2020年12月23日(水) |
雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)のアドバイス |
儒者の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう。1668~1755)は木下順庵(きのしたじゅんあん)門下の俊英。「木門十哲(もくもんじってつ)」の一人としてその学識は天下に知られた。
しかし、中国語・朝鮮語に通じ博学で聞こえた芳洲だったが、和歌の道はまったくの素人(しろうと)。ひょんなことで和歌の会に顔を出すことになった。
「是非歌をよみ候(そうら)へ」と作歌をうながされ、はたと困った芳洲。漢詩なら平仄(ひょうそく)を誤らなければ何とでもなる。しかし、和歌にはそうしたものがない。思えば、今まで百人一首の講釈さえ受けたことがない。ゆえに「かな、けり、らん一つも埒(らち)は明(あき)不申候(もうさずそうろう)」という有様。もとより、和歌において用いる言葉もまったく知らない。
ならば『古今和歌集』を熟読すれば言葉も覚えよう。和歌は1万首くらいもつくればよかろうか。そう思い立って芳洲が和歌に志したのは、齢(よわい)81歳のときだった。2年目に古今和歌集を千回読み終え、3年目には和歌を一万首作ったという。
次は手紙の中にある芳洲の言葉。
「皆様にも御年少(ごねんしょう)に被成御座候(ござなられそうら)へば、猶々(なおなお)むだに御くらしなされますな」
(みなさんは私よりもお若いのですから、ゆめゆめ毎日を無駄にお過ごしなられませんように)
新型コロナ感染予防のためステイホームを余儀なくされているわれわれ。ゲーム三昧・ビデオ三昧の生活を送っている身にとっては耳が痛いアドバイス?
【参考】
・伴蒿蹊 記伝(他)『續近世畸人傳』(日本古典全集第3期第10)、1929年、日本古典全集刊行会、P.336~340 |
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2020年12月22日(火) |
われわれには歴史がありません |
開国後、外国とのつきあいが始まった日本。欧米の進んだ文物の来襲に圧倒され、多くの日本人たちは自分たちのバックボーンに対し誇りを失っていた。
お雇い外国人として来日したベルツ(ドイツの内科医。1849~1913)は、後進国であるという自覚と劣等感から発せられた明治人の言動を、その日記に記録している。
現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのまま!〕」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。(注)。
明治以降の日本人は、ひたすら欧米列強を手本にして近代化の道をひた走った。しかし、自国固有の文化を軽視・否定する国民に、真の自立はありえない。急激な欧化主義の反動は、ほどなく強烈なナショナリズムの台頭を招くことになったのだ。
【注】
・菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』1979年改訳、岩波文庫、P.47
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2020年12月21日(月) |
ウトウ(3) |
中・近世、本州以南の大都市(たとえば、江戸・大坂・京都)に住む人びとにとって、ウトウは名のみ知られた鳥だった。人口に膾炙(かいしゃ)するウトウの習性は、謡曲『善知鳥(うとう)』で聞きかじった観念上の産物といってもよい。ちなみに、山東京伝(さんとうきょうでん)の読本『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』も、謡曲『善知鳥』を下敷きにして書かれている。
謡曲によると、ウトウの習性は次のように描かれている。
陸奥(むつ)外の浜(現青森県)の猟師は、この鳥の情愛深さを利用し、親鳥の留守をねらって子鳥を捕らえる。猟師が親鳥の鳴き真似をして「ウトウ」とよぶと、子鳥は巣穴から「ヤスカタ」と答えてとび出てくる。そこを捕まえるのだ。
子を失った親鳥は、泣き叫びながら天空を飛びめぐってわが子を探す。そのうち親鳥の涙は悲しみのあまり血に変わり、空からは親鳥が流す血涙が雨となって降りそそぐ。そこで子鳥を捕る猟師は、親鳥の血涙から身を守るため簑(みの)・笠(かさ)を着て猟をするのだと。
実際の生態からかけ離れたこうしたウトウの習性は、劇中で猟師が詠じる「陸奥の外の浜なる呼子鳥(よぶこどり)鳴くなる声はうとうやすかた」の和歌とともに、能の鑑賞者に強烈に印象づけられたはずだ。
「外の浜」は本州僻遠(へきえん)の歌枕(うたまくら)の地として名高い。その地において、親子の情愛を利用して子鳥をだまし、親鳥の血涙に血塗(ちまみ)れになりながらも猟を続ける猟師。その罪業(ざいごう)深さのために猟師は地獄に堕(お)ち、化鳥(けちょう)の責め苦に悶(もだ)え苦しむ。
和歌的教養を有し、能を観ることを娯楽としていた観客たち(知識層)は、この謡曲によって殺生の罪業深さを改めて認識しただろう。それは同時に、観念上のウトウの習性をも彼らの心に深く刻みつけたにちがいない。
【参考】
・金子浩昌他『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.82~83
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2020年12月20日(日) |
ウトウ(2) |
謡曲『善知鳥(うとう)』に出てくる善知鳥と安方(やすかた)は、ともに鳥の名前だ。親鳥を善知鳥、子鳥を安方という。親鳥がウトウと鳴くと子鳥はヤスカタと応じるという。そしてこの鳥は親子の情愛が深いとされていた。
実際のウトウは、チドリ目ウミスズメ科の中形の海鳥。ウトウの名の由来は、繁殖期に上嘴(じょうし)基部に見られる三角形の突起物を意味するアイヌ語だとか、ウト(穴)にすむ鵜(う)の意だとか、諸説ある。
ウトウの主な繁殖地は北海道の天売島(てうりとう)・大黒島・小島・根室付近の岩礁や陸奥湾・岩手県椿島・江の島列島・宮城県足島などである(注)。
したがって、ウトウの繁殖地から遠く離れた京・鎌倉に居住していた中世の知識層が、この鳥の生態や習性を正確に知っていたとはとても考えられない。また、近世になっても、菅江真澄(すがえますみ)・曲亭馬琴(きょくていばきん)らがウトウについて考証しているのは、この鳥が有名だった割には、その生態があまり知られていなかったからだろう。
【注】
・小林桂助『原色日本鳥類図鑑』1979年増補改訂六刷(1956年初版)、保育社、P.147による。
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2020年12月19日(土) |
ウトウ(1) |
歌川国芳(うたがわくによし。1797~1861)が描いた「相馬の古内裏(そうまのふるだいり)」という浮世絵に、江戸っ子は度肝を抜かれた。浮世絵といえば、ふつう1枚で独立した絵画となっている。それが、国芳の作品は3枚並べて、はじめて一つの場面を構成するという趣向になっていたのだ。しかも、この大型絵全体の三分の二を占めるのが、滝夜叉姫(たきやしゃひめ)の妖術によって呼び出された写実的な巨大骸骨だった。
「相馬の古内裏」の出版は1845、6年頃。杉田玄白らが訳出した『解体新書』初版の発行は1774年だ。正確な人体骨格はすでに知られていたため、国芳はこうした解剖図を参考に作品を仕上げたといわれている。
国芳の「相馬の古内裏」は、山東京伝(さんとうきょうでん。1761~1816)の読本『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』中の一場面を描いたもの。同書は、謀反人平将門(たいらのまさかど)の遺児良門・滝夜叉姫が父の無念をはらそうとする復讐談であり、将門の遺臣善知安方(うとうやすかた)夫婦が将門の遺児を諫(いさ)める忠義の物語でもある。
ところで、この善知安方という人名は、謡曲『善知鳥(うとう)』に由来するものだ。その中に、善知鳥と安方が出てくる。
この善知鳥と安方とは、一体何か。
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2020年12月18日(金) |
皇子を産む方法(2) |
たとえ天皇の后妃となっても、妊娠するとは限らない。また、妊娠したとしても、皇子を産むとは限らない。そこで、行われたのが変成男子の法(へんじょうなんしのほう)だ。
仏教では、女子には五障(ごしょう)があるため、そのままでは成仏が困難とされた。それなら、男子になってしまおう。女人成仏(にょにんじょうぶつ)のために、女子が男子に性転換することを「変成男子(へんじょうなんし)」といった。
密教には、母親の胎内で女児を男児に変化させる秘術があるという。これを「変成男子の法」という。「変成男子の法」の修法は、跡継ぎに男子誕生を願った平安貴族らに受け入れられた。
平清盛の娘徳子(とくこ。のちの建礼門院)が高倉天皇の子を身ごもった際にも、「変成男子の法」が行われた。
「天台座主(てんだいざす)覚快法親王(かくかいほっしんのう。鳥羽天皇の第七皇子で第56代座主)、おなじう参(まい)らせて給(たまい)て、変成男子(へんじょうなんし)の法を修せらる」(注)
修法の甲斐あってか、皇子が誕生した。言仁親王(ときひとしんのう)、のち安徳天皇(1178~1185)だ。
【注】
・梶原正昭他校注『平家物語(一)』1999年、岩波文庫、P.268
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2020年12月17日(木) |
皇子を産む方法(1) |
皇子を産むためにはまず、自分の娘が天皇の后妃とならねばならない。
坊門信隆(ぼうもんのぶたか)は、そのために千羽の白い鶏を飼養した。千羽の白鶏を飼えば、その家から必ず后が出る、という俗信があったからだ。千羽という数字は、仏教の千仏思想からきているのだろう。神慮にかなった「白い」鶏を多数飼うことによって、霊力の結集をはかったのだ。
その効験あってか、信隆の娘殖子(しょくし)は外孫尊成(たかなり、たかひら)親王を産んだ(父は高倉天皇)。後の後鳥羽天皇(1180~1239)である。
【参考】
・金子浩昌他『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、「闘鶏」の項。
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2020年12月16日(水) |
高札に見入る人びと |
江戸時代、民衆統治の手段の一つとして、橋のたもとや辻(つじ)など人目につく場所に高札場(こうさつば)が設けられた。
高札という手段が有効であるためには、少なくとも「民衆は文字を読むことができる」という前提が必要だ。高札の前に集まった民衆のうち、かなりの割合で字が読める者がいなければ、為政者の命令は下々へは届かない。高札に見入る人々を描いた江戸時代の風俗画は、期せずして江戸庶民の識字率がある程度高かったことを証明している。
戦国時代が終焉し平和な時代がはじまると、家柄のない武士は、官僚としての学問を身につけなければ出世することができなくなった。また、庶民も、平和な世の中で一人だちをしていくには、「読み、書き、そろばん」という最低限の実用的教育が必要となった。
5代将軍綱吉の時代になると、どの家庭からも書物を音読する子どもの声が聞こえてきたという。原念斎の『先哲叢談(せんてつそうだん)』には次のようにある。
元禄中、文教大いに煕(おこ)り、家(いえいえ)に讀(よ)み戸(ここ)に誦(しょう)す。是(これ)より先、未(いま)だ有らざる也(なり)。
(元禄年間、教育が盛んになり、どの家でも本を読み、どの家からも本の一節をそらんじる声が聞こえた。このようなことは、今までなかったことだ)
こうした風潮を背景に、全国各地に何百もの寺子屋ができ、何千人もの師匠たちが子どもたちに「読み、書き、そろばん」を教えた。たとえ教育がなく文字が読めない親であっても、子どもには教育を施そうとした。この伝統は次の明治時代にも引き継がれた。
夏目漱石の青春小説『坊つちやん』(1906(明治39)年に発表)の主人公は、父親譲りの無鉄砲で乱暴者。「将来はどうせろくな者にはなるまい」と両親でさえ見限った。
そんな主人公が、父親の死後、遺産の分け前として600円をもらう。大卒公務員の1年分の給料に相当する額だ。大金を前に、主人公はこう考えた。
「今の様ぢや人の前へ出て教育を受けたと威張れないから詰(つま)り損になる許(ばか)りだ。」
そこで600円を学資にして勉強してやろう、と決意。たまたま通りかかった物理学校の門に生徒募集広告が出ていた。これも何かの縁と思い、すぐさま入学手続きをしてしまうのだった。
「教育を受けたと威張れないのは損だ」という考え方。前時代から続くこうした価値観をもつ社会が、近代以降の新しい教育制度の定着や教育水準の向上に寄与したことは間違いない。
【参考】
・森本哲郎「教育大国日本の下地」による(同氏『二十世紀を歩く』1985年、新潮社(新潮選書)P.111~121)。『坊つちやん』の引用も同書。
・『先哲叢談』は、魚返善雄(おがえりよしお)『漢文入門』(1966年、社会思想社(教養文庫)、P.134~135)からの引用。
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2020年12月15日(火) |
トイレの神様(2) |
仏教寺院でも「トイレの神様」をまつることがある。寺院でまつるのはウスサマ明王だ。
ウスサマは梵語(ぼんご。古代インドのサンスクリット語)でウッチュシュマといい、これに烏枢沙摩、烏枢瑟摩、烏芻沙摩などの漢字をあてた。密教で説かれる護法善神(仏法を守護する神)のひとつで、彫刻や絵画では一面六臂(いちめんろっぴ。一つの顔に六本の腕。臂はひじのこと)・三面八臂(さんめんはっぴ)等さまざまな姿で表現される。
ウスサマ明王は炎神で「アグニ」ともいう。それは、火生三昧(かしょうざんまい)なる世界に住み、人間の煩悩(ぼんのう)が仏の世界に及ばぬよう炎で焼き払っているとされるからだ。炎で一切の不浄を焼き払って清浄に転じるゆえ、不浄潔金剛(ふじょうけつこんごう)や火頭金剛(かずこんごう)の別名でもよばれる。
不浄を清浄に転じるその力に頼り、寺院のなかにはトイレ(注)にウスサマ明王をまつるところがあった。これが民間に伝わり、ウスサマ明王の護符を自宅のトイレに貼付し、衛生維持や疫病退散を祈願するようになった。現在でも、静岡県袋井市の秋葉総本殿可睡斎(かすいさい。曹洞宗)をはじめ、ウスサマ明王の護符を発行する寺院は多数あり、その護符を受けてトイレに貼付する信仰をもつ地域も各所に見られる。
【注】
仏教寺院のトイレは、設置位置によって雪隠(せっちん。北)、東司(とうす。東)、登司(南)、西浄(西)といった。家屋は南面して建設されることが多いため、トイレはふつう北側に設置される。そのため、近世には雪隠の名称が一般に広まった。なお、東福寺(京都)に現存する東司は、わが国最古のトイレ建築。1軒丸ごとがトイレで、大きさが幅10m、奥行き27mもある。
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2020年12月14日(月) |
トイレの神様(1) |
浜口國男氏(1920~1976)の『便所掃除』という詩の一節に、次のようにある。
「便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかもしれません」
「便所をきれいに掃除する娘は、美しい子供を産む」、または「安産する」という俗信は全国的に見られた。それは「トイレの神様」のおかげという。
かつて民間では便所に「便所神」「厠(かわや)神」などと称する神をまつり、これにまつわるさまざまな禁忌があった。
多くの場合、「トイレの神様」は女性と信じられた。子どもが生まれるとまずは「セッチンマイリ(雪隠詣り)」をし、子どもの無事生育を祈願した。「トイレの神様」に関する禁忌には、出産や子どもにまつわるものが多い。 |
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2020年12月13日(日) |
今日は「ビタミンの日」 |
「飽食の時代」と言われて久しい。それにもかかわらず、1970年代に男子高校生を中心に脚気(かっけ)が多発した。カップめんなどインスタント食品の常食、コーラなど清涼飲用水・菓子類からの糖質の多量摂取、偏食による栄養のアンバランス、部活動などでの激しい運動等、種々の原因が考えられる。
しかし、そもそも脚気の根本原因は、ビタミンB1不足による。
脚気は17世紀、オランダの医師がインドで初めて発見。この未知の病にベリベリ(beriberi)という名前をつけた。
ベリベリの由来については諸説ある。
『広辞苑』には「ベリはセイロン語で衰弱の意。ベリベリはその強意」とある(1)。脚気になるとひどい倦怠感(けんたいかん)に襲われ、手足にむくみやしびれが生じて歩行がままならなくなる。病が進行すれば死に至ることも。脚気に罹患(りかん)すると病人が、ひどく衰弱するように見えたのだろう。
1910(明治43)年12月13日、東京化学会例会において鈴木梅太郎(すずきうめたろう。1874~1943)が米糠(こめぬか)から抗脚気の有効成分を抽出したと報告。ベリベリ(脚気)に対抗する化合物の意から「アベリ酸」と命名した。これがビタミンB1(チアミン)の最初の報告だった。のち、この化合物は塩基性物質だということがわかり、鈴木は1912(明治44)年にオリザニン(Oryzanin)と改名。イネの学名オリザ=サティヴァ(Oryza sativa)にちなむ命名である。
鈴木の「アベリ酸」発表後の1911年、ポーランドのカシミール=フンクが、同一物質を「vitamine」の名で国際学会で発表。「生命(vita)」と「塩基性物質(amine)」から造語したものという。1915年アメリカのマッカラムらが脂溶性のものをA,水溶性のものをBに分類、1919年イギリスのドラモンドがamine(塩基性物質)でないものも含まれるところからeの文字をはずした「vitamin」という名称使用を提唱。以後発見順・生理作用によりビタミンC、D、E・・・と命名されるようになった。
鈴木は長らく不遇だった。医学ではなく農学博士だった鈴木の学説は、当時脚気伝染病説をとる日本医学界から冷笑された。鈴木の「ヴィタミン研究の回顧」には次のようにある。
當時(とうじ)醫界(いかい)の大立者(おおだてもの)だつた某(ぼう)博士が傳(つた)へ聞かれて「鈴木が脚氣(かっけ)に糠(ぬか)が效(き)くと云(い)つたさうだが、馬鹿げた話だ、鰯(いわし)の頭も信心からだ、糠で脚氣が癒(なお)るなら、小便を飮(の)んでも癒る・・・」と、或(あ)る新聞記者に話されたことがあつた(2)。
また、鈴木は日本語で発表したため外国人はこれを知らず、ビタミンB1発見の栄誉は国際学会への報告が早かったフンクに帰した。
しかし1943(昭和18)年、その業績をたたえられて勲一等瑞宝章(くんいっとうずいほうしょう)を受章。また、鈴木の最初の報告があった12月13日は現在、「ビタミンの日」となっている(3)。
【注】
(1)大平洋「脚気の歴史」(兵庫県薬剤師会『兵薬界』No.552,2002年1月号)には「英語では脚気のことはベリベリという。この語原はジャワ語羊beriであり、脚気にかかると歩き方が羊のようになることに由来する」とあるが、脚気に類似する「羊のような歩き方」とは一体どのようなものか。
(2)鈴木梅太郎「ヴィタミン研究の回顧」(初出1931年)、青空文庫による。
(3)鈴木の功績を顕彰しビタミンの知識普及を目的に、2000(平成12)年に「ビタミンの日制定委員会」(会長満田久輝。2009年解散)が制定。
【参考】
・国立公文書館ホームページ、「公文書にみる発明のチカラ」第四部発明と企業化、51.オリザニンの発見(鈴木梅太郎)
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2020年12月12日(土) |
奈良の饅頭屋 |
南北朝期に来日した中国人林浄因(りんじょういん)はわが国に帰化して塩瀬氏を名乗り、饅頭の製法を伝えたという。その子孫は代々奈良に住み、饅頭屋を家業とした。
宗二(そうじ。1498~1881)はその子孫。林や塩瀬という姓ではなく、ふつうは饅頭屋宗二(まんじゅうやそうじ)と呼ばれる。彼は家業以外に学問にいそしみ、多くの文化人とも交流があった。
連歌師・歌人の牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく。1443~1527)には和歌を学んで古今伝授をうけ、公卿で文化人の三条西実隆(さんじょうにしさねたか。1455~1537)には和学を学んで『源氏物語林逸抄(げんじものがたりりんいつしょう。林逸は宗二の号)』を著している。また、儒学者の清原宣賢(きよはらののぶかた。1475~1550)には漢学を学んで『毛詩抄』『春秋左氏伝抄』の著作をものし、五山の禅僧とも交わった。
そうした宗二の文化活動の中でも、後世に及ぼした影響力の大きなものに『節用集』の刊行がある。
『節用集』というのは、室町時代から江戸時代かけて作られた国語辞書の総称。著者は不詳。書名は「日常の折節に用いる辞書」に由来。語をいろは順に並べて検索しやすくした。簡便ながら実用にすぐれていたため、明治期まで長く利用された。
しかし、高校日本史教科書に饅頭屋宗二の名はない。たとえば、山川出版社が発行する教科書の記載は次の通り。
「節用集 15世紀につくられた国語辞典で、16世紀には奈良の饅頭屋によって刊本も出版された。」(山川出版社版『詳説日本史B』2016年発行、P.146)
もしも「奈良の饅頭屋宗二が『節用集』を刊行した」という史料的確証がないなら、「16世紀には刊本も出版された」と書けば済む。それをなぜ、教科書執筆者は「奈良の饅頭屋」の部分だけをわざわざ残したのだろうか。
『詳説日本史B』は高校で一番多く採用されている教科書だから、次のような入試問題を出題する大学が出てくるかもしれないナ。
問.次の文の( ① )に入る適語を【語群】から選び、記号で答えよ。
節用集は15世紀につくられた国語辞典で、16世紀には奈良の( ① )によって刊本も出版された。
【語群】 ア.饅頭屋 イ.ケーキ屋 ウ.タピオカ屋 エ.バナナ屋
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2020年12月11日(金) |
毛糸の帽子をあげたい |
『日本外史』を書いたことで知られる頼山陽(らいさんよう。1780~1832)。菅茶山(かんちゃざん、かんさざん。1748~1827)の廉塾(れんじゅく)で学んでいたことがあった。
陰ではいつも先生のことを「はげ頭」と呼んでいた。ある時、外出から戻ると仲間に向かって大声で「はげ頭はいるか」。いきなり襖ががらっと開いて「菅太仲ここにあり!」(1)。
こうしたエピソードをもつ茶山。この茶山には、読書尚友(どくしょしょうゆう。読書を通じて昔の賢人を友とするの意)の精神を読んだ「冬夜読書」という七言絶句がある(2)。読書に向いた余暇を中国では「三余(さんよ)」といい、雨の日、夜、そして冬をいった。それなら冬の夜は、読書には絶好の機会といえよう。
「冬夜、書を読む
雪は山堂を擁(よう)して樹影(じゅえい)深く、檐鈴(えんれい。軒につるした鈴)動かず、夜沈沈(よるちんちん。静かな夜のさま)。閑(しず)かに乱帙(らんちつ。散らばった書物)を収(おさ)めて疑義(ぎぎ)を思えば、一穂(いっすい)の青灯(せいとう。燭台のあかり)万古(ばんこ)の心(こころ)」
(雪は山中の家をうずめて木々の影は深い。風がないのか軒下の風鈴は動かず、夜はしんしんと静かに更けてゆく。取り散らかした書物を静かに整理しながら疑問の箇所を考えていると、ひとすじの青い灯火にはるか昔の聖賢の思いが見えてくる)
ただ、前出の頼山陽のエピソードを聞いてから、寒々とした部屋でひとり読書する茶山のはげ頭をついつい想起してしまう。冬夜の読書は、さぞかし寒かったことだろうと。
【注】
(1)三浦一郎『ユーモア人生抄』1965年、社会思想社(現代教養文庫)P.23による。一般向けの手軽な書籍の常として、出典が明記されていない。典拠は何だろう。
(2)高校漢文教科書に載るほどの有名な漢詩のため、インターネット検索で原文(漢文)が出てくる。
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2020年12月10日(木) |
秘仏中の秘仏(法隆寺夢殿救世観音像) |
8世紀、厩戸王(うまやとおう。聖徳太子)の住んだ宮殿跡に造営されたのが法隆寺夢殿だ。本瓦葺(ほんかわらぶき)の八角円堂は、熟年世代にとっては旧1万円紙幣で馴染み深い。
その夢殿の本尊が救世(くせ、ぐぜ)観音像。聖徳太子が亡くなった際、太子の等身像として制作されたという伝承がある。木造彫刻としてはわが国最古級のもの(7世紀前半)。
ただし、仏教経典の中に、そもそも救世観音という仏はいない。さまざまな変化(へんげ)観音がある中で、本来の観音である聖観音(しょうかんのん)のことを指したものという。ちなみに「救世」とは、苦しいこの世から人々を救済するの意味。
この救世観音像は、平安末期から「秘仏中の秘仏」とされ、法隆寺の僧侶でさえその姿を目にした者はいなかったとされる。
そうしたなか、法隆寺の宝物調査に訪れたアメリカ人アーネスト=フェノロサと岡倉天心・加納鉄斎らが、夢殿の中にあった救世観音像を「発見」し、その尊顔を拝したのは1884(明治17)年ごろのことという。
法隆寺の僧は最初、夢殿の開扉を拒んだ。その理由を岡倉天心は次のように記す。
「寺僧の曰(いわ)く、これを開けば必ず雷鳴があらう。明治初年、神仏混淆論(しんぶつこんこうろん)の喧(かまびす)しかつた時、一度これを開いた所、忽(たちま)ちにして一天掻(か)き曇り雷鳴が轟(とどろ)いたので、衆は大いに怖(おそ)れ、事半ばにして罷(や)めたと。」(岡倉天心『日本美術史』)
そこで天心らは「雷のことは我等が引き受けよう」と言い、強いて夢殿の扉を開かせた。この時、僧たちはみな怖れて逃げ去ってしまったという。
堂内に入って厨子(ずし)を開くと、その中には塵埃(じんあい)にまみれた綿布におおわれた物体があった。その時「人気に驚いたのか、蛇や鼠が不意に現はれ、見る者を愕然たらしめた」(岡倉天心)。
そして、500ヤード(1ヤードは0.9144m。約450m)も巻いてあろうかと思われた綿布を、やっとのことで取り去った。すると「驚嘆すべき世界無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれた」(フェノロサ『東洋美術史綱』)のだ。
救世観音像が金箔燦然(さんぜん)とした姿を今に現したのは、「秘仏中の秘仏」というタブー(禁忌)があったおかげでもある。「夢殿のご本尊は滅多に見るものではない」というタブーがあったゆえに、法隆寺の僧侶たちは長年、夢殿に手をつけることを躊躇してきた。その結果、夢殿がタイムマシンの役割を果たしたのだ。
【参考】
・高田良信『「法隆寺日記」をひらく』1986年、日本放送協会(NHKブックス)、P.96~97、P.100。文中の引用資料は同書による。
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2020年12月9日(水) |
『文正草子(ぶんしょうぞうし)』と常陸の製塩 |
『文正草子』は御伽草子(おとぎぞうし)の一つで、康正2(1456)年頃完成したと推定される。女子が良縁に恵まれる出世譚(しゅっせたん)であるため、正月読み初めの吉書として女子に愛読された(1)。『文正草子』のあらましは以下の通り。
常陸国(ひたちのくに。現茨城県の大部分)の鹿島神宮に雑色(ぞうしき。下男)として仕えていた文太が、角岡(つのおか)の磯で塩焼きの仕事に励んで長者となり、名を文正常岡(ぶんしょうつねおか)と改めた。娘が二人生まれ、姉蓮華(れんげ)は関白の息子二位中将殿(にいのちゅうじょうどの)の北の方に、妹蓮(はちす)は天皇の女御(にょうご)となる。文正自身も大納言に任命され、栄華を極めたという。
さて、主人公の名前である文正常岡の「常岡」は、「角岡の磯」に由来。角岡は、現茨城県鹿嶋市の角折(つのおれ)に比定される。角折に関して『新編常陸国誌』は次のように記す。
「角折又角岡ト云(い)ヒシ由(よし)、昔時(せきじ)塩焼文太、塩釜ヲ置テ巨萬ノ富ヲナセシト云(いう)モ、此地(このち)ナリトキコユ、スベテ郡(注、鹿島郡)中ニ七釜(しちかま)トテ、イヅレモ塩ヲ焼シ所ト云フ、ソノ七竈(しちかま)ハ高竈、荒竈、ブユ竈、テウチ竈、日枝竈、寺竈、神竈等ナリ、コノ邊(あたり)塩利ノ盛ンナリシコト思フベシ」(2)
『文正草子』には、室町時代における常陸国の製塩法が描かれている。これによると、薪拾い・潮汲み・塩田づくり・塩焼き等の仕事を分担し、揚浜法(あげはまほう)によって効率的に塩の大量生産を行っていたようだ。これ以前の鎌倉時代は、直接海水を鉄釜に入れて煮、水分を蒸発させて塩を得るという方法で、製塩効率は悪かった。どちらも、製塩の中心は太平洋沿岸だった。
しかし、古い時代の製塩は霞ヶ浦周辺が中心だった。事実、上高津貝塚(かみたかつかいづか)・広畑貝塚(ひろはたかいづか)など霞ヶ浦周辺に点在する縄文時代の各遺跡からは、製塩に使用された製塩土器が出土する。
なぜ、淡水湖である霞ヶ浦の周辺地域に製塩土器が出土するのか。そして、なぜこの地域の製塩は廃絶したのか。
霞ヶ浦は利根川下流に位置するY字形の湖で、わが国第二の面積を有する。現在は淡水湖だが、成因では海跡湖(かいせきこ)に分類される。
かつて霞ヶ浦・北浦(霞ヶ浦の東側にある湖)あたりまで海だった。古代・中世までは銚子方面に口を開いた入り江だったのだ。それが、東寄りに土砂の堆積が進んで徐々に水域が減少し、入り江が閉じられて湖となった。そして、桜川・恋瀬川など周辺諸河川から流入する淡水によって、湖の淡水化が進行した。
霞ヶ浦周辺の製塩が廃絶し、製塩の中心地が太平洋沿岸へと移動したのは、入り江(海)が湖となって淡水化したことが原因なのだ。
【注】
(1)島津久基編校『お伽草子』1936年、岩波文庫、P.5
(2)宮崎報恩会版『新編常陸国誌』1976年、崙書房、P.256
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2020年12月8日(火) |
玄白の嘆き |
『解体新書』を翻訳した杉田玄白(1733?1817)は、文化14(1817)年に85歳で亡くなった。江戸時代としてはかなりの長寿だ。玄白も晩年、自分が長寿であることを喜んでいた。
ただ、振り返ってみれば、そんな長かった人生もあっという間のできごと。『杉田玄白先生自画賛肖像』(79歳の九幸老人(玄白の晩年の号)が、踊る自画像に賛を書いたもの)の賛において玄白は、人生は所詮は「偽(にせ)の世に仮の契り」であると述懐している(1)。
長寿はめでたい。しかし、喜んでばかりはいられない。長生きすればするほど、どうしても身体的不具合や心身機能の衰えが目立ってくる。玄白は、亡くなる前年、『耄耋獨語(ぼうてつどくご)』という随筆を書いている。その中で、物忘れがひどくなったことを、次のように嘆いている(なお、読みやすいように句読点・濁点等を付した)。
「人たる者の老耄(ろうもう)ハ其人(そのひと)の恥と思ひ、我ハせまじと兼(かね)てよりたしなみ侍(はべ)れど、夫(それ)も叶(かなわ)ぬ事にや、近き頃は同じ咄(はなし)を幾度(いくど)もして、人に笑(わらわ)れ、親しき友どちの名、朝夕召仕(めしつかい)の者の名も呼違(よびちがえ)るやうになりたり。又調度の類、これ忘れてハと仕廻置(しまいおき)て、其所(そのところ)を忘るる事度々(たびたび)なり。甚(はなはだ)しきハ手に持(もち)し物を忘れて尋(たずぬ)る事有(あり)。それが中に用にも立(たた)ぬ古き事をバ覚(おぼ)へ居(い)て、忘れざる事もあり。」(2)
(もうろくは恥だと思い、自分はそうはなるまいと日頃から気をつけていたが、それもかなわないことか、最近は同じ話を繰り返しては人に笑われ、親しい友人や日頃召し使う者の名前も呼びまちがえるようになった。また調度品のたぐいを「これは忘れては(大変だ)」と思ってしまうのだが、しまい場所を忘れることがしばしば。ひどい時には、自分が手に持っていることを忘れて、人に(その物のありかを)たずねることもある。そうしたなかにも、役にも立たない古いことは覚えていて、忘れないこともある。)
「人生百年時代」のわれわれと同じ嘆きを、200年前の玄白も共有していたのだ。
【注】
(1)九幸老人画・賛『杉田玄白先生自画賛肖像』文化8(1811)年、早稲田大学図書館蔵、請求記号ヌ06 05797、https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu06/nu06_05797/nu06_05797.pdf
(2)杉田玄白『耄耋獨語』文化13(1816)年(杉田玄白『耄耋獨語・玉味噌』慶応義塾大学信濃町メディアセンター北里記念医学図書館富士川文庫蔵、請求記号DIG-KEIO-606-1、http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100244409/viewer/14
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2020年12月7日(月) |
ボンヤリとウッカリ |
紫禁城(しきんじょう)の宮門のところで、着飾った少女の一団をボンヤリ眺めていたひとりの娘。見物していたのは秀女(しゅうじょ)選定に向かう少女たちの集団だった。清朝では満州八旗(まんしゅうはっき。清朝独特の軍事組織。旗の色・縁の有無で8隊に分けた。将兵を旗人といった)生まれの娘は12歳になると、宮中に入り秀女として奉仕するのだ。
ところが何を勘違いしたのか門衛が、ウッカリ彼女も門内に入れてしまった。容姿がすぐれていた彼女はそのまま秀女となり、親王づきになった。
たまたま親王が伝染病に罹(かか)った。感染を恐れて人が嫌がる看病を、彼女は誠心誠意つとめた。その人柄に好意をもった親王は彼女を寵愛し、子が産まれた。親王はのちの清朝第5代皇帝雍正帝(ようせいてい。1678~1735)、子はのちの第6代乾隆帝(けんりゅうてい。1711~1799)となった。
彼女の名は孝聖憲皇后(こうせいけんこうごう。1692~1777)。長寿にもめぐまれ、最高の人生をおくった女性として人々から憧憬された。
もしも、あのとき彼女が宮門のところでボンヤリ立っていなければ、また門衛もウッカリ彼女を門内に入れていなければ、彼女は違った人生をおくっていたはずだ。
少なくとも乾隆帝は生まれていなかったことになる。そうなると、われわれは、乾隆帝が登場する中国TVドラマ(たとえば「瓔珞(えいらく)」など)を堪能できなかったろう。
【参考】
・田村実造『世界の歴史9・最後の東洋的社会』1975年、中央公論社(中公文庫)、P.290
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2020年12月6日(日) |
三菱が高島炭坑に目をつけたわけ |
江戸時代、すでに石炭採掘が始まっていた九州の高島。明治になるや、佐賀藩・グラバー商会の合弁企業が蒸気機械を使って石炭採掘を開始。1874(明治7)年の官営化後、後藤象二郎への払い下げを経て、1881(明治14)年には三菱の手に渡った。
有望な石炭産出地は、ほかの地域にいくらでもあったはず。それなのに三菱は、なぜ九州の炭坑に目をつけたのだろうか。
それは、高島炭坑が長崎港近くに位置していたためだ。
江戸時代に「四つの口」の一つとして海外に開かれた長崎は、明治期になってもその役割を継承した。長崎は、わが国の重要な物流拠点の一つだった。
当時、海上を運航した船は蒸気船だ。
蒸気機関を動かすには、真水と燃料が必要となる。蒸気機関に使う真水を海水で代替した場合、塩分が機関内部に付着してたちまち故障の原因になってしまう。また、船内の限られた貯蔵スペースに積み込む燃料には、かさばる薪などよりエネルギー放出量の大きな石炭が求められた。
さらに、航海中には船体が損傷したり、機械が故障したりすることもある。そうなった場合、寄港時には船の補修が必要だ。
したがって、長崎で海運業の仕事をする場合、この地に必要とされるのは真水(食料)と石炭の供給、そして船のメンテナンス機能だった。だから三菱は、高島炭坑(1881年に買収)に続き、長崎造船所(1884年明治政府から貸与、1887年払下げ)を手に入れたのだ。 |
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2020年12月5日(土) |
五平太 |
わが国における石炭利用の歴史は古い。しかし文献上に見えるそれらの燃料が、本当に石炭なのかは不明。文献に登場する確実な石炭利用は、江戸時代になってからだ。
江戸時代中ごろの奇石マニア、木内石亭(きうちせきてい。1724~1808)の『雲根志(うんこんし)』には、「石炭」の名称が登場する。それは次のような記述だ。
「石炭
諸国に多し。色黒く、炭のごとく木のごとく、実ハ石也(なり)。山中に掘(ほり)得て貧民薪木(たきぎ)に用ゆ。甚(はなは)だ臭(くさ)き物也。予(石亭)考ふるに、元来木の化したる物なるべし。」(1)
これに続けて石亭は、モエ石、ウニ、岩木、ウシ、からす石、石スミ、ツクモなど、各地方での石炭の呼び名をあげている。これらの記述から江戸時代、石炭がかなり広範囲で利用されていたことがわかる。
さて、北九州高島の石炭は、宝暦年間(1704~11)ころ、肥前国平戸領深堀村の五平太によって発見されたという。伝承では、高島に魚釣りにいった五平太が、魚を食べようと火をおこしたところ、地面の石までもが一緒に燃えだした(2)。これが高島における石炭の発見だった。その後高島で採掘された石炭は、各地の塩浜等へ燃料として販売されていったという。
以上の伝承から、北九州では石炭を「五平太」とよぶようになった。また、石炭稼ぎや石炭運搬の川船までも「五平太」と俗称するようになったという(3)。
しかし、命名の順序はむしろ逆だったのかもしれない。遠賀川(おんががわ)では石炭を運ぶ川船を、船底が平らなため「ひらた(ひらた船、川ひらた)」といった。これには「平太」という簡便な漢字が当てられた。藩で使用する船には尊称の「御」の字をつけたため、「御平太(ごひらた)」。それが漢字の字面に引っ張られて「ごへいた(五平太)」と呼ばれるようになったらしい(4)。だから、石炭運搬船の名前から、「五平太」なる人物が創出されたのかも知れないのだ。
【注】
(1)木内石亭『雲根志』前編・巻二。引用は国会図書館デジタルコレクションによる。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563666
(2)ホームページ「麻生グループ」による。
https://www.aso-group.jp/history/100years_04_05.html
(3)『大百科事典・第8巻』1985年、平凡社、「石炭」の項による。
(4)ホームページ「大牟田・荒尾の歴史遺産」による。https://www.omuta-arao.net/history/han/han1.html
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2020年12月4日(金) |
ブタノマンジュウ |
冬になると花屋の店頭に、赤・ピンク・白など色とりどりの花をつけたシクラメンの鉢が、所狭しと並ぶ。シクラメンは別名ブタノマンジュウと呼ばれる。
シクラメンの偏球状の塊茎(かいけい)はパンに似ていて、豚が土中から掘り起こして食べるとされた。そこで、シクラメンを英語では「雌豚(めすぶた)のパン(サウ・ブレッド、sow-bread)」と呼んでいた。
シクラメンがわが国に伝わった明治期、パンそのものを知る日本人はまだ少なかった(注)。そこで、英名から和訳する際、パンを日本人に馴染みのある饅頭に置き換えて「ブタノマンジュウ」にしたのだ。
ブタノマンジュウという和名は、およそシクラメンの姿形に似つかわしくない。どうしても和名で呼ぶのであれば、カガリビバナ(篝火花)の方を採用したい。
【注】
明治初めごろのパンはとにかくまずかった。特に食パンは、砂糖でもつけないととても食べられたものではなかったという。『明治東京逸聞史』には次のようにある。
「パンは、長崎が発生の地とせられるが、始めはそれを餡なし饅頭と呼んだ。餡なし饅頭の名前から、餡パンの着想は得られたのだった。
始めの頃の食パンといったら、事実饅頭の皮だけを食うような、まずいものだった。一般は、それに砂糖を附けて食った。バタの普及したのなどは、ずっと後のことである。「吾輩は猫である」の中にも、食パンに砂糖を附けて食べることが見えている。」(荒俣宏編『事物珍起源』1989年、平凡社、P.15~16)
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2020年12月3日(木) |
リユース(再利用)はあたりまえ |
江戸時代、衣料は量的には古着が主流だった。
手作業で布を織っていた時代には、一人分の布を生産するのにさえ数ヶ月を要した。近代になって機械生産が導入されるまで、短時間に大量生産できるものではなかったのだ。しかも新品の衣類は値段が高く、十分な量を市場に供給することもできなかった。だから庶民は古着を常用していた。
江戸で古着商が蝟集(いしゅう)していた町の一つが富沢町だった。この一帯は、早朝から古着売買でにぎわった。国学者の石川雅望(いしかわまさもち。狂歌師の宿屋飯盛(やどやのめしもり)としても有名。1753~1830)はその盛況のさまを次のように記す。
「大江戸のうちに、とみざはといへるまちあり。朝市とかいひて、そこにあるあきびとのかぎり、つとめて(早朝)より起きいでて、かどのとにむしろ(筵)しき設けて、ふるき帯、なえばめる衣など、いくらともなくつみならべてあきなふ。あけはなるるころより、かしましきまで人つど(集)ひきたりて、おのが欲しとおもふ物はもとめつついぬ。あたらしげなるはふつになくて、くれなゐのうはしらめるもの、むらさきのはえおくれたるたぐひのみぞあめる。」(1)
富沢町に集められた古着は、江戸市中ばかりでなく、東日本各地で消費された。古着は陸送・海送によって、北陸・東北・蝦夷地にまで行き渡ったという。
「かかるくさぐさのふる物をあつめて、馬におはせ、船につみなどして、こし(越)の国、みちのくのはてまでももて行きて鬻(ひさ)ぎうり、それよりえぞが千島の遠き境にもゆきわたることとぞきく。」(2)
江戸時代、衣類のリユース(再利用)は常識だったのだ。
【注】
(1)石川雅望『都の手ぶり』日本随筆大成第1期第5巻、1975年、吉川弘文館、P.291
(2)『都の手ぶり』同上、P.292
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2020年12月2日(水) |
兀(コツ) |
鎌倉時代、宋から来日した臨済宗の高僧、兀庵普寧(ごったんふねい。1197~1276)。講釈が難解なことで有名だった。だから聴講しても、その内容はチンンプンカンプン。こんな状態を兀庵の名を付し「ゴッタンゴッタン」と揶揄(やゆ)した。これがのちに短縮形の「ゴタゴタ」になり、雑然としたさまやいざこざを意味する慣用句になったという。
閑話休題。
兀庵普寧を「ゴッタンフネイ」と読むのは、難しい。そもそも兀(コツ)という漢字自体、ふだんめったにお目にかからない。
だから「兀兀努力する」を、正しく読むことができる人は少ない。兀を円周率のπ(パイ)だと勘違いして、人前で読み間違えてとんでもない赤っ恥をかく者もいる。
兀は音で「コツ・ゴツ」、訓で「たか(い)」と読む。「人があたまをつき出している」さまからできた字で、意味は
①たかい。高くつき出たさま。「兀立」
②一心に努力するさま。「兀兀」
をあらわす(『漢検漢字字典、第二版』による)。
ところが兀の字には、円周率のπと混同するというほかに、もう一つ注意すべき点がある。それは「兀山」という熟語の読みだ。
兀は「たかい」の意だから、「兀山」という字面(じづら)から、屹立(きつりつ)した孤峰が連想される。しかし、実は「はげやま」と読む。「禿山」と同じ意味で使用しているのだ。
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2020年12月1日(火) |
王朝貴族の生活空間 |
「価値が変わらないものって何だ?」。
そんな質問に、小学生に扮した男女のタレントが「そりゃ愛だろう」って誤答(?)するテレビCMがあった。正解は「駅近(えきちか)の土地」なんだそうな。
そうはいうものの、律令制の時代にはJRや私鉄などの鉄道交通機関がなかったから、「駅近の土地」なんてものがそもそも存在しなかった。
現在の官僚に相当する貴族たちの通勤手段は、基本的には徒歩だった。通勤の便を考えると、官庁街(大内裏)に近接した土地に屋敷をもつのが楽。「職住接近」の理想は昔も今も変わらない。
しかし、職場に近接する特等地に居を構えることができたのは、一部の上級貴族のみ。下級役人ほど遠距離通勤を強いられた。そんな世知辛い事情は、フィクションの世界からも窺い知ることができる。
たとえば、平安時代を舞台にした紫式部の『源氏物語』。登場人物(上級貴族)の居宅を平安京のマップ上に落としてみると、六条院(源融の邸宅河原院がモデル)を除き、すべてが左京(東側)の二条通り以北に含まれるという(1)。つまり「上辺(かみわたり)」とよばれた地域(上京)だけが、光源氏ら王朝貴族の生活空間だったわけだ。
これより南になると、左京(東側)であっても田舎だった。もとより右京(西側)は、桂川の湿地帯にあたっていたため、平安京造営開始当初から人家がまばらな田舎だった(2)。
鴨川の東岸、東山の山麓が開け、「下辺(しもわたり。下京)」の開発が進むのは院政期(11世紀後半~13世紀初め)以降だ。
【注】
(1)村井康彦『藤原定家「明月記」の世界』2020年、岩波新書、P.12
(2)慶滋保胤『池亭記』には、「西京(右京)は人家漸(ようや)く稀(まれ)らにして、殆(ほとほと)に幽墟(ゆうきょ。廃墟)に幾(ちか)し。人は去ること有りて来(きた)ること無く、屋(いえ)は壊(やぶ)るること有りて造ること無し」(坂本賞三他監修『改訂版詳録新日本史史料集成』2013年改訂29版、第一学習社、P.68)とある。
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2020年11月30日(月) |
反面教師 |
家康が慶長17(1612)年2月、2代将軍秀忠夫人(信長の妹小谷方(おだにのかた)の三女。崇源院)に書き送った手紙がある。その中に、家康の信長評・秀吉評が出てくる。興味深いので、次に紹介しておこう。なお、漢字は現行のものに改めてある。
「織田殿(信長)は近世の名将にて、人をもよくつかひ大気にて知勇もすぐれし人にて候得共(そうらえども)、堪忍(かんにん)七つ八つにて破れ候故(ゆえ)、光秀の事も起り申候。
太閤様(秀吉)は古今の大気知勇、至て堪忍強かりける故、卑賤より出、二十年の中に天下の主にもなられ候程の事に候得共、あまり大気故、分限の堪忍破れ候、大気ほどよき事はなく候得共、それも人の身の程を知らず、万事花麗(かれい)を好み、過分に知行(ちぎょう)を宛(あ)てがひ、そのほか人に物施すも大気にてはなく、驕(おご)りと申すものにて候。」(注)
信長は近世の名将であり、人材をもよく使い、度量が大きく知勇も卓越していた。しかし、堪忍袋が破れやすかったため、光秀の謀反(本能寺の変)を招いてしまったのだ。
秀吉は「古今の大気知勇、至りて堪忍強かり故(ゆえ)」卑賤より身をおこして、わずか20年のうちに天下を掌握したほどの大人物だった。しかし、天下を手中にしたとたん「分限の堪忍(身のほどをわきまえる辛抱)」が破れてしまった。万事に華麗なものを好み、家臣には分不相応な知行を与え、そのほかの人々にも気前よく物を与えた。それらは、器が大きいのではなく、驕りでしかない。
信長は、力のみを恃(たの)んで「堪忍」が足りず、家臣の離反を招いて滅んでしまった。秀吉は、天下を手中にしたとたん「堪忍」が破れ、身のほどをわきまえない驕りの中で身を滅ぼしてしまった。
だから家康は「堪忍(辛抱、我慢、忍耐)の事、身を守る事の第一に候」を持論とした。信長・秀吉はともに、家康にとっての反面教師だったのだ。
【注】
・徳川義宣「徳川家康の美意識」-NHK名古屋放送局編『NHK徳川美術館①奥道具の華~源氏物語絵巻と初音の調度~』1988年、日本放送出版協会、P.106-
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2020年11月29日(日) |
阿武山(あぶやま)古墳の被葬者は? |
1934(昭和9)年、大阪市高槻市奈佐原(なさはら)と茨木市大字安威(あい)の境に所在する阿武山(あぶやま)古墳(古墳時代末期、直径82メートルの円墳)の墓室の中から、60歳前後の男性と見られるミイラ状人骨が発見された。被葬者は中臣鎌足(なかとみのかまたり)と推測された。その根拠は何か。
第一には、その人物が豪華な埋葬施設に葬られていたことだ。
墓室は、花崗岩(かこうがん)製の切石(きりいし)と何枚もの素焼きタイルで組み上げられ、内側は漆喰(しっくい)で仕上げられてあった。その中に麻布を何層にも漆で固めて作った夾紵棺(きょうちょかん。外側は黒漆、内側は赤漆で塗られていた)が置かれ、大小600個のガラス玉を銀糸で編んだ玉枕(たままくら)に、錦(にしき)をまとった人物が眠っていたのだ。被葬者はよほど身分の高い「貴人」だったはずだ。
第二には、その人物の頭に金糸が巻きついていたことだ。
これは金糸で刺繍された冠帽と推測された。死に臨んだ鎌足は、天智天皇から「大織冠(たいしょくかん)」を授けられたという。大織冠は当時の最高冠で、日本人で史上これを賜与されたのは唯一鎌足のみ。被葬者の冠帽は、この大織冠だというのだ。
第三には、当時撮られた人骨のレントゲンに、テニス肘(ひじ)のような変形と腰椎(ようつい)などに骨折が見られたことだ。
鎌足は弓の達人で知られた。骨の変形は、強弓による鍛錬のしすぎによるものと推測された。骨折は死の半年前、狩猟の際の落馬に起因するものと推測された。
第四には、古墳の所在地(高槻市奈佐原~茨木市安威)だ。
『多武峯略記(とうのみねりゃくき)』などによると山階(やましな。山科)に埋葬された鎌足は、その後安威(あい)山に改葬されたとされる(その後、再び多武峯(奈良)に改葬されたと伝える)。
ただし、身分が高い人物は鎌足に限らない。同時代の「貴人」には、改新政府の右大臣阿倍内麻呂(あべのうちまろ)や左大臣蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)など、被葬者に比定しうる候補者は幾人もいる。また頭部に金糸が巻き付いていたからといって、誰も見たことのない大織冠に結びつけのは短絡的だし、骨の変形・骨折にしても状況証拠でしかない。また、墓室をおおう封土(ほうど)から出土した須恵器は7世紀前半のものという。それなら、被葬者が鎌足より古い時代の人物である可能性もある。
結局、「大織冠藤原鎌足(死ぬ直前に藤原姓を賜った)、ここに眠る」という文字を刻んだ金属製墓誌が遺跡付近から発見されでもしないかぎり、阿武山古墳の被葬者を中臣鎌足(藤原鎌足)と断定することはできないのだ。
【参考】
・中里裕司編『日本史の賢問愚問』2020年、山川出版社、P.16~17
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2020年11月28日(土) |
白石の反論(元号3) |
宝永8(1711)年4月25日、「正徳」と改元した。中御門天皇(なかみかどてんのう。在位1711~1716)即位にともなう代始めの改元だった。出典は『尚書正義(しょうしょせいぎ)』の「正徳者、自正其徳」による。
ところが翌年(正徳2、1712)10月、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ。1662~1712)が病死してしまった。大学頭林鳳岡(はやしほうこう。1644~1732)は『蜀都雑抄』等の書物を引用し「年号に『正』の字を用いたのが不祥だった」と難癖をつけ、「正徳」改元の意見書を老中に提出した。
側用人の間部詮房(まなべあきふさ。1666~1720)が新井白石(1657~1725)に意見を求めた。白石は次のように反駁した。
「天下の治乱、人寿の長短のごとき、或(あるい)は天運にかかり、或は人事によれり、いかむぞ年号の字によりて祥(しょう)と不祥(ふしょう)と有(ある)べき」
(天下がよく治まるか兵乱がおこるか、人間の寿命が長いか短いかは、天運や人の行いによるものだ。年号の文字によって祥・不祥のあるはずがない。)
こんなばかげたことを論じるのは「誠に無用の弁、言の費なるべし(本当に無用の議論で、言葉の無駄だ)」と一刀両断。
もし「正」の字が不祥なら、年号ばかりでなく月の名前に「正」の字を使うのも不祥だろう。古代から今に至るまで、不祥なはずの「正月」から1年が始まっている。それなら不祥でない年は1年としてないはずだ。もし「正」の字を年号に用いるのは不祥だが月に使用するのは構わないという理屈があるなら、その根拠を示してもらいたい。
そもそも日本・中国の年号を通覧すると、「正」の字を使おうが使うまいが、天下の治乱・人寿の長短と関係はなかった。年号のなかった古代であろうが、年号を使わず西暦を使用する西洋であろうが、天下の治乱・人寿の長短とは関係ない。
さらに言うなら「天子の号令、四海のうちに行はるる所は、ひとり年号の一事のみ(天子の号令するもので、国内に行われるのは改元のみである)」。改元は天皇の専権事項であって、幕府側の都合で勝手におこなうべきものではない。
白石の反対意見は徹底した合理主義に貫かれ、しかも激烈だ。鳳岡のことがよほど気にくわなかったのか。
結局、改元の議論は沙汰やみになった。
【参考】
・新井白石著・羽仁五郎校訂『折たく柴の記』1977年第21刷(1939年初版、1949年第3刷改版)、岩波文庫、P.187~P.193。なお、引用した史料は現行の漢字に改めた。
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2020年11月27日(金) |
元和改元(元号2) |
慶長20(1615)年、大坂落城を機に、家康は本格的に改元作業に取りかかった。名目は後水尾(ごみずのお)天皇(在位1611~1629)の代始(だいはじ)めの改元である。
禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の第8条に、改元の基本方針が示された(ただし法度の発表は、改元後の7月30日)。
「改元者漢朝年号之内(かいげんはかんちょうねんごうのうち)、以吉例可相定(きちれいをもってあいさだむべし)。但重而於習礼相熟者(ただし、かさねてしゅうらいにあいじゅくすにおいては)、可為本朝先規之作法事(ほんちょうせんきのさほうたるべきこと)。」
(改元は中国王朝の年号の中から、めでたい事例のものを選んで定めること。ただし、改元作業を重ねることで習礼(しゅうらい。儀式の予習・予行)をうまくこなせるようになったら、わが国の前例の作法に沿っておこなうべきこと)
同年6月19日、内勘文(ないかんもん。事前に元号の先例・故実等を答申すること)が行われた。この時いかなる元号案が検討されたかは不明。
7月13日、陣定(じんのさだめ。左近衛府の陣座(じんのざ)での審議)が行われ、次の9つの元号案が提示された。
元和、天保、永安、文弘、明暦、延禄、寛永、建正、享明
この中で「漢朝年号(中国王朝の年号)」を出典としたのは五条為経(ごじょうためつね)が勘申(かんじん)した「元和」のみ。唐の憲宗(けんそう)の年号(806~820)である。家康の命により「元和」が選ばれた。
なお、元和以外にも寛永(1624~1644)、明暦(1655~1658)、天保(1830~1844)の三つは、その後江戸時代の元号として選定されている。
家康は、豊臣氏を滅して戦国時代に終止符を打った。そのことを、豊臣時代の「慶長」から徳川氏による「元和」への改元によって天下に示したのだ。戦いが終わり平和が到来したゆえ、後年これを称賛して「元和偃武(げんなえんぶ。偃武は武器を伏せ片づけるの意)」という。
9年後の元和10(1624)年、この年の干支が甲子(かっし)にあたるところから、同年2月30日「寛永(かんえい)」と改元(甲子革令改元)。「寛永」は「漢朝年号」に由来しない。『毛詩朱子注(もうししゅしちゅう)』の「寛広、永長」を出典とする。
【参考】
・久保貴子「近世の元号」-『歴史と地理・日本史の研究267』2019年、山川出版社-
・米田雄介編『歴代天皇・年号辞典』2003年、吉川弘文館、P.309
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2020年11月26日(木) |
元号の評判(元号1) |
1615年、豊臣氏を大坂夏の陣に滅ぼした家康は、後水尾(ごみずのお)天皇の代始(だいはじ)めを理由に「元和(げんな、げんわ。1615~1624)」と改元した。秀吉時代の「慶長」を葬り去り、徳川氏に対抗しうる勢力のなくなったことを天下に示したのだ。
元和年中、京都で大火があった。京の人々は「元和ノ字ハケムクワト読ムベシ」と罵(ののし)り、元号に難癖をつけた。元和はケムクワ(けんか)とも読める。煙(ケム)・火(クワ)などという元号を選ぶから火事が起きたのだ、という意味だ。
そこで「寛永(かんえい。1624~1644)」と改元した。しかし、寛永という文字を分解すると「ウサ見・永」となる。「憂(う)さ見ること永(なが)し(つらいことが延々と続く)」だと、街なかでは元号をあげつらった。
寛永は20年ほど続いた。当時としては長期間に及んだ元号だった。
紫衣事件(しえじけん。1629)のごたごたの中、後水尾天皇が譲位して明正(めいしょう)天皇が即位した。しかし代始めの改元はなかった。1642年、後光明(ごこうみょう)天皇が即位した。さすがに一年号(寛永)が三帝(後水尾・明正・後光明)にわたった前例はない。「正保(しょうほう。1644~1648)」と改元された。
しかし、新元号の評判も悪かった。正保は焼亡(しょうぼう)に音の響きが似ている。正保元年は「正(まさ)に保元(ほうげん)の年」と読め、保元の乱(1156)のような大乱が起こる兆しだ云々(うんぬん)。悪評紛々だったので、後西(ごさい)天皇の即位を機に「慶安(けいあん。1648~1652)」と改元した。
ところが、改元ほどなく3代将軍家光が亡くなり、天下を揺るがす由井正雪の乱まで起こったのだった(1651)。
【参考】
・林鵞峰『改元物語』延宝元(1673)年(『改元物語、年号難陳』徳川昭武蔵本の写本、国立公文書館蔵、インターネットで閲覧可)
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2020年11月25日(水) |
小判を集める |
幕末、開国によって外国との貿易が始まった。来日外国人のなかには、日本と外国の金銀比価の違いを利用して、利益を貪ろうとする不心得者が大勢がいた(1)。その結果、外国人による小判の買いあさりが横行し、小判相場が不当につりあがった。そこで、相場以上で小判を取り引きする者がいれば処罰する旨、禁令が出た。
しかし小判の海外流出はとまらず、外国人が日本から持ち出した小判は約10万両にも及んだとされる。
長崎の外国人の中には、小判を集めるのにしばしば遊女を利用する者がいた。その手口は次の通り(2)。
遊女たちに、女心をくすぐるような珍しい品物をちらつかせ、小判と交換する。外国製品に興味をそそられた女たちは、品物を手に入れては町の者に売り払い、新たな品物を手に入れようとする。そのため、次々と珍奇な品物と交換しようと外国人のもとへ小判を届ける、といった具合だ。
外国製品を転売すれば大もうけできる。ある男が、遊女たちから外国製品を買い漁るため、小判で資金を用意した。しかし、一品も買わないうちに目論見が露見。男は長崎奉行所に捕らえられ、所持金はすべて没収されたという。
【注】
(1)「金銀の交換比率が、外国では1:15、日本では1:5と著しい差があったため、外国人は銀貨を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れ、その差額で大きな利益を得ようとした。」(佐藤信他編『改訂版詳説日本史研究』2008年、山川出版社、P.318)
(2)森永種夫『犯科帳ー長崎奉行の記録ー』1962年、岩波新書、P.125~126
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2020年11月24日(火) |
片輪車文(かたわぐるまもん) |
平安時代の貴族の自家用車である牛車(ぎっしゃ)。牛に牽(ひ)かせた車は、現在の乗り物に比べると、さぞかし乗り心地が悪かったろう。
何しろコンクリート舗装がされていない道を、振動を吸収するサスペンションもゴムタイヤも装着しない木製車輪の乗り物で移動したのだから。
木製車輪の欠点はこればかりではない。手入れをしないまま放っておくと、乾燥のためにひび割れを起こし、使い物にならなくなってしまうのだ。そこで、牛車を使用しない時期には車輪をはずし、川などの流水に浸してひび割れを防ごうとした。
そうしたメンテナンスの様子を意匠化したのが片輪車文(かたわぐるまもん)。たとえば、東京国立博物館が収蔵する片輪車蒔絵螺鈿手箱(かたわぐるままきえらでんてばこ。12世紀。国宝)の表面には、流水の中から半分その姿をのぞかせた片輪車が、蒔絵と螺鈿の技法でいくつも描かれている。
流水に片輪車を浸す情景は、平安京にすむ人々にとっては見慣れた風景のひとつだった。だからこそ、手箱や和鏡・料紙等を飾る意匠として、この時代の人々に広く好まれたのだ。
【参考】
・「e国寶」(ホームページ)の「片輪車蒔絵螺鈿手箱」解説ページ。
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2020年11月23日(月) |
甘い持参金 |
紅茶を日常的に愛飲する習慣をイギリスにもちこんだキャサリン王妃。イギリスに嫁ぐ際、ポルトガルから「持参金」として銀塊をもってくる約束だった。
これについては「キャサリン王妃は、持参金代わりにタンジール(北アフリカ)とボンベイ(インド)をイギリスにもたらし、これが大英帝国の海外発展のきっかけになった」と説明するのが普通だ。「持参金代わり」とわざわざ断っているのだから、「持参金」はもってこなかったと理解されている。
実際「持参金」はもってきた。ただし、銀塊ではなかった。バラスト(ballast。船を安定させるために船底に積む砂利などの重量物)代わりに、砂糖を船底に積んできたのだ。
当時の砂糖の価値について、角山栄氏の本には次のようにある。
「当時砂糖は銀塊に匹敵するほどの貴重品であった。茶も貴重品であったが、まったく輸入に依存していた砂糖は、1665年におけるイギリス輸入量はわずかに88トンにすぎなかった。これでは王侯貴族といえども容易に入手するわけにはいかない。」(注)
キャサリン王妃がもってきた砂糖は、ポルトガルの植民地ブラジルで生産されたもの。キャサリン王妃が輿入(こしい)れをした17世紀後半まで、砂糖の供給はブラジルがほぼ独占していた。ポルトガル王女だったキャサリン王妃だからこその「持参金」だったのだ。
かつては王侯貴族の富のシンボルだった紅茶や砂糖。それを一緒に飲むなどというのは、イギリス上流階級の奢った発明だった。
数百年前ならイギリスの王侯貴族たちがあこがれたティータイム。それを現在のわれわれは、「上流気取り」(スノッブ)もせず、日常的に楽しんでいるのだ。
【注】
・角山栄『茶の世界史』1980年、中央公論社(中公新書)、P.92
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2020年11月22日(日) |
上流気取り(イギリス人と紅茶) |
スノッブ(snob)という英単語がある。辞書には
「スノッブ、俗物。地位・家柄・富・教育などによって人を判断し、自分より上の人にこび、下を見くだす人物」(オーレックス英和辞典)
とある。このスノッブはイギリスの国民性のひとつだった。川北稔氏は次のように言う。
「イギリスではどんな身分の人にも、ぜいたくは法律で禁止されなくなっていました。というより、むしろぜいたくをできる者こそが上流階級だという考え方がつよくなっていましたから、上流気取り-英語では「スノッブ」というのですが-はイギリス国民全体の特徴だといわれていたのです。」(注)
このスノッブ(すなわち「上流気取り」)というイギリス人の国民性が、紅茶を国民的飲料へと押し上げる大きな動機のひとつだった。
当初紅茶は、東洋からはるばるもたらされる高価な輸入品で、健忘症・風邪などを治す貴重な薬とされた。だからイギリスでは、紅茶は薬屋で売られていた。
そんな貴重品である紅茶を、病気でもない者が嗜好品として飲むのはとんでもない贅沢だった。そのうち、カリブ海から運ばれてきたこれまた高価な砂糖を紅茶に入れて飲む、という暴挙を働くやからまで登場する始末。そんなばかげた浪費ができたのは、上流階級の金持ち連中だけだった。そのため、紅茶を飲む行為は、特権階級のステイタス・シンボルだった。
しかしあまりに高価だったため、特権階級でさえ紅茶を口にできる機会は、特別な場合に限られていた。
紅茶を日常的に飲む習慣は、一人の女性によってもたらされた。その女性の名は、キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza,1638~1705)。ポルトガルのブラガンザ王家、ジョアン4世の娘だ。1662年、キャサリン王女はイギリス国王チャールズ2世(1630~1685)のもとに嫁いできた。
ポルトガルは当時、貿易先進国だった。ゆえに、ポルトガル王女キャサリンは、日常的にふんだんに紅茶を飲むことができる環境にいた。
キャサリン王妃が住んだサマーセット・ハウスには、貴族をはじめとする多くの人々が訪れた。王妃は彼らを貴重な紅茶でもてなした。そこでは紅茶が、惜しげもなくふんだんにふるまわれた。そうした贅沢はイギリス特権階級の羨望の的となった。紅茶を日常的に飲むことに、彼らは強いあこがれをもった。
紅茶を飲むことが特権階級のステイタス・シンボルだったため、高価すぎて本物を買えない庶民たちも「イギリス産紅茶」と称するものを飲んでは上流階級を気取ったという。しかし、イギリスでは紅茶の葉一枚採れるはずがない。「イギリス産紅茶」なんていうもの自体、まがい物だったのだ。
あこがれの本物の紅茶が庶民にまで行き渡るようになるのは、大英帝国が海外に発展し、紅茶が安価で大量に輸入されるようになってからのことだ。
【注】
・川北稔『砂糖の世界史』1996年、岩波書店(岩波ジュニア新書)、P.81
【参考】
・森護『英国王室史話』1986年、大修館書店、P.428~429
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2020年11月21日(土) |
手前味噌 |
自分のことを誉めることを「手前味噌を並べる」という。手前味噌(自家製の味噌)の味を自慢したことに由来する表現だ。しかし「手前味噌」がまずい場合もあった。
天明8(1788)年、幕府巡見使の一行は東北地方から北海道までの視察を終えて江戸へ向かう帰途、水戸領に立ち寄った。この時、一行は地元の味噌・醤油のまずさに辟易(へきえき)した。
巡見使に随行した古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は、その理由を次のように書き残している。
「光圀公(注:水戸藩第2代藩主徳川光圀)御代(みよ)より民の奢(おご)りを大いに制し給(たま)い、分限(ぶんげん)に過ぎたる暮(くら)しをすれば厳しく罰し、家業出精(しゅっせい)して奢らざる民を厚く賞し給えば、民百姓互いに励み合いて国主の倹約を移し、いつとなく質朴の国風となりて、味噌・醤油などの宜(よろ)しきを食するものを奢りのごとく憎(にく)むゆえ、今に至ってかくのごとしといへり。」(注)
水戸領の味噌・醤油の味の悪さは、光圀以来の質朴なお国ぶりに由来するという。
たまたま味噌・醤油がまずかったため、こうしたエピソードが書き留められたのだ。現在、地元の味噌・醤油の味は、他所産のものとくらべてひけをとらない。全国的に味噌・醤油はうまくなったが、そのかわりにそれぞれにまつわる「物語」を失い、ひと味足りなくなったような気がする。
【注】
・古川古松軒著・大藤時彦校注『東遊雑記』1964年、平凡社(東洋文庫)、P.277
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2020年11月20日(金) |
印形(いんぎょう)は首と釣り替え |
江戸時代中期になると、都市庶民の間にもハンコが普及した。証文類を作成する場合、押印が必須だったからだ。
また、農村にもハンコは行き渡っていた。『五人組帳』や『宗門改帳』等を見ても、しっかり押印されている。
それは、年貢関係の帳簿類も同様だ。こうした帳簿類を作成する場合には、その内容に不正や誤りがないか本百姓ひとりひとりがチェックし、確認済みの押印することが建前だった。
もし村役人が百姓たちに帳簿を見せず、確認印をとっていない場合には過料(かりょう。罰金刑)に処せられた。ましてや無印が村役人の不正によるものだった場合は、名主は財産没収のうえ追放となった。『御定書百箇条』第95条には次のようにある。
「 村方帳面無印役人咎(とが)之事
一、年貢諸帳面、惣百姓(そうびゃくしょう)え不為見(みせず)、并(ならびに)印形(いんぎょう)於不取置(とりおかざるにおいて)ハ、名主役儀取上(やくぎとりあげ)過料、與頭(くみがしら。組頭)過料
但(ただし)、名主・與頭、私欲有之(これある)ニおゐてハ名主家財取上(かざいとりあげ)所拂(ところばらい)、組頭役儀取上過料」(1)
(村方帳簿類に押印がない場合の村役人の処罰のこと。
一、年貢関係の諸帳面を本百姓たちに見せず、ならびに押印をとっていなかった場合。名主は免職の上罰金刑、組頭は罰金刑に処する。
ただし、名主・組頭が私欲のために行った場合、名主は財産没収の上追放、組頭は免職の上罰金刑に処する。)
また、ハンコを偽造したり他人のハンコを乱用したりする「謀判(ぼうはん)」の罪は、年貢書帳面の無印の罪よりさらに重かった。『御定書百箇条』62条には次のようにある。
「 謀書・謀判御仕置之事(ぼうしょぼうはんおしおきのこと)
一、謀書・謀判致候者(ぼうしょぼうはんいたしそうろうもの)、引廻之上獄門(ひきまわしのうえごくもん)、加判之もの死罪」(2)
偽の証文等をつくり「謀判」した者は、見せしめのため江戸市中を引き回した上斬首し、その首を三日間晒(さら)す獄門に処する。連名して押印した者は死罪に処する、というのだ。
うっかり偽証文に「加判」(連署押印)しようものなら「死罪」になった。斬首された上死骸は様斬(ためしぎり)にされ家屋・財産まで没収されたのだ。
「印形(いんぎょう)は首と釣り替え」という諺がある。滅多なことで押印するものではない、押印する場合には首と引き換えにするほどの覚悟がいる、という意味だ。
この諺の背景には、ハンコを重んじる江戸時代以来の伝統がある。そしてわれわれは、重大な誓約の場に臨むたび「ハンコを押すまいか押そうか」としばし逡巡することによって、自らの意志と覚悟を確認してきた。
現在、作業の効率化をめざして企業・行政等の場から、ハンコを追放する動きが活発化している。煩雑で非効率的な習慣は改めてしかるべきだ。しかし「ハンコ文化」のすべてが「悪」というわけではない。後世に伝えるべき文化はしっかりと後世に伝えるべきだ。
【注】
(1)(2)『御定書.上,下巻』書写年不明、早稲田大学図書館蔵、請求記号:ワ03 06664(インターネットで閲覧可能)
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2020年11月19日(木) |
煬(よう) |
607年、小野妹子が遣隋使として隋に派遣された。中高生は「群れな(607年)す船は遣隋使」と覚えたものだ。
この時、隋の皇帝は煬帝(ようだい。580~618)。煬帝は諡(おくりな。亡くなった後に贈られる名)だ。
「煬」は、普段なかなかお目にかからない漢字だ。一体、どんな意味があるのだろう。手元の漢和辞典で「煬」の字を引くと次のようにある。本来は火にかかわる行為を示す文字だ。
「1 ①火を盛んにもやす。②あぶ-る。あぶってかわかす。
2 金属を溶かす。」(旺文社漢和辞典・第五版)
煬帝の諡は622年、その死体を改葬した際、唐朝によって定められた。諡は生前の事業を評価して、良い名を贈るのが通例。しかし「煬」の字は「色を好んで礼を無視したもの、礼に背き人民から嫌われたもの、天に逆らい人民を搾取したもの、などにつける諡」(注)だという。
手元の漢和辞典は「煬」の用例に「煬帝」をあげ、簡単な伝記を掲げる。
「隋の第二代の天子。姓は楊、名は広。父の文帝を殺して即位。ぜいたくを好み、土木工事を起こし、大運河を開き、離宮を造って、民衆に恨まれ、ついに部下に殺された。」(旺文社漢和辞典・第五版)
なるほど、これでは隋にとって代わった唐朝でなくとも、良い諡はつけなかっただろう。
【注】
・宮崎市定『隋の煬帝』1987年、中央公論社(中公文庫)、P.215~216
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2020年11月18日(水) |
徳川綱吉の死因 |
宝永6(1709)年正月10日、徳川綱吉(1646~1709)が亡くなった。綱吉の死因は麻疹(ましん。はしか)という。たとえば、石弘之氏の『感染症の世界史』には次のようにある。
「ハシカで亡くなった史上でもっとも有名な人物は、「生類憐みの令」を発した5代将軍綱吉であろう。( 中略 ) 綱吉もこのハシカの合併症とみられる病気であっけなく亡くなった。64歳だった。」(1)
しかし、綱吉は死去する前日、酒湯(ささゆ)の儀式を行っている。
酒湯というのは「米のとぎ汁に酒少々を加えたものを沸かして水浴し、発疹のかさぶたを洗う儀式で、次第に疱瘡・麻疹・水痘の回復を周囲に知らしめる華美な儀式と化していた。また入浴せずに、形式的に湯をかけるだけで済ますことも行われた」(2)というもので、快気祝いの儀式のこと。真偽のほどはさておき、綱吉の麻疹は公式発表では治癒していたのだ。
次の史料は、綱吉に近侍した護持僧隆光(りゅうこう)の日記の一部。綱吉が死去する前日(正月9日)と当日(同10日)の部分を抜き書きした。
(宝永6年正月9日)
「今日御酒湯御掛被遊(きょうおささゆおかけあそばさる)、但(ただし)、笹之葉(ささのは)ニ浸(ひた)シそゝぐ迄也(までなり)、御行水(ごぎょうずい)ニ而者(ては)無之(これなし)、( 中略 ) 今日者(きょうは)例年御誕生日之御祝儀有之(これあり)、其上(そのうえ)御酒湯も有之、御城中賑々敷也(にぎにぎしきなり)」(3)
(9日、酒湯の儀式が行われた。ただし、笹の葉を湯に浸して発疹の跡にふりかけるだけにし、行水は行わなかった。この日は例年の誕生日祝いに快気祝いと祝儀が重なった。そのため江戸城内はお祝い気分でにぎにぎしかった。)
(宝永6年正月10日)
「今朝早天御粥(おかゆ)二十め程(ほど)被召上(めしあがられ)、又五つ時御食十五匁(じゅうごもんめ)程被召上、御機嫌能候処(ごきげんよくそうろうところ)、俄(にわかに)痞(つかえ)指出(さしだし)、即時に相詰被成候(あいつまりなられそうろう)」(4)
(10日早朝、綱吉はお粥を20口ほどすすった。また、五つ時(午前8時頃)にも15匁(約56g)ばかり食事をとった。機嫌がよかったが、突然痞(つかえ)の症状が出て、そのまま食べ物を喉に詰まらせてしまった。)
隆光の日記を読む限り、綱吉の直接の死因は麻疹ではない。もどした食物を気道に詰まらせて窒息死したのだ。正月なので、おそらく餅を喉につまらせたのだろう。
【注】
(1)石弘之『感染症の世界史』2014年、洋泉社、P.251
(2)鈴木則子「江戸時代の麻疹と医療-文久二年麻疹騒動の背景を考える」日本医史学雑誌第50号第4号、2004年、P.506~507
(3)(4)永島福太郎・林亮勝校訂『史料纂集・隆光僧正日記第三』1970年、続群書類従完成会、P.252~253
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2020年11月17日(火) |
夜食のかたまり |
江戸時代に「夜食のかたまり」という言葉があった。子どもや妊娠をさす隠語だ。『江戸語の辞典』には次のようにある。
夜食の固まり
①愛の結晶。愛児。文化八年・六あみだ詣上「てんでに夜食のかたりに、いつてうらを引ツぱらせ」
②児戯の一か、未詳。享和二年・綿温石奇効報条「こふしたところハ、子供のするやしよくのかたまりのやふだと見物がいふだらう」(1)
そもそも夜食という習慣がなければ、こんな言い回しは生まれない。
昔は暗くなれば寝た。だから食事は明るいうちにすませた。しかし、安価な灯油(鰯などを絞ってとった魚灯油(ぎょとうゆ)。江戸では菜種油や綿実油を使った)が普及すると、夜遅くまで起きているようになった。活動時間が長びけば腹が減る。そのうち夜食をとるようになった。
三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)氏は「夜食がだんだん遅くなって、夜遅くまで起きていてものを食うところから、こういう転意(夜食を房事の比喩とする)を生じたのではないか」(2)と推測している。おそらくは氏の推測通りだろう。
【注】
(1)前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社(学術文庫)、P.1006
(2)三田村鳶魚著・朝倉治彦編『娯楽の江戸、江戸の食生活』1997年、中央公論社(中公文庫)、P.263
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2020年11月16日(月) |
夜食の少将 |
5代将軍徳川綱吉の寵臣(ちょうしん)、柳沢吉保(やなぎさわよしやす。1658~1714)が勢力絶頂だった頃のエピソード。
将軍の寵臣に取り入って出世をねらう大名たちが、連日柳沢邸に押しかけた。その応対に吉保は、毎日夜遅くまで追われた。
そうした折り、いずれの大名であったか、吉保にそばだかうどんだかの夜食を差し入れた者がいた。その心遣いを喜んだ吉保が翌日江戸城中で礼を述べると、これを聞きつけた大名たちが早速、我も我もと吉保に夜食を差し入れするようになった。
しかし、そんなにたくさん差し入れされても、もらう方が困ってしまう。そこで、夜食代名目で金品を送る大名があらわれた。それを聞きつけたほかの大名たちも真似をして、夜食代と称して吉保に金品を送るようになった。
『元正間記(げんしょうかんき)』(巻十三)には次のようにある。
「拙者(せっしゃ)は御夜食を代金にて指上可申間(さしあげもうすべきあいだ)、何成共(なんなりとも)御好(おこの)ミの物、被召上候様仕度(めしあがられそうろうようつかまつりたく)とて、御夜食代金目録(おやしょくだいきんもくろく)にて進上候(しんじょうそうろう)。
柳沢殿、是(これ)を聞(きき)、去(さり)とては御気(おき)の付(つい)た被成(なられ)かたとよろこばれける。
此(この)よし、諸大名聞伝(ききつた)へて、実(じつ)に能(よき)思ひ付(つき)也(なり)。柳沢殿御勝手(おかって)にもよし。此方(このほう)にてもこころ遣(づか)ひ致(いたす)よりハ、代金にて遣(つか)はせば手間(てま)の入らぬ事也(ことなり)とて、是(これ)より毎日毎日諸大名より夜食代被進候(しんぜられそうろう)も夥(おびただ)しき事共也(ことどもなり)」(注)
このエピソードにより、吉保は「夜食の少将(やしょくのしょうしょしょう)」という不名誉な異名を奉られた。吉保は左近衛少将だった(1698年に昇任。この官職は老中より上格)。
【注】
・『元正間記.巻1-26』写(書写年不明)、早稲田大学図書館蔵、請求記号:へ13 0296(インターネットで閲覧可)
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2020年11月15日(日) |
はた迷惑な御成り |
貴人の来訪を「御成り」という。
江戸時代、将軍が臣下の屋敷を訪問する「御成り」は滅多になかったが、5代将軍徳川綱吉(1646~1709)だけはちがった。柳沢吉保(やなぎさわよしやす)邸へは58回、牧野成貞(まきのなりさだ)邸へは32回、その他諸大名の屋敷にもしばしば「御成り」があった。
将軍の「御成り」は名誉なことで、その際には将軍から多大な下賜品があった。しかし、迎える側としては屋敷の改修・お供衆への饗応接待・献上品準備等に莫大な支出を余儀なくされ、ありがた迷惑だったことも確かだ。
次の記述は、児玉幸多氏が紹介する加賀藩前田家への「将軍御成り」の事例だ。
元禄15(1702)年4月26日、江戸本郷にあった加賀藩上屋敷に綱吉の「御成り」があった。幕府の指図もあって、この日のために加賀藩では、将軍をもてなす御成御殿(おなりごてん)を建設していた。棟数48、建坪3000坪にも及ぶ豪華な御殿の建設には、19万8千両の工事費がかかった。その他献上品・饗応等の費用をまかなうため、加賀藩が負った借金は36万両にものぼった。
しかし、綱吉の滞在時間は、午前10時頃から午後5時頃までのわずか7時間ほど。たった7時間の「将軍御成り」のために、加賀藩は莫大な借金を背負うことになった。そして、その返済のために、領民は十数年間苦しまなければならなかった。
さらにばかばかしいことに、将軍御成りの光栄に浴した豪華な御殿は翌年11月、もらい火事により焼失してしまったのだ。
【参考】
・児玉幸多『日本の歴史16・元禄時代』1974年、中央公論社(中公文庫)、P.380~382
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2020年11月14日(土) |
交通事故の罰則 |
江戸時代にも交通事故はあった。その際、交通事故の加害者には、どのような罰則が加えられたのだろう。
8代将軍徳川吉宗の時に編纂された『御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)』には、次のようにある。
「一、車引懸(ひきかけ)人を殺候時(ころしそうろうとき)、殺候方引候者(ころしそうろうかたひきそうろうもの)、死罪
但(ただし)、人二不當方(ひとにあたらざるかた)を引候者(ひきそうろうもの)、遠島
荷主重過料(じゅうかりょう)、車力之家主(しゃりきのやぬし)過料
一、同(おなじく)怪我為致候(けがいたさせそうら)ハバ其(その)方を引候者、遠島
但、不當方を引候者、中追放(ちゅうついほう)、荷主・家主、前同断(まえにどうだん)
一、牛馬を牽懸(ひきか)ケ人を殺候者、死罪
一、同怪我為致候ハバ中追放
但、渡世(とせい)難成程之怪我(なりがたきほどのけが)二候ハバ遠島」(1)
上の条文を現代語に訳すと、次のようになる。
1.大八車を引きかけて人を死なせた場合。
被害者に当たった側を引いていた者は死罪、そうでない側を引いていた者は遠島(2)。
車の荷主は重過料(3)、車引きの家主は過料に処する。
2.同じく大八車を引きかけて人に負傷させた場合。
被害者に当たった側を引いていた者は遠島、そうでない側を引いていた者は中追放(4)。
荷主・家主への罰則は前条に同じ。
3.牛馬を引きかけて人を殺した者は死罪。
4.同じく牛馬を引きかけて人に負傷させた者は中追放。
ただし、生活ができないほどのけがを負わせた場合には遠島。
「死罪」は死刑の一種。もう一つ「下手人(また解死人(げしにん)とも書く)」というのがあった。「死罪」「下手人」ともに斬首刑だったが、「下手人」は殺人にのみ科せられた刑罰だった。
「死罪」は殺人以外の犯罪にも科せられた刑罰で、「下手人」よりも重罰とされた。「下手人」は斬首のみで済んだが、「死罪」になると斬首されたのち死骸(しがい)は刀の様斬(ためしぎり)にされ、家屋敷・財産は没収された。
殺人なら「下手人」に処せられることが決まっていたが、過失などによる場合は遠島や追放で済むこともあった。それが交通事故で被害者を死なせてしまった場合には、過失であっても死を免れなかった。斬首された上に死骸は様斬(ためしぎり)にされ、家屋敷・財産まで没収される「死罪」と決まっていたのだ。
交通事故を撲滅したい一心の表れだろうが、江戸幕府が交通事故の加害者に対し、いかに厳罰主義で臨んだかがわかる。
【注】
(1)『御定書.上,下巻』書写年不明(早稲田大学図書館蔵、請求記号ワ03 06664)
(2)(3)(4)史料中の遠島・重過料・中追放について説明しておこう。なお、以下の説明は、石井良助『江戸の刑罰』1964年、中公新書によった。
遠島は島流し(流罪)のこと。江戸からの場合、大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島(としま)の七島に送られた。遠島になると、田畑・家屋敷・家財は闕所(けっしょ)となった。
過料は罰金刑で、銭3貫文または5貫文が科せられた。重過料になると銭10貫文以上20両あるいは30両が科せられた。事故と直接関係のない荷主・家主まで処罰対象になっているのはこの時代の刑法の特色で、連帯責任を負わせているからだ。
追放刑は軽中重の三つあった。現居住地・犯罪を行った国及び指定された地域(これを御構地(おかまえち)といった)から追放するもの。中追放の場合、武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河を御構地とした。
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2020年11月12日(木) |
わが国初の日刊邦字新聞 |
1870年12月8日の「横浜毎日新聞」の創刊は、わが国メディア史上画期的なできごとだった。
明治初期の新聞は読売(よみうり。瓦版)の系譜を引き、和紙に木版の片面刷り。発行も不定期だった。それを洋紙1枚ではあるが、鉛製活字を用いた両面刷りで、毎日発行したのだ。木版より摩滅が少ない鉛製活字の使用は、江戸時代よりはるかに多くの読者需要を見込んでいたことを示す。
それでは、この新聞を買い求めた読者の目的は一体何だったのか。それは「横浜」「毎日」「新聞」というネーミングを見ればわかる。
「横浜」は当時わが国最大の貿易港。ここで大量に売買されていたのは、近県農村から持ち込まれた生糸だった。輸出品の8割以上を生糸が占めていたのだ。それゆえ養蚕農家・貿易関係者たちは、生糸の価格変動に高い関心を払っていた。そうした貿易品の価格変動や両替相場、船舶出入等の情報を発信していたのが「横浜毎日新聞」だった。この新聞が伝える「生糸の市況など正確な情報は、全国で読まれた」(1)という。
こうした「新聞」(ニュース、情報)は常に最新・正確なものでなければ意味をなさない。だから「毎日」(=日刊)なのだ。
このように、当初は貿易関係記事や海外ニュース等を掲載していた「横浜毎日新聞」だったが、1874年頃から自由民権派の新聞として注目されるようになった。1979年には買収されて東京に本拠を移し「東京横浜毎日新聞」と改題。その後は経営者や新聞名を次々と変えながら存続したが1940年には廃刊。
なお、横浜では新市庁舎(横浜市中区本町6丁目)の完成にともない「横浜毎日新聞」創刊を顕彰する石碑(日刊新聞発祥の地)を再建した。2020年4月27日から公開しているという(2)。
【注】
(1)(2)『朝日新聞』2020年4月27日付け朝刊。
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2020年11月10日(火) |
ドロジアイ |
ドロジアイという言葉を聞くと、「泥試合」なるスポーツ競技を連想する人がいる。実際、ドロリンピックなどの名称で、泥田に飛び込むイベントを開催している地域はあるのだが。
しかし、ドロジアイは泥田の中を泳ぐ競技でもないし、ましてや泥団子を投げ合う遊びでもない。
そもそもドロジアイは「泥試合」でなく、「泥仕合」と書くのが正しい。「泥仕合を演じる」といえば、お互いの秘密や欠点を暴露しあって醜い争いを繰り広げるの意。
さりながら、「泥仕合」という言葉は何に由来し、どうして上記のような意味になったのだろう。
これを解明するヒントは、『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』の中にある。
「この世界(四篇の内容)いまだ新居(あらい)より桑名(くわな)までの道行(みちゆき)に終りて、伊勢参宮のまはり仕掛(しかけ)、大津街道の泥仕合(どろじあい)は、五篇目の打ち出しに載せたり」(注)
上記の文章は芍薬亭(しゃくやくてい。黄表紙作家)が、『東海道中膝栗毛四篇』の内容を紹介したもの(題膝栗毛四篇巻首)。道行(相思相愛の男女のかけおち場面。ここでは新居宿から桑名宿までの旅行の意)、まわり仕掛(まわり舞台。ここでは東海道から伊勢路にまわること)、泥仕合、打ち出し(芝居終演。ここでは五篇の末尾の意)と、出てくる単語はすべて芝居で耳にするものばかり。つまり芍薬亭は、芝居用語を連ねる趣向で、本の紹介をしているのだ。
だから「泥仕合」も、芝居用語のひとつ。
「泥仕合」は、舞台上に泥田を模した浅いプールを作り、その中で役者たちが立ち回りを演じる趣向のこと。これを演じると、役者・観客ともにテンションがあがる。
しかし、「泥仕合を演じる」と、舞台上ばかりか周囲にまで泥が飛び散り、役者の顔や着物はおろか客席までもが泥まみれ。ここから転じて、醜い争いをすることを、「泥仕合」と言うようになったのだ。
【注】
・十返舎一九著・興津要校注『東海道中膝栗毛(上)』1978年、講談社文庫、P.296
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2020年11月6日(金) |
打亮(だりょう) |
ある本を読んでいた時、次の記述が気になった。
「盛大な結婚式のことをよく華燭(かしょく)の典という。「華」は樺のことを指すから、華燭はすなわち樺の樹の皮を松明(たいまつ)にして明るくすることである。」(1)
寡聞にして、華燭の「華」が樺のことだと初めて知った。ただ、手元にあった旺文社漢和辞典(第五版)の「華燭」の説明は
「①はなやかで美しいともしび。②婚礼の席上のともしび。転じて、結婚の儀式。「-の典」《=花燭》」
とあるのみ。その他の辞典類をあたっても、「華は樺のことを指す」ということはとうとう確認できなかった。
そもそも「松明(たいまつ)」は、脂(やに)が多く燃えやすい松の特性を利用した「焚松(たきまつ)」を語源とする。樺の樹皮もまた、油分を含み燃えやすい。樺の一種ウダイカンバは、漢字にすると「鵜松明樺」と書く。少々水に濡れても火が消えないため、鵜飼の篝火(かがりび)に利用されたからだ。
華燭の「華」が樺を指すかどうかは定かでない。しかし、シラカンバやウダイカンバなどの樺類が、松などとともに松明に利用されてきたことは確かなようだ。
ところで、中国史上有名な農民反乱に、李自成(りじせい)の乱(1631~1644)がある。この乱を題材とした『暴風裏花(ぼうふうりか)』という小編の中で、幸田露伴(こうだろはん。1867~1947)は次のような恐ろしいエピソードを紹介している。
「自成の軍の向かうところ、直に迎えて降参した城は免(ゆる)されましたが、一日抵抗した城は、其(そ)の城中の者の十分の三の人数を殺し、二日抵抗した城は、其の城中の十分の七を殺し、三日以上の抵抗した城は全部これを屠(ほふ)り殺したと申すことです。人を殺しますと屍(しかばね)を束(たば)ねて燎(かがり)と為(な)しまして、之(これ)を「打亮」と申したということです。」(2)
打亮の「亮」は明るいの意。油分を含み明るく燃えるといえば、人間もまた同じなのだ。
【注】
(1)辻井達一『日本の樹木』1995年、中央公論社(中公新書)、P.85
(2)幸田露伴「暴風裏花」-幸田露伴『運命』1972年(第16刷改版)、岩波文庫、P.149- |
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2020年11月4日(水) |
平家琵琶を語る場所 |
室町幕府第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)は平家琵琶が嫌いだった。父の影響をうけたものか、8代将軍足利義政も平家琵琶を嫌ったとされる。
「公方(くぼう。将軍義教)平家(へいけ。平家琵琶)御無数寄歟(おんぶすきか。風流心がないのか)。名人共(めいじんども)御意(ぎょい)不快(こころよからず)。或(あるいは)被突鼻之間(とつびせらるるのかん。機嫌を損ねる、譴責される)、近年(きんねん)座頭(ざとう。盲人、琵琶法師)めみする人なし」(『看聞日記(かんもんにっき)』永享10年3月26日の条)(1)
(将軍は平家琵琶がお好きでないのか、名人だろうが思し召しにかなわない。また機嫌を悪くされるので、近年では琵琶法師で将軍にお目通りする者はいない)
ゆえに義教周辺の人々は戦々恐々。親王でさえ将軍を憚(はばか)って、こっそり夜陰にまぎれて琵琶法師を招き、平家物語を聞いたのである(2)。
当時は源平争乱から200年以上経っている。しかし、敗死した平家の怨霊は、いまだ世の中を跋扈(ばっこ)していた。たとえば、加賀国篠原の地には斎藤実盛(さいとうさねもり)の怨霊が出現。この怪異を機に、世阿弥は修羅能「実盛」を制作したとされる。
この時代には戦乱・自然災害が相次ぎ、人々は大勢の死者を目にする機会が多かった。そんな世だからこそ平家琵琶が流行したのだろう。当時の人々は、平家の亡霊たちに眼前の死者たちの姿を重ねあわせ、ともにそれらの鎮魂を願ったのではないか。
平家琵琶は当時、墓所で語られることが多かったという。
【注】
(1)(2)伏見宮貞成親王『看聞日記:乾坤(74)』1931年~1935年、宮内省図書寮、P.26(国立国会図書館デジタルコレクションによる)
【参考】
・梶原正昭校注『平家物語(一)』1999年、岩波文庫、解説(P.388)
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2020年11月3日(火) |
おかずの大関 |
江戸時代にはありふれたものだったが、現在ではすたれてしまった豆腐料理に「八杯豆腐(はちはいどうふ)」がある。
『日々徳用倹約料理角力取組(にちにちとくようけんやくりょうりすもうとりくみ)』は、精進方(しょうじんかた)・魚類方(ぎょるいかた)に分けて江戸庶民のおかずを列挙した見立番付(みたてばんづけ)。精進方の大関に「八はいとうふ」の名を挙げている(1)。八杯豆腐は、精進方の大関に見立てられるほど、江戸庶民にとっては身近なおかずの代表格だったのだ。ちなみに魚類方の大関は「めざしいわし」。
八杯豆腐の作り方は、百種の豆腐料理を掲載した『豆腐百珍』にでている(読みやすくするため、適宜句読点等を付した)。
「真(しん)の八杯(はちはい)とうふ。きぬごしのすくい豆腐を用ひ、水六杯・酒壱杯よく烹沸(にかへし)、後(あと)に醤油壱杯いれ、またよくにかへし豆腐を入る。烹調(にかげん)湯やつこの如(ごと)し。擦(おろし)大根をく」(2)
「水6:酒1:醤油1」の割合で汁を作り、合計が8になるから「八杯豆腐」なのだ。水を鰹出汁(かつおだし)に代えてもよい。『豆腐百珍』はほかにも、草の八杯豆腐、ぶっかけうどん豆腐、縮緬豆腐(ちりめんどうふ)、雪消飯(ゆきげめし)等さまざまな八杯豆腐のアレンジ料理をあげている。
手軽にできる料理ゆえか、インターネットで検索すると、八杯豆腐の再現を試みた多くのホームページにいきあたる。食欲の秋、江戸時代の庶民の食生活に思いをいたし、八杯豆腐で一杯やるのも一興。
【注】
(1)『日々徳用倹約料理角力取組』(東京都立中央図書館デジタルアーカイブ、請求番号「特2529-2(8)」。https//archive.library.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000014-00041648)
(2)「味の素食の文化センター」のホームページを開き、「図書館を利用する」→「江戸の図書(古典籍)」→「豆腐百珍」→「国文学研究資料館ウェブサイトで原文画像をみる」とたどれば原文が参照できる。
【参考】
・米澤誠「江戸の食文化」を巡る話題から(1):江戸の庶民のおかず(東北大学附属図書館報「木這子(きぼこ)」Vol.30,No.3、2005年
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2020年11月2日(月) |
粥(かゆ) |
江戸時代になって、食事は一日三食が一般になった。二食の習慣が残っていたのは、吉原と牢屋くらいだった(1)。
江戸と京坂では飯を炊く時間が異なっていた。江戸は朝炊き、京坂では昼炊きだった(2)。
江戸は朝炊きだったため、昼食・夕食が冷や飯だった。朝はあたたかい飯に味噌汁、昼は冷や飯に野菜・魚肉等のおかずを付けた。夕のおかずは香の物くらいで、冷や飯に湯をかけた湯漬(ゆづ)けをかきこんだ。
これに対し、昼炊きの京坂では朝夕が冷や飯だった。冷や飯は湯漬けでなく茶漬けにして食べた。茶漬けだったのは、周辺地域に茶の産地が多く煎茶(せんちゃ)を安く入手できたかったからだ。しかし、冬の冷や飯(特に朝)は冷たすぎてどうにもいけない。そこで冷や飯の茶漬けに塩を加えて煮てみた。これが茶粥(ちゃがゆ)だ。
こうして江戸時代、京坂では朝食に茶粥を食べるのが習慣になった。一方、朝炊きの江戸では、粥を食べることは滅多になかったという。
【注】
(1)三田村鳶魚著・朝倉治彦編『娯楽の江戸、江戸の食生活』1997年、中央公論社(中公文庫)、P.251~253
(2) 米澤誠「江戸の食文化」を巡る話題から(1):江戸の庶民のおかず(東北大学附属図書館報「木這子(きぼこ)」Vol.30,No.3、2005年、P.16~17
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2020年10月31日(土) |
男社会がファストフードを生んだ |
「火事と喧嘩は江戸の花」。
喧嘩が多いのは、江戸が極端に男性の多いまちだったからだ。江戸で吉原などの悪所(あくしょ)が繁栄したのも、女性が極端に少ない男性超過のいびつな人口構成の結果である。
なぜ、極端な男性超過の町になったのか。それは江戸が新開地で、一旗あげようとするやから、地方からの奉公人、参勤交代の地方武士たちなどであふれていたからだ。
当時はまだ戦国の遺風が漂う時分。無骨な髭(ひげ)をたくわえ、野犬を殺して食う「かぶき者」が横行するなど、武士たちの気性は荒かった。また、城下町建設や頻発する火事・災害からの復興需要で、建設・土木関連業種に周辺諸国から集まった男たちの気性もまた荒かった(1)。江戸の町なかに喧嘩が絶えないわけだ。
こうして江戸は、独身・単身赴任の男たちであふれていた。
彼らが抱える日常的な大きな問題の一つは、食事だった。男の一人所帯では日常的に食事を作るは億劫(おっくう)だった。男たちの多くは振売(ふりうり)・棒手振(ぼてふり)・大工・左官など外で働いていたが、当時の江戸には外食の習慣がなく、食事をとれる店そのものがなかったのだ。
外食産業発達の画期となったのが明暦の大火(1657)だったという。
延焼・類焼を防ぐため、幕府は広小路(ひろこうじ)・火除地(ひよけち)と呼ばれる空き地をあちらこちらにつくった。従来、外敵の侵攻を遅らせるため、城下町の道幅は極端に狭小でくねくねと曲がりくねっているものだった。道幅の広い道や広場を設けることなど、城下町防衛上とんでもないことだったのだ。世の中が平和になったからこそ実行できた江戸復興プランである。
復興需要でさらに多くの労働者が江戸に集まった。それを当て込んで食事を提供する料理屋ができた。広小路・火除地の広場に恒久建造物を造ることは禁止されていたため、田楽(でんがく)・燗酒(かんざけ)・鮨(すし)等さまざまな物売りが屋台をだした。
ただし男たちは「たらふく飯を食うと体が重くなって仕事ができない」とわがままを言った。
「鳶(とび)の者でなくっても、大工にしろ、左官にしろ、あるいは棒手振(ぼてふり)にしても、駕籠舁(かごかき)にしてみても、不相当に身体を烈(はげ)しく使うものだからうんと食っては仕事が出来ない」(2)
男たちは、栄養価の高い食べ物を少量ずつ、何回にもわけて手軽に摂(と)ることを欲した。
こうして、すぐにかきこめるように汁を麺にかけたかけ蕎麦(麺状にして食べるようになるのは江戸時代半ばから)、一つ二つとつまむことができる天麩羅(もともとは南蛮料理)や鮨(現在のような「握り鮨」は江戸時代後半から)、そして鰻の蒲焼き(上方で生まれ江戸時代半ばに江戸に伝わる)の「江戸前四大料理」が成立していったのだ。
【注】
(1)『人国記』(著者・成立年とも未詳。浅野健二校注『人国記・新人国記』1987年、岩波文庫による)は江戸周辺の人々の気性の荒さを次のように記す。
「(上総の)人は別して気質偏屈にして、その勤(つと)むるところ諸民ともに、常に山賊(さんぞく)・夜討(ようち)を本(もと)と覚えて、正道を知る人、百人に九十人これ無し」
「(常陸の国は)ただ盗賊多くして( 中略 )世の唱(とな)ふるにも、常陸の国を指して全(まった)き人(注:道徳完備の人)なき国と呼(よば)わり( 後略 )」
「(下野の風俗は)邪気甚(はなは)だしく、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)にして、常に業とする事とては、辻切(つじぎり)・強盗(ごうとう)の類にて少しも恥(は)づる事なく、欲心ありてつれなく( 後略 )」等々
さんざんな悪評ばかりだ。しかし戦国末、関東諸国の気風をいく分かは反映しているのだろう。
(2)三田村鳶魚『娯楽の江戸 江戸の食生活』1997年、中央公論社(中公文庫)、P.288
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2020年10月30日(金) |
胸毛の武士社会 |
昔、受験生は
「武士社会は胸毛に始まり、胸毛に終わる」
と、年号を語呂合わせで覚えた。ふざけた覚え方だが、妙に記憶には残ってしまう。
いい胸毛。清盛、太政大臣になる。
1167年
イヤ!胸毛。慶喜、大政奉還。
1867年
ところで、18世紀には百万都市だった江戸。男性人口が極端に多かった。しかし時代が下るにしたがい、女性人口の割合が徐々に上昇。ちょうど50%を越えた1867年に大政奉還がおこなわれ、江戸幕府は滅亡(注)。
武士社会の崩壊は、女性たちから「イヤ!胸毛」と総スカンを食らったのが原因?
【注】
大石慎三郎氏によれば、江戸の女子人口(百分比)は次のように推移したという(大石慎三郎『江戸時代』1977年、中央公論社(中公新書)、P.123~124)。
35.52%(1721年)→39.82%(1746年)→42.50%(1798年)→45.47%(1832年)→48.74%(1854年)
→49.24%(1861年)→50.82%(1867年) |
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2020年10月29日(木) |
文殊の知恵 |
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は、東方清涼山(せいりょうざん)にすむとされる仏。中国では五台山(ごだいさん)がその霊地とされ、五台山で修行した天台僧円仁(えんにん。山門派の祖。749~864)が、わが国に文殊信仰を持ち帰った。無論、それ以前にも文殊信仰はあったが、一般には普及していなかった。
文殊菩薩は貧窮病者の姿に身をやつし、文殊を篤く帰依する行者(ぎょうじゃ)の前に出現するという。そこで、文殊菩薩像をまつり貧窮病者に布施する文殊会(もんじゅえ)が開催された。
最初は一部僧侶による私的な法会だった。それがのちには国家が肩入し大々的な法会となった。『延喜式』を見ると、文殊会にあてる費用を国家が支弁していたことがわかる。しかし、律令国家の衰退とともに、文殊会も衰微の一途をたどった。
文殊会を再興したのは鎌倉時代、律宗(西大寺)の僧侶たちだった。とりわけ、母親の影響により、文殊に深く帰依した忍性(にんしょう。1217~1303)の力が大きい。忍性は、文殊信仰にもとづき貧窮病者の救済に奔走。その影響を受けた西大寺教団は、以後各地で大規模な文殊会を行うようになった。
なお忍性は、光明皇后が千人の病いを清める願を立てたとする伝説の地に、癩病者(らいびょうしゃ。ハンセン病)のための長屋を造営している。北山十八間戸(奈良市。国史跡)とよばれるこの施設は、わが国最古の社会事業施設の一つとして知られる(現存施設は再建)。
信仰を一つの根っこにし、これらの社会事業は継承されてきた。諺(ことわざ)に「三人寄れば文殊の知恵」という。これも文殊のすぐれた知恵のなせるわざなのかもしれない。
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2020年10月27日(火) |
金沢猫 |
とら、こま、かな。
これらは江戸時代、東国方言で、ある動物をさした名前だ。何という動物だろう。
答えは、飼い猫。
「とら」は「虎柄(とらがら)模様の猫」に、「こま」は「ねこま(猫の古称)」に、それぞれ由来する名前だろう。最後の「かな」は「金沢猫」に由来する。
「かなといふ事はむかしむさしの国金沢の文庫に、唐(から)より書籍(しょじゃく)をとりよせて納めしに、船中の鼠(ねずみ)ふせぎにねこを乗(のせ)て来る。其(その)猫を金沢の唐(から)ねこと称す。金沢を略してかなとぞ云(いい)ならはしける。( 中略 ) 今も藤沢の駅わたりにて猫児(ねこのこ)をもらふに、其人(そのひと)何所(どこ)猫にてござると問へば、猫のぬし、是(これ)は金沢猫なり、と答るを常語(じょうご)とす。」(越谷吾山『物類称呼』1775年刊ー東條操校訂、1941年、岩波文庫、P.33~34ー。読みやすくするため、漢字は現行のものに改め一部かな書きとし、適宜句読点を付す等した)
(猫を「かな」という由来。昔、武蔵国金沢文庫に、中国から書籍を取り寄せて納入するのに、船中の鼠害を防ぐために猫を乗せて来た。その猫を「金沢の唐猫(からねこ)」といった。金沢を省略して「かな」といいならわしたのだ。( 中略 )今も藤沢宿(ふじさわしゅく。東海道の宿場町)あたりでは、猫の子をもらうのに、「どこの猫ですか?」とたずねると、猫の持ち主は「これは金沢猫です」と答えるのが常の言葉である)
寺社等では経巻・仏具等を鼠害から守るため、古くから猫を飼ってきた。飼い猫を「かな」とよぶ東国方言は、金沢文庫に納入する書籍を鼠害から防ぐため、猫を飼った歴史を物語る名残りなのだ。
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2020年10月26日(月) |
どこのお寺の鐘の音?(柿2) |
今日10月26日は「柿の日」。1895(明治28)年のこの日、松山で結核静養していた正岡子規(まさおかしき。1867~1902)が、上京途中、奈良に遊んだ。
奈良は柿の産地で、子規も無類の柿好き。さらに子規には、人口に膾炙(かいしゃ)した次の句がある。
柿食へば鐘がなるなり法隆寺
10月26日、子規は奈良市街・寺社を観光し、対山楼角定(たいざんろうかどさだ)に投宿。翌27日には東大寺周辺、28日には法華寺や「西の京」周辺、29日には法隆寺を散策。
これが子規生涯最後の旅行となった。
のち、病床の子規はこの時の奈良旅行を懐かしんで、『くだもの』という随筆に書いている(1)。それによると、宿で夜、柿を食べたいと子規が所望すると、女中が大丼鉢(おおどんぶりばち)に山のように御所柿(ごしょがき。完全甘柿の品種のひとつで、奈良県御所(ごせ)原産という)を盛ってきたという。すると、どこからかお寺の鐘の音が聞こえてきた。どこの鐘か。柿を剥(む)いてくれている若い女中に尋ねると、東大寺の初夜の鐘とのこと。そこで子規の句。
長き夜や初夜の鐘撞(つ)く東大寺
子規が聞いたのは、東大寺の鐘の音だった。それを法隆寺訪問後、「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」と改案した。この句に秋の情趣をもたせるには、柿と法隆寺の取り合わせの方がよりしっくりくると思ったのだろう。
また、この句には、夏目漱石(なつめそうせき。1867~1916)がつくった「鐘つけば銀杏(いちょう)ちるなり建長寺」への返礼の意味が込められていたという(2)。子規の旅行費用を工面してくれた親友に、感謝の意を表したのだ。
【注】
(1)正岡子規『くだもの』1901年(青空文庫で閲覧可能)。
(2)『日本の古寺・仏像DVDコレクション1・法隆寺』2011年、デアゴスティーニ・ジャパン、P.25参照。
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2020年10月24日(土) |
カキあやまり(柿1) |
小学生の日記に「うちの姉(あね)も、日ごとに色づいてきました」とあった。それを読んだ先生、「○○君のおねえさんもそろそろ年頃になって、色気づいてきたんだな」と、妙なところに感じ入ったという。
実際は書き誤り。小学生が背伸びして「柿(かき)」という漢字を書こうとしたところ、まちがえて「姉」とやらかしてしまったのだ。
閑話休題(かんわきゅうだい)。
わが国の柿の歴史は古く、すでに縄文時代の遺跡から野生種の柿の種が出土するという。栽培種の柿は、奈良時代に中国から伝来したとされる。渋柿だったため、渋抜きして干し柿・熟柿(じゅくし)の形で食べられた。
鎌倉時代、突然変異によって甘柿が生まれた。だから、渋抜きせずに食べることができる甘柿は、わが国固有の種なのだ。
われわれの祖先が砂糖の味を知った歴史は浅い。その後も柿は、身近な甘味を提供する食べ物として、先人たちによって栽培されてきた。品種改良が繰り返され、現在、栽培品種は約1,000種の多きに及ぶという。
こうして秋になると、あちらこちらで柿が赤い実(一説によるとカキの名は「アカキ実」に由来するという)をつける風景を目にするようになった。日本人の郷愁をさそう秋の原風景は、こうして生まれたのだ。
ところで江戸時代、長崎出島のオランダ商館に約1年半(1775年8月~1776年12月)、医師の資格でツンベルグが滞在したことがあった。ツンベルグ(カルル・ペーテル・ツュンベリー。1743~1828)はリンネに師事したスウェーデン人博物学者。植物採集を主な目的に来日し、その成果はのち『日本植物誌』(1784)となる。柿の学名は、このツンベルグが日本の柿を見て命名した。
Diospyros kaki Thunberug(ディオスピーロス・カキ・ツンベルグ)
ディオスピーロスは「神の食べ物」の意。カキは日本語の柿をそのまま学名としたものだ。 |
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2020年10月8日(木) |
元帥(げんすい) |
戦前の軍隊における最高地位を「元帥」と言った。
元帥は、国家に特別な勲功のあったエリート軍人に賜与される称号である。元帥府条例(1898年制定)には、勅を奉じて陸海軍の検閲を行い、元帥佩刀(はいとう)・元帥徽章(きしょう)を賜り、佐官(さかん)・尉官(いかん)各1名を付すと定められていた。日本海海戦(日露戦争)の英雄東郷平八郎(1847~1934)をはじめ、計28人が元帥と呼ばれた(1)。
この「元帥」という言葉は、一説によれば、仏教の大元帥明王(だいげんすいみょうおう)に由来するという。
大元帥明王は、かつて荒野にすんで人を食っていた悪鬼神だったが、シャカの説法によって改心し、護法善神となった。猛烈な軍神として国家安穏(こっかあんのん)・怨敵調伏(おんてきちょうぶく)の任に当たり、すべての明王の総帥ゆえ「元帥」と名づけられたという。
伝承によれば、天慶(てんぎょう)の乱に際し、教王護国寺(東寺)の僧泰舜(たいしゅん)が「大元帥法(だいげんのほう。「帥」の字は読まない)」を修した。この鎮護国家の秘法により、「新皇」を僭称した平将門(?~940)は討滅されたのだという(2)。
【注】
(1)三國一朗『戦中用語集』1985年、岩波書店(岩波新書)、P.164~165
(2)もっとも、将門討滅の功を主張するのは東寺に限らず、東大寺や成田山新勝寺等数多い。
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2020年10月7日(水) |
アオダイショー(青大将)も海が似合う? |
漢字の読み方はむずかしい。同じ漢字でも、一般人とは異なる読み方をする職業の人々がいる。たとえば、法律関係者は「施行」をシコウではなくセコウと読み、「遺言」をユイゴンではなくイゴンと読む。
戦前の日本の軍隊はもっと極端だった。外来語を嫌い、軍隊用語を無理やり漢語や和製翻訳語に変換した。編上靴(あみあげぐつ)をヘンジョーカ、物干場(ものほしば)をブッカンジョー、キャラメルをグンローセー(軍粮精)などとよんだという。
さらに厄介だったのは、ライバル意識が強かった陸軍と海軍で、使用する軍隊用語やその読み方が違ったことだ。たとえば陸軍の機関銃を海軍では機銃、陸軍の高射砲を海軍では高角砲とよんでいた。
「大将」の読み方も陸軍と海軍では違った。陸軍では「タイショー」だが、海軍では「ダイショー」だった。
なるほど、だからワカダイショー(若大将。加山雄三氏)は海が似合うのか。
【参考】
・金田一春彦『日本語新版(上)』1988年、岩波書店(岩波新書)、P.28~29
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2020年9月16日(水) |
お仁王さまのルーツ |
アレクサンドロス大王の東方遠征によって、インド西北部のガンダーラ地方ではギリシア文化とインド文化が融合し、新しい文化が生まれた。それまでインドでは、菩提樹や法輪などを石などに刻み、シャカの代替表現としていた。それが、シャカ自身の姿を造像するようになったのだ。仏像の誕生である。ゆえに初期のシャカ像は、まるでギリシア人のような顔立ちをしている。
仏法を守護する執金剛神像も、ガンダーラではギリシア彫刻のような風貌をもち、手には棍棒を携えている。モデルは、ギリシア神話のヘラクレスという。
しかし、執金剛神像が手に持つ武器は、そもそも棍棒ではない。その名は「金剛杵(こんごうしょ。先端が尖った古代インドの武器)を持つ神」に由来。雷をかたどったとされる金剛杵だ。
わが国最古の執金剛神像は、東大寺法華堂に安置される塑像(そぞう)。天平文化の代表的作品で、右手に長さ78cmの金剛杵を握り、仏敵に忿怒形(ふんぬぎょう)で立ち向かう甲冑(かっちゅう)姿の独尊だ。
執金剛神像はやがて仏の近辺守護から離れ、山門に立つようになった。仏のガードマンから、寺域全体の守護へと役目が拡大したのだ。本来は独尊だったが、口を開いた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の二体に分身し、金剛力士像と呼ばれるようになった。二体一対のため「仁王(二王)」と俗称される。
二体の金剛力士像は甲冑を着せず、ふつう上半身裸形(らぎょう)で天衣(てんね)をまとう姿に造像される。ただし、金剛杵を持ち忿怒形なのは、単独の執金剛神像に同じ。
金剛力士像の代表例は、もちろん東大寺南大門の金剛力士像。鎌倉文化の代表的作品で、運慶・快慶らがわずか2カ月で造りあげた巨大木像彫刻だ。
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2020年9月8日(火) |
杉の酒樽 |
杉の語原は一説によると「直(す)ぎ」という。真っ直ぐに生長する樹木の意だ。導管に沿って縦に真っ直ぐに割れる。建築材・家具・工芸品等、真っ直ぐな木材の用途は広い。
なかでも、杉の特長を生かした製品で、近世の物流に大きな影響を与えたといえば、酒樽だろう。
室町時代、酒は壷に入れ、そこから汲みだして販売された。室町幕府は高利貸しを営んだ酒屋に臨時税(酒屋役)を課したが、その金額は所有する酒壷の数に応じた。酒の入った陶器製の大きな壷は重く、動かすのに不便で、酒壷数をごまかすことが困難だったためだ。
銘酒の生産地は、伏見・灘など上方に集中する。だからたとえば、京都伏見の銘酒は伏見近辺まで行かないと飲めなかった。
酒の販路を拡大するためには、迅速に積みおろしできる丈夫な密閉容器と船足の速い船が必要だった。船に速度が必要なのは、防腐剤などなかった時代、遠隔地まで運ぶのにもたもたしていると、酒が酢になってしまうからだ。
近世になって全国流通網が整ってくると、各地の名産品が大坂・江戸にいったん集められて、全国へと供給されていくようになる。その際、上方の酒造地域から、江戸への販売を可能としたのが杉製の酒樽と樽廻船だ。
樽は密閉が可能で、船体が揺れても中の液体がこぼれない。規格を統一すれば、船積み荷物としては最適だ。薦(こも)で包めば転がして、比較的簡単に荷積み・荷おろしができる。
酒樽は、樽廻船によって大坂から江戸へ運ばれた。樽廻船には「小早(こはや)」の別名がある。酒樽輸送専用の小型快速船の意味だ。新酒ができると、競い合うようにして江戸を目指した。
この時、樽廻船で運ぶ酒樽には、思わぬおまけがついてきた。船に揺られると樽の中で酒の味がまろやかになった。さらには杉樽の香りが酒に移り、何ともいえぬ風味が増した。伏見・灘など本場で飲むより、江戸で飲む酒の方がうまいのだ。
面白くないのは上方の連中。そこで、江戸へ酒樽を運ぶ船を太平洋の富士山の見えるあたりで引き返させた。そして、うまくなった酒を「富士見酒(ふじみざけ)」と称して賞翫したという。
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2020年9月6日(日) |
イナゴを食べる |
たまたま夕方のテレビドラマ(「大唐見聞録」)を見ていると、イナゴの異常発生がもたらした飢饉を、イナゴを食料とすることによって解決する、という場面が出てきた。ドラマがフィクションであることはさておき、昆虫食が気になった。
イナゴはイナゴ科イナゴ属の昆虫の総称。わが国でも江戸時代、京坂では、このイナゴを串焼きにして、子どもが売り歩く商売があった(1)。今でも昔なつかしい「珍味」として、イナゴの佃煮(つくだに)が店頭に並んでいる。
狩猟・農業以前の社会では昆虫は主食の一つであり、それゆえ現在でも、世界各地に食虫習俗が広く伝承されている。大正年間の調査によると、当時はわが国でも55種の昆虫が食用に供されていたという(2)。
こうした昆虫食は現在廃れているように見える。それは、第二次世界大戦後の食生活の多様化や農薬大量散布による食用昆虫の激減等がおもな原因だろう。
それゆえ、学校の弁当のおかずにイナゴの佃煮を持って行ったところ、それを見た周囲の児童たちが「虫が出てきた」とパニックを起こしたという話も聞く。昆虫食を知らない世代にとっては、いかもの食いなのだ。
ただし、世界の人口増加がこのまま進めば、遠からず食糧危機に陥ることは間違いない。その際に、もっとも利用が期待される動物タンパク源が、昆虫とオキアミ類だという。
そうとはいえ、一部地方を除いて食虫習俗を失った現代では、昆虫の「姿煮・姿焼き」を口にすることにはやはり抵抗がある。家畜の飼料や栽培漁業の魚餌などにして間接利用するか、小麦粉のように粉末にして食材としての活用をはかるなど、虫としての原形をとどめない工夫が必要だろう。
昆虫食の未来には課題が多い。
【参考】
(1)喜田川守貞『近世風俗志(守貞謾稿)(一)』1996年、岩波書店(岩波文庫)、P.284・286
(2)小西正泰「食虫習俗」-金子浩昌外『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.192~193-
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2020年9月4日(金) |
九品(くほん) |
清少納言が女房たちと雑談していたところ、主人の定子(ていし)が何やら書き物を投げて来た。開いてみると
「人、第一ならずはいかに(一番じゃなかったらどうするの?)」
とあった。日頃、清少納言が「人に思われるなら一番じゃなきゃいや!。二番目、三番目だったら死んだほうがましよ!」と公言していたからだ。
定子への清少納言の返答が次。
「九品蓮台(くほんれんだい)の間(あいだ)には、下品(げぼん)というとも」
九品蓮台(くほんれんだい)は、阿弥陀如来の極楽浄土へ往生した者が座(すわ)る蓮華(れんげ)の台(うてな)のこと。生前における信心の深さ・行動の善し悪し等により、座る場所が異なる。
蓮台は上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)の三つに分かれるが、さらにそれぞれ上生(じょうしょう)・中生(ちゅうしょう)・下生(げしょう)の三つに細分される。つまり、上から順に上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・・・下品下生と九段階の区分があり、これらを総称して九品蓮台というわけだ。
清少納言の定子への返答は「ご主人の定子様に思っていただけるなら、一番・二番でなくても、九品蓮台の下の方であっても私は満足です」という意味。このあと彼女は、定子から
「第一の人に、また一に思はれんとこそ思はめ(一番の人に一番に思われようと思いなさい)」
とたしなめられる。
さて、生前の功徳によって、極楽浄土で座る蓮台には九品の区分があるというが、自分がどの区分に該当するかは臨終の際の「お迎え」でわかるという。
極楽浄土から「お迎え」に来るメンバーや乗物は、上位と下位とでは雲泥の差がある。
たとえば、上品上生(じょうぼんじょうしょう)の人のもとには阿弥陀如来をはじめ脇侍(わきじ)の観音菩薩(かんのんぼさつ)・勢至菩薩(せいしぼさつ)をはじめ大勢が、金剛台(こんごうだい)という乗物を用意して「お迎え」にくる。会社でいうなら社長・重役らが総出で、リムジンを用意して迎えに参上するようなものだ。
これが上品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)、上品下生(じょうぼんげしょう)・・・と下になるほど「お迎え」にくるメンバーの人数が少なくなり、乗り物のランクも下がっていく。下品下生ともなると、もはや「お迎え」はなく、乗物だけが配される。
下品下生(げぼんげしょう)は、本来なら地獄に堕ちるような極悪人ばかり。それが念仏を唱えた功徳によって罪が除かれ、阿弥陀如来によって救われるのだ。乗物が来るだけでも、ましなのだ。
【参考】
・『枕草子』の引用は池田亀鑑校訂『枕草子』1962年、岩波文庫、P.148~149による。
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2020年8月28日(金) |
幕府の奥医師になった薮医者 |
江戸時代中頃、日本橋に篠崎三哲(しのざきさんてつ。?~?)という小児科医がいた。これがとんでもない薮医者(やぶいしゃ)で、どんな患者に対しても、いつも同じ薬しか処方しなかった。
馬場文耕(ばばぶんこう。1718~1758)の『当世武野俗談(とうせいぶやぞくだん』(岩本活東子編『燕石十種』所収)には、次のようにある。なお、読みやすくするため、句読点を入れるなど一部表記を改めた。
「三哲はいか成(なる)病人にも紅花散(こうかさん)の一方のミなり。此外(このほか)をもる事なし。( 中略 )「ヤレきぬ(ママ、「ゐ」)たハ、奇妙じや」と萬人(ばんにん)こぞつて今に年を重ねてはやる事也」(注)
三哲はどんな病人にも、紅花散しか出さない。紅花散は、紅花(べにばな)の花弁を乾燥させた紅花(こうか)を粉末にしたもの。血行促進の効能ありとされた薬だがありふれたもの。ところが三哲が処方すると、なぜかどんな病気にも効いた。「やれ効(き)いた。これは不思議だ」というので千客万来、家業は年を重ねるごとに大繁盛。ついには「名医」の評判を得るに至った。
頭痛であろうが腹痛であろうがおかまいなしに、いつも風邪薬しか処方しない医者がいたなら、それは正真正銘の薮医者だろう。それでも不思議と治ってしまうというのだ。
「病の半分は気の病」という。たとえ偽薬(ぎやく)であっても、医者を信頼していれば患者の半数は治ってしまうものらしい。おそらく、三哲は弁舌巧みな世渡り上手な医者だったのだろう。
国立公文書館HPの解説(「旗本御家人Ⅲお仕事いろいろ」の「11.当世武野俗談」の解説)によれば、第9代将軍徳川家重(とくがわいえしげ)にお目見えし、西丸奧医師(にしのまるおくいし)を拝命した篠崎三徹は、篠崎三哲とおそらくは同一人物ではないか、とある。
もしそうであるならば、「名医」の評判を得た町の薮医者が、ついには幕府の奧医師に登り詰めたことになる。
実力を過大評価した世間の評判と、そのハロー効果によって得た栄達。現代社会にも、似たような例はある?
【注】
・国立公文書館HP(「旗本御家人Ⅲお仕事いろいろ、11.当世武野俗談」)所載史料による。
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2020年8月27日(木) |
世襲の医者 |
伝統芸能者などを除き、世襲に対する世間の目には厳しいものがある。
たとえば、世襲の医者については、江戸時代にも批判があった。世襲という特権の上にあぐらをかき、医術の研鑽に努めないため、いわゆる「薮医者(やぶいしゃ)」が多かったからだ。
国立公文書館のHP(「旗本御家人Ⅲお仕事いろいろ」の「11.当世武野俗談」の解説)は、その辺の事情を次のように書いている。
「幕府の奥医師は最高の医術を身につけた医師の集団であるはずですが、実際には必ずしもそうではありませんでした。とりわけ世襲の医師は医術の習得に努めないので役に立たない場合が多く、このため町医者や藩医のうちから医術にすぐれた者を御目見医師とし、さらにその中から奥医師に抜擢することが行われました。」
貝原益軒(かいばらえきけん。1630~1714)もまた『養生訓』(巻第六)の中で、世襲の医者について次のように述べている。
「医術の良拙は人の命の生死にかかれり。( 中略 )
医の子孫、相つづきて其才(そのさい)を生れ付たらば、世世家業をつぎたるがよかるべし。此如(かくのごと)くなるはまれなり。( 中略 )
もし其才なくば、医の子なりとも、医とすべからず。」(注)
(医術の良拙は人命の生死にかかわる。医者の子孫でも相ついでその才能に生まれついているなら、代々の医業を継げばよい。しかし、そうした者はまれだ。才能がなければ医者の子どもであっても、医者としてはいけない。)
益軒の言っていることは、当たり前と言えば当たり前のことだ。
世襲であろうがなかろうが、医者の道は、高い志をもち、努力を惜しまぬ才能ある若者たちに是非ともめざしてもらいたい。そのためには、高額な学費・寄付金等の負担なしに医学部で学べる、思い切った制度設計の見直しが必要だ。
【注】
・『養生訓』は中村学園大学・同短期大学部のHP「メディアセンター(図書館)、貝原益軒アーカイブ、養生訓中村学園大学校訂テキストから引用した。
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2020年8月26日(水) |
避諱(ひき)(2) |
皇帝の実名を敬避する避諱(ひき)は中国における慣行であり、もともとわが国には存在しない制度だった。日本の古代には、名代の民・子代の民に自分の名をつけて、後世に伝えようとする制度があった。むしろ逆の慣行があったわけだ。
避諱の制度を導入したのは、どうも唐風かぶれの藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。706~764)だったらしい。
天平勝宝九歳(757)に避諱の制度を定め、天皇・皇后の避諱を定めたという。ついでに、仲麻呂の曾祖父鎌足(かまたり)・祖父不比等(ふひと)の避諱まで定めている。その結果、渡来人(帰化人)の「史(ふひと)」姓は「直(あたえ)」に改めさせられた。
しかし、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん。764)で仲麻呂が敗死すると、藤原氏の避諱は撤回されてしまったのだ。
【参考】
・大津透『律令国家と隋唐文明』2020年、岩波新書、P.172~173
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2020年8月21日(金) |
避諱(ひき)(1) |
607年、倭国から遣隋使が派遣された。これに対し翌608年、隋から答礼使が派遣された。
答礼使の名を『日本書紀』は「裴世清(はいせいせい)」、『隋書』は「裴清(はいせい)」と記す(1)。『隋書』にはなぜ「世」の字がないのだろうか。
これは避諱(ひき)によるものだ。諱(いみな)とは死者の生前の本名のこと。諱は遠慮して使用しない習俗があった。つまり諱は「忌み名」であった。
特に皇帝の諱を避ける方法については厳格な約束事があり、臣下の名前や木版出版物等の中に、諱の文字を使用することは憚(はばか)られた。具体的には、その文字の部分を空白にしたり(欠字)、意味の似た別の文字で代替したり、文字の最後の一画を省略したり(欠画)して対応した。
『隋書』は唐代(618~907)に魏徴(ぎちょう)・長孫無忌(ちょうそんむき)らの手により成った。唐朝第2代皇帝太宗(たいそう。在位626~649)の諱は「李世民(りせいみん)」である。『隋書』が裴世清を「裴世」と記したのは、「世民」の文字使用を憚って「世」を欠字にしたからだ。またこの時代、世を代、民を人の字で代替させたため、世上に混乱を生ぜしめたという。
わが国も中国に倣(なら)い、天皇の諱を避けた例がある。
清寧天皇(せいねいてんのう)には子がいなかった。そこで、その名である「白髪(しらか)(2)」を後世に残すため、白髪部(しらかべ)という名代(なしろ)の民を置いた。しかしその後、光仁天皇(在位770~781)の諱「白壁(しらかべ)」を避けるため、白髪部(しらかべ)を真髪部(まかべ)に改めた。現在、茨城県西部に所在する「真壁郡」は、『常陸国風土記』には「白壁郡」と書かれている。これも光仁天皇の諱を避けるため、785(延暦4)年頃に白壁郡から真壁郡に改められたものといわれている。
また、淳和天皇(じゅんなてんのう。在位823~833)は諱は「大伴(おおとも)」といった。天皇の諱を避けるため823(弘仁14)年、大伴氏は氏の名を「伴(とも)」と改めた。だから、応天門の変(866)の当事者伴善男(とものよしお)は、大伴氏の末裔(まつえい)なのだ。
避諱(ひ)の習俗が現在にないのは幸いだ。たとえば、「寿限無」のような長い名前だったら、使用できない文字数が極端に多くなる。たちまち世の中は大混乱に陥るだろう。
【注】
(1)『日本書紀』と『隋書』倭国伝には、たとえば次のように表記されている。
・「十六年(推古天皇16年は608年)夏四月、小野臣妹子(おののおみいもこ)、大唐(もろこし)より至(まか)る。(中略)即ち大唐の使人(つかひ)裴世清、下客(しもべ)十二人、妹子臣に従ひて筑紫に至る」(黒板勝美編『訓読日本書紀 下巻』1944年改版(1932年初版)、岩波文庫、P.131)
・「明年(大業4年。608年)、上、文林郎裴清を遣わして倭国に使せしむ」(『隋書』倭国伝-石原道博編訳『新訂魏志倭人伝他三篇-中国正史日本伝(1)-』1985年新訂改版(1951年初版)、岩波文庫、P.71-)
(2)『日本書紀』には「白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ)」と表記。
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2020年8月20日(木) |
平凡が一番 |
一芸に秀でた才能をもちたい。誰しもそう思うだろう。しかし、突出したその才能が、時として自分自身や身内に、思わぬとばっちりを及ぼす場合がある。
たとえば、藤原佐理(ふじわらのさり。944~998)。
平安中期の能書家、「三蹟(さんせき)」のひとりとして知られる。その作品は「佐蹟(させき)」と呼ばれ珍重された。しかし、珍重されたがため、その詫び状までもが大切に保存され、後世に伝わることになった。まさかこんな形で、わが身の失態を衆目に晒すはめになろうとは、佐理自身、予想だにしなかったろう。
たとえば、陶潜(とうせん。365~427)。
中国、東晋(とうしん)の田園詩人として有名な彼には、5人の息子たちがいた。彼らを題材にした五言古詩(「子を責(せ)む」)が現在に伝わる(注)。
それには、次のようにある。
16歳の長男舒(じょ)は比類のない怠け者。間もなく15歳になる次男宣(せん)は文章学術を好まない。ともに13歳になる三男雍(よう)・四男端(たん)は、いまだに6と7の区別もつかない。間もなく9歳になる五男通(つう)は梨や栗をねだるばかり。
そろいもそろって勉強嫌いな息子たち。陶潜は、この詩を次のようにしめくくる。
「天運(てんうん)苟(いやし)くも此(かく)の如(ごと)し。且(か)つ進めむ杯中(はいちゅう)の物(もの)」
直訳すれば「こんな運命とあっては何ともしょうがない。まあ酒でも飲むことにしようか」。つまり、「できの悪い息子たちをもったことは、運命と思ってあきらめよう。親としては、酒でも飲まないとやってられないよ」という意味だ。
できの悪い子らを責めた、親としては平凡な嘆き。しかし、それを吐露したのがエライ詩人だと話が違ってくる。
学者たちは、陶潜の人物像を理解するためと称し、こうした作品にも微に入り細に入った注をつけ、活字本として刊行する。漢文や世界史の教師は、陶潜を語る際のエピソードの一つとして、多くの生徒の前でこの作品をとりあげる。
才能ある詩人を親にもったばかりに、陶潜の息子たちはそのできの悪さを、後世のわれわれの前に晒すことになったのだ。
【注】
・鈴木虎雄『陶淵明詩解』1991年、平凡社(東洋文庫)、P.264~265 |
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2020年7月17日(金) |
あわてふためく(2)-驚き半兵衛- |
あまりあわてふためきぶりに、気の毒にも諺(ことわざ)になった人物がいる(現在、この諺はない)。江戸時代、常陸国水戸下町(現、茨城県水戸市下市)の裏七町目に住んでいた半兵衛という男だ。生来の正直者だが、気の小さい人だった。
酷暑のころの話だ。この半兵衛さん、あまりの寝苦しさに裸になり、そまま外に出て近所を徘徊(はいかい)していた。それを二人の夜回り同心に見咎(みとが)められた。
なにせ小心者の半兵衛さんだ。こわくなってその場から逃げ出してしまった。坂戸村というところまで走って、知り合いの屋敷へと逃げ込んだ。
激しく門を叩く音に驚いて外に出ると、半兵衛さんが裸で立っている。事情をたずねると「今、同心たちが私を捕まえに来るんだ」といってふるえている。とりあえず裸はまずかろう。しかし、余分の衣服がない。たまたま女児用の単衣物(ひとえもの)があった。間に合わせにこれで・・・と着物を渡すと、いたたまれなくなった半兵衛さんは再び駆けだす。
次にめざしたのは菩提所の清岩寺。庵(いおり)の戸をたたく。驚く僧侶が外を見ると、暗闇の中に白い着物が浮かんでいる(大人が子ども用の着物を着ていたので、暗闇の中で着物ばかりが宙に浮いて見えたのだ)。これは幽霊か。肝をつぶして和尚のもとへと逃げ出す。幽霊もあとを追う。
和尚の寝室に逃げ込んで「たった今幽霊が出ました!」。和尚が見ると、そこには白い着物姿の幽霊。さては先日弔(とむら)った娘が、この世に迷い戻ってきたか。二人は一心不乱に念仏を唱えながら、鐘(かね)を打ち鳴らし続ける。しかし幽霊は一向消え去る気配がない。
恐れあわてた僧侶は鐘楼(しょうろう)をかけのぼり、早鐘(はやがね)をつき鳴らす。スワ、火事か。驚いた町人・百姓たちが寺に馳せ集まる。「火事ではない。幽霊だ」。
そこで、大勢で堂内へと踏み込む。
「いかにも怪しい妖怪め」。
若者たちが幽霊を追いつめて組み伏せる。
夜が明けて和尚が近寄って見ると、何と子どもの振袖を着た半兵衛さんだ。子細を聞くと、ありのままに答える。もとより罪なき者のこと。町奉行所からは何のお咎めもなかった。
この騒動からしばらくの間、水戸府下では、あわてふためく人をさして
「驚き半兵衛、夜半の念仏(おどろきはんべえ、やはんのねんぶつ)」
といったという(宮崎報恩会版『新編常陸国誌』1976年、崙書房、P.657による)。
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2020年7月16日(木) |
あわてふためく(1)-富士川の戦い- |
あわてふためくこと「狼狽(ろうばい)」という。漢和辞典を引くと、「狼も狽もオオカミの一種」とある。狼は前足が長く、後ろ足が短い。一方狽は、前足が短く、後ろ足が長い。どちらも前肢・後肢の長短のバランスが悪く、まともに歩くことができない。しかし、狼の上に狽がのって2匹一組で歩くとうまく歩ける。それが、バランスをくずすと大いにあわてふためく。だから、あわてふためくことを狼狽というのだと。
まるで落語のような語原説。
しかし、落語のようなあわてぶりといえば、富士川の戦いにおける平氏軍のそれだろう。
治承4(1180)年10月23日のこと。駿河富士川を挟んで東側に源頼朝率いる源氏軍、西側に平維盛率いる平氏軍が対峙。翌日が矢合(やあわ)せ(戦闘開始)と決まった。
夜に入り、平氏方から源氏の陣の方を見渡すと、山にも野にも海川にもおびただしい篝火(かがりび)が見える。いくさをきらって避難した農民たちが、炊事等で火を焚(た)いていたのだ。しかし平氏軍は、源氏が軍陣で焚く篝火と勘違い。想像以上のおびただしいさに恐怖深甚となった。折しも、斎藤実盛(さいとうさねもり)から東国武士の勇猛果敢さを聞いて、その恐ろしさを頭に刷り込まれた直後のこと。
たまたま富士沼(浮島沼)の水鳥の群れが、何に驚いたのか、一斉にバッと飛び立った。その羽音(はおと)のすさまじさは、さながら大風か雷のよう。平氏軍はこれを源氏軍の夜襲と誤認。あわてふためき、われ先にと潰走(かいそう)。その狼狽ぶりを『平家物語』は次のように伝える。
「あまりにあわてさわいで、弓とる物(ママ)は矢を知らず、矢とる者は弓を知らず。人の馬にはわれのり、わが馬をば人に乗らる。或(あるい)はつないだる馬に乗ッてはすれば、くひをめぐる事かぎりなし。」(梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(2)』1999年、岩波文庫、P.220)
あまりにあわて騒いで、弓矢を射るため弓を構える者は矢をつがえることを忘れ、矢を取る者は弓を構えることを忘れるという無様(ぶざま)さ。また、他人の馬にまたがってり逃げだす者やら、自分の馬を他人に乗り逃げされる者やら。あるいは、杭に繋(つな)いだまま馬に乗って走り出したので、杭の周りを際限なくグルグル走りまわるだけという滑稽さ。
こうして、富士川の戦いは、たった一度も干戈(かんか)を交えることなく、源氏軍の大勝利に終わったのだった。
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2020年7月13日(月) |
1文銭の価値 |
江戸時代の1文銭(寛永通宝)1枚の重さは、3.75gだ。この量目を1匁(もんめ)という。銭1文分だから1文目であり、匁という文字自体「文メ」を合字したものという。この1文銭と同じ量目なのが現行の5円黄銅貨幣(穴あきの5円玉)。だから、5円玉を握りしめた感覚は、江戸時代の1文銭を握りしめたときの感覚に近い。
ところで現在、貨幣の最少金額は1円。1円アルミニウム貨幣の量目は1g。江戸時代の1文銭(3.75g)よりはるかに軽い。この軽さは、われわれに1円の貨幣価値の低さを体感させる。実際、1円で買うことのできる品物は、切手等を除いてほとんどない。
ならば、5円玉と同じ量目の1文銭1枚で、当時(江戸時代後期)は何が買えたのか。
貧乏を揶揄(やゆ)して「一文なし」という。しかし、当時の江戸で、1文銭で買うことのできる日用品はほとんどなかった。
たとえば、前田勇編『江戸語の辞典』には、次のような引用がある。
「(上方で)一文もないと云(いう)を(江戸では)四文(しもん)もない(という)」(『皇都午睡』、嘉永頃)
また、最下等の安酒を「四文一合(しもんいちごう)」(1合が値段4文)といったといい、最低価格の食物等を売り歩いた大道商人を「四文商(しもんあきない)」(4文均一で販売)とか「四文屋(しもんや)」といった(1)。
つまり、貨幣の最少金額は4文と見なされていたのだ。
では、なぜ4文が貨幣の最少金額だったのだろう。竹内誠監修・市川寛明編『一目でわかる江戸時代』には、次のような説明がある。
「銭96文で100文として扱う習慣があったため、物の値段は4文の倍数になることが多かった。4文=100円とみるのが、わかりやすいかもしれない。」(2)
ちなみに『守貞謾稿(もりさだまんこう)』を開くと、次のようなうどん屋のお品書きが載っている。
「覚
一、うどん 代十六文
一、そば 代十六文
一、しつぽく 代廿四文
一、あんぺい 代廿四文
一、けいらん 代卅二文
一、小田巻 代卅六文
月 日 」(3)
この記載を、『一目でわかる江戸時代』の説明を念頭に書きかえると、次のようになる。
一、うどん 16文(=4文×4)→現在の約400円
一、そば 16文(=4文×4)→現在の約400円
一、しつぽく 24文(=4文×6)→現在の約600円
一、あんぺい 24文(=4文×6)→現在の約600円
一、けいらん 32文(=4文×8)→現在の約800円
一、小田巻 36文(=4文×9)→現在の約900円
この例では、各種麺類の値段がきれいに4文の倍数になっている。現在の貨幣価値に換算しても、たいして違和感はない。
必ずしもすべての商品が4文の倍数で売られていたわけではない。しかし、江戸後期の物価を見ると、納豆・串団子・大福餅は4文、風呂屋8文、ゆで卵16文、見世物24文、浮世絵32文、西瓜40文などと、庶民生活にかかわる品々はおむね4文の倍数に価格設定されていた(4)。
だから、当時の庶民にとって、4文が貨幣の最少金額だったのだ。
【注】
(1)前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社学術文庫の「四文(しもん)」「四文商(しもんあきない)」「四文一合(しもんいちごう)」「四文二合半(しもんこなから)」「四文銭(しもんせん、しもんぜに)」等の項参照。
(2)(4)竹内誠監修・市川寛明編『一目でわかる江戸時代』2004年、小学館、P.19
(3)喜田川守貞『近世風俗志(1)(守貞謾稿)』1996年、岩波文庫、P.202。ちなみに、「しつぽく」はうどんの上に焼き鶏卵・蒲鉾・椎茸・くわい等をのせたもの、「あんぺい」は「しつぽく」の上に葛醤油をかけたもの、「けいらん」はうどんの卵とじ、「小田巻」は「しつぽく」に鶏卵を入れ蒸したものという(同上、P.202による)。
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2020年6月15日(月) |
熊楠の「自学」 |
知の巨人、南方熊楠(みなかたくまぐす。1867~1941)は少年の頃、欲しい本があると所蔵者の家を訪ねては借覧し、そこで覚えた内容を帰宅後、反古紙(ほごし)に書き写していた。熊楠は、次のように書いている。
「小生は次男にて幼少より学問を好み、書籍を求めて八、九歳のころより二十町、三十町も走りありき借覧し、ことごとく記臆(ママ。憶)し帰り、反古紙に写し出し、くりかえし読みたり。『和漢三才図会』百五巻を三年かかりて写す。『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等の書を十二歳のときまでに写し取れり」(いわゆる「履歴書」)
何でも書き写すことで、古今東西の膨大な知識を、己のものとした。熊楠は、この勉強法を「自学」とよんだ。「教師に頼らず独習する」という意味だ。近代的な学校教育の枠組みは、熊楠の性に合わなかった。
知識の定着や理解の深化を促す手段はいろいろある。しかし、文字を目で追い、古書のにおいを嗅ぎ、一度記憶にとどめた文字をわが手で書き出すなど、五感を総動員して学ぶ方法にはかなうまい。熊楠はこれを習慣としていた。
さらに重要なことは、興味のあるテーマに関しては執拗に思考を重ね、英語や日本語の論文という形でアウトプットし続けたことだ。アウトプットし続けることで、知識は本物の血肉となる。
ソファーにねそべりながら、スマホを使ってネットサーフィン。しかし、そうやって一瞥しただけの他人の知識は、その場限りの話の種にしかなるまい。
【参考】
・飯倉照平「南方熊楠小伝-『自学』をつらぬいた七十四年-」(『新文芸読本南方熊楠』1993年、河出書房新社所収)
・鶴見和子『南方熊楠』1978年、講談社学術文庫
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2020年6月12日(金) |
顕徳上皇ってだれ? |
承久の乱(1221)に敗れた後鳥羽上皇(1180~1239)。配流地によって隠岐院(おきのいん)と呼ばれ、亡くなると「顕徳(けんとく)」の諡号(しごう)が贈られた。
当時、怨みを抱いて京都以外の地で没した天皇には、「徳」の字をつける慣例があった。讃岐、壇ノ浦、佐渡それぞれの地で終焉を迎えた崇徳(すとく。1119~1164)、安徳(1178~1185)、順徳(1197~1242)の三人の天皇の諡号に「徳」の字が含まれるのはこのためだ。
こうして延応元(1239)年、「顕徳院」の諡号が贈られた。しかるに3年後、
「上皇の怨霊が噂され、仁治三(1242)年には後鳥羽院と改められた」(1)。
一度決定した諡号を変えるなど前代未聞のことだ。噂された「怨霊」の仕業とは、一体何だったのだろう。
本郷和人氏によれば、諡号改変の動機は、名執権北条泰時(1183~1242)の死にあったという。顕徳の名が確定してから3年後、北条泰時が亡くなった。すると朝廷では
「ほうら隠岐院に顕徳なんて立派すぎる名前を付けるから、幕府の凶事が起きたのだ」(2)
として、諡号改変を図ったのだという。
もしも、鎌倉幕府の顔色をうかがって朝廷が諡号改変などしなければ、今ごろわれわれは日本史の授業で
「承久の乱を起こしたのは顕徳上皇」
と教わっていたはずだ。
【注】
(1)米田雄介編『歴代天皇・年号事典』2003年、吉川弘文館、P.200
(2)本郷和人『人物を読む 日本中世史』2006年、講談社選書メチエ、P.107 |
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2020年6月11日(木) |
どこに抜けるかで大違い |
蛍の飛びかう季節になった。そこで思い出したのが、蕪村の次の句。
学問は尻から抜ける蛍かな
学問といえば、「蛍雪の功(けいせつのこう)」の故事(注)から「蛍の光」を連想。蛍といえば、光るのは尻。尻といえば「尻から抜ける」・・・。
「尻から抜ける」とは、学んだことをすぐ忘れてしまうこと。つまり、「車胤(しゃいん)や孫康(そんこう)を見習えといったって、勉強したってすぐに忘れてしまうんだよなあ」という意味だ。
蕪村の代表作として、さすがに高校古文の教科書には載せてはいまい。しかし、こうした諧謔的(かいぎゃくてき)な句の方が蕪村の人間味が伝わり、親近感をおぼえる。
ちなみに、前田勇編『江戸語の辞典』(1979年、講談社学術文庫)で「尻から抜ける」を引くと、次の川柳が例示されている。
馬鹿は尻 利口は目から鼻へ抜け
「目から鼻へ抜ける」は賢く敏捷(びんしょう)な者の形容。どこに抜けるかで、大違いだ。
【注】
・苦労して勉学の成果をあげること。中国の晋(しん)代、灯火用の油が買えない貧しい家の車胤は、夏に蛍を集めて薄布の袋に入れてその明かりで勉強し、同じく孫康は冬窓辺の雪明かりで勉強したとする故事に由来。
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2020年6月9日(火) |
将軍の肩こり |
かつて旧暦6月16日には、「嘉祥(かじょう)」という行事があった。厄除けと称して神前に16個の菓子を供え、その後、供えた菓子をみんなで食べるという行事だ。これを「嘉祥食い(かじょうぐい)」といった。この習慣にちなみ、昭和54(1979)年から6月16日は「和菓子の日」と定められた。
嘉祥の由来については、広辞苑(第5版)には次のようにある。
「年号の嘉祥、あるいは中国南宋から輸入された嘉定通宝に由来する名称ともいう。その略称「嘉通」を「勝つ」の語呂に合せて喜んだという」
この説明では、嘉祥(嘉定)という言葉の由来は書かれているが、なぜそれが旧暦6月16日に菓子を食べる習慣と結びついたのかがわからない。
宮中には6月16日に実施する「月見(つきみ)」という成人儀礼があった。丸い餅にあけた穴から月を見るのだ。その際、たくさんの菓子が用意された。もしかすると、嘉祥はこの儀式と関係があるのかもしれない。
さて、民間における嘉祥の風俗について、北村季吟(きたむらきぎん)の『山之井(やまのい)』(1648年刊)には次のような説明がある。
「みなつき(水無月。6月)十六日には、禁裏(きんり)をはじめ、公家(くげ)かたにも、嘉定食(かじょうぐい)、物(もの)させ給(たま)へるとなり。しもよりしものならはしは、嘉定の銭(かじょうのぜに)とて十六文あるを、それにてすきずきのくだ物などととのへて、人にもすすめ、みずからもくひぬ」(早稲田大学図書館蔵本による)
(六月十六日には禁裏をはじめ公家にても嘉定食いをされるということだ。民間の習わしでは「嘉定の銭」といって16文で好きな菓子・果物を用意し、人にも勧め自分でも食べる)
武家もまた、嘉祥の行事をおこなった。
江戸幕府は、これを年中行事の一つと位置づけた。そのため6月16日には、将軍から菓子をいただくため、江戸在府の大名や旗本はすべて登城した。
賜与される菓子の数は2万個超。盆に載せられた菓子は、500畳の大広間に所狭しと並べ立てられた。さぞや壮観だったことだろう。
二代将軍徳川秀忠の時代までは、将軍自らが大名・旗本らに菓子を手渡ししていた。
しかし、数が数である。儀式後、将軍は数日間、肩の痛みに悩まされたという。
これに懲りたのだろう、以後は将軍の手渡しは最初だけとなった。あとは、大名・旗本が自ら菓子を取るように変わったのだ(黒川光博『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』2005年、新潮新書、P.107~108参照)。 |
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2020年6月5日(金) |
光秀と粽(2) |
周章狼狽して粽(ちまき)を笹ごと食べてしまった、とする光秀のエピソード。山崎の戦陣での出来事とされている。
これに対し、丹波愛宕山で光秀が催した連歌会での出来事、という説もある。むしろこちらの方が人口に膾炙(かいしゃ)している。これには、どうも頼山陽(らいさんよう。1780~1832)の影響が大きいらしい。
頼山陽の『日本外史』に、光秀と粽のエピソードが出てくる。次に引用するのは、信長への積年の怨みから叛意を固めた光秀が、連歌の席に臨んでの場面。
その明(めい)、西坊(せいぼう)に会(かい)し、連歌をなす。或(ある)ひと粽(ちまき)を供(きょう)す。光秀、苞(ほう)を脱(だっ)せずして食す。卒然(そつぜん)、傍人(ぼうじん)に問(と)うて曰(いわ)く、「本能寺は、湟(ほり)の深さ幾尺(いくせき)ぞ」と。衆、これを異(あや)しむ。(頼山陽著、頼成一・頼惟勤(らいつとむ)訳『日本外史(中)』1977年改訳、岩波文庫、P.373)
(愛宕山に宿泊した翌日、西坊に集まって連歌会を催した。ある人が粽を供した。光秀は、包んである葉もとらずに粽を食べた。だしぬけに、そばにいた者に「(信長が宿泊している)本能寺の濠(ほり)の深さは一体どれくらいあるか」とたずねた。周囲の者たちは、これを怪しんだ。)
このあと光秀は、毛利攻めの任にある秀吉をたすけるため、援軍を率いて備中高松城に向かう。その途上、老坂(おいのさか。丹波・山城の間。右折すれば備中にむかう)で突如馬首を左に向けて駆け出すと、京都の桂川をわたるのである。そして、鞭(むち)をあげて東を指し、
「吾(わ)が敵は本能寺に在(あ)り」
と叫んだことになっている。
頼山陽の文章は、けだし名文だ。それゆえ、幕末に多くの読者を獲得し、はかり知れない影響を後世に及ぼした。
同じ著者に、『日本楽府(にほんがふ)』という日本歴史を66曲で詠じた漢詩集がある。その第61曲が「本能寺」(七言古詩)。
ここでも山陽は、「こう粽(こうそう。「こう」はくさかんむりに交)手に在(あ)り、こうを併(あわ)せて食(く)ろう(光秀は手にした粽を笹ごと食した)」と書いている。詩吟を詠じる人々にとって「本能寺」は人気があるというから、これまた光秀は粽を笹ごと食べたうっかり者として、延々と吟じられ続けてきたことになる。
山崎か愛宕山か、真実なのか虚構なのか、確かめる術(すべ)のないエピソード。それなのに、光秀は粽を笹ごと食べたうっかり武将として、その狼狽ぶりを今後も語り継がれていくのだろう。
思えば、気の毒ではある。
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2020年6月4日(木) |
光秀と粽(ちまき) |
天正10年6月13日(太陽暦では1582年7月2日)、山崎の戦いがおこった。
大軍勢の秀吉軍に対し、光秀の軍は劣弱。勝敗はすでに見えていた。
光秀陣営では道喜粽(どうきちまき。皇室御用達の御粽司(おんちまきし)川端道喜(かわばたどうき)家が製した粽)がふるまわれた。しかし、何をあわてたのか、光秀ほどの武将が笹ごと粽にかぶりついてしまった。それを見た人々は「光秀の先は短い」と悟ったという。果たして、光秀の天下は、本能寺の変(天正10年6月2日)からわずか11日で終わりを告げた。
この話の解釈には、異論がある。
光秀贔屓が多い京都では、光秀を非常な教養人と伝える。同じ京都の御粽司(おんちまきし)第15代川端道喜氏の解釈はこうだ。
「(光秀は)茶人であるから、粽を食べるときに笹ごと食べたんじゃなくて、笹を広げて、そして戦陣だから懐紙(かいし)が手元になかったから笹で口元を隠して粽をたべたんだ、それを知らないものがみて、笹ごと食ったようにいったんだろう」(川端道喜『和菓子の京都』1990年、岩波新書、P.30)
また、川端氏は次のようにも推測している。
光秀は本能寺の変の直前、京都の愛宕山(あたごやま)で連歌の会を催している。愛宕も粽で有名な場所。ゆえに、光秀が食べたとされる粽は、この連歌の会で食べた愛宕粽ではなかったかと。それが江戸末期には「光秀があわてて食べたのは道喜粽」と決めつけられてしまったのだと。
話の出所は儒学者の藤井懶斎(ふじいらんさい。1628~1709)あたりだとか。しかし、語り継がれるうち、話には尾鰭がついていく。それが有名人に関わるエピソードならなおさらのことだろう。
それにつけても、和菓子が食べたくなった。それに熱いお茶も。
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2020年5月29日(金) |
ぐでんぐでん |
呉座勇一氏の『日本中世への招待』を読んでいると、
「(室町時代には)一度の宴席での飲酒量が前代より格段に増えた」(1)
という記述が目にとまった。酒席で「ぐでんぐでん」に泥酔するようになったのは、この時代あたりかららしい。
たまたま漢字検定協会のホームページを開くと、「ぐでんぐでん」の由来が書いてあった。男性に対する尊称が「貴殿(きでん)」。ここから、酒に溺れて愚かな行動をとる者を「愚殿(ぐでん)」と揶揄したことからできた言葉という。「へべれけ」「べろんべろん」よりひどい酔態を表現したものだとも。
江戸時代には、「ぐでんぐでん」の酔っぱらいがしでかした失敗は、大目に見る風潮があった。だから、とんでもない失態で相手方に迷惑をかけた場合には、その原因が酒であろうがなかろうが、とりあえずは詫状(わびじょう)には「泥酔して前後不覚になっておりました。どうぞご勘弁ください」と書いた(2)。
うがった見方をすれば、それだけ「ぐでんぐでん」になった酔っぱらいの醜態を目にする機会が多かったのだろう。娯楽が少なかった昔のことだ。祭礼や祝い事の場で振る舞われる酒に「ぐでんぐでん」になるまで酔いしれるのが、当時の酒飲みの楽しみの一つだったのかもしれない。
江戸時代はまた、大酒飲みが多かった。酒合戦という酒量を競うコンクールが開催され、そこでは二升五合(4.5リットル)入りや三升(5.4リットル)入りの大盃が用意された。東西2チームに分かれた酒豪たちは、大盃に注がれた酒をぐいぐい飲み干した(3)。ひとりで1斗(18リットル)近く飲んだ猛者もいたという。
しかし、さすがにアルコール度数の高い日本酒だ。それを、短時間で大量に胃袋へ流し込むなどというのは、命を危険にさらす無謀な行為だ。それこそ、酒で身を滅ぼした人々も多かったに違いない。
酔っぱらいの話題についてもう一つ。
江戸中期、酔っぱらいを「どろんこ」といった。なぜ「どろんこ」なのか、その理由は下の(注4)を参照。
【注】
(1)呉座勇一氏の『日本中世への招待』2020年、朝日新書、P.157~158
(2)このホームページの「あれやこれや2020」4月23日の項を参照。
(3)石川英輔『大江戸番付づくし』2001年、実業之日本社、P.208~215「酒合戦」参照。
(4)オランダ語のdronken(酒を飲む意)に由来する言葉。蘭医仲間のしゃれ言葉から出た流行語という(前田勇編『江戸語の辞典』1979年、講談社学術文庫、「どろんこ」の項参照)。なお、明治初期に流行した「どろんけん」も、同じオランダ語dronkenに由来する言葉(広辞苑第5版による)。 |
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2020年5月28日(木) |
なぞだて(つづき) |
後花園・後土御門・後柏原・後奈良と四代続く歴代諸天皇は、そろってなぞなぞ好きだった。たびたび臣下に命じて、新作のなぞなぞを提出させている。
こうした天皇のなぞなぞ好きの理由を、鈴木棠三氏は次のように推測している。
「当時の皇室は式微のどん底時代で、派手な管弦の遊びなどは思いも寄らぬ状態であったから、費用も手間もかからぬ謎遊びなどがちょうど手頃だったというわけなのであろうか」(鈴木棠三編『中世なぞなぞ集』1985年、岩波文庫、P.450)
それはさておき、前回に引き続き、後奈良院撰(後柏原天皇撰という説もある)『なぞだて』から出題。問題と解説は、鈴木棠三編『中世なぞなぞ集』を参考にした。なお、問題については意味をくみとりやすくするため、漢字・かな表記等を一部改めてある。
問1.竹の中の雨
問2.梟(ふくろう)の 黒うはなくて 木菟(みみづく)の 耳の無きこそ をかしけれ
問3.宇佐(うさ)の宮(みや) 熊野(くまの)も同じ神なれば 伊勢 住吉(すみよし)も同じ神々
問4.廿(にじゅう)人木にのぼる
問5.山をはらふ 嵐(あらし)に虫は去って 鳥来(きた)る
問6.源氏のはじめ 狭衣(さごろも)のはじめ 人に申さむ
【答】
・問1.の答え:流鏑馬(やぶさめ)。「竹の中」は藪。ゆえに「竹の中の雨」は藪雨(やぶさめ)。
・問2.の答え:文机(ふづくえ)。「ふくろう」から「くろう」をなくすと「ふ」。「みみづく」から「みみ」をなくすと「づく」。「をかしけれ」で「ゑ(笑顔の笑)」。よって「ふづくゑ」。
・問3.の答え:鶯(うぐいす)。宇佐・熊野・伊勢・住吉の上(かみ)の字をつなげると「うくいす」。
・問4.の答え:茶。茶の字を分解すると、木の上に廿人がのっている形。
・問5.の答え:鳳(おおとり)。嵐から山をとると風。風のなかの虫を鳥におきかえれば鳳。
・問6.の答え:『伊勢物語』。『源氏物語』の冒頭は「いずれの御時にか」。『狭衣物語』の冒頭は「せうねん(少年)の春は惜しめども」。それぞれの最初の文字をつなぐと「いせ」。「人に申す」は物語。問6は、古典の教養から遠ざかった現代のわれわれにとっては難問。
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2020年5月25日(月) |
なぞだて |
後奈良天皇(ごならてんのう。1496~1557。在位1526~1557)は、皇太子時代に『なぞだて』という一書をまとめている。『なぞだて』はその名のとおり、なぞなぞを収集した本だ。この書は早くから巷間に伝わり、『後奈良院御撰何曽(ごならいんごせんなぞ)』の題名でつぎつぎ転写された。
当時は戦国時代。しかも、朝廷財政がもっとも困窮をきわめていた時期で、後奈良天皇自身が生活のために写本のアルバイトをせざるをえないほどだった。
そうした時期に、御所内でなぞなぞを撰んでいたのである。外の世界では略奪・放火・殺人が横行し、騒然としていたはずだ。そんな時期においても、宮中における時間の流れは、何か別だったかのようだ。
さて、『なぞだて』の中から3題。各問題のあとに「これ、なーんだ」というかけ声を加えれば、少しは現代風の「なぞなぞ」に近くなるかもしれない。
問1.紫竹(しちく)の中の鶯(うぐいす)は尾ばかりぞ見えける
問2.風呂(ふろ)の中の連歌(れんが)
問3.ろはにほへと
【答】
・問1の答え:蓮(はちす)。「紫竹(七九)の中」は七と九の間で八。「うぐいす」の「尾(最後の文字)」は「す」。ゆえに「八す」で蓮(はちす)。
・問2の答え:袋(ふくろ)。「連歌」は複数人で句をつないでいく文芸。「ふろ」の中に句を入れるのだから「ふ句ろ」。
・問3の答え:岩梨(いわなし)。「いろはにほへと」の「い」がないので「いは無し」。
【参考】
・鈴木棠三『ことば遊び』1975年、中央公論社(中公新書)の「なぞ」の項を参照。
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2020年5月24日(日) |
天皇のアルバイト(朝廷の衰微) |
応仁(1467~1469)・文明(1469~1489)は、後土御門天皇(ごつちみかどてんのう。1442~1500。在位1464~1500)時の元号である。応仁・文明の乱の影響は、地方にも及んだ。寺社や公家らが地方に所有する荘園の多くが侵略され、収入の途が絶え絶えになった。朝廷経済も例外ではない。その上、後土御門天皇は戦乱を避けるため、13年間(1467~1479)も京都内を転々とせざるを得なかった。
次の後柏原天皇(ごかしわばらてんのう。1464~1526。在位1500~1526)も経済の窮迫に悩まされた。天皇が、幕府や地方豪族らの献金によって、ようやく即位式を挙げ得たのは、践祚(せんそ)から22年後のことだった。
後奈良天皇(ごならてんのう。1496~1557。在位1526~1557)の時が、朝廷衰微のどん底だった。後奈良天皇も地方豪族らの献金に頼り、践祚後10年目にしてやっと即位礼を挙行できた。
当時の朝廷の苦しい台所事情を伝える逸話が、次のように伝わっている。
「後奈良院、宸筆之物(しんぴつのもの。天皇直筆の書や写本類)世に多きはことはりなり。
此時(このとき。後奈良天皇の時代)公家(くげ)以(もっ)ての外(ほか)に微々(びび)にして紫宸殿(ししんでん。内裏(だいり)の正殿)之御築地(おんついじ。土塀)やぶれて、三条之橋(さんじょうのはし)より内侍所(ないしどころ。三種の神器の一つである八咫の鏡(やたのかがみ)をまつる建物)の御あかしの光(灯りの光)見へしとなり。
左近(さこん。右近の誤り)の橘(たちばな)之もとには煎(に)もの居(い)てあきのふ(御所の右近の橘の近くでは、商人がお茶を売っていた)。其(その)例によつて、其茶うりし人の子孫とも、年に一たび天子(てんし。天皇)に茶を奉(たてまつ)るといふ。
此時(このとき)銀など様(よう)の物に札(ふだ)つけて、たとへば百人一首、伊勢物語などいふ札つけて御簾(みす)に結びつけておくに(たとえば古典の名を書いた札を、謝礼の銀などとともに御簾に結びつけておき)、日を経(へ)てのちまいれば(数日後に御所に参上すると)、宸筆を染(そめ)てさし出されたりといふ(天皇御直筆の写本が差し出されたということだ)。」(著者不詳『遺老物語』)
しかし、後奈良天皇の子、正親町天皇(おおぎまちてんのう。1517~1593。在位1557~1586)の時代になると、こうした窮迫状態からどうにか脱することができた。金持ちのパトロンが現れたのだ。
織田信長(1534~1582)である。
【注】
・各天皇についての記述は、米田雄介編『歴代天皇・年号事典』(2003年、吉川弘文館)を参照した。
・『遺老物語』の史料文は、高校生向けの日本史史料集『改訂版 詳録日本史史料集成』2013年改訂29版(1991年初版)、第一学習社、P.174によった。 |
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2020年5月22日(金) |
桃華坊(とうかぼう)文庫 |
応仁・文明の乱が始まると、一条兼良の家族は五男の尋尊(じんそん)を頼って興福寺(奈良)に逃れた。しかし、当時関白だった兼良は、京都を離れることができない。そこで、自宅のあった一条から、京都外れ(九条)の随心院(ずいしんいん)に移った。
戦乱の当事者である将軍・細川・斯波・畠山・山名ら諸将の屋敷は、京都の北部に集中している。とりあえず難を避けるため、戦場となる平安京の北部から、南のはずれへ疎開したのだ。
当代一流の学者でもあった兼良は、膨大な蔵書を有していた。これを桃華坊(とうかぼう)文庫という。桃華は一条家の別称だ(一条家以外の五摂家では、近衛家を陽明、九条家を陶化(とうか)、二条家を銅駝(どうだ)、鷹司家(たかつかさけ)を楊梅(ようばい)と称した)。
しかし、桃華坊文庫が蔵する膨大な書籍群は、乱の巻き添えをくってことごとく失われてしまった(貴重書のごく一部は事前に疎開させてあった)。
東洋史家の内藤湖南(ないとうこなん)は、その経緯について、次のように述べている。
「一条家には非常にたくさんの書籍記録などがありましたが、応仁の乱のときに、自分の家などはもちろん焼かれるということを前から覚悟しておりましたから、自分が京都を立ち退いてしばらく隠れるときに、それは覚悟の前で立ち退き、蔵だけは番人をおいて立ち退いたのです。 ( 中略 )
それで屋敷ぐらいはどうしても焼けるだろうが蔵だけは残るだろうと思っておりましたところが、一条家の家来どもの智慧(ちえ)は禅閤(摂政・関白で仏門に入った人の称。兼良のこと)以上に出て、蔵にはいい物があるに違いないというのでみな引き出して、書物が貴いとか旧記が大事だというようなことにはお構いなく、そういうものをみなどうにかしてしまったのです。当時の記録によれば、一条家の文書七百合が街路に散乱したということで、それを非常に悲しんだということであります ( 後略 ) 」
(内藤湖南「応仁の乱について」1921年講演-内藤湖南『日本文化史研究(下)』1976年、講談社学術文庫、P.73-)
内藤によれば、蔵の門番(一条家の家来たち)が強奪を働いたというのだ。これでは、泥棒に金庫の鍵を預けたようなもの。
『樵談治要(しょうだんちよう)』の著述からは、一条兼良の憤懣(ふんまん)やるかたない気持ちが伝わってくるようだ。 |
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2020年5月20日(水) |
足軽の役目は略奪・放火 |
「足軽く疾走する」その機動性から、応仁・文明の乱(1467~1477)前後から登場する軽装歩兵を「足軽」とよぶ。
足軽の登場は画期的だった。
まずは、当時の戦い方を大きく変えた。従来の個人戦(一騎打ち)を、弓隊・槍隊・鉄砲隊を駆使した集団戦へと変えたのだ。こうした戦術の変化は、家臣団を城下町に集住させ、兵員確保のために兵農分離を断行させるなど、さまざまな富国強兵策の実行を戦国大名に促すことにもなった。
ところで、この足軽は、どこからやってきたのだろう。
足軽の供給源は、慢性的な飢饉状況の中で、周辺の村々から都市へと流入した下層民だ。これに大名家の没落によって失職するなどした武士たちが結びつき、その組織化・武装化が進んだ。彼らは、領主に不満をもって放棄すれば土一揆となるし、戦国大名に雇われて戦闘に参加すれば足軽とよばれる。つまり、一揆も足軽も根っこは同じなのだ。そのため、彼らの行動様式には共通点がある。
土一揆と足軽の共通点は、略奪と放火だ。
足軽の略奪・放火は、補給経路の遮断や補給施設の破壊により、敵方を疲弊させるための戦術上の行動だ。しかし、足軽の略奪・放火で被害を受けたのは、敵方だけにとどまらない。貴族や寺社、一般庶民までその巻き添えをくった。
「この間の戦争はひどいものでした」と、よく京都の人は言う。「この間の戦争」とは、直近のアジア・太平洋戦争をさすのではない。応仁・文明の乱のことなのだ。
応仁・文明の乱は、京都における市街戦が中心だった。乱の長期化は、足軽による略奪・放火が果てしなく繰り返されることを意味し、戦争に無関係な人々にも甚大な被害を及ぼし続けた。たまらず京都から外へと逃げ出す人々があいつぎ、京都の荒廃は日ごとに深刻さの度を増していった。
当時一流の知識人だった一条兼良(いちじょうかねよし。1402~1481)は、足軽に自宅を焼かれ、子の尋尊(じんそん)がいる興福寺に避難するという苦い経験をもつ。
兼良は、足軽こそが京都を荒廃させた元凶と断罪する。
「洛中洛外(らくちゅうらくがい。京都内外)の諸社。諸寺。五山十刹(ござんじっさつ。臨済宗の格式のある寺院群)。公家。門跡(もんぜき。皇族・公家が住持する寺院)の滅亡はかれら(足軽)が所行(しょぎょう。しわざのこと)也」(一条兼良『樵談治要(しょうだんちよう)』-『群書類従 第二十七輯』1943年、続群書類従完成会所収-。読みやすくするため漢字を現代表記に改め、注を施すなどした)
ゆえに兼良は、足軽を「超過したる悪党」「昼強盗(ひるごうとう)」などと罵倒し、その停止を室町幕府9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ。1465~1489)に説いたのである。
【参考】
・呉座勇一『応仁の乱』2016年、中公新書、P.111~112 |
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2020年5月18日(月) |
ぜひとも麻疹のワクチン接種を |
新型コロナの感染をおそれて、病院へ行くのをためらう保護者が多く、子どもの麻疹(ましん。はしか)ワクチン接種率が低くなっているという。
麻疹はかつては「疱瘡(ほうそう)は見目定め、麻疹は命定め」といわれたほど、危険性が大きい病気のひとつだった。罹患(りかん)すれば落命したり、失明・聴力損失の後遺症が残ったりした。しばしば大流行し、文久2(1862)年の大流行時には、江戸だけでも数万人が命を落としたという(1)。
ワクチンができたのが1960年代。その恩恵にあずかり、麻疹の恐怖から脱したのはつい最近のことなのだ。「子どもの病気だから」などと軽く見てはいけない。保護者には、ぜひともお子さんに2回のワクチン接種(1回のみの接種では5%の子どもに免疫がつかない)をしていただくよう、お願いしたい。
さて、「犬公方」徳川綱吉(1649~1709)も、麻疹で命を落としたとされる一人。
ただし、綱吉が死んだのは、酒湯(ささゆ)の儀式(麻疹の快気祝い)をした直後だ。直接の死因は、用便中に力んで食物塊をもどし、気道を詰まらせたための窒息死と推測されている(2)。
【注】
(1)鈴木則子「江戸時代の麻疹と医療-文久二年麻疹騒動の背景を考える」日本医史学雑誌第50巻第4号、2004年
(2)篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』2005年、新潮社(新潮新書)、P.96 |
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2020年5月14日(木) |
スズメ |
スズメの写真集がよく売れているそうだ。スズメの愛らしいしぐさに人気が集まっているらしい。
古来、スズメは稲を食い荒らす害鳥として、われわれの祖先から憎み嫌われてきた。それは、鳥追歌にうたわれる害鳥として、スズメの名前が頻繁に登場することからも確認できる。
近縁種のニュウナイスズメには、藤原実方(ふじわらのさねかた)の生まれ変わりとする俗説まである。蔵人頭になれず、遠流の地で亡くなった怨みが害鳥に生まれ変わらせたのだ。もっともスズメに限らず、人間生活を脅かすネズミ(絶食して死んだ頼豪(らいごう)の生まれ変わりという)や稲の害虫(稲株につまずいたために敵に討たれた斎藤実盛(さいとうさねもり)の生まれ変わりという)などのたぐいには、こうした怨霊伝説がよく付随している。
スズメの写真集が売れるのは、われわれがこうした「スズメは害鳥」という歴史を忘れたからだろう。その背景には、産業構造の高度化が進んで農業従事者が極端に減り、スズメとの利害経験がない日本人ばかりになったという現実があろう。
しかし、われわれの祖先は、スズメの駆除のみに専念してきたわけではない。多様な価値観をもってスズメとつきあってきた。たとえば、これを飼育したり(『枕草子』など)、昔話の主人公(雀孝行など)として好意的にとりあげたり。江戸時代の小鳥飼養書『百千鳥』に至っては、スズメの医療利用法まで書いてある。
「(注:ニュウナイスズメは)疱瘡(ほうそう)の薬にて、幼稚(ようち)の枕元(まくらもと)に置(おき)て羽風(はかぜ)を受(うけ)れバ疱瘡にかゆミなし」(『百千鳥』)
うーん。多様な価値観とはいうものの、小鳥の羽ばきが起こす微風なんかで、疱瘡のかゆみはとれないよね。疱瘡の治療まで期待されて、スズメも迷惑がっているにちがいない。
【参考】
・金子浩昌外『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、「雀」の項。
・泉花堂三蝶撰『百千鳥』寛政11(1799)序(早稲田大学図書館蔵、請求番号:文庫31E0697、インターネットで閲覧可) |
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2020年5月12日(火) |
あめのしたのかほよし |
先日と同じ『宇治拾遺物語』から、結婚に関する話をひとつ。
昔、博奕(ばくち)うちの醜(みにく)い若者がいた。たまたま長者の家で、美男子の婿(むこ)を探しているという話を聞きつけた。
「あめのしたのかほよし(天下にかくれもないイケメン)」が結婚したがっている、と伝えたところ、長者は大喜び。とんとん拍子に婚礼の日取りが決まった。
平安時代の婚姻は、男が女のもとに二、三夜通い、現在の披露宴にあたる露顕(ところあらわし)の儀式をおこなって成立した。
つまり、男が女のもとに通ってくるのは夜で、明け方には帰ってしまうのだ。暗がりのなかなので、男女ともお互いの顔などはっきりとはわからない。まして、露顕の時になるまで、新婦の家族が新郎の顔をまじまじ見ることなどなかった。
見合い写真などなかった時代だ。事前にお互いの容姿を判断する手段は、相手の家にいって垣根の透き間から家の中をのぞき見(これを垣間見(かいまみ)という)するか、世間の評判によって判断するぐらいしかなかった。
だから、明るくなった部屋のなかで、初めてお互いの容姿を確認しあった時の新郎・新婦の気持ちは、いかばかりだっただろう。想像とかけ離れた容姿に、「お互いビックリ」という悲喜劇もあったにちがいない。
さて、婚礼の夜こと。若者は顔を見られないよう、何とかごまかしていた。そのうち、仲間の博奕うちが天井裏にのぼって、ミシミシと天井を踏み鳴らし、ひどく恐ろしげな声を出し、
「あめのしたのかほよし」
と、若者のことを三度呼んだ。若者は怖(お)じ気(け)たふりをして、返事する。
すると、天井裏から鬼役の男が言うよう、「この家の娘は、おれが目をつけて三年になる。お前はどういうつもりで、おれの女のもとに通うのか」。
若者、「そんなこととはつゆ存じませんでした。どうかお助けください」。
鬼、「憎いやつめ。命と顔のどちらか一つを選べ」。
若者は舅(しゅうと)の長者に向かい、「何と答えましょう」。
長者、「命が大切。顔と答えなさい」
長者の言うとおりに若者が答える。すると鬼が「ならば、吸うぞ、吸うぞ」と言う。若者は顔をかかえて、「あら、あら」といって転げ回る。
鬼がいなくなった後、家人が紙燭(しそく)の灯りでおそるおそる若者の顔をのぞき込む。すると、まるで鬼に吸われたかのように、目鼻が顔のひとつところに寄り集まったようなひどい顔。若者が「こんな恐ろしいところに婿入りしたのが過(あやま)ちでした」と嘆くふりをする。
若者をかわいそうに思った長者は「かわりに私の宝をさし上げましょう」といって、醜男の婿を大切に扱った。そして、別な場所に立派な屋敷まで建てて住まわせたという。
【参考】
・渡辺綱也校訂『宇治拾遺物語 上巻』1951年、岩波文庫、P.286~288
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2020年5月10日(日) |
かなごよみ |
慶事は、仏滅の日を避けて大安や友引の日に行う。根拠のない迷信とは知りつつも、暦の吉凶を気にせざるを得ない。仏滅に結婚式を挙げたり、友引に葬式をしたりでもすれば、一般常識のないオトナとして、陰口を叩かれるだろう。
現代でさえこの有様だ。信心深い人が多かった平安時代には、暦の吉凶に振り回される人びとが、もっと多くいたちがいない。『宇治拾遺物語』から、そんな話をひとつ。
ある生女房(なまにょうぼう。未熟な宮仕えの女)が、若い僧に「仮名暦(かなごよみ)を書いてくれ」と頼んだ。仮名暦は、かな文字で書かれた女性用の暦のこと。
「たやすいことです」と快諾した僧。最初の頃こそ「神仏によし」「坎日(かんにち。凶日)」「凶会日(くえにち。最凶日)」とまじめに書いていた。しかし、次第に面倒くさくなってきたのだろう、だんだん終わりの頃になってくると、「物食わぬ日」とか「よく食う日」などとふざけて書くようになった。
暦を手にした女房は「変わった暦だな」と思いつつも、暦の指示にたがわぬように生活した。
ある日の暦には、「箱すべからず(トイレに行くべからず)」と書いてあった。そこで、トイレに行かず、がまんした。
しかし、何日も「箱すべからず」「箱すべからず」と続けて書いてある。二、三日の間は耐えていたものの、もはや限界にきてしまった。
女房は、左右の手にて尻をかかえて「どうしよう、どうしよう」と、身をよじりくねらせするうちに、正気を失ってしまったという。
【参考】
・渡辺綱也校訂『宇治拾遺物語 上巻』1951年、岩波文庫、P.170~171 |
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2020年5月9日(土) |
5月10日は母の日 |
最近、インターネットがつながりにくい。
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、インターネットによる在宅ワークや学校による配信授業等が普及したからと思ったが、ニュースによれば、各大学で一斉にはじまった授業のライブ配信が元凶のひとつという。ライブ配信に使用される情報量は非常に大きい。それを圧縮処理等もせず、そのままインターネットに流すため、ネット回線に渋滞を引き起こしているのだという。
ネット授業・ネット塾が大はやりだ。しかし、タブレット画面はしょっちゅうフリーズする。そもそもネット回線に接続できない。スマホなら接続できるというので、小さな画面に切り替える。長く見ていると目がしょぼしょぼする。受験生は大変だ。
いかにネット全盛の時代になろうとも、教室で仲間といっしょに授業をうけ、紙の教科書や問題集をひろげ、あれこれ考えあぐみながらノートをとることにはやはり意味がある。新型コロナの収束を願うばかりだ。
さて、受験生は日本史のテスト対策で、「比叡山延暦寺、天台宗、最澄」の組合せを「ヒエー、天才」などと覚える。同時代(平安初期)の「高野山金剛峰寺・東寺、真言宗、空海」という紛らわしい組合せと区別するためだ。
さらに、比叡山の「叡」という漢字は画数が多く、覚えづらいうえ書きにくい。「平安京の鬼門を鎮護する」といわれる比叡山。しかし「比叡山」自体が、受験生泣かせの「鬼門」なのだ。
ところで、比叡山は京都府と滋賀県との県境に聳える標高848mの山(山嶺に二つ高所があり、東が大岳(大比叡)848m、西を四明岳839m)。これにぴったり8、000の数字を足せば、ヒマラヤ(「雪の家」の意)山脈にある世界最高峰、エヴェレストの高さになる。
848m 比叡山
8,848m エヴェレスト
ちなみに、エヴェレストは英人測量者のジョージ=エヴェレスト(1790~1866)にちなむ命名。ネパールでは「世界のてっぺん」(サガルマーター)といい、チベットでは「大地の母神」(チョモランマ)と呼ばれる。
なるほど、大地の「母」神か。だからエヴェレストの高さは、「母の皺(ははしわ。88の48)」=8,848mなのかな。 |
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2020年5月8日(金) |
江戸城の鬼門 |
平安京から見て、東北の方角(鬼門)には比叡山延暦寺が位置する。延暦寺は王城鎮護の役割を担った。
陰陽思想によって邪悪な鬼が出入りするとされた鬼門は、忌むべき方角とされた。
それだけではない。
当時の東国は、中央政府の支配がまだ確固としてはいなかった。また、東北地方には、中央政府にいまだまつろわぬ蝦夷(えみし)とよばれる人びとがいた。
だから、反乱を企てる者は、まずは東国で兵を集めると考えられた。ゆえに、古代の三関(さんげん。三つの関所)も、すべて東側に設置されていた。
さて、江戸城から見ると、東北の方角(鬼門)には東叡山寛永寺が位置する。東叡山は「東の比叡山」の意だ。寺名も延暦寺の命名法にならい、当時の元号にちなんで「寛永寺」と名づけた。したがって、寛永寺の役割も、比叡山延暦寺のそれに似ている。
異なるのは、戦国時代の遺風が消えつつあり、武断政治から文治政治への転換点に迎う頃に創建されたことだろう。江戸城の鬼門の方角には、幕府の脅威となりうる勢力はもはや存在しなくなっていた。
そして、太平の世となった。
江戸の町の鬼門の方角には、幕府によって二つのものが追いやられた。それは歌舞伎(猿若町)と娼婦街(吉原)だった。当時の為政者たちはこれらを、江戸におけるまがまがしいものと判断したのだ。
つまり、歌舞伎と娼婦街という「二大悪所」を鬼門の彼方へと追放し、上野寛永寺と浅草寺院群を結ぶ障壁ラインによって遮断することによって、江戸城を中心とした地域を守ろうとしたのだ。
【参考】
・気谷誠『鯰絵新考』1984年、筑波書林(ふるさと文庫)、P.75
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2020年5月7日(木) |
五月鳥(さつきどり) |
ホトトギスは5月の鳥だ。五月鳥(さつきどり)の異名をもつ。われわれの祖先は、ホトトギスの鳴き声を聞いて、「いよいよ5月(陰暦)だ」と、季節の変わり目を知ったのだ。
しかしその鳴き声は、農民にとっては、つらい労働のはじまりを意味するものでもあった。
ホトトギスは五月鳥ばかりでなく、早苗鳥(さなえどり)、田歌鳥(たうたどり)、勧農鳥(かんのうどり)など、さまざまな異名をもつ鳥だ。ホトトギスの鳴き声は農事暦の一指標として、田植えをはじめとする農作業の開始を農民に告げるものでもあったのだ。
清少納言は賀茂に行く道すがら、田植えの様子をたまたま目撃している。そこでは「ほととぎすのやつめが鳴くから、俺たちは田植えをせねばならぬ」と、ホトトギスを罵倒する労働歌をうたいながら、農民たちが農作業をしていたという(『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、「杜鵑(ほととぎす)」の項)。
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2020年5月5日(火) |
本当は恐ろしい端午の節句 |
江戸時代に、松永貞徳(1571~1653)が詠んだ句に次のようなものがある。
石をうつ印地(いんじ)は五月碁(ご)にち哉(かな)(1)
石と碁は縁語、印地は小石を投げ合うこと、そして五月五日は端午の節句(端午は、五月の「最初の午(ご=五)の日」の意)。
かつて端午の節句には、子どもたちが小石を投げ合う習俗のあったことがわかる。
印地は「石打ち」が転じたものといわれる。河原などで、大勢の子どもたちが二手に分かれ、小石を投げ合った石合戦(いしがっせん)のことだ。
こうした行事の起源は不詳だが、もともとは正月に行われた年占(としうら)の一種だったらしい。農民たちが二手に分かれて小石を投げ合い、その勝敗によって一年の豊凶を占ったという。寺社にも関係があるらしく、祭礼の際に石合戦をしたとする事例は多い。
かつて端午の節句で行った石合戦は、子どもの遊びだった。しかし、遊びとはいえ、大勢で石を投げ合うのだから、至って危険な行事でもあった。当たり前のように死傷者が出た。
中世においてはさらに過激だった。興奮した大人たちが刀を持ち出して子どもたちに加勢し、大惨事になることもあったという(2)。
【注】
(1)北村季吟撰『山之井(やまのい)』(1648年刊)の「五月五日」の項。
参考までに、早稲田大学図書館蔵本(請求番号31A0017)により、本句の前に書かれた説明部分を次に抜き出しておく。なお、『山之井』は俳諧の季寄せである。
「五月五日 端午 ちまき くすたま
あやめ 根合 永き根
しやうふ刀 菖蒲湯 けつりかけ甲
あやめの節供ハ。あさかのぬまつく泥(どろ)にまぶれて。永きねをひく心ばへ。西のこんちも東の小路も。さやめによもぎふきわたす軒(のき)のはなやかさ。ふきちりのぼりたてならべしおほちのさま。ちまきねぢきる家々の嘉例(かれい)。くすだまやあやめのかづらかけまハる人々のけはひ。しやうぶ刀(がたな)や小長刀(こなぎなた)もて印地にまかる馬鹿者の気色などすへし。」
(2)呉座勇一『日本中世への招待』2020年、朝日新聞出版(朝日新書)、P.207~209
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2020年4月28日(火) |
何のために急ぐのか |
葛飾北斎の富嶽三十六景のうち、「神奈川沖浪裏」に描かれた、荒波をものともせず進む数艘の舟。押送り舟(おしおくりぶね)だ。
押送り舟とは「櫓(ろ)を押して進む舟」の意。鮮魚類を消費地の魚市場まで急送した舟をいう。新鮮さを要求される魚を運ぶ場合、櫂(かい)で水をかいて悠長に進む掻送り舟(かきおくりぶね)では埒(らち)があかない。帆掛け船は、風の有無と風向きによって運行が左右される。だから、押送り舟なのだ。
北斎の浮世絵を眺めると、舳先のとがった流線型の舟が、浪を切り裂いて進んでいる。舟の損傷を防ぐため両側は蓆でおおわれ、舟の後部には8人の男たちが二列に並んでいる。この8人で懸命に櫓を漕ぐのだ。舟の前方には、頭を低くした男たちの姿が数名見える。休まず舟を進めるための、漕ぎ手の交替要員だ。
鮮魚の行き先は江戸日本橋の魚市場。彼らが押送り船をあやつり、競い合うようにして運ぼうとしている魚の種類は何だろう。
波濤の先に描かれた富士山には、まだ雪が残っている。初夏4月のころか(旧暦4月は現在の5月頃に相当。旧暦では4・5・6月が夏)。初夏の魚で神奈川沖などでとれる魚といえば、黒潮にのって北上する初鰹だ。
『近世風俗志』(緒言に「嘉永六年(1853年)」の記載がある)には、次のような記載がある。
「江戸の魚売りは、四月初め松魚(かつお)売りを盛(さかん)なりとす。二、三十年前は、初めて来る松魚一尾価(あたい)金二、三両に至る。小民も争ひてこれを食す」(喜田川守貞著・宇佐美英機校訂『近世風俗志(守貞謾稿)(1)』1996年、岩波文庫、P.248)
嘉永六年(1853年)の「二、三十年前」なら、1823~1833年頃の江戸の様子だ。富嶽三十六景が制作されたのが1823~1831年頃とされているから、ちょうど両者の時期は重なっている。
ところで、「小民も争ひてこれ(初鰹)を食す」とあるが、金1両は現在の貨幣価値でおおよそ十数万円に相当する(竹内誠監修・市川寛明編『一目でわかる江戸時代』2004年小学館、P.18~19による)。「二、三両」なら30万円~50万円もの大金だ。
「初鰹を食べないのは江戸っ子の恥」とか、「女房を質に入れても初鰹は食え」とかいわれた時代。大金を投じてまで初鰹を争い食べる江戸っ子たちの姿は、現代人の感覚からすれば、まったく馬鹿げた行為のように思える。
しかし、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるほど火災が頻発し、そのたびごとに全財産は焼失。また、大流行するコレラ・痘瘡等の疫病などによって、命までも簡単に失った。江戸の人々は、明日のわが身がどうなるかもわからない、不安定な日々の中にその身をおいていたのだ。だから、初鰹を食べることは、彼らにとってはそんな日常を忘れさせる一大イベントだったのだろう。
ちなみに、鰹の刺身を食べる際、当時はしょうが醤油でなく、からし醤油のほうが好まれたという(鈴木晋一氏による。『大百科事典第3巻』平凡社、1984年、「かつお」の項)。
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2020年4月25日(土) |
あやまり役と科負比丘尼(とがおいびくに) |
悪童たちのいたずらがひどい。
犬同士をけしかけたり、屋台をひっくり返したり、商家の丁稚をいじめたり、大人たちをからかったりと。誇張はあろうが、江戸時代の双六(『莟花江戸子数語録(つぼみはなえどっこすごろく)』。国立国会図書館デジタルコレクション)に描かれた子どものいたずらだ。
さすがに、こんな悪童たちには、昔の親も手を焼いた。同じ双六には、「しつけ」と称して夫婦による折檻(せっかん)の場面や、親子の縁を切る「かんどう(勘当)」の場面が描かれている。
子どものいたずらに手を焼いたのは、寺子屋の師匠も同じ。少し目を離したすきに、「ヘマムショ入道」の落書きをしたり、隣の子の顔に墨を塗ったりと…。
ただし、師匠が寺子を叱(しか)る際、今の小学校と違うのは、多くの寺子屋に「あやまり役」という慣行があった点だ。
あやまり役は、学友の中での年長者や近所の老人などがつとめたという。本人に代わって第三者があやまることで、本人に反省をうながし、師匠は機嫌を直して本人を許す。こうした段取りで、師匠と寺子の関係修復に一役買った。その様子は、傍(はた)からは芝居がかって見えたという(『日本史広辞典』1977年、山川出版社、「あやまり役」の項)。
江戸時代にはまた、他人の過失を肩代わりする珍しい仕事もあった。「科負比丘尼(とがおいびくに)」という。年頃のお嬢様付きとして、良家に雇われた尼僧姿の女性だ。
その科(とが。過失)の多くは、人前でするうっかりおなら。音を聞きつけると比丘尼がすかさず
「これは粗相しました。ご容赦(ようしゃ)下さい」
と放屁の科(とが)を自身のしわざとして引き受け、お嬢様の体面を保ったという。
そこで、科負比丘尼(とがおいびくに)を屁負比丘尼(へおいびくに)ともいった。 |
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2020年4月23日(木) |
酒上不埒(さけのうえのふらち) |
他人に迷惑をかけた場合。
江戸時代には、謝罪の一札(いっさつ)を書いて相手に渡し、ひたすら宥恕(ゆうじょ)を乞うた。この一札のことを、詫証文(わびしょうもん)とか詫状(わびじょう)、誤証文(あやまりじょうもん)などといった。
これらの詫証文を見ると、本人が失態を働いた原因として最も多くあげているのが「酒狂」だ。酒を飲み過ぎて正気を失い、乱暴狼藉をはたらいてしまったというのだ。
多くの詫証文には、酒狂、酩酊、大酒などの言葉がずらずら並ぶ。詫証文に登場する人びとは、おおかたが酒乱だったことになる。
しかし、これは本当なのか。
実は、詫証文を書く際には、とりあえず「酒のせいで正気を失っていました。どうぞご勘弁を」と書いたのだ。そう書いて謝った方が、許してもらいやすかった。この背景には、
「酒」の上での出来事であるから、大目に見てやろうとい社会通念が存在した(日本歴史学会編『概説古文書学 近世編』1989年、吉川弘文館、P.320)
からだ。そのため、詫証文を書く際には、事実がどうであれ、とりあえずは「酒狂」と書いた。
こうした悪しき社会通念は、今だに一掃されていない。なかにはそれに便乗して、酒席でセクハラ・パワハラまがいの行為をするやからさえいる。
昔であれ今であれ、酒のせいにして責任逃れをするのは、いい大人のすることではない。言語道断だ。
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2020年4月21日(火) |
鎮西八郎為朝の御宿(ちんぜいはちろうためとものおやど) |
酒井シヅ氏の『病が語る日本史』を読んでいたら、次のような記述があった。
「八丈島には痘瘡(とうそう)がないという伝説があった。それは痘瘡神が八丈島に流刑になった鎮西八郎為朝(注:源為朝のこと)を怖れて近づかないからだという流説があり、痘瘡のまじない札に鎮西八郎為朝の勇姿が描かれたのである。」(酒井シヅ『病が語る日本史』2008年、講談社学術文庫、P.199)
上の記述で、気になった点が二、三。第1が、八丈島には痘瘡がないという伝説があったということ。第2が、八丈島に為朝が流刑になったということ。第3が、為朝が痘瘡除けのまじない札に使われたということ。
第1の点について。
痘瘡(疱瘡。天然痘)は、痘瘡ウイルスを病原体とし、気道粘膜から感染する。感染力が高く死亡率も高い病気だが、接触により人から人へと感染する。しかし、海で隔絶された島なら、外界との接触が今よりはなはだ少なかったはず。ゆえに「八丈島に痘瘡がない」というのは、あながち伝説とはいえまい。
第2の点について。
為朝の流刑地を八丈島とするのは誤り。同じ伊豆七島だが、史実では伊豆大島に流されたことになっている(そののち為朝は、伊豆七島を従えて乱暴狼藉を繰り返し、討伐されたという)。
第3の点について。
英雄豪傑を描いたまじない札を門口にはって疫病の侵入を阻止しようとする考えは、日本民俗では古くからある。為朝を描くのも、そうした信仰の一例だ。
源為朝(1139~1170)は身の丈7尺(約2.1m)あったとされる巨漢。強弓の使い手であり、気性の激しい乱暴者で知られた。保元の乱(1156)で敗れはしたものの、敵方の平清盛を震え上がらせたほどの勇猛な戦いぶり。その強弓から放たれた矢は、敵の体を貫通した上、後ろの敵の鎧(よろい)の袖に突き刺さったという。
こうした猛将ぶりが、為朝を痘瘡除けに採用した理由だ。
痘瘡がはやると、民間では「鎮西八郎為朝の御宿」と紙に書いて、家の出入り口にはった。「この家には為朝様がお泊まりになっているぞ。お前よりも、もっと恐ろしいお方だ」と痘瘡神をおどしつけ、家内への侵入を阻止しようとしたのだ。こうした行為は、「猛犬注意」のシールをドアに表示し、空き巣除けとする現代人の心情に似てはいまいか。
為朝のまじない札は、落語のネタにもなっている(「貸家無筆(かしやむひつ)」)。
子どもから「鎮西八郎為朝の御宿」と書いてはってくれ、と頼まれた親。しかし無筆の親は、「貸家」と書かれた紙を他所から失敬してきてはってしまう。子供から「これはちがう」と指摘された親の答え。
「空き家だと思うから、痘瘡神は入らない」。
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2020年4月20日(月) |
秘密の地下牢(ウブリエット) |
新型コロナの感染予防のため、外出自粛。
だからこの機会に、昔プレイしたテレビゲーム(ドラクエ11)をやり直している。このゲームでは、デルカダール城の地下牢(ちかろう)に囚われた主人公(勇者)が、そこで出会った仲間とともに脱獄をはかるところから冒険の旅がはじまる。
ところで、主人公たちが閉じこめられていた地下牢。中世ヨーロッパでは城の最下層に設けることが多かった。
ちなみに「地下牢」を和英辞書で引いてみると、ダンジョン(dungeon)とウブリエット(oublietee)という二つの単語が出てくる。
このうち、ウブリエットには「密牢(みつろう)」とも書かれてある。「秘密の地下牢」という意味らしい。ふつうの地下牢とどう違うのか。たまたま図鑑を眺めていたら、その答えを見つけた。次の通りだ。
「(注:中世ヨーロッパの城には)ウブリエットという秘密の地下牢もあった。この名前はフランス語の「忘れる」という言葉からきている。ウブリエットは最も憎むべき囚人を閉じこめるのに使われた。ここに閉じこめられると、そのまま忘れられてしまった。」(S・ビースティー画、R・プラット文、北森俊行訳『輪切図鑑クロスセッション』1992年、岩波書店、P.4)
ウブリエットには、忘れてしまいたいほど憎らしい囚人を閉じこめたのだ。おお、恐ろしい。
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2020年4月17日(金) |
サカン |
律令制の時代、どこの役所であっても、官吏はカミ(長官)・スケ(次官)・ジョウ(判官)・サカン(主典)という四階級の肩書きで呼ばれていた。これを四等官制(しとうかんせい)という。
このうち、第四等官であるサカン(主典)の役割は書記であり、サカンはまたフヒトとも呼ばれた。
もともとわが国には文字がなく、文字による記録には外来語である漢字を用いた。しかし、漢字を自在に書いたり読んだりできたのは、基本的には渡来人系氏族の史部(フヒトべ)の人びとだけだった。だから書記官には当初、史部(フヒトべ)の人びとを登用した。
つまり、第四等官をフヒトとも呼ぶのは、文字を読み書きできる史部の氏族的職能に由来するものだ。
こうして、フヒトべ(史部)の人びとが官(カン)に登用されることになった。国語辞典には「サカンは佐官(さかん。「佐」はたすける意)に由来」と書かれているが、「史官(シカン)」の音が転じてサカンになったものではないのか。
なお現在、壁塗り職人をサカン(左官)というが、この呼称も律令制のサカンに由来するという。彼らが、木工寮(もくりょう)のサカン(属。職・坊・寮ではサカンを「属」と書いた)として、内裏のこわれた壁などの修復にあたっていたからという。
【参考】
・大津透『律令国家と隋唐文明』2020年、岩波新書、P.125~126参照。
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2020年4月15日(水) |
和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう) |
みんなで同じ歌をうたう斉唱。斉唱というと、明治期以降、小学校での音楽教育を通じて始まったと思われがちだ。
しかし、大勢で同一旋律をうたうという行為なら、すでに近代以前においてもあった。古代には、国家的な法会の際に大勢の僧侶たちでおこなう声明(しょうみょう)があったし、宮中行事や宴席などでは一堂に会した貴族たちがおこなう詩歌の朗唱などがあった。
藤原実資(ふじわらのさねすけ。957~1046)の日記『小右記(しょうゆうき)』には、「みんなで和歌を朗唱した」有名な記事がある。
寛仁2(1018)年10月16日、藤原道長(966~1027)の娘が皇后に立った。これで道長の家からは三人の娘が皇后(中宮)に立ったことになる。未曾有の慶事に、祝賀の宴席で道長は、わが身の栄華を誇った和歌を披露する。
此(こ)の世をば我が世とぞおもふ望月(もちづき)の
かけたることもなしと思へば
高校日本史教科書にも掲載されている有名な史料だ。この時、実資は次のようにこたえている。
御歌優美なり。酬答(しゅうとう)に方(すべ)無し。満座只(ただ)この御歌を誦(じゅ)すべし。
「満座只この御歌を誦すべし(みんなでただ、この和歌をうたいましょう)」。その場にいあわせた者たちみんなで、「この世をば~」という道長即興の和歌を、節をつけて朗唱したのだ。
平安時代の宮廷社会では、楽器の伴奏にあわせて全員で朗唱することが流行した。
現在のカラオケハウスなら、歌詞がモニターに表示される。しかし、平安時代に、そんなものはなかった。もしも、宮中の公式行事や偉い人が列席する宴席で、その場にふさわしい詩歌がわからず、みんながうたっているのに自分だけがうたえない。そんな時には、ちょっと恥ずかしい思いをするのではないか。
だから、その場その場でふさわしい詩歌は何なのか、事前に勉強しておこうという気になる。そうした朗詠の参考書として人気のあったのが、『和漢朗詠集』だ。
『和漢朗詠集』は、平安中期の歌人で「四条大納言(しじょうだいなごん)」とよばれた藤原公任(ふじわらのきんとう。966~1041)が、朗詠に適した和歌217首、漢詩句587首を朗詠題ごとに分類・収録した詩歌集だ。有名な詩歌ばかりなので、朗詠のためだけに暗唱するのはもったいない。これを書いて覚えれば書も上達するし、恋文を書いたり漢詩を作成したりする際のネタとしても活用できる。
こうして『和漢朗詠集』は、貴族としての教養を身につけるのに一石ニ鳥、一石三鳥の教科書の役割も果たしたのだ。
【参考】
・呉座勇一『日本中世への招待』2020年、朝日新聞出版(朝日新書)、P.93~94
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2020年4月13日(月) |
声に出す |
古代、天皇が政治を行う場を「朝廷」といった。朝廷はもと「朝庭」と書いた。律令制の時代、官人たちは早「朝」に出勤し、「庭」に列立して、天皇や上司から命令を「聞いた」。
律令制といえば、隋唐から輸入された文書主義による進んだ行政システムを連想しがちだ。
しかし実際には、重要命令の伝達、日常の行政決裁の大部分は、口頭によってなされていた。当時の人びとは、音声言語に呪術的・儀礼的機能があるものと認識していたらしい。
たとえば政権運営は、四等官のうち、長官(カミ)・次官(スケ)・判官(ジョウ)による口頭決裁によった。これを「宣(せん)」という(残る主典(サカン)は文書作成や書記にあたった)。
天皇の命令は読み上げられた。天皇の言葉を「ミコト」、それを宣告することを「ノル」といった。「ミコトノリ(詔)」である。
本来、天皇の意思は、人民を集めて言い聞かせるものだった。そうした伝統があったため、詔は人々に読み聞かせる宣命体(せんみょうたい。命(ミコト)を宣(ノル)文体)というわが国独特の文書形式をとった。
天皇制の本質を支える法もまた、読み上げられるものだった。その証拠に、法・令・式・典などの漢字には、宣告を意味する「ノリ」の和訓が宛てられている。
読めばわかるものであっても、声に出して読み聞かせることに意味があったのだ。
わかりきった内容であっても、わざわざ人びとを集め、声に出して書類を読み上げるという行為は、現在でも多くの場面において見られる。
たとえば、小学校。「夏のラジオ体操に休まず参加した○○さんは立派です」と学校通信に一行書けば済むことでも、わざわざ「朝」、校「庭」に全校児童を整列させ、校長がいちいち表彰状を「読み上げる」。「みんなの前で読み上げる」という行為自体が重要なのだ。
【参考】
・大津透『律令国家と隋唐文明』2020年、岩波新書の「第五章 官僚制と天皇」
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2020年4月12日(日) |
そんなのシラン? |
江戸時代中期以降、当時の通商国の一つ、オランダを通じて西洋の学術が研究された。オランダに和蘭、阿蘭陀などの漢字を宛てたため、そうした学問を「蘭学」といった。
大槻玄沢(1757~1827)が江戸本材木町に開いた家塾「芝蘭堂」(しらんどう。家塾はその後、三十間堀、水谷町、木挽町、采女原、築地へと移転)には、その名前に「蘭」の一字が入っている。だから、蘭学塾ということがわかる。
ところで、芝蘭堂の「芝蘭」とは、一体どういう意味だろう。国語辞典や漢和辞典を引くと、おおよそ次のように書いてある。
芝は万年茸(まんねんだけ)のこと。担子菌類のキノコで、これを乾したものが霊芝(れいし)。聖人の世に生える瑞草(ずいそう)とされ(『西鶴諸国ばなし』など)、床飾りとして愛玩されるという。
蘭は藤袴(ふじばかま)のこと。キク科の多年草で、その佳気が愛でられるという。
芝も蘭も、人びとにとって得がたい価値が外へとにじみ出ている。だから、芝蘭という言葉は、自分の才能を隠そうとしても自然と世にあらわれてしまう、すぐれた人材のたとえにつかわれる。
「芝蘭玉樹(しらんぎょくじゅ)」といえば芝蘭と美しい木の意で、すぐれた人物・弟子のたとえ。
「芝蘭の化(しらんのか)」といえばすぐれた人物の感化に浴すこと。
これに類するものに「芝蘭の室(しつ)に入(い)るが如(ごと)し」(『孔子家語(こうしけご)』)という言葉がある。芝蘭の香気満ちた部屋に長らくいると、いつのまにかその佳香が身に染み着いている。それと同様、立派な人とつきあっていると、知らず知らずのうちに感化されるというわけだ。 |
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2020年4月11日(土) |
もしもクマさんに出会ったなら |
世の中、何が起こるかわからない。
突然、目の前にヒグマが現れたら、われわれ人間になすすべなどあるのだろうか。
次の文章は、蝦夷地(えぞち。現在の北海道)でヒグマに襲われ、九死に一生を得たという体験者の直話だ。なお、読みやすくするため、適宜改行し、「」や読みがな等をほどこした。
去る申(さる)の八月(安永5年、1776年)、松前(まつまえ)河原町平次郎という若者、知内浦へ急用ありて行きしに、炭焼峠(すみやきとうげ)を越ゆるに、いつもは鉄炮打ちを頼みて越ゆることなれども、
「日中なれば羆(ひぐま)の出ることもあるまじ」
とおもい、炭焼峠を越し掛かりしに、頂(いただ)きに至(いた)りしころ、羆(ひぐま)、平次郎を目懸(めが)け、坂の下より走り上る。
羆(ひぐま)は前足の短き物にて、兎(うさぎ)の如(ごと)く登り、坂の所は別(べっ)して早く、程(ほど)なく近付くに及びては逃(のが)るともかなわざることを知り、
「絶体絶命」
とは思いながら、
「このまま害(がい)せられんも口おし(口惜しい、残念だの意)」
とて、傍(かたわら)にありし重さ四十貫目(かんめ)もあらんと覚(おぼ)しき大石を、目より高くさし上げ、羆(ひぐま)の前に来(き)たりし所を
「南無八幡(なむはちまん)」
といいざま羆(ひぐま)に打ち付けしに、羆(ひぐま)両手を以(もっ)て石を抱えしに、屏風(びょうぶ)を立てしごとくの坂ゆえに、石を抱(かか)えながらころころと谷底へ転(まろ)び落ちしに、羆(ひぐま)いかり、石の角(かど)かどをかりかりと噛(か)みわる音の耳元にあるように覚え、坂のあなたへ逃(のが)れてたすかりしとなり。 (大藤時彦編・古川古松軒著『東遊雑記』1964年、平凡社(東洋文庫)、P.157)
ところで、上の記述で気になったことが、二つ。
一つは、平次郎が持ち上げたという大石の重さ。
1貫目は約3.75kg。40貫目といえば150kgにもなる。いくら「火事場の馬鹿力」といっても、150kgほどの大石を「目より高くさし上げ」てヒグマに打ちつけたなんて、とても信じがたい。話半分として受け取っておくか。
もう一つは、ヒグマの歯の丈夫さ。
谷底まで転げ落とされたヒグマは怒り心頭の余り、投げつけられた大石の角々(かどかど)を、カリカリと音をたてて噛み割ったという。いかにもろかろうがやわらかかろうが、石は石だ。
このヒグマは、ダイヤモンドに匹敵するような、よっぽどかたい歯をもっていたと見える。
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2020年4月6日(月) |
納豆の名乗り |
軍記物語を読むと、当時の武士たちが名乗りを重んじたことがよくわかる。
武士たちの戦闘形態が、足軽隊を駆使する集団戦へと移行したのは、戦国時代のころだった。それ以前は個人戦(一騎打ち)中心であり、武士にとって武功をたてることが名誉や恩賞の獲得に直結していた。そうした実利があったからこそ、敵・味方を問わぬ大勢の証人が見守る中、精一杯の自己アピール(名乗り)をし、死にものぐるいの戦いに臨んだのだ。
名乗りはふつう二、三人の先祖の名前をあげて、自己の存在を周囲に知らしめる簡単なものだった。
しかしなかには、先祖の武功談を一くさり語ってから自己紹介する大庭景能(おおばかげよし)・景親(かげちか)兄弟のような武将もいた(『保元物語』)。「昔の戦争ののんびりさ加減がよく伺われる」(1)エピソードとされる。しかし、生死を分ける戦場において、敵方から悠長な名乗りを聞かされる側は、さぞかし閉口したことだろう。
それはさておき、次に名乗りの一例をあげておく。御伽草子(おとぎぞうし)の一つ『精進魚類物語(しょうじんぎょるいものがたり)』から引用した。名乗りの主(ぬし)は、納豆を擬人化した納豆太郎糸重(なっとうたろういとしげ)だ。
「神武天皇(じんむてんのう)よりこのかた、七十二代の後胤(こういん)深草天皇(ふかくさてんのう)に五代の苗裔(びょうえい)、畠山のさやまめには三代の末孫(ばっそん)、大豆の御料(ごりょう)の嫡子(ちゃくし)納豆太郎糸重」(2)
この名乗りによると、深草天皇(仁明天皇(にんみょうてんのう)のこと)から5代目が畠山さやまめ。それから3代目が大豆の御料。その嫡子が納豆太郎糸重ということになる。納豆の御先祖様が天皇とは恐れ入るが、これは物語作者が
草→畠→大豆→納豆
という連想によって系図を組み立てているためだ(3)。ついでながら、糸を引く納豆の実際を反映した糸重というネーミングも、いかにも納豆っぽい。
しかし納豆とはいえ、その名乗りはねばっこくはない。大庭兄弟にも納豆太郎の名乗りを見習ってほしいものだ。
【注】
(1)金田一春彦『日本人の言語表現』1975年、講談社現代新書、P.52
(2)『精進魚類物語』は石井研堂編・校訂『万物滑稽合戦記』1901年、続帝国文庫、P.11(国立国会図書館デジタルコレクション)から引用した。
(3)石塚修「納豆文学史」(全国納豆協同組合連合会納豆PRセンターホームページによる。http://www.natto.or.jp/bungakushi/07.html)
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2020年3月8日(日) |
ジュズダマ |
一夜漬けの試験勉強がむなしいのは、試験が終了するや、むりやり詰め込んだ知識が跡形もなく消え去ってしまうからだ。
それでは、本当に知識が身につくは、どういう時だろう。
たとえば、柳田国男(民俗学者。1875~1962)の場合。
彼は少年の頃、疣(いぼ)が体中にできた。父は難しい漢字の薬名を紙に書くと、それを薬屋から買ってこさせた。うまくもないその粉薬を散々飲ませられたおかげで国男少年は、その難しい薬品の名前がヨクイニン(草冠に意、草冠に以、仁)と読むことも、その正体がジュズダマ(ハトムギはその改良種)の粉であることも一挙に覚えてしまった(柳田国男『海上の道』による。青空文庫で閲覧可)。
経験が五感に強く訴えた時、本物の知識が定着するのだ。
(注)なお、ジュズダマの粉が、疣の治癒に本当に効能があるかは不明。
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2020年2月14日(金) |
うまい話なんてない-蚕卵紙(2)- |
幕末期から明治初期にかけて、日本から大量に蚕卵紙を買い込んでいたのは、おもにイタリアとフランスだった。この二カ国のみで、輸出総量の約9割を占めていた。
横浜で、蚕卵紙は高値で取引された。しかも、持ち込めば持ち込んだ分だけ売れた。売り込み商たちは一攫千金を夢見た。各地からありったけの蚕卵紙を買い集めては、横浜に殺到した。
ところが、明治3(1870)年頃から、蚕卵紙の大暴落が始まった。
直接の原因は、プロイセンとの戦争(普仏戦争)が始まり、フランスが蚕卵紙の輸入を停止したことによる。そのうち、パスツールが蚕の微粒子病の病原を発見し、その防除法を確立することになる。
こうして、日本産蚕種の海外需要は途絶えてしまうのだ。
もはや、横浜に蚕卵紙を持ち込んでも、買い手がつかない。輸出できなかった蚕卵紙は内地に送り戻されるか、横浜公園で焼却またはすり潰して処分された。放置すれば、孵化して蛾になってしまうからだ。
処分される蚕卵紙の量は、年を追うごとに膨大になった。
たとえば、明治7(1874)年に横浜港に持ち込まれた蚕卵紙は176万5000枚余。このうち輸出できたのは127万枚余。一部は産地に送り戻されたが、44万5000枚もの蚕卵紙が焼却処分された。
その後も、買い手のつかない蚕卵紙は処分され続け、10年後の明治17(1884)年頃には蚕卵紙の輸出そのものがほぼなくなってしまった。
一攫千金の夢は絶たれた。その結果、輸出目的に蚕卵紙を買いあさった商人たちの多くは、大きな負債を抱えて没落していくしかなかった。
【参考】
・小泉勝夫「横浜開港と生糸貿易」2003年(「シルク・サミット2003 in 横浜」における基調講演。講演内容はインターネット上に公開。2020年1月30日閲覧) |
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2020年2月12日(水) |
だって生ものなんだから-蚕卵紙(1)- |
生糸は、カイコガの蛹(さなぎ)がつくる繭(まゆ)から作られる。このカイコガの卵を産みつけた用紙を蚕卵紙(さんらんし)という。幕末、日本からヨーロッパ向けに大量輸出された。
当時ヨーロッパでは蚕の病気(微粒子病)が蔓延し、フランスやイタリアなどでは全滅に近い被害を受けていた。日本と通商が始まると、試しに蚕種(こだね。蚕の卵)を輸入してみた。すると、作柄がたいへんによかった。そこで、外国人貿易商は蚕卵紙を買いあさることになった。
蚕卵紙の輸出は横浜港が独占した。たとえば、元治元(1864)年に横浜港から輸出された蚕卵紙は、数量にして貿易港全体の94.65%、価額にして97.86%を占めた。当時の蚕種生産の中心地が信濃(長野県)、武蔵(埼玉中心に東京・神奈川の一部)、上野(群馬)等だったため、箱館や長崎ではなく、生産地からほど近い横浜港に運び込まれたのだ。
しかし、蚕卵紙には弱点があった。生糸や茶などとは異なり、蚕種は生きている。25℃以上の状態が1週間も続くと、幼虫が孵化してしまうのだ。『水戸大高氏記録』には次のようにある(読みやすくするため句読点等を補った)。
「(元治二乙丑年七月)此節(このせつ)、蚕ノ種を紙へなしつけ候分(そうろうぶん)、横浜ニ而(にて)異人(いじん。外国人のこと)沢山(たくさん)買込候(かいこみそうろう)ニ而、上州(じょうしゅう)・常陸(ひたち)・奥州辺(おうしゅうへん)迄(まで)買入(かいいれ)夥(おびただ)しく入込候而(いりこみそうろうて)、千枚ニ付(つき)百両位(くらい)之注文有之候所(これありそうろうところ)、此節百六十両余ニ相成候へ共(あいなりそうらえども)買込(かいこみ)、江戸より浦賀辺へ沢山荷物出候(だしそうろう)よしの所、追々(おいおい)蛾(が)ニ相成候ニ付、異人一円(いちえん)手を引(ひき)、買入不申候(かいいれもうさずそうろう)」
(当節、横浜の外国人が蚕卵紙を大量に買いつけている。そこで日本の売り込み商たちは上州・常陸・奥州あたりまで買いつけに行き、横浜に大量の蚕卵紙を持ち込んだ。千枚につき百両だった値段が百六十両に高騰しても買い続け、江戸から浦賀辺へ大量に荷物を送り出した。ところが、次第に蚕卵紙の卵が孵化して蛾になってしまう。そのため、外国人たちは蚕卵紙の買い付けから一斉に手を引き、買ってくれなくなってしまった。)
その結果、大金を投じて買い集めた蚕卵紙が一文にもならず、売り込み商たちは丸損をした。
「余(よ)ほど潰(つぶ)れ候(そうろう)者(もの)、出来可申(しゅったいもうすべし)」(よほど多くの破産者がでるだろう)
と噂された(前出、『水戸大高氏記録』)。
【参考】
・小泉勝夫「横浜開港と生糸貿易」2003年(「シルク・サミット2003 in 横浜」における基調講演。講演内容はインターネット上に公開。2020年1月30日閲覧)
・『水戸大高氏記録・巻十三』茨城大学図書館蔵。史料はホームページ「みんなで翻刻」上に公開されているものを閲覧した(2020年2月7日閲覧)。
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2020年1月19日(日) |
鞠(まり)をつきたいのは「山寺の○○さん」? |
昔こんな話を聞いた。
詩人野口雨情(のぐちうじょう。1882~1945)は、国民に愛唱される童謡を数多く世に送り出した。その一つ「証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)」を書いたときのこと。雨情は、千葉県木更津市にある證誠寺(しょうじょうじ)に伝わるタヌキ囃伝説を参考に、歌詞を書いた。月夜に誘われて現れたタヌキたちが、腹づつみをたたき、お寺の和尚さんと踊り遊ぶというユーモラスな内容。ところが、モデルとなった寺側は、この歌詞に激怒。
「和尚はタヌキなんかと遊んでいない」。
しかし歌は大ヒット。寺の名前は、日本のすみずみにまで知れ渡った。すると、手のひらをかえしたように、寺側の曰(いわ)く
「これも雨情先生のおかげですナア」。
何せ遠い昔に聞いた話だ。真偽のほどはさだかでない。
ところで、この歌詞の中で「負けるな、負けるな、和尚さんに負けるな」と歌われた「和尚さん」。その読み方は一様ではないらしい。
この童謡では「おしょうさん」と呼んでいる。しかし、僧侶の敬称である「和尚(和上)」は、仏教の流派によって呼び方が違う。禅宗・浄土宗では「オショー(唐音)」、真言宗・律宗では「ワジョー(呉音)」、天台宗では「クヮショー(漢音)」と呼ぶのだそうだ(注)。
それでは質問。次の高僧の方々の敬称は、何とお呼びしたらよいのだろうか。
1 七福神の中で福々しいお腹が特徴的は布袋(ほてい)さん
2 井上靖の小説『天平の甍(いらか)』で有名な鑑真(がんじん)。
3 三大史論のひとつ『愚管抄(ぐかんしょう)』を書いた慈鎮(じちん。慈円)。
(注)金田一春彦『日本語 新版(上)』1988年、岩波新書、P.30による。
上の問いの答え。1 おしょう(浄土宗) 2 わじょう(律宗) 3 かしょう(天台宗) |
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2020年1月15日(水) |
ねずみ算 |
ネズミは、穀物や家具などに被害を及ぼす害獣として、われわれ人間に忌避されてきた。
そうした負の側面がある一方で、ネズミは正直者に福運を授ける存在とも考えられてきた。
たとえば「鼠浄土(ねずみじょうど)」とよばれる昔話がある。ネズミの穴に握り飯を落とした正直爺が、ネズミの住処(すみか)に迷い込み、宝物をもらって帰るという話だ。幼児の頃、「おむすびコロリン」という名前で聞いた人も多いはずだ。
現在でも、大黒天の使者として福ネズミを信仰する商家もある。したがって、「ねずみ算」とよばれるその驚異的な繁殖力を好意的に解釈すれば、福の等比級数的増大の象徴と見なすこともできるわけだ。
今年は子年(ねどし)。そこで、近世初期の和算書『塵劫記(じんこうき)』をひもといて、「ねずみ算」を解いてみることにした。原文は次の通り。読みやすくするため、漢字や句読点などの表記を一部改めた。
正月に、ねずみ父・母いでて、子を十二疋(ひき)生む。親ともに十四疋になる。
このねずみ、二月には、子もまた子を十二疋づつ生むゆへに、親ともに九十八疋に成る。
かくのごとくに、月に一度づつ、親も子も、また孫も曾孫(ひこ)も、月々に十二疋づつ生む時に、十二月には何程(なにほど)に成るぞ。
正月に2疋の親ネズミが12疋の子どもを生んだ。親子とも合計で14疋だ。
これらが雄・雌7疋ずつのつがいの親(7対)になり、2月に12疋ずつ子を生むとすると、2月生まれの子の合計は12×7=84疋。これに親14疋を加えると、ネズミの合計は98疋となる。
3月にはこの49対(98疋)のネズミが親となって12疋ずつ子を子を生む…。
このようにしていくと、12月にはネズミの総計はいくらになるか、というのが上記「ねずみ算」の問題だ。
解き方は「ねずみ二疋に七を十二たび掛」ければ導けるという。親2疋から子12疋が生まれて計14疋、つがいが7対できる。これが12回繰り返されるので、2×712 。これを計算すると、
276億8,257万4,402疋
になるという。
本当にこの数値になるか、検算して確かめてみよう。そうすれば、ネズミから福を授かるかも。
【参考】
・吉田光由著、大矢真一校注『塵劫記』1977年、岩波文庫、P.201~206
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