あれやこれや 2017 

 昨年も、さまざまな天災や人災のニュースが世界中を
駆けめぐりました。しかし、そうしたなかでも、逆境から立ち
上がろうとする人びとの姿が、常にそこにはありました。

 「明日世界が終わるとしても、リンゴの木を植え続けよう」。

 そんな強い信念が持てる人になるには、一体どうすれば
よいのでしょうか。 
2017年12月30日(土)
無常という事

 小林秀雄(1902~1983。文芸評論家)の『無常という事』(角川文庫版、1954年初版)を読み直してみた。内容が薄く、思考を要しないお手軽な本がもてはやされる昨今、小林秀雄なんて時代に逆行する本の代表だ。しかし、そんな時代だからこそ、特に若い人たちには、流行に乗らないような本を奨めたい。

 小林秀雄が書いた本は、とにかくわかりにくい。晦渋(かいじゅう)の譏(そし)りを受けたこともしばしば。しかし、負荷のかからない筋肉トレーニングが何ら効果を生まないように、「お手軽本」は若い頭脳の成長に寄与しない。噛みごたえがあり、消化不良を起こすような読書も、時には必要だ。



「思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている」

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いたいちばん強い思想だ」

「晩年の鴎外が考証家に堕したというような説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼はおそらくやっと歴史の魂に推参したのである」



 ちょっと背伸びをして、小林秀雄の評論やエッセーに挑戦してみよう。わからなければわからなくていい。大人の教養の格の違いというものを思い知らされる。

2017年12月27日(水)
来年は戌年

 犬は出産が軽く多産なため、子安信仰と縁が深い。ゆえに、子どもを守護する動物として有名だ。

 犬と子どもの関係は古く、平安時代には幼児の額に「犬」の字を書き、お守りとしていたことが知られている。中国道教の風習が起源といわれ、それがわが国の公家社会に伝わり、徐々に民間に広まったものらしい。この犬の字は「いんのこ(犬の子)」とよばれた。後には、睡眠中の幼児がうなされた時など、「いんのこ、いんのこ」となだめすかすおまじないの言葉ともなった。

 来年は戌年。年末の街中に出てみると、正月用品を売る店頭に、犬張子や犬張子の絵をあしらった手ぬぐいやお菓子などが並べられている。

 犬張子はもともと子どものお守りで、古くはお伽犬(おとぎいぬ)・宿直犬(とのいいぬ)・犬箱などとよばれていた。本来は箱だったが、のちデフォルメされた犬の人形になった。子どものお守りだった犬張子は、のちには子どもの玩具、妊婦の安産を祈るお守り、嫁入り道具の一つにもなった。

 犬張子を描いた手ぬぐいの図柄には、笊(ざる)や籠(かご)をかぶせたものがある。犬という字に竹冠をかぶせると、「笑」という字になる。めでたい、というわけだ。

 ちなみに、「ペチカ」や「赤とんぼ」の作曲家で有名な山田耕筰(やまだこうさく)氏。本名は「耕作」だったが、ペンネームを犬張子のように竹冠をかぶせて「耕筰」とした。

 本人の弁によると、「山田耕作」には同姓同名者が多いのでトラブルを避けようとしたこと、後頭部の髪が薄くなったことを指摘されたので名前にカツラを着せようとしたこと、がそのおもな理由だった。つまり、その他大勢の「山田耕作」氏たちと差別化をはかるため、カツラを着けた(「毛」すなわち「ケ」を二つ加えた)「耕筰」に代えたわけだ。

 のちに戸籍上も「耕筰」に改名したという。


【参考】
・谷口研語『犬の日本史』2000年、PHP研究所(PHP新書)、P.160~162

・笹原宏之『謎の漢字』2017年、中央公論新社(中公新書)、p.15~19 

2017年12月23日(土)
ハカない人生

 インドには墓をつくる習慣がなかった。死ぬと焼いて川に流していた。墓をつくるようになったのは、イスラム教徒がインドにやってきてからのことだ。

 インド・イスラム建築の粋とされるタージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(「世界の王」の意)が亡き妻のためにつくった墓(霊廟)。妻ムムターズ・マハル(「宮殿の選ばれし者」の意)はペルシア貴族の娘。皇帝との間に14人の子をなしたが、36歳で産褥死(さんじょくし)した。夫は妻のために、20年もの歳月をかけて、総白大理石づくりの壮大な墓をつくった。

 ついで、自分の墓をつくるつもりだった。ヤムナー川を挟んで妻の白い墓(タージ・マハル)の対岸に、自分自身の黒い墓をつくり、両者を橋でつなぐ計画だった。

 しかし、シャー・ジャハーンの墓(霊廟)はない。墓をつくる前に、息子アウラングゼ-ブによってアーグラ城内に幽閉されてしまったからだ。シャー・ジャハーンは、アーグラ城内のムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)から終生タージ・マハルを眺めて過ごし、74歳で没した。

 墓のないシャー・ジャハーンの棺(ひつぎ)は、タージ・マハル内の妻の棺の隣に安置された。地下にある二つの棺が本物で、1階に置かれた棺は盗掘を恐れてのダミーだという。

【参考】
・世界遺産検定事務局『すべてがわかる世界遺産大事典〈上〉』2016年、マイナビ出版、P.147
、P.166~167

2017年12月6日(水)
Per aspera ad astra
 今日、歴史能力検定協会から賞状と記念品が送られてきた。1級日本史に10回合格したからだ。記念品はブック型のガラス製の楯。左側に小さな時計がはめこまれ、反対側には栄誉をたたえた言葉とともに次の文字が刻まれていた。

   "Per aspera ad astra."

 ラテン語は全然読めないので、インターネットを検索した。「山下太郎のラテン語入門」というホームページによると、これは「ペル・アスペラ・アド・アストラ」と読み、直訳は「困難を通じて天へ」。「困難を克服して栄光を獲得する」の意だそうだ。
 
 歴検日本史もこれで一区切り。さて、次は何に挑戦しよう?
2017年11月9日(木)
二流でも記録保持者
 桂太郎(1843~1913。長州陸軍閥、山県有朋の後継政治家)以前の首相経験者を、受験生は苗字の頭文字を連ねて「イクヤマイマイオヤイ」と覚える。延べ10人いるが、実人数は伊藤博文(第1~4次)・黒田清隆・山県有朋(第1~2次)・松方正義(第1~2次)・大隈重信の5人だ。

 5人には共通した経歴がある。太政官時代の参議経験者であり、明治維新で顕著な功績をあげ、その後は明治政府の中心的存在となった。

 しかし、桂にはそうした輝かしい経歴がない。そのため、歴代内閣と比較されては、小物扱い。口の悪い庶民たちからは「花がない」から「緞帳内閣(どんちょうないかく。緞帳芝居には花道がないことから)」だとか、大臣が小粒ばかりの「第二流内閣」だとか、閣僚が山県系官僚ばかりだったので「小山県内閣」だとか、さんざんにこきおろされた。

 なお、3度首相をつとめた桂だが、戦前における最長内閣(第1次桂内閣、4年7カ月)の首相と最短内閣(第3次桂内閣、大正政変で53日で倒壊)の首相という、二つの「大記録」をもっている。
2017年11月4日(土)
家が生(は)えた
 1876(明治9)年11月30日夜半、東京で1万戸以上の家屋を灰にする大火災が発生した。日本橋から築地にいたる全市域は、すっかり焼け野原になっていた 。

 この年来日したドイツ人ベルツ(1849 ~1913)は、早速被災地に行ってみた。すると、焼け出された人びとの、日常と変わらぬ次のような有様に驚かされたという。


   かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談を
  いったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床をほしがる子供、
  はっきりと災難にうちひしがれている男などは、どこにも見当らない。
                               
(『ベルツの日記』明治9年12月1日)


 江戸は「火災都市」ともよばれるほど、頻繁に火事に見舞われた。それは、東京と地名がかわってからも、同じだった。裕福な商人たちは耐火性の土蔵に貴重品をしまい込んだが、庶民の木造家屋はいとも簡単に焼け落ちた。だから彼らは、畳や衣服以外に、多くの財産を持たなかった。頻発する火事への慣れと、火事になっても失う物が少なかったこと。これらが、不幸な出来事に遭遇してもいつまでも不幸を引きずらない、さばさばした当時の人びとの性格をはぐくんだのだろう。

 ベルツを驚嘆させた出来事がもう一つあった。被災後、1日半がたつかたたぬかのうち、まだ焼け残りがいぶかっているにもかかわらず、すでに1千戸以上の家屋が「まるで地から生えたように立ち並んでい」たことだ。日本人が、新しい住居を「魔法のような速さで組立て」 て街を復興させる驚異のスピードに、ベルツは目を見張ったのだった。

【参考】
・菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』1979年改訳、岩波文庫、P.57~61
2017年10月22日(日)
うしろに何もついてないのはさびしい?
 イギリスのプランタジニット朝はヘンリ2世に始まる。王家の名は、ヘンリ2世の父アーンジュ伯ジョアフリーが、戦場に臨む際、好んで帽子にエニシダの小枝を挿していたことに由来する。エニシダすなわちプランタ・ジェニスタ(Planta genista)が縮まってプランタジニット(Plamtagenet)となったのだ。

 プランタジニット朝の歴代国王は、通常、次の8代を指す。


     
ヘンリ2世
     リチャード1世
     
ジョン
     ヘンリ3世
     エドワード1世
     エドワード2世
     エドワード3世
     リチャード2世



 国王の名前を並べてみると、この中でジョンだけ名前のうしろに1世・2世…がついていない。なぜか。

 そこで、ジョンが一体どんな国王だったのか、高校世界史の記憶をたどってみよう。ちなみに、山川出版社の『改訂版世界史B用語集』2008年には、次のように書いてある。


 ジョン王 John the Lackland イギリス王(在位1199~1216)。欠地王。ヘンリ2世の子。対フランス戦で連敗し、大陸領を失った。カンタベリ大司教任免問題で教皇インノケンティウス3世から破門されて屈服した。貴族からは専制を攻撃されて大憲章に署名させられた。


 書いてあるのは、情けないようなことばかり。ジョンは大憲章の承認を強要された翌1216年10月、ビールと桃を食べたことが原因で赤痢に罹り、死んでいる。死因については、尼僧にちょっかいを出そうとしたため、修道僧に毒殺されたする根拠のない俗伝まである。死に至るまで、悪評にまみれていた。イギリスでは「愚王の代表の一人」とまで、こき下ろされている。これが子孫に「ジョン2世」や「ジョン3世」の名乗りを躊躇させた原因だ。ゆえにジョンは「ジョン」であり、「ジョン1世」ではない。

 ただし、近年、ジョンの名誉は挽回されつつあるという。したがって、今後のイギリス史研究の進展によっては、その評価が書き改められる日も遠くない、とされる(森護『英国王室史話』1986年、大修館書店、P.73~74)。

 もしかすると将来、「ジョン2世」の誕生があるかも知れないのだ。
2017年10月15日(日)
小川氏先祖書
 古文書解読の練習として、小川氏先祖書(個人蔵)を読んでみた。『旧高旧領取調帳』(明治政府が書き上げさせた江戸時代における村名・旧領主・石高等の明細簿)によると、小川氏は下総国にあった蕪里村(かぶざとむら。現、千葉県匝瑳市(そうさし)にあった)を相給(あいきゅう)支配していた領主の一人で旗本。同書には次のようにある。

 「蕪 里   代官支配所  282.5372石  
   〃    小川新九郎  406.0407 
   〃   代官支配所   1.1693 」
           〔木村礎校訂『旧高旧領取調帳 関東編』1969年、近藤出版社による〕


【史料】

  先祖書

    清和源氏         家紋十六葉裏菊並沢潟

一、七代以前 本国 尾張    小川伯耆守
       生国 尾張  正吉

 織田伊勢守ニ仕、旗奉行仕。其後信長公ニ而弐百人預、織田常真え被附候。 八拾四歳ニ而死去。法号関雲。

一、玄祖父  本国 同断 小川新九郎
         生国 同断

 信長公、織田常真ニ而働有之、感状賜に今所持仕候。其後
権現様
(徳川家康)より加々爪隼人正・前田徳善院を以再三被為 召ニ付、御家罷越、文録(ママ、「禄」)二癸巳年(1593)被召出、知行千石被下置候。年号不知、御先御鉄炮頭被仰付候。組も新規抱入被 仰渡候。其後
大猷院様
(3代将軍徳川家光)御代、五百石御加増、拝領仕候。寛永廿癸未年(1643)七月十七日、八十七歳病死。

一、高祖父  本国 同断 小川左太良
         生国 同断 安良

 大坂御陣之節、大御番之列ニ而御供仕、首弐ツ討取申候。土井大炊守
(ママ、 「頭」)致内談、奈良之後藤と申者、大坂の城内え差遣、御忠節仕候。委細は本多美濃守、水野日向守、管(ママ、「菅」)沼織部能存候由、先年私曾祖父新九郎御尋ニ而書上候節、此通書上申候。
大猷院様御代、部屋住、地方ニ而七百石被下置、大御番組頭被仰付、寛永九壬申年
(1632)六月五日、五拾壱才ニ而病死。

一、曾祖父  本国 同断 小川新九郎
         生国 同断 安則

 寛永九壬申
(1632)、父左太良跡式七百石拝領仕、大御番相勤、寛永廿癸未年(1643)、右新九郎病死仕、嫡孫ニ付新九郎跡式千五百石余拝領仕、左太良取来候七百石ハ差上申候。
厳有院様
(4代将軍徳川家綱)御代、慶安三庚寅年(1650)、大御番堀越越中守組組頭被仰付、寛永(ママ、「寛文」)十三癸丑年(1673)、病気ニ付小普請内藤出羽守組え入、天和三亥(癸亥)年(1683)六月十七日病死。

一、祖父   本国 同断 小川新九郎
        生国 同断 保顧
(やすとも)

厳有院様御代、寛文三癸卯年
(1663)、御小性大久保出羽守組え御番入仕候。天和三亥(癸亥)(1683)、新九郎跡式拝領仕候。
常憲院様
(5代将軍徳川綱吉)御代、貞享三丙寅年(1686)二月廿三日、桐之間御番被仰付、同年六月十一日、御小納戸被仰付、元録(ママ、「禄」)二己巳年(1689)八月十八日、病気ニ付首尾能御免、其後病気快ク、奉願年頭御礼申上候。御流頂戴仕、節句月置之御禮日ニも罷出申候。宝永元甲申年(1704)、御小性組え御番入被仰付、松平壱岐守組へ入相勤、其以後病気ニ付正徳弐壬辰年(1712)五月十一日、願之通小普請松前伊豆守組え入、享保二丁酉年(1717)八月二日病死。

 父     本国 同断 小川新九郎
        生国 武蔵
(「同断」の上に訂正) 保関(やすもり)

文照
(ママ、「昭」)院様(6代将軍徳川家宣)御代、宝永己丑(宝永6年。1709)四月六日、部屋住より御番入被仰付、御書院番阿部遠江守組え入。
當御代
(8代将軍徳川吉宗)、享保二丁午(ママ、「丁酉」)(1717)十一月二日、父新九郎跡式被下置、同七壬寅年(1722)正月十一日、御使番被仰付、同年秋、大坂御目附代被仰付、罷越相勤申候。同十三戊申年(1728)四月、日光御社参御供仕候。同十四己酉年(1729)十二月一日、御目付被仰付、同十七壬子年(1722)三月十五日御免、御鉄炮頭飯田惣左衛門跡御役被仰付相勤候内、延享弐乙丑年(1745)五月三日病死。

 某     本国 同断 小川新九郎
       生国 同断 正倖
(まさゆき)

 私儀、父新九郎願之通、享保十三戊申年
(1728)聟養子被仰付、享保十五庚戌年(1730)四月十一日、御目見仕候。享保廿乙卯年(1735)九月十九日、御書院御番入被仰付、久貝因幡守組え入。其後戸田備後守組之節、延享弐乙丑年(1745)五月三日、養父小川新九郎病死仕、同年八月二日、跡式無相違被下置旨、於菊之間御老中御列座、酒井雅楽守殿被仰付候。

  延享三丁寅
(ママ、「丁寅」)(1746)         小川傳蔵

水野丹波守殿
都筑長十郎殿



【注】
・家紋十六葉裏菊並沢潟
 尾張国知多郡英比郡小川はオモダカの産地として有名。その縁で当地を本国とする小川氏は沢潟(おもだか)紋を使用。
・織田常真
 信長の次男信雄(1558~1630)。常真は法名。戒名は徳源院実巌常真。大坂陣後、家康から大和松山藩5万石余を与えられた。
・前田徳善院
 前田玄以(1539~1602)。徳善院は号。
・御先御鉄炮頭
 先手組(さきてぐみ)は弓組・鉄砲組からなり、各組の長を先手頭とよんだ。戦時には先陣をつとめ、平時には江戸城諸門の警備等にあたった。
・大御番
 大番組。将軍直属の軍団で、1587年に3組設置。1632年以降12組。各組に大番頭1名、組頭4名、番士50名が所属。
・土井大炊守(頭)
 土井利勝(1573~1644)。老中、大老。1597年から秀忠に近侍し、以後秀忠第一の出頭人として絶大な権勢を振るった。1633年には下総古河で16万石余を領した。
・小普請
 旗本・御家人のうち老若・病気等により無役で3,000石以下の者。3,000石以上の者は「寄合」という。
・御納戸
 御納戸方。将軍の金銀・衣服・調度の出納、大名・旗本の進物などを司る。若年寄支配下。納戸頭2名、組頭4名、納戸24名、同心40名。
・御小性組
 小姓組。若年寄支配。6~10組に編成され、各組に番頭・組頭各1名、組衆50名が所属。将軍の身辺警護を職務。書院組番とならぶ番方で、「両番」とよばれた。
・御書院番
 書院番組。若年寄支配。10組前後に編成。各組に番頭・組頭各1名、組衆50名、与力10騎、同心20名をおく。将軍の警護、市中巡回、駿府城在番などをつとめた。
・御使番
 使番。若年寄支配。将軍上使として、大名の監察、城の受け渡しの立ち会い、二条城・大坂城など要地へ目付として出張した。
・大坂御目附代
 大坂城の警衛にあたる大坂在番には定番・大番・加番・目付があり、定番・加番は小大名、大番・目付は旗本がつとめた。
・御鉄炮頭
 若年寄支配。先手鉄砲組の長(物頭)。諸門警衛や将軍の寺社参詣時の警備にあたった。15~20の鉄砲組を支配。武勇の人を任じた。
2017年7月17日(月)
昌平坂学問所での聴講
 1797(寛政9)年、林家の聖堂学問所が、江戸幕府直轄の昌平坂学問所に改組された。昌平の名は、孔子の出身地魯(ろ)国の昌平郷にちなむ。

 学問所では幕臣だけでなく、藩士・郷士・牢人の入門も許した。学生には通いと寮生とがあった。寮には寄宿寮と書生寮があり、寄宿寮には幕臣、書生寮には諸藩士・牢人等が入った。定員は各48名だった。
 
 寄宿寮生の多くは、旗本の次・三男坊だった。家督を継ぐ嫡男ではないため、学問による公職登用を目指したのだ。

 書生寮生は、全国から選りすぐった秀才ばかりだった。そのため、学力が劣る寄宿寮生をばかにし、一方寄宿寮生も「貧乏で芋ばかり食べている」と書生寮生をからかうことがあったという。

 学問所の講義は、袴を着用していれば誰でも聴講できた(ただし四書と『小学』のみ)。今時の大学生のように、ジーンズ・Tシャツ姿は許されなかったのだ。さすがに町人は少なかったものの、聴講する者は思いのほか多く、幕臣たちも公務の合間をぬって聴講に来ていたという。

【参考】
・山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、日本放送出版協会、P.150~151
2017年5月15日(月)
目立たないはずがない
 シドッチ(1668~1715)はイタリア人のカトリック宣教師。禁教下の日本で布教するため、マニラで日本語を学習し、スペイン船に乗って来日。日本武士に変装【注】して屋久島に上陸するも、直ちに捕らえられた。その後、長崎を経て江戸へ送られ、小石川の切支丹屋敷に幽閉された。この間、シドッチを尋問して得た情報をもとに、新井白石が『西洋紀聞』や『采覧異言』などを書いたことは有名。

 それから300年。2014年に、東京都文京区の切支丹屋敷跡から3体の人骨が出土。2年後の2016年4月、文京区は「人骨の1体はシドッチである」と発表した(朝日新聞2016(平成28)年4月5日(火)による)。

 国立科学博物館でDNA鑑定等を行った結果、人骨の一つは「170cm超の中年イタリア人男性」と判明。文献に残る特徴から該当する人物はシドッチしかおらず、「ほぼ間違いない」とされた。禁教下の宣教師で、個人が特定された人骨は、シドッチが初めてという。ちなみに、残る2体の人骨は牢の役人夫妻(夫妻を入信させたため、シドッチは地下牢で獄死することになった)の可能性が高いとされた。

 それにしてもシドッチは、着慣れない着物に身を包み、刀を腰に差して、日本人武士に変装したつもりでいた。日本語を学習していたとはいえ、そのレベルは「其(その)いふ所のことばも、聞(きき)わかつべからず」(『西洋紀聞』)という程度だった。そんなことで、日本人の中に紛れ込むことができると、本気で思っていたのだろうか。しかも彼は長身で、生前には175.5~178.5cmくらいあったということがわかっている(当時の日本人の平均身長は150cmくらい)。目立たないはずがなかろう。

 シドッチの珍妙なコスプレの背後には、布教のためなら死をも辞さない覚悟があったわけだから、かえって気の毒である。


【注】

 シドッチの扮装は「さかやき(頭の中央の髪を剃り上げた男子のヘアースタイル)、ここの人(日本人)のごとくにして、身には、木綿の浅黄色(あさぎいろ)なるを、碁盤(ごばん)のすじのごとくに染(そめ)なしたるに、四目結(よつめゆい。家紋の一種)の紋あるに、茶色のうらつけたるを着て、刀の長さ二尺四寸餘(約72cm)なるを、我國の飾(かざり)のごとくにしたる一腰(ひとこし)をさしたるなり」というようなものだった(新井白石著・村岡典嗣校訂『西洋紀聞』1936年、岩波文庫、P.28)
2017年4月24日(月)
日曜日は見学の1日
 日曜日(4月23日)は晴れ。午前中、国立新美術館(六本木)にミュシャ展を見に行った。ミュシャ畢生の大作「スラブ叙事詩」が来ているからだ(チェコ国以外では世界初公開)。20枚に及ぶ巨大な絵画群(最大のものは縦6m×横8mもある)だったが、大勢の入場者でごった返し、1枚全部を視界に入れることができない(下の方が見えない)。そのうち、人混みに酔ってしまった。

 午後は迎賓館(赤坂)へ。迎賓館赤坂離宮は、もともとは東宮御所として建設されたもの。敷地は、かつて紀州徳川家の中屋敷のあったところだ。建設の総指揮者は、明治の建築家片山東熊(かたやまとうくま)。地上二階、地下一階の鉄骨補強レンガ造で、わが国唯一のネオバロック様式の西洋風宮殿建築。2009(平成21)年、本館・正門・主庭噴水などが、明治維新以降の建造物としては初めて国宝に指定された。

 「庭だけでも見学できれば…」と思って行ったが、幸いにも本館内部まで見学できた。手荷物検査後、券売機で入場券(1,000円)を購入して入場。豪華絢爛かつ和様折衷の内装に興味津々。ミュシャ展では若者の姿が目立ったが、ここでは場所柄、バスツァーの年配見学者が多かった。

 それはさておき、すがすがしい天気のもと、久しぶりに目の保養をした一日だった。
2017年3月9日(木)
体育会系で理系
 徳川吉宗(1684~1751)は色黒で顔にあばたがあり、身長が6尺(約1.8m)あった(ただし死去時の身長が20cm以上小さく、これを疑問とする説がある)。江戸時代は、日本人の身長が一番低かった時代だ。狩猟の時、800人ほどの勢子(せこ)に囲まれても、吉宗の頭は一つ飛び出して見えた。腕力も強く、鉄砲を2発撃っても倒れず突進してくる大猪を、持ち直した鉄砲の一打ちでたたき殺してしまった。その大猪は、運ぶのに人夫15,6人を要したという。

 身体も頑強で、厳寒でも襦袢(じゅばん)を下に着ることがなかった。1日3食の食習慣が一般に行き渡っていた時代だったが、一汁三菜、1日2食を厳しく守った。

 狩猟が好きで、廃止されていた鷹狩を復活し、野山を駆け巡った。その耽溺(たんでき)ぶりは「上(かみ。将軍)のおすきなもの、御鷹野と下(しも。庶民)の難儀」と皮肉られた。

 狩猟に使う馬も偏愛した。長崎に来たオランダ人が乗馬の名手と知ると、人を長崎に遣して習わせ、のちにはそのオランダ人を江戸に呼び寄せた。下総国(千葉県)に馬の牧場を開いたり、ペルシア馬を海外から取り寄せた。

 これだけ見ると、吉宗は明らかに体育会系だ。一方、学問についてはどうか。

 歴代将軍が好んだ詩歌管弦(しいかかんげん)等に、吉宗はまったく関心を示さなかった。そのため、「御文盲(ごもんもう。文字が読めず教養がない)」・「無骨(ぶこつ)」などと側近による吉宗評は厳しい。

 しかし、実学(実用の学問)に対しては異常な関心を示した。詩歌管弦等を除く、政治・法律・歴史・地理・天文等あらゆる分野に関心を持ち、それらの書物を読みあさっては、人にも勧めた。またデータ魔で、江戸城内に桶を据えては毎日雨量計測を行っては記録し、浅草の米相場を紙片にびっしりと記入しては米価の動きを研究していた。自ら実験・観測・観察して、実証しなければ気が済まない性格だった。

 また、「吉宗が怒って大声を出すのを聞いたことがない」という証言がある。感情に動かされない、冷静な頭脳をもっていたのだろう。

 からだは頑健で頭脳は明晰。これって「体育会系で理系」ということかな。

【参考】
・大石慎三郞『大岡越前守忠相』1974年、岩波新書、P.31~38
2017年2月18日(土)
カイコの糞からつくったものは
 世界遺産の「白川郷・五箇山の合掌造り集落」で知られる五箇山。当地は山岳地帯にあたり、稲作に適した平坦な土地が少なく、農業はわずかな畑作などに限られていた。そのため、それに代わる産業として盛んに行われていたのが、養蚕・和紙漉き・塩硝生産だった。養蚕・紙漉きはさておき、塩硝とはいったい何に使うものだろう。

 塩硝(硝酸カルシウム)は「煙」硝・「焔」硝とも書かれる。塩硝に木炭・硫黄を配合すると黒色火薬になるからだ。つまり、火薬の材料という物騒な代物(しろもの)を、山中で作っていたわけだ。

 種子島への鉄砲とともに、わが国に黒色火薬の製法も伝わった。種子島から紀州根来に鉄砲・火薬の製造法が伝わったころ、石山本願寺の浄土真宗布教の過程で、五箇山へ火薬材料の塩硝製造の技術が伝わったらしい。

 わが国では硝石を産しない。そのため、古土法(こどほう)という方法で、塩硝(硝酸カルシウム)が製造された。それは、古い民家の床下の土をかき集め、これに水を加えて垂れ水を取る。この液を濃縮し灰汁(あく)と混合して濾過・濃縮・精製するという方法だった。その原理は、空気に触れた土の表面部分で硝化細菌がアンモニアを酸化し、それによってできた硝酸塩を抽出するというものである。ただし、この方法では、アンモニアの供給量が少ないので土中に含まれる硝酸塩量も少なく、大量生産には向かなかった。

 しかし、五箇山では独特の方法によって、塩硝を大量生産していた。すでに石山合戦で本願寺(当時の五箇山住民はみな本願寺門徒)に塩硝を進上していた五箇山の年間塩硝生産量は、幕末の慶応2(1866)年には年間40tを越えているのだ。

 板垣英治氏の推測によると、古くからこの地方で養蚕を行っていたことが鍵だという。

 紀州根来に鉄砲が伝わり、この地方でも古土法による塩硝生産が試みられた。ある時、蚕糞を処理するつもりで床下あたりに積んでいたところ、その周辺の土が白い粉を吹きだしていることに気づいた。硝酸カルシウムだった。床下の土に蚕糞を混ぜて放置すると、多量の塩硝が得られることを知ったのである。これに乾燥した野草を加えたり、土の種類を選ぶ等の改良を試み、五箇山では新たな塩硝培養法を完成した。以上が板垣氏の推測である。

 しかもこの方法は「外国では見られず、わが国では五箇山の70ヶ村と飛騨白川のみに行われていた独特のもの」(板垣氏による)なのだという。

【参考】
・板垣英治「加賀藩の火薬 1.塩硝及び硫黄の生産」(『日本海域研究』第33号、2002年、P.111~128)「金沢大学学術情報リポジトリ」(http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/)2017年2月10日閲覧。
2017年2月11日(土)
町に住んでる農民は「百姓」?or「町人」?
 地方の小城下町だった笠間(常陸国。現、茨城県笠間市)には、町方の家業がわかる史料(『町方軒別書上(まちかたのきべつかきあげ)』、延宝2(1705)年)が遺されている。それによると町方464戸のうち、最も多い家業は「地作(じづくり)」で、114戸もあった(林玲子・大石慎三郎『流通列島の誕生 新書・江戸時代⑤』1995年、講談社現代新書、P.66~69)。

 「地作」というのは農業従事者のことだ。114戸は、全体の24.6%に相当する。笠間城下に住む町方の、4軒に1軒は農家だったのだ。しかし、彼らは「百姓」ではない。

 笠間は城下「町」だったので、そこに住んでいる人間は「町人」身分だった。支配者が笠間を「町」と決めてしまったので、農民であっても「百姓」身分を認められなかったのだ。
2017年2月9日(木)
あぐろ
 勇猛果敢だった阿弖流為(アテルイ)は、「悪路王(あくろおう)」の名で伝説化した。たまたま川崎洋『ことばの力』(岩波ジュニア新書)を読んでいたら、相澤史郎氏の「野ざらすの北」という詩が載っていて、悪路王を東北訛りで「あぐろ」ということを知った。同書に引用されていた「著者自註」には、次のようなことが書かれていた。


 「あくろ」とは村主
(すぐり)のことで、東北地方では「すぐり」を「あぐり」と訛るので、悪路と漢字が当てられたとみたい。


 「あくろおう」というのはてっきり「あてるい」という音からの連想かと思っていた。阿弖流為が東北胆沢の蝦夷の長、すなわち「あぐり」だったので「あぐろ(悪路王)」とよばれたという説だ。古代の朝鮮系渡来人が使用していた「村主」という言葉が、はるか東北地方で根を下ろしていたという事実を初めて知り、軽い感動をおぼえた。
2017年2月5日(日)
神様・仏様が好きなもの
 京都は、平安時代以来皇居の所在地として、また室町時代には幕府所在地として、政治・文化・経済の中心だった。応仁の乱でいったん衰退したもの、西陣織をはじめとする高級手工業品の生産都市として、江戸時代には大いに栄えていた。

 江戸時代の京都には、高級工芸都市という顔のほかに、巨大金融資本の所在地という、もう一つ顔があった。日本中の資金が京都に集まっていたのだ。

 なぜなのか。それは、京都が「八百八寺」とも称される名だたる寺社が多数集まる宗教都市でもあったからだ。

 商人たちが金を貸す場合、借金を踏み倒される場合がある。どうすれば、借金の踏み倒しをできるだけ少なくして資金を回収できるか。そこで考えついたのが、いったん寺社に資金を預け、寺社から一般に貸し出すという仕組みだった。これを「名目貸し」という。

 信仰心が現在よりは強かった江戸時代のことだ。借金する側としては、神仏から借りた金を、いとも簡単に踏み倒すのは気が引けた。全国の金持ち連中は、こうした寺社の資金回収機能に目をつけた。自らの資金を京都の寺社に預け、そこから一般に貸し出してもらうことにしたのだ(林玲子・大石慎三郎『流通列島の誕生/新書江戸時代⑤』1995年、講談社現代新書、P.13~14)。

 神社・寺院が金持ち連中の手先になって、煩悩にまみれた人々にお金を貸し出すのだ。本当に俗っぽい。

 ところで、こどもに

   「かみさまやほとけさまにおねがいするのに、どうしてお金がひつようなの?」

と質問されたことがある。神社や寺院に賽銭箱が置いてある理由を、われわれ大人はどう答えればよいのだろう。ちなみに、にしあきのぶ君(6歳)は、次のように言っているけど。


      おさいせん   
 
   おさいせんをいれるのは
   かみさまもおかねがすきなのです。

                 
 (川崎洋『ことばの力』1981年、岩波ジュニア新書、P.108)
2017年1月31日(火)
日本人横綱誕生で茨城県の魅力度アップ?
 稀勢の里(きせのさと)が横綱になった。久々の日本人横綱の誕生だ。横綱になった力士は「土俵入り」という儀式をする。これは地鎮祭(建築開始時に整地したあと、土地の中央に竹囲いで結界を作り、地の神に静まってもらう儀式)と同じ宗教的儀式だ。

 土俵は、場所ごとに、新たに土を固めて造られる。相撲の土俵は、四角い土壇の上に俵を環状に並べて造られる。四角は地を、円は天を表現している(天円地方)。ゆえに、中国の皇帝が天を祀る天壇も天円地方だ。

 余談だが、昔の貨幣は、一枚の中に「天地」を表現していた。和同開珎などが円形で、中央に四角の穴があるのは、この「天円地方」を象(かたど)っている。後醍醐天皇が鋳造をめざし、計画倒れに終わったされる貨幣「乾坤通宝」の「乾坤」は、まさしく「天地」の意である。

 さて、蔵前国技館の土俵上には、4本の柱を取っ払ってしまった「吊り屋根」が懸かっている。かつて相撲が屋外で行われていた名残りだ。それを観客から見やすいようにするため、邪魔者の柱を取り除いてしまった。テレビ中継という時代の要請に応じたものだろう。

 空中に所在なく浮かんだ屋根の四隅には、なくしてしまった柱の代用として、色のついた「房」がぶら下がっている。陰陽五行の木火土金水(もっかどこんすい)の「五色」に応じて東に青房、南に赤房、西に白房、北に黒房が配されている(「五色」のうち、残る一色の黄色は、土俵の土の色で表現している)。これで「四神(東に青竜、南に朱雀、西に白虎、北に玄武)相応」のめでたい地相を表現しているのだ。
 
 新造された土俵の仕上げ作業が「横綱土俵入り」だ。最強力士たる横綱は、腰に注連縄(しめなわ)を張り、四神の見守る結界(けっかい)で土俵入りし、かしわ手を拍ち、力強く四股(しこ)を踏んで地から天へせり上がる。四股を踏むのは地の陰を鎮める所作であり、せり上がるのは天の陽へと祈り上げる呪術的作法という。

 ところで、稀勢の里は茨城県牛久市出身の横綱。せっかく「魅力度最下位」というオイシイ宣伝文句で、県名認知度が急上昇している茨城県。「茨城県出身横綱の誕生で、県の魅力度がアップして、最下位を他県に奪われたらどうしよう!」といらぬ心配をしているところだ。

【参考】
・戸矢学『陰陽道とは何か』2006年、PHP新書、P.77~78
2017年1月6日(金)
5+5=10
 室町文化は仏教と縁が深い。

 水墨画は寺院の画僧によって描かれた。如拙(じょせつ)の『瓢鮎図(ひょうねんず)』は、「瓢簞でぬるぬるしたナマズを捕まえるにはどうすればよいか?」という禅宗の公案をビジュアル化した禅機画の一例だ。

 寺院の枯山水の庭園は、水墨画を3D(スリーディー)化としたものと言っていいかもしれない。名園の多くは、夢窓疎石ら石立僧(いしたてそう)によって造られた。

 小野妹子を始祖と見なす生花も、仏像や祖師に供える「供花(くげ)」から始まったものだ。

 お茶は、鎌倉時代、栄西が中国から茶種をもちこんでから一般にも広まったが、最初は薬としての一面が強かった(『喫茶養生記』)。それが「嗜好品としての茶」「楽しみの茶」(一服一銭・闘茶・茶寄合など)となり、侘茶を経て今日の「茶の湯」となった。

 仏教との関わりを裏付ける痕跡が、生花の池坊や茶の湯の三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)などに残っている。今日でもこれらの家元は寺院に入って得度し、出家する形式をとっている。

 たとえば、三千家の家元の名前には、表千家宗左、裏千家宗室、武者小路千家宗守というように「宗」の一文字が入っている。これは家元が大徳寺に入り、在家のまま得度して法名をもらい、その法名がそのまま茶名になっているからだ。半僧半俗の証拠に、家元は「十徳(じっとく)」という絽(ろ)でつくった墨染めの羽織を着ている。

 ところで、茶人が着る羽織を、なぜ「十徳」と呼ぶのだろう。落語の「十徳」でも、八つぁんがそのいわれをご隠居に質問している。ご隠居が答えるに、「これを着て立つと衣の如く(五徳)、すわると羽織の如く(五徳)見えるだろ? つまり、如く(五徳)と如く(五徳)を足して十徳だ」。

 なお、辞書には「僧服の『直綴(じきとつ)』の転という」と書いてある(広辞苑第5版)。