2016年12月30日(金) |
江戸幕府が日本船の海外派遣をあきらめた背景 |
島原・天草一揆の鎮圧に、江戸幕府は多大な犠牲を払った。一揆勢のなかにキリシタンが多数参加していた事実を重く見た幕府は、貿易と布教を一体と考えるポルトガル人の追放を模索し始めた。
しかし、ポルトガル人と断交すれば、生糸・絹織物をはじめとする生活必需品の輸入が途絶してしまう。これらは中国産だったが、中国からの輸入量は少なかった。その大部分は、ポルトガル人の中継貿易に依存していたのだ。ポルトガル人の追放は、品不足による生活必需品の価格高騰と流通市場の混乱を意味した。
そこで幕府は、日本船の海外派遣の復活を考えた(1635年、日本人の海外渡航と帰国は全面禁止されていた)。しかし、この件について諮問を受けたオランダ人は、否定的な回答をした。「もし日本船が東アジア海域に進出すれば、追放されたポルトガル人とその同盟国のスペイン人が攻撃をしかけてこよう」と。同時に彼らは、次のように確約した。「これまでポルトガル人がもたらしてきた以上の物を、オランダ人なら持ってくることができる」と。
かくして幕府は、ポルトガル人の追放を決断した。こうしてオランダ人は、まんまと商売がたきのポルトガル人にとって代わることに成功したのだ。
【参考】
・山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、日本放送協会、P.36~37 |
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2016年12月27日(火) |
書院造 |
東山文化で登場する「書院造」の「書院」とは机のことだ。
読書をしたり物を書いたりするのに、机上に明かりは必須だ。平安時代の寝殿造は板戸(いたど)や蔀戸(しとみど)だったので、戸を閉めると室内が真っ暗になった。書院造では、戸外の明かりをとりこむ必要から、格子状にした木枠に障子紙を貼った引き戸を取り付けた(明かり障子)。明かり障子の前にある作り付けの机が、付け書院だ。
さらに、寝殿造にはなかった天井板を張った。屋外の日射しは障子を通して室内に導かれ、天井板に反射して、室内を柔らかく照らした(間接照明)。天井板はまた、屋根裏へと逃げる暖気を室内にとどまらせ、冬の寒気を和らげた。総じて、屋内生活が快適になった。
寝殿造では、室内に几帳(きちょう)や屏風を立て回して、個人のスペースを確保した。書院造になって襖や障子で仕切った部屋が成立し、よりプライベート性が増した。
書院造で特筆すべきは、座敷の成立である。寝殿造の室内はフローリングだったため、直接座ったり寝たりするには床がかたく、畳が座布団代わり・マットレス代わりに使用された。一方、書院造では、そうした「座」具としての畳を部屋一面に「敷」き詰めた。すなわち「座敷」だ。座敷の成立は、茶の湯・生花などその上で営まれる生活文化を発展させた。わが国最初の座敷は、慈照寺(じしょうじ)東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)の四畳半とされる。
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2016年12月23日(金) |
複雑だと覚えていられない |
江戸幕府の所領(幕領)は、郡代・代官が支配する直轄領(いわゆる「天領」)と諸藩に管理をまかせた預所(あずかりしょ)をあわせ、幕末まで500万石前後を維持していた。全国をいくつかのブロックに分けて、この500万石の分布をみたのが、次の順位だ。
1位 北陸 174万石(34.8%)
2位 関東 102万石(20.4%)
3位 近畿 80万石(16.0%)
4位 東海道 76万石(15.2%)
5位 中国 46万石( 9.2%)
6位 四国・九州 22万石( 4.4%)
1位は北陸地方。本百姓が生産する年貢米に貢租収入の基礎をおいた江戸時代。幕領が米どころに集中しているのは納得できる話だ。2位から4位についても、江戸幕府の根拠地関東と、経済の中心地近畿、そしてその両者を結ぶ東海道と、これらの順位はうなずける。
ともかくも、米の大生産地域や政治・経済・交通等の重要地域を中心に、幕領はほぼ全国にわたっている。さらに、大名・寺社などを相互監視させる支配上の意味合いから、幕領は各地に分散され、大名領・寺社領等に複雑に入り組むように配置された。
しかし、配置があまりにも複雑すぎたため、時代を経るにつれ、幕府でさえその掌握が困難になっていった。北島正元『江戸時代』によると、「すでに享保ごろに将軍以下幕閣の首脳部はだれも能登に1万4000石余の幕領があったことを知らず、能登は全部加賀藩の領地とばかり思いこんでいた」という。
現在、金融機関でもコンピュータでも、パスワードの登録には「英数字を大小取り混ぜて、他人から類推されないように」と指導される。しかし、複雑にしすぎると、当の本人さえ覚えていられなくなってしまう。昔も今も同じだ。
【参考】
・北島正元『江戸時代』1958年、岩波新書、P.35~37 |
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2016年12月21日(水) |
薬師寺東塔 |
12月20日(火)付けの朝日新聞に、「薬師寺東塔 平城京で新築」という記事が載った。薬師寺東塔をめぐっては明治時代以来、藤原京からの「移築説」と平城京での「新築説」が対立していた。それが、「新築説」に軍配があがった、というのだ。
決め手は、東塔の解体修理で取り外された天井板と心柱の年輪年代測定の結果。いずれの伐採年も、710年の平城京遷都よりあとだった。加えるに、「730年に薬師寺東塔の建造を開始した」とする『扶桑略記』の記述とも一致。科学的測定の結果が史書の記述とも一致したのだ。
そういえば、家のどこかに薬師寺東塔のペーパークラフトがあったはずだ。数十年前に買ったものの、その部品の多さに面倒になり、組み立てるのを放棄していた。おそらく、わが家の東塔は、永遠に未築のままだ。 |
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2016年12月19日(月) |
出替奉公(でがわりほうこう) |
江戸時代の奉公には、終身雇用の「譜代奉公(ふだいぼうこう)」、10年程度の長期雇用の「年季奉公(ねんきぼうこう)」、短期雇用である「出替奉公(でがわりほうこう)」などがあった。
「出替奉公」は1年または半年契約が普通で、1年(1季)契約の奉公人を「一季居奉公人(いっきおりほうこうにん)」、半年(半季)契約の奉公人を「半季居奉公人(はんきおりほうこうにん)」といった。
3月5日と9月5日が出替り期で、この日に新たな奉公先での奉公が始まった。出替り期を固定したのは、無職の者を江戸から一掃するという治安上の理由からだった。この出替り期を詠んだ川柳に、
五日より五日までなり下女の恋
(下女奉公は3月5日から翌年の3月5日までと決まっていた。その間のはかない恋)
というのがある。
新入りは「新参者(しんざんもの)」といった。江戸には大店(おおだな)がひしめき、「江戸中の白壁(しらかべ)は皆旦那」といった。江戸では奉公先に困ることはない、という意味である。
しかし、出替奉公は短期雇用であるため、主家に対する忠誠心は薄かった。また、奉公先がくるくる変わるので、技術の修得や向上も困難だった。こうした問題点は、現在の非正規雇用者を取り巻く状況と似ている。
【参考】
・一般財団法人日本職業協会HP
(http://shokugyo-kyokai.or.jp/shiryou/gyouseishi/01-2.html)2016年12月19日参照
・法務省大臣官房司法法制部「法史の玉手箱(法務史料展示室便り第38号)」
-法務省HP(http://www.moj.go.jp/housei/tosho-tenji/housei06_00015.html)2016年12月19日参照- |
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2016年12月18日(日) |
世界遺産検定を受けてきた |
少しでも視野を広げたいと思う。しかし、何か目標がないと勉強が続かない。そこ世界遺産検定(3級・2級)を受験しようと思い立ち、勉強を続けてきた。
受験本番はマークシート方式の解答形式だったので、時間はかなり余った。しかし、似たような人名・地名・用語等が多く、頭の中はそうしたカタカナの来襲に振り回された。
結果は来年。大学を受験する生徒のように、どきどきしながら待つことにしよう。
【追記】後日、認定日が2017年1月10日付けで、3級・2級の認定書(カード)が届きました。 |
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2016年11月27日(日) |
認定書 |
8月12日(金)に倒れた母が、3カ月の闘病生活ののち、11月14日(月)に他界した。
母は、農家の三男二女の第三子として生まれた。家が貧しく、「女に学問は必要ない」という時代風潮もあって、小学校にしか行かせてもらえなかった。その後、看護婦・助産婦として働きづめで二人の息子を育て、7年前に5年間寝たきりの父をあの世に見送り、そして今度は自分が逝った。
心臓に持病があった母は、早くから死への準備をしていた。葬儀代としての預金通帳と、来年成人式を迎える孫の祝儀袋以外は、最低限の生活用品しか残さなかった。
そんな母のわずかな遺品の中に、ビニール袋に入った数枚の認定書があった。高齢の母が挑戦した漢字検定の合格証だった。7級からはじまって、6級、5級、4級、3級、準2級と、全部で6枚あった。母が段ボールで手作りした本箱には、俳句の本などとともに、手垢で真っ黒になった漢和辞典や問題集が並べられていた。
今月20日(日)、故人の生前の希望もあり、こぢんまりとした家族葬で、母をあの世へと見送った。
母の柩にはたくさんの花とともに、遺品の本を入れてやった。あの世に行ったらきっと、自分が十代の頃にはできなかったいろんな勉強を、好きなだけやるに違いない。
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2016年11月6日(日) |
横浜港が幕末の貿易窓口になったのはなぜか |
幕末から明治初期にかけて、日本の貿易窓口の中心は箱館港でも長崎港でもなく、横浜港だった。なぜか。
それは、北関東に生糸生産地があったからだ。
ヨーロッパでは伝染病のために蚕が死滅し、製糸業が壊滅状態だった。そこで、生糸や蚕卵紙(紙に産み付けた蚕の卵)の供給元としての役割が、日本に期待された。高等学校の日本史教科書を開いて、1865年の貿易状況を見ると、日本からの輸出品のうち実に79.4%が生糸だったことがわかる(蚕卵紙は3.9%)。
当時の開港場に最も近い製糸業地帯は、北関東農村だった。世界遺産になった「富岡製糸場と絹産業遺産群」も群馬県にある。
だから、生糸生産地に近い横浜港が賑わったのだ。
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2016年10月25日(火) |
御の字 |
仁和寺(にんなじ。京都左京区)は、10世紀に宇多天皇(867~931)が落髪・出家して入った寺。寺内に居室を開き、これを御室御所(おむろごしょ)といった。仁和寺やその周辺を「御室(おむろ)」と称するのは、これに由来する。
11世紀に藤原道長(966~1027)が建立した法成寺(ほうじょうじ。京都上京区)。焼失してしまって現存しないが、その華麗な寺容から「御堂(みどう)」とよばれた。
12世紀に俊芿(しゅんじょう。1166~1227)が再興した泉涌寺(せんにゅうじ。京都東山区)。四条天皇(1231~1242)の山陵が造営されて以後、歴代天皇・皇后の葬儀の多くを当寺で行った。ゆえに皇室の菩提寺と見なされ、「御寺(みてら)」と称された。
これらは、対象物の権威や関わった貴人への敬意から「御」の字がついている。
さて、今日の朝食で飲んだのは「御御御汁(おみおつけ)」。「御」の字が三つもついている。どのような謂われがあるのだろうか。「御室」「御堂」「御寺」でさえ、それぞれ一つずつなのに。
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2016年10月23日(日) |
酒の上での失敗 |
いつの時代でも、酒で失敗する人は多い。昔は始末書をとられた。次に紹介する史料(個人蔵)はその一つ。
内容は、百姓七郎右衛門(しちろうえもん)が、親類与兵衛(よへい)宅で催された紐解(ひもと)き祝い(七五三の祝い)の席上泥酔し、名主(大木幸太夫)に非礼を働いた。七郎右衛門の非礼を陳謝するため、菩提寺の長徳寺らが詫人(わびにん)となって謝証文(あやまりしょうもん)一札を名主に差し出した、というもの。
古文書解読の練習がてら読んだものだから、間違いがあるかも知れない。読みやすいように、適宜句読点や読み方を付し、改行した。
【史料】
以書取、御詫願奉申上候(かきとりをもって、おわびねがいもうしあげたてまつりそうろう)
一(ひとつ)、御支配内(ごしはいない)百性(姓)、蕪里村(かぶざとむら)七郎右衛門儀ニ付(つき)、
詫人(わびにん)一同奉申上候。當月(とうげつ。11月)十五日、右七郎右衛門、親類与兵衛紐解之祝ひ(ひもときのいわい)有之候(これありそうろう)ニ付、本家之事故(ほんけのことゆえ)罷越(まかりこし)、取世話致(せわとりいたし)有之候処(これありそうろうところ)、外客来も有之、且又(かつまた)其御許(そこおんもと)幸太夫様(こうだゆうさま)御来臨御座候ニ付(ごらいりんござそうろうにつき)辱次第(かたじけなきしだい)、御禮(おれい)御馳走(ごちそう)可申上(もうしあぐべし)と存(ぞんじ)、次第長座ニ相成(しだいにちょうざにあいなり)、却而(かえって)自分熟酔仕(じぶんじゅくすいつかまつり)、前後忘却致(ぜんごぼうきゃくいたし)罷有候処(まかりありそうろうところ)、翌日十六日預御察當(ごさっとうにあずかり)、恐入(おそれいり)、夫〃(それぞれ)詫人相頼(わびにんあいたのみ)、御詫申上候処(おわびもうしあげそうろうところ)、御聞済無之(おききすましこれなく)、
[抬頭(たいとう。尊敬すべき語を改行して、行頭にもってくること)]御地頭所様(ごじとうしょさま。領主)御訴之趣(おんうったえのおもむき)被申聞候由(もうしきかされそうろうよし)驚入(おどろきいり)、無據(よんどころなく)菩提所拙寺(ぼだいしょせつじ。長徳寺)え欠込(かけこみ。駆け込み)、剃髪致度由(ていはついたしたきよし)被相願候(あいねがわれそうろう)。
左候而(さそうらいて)は一家退轉(たいてん)ニも相成(あいなり)、不相済儀(あいすまざるぎ)と存(ぞんじ)、難黙止(もくししがたく。難黙視)、御出府途中(ごしゅっぷとちゅう。江戸へ向かう途中)御休場迄(まで)罷越(まかりこし)、外(ほかの)詫人一同御歎願(たんがん)申入候処(もうしいれそうろうところ)、一旦(いったん)御宥免(ごゆうめん)も成兼(なりかね)、尚又(なおまた)外(ほかに)御急用向も有之ニ付、江戸表ニ而(て)十日之御猶豫(ごゆうよ)成被下(なしくだされ)、難有奉存候(ありがたくぞんじたてまつりそうろう)。
依之(これにより)、追〃(おいおい)詫人為惣代(そうだいとして)重右衛門出府仕(しゅっぷつかまつり)、御歎願申上候。何卒(なにとぞ)格別之御慈悲を以(もって)、一家取立同様と被思召(おぼしめされ)、詫人え御下ケ(おさげ)成被下候ハヽ(なしくだされそうらわば)、七郎右衛門は勿論(もちろん)不及申(もうすにおよばず)、親類詫人一同難有仕合(ありがたくしあわせ)ニ奉存候。以上。
弘化二(1845年) 十一月日
詫人
菩提所
横須賀村
長徳寺○(印)
同断
伊藤又一郎知行所
宮川村
名主後見
重右衛門○(印)
同断
内藤伊豫守知行所
宮川村之内入郷
組頭
治右衛門○(印)
小川新九郎様御内
大木幸太夫様
【注】
・謝証文 あやまりしょうもん。「誤証文」とも記載され、過状(かじょう)・怠状(おこたりじょう)ともいう。謝罪状のこと。
・蕪里村 下総国匝瑳郡(そうさぐん)にあった村名(現、千葉県匝瑳市)。『旧高旧領取調帳』(明治政府が書き上げさせた江戸時代における村名・旧領主・石高等の明細簿)の蕪里村・横須賀村・宮川村に関する記載は、次の通り。一つの村に何人もの領主がいた。これを相給(あいきゅう)という。
蕪 里 代官支配所 282.5372石
〃 小川新九郎 406.0407
〃 代官支配所 1.1693
横須賀 佐倉藩 270.19127
〃 代官支配所 5.7650
〃 多田金之助 187.79566
〃 飯河権五郎 111.88383
〃 大河内杢之助 41.25848
〃 井上健次郎 26.4923
宮 川 内藤越中守 765.1200
〃 伊藤弥三郎 256.4120
〃 荒木与五郎 113.3300
〃 妻木久之丞 7.2100
〔木村礎校訂『旧高旧領取調帳 関東編』昭和44年、近藤出版社、342~344ページ〕
・紐解之祝ひ 七五三の五歳の祝い。中世末、男女とも5歳になると、それまでのつけ紐の着物から小袖に着がえさせ、帯を締めさせ る儀式をした。これを紐とき・帯なおしなどと呼んだ。江戸時代になるとほぼ現在の都会で見られる七五三の行事の原型(11月15日に3歳の男女児、5歳の男児、7歳の女児に晴着を着せて神社に詣る習俗)ができた。〔大塚民俗学会編『日本民俗事典』昭和47年、弘文堂、直江広治氏「七五三」の項参照〕
・幸太夫様 蕪里村名主大木幸太夫。
・御察當 さっとう、さっとと読む。違法な行為を咎めたり糾明すること。
・退轉 たいてんと読む。破産して立ち退くこと。途絶すること。
・御地頭所様 地方知行を給付された領主。
・長徳寺 真言宗智山派。山号は龍胴山地蔵院。平安末、源頼義の六男長善の開基と伝える。
・小川新九郎 小川氏は清和源氏の流れを汲み、尾張国知多郡英比郡小川を本拠とした。先祖小川伯耆守正吉は織田伊勢守に仕えて旗奉行をつとめ、のち信長のもとで二百人預り、その子信雄につけられた。正吉の子新九郎は文禄2年に知行1,000石で徳川家康に召し抱えられ、その後鉄砲頭をつとめ、家光時代に500石を加増。新九郎の子左太良安良は大坂の陣で首二つをあげる働きをした。その後、代々徳川氏の旗本として小川新九郎を称した(延享三年「小川氏先祖書(写)」による)。
・知行所 知行所は旗本領を示す。訴訟などで当事者・関係者が他国・他領に及ぶ場合、支配関係・住所・役職・名前の順に記入するのが原則。支配関係の記載法は次の通り。
①幕府直轄地で
a.代官支配→「○○様(殿)御代官所」
b.大坂城代・京都所司代・甲府勤番支配など重要な遠国役人に幕府が役料として支給
→「御役知」
c.大名・遠国奉行・旗本に支配を委任
→「御預所」
②大名領→「御領分」
③宮堂上家(みやとうしょうけ)→「御家領」
④三卿領→「御領知」
⑤旗本→「御知行所」 |
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2016年10月14日(金) |
地獄に堕ちた源義家 |
源義家(1039~1106)は1083(永保3)年、陸奥守兼鎮守府将軍として東北に赴任。任国で清原氏の内紛が起こるとこれに介入し、私兵をもって鎮圧した(後三年合戦)。乱平定後、義家はさかのぼって清原氏追討の官符発行を朝廷に奏請。しかし、朝廷はこの争乱を私闘と断じて官符発行を拒否。恩賞を行わなかった。
乱平定の翌1088(寛治2)年、朝廷は義家の陸奥守重任を認めず、これを解任。1091(寛治5)年には、義家の名声を頼った諸国百姓の田畑寄進を禁じた。さらに翌年、「前陸奥守義家朝臣構立諸国庄園」の停止を命じた。義家の勢力強大化を嫌ったのだ。
後世、「猛将武略、通神人也、弓馬達者」(『尊卑分脉(そんぴぶんみゃく)』)と評された義家。しかし、殺人を生業とする義家に対する当時の人びとの評判は、必ずしも芳しいものとは言えなかった。今様(いまよう。平安期の流行歌)に「同じき源氏と申せども八幡太郎(義家)は恐ろしや」と歌われるなど、畏怖される対象だった。義家没後、子の義親(よしちか。?~1108)が平正盛(?~?)に討たれると「罪のない人々を殺害した積悪が、その子孫に及んだのだ」(『中右記』)と酷評された。鎌倉時代に成立した説話集『古事談』では、人殺しの罪業によって義家は無間地獄(むげんじごく)に堕とされている。
【参考】
・阿部猛「歴史教育の源流」(『講座歴史教育1・歴史教育の歴史』1982年、弘文堂) |
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2016年10月2日(日) |
「泣く子と地頭には勝てぬ」の「地頭」とは? |
「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺がある。泣いて駄々をこねる幼児(赤子)には、論理だった理屈が通じない。いくらなだめすかしても、泣き止まぬ子に親はお手上げだ。おなじく「地頭」のような権力者が相手では、無理難題をふっかけられても一般庶民は泣き寝入りするしかない。そんな諦めのニュアンスが、この諺には込められている。「地頭に法なし」という諺さえある。
「地頭」という言葉は、平安末から鎌倉時代にかけて登場する。平氏が西国武士を家人化し、各地の荘園に置いたのが「地頭」だ。源頼朝が1185年、謀反人・凶徒の取締りを名目に、全国の荘園・公領に配置した武士も「地頭(本補地頭)」といった。
しかし、上の諺に登場する「地頭」は、こうした中世の地頭を指したものではない。たとえば、「泣く子と地頭には勝てぬ」の出典として、『日本国語大辞典』は天明6(1786)年成立の文献を引用している。もっぱらこの諺が使用されたのは、江戸時代なのだ。
江戸時代に「地頭」と呼ばれたのは、大名や旗本たちだ。つまり、ここでいう「地頭」とは、江戸時代に大名領分や旗本知行地等を所有した領主たちの俗称なのだ。
【参考】
・「法史の玉手箱・法務史料展示室だより第37号」法務省大臣官房司法法制部発行
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2016年9月25日(日) |
日曜を休暇日とする |
かつてわが国では、「一六日(いちろくび)」、すなわち毎月1と6のつく日(1日、6日、11日、16日、21日、26日)を休みとしていた。現在のような七曜(日・月・火・水・木・金・土曜日)を基準とした生活スタイルに移行したのは、明治初期に太陽暦を導入したこと、日曜日を休日にしたことの2点にあるという。
日曜の休日化については、外国と同じく勤務日・休暇日を同一にしておいた方が、お互い日程の約束をとりつけるのに好都合だ。国際化のための第1歩ともいえる。
さて、太政官通達第27号(1876年3月12日付け)により、4月から官公庁は日曜日を休日、土曜日を午後半日休日とすることにした。
第弐拾七号 院省使庁府県
従前(じゅうぜん)一六日(いちろくび)休暇ノ処(ところ)、来(きた)ル四月ヨリ日曜日ヲ以(もっ)テ
休暇ト被定候條(さだめられそうろうじょう)、此旨相達候事(このむねあいたっしそうろうこと)
但(ただし)土曜日ハ正午十二時ヨリ休暇タルヘキ事
明治九年三月十二日 太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)
かつて、土曜日は「半ドン」と呼ばれた。オランダ語で日曜日を意味するドンタク(zondag(ゾンターク)の訛り)に由来するとも、皇居で打たれた午砲(ごほう。正午の時報に空砲を打ち、その音からこれをドンといった)由来するとも言われる。 |
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2016年9月24日(土) |
中秋の名月はいつも仏滅 |
今年は9月15日が中秋の名月。しかし曇天だったため、名月を拝むことはできなかった。
ところで、中秋の名月(旧暦8月15日)は、必ず仏滅だ。
「仏滅」は六曜(ろくよう)の一つ。「六曜」というのは、日の吉凶に関する俗信だ。先勝(せんしょう・さきがち)・友引(ともびき)・先負(せんぷ・さきまけ)・仏滅(ぶつめつ)・大安(たいあん)・赤口(しゃっく・しゃっこう)の6種類ある。この6種類をこの順序で旧暦に割り振ってある。単純な循環だ。
ただし、月ごとにその月のスタートとなる初日の六曜の割り振りは、異なっている。1・7月は先勝、2・8月は友引、3・9月は先負、4・10月は仏滅、5・11月は友引、6・12月は赤口から始まる。たとえば、1月1日は先勝から始まって、2日友引・3日先負・4日仏滅・5日大安・6日赤口・7日先勝…となり、1月末日まで六曜が循環する。2月に入ると六曜の循環はいったんリセットされて、改めて1日の友引から始まり、2日先負・3日仏滅・4日大安・5日赤口・6日先勝・7日友引…と2月末日まで循環していく、という具合だ。
旧暦8月1日は、常に友引から始まる。8月15日までの六曜の並びを書き出してみると、次のようになる。
8/1(友引)・2(先負)・3(仏滅)・4(大安)・5(赤口)・6(先勝)・7(友引)・8(先負)・9(仏滅)・10(大安)・
11(赤口)・12(先勝)・13(友引)・14(先負)・15(仏滅)…
ゆえに、中秋の名月(旧暦8月15日)は常に仏滅なのだ。
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2016年9月11日(日) |
ヘンゼルとグレーテルならパンくずをまいた |
世界遺産になった平泉。中尊寺(ちゅうそんじ)、毛越寺(もうつうじ)、観自在王院(かんじざいおういん)跡、無量光院(むりょうこういん)跡、金鶏山(きんけいざん)の5資産からなる。
このうち、円仁が開山したとされる毛越寺は、地名に由来する命名だという。もともと毛越寺があったあたりは毛越村(けごしむら)と呼ばれていた。円仁が当地を訪れた時、一面の雲霧で一寸先も見えなくなった。見ると足元に白い毛が散り敷いてあり、進むべき道筋を誤ることがなかった。一頭の白鹿が体毛をまき散らしながら、大師を先導したのである。おかげで、鹿の体「毛」を道しるべにたどって山路を無事に「越」えることができた。この伝説によって「毛越(けごし)」の名がおこったという。
毛越村の寺だから、毛越寺。これを音読みにすると「もうおつじ」。おそらくそれが長い間に、「もうつうじ」という読み方に変化したのだろう。
ところで、毛をまき散らしながら円仁を先導したとされる白鹿。山路を越えるくらいの距離を毛を振りまいたのだから、ほとんど体には毛が残らなかったろう。それとも仏の使わしめである「白鹿」は、ヤクのように毛がふさふさとして多かった? |
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2016年8月25日(木) |
本の道 |
『旧唐書(くとうじょ)』倭国伝に、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)とともに記載された留学生がいる。名前は不明。しかし、吉備真備(きびのまきび)だろうと言われている。彼は、唐朝から受けていた留学手当をすべて書物に換え、日本に持ち帰った。在唐16年間に及んだ真備も、帰朝後、膨大な量の書物を政府に献上している。
「中国の先進文化を日本に持ち帰りたい」。遣唐使船に身を投じた人々の多くが、真備と同じ志を抱いていた。不幸にも、難破によって、海の藻屑に消えた書籍・写本も数多くあったはずだ。それでも、わが国にもたらされた漢籍の種類は1,600近く、巻数は17,000巻弱にのぼったと推定される。その結果、『旧唐書』経籍志(盛唐時代の宮廷の漢籍リスト)所載書物の5割強が、当時のわが国には揃っていたという。
これらの書籍が土台となって、律令国家が建設された。そして、天平文化をはじめとする古代文化が花開いたのだ。ゆえに、中国人学者の王勇氏は、日唐の結びつきを「ブックロード」とよぶ。
【参考】
・東野治之『遣唐使』2007年、岩波新書、P.120・P.156~159
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2016年8月22日(月) |
厚化粧は何のため? |
平安時代の貴族たちは、広大な寝殿造の中に住んだ。ガラスをはめ込んだサッシ戸もなく、LEDのような明るい照明もない時代だったので、昼間であっても室内は薄暗かった。そうした薄暗い室内では、色白の顔が好まれた。判別しやすかったからだ。
だから、平安美人の条件は、色白の顔と長い黒髪だった。髪の毛の黒で、顔の白さを際立たせる化粧法が好まれたのだ。そこで貴族の女性たちは、毛抜きで眉毛を抜き去り、顔にべったりとはふに、はらやなどの白粉(おしろい)を塗りたくった。
しかし、貴族の女性たちが厚化粧だったことについて、上記のような「定説」に疑問を呈する研究者もいる。そもそも几帳(きちょう)の外よりほとんど出ない女性たちが、わざわざ厚化粧する必要があったのだろうか、というのである。
では、なぜ白粉を塗りたくったのだろうか。近藤富枝氏は「当時は天然痘が猛威を振るうことが多く、ほうそうのあとを厚化粧でかくす必要はあったにちがいない」と推測している(近藤富枝『服装から見た源氏物語』1987年、朝日文庫、P.36~38)。
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2016年8月12日(金) |
晩年のシーボルト |
1866年、シーボルトは日本で収集したコレクションを、バイエルン国王ルートヴィッヒ2世に売却しようとしていた。
幸い、国王から購入の裁可はおりた。しかし、普墺戦争のため、国家財政が逼迫していた時期である。議会が、シーボルトのコレクション購入に反対するやも知れない。その前に、議員ら有力者への根回しが必要だ。自分の収集したコレクションがいかに物珍しく、貴重であるかをアピールする必要がある。そう考えたシーボルトは、ミュンヘンにおいて日本コレクションの展示会の開催を計画した。
しかし、シーボルトに不運が続く。鉄道移送のために梱包するコレクションは54箱にものぼり、70歳の老人にはきつい作業だった。しかも肝心のコレクション売却は、議会の反対で失敗に終わった。日本研究の自著の売れ行きもさっぱりだ。さらにオランダからの年金までも減額された。シーボルトは経済的に困窮した。
10月初旬、シーボルトは体調を崩した。コレクション展示場が寒くて、幾度も風邪を引いたのが原因だった。
1866年10月18日午後2時、永眠。遺体はミュンヘンに葬られた。墓は日本式の宝篋印塔(ほうきょういんとう)。十字架形の墓が多い中で異彩を放っている。そこにはシーボルトの横顔のレリーフが彫られ、「強哉矯(強なるかな、矯たり)」(『中庸』の一節)の漢字3文字が刻された。
【参考】
・国立歴史民俗博物館『よみがえれ! シーボルトの日本博物館』2016年、青幻舎、P.176~178(宮坂正英氏の解説) |
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2016年8月11日(木) |
白川郷での屋根の葺き替え(結の慣行) |
1995年に世界遺産に登録された「白川郷(しらかわごう)・五箇山(ごかやま)の合掌造り集落」。当地は日本有数の豪雪地帯として有名で、かつては周辺地域と隔絶していた。
こうした厳しい環境では、家族のみの生活は成立しにくかった。浄土真宗の浸透により隣人同士の結束力が強かったこの地域では、「結(ゆい)」による協力体制が発展した。
「結」は共同や結合の意味を表す言葉で、田植え・稲刈り・屋根普請など、一時期に多大な人手を必要とする際に、労働力を貸し借りする慣行をいう。労働力の等価交換が原則である。類似の慣行に「もやい(模合」があるが、「もやい」が共同作業を意味するのに対し、「結」は必ず返す必要があると考えられていた点で異なる。
さて、白川郷の家屋は3~5階建てで、一般の日本家屋と比べると巨大だ。大家族制と屋内作業で生計を立てていた(農耕地が少ない当地では、養蚕・紙漉きなどで生計を立てるために広い屋内作業空間が必要だった)名残りだ。合掌造りの茅葺き屋根もまた巨大で、豪雪・強風に耐えるために傾斜まで急だ。
屋根は30~40年に1度、メンテナンスする必要がある。新しい茅に葺き替えるのだ。その際には多くの人手が必要となる。「結」の慣行があった白川郷では、村民100~200人が総出で、巨大な屋根の葺き替えをたった1日で終わらせていたという。
【参考】
・世界遺産検定事務局『くわしく学ぶ世界遺産300・世界遺産検定2級公式テキスト』2015年初版第6刷(2013年初版第1刷)、P.48~49 |
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2016年8月2日(火) |
「田畑勝手作の禁令」という単独法令もなかった |
「田畑永代売買の禁令」なる単独法令はない。同じく「田畑勝手作(でんぱたかってづくり)の禁令(1642、1643)」と称する単独法令もないのだ。
「田畑勝手作の禁令」は、「年貢米を確保するために本田畑(検地帳に記載された農耕地)に五穀(米・麦・黍・粟・豆)以外の作付けを禁止した法令」と理解されている。しかし、その目的は寛永飢饉(1641~42)への対策として、当面の食糧確保を狙ったもので、商品作物の栽培を恒久的に禁止したものではなかった。
発令の形式は単独法令ではなく、農村に出した法令の中に「煙草を作ってはいけない」などの条文を書き加えたもの。こうした条文で、現在確認されているものはわずかに3例に過ぎない。しかも「勝手作」という言葉さえ使用されていないのだ。
【参考】
・本城正徳「田畑勝手作の禁」の再検証-近世前期幕府商品作物政策の実像-、『歴史と地理690・日本史の研究251』2015年12月、山川出版社所収。 |
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2016年8月1日(月) |
「田畑永代売買の禁令」という単独法令はなかった |
今まで「常識」だと思っていた歴史的事実が、調べてみると「実は違っていた」ということが多々ある。たとえば、「田畑永代売買(でんぱたえいたいばいばい)の禁令」についての「常識」もその一つ。
われわれが知っている「田畑永代売買の禁令」は、「1643年に江戸幕府が全国に発令して、農民の土地売買を禁止した」とする法令だ。
しかし、「田畑永代売買の禁令」と称する単独法令は、実はないのだ。寛永の飢饉(1641~42)対策のために出された二つの郷村仕置定(ごうそんしおきさだめ)にあるそれぞれの一か条を、総称して「田畑永代売買の禁令」と呼んでいるにすぎない。その条文の一つは
田畑永代の売買仕(つかまつ)るまじき事
というもの。もう一つの条文は
一、身上(しんじょう)よき百姓は田地を買取り、いよいよ宜(よろ)しくなり、身体(しんだい)
ならざる者は田畠を沽却(こきゃく。売却)せしめ、なおなお身上なるべからず候あいだ、
向後(きょうこう。今後)、田畠売買停止(ちょうじ)たるべき事
というもの。
しかも、これら「田畑永代売買の禁令」は、全国を対象に出されたものではなかった。前者は関東の幕府領・旗本領を、後者は関東の幕府領を対象としたものに過ぎなかった。
【参考】
・藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ・シリーズ日本近世史①』2015年、岩波新書、P.217~218 |
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2016年7月27日(水) |
「慶安の触書」は出されたか? |
現行の高校日本史教科書(『詳説日本史B』2016年発行、山川出版社)を見ると、あの有名な「慶安の触書」が本文にはない。欄外の注を見ると
「1649(慶安2)年に幕府が出したとされる「慶安の触書」が有名であるが、その存在には
疑問も出されている」(同書P.189)
とある。これは、一体どういうことか。
それは、1649(慶安2)年に幕府法として「慶安の触書」なる触書が出されたということは、今日、ほぼ否定されているからだ。ちなみに、江戸幕府が触書を集大成した『御触書寛保集成』をはじめとする各『御触書集成』のどこを探してみても、「慶安の触書」は載っていない。
近年の研究によれば、甲斐山梨県)から信濃(長野県)にかけて流布していた地域的教諭書「百姓身持之事(ひゃくしょうみもちのこと)」をもとに、1697(元禄10)年に甲府徳川藩領において改訂された「百姓身持之覚書(おぼえがき)」が発令された。この「百姓身持覚書」が、19世紀半ばに幕府学問所総裁林述斎(はやしじゅつさい)の手によって、「1649年発令の幕府法『慶安の触書』」として美濃(岐阜県)岩村藩で木版印刷され、全国に広まったとされる。
林述斎は、岩村藩主松平乗薀(まつだいのりもり)の第三子で、1793年に幕府学問所総裁大学頭(だいがくのかみ)林信敬(はやしのぶたか)の養子となった。そもその岩村藩とは縁故の深い人物だ。
さらに、明治時代になって活字印刷の『徳川禁令考』(司法省編纂)に収録されたことが、「慶安の触書」の知名度を高め、「全国的な幕府法」という認識の定着を促したと考えられているのだ。
【参考】
・山本英二『慶安の触書は出されたか』2002年、山川出版社(日本史リブレット38)
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2016年7月26日(火) |
清涼寺式釈迦如来 |
京都の清涼寺(せいりょうじ。嵯峨釈迦堂)の本尊は、入宋した奝然(ちょうねん。938~1016)が、台州開元寺にあったインド伝来の釈迦像を、中国人仏師に模刻させてわが国に持ち帰ったもの。像高は160cm。「栴檀瑞像(せんだんずいぞう」とも称される。しかし材質は栴檀ではなく、「魏氏桜桃(ぎしおうとう)」という中国産のサクラ材だ。
その像容は、平安時代のわが国の仏像と比較しても、趣がかなり異なる。頭髪は螺髪(らほつ)でなく、渦巻形に結ってある。目は切れ長で、着衣は通肩にまとう。どことなく、ガンダーラ仏を彷彿とさせる。
仏像の胎内からは、造像の由来を示す資料をはじめ、26品目250点もの納入品が発見された。とりわけ興味深いのは、絹製の五臓六腑が納められていたことだ。世界最古の内臓模型といわれる。本像が「生身仏(しょうじんぶつ。生身の釈迦像)」として造立されたことを示す証拠だ。
本像(清涼寺の本尊)を模刻した仏像を、清涼寺式釈迦如来像という。オリジナル(開元寺)の模刻(清涼寺)の模刻、ということになる。現在、日本各地に百体ほど存するという。ただし、原像(清涼寺の本尊)を「直接模刻したと確認されるのは奈良西大寺の本尊のみ」(『平凡社大百科事典・第8巻』(1985年)、「清涼寺式釈迦(光森正士執筆)」の項目)だそうだ。 |
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2016年7月20日(水) |
たった1年 |
寛仁2(1018)年10月16日、藤原道長(966~1027)の娘で後一条天皇の女御(にょうご)となっていた威子(いし)が、中宮にのぼった(後一条天皇は道長の外孫)。
紫宸殿(ししんでん)における儀式が終わると、公卿たちは道長の土御門第(つちみかどてい)に移動し、寝殿(しんでん)にいる新中宮威子のところへ赴き祝いを述べた。東の対(たい)には饗座(きょうのざ)が設けられ、盛大な祝宴となった。次いで寝殿南面の簀子(すのこ)に穏座(おんのざ、おんざ。くつろいだ二次会の宴会)が設けられた。打ち解けた雰囲気のなか、音曲が奏でられ、したたか飲んだ酒に酔いがまわってきた。
その席上で道長が詠んだのが
此(こ)の世をば我が世とぞおもう望月(もちづき)のかけたることも無しと思へば
という和歌。道長の得意絶頂をあらわす歌として、あまりにも有名だ。何しろ、長女彰子(しょうし)が太皇太后(一条天皇の中宮)、次女姸子(けんし)が皇太后(三条天皇の中宮)、そして、三女威子が天皇の中宮(皇后)となったのだ。三代天皇の皇后すべてが一家から立つというのは、前代未聞。藤原道長が、摂関政治の権化のように称されるゆえんだ。
しかし意外にも、道長が摂政の任にあったのは、後一条天皇即位後のわずかに1年間。摂政職はさっさと息子の頼通(992~1074)に譲ってしまっている。また「御堂関白(みどうかんぱく)」というニックネームをもつものの、道長自身が関白になったことはない。
長年にわたり道長は左大臣だった。「一上(いちのかみ)」【注】として政務を取り仕切るとともに、内覧を兼帯した。内覧は関白に準じた職務で、太政官から天皇に奏上される文書や天皇から太政官に下す文書を、事前に内見する。太政官政務を掌握し天皇を補佐するという役割では、関白の権能とほとんど変わらない。
それなら関白になればよい。なぜ、道長は関白にならなかったのだろう。
それは、摂政・関白を兼帯すると、公卿議定に関与できなくなるからだ。政府の重要議題は公卿議定で審議され、天皇により決裁された。この公卿議定は、「一上」である左大臣が取り仕切った。摂政・関白はこうした政務には関与しないという慣行があり、摂政・関白になるとその役割を右大臣に明け渡さなければならなかった。
道長は、関白という名誉よりも、実質的な権力の方を選んだのだ。
【注】太政官の政務や儀式を主催する公卿を上卿(しょうけい)といった。「一上」とは「第一の上卿(上卿の筆頭)」の意。
通常、左大臣を指す。 |
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2016年7月15日(金) |
『聖書』を読む人びと |
中世、『聖書』はラテン語で書かれていた。古代のイタリア語だ。だから、『聖書』を読むことができたのは、一部の教養人だけだった。イタリア以外に居住する一般民衆にとっては、外国語の古語で書いてある『聖書』は、なおさら読むことができなかった。カトリックでは、『聖書』は教会に置いてあるものであり、『聖書』を読むのは司祭の仕事だった。だから、カトリック信者の識字率は低かった。
16世紀、カトリックの総本山サン=ピエトロ大聖堂を造るにあたり、その莫大な費用を捻出するため、ローマ=カトリック教会は「ローマの牝牛(めうし)」ドイツで資金集めをしようとした。贖宥状(しょくゆうじょう)なるものを販売し、教会に金さえ支払えばこの世の罪が清算され、天国に魂が躍り込むと宣伝させた。
これに反論したのがルターだった。「金さえ払えば天国へ行けるなどというふざけたことが、『聖書』のどこに書いてあるのか」。宗教改革の騎手の一人、ルターが『聖書』を当時の民衆に理解できる言葉に翻訳したのは(ギリシア語の「新約聖書」をドイツ語に翻訳)、真理がカトリック教会側にあるのか、自分の主張にあるのか、証明するためだった。
だから、プロテスタント信者は、全員が『聖書』を読めなければならなかった。『聖書』は教会に置くものではなく、信者全員が銘々の家に持ち帰るものになった。家に持ち帰るには、大量の『聖書』が必要だ。その需要に応じたのが、グーテンベルクの活字印刷術だった。
プロテスタントの教会では「試験登録簿」をつくって、信者が一人残らず文字が読めるかどうかを調査した。新生児ですら、その対象になったという(速水融『歴史人口学で見た日本』2001年、文春新書、P.43~44)。 |
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2016年7月14日(木) |
ザビエルは「陰険」だった? |
宗教改革の嵐が吹く中、カトリック側も自らの腐敗を認め、教会改革に乗り出した。
これに応じ、ローマ教皇の公認を得る形で、男子修道会のイエズス(ヤソ)会が組織された。イエズス(ヤソ)とは、イエス=キリストのイエスのことだ。1549(天文18)年、わが国に初めてキリスト教を伝えたスペイン人フランシスコ=ザビエル(1506~1552)も、イエズス会宣教師のひとりであった。
イエズス会には、教皇の命令を絶対とする軍隊的規律があった。教皇が黒といえば、白いものも黒になった。相互監視も厳しかった。プロテスタントに対しては、その肉体を抹殺しない限り魂は救済できないとし、暗殺や虐殺・拷問が繰り返された。
英和辞典でJesuit(ジェスイット)を引くと「n.イエズス会士;《通例 j-》《軽べつ的》策謀[詭弁]家.-adj.イエズス会士の;陰険な」(『プログレッシブ英和中辞典(第2版)』1987年、小学館)と書かれてある。それは、イエズス会活動の歴史に、こうした暗黒の一面があったからだ。
【参考】
・綿引弘『世界史の散歩道』1989年、聖文社、P.213~214 |
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2016年7月13日(水) |
金色姫(こんじきひめ)の伝説 |
古文書解読の練習で、ネットに出ていた『養蚕秘録(ようさんひろく)』の一部を読んでみた。養蚕の起源伝承で有名な金色姫伝説の部分だ。
なお、蚕に関する民俗については、『平凡社世界大百科事典・第2巻』(1984年)の「蚕(かいこ)」の項目が参考になる。
「 天竺(てんぢく)霖異(りんゐ)大王(だいわう)の事
或書(あるしよに)云、むかし天竺(てんぢく)𦾔中国(きうちうこく)に霖異(りんゐ)大王(だいわう)といへるあり。后(きさき)を光契夫人(ふじん)といふ。一人(ひとり)の姫あり。金色姫(こんじきひめ)といふ。后(きさき)薨(かう)じ給ふて後(のち)、大王又新(あら)たに后妃(こうひ)を具(ぐ)し給ふ。此后、妬(ねたミ)ふかく、姫をにくミて父大王に讒言(ざんげん)し、姫を獅子吼山(しゝくざん)といふ所に捨(すて)させ給ふ。しかるに、天(てん)の加護(かご)にや有けん。つゝがなくましまして、獅子(しゝ)に乗りて𦾔中国に帰(かへ)らせ給ふ。よつて又鷹群山(ようぐんざん)といふ所へ捨(すて)給ふ。此時多くの鷹(たか)ども来り、肉(にく)を供して姫を育(はごく)ミける。大王の臣下(しんか)、此よし遥(はるか)に傳(つた)へ聞、密(ひそか)に姫を供奉(ぐぶ)して都(ミやこ)に帰(かへ)る。后(きさき)、又姫の帰るを悪(にく)ミ、海眼山(かいがんさん)といふ嶋(しま)へ流(なが)し給ふ。此時漁夫(ぎよふ)、姫を助(たす)けて、もとの都に送(おくり)ける。后(きさき)、大きに怒(いかつ)て臣下(しんか)に命(めい)じ、御殿(ごてん)の庭(にハ)を深(ふか)く掘(ほり)て姫を埋(うず)め殺(ころ)させけるに、其後(そのゝち)土中(どちう)より光明(くわうみやう)赫(かゝ)やきけるをあやしみ、大王掘(ほ)らせ見給ふに、彼(かの)姫いまだ恙(つつが)なくおハせしかバ、又桑(くわ)の木のうつほ船に乗(の)せ、滄海(さうかい)へ流(なが)し給ふ。然るに此船、常陸国(ひたちのくに)豊良湊(とよらのみなと)へ流(ながれ)寄(よ)るに、浦人(うらびと)これを助(たす)け介抱(かいはう)しけるに、幾程(いくほど)もなく彼姫虚(むな)しくならせ給ひ、其霊魂(れいこん)化(か)して蚕(かひこ)と成けるとかや。此故(ゆへ)に蚕初(はじめ)の居起(ゐおき)を獅子(しゝ)の居起と云。二度(ど)めの居起を鷹(たか)の居起、三度(ど)めを船(ふね)の居起、四度めを庭(には)の居起といへるは、彼姫天竺(てんぢく)にて四度の難(なん)に遇(あひ)給ひし事をかたどりて、かくは名(な)づけし事とぞ。」
(国立国会図書館蔵『養蚕秘録 3巻』請求記号 特1-1714。2016年6月29日HP閲覧) |
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2016年6月26日(日) |
タカ橋? タケ橋? |
竹つながりで、もう一つ。
江戸時代の天文方役人高橋景保(通称は作左衛門。1785~1829)は、蛮蕪(ばんぶ)と号した。蛮の字は、西洋の学問「蛮学」に由来するが、まずは「バンブ」の発音の方が先にあった。オランダ語のバンブ(bamboe)すなわち竹である。タカ橋のタカとタケの音通で、タケだからバンブと洒落たという。
国立公文書館所蔵の『蛮蕪子(ばんぶし)』には、高橋景保の逮捕・処罰を中心にシーボルト事件の顛末が記してある。シーボルトに伊能図を提供した容疑で、高橋は文政11(1828)年10月10日に捕縛され伝馬町牢屋敷に投獄。翌文政12(1829)年2月16日、獄中で病死。その遺体は塩漬けにされ保存された。遺体を納めた甕は浅草に設けられた仮小屋の中に置かれ、昼夜2人ずつの番人がこれを見張った。同年3月16日に「存命であったなら死罪」と判決がくだり、首は打ち落とされ、遺体は源空寺に葬られた。
国立公文書館のホームページには、『蛮蕪子』の挿絵が公開されている。それを見ると、「高橋作左衛門死骸」と書かれた立て札の背後に、遺体を入れた大きな甕がある。ふたの上には大きな石がのせられ、荒縄でしばられている。
これではタケではなく、まるでウメ干しだ。 |
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2016年6月25日(土) |
法隆寺の「竹」 |
飛鳥文化の代表的遺品、法隆寺百済観像の後背の支柱は、竹の形に彫りだしてある。また、法隆寺に遺る玉虫厨子台座絵には、写実的な竹が描かれている(捨身飼虎図、施身聞偈図)。同様に、法隆寺には竹を意匠とする文化遺品が多い。
なぜ、法隆寺には竹を意匠とした文化遺品が多いのか。東野治之氏は、これを中国南朝文化の影響と推測する(東野治之『正倉院』1988年、岩波新書、P.139~144)。
氏によれば、朝鮮半島で竹の繁茂する地域は、西南部に限定される。中国南北朝時代の北朝支配地域や、隋・唐の都(大興城・長安)がおかれた北方地区でも、竹の生育はまれだ。そのため、隋・唐では司竹監(しちくかん)という役所を設けて、タケノコをとったり工芸材料したりするため、竹を栽培していたほどだ。
一方、南朝支配地域だった江南地方は「竹林の七賢」で有名であり、現在でも竹の本場だ。古代、日本と密接な関係をもった百済は、中国南朝文化の影響下にあった。7世紀以前のわが国の文化は、朝鮮を経由した南北朝文化の影響を受けていたわけだから、法隆寺の文化遺産に目立つ竹の意匠も、そうした歴史を証するものの一つ、というわけだ。
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2016年6月21日(火) |
痛し痒し |
体調がすぐれなかった聖武天皇は、天平17(745)年、諸国で飼養していた鷹・鵜を放生し、3,800人を出家させ僧尼とした。出家得度は功徳ある行為とされたため、天災等があった折りにしばしば行われてきた。
また当時は、出家すれば納税義務が免除されたので、縁故や私度(しど。勝手に出家すること。出家には治部省玄蕃寮への届け出が必要だった)によって僧尼になる者も大勢いた。奈良時代は、僧尼急増のバブル期でもあったのだ。
しかし、僧尼を粗製乱造したため、経典がろくに読めない者も多かった。そこで天平6(734)年11月21日、太政官は出家の推薦条件を厳しく審査すべき、と奏上した。その条件とは、次のようなものだった。
1.護国経(法華経か金光明最勝王経)を暗誦できる
2.仏事の作法を心得ている
3.3年以上修行している
ただし、審査を厳しくすると、大規模な法会での僧尼の数が間に合わなくなる。痛し痒しというところか。
奈良時代のことだといって、笑ってはいられない。たとえば、現代だって大学生を粗製乱造して、大学生の学力低下が問題になっている。
大学に進学したい高校生は多い。しかし学力不足の高校生は、学力試験を嫌う。だから、面接・小論文のみの推薦入試を希望する。大学側も、早い時期に定員の大部分を充足したいので、安易な推薦入試に走る。しかし、低学力の学生ばかり集まると、大学の評判が悪くなる。そこで、推薦の成績基準をあげる。推薦条件を厳しくすると、今度は学生が集まらない。
やはり、痛し痒しだ。
【参考】
・大角修『平城京全史解読』2009年、学研新書、「第14章 鑑真来日ー僧尼急増の背景」。 |
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2016年6月19日(日) |
扇面古写経の経典はなぜ法華経か |
高校日本史教科書の「院政期の文化」のところで、扇面古写経(扇面法華経冊子)が出てくる。扇面には、老若貴賎さまざまな人々の日常生活が、大和絵の手法で描かれている。とりわけ、頭上に荷物をのせ、子どもの手を引いて歩く庶民の母親など、平安女性の風俗が多く描かれているのが特徴的。そして、そこには法華経が書かれている。
しかし、なぜ法華経なのか。
法華経は、起塔して納経すると、仏の守護が働くとされる護国経の一つ。奈良時代には鎮護国家思想のもとで珍重され、法華経を読誦する国分尼寺(法華滅罪之寺)が全国に建てられた。
その一方で、法華経は女人成仏・写経成仏を説く。仏教では女性は罪業深く、成仏できないとされてきた。しかし法華経提婆達多品(だいばだったぼん)では、沙伽羅竜王(しゃからりゅうおう。八大竜王の一つ)の8歳の娘でも法華経によって悟りを得たと説く。
女性も活躍する時代になったから、女人成仏の経典としての側面が注目されるようになったのだろう。
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2016年6月18日(土) |
調べ直してみよう |
とある有名出版社が出している地理の本にのっている話。昔、ビスケー湾で悪天候に遭遇した船。積んでいた小麦粉が海水をかぶってしまった。捨てるにはもったいない。こねて小さくちぎり、焼いてみた。食べてみるとこれがうまい。そこから、この焼き菓子をビスケー湾にちなみ、ビスケットと呼ぶようになった。
面白い語源説だが、おそらくは間違い。平凡社の大百科事典(第12巻、1985年)はじめ事典・辞典類で「ビスケット」の項目を引くと、いずれもフランス語の「2度(bis)焼いた(cuit)」が語源とあるからだ。
「調べ直してみたら違っていた」ということは多々ある。最近も、東大寺大仏の螺髪(らほつ)に関する定説がくつがえった、という例があった。
「東大寺大仏の螺髪の数は966個」。これが定説だった。平安時代に成った「東大寺要録本願章第一」に「天平勝宝元年(749年)12月~同3年6月、螺髪を966個つくった」と書いてあったからだ。しかし最近、修学旅行前にあたり事前学習する子どもたちから、「螺髪の数はいくつですか」という寺への問い合わせが増えた。そこで、実際に数え直してみようということになった。後背に隠れた部分が数えられないので、東京大学生産技術研究所の大石岳史准教授の研究グループに依頼して、レーザー光を照射して大仏を丸ごとスキャンするという方法で螺髪を数えた。すると492個しかなかった。定説の約半分だ。9個分が欠けていたので、実際に残っていたのは483個だった(朝日新聞2015年12月3日付け)。
ほぼ1,000年にわたる定説が、こうしていとも簡単にくつがえった。「当たり前」「常識」「定説」などとされる事柄も、虚心になって、もう一度調べ直してみることも大切だ。 |
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2016年6月7日(火) |
トントントンと叩く音がトンの由来? |
今朝、たまたまテレビ朝日で、グッドモーニングという番組を見た。その番組中の「語彙検定」コーナーでの話題。三択問題で、「重さの単位トンは何に由来するか」を尋ねていた。正解の要旨は次の通り。
「1トンのトンは、ワイン樽をトントントンと叩いた音に由来。棒で叩いて、ワインが樽いっぱい入っていることを確かめた。だから1樽を1トンといった。15世紀、船の積載量は、ボルドー産ワインの樽を何個積めるかで表した。ワイン樽1個は1016kgだったが、のちに重さの単位としてはきりがよい1000kgを1トンとした。」
「トン」は、樽を叩いた音に由来するという。しかし、この説はいかにも疑わしい。そもそも外国語のオノマトペは、日本語のそれとは違うだろう。鶏の鳴き声のコケコッコーだって、英語ではコッカドゥードゥルドゥーなんだし。15世紀のヨーロッパ人が、樽を叩く音をトントントンと、現代日本人と同じように聞いたとする保証はどこにもない。そこでウィキペディアで「トン」を検索すると、上記説とは異なる説明がされていた。次はその部分。
「古英語のtunne、さらには古フランス語のtonneが語源で、それは『樽』という意味である。当初は252ワインガロン(0.954㎥)入りの樽に入る水の重さ約2100 lb(ポンド)を1トンとしていた。」(2016年6月7日閲覧)
外国語の知識がない自分には、どちらの説が妥当かは判断しかねる。しかし、ウィキペディア説の方が、はるかに説得力があるように思える。 |
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2016年5月31日(火) |
卒塔婆も木簡?(木簡の定義) |
中国では、竹の細片を簡といった。ゆえに簡といえば、竹簡を指す。しかし竹の生育に適さない地方では木片も使われた。この木片を牘(とく)という。したがって、木の細片は、正しくは木牘(ぼくとく)とよぶべきなのだろう。しかし実際には、竹製を竹簡、木製を木簡とよんで区別している。
ただし、わが国で「木簡」(律令制の時代には、木簡は「短冊(たんざく)」とよばれた)と称するものと、中国のものとはまるで別物だ。高校生向けの日本史資料集には、次のように記載されている。
木簡とは、木を削ったものに墨書したもので、意思の伝達や記録のために使用された。律令体制の整備にともない、事務にかかわる大量の文書が必要になったが、(中略)木簡は、紙の生産量が少なかった7~8世紀にもっとも多い。(中略)木簡は、おもに官人の事務連絡や記録用に使った文書木簡と、物品にくくりつけられた付札(つけふだ)木簡とに分けられる。 (『最新日本史図表(新版二訂)』2016年(改訂20版)、第一学習社、P.52)
以上のような説明が、木簡に対する「一般常識的」な定義だろう。日本史辞典等にも、似たようなことが書かれてある。しかし、木簡研究の権威である奈良文化財研究所のホームページには、これとは違った定義が書かれてあるのだ。
墨書された木片を総称して木簡と呼びます。木は、板であっても、丸太であってもよいのです。書かれている内容も、何でもかまいません。時代も問いません。『木簡の条件』は、材料が木であることと、墨で字が書いてあることだけなのですから。
(http://hiroba.nabunken.go.jp/home/tenji02_01.html。2016年5月30日閲覧)
「墨書された木片なら何でも木簡」とするこの定義は、あまりにも乱暴だ。大雑把すぎるこうした定義に対しては、当然ながら次のような反論がある。
木に字が書かれていれば、何でも木簡にしてしまっていいわけではなかろう。もし、そういうことになれば、いま使われている表札や卒塔婆、近いところまであった木の看板まで、木簡になってしまう。
(東野治之『木簡が語る日本の古代』1983年、岩波新書、P.177)
今では、「木簡学」という言葉も唱えられていると聞く。それなら、木簡研究はよほど進捗しているのだろうし、「木簡とは何か」という明確な定義づけが研究者間で共有されていてもいい頃だ。
ところで、木簡研究者たちの多くは、本当に「現代の卒塔婆も木簡だ」と考えているのだろうか。また寺院によっては卒塔婆を、プリンターを使って印刷している。同じ卒塔婆で同じ文字が書いてあっても、墨書なら木簡で、プリントアウトなら木簡ではないというのだろうか。
【追記】・刀筆の吏(とうひつのり)
古代の役人のことを「刀筆の吏」といった。木簡に筆で文字を書き、刀子(とうす。小刀のこと)で誤字を削って訂正したからだ。(2016年7月13日) |
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2016年5月28日(土) |
竹簡の名残り |
後世に名を残すことを「名を竹帛(ちくはく)に垂(た)れる」という。竹帛とは竹簡(ちくかん。戦国時代、竹の豊富な楚などでは竹の細片に文字を書いた)と帛(はく。絹布)のことで、書物(特に歴史書)をいう。
紙の出現以前の古代中国では、竹簡や帛などに文字を記録した。しかし帛は高価なため、広く用いられたのは竹簡だ。そのため、記録に関係深い文字には、付「箋(せん)」・戸「籍(せき)」・帳「簿(ぼ)」等、たけかんむりが多く用いられている。
竹簡は、長さ30センチメートルほどの細片だ。多くの文字は書けない。一本にせいぜい1行20文字程度か。そのため、まとまった文章を書くとなると、大量の竹簡を必要とした。そこで、竹簡の上下に穴を空けるか削って刻みをつけ、麻糸や革紐などで幾本もの竹簡を編んでいった。これを「編(へん)」という。
編まれた竹の細片どうしは、一枚ずつ隙間があいている。これがそもそもの「簡(竹+間)」という字の由来だ。また、何本もの竹簡を綴じ糸・綴じ紐で横につないだ形から、「冊(さつ)」という字が生まれた。
竹簡を綴じるのに鞣し革(なめしがわ)を使った書物は、「韋編(いへん)」といった。「韋(い)」は鞣し革のことである。「韋編三絶(いへんさんぜつ)」という四字熟語は、書物を繰り返し読んだため、竹簡を綴じていた鞣し革が断ち切れることたびたびに及んだ(「三絶」の「三」は数が多いことを示す)の意味。孔子が『易経』を繰り返し繰り返し読んだため、その書を綴った鞣し革が幾度も断ち切れたという故事(『史記』孔子世家)に由来する。
竹簡を綴じ合わせた書物を保存する際には、掛け軸や簀の子を片づけるときのように、一方からくるくると巻いてコンパクトな形状にした。この状態を「巻(かん)」という。したがって、「一巻の終わり」は「一巻から成る物語が結末まで至ってしまうこと」。そこから、物事の結末がついてもはや手の施しようがないこと、または死ぬことを意味するようになった。
書物を本棚にしまうことを「書を架(か)す」という。そこから本棚・書棚を「書架」といった。しかし、大量の竹簡を綴じ連ねて製した書物は、紙製のそれに比べると、ひどくかさばる上に重い。書物の収蔵にはその容量と重さに耐え得る丈夫で巨大な書架を要した。そのような書架を有し、そこに万巻の書を収蔵できたのは、一部の裕福な知識人に限られた。
一般庶民が知の解放の恩恵を受けるには、教育の普及に加えて公共図書館の設立が必要だったし、書物の個人所有の裾野を広げるには、紙と印刷術の発明によって低廉でコンパクトな書物を大量生産する技術革新が何よりも必要だった。 |
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2016年5月26日(木) |
どこからが名前? |
大化の改新政府の主要メンバーである阿倍内麻呂(あべのうちまろ)と蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)。
畿内豪族の重鎮だった阿倍内麻呂は左大臣となり、その娘の小足媛(おたらしひめ)は孝徳天皇のキサキとして有間皇子をもうけ、もう一人の娘橘娘(たちばなのいらつめ)は中大兄皇子のキサキとなった。
一方、蘇我氏の分流である蘇我倉山田石川麻呂は右大臣となり、その娘乳娘(ちのいらつめ)は孝徳天皇のキサキとなり、もう一人の娘遠智娘(おちのいらつめ)は中大兄皇子のキサキとなってのちの持統天皇を産んだ。
さて、左右大臣として並び立ったこの二人。どこで氏名(うじな)と名前を区切るのだろう。
まずは、阿倍内麻呂。有力な豪族はいくつかの枝氏(えだうじ)に分かれており、阿倍氏のなかで有力だったのが阿倍内氏(あべのうちうじ)。したがって「阿倍・内(あべのうちの)、麻呂(まろ)」と名前を区切るのだ。蝦夷征討で有名な阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、阿倍内氏とは違う阿倍引田氏(あべのひきたうじ)の出身なので、阿倍引田比羅夫ともよばれる。「阿倍・引田(あべのひきたの)、比羅夫(ひらふ)」である。こうした阿倍内氏、阿倍引田氏のような言い方を複姓(ふくせい)という。
氏によっては、職掌や父方・母方の姓等までついてくる場合がある。たとえば、蘇我倉山田石川麻呂。蘇我倉氏(そがのくらうじ)は蘇我氏の一族で、財政(倉)を所管したのでかくよばれた。名前の方はどうか。河内の石川地方に勢力を張り、のちに大和の桜井・飛鳥間の山田にも進出した。だから「山田・石川麻呂(やまだのいしかわまろ)」なのだ。
【参考】
・倉本一宏『蘇我氏-古代豪族の興亡』2015年、中公新書など |
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2016年5月22日(日) |
くっついたり、離れたり |
縦書きで文字を書いていると、上下の文字が詰まって一文字に見えてしまうことがある。大化改新政府で国博士(くにのはかせ)になった「旻(みん)」をそうした誤りと考えたのだろう。(確か家永三郎氏の著作だったと思うが)「日文(にちもん)」と書いている例があった。
また、後醍醐天皇の建武政権には、「窪所(くぼしょ)」という役所があった。昔の高校日本史の参考書には、これを注して「くぼんだところにあった役所か」などと、わけのわからない説明が書かれてあった。
単純に、「窪」は「問注」の草書体を上下くっつけたもののではないか、とする説がある(笠松宏至氏による)。確かに、草書体の「問注」二文字を上下にくっつけ一文字のようにすると、「窪」の字に見える。武家政治を否定した後醍醐天皇が、裁判機関を置く際、鎌倉幕府の「問注所」の表記を避けようとしてあえて行った操作かも知れない。
そういえば、かつて新聞だか雑誌だかで、「ミウモ島」噴火の記事が報じられた。こちらは誤植。記者がていねいな文字を書いてさえいれば、避けられた。もちろん「三宅島」だ。 |
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2016年5月19日(木) |
『日本後紀』の人物評 |
『日本後紀』の「薨卒伝(こうしゅつでん)」は、現在ならば新聞の訃報記事に相当しよう。「薨卒伝」には死去した官人の履歴事項とともに、人物評が加えられることもある。『日本後紀』の人物評は、六国史のなかでも厳正なことで知られる。
たとえば、796年に70歳で亡くなった右大臣正二位藤原継縄(ふじわらのつぐただ)は公卿の首班だったが、凡庸な人物だったとされる。これを『日本後紀』は「政治的な実績は何もなし。才能・識見ともにゼロだった」と酷評している。また、贈太政大臣正一位藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の二男で、821年に54歳で亡くなった従四位下藤原縵麻呂(かずらまろ)については「愚鈍で事務能力なし。大臣の子孫だから(その七光りで)内外の職務を歴任したのだ。酒と女に溺れて、考えるところがなかった」とまでこき下ろしている。
相手が天皇であっても、『日本後紀』の論評は容赦がない。
平城天皇(へいぜいてんのう)はすぐれた政治的識見をもっていた。冗官(じょうかん。無駄な役人)を整理し、地方を重視して観察使(かんざつし)を設置するなど、次々と政治的改革を断行した。しかし、「平城天皇は猜疑心が強く、冤罪にもかかわらず弟の伊予親王を自殺に追い込み、多くの人々を連座させた。淫刑(いんけい。度が過ぎた刑罰)である。その後は女性(藤原薬子)を寵愛し、政治を委ねた。雌鶏(めんどり)が時を告げれば家は滅びる」と弾劾する。
『日本後紀』の編纂を命じたのは嵯峨天皇だ。『日本後紀』の厳しい天皇批判は、ただし、薬子の変(平城太政天皇の変。810)で嵯峨天皇と対立した平城天皇に限られる。
そういえば、「無能」とされた藤原継縄は安殿親王(あてしんのう。のちの平城天皇)の皇太子傅(こうたいしふ)をつとめ、親王が元服した時には加冠の奉仕をした人物だ。
また、「愚鈍」で「酒と女に溺れた」とされる藤原縵麻呂は、薬子の変の当事者たち(藤原仲成・薬子)とは実の兄弟。たとえ事件とは無関係だったと主張しても、世間は縵麻呂と事件との関係性を疑うだろう。穿(うが)ちすぎかも知れないが、愚鈍を装い酒色に溺れたのは、保身のために世間の目を欺こうとした縵麻呂の演技だったのかも知れない。
そんなことをつらつら考えると、「『日本後紀』の人物評も額面通りには受け取れないな」と思うのだが、果たしてどうだろうか。
【参考】
・遠藤慶太『六国史-日本書紀に始まる古代の「正史」-』2016年、中公新書、P.104~122
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2016年5月15日(日) |
みっちゃんとやっちゃん |
安野光雅氏の『新編語前語後』には、安野氏の友人が語ったという「ひどいお姉さん」の思い出話が載っている。姉弟は、みっちゃんとやっちゃんといった。
子どものころ体が弱かったやっちゃんは、よく風邪をひいた。部屋でひとり寝ていると、障子をこする音に目がさめた。ガラス障子の方に目を向けると、廊下を行く熊の姿がとびこんできた。びっくりしたやっちゃんは、引きつけを起こしてしまった。熊の正体は、熊の敷物を頭からかぶったみっちゃんだった。
やっちゃんは後にジャーナリストとなり、共同通信社の社長になった。みっちゃんは後に評論家になり、多数の著書を上梓した。その中の一冊に、幼少時代の思い出を書いた『花々と星々と』がある。しかし、その本には、熊の毛皮をかぶって弟に引きつけを起こさせたエピソードや、姉の友だちの前で弟に「やっちゃんのお鼻はおぺちゃんこ」と三唱させたなどという話は、一切出てこない。
安野氏は「彼らの名誉のために、二人の名はあえて書かない」とすっとぼけている (安野光雅『新編語前語後』2013年、朝日文庫、P.146~147)が、今日はみっちゃん(道子)・やっちゃん(康彦)姉弟の祖父(犬養毅)の命日だ。
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2016年5月4日(水) |
「象箸玉杯(ぞうちょぎょくはい)」の故事 |
殷(いん)末の紂(ちゅう)王は、非道な王として知られる。次の挿話はそうした悪評の一つ。
紂王の一族に箕子(きし。のち、箕子朝鮮を建国したという伝承が残る)という男がいた。
ある時箕子は、紂王が象牙の箸を作らせたのを見て、心胆を寒からしめた。貴重な象牙を箸にするなど、おごりも甚だしい(象箸)。次は宝玉で食器を作らせるに違いない(玉杯)。さすればその次は、珍奇で豪華なメニューの食事、高価で凝った服装…と、欲望はとどまるところを知らずエスカレートしていくだろう。そうした無軌道な浪費の行き着く先は、国家の滅亡である。
箕子は諫言を繰り返すが、紂王は聞く耳をもたない。紂王にうるさく思われた箕子は、命の危険を感じるまでに至った。箕子は難を避けるため、狂気を装い世間から身をくらました。
箕子の心配どおり、ほどなく殷は滅亡してしまった。
【参考】
・阿辻哲次『漢字の字源』1994年、講談社現代新書、P.16~17 |
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2016年5月2日(月) |
かなふり松 |
「学校」という言葉が初めて使われた教育機関は、下野国(現、栃木県足利市)の足利学校だという。ゆえに、「日本最古の学校」は足利学校ということになる。
足利学校の創建年代や起源は不明だ。しかし、室町時代に上杉憲実(うえすぎのりざね)が再興・保護してからは、フランシスコ=ザビエルが「坂東の大学」としてヨーロッパに紹介したこともあって、わが国の名だたる高等教育機関として広く知られるようになった。最盛期には「学徒三千」人を擁していたという。近年では、茨城県水戸の藩学・弘道館(こうどうかん)、岡山県の郷学・閑谷学校(しずたにがっこう)、大分県日田(ひた)の漢学塾・咸宜園(かんぎえん)とともに、日本遺産に認定された。
ところで、足利学校には、カリキュラムや時間割がなかった。自学自習が基本だったからだ。多くの学生は、儒学や易学を中心に学んだという。その際、漢籍の書写という手段がとられた。しかし、漢籍といえば、外国語(中国語)で書かれた本だ。自学自習のみで、外国語で書かれた難解な内容の書物を、学生たちは本当に理解できたのだろうか。また、読み方のわからない文字や未知の語句の意味などを、学生たちはどのようにして調べたのだろう。
これには伝説がある。第7代庠主(しょうしゅ。校長のこと)九華(きゅうか)の頃の話という。わからない文字や言葉があると、学生たちはそれらを紙に書き付けて、校内に植えられていた松の枝に結んでおいた。翌日には、読みがなや注釈がついていたという。この松は「かなふり松」とよばれた。
ちなみに、自学自習が基本の足利学校には、卒業試験がなかった。自分自身が納得するまで学んだら、その時点が卒業だった。だから、最長で10年以上学ぶ者がいた一方、最短では1日のみの学習者もいたという。
【参考】
・足利学校参観案内パンフレット(足利学校事務所発行)2016年4月30日参照。 |
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2016年4月11日(月) |
953本 |
唐招提寺金堂には、木心乾漆像の真数(しんすう)千手観音像がある(像高535センチメートル。国宝)。真数というからには、実際に「千の手」をもつ観音像を造ったのだ。
「千の手」を彫り上げるのは、彫刻師にとってとてつもなく骨の折れる作業だろう。そのため、多くの千手観音像は42本の大脇手だけを造って、それで済ませている。それが、唐招提寺の千手観音像の制作にあたった仏師たちは、本当に「千の手」を彫り上げたのだ。衆生のあまたの願いや悩みを、真っ正面から受け止めようとしたのだろう。民衆の信仰に対して、真摯に向き合おうとする古代人の心意気というか、情熱が伝わってくるようだ。そうした意味合いからも、唐招提寺の千手観音像は貴重な作品だ。
この千手観音像が、金堂修理に合わせて解体され、「千の手」が調査された。大きい脇手が42本、小さな脇手が911本、合わせて953本だった。47本は失われたが、唐招提寺の千手観音像は、今でも慈愛の「千の手」を、悩み多きわれわれに差し伸べている。
【参考】
・岸根一正「奈良には古き仏たち」-『朝日新聞』日曜版、2012年12月22日-
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2016年3月31日(木) |
言葉の出典が知りたい |
花紅(くれない)にして美なりといへども ひとり開くにあらず
春風(はるかぜ)きたりて開くなり
去る3月26日、大学の卒業式に行ってきた。マンモス校だったので、学部ごとに3日に分けて行われた。保護者は講堂には入れず、用意された教室のテレビモニターで、卒業式のライブ放送を見るという形式だった。
その時、学部長が式辞で卒業生に贈った言葉が上記のもの。道元の言葉という。若者は、自分の力のみで成長できたわけではない。保護者をはじめとする支援があってこそ、今日に至ることができたのだ、という意味合いで引用された。いい言葉だ。
ちなみにインターネットで検索すると、全国津々浦々の小中高をはじめとする諸学校で、校長先生が卒業式で話す式辞の定番となっていた。おまけに、校長先生用に市販されている講話例集にものっているという。
ところで、出典がわからない。本当に道元の言葉かどうか確認できないので、気持ちの中がもやもやする【注】。
「出典がわからない」というのでは、式辞の中で引用された次の言葉もそうだ。吉田松陰の言葉という。若者に向かって「あなたたちは夢をもっていますか」という問いにつづけたのが次の言葉。
夢なき者に理想なし
理想なき者に計画なし
計画なき者に実行なし
実行なき者に成功なし
故に、夢なき者に成功なし
卒業式にふさわしい素晴らしい言葉だが、渋沢栄一も似たようなこと(「夢七則」)を言っていたなあ。
【注】
懐奘(えじょう)の『正法眼蔵随聞記』が出典とされる。同書には「霊雲志勤は桃花の色を見て仏道を悟ったという。しかし、花に浅深・賢愚の別はない。花は年々開くが、花を見てすべての人が悟りを開くわけではない。ただ長らく修行した功により、その苦労したことのゆかりを得て悟りを開くことができるのだ。花の色が美しいといっても独りで開くのではなく、春風を得て開くのだ」ということが書いてある。角川文庫版(古田紹欽訳注『正法眼蔵随聞記』1960年、P.166)には、「花の色(い)ろ美なりと云へども獨り開くるにあらず、春風を得て開(ひらく)るなり」とある(2016年5月22日)。 |
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2016年3月9日(水) |
大坂の陣への出馬に際し、家康が最初に命じたこと |
1614(慶長19)年10月、大坂冬の陣が始まった。駿府城から二条城に入った家康が最初に命じたのは、六国史をはじめとする日本古典籍の書写だった。そこで、書籍の所蔵者から多くの書物が借り出され、南禅寺において大規模な複製作業が始まった。古典は三部ずつ書写され、一部は天皇へ献上、残る二部は駿府・江戸両城に置くことが命じられた。作成された写本は、のち江戸城内の図書館「紅葉山文庫」で保管され、その大部分が国立公文書館内閣文庫に現存する。
大坂の陣開戦という緊急時に、なぜ家康は古典の複製作業など命じたのか。そこには、家康の深慮遠謀があった。
実は、大坂冬の陣が始まる半年前(1614(慶長19)年4月5日)、すでに家康は京都五山の禅僧に対して、日・中両国の古典籍から抜き書きを作るよう命じていたのだ。家康側近の記録によると、その目的は武家諸法度や禁中並公家中諸法度制定のためだったという。
つまり家康は、豊臣氏との戦端を開く前から戦後をみすえ、法制整備を視野に入れての準備作業に入っていたのだ。
【参考】
・遠藤慶太『六国史-日本書紀に始まる古代の「正史」』2016年、中公新書、P.203~208 |
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2016年3月8日(火) |
正装して手紙を読む(手紙4) |
将軍の正室を御台様(みだいさま)といい、御台様のお言葉を女中(大奥に勤める女性職員)がメモ書きして伝えた手紙を女中奉文(じょちゅうほうぶん)という。御台様からの女中奉文を受け取った松浦静山(まつらせいざん。随筆『甲子夜話(かっしやわ)』で有名)は、わざわざ麻裃(あさかみしも)に着替えてそれを「拝見」したという。
御台様からの女中奉文は、黒漆塗りの文箱(ふばこ)に入れて届けられた。文箱には紐が巻かれて封がしてあり、それに「松浦壱岐守(いきのかみ)殿人々」と書かれた礼紙(らいし)が付けられてあった。箱の蓋(ふた)の下方には銀粉で葵(あおい)の紋が描かれおり、その蓋をあけると、萌葱色(もえぎいろ)の縮緬(ちりめん)の袱紗(ふくさ)に包まれたもう一つの文箱がでてきた。御台様からの手紙は、優美な絵が描かれていたその文箱の中におさめられていた。
なるほど、こうした優美で格式高い手紙を受け取ったなら、松浦静山でなくとも、威儀を正して「拝見」しようという気持ちにもなるだろう。
しかし、テレビの前に寝っ転がりながら携帯電話のメールを読んでいるような人たちには、とうてい静山の気持ちはわからないだろうな。
【参考】
・山本博文『日本史の一級史料』2006年、光文社新書、P.123~125 |
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2016年3月7日(月) |
東日本大震災から今年で5年(手紙3) |
東日本大震災(2011年3月11日に発生)が起きた前年、宮沢賢治(1896~1933)の肉筆葉書が発見された。内容は、詩人大木実(1913~1996)の三陸沖地震(1933年3月3日に発生)の見舞いに対する礼状だ。岩手で投函され、3月7日付けの消印がある。同じ3月に発生したこともあって、その文面は、東日本大震災とオーバーラップするところがある。
この度はわざわざお見舞をありがたう存じます。被害は津波によるもの最多く海岸は
実に悲惨です。私共の方野原は何ごともありません。何かにみんなで折角春を待って
ゐる次第です。まづは取急ぎお礼乍(なが)ら。
この礼状を書いてから約6か月後(9月21日)、賢治は亡くなっている。ちなみに賢治が生まれた1896年には、三陸地震(6月15日発生。賢治誕生の2カ月前)と陸羽地震(8月31日。賢治誕生直後)が起こっている。37年間の短い賢治の生涯は、奇しくも地震と地震の狭間にあったことになる。
【参考】
・梯(かけはし)久美子『百年の手紙-日本人が残したことば』2013年、岩波新書、P.26~27
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2016年3月6日(日) |
賄賂は生のイワシ(手紙2) |
小松茂美『手紙の歴史』には、咋麻呂(くいまろ)なる人物が書いた二通の手紙が紹介されている(正倉院文書)。
一通目は、人事に関する嘆願書だ。「左右兵衛府でも、また左右衛士府でも、どちらでもよいので、官職を下さい。どうぞお願い申し上げます」という内容だ。日付は10月23日となっている。
二通目は「生鰯60匹を贈ります。お納め下さったなら幸甚です」という内容の手紙だ。日付は、10月28日となっている。一通目の手紙の5日後だ。一通目の嘆願書が届いた頃を見計らって、進物をしたわけだ。
しかし、涙ぐましい咋麻呂の人事工作は失敗する。二通目の手紙には、「用いず」という文字が、別筆で書き込まれていた。つまり「鰯はいらない(受け取らない)」と、人事担当者から拒否されてしまったのだ。
人事担当者は、賄賂など許さない清廉な人物だったのだろう。それとも、生鰯は足が早いので、すでに腐っていた?
【参考】
・小松茂美『手紙の歴史』1976年、岩波新書、P.146~149
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2016年3月5日(土) |
「どえろう欲しい事がある」(手紙1) |
藤本鉄石(ふじもとてっせき。1816~1863)は岡山藩出身の尊攘志士。脱藩して諸国漫遊後大坂に住み、のち京の伏見で私塾(碧梅寒店)を開いて学問(国典)・武道・兵法を教えた。のち吉村寅太郎らと天誅組を組織し、挙兵して48歳で戦死(天誅組の変)。
藤本は和歌・漢詩・書画をよくした。伏見在住時代、藤本が38歳の時に書いた手紙が残っている。人間味あふれた面白い手紙なので、紹介しておこう。手紙の中に小判・掛軸・目・両手の絵を描いて、忠兵衛(未詳)なる人物に金と書画を無心した手紙だ。
なお、手紙の写真・読み下し文や藤本鉄石の経歴は、京都大学附属図書館維新資料画像データベースで閲覧することができる。
小判(繪)と掛軸(繪)がほしい、ほしい、ほしい、ほしい
けふハとゑろふほしい事かある。
御目(繪)もじに御はなし申上候。
合掌(繪)たのむ、たのむ、たのむ、たのむ。
五月四日 桃山老鐵寒士(花押)
忠兵衛様
(京都大学附属図書館維新資料画像データベースの読み下しのまま)
ちょっとわかりづらいので、現代仮名遣いで、漢字仮名交じり文にしておこう。
「小判(注:小判の絵)」と「掛軸(注:掛軸の絵)」が欲しい、欲しい、欲しい、欲しい。
今日はどえろう(注:どえらい、とっても)欲しい事がある。
御「目(注:目の絵)」もじに、御話申し上げ候。
「合掌(注:両手の絵)」頼む、頼む、頼む、頼む。
五月四日 桃山老銕寒士(注:桃山とあるので、藤本の伏見在住時代の手紙。銕寒士は藤本の雅号の一つ)
忠兵衛様
【参考】
・京都大学附属図書館維新資料画像データベース
(http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/kaisetsu_j/no27.htm及び
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/jinmei/Fujimoto.htmを参照)
なお、小松茂美『手紙の歴史』(1976年、岩波新書、P.194~195・197)にも藤本鉄石の絵入り手紙の解説・写真が載っている。 |
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2016年3月4日(金) |
「雑談」も大事 |
赤米(あかごめ)は、イネの原産地である東南アジアでの特性を残している。もしこの考えが正しいのならば、古代・中世における赤米の分布状況を調べれば、日本への稲作伝来ルートの痕跡をとらえることができるはずだ。
しかし、古代・中世において、赤米がどこで栽培されていたかは、容易にわからなかった。「赤米」という文字は、木簡などの文献史料に断片的に現れるに過ぎなかったからだ。
ところが、意外なところから、赤米の分布状況がわかったのである。室町時代の禅僧が寺院で漢詩の講義をした際、聴衆が書き留めたノートの中に「赤米は日本では九州でよく作られている」という記載があったのだ。しかもそれは、講義の本筋とはあまり関係のない「雑談」の中で語られていた内容だった。時に「雑談」が、本筋以上に重要な役割を果たすという事例だ。
それにしても、そうした「雑談」までノートしていた聴衆は偉かった。授業中に教科書も開かず、よだれを垂らして寝ている高校生たちに、その爪の垢でも煎じて飲ませたいものだ。
【参考】
・川本慎自「中世の赤米栽培と杜甫の漢詩」-東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』2014年、中央公論新社(中公新書)、P.188~192- |
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2016年3月3日(木) |
人形原 |
佐藤中陵の『中陵漫録』に「久留米城の郊外に、人形原と云処に土偶人を掘出す」(日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成・第3期・第3巻』1976年、吉川弘文館、P.247)という記事があった。しかし、人形原から出土するのは土偶ではなく、この地方特有の石人・石馬だ。
人形原は、福岡県八女郡広川町にある地名。「人形原」と書いて「ひとかたばる」と読む。広川町のHPによると、その由来は次のようなものだという。
昔、高良大明神が筑後地方を巡遊し、イチガウラという場所から北の方角を眺めると、遠く岡の上に人影が見える。カラスを飛ばして調べると、それは敵ではなく人形だった。八女の岡に石人・石馬が並んでいたのだ。明神は八女の岡を越え、久留米の高良山を住居と決めた。この故事から、人形原の地名が起きたという。
広川町にある石人山(せきじんさん)古墳(磐井の祖父の墓と推定)の所在地は、現在も人形原が地名という(以上、広川町HPの「人形原の地名の由来・1回(1997年12月掲載)」による)。 |
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2016年2月29日(月) |
判元見届(家の存続3) |
幕府に末期養子を願い出る場合、申請者の当主は生存していなければならない。当主は申請書に押判(花押を書く。大病で花押が書けなければ実印を押す)して、幕府に提出するのだ。その際幕府は、危篤の当主の元に役人を派遣し、当主(判元)が自分の意思で申請書に押判しているかどうかを確認する作業を行った。これを判元見届(はんもとみとどけ)という。大名に対しては大目付、旗本・御家人に対しては所属する頭・支配(または目付)が派遣され、当主・親戚ら立ち会いの上で確認作業が行われた。
しかし、時代が下るにしたがって、判元見届は形式化する。当主がすでに死亡している場合でも、遺体を屏風のかげに横たえて昏睡状態を装ったり、「本人の手が震えるので、私が添え手して押判いたします」と言って押判したりした。役人の方も心得たもので、屏風の向こうから形式的に声をかけて、「生存確認」をおこなったという。
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2016年2月28日(日) |
末期養子(家の存続2) |
高校の日本史学習でよく使用する『改訂版日本史B用語集』(全国歴史教育研究協議会編、2009年、山川出版社)を見ると、「末期養子」について、次のように書いてある。
「末期養子(まつごようし) 跡継ぎのない武家が、死に臨んで急に養子を決めること。初期にはほとんど認められず(末期養子の禁)、改易の一大原因となった。由井正雪の乱後、牢人の増加防止のため、当主が50歳未満の場合は大幅に緩和した。」
「50歳未満」が大幅に緩和されたというが、当主が「17歳未満」と「50歳以上」の場合は、末期養子を認めてもらえなかった。だから、佐藤誠一郎に対し上役が「おい、お前はもう50歳なんだぞ。跡継ぎは決めたのか。さっさと届を出せよ」と促したのだ。
ところで、この50歳という基準は妥当だったのだろうか。大名に関しては、何歳で死亡したのか、没した年齢のデータが残っている(『寛政重修諸家譜』に404名のデータがある)。それによると、平均49.1歳で亡くなっているという(市川寛明編『一目でわかる江戸時代』2004年、小学館、P.35)。「人間五十年」というのは、当時としては妥当だったのだ。 |
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2016年2月27日(土) |
丈夫届(家の存続1) |
国立公文書館のHPを見ていたら、丈夫届(じょうぶとどけ)の写真が載っていた(注1)。丈夫届といっても、「俺様はこんなに丈夫なんだ」と、筋骨隆々の筋肉マンが肉体美を誇示するために提出する届ではない。
昔は小児の生存率が低く、夭折してしまう子どもが多かった。そこで、幕臣の家庭では男子が誕生しても、すぐには出生届を出さなかった。出生届を提出した後、跡取りが17歳未満で死亡してしまうと、幕府によって家を断絶させられてしまうというルールがあったからだ。早世を免れると、改めて届が提出された。この届が丈夫届だ。
「17歳未満で亡くなると御家断絶」というルールがあったため、丈夫届で申告される男子の年齢にはおかしな数字が出てくる。たとえば、下の史料に出てくる内蔵吉(くらきち)は5歳だが、東京都公文書館の『養子判元見届一見書留』壱(新見文書218)に名前が出てくる堀田幸之助なる人物は、16歳になってやっと丈夫届が出されているのだ(注2)。16、7歳になっていればもはや御家断絶の危険は少ない。しかし、こんな年齢になるまで届を出さなかったというのは不自然だ。堀田幸之助の実年齢は16歳よりかなり若かったのに、御家安泰をはかるために16歳と偽ったのかも知れない。
さて、古文書解読の勉強がてら、(注1)の写真版の史料を読んでみた。漢字は新字体にしてある。誤読があればご容赦を。
【史料】
私(注:西丸新番頭大久保権右衛門)組佐藤誠一郎儀、当亥五拾歳ニ罷成、未男子無御座候間、相応之養子熟談仕候得者可奉願旨、去戌年十二月中先役水野伊勢守より申上置候処、安政六未年中妻出生之男子佐藤内蔵吉虚弱ニ付、御届見合置候得共、此節丈夫罷成候ニ付、惣領之届申出候、依之此段申上置候、以上
亥
十二月十二日 大久保権右衛門
【読み下し】
私組(わたくしくみ)、佐藤誠一郎儀、当亥(い)五拾歳ニ罷(まか)り成り、未(いま)だ男子御座無候間(ござなくそうろうあいだ)、相応(そうおう)の養子、熟談仕候得者(じゅくだんつかまつりそうらえば)願い奉(たてまつ)る可(べ)き旨(むね)、去る戌(いぬ)年十二月中、先役水野伊勢守(みずのいせのかみ)より申し上げ置き候処(ところ)、安政六未(ひつじ)年中、妻出生(しゅっせい)の男子佐藤内蔵吉(くらきち)虚弱ニ付き、御届(おとど)け見合(みあわせ)置き候得共(そうらえども)、此(こ)の節(せつ)、丈夫に罷り成り候ニ付き、惣領(そうりょう)の届(とどけ)申し出(い)で候、之(これ)に依(よ)り此の段申し上げ置き候、以上
亥
十二月十二日 大久保権右衛門(おおくぼごんえもん)
【文意】
私の配下の佐藤誠一郎のことですが、今年(文久3年、1863)50歳に成るのに、いまだに(跡取りの)男子がおりません。そこで、「養子にふさわしい者をよくよく相談した上で決定し、届を提出するように」と、去年(文久2年、1862)先役の水野伊勢守が佐藤に申し伝えていたところです。佐藤の妻は安政6(1859)年に男子内蔵吉を生んでおりましたが、出生時に虚弱だったため、出生届の提出を見合わせておりました。このところ、丈夫に育っておりますので、惣領(跡取り)として内蔵吉をお届けいたします。これにより、この段を申告する次第です。以上
亥(文久3年、1863)
12月12日 大久保権右衛門
(注1)国立公文書HP
http://www.archives/go/jp/exhibition/digital/hatamotogokenin2/photo.html?c=1&m=02&i=1
(注2)東京都公文書館HP
「古文書解読チャレンジ講座 第9回 旗本文書を読む「家相続のからくり」平成22年5月(pdfファイル)
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2016年2月22日(月) |
西王母の誕生会(蟠桃3) |
中国では、3月3日を西王母(せいおうぼ)の誕生日としている。西王母というのは、崑崙山(こんろんざん)という仙境にすんでいる女神のことだ。この日、天上界の神々は西王母のもとに集まって大宴会を催す。これを蟠桃会(ばんとうえ)といった。蟠桃が、この時に御馳走として神々に振る舞われるからだ(清敦崇編、小野勝年訳註『北京年中行事記』1941年、岩波文庫、P.80の註による)。
ところで、神様以外でこのめでたい蟠桃を食べた者がいたという。それは漢の武帝と孫悟空だといわれる。さて、一体どんな味がしたのだろう。 |
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2016年2月21日(日) |
オドロキ モモノキ(蟠桃2) |
蟠桃は、中国の伝承の中に出てくるオドロキの桃だ(平凡社『世界大百科事典』の「桃」の項などを参照)。
何でも東海の度索山(度朔山)という山の頂上に、3000里にもわたって蟠屈(ばんくつ)した桃の巨木があるという。「蟠屈」しているというからには、蛇がとぐろを巻くように渦をまいて曲がりくねっているのだろう。しかも蟠桃は、実を結ぶのに3000年もかかるという。
蟠桃の大樹は東北の枝のところが隙間になっていて、そこからあまたの鬼が出入りしている。すなわち鬼門だ。そこで、神荼(しんと)・鬱塁(うつるい)の二神が、悪鬼たちが勝手に門から出てこないように目を光らせている。悪鬼を見つけるとこれを捕縛し、虎に食わせるのだという。
升屋小右衛門が「蟠桃」と号したのは、番頭と蟠桃の音通によるものだ。しかし、「蟠桃」の文字を選んだのは、そこには「鬼」がいないからではないのか。何しろ彼は「無鬼論」を唱えていたのだから。 |
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2016年2月20日(土) |
蟠桃(ばんとう)は番頭さん(蟠桃1) |
播磨国(現兵庫県)の農家に生まれた長谷川有躬(1748~1821)は、13歳で伯父升屋(ますや)久兵衛の養子となって家を継いだ。升屋久兵衛家は、米仲買・大名貸で有名な大坂の升屋平右衛門家の別家だった。有躬は升屋小右衛門と名乗り、番頭として、経営危機に瀕していた升屋本家の再興に努力。仙台藩をはじめとする諸藩の蔵元・掛屋として諸藩の財政再建を指導し、大名貸の資金回収に成功した。
こうした功績により、升屋では小右衛門に本家の山片姓を名乗ることを許し、親類並みに遇することを決めた。改姓して山片芳秀と名乗り、升屋の番頭をもじって蟠桃(ばんとう)と号した。『夢ノ代(ゆめのしろ)』を書いて無鬼論(無神論)を唱えた町人学者、山片蟠桃である。
ところで、蟠桃というのは「わだかまっている桃」という意味だ。一体、どのような桃なのだろう。 |
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2016年2月15日(月) |
「胸中洒落(しゃらく)、光風霽月(こうふうせいげつ)の如し」(周茂叔2) |
北宋の詩人で書家でもある黄庭堅(こうていけん。1045~1105)が、同時代の儒学者周茂叔のことを「人品甚(はなは)だ高く、胸中洒落(しゃらく)、光風霽月(こうふうせいげつ)の如(ごと)し」と誉めた。
「洒落」の意味を調べようと、鈴木棠三氏の『日本語のしゃれ』を開くと、次のように書いてある。
「洒落の洒は、濂(しゃ)と同義で、水で洗う意。洒落或いは濂落と熟すると、さらりとはやく落ちる意味になる。-中略- 洒(濂)落が人格・性行の形容詞に用いられると、性格がさっぱりしていて、物にこだわらない意味になる。落の字は、落々と熟すると、ひろく大きいさまの形容であるから、洒落は、水で洗いきよめたようで、しかもこせこせしない意味になる」(鈴木棠三氏『日本語のしゃれ』1979年、講談社学術文庫、P.26)。
黄庭堅は「胸中洒落」を説明して、まるで「光風霽月」のようだ、と言っている。だから、「洒落」と「光風霽月」は、ほぼ同じ意味の誉め言葉だ。「光風霽月」は漢字検定1級問題によく出題される四字熟語の一つ。日の光の中を吹き渡るさわやかな風と、雨上がりの冴え渡った空にある月のこと。
黄庭堅は、周茂叔をさっぱりとしたさわやかな人物であると評したのだ。 |
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2016年2月14日(日) |
レンを愛した人(周茂叔1) |
森鴎外の小説『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』に、「渋江抽斎は観劇を趣味とした。彼の観劇仲間を周茂叔連(しゅうもしゅくれん)といった」という意味のことが書いてあった。連は仲間・連れのこと。周茂叔をグループ名に冠したのは、「レンを愛する」の意という。
周茂叔は北宋時代の儒学者周敦頤(しゅうとんい。1017~1073)のこと。字(あざな)を茂叔(もしゅく)、号を濂渓(れんけい)といった。蓮の高潔さを愛し、「愛蓮の説」という文章を書いた。つまり、「レンを愛する」に「蓮(れん)」と「廉(れん。高潔)」を掛けているのだ。
なお、東山時代の画家・狩野正信(狩野派の祖。周文・宗湛に画を学び、室町幕府の御用絵師になったという)に『周茂叔愛蓮図』という優品がある。
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2016年2月4日(木) |
今日は立春 |
『古今和歌集』 全20巻。所載歌数はおよそ約1,100首。その第1巻は四季の歌、春の部から始まる。巻頭を飾る第1首は、在原元方(ありわらのもとかた)の次の和歌。
ふる年に春立ちける日詠める
年の内に春は来にけり 一年(ひととせ)を 去年(こぞ)とや言はむ 今年とは言はむ
旧暦の場合、新年と立春は暦の関係で一致しないことがあり、元日を待たずに立春になることがあった(年内立春)。歌意は「年が明けないうちに春がきた。さてこの1年を去年と言うべきか、今年と言うべきか」ということ。
本日は立春。暦を見ると「新暦2月4日は、旧暦の12月26日にあたる」と書いてある。つまり旧暦なら、上の和歌と同じ「年内立春」状態だったことになる。
伝統的な『古今和歌集』崇拝の風潮に異論を唱えたのが正岡子規。上掲の和歌を槍玉に挙げ、「外国人と日本人とのハーフを外国人と言うべきか、日本人と言うべきか」と同列な無趣味の歌と断じた(「歌よみに与ふる書」)。子規の舌鋒は鋭く、その論旨は明快だ。
しかし、もし子規の言うことが正しいのなら、どうしてそのような「駄作」を、わが国初の勅撰和歌集の撰者たちが、巻頭第1首に配置したのだろうか。
これについては上野英二氏の次のような反論がある(上野英二「古今和歌集」-『週刊新発見!日本の歴史15・平安時代3』2013年10月13日号、朝日新聞出版、P.20~21-)。
古代、季節の順調な運行は、時を支配する帝王の徳を考えられていた。たとえば貞観7(865)年は、1年と1月と1日の三つの朝が重なる元旦(三朝)に、立春が重なった。漢詩人島田忠臣は、これを帝王の徳を実証するものとしてたいへんめでたいことと礼賛した。しかるに「年の内に春は来にけり」は、その一段上を行く。何しろ、新年を待ちきれずに春の方から勇んでかけつけてくれたのだから。つまり、それほど今の世はめでたい世の中なのだ。
この意味で、在原元方の歌は、醍醐帝の御代をことほぎ、その徳を讃えた和歌として巻頭に掲げられたのだ。子規が言うような「駄作」では、決してなかったのだ。 |
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2016年1月27日(水) |
参勤交代のもたらしたもの |
諸藩の財政困窮の原因となったとされる参勤交代。しかしその一方、参勤交代制にはさまざまな功績があった。
第一に、江戸の商業が発達した。
何せ、1年交代で日本列島の半分の地域から大名達が、供人を従えて江戸にやって来るのだ。そして、1年間を江戸で過ごす。常に大勢の消費者集団を抱え込んでいたため、江戸では商業が発達した。
第二に、毎年繰り返される江戸・地方間の往来によって、街道が整備され、宿場が発達した。
第三に、参勤交代で江戸勤めとなった地方武士を介して、江戸の文化・生活様式が地方にもたらされた。
第四に、明治政府の中央集権体制への切り替えを容易にした。
大名の妻子は江戸在住が義務づけられた。その子が大名の跡継ぎなのだから、大名は江戸で出生し江戸で成長することになる。だから大名にとって、田舎くさい国元より、生まれ育った江戸の方が住むのに快適だった。廃藩置県後、旧知藩事(旧大名)は東京に集められた。旧大名を容易に東京に集めることができたのも、東京を中心とした中央集権体制を短期間で打ち立てることができたのも、こうした事情があったからだ。
第五に、明治以降の東京に巨大な開発可能空間を残した。
江戸には諸大名の江戸藩邸(上・中・下屋敷)が、江戸城を取り巻くように配置してあった。明治政府は、それら広大な敷地を接収して政府機関・軍隊駐屯地などを置いた。現在でも大規模開発が可能な空間が東京に残っている。東京ミッドタウンの敷地は、もとは長州藩の中・下屋敷だった。
【参考】
・岩淵令治「武家屋敷と都市社会」「江戸勤番武士と都市社会」-杉森哲也編著『日本近世史』2013年、放送大学教育振興会所収-
・山本博文『江戸に学ぶ日本のかたち』2009年、日本放送出版協会
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2016年1月25日(月) |
餞別の本が日本を変えた |
中村敬輔(なかむらけいすけ。1832~91)は、幕府の儒者にして漢学者。名を正直(まさなお)、通称敬太郎、号を敬宇(けいう)といった。江戸幕府が派遣した留学生の取締役として、1866(慶応2)年にイギリスへ渡航。1年半ほど滞在し、1868(慶応4)年に帰国。すでに幕府は倒壊していた。
帰国に際し、イギリスの友人フリーランドからサミュエル=スマイルズ(イギリスの医者・作家。1812~1904)の『Self Help(自助論)』を餞別として贈られた。書名は序文にある格言「天は自ら助くる者を助く(Heaven
helps those who help themselves.) 」に由来。内容は、古今数百人に及ぶ人々の奮励努力の末の成功譚である。
船中でこれを読んだ中村は感激。日本青年必読の修養書と考え、本書の翻訳を志した。書名を『西国立志編』と名づけ、1870(明治4)年に刊行。たちまちベストセラーとなった。明治の青年たちを鼓舞し続けた本書の影響力の大きさは、福沢諭吉の『学問ノススメ』に並ぶと言われる。 |
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2016年1月23日(土) |
鉛の兵隊 |
明治になって、木版印刷から活字印刷への移行が始まった。リースマンは「活字は近代組織の原型」と言ったという。
従来の木版印刷では文字の組み替えは不可能だった。活字なら、たとえば「ミルク」を「クルミ」とひっくり返すことが可能だ。配置される場所によって意味がまったく異なってしまう。しかし、同じ鋳型にはめられて、同じような顔をもつ活字は没個性的・非人格的で、まるで「鉛の兵隊」のようだ。
近代組織に属する人間は、活字に似ている。会社で働く労働者一人ひとり、軍隊に所属する兵士の一人ひとりは、見た目が似たりよったりで区別がつきにくい。没個性的であり非人格的だ。その上、活字のように、組織の中では差し替え可能な部品として扱われる。
活字印刷の浸透と近代組織発達の時期は、ぴったりと呼応している。明治という時代は、活字のような一個一個の「鉛の兵隊」をつくりあげていった過程なのだ。
【参考】
・加藤秀俊・前田愛『明治メディア考』1983年、中央公論社(中公文庫)、P.70~74 |
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2016年1月21日(木) |
参勤交代費用の中心は人件費 |
『一目でわかる江戸時代』(竹内誠監修・市川寛明著、2004年、小学館、P.113を参照)という本に、参勤交代の実際がどのようなものだったか、簡単でわかりやすい事例が載っていた。鳥取藩の池田慶徳(いけだよしのり)が安政6(1859)年に参勤した時のものだ。
この時の参勤行列は9月19日に鳥取を出発し、10月10日に江戸に到着している。つまり、鳥取・江戸間180里(約720km)を21泊22日で移動したのだ。
この行程を単純に割り算すると、1日平均が8.2里。現在の距離に換算すると、約32.8kmになる。大方の従者は荷物を背負い、アスファルトやコンクリートで舗装されていない道路を、晴雨にかかわらず歩いたのだ。結構な強行軍だったはずだ。
この本にはまた、文化9(1812)年、江戸から鳥取へ帰国した時の経費が書かれている。
総額1,957両のうち847両(43.3%)が人件費だった。実に4割以上を占めていた人件費の多くが、運搬にかかわる人足に支払う賃金だったという。 |
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2016年1月14日(木) |
ヘボンの目薬 |
アメリカ人宣教師のヘボン(ジェームズ=カーチス=ヘップバーン。1818~1911)は、初の和英辞典『和英語林集成』を編集し、ヘボン式ローマ字を作ったことで有名だ。彼はまた医者でもあり、幕末、横浜に開いた施療所で、多くの眼病患者を治療した。ヘボンが処方した目薬は、よく効いたという。
このヘボンから目薬の製造法を学んだのが、岸田吟香(きしだぎんこう。1833~1905)なる人物。彼は、日本初の洋式点眼目薬(商品名「精錡水(せいきすい)」。主成分硫酸亜鉛を中国語で「シンキ」と発音することに由来した命名という)を製造・販売した日本人である。容器はガラス製で、コルク栓を使用するなど、当時としては洒落ていた。
なお、岸田吟香の四男が、麗子像で有名な洋画家の岸田劉生(1891~ 1929)だ。
【参考】
・「一般社団法人北多摩薬剤師会」ホームページ
(http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_50.html) |
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2016年1月5日(火) |
水戸黄門の訓戒 |
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以下は、茨城県立図書館デジタルライブラリーにある画像ファイルを翻刻したもの。水戸藩第二代藩主徳川光圀(1628~1700)の作とされる訓戒だ。原本は元禄11(1698)年に書かれ、享保7(1722)年に江戸城の御広間に掲額されていたという。
「水戸黄門光圀卿、此ヶ條御自筆を以元録(禄)十一年寅二月四日、敬之一字御懸物御染毫、御廣間江被為懸置候由、及台聴上覧被遊度旨、水戸様江被 仰候處、則御差上被成候趣、
敬 水戸黄門光圀卿九ヶ條禁書
一、苦は楽の種、楽は苦のたねと知るへし。
一、主人と親ハ無理成ものと思、下人ハ足ぬ物と知へし。
一、子ほとに親を思へ。子なきものハ身にたくらへ、近き手本と知へし。
一、御掟に恐よ。火におちよ。分別なきものにおちよ。忍を忘ることなかれ。
一、分別とは堪忍をもとと知るへし。
一、欲と色と酒はかたきとしるへし。
一、朝寐すへからす。長座すへからす。
一、小なる事を分別せよ。大成事に驚へからす。
一、九分ハ足す、十分はこほるると知るへし。
右者元録(禄)十一年戊寅三月十四日御自筆被御廣間ニ被指置、享保七壬寅三月十五日、将軍宗吉公(ママ)、江府御城御廣間ニ被為写置之候、以上。」
【参考】
・茨城県立図書館デジタルライブラリー
(http://lib.pref.ibaraki.jp/guide/shiryou/digital_lib/valuable_m/001051356366/Bibliography.html) |
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