あれやこれや 2019 

 『中庸』によれば、学問とは次の五つの体得だといいます。

 博学、審問、慎思、明弁、そして篤行。まずはひろく学び、疑問があればそれを問い、自分で思い深め、さらに他と比較して違いをはっきりさせること。これで、一応のことはわかります。しかし、それだけではまだ一片の知識に過ぎず、「篤行」すなわち実行にまで進まなければ、本物ではない、というのです。

 「博学」の入口でつまづいている私にとっては、耳の痛い言葉です。とりあえずは、自分の勉強のためにも、このホームページを続けていきたいと思っています。 
2019年12月24日(火)
馬のくつ
 アジア草原に発生した馬は、蹄(ひづめ)のまま疾走していた。土地が軟らかく、支障がなかったからだ。ところが人に飼われ、役畜・軍馬として使役されるようになると、岩石地域や敷石を並べた道路など、堅い地面の上を通行しなければならなくなり、蹄が割れてしまうようになった。それを防ぐため、ヨーロッパでは蹄鉄(ていてつ)を打ち付けた。馬の靴だ。

 しかしわが国では、蹄鉄を幕末まで導入しなかった。八代将軍徳川吉宗が西洋馬を輸入してオランダ商官員ケイゼルから装蹄術を学ばせたことはあったが、一般には普及しなかった。

 蹄鉄が普及しなかった理由は、三つある
(注1)

 一つには、蹄鉄用の金属が不足していたこと。

 二つには、わが国では軍馬に、去勢しない雄を用いていたこと(そのため気性が荒く、蹄鉄を着けるのが技術的に困難な上、暴れた場合には人畜を負傷させるおそれがあった)。

 三つには、道路や橋が土製・木製だったこと(堅い蹄鉄は道路・橋などを破損させるおそれがあった)。

 そこで、蹄の保護には、やわらかな藁で編んだ馬用の藁沓(わらぐつ。馬草鞋(うまわらじ))が用いられた
(注2)。しかし、藁沓は脱落しやすかった。また、藁製だったため損耗が激しく、軍事行動や集団移動の際には大量の藁沓を必要とした。そのため、街道沿いの宿場には、旅人が履き替える草鞋ばかりでなく、馬用の藁沓が常備されていたという。

 ところで、テレビをつけると、高校駅伝大会を生中継していた。そこで印象的だったのは、次々走り去っていく選手たちがピンク、ピンク、またピンクと、ピンクのシューズのオンパレードだったことだ。聞くところによると、トップアスリートたちがこの厚底シューズをはいて、好成績を出したとか。それにあやかりたいと思い、高校生たちがこのシューズに飛びついたのだろう。ただし、某有名メーカーが開発したそのシューズは、値段が3万円超もするという。

 高校生選手が高価なピンクのシューズを履いて記録更新を狙う。何ともエールを送りにくい雰囲気だ。馬なら同じ靴(蹄鉄)をはいて、全力で疾駆するだろうに。


【参考】
(注1)
千葉徳爾「馬」による-金子浩昌外著『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.16~21-
(注2)歌川広重作「名所江戸百景」の内「四ッ谷内藤新宿」には、馬の藁沓がクローズアップされている(国立国会図書館デジタルコレクション等を参照)。

2019年12月20日(金)
コノシロ
 関東では、コノシロの小さいものをコハダと呼ぶ。鮨にするとうまい魚だ。しかし、この魚は生臭いため、焼くと「死体を焼く臭いがする」などという、とんでもない言いがかりをつけられてきた。

 コノシロという変わった名前には、「子の代(しろ)=幼児の代わり」という意味がある。

 江戸時代の方言集『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』には次のようにある。


「世間に子生
(うま)れて死し、又生れては死す事有(あり)。其家(そのいえにては子生るゝ時胞衣(えな)・このしろ(原文は漢字。魚へんに祭)とを一所に地中に蔵(おさむ)れば其子(そのこ)成長す。尤(もっとも)其子一生このしろを食せざらしむ。このしろは子の代(しろ)なり、といひつたへたり」(注1)


 もともとは、幼児が死んだ際、この魚を一緒に葬ることにより、早く生まれ変わること願う俗信があった。仏教では生臭いものを嫌う。仏教の戒めに反する生臭い魚を供えることにより、幼児の魂があの世にいってしまうのを妨げ、この世への再帰を促したものだろう。それが、後産(のちざん)とともにこの魚を地中に埋めれば、生まれた子どもが無事に成長できる、とする俗信に転じたらしい。

 しかし、いつしか本来の意味・慣習が忘れ去られてしまい、「子の代=子の身代わり」に付会した物語が生まれ、また神の魚として食用を禁じる習俗が生じた。 

 たとえば『おくのほそ道』に、「室の八島(むろのやしま。現、栃木県栃木市惣社町の大神(おおみわ)神社)」の辺では


 「このしろといふ魚を禁ず」
(注2)


とある。またこの地域(栃木県)には、「コノシロを娘の身代わりにした」とする説話が伝わる。

 昔、下野国(現、栃木県)に一人の長者がいた。長者には美しい娘がおり、国司が自分の妻にと求婚した。しかし、娘はほかの若者と恋に落ち、懐妊してしまった。国司との約束を破れば、報復が恐ろしい。そこで、長者は一計を案じた。娘は急病で亡くなったことにし、棺(ひつぎ)の中にたくさんのコノシロをつめこんだ。そして、国司の使者立ち会いのもとで火葬にしたのだ。コノシロを焼くと死人を焼いた臭いがする。国司の使者はまんまとだまされたというのだ。後世、この話を聞き伝えた人が、次の和歌を詠んだ。


 東路
(あずまじ)の室(むろ)のやしまに立つ煙
        たが子のしろにつなし
(つなしはコノシロのこと(やく)らん(注3)


 また、コノシロの音は「この城」に通じる。「この城を焼く」などとはもってのほか。だからコノシロは、縁起をかつぐ武士たちからも嫌われた。武士がこの魚を食すのは切腹する直前ぐらいのこと。ゆえにコノシロを腹切魚(ふくせつぎょ)というのだと。

 
【注】 
(注1)東條操校訂『物類称呼』1941年、岩波文庫、P.53
(注2)潁原退蔵・尾形仂訳注『新訂 おくのほそ道』1967年、角川文庫、P.14
(注3)末広恭雄『魚と伝説』1977年、新潮文庫、P.111~112

2019年12月18日(水)
危機管理のテッパン

 江戸時代、東海道と中山道が出合う交通の要衝だった草津(現、滋賀県草津市)には、宿駅が設けられた。ここには大名の宿泊する本陣が2軒あり、その一つが現在「草津宿本陣」として国史跡に指定されている。

 この本陣には、大名の危機管理に意を用いた工夫がされている。大名が入る8畳敷の上段の間は、廊下より一段高くなっている。大名が座るときは、その上に分厚い畳をさらに2枚敷いたという。槍などによる床下からの攻撃を警戒してのことだ
(注1)

 当時の旅行で、宿舎に着いてまず確認すべきことといえば、各部屋の配置と避難経路、そして部屋に敷かれた畳の落ち込みだったという。


「部屋の畳を踏み回り、畳の落ち込むところがあったら、畳を上げて、下を覗いてみろ、床に穴が開いているかも知れないからだ。床下の穴は盗賊の格好の進入路である。近世の大名たちの旅行では本陣に泊まる場合でも畳を全部上げて、持ち来たった鉄板を下にまず敷いたといわれている。防衛、防御、身の安全への備えは近現代の旅と大きく違う。」
(注2)


 上の文章中に、「用心深い大名は畳の下に敷く鉄板を持ち歩いた」という話が書いてある。伝聞形式でよく聞く話だ。しかし小生不勉強にて、裏付けとなる具体的な史料の存在を知らない。どこの大名が、いつ、どのような大きさ・厚さ・形状の鉄板を何枚、何人の人足を使ってどのように持ち運んだのか。それらがわかる史料や、携行した鉄板の実物が残っているなら、是非とも拝見したい。


【注】
(注1)「大名の死秘した使命感 草津宿本陣(時の回廊)」(インターネット版日本経済新聞、2015年1月23日付け)による。
(注2)浅見和彦「女の旅、庶民の旅」-『日文研叢書第43巻』2009年、P.165-(http://doi.org/10.15055/00005162、2019年12月1日閲覧)

2019年12月16日(月)
空から毛が降る(2)

 安政2(1855)年10月2日夜、江戸で大地震があった。この時も白い毛が降ったという。

 しかし、その白い毛が降っているところを、実際に見た者はだれもいなかった。

 地震で九死に一生を得た者が、あとから着物の袖の中を探って見ると、一本の白毛が入っていたという。誰言うともなく、それは伊勢太神宮(いせだいじんぐう)が降らせた神馬(しんめ)の毛と噂された。伊勢太神宮が、信者を災厄から救い出した証拠という。

 こうして、出所不明の白い毛の噂話は、震災直後に大量出板された鯰絵の中に、いくたびも登場することになった。


「ときにこんど、いせの太神宮様(だいじんぐうさま)のしん馬(め)の毛(け)がのこらずなくなつたそふだが、此(この)あいだゑどのぢしんに太神宮様がその馬(うま)にのつてきて、たいそふ人をたすけたそふだが、たすかつたものは袂(たもと)にその神馬(しんめ)の毛が一本づゝあつたそふだ」(注1)


「死亡の人多かる中に、けがもなくあやうき命をたすかりたる人々は、伊勢太神宮の御たすけ也。その故
(ゆえ)は、彼時(かのとき)御馬(おうま)、御府内(ごふない。江戸市中のこと)をはせめぐり、信心の輩(ともがら)をすくひ玉ふにや、たすかりし人々の衣類の袂(たもと)に神馬(しんめ)の毛入(いり)てあるといふをきゝて、その人々あらため見るに、はたして馬の毛出る也。是(これ)こそ大御神(おおみかみ)の守らしむる所なりと云(いう)(注2)



 ところが伝聞に過ぎなかった白い毛の噂話が、そのうち「伊勢太神宮による救済」と確信・断定され、人びとの間に伝播していった。


馬の毛をまき散らす伊勢太神宮の言葉)江戸にてなまづ(鯰)ども、うちよりさはぎ候(そうろう)よし。鹿嶋明神通りかけ、ぢしん(地震)いたすゆへ、そふそふ(早々)欠附(駆けつけ)、諸人(しょにん)をたすけの手当(てあて)なきまゝ、乗馬の毛を一本ツヽあたへ候(そうろう)。しづかに立(たち)のけ、立のけ」
(注3)


「あやうく命をたすかりし人は、伊勢太神宮そのほか神々、信心のともがらは、神馬
(しんめ)御府内ごふない)をはせめぐり、人袂(たもと)に此毛(このけ)出る也。是(これ)神の守らしむる也(なり)。ありがたや、ありがたや」(注4)


(毛を降らす神馬の地震鯰に対する言葉)どうだ、一番へこんだろう。これといふのも、おらがおやぶんの太神宮さまのおさしづだから、しかたがあるまい」(注5)



「十月二日大地しんの時、いせの御神馬が駈
(かけ)てきて諸人(しょにん)を赦(たすけ)た。其(その)せうこ(証拠)にはその時きていた着物のたもとを見ると、白い毛が二、三本づつはいつてある。なんと有(あり)がたひ事ではないか」(注6)


 人々の不安が、災害時には「毛が降る」という伝承と、「生き残ったのは神の加護」という思いが結びついて、伊勢太神宮加護の証としての「白い毛」の噂が、「事実」として認識されていったのだろう。

 だから、白い毛が獣毛だったのか着物の糸くずだったかなど、詮索することに意味はない。信じることによって人びとは、不安や不幸を乗り切ることができる。一本の白い毛に、心のよりどころを得た被災者もきっといたはずだ。


【注】
(注1)『二日はなし地震亭念魚町々庵炎上』東京大学総合図書館蔵。
(注2)表題なし。伊勢太神宮の神馬。東京都立図書館蔵。
(注3)江戸上空を白馬に乗った神々が飛翔する中での伊勢太神宮の言葉。表題なし。天を飛翔する神々。東京大学総合図書館蔵。
(注4)表題なし。伊勢の神馬が鯰を踏みつける図。東京大学総合図書館蔵。
(注5)表題なし。神馬が鯰に毛を降らしている図。東京大学総合図書館蔵。
(注6)『世直し鯰の情(なさけ)』東京大学総合図書館蔵。

2019年12月15日(日)
空から毛が降る(1)
 わが国では天変地異がおこると、空から毛が降る。事の真偽はともかく、この奇事は種々の記録に見える。

 確かに、火山の噴火があった場合、空から毛髪状の物質が降ることはある。噴火によってマグマの中に含まれるガラス質が細長く引き延ばされ、毛髪状となって噴出されることがあるのだ。これを「ペレーの毛(火山毛)」という
(注1)

 しかし、仮に火山が噴火したとしても、そうそう頻繁に「ペレーの毛」が降るとは考えにくい。「ペレーの毛」は、火山溶岩の粘性・含有物質・噴火の仕方等、さまざまな条件が揃った上で見られる現象だからだ。しかも、火山活動とは関係のない天候不順や地震等の際にも、わが国では毛が降ったという。

 たとえば、天保7(1836)年は天候不順の年だった。天保飢饉(1833~36)の最後の年に当たる。この年、江戸に毛が降ったというのだ。

 その毛とは、一体どのようなものだったのか。中山信名(なかやまのぶな。1787~1836)の『天保七年丙申日々記』(色川三中旧蔵書、静嘉堂文庫蔵)によると、その概要は次のようなものだ。

 天保7年6月19日夜、江戸に毛が降った。毛は江戸周辺地域でも見つかった。長さは、30cmばかりの長いものもあるが、多くは24cmほど。色はみな白色
(注2)。まるで銀針のようで、光沢がある。毛先に少し赤みがかったものもある。わが国のものではあるまい。異国から飛ばされてきたか。天馬の毛だとか、鑓屋(やりや)が干していた毛をつむじ風が巻き上げたものだとか、人びとは様々に憶測した(注3)

 しかし結局、真相はわからなかった。


【参考】
(注1)小泉潔「江戸(東京)にペレーの毛が降った?」-『地学教育と科学運動 68号』、2012年、P.66~77-
(注2)鳥取県立博物館には、この時江戸で降ったとされる長さ28.5cmの白い毛が保存されている。写真からは馬の毛のようにも見える。(来見田(くるみだ)博基「博物館の珍品-江戸に降った白い毛-」-『鳥取県立博物館ニュースNo.7』、2009年、P.5-)
(注3)参考までに原文を次に示す。なお、読みやすくするため、句読点は筆者が補った。

(天保7年6月24日の条)
 又去十九日の夜少雨あり□□。翌朝にいたりて見れハ、獣毛をふらせたり。所によりて多少あり。始めハ近きあたり市谷・牛込辺のみと思ひしに、追々聞ハ番町・芝辺、浅草・本郷・下谷皆ふりたり。都下残らすと見ゆ。堀内辺多し。四谷これにつくといふ。後にきく、甲州の飛脚(割注:御代官の飛脚といふ)一両日前来る。小仏峠多くふりたりといふ。さらバ諸国に及べりと見ゆ(後筆:後聞、上総辺にも降りたりとぞ)。其毛の体、我国の獣毛とハ見えす。長きものは尺ばかり、其より六七寸短き八寸計なるもの尤多し。皆白毛にて銀針の如し。光沢あり。先は少しく赤気を帯たるもあり(割注:たまたま黒きも有と云。余いまだ見ず、疑ふべし。少し赤きも有とぞ、是も見ず)。いづれなるも大かた白し。御数奇屋某の説にハ、異邦のものなるべしと云し由、屋代輪池(筆者注:屋代弘賢)の話なり。余が思ふ所も我国の物にハあらず、遠き国より雲気のまき来るならんと思ふなり。五十一年前天明の午年浅間焼の時も毛をふらせしかど、これハ大かた兎の毛に似たりと、其時皆云し由、北堂の御話なり。

(6月27日の条)
 先比の雨毛は練馬辺にも降りしと云。皆白毛。余が見る所の如し、といへり。儒者の説にハ穴(雨カ)中おのづから毛を化してふらしたる所と云、説をなし難し。古来毛を雨(ふら)する事、和漢共にあり。御当代にハ慶安比・天明と今度なるべし(割注:凡三ヶ度)。泥と毛と交りふりたる事、旧記にありしと覚ゆ(後筆:寛保中、松前山焼けして灰毛をふらす)。舎人一説を説て云、蛟竜、天馬と闘うて空中を飛行せしと云。信ずべからず。

(7月4日の条)
 或人云、此間佐渡組頭三輪四郎左衛門出府之節、上州安中宿とまり之節より毛をふらせしを聞て往々ひろはせ来る。都下にふるものに同じく、皆白しと云う(割注:四郎左衛門、此度御弓矢鑓奉行を命ぜらる)。近日諸人皆いふ、この毛は浅草辺の鑓屋にてほしたる毛をツムジ風に吹上げられたるなりと。然れども三輪の説によれバ、数十里に及べり、鑓屋の毛といふハ全く推考の説、とるに足らず。殊に和漢古今、毛を雨(ふら)する例あれバなしとすべからず。
2019年12月14日(土)
善玉・悪玉

 昔の勧善懲悪物の時代劇では、主人公の善玉が派手な白っぽい着物を着、いかにも憎々しい悪玉が黒っぽい着物を着ていた。善悪の区別が明瞭なのは、観客にとっても物語の展開がわかりやすくなるので好都合だ。

 ところで、この善玉・悪玉という呼び方は、江戸時代の草双紙に由来するものだ。

 松平定信らによる寛政改革が行われていた頃のこと。山東京伝の書いた教訓的な黄表紙(きびょうし)『心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)』(1790年刊)
(注1)の中に出てくる。

 善玉は善の魂、悪玉は悪の魂という意味だ。挿し絵を見ると、○で顔を表現し、それに善・悪の一文字を書いたキャラクターを描いている。これらの善玉・悪玉が体内に入ると、その人間が善人または悪人となる、という設定だ。

 あらすじは、善玉に守られた主人公理太郎が、年頃になって悪玉が体内に入ったことによって、女・酒で身をもちくずし盗人にまで成り下がるが、襲った道学先生に取り押さえられて改心し、善玉を取り戻すというものだ。

 善玉・悪玉のキャラクターはブームとなり、その後の草双紙・浮世絵)等に影響を与えた
(注2)。

 しかし、善玉・悪玉キャラクターが登場する以前、人間は善・悪の心によって行動するのではなく、別のモチベーションによって行動するのだと喝破した人物がいる。井原西鶴だ。

 西鶴は、人間は「欲に手足の付いたる物ぞかし」と言った。人間を動かすのは「欲」だというのだ。

 そういえば昔、小学生のなぞなぞに次のようなものがあったっけ。


  問題「自動車はガソリンで動きます。では、人間は?」

  答え「お金」



(注1) 山東京伝作、北尾政美画『大極上請合売心学早染草(だいごくじょううけあいうりしんがくはやそめくさ)』寛政2(1790)年刊(小池正胤外編『江戸の戯作絵本(3)』1982年、社会思想社(現代教養文庫)所収)
(注2)関原彩「『心学早染草』善玉悪玉の影響-天保から幕末まで-」(学習院大学人文科学論集ⅩⅩⅢ、2014年)

2019年12月13日(金)

仕事が減り、暇になった人びと-地震鯰絵(4)-

 一方、地震復興の中で仕事が減った職種とはどういったものだったのか。

 「なき上戸の方、おあいた連中」にあがっている職種を下に書き出した。一瞥すると、贅沢品など不要不急の品々、諸芸人・風流の道に関連するものが多い。こうした職種は、世の中が平和・平穏な時にあってこそ、用いられるものだ。

  手遊び(てあそび。おもちゃ屋)
  茶店(ちゃみせ)
  貸本(かしほん)
  パッチ屋(絹製の高級な股引を販売)
  雪駄屋(せったや。高級な履物を販売)
  寄席の五厘(よせのごりん。寄席で客を案内)
  留場(とめば。劇場の木戸付近の留場に詰め、警戒に当たる従業員)
  鰻屋(うなぎや)
  上菓子(じょうがし。高級和菓子)
  唐物(とうぶつ。舶来品を扱う雑貨屋)
  鼈甲屋(高級な鼈甲細工を扱う)
  贅沢屋(ぜいたくや。高級品を取り扱う)
  象嵌師(ぞうがんし)
  ぎやまん屋(ガラス細工)
  稽古所(踊り・三味線など遊芸を教授)
  噺家(はなしか。落語家)
  講釈(こうしゃく。軍記物などを語る)
  声色(こわいろ。歌舞伎役者などの物真似をする。声色遣い)
  生花(いけばな)
  俳諧(はいかい)
  将棋指し
  碁打ち
  船宿(ふなやど。遊覧・釣りなどに船を貸す)
  金貸し(取り立てができず大打撃)
  囲い者(別宅に囲われた妾)

2019年12月12日(木)

復興景気で儲けた人びと-地震鯰絵(3)-

 それでは、復興景気で潤ったのはどんな職種の人々だったのか。「大鯰後の生酔(おおなまず、のちのなまよい)」に描かれた人物の着物には、それぞれの職種が書き込まれてあるので、「わらひ上戸の方、儲(もうけ)連中」の職種を下に書き出してみた(順不同)。史料はかな書きでわかりにくいものが多いので、適宜漢字に書き換えた。

 これを見ると、圧倒的に建築関係の職人が多い。そのほか、路上で立ち食いできるファストフードや運輸(軽子)・通信(町飛脚)などが目につく。

  大工
  瓦師(かわらし)
  材木屋
  土こね(壁土をこねる職人)
  左官(塗壁を仕上げる)
  屋根屋
  穴蔵屋(あなぐらや。地下貯蔵庫を掘る)
  鳶(とび)
  土方(どかた)
  石工(いしく)
  請負(うけおい)
  荒物(莚・菰・縄などの雑貨類)
  釘屋(くぎや)
  古金(ふるかね。屑鉄などを商い)
  半天屋(職人が着る半纏を売る)
  足袋屋(たびや)
  軽子(かるこ。運送業者)
  町飛脚(まちびきゃく。通信)
  酒屋
  立ち食い(てんぷら・そばなど各種)
  大鮨(おおずし。大ぶりな鮨)
  大福餅(大きくて腹持ちがいい)
  塩物(しおもの。塩鮭・塩鱒などの保存食)
  四文屋(しもんや。おでんかん酒・はじけ豆など大道で四文で売った)
  鏝療治(こてりょうじ。温めた鏝をあてて震災のけがを治療する)
  湯屋(ゆや)
  花魁(おいらん)
  夜鷹(よたか)

 なお、震災直後には、被災した人の弱味につけ込んで暴利をむさぼる奸商(かんしょう)や、それにあやかろうとする素人物売りが次々と現れた。こうした危機的状況のもとでは、人間の心根のあさましさが露骨になる。それは今も昔も同じか。震災3日後の江戸市中の有様を『なゐの日並』は次のように記す(読みやすくするため、一部漢字に改めた)。


「昨日よりすでに大道の食物商人は、常に十倍して売る。商人ならぬも心聡
(さと)きは、老少も男女もいはず、思ひ思ひに食べ物を調(ちょう)じ道傍(みちばた)に立ち、あやしの餅菓子、鮨店、燗酒(かんざけ)の類(たぐ)ひ勝計(しょうけい)すべからず。 (中略) いつしか諸色(しょしき。物価)の値(あたい)高くして、銭も酒も惜しみて売らず」(注)


(注)笠亭仙果『なゐの日並』安政2(1855)年10月5日の条(青空文庫による)

2019年12月11日(水)

怒り上戸・笑い上戸・泣き上戸-地震鯰絵(2)-

 同じ地震被害をうけながらも、鯰を袋叩きにする人々と、鯰をかばおうとする人々。両者の違いは、何なのだろう。

 その答えは、たとえば「大鯰後の生酔(おおなまず、のちのなまよい)」という鯰絵を見ればわかる
(注)
 
 この鯰絵は安政江戸地震後の、怒り上戸・笑い上戸・泣き上戸三組の人々を題材にしている。

 画面の左端には「鹿島太神宮(鹿島神)」が描かれている。中央には腹を上にして、鹿島神に剣を突き立てられて虫の息の大鯰が横たわり、画面を上下に分割している。

 鹿島神には「はらだち上戸(怒り上戸)」の説明がある。「腹立ち」に「(鰻の)腹断ち」を掛け、鹿島神を鰻を切りさばく鰻屋に見立てているのだ。鹿島神のそばには、


「おれ
(俺)がるす(留守)にせかい(世界)をさわ (騒)がせ、うぬ(己)ヨクあば(暴)れをつたナ」


と、大鯰に対する「腹立ち(怒り)」の台詞が書かれている。

 大鯰を境に、上には「わらひ上戸」、下には「なき上戸」それぞれの職種の面々が並ぶ。「わらひ上戸」には「儲(もうけ)連中」とある。震災の復興景気で潤った職種の人々だ。復興需要で仕事が忙しくなり、大もうけして、笑いが止まらないというわけだ。

 一方、「なき上戸」の方には「おあひた連中」とある。「おあひた」は「御間(おあいだ)」で、「不要になり暇になった」という意味。災害復興には不要不急で、当面の需要がほとんどない職種の面々を指す。地震で大損した上、仕事がない。泣くに泣かれぬ人々だ。

 つまり、同じ地震の被害者ながら、仕事がなくなった職種の人々が鯰を袋叩きにし、復興需要で大忙しとなった職種の人々が、袋叩きにあっている鯰を擁護しようとしていたわけだ。


(注)「大鯰後の生酔(おおなまず、のちのなまよい)」(国立国会図書館デジダルコレクション。インターネットで閲覧できる)

2019年12月10日(火)

「鹿島の神様」のいない間に-地震鯰絵(1)-

 安政2(1855)年10月2日に安政江戸地震が起きた。その直後、大量の地震鯰絵(じしんなまずえ。地震の原因とされた鯰を題材とした戯画。以下「鯰絵」と表記)が摺(す)り立てられたという。

 笠亭仙果(りゅうていせんか。江戸の戯作者・狂歌師。1804~1866)の地震記録『なゐの日並(ひなみ)』11月2日の条には、次のようにある。


「地震火災の画・戯作
(げさく)もの (中略) 今は四百種にもおよぶ画の中にては、かしまの御神像をあまたの人拝する画と、くさぐさの人ども大なまづをせめなやますかたぞはやく出て、うるゝ事おびたゞしといへり。すべて重板(じゅうはん)。おほくうるゝものは、十板・廿(にじゅう)板も増刻せしよし也」(注1)


 仙果によれば、震災直後に大量出板された鯰絵の中では、「かしまの御神像」を大勢の人々が拝む絵と、さまざま職種の人々が地震鯰を責め立てる絵の2種類が、ことのほか多く売れたという。これらの鯰絵は売れに売れたため、すべての種類で重板(じゅうはん。大量に絵を摺ると板木が磨滅してしまうため、同じ絵柄を板木に彫り直して摺り増しすること)。なかには、十板・二十板と板を重ねた鯰絵もあったという。

 上記史料に出てくる「かしまの御神像」とは、鹿島神宮(現、茨城県鹿嶋市)の祭神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の「御神像」を指す。

 武甕槌命は武神だ。だから「鹿島の神様」は、勝利をもたらす神様として、スポーツ選手や受験生などから広く信仰を集めている。

 また、鹿島神宮の境内には、要石(かなめいし)とよばれる霊石が祭られている。地震が滅多に起こらないのは、「武神である武甕槌命が、要石によって地中の大鯰を抑えつけているからだ」とされる。だから「鹿島の神様」は、地震除けの神でもあるのだ。

 それにもかかわらず、鹿島神宮からほど近い江戸で、大地震が起きてしまった。「鹿島の神様」でもどうにもならなかったのだ。それは、大地震が10月2日に発生したためだという。

 10月は別名「神無月(かみなしづき、かんなづき)」 。10月に全国の神々が出雲国に集まることになっていたため、出雲以外の国々では神々が不在だった。だから大鯰は、わざわざ「鹿島の神様」の留守中を狙って、大地震を起こしたというのだ。

 そういうわけで「鹿島の神様」は、大鯰に地震を起こされて面目丸潰れ。怒り心頭だ。また、大きな被害をうけた江戸庶民。家・財産を失い、肉親まで失った者も多い。怒りやら悲しみやらを大鯰にぶつけて、これを袋叩きにしたいと思う人々がいるのは当然だ。

 ところが多くの鯰絵には、そうした行為を押しとどめようとする面々も多く描かれている
(注2)。これは一体、どうしたことだろう。


【注】
(注1)笠亭仙果『なゐの日並』は『日本随筆大成(新装版)第2期第24巻』(1975年、吉川弘文館)所収、また青空文庫でも閲覧できる)
(注2)たとえば「しんよし原大なまづゆらひ」(東京大学総合図書館「石本コレクション」蔵。インターネットで閲覧できる)には、袋叩きにあっている大鯰を助けようと駆け寄る職人たちの姿が描かれている。

2019年12月9日(月)

鯰(2)

 地震が起こるたびごとに、「昔の人は、地中の鯰が地震を起こすと信じていたんだよ」と、繰り返し繰り返し言い聞かされてきた。

 しかし、江戸時代の人びとがいかにのんびりしていたとしても、「鯰が地震を起こす」だなんて、本気で信じていたわけではない。

 その証拠に


「サア、それだから大笑
(わらい)だ。たとひ鯰にしても、千百万寄(よつ)ても此(この)大地が一分(いちぶ)でもうごくものか」(注1)


と言っているし、また『うそくらべ見立評判記』では、代表的な嘘の例として


「大なまづだといふ地震」
(注2)


を槍玉にあげている。

 現代だって事情は同じだろう。

 たとえば、子どもに「おなかを出していると、雷様におヘソを取られちゃうよ」と脅す親は今でもいる。しかしその実、「雲の上に虎皮のパンツをはいた裸の鬼がいて、太鼓を叩いて雷を落としている。その雷様は子どものおヘソが好物なんだ」などと、本気で信じている大人などいない。言い伝えは言い伝え、オハナシはオハナシ、方便は方便…、と割り切っているからだ。

 だから、わざわざ「地震を起こすような巨大鯰など存在しない」とか「雷は空の電気なのだ」とむきになって訂正するのは、野暮以外の何ものでもない。


【注】
(注1)『世直し鯰の情(なさけ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
(注2)『うそくらべ見立評判記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

2019年12月8日(日)

鯰(1)

 最近、地震が多い。

 「地震が起こるのは、地底の鯰が暴れるから」という俗信がある。こんなことを最初に言い出したのは、豊臣秀吉だとか。伏見地震(1596)で倒壊した伏見城を築城する際、書状で「なまづ大事」と地震対策を指示した。これが、鯰と地震を結びつけた現存最古の文書だという
(注1)

 事の真偽はともかくも、「こんなことを言い出したのは、秀吉=関西にすむ人間」という点においては、妙に納得させられた。なぜなら、江戸時代の中頃まで、箱根の関以東に住むほとんどの庶民は、鯰なんて魚を見たことも聞いたこともなかったからだ。

 たとえば『日東魚譜』(元文6(1741)年の序文あり)には


「此
(こ)の魚(注:鯰)、素(もと)より関西に有り、しかれども関東には絶(たえ)て之(これ)無し」(注2)


とある。そもそも、関東に鯰は生息していなかったのだ。

 鯰がどんな姿の魚なのか、知らなかった関東の人びと。だから「鯰が地震を起こす」という話を聞いて、「鯰というのは、一体どんな魚だろう?」と興味を持ったに違いない。

 鯰は「髭のある魚」という。それを聞きかじって、鯰の姿を思い描いたのだろう。しかし、絵画に描かれた姿は、誰が見ても竜だった
(注3)。なるほど、「髭があって、魚だから鱗もあるだろう」という発想で描けば、こうなってしまうのもやむを得まい。もっとも、地底を取り巻く龍蛇の上に世界が成り立っている、という信仰がそれ以前からあったから、「見たこともない想像上の動物」という点では竜も鯰も同じだったのだ。

 関東の人びとが、鯰の実物を知ることになるのは、18世紀中頃以降のことだ。


【注】
(注1)毎日新聞「余録」2018年6月19日付け(インターネット版)
(注2)神田玄泉『日東魚譜』巻一(国立国会図書館蔵。インターネットで参照できる)。原漢文。
(注3)竜のような姿に描いた「地底鯰之図」は、元禄期から明治期まで刊行された『大雑書』に所載され、『江戸大地震末代噺の種』(早稲田大学図書館蔵。インターネットで参照できる)等多くの書籍・一枚刷り等に引用されてきた。

2019年12月7日(土)

ニワトリとクマデ-土師氏(4)-

 墓(古墳)に並べる埴輪を製作する縁から、土師(はじ)氏は天皇の喪葬もつかさどることになった。喪葬をつかさどる土師氏は、ニワトリをまつった。

 ニワトリには時をつくる(朝の到来を告げる鳴き声をあげる)習性がある。そこで古代の人びとは、魔が跳梁する夜を退散させる霊力がニワトリにあると考えた。だからニワトリには、常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)の別名がある。常世(とこよ)とは、海の彼方に存在すると考えられた死者のすむ国のことだ。

 土師氏の社(やしろ)を「土師宮(はじのみや)」という。長い年月を経て、いつしかそれが「鷲宮(わしのみや)」に転じた。これらの神社には、かつてはニワトリを奉納する習わしや、氏子(うじこ)にニワトリを食べないとするタブー(禁忌)があったという。

 しかし、いつしかそうした習わしは忘れ去られ、「鷲(わし)=大型の鳥」という連想から、「鷲(おおとり)神社」または「大鳥(おおとり)神社」に転じる社もあった。

 東京下谷の鷲神社(大鳥神社)では、11月の酉(とり)の日に祭礼が行われる。これが「酉の市(とりのいち)」だ。現在は、軒をつらねて縁起物の「熊手(くまで)」を売る露店と、それを買いにくる人びとの賑わいで知られる祭りとなっている。

2019年12月6日(金)

「お粘土の神様」-土師氏(3)-

 土師氏は、埴輪や土師器の生産を担当した。このうち埴輪は、陵墓(古墳)に並べる。

 陵墓といっても、大王陵となると広大だ。広大な大王陵に並べるには、大量の埴輪が必要となる。そして、埴輪の原料である「はに」も大量に必要だ。

 陵墓が「はに」出土地から遠く離れているのは困る。何せ、高速道路や大型トラックがなかった時代のこと。円筒やら武人やら家やら、さまざま形状をした大量の埴輪は重くかさばり、また壊れやすくもあったのだから。

 それなら、古墳築造地付近で「はに」産出地に工房を構えればよい。それが一番合理的だ。だから、古墳築造地周辺の「はに」産出地域に土師氏が定着した。おもな古墳群と、土師氏が分布する周辺地名は次の通り(平凡社世界大百科事典、「土師氏(はじし)」の項)。

     【 古墳群 】             【 土師氏の分布地域 】
  佐紀盾列
(さきたてなみ)古墳群(大和)→菅原(すがわら)、秋篠(あきしの)
  古市
(ふるいち)古墳群(河内)     →古市
  百舌鳥
(もず)古墳群(和泉)     →毛受原(もずばら)

 なお、このうち「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市)の49基の古墳が、今年7月、日本で23番目の世界遺産に登録された。4世紀後半から5世紀後半にかけて造営された古墳群だ。

 さて、奈良時代になって、土師氏は改名した。菅原に住む土師氏は菅原氏、秋篠に住む土師氏は秋篠氏というように。だから、あの菅原道真(すがわらのみちざね)も、土師氏の子孫なのだ。

 ご先祖がもし、土師氏から菅原氏に改姓していなかったら、道真も粘土をこねて土物(はにもの)をつくる家業に精を出していたかも。もしかすると道真は、「学問の神様」でなく、「お粘土の神様」になっていたかも知れない。

2019年12月5日(木)

はにわの「はに」って何-土師氏(2)-

 埴輪(はにわ)の「はに」というのは、何だろう。

 広辞苑(第五版)には次のようにある。


「は-に【埴】質の緻密な黄赤色の粘土。昔はこれで瓦・陶器を作り、また、衣に摺りつけて模様を表した」


 つまり、「はに」というのは、赤い粘土のことだ。だから、埴輪等は、以下のように命名されたのだろう。

  はに(土)でつくった(円筒埴輪) →はに・わ →はにわ(埴輪)
  はに(土)でつくった(うつわ)   はに・き →はじき(土師器)
  はにもの(土物)をつくる(職人) →はに・し →はし(土師)


 ヤマト政権に仕える土師(はし)集団(品部)が、土師部(はじべ)だ。この土師部を統率したのが土師氏(土師連、はじのむらじ)だった。土師氏の先祖は、埴輪をもって殉死にかえることを天皇に進言した野見宿禰(のみのすくね)ということになっている。

2019年12月4日(水)

埴輪(はにわ)の起源-土師氏(1)-

 古墳に数多く立てられる埴輪。

 弥生時代後期、吉備(きび)地方で器台型土器(きだいがたどき。壷などをのせる土器)が発達。土器の表面に特殊な文様を施し、大型化していった。これを特殊器台型土器という。この特殊器台土器が変化して古墳時代の円筒埴輪になった、というのが現在の定説だ。

 しかし、『日本書紀』には、定説とは異なる起源説話が載っている。同書によると、埴輪は土部(はしべ)という職人集団が製作し、殉死の代替として始まった。概要は次の通り。

 垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇后が亡くなった。その葬儀にあたり、天皇は群臣に意見を求めた。陵墓には従来、主人の近侍者たちを殉葬する習慣があった。しかし、数年前に亡くなった弟の葬儀に際し、その悲惨な有様を目の当たりにした天皇は、殉死の禁止を宣言していたからだ。

 殉死の有様は、次のようだったという。


「近習者
(ちかくつかまつりしひと)を集(つど)へて、悉(ことごとく)に生きながらにして陵域(はかのめぐり)に埋め立つ。数日(ひをへて)死なず、昼夜泣(いざ)ち吟(によ)ぶ。遂(つい)に死して爛(くち)くさりぬ。犬烏聚(あつま)りはむ」(注1)


 そこで、臣下の一人野見宿禰(のみのすくね)は、出雲国の土部(はしべ)100人を率いて、土物(はにもの。粘土製品)で人馬等を作った。それらを天皇に献じ、次のように奏上した。


「今より以後、是
(こ)の土物(はにもの)を以(もっ)て生きたる人に更易(か)へて陵墓に樹(た)て、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ」(注2)


 そこで天皇は、皇后の陵墓にこれらの土物(はにもの)を立てさせ、殉死に代えた。これらの土物は埴輪、または立物(たてもの)と名づけられた。

 以上が、『日本書紀』が伝える埴輪の起源説話だ。


【注】
(注1)黒板勝美編『訓読日本書紀(中巻)』1987年15刷(1931年初版)、岩波文庫、P.69。一部漢字をかなに直した。
(注2)『訓読日本書紀(中巻)』同上、P.70 

2019年12月3日(火)

能勢甚四郎(のせじんしろう)の逸話

 時代劇の名奉行「遠山の金さん」(遠山金四郎)は、若い頃庶民と交わり、下情に通じていたという。しかし、こうした逸話は、「金さん」に限らない。町奉行の能勢甚四郎(1690〜1755)にも、これに類した逸話がある。

 出典史料は『はつか艸』。国立国会図書館蔵の史料で、デジタル公開されているページを翻刻した。なお、読みやすくするため、漢字は現行のものに改め、適宜句読点・濁点等を付してある。


 能勢甚四郎、御目付より御目鏡
(おめがね)にて直(じき)に無程(ほどなく)町奉行被仰付(おおせつけられ)、肥後守(ひごのかみ)と改名す。御役間もなく(町奉行に就任して間もなく)、新吉原傾城(けいせい。遊女)ども、評定所(ひょうじょうしょ。幕府の裁判機関)にて一座吟味(ぎんみ)有之時(これあるとき)、呼出(よびだし)たる傾城ども白砂に群立(むれたち)

「殿
(との)さま、殿さま」

といふは、だれが事かと思ふたるや、

「甚
(じん)さまのことじや、御久(おひさ)しい」

と大声にてわめきければ、肥後守ちつとも動ぜず、刀を提
(さげ)て席を立、落縁(おちえん)へ出、着座し、傾城どもを

「是
(これ)へ参れ、是へ参れ」

近々
(ちかぢか)と招(まね)き寄(よせ)、傾城共の禿(かぶろ。見習いの少女)の時分の事ゆるゆる咄(はな)し、酒に酔(よい)、世話に成候事(なりそうろうこと)など言(いい)ならべ、大笑致(おおわらいいたし)

「新造
(しんぞう。若い遊女)のだれは何と改名せしぞ」

など尋
(たず)ね問(とい)、永々(ながなが)と物語して、

「扨
(さて)、自分若輩(じゃくはい)の時は酒興(しゅきょう)に乗じ、不埒(ふらち)の身持(みもち)して廓(くるわ)通ひもしたりしが、ふと一日、是(これ)相済(あいすま)ぬと心付(こころづき)、行跡(ぎょうせき。素行)相改(あいあらため)しかば、御目鏡(おめがね)を以(もって)御目付と申す御役(おやく)を被仰付(おおせつけられ)、段々御厚恩(ごこうおん)(こうむ)り、此節(このせつ)は其方(そのほう)どもを吟味する御役なり。若(もし)も其方共申分(もうしぶん)、合点(がてん)いかぬとおもへば、それしはん、と申付れば、何(いず)れ見よ。あれひかへたる同心どもが、即座に縄を打(うち)て突(「牢」の誤りか)やる程に。何事にても尋候事(たずねそうろうこと)は真直(まっすぐ)に申せ。やれやれ久しぶりにて逢(あい)て無事にてよろこぶ。随分(ずいぶん)大事に親方へ奉公せよ」

と懇
(ねんごろ)に物語してしづしづと本席に打直(うちなお)り、大音声(だいおんじょう)をあげて

「新吉原何町何屋だれ抱
(かかえ)遊女だれ」

と呼び出したる様体、此
(ここ)にても信(「臆」の誤りか)したる気色(けしき)なかりしとなり。後に聞(きけ)ば、歴々(れきれき)御役人列座の前にて、肥後守に迷惑させしとて、或人(あるひと)の工(たくみ。計略)にて、傾城に腰をし(そそのかすこと)していはせける事のよし。


【参考】

 『寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)・第2輯』1923年、国民図書、P.470(国立国会図書館デジタルコレクション)に能勢の経歴が載っている。次が全文。漢字は現行のものに改めた。( )内は筆者による注である。

「頼一(よりかず) 八十郎 源七郎 与十郎 甚四郎
               肥後守 従五位下 母は某氏。
 元禄三(1690)年十二月十二日遺跡を継、小普請(こぶしん)となる。時に一歳。宝永四(1707)年十一月十八日御小性組(おこしょうぐみ)の番士となり、六(1709)年十二月二十七日御納戸(おなんど)にうつり、享保元(1716)年五月十六日御小性組に復し、四年八月十八日進物のことを役す。十二(1727)年六月二十三日小十人組(こじゅうにんぐみ)の頭にすゝみ、十二月十八日布衣(ほい)を着する事をゆるさる。十三(1728)年有徳院殿(八代将軍徳川吉宗)日光山にまうでたまふとき供奉(ぐぶ)し、十四(1729)年十一月二十八日御小性組の組頭にうつり、二十(1735)年十月朔日御目付となり、元文二(1737)年七月二十四日おほせをうけたまはりて駿州におもむく。寛保元(1741)年十二月十五日三百石を加へられ、さきの廩米(りんまい。俸禄米)をあらため、武蔵国埼玉、上野国邑楽(おおら)二郡のうちにをいてすべて六百石を知行す。延享元(1744)年六月十一日町奉行にすゝみ、十二月十六日従五位下肥後守に叙任す。四(1747)年五月二日さきに二丸(にのまる)に火あるのとき、よくこれを防ぎし事を賞せられ、時服二領をたまふ。宝暦三(1753)年三月二十八日西城の御旗奉行にうつり、四(1754)年十一月二十八日職を辞し、寄合(よりあい)に列す。五(1755)年五月十一日死す。年六十六。法名日鏡。妻は竹田源兵衛政就が女(むすめ)。」

2019年12月2日(月)
折句(おりく)-うそ(2)-

 嘉永2(1849)年5月、江戸の新吉原で、遊女が三つ子を出産。四つ子・五つ子さえいる現在では、三つ子の出産はさほど珍しくはない話題。それでも当時はビッグニュース。そこで、一枚刷りが売り出された(下掲の史料)。なお、史料は読みやすくするため、句読点や読みがな等を適宜入れた。


  今度新吉原町一丁目
  の尾張屋彦三郎
(おわりやひこさぶろう)かかえ遊女
  花の井と申者
(もうすもの)、三ッ子をうみ
  しを町奉行所へ訴へ出候得
(うったえいでそうらえ)
  ば、珍しき事に思召
(おぼしめし)、早々
  見届けさせ、身もと御ただしの上、
  名を一郎・二郎・三郎と御附被下
(おつけくだされ)
  うぶ着一重
(ひとえ)づつ被下置(くだしおかれ)、以後
  そまつこれなき様大切にそ
  だて可申様
(もうすべきよう)に御被仰渡候(おおせわたされそうろう)


 この一枚ずりには一つ、断り書きが付いていた。「頭字ばかりよむべし」。そこで頭字だけを拾って読むと、

「今の花しは見名うそだ
(今の話はみな嘘だ)

となる。何のことはない、フェイクニュースだったのだ。

 こうした他愛のない嘘を、江戸の人々は楽しんでいたのだ。


【参考】
・三田村鳶魚『娯楽の江戸 江戸の食生活(鳶魚江戸文庫5)』1997年、中央公論社(中公文庫)、P.153~154

2019年12月1日(日)
一番の大うそつきは?-うそ(1)-

 安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)の『醒睡笑(せいすいしょう)』。本の冒頭に載っているのが、ものの起源についての問答。その最初の問いが次。


そら言をいふ者を、など、うそつきとは言ひならはせし(虚言を言う者を、なぜ嘘つきというのか)


 回答は次の通り。


「さればには、うそといふ鳥、木のそら
(うえ、頂上、こずえ)にとまりゐて琴をひく縁(えん。因縁、理由いわれ、ちなんで)によせ、そらごとをうそつきといふよし(鷽(うそ)という鳥は、木の梢(そら)にとまって琴(こと)を弾く。だから「そらごと」を言う者を「うそつき」というのだ)(鈴木棠三校注『醒睡笑(上)』1986年、岩波文庫、P.14)


 琴を奏でる鳥など、見たことない。この回答自体が「そらごと(うそ)」だ。
 
 『醒睡笑』という書物は、筆者策伝が「小僧の時より、耳にふれておもしろくをかしかりつる事を、反故(ほうご)の端(はし)にとめ置(お)」(前掲書、P.13)いて成立したもの。つまりは、笑話集。

 『醒睡笑』に書かれている「そらごと(うそ)」は、昨今のオレオレ詐欺に比べると罪がないものばかり。だれもが「そらごと(うそ)」とわかる上、実害が生じない。上の語源説などは「そらごと(うそ)」というより、ほら話に近い。

 江戸時代の庶民は、こうした「そらごと(うそ)」が大好きだった。何しろ、「そらごと(うそ)」の見立番付(みたてばんづけ。相撲の番付表にならって作られたランキング表)まで作っているほど。表題は『うそくらべ見立評判記』(国立国会図書館蔵。ホームページでデジタル画像が閲覧できる)。そこには、見え透いた「そらごと(うそ)」がいけしゃあしゃあと並べ立てられている。

 次に抜き書きしたのは、『うそくらべ見立評判記』の三役(トップスリー)に名を連ねた「そらごと(うそ)」とうそつきたち。読みやすくするため、かなを漢字に置き換えてある。


     東の方         
 大関 「女は嫌いだ」と言ふ若い衆
(しゅ)
 関脇 「奥様へ付けます」と言ふ下女
    
(「奥様に服従します」といって胡麻をする下女)
 小結 「見せようが遅い」と言ふ藪医者
(やぶいしゃ)
    
(「診察に来るのが遅いから、もう手の施しようがない」と言って責任逃れをする藪医者)

     西の方
 大関 「早く死にたい」と言ふ年寄 
 関脇 「晩に来る」と言ふ朝帰り
    
(「今晩、また来るよ」と遊女に空約束して、遊郭をあとにする朝帰り客)
 小結 「明日受ける」と言ふ質置き
    
(「預けた質草は、明日必ず引き取りに参ります」と言う質屋の客。翌日、来たためしがない)


 この中で大関(一番の大うそつき)は、「女は嫌いだ」と抜かす若い男と「早く死にたい」とのたまう年寄。現在も江戸時代と変わらない?

2019年11月30日(土)
「むらさき」の語源は?-イワシ(3)-

 女房言葉で鰯を「むらさき」という。これに関する語源説は、大きく二つあるようだ。

 一説が、鰯が海面を泳ぐ様子が紫(青)色に見えたから、というもの。

 しかし、水面近くを泳ぐ魚の色合いが紫(青)なのは、何も鰯に限ったことではない。青魚(あおざかな)すべてが該当しよう。青魚は、空からの天敵から我が身を守るため、背中側は海の色に紛れる青色になっているのだ。

 ただ、「群れをつくる魚なので、とりわけ鰯の「むらさき」色が印象深かった」とする反論もあろう。しかし、外出する機会の少なかった宮中女房たちが、漁船にでも乗らなければわからないそうした事実を知っていたとは到底思えない。

 もう一つの説が、鰯の味が鮎(あゆ)に勝るから、というもの。

 鮎という漢字は「あい」とも訓ずる。たとえば、日産コンツェルンの鮎川義介は、「
あゆかわよしすけ」ではなく「あいかわよしすけ」だ。

 鮎(あい)と音通する言葉が藍(あい)。その藍に勝る色、すべてに勝る色といえば紫だ。

 たとえば、『源氏物語』を見ると、光源氏を取り巻く重要人物は、みな紫色にゆかりがある。桐壷帝(父)・桐壷の女御(母)の桐、藤壷(義母)の藤、紫の上(正妻)の紫。すべて紫色だ。紫は、高貴な人々だけが身につけることを許された禁色(きんじき)なのだ。

 「鰯の味は鮎より上」→「あいより上」→「藍より上」→「藍に勝る色は紫」。

 だから、鰯を「むらさき」というようになったのだと。これはまるで、連想ゲームだ。

 どちらの説が正しいのか(また、どちらも正しくないのか)、正直なところ、判別がつきかねる。

2019年11月29日(金)
式部ちがい-イワシ(2)-

 さて、「紫式部はイワシが大好物だった?」って話、昔『御伽草子(おとぎぞうし)』か何かで読んだような…。そこで、岩波文庫をめくっていたら、「猿源氏草子(さるげんじのそうし)」の中に、次のような話が出てきた。


「和泉式部
(いずみしきぶ)鰯と申す魚を食ひ給(たま)ふ所へ、保昌(やすまさ)(きた)りければ、和泉式部恥(は)づかしく思ひて慌(あわただ)しく鰯を隠(かく)し給へば、保昌見て鰯とは思ひ寄らず、道命法師(どうみょうほうし)よりの文(ふみ)隠し給ふと心得て、『何を深く隠させ給ふぞや。心もとなし』とて、強(あなが)ちに問ひければ、

  日の本に齋
(いは)はれ給ふ石清水まゐらぬ人はあらじとぞ思ふ

と詠
(なが)め給へば、保昌聞き給ひて、色を直して言ひけるは、『膚(はだへ)を温(あたた)め、殊(こと)に女の顔色を増す薬魚(くすりうを)なれば、用ゐ給ひしを咎(とが)めしことよ』とて、それよりしてなほなほ浅からず契(ちぎ)りしとなり」(島津久基編校『御伽草子』1974年(第29刷。初刷は1936年)、岩波書店(岩波文庫)、P.142~143)


 和歌も少し違うが、主人公がこの本では、紫式部ではなく和泉式部になっていた。『御伽草子』は室町時代に成立した話だし、江戸時代にはもっぱら紫式部の逸話として流布していたようだから、どこかの時点で物語の主人公が入れ替わったのかも知れない。

 入れ替わったとするなら、その理由が知りたい。インターネットを検索すると、同志社女子大学日本語日本文学科教授の吉海直人氏が書いたコラム(和泉式部と「鰯」あるいは紫式部と「鰯」。2017年12月7日付け)に行きあたった。そこには、次のようにあった。


 これが何故和泉式部から紫式部になったのかわかりませんが、おそらく鰯の別称が「むらさき」だったからではないでしょうか。
 ご承知のように鰯は、宮中の女房言葉で「むらさき」とか「おむら」と称されています。要するに鰯がなぜ「むらさき」と称されるようになったのかという起源譚として、和泉式部よりも紫式部の好物だったからという方がふさわしかったわけです。
(https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2017-12-07-09-15,2019年11月27日閲覧)


 鰯を「むらさき」とよぶことは、『日葡辞書(にっぽじしょ)』(17世紀初頭に成立)によって確認できる。だから「この言葉は室町時代以前に成立した」ということはできよう。

 しかし、なぜ鰯は「むらさき」というのだろうか。

2019年11月28日(木)
鰯は健脳食(けんのうしょく)-イワシ(1)-

 子ども向けの歴史の本(『日本の歴史が10倍おもしろくなる②』を眺めていたら、

 「紫式部はイワシが大好物だった」

と書いてあった。内容は次の通り。

 何かの機会にイワシを食した紫式部。すっかり、そのおいしさのとりこに。しかし、平安貴族は、調理するのに臭い煙を出す魚を食べることはなかった。そこで、夫藤原宣孝(ふじわらののぶたか)の留守中、隠れてイワシを食べていた。ところが、運悪く夫が帰宅。夫は式部を叱責。それに対し、彼女は得意の和歌で夫をやり込めた。


 
(ひ)の本(もと)に はやらせ給(たま)ふいわし水 参(まい)らぬ人の あらじとぞ思ふ
 

 当時、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)への参詣が、流行していた。つまり、「
いわし水に参らぬ人なんてあるまい(みんな石清水に参詣する)」に、「イワシのおいしさに参らない人なんていないよね」という感想を掛けたのだ。 

 この本には

 「さすがの夫もタジタジとなって、ひきさがってしまいました。」

とあるけど、宣孝はイワシを食べたことがなかったんじゃないのかな。だって、そのおいしさを知っていたなら、きっと「俺にも食わせろ」と言ったはずだよ。

 ちなみに、イワシは不飽和脂肪酸(DHA、EPA)
等を含む健脳食だ。紫式部が『源氏物語』で、数百人にも及ぶ登場人物の複雑な人間関係を書くことができたのも、イワシを食べていたおかげかも知れないよ。


【参考】
・旺文社編『日本の歴史が10倍おもしろくなる②』1984年、旺文社、P.80~81

2019年11月27日(水)
肥料を食べる-ニシン(2)-

 江戸時代、蝦夷地のニシンは、昆布や鮭などの物産とともに、本州に運び込まれた。北前船は日本海側を西下し、下関海峡をぐるりと回って、西廻り航路の終着点、大坂に向かった。こうして蝦夷地から遠く離れた西日本の人々は、蝦夷地の物産を大量に消費することになった。現在も、蝦夷地に近い東日本でなく、西日本の方が料理の出汁(だし)に昆布を使用する頻度が高いのは、こうした事情があったからだ(京都で昆布出汁のニシンそばを食べるのはその一例)。さらに昆布は九州にもたらされ、琉球(沖縄)を経て中国にまで運び込まれた(いわゆる「昆布ロード」)。

 一方、西廻り航路から遠い位置にあった関東では、関西にくらべて、ニシンも昆布も食べる機会は少なかった。『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によると、江戸でニシンを食べる者はまれで、ニシンは「専ら猫の食」にされたという
(注)。江戸では、ニシンはキャットフードだったのだ。

 代わりに銚子(九十九里浜)で鰯、鎌倉で鰹等が大量にとれた。これらの味に舌が慣れ親しんだ関東の人びとは、鰹で料理の出汁をとり、滋養に富んだ鰯を食べた。
 
 しかしその一方、鰯は安価で下賤な食べ物と見下す風潮があった。そうした背景があったためか、関西の人びとは「関東人は肥料を食べる」といって、鰯食を馬鹿にした。鰯は、九十九里浜等の地曳網漁で大量にとれたものの、腐りやすい魚でもあった。そこで産地では、とった鰯をその場で干鰯(ほしか)という速効性肥料に加工した。商品作物栽培が進んでいた関西では、綿花栽培等に干鰯を大量使用していた。だから「鰯=肥料」というイメージがあったのだろう。

 だからといって、関西人がよく食べたニシンも、その消費が食用のみだったわけではない。ニシンも大量にとれると、水煮されたのち圧搾・乾燥されて、ニシン粕という魚肥になった。つまり、関西人も「肥料(の原料)を食べていた」ことは同様だったのだ。

 食生活の成り立ちには、それぞれの地域・地方の環境やら歴史やら文化やらが大きく関わっている。そうした背景の理解を放棄して、第一印象のみで「関東の人間は肥料を食べる」とか「そんなもの食べるの?気持ちワル~」などと軽率な発言をする人たち。たとえ悪気がなかったとしても、そうした言葉を発してしまう無神経さは、言語道断だ。


(注)喜田川守貞著・宇佐美英機校訂『近世風俗志(守貞謾稿)(1)』1996年、岩波文庫、P.287

2019年11月26日(火)
一年間を遊んで暮らす-ニシン(1)-

 江戸時代、ニシンは蝦夷地(えぞち。現在の北海道)の特産品だった。この魚には、通常「鰊」の漢字を当てる。しかし、蝦夷地では「鯡」の漢字をあてた。他国でとれる魚ではない、の意味である。

 本来、この魚はカドといった。だからカドの卵が、「カドの子」すなわち「数の子」だ。もともとニシンは、カドを乾した加工品を指した言葉だ。

 春が来ると、蝦夷地の沖合にはニシンが姿を現した。だからこの魚には、「春告魚(はるつげうお)」の異名がある。ニシンが豊漁の年は、大群で海上が一段高くなり、海が真っ白に見えたという。

 ニシンは蝦夷地の人々の重要な収入源になった。ニシン漁に従事する人々が働くのはこの期間のみ。一年の残りは、この時の稼ぎで遊び暮らしたという。

 だから、蝦夷地の人々の重大な関心事は、毎年のニシンの豊凶にあった。当時の蝦夷地では五穀が穫れなかった。ゆえに、蝦夷地での「豊年」「凶年」は五穀のそれではなく、ニシンの豊漁・不漁を意味した。

 江戸時代、幕府巡検使(じゅんけんし)に随行して東北地方から北海道まで視察に行った古川古松軒(ふるかわこしょうけん。1726~1807)は、蝦夷地のニシン漁について次のような見聞記録を残している(史料中の振り仮名は筆者が付した)。


「蝦夷(えぞ)及び松前(まつまえ)の諸人は、ニシンを以て一年中の諸用、万事の価(あたい)とせることゆえに、ニシンの来れるころは、武家・町家・漁家のへだてもなく、医家・社人に至るまで我が住家は明家(あきや)とし、おのおの海浜に仮(かり)の家を建て、我劣らじとニシン魚を取ることにて、男子は海上を働き、婦人・小童はニシンをわりて数の子を製することなり。中にも丈夫の者どもは、十人も十五人もいい合わせて、大船に乗りて蝦夷の地へニシンを取りに行くことなり。このゆえに松前においては、日本の豊凶少しもかまわず、ニシンの数多(あまた)来る年は豊年とし、ニシンのすくなく来る年を凶年という。米の値段はいかほど高直(こうじき)にても、ニシンだに数多取れさえすれば少しも難儀なることなく、米の価下直(げじき)にてもニシンのとれあしき年は、大いに難儀をすることなり。この魚二月の末よりそろそろ来りて、三月四月を最中とし、五月初めまでも取ることにて、右の間は貴賤(きせん)ともなくかせぎはたらき、残る月は何もせずして遊びくらしにする所なり。」 (古川古松軒著・大藤時彦編『東遊雑記』1964年、平凡社(東洋文庫)、P.136~137


2019年11月22日(金)
千坪の家が半日で建った

 安政2(1855)年10月2日、大地震が江戸を襲った。年番与力、市中取締掛(しちゅうとりしまりかかり)・諸色掛(しょしきかかり)与力、町会所掛(まちかいしょかかり)与力らの面々は、急遽(きゅうきょ)対応策を協議するや即断即決、直ちにそれらを実行に移した。

 江戸町奉行所の与力だった佐久間長敬(さくまおさひろ。1839~1923)は、当時の有様を次のように語る(読みやすくするため、句読点と読み仮名を付した)。


「第一は、罹災民
(りさいみん)へ焚出(たきだ)し、握り飯を配賦する事。
 第二は、宿なしになった者の立退先
(たちのきさき)、御救ひ小屋を建つる事。
 第三は、怪我人
(けがにん)を速かに救療する手当の事。
 第四は、諸問屋惣代を呼出し、日用品及び必要の物品を買集る事。
 第五は、諸職人組合仲間惣代をよび出し、国々より諸職人よび集める事。
 第六は、売をしみ・買しめの奸商
(かんしょう)を警戒する事。
 第七は、諸物価及び手間賃も法外に引あげ間敷
(まじく)取締る事。
 第八は、与力・同心町中を見廻
(みまわり)、救助方法其外(そのほか)取締を為(な)さしむる事。
 第九は、町名主にも掛を申付る事。

 此事
(このこと)を議決して、火の中にて向柳町会所内へ焚出し坊を開いて力を尽し、御救小屋は例の如く定請負人元申付る事に決して、手順にかゝつた。」(『安政大地震実験談』)


 内容を見ると、今日の罹災者対策とさほど変わりがない。しかし、実行のスピード感が違った。

 たとえば、現在なら罹災者は、小中学校の体育館や公民館等に避難する。しかし、当時の江戸には、そうした大規模公共施設はなかった。そこで、災害がおこるたびに定請負人に発注して、御救小屋や仮小屋を建設していたのである(上記史料の第二)。定請負人の方では非常時発注に備え、屋根板は一坪分ずつこけら葺きにしておくなど、日頃からの工夫・準備を怠らなかった。だから「千坪位の仮小屋は半日に出来てしまふ」(『安政大地震実験談』)くらいのスピードで建設できたというのだ。


【参考】
・佐久間長敬講演『安政大地震実験談』東京都立図書館蔵。
 http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?tilcod=0000000005-00181923

2019年11月21日(木)
江戸の町なかは穴ぼこだらけ
 昭和39年(1964)年、東京オリンピックが開催された。この前後から、東京では都市の再開発が始まった。ところが地面を掘ってみると、あちらこちらからたくさんの穴が出てきた。大きさは大小様々。高台の穴には素掘りのものが多く、低地の穴からは地下水の浸水を防ぐためか、四方を木材で囲んだものが見つかったという(注1)

 江戸時代における生活の痕跡ということはわかった。しかし、地中から姿を現したこれ らの穴は、いったい何なのだろうか。

 江戸の町は「火災都市」と呼ばれるほど火災が頻発した。これらの穴は、そうした状況に対処するために江戸の人々が造った、いわば非常用の耐火金庫だった。当時は「穴蔵(あなぐら)」と呼ばれた。火災が発生すると、穴蔵の中に貴重品を運び入れ、用意しておいた土砂をその上にかぶせて逃げた。鎮火後掘り出せば、財産は無事だった。

 穴蔵の有用性が認識され、その普及のきっかけをつくったのは、明暦の大火 (1657)だった。『守貞謾稿(もりさだ)』には、次のようにある(なお、( )内は筆者 による注)。


「古
(いにしえ)は窖(あなぐら)を用ひず。明暦二(1656)年、江戸本町二町目和泉屋九左衛門という呉服賈(ごふくこ。呉服商人のこと)にて、始めてこれを製す。世人火災に難あらんことを疑惑し、他家いまだこれを用ひず。同三(1657)年大火(明暦の大火の こと)あり、和泉屋の家宅は類焼すれども、窖(あなぐら)はさらに恙(つつが)なし(穴蔵はまったく無事だった)。ここに至りて、世人始めてその理(ことわり)あることを知り、 世上専(もっぱ)らこれを造る。土蔵ある人も金銭の類は必ず窖(あなぐら)に納(おさ)む。また少戸の者は、土蔵より費(ついえ)の易(やす)(費用の安い)をもつてこれを造り、火時雑物を納むの備へとす。」(注2)


 火災対策用に造られた穴蔵は、地震にも有効だった。たとえば、安政2(1855)年の江戸地震では土蔵の多くは倒壊したが、穴蔵で潰れたものは滅多になかった。そのため、穴蔵は盛んに造られた。

 安政2年江戸地震後出版された見立て番付(みたてばんづけ。相撲の番付にならったランキング表のこと)の一つに、「世中當座帳(よのなかとうざちょう)」という史料がある
(注3)。この史料は、震 災後に「もちゐられるもの」(需要の多いもの)と「おあいたなもの」(お間(あいだ)な 物。需要がなく閑散としているもの)を対比させたランキング表だ。この中に、穴蔵が「小結(こむすび。第2位)」として出てくる。参考までに、「もちゐられるもの」「おあいたなもの」それぞれのトップ3を、次に抜書きしてみよう(表記法は 史料のまま)。


        もちゐられるもの      おあいたなもの 
        大関 ひら家住宅     大関 土蔵住居
        関取 
あな蔵       関取 三階家作
        小結 こけらぶき      小結 かわら家根



 こうして震災後にも、あちらこちらで穴蔵が補修され、また掘られた。だから、江戸の町なかは、あちらこちら穴ぼこだらけなのだ。


【注】
(注1)NHKスペシャル「大江戸」制作班編『大江戸 知らないことばかり』2018年、 NHK出版、P.157~P.164参照。
(注2)喜田川守貞著・宇佐美英機校訂『近世風俗志(守貞謾稿)(一)』1996年、岩波文 庫、P.187
(注3)「世中當座帳」(東京大学総合図書館「石本コレクション」蔵)は、インターネッ トで検索できる。または、石川英輔『大江戸番付づくし』2001年、実業之日本社、P.90~ 96を参照。
2019年11月15日(金)
偶然

 先日、東京国立博物館に「正倉院の世界」を見に行った。平日にもかかわらず、入場は60分待ち。大勢の見学者で展示会場はごった返していた。

 正倉院宝物はその一つ一つに見応えがある。とりわけ、印象に残ったのは、聖武天皇の 「雑集(ざっしゅう)」だ。

 「雑集」は、聖武天皇が仏教関係の詩文を抜き書きしたもの。白麻紙を47枚継ないだ縦 21cm、全長21m超の用紙の上に、繊細かつ見事な楷書の文字を、それこそ「一つ一つていねいに置いていった」という感じ。その数、約18,000余。膨大な文字の集積から、書き手の精神集中エネルギーの凄まじさが伝わってきて、見る者の息がとまる。

 白く輝く用紙の上に、黒々と置かれた文字群。最近のものかと見紛う美しさだ。しかし これは天平3(731)年に書かれた、今から1300年も前のものなのだ。「雑集」をはじめとする正倉院の宝物群からは、これらの品々を後世に何としてでも伝えようとする、先人たちの強い意志が感じられる。

 そうした強い意志が介在しない限り、貴重な文化遺産は、時を経るにしたがって徐々に失われていってしまうのだろう。だから、強い意志なくして現在にまで伝わったものがあるとすれば、それは偶然によって残ったのだ。

 偶然なので、時には思いも寄らないものが残ってしまう場合がある。たとえば、遠山金四郎(1793~1855)が文政9(1826)年9月に作成した起請文(きしょうもん。嘘偽りの ないことを誓約した文書)もその一つ。この史料は、公表されている遠山金四郎の文書と しては、唯一のものといわれている。その内容は、出勤の際に駕籠を使用したいとの旨を、金四郎が上司に申請したもの。

 当時の武士の出勤(当時、金四郎は江戸城西の丸勤務)は、乗馬が普通だった。金四郎が馬に乗れない理由は、何と痔疾(じしつ)。

 時代劇では、片肌脱ぎになって桜吹雪の刺青を披露し、悪代官ら相手に啖呵を切る「遠山の金さん」。その金さんが残した唯一(かも知れない)貴重な文書が、よりによって「痔 のため馬に乗ることができません。駕籠による通勤を認めてください」という内容だなんて。

 偶然って、ある意味恐ろしいナ。


【参考】
・東京国立博物館他編集『御即位記念特別展 正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―』 2019年、読売新聞社他発行、P.42~49
・菅野俊輔『江戸・戦国のくずし字古文書入門』2019年、扶桑社新書、P.210~222に遠山金四郎の起請文が紹介されてある。

2019年10月16日(水)
安政地震の教訓
 安政2年10月2日の四つ時(今日の太陽暦でいえば1855年11月11日の夜9時半頃)、マグニチュード7規模の直下型地震が江戸を襲った。震度6以上の激甚地域は、江戸市中とごく周辺の町々にとどまったが、就寝時間中の家屋倒壊とそれにともなう火災の発生は、多大な犠牲者を出すこととなった。

 たいへんな天災だったにもかかわらず、その被害の全容は正確にはわからない。武家地(大名の被害は報告されている。その他の旗本・御家人等)・寺社地の被害実態がわからないからだ。

 ただし、町方については、かなり正確な死傷者数がわかる。震災直後、江戸市中の番組名主たちが、「変死人怪我人書上(へんしにんけがにんかきあげ)」という報告書を作成しているからだ。この報告書から、死者数のみ降順に抜き出したものが次である(注1)


 ●江戸市中(23地域)町方死亡者数上位地域
  1位 17番組(深川辺)        1,186人(27.6%)
  
2  番 外(新吉原)        630人(14.7%)
  3  3番組 (浅草辺)         578人(13.5%) 
  4  18番組(本所辺)         474人(11.0%)
  5  16番組(両国辺)         384人(8.9%)
  6  13番組(神田明神下・本郷辺) 366人(8.5%)
   その他(残り17地域)         675人(15.7%)
                   合計 4,293人(100.0%)


 上位6位までで、死亡者全体の84.3%を占めている。これを見ると、深川辺(江東区)をはじめとする低地に、被害の集中していることがわかる。これらの地域は、日比谷入り江を埋め立てたり、隅田川の氾濫原を開発したりして造成した場所だ。もともと地盤が軟弱だったのだ。

 震災とともに、あちらこちらから火の手があがった。出火元の一つ、新吉原は死者数が2番目に多い。

 この死者数の多さは、天災のみで片づけられない一面がある。そこで以下、「江戸大地震末代噺の種(えどおおじしんまつだいはなしのたね)」(注2)によって、新吉原の被災状況をみていくこととする。
なお、引用史料は読みやすくするため、適宜句読点と読みがなをいれ改行した。被害者数は原文のままである。


 新吉原五丁町(ごちょうまち)(注3)は地震鳴動するとひとしく、娼家(しょうか)一同にゆり潰(つぶ)れ、火炎々(えんえん)として八方より燃出し、廓中(くるわじゅう)一面の大事となる。

 然
(さ)れば、裏々(うらうら)の反橋(はねばし)を下(おろ)すいとまなく、又たまさか下さんとするものありても反橋損じて渡すことかなわず。

 大門
(おおもん)一方の出口となるゆゑ烟(けぶり)にまかれ、火に焼(やか)れ、家に潰され、又棟(むね)を除(よけ)ものにはさまれ、幸(さいわ)ひにして命全(まった)きものといへども、屋根をこぼち壁を破つて助け出すの人なければ、空(むな)しく火の来(きた)るをまつて焼死す。

 かくのごとくなれば、手負
(ておい)・死人夥敷(おびただしく)、其後(そのご)四、五日の程は死人猶(なお)其処(そこ)ここに横たわり、親をたづね子をたづね、実(げ)に目も当(あて)られぬ有(あり)さま也(なり)と。

 遊女死すること八百三十一人、客其
(その)ほか此処(ここ)へ来しもの四百五十余人、茶屋又は廓中の諸音人・芸人とう都(すべ)て千四百人余、惣〆(そうじめ。合計)死人二千七百余人といふ。土蔵一ヶ所ものこらず、西がし(注4)少々残り、五十けん(注5)片側残る。」(「江戸大地震末代噺の種」)



 新吉原は歓楽街だったため人口が密集し、それが被害を大きくした。さらには、避難口が1カ所しかなかったこと、避難設備が緊急時に機能しなかったこと。この二つの原因が、さらに悲惨な事態を招くことになった。

 一つ目の原因は、避難口が1カ所しかなかったこと。

 新吉原は、遊郭の周囲に幅5間(約10m)の堀割を巡らしていた。これを「お歯黒どぶ」と呼ぶ。そして、出入り口は大門(おおもん)1カ所しかなかった。前借りして働く遊女の逃亡を防ぐため、検問を強化した結果だ。そのため、猛火に逃げまどう人々が唯一の出口に殺到して、多大な犠牲を出すことになったのである。しかも、この時大門は、どうも閉じられていたらしい
(注6)

 二つ目の原因は、避難設備が緊急時に機能しなかったこと。

 
新吉原では、数カ所に反橋(はねばし)を備え付けていた。緊急時にはお歯黒どぶの上に渡し、人びとを脱出させるためである。しかし、日頃の整備点検を怠ったものか震災のせいなのかは不明だが、肝心の反橋が破損していて、被災時には下ろすことができなかった。

 人口密集地だったにもかかわらず、避難口が1カ所しかなかったこと。避難設備が壊れていて、緊急時に役に立たなかったこと。これらはいずれも人災だ。要するに新吉原の場合、人災が天災を拡大させてしまった一面があったのだ。

 同じ轍を踏まないためには、こうした過去の失敗事例を一つ一つ吟味して、有効な防災対策を日頃から準備しておかねばなるまい。災害は突然にやってくるのだから
(注7)


【注】
(注1)矢田俊文『江戸の巨大地震』2018年、吉川弘文館、P.217所載の表4から作成。
(注2)早稲田大学図書館蔵。インターネットで閲覧可。
(注3)新吉原は開設当初江戸町一丁目・同二丁目、京町一丁目・同二丁目、角(すみ)町の五つの町から成っていたため、この名がある。
(注4)大門を入って、新吉原の敷地左手端(東南端)を羅生門河岸、右手端(西北端)を西河岸と呼んだ。河岸には河岸見世(最下級の遊女屋)などが軒を並べていた。
(注5)五十間道のこと。日本堤から大門(新吉原の出入り口)までの「く」の字形の道で、五十間(約100m)あったのでかくいう。道の両側に茶屋が並んでいた。
(注6)たとえば、「万歳楽鯰(まんざいらくねん)大危事」(東京大学総合図書館蔵。インターネットで閲覧可)には「大門おのつからしまりて、にげ出ることあたハず」とある。実は、大門は夜四つ時から翌朝まで閉じられ、その間は潜り戸を通行することになっていたのだ。
(注7)以上、「過去の災害に学ぶ(第7回) 安政2年(1855)江戸地震」-広報ぼうさいNo.33(2006年5月号)所載-を参考にした。
2019年9月14日(土)
船酔いすると恐ろしいことが待っていた

 八隅蘆庵(やすみろあん)が書いた『旅行用心集』は、江戸時代の旅のマニュアル本だ。宿に着いたらすぐに避難経路を確認すべしなど、今日でも参考とすべき点は多い。

 しかしその一方、あやしげなアドバイスまで堂々と載せている。たとえば、次に紹介するのは「船に酔いたる時の妙法」の一つだ。これ読むと、「あーあ、江戸時代に生まれなくて、本当によかった」としみじみ思う。

 なお、史料を読みやすくするため、適当に句読点等を付した。

「一、船に酔(ゑひ)たる時、大(おおい)に吐(と)して後(のち)渇(かわ)くなり。其(その)節(せつ)ハ童子(こども)便(べん)を呑(のま)すべし。もし童子便なき時ハ大人の尿(いばり)を呑すべし。誤りて水をのめば即死するなり。つつしむべし。」


【参考】
早稲田大学蔵本『旅行用心集』(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03)による(2019年9月9日閲覧)。なお、上記史料の続きは次の通り。

「一、舟に乗(のる)時に其(その)河(かわ)の水を一口呑(のま)ば船に酔(よわ)ぬ也。
 一、船に乗る時は、陸(くが)の土を少々紙に包ミ、臍(へそ)のうへにあてておれば舟に酔ことなし。
 一、硫黄(いおう)を紙に包ミ懐中すれば舟に酔ことなし。
 一、又方、付木(つけぎ)を二、三枚人にしらせず懐中すれば、舟に酔ぬなり。
 一、又方、つよき錯(す)を一口飲てよし。又、梅干を含(ふくみ)てよし。又、生大根のしぼり汁を呑てもよし。
 一、つよく酔、嘔吐やまざる時ハ、半夏(はんげ)・陳皮(ちんぴ)・茯苓(ぶくりょう)の三味を等分せんじ飲みてよし。」

2019年9月13日(金)
みんなパシャパシャ

 先日、東京国立博物館(平成館)で開催されている特別展「三国志」を見に行った。

 ただでさえわが国の三国志人気は高い。そこに、日中文化交流協定締結40周年記念と銘打って、日本初公開の展示品ばかり。さらには、NHKの人形劇「三国志」に登場した劉備・諸葛亮らの懐かしい人形や横山光輝氏のマンガ「三国志」の生原稿まで展示。その他には、音声ガイドにパソコンゲームの人気声優を起用するなどのコラボ。その結果、老若男女、大勢の見学者で会場はごった返していた。

 さらには混雑を助長した出来事があった。

 会場のあっちでパシャパシャ、こっちでパシャパシャ。「展示品すべてが撮影可」だったため、会場全体がスマホによる大撮影会場と化していたのだ。特に人気の高い展示品の前は、黒山の人だかり。場所によっては、どんな展示品があったのかさえわからないような有様。

 特別展で混雑する平成館に対し、本館の方は比較的ゆったり。

 ちょうど特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(本館11室)を開催していた。こちらの会場は「撮影不可」だったためか、長谷寺・室生寺などの優品をおだやかに鑑賞。

 ついでに、他の展示室にも歩を進めた。すると、こちらでもパシャパシャ。若い女性たちがたむろして、スマホレンズをある展示品へと一斉に向けている光景に出くわした。

 見ると、ガラスケースの中には一本の太刀。平安時代の刀匠三条宗近作の「三日月宗近」(国宝)だった。刀剣をイケメン男子に擬人化したスマホゲームで、一番人気の刀剣なのだと。

 あっちでもこっちでも一日中、パシャパシャ。でも、展示品は、自分の肉眼でしっかり見た方がいいと思うんだけど…。

2019年8月30日(金)
目つきが悪い

 先日、茨城県天心記念五浦(いずら)美術館を訪ねた。「入江明日香展-心より心に伝ふる花なれば-」が開催されていたからだ。

 入江氏は、現在注目されている若手アーティストの一人。手漉き和紙に刷った銅板版画を切り抜いてコラージュし、そこに墨や胡粉・箔・水彩等を施すという独特の表現技法をとる。その表現技法は、図録や作品集の小さな写真からは読み取れない。実物を間近で見ることによってのみ、それらは感得できるものなのだ。

 さて、入江氏の作品の中に、東大寺戒壇院の四天王像に想を得た作品がある。「増長天」「廣目天」「持国天」「多聞天」の4作品だ。

 この絵のモデルとなった四天王像の中で、唯一武器を持物(じもつ)としないのが広目天像だ。一般に、広目天の持物は一定しておらず、武器を持つ造像もある。しかし、東大寺の広目天像は、右手に筆、左手に経巻を持つ。無骨な護法神の眉をひそめた鋭いまなざしには、こちらを射すくめるような怖さがある。

 これに対し、入江氏の「廣目天」はどこまでも涼やかな目をした美少年だ。モデルとなった厳めしい広目天像と、美少年の「廣目天」との印象の落差は甚だしい。

 そもそも広目天とは何なのだろう。そして、東大寺の広目天像は、どうしてあんなに目つきが悪いのだろう。

 仏教思想では、世界の中心に須弥山(しゅみせん)という高山があり、その中腹に四天王が住んでいるとされる。四天王はそれぞれ東西南北の守護を分担し、このうち竜王等を率いて西方守護を担当するのが広目天だ。

 仏師が四天王像を造形する場合、悪に立ち向かうその姿は忿怒形(ふんぬぎょう)をとり、矛や剣などさまざまな武器を持たせる。ところが東大寺の広目天像は筆・経巻を持ち、武器を携帯しない。「広目悪眼(こうもくあくがん)」(山川出版社『日本史広辞典』の「広目天」の項)によって、邪悪を退散させるのだという。

 神秘的な異能を有する者は、そのまなざしだけで相手にダメージを与えたり、命さえ奪うことができるとされる。これを「邪視(イビル・アイ。evil eye)」などとよぶ。

 広目天像がことさら目つき悪く造像されたのは、こうした理由があったからだろう。

2019年7月21日(日)
70年前の「生活のしおり」
 紙くず類を整理していると、「生活のしおり」という名前のコピー史料が出てきた。時代を感じさせる記述があちこちに見られる。参考までに紹介しておこう。

 本史料では旧字体(たとえば県を縣、学校を學校と表記)や踊り字(繰り返し記号。「ひそ\/話(ひそひそ話)」など)を使用し、拗音表記がない(たとえば、さっそうを「さつそう」とするなど)など、表記法が古い。

 史料の最終ページには身分証明書欄があり、「茨城縣立水戸第二高等學校長 中山泰三(印)」とある。中山泰三氏が茨城県立水戸第二高等学校長職にあったのは1946(昭和21)年3月30日から1955(昭和30)年3月31日までの期間。当用漢字字体表が告示されたのが1949(昭和24)年であるから、本史料は新字体使用が始まる1950(昭和25)年より以前のものと推測される。

 元の史料は縦書き。旧字体は新字体に直し、踊り字・拗音等は現行表記に改めたが、漢字の送り仮名は史料のままとした。なお、内容の一部(「二、社交(一)招待-電話-手紙-服装-訪問-応接-接待-紹介-会話-食事-辞去」と最後の「身分證明書」の部分)を省略した。


「 
  生活のしおり

    私達のエチケット



    目 次

一、公衆道徳
 (一)途上
 (二)乗物内
 (三)学校内、その他公共の建物
 (四)集会
 (五)遠足旅行
 (六)神社、仏閣、名勝、旧跡、公園
 (七)見学
二、社交
 (一)招待-電話-手紙-服装-訪問-応接-接待-紹介-会話-食事-辞去
 (二)贈答
 (三)外国人に対する態度
三、男女の交際
四、就職の心得
 附、保健について


   
一、公衆道徳

(一)途上

 右側通行、信号等の交通道徳を守り、姿勢よくさっそうと歩きましょう。横列になったり、通行人を振返って批評したり、声高に談笑したり、立止って長話をしたり、食べながら、或は本を読みながら歩いたり、路上に唾を吐いたり、紙屑を捨てたりという事は他人に迷惑をかけるだけでなく、危険をともないますから注意しましょう。

(二)乗物内

 汽車、電車、自動車等乗物の乗降や社内の態度については、それぞれの規則を守り、大声で談笑したり、昇降口、洗面所に立ったり、濡れた雨具のまま腰掛けたり、客席を荷物でふさいだりしないようにし、混雑する時は三人掛、老人、幼児には進んで席をゆずる心掛が必要です。窓の開閉、空席に腰掛ける時等、一応近くの人に尋ねるゆかしさがほしいものです。

(三)学校内、その他公共の建物

1、昇降口

 つねに清掃につとめ、履物、傘等の整理整頓に注意しましょう。

2、教室

 机の配列、黒板、掃除用具の整頓等に留意し、いつも明かるい、快い教室であるように、清潔、整頓、美化等につとめましょう。

3、図書室

 書物は大切に取扱い、汚したり紛失したり、或は自分勝手に線を引いたり、符号を入れたりしないようにし、万一破損した場合は修理して返却すべきです。
 すべて図書室についての使用規則を守り、閲覧は静かに、他人の迷惑にならないように致しましょう。

4、休養室(病室)

 休養室附近では特に静かに、歩き方、室の出入等に細い心遣いが必要です。備品は係の者の許可を得てから大切に使用し、なおったら世話になった方達へお礼の挨拶を忘れないようにしましょう。

5、お手洗

 汚れ易い所ほど清潔にする心構えが大切です。使用の場合は先ずノックしてから。騒々しく多人数と一緒に行ったり、ハンカチで手を拭きながら歩いたりする事はつつしむべきです。

(四)集会

 クラス会、音楽会、講演会、協議会、研究会等々の集会の場合は、すべて定刻十分前迄に会場に到着するようにし、やむをえず遅れたら、会の進行の邪魔にならぬよう注意します。場内においては係の者の指図に従って、礼儀を守り、機敏に行動しましょう。室内では特別の場合以外は外套、帽子等はとります。

 ひそひそ話、また大声で他人に呼びかけたり、みだりに座席を離れたりしないように。会の種類によっては、幼児の同伴は遠慮すべきです。

 司会者、講演者、出演者には敬虔な態度で接し、失礼にならぬよう注意すると共に、発言の必要ある時は、簡単明瞭に、他人の気分を害するような動作、言語はつつしむべきでしょう。

(五)遠足旅行

 団体の場合は特に引率者の指図に従い、交通道徳その他いろいろの秩序、規律を守り、事故の品位や学校の名誉を傷つけないよう行動しましょう。遠足旅行の日程は家人によく知らせておき、目的地に到着したら報告をかねて旅の便りを致しましょう。

 服装は軽装に、所持品は記名を忘れないようにします。旅館では他の宿泊者に迷惑をかけぬよう心掛け、履物、荷物の整頓、食事、洗面、入浴、就寝等静粛に敏捷にし、旅館の浴衣での外出はつつしむべきです。娯楽用具、その他の器具等汚損のないように取扱いましょう。キャンプ、バンガローの場合等火や、汚物、廃物の処理に注意しましょう。

(六)神社、仏閣、名勝、旧跡、公園

 管理者の指示に従って行動し、木を折ったり、花をむしったり、紙屑を散らかしたりしないようにし、人工の美、自然の美等を心ゆくまで鑑賞し、楽しい一時を過しましょう。なお共同便所は注意して汚さぬように使用しましょう。

 見学

 展覧会、博物館、動物園、その他文化祭などでは出品物に対し敬虔な研究態度で見学し、生物を愛護する事も忘れてはいけません。多人数集まるところでは、常に他人に迷惑をかけない心遣いが必要です。


   
二、社交

(一)招待-電話-手紙-服装-訪問-応接-接待-紹介-会話-食事-辞去

     ( 省略 )

(二)贈答

 日本古来の一つの因習として贈答という問題があります。

 贈答はいろいろな弊害を持つ場合がありますから、出来ることなら一刻も早くやめるよう努力したいものです。しかし理由のある贈答として、長期の病気見舞、友人の婚礼祝、災害見舞、餞別、本当に珍らしいものが手に入った場合、卒業祝入学祝、就職祝などがあげられます。

 以上のように贈答には、はっきりした理由がなければなりませんから、意味もないおくりものは慎しまねばなりません。外国では未婚の男女の贈答は特別の間柄でない限り行いませんが、特に装身具などは許婚の間だけに限られています。

 贈答の形式は格別気にしなくてもよいのですが、非常にやかましい人もいますから次のような事を心得ておきましょう。

 贈物の個数は二つを除いては奇数を喜びますから、偶数はさけた方がよいでしょう。

 婚礼の祝物を包むときは奉書糊入れを用いて二枚で包み、祝物は贈る物品を紙の上におき、先に左方を折り、次に右を重ね、水引をかけ、のしをつけますし、凶事には紙一杯に黒白の水引を用い、のしは使わないようにします。水引は赤(黒)を右に、白を左に結びますし、お金の場合でしたら、裏又は内側に金額をかきます。表書は「御祝」とか「御霊前」などとし、氏名は中央下又は左下にかきます。

(三)外国人に対する態度

 外国人は故郷を離れて遠い異郷に来ているのですから、接する場合は常に親切、丁寧でなければなりませんが、それかといつて卑屈になる必要はなく、「日本人としてのプライド」を持って、私たちの持っているものには誇りをもっていたいものです。

 しかし、風俗や習慣の違いが大変な誤解を招いたりしますから、私たちの習慣だけで相手をはかったりすることのないように注意しなければなりません。

 従って外国人と接する時は、先ず冷静な観察眼をもって相手の招待をみきわめ、従来の意味もない外人崇拝の態度をあらためる必要があると思います。話をする時、にやにやしたり、外国の風習も心得ずに手振りや身ぶりをむやみに使ったりする事も慎しまねばなりません。特に現在日本に来ている外人兵にはいろいろのものが多いから注意しましょう。

 外国人との交際は余程注意しないと失敗を招きますが、それかといって偏狭な排外思想や誤まった愛国主義に同調せず、新時代の日本人にふさわしい広い視野をもちたいものです。


   
三、男女の交際

(一)学生はまだ社会的経験に乏しいのですから、男女の交際は、すべて両親及び教師の了解と指導の下に秘密のない明かるい交際を続ける事が最も大切です。他人の誤解の因とならぬよう次のような点に注意しましょう。

1、室内で男女二人だけで話をする際は、扉は開放しておきましょう。

2、遠方への外出は指導者の指図に従うようにし、映画等へも指導者の同伴が望ましい。

3、男女同伴で外出する場合、行先、帰宅予定時刻等を必ずはっきり家人に告げましょう。

4、夜間の外出はつつしむべきですが、やむを得ず遅くなるような場合は、前もって家人の許可を得、男子は女子を家まで送り、家人に挨拶してから帰りましょう。

(二)交際にあたっては、お互いに人格を尊重し、両者の人格の完成のためにプラスするよう努力する事が望ましいと思います。友情と恋愛を混同したり、第一印象による好き嫌いの感情に先走らないよう気をつけて交際を始め、充分相手の性格を理解するようにつとめ、更に、教養、識見、技能、趣味等も批判的に観察する事が必要です。その為には、年長者の援助を仰ぐ事が大切ですし、このようにしてこそ、はじめて明かるい健全な交際が出来るわけです。

1、お互いの幸福の為に、虚飾を去って、偽りのない素直な態度で接しましょう。

2、金銭上の負担は出来るだけさけましょう。お互いに負目があっては、平等の立場に立っての交際は望めません。

3、交際は他に強要してはいけませんし、又強要された交際に応ずる必要はなく年長者に真相をつげて指導を受けると共に、常に諾否をはっきりする態度と勇気を持たなければいけません。
しかし拒絶する場合は相手を侮辱しないように注意しましょう。


   
四、就職の心得

(一)職業選択上の注意

1、自分の興味、性格等が適するか。才能、体力が耐え得るか。

2、その職業に危険性はないか。待遇、規模、社会の信用はどうか。

3、その職業は社会の為になっているか。

等の事を考え、更に、家庭状況と考え合わせて選択する。

(二)就職の手続

1、就職希望の会社について概要を調べましょう。

2、就職採用の手続は、知人、先輩、又はそれぞれの係に紹介状、履歴書(場合によっては、卒業(見込)証明書、成績証明書、健康診断書、戸籍抄本、写真等を必要とする時もあります。)を持参して依頼しますが、その場合、近距離なら必ず自身で訪問して鄭重に依頼すべきです。なお依頼したら、後にその結果を必ず通知してお世話になった方へのお礼の挨拶を忘れないようにしましょう。

(三)採用試験及び面接

 とにかく第一印象は大切ですから身だしなみよく、清潔な自分に調和した服装を選びましょう。試験場ではいじけたり、空いばりしたりせず、素直な態度で臨むべきです。部屋に入る時は必ずノックをし、扉を閉めて会釈します。

 面接する人の方を向いて一礼し、椅子をすすめられたなら「失礼します」と会釈して腰を下します。キョロキョロ室内を見廻したり、ボタンやハンドバックをいじったりして落ちつかない態度はいけないし、余り作法を気にして堅くなってもいけません。

 部屋で先方の人を待つ場合は椅子にかけず静かに待ちます。応答ははっきりと、言葉遣いは丁寧に、しかも要領よく簡潔に致します。

 面接が終ったなら、結果はどうあろうとも、相手に不快な印象を与えぬよう辞去しましょう。

(四)採用されて仕事が与えられたなら、どんな事でも完全に仕遂げる心をもって、忠実、勤勉につとめ、他人には親切に、又常に快活に忍耐強く責任を果すよう心掛けましょう。

 
   
保健について

 健康はもっとも大切な、生活の基盤となるもので、個人の生活を豊かにするばかりでなく、社会福祉にも、大きな貢献をするものです。だからだれでも常に健康でありたいと願うわけですが、さてその為にはどんな事に注意したらよいのでしょう。特に青年期にあるみなさんは次のような事に気をつけなければなりません。

1、結核

 結核の感染をさけるのはむずかしい事ですが、発病は一寸した注意でたやすく予防する事が出来ます。ツベルクリン皮内反応検査によって感染の時期を知り、感染後一〜二年は発病の危険をさけるために、激労をさけ、不節制をつつしんで、免疫性の完成をまつようにしましょう。又一時的に人工免疫性をつくるためのBCG接種を受け、ツ反応によって検査して感染をたしかめましょう。しかし人工免疫は一年位ですから完全免疫になるまで続けて接種を受けねばなりません。又血沈によって健康度を知る事も大切です。

2、伝染病

 正しい知識をもち、流行期には必ず予防接種を受けるようにしましょう。

3、寄生虫

 主な寄生虫は回虫、十二指腸虫、鞭虫、蟯虫、じょう(虫へんに條)虫などで、これらは殆ど、食物と一緒に消化管に入って感染します。ですから野菜の洗い方に注意し、夏でも生水を飲まない習慣をつけ、時には駆虫剤を服用したり、検便を行うようにしましょう。

4、その他の疾病

 疾病は正確な知識と保健施設の利用とによって、早期治療をしなければなりませんが、その為には脈拍、体温、体重などの正常状態をよく知り、体力についてもいろいろの機会に測定して健康度判定の資料にするよう心掛けましょう。学校の身体検査の結果なども放っておかずに適切に処置するようにしましょう。

5、休養室、救急処置

 充分に利用活用するようにしましょう。

 以上のべた事はほんの一部にすぎませんが、自分自身の幸福のために、一人一人が本当に明かるい健康生活が出来るようにあらゆる機会を掴んで努力してゆくべきでしょう。」
2019年7月20日(土)
土用

 今日、土曜日は土用の入りだ。ところで、土用というのは何だろう。

 中国古代思想の一つに五行説がある。五行説によると、万物は木火土金水から成り、すべての事象はこれら五行に支配されるとした。

 ところが奇数の五行を偶数の事象(方位や季節など)に割り振ると、どうしてもずれが生じてしまう。

 たとえば、方位に割り振ると、東(木)・南(火)・西(金)北(水)となり、土が余る。そこで土は、東西南北いずれにも属さない中央に置いた。

 また、季節に割り振ると、春(木)・夏(火)・秋(金)・冬(水)となり、これまた土が余ってしまう。そこで、四季のいずれにも属さない中央に入れようとした。これが秋・夏の間に置かれた「季夏(土)」である。しかし、どうもおさまりが悪い。そこで季夏をやめて、季節の変わり目ごとに「土用」を置くことにした。つまり「春・土用・夏・土用・秋・土用・冬・土用」としたわけだ。

 太陰暦の1カ月は約30日(正しくは29.53日)。1年は約30日×12カ月=約360日。これを五行で割ると、約360日÷5=約72日になる。季節の変わり目は年に4回あるので、約72日÷4=約18日が各回の土用日数となる。

 土用期間中は、建築工事など土に関係する行為は禁忌となっている。

 なお、「土用の丑の日(今年は7月27日(土))」は、土用期間約18日間に十二支を割り振るため、1回の土用に丑の日は1~2回生じることになる。この日は「丑」の日にちなんで「う」のつく食物を食べて栄養をつけ、暑さを乗り切ろうという習慣がある。無理して高級なウナギを食べなくとも、梅干しでもうどんでもいいわけだ。


【参考】
・中山茂「土と地と」-薄井清『土は呼吸する・現代の博物誌(土)』1976年、社会思想社(現代教養文庫)、P.247~248-

2019年7月2日(火)
ツタンカーメンとアンモナイト

 古代エジプトのファラオ(王)のひとりで、黄金のマスクで知られるツタンカーメン。名前を分解するとトゥト・アンク・アメン(Tut-ankh-amen)となる。「アメンの生きた似姿(にすがた)」を意味する。

 アメン(ギリシア語ではアモン)というのは古代エジプトの主神で、テーベという街の守護神。その図像は、牡羊の頭部をもつ姿で表現される。

 この古代エジプトの神は、意外な言葉のなかに潜んでいる。たとえば、化石のアンモナイト。くるくると渦を巻いた形状が、牡羊の巻き角に似ている。そこでこの化石は「アメン(アモン)の角(アンモナイト)」と呼ばれるようになった。

 また化学物質のアンモニア(NH
3)もアメンと関係がある。古代エジプトのアメン神殿付近からは、塩化アンモニウム(NH4Cl。染料・肥料などに用いる)が多量に産出した。人びとはこれを「アメン(アモン)の塩」と呼んだ。アンモニアの語源だ。

2019年7月1日(月)
仁斎と東涯

 京都堀川に私塾をかまえた伊藤仁斎(1627~1705)には、息子が五人いた。 「堀川の五蔵(ごぞう)」とその秀才を世に謳(うた)われた源蔵(東涯、とうがい)・重蔵(梅宇、ばいう)・正蔵(介亭、かいてい)・平蔵(竹里、ちくり)・才蔵(蘭嵎、らんぐう)である。

 末弟の蘭嵎が好んで用いた印の銘には「父子兄弟儒業」とあった。堀川学派の学問的根幹は、こうした「父子兄弟」の血脈によって形成されたものだ。

 「堀川の五蔵」の中では、長兄の東涯(1670~1736)の学識が抜きんでていた。太宰春台は、「仁斎の『三幸』は古学を最初に提唱したこと、仕官をしなかったこと、そして東涯を得たことにある」と語ったという。仁斎の跡は東涯が継いだ。

 名利のために学問を虚飾としないのが堀川学派の学風だったが、仁斎・東涯の世評に対する反応は、親子でもまるで違っていた。

 たとえば、漢文・漢詩などを創作し、他人がそれを賞賛した場合。仁斎は、常に泰然自若(たいぜんじじゃく)としていた。他人の評価はどうあれ、自ら満足できなければ納得しない性格だったからだ。一方東涯(1670~1736)は、他人の賞賛を素直に喜んだ。東涯は篤実な性質で、人間を信頼していたからだ(南川維遷(みなみかわいせん)『閑散余録』による)。


【参考】
・伊藤梅宇著・亀井伸明校訂『見聞談叢』1940年、岩波文庫、巻末解説
・南川維遷『閑散余録』(日本随筆大成第2期第20巻、1974年、吉川弘文館、所収)。
 ちなみに参考にした該当部分は以下の通り。

「○仁斎ト東涯ト性質ニ違アリ。仁斎ハ一篇ノ文、一首ノ詩ヲ作リテ人ニ示サルヽニ、ソノ人賞嘆ヲナセドモ、アナガチニソノ喜ノ色ヲ見ズ。他人イカ様ニ嘆美ヲナストイヘドモ、自ラ心ニ満ザレバ、其顔色自若タリ。 東涯ハ然ラズ。或ハ文、或ハ詩、人見テ賞スレバ、自ラモ喜ビテ其色面ニアフレタリトゾ。コレ仁斎ハ大量(器量が大きい、の意)ニシテ人ノ毀誉(きよ)ニカヽワラズ。東涯ハ篤実ニシテ人ヲ信ズレバナリ。二先生共ニ是ナリ。

2019年6月30日(日)
真理はどこにある

 江戸時代の儒学者伊藤仁斎(いとうじんさい。1627~1705)は、その学問研究の出発点に、現実社会に生きる人間をすえた。だから、仁斎が説く道徳理論は明解で、一般の人びとが日常生活の中で実践できるものだった。

 仁斎の言葉。


「大抵(たいてい)(ことば)(なお)く理(り)明らかに、知り易(やす)く記し易き者は、必ず正理(せいり)なり。詞艱(かん。むずかしいの意)に理遠く、知り難(がた)く記し難き者は、必ず邪説(じゃせつ)なり。」(伊藤仁斎著・清水茂校訂『童子問』1970年、岩波文庫、P.20)


 正しい言葉で論理が明解。誰にでも理解しやすいものは、きっと正理(真理)であるに違いない。一方、難解な言葉で論理が現実離れ。誰もが理解しがたいものは、間違いなく邪説(誤り)である。

 真理は平易なものの中にある。
けだし、名言だろう。

2019年6月28日(金)
船頭は超能力者?

 豊臣秀吉が後北条氏を討つため、小田原に馬船を送ろうとした。

 ところが遠州沖合では昔から、馬や馬道具を載せた船がたびたび難破。そのゆえ、船中で「馬」という言葉を口にすることはタブーだった。だから船乗りの中に、馬船への乗船を尻込みする者がいたのだろう、秀吉は何やらしたためるとそれを船頭に渡し、次のように言いふくめた。



  「風波おこらん時この状を龍宮へ達せよ。先馬船をだせ」
   (風・波が起こりそうな時には、この書状を龍宮に届けよ。まずは馬船を出航させよ)



 出航するとたちまち海が荒れはじめ、今にも船を転覆させようとする勢い。秀吉に言われたとおり、書状を海中に投じると、海はたちまちのうちに静穏さをとりもどした。

 その投じた書状に曰(いわ)く。


  「今度就誅伐北條(こんどほうじょうをちゅうばつするにつき)
   予使船赴相州小田原
(あらかじめふねをそうしゅうおだわらにおもむかしむ)
   無難可被通之者也
(ぶなんにこれをとおさるべきものなり)
                             太閤
(たいこう。秀吉のこと)



 こうして秀吉は小田原征討に成功し、全国統一を完成させる。

 それにしても、海中に投じて失われたはずの秀吉の手紙。どうして、その文面がわかったのだろう。船頭が中身を透視した? それとも、事前にこっそり盗み見した? 仮に盗み見したとしても、漢文が読めたのだから、この船頭さんはけっこう学識があったんだろうな。


【参考】
・伊藤梅宇(いとうばいう)著、亀井伸明校訂『見聞談叢(けんぶんだんそう)』1940年、岩波文庫、P.224

2019年6月27日(木)
『史記』と「汗牛充棟」(『春秋』3)

 書物は紙から作られる。中国で紙が発明されたのは、後漢(25~220)の時代、紀元後105年のこととされる。宦官(かんがん)の蔡倫(さいりん。?~?)によって、安価な紙(これを蔡侯紙(さいこうし)といった)の製法が考え出されたという。

 紙が発明される以前、文字は主として竹簡などに書かれた。何枚もの細い竹や木の札は、ばらばらにならないよう革紐などによって編まれ、くるくると丸められて保管された。紙で作られた書物に比べると、重く嵩ばり、不便この上なかった。

 孔子の死後、「春秋の筆法」を継承した一人に司馬遷(しばせん。?~?)がいる。前漢(紀元前206~後8年)の時代、紀伝体という歴史記述法を創始して『史記』を著した。

 『史記』の著述は、紙が発明される以前の事業だった。だから『史記』全130巻を収蔵するのに一軒の建物を必要とした(加納喜光『見て味わう漢字の満漢全席』1995年、徳間文庫、P.305~306)。『史記』のみで、まさしく「汗牛充棟」状態だったのだ。

 紙は、嵩張る竹簡の書物をコンパクトにするという恩恵をわれわれにもたらした。それでも「本が部屋を占拠している」とか「書物が増えすぎて床が抜ける」など、蔵書にまつわる不平や不満は絶えない。

 今では、スマホやらパソコンやらで本を流し読みするようになり、手元に紙の本を置かなくなってきている。一見すると、蔵書にまつわる不平不満は解消に向かっているようだ。

 しかし、画面をパッパと目まぐるしく変える堪え性(こらえしょう)のない読み方は、「春秋の筆法」で書かれた本の読解には向かないだろう。また紙の本の衰退は、「汗牛充棟」を遠からず死語にしてしまうにちがいない。

2019年6月26日(水)
汗牛充棟(『春秋』2)

 『春秋』の記述は簡潔だ。しかし、その用字には工夫が凝らされ、「一字褒貶(いちじほうへん)」、すなわち「ほめる・そしるの意味がたった一文字の中に込められている」とされる。簡潔な記述のうちに、深い意味が寓せられているというのだ。

 したがって、孔子の真意を汲み取りつつ『春秋』を正しく読み解くためには、まずは最低でも、古代中国史やそれに関連する諸制度等に対する幅広い知識や深い理解が必要だった。これは一般読者人のよくするところではない。

 だから『春秋』の読解には、注釈書が不可欠だった。

 しかし研究の進展は、学者間に意見の対立を生んだ。時代が下るにしたがい、個々の注釈は微にいり細にいりして繁雑になった。今度は注釈書の意味がわからぬ。注釈書の注釈書が必要になった。こうして『春秋』の注釈書は膨大な数量になっていった。

 唐代の文学者柳宗元(りゅうそうげん。773~819)は、その有様を次のように述べている。


 『春秋』の主な注釈書は五つあり、そのうち現在まで伝わるものは穀梁伝
(こくりょうでん)、公羊伝(くようでん)、左氏伝(さしでん)の三つ。その後、注釈をなす者は一千名以上の多きに及ぶ。その量は、積み上げれば建物の棟木(むなぎ)にまで届き、車で運びだせば牛馬が汗だくになるほどだ。(唐故給事中陸文通先生墓表)


 上記の柳宗元の言葉から「汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)」という四字熟語が生まれた。「汗牛充棟」 は現在、蔵書の多さを意味する言葉として使用される。

2019年6月25日(火)
素王(『春秋』1)

 『春秋(しゅんじゅう)』は魯国(ろこく。現在の山東省西部にあった)の記録。紀元前722年から同481年に至る魯国内外の事件が年代順に記されている。魯国で生まれ、魯国に仕えた孔子の著作とされる。しかし、確証はない。

 『春秋(しゅんじゅう)』の記述はメモ書きといっていいほど簡略。しかし、その用字には工夫が凝らされ、簡潔な文体のうちに孔子の秘められた意図がかくされていると考えられた。歴史上の人物に道徳的筆誅(ひっちゅう)を加え、事の曲直を明らかにしようとしたというのだ。これを「春秋の筆法(しゅんじゅうのひっぽう)」という。

 本来、天下のまつりごとを正すのは、天子の役割だ。しかし、周の王室はすでに権威を失い、天子は実力によって諸侯たちの横暴を取り締まることができない。

 そこで孔子は、魯国242年間の史実を述べつつ、この間の君臣たちの行為の是非善悪を明らかにし、後世の為政者たちに政治上の指針を示そうとした。つまり孔子は、歴史叙述という手段によって、天子の仕事を代行したのだ。このように考えた一部の学者たちは、孔子を評して「素王(そおう)」といった。

 「素王」は「無冠の帝王」という意味。何ら封爵を受けていない孔子が天子の仕事を代行したというので、かく称したのだ(宮崎市定『史記を語る』1979年、岩波新書、P.24~25)。

2019年6月12日(水)
ハゲシイクサ

 6月にちなむ問題を一つ。

 
次の史料は『今昔物語集』の中にある話の一節。ここに書かれた「劇草」とは、一体、どんな植物なのだろうか。


  劇草ト云
(い)フ五文字ヲ句の頭毎(かしらごと)ニ居(す)ヘテ、旅ノ心ヲ詠(よ)


(ヒント)

 上記史料には、植物名を知るヒントが二つ出ている。

 一つ目は、「劇草」の読みが五文字ということ。二つ目は、上記史料が、植物名を和歌の各句(五七五七七)に織り込んで「旅ノ心ヲ詠」んだ物語の一部だということ。

(解説)

 正解は「カキツバタ」。

 上記史料は『伊勢物語』(東下り)の八橋(やつはし)での情景。『今昔物語集』が『伊勢物語』を採録した部分なのだ。この場面をうけて、主人公の男は「
らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ」と、「カキツバタ」の名前を織り込んだ和歌を詠む。


 ところで、なぜ「カキツバタ」に「劇草」の漢字を当てたのだろう。

 漢和辞典を引くと、「劇」には「激しい」という意味がある。漢字の左側はトラ(虎)とイノシシ(豕)が激しく争う様をあらわし、右側の刀(りっとう)でその激しさを強調しているという。

 「劇」には劇物、劇薬など、危険な匂いのする熟語が多い。楚々とした姿のカキツバタ。実は危険な花だったりして?
 

【参考】
・小林雄一氏によるコラム(漢字能力検定協会『会員通信』2019年6月vol.31、P.51)

 古代中国では、四種の瑞獣(ずいじゅう。幸運をよぶめでたいけもの)を創造した。麒麟(きりん)・鳳凰(ほうおう)・霊亀(れいき)・応竜(おうりゅう)である。これら空想上の獣をまとめて「四霊(しれい)」という。「四霊」にちなんで、というわけでもないが、麒麟と鳳凰、亀に関する話題はすでに書いた(「あれやこれや 2019」4月25・26日、5月3日付け)。今日は竜に関する話題を一つ。

 突然だが、ジャイアントパンダ(大熊猫)が何本指だかご存じだろうか。

 正解は、前肢・後肢ともに5本指。

 しかし前肢は、6本指に見える。親指側にあるこぶ(手首の骨の盛り上がり)を、パンダが指のように器用に使っているからだ。このこぶは「第六の指」ともよばれる。こぶはまた、小指側下にもある(副手骨の盛り上がり)
(注1)。このこぶも、ものをつかむ際に役立っているという。「第七の指」とよんでいいかもしれない。こうなると、「パンダは何本指なのか」という質問に、即座に正答することは難しい。

 それでは、竜の場合はどうだろう? 

 竜は、古代中国において蛇をもとに、駱駝(頭)・兔(目)・鹿(角)など九つの生物の身体的特徴(漢代にはこれを「竜の九似(きゅうじ)」といった)を寄せ集めて創造され、「爪は鷹に似る」とされた。そこで竜の指の本数は、「○爪(そう)」と爪(つめ)の数で表現する。

 多くの鷹は、3趾(し)が前方を向き1趾が後方を向く三前趾足(さんぜんしそく)だ。だから、竜も「四爪(しそう)」というのが正解。

 ところがその後、パンダ並みに竜の爪も本数が増えた。

 中国宋代から元代にかけて皇帝権力が高まっていくと、皇帝が用いる竜の紋様にもさらなる権威づけが必要になった。そこで、爪の数を1本加えて5本とした。これが「五爪竜(ごそうりゅう)」だ。

 五爪竜は皇帝シンボルなので、皇帝以外の者がこの紋様を使うことはできない。そこで、五爪竜紋様のある器物を下賜などする場合には、その爪をわざわざ1本欠くことにしたという
(注2)

 ところで、戦国BASARA(アニメ)に登場する「独眼竜」こと伊達政宗は、六振りの刀をあやつる「六爪流(ろくそうりゅう)」の使い手だ。中国皇帝(五爪竜)の一段上をいっているということなのだろう。


【注】
(1)上野動物園のジャイアントパンダ情報サイト 参照
  (https://www.ueno-panda.jp/dictionary/answer01.html)
(2)猪熊兼樹「五爪の龍」(東京国立博物館ニュース第750号、2018年8~9月号、P.3)

2019年5月10日(金)
「三種の神器」はいくつある

 天孫降臨神話によると、皇祖神天照大神が天孫に三種の宝物(鏡、剣、玉)を授けたという。この三種の宝物が「皇位のしるし」として歴代天皇に継承されることになった。

 三種の宝物(いわゆる「三種の神器」)のうち鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮それぞれのご神体になっている。両神宮が権威をもつのは、ご神体が皇室の祖先神と結びついていることに由来する。そして、三種の宝物の残り一つ、玉は「神璽(しんじ)」とよばれて皇室に伝来する。

 ところで、鏡・剣が天皇の手元になく、伊勢・熱田両神宮にあるというのは何とも不自然な説明だ。実は、「皇室のしるし」である鏡・剣・玉は、天皇の手元にすべて揃っているのである。

 鏡は、宮中の賢所(かしこどころ)にまつられている。また剣・玉(両者あわせて「剣璽(けんじ)」という)は、先日の前天皇(現上皇)退位を伝えるテレビ中継で、前天皇に同行する有様をわれわれは目撃している。

 そもそも、天皇の旅行が1日を越える場合には、侍従が剣と神璽(玉)を奉持するのが平安時代以来の慣行だ(これを「剣璽動座(けんじどうざ)の儀」という)。だから、天皇の手元にこれらの宝物がなければ、天皇の行動はいちじるしく制限をうけ、不便この上ないものになってしまおう。

 それでは、天皇の手元にあるこれらの鏡・剣と、伊勢・熱田両神宮にあるご神体の鏡・剣との関係は、一体どうなっているのだろう。

 鏡・剣が複数存在するという矛盾を解消するため、「九世紀初頭には、本来の宝鏡、宝剣は天皇のもとにはなく、皇位のしるしである鏡、剣は、(注:伊勢神宮・熱田神宮それぞれのご神体である)宝鏡、宝剣の模造品であるという不自然な説明が定着することになった」(村上重良『天皇の祭祀』1977年、岩波新書、P.25)という。つまり、天皇の手元にある三種の宝物のうち神璽(玉)は皇祖神から継承したものだが、鏡と剣はレプリカだと説明されてきたというのだ。

 ゆえに現在、「三種の神器」は下記のように三種5点存在する(
③④⑤は「皇室のしるし」とされる「三種の神器」)。

 ① 伊勢神宮のご神体の鏡。
 ② 熱田神宮のご神体の剣。
 ③ 賢所(かしこどころ)にまつられた鏡。1005(寛仁2)・1040(長久元)年2度の火災で焼亡
  したため、別の鏡に代えたという。
 ④ 皇室に伝来した剣。1185(文治元)年の壇の浦の戦いで、安徳天皇の入水とともに海中
  に失われたため、伊勢神宮神庫にあった剣に代えたという。
 ⑤ 皇室に伝来した神璽(玉)。

 なお、「三種の神器」は何人(なにびと)も実見を許されないため、その実体は不明だ(ただし、②については、江戸時代に熱田神宮の大宮司が実見したとの記録がある)。


【参考】
・村上重良『天皇の祭祀』1977年、岩波新書、P.22~32

2019年5月3日(金)
鳳凰(ほうおう)

  先代天皇が退位の儀式で、身をつつんでいた装束(しょうぞく)は束帯(そくたい)だった。その際、黄褐色の丸首の上衣を着用していた。これを「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」という。天皇のみしか着用を許されない晴れの装束である。

 黄櫨染は櫨(はぜ)・蘇芳(すおう)・灰などで染色した黄褐色のこと。天皇が着用する上衣(御袍)は、色を黄櫨染とし、地紋には鳳凰(ほうおう)・麒麟(きりん)・桐・竹を用いることが習わしになっている。

 鳳凰・麒麟は中国古来の伝説上の霊獣で、聖天子の世にしか出現しないとされる。だから、天皇の上衣(御袍)の地紋に用いられたのだ。

 同じく地紋に用いられた桐・竹は、ともに皇室を表現する植物。たとえば、桐の花・葉をかたどった桐紋(正しくは「桐の薹(きりのと)」という)は菊とともに皇室の紋章ともされる。また、「竹の園(その)」「竹の園生(そのう)」「竹林(ちくりん)」「竹園(ちくえん)」といえば、皇族の雅称だ(梁(りょう)の孝王の庭園を「竹園」と呼んだ故事に由来)。加えて、桐・竹は鳳凰とも縁がある。鳳凰は桐を住み処(すみか)とし、竹の実を食べるとされているのだ。

 わが国では「黄櫨染御袍」をはじめ、天皇に関連する事物には鳳凰の名称がつけられてきた。たとえば、天皇が居住する宮中のことを鳳闕(ほうけつ)、天皇の言葉である詔勅(しょうちょく)を鳳詔(ほうしょう)、天皇の乗る輿(こし。数人で肩にかつぐ乗り物)を鳳輦(ほうれん)というように。現在でも、祭礼の神輿(みこし)の屋根のてっぺんを見ると金色の鳳凰飾りがのっているが、これは鳳輦を模したものだ。

 5月1日、令和と改元された。今後、新天皇は古式にのっとり、高御座(たかみくら。天皇の玉座)にのぼる儀式を行うはずだ。その時、テレビ中継などで、高御座を観察する機会があるかもしれない。その際には、屋根に注目したい。高御座の八角形の屋形のそれぞれの角の上に小さな鳳凰像が一つずつ外向きに、頂上には大きな鳳凰像が南向き(天子南面の思想による)に立てられているのだ。

 鳳凰は天下泰平の瑞徴(ずいちょう。めでたいしるし)とされる。今はじまった「令和」の世が、戦争や自然災害のない平和な時代であってほしいと願うばかりだ。


【参考】
・金子浩昌外3名『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.120~121

2019年4月28日(日)
ソウゾウできる?

 10連休初日の土曜日(4月27日)は、午前中雨も残って肌寒く、あいにくの天気だった。

 そんななか、東京国立博物館に行ってきた。「特別展・国宝東寺-空海と仏像曼荼羅(ぶつぞうまんだら)-」を見るためだ。ただ、来館者の様子を見ると、午後に行った「クリムト展-ウィーンと日本1900-」(東京都美術館)の方は比較的若い人(特に女性)が多かったのに対し、こちらの方は年輩者や中国人の方々が多かったという印象だ。展示内容の性格が、こんなところに表れている。

 さて、今回の展示は「風信帖(ふうしんじょう)」(空海直筆の最澄あての3通の手紙)や巨大な両界曼荼羅、不動明王像をはじめとする密教仏像群など、なかなか見所が多かった。しかし、特に人だかりができていたのは帝釈天騎象像(たいしゃくてんきぞうぞう)という仏像の周辺。

 帝釈天がイケメンだったこともあるが、この仏像だけ写真撮影が許可されていたからだ(フラッシュ撮影は禁止)。各個人がインスタグラムで、展覧会情報を拡散させてくれることを狙った措置だろう。

 ところで、帝釈天がゾウに乗っている姿は珍しい。仏師も、本物のゾウを見たことがなかったろうから、この仏像を造るのには苦労したろう。また中国滞在中の空海も、本物のゾウを見る機会はおそらくなかったに違いない。中国にゾウはいないからだ。

 ところが昔、中国には野生のゾウが棲んでいた。だから、古代中国の青銅器には、ゾウの姿が刻まれているものがある。「象」は鼻の長いゾウの姿からつくられた漢字だ。「爲」(為の旧字体)は人の手がゾウの鼻をつかんだ形からできた漢字で、本来はゾウの使役を意味した。つまり、ゾウは家畜化までされていたのだ。

 ところが、紀元前900~700年頃、気候が寒冷化したため、熱帯性の動物であるゾウは黄河流域から姿を消した。春秋戦国時代には、黄河流域に居住していた人びとが生きたゾウを見ることはできなくなっていた。だから、ゾウの骨や絵からしか「生きているゾウはどんな姿だったのだろうか」と思い描くしかなかった。これが「象を想う」すなわち「想象」するという言葉の由来だという(『韓非子(かんぴし)』による。阿辻哲次『漢字の字源』1994年、講談社現代新書、P.196~204参照)。

 現在は「想像」と書くが、この熟語を「想象」と書いても、あながち間違いとは言えないのだ。

2019年4月26日(金)
犬なのに亀?(亀 2)

 ポルトガル人宣教師が17世紀初頭に書いた本の中に、次のようにあるという。


  「京都には鶴の家、亀の家などの名前の店が軒を並べている」


 「鶴の家、亀の家」というのは、鶴屋、亀屋という名の店舗のことだ。


 鶴屋・亀屋の商標は今でも人気。数が多いのは京都に限るまい。「鶴は千年、亀は万年」などの吉祥句から、縁起をかついでの命名だろう。

 ところが、幕末の横浜では、鶴屋より亀屋の方が人気だった。

 横浜にいた外国人(イギリス人が多かった)は、自分の飼い犬を「亀」と呼んでいた(と、日本人は思った)。実際は、彼らが自分の犬を呼ぶ時の掛け声を、日本人が犬の名前と誤解したのだ。


   Come here! (こっちにおいで)


 一方、外国人には「亀屋」という店舗名が “Come here” に聞こえる。だから、店舗名を「亀屋」にし、店名を連呼すれば、外国人客が次々と店内に入ってくる。

 こうして、横浜には、「亀屋」という名前の店がいくつも出現することになったのだ。



【参考】
・黒川光博『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』2005年、新潮新書、P.137
・福田眞「明治翻訳語のおもしろさ」
   -名古屋大学大学院国際言語文化研究科「言語文化研究叢書・第7巻」、2008年、P.138-
  (http://hdl.handle.net/2237/10135)2019年4月25日閲覧

2019年4月25日(木)
奈良時代は「亀ブーム」?(亀 1)

 奈良時代には4文字元号が5回も続いた。次に多いのが、珍奇な亀の献上による祥瑞改元だ。全部で4回ある。霊亀(れいき。715~717)、神亀(じんき。724~729)、天平(てんぴょう。729~749)、宝亀(ほうき。770~780)だ。

 このうち、天平にのみ「亀」の文字がはいっていない。しかし729(神亀6)年、和泉川(いずみがわ)で発見されたという亀が、改元の根拠になっているのだ。

 亀を献上したのは左京職(さきょうしき)の長官、藤原麻呂(ふじわらのまろ。695~737。藤原四子の末弟)。その亀の甲羅の文様が「
王貴知百年(てんのうたっとくたいらかにして、ももとせをしらさむ)」とよめる。そこで、この7文字のうちから「天平」の2文字を選び、改元したという。
 
 亀が献上された時期は、藤原四子が長屋王(684~729)を自殺に追い込んだ「長屋王の変」のあと。

 そして改元。

 改元直後、藤原四子は、藤原夫人(ぶにん。天皇の配偶者の第3位)光明子(こうみょうし。701~760)を聖武天皇の皇后(天皇の配偶者の第1位)に立てている。

 もし、皇親の長屋王が生きていたなら、「皇族以外の娘が皇后に立った先例はない」と光明子の立后(りゅうごう)に反対しただろう。藤原氏は長屋王を除くことによって、一族の娘を皇后とすることに成功したのだ(「人臣皇后」の最初)。

 しかし、光明立后(こうみょうりゅうごう)の障害になるとはいえ、有力政治家を陰謀により闇に葬ったのだ。宮廷内には沈鬱な気分が流れたはずだ。改元は、そうした嫌悪な空気を払拭して人心を一新するため、藤原四子によって仕組まれたものだろう。改元の政治的意図が透けて見える。
 
 それはさておき、残りの3つの元号は、『爾雅(じが。中国最古の類語・語釈の辞典)』の「十朋之亀(じっぽうのかめ。古代中国で占いに用いた高貴な10の亀甲のこと)は、一に曰(いわ)く
神亀、二に曰く霊亀、三に曰く摂亀、四に曰く宝亀、…」を出典とする。

 亀なら川や湖沼など、どこの水辺にもいよう。しかも、『爾雅』を典拠とするなら、元号候補はあと7つも残っている。人心一新を図るための改元には、亀はいかにもお手軽な素材だった。

 しかし、この「亀ブーム」は780年で終わってしまった。「亀」の文字を持つ元号が次に登場するのは、721年後の文亀(ぶんき。1501~1504)、780年後の元亀(げんき。1570~1573)まで待つしかない。


【参考】
・青木和夫『日本の歴史3・奈良の都』1973年、中公文庫、P.278~283
・米田雄介編『歴代天皇・年号辞典』2003年、吉川弘文館

2019年4月24日(水)
マジ(麻自、本気)か!(4文字の元号)

 もうすぐ平成から令和に元号が変わる。あちこちでカウントダウンをしながら、その歴史的瞬間を待っている。今まで、こんなに人々の関心が元号に集まったことがあったろうか。

 先日、国立公文書館つくば分館(茨城県つくば市)へ見学に行った折りのこと。入り口付近に、テレビのイラストを描いたパネルが特設されていた。テレビの画面部分が切り抜かれ、うしろから「平成」の文字の書かれたクリアファイル(同館で1枚300円で販売)を掲げて顔を出し、記念写真を撮る趣向だ。去りゆく「平成」を惜しみつつ、記念撮影する人たちがひっきりなしだった。

 ところで、わが国の年号は漢字2文字が普通だ。しかし、奈良時代にのみ漢字4文字の元号が登場した。しかも、749年から770年の間、5つ連続してだ。米田雄介編『歴代天皇年号事典』(2003年、吉川弘文館)から該当部分を抜き出すと、それらの改元理由は次の通りだ(一部書き換えてある)。


天平感宝(てんぴょうかんぽう。749)
 聖武天皇の時の年号。天平21年4月14日改元。天平21年2月22日、陸奥国より初めて黄金を献じたことによる。

天平勝宝(てんぴょうしょうほう。749~757)
 孝謙天皇の時の年号。天平感宝元年7月2日改元。即位による。7年正月4日勅により天平勝宝7年を天平勝宝7歳とした。

天平宝字(てんぴょうほうじ。757~765)
 孝謙・淳仁両天皇の時の年号。天平勝宝9歳8月18日改元。同年3月20日孝謙天皇の寝殿の承塵(しょうじん。塵を防ぐために貴人の御座の上に、板・布などを天井板のように張ったもの)の裏に「天下太平」の4字が生じ、8月13日駿河国益頭郡(ましずぐん)の人金刺(かなさし)舎人(とねり)麻自(まじ)が、その蚕が「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」の字を作ったというのを献じたことによる。

天平神護(てんぴょうじんご。765~767)
 称徳天皇の時の年号。天平宝字9年正月7日改元。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱を神霊の護りによって平定したことによる。

神護景雲(じんごけいうん。767~770)
 称徳天皇の時の年号。天平神護3年8月16日改元。この年、6月16日平城宮の東南角に七色の雲が、同月17日伊勢の度会宮の上に五色の瑞雲があらわれ、陰陽寮にも7月15日西北角に異雲、同月23日東南角に五色の雲があらわれたことによる。

 
 これらを見ると、祥瑞(しょうずい。めでたいしるし)でやたらと改元しているのがわかる。それにしても、「天平宝字」への改元理由を、当時の律令官人たちは本当に信じていたのだろうか。

2019年4月23日(火)
植物園で『平家物語』

 先日、国立科学博物館筑波実験植物園(茨城県つくば市)に行った。サクラソウ展を開催していたからだ。サクラソウは、江戸時代からさまざまな園芸品種が開発され、庶民に愛されてきた花だ。鉢で育てられた多様な品種が、特設された棚の上で妍(けん)を競い合っていた。 

 その中の一つが「青葉の笛」。白い花びらに緑色の斑(ふ)が入る。それを平敦盛(たいらのあつもり。1169~1184)が吹く「青葉の笛」に見立てたのだろう。

 「屋外で見頃の花はクマガイソウ」というアナウンスが流れたので、見に行った。熊谷直実(くまがいなおざね。1141~1208)は、一の谷の戦い(1184)で、平家の公達(きんだち)敦盛を討った武将。袋状の唇弁(しんべん)を、直実が背負った母衣(ほろ。流れ矢を防ぐために鎧(よろい)につけた飾り)に見立てたのだ。「熊谷草」というだけあって、力強い草姿をしている。

 クマガイソウは春、大きめの花を咲かせる。夏、淡紅色の小さな花を下向きに咲かせるのがアツモリソウだ。クマガイソウもアツモリソウも、同じラン科アツモリ属に属す。

 敦盛と直実。花の世界ではふたりは仲間なのだ。


【参考】
・林弥栄『山溪カラー名鑑 日本の野草』1983年、山と溪谷社、P.560~561

2019年4月19日(金)
数も70個にすればよかった…

 「水戸黄門」こと徳川光圀(1628~1700)は、無類の饅頭好きだった(注1)

 光圀は、知人にもよく饅頭を贈った。たとえば、親交のあった中院通茂(なかのいんみちしげ。1631~1710)の古稀の祝いには、「ふく寿(福寿)」の文字を紅で書かせた饅頭を100個、贈っている。

 この時光圀が贈った饅頭の重さは、1個260gもあった。現在作られている饅頭の標準的な重さが50gというから、約5倍の重さがあったことになる。260gは70匁(もんめ)だ。70歳の祝いに掛けて、重さを70匁にしたのだ
(注2)。贈られた通茂の方では、饅頭の大きさと数の多さに度肝を抜かれたことだろう。

 ちなみ、インターネットで検索してみたところ、2017(平成29)年の茨城県民の年間饅頭消費量は12.5個。全国第13位だった(1位は佐賀32.7個、47位は青森3.2個、全国平均は10.7個)(注3)


【注】
(1)小菅桂子『水戸黄門の食卓』1992年、中公新書、P.72以降の記述参照
(2)黒川光博『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』2005年、新潮新書、P.68
(3)インターネットサイト「地域の入れ物」(https://region-case.com)による。平成31年4月19日閲覧

2019年4月18日(木)
10+5=15

 虎塚古墳のほど近く、茨城県ひたちなか市東中根の台地縁辺部には、露出した凝灰岩崖面にいくつもの横穴が見いだせる。地元ではこれを「十五郎穴」とよんでいる。

 十五郎穴の正式名称は「十五郎穴横穴墓群」。7世紀前半から9世紀初め頃にかけて掘られた墓穴なのだ。

 墓群の広がりから、その総数は数百基に及ぶと推定される。墓群はいくつかのまとまりを形成し、指渋(さししぶ)支群・館出支群・笠谷支群と呼ばれる。このうち、館出支群の一部(34基)が昭和15(1940)年3月11日、県史跡に指定された。墓内からは蕨手(わらびて)刀、金銅製金具付刀子(とうす)、メノウ製勾玉(まがたま)、須恵器等多くの副葬品が出土している。

 ところで、なぜ「十五郎穴」というのだろうか。これは曽我十郎・五郎兄弟の伝説に由来する。鎌倉時代、父の仇・工藤祐経(くどうすけつね)を見事討ち果たした兄弟は、追っ手の追跡を逃れてこの地まで落ちのびた(史実ではふたりとも死亡)。そして、この穴に身を潜めた。それで「十五郎穴」と呼ばれるようになったのだと。

 つまり「十郎と五郎で十五郎」というわけだ。

2019年4月17日(水)
ベンガラ

 虎塚古墳の石室内は、あざやかな赤色顔料で装飾されている。この顔料をベンガラという(注1)

 ベンガラの名は、インド東部の地名「ベンガル」に由来するとされる。江戸時代にベンガル地方産のものを輸入したからという。主成分は酸化第二鉄。古くは天然に存在する赤石・赤土を砕き、粉末にして使用したらしい。

 わが国でのもっとも古い例が縄文早期の東釧路貝塚。以来、身体装飾や土器・埴輪・壁画・寺院建築等の彩色に用いられてきた。寛永文化の傑作日光東照宮を造営する際にも、べンガラが使用されたという
(注2)

 ベンガラは顔料としての用途だけでなく、それ自体を壷に入れて古墳の副葬品にもされた。赤色は血や炎を連想させる
(注3)。そのため、ベンガラには魔除け等の効果が期待されたらしい。


【注】
(1)ベンガラという呼び方以外にも、同顔料には「インド赤、ベネチアン赤、ターキー赤」など、地名を冠した呼称がある。また、主成分の鉄分にもとづく「鉄朱、鉄丹」、原料の赤土(赭)を意味する「代赭(たいしゃ)」という呼称もある。
(2)日光東照宮に使用されたベンガラは、現在の青森県東津軽郡今別町(いまべつまち)のものとされる。同地は天然のベンガラが豊富に産出し、ベンガラの岩塊(「赤根沢の赤岩」と呼ばれ県指定の天然記念物)が地上に露出しているほど。江戸時代には弘前藩が、一帯のベンガラ産出地を管理していたという(今別町のホームページによる)。
(3)ベンガラの別名の一つ「代赭(たいしゃ)」の「赭(赤土、また赤色を意味する)」の成り立ちは、「赤+音符者(=煮。火が燃える)」の会意兼形声文字。本義は「火の燃える色=赤」。


【参考】
・『大百科事典・第13巻』1985年、平凡社の「ベンガラ」の項。
・ひたちなか市埋蔵文化財調査センターの解説シート「見てみよう聞いてみよう!-ベンガラ-」2014年2月28日再版(2006年2月4日初版)。
・高田潤「ベンガラの歴史と材料科学的研究」(風土社「チルチンびと」2003年冬季号、No.23に掲載。また「achem.okayama-u.ac.jp/iml/theme/pdf/bengara.pdf」参照) 

2019年4月15日(月)
虎塚古墳(とらづかこふん)

 先日、虎塚古墳を見学に行った。

 虎塚古墳(虎塚古墳群の第1号墳。茨城県ひたちなか市中根に所在)は、7世紀前半に築造された前方後円墳(全長56.5m、後円部径32.5m・同高さ5.5m、前方部幅38.5m・同高さ5.0m。周濠をもつ)。関東地方における代表的な装飾古墳(石室の壁や石棺に彩色・線刻等が施された古墳)の一つとして知られる。

 1973(昭和48)年夏、市史編纂事業(当時は勝田市)の過程で古墳の第一次調査がなされ、9月に凝灰岩(ぎょうかいがん)で作られた石室が出土。その内部を開くと、白色粘土で全面下塗りした上に、鮮やかな赤の顔料(ベンガラ。酸化第二鉄)で円・三角形等の幾何学文様や武具・馬具等を描いた壁画があらわれた。その壁画のもつ重要性から翌74(昭和49)年1月、国の史跡指定をうけた。

 虎塚古墳は、次の二つの点でも重要な遺跡だ。

 第一には、関東地方から出土した装飾古墳だということ。

 現在知られる装飾古墳は、地域的偏在が著しい。全国約670基ある装飾古墳のうち、全体の半数をこえる計386基が九州地方(特に熊本県)に集中している(熊本県立装飾古墳館調べ。2013年1月28日付け朝日新聞による)。こうしたなかで、虎塚古墳は、東日本屈指の装飾古墳の一つなのだ。

 第二には、遺跡の保存・公開の両立を、長年維持してきた遺跡だということ。

 各地の研究機関では、装飾古墳の保存方法に頭を痛めているところが多い。樹木の根などによって石室内の壁画が損傷したり、カビ対策の不手際で壁画が劣化してしまったりなど。しかし、虎塚古墳の場合は発見から46年を経た現在も、壁画劣化のない良好な保存状態を維持し続けている。そして、1年のうち春・秋二回、石室内を一般公開している(ただし、内部には入れない)。こうした事例は、全国的にもまれだ。
 
 石室内部の一般公開期間はすでに終了していたため、古墳近くのひたちなか市埋蔵文化財調査センターに立ち寄り、実物大の石室レプリカを見学(入館無料、写真撮影可)。その後、桜の舞い散る中、虎塚古墳の周囲をぐるりとまわって、見えぬ壁画への思いをめぐらした。

2019年4月14日(日)
本業は?(ネズミ 3)

 江戸時代、もっとも有名な殺鼠剤が「石見銀山鼠取り薬」。行商人は、紺地に染めた木綿に「石見銀山ねずミとり薬」という白字を抜いた長さ5尺(約1.5m)ほどの小幡(こばた)をかつぎ、薬のはいった箱を持って売り歩いた。この行商人の呼び声が「いたずら者(=ネズミ)はいないかな」だった。

 石見銀山鼠取り薬は、江戸では馬喰町(ばくろちょう)三丁目に店を構える吉田屋小吉の製品が有名だった。だから、次のような狂句まである。 


   馬喰町いたつらものゝ名所なり
(『誹諧種ふくべ』天保15(1844)年刊)(注)


 しかし、吉田屋小吉の本業は別にあった。唄本などを販売する本屋だったのだ。詳細は板垣俊一「幕末江戸の唄本屋-吉田屋小吉が発行した唄本について-」(『県立新潟女子短期大学研究紀要』第38号、2001年所載)を参照(インターネットで閲覧できる)。

 ま、本屋が殺鼠剤を売っていても不思議はないよね。今だって、八百屋さんで学校の上履きを売っていたり、ジーンズ店で教科書を売っていたり、電気店で洗剤やらお菓子やらを売ったりしている所が多くあるのだから。これって多角経営?


(注)史料は、安田容子「江戸時代の戯文にみる鼠害対策と鼠に対する動物観」(『国際文化研究』第20号、2014年、P.238)から引用(同論文はインターネットで閲覧できる)。

2019年4月13日(土)
江戸時代のネズミ駆除(ネズミ 2)

 江戸時代、市井の人びとは、「いたずら者(ネズミ)」をどのような方法で駆除したのだろう。

 興津要(おきつかなめ)著『大江戸商売ばなし』(2013年、中公文庫)の「石見銀山鼠とり薬売り」の項を開くと、小咄本(こばなしぼん)から引用したふざけた駆除方法が紹介されている。

 まずは粉糠(こぬか)をよく炒(い)り、餅のりとすりまぜる。次に、これをわさびおろし器の裏表に塗(ぬ)りたくり、ネズミが出そうな棚などにそっと仕掛ける。すると、これをなめに来たネズミがなめるたびにおろし器にすりおろされ、最後は尻尾だけになってしまう、というのだ。

 こんな落語的方法でなく、もう少し現実味のある駆除方法が「枡落とし(ますおとし)」。これは、米や酒などを計量する枡を逆さにし、その一端を棒で支え、その下にネズミの餌を置く、という方法。餌を食べに来たネズミが棒に触れると棒が倒れ、枡がネズミの上に落ちかぶさって捕獲する、という仕掛けだ。

 しかし、こんなのんびりした仕掛けで、ネズミの猛威に本当に対処できたのだろうか。

 ちなみに『日本史のなかの動物事典』で「鼠」の項を開くと、鼠の駆除方法について次のように書いてある。


「現実には食品・家財の被害はやはり大きいから、鳥もち、毒餌、鼠落しなどで駆除し、ことに江戸時代には石見銀山産の砒素硫化鉄鉱を用いた殺鼠剤が、市中を旗を立てて売り歩かれ、その「いたずら者はいないかな」の呼声は、明治の子供たちにまで知られていた」
(金子浩昌外3名『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、P.61。千葉徳爾氏による記述)


 やはり、もっとも有効な駆除手段は、殺鼠剤だっただろう。こうして江戸時代後半、「石見銀山鼠取り薬」の名で知られた殺鼠剤が、「いたずら者はいないかな」と呼ばわる行商人の販売によって、一般家庭に普及していくことになった。

2019年4月12日(金)
いたずら者(ネズミ 1)

 「いたずらっ子」「いたずら小僧」というと、他人の家の塀にヘマムシヨ入道を落書きするような子どものことだ。これが「いたずら者」になると、意味ががらりと変わる。

 『広辞苑(第五版)』で「いたずらもの」を引くと「①役に立たないもの。②不義をする女」に続き、 「③ならずもの。無頼漢」、そして「④ネズミの異名」と書いてある。

 江戸時代、住所不定で定職にもつかず、おどしなどを働くごろつき(ならずもの)を「いたず(づ)ら者」といった。それがまたなぜ、ネズミの異名にもなるのか。

 『守貞謾稿(もりさだまんこう)』の「鼠取り薬」の項を開くと、殺鼠剤を売り歩く行商人の呼び声について、次のような説明がある。


「京坂
(けいはん)にて売詞(うりことば)に、

「猫いらず、鼠とりぐすり、云々
(うんぬん)」。

江戸も始めは同詞。今世はこれを云(い)はず、

「いたづらものは居なひかな」

と云ふ。今俗、破落戸
(ごろつき)(注)を云ひて、いたづら者と云ふなり。故(ゆえ)に鼠を破落戸に比(ひ)するの戯言(ざれごと)なり。今は専(もっぱ)らこれのみを云ふ。」(喜多川守貞著・宇佐美英機校訂『近世風俗志(守貞謾稿)(1)』1996年、岩波文庫、P.260)

(関西で鼠取り薬売りが商品を売り歩く時の呼び声は「猫いらず、鼠取り薬、云々」。最初は江戸でも売り言葉は同じだった。しかし、今の時代(天保年間以降)はこの言葉を言わず、「いたずら者はいないかな」と言うようになった。今、世間ではごろつきをいたずら者とよぶ。「いたずら者はいないかな」という売り言葉は、ネズミをころつきになぞらえたふざけた物言いだ。今は、もっぱらこの売り言葉のみを言う)



 つまり、江戸後期の殺鼠剤の行商人が、ネズミをごろつきになぞらえて「いたず(づ)ら者」と呼ぶようになった、というのだ。


(注)「破落戸(はらっこ)」は「零落した家の若者」の意。そこから「ごろつき、ならずもの」に意味が転じ、「ごろつき」の当て字になった。

2019年4月7日(日)
駕籠訴のマニュアル

 もしも、突然領主が「藩財政が逼迫しているから、租税率を引き上げる」と百姓たちに申し渡したとしたら。飢饉のあとで、それは無理だ、待ってくれ。しかし、何度嘆願しても、聞く耳をもたない。さあ、困った。こうなったら、村役人一同江戸に赴き、ご老中に村の窮状を越訴(おっそ)するしかない。しかし、出府してきたものの、村役人たちには一つ困ったことがあった。肝心の駕籠訴(かごそ)のやり方がわからないのだ。

 こうした場合、どうすればよいのだろうか。

 答えは、まずは公事宿(くじやど)を探す、だ。

 そもそも、訴訟人は公事宿(くじやど)に宿泊しないと、役所に出頭できないきまりになっていた。この公事宿に出入りし、訴訟人のサポートを生業にしていたのが公事師(くじし)。公事師は、訴状の書き方から駕籠訴の仕方、入牢する場合の心得まで、訴訟に関する細々した作法に精通していた。そうした内容は、江戸の公事宿紀伊国屋利八(きのくにやりはち)が書いたマニュアル本により、現在に伝わる。

 紀伊国屋利八が残したマニュアル本(写本)は『公事訴訟公用留(くじそしょうこうようどめ)』(早稲田大学所蔵)の名でインターネット上に公開されている。駕籠訴についての作法がよくわかるので、その部分を史料紹介しておこう。

 なお、史料は読みやすくするため、漢字は現行のものに改め、適宜句読点をつけてある。


  御駕訴心得方事
(おんかごそこころえかたのこと)

一、御寺社御奉行様始
(はじめ)、御勘定・御町共毎日御登城有之候間(ごとじょうこれありそうろうあいだ)、御門前ニて御様子篤(とく)と相伺(あいうかがい)、御用御仕舞御下之節(ごようおしまいおさがりのせつ)、御駕脇(おかごわき)御近習衆中(ごきんじゅうしゅうちゅう)、御願が御ざりますと声を上(あげ)、願書差上申候事(さしあげそうろうこと)

一、御老中様方ニ御駕訴仕候へ共
(おんかごそつかまつりそうらえども)、其日(そのひ)は御屋敷え留置(とめおき)、御膳被下(おぜんくだされ)、翌日懸(かかり)之御奉行所え御廻し被成候事(おまわしなられそうろうこと)

一、仮り牢
(かりろう)え参り候儀も御座候へ共、其座限りにて、其日之内ニ其筋え御廻し被成候。仮牢は三奉行所ニ御座候へ共、一夜も御留置被成義は無之候事(これなくそうろうこと)

一、御駕訴仕候者
(おんかごそつかまつりそうろうもの)は腰縄(こしなわ)ニて御吟味有之(ごぎんみこれあり)、則(すなわち)其侭(そのまま)ニて御引渡候事(おひきわたしそうろうこと)

一、御駕訴之義は御懸りニて不審
(ふしん)御吟味(ごぎんみ)有之。又は無体之御利解等(むたいのごりかいなど)被仰(おおせられ)、其(それ)より相起(あいおこ)り候義ニて、其(その)懸り之御殿様え御直訴仕候(ごじきそつかまつそうろう)ハ手順ニ御座候。尤(もっとも)右等之節は宿・親類等え早速御呼出(およびだし)(きた)り、御掛り役之御吟味不相抱(あいかかえず)、当人御引渡(おひきわたし)可有之候事(これあるべくそうろうこと)    


 蛇足ながら、要点は次の通り。

① 寺社奉行・勘定奉行・町奉行のいわゆる三奉行は毎日登城する。だから江戸城の門前で下城(げじょう。退勤)の機会を待ち受け、駕籠の脇にいる近習衆に向かって「御願いがござります」と声をあげて願書(訴状)を差し出すこと。
② 老中へ駕籠訴した場合、その日は屋敷に拘束されて食事が与えられる。訴状は翌日、担当奉行所へ回送される。
③ 仮牢(三奉行所にある)に入れられる場合も、訴状はその日のうちに担当奉行所に回送される。一晩拘束されるということはない。
④ 駕籠訴した者は腰縄をつけられる(軽犯罪者扱い)。取り調べ後、腰縄をつけたまま引き渡しになる。
⑤ 理不尽な命令などあった場合、まずは自分たちの領主に直訴するのが筋。直訴しても取り上げられなかった場合に駕籠訴というのが手順。取り調べ後は留置せず、直ちに親類等を呼び出し、当人引き渡しとなる。


【参考】
・『公事訴訟公用留』巻之上(早稲田大学図書館蔵)、2019年4月5日閲覧
     (http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wa03/wa03_06099/index.html)

2019年4月4日(木)
ヘマムシヨ入道

 たまたまテレビをつけると『にほんごであそぼ』(NHKのEテレ)。そこでは「へのへのもへじ」と歌っていた(歌の題名は「へのへの横丁」)。

 「へのへのもへじ」は、文字で人の顔を描く落書きの定番。番組アニメーションではそれに加え、「へのへのひろ し」や「へのへのぴーち」など、「へのへの」家族が次々登場していた。これを見て、「こうした文字でも顔になるとは、よくもまあ考えたものだ」と妙に感心してしまった。

 ところで授業に退屈した生徒が、ノートに落書きするのは今も昔も変わらない。

 江戸時代の庶民の私塾を寺子屋(てらこや)、先生を師匠(ししょう)、生徒を手習子(てならいご。または寺子(てらこ))といった。当時の学習方法は、退屈な反復練習が主だったため、幼い寺子たちはすぐに飽きてしまい 、師匠の目を盗んでは手習草紙(てならいぞうし。文字の練習帳)に落書きを始めてしまう。


  
師の影を三尺下がると人形かき(「三尺下がって師の影を踏まず」をふまえた)


という句は、師匠の目が届かないとついつい落書きを始めてしまう、そうした寺子の様子を詠んだもの。

 ただし、寺子たちは「へのへのもへじ」でなく、「ヘマムシヨ入道」を書いた。

 「ヘマムシヨ入道」は「ヘマムシヨ」で坊主の横顔を、草書体の「入道」でその体を描いたもの。「秋風や壁のヘマムシヨ入道」(一茶)の句があるくらい、落書きの定番の一つだった。

 次に引用する文章は、山東京伝作『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』(1803(享和3)年刊行)の 「ヘマムシヨ入道」の項。「ヘマムシヨ入道」を寺子屋に潜む妖怪に見立て、「ヘマムシヨ入道は授業中に寺子たちに落書きばかりさせ、ついには文字の読み書きができない人間にしてしまう恐ろしい化物(ばけもの)」としている。

 なお、原文はかな書きで読みにくい。そこで、読みやすいように漢字仮名交じり文に改め、適宜句読点を入れた(漢字の読みは現代仮名遣い、その他は原文のまま)。現代から見ると不適切な表現もあるが、当時の史料上の表現なのでそのままにしてある。


ヘマムシヨ入道は寺子屋に住みて、いたづらな手習子
(てならいご)の欠伸(あくび)を取り食らひ、退屈の時をうかがひて、手習草紙(てならいぞうし)の中(うち)に姿を現し、手習ひの邪魔をして、或いは居眠(いねぶ)りさせ、或いは無駄書きをさせて、つひには無筆(むひつ。文字が書けないこと)明き盲(あきめくら。文字が読めないこと)となす恐ろしき化物なり。子供衆(こどもしゅ)、必ず無駄書きをして此(この)入道に化かされ、一生明き盲となり給(たま)ふな。

 入道曰
(いわく)「これ、松さん(子どもの名前)。その手習草紙におれが形(なり)を書いてみな。お前(めえ)は絵心(えごころ)が無(ね)へから書き得(え)へやあしめへ」などと急(せ)かせる。鬼の留守には洗濯、お師匠さんの留守には横着だ。

(子供の台詞)「のらつき(だらけること)ばかり、良きものは無し」         」


【参考】
・早稲田大学蔵『怪談摸摸夢字彙』(インターネットで原文・画像が検索できる)など

2019年3月7日(木)
アムール川の流血

 帝政ロシアを、日本人に「野蛮国」と痛感させた事件がほかにもある。1900(明治33)年に起きたロシア兵による大量虐殺事件だ。当時は「アムール川の流血」と呼ばれた。

 折しも義和団の乱が勃発。義和団の快進撃を見た清朝政府は、義和団を支持。この機会を利用すれば、中国を食いものにする欧米列強を一掃できるかも知れない。そう考えた清国は、無謀にもロシアをはじめとする列強に対し、宣戦布告をした。

 事件は東部シベリア(ロシア)・満州(清国)の国境付近で起きた。露清両国間を流れるアムール川(黒竜江)を航行中のロシア船が、愛琿(アイグン。現、黒河市)の河岸付近で清国兵に銃撃された。ロシア軍は報復として、ロシア領内(対岸のヴラゴヴェシチェンスク)の在留清国人3,000人を惨殺し、アムール川に投げ込んだ。大量の死体が、あたかも筏(いかだ)のように川を流れ下っていったという。

 さらに露清国境で、ロシア軍は1万とも2万5,000ともいわれる清国人避難民を虐殺した。老若男女を問わぬ大量の死体が、これまたアムール川に浮かんだ。

 その後、ロシア軍は満州を占領。ロシアの残虐さをともなった一連の行動は、日本人に反露感情とロシアへの警戒感を強めさせた。ロシアは満州を奪い、その次は日本が利益線とする朝鮮を狙い、さらには日本へと侵略の手を伸ばすに違いない、と。

 「アムール川の流血」事件は、日本人に「残虐なロシア人」という恐怖心を植え付けた。日露開戦が現実味を増すにつれ、「ロシアと戦って負ければ、われわれ日本人も清国人と同じ目に遭う」という恐怖心を。

2019年3月2日(土)
スズメ・メジロ・ロシヤ・ヤバンコク

 日露戦争は当時、「文明(日本)と野蛮(帝政ロシア)の戦い」と評価された。
 
 帝政ロシアを「野蛮国」とするロシア観は、日本国民の間にも広く浸透していた。長く歌い継がれた子どもの手まり唄にも


「スズメ・メジロ・ロシヤ・ヤバンコク…」


とあるくらいだ。

 こうしたマイナス・イメージのロシア観は、いつ形成されたのだろうか。

 片山慶隆(かたやまよしたか)氏によれば、そうしたロシア観は新聞等のマスメディアを通じて、日露戦争前後から日本国民の間に広まった。そのきっかけの一つが、帝政ロシア下におけるユダヤ人虐殺・虐待の報道にあったという
(注1)

 その事件は、日露開戦の前年(1903)、バッサラビア地方のキシニョフ市で起こった。

 帝政ロシアでは、ユダヤ人迫害が年中行事のように続いていたが、今回の事件は突出していた。ユダヤ人の村が襲われ、女・子どもを含む49人が惨殺され、500人が負傷、700世帯が住居を失ったのだ。ニューヨークタイムズは「この大虐殺に伴う恐怖の場面は言い表せないほど」だと報じた
(注2)

 このニュースは日本にも伝わり、帝政ロシアのユダヤ人虐殺は「二十世紀の最大蛮行」(『万朝報』)であり、帝政ロシアは「世界人道の敵」(『毎日新聞』)と非難された。

 こうした国際世論の非難にもかかわらず、その後も帝政ロシア下ではユダヤ人に対する迫害が続いた。1903年から1909年までの6年間だけでも、約300件にのぼるポグロム(ユダヤ人大虐殺)が起こったとされる
(注3)

 こうして、「帝政ロシアは野蛮国」とするイメージが形成されたのだ。


【注】
(1)片山慶隆「日本のマス・メディアによる対露開戦論の形成」-『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)7巻1号2008年、P.71参照-
(2)・(3)
村岡美奈「日露戦争期のアメリカ・ユダヤ人-ダヴィデに例えられた日本」-『地域研究』(京都大学地域研究統合情報センター)14号2巻、2014年所収-による

2019年2月25日(月)
ドッガーバンク事件

 1904年10月21日の夕刻から翌22日深夜にかけてのこと。ドッガーバンク付近を航行中のバルチック艦隊が、イギリスの漁船団に誤って砲撃を加えるという事件が起きた。

 ドッガーバンクは、北海中央に位置する大陸棚。タラ・カレイなどの世界的好漁場として有名だ。バンクがややイギリスよりにあるため、この海域では連日のように、イギリス漁船団が操業をおこなっていた。

 当時は日露戦争のさなか。日本海軍に対抗するため、ロシアはバルト海を担当するバルチック艦隊の主力を割き、極東に向かわせているところだった。

 しかし、日本海軍は、どこから奇襲攻撃を仕掛けてくるかわからない。艦隊の乗組員たちは疑心暗鬼にとらわれていた。そうしたなかで事件は起きた。ドッガーバンク付近を夜間航行中に、漁船団を日本海軍の水雷艇(すいらいてい。水中で爆発させて敵艦を破壊する魚雷・機雷を積んだ艦艇)と誤認し、砲撃してしまったのだ。艦隊はやがて大変な誤りに気がついた。しかし、撃沈したトロール漁船や犠牲者たちを救助もせずに、艦隊はそのまま現場を立ち去ってしまった。

 事件が起きた21日は、イギリスではトラファルガー記念日。99年前のこの日(1805年10月21日)、トラファルガー沖でイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を撃破。ナポレオン1世のイギリス本土侵攻の野心を打ち砕くとともに、制海権をイギリスが手中にした記念日でもあった。トラファルガー広場にひしめく群衆は、「野蛮国ロシア」に対して断固たる措置をとるよう政府に要求した。

 ロシアに対する報復として、イギリスは本土・植民地へのバルチック艦隊の入港や、軍艦蒸気機関の主力燃料であった無煙炭(燃焼の際発煙せず、発熱量が大きい石炭。その供給のほとんどはイギリスが握っていた)の補給を拒絶した。無煙炭補給が困難となったバルチック艦隊は、その速力が数ノット落ちたといわれる。

 乗組員・武器・弾薬等を満載したバルチック艦隊は、イギリス支配下にあったスエズ運河を通行できず、アフリカ南端を遠回りして、はるばる極東に向かわねばならなかった。その間、燃料・水等の満足な補給ができず、港での十分な休養もとれなかった。赤道を二度も通過して日本海に到達したころには、乗組員たちは疲労困憊(ひろうこんぱい)して戦意を喪失していた。

 バルチック艦隊は、航行距離が少しでも短く、燃料消費を少しでも節約できる対馬海峡を通るルートを選択した。これを予測した日本の連合艦隊は、対馬沖でバルチック艦隊を待ち伏せしてこれを迎撃。歴史的勝利を得た。

2019年2月21日(木)
化粧品をねだる

 江戸時代後半、京橋南伝馬町にあった坂本屋が、白粉(おしろい)を売り出した。その銘柄は「仙女香(せんにょこう)」。女形(おんながた)の人気歌舞伎役者、瀬川菊之丞(せがわきくのじょう。3世。1751~1810)の俗称「仙女路考(せんにょろこう)」をもじった命名だ。

 発売元が草双紙の改め役だったこともあり、その顔を利用して、あらゆる出版物に仙女香の広告を載せまくった。そうした大量宣伝を皮肉った川柳が次。

  何にでも 面(つら)を出す 仙女香

 仙女香に関する川柳をもうひとつ。

  仙女香 十包ねだる ばかむすめ

 仙女香の値段は1包が48文。16文の蕎麦が3杯食える。それを10包も欲しがるというのだ。

 「馬鹿娘」が大量の白粉をねだったのは、白粉そのものが欲しかったからではない。別の理由があった。それは、10包買うと人気歌舞伎役者のサイン入り扇子が一本、発売元から客に進呈されたからだ。景品目当ての大量購入だったのである。

 現在でも、人気アイドルとの握手券欲しさに、同じCDを何百枚も買う熱狂的なファンがいる。

 ファン心理につけ込む商売方法は、今も昔も変わらない。



【参考】
・板垣俊一「幕末江戸の唄本屋-吉田屋小吉が発行した唄本について-」(県立新潟女子短期大学研究紀要 第38号、2001年)

2019年2月20日(水)
変わる百姓一揆像

 昨今の実証的な研究の進展で、われわれの「百姓一揆」像は大きな変更を迫られている。

 保坂智(ほさかさとる)氏によれば、天草・島原一揆を最後に、「一揆」という文言は使われなくなるという。そもそも、「百姓一揆」という言葉は後世の人びとによる命名で、江戸時代に「百姓一揆」という言葉はなかった。

 それなら、「百姓一揆」に相当する言葉は、当時何と呼ばれていたのか。

 現在では、「幕藩領主が使用した徒党(ととう)・強訴(ごうそ)・逃散(ちょうさん)を百姓一揆と呼ぶべきだ」とする保坂氏の提起が定説になっている。徒党は百姓が大勢で申し合わせる行為、強訴は徒党の上訴願する行為、逃散は申し合わせた上村を立ち退く行為をいい、これらは幕藩領主によって禁止された違法行為だった。

 かつて青木虹二(あおきこうじ)氏の研究に依拠して「江戸時代には3,000件以上の百姓一揆がおきた」と説明されてきた。しかし、この中には合法的な訴訟も含まれていた。これらを除いて、改めて数え直した須田努(すだつとむ)氏の報告によると「江戸時代の百姓一揆(徒党・強訴・逃散)は1,430件」だったという。百姓一揆の件数は、従来の半分以下になってしまった。

 このほかにも、代表越訴型百姓一揆は史料上確認することができない、百姓一揆に竹槍蓆旗(たけやりむしろばた)は携行されなかった、そもそも近世の百姓一揆の本質は非暴力的なものだった等、百姓一揆のイメージは大きく変わりつつあるのだ。


【参考】
・若尾政希『百姓一揆』2018年、岩波新書の「第2章 百姓一揆像の転換」参照

2019年2月19日(火)
クレオソート丸

 日清戦争(1894~1895)で多くの将兵の命を奪ったのは、清国軍の大砲ではなく、脚気だった。ビタミンの概念がなかった当時、脚気の原因は未知の微生物による感染症だろうと考えられた。

 幕末に、長崎のオランダ商館を通じてわが国もたらされたクレオソート(イヌブナなどの木材を乾留して得られる)には、強力な殺菌作用があった。たまたまチフス菌抑制に効果があることがわかった。これなら脚気予防にも効果が期待できよう。そう考えた軍は、従軍する将兵たちに、このクレオソート丸薬を配布し、毎日服用させることにした。独特な刺激臭が特徴的なこの丸薬は、日露戦争(1904~1905)という時節がら「征露丸(せいろがん)」 と呼ばれた。征露は「ロシアを征伐する」の意である。

 征露丸は脚気予防に対してはまったく無力だった。しかし、下痢止め・歯痛鎮静には抜群の効果を発揮した。帰還将兵たちによってその薬効が戦争体験談とともに伝えられると、この丸薬は一般家庭にも広く普及していった。

 現在、この薬の名称は「正露丸」と改められている。しかし、なかには「征露丸」の名称で販売している製薬会社もあるという。

2019年2月17日(日)
井桁(いげた)の商標

 漢(前漢)の皇位を簒奪(さんだつ)して新を建国した王莽(おうもう)は、銭に刻まれた「金刀」の文字を不吉と考えた。漢の姓「劉(りゅう)」を分解すると「卯金刀(ぼう・きん・とう)」となるからだ。そこで銭の文字を「泉貨(せんか)」と変えた。

 「泉貨」という文字を分解すると、「白水眞人(はくすいしんじん)」となる。反乱を起こした劉秀(りゅうしゅう)は「白水郷」で挙兵し、新を滅ぼした。漢(後漢)を再興した光武帝である。この故事から、「白水眞人」は銭の隠語となった(加納喜光『見て味わう漢字の満漢全席』1995年、徳間文庫、P.265)。

 さて、江戸時代の豪商住友は、銅精錬業・銅商で財をなした。その屋号を「泉屋(いずみや)」といった。住友創業者のひとり、蘇我理右衛門(そがりえもん)に、新しい銅精錬法である南蛮吹(なんばんぶき)を教えた中国人「白水」の名に由来するという(諸説あり)。

 住友はまた、商標に「菱井桁(ひしいげた)」を用いた。井の字を菱形にしたものだ。泉屋の「泉」の縁(えん)から、滾々(こんこん)と水が湧(わ)き出る「井戸」を連想したのだ。
 
 「井桁」は、商人のあいだで人気のあった商標だ。「泉」「白水」は「白水眞人」の故事から貨幣を象徴する。だから、泉のように貨幣が湧き出る縁起がよい商標として、「井桁(いげた)」を採用する商人が多かったのだ。

2019年2月10日(日)
ぼてふり(2) 「ぼて」ってなに?

 「ぼてふり」を漢字で書くと「棒手振」。しかし、これは当て字だ。商人が担(かつ)いでいる天秤棒に引かれて「棒手」と書いてしまい、そこから「担いだ天秤棒を振り振り行商する零細商人」というイメージがついてしまったのだろう。 

たとえば、関西では、野菜や魚を入れた笊(ざる)を天秤棒からぶら下げ、売り歩く商人を「笊振(ざるふり)」といった。「振る」のは天秤棒ではなく、ぶら下げている「笊」の方だ。それなら「ぼてふり」は、「ぼて」を「振る」から「ぼてふり」というのだろう。 

それでは「ぼて」とは何だろう。『近世風俗志』には次のようにある。
 

「三都(江戸・大阪・京都)ともに、小民の生業に賈物(こぶつ。商品のこと)を担(にな)ひあるひは負うて市街を呼び巡(めぐ)る者はなはだ多し。( 中略 ) また京坂にては、この小賈(しょうこ。小商人)をすべて「ぼてふり」と云(い)ふ。江戸にては魚の担(かつ)ぎ売りのみを「ぼて」と云ふ。また京坂にて魚および菜蔬(さいそ。蔬菜。野菜のこと)の担ぎ売りを笊振(ざるふ)りと云ふ。籠(かご)の紙張類を京坂にて詳(つまび)らかに云ふ時、はりぼて、略してぼてとも云ふ。」(喜多川守貞『近世風俗志(1)』1996年、岩波文庫、P.246~247)
 

上の史料によると「商品を担(かつ)ごうが背負おうが、商品名を連呼して市街を売り歩く小商人(すなわち振売(ふりうり))を、京坂ではすべて「ぼてふり」といった。江戸では魚を天秤棒で担いで売る者だけを「ぼて」といった。また、京坂では魚・野菜を担ぎ売りするものを笊振(ざるふり)といった」と書いてある。

続けて「ぼて」について、「籠に紙を張るなどしたものを京坂では「はりぼて」といい、略して「ぼて」ともいう」と書いてある。

つまり「ぼて」とは紙張りした籠のことなのだ。

2019年2月9日(土)
ぼてふり(1) 三人の行商人
 今日は昔話を一つ。

 むかしむかし、あるところに新茶を売る行商人がいた。

 「新茶、新茶、新茶」

と商品名を連呼しながら歩いていると、うしろの方からついてくる男が

 「古い、古い、古い」

と呼ばわる。これでは、営業妨害もいいところだ。そこで、喧嘩になった。

 あとから歩いて来た男も行商人。実は、篩(ふるい)を売っていたのだ。 

 その喧嘩の仲裁に入った男が、これまた行商人。古い金属類を回収する古鉄買(ふるかねかい)だった。

 意気投合した三人は、一緒に旅をすることにした。

 新茶売りが

 「新茶、新茶、新茶」

と触れ歩く。その次には篩売りが

 「ふるい、ふるい、ふるい」

と触れ歩く。そして最後に古鉄買いが

 「ふるかねー、ふるかねー、ふるかねー
(古くはない)

と触れ歩いた。それで三人とも商売が上手くいったという。メデタシ、メデタシ。


 

 上記の新茶売りや篩売り・古鉄買いなどのような、商品名を連呼しながら売り歩く行商人を「振売(ふりうり)」といった。

 そうした振売のなかでも、天秤棒の両端にヒモでぶら下げた笊(ざる)や籠(かご)に魚や野菜を入れ、それを担(かつ)いで売り歩いた商人は「ぼてふり」ともいった。漢字では一般に「棒手振」と書く。

  せっかくの努力や成果が無になってしまうことを「棒に振る」というが、この語は棒手振の零細経営に由来するとされる。しかし、その理由がわからない。とりあえず、インターネットで検索すると、「棒手振は商品のすべてを売り切ることが前提なので、売り切って手元に何も残らないことから転じて全財産を失う意味になった」とか「いくら良い商品を売っても安く買いたたかれて、結局店を持つにはいたらない。一生、天秤棒をふって行商する羽目になるから」とか書いてある。しかし、残念なことに、どこにも典拠となる史料が示されていない。

  ただ、本当に棒手振の「天秤棒を振る」生活に由来するなら、「棒振る」ではなく「棒振る」ではないのかな。

2019年1月5日(土)
コラーゲン

 福岡伸一氏『新版動的平衡』(2017年、小学館新書、P.66~69)を読んでいたら「沖縄の野口貝塚(約6,000年前にさかのぼるという)から家畜化されたイノシシの骨が発見された」という記述にであった。こんな古い時代に、沖縄ではすでにイノシシが家畜化されていたのだ。不明を恥じるが、この事実は私にとっては初耳だった。

 同書によれば、この事実を解明したのは、北海道大学の南川雅男(みながわまさお)教授。
その分析法は次の通り。

 南川氏は、イノシシの骨の内部に残っていた微量なコラーゲンを抽出し、そこに含まれる炭素を分析した。コラーゲン中に含まれる炭素は、イノシシの食べた炭水化物の炭素に由来する。

 そもそも炭素には、質量数の異なる同位体がある。自然界で大部分を占めるのは質量数12にもので、わずかに質量数13のものが存在する。それらは二酸化炭素という形で大気中に散在している。ところが植物が光合成を行う際、一般の植物は炭素をえり好みしないが、トウモロコシやヒエ・アワといった雑穀類は、質量数13の炭素を多く吸収する。
 

 野国貝塚のイノシシの骨のコラーゲンからは、質量数13の炭素がたくさん検出された。野生植物のみ常食していたなら、質量数13の炭素がこれほど検出されることはない。この結果は、野国貝塚のイノシシが、農耕によって収穫された穀物を食べていたことを示す。つまり、人間によって家畜化されていたのだ。
 
 ところで、コラーゲンたっぷりの食材を入れた鍋を囲んだご婦人方が「これでお肌がぷるぷるよ」などとのたまっている図を、テレビなどでよく見かける。しかし、食べたコラーゲンがそのままの形で人間のコラーゲンに置き換わることはない。コラーゲンもタンパク質。食べれば消化器官の中で分解されてしまうのだから。

2019年1月3日(木)
縁起直し
 ささいなことで、いちいち腹を立てるのはつまらない。ものは考え方、心のもちよう次第でどうにでもなる。次は『醒睡笑(せいすいしょう)』に載せる話。


 ある年の元日、信長が雑煮の膳にすわった。見ると、箸が一本しかない。激怒した信長が問う。

 
「これは何者のしわざぞ」(これは誰のしわざだ)
 

 木下藤吉郎(秀吉)が、答える。


「御機嫌あしきはさる事ながら、当年より諸国をかたはしどりになさるべき瑞相
(ずいそう)なり」
(ご立腹はもっともですが、片箸(かたはし。箸が片一方)なのは、信長公が当年より諸国を片端(かたはし。かたっぱし)取りにする、という吉兆(めでたいことが起きるしるし)でございましょう)

 これを聞いて、信長の機嫌が直った。秀吉の予想通り、その年から諸国は次々と信長の支配下に入ったという。

【参考】

・安楽庵策伝著・鈴木棠三校注『醒睡笑(下)』1986年、岩波文庫、P.264