あれやこれや 2018 

 今年は明治維新150周年目にあたり、さまざまな華やかなイベント企画があるとか。

 その一方で、来年、平成が最後の年を迎えます。また、一つの時代が、区切りをつけようとしているのです。

 明治・大正にひき続き、昭和そして平成までもが足早に過ぎ去りつつある今、ある種の感傷に浸っているのは、私ばかりでしょうか。 
2018年12月30日(日)
「お札(ふだ)」になった「お札(さつ)」

 1877年(明治10)年、西南戦争がおこった。戦費不足に悩んだ西郷軍は、宮崎県佐土原で6種の軍票(10円・5円・1円・50銭.20銭・10銭)を発行した。俗にいう「西郷札(さいごうさつ)」だ。その総数は9万3,000枚、総額は14万2,500円にのぼったという。

 戦後、強制的に流通させられた地元民から、西郷札の損害賠償申請がなされた。しかし、明治政府は賊軍発行のゆえをもって、この申請を却下した。西郷札は単なる紙切れとなった。

 その3年後、『有喜世新聞(うきよしんぶん)』に載った話である。

 ある大阪商人が、財布に西郷札を入れていた。お守り代わりだったという。ところがうっかり、薬屋で使ってしまった。あとで気がつき、あわてて薬屋に戻ると、店主がくだんの西郷札を神棚に祭って拝んでいた。どちらも西郷隆盛ファンだったのだ。両者の間で返せ・返さないの押し問答の末ようやく示談になり、西郷札はもとの持ち主の手元に戻った(以上、種村季弘による)。

 当時は紙切れだった西郷札。現在は史料的価値から値打ちが出ているという。ちなみに、インターネットを検索すると、あるサイトでは西郷札の査定価格を「約10,000円~約100,000円」としてあった。

 神棚の奥を掃除して、もし西郷札が祭ってあれば、西郷どんからの思わぬお年玉となるね。

【参考】
・NHK大河ドラマ特別展『西郷(せご)どん』図録、2018年、P.184
・種村季弘「ありがたいお札(さつ)・迷信博物館③」-『月刊QA』1985年2月号、P.31-

2018年12月16日(日)
武田神社に置かれたキャラクターは

 先日突然、甲府市から荷物が届いた。荷物をとくと中には武田信玄を描いたTシャツ。同封された通知文書によると、


 この度は、「KOFU×BASARAスタンプラリー(後期)」にご参加下さいまして、誠にありがとうございました。厳正なる抽選の結果、天覇絶槍賞(幸村賞)にご当選されましたので、本通知とあわせて賞品をお送りさせていただきます。


とあった。

 そういえば今年の10月、甲府に行ったっけ。来年(2019年)、甲府は開府500年を迎えるという。それを記念するイベント行事の一つとして、スタンプラリーを企画したという。駅前の観光案内所でイベント用紙をもらったので、昇仙峡やら山口県立美術館やら武田神社やらを巡るついでに、スタンプをペタペタ押してきたのだ。ただ、賞品をいただいておきながらツッコミを入れるのも大人げないが、「幸村賞」なのになぜ真田幸村のグッズでなく、武田信玄のTシャツなのだろう。

 ツッコミと言えばもう一つ。武田神社に行った時のこと。武田神社は躑躅崎館跡(つつじがさきやかたあと。武田氏館跡)に建てられた神社で、武田信玄を主祭神とする。史料館に「風林火山」の軍旗があるというので見に行ったが、訪れた時間が遅く、すでに閉館していた。そこで気になったのが、見られなかった軍旗よりも、史料館前に置かれていたキャラクター。

 なぜなら信玄公ではなく、ハロー・キティの石像だったからだ。 

2018年11月23日(金)
法皇御万歳

 去る11月3日(土)、千葉大祭に行ったときのこと。工学部棟で「千葉工匠具」の展示・実演があった。そこには金切鋏(かなきりばさみ)や包丁の切れ味体験コーナーがあり、来場者が鋏で空き缶をジョキジョキ切っていた。

 その金切鋏には「君萬歳(きみばんざい)」の銘が刻してあった。その銘の由来は、学生の説明によると次の通り。

 日露戦争(1904~1905)中、203高地の攻防戦において、ロシア軍の鉄条網が日本軍の行く手を阻んだ。その鉄条網を切り開いて、日本軍の勝利に貢献したのがこの金切鋏だった。そこで「天皇陛下、万歳」の意味を込めて「君萬歳」と銘打つことにした、と。

 ところで、掛け声としての「万歳(ばんざい)」が始まったのは、日露開戦の15年前。大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)年2月11日とされている。この日皇居前で、一高教授の和田垣謙三(わだがきけんぞう)博士の提案により、一高生たちが行った万歳三唱が最初という。しかし「万歳」を「ばんざい」と読むようになったのはこの時以来のこと。それ以前は「ばんぜい」とか「まんざい」と読んでいた。「まんざい」の読みは、三河万歳(みかわまんざい)や現在の漫才(まんざい)に継承されている。(村石利夫『知ってなるほどの語原1000』1995年、講談社+α文庫、P.74による)

 本来「万歳」は、文字通り「1万歳までも生きる」という意味であり、皇帝などの長寿を祈る表現だった。しかし、この世の中に1万年も生きる人などいない。そこで「万歳」は人の死を意味する婉曲表現となった(阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、P.169~171による)。

 1190(建久元)年、精兵一千余騎を引き連れて入京した源頼朝は、全国の武士に命令できる征夷大将軍職への就任を願う。しかし、後白河法皇はこれを許さず、頼朝を右近衛大将(うこのえたいしょう)および権大納言(ごんだいなごん)に任命した。日を経ずしてさっさと両方を辞職した頼朝が、摂政九条兼実(くじょうかねざね)に語った言葉が次。


「いまの世は法皇が思うままに天下の政治をとり、天皇(注:後鳥羽天皇)とても皇太子と変わりのないありさま。目下のところはいたしかたないが、さいわいにあなた(注:九条兼実)もまだまだお若くて先はながい。わたくしにも運があれば、法皇御万歳の後にはいつかかならず天下の政を正しくする日がやって来るでしょう」(石井進『日本の歴史7・鎌倉幕府』1974年、中公文庫、P.197)


 この場合の「法皇御万歳」は、後白河法皇の死を意味する。

 「法皇御万歳」の日は、思いのほか早くきた。2年後の1192(建久3)年、頼朝が「日本一の大天狗」と罵った後白河法皇が世を去った。ゆえにこの年、頼朝は念願の征夷大将軍に就任できたのだ。

2018年10月8日(月)
「ハチ」でなくて「かそりーぬ」

 加曽利貝塚に行ってきた。

 加曽利貝塚は千葉県千葉市若葉区桜木2丁目及び8丁目に所在する。地形的には、海岸線から都川、支流の坂月川を7kmほど遡った標高30m前後の下総台地の縁辺部に位置する。


 そもそも全国には約2,400カ所にのぼる貝塚が存在する。そのうち700カ所以上の貝塚が、東京湾沿岸に集中している。全国の約1/3に相当する数だ。その中でも加曽利貝塚は、わが国最大級の規模を誇る貝塚の一つだ。

 加曽利貝塚は、直径約140mの環状貝塚(北貝塚)と長径約190mの馬蹄形貝塚(南貝塚)から成る。遺跡を上空から見ると、両貝塚が連結して、「8(ハチ)」の字状を呈している。

 「ここに貝のむき身工場があったのではないか?」。そう思わせるほど、地中にはハマグリやイボキサゴなどの貝殻層が厚く堆積していた。

 加曽利貝塚から出土するのは貝類ばかりではない。人骨・獣骨・土器・石器等、注目すべきさまざまな遺物が出土している。

 そうした出土物の一つに、ていねいに埋葬された犬の化石があった。人間と犬が、縄文時代にはすでにパートナーだったことを示す証拠となるものだ。


 この犬の化石出土にちなんで、千葉市ではゆるキャラ「かそりーぬ」をつくった。「加曽利犬(かそりいぬ)」からの命名だろう。千葉市立加曽利貝塚博物館で入手したパンフレット(千葉市教育委員会生涯学習部文化財課「加曽利貝塚」平成29年発行)には、そのプロフィールが次のように記載されている。


「お仕事 こうむいん。千葉市長から加曽利貝塚PR大使を任命。
 縄文時代中期の「加曽利E式土器」を頭にかぶり、貝塚で一番数の多い「イボキサゴ」という貝の首飾りをつけて、加曽利貝塚の魅力と素晴らしい縄文スタイルを、いろんな場所でみんなに広めていきます!」



 あ、そうか。かそりーぬは「こうむいん」なんだ。それなら、その他のゆるキャラたちも、そのほとんどは「こうむいん」? 「ゆる」キャラとは言いながら、その職業はずいぶんと「お堅い」。

2018年10月6日(土)
簡単

 かな文字で一番簡単な文字は「し」であろう。この「し」の字をいかに書くかが、能書(のうしょ)とよばれる人びとの腕の見せどころであった。

 鴨長明(かものちょうめい)の『無名抄(むみょうしょう)』には


  たとへば、能書の書ける仮名のし文字のごとし


という表現がある。

 これは、「能書の人の書いた「し」の一字が、長々と引かれて、たぐいなく美しいという表現」なのだという(小松茂美編『日本の名随筆64 書』1988年、作品社、P.250「あとがき」による)。先の言葉に続けて、長明は「さして力を加えたり、特別な筆使いをしてところもないのだけれど、ただおどやかに口数少なで、しかもうまいのだ」という解説を加えている。

 小松茂美氏自身も、現代仮名書壇最高と評される日比野五鳳(ひびのごほう。手島右卿・西川寧とともに「昭和の三筆」のひとり。1901~1985)氏の書いた「さながら、針を打ち込んだような、垂直の力強くたくましい」「し」の字に、異常な感動を覚えたという(前掲書)。

 「し」という文字は簡単だ。一見すると誰にでも書けそうだ。しかし、能書家が書くと、そうした簡単な一文字にさえ、積年の鍛錬の果てに到達した技芸の極致が込められる。それが、知らず知らずのうちに、鑑賞者を圧倒するということなのだろう。

 ところで、「簡単」というのは何だろう。

 古代中国では、文字を記録する際、竹や木を薄く削いだ札に文字を書いた。この札を「簡」といった。一枚しかない状態が「簡単」だ(山本昌弘『漢字遊び』1985年、講談社現代新書、P.168による)。

 一枚の「簡」に書くことができる文字数はせいぜい20~30字。「簡単」には多くの情報は書き込めない。そこで「簡単」は、単純なこと、わかりやすいことの意味になった。情報量が多い複雑な内容を書く場合には、何枚もの「簡」を革紐で綴じて本にするようになった。

 ところで、一枚の「簡」なら「簡単」でなく、「単簡」じゃないのかな? 

2018年9月23日(日)
下野(しもつけ)の国庁跡をたずねて

 栃木県に行き、下野国庁跡に立ち寄った。国庁の前殿(ぜんでん)が復元されている。しかし、公園は一面雑草だらけ。それも膝丈上までのびている。手入れが追いつかないらしい。近くに下野国国庁跡資料館(栃木市田村町300番地)がある。しかし、見学者はほかにはおらず、閑散としていた。立派な史跡・資料館なのに何とももったいない。

 このあと下野市に行き、下野国分寺跡・同国分尼寺跡・しもつけ風土記の丘資料館(下野市国分寺993)・下野薬師寺跡・下野薬師寺歴史館(下野市薬師寺1636)等を順次見学した。史跡はいずれも「国指定史跡」だ。

 途中、「岩下の新生姜ミュージアム」で昼食をとった。史跡の方では人影をほとんど見かけなかったが、こちらの方は大勢の人でごった返していた。館内の展示がインスタ映えするとかで、あちらこちらでスマホのカメラシャッターがひっきりなしに切られていた。


 民間の施設では、集客のために展示や宣伝等にさまざまな工夫をこらしている。せっかく価値ある史跡を数多く保有していても、見学者が少ないのでは宝の持ち腐れだ。栃木県や栃木市・下野市には有能な人材が豊富と聞く。文化財周知のために、もっともっと頑張ってもらいたい。

2018年9月9日(日)
行不由径

 今日の新聞を開いたら、『大漢和辞典』デジタル版の予約受付の全面広告が目に飛び込んできた。明日9月10日は、『大漢和辞典』第1巻が刊行された日だという(明日が新聞休刊日なので、本日の新聞に広告を掲載したのだろう)。そこにあったのが次の言葉。


  行不由径
(『論語』)


 「行くに径(こみち)に由(よ)らず」と読む。「安易な近道を選ばず、遠回りに見えても大道を歩む」という意味だ。

 孔子の弟子の一人子游(しゆう)が、武城(山東省費県南西)の宰(とりしまり)になった。「よい人物を得られたか」という孔子の問いに、子游が澹臺滅明(たんだいめつめい)なる人物を評したときの言葉。彼は「歩くには近みちをとらず、公務でないかぎりは決して偃(えん。長官である子游)の部屋にはやってきません」(金谷治訳注『論語』1963年、岩波文庫、P.82)と。彼の公明正大な人柄を、「行不由径」という言葉で示したのだ。

 「行不由径」という信念をもっても、現実には報われる人びとの数は少ない。その信念ゆえに、かえって災厄に遭遇する人々さえいる。それにもかかわらず、この言葉を座右の銘とし、己の信じる道を邁進した人がいる。諸橋轍次(もろはしてつじ。1883~1982)博士だ。

 博士は安易な妥協を拒み、わが国最初の本格的大漢和辞典(全13巻。のち15巻)を完成させるまで、苦難の道のりを歩んだ。その経緯は、辞典に付された序文と出版後記に詳しい。ここでは拙い説明を控え、新聞広告文の一部を引用するにとどめる。


 戦時下の1943(昭和18)年9月10日。資材が欠乏する困難な状況の中、『大漢和辞典』巻一が刊行されました。引き続き、巻二以降の刊行準備が進められましたが、戦局は激しさを増し、ついに1945(昭和20)年2月25日、空襲により印刷所が被災。印刷用に組み上げていた1万5000ページにおよぶ活字組版の一切が、約100トンの鉛の塊と化しました。


 戦後、ここから再スタートした博士は、右目失明という苦難をのりこえ、ついに『大漢和辞典』完成という偉業を成し遂げた。この大事業の完成には、ひとえに「行不由径」という博士の強い信念があったのだ。

 博士が書き残したもう一つの言葉がある。

 博士は亡くなる直前の1981(昭和56)年、茗渓会(めいけいかい。現在の筑波大学の同窓会)から創設百周年祝典の記念品にする扇子への揮毫を求められた。その時、扇子に書き付けた言葉が次。


 
(ぼく)として清風の如し


 穆は、人柄でも事業でも、人目につかないが自然に深い影響をほかに及ぼすさまのこと。まさに『大漢和辞典』出版事業のごときものではなかろうか。

 わが家にも『大漢和辞典』13巻本がある。若い頃、乏しい給与から何とかやりくりしつつ買ったものだ。最近は手に取る機会がめっきり減った。久しぶりに序文と出版後記を読んで、人生に立ち向かう勇気をもらおうか。

【参考】
・斎藤兆史(さいとうよしふみ)『努力論』2007年、ちくま新書、P.187~188
・紀田順一郎『翼のある言葉』2003年、新潮新書、P.16~17
【注】
・『大漢和辞典』の序文と出版後記は、大修館書店のHPでも見ることができます。

2018年9月8日(土)
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し…

  鳥は向かい風の中、飛び立つ


 歌手の谷村新司氏の言葉だという(竹中平蔵『竹中式マトリクス勉強法』2008年、幻冬社、P.208)。向かい風によって浮揚力がつくことで、鳥は高く飛べる。人間の成長も同じ。逆境に立ち向かう覚悟が人を大きく成長させるのだ。

 ところで、日本史のなかに登場する鳥は、空中を浮遊すると考えられた霊魂との共通性から、あの世とこの世を行き来する存在と見なされてきた。我々の祖先が「ツバメやガンなどの渡り鳥は常世国(とこよのくに)から飛来する」と考えたのも、こうした思想の延長線上にあるものだろう(平凡社大百科事典の「鳥」の項など参照)。
 

 そのような鳥の中でも長い尾羽根が特徴的な山鳥は、凶事をもたらす一方で、そうした凶事を撃退する力もあわせ持つとする両義的な性格を有していた。たとえば一条天皇の御前に飛び込んで来た山鳥は、凶事のものとして、滝口の武者によって直ちに除かれてしまった。その一方で、魔障退散の際に使用する弓矢の矢羽根にも、山鳥の尾羽根が使用された。説話上の話だが、源頼政が「変化(へんげ)の物」を射たのも、山鳥の尾羽根を使った矢であった(以上、高橋昌明『武士の日本史』2018年、岩波新書、P.260による)。

2018年9月3日(月)
アメ・サメ・ダレ・グレ

 最近、豪雨や雷雨が頻発している。こんなに雨にたたられる年も、珍しい。そういえば、川柳の中にも「雨」を四つもよみ込んだものがあった。


   同じ字を雨・雨・雨と雨て読み


 これは「同じ字をアメ・サメ・ダレとグレて読み」と読むんだそうな

 アメは雨を普通に読んだアメ。サメは春雨(ハルサメ)・秋雨(アキサメ)・霧雨(キリサメ)などのサメ。ダレは五月雨(サミダレ)のダレ。グレは時雨(シグレ)のグレだという。また、「グレて」には「人が悪の道に入る」意の「ぐれる」との洒落になっていて、「雨」という漢字をさまざまに読むことへの当てこすりになっているという(山本昌弘『漢字遊び』1985年、講談社現代新書、P.11~12)。

 明日から明後日にかけては、台風の本州直撃で荒天の予報。川柳みたいに雨ばかりの毎日では、グレるどころか腐ってしまいそうだ。

2018年9月2日(日)
風切り鎌

 猛烈な台風21号が日本列島に接近している。このまま北上すると、9月4日(火)に上陸する可能性が高いという。

 昨日9月1日(土)は、暦の上では二百十日。この日は10日後の二百二十日や八朔(はっさく。旧暦の8月1日)と並んで、台風シーズンへの注意喚起のための厄日(やくび)として、昔から人びとの間に記憶されてきた。

 これらの日には、風日待(かざひまち)・風籠り(かぜこもり)・風祭(かざまつり)・風鎮祭(ふうちんさい)などと称する行事が各地にあった。共同飲食しながら神社にこもったり、神前に団子を供えたり、念仏をとなえたりするなど、地域によってその内容はさまざまだ。しかし、いずれの行事も、農作物の風害よけを祈願したのである。

 その際、諏訪信仰の広がる地域では、竿の先に鎌をくくりつけて棟や軒に立てておく風習があったという。これを「風切り鎌」といった。鎌に、風の力を弱める呪力を期待したものらしい(そういえば、法隆寺五重塔も相輪のところに鎌が取り付けてあった。ただし、こちらの鎌の役割は、雷避けのまじないという)。

 それはともかく、わが家の錆び鎌では、そよ風さえも防げそうにない。台風対策には、まずはしっかり戸締まりすることの方が重要だ。

【参考】
・平野恵理子『歳時記おしながき』2016年、学研プラス、P.126~127

2018年9月1日(土)
送り火にこめられた思い

 大文字をはじめとする京都五山の送り火(大・妙法・鳥居・舟・左大文字)は、1489(延徳元)年に夭逝した将軍足利義尚の菩提を弔うため、足利義政の臣芳賀掃部頭(はがかもんのかみ)が点じたのが起源とされる。ただし、この送り火行事は、文献的には17世紀初頭までしか遡るができず、確かなことは不明だ。

 この大文字には、「盂蘭盆会(うらぼんえ)の送り火」という目的以外に、京都町衆の思いが込められているのではないか。そのように感じた林屋辰三郎氏は、次のように述べている。


「祇園会が下京町衆のものならば、大文字は上京町衆のものであり、ともに古い「都」にからまった身分的束縛をうちやぶって自分たちの「町」をつくりえた喜びを、異なった情趣によって表現したといってもよい。それは盂蘭盆の送り火にはちがいないけれども、「舟」は精霊舟というよりも海外貿易の朱印船のように思われるし、「妙法」は町衆たちの法華信仰を率直にうちだしているといわねばならない。町衆たちは、それこそここに「大」きな望みをもやしつづけたのである。」
(同氏『町衆』)


 こうして京都町衆の祭りや行事は町衆自身の手で守り抜くしかないという確信が生まれ、それが現在までつづく伝統につながったのだろう。

【参考】
・林屋辰三郎『町衆』1964年、中央公論社(中公新書)、P.162~164

2018年8月31日(金)
蛤御門(はまぐりごもん)

 口をつぐむことを「貝になる」という。『私は貝になりたい』という映画もあった。これらの場合、一体何の貝をイメージしていたのだろう。

 蛤(はまぐり)のように固く閉ざした御所の門を、蛤御門(京都市上京区)という。幕末、禁門の変(1864)の舞台となったことで有名。

 正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」。蛤御門は俗称だ。もともと、開かずの門だった。それが、宝永大火(1708)時に開門されたところから、焼けて口を開ける蛤にたとえて蛤御門と呼ばれるようになった。以上が定説だった。

 ところが近年、京都産業大学特別客員研究員の長谷桂氏によって、この定説が覆った。「蛤御門」の名称が17世紀末の史料(つまり18世紀初頭の宝永大火よりも古い)の中に確認されたのだ。その上、17世紀後半の御所の絵図面に、開門された状態の蛤御門が描かれていた。蛤御門が、そもそも開かずの門ではなかった可能性が出てきたのだ(以上、インターネット上の毎日新聞2016年5月15日付けによる)。

2018年8月30日(木)
天文法華の乱(1536)

 日親の布教以来、京都では法華宗が急速に信者を獲得していった。16世紀の前半、京都の町衆のほとんどが法華宗信徒だったといわれる。

日蓮の開宗以来、法華宗は「念仏無限、全天魔、真言亡国、律国賊」(四箇格言)と唱え、他宗派に対して非寛容・戦闘的な性格をもっていた。室町幕府や戦国大名たちは、法華宗のこうした性格から、宗教集団を一つの武装集団として利用しようと考えた。1532(天文元)年、細川春元・六角定頼らが山科本願寺(一向宗)を攻撃する際、一向宗の法敵である法華宗信徒と共同作戦をとったのはそうした例の一つだ。この時、京都の町衆を中心に動員された信徒の数は、三千とも四千とも言われる。さしもの栄華を誇り、「寺中広大無辺」と称された山科本願寺も敗北を喫し、堂宇はことごとく灰燼に帰した。 

しかし、こうした宗教集団は強大になりすぎると、権力者からは危険視される存在となる。京都では法華宗信徒が自治権力を拡大して町政まで掌握すると、領主への地子銭納入を拒否して権門の反感を買うようになった。また他宗に議論をふっかけ折伏(しゃくぶく)しようとする戦闘的な信者の姿勢は、他宗派との間でトラブルを発生させる一因ともなった。 

 事実、天文法華の乱のきっかけは、信者のこうした戦闘的姿勢にあったという。法華宗側の史料(これを記した『天文法乱松本問答記』の史料的価値は低いという)によれば、京都で説法する比叡山僧侶を、法華宗信者が宗論をふっかけ言い負かした。これに激怒した比叡山が、権門や諸宗派に加勢を募り、京都の法華宗信者を襲ったのだとされる。

 しかし真の原因は、別のところにあった。将軍・細川氏らが諸宗派と一緒になって、強大になった法華宗徒らを切り崩そうとしたのである。この時、かつて法華宗と協力関係にあった幕府・六角氏らは比叡山側に加勢し、本願寺をはじめとする諸々の宗教集団も比叡山側に立った。

 結果、京都の法華衆は大敗し、法華宗洛中二十一カ寺は焼き払われた。幕府は法華宗の改宗・還俗を一切禁止し、信徒をかくまった者は両隣闕所(財産没収の上、京から追放)とする厳しい処置をとった。このため、信者の多くは堺の末寺に逃げ去り、京都の法華宗は一時期根絶やし状態になってしまった。

【参考】
・杉山博『日本の歴史11・戦国大名』1974年、中央公論社(中公文庫)、P.266~270など

2018年8月26日(日)
干鰯と鳥獣害

 近世前期は「大開発時代」と呼んでよいほど新田開発が進み、入会地や雑木林などが次々と農地に転用されていった。その一方、人間の生活領域の拡大が野生鳥獣の棲息域を侵食した結果、鳥獣害が深刻化することにもなった。

 こうした鳥獣害に拍車をかけたのが、金肥(きんぴ。購入肥料)の使用だ。

 開発対象地域が自給肥料(刈敷や草木灰等)の供給源である雑木林等だったため、農村ではたちまち肥料不足に陥った。そこで、金肥の登場となる。金肥の代表が、干鰯(ほしか)や鰊粕(にしんかす)などだ。しかし、これらの魚肥を蒔くと、鳶(とび)や烏などがついばんだり、狐や犬などが土中から堀りおこしたりして、ますます農作物を荒らすようになった。

 こうした新たな鳥獣害を防ぐため、農民たちは干鰯等を細かく砕いて粉末にしたり、俵につめて水中で腐熟させて水肥(すいひ)としたり、鳥獣が嫌うものを混ぜたりしたりと、さまざまな工夫を凝らさざるを得なかった。
 
 自然との共生はいつの時代も難問題だ。


【参考】
・平野哲也「干鰯と農業」(『歴史と地理・№710』2017年12月号、山川出版社、P.36

2018年8月25日(土)
落とし物は交番へ届けよう

 遺失物法第28条には次のようにある。


「 第28条 物件(誤って占有した他人の物を除く。)の返還を受ける遺失者は、当該物件の価格(第9条第1項若しくは第2項又は第20条第1項若しくは第2項の規定により売却された物件にあっては、当該売却による代金の額)の100分の5以上100分の20以下に相当する額の報労金を拾得者に支払わなければならない。」


 こうした考え方を明確に打ち出した最初の法令が、伊達氏がつくった分国法『塵芥集(じんかいしゅう)』だ。『塵芥集』には、「落とし物は元の持ち主に返還せよ。落とし主は、届け主に10%のお礼を支払うべし」と書いてある。実は、『塵芥集』以前は、現在の遺失物法のような、落とし物に関する処理ルールを決めた法令は存在しなかった。

 それでは、落とし物を拾った場合、中世の人びとはそれをどのように処理したのか。

 答えは、「これ幸いと、猫ばばした」である。清水克行氏は『戦国大名と分国法』の中で、次のように書いている。


「そもそも中世社会では、落とし物は神仏からの授かり物と考えられており、拾い主はそれを着服することが容認されていたのである」


 今は21世紀の世の中。落とし物を拾っても、くれぐれも猫ばばなんかしちゃいけないよ。

【参考】
・清水克行『戦国大名と分国法』2018年、岩波書店(岩波新書)、P.63~64

2018年8月22日(水)
太宰春台の独り言

 「プライドが高く、はっきりした性格で煙たがられたが、人情に厚い一面もあった」(『新版・日本史小辞典』山川出版社)とされる太宰春台(だざいしゅんだい。(1680~1747)。『独語』という本をのこしている。書名は「独り言」という意味だ。

 インターネットで「太宰春台 独語」と検索すると、国立国会図書館所蔵の史料を見ることができる。次に示すのはその一部。「その道の上手とよばれる人びとは、いつも身分の低い者の中にいる」。面白い意見なので、抜き書きした。なお、読みやすくするため、句読点や濁音・注などを適宜付した。


「今の人、歌をよむほどにてハ、必
(かならず)公家の中の名家なる人を師として学ぶ。是(これ)大なる誤(あやまり)なり。古(いにしえ)より惣(そう)じて位(くらい)高き人に、物の上手ハ無きものにて、上手はいつも賤(いやし)き者に出(いで)来るなり。

 歌の道にても、人麿
(柿本人麻呂)・赤人(山部赤人)は貴人にあらず。『古今集』を撰(えら)びたる人々も、友則(紀友則)一人大内記にて五位の官人なり。貫之(紀貫之)ハ又其(その)(しも)と見ゆ。躬恒(凡河内躬恒(おおしこうちのみつね))は甲斐(かい)の目(さかん。国司の第4等官)、忠岑(壬生忠岑(みぶのただみね))ハ右衛門(うえもん)の府生(ふしょう。主典(さかん)の次位)なれバ、皆地下(じげ。清涼殿に昇殿を許されない官人)の賤き者どもなり。此(この)(ともがら)、皆歌道に達せし故(ゆえ)に撰集の勅(ちょく)を受(うけ)たり。

 歌の盛
(さかり)なりし時だに、高位の人には達者は稀(まれ)なり。況(いわん)や今の世、歌道衰微の時に、公家の高位の人に何として上手あるべきや。」

2018年8月20日(月)
戦後のインフレ

 安野光雅氏の『算私語録』(1985年、朝日文庫)を読んでいたら、「物価はめちゃくちゃでまったく安定しなかった」(同書P.38)と、戦後インフレに関する思い出話が書いてあった。それが次の件(くだり)。


「教員になって月給150円をもらっていた
( 中略 ) その後、給与改訂があって、150円から一挙に1500円くらいにはね上がる。でもたいしたことはなかったが、病床にあった父は、インフレのことなんかまったく知らないので、1500円の月給を見せたらびっくりした。父の判断で、1500円という金額は家の二つ三つ変える金額なのである。父は安心して死んだ。すごい親孝行となった」(同書P.37~38)


 そこで手元にあった週刊朝日編『戦後値段史年表』(1995年、朝日文庫)で、教員の給与を調べてみた。同書に載っていたのは「小学校教員の初任給」(月俸。諸手当を含まない基本給)である(同書、P.102)。参考までに下にあげておく。


 1946(昭和21)年  300~500円
 1948(昭和23)年    2,000円
 1949(昭和24)年    3,991円
 1951(昭和26)年    5,050円
 1952(昭和27)年    5,850円
 1954(昭和29)年    7,800円
 
(以下、略)

 
ちなみに、1946年当時の国会議員の月額報酬は1,500円で、総理大臣は3,000円だった(同書P.81、P.122)。

2018年8月15日(水)
十七娘って?
 山中恒(やまなかひさし)氏の『暮らしの中の太平洋戦争』(1989年、岩波新書)を読んだ。

 そこで目にとまったのが、『戦時食生活指針』(1944(昭和19)年に福岡女子専門学校(福岡女子大学の前身)が作成)というガリ版刷り史料の紹介だ。戦時下の食料不足のもと、当時の人びとがどのような食生活を強いられていたかをうかがい知ることができる。著者の軽妙な語り口もあって、興味深く拝読した。

 ところで、この史料の中には、調理材料の名前として「十七娘」という語が頻繁に出てくるとか。

「十七娘とは何か」。

 最初は山中氏も、その正体が何のことだかわからなかったそうだ。答えはどうやら「ふくらし粉」。ベーキングパウダーだ。

 山中氏の疑問を氷解させたのは、氏のお嬢さんの行動によってだという。


「そういえば、わが家の娘も17娘だなと思ったら、
( 中略 ) 彼女、このところ、やたらにぶうーっとふくれるのである。」(前掲書、P.130)


 気にくわないことがあると、やたら「ふくらし粉」のようにぷぅーっとふくれる反抗期の娘。これまた著者の言葉ではあるが、


「戦時中もいまも変わらないと見える。」


 ちなみに、インターネットで「十七娘」を検索すると、犯罪者の隠語で「貴重品や宝物を多く納めてある土蔵のこと」としか出てこない。まさか、「土蔵」は食べられまい。
2018年8月14日(火)
なぜベルリン会談ではないのか

 ドイツ連邦共和国の北東部、ブランデンブルク州の州都がポツダムだ。1945年7月17日から8月2日にかけて、第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談の開かれた場所として有名。

 この地にあるツェツィーリエンホーフ宮殿が、会談の場所だった。

 宮殿は、最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、皇太子ヴィルヘルム=フォン=プロイセンのために建てたもの。イギリスの荘園領主の館に倣ったのは、皇太子夫妻の好みによるという。そのため、宮殿というには素朴で、田舎にある貴族の館という風情だ。


 ところで、すでにナチスドイツは崩壊していた。それにもかかわらず、なぜ大都市ベルリンではなく、その南西26kmに位置する町で、会談を開催したのだろう。

 それはベルリンが戦闘で壊滅状態にあったためだ。そこで、連合国要人の安全のために、警備がしやすいこぢんまりしたツェツィーリエンホーフ宮殿が選ばれたのである。

 なお、ツェツィーリエンホーフ宮殿は「ポツダムとベルリンの宮殿と庭園」として世界遺産になっている。

【参考】
・『世界遺産大事典・下』2016年、マイナビ出版、P.64~65

2018年8月12日(日)
割の起源

 基礎的な学力を身につけないまま卒業していく高校生が多いという。

 「30点分のポイントシールを貼った用紙をコンビニに持って行き、景品と交換しようとした。ところ
が、アルバイトの高校生が足し算ができず、20分も待たせられた」という話を聞いた。ポイントシールの中に「0.5点」というシールが何枚か混じっていたため、小数の計算ができず、時間がかかったのだ。

 また、新卒者に商品販売を任せたら「『2割引』は2割で売る商品だと思っていたらしく、1万円の品物を2千円で売られてしまった」という話も聞いた。

 「1kmが何mなのかわからない」。そんな若者が何人もいるという。

 文科省をはじめ教育評論家の先生方は、「生徒自らが能動的に物事を深く考えるアクティブ・ラーニングがこれからの教育の主流になる」とのたまわっている。しかし、そんな教育法が実践できる生徒たちは、今の世の中では少数派のエリートだけだろう。まずは基礎・基本を繰り返し繰り返し徹底し、世の中に出ても困らないだけの社会常識を、すべての生徒に身につけさせることの方が重要ではないのか。

 さて、上述した「2割引」の「割」だが、これは出挙(すいこ)の利息に由来する言葉だ。出挙は古代の制度で、もともとは貧窮農民を救うために考え出された。春に種籾(たねもみ)を貸し付け、秋の収穫期に貸し付けた種籾を利息とともに回収した制度だ。

 たとえば、仮に利息が50%だったとする。この時、出挙の束稲(そくとう。束(たば)にした稲。1束(そく)=10把(わ))の利率は、「五把利(ごわのり)」というように表現した。いつの間にか、この「把利(わのり)」の「の」が脱落して「把利(わり)」となり、またこの語が利率一般を指す語となって、「割(わり)」と書かれるようになったのだ(高橋久子氏による)。

2018年8月11日(土)
3フランシスコ

 「不龍獅子虎」。

 ○○族が書いた当て字ではない。漢字の表記法はいろいろあるが、これで「フランシスコ(Fransisco)」と読む。豊後(現在の大分県)城主であり、キリシタン大名として知られる大友義鎮(おおともよししげ。1530~1587)の洗礼名だ。

 義鎮は、洗礼名を略した「FRCO」と彫ったローマ字印(南蛮字印)を用いたことで有名。高校日本史資料集の「キリシタン大名」を紹介するページには、たいていこのローマ字印が載せてある。もっとも、義鎮が使用したローマ字印はほかにも2種類あるそうだ(新関欽哉『ハンコの文化史』1987年、PHP研究所、P.145)。

 ところで、インターネットで「大友義鎮」を調べていると、「大友義鎮はフランシスコ=ザビエルから洗礼を受けた」と記述していたHPがあった。

 これは明らかな誤りだ。

 なぜなら、義鎮が受洗したのは1578年(義鎮48歳)の時。フランシスコ=ザビエル(1506~1552)は、それより26年も前に他界しているからだ。義鎮に「フランシスコ」の洗礼名を与えたのは、フランシスコ=カブラル(1529~1609)である。

 義鎮は若いとき、フランシスコ=ザビエルに会ったことがある(ザビエルが他界する前年)。その時の印象が強烈だったのだろう。その記憶から「フランシスコ」の洗礼名を望んだ、と伝わる。

 義鎮・ザビエル・カブラルの3人とも「フランシスコ」だったこと、学校の日本史教育を受けたわれわれにとってザビエルが超有名人だったことなどが、「大友義鎮はフランシスコ=ザビエルから洗礼を受けた」とする誤解を生んだのだろう。

2018年8月8日(水)
パリンプセスト(PALIMPSEST)

 史料の残り方はさまざまだ。そのなかには、偶然に残った史料がある。

 たとえば、木簡の削り屑がそれだ。役目を終えた木簡は、刀子(とうす)と呼ばれるナイフで文字の書かれた部分を削って、何度も再利用された。そうした文字の書かれた削り屑が出土するのだ。

 また、紙が貴重品だった時代、紙は再利用された。漉(す)き返して宿紙(しゅくし)などに再生した場合、元の史料は残らない。しかし、反故(ほご)の裏を再利用した場合には、古い史料が残る。こうした史料を、紙背文書(しはいもんじょ)とか裏文書(うらもんじょ)などという。

 紙と印刷術が発明される以前のヨーロッパでは、本はべらぼうに高価だった。一冊の本を作るのに何十頭もの羊を殺さねばならず、そうしてできた羊皮紙(ようひし)に職人や修道士たちが一文字一文字手書きしたからだ。


「バイブル一冊を書くのに、羊五百頭分の皮が必要であった」(陳舜臣『紙の道(ペーパーロード)』1997年、集英社文庫、P.30)


という。だから、当時の本は図書館の書見台に鎖でつながれていて、外には持ち出せない仕組みになっていた。個人の蔵書は富の象徴でもあった。

 本が貴重品だったがゆえ、新たな本をつくる際、古い書物を再利用することもあった。羊皮紙から文字を削り落として、そこに上書きしたのである。こうして別の本に作り直されたものをパリンプセストといった。有名な「アルキメデス写本」は、パリンプセストに再利用されていた本から復原された。削り取られた文字が、羊皮紙に痕跡として残っていたのだ。

【参考】
・東野治之『木簡が語る日本の古代』1983年、岩波新書、P.2~3
・佐藤進一『新版古文書学入門』法政大学出版局、P.15、26     など

2018年8月7日(火)
「酸素」は8月に発見された?

 8月1日は、イギリスでは「酸素発見」の日という。1774年のこの日、ジョーゼフ=プリーストリ(1733~1804)が「酸素を発見」したことになっているからだ。

 プリーストリは、細長いガラス瓶に水銀を満たすと、それを水銀鉢の中にひっくり返した。レンズで集めた太陽光で、水銀の上にのった試料を加熱し、生じた気体を捕集した。しかし、この時点でプリーストリは、捕集した気体が、水銀灰から単離した酸素だとは気付かなかった(亜酸化窒素と思い違いしていたという)。これを新気体(酸素)と認識したのは、1775年に至ってからだった。

 プリーストリよりも早い時点(おそらくは1770~1773年の間のことという)で、酸素の単離に成功していたのがスウェーデンのカール=ヴィルヘルム=シェーレ(1742~1786)だった。しかし、シェーレの著作の出版が2年遅延してしまったため、その間にプリーストリに出し抜かれてしまった。こうして「新気体(酸素)の第一発見者」の栄誉は、プリーストリのものとなった。この新気体を「酸素」と命名したのは、フランスのアントワーヌ=ラヴォワジエ(1743~1794)だった。

 わが国で、この気体を「酸素」と翻訳したのは、宇田川榕菴(庵)(うだがわようあん。1798~1846)である。榕菴は、ヨーロッパの植物学や化学等をわが国に紹介した。なかでも実験化学書『舎密開宗』(せいみかいそう)の出版は有名。

 「酸素」以外にも、彼は多くの学術用語を造語した。たとえば、次のようなものがある。


   細胞、柱頭、葯
(やく)、水素、窒素、炭素、元素、酸化、還元、分析、圧力 など


 なお、コーヒーに「珈琲」という漢字を当てたのも榕菴だった。

【参考】
・河野俊哉「プリーストリ:『酸素の発見』と燃焼の本質」-『化学と教育』65巻8号、2017年-

2018年8月6日(月)
原爆忌

 NHKTVで、「広島原爆の日」平和式典を見た。

 1945年8月6日8時15分のあの日あの時から、今年で73年がたった。こんなに長い星霜を経たのに、いまだに地球上から核兵器はなくならない。そればかりか、「もっとコンパクトで扱いやすい核兵器を開発すべきだ」などと、とんでもない発言をする政治家までいる。


 「なんという危険なおもちゃを、世界を支配するこの愚者どもが手にしていることか。」


 ハンナ・アーレント(1906~1975)の嘆きの声が脳裏によみがえってくる。

【参考】
・矢野久美子『ハンナ・アーレント』2014年、中公新書、P.96

2018年8月4日(土)
日清・日露戦争で「国」が意識されるようになった

 日清・日露戦争は、好むと好まざるにかかわらず、日本人を一致団結させて「国」意識を自覚させられた戦争だった。日本「国民」を生んだこの時期には、中華文明から国風への転換が図られた。漢字廃止問題が蒸し返され、日本史が「国史」、日本語が「国語」と名前を変えた。

 皇室でも儀式の「国風化」が進んだ。

 たとえば、皇室では皇子女が誕生すると「御湯殿(おゆどの)の儀」が行われ、その湯浴みの最中に鳴弦役(めいげんやく)が弓の弦を鳴らして邪気をはらい、読書役が漢籍(中国古典)を読み上げる習わしがあった。これを「読書鳴弦の儀」という。1905年に誕生した高松宮の時には、読書役は漢籍ではなく『大日本史』を読み上げた。以後、現在に至るまで読書役が読み上げるのは、『日本書紀』などの「国史」である。

【参考】
・原田敬一『日清・日露戦争』2007年、岩波新書、P.113~114

2018年8月3日(金)
ばらばらになった土偶の不思議

 山梨県の釈迦堂遺跡から出土する土偶の破片は、不思議な残り方をしている。 

釈迦堂遺跡からは1,116点の土偶が出土した。それらの土偶は顔、手、足、胴体などすべてばらばらで、組み合わせて接合することができない。つまり、同遺跡に残る破片同士を組み合わせて、元の一体の土偶を復元することはできないのだ。

 それでは、ばらばらになった土偶のその他の部位は、一体どうなったのだろう。実は、別の遺跡から発見されるのだ。釈迦堂遺跡の土偶の場合、200kmも離れた場所から出土した土偶と、ぴったり接合した例もあったという。 

ばらばらにされた土偶が示唆するのは、1,116以上のムラムラと釈迦堂遺跡が何らかの関係を結んでいた可能性があったことだ。

【参考】
・北の縄文フォーラム2013 基調講演 小林達雄氏「縄文土偶の世界」(インターネットPDFファイル、2018728日閲覧)

2018年8月2日(木)
縄文展にいってきた

 昨日、東京国立博物館で開催されている特別展「縄文、1万年の美の鼓動」を見に行ってきた。35℃を超える猛暑日であったにもかかわらず、人出は多かった。日本人は勉強熱心だ。

 今回、縄文の国宝全6件(「縄文のビーナス」など土偶5件と火焔型土器1件)が史上初集結した。なかなかに見ごたえがある展覧会だった。

 ついでに平常展も見学。隅田八幡蔵人物画像鏡(漢字で国音を表記した資料として有名)や江田船山古墳出土鉄刀(ワカタケルノオオキミの名が出てくる漢字の資料)などを見学。国宝・重文ばかりで、改めてトーハク(東京国立博物館。「ゆりの木博物館」の別名も)収蔵品のレベルの高さを認識した。

 また、夏休みということもあって、NHKEテレ(昔の教育テレビ)で放映されている「びじゅチューン!」とコラボした「なりきり日本美術館」(体験型
展示とワークショップ)も親子連れや外国人観光客であふれていた。

 昼食後、敷地内にある法隆寺国宝館で摩耶夫人像(まやぶにんぞう)や竜首水瓶(りゅうしゅすいびょう)等を見学。

 摩耶夫人像は、ルンビニー園で花の枝を折ろうと右手を伸ばした摩耶夫人が突然産気づき、右脇の下からシャカを出産(!)。夫人の右袖から合掌姿のシャカが顔をのぞかせ、その周りを天人たちが取り囲んでいるという、飛鳥時代(7世紀)の作品。有名な釈迦誕生譚だが、それを造形にするとユーモラスになってしまうのはどうしてだろうか。このあと生まれたてのお釈迦様は、立ち上がって両足で歩き出し、左右の手で天と地を指さし「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん。この世界、我一人尊い)」とのたまわった、ということになっている。

 その後、法隆寺国宝館屋外にある校倉造の経蔵(奈良の元興寺から移築されたという)を見学。

 蝉時雨の中、国立西洋美術館に移動。「ミケランジェロと理想の身体」展を見学。初来日というダヴィデ=アポロ像(未完成のためダヴィデだかアポロだか判断できないとされる大理石彫刻)を見たあと、常設展の「松方コレクション」を堪能して一日を終えた。
 

2018年7月30日(月)
こわされた土偶

縄文時代中期になると土偶の製作数が増加する。それらの土偶のほとんどは、完全な形で残っていない。それらは自然にこわれたのではなく、人為的にこわされたものだ。つまり縄文中期の土偶は、最初からこわされることを前提に製作されていたのだ。 

 その際、右腕なり、左腕なり、こわされる部位は決まっていて、こわされやすくするため事前に接合部分に溝をつけるなどの仕掛けが施されていた。板チョコの溝のようなしくみに似ているので、小林達雄氏はこれを「チョコレート分割」とよんでいる。 

一方、こわされた土偶を修復して用いた例もある。青森県の風張(かぜはり)I遺跡からは、複数の破片状態の土偶が出土した。のちに「合掌土偶(縄文後期、国宝)」とよばれるその土偶は、破片の割れ口に天然アスファルトが付着していた。こわされた土偶をアスファルトで接合・修復して用いていたのだ。復活や再生を願う儀式にでも使ったのだろうか。 

土偶がどのような儀式や呪術の場で使われたのかは、推測の域を出ない。こわされた土偶の謎は深まるばかりだ。

【参考】
・『日本歴史館』1993年、小学館、P.9293(小林達雄氏による)
・北の縄文フォーラム
2013 基調講演 小林達雄氏「縄文土偶の世界」(インターネットpdfファイル、2018年7月28日閲覧)

2018年7月27日(金)
「サツマ」といってもイモじゃない

 英語の中には、国名を小文字で書くと、意味が変わる言葉がある。中国(China)が陶磁器(china)、日本(Japan)が漆器(japan)、トルコ(Turkey)が七面鳥(turkey)という具合に。

 また、地名が思わぬ意味を表す場合も。たとえば、Satsuma(薩摩)という単語を英和辞典で引いてみると、ある食べ物の名前が出てくる。

 答えは、ミカン。

 そこで『平凡社大百科事典』(第2巻、1984年)で「ウンシュウミカン」の項を引くと、次のようにある(山田彬雄氏執筆)。


「古くから中国と交流があった天草の南にある島、鹿児島県長島が原生地と推定されている。400~500年前、中国の浙江省黄岩県からもたらされた早橘、まん橘(「まん」は木偏に曼)、本地広橘、本地草などのミカン類の種子より発生したと考えられている。親は中国の品種だが、本種は日本原産である。(以下略)


 日本の柑橘類の中で、もっとも代表的なウンシュウミカン。その発祥地が薩摩、というのは意外だった。

2018年7月26日(木)
彼は○○のようにクールだ
 ここのところ、野菜の値段が高騰している。キュウリもその一つだ。

 キュウリを小口切りにすると、その切り口が徳川家の葵紋に似る。これをタブーとして、江戸時代の旗本らの中には、キュウリを食べない者たちがいたという。

 現代に残る習慣の中にも、似たような例はある。

 なかでも、八坂神社(祇園社)に関するキュウリのタブーが有名だ。試しにインターネットで検索すると、「京都八坂神社では、神紋の木瓜(もっこう)紋がキュウリと似ているため、祇園祭期間中はキュウリを食べないという人もいる」という記述が出てくる。

 博多祇園山笠でも神紋を連想するとの理由で、祭り期間中、氏子たちはキュウリを食べない「胡瓜断ち(きゅうりだち)」をするとのこと。

 ちなみに、キュウリは、食べると体温を下げる効果がある。夏にはもってこいの食材だ。英語にも

   He is as cool as a cucumber.
(彼はキュウリのように冷静だ)

という慣用表現がある。

 キュウリを食べると、頭脳まで冷静になる?
2018年7月25日(水)
地図の上が北とは限らない

ヨーロッパ生まれの地図は、一般的には上が北だ。

 しかし、わが国で地図の上を北と決めたのはつい最近のこと。たとえば、江戸時代に作成された国絵図や村絵図などを見ると、東西南北の方位を示す文字は放射状に配列され、上が北とは限らない。
 

 臼井洋輔氏によれば、ヨーロッパと日本で地図にこうした相違が見られるのは、東西の建築様式・生活習慣の違いに関する約束事に理由があるという。面白い見方なので、氏の説を紹介しよう。


「わが国の幕藩体制下で作られた国絵図などは、畳の上に大きく広げて、周りを取り囲むように四方から見たのである。そのために上が北とか、北が上などとは決まっていない。
( 中略 ) しかし西洋では靴を履いたまま居室にはいるために、大切な地図を床に広げておくことはしない。そこから壁に掛けるものとなっている。壁に掛ける以上、約束事として北を上にしたまでのことである。」(臼井洋輔「一遍上人聖絵『福岡の市』解析」―『文化財情報学研究第7号』2010年、吉備国際大学文化財総合研究センター、P.89)
2018年7月24日(火)
近代戦争を草鞋(わらじ)で戦う

日清戦争を前にして、1890(明治23)年328日から45日にかけて、愛知県知多半島付近において陸海軍連合大演習が実施された。その際、思わぬ課題が明らかとなった。軍靴(ぐんか)を履いた兵士たちが靴擦(くつず)れをおこし、行動に支障をきたしたのだ。靴擦れを起こしたのは、普段靴など履いたことがない予備役兵たちだった。

「足が痛くて戦闘に参加できない」では話にならない。本番の日清戦争では、靴擦れにどう対処したのか。

国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページ「描かれた日清戦争~錦絵・年画と公文書~」に、その答えの一つが提示されている。

ホームページ(https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/topics/index.html)には、「トピック1.日本兵の履物」という項立てがされている。提示されている錦絵を見ると、陸軍の歩兵たちは足袋(たび)に草鞋(わらじ)、海軍の水兵たちは足袋や裸足(はだし)で戦っていた。

 軍服が洋装なのに足元が足袋・草鞋というのは、あまりにもちぐはぐだ。しかも、彼らが着用していた足袋・草鞋等は、軍用品として支給されたものだった。

日本軍は、草鞋・足袋・裸足によって靴擦れに対処したのだった。

2018年7月7日(土)
西郷はスリムだった
 東京藝術大学大学美術館に「NHK大河ドラマ特別展・西郷(せご)どん」を見に行った。

 西郷は巨漢で知られる。

 1873(明治6)年、千葉県習志野で行われた近衛兵大演習の際、西郷が着用した軍帽・軍服(冬服上下)の複製が展示されていた。とにかく大きい。「男五尺(約150cm)」といわれた時代、西郷は五尺九寸(約180cm)あった。体重も110kgあったと推定されている。ゆえに、肖像画や銅像などでは、常に肥満体に造形される。

 しかし、もともとは痩せてスリムな体型だったという。そんな西郷の体型を、劇的に変えた原因は何だったのだろうか。

 今回の展示品の中に、西郷使用と伝わる「漆塗膳(うるしぬりぜん)」があり、その解説を小野恭一氏(鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課主事)が書いている。


「(西郷の)肥満気味の体型は、奄美大島や沖永良部島での生活後の姿と言われている。ストレス太り、あるいは愛加那(あいかな)との生活による幸せ太り、座敷牢生活による運動不足などが指摘されている。」(NHKプロモーション編集『NHK大河ドラマ特別展西郷どん』2018年、P.80)


 結婚後の幸せ太りはともかく、ストレス太りに運動不足。これって、現代の中高年サラリーマンのお父さんたちが肥満になる原因と同じだよね。
2018年6月16日(土)
今夜は天気が悪くて月が見えない

 百数十年ぶりに民法が改正され、成人の年齢を男女とも18歳にすることが決まった。

 しかし江戸時代、女子の成人年齢は16歳(数え年)だった。

 旧暦の6月16日、16歳の女子は髪の左右の鬢(びん)を切りそろえ、成人を祝った。これを「鬢曽木(びんそぎ)」という。

 「鬢曽木」は平安時代の宮中行事が起源という。ただし、江戸時代の「鬢曽木」には、ちょっと変わった風習があった。

 祝いに饅頭が出された。その際、饅頭の真ん中に穴をあけて、そこから十六夜の月を眺めた。ゆえに「鬢曽木」を、別名「月見」ともいった。 

 テレビをつけると、老舗饅頭店の薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)と本饅頭(ほんまんじゅう。家康の好物だったという)を紹介していた。その上、今日は6月16日。そこで「月見」の話を家内にした。すると、「ふざけた話だ!」と一蹴された。「日本史辞典に書いてある」と言ってそのページを見せても、まるで信用がない。

 「成人式に、饅頭にあけた穴から月を眺める」。確かに「ふざけた話」だ。

 しかし、巷では「18歳で成人になると、成人式が大学入試時期と重なって大変だ」などと憂慮している。それならいっそ、「鬢曽木」の風習にならって、男女とも旧暦6月16日に成人式をやってはどうだろう。

 夏だから軽装で済む。それに夕方なら、暑さも少しはおさまろう。祝いの酒は禁止。饅頭を出そう。

 数十万人の新成人たちが饅頭に穴をあけて、一斉に月を見る。「ふざけた話」かも知れない。しかし、酔っぱらって暴れまわる新成人のニュースに眉をひそめるより、その方がよほど平和的である。

2018年6月2日(土)
元旦は6月1日

 江戸時代、6月1日は「特別な日」だった。

 この日は氷朔日(こおりのついたち)とよばれ、夏を迎えるさまざまな行事が行われた。加賀藩邸には氷室(ひむろ)があって、「氷室御祝儀(賜氷の節)」が行われた。町屋では、冬に寒水で製した餅を食べる習慣があった。この日にはまた富士山に登拝する習わしがあって、前日の富士山登山口は参詣者でごった返した。

 旧暦6月以降は、炎暑に悩まされる時期である。今年は、7月13日が旧暦の6月1日にあたる。食物は腐敗しやすく、暑さによる体調不良や疫病の流行などに、当時の人びとも悩まされただろう。おまけに火事や地震といった災害が多く、飢饉などの影響も長引いた時代のことである。江戸時代の人びとは、こうした社会的危機に常にさらされていた。

 では、社会的危機に直面した時、当時の人びとは、どのような対処法をとったのだろうか。

 答えは「
6月1日を元旦にした」である。

 悪いことが続いたなら、それをリセットして、もう一度やり直せばいい。それが、当時の人びとの発想だった。旧暦6月1日の真夏に企画された2度目の正月を、「流行正月(はやりしょうがつ)」とか「仮作正月(かさくしょうがつ)」などといった。6月1日に2度目の正月を行った年は、記録上計5回ある(1667、1759、1771、1778、1814年の5回)。


 政治・経済・外交上危機的状況にある昨今の日本。事態打開のために、当時の人びとの知恵にならって、正月をやり直してみたらどうだろう。年賀状販売枚数の低迷に悩む郵便局を救うばかりか、世の中を少しでも明るくする効果があるやも?

【参考】
・中島満「お氷さまと富士参り」-『NHK知るを楽しむ、歴史に好奇心』2006年8・9月テキスト、p.8~21-

2018年5月13日(日)
農作業には使われなかった馬
 鎌倉時代になると、農業生産性が高まった。そうした事例としてあげられるのは、米と麦を作付けする二毛作の開始や、刈敷(かりしき)や草木灰などといった肥料の使用、などだ。

 このほかにも、農業生産性を高めようとした農民の試みの一つに、耕作地における役畜の使用がある。

 関西方面には牛が、関東方面には馬が多く分布した。したがって、関西では牛耕が主だ。高校の日本史教科書や副教材で使用される日本史図説資料集には、決まって「松崎天神縁起絵巻」の「牛耕の図」が引用されている。もっとも、牛を役畜として使用したのは、鎌倉時代に始まったことではない。『食通の日本史』という本をパラパラ拾い読みしていたら、


「日本語の牛は、漢字の訓読であるが、梵語では、ウクシャ(ukusha)という。日本の奥羽地方ではベコといい、九州ではベプ、四国・九州地方ではコットイ、ベベノコなどという」(多田鉄之助『食通の日本史』1987年、徳間文庫、p.129。強調文字はHPの筆者による)


とあった。

 「コットイ」は「特牛(ことい)」が方言になったものだろう。広辞苑(第5版)を引いてみると、特牛は「ことい、こといのうし、こというし」と読み、「殊(こと)負(おひ)の約か」とある。つまりは、重荷を運ぶ強壮な牛のことだ。「こといのうし」が「みやけ(屯倉)」に懸かる枕詞(まくらことば)になっていることからも、律令時代から租稲の荷を運んでいたことがわかる。特牛は耕作用ではなく運搬用の例だが、役畜としての牛利用の古さがわかる。

 一方、関東では馬の分布が多かった。しかし、農作業にはほとんど利用されなかったらしい。千葉徳爾氏によれば、



「これらの馬は農馬としては、まったく使用されなかったらしい。それは近世になっても東日本の大部分で馬耕が知られず、もっぱら厩肥生産に用いられていたことから推論される」(『日本史のなかの動物事典』による)


という。

 そもそも不破の関(岐阜県関ヶ原)から東には火山の裾野を占める広大な草原が広がっており、馬を放牧するには絶好の地であった。そのため、古代末期には多くの官牧がおかれ、朝廷に産馬を貢納していた。関東武士が乗馬にすぐれていたのは、こうした背景があったからである。

 ただし、鎌倉時代の馬は、悍馬(かんば)が多かった。それは去勢しなかったためである。

 去勢されないため当時の馬は小型ながら極めて性質が荒く、これを乗りこなすには相当な技術が必要で、その優劣が戦場における武勇の評価を分けた。たとえば、源頼朝が佐々木高綱に与えた名馬「生食(いけづき)」は、人にでも馬にでも噛みつくほど気性が荒かったという。


 こんな扱いづらい馬ばかりを「名馬」として珍重していた社会では、農作業に馬を使おうという発想自体生まれにくかったのだろう。

【参考】
・金子浩昌外3名『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版、p.17~18
2018年3月17日(土)
「遠」い国とは?

下掲の表は、日清戦争で黄海海戦に参加した清国軍艦を一覧にしたものだ。原田敬一『日清・日露戦争』(2007年、岩波新書、P.82)に載せてある12隻の軍艦リストを、排水量の降順に並べかえただけなのだが、この表を見るとおもしろいことがわかる。

 排水量
2,000トン以上の大きな軍艦には、すべて「遠」の字がついているのだ。

   艦名  艦  種  排水量(トン)  竣工年  造船所
1 定遠  装甲砲塔艦  7,314  1884  ドイツ
2 鎮遠  装甲砲塔艦  7,310  1884  ドイツ
 3 経遠  装甲砲塔艦  2,900  1887  ドイツ
 4 来遠  装甲砲塔艦  2,900  1887  ドイツ
 5 致遠  巡洋艦  2,300  1887  イギリス
 6 靖遠  巡洋艦  2,300  1888  イギリス
 7 済遠  巡洋艦  2,300  1885  ドイツ
 8 平遠  巡洋艦  2,100  1890  清国(福州)
 9  超勇  巡洋艦  1,350  1881  イギリス
 10  揚威  巡洋艦 1,350  1881  イギリス
 11  広甲  巡洋艦  1,296  1889  清国(福州)
 12  広丙  巡洋艦  1,000  1892  清国(福州)

 「遠」の字に関して、藤村道生『日清戦争』(1973年、岩波新書、P.39)には次のように書いてある。


大艦名にはいずれも外国を意味する「遠」がつけられたが、とくに日本が意識されていた。北洋艦隊の充実は日本にとって脅威で、とくに定遠・鎮遠の二戦艦は日本に無言の圧力をくわえていた。」


つまり、鎮遠・定遠という艦名は、「遠(外国、特に日本)を鎮定する」という意味をもっていたわけだ。

2018年3月14日(水)
3代目以降はみな徳川氏の親戚

 ウィキペディアで「貴族院議長(日本)」のページを見ていたら、初代の伊藤博文、2代の蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)を除いて「3代目以降はみな徳川氏の親戚」だった。

  貴族院議長は13代いた。しかし、3代目以降の実人数は6人だ。4代から8代までは徳川家達(とくがわいえさと)10代・11代は松平頼寿(よりなが)と、同一人物が複数代にわたり貴族院議長を勤めていたからだ。とりわけ、徳川家達一人で29年6カ月もの長期間、貴族院議長を独占していたとは驚きだ。

 3
代目以降の姓名と簡単なプロフィールは次の通り。

  3代   近衛篤麿(このえあつまろ) 
         五摂家筆頭の藤原氏。
  48代  徳川家達
         徳川宗家16代当主。江戸幕府が瓦解していなければ16代将軍だったはず。
        世間は家達を「十六代様」とよんだ。妻は
3代貴族院議長近衛篤麿の妹。

 9代   近衛文麿(このえふみまろ)
      
  3代貴族院議長近衛篤麿の子。
48代貴族院議長徳川家達の甥。
        3度首相をつとめた。

  1011代 松平頼寿(まつだいらよりなが)
         徳川御家門の一つ高松藩主家。妻は徳川御三家の一つ旧水戸藩主家徳川昭武
        の娘。
昭武は15代将軍慶喜の弟だ。

  12代   徳川圀順(とくがわくにゆき)
        徳川御三家の一つ旧水戸藩主家
13代当主。

  13代   徳川家正(とくがわいえまさ
        徳川宗家
17代当主。徳川家達の長男。
 

 上記の内、親子で議長をつとめたペアが2組もいる。近衛篤麿と文麿、徳川家達と家正だ

2018年3月13日(火)
申楽(さるがく)の由来
 世阿弥の『風姿花伝』には、申楽の由来が記されている(野上豊一郎・西尾実校訂『風姿花伝』1958年、岩波文庫、P.6364)。それによると、厩戸王(うまやとおう。聖徳太子)が渡来人の秦河勝(はたのかわかつ。『風姿花伝』では「はだのかうかつ」と記載)に命じて行わせた物まね(神楽)がその起源という。もちろん、歴史的事実とは別物である。歴史上の有名人にその由緒を求め、権威付けをはかることはよくあることだ。

 拙い現代語訳だが、申楽の由来譚を次に示そう。

 欽明天皇の時代のこと。大和国泊瀬(はつせ)の川で洪水が起こった時、川上から一つの壺が流れ下ってきた。三輪(みわ)の杉の鳥居あたり(大神神社(おおみわじんじゃ))で、ある殿上人がこの壺をひろった。中に赤ん坊がいた。その姿は柔和で、玉のようであった。天より降った人に相違あるまい。そこで、内裏(だいり。皇居)に奏聞(そうもん)した。その夜、天皇の夢に、あの赤ん坊が現れて次のように言った。

 「私は秦の始皇帝の再誕(生まれ変わり)である。日本国に機縁があって、今ここにいるのだ。」

 天皇はこのことを奇特にお思いになって、赤ん坊を殿上に召された。成長するにしたがって、才智は人に越え、15歳で大臣の地位に昇り、秦(はだ)の姓を賜った。「秦(しん)」という文字は「はだ」であるゆえ(注)、秦河勝(はだのかうかつ)と名乗った。

 天下に少々の災害が生じた時、上宮太子(厩戸王(うまやとおう)。聖徳太子のこと)が神代・仏在所の吉例にならって、66番の物まねをするように河勝に命じた。その際、66番の面をお作りになって、河勝に与えた。橘の内裏(大和国高市郡高市村橘にあったという伝説上の皇居)の紫宸殿(ししんでん)において、河勝はこの物まねを勤めた。これにより、天下がおさまり、国が静謐(せいひつ)になった。上宮太子は末代のため、神楽の「神」という文字の偏(へん。「示」偏)を除いて、旁(つくり。「申」)を残された。この「申」は、暦で用いる(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の)「申(さる)」という文字なので、申楽(さるがく)と命名した。すなわち、「楽しみを申す」の意味である。または、神楽の「神」という文字を分けたのである。

(注)秦の訓読みがなぜ「はだ」または「はた」なのかについては諸説ある。秦氏が仁徳天皇に絹織物を献上したところ、そのやわらかくあたたかいことは人の「はだ(肌)」のようだった。そこで、その訓読みを「はだ」としたとする。また、秦氏は機織(はたお)りを得意としたため、職掌から「はた」となったとする。

2018年3月11日(日)
千手観音の手の本数は?
 昨日、東京国立博物館に「仁和寺と御室派のみほとけ展」を観覧に行った。展示が11日までというので、来場者でごったがえしていた。

 展示の目玉は、葛井寺(ふじいでら。大阪)の乾漆千手観音坐像(奈良時代)。千手観音(正しくは、千手千眼観自在菩薩)は手がたくさんあるので、彫刻するのがたいへんだ。だから普通は、省略して手は42本だけつくる。それが展示されている観音像は、千手にとどまらず、1041本もの手をそなえているのだ。実に圧巻だ。

 ただ、手の本数が千本をこえ、しかも奇数(左右の手で1組になっているなら偶数になるはず)なのは、制作者がおおらかだったのだろうか。
 

 ところで、千手観音を制作するとき、千本の手を省略する場合には、なぜ手を42本にするのだろうか。

 それは経典に、千手観音は二十七面四十二臂(にじゅうしちめんじゅうにひ。顔が27,腕が42本ある)あるいは十一面四十二臂と説かれているからだ。手の本数を42につくるのは、中央の2本を除く40の手が、1本で25の世界の衆生(しゅじょう)を救うと考えられているため。ゆえに、40に25を乗じて1,000となるわけだ。

    40本×25世界/本=1,000本

 あれ? このほか、中央に2本の手があるから、これを1,000に加えると1,002本になってしまう。これでは、「千とんで二手観音」だ。
2018年3月8日(木)
言文一致のお手本は式亭三馬
 「言文一致」という項目を引くと、『角川日本史辞典(新版)』には次のように書いてある。


「げんぶんいっち 言文一致

 明治期に展開された多様な諸文化の近代化の動きのもとに生まれた文章改革の試みで、それまで使われてきた様々な非口語的文体の文章を話し言葉に近づけ、思想や感情を正確に表現するのに適した口語文体を作ろうとする考え、またその運動。
(以下略)


 小説の言文一致化の動きでは、坪内逍遙(つぼうちしょうよう。1859~1935)や二葉亭四迷(ふたばていしめい。1864~1909)らがその先駆者として有名。しかし、「文章は文語体、会話は口語体」というそれまでの言語生活になじんだ作家たちにとっては、口語体で小説を書くという作業が、思いのほかうまくいかなかった。

 その一人二葉亭四迷は、坪内逍遙にそうした悩みを相談した。すると、「三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう。1839~1900)の落語通りに書いてみたらどうか」とアドバイスされた。事実、円朝の人情噺は口語のお手本のようなもので、その速記本は明治の文学に影響を与えた。

 しかし四迷が参考にしたのは、同時代の落語家の口語体ではなかった。四迷の時代から何と100年ほど前、江戸時代に活躍した戯作者(げさくしゃ)式亭三馬(しきていさんば。1776~1822)の作品だったのである。

 三馬が作品中に記載した口語体は「諸国から集まってきた江戸の民衆言葉を生き生きと記した言語材料とでも言える」(原田敬一『日清・日露戦争』2007年、岩波新書、P.170)もので、驚いたことに、性別・年齢・階層・出身地などに応じてそれぞれの口語体を書き分けていたのである。

 三馬に学んだ四迷が、自身の小説の中で書いた口語体が次。


 (娘)「デモ彼
(あ)れは品(ひん)が悪いものヲ」
 (母)「品
(しん)が悪(わり)いてツたツて」 (原田敬一・同上・同ページ)


 明治時代の教育を受けた娘は「ヒンがワルイ」というように、当時作られつつあった標準語を話すことができた。しかし、江戸女である母は、「シンがワリイ」としか話せない。

 三馬に学んだ四迷は、時代の変わり目にいた登場人物の年齢や出身等を、口語でみごとに書き分けてみせた。
2018年1月10日(水)
日本人は日記好き
 年末・年始、本屋の店先には、新しい日記帳がずらーりと並ぶ。コンピュータ全盛期の昨今、「タイピングするばかりで、文字を書く機会がめっきり少なくなった」とささやかれながらも、日記だけは別らしい。多くの日本人は、無類の日記好きである。だから、こんな話がある。

 アジア・太平洋戦争中のことだ。戦場には日本兵のおびただしい日記が遺されていた。なぜか。

 日本軍では新年になると、兵隊たちにわざわざ日記帳を支給していたからだ。おそらく上官たちは、小学校の先生が児童の日記帳を点検するように、定期的に兵隊たちの日記を「検閲」していたのだろう。

 一方、アメリカ兵は日記を遺さなかった。機密事項の漏洩を防ぐために、日記をつけることを禁じられていたからだ。アメリカ兵たちは戦場に散らばった日本兵の日記を拾い集めた。翻訳して、日本軍の内情や行動を探るためである。


【参考】
・鈴木貞美『日記で読む日本文化史』2016年、平凡社新書、P.31~32参照