため、この石炭・水の補給所確保にあったのだ。 

【注】

・ペリー著、土屋喬雄・玉城肇訳『日本遠征記(二)』1948年、岩波書店(岩波文庫)、P.240

2021年1月16日(土)
不学なれど奇才あり(橋本宗吉のこと)

 『蘭学事始』は、『解体新書』を世に出した一人、杉田玄白(1733~1817)の思い出話を綴った小冊子だ。1815(文化12)年、玄白83歳のとき一応書き終わり、大槻玄沢が補筆して翌1816年に完成した。玄白は1817(文化14)年に85歳で亡くなるから、まさに晩年の書と言ってよい。

 『蘭学事始』は『ターヘル=アナトミア』訳出に関しての苦労話ばかりが有名だが、この本には多くの蘭学者の名前が登場する。その一人一人に関する話題が簡明な小文で紹介され、一種の「蘭学者列伝」となっている。

 『蘭学事始』を久しぶりに読み返して気づいたことがある。

 それはこの時代、才能ある者・努力する者を世の中に埋没させてはならないという世間の空気があったことだ。橋本宗吉(1763~1836)を例に説明しよう。

 橋本宗吉はもともと大坂の傘(かさ)職人。無学だが、生まれつきすぐれた才能があった。そう見こんだのが大坂の豪商たち。豪商らは彼の支援を決め、江戸の大槻玄沢(芝蘭堂)に入門させる。

「逸材を埋もれさせて世の中の損失になる。大坂の将来のため、この男に投資しよう」と踏んだのだろう。大坂商人の心意気を感じる。彼らの期待通り、宗吉は帰坂後蘭方医となって多くの患者を診察し、また蘭学塾(絲漢堂)を開いて大坂蘭学の開祖となった。

 ちなみに『蘭学者相撲見立番付』(1798年。早稲田大学図書館蔵)によると、宗吉は西方の三役の一人、小結の位置を占めるまでになっている(「あれやこれや2021」1月14日を参照)。


【参考】
 『蘭学事始』の橋本宗吉に関する記述は以下の通り。 

「一、大坂に橋本宗吉といふ男あり。傘屋の紋かくことを業として老親を養ひ、世を営めりと。不學なれど、生来奇才あるものゆゑ、土地の豪商ども見立てて力を加へ、江戸へ下して玄澤
(げんたく。大槻玄沢)が門に入れたり。僅(わず)かの逗留(とうりゅう)の間出精(しゅっせい)し、その大體(だいたい)を學び、帰坂(きはん。大坂に帰る)の後も自ら勉めてその業大いに進み、後は醫師(いし)となりて益々(ますます)この業を唱へ、従遊(しょうゆう。縦遊。各地を自由にめぐる)の人も多く、漸(ようや)く譯書(やくしょ。蘭書の翻訳)をもなし、五畿(ごき。関西圏)、七道(しちどう。五畿以外の地域)、山陽、南海諸道の人を誘導し、今に於(お)けるいよいよ盛んなりと聞けり。江戸へ来(きた)りしは寛政の初年のことなり。帰坂の最初、右の元俊(げんしゅん。小石元俊。医師)も、かれが志を助けてその業を勵(はげ)ましめしとなり。」(杉田玄白著・緒方富雄校注『蘭学事始』1959年、岩波書店(岩波文庫)、P.50)

(一、大坂に橋本宗吉という男がいる。傘屋で紋を描くことを生業とし老親を養い、世を送っていた。無学だが生まれつき才能ある者なので、大坂の豪商たちは宗吉を選んで支援し、江戸へ行かせて大槻玄沢の芝蘭堂に入門させた。わずかな滞在期間だったが精力的に勉強し、蘭学の基礎を学んだ。大坂に帰ってからも努力を怠らなかったので、学業は大いに進んだ。のち医者になって、ますます蘭学に邁進した。各地から訪ねてくる人も多く、次第に蘭書の翻訳もするようになった。全国、とりわけ山陽・南海地方の人々を蘭学に導き、現在ますます隆盛していると聞く。江戸に来たのは寛政の初年(実際は寛政2年)のこと。帰坂した当初、小石元俊も宗吉の蘭学に対する志を支援して、その仕事を助けたとのことだ。)

2021年1月15日(金)
蘭学花相撲(2)

 星野良悦(1756~1802)は安芸国(現広島県)の町医者。わが国で初めて等身大の木製人体骨格模型を制作した。これを「星野木骨(ほしのもっこつ)」または「身幹儀(しんかんぎ。大槻玄沢の命名)」という。

 木骨(もっこつ。木製人体骨格模型)に人名を冠するのは、その後大坂の各務文献(かがみぶんけん)や尾張の奥田万里(おくだばんり。各務文献の弟子)も木骨を制作したからだ。それぞれを「星野木骨(男性骨格模型)」「各務木骨(男性骨格模型。現在、欠損が多い)」「奥田木骨(女性骨格模型)」という。

 さて、良悦の住む広島では顎関節脱臼(がくかんせつだっきゅう)の整復法は秘伝とされ、整復法を知らない良悦は患者を治せなかったという。それなら自ら真骨(しんこつ)を研究して、治療技法を探るしかない。そう考えていたところ、たまたま薬草採取の折り、野ざらしになっていた人間の頭蓋骨(ずがいこつ)を発見した。これを持ち帰って骨の構造を調べ、顎関節脱臼の治療法を研究。これを患者に試したところ、みごと整復に成功した。この経験から良悦は、人体骨格の形状・仕組み等を詳しく知ることが医者にとって重要だと痛感した。

 そこで良悦は藩に何度もかけあい、やっと2体の刑死体を手に入れることに成功した。

 1体は他の医者とともに腑分け(解剖)した。『解体新書』とつきあわせて確認し、同書の正確さに感銘を受けたという。

 もう1体は骨格模型を作るために不要な部分を除去し、骨の部分だけを残した。そしてこれを手本に細工職人を指導し、約300日かけて桐製の人体骨格模型を完成させた。この模型は、他の医者とともに研究・教育に活用された。

 寛政10(1798)年秋、良悦は木骨を江戸に持参した。木骨を見た杉田玄白・大槻玄沢らはその精巧さに舌を巻いた。急遽(きゅうきょ)出版した『解体新書』には誤謬(ごびゅう)や不備の箇所が目立ち、頭蓋に関しても記載・図ともに不十分だった。玄白から命じられて『解体新書』改訂の任にあたった玄沢は、頭蓋部分については星野木骨を参照したという。

 良悦が江戸に赴いた寛政10年、芝蘭堂では新元会が開催され、良悦もこの会への参加をうながされた。「蘭学者相撲見立番付」における良悦への賛辞は、「星野木骨」という精妙な模型制作に対する評価だった。したがって「蘭学者相撲見立番付」で東の張り出し星野良悦を評して「当角力(すもう)の」といったのは、物事の中心を意味する「骨」と人体骨格模型の「木骨」をかけた表現だったのだ。

 帰郷後、良悦は2体目の木骨を作って幕府に献上し、30両の賞金を下賜された。ただし、この2体目の木骨は、現在失われたとされる。

 「星野木骨」は現在広島大学医学部医学資料館が所蔵。江戸時代に作られた木骨で現存するものはわずかに4例(星野1、各務1、奥田2)。なかでも「星野木骨」のもつ意義は、わが国最初の人体骨格模型というばかりではない。江戸時代において、学術的に見てもこれほど高水準のものを作り、しかもその実物がほぼ完形のまま現在にまで残った。戦時中、たまたま疎開させていなかったら、原爆投下で焼失してはずのものなのだ。それゆえ平成14(2002)年、「星野木骨」は国の重要文化財に指定されたのである。


【参考】
・片岡勝子「星野木骨(身幹儀)-江戸時代に制作された最初の等身大人体骨格模型-」2016年、『日本医史学雑誌』第62巻第2号、P.123~126
・星野良悦・大槻玄沢『身幹儀説(写)』京都大学所蔵
https://rmda.kuilib.kyoto-u.ac.jp./item/rb00003405

2021年1月14日(木)
蘭学花相撲(1)

 寛政10年戊午歳(ぼごのとし)11月26日は西暦1799年の元旦に当たるという。この日、大坂の蘭学塾芝蘭堂(しらんどう)に蘭学者仲間が集い、「新元会(オランダ正月)」と称して太陽暦の新年会を祝った。

 余興として「蘭学者相撲見立番付(らんがくしゃすもうみたてばんづけ)」がつくられた
(1)。相撲番付に見立てた蘭学者のランキング表だ。


「芝蘭堂社中
(しらんどうしゃちゅう)会集(かいしゅうし)、蘭学花相撲(らんがくはなずもう)取合興行仕候(とりあいこうぎょうつかまつりそうろう)」


 花相撲は臨時に興行する相撲のことで、木戸銭(入場料)をとらずに客の花(祝儀)だけで運営されたの意。あくまで余興のお遊び(花相撲)だ。公的な評価(本場所)ではない。とはいえ、当時の芝蘭堂関係者による仲間内の評判がある程度わかり、興味をそそられる。

 この番付を見ると、当時と現代とでは蘭学者に対する評価がかなりちがう。

 たとえば三役を見ると、東方(ひがしかた)は大関に宇田川玄真(うだがわげんしん。美作)、関脇に稲村三伯(いなむらさんぱく。因幡)、小結に石川玄徳(いしかわげんとく。江戸)の名があがる。一方の西方(にしかた)は大関に石井庄助(いしいしょうすけ。奥州白河)、関脇に山村才助(やまむらさいすけ。常陸土浦)、小結に橋本宗吉(はしもとそうきち。大坂)の名があがる。このうち、現行の高校日本史教科書に載っているのは、蘭和辞書『ハルマ和解(わげ)』を編纂した稲村三伯(1758~1811)くらいだろう。

 しかるにこの番付では、東西に張り出されているふたりの名前が目立っている。

 ひとりが星野良悦(ほしのりょうえつ)。東方の張り出しに「当角力(すもう)の骨(ほね)、古今の大当り、芸州(安芸国)大力士、星野良悦」とある。もうひとりが楢林重兵衛(ならばやしじゅうべえ)。西方の張り出しに「当時在府(在江戸)ニ付スケ(応援)、本家長崎、楢林重兵衛」とある。

 西方の楢林重兵衛は長崎のオランダ通詞。その経歴は『阿蘭陀通詞由緒書(おらんだつうじゆいしょがき)』によって知ることができる
(2)

 一方、東方の星野良悦は「当相撲の中心で、今までにない大当たり。安芸(現、広島県)出身の大力士」とまで激賞されている。しかしながら、現代の高校生で「星野良悦」の名前を知る者はほぼいまい。

 なぜ星野良悦は、これほどまでに高評価を得たのだろうか。


【注】
(1)松平斉民収集『芸海余波・第10集』所収(早稲田大学図書館蔵、請求記号:イ05 01646)
(2)『阿蘭陀通詞由緒書(写)』1881年(早稲田大学図書館蔵、請求記号:ヌ04 04621)

2021年1月13日(水)
江戸時代の人頭解剖模型

 寛政6(1794)年4月、幕府医官桂川甫周(1751~1809。名は国瑞(くにあきら))の発議により、幕府に願い出て日本人医師たちが直接オランダ人から話を聞く機会を得た。同年5月4日、長崎屋源右衛門の蘭人客館(通称「長崎屋」。日本橋本石町三丁目)に参集した7人の医師たちの名は次の通り。


  幕府官医:栗本瑞見、桂川甫周、桂川甫謙、渋江長伯
  随行者 :森嶋甫斉(森島中良。甫周の弟)、宇田川玄随、大槻玄沢



 これに長崎奉行の検使・下検使が列席し、通詞今村金兵エが通訳した。オランダ商館長ヘムミイ(42歳)、書記ラス(27歳)、ドイツ人医師ケルレル(32歳)に対して、日本人医師たちは医事をはじめとする諸事について、日頃の疑問点を質問した。

 甫周はこの時、蝋でできた人体解剖模型の頭部をヘムミイから見せられた。模型はフランス人女性が作ったものという。甫周はヘムミイからその模型を貰って帰った。その間の事情が、甫周の『蝋人解説(ろうじんかいせつ)』に書かれてある。なお、史料は漢文で書かれてある。誤釈をおそれず、適宜句読点や注を付して読み下した。


「此
(こ)の蝋人(ろうじん)、元(も)と拂郎察(フランス)國の婦人某(なにがしの手工(しゅこう)に出(い)づ。而(しか)して今茲(ことし)来貢(らいこう)せる和蘭(オランダ)舶司(カピタン)賢麋(ヘムミイ)が珍蔵(ちんぞう)する所(ところ)に係(かか)る。賢麋(ヘムミイ)、素(も)と予(よ。桂川甫周)の名を知る。其(その来(らい)に因(より)て諸(これ)を予に贈らんと欲す。全體(ぜんたい)の大なる、遠(とおく)して之(これ)を致(いた)すこと無きや、則(すなわ)ち持(もて)り其の首を齎(もたら)すのみ。」(1)
(この蝋人形は、元はフランス人女性の某が作り、今年来日したオランダ商館長ヘンミイが珍蔵するものだった。ヘムミイは私の名前を知って、私が訪問した際にこれを贈ろうと考えた。全身像は大きいため遠方からこれを持ってこなかったのか、持っているその首だけがもたらされた。)



 同様の記事は、大槻玄沢(1757~1827。仙台藩医。名茂質(しげかた)、号磐水(ばんすい))の対談記録『西客対話(せいかくたいわ。甲寅来貢西客対話(こういんらいこうせいかくたいわ))』にもある。玄沢らもこの人体模型に興味津々で、この模型は彼ら日本人医師たちにとって垂涎(すいぜん)の的だった。該当部分を次に掲げる。


「加比丹
(カピタン)もまた蝋をもて造(つく)るたる人首、側面を解(と)きかけたる者を出して桂公(桂川甫周)に贈る。皮を剥(はぎ)て筋脉(きんみゃく(あら)ハれ、其上(そのうえ耳下机里尓(キリイル)、唾管等をあらハす。形状・色澤(しきたく)、宛然(えんぜん。あたかも、まるでとして真(しん。実物)に逼(せま)る。其の諸筋の名号等、醫生ケルレル羅甸(ラテン)語にて暗記し、一々(いちいち)に指示す。頸(くび)の切口より氣管、食道及ひ大経二道見ゆ。側面の顔色、眼口半(なかハ開き、其死相の色澤冷然として人をして■(漢字は「目」に「橘」の右側)視せしむ。吾輩(わがはい。大槻玄沢)の如(ごと)き已(すで)に刑屍(けいし。処刑された死体)を割解(かつかい。解剖して、其(その)(しん)を覩(み)たる者ハ殊(こと)に益(ますます)感して已(やま)さるなり。奇巧精妙(きこうせいみょう、今に始(はじ)めぬ事なから、驚嘆するに堪(たえ)たり。拂郎察(フランス國都把里斯(パリス)と云(いう)所にて、婦人の造る所なりといふ。全身備(そなわ)り有(あり)と也。猶(なお)皆購(つごり求(もとめ)て見ん事を希(こいねが)ふ者なり。醫に志(こころざし)(あるもの此(この)物を見れハ、直(じか)に解剖せすして熟識(じゅくしき。よく知っていること)するに足れり。醫家講習の為(ため)に設けし者と見へたり。」(2)


 甫周の入手した蝋人形頭部は現在所在が不明。しかし、桂川家から個人の手に渡り、1889(明治22)年に東京大学医学部に寄贈された品々の中には、木製(日本産ヒノキ製)の人体解剖人形の頭部がある。この木製頭部は、甫周が蝋人形頭部を貰った同じ寛政6年に鈴木常八なる作者によって製作されたことがわかっている
(3)。実物の蝋人形頭部と比較できないため断定はできないが、この木製頭部はおそらくは、甫周が譲り受けた蝋人形をもとに模造されたものだろう。


【注】
(1)桂川甫周識『蝋人解説(写、自筆)』寛永6(1794)年(早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫08C0911)
(2)大槻玄沢録・槐園(宇田川玄随)写『西客対話(甲寅来貢西客対話)』書写年不明(早稲田大学図書館蔵、請求記号:文庫08B0002) 
(3)西川杏太郎・中里寿克「東大医学部蔵人頭模型の製作技法調査と修復処置」1977年、『保存科学No.16』P.48~49

【参考】
・山形敞一「大槻玄沢と『西賓対晤』」1983年、『日本医史学雑誌』第29巻4号

2021年1月12日(火)
二束三文

 極端な安値のことを「二束三文」という。しかし、『西鶴織留(さいかくおりどめ)』(1694)にも「奈良草履屋を二足三文に仕舞て」とあるように、本来は上方語に由来する言葉で、「二足三文」が正式な表記だった(1)

 二足は金剛草履を指した。金剛は「丈夫」の意。藺草(いぐさ)を用いて丈夫に編んだ実用的な草履をいう
(2)。江戸時代の4文がほぼ現代の100円に相当するから、二足で三文にしかならないなら捨て値同然といえる。

 この上方語の「二足三文」を、江戸語では「二束三文」と表記した。そのため、この漢字の「二束」という字面にわざわいされ、「二たばでわずか三文にしかならない意から」と語源を誤釈する辞典まで登場した
(3)

 誤釈と知らずに、日常で使用されている言葉はたくさんありそうだ。


【注】
(1)(3)杉本つとむ『江戸-東京語118話』1988年、早稲田大学出版部(早稲田選書)、P.210
(2)平凡社大百科事典第8巻、1985年、「草履」の項。

2021年1月11日(月)
鏡開き

 正月飾りの餅を鏡餅(かがみもち)・餅鏡(もちかがみ)などとよぶのは、平たく丸いその形状が古鏡に似るから。鏡餅を飾るのはもともとは宮中行事に由来。それがのちに武士や民間に広まった。

 年神(歳徳神)に供えた鏡餅を下げて食べることを鏡開きという。武士の家では、固くなった餅を小さく分ける際、刃物で「切る」のを不吉と嫌った。切腹が想起されたからだ。そこで、木槌などで叩いて餅を割り、これを「開く」といった。忌み言葉の「切る」を避け、末広がりを連想する表現に言い換えたのだ。

 戦国期以降の武家は、男子なら具足に鏡餅を供え(これを具足餅(ぐそくもち)という)、女子なら鏡台に鏡餅を供えた。鏡開きを男子は「刃・柄(はつか)」を祝う、女子は「初顔(はつがお)」を祝うと称した。この語呂合わせから、鏡開きは1月20日(はつか)に行った。

 ところが、慶安4(1651)年4月20日に3代将軍徳川家光が亡くなった。家光の忌日(きにち。命日)の20日を避けるため、年神が滞在する松の内(大正月。1月7日)を過ぎた1月11日(蔵開きの日に合わせたか。地方によっては小正月の15日に行うなど、実施日には異同がある)に鏡開きの日は移動したといわれる。


【参考】
・日本鏡餅協会ホームページ等を参照。

2021年1月10日(日)
梅の木学問

 梅は学問を好む木とされ「好文木(こうぶんぼく)」の異名がある。晋(しん)の武帝が学問に親しめば梅の花が開き、学問をやめると開かなかったという故事にちなむ。

 日本三名園の一つ偕楽園(かいらくえん。茨城県水戸市)は梅の名所。早春には、60種3000株の梅が咲き誇る(江戸時代後期に開園した当初は、150種10、000株植樹されていたという)。園内に建つ望楼(ぼうろう)好文亭(こうぶんてい)も、梅の異称「好文木」にちなんだ命名だ。

 しかし、学問好きな木とされてはいるものの、その短所を指摘する言い回しもある。それが「梅の木学問」だ。梅の木は成長は速いが大木にはならない。そこから、進み方は速いが、結局学問を大成できずに終わることを「梅の木学問」といった。

 これに対し、成長は遅いものの大木になるのが楠(くすのき)。そこで、進み方はゆっくりであっても、ついには学問を大成させることを「楠学問」という。

 ウサギとカメの童話があった。その植物版のような話だ。

2021年1月9日(土)
金運にあやかる

 正月のお節料理の一つ、黄金色に輝くきんとん。漢字では「金団(金の団子)」と書く。金銀財宝を連想させるひと品で、金運や商売繁盛を願った。

 一方中国では、お祝いに餃子を食べる。餃子の形は馬蹄銀(ばていぎん。かつて中国で巨額取引に用いた馬蹄形の銀塊)に由来。中国では餃子が金運の象徴なのだ。

 ちなみに、中国で餃子といえば水餃子(すいぎょうざ)。新婚夫婦に生煮えの水餃子を食べさせる習慣があったという。「餃子は煮えているか」と尋ねると、返事は「生です」。「生(なま)」も「生(う)まれる」も同じ「生」の字。こちらは金運ではなく、子宝を願った一種のまじないだ。

 さて、フランスにも金運と結びついた食べ物がある。フィナンシェは、証券取引所近くに店を構える菓子職人が考案した。もともとはスーツを着た男性客(場所柄、金融関係者が多かった)でも、服を汚さずに食べられるスリムな菓子として作られたという。しかしフィナンシェという名は「金融」「金持ち」を意味し、台形状の菓子は金の延べ棒にそっくり。たいへん縁起のよいお菓子なのだ。

2021年1月8日(金)
光秀は本能寺に行かなかった?

 2021年1月4日付けの朝日新聞が、本能寺の変(1582年)に関する史料を紹介していた。加賀藩の兵学者関谷政春(せきやまさはる)が書いた『乙夜之書物(いつやのかきもの)』上巻(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)で、本能寺の変から87年後(1669年)にまとめられた。記事の信頼性は高いという。

 明智光秀自身は本能寺(京都市中京区)へ赴かず、鳥羽(京都市南部で本能寺から約8km離れた地点)に控えていたと新事実が記されている。また、信長が白い帷子姿で自ら弓・鑓(やり)をとって戦う様子も記されており、興味深い。

 たまたま新聞と「朝日新聞デジタル(インターネット上の朝日新聞)」に史料の原文(一部)写真が紹介されていたので、読んでみた。読みやすくするため、適宜句読点・濁点等を入れ改行した。誤読があればご容赦を。



「… 指(さし)ムケ光秀ハ鳥羽(とば)ニヒカヱタリ。

一、明知弥平次
(あけちやへいじ。光秀の女婿明智秀満)・斎藤内蔵助(さいとうくらのすけ。光秀の家臣斎藤利三)弐千余騎(にせんよき)ニテ本能寺ヱ押寄(おしよせ)タレバ、早(はや)(よ)ハホノボノト明(あけ)ニケリ。

 内ヨリ水汲
(みずくみ)ノ下部(しもべ。下僕)、水桶(みずおけ)ヲニナイ出(いで)ケルガ、敵ノ押寄タル躰(てい)ヲ見テ内ヱニゲコミ、門ヲ立ル。「アノ門タテサスルナ」トテ押詰(おしつめ、門ヲ打ヤブリ乱入(みだれい)ル。

 當番
(とうばん)ノ衆、「是(これ)ハ何事(なにごとゾ」トヲキフタメキ(起きて騒ぎ立て)ハシリ出テ見ケレバ、敵早(はや)門内ヱ込入(こみいり)タリ。各(おのおの)(やり)ヲ取(とり)テ縁(えん)ノ上下ニテ攻合(せめあう)。

 
信長公白キ御帷子(おんかたびら)ヲメシ、ミダレガミ(乱れ髪)ニテ出(いで)サセタマウ。御弓(おんゆみ)ニテ庭ノ敵ヲサシ取(とり)(ひき)ツメ射(い)タマウ。御弓ノツル(弦)キレタリト見ヱテ、御弓ヲナゲステタマウ。十文字ノ鑓(やり)ヲ取(とり)テセリ合(あい)タマウ。然所(しかるところ)ニ御手(おて)ヲ負(お)ハレタリ(負傷した)ト見ヱテ、白キ御帷子ニ血カカツテ見ユル。御鑓御ステ、奥ヱ御入(おはいり)、ホドナク奥ノ方ヨリ焼出(やけいで)タリ。

一、御番衆
(ごばんしゅう)、ズイブン働(はたらく)トイヱドモヲモイヨラヌ(思い寄らぬ)事ナレバ、何(いずれ)モスハダ(素肌)ニテワヅカノ人数、敵ハ具足(ぐそく)・甲(かぶと)ヲ着(き)、弓・鑓・鉄炮備(そなえ)テ大(おおい) …」

2021年1月7日(木)
恵比須魚(えびすうお)

 数が多いものは、なかなか記憶できない。七福神の名前もうろ覚えだ。しかし、次のような呪文を使えば何とかなりそう。


  海老
(えび)で鯛(たい)釣る寿老人(じゅろうじん)、入れ歯で歯無し「はヒフヘホ」

    海老→恵比須(えびす)
    鯛→大黒天(だいこくてん)
    寿老人→寿老人(じゅろうじん)
    歯無し→「は」を除く
    ヒ→毘沙門天(びしゃもんてん)
    フ→福禄寿(ふくろくじゅ)
    ヘ→弁財天(べんざいてん)
    ホ→布袋(ほてい)

 この中で、釣り竿を持ちタイをかかえた恵比須神は、漁業の神・商売繁盛の神とされる。そこで江戸時代の松前地方では、漁獲をもたらしてくれるクジラを「恵比須魚(えびすうお)」と呼んでいた。その理由を古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は次のように記す。


「鯨(くじら)などの浦近く来ることはたびたびなれども、恵比須魚(えびすうお)と称して口にても取るということは、互いに忌み嫌うことなり。これは鯨の来る節に、沖の方より鯨の追い廻して鰊(にしん)を磯近く海の浅き所へ追い寄せるを以(もっ)て、鰊を数多(あまた)得ることゆえに、鯨をば大いにいわい尊ぶ松前のならわしなり。」(注)


 かつては「福の神」の代名詞だった恵比須さま。しかし今や、正月・えびす講の時節以外、かえりみられることはほとんどない。中にはビールの銘柄と早合点するやからさえいる始末。

 恵比須さまもさぞかしお嘆ぎだろう。


【注】
・古川古松軒著・大藤時彦編『東遊雑記』1964年、平凡社(東洋文庫)、P. 186