あれやこれや 2013 

2013年12月26日(木)
「蕪村」の由来
 蕪村(1716〜1783)は摂津国東成(ひがしなり)郡毛馬(けま)村(大阪市都島区毛馬町)の農家に生まれた。のち、近くの天王寺村へ移住した。天王寺村一帯は古くから蕪の産地として有名だった。その種子は全国に広がり、「天王寺蕪(てんのうじかぶら)」の名で知られた。蕪の産地ゆえ、蕪村と号した(村松梢風『本朝画人傳・巻一』1976年、中公文庫、P.162)(注)

 「与謝」姓は、一時(いっとき)滞在した丹後宮津の地名からとった。蕪村は江戸に出て俳諧を学び、諸国を遍歴したが、最終的に京都を定住の地としたのである。


(注)一説に、陶淵明の『帰去来辞(ききょらいのじ)』(「帰去来兮(かえりなんいざ)、田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる」)に由来するのでは、とする(ウイッキペディア「蕪村」の項。2013年12月25日閲覧)。
2013年12月22日(日)
フグ

 男の通称を松村嘉右衛門(まつむらかえもん)といった。京の金座の平役だったが、絵師で身を立てようと考えた。画業に刻苦勉励したものの、一向に絵が売れず、画名もあがらなかった。もはや、自殺以外に道はない、とまで思い詰めた。

 しかし、毒を飲んで死ぬのは気が進まない。そういえば、フグを食ったことが、一度もない。どうせ死ぬなら、フグの猛毒に当たって死んでやろう。そう考えて、数尾のフグを買ってきた。今生の別れとばかりに、酒の肴にたらふくとフグを食い、酔っぱらって寝てしまった。

 目が覚めると、すでに日は高く昇っている。体は常と変わらない。しばらく茫然としていたが、たちまち悟るところがあり、再び画業に刻苦勉励した。その後、追々画名が世上に知られるようになった。

 のち、男は摂津の呉服(くれは)の里に隠れて、新たに春を迎えた。そこで、氏を呉(ご)、名を春(しゅん)とした。四条派を開いた呉春(ごしゅん。1752〜1811)の逸話である。



【参考】
・松村梢風『本朝画人傳・巻一』1976年、中公文庫、P.235

2013年12月21日(土)
村田銃
 明治初期、陸軍に配備されていた銃は外国製であり、しかも多種多様にわたっていた。規格が統一されていなかったため、銃を扱う訓練に際しても銃を補充するにあたっても、常に不便さがつきまとっていた。統一規格の小銃を国内で生産できないものか。陸軍の中では、国産銃開発を望む声があがっていた。こうした状況のもと、白羽の矢がたったのが、陸軍軍人村田経芳(むらたつねよし。1838〜1921)だった。

 村田はもと薩摩藩の砲術師範役として戊辰戦争に従軍した経験があり、射撃の名手としても知られていた。火器についての豊富な知識と射撃の腕前を見込まれたのである。明治8(1875)年、村田は射撃技術と兵器研究のため渡欧する。帰国後、外国製の銃に改良を加えた単発小銃を開発した。この小銃は「村田銃」と呼ばれた。明治13(1880)年、村田銃(13年式)は陸軍で採用された最初の国産銃となる。

 さらに村田は、日本人の体格にあわせて銃を改良し(18年式)、明治22(1889)年には無煙火薬を用いた連発式銃(弾倉に8発を納める)を設計した(22年式)。こうして村田銃は、陸軍の主力小銃となり、日清戦争(1894〜95)で使用されたのである。ただし、連発式は故障が多かったという。

 のち、砲兵工廠から払い下げられた村田銃は改良が加えられ、民間には猟銃として広まっていった。
2013年12月19日(木)
胡桃が苦手
 平安時代、国司が任国に赴任する際、任国の人々と最初に接触する場が「境迎(さかむか)え」である。境迎えとは、国境で任国の役人たちが新任国司を出迎える儀式だ。 儀式の内容は地方によって差があった。単なる自己紹介という簡単なものから、国印や正倉の鍵の受け渡し(ともにその国の支配権を象徴するもの)や饗宴に至るものまで様々だった。

 境迎えは、新任国司と任国の役人たちとの最初の腹の探り合いの場という意味合いもあった。『今昔物語集』には次のような説話が伝えられている。

 境迎えの饗宴に、ずらりと胡桃料理ばかりが並んでいる。その料理を見て、新任の信濃守はなぜか苦悶の表情を浮かべている。これを怪しんだ役人が、「当国の境迎えでは胡桃酒を飲むのが慣例」といって、国司に胡桃酒を無理強いした。たちまち、国司は水となって流れ失せてしまったという。信濃守はサナダムシ(寄生虫)の生まれ変わりで、胡桃は虫下しに効果ありとされていた食物だったのだ。


【参考】
佐々木恵介『日本史リブレット12・受領と地方社会』2004年、山川出版社、P.76〜78による
2013年12月18日(水)
タッチか?トキムネか?
 ガラ紡を発明した臥雲辰致。珍しい名前だが、もともとは横山栄弥といった。

 栄弥は、1842(天保13)年、信州安曇野の小田多井(こだたい)村に、足袋底問屋を営む横山儀十郎・なみの次男として生まれた。1861(文久元)年、20歳で隣村の安楽寺に弟子に出された栄弥は、6年後の1867(慶応3)年、安楽寺近くの臥雲山孤峰院の住持になった。しかし、廃仏毀釈のため1871(明治4)年、孤峰院は廃寺となり、還俗することになった。還俗に際し、山号の「臥雲」を姓とし、再出発を図ったのだという。

 したがって、「臥雲辰致」という名前は、親が命名したものではない。自分で名乗ったのだ。では、「辰致」は何と読むのだろう。

 従来、「たっち」と読むことが多かった。しかし、正解は「ときむね」。第1回内国勧業博覧会の英文出品目録に「GAUN TOKIMUNE」と記されている。


【参考】
・小松芳郎「脚光−歴史を彩った郷土の人々− 13.臥雲辰致」    
 http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kyakko13.html
2013年12月16日(月)
ガラボーって何?
 明治10(1877)年8月、東京上野公園で、第1回内国勧業博覧会が開かれた。明治政府の殖産興業政策の下、産業奨励を目的とした。約3カ月間の会期中に、入場者数は45万人。会場には84,000点余の展示品が展示された。多くの出品物の中から、鳳紋賞(ほうもんしょう。最優秀賞)を受賞したのが「ガラ紡」だった。

 「ガラ紡」は臥雲辰致(がうんときむね。1842〜1900)が発明した綿糸紡績機械である。機械を運転すると、「ガラガラ」という音を出すことから「ガラ紡」と俗称された。手回し式のハンドルを回すと、棒状にした原料綿(くず綿・ボロなどを原料とした)を詰めたブリキ製筒と木製糸巻が同時に回転し、ブリキ筒中の綿から撚りをかけた糸が引き出される
(注1)。それを糸巻きに巻き取る、という仕組みだった。紡錘(ぼうすい)・捲糸(けんし)の両作業を機械で連結させたのは画期的だった。

 さらに、博覧会に出品されたガラ紡には40錘(すい)ものブリキ筒が装着されていた。一挙に40本もの糸が引けたのである。仮に、ブリキ筒1錘が、従来の糸車を使った作業1人分に相当したとすると、ガラ紡はその生産性を一気に40倍に引き上げた計算になる。勧業博覧会を指導していたワグネルが、「本会中第一ノ好発明」と絶賛したのも頷けよう。

 しかし、ガラ紡は構造が簡単だったため模造品が大量に作られてしまった。また、特許制度が不十分だったこともあり
(注2)、発明特許の保護を受けられなかった臥雲は、生活の困窮に陥った。

 そのため、明治14年頃のガラ紡の広告(「綿糸機械広告」)には、正円の中に「進歩賞牌
(注3)/綿糸機械/臥雲辰致」と縦に三行書きにした焼印の図が載せてある。広告の中で、臥雲は「世上宜(よろし)ク上ノ焼印ヲ証トシテ弁識スヘシ」と述べ、模造品と区別するよう注意を促している。

 その後、ガラ紡は人力式から水車式に改良され、綿作地帯の三河地方を中心に普及していった。しかし、ガラ紡で紡績した糸は太くて撚りが弱く、強度と繊度が不揃いだった。そのため、洋式紡績機を導入した機械制大紡績工場が増加すると、次第にその姿を消していくことになった。


注1:臥雲が子どもの頃、火吹き竹の筒に綿を詰め込んで引っ張り出しては遊んでいた。その時、滑り落とした筒が
    くるくる回って細長く引いた糸に自然に撚りがかかった。これが発明のヒントになったという。
    (小松芳郎「脚光−歴史を彩った郷土の人々− 13.臥雲辰致」http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kyakko13.html)
注2:明治4(1871)年に「専売略規則」が交付されるものの、審査員の不足等の諸事情により、翌年施行が中止され
    た。本格的な特許制度の開始は、「商標条例」(1884年)、「専売特許条例」(1885年)、「意匠条例」(1888年)
    等の公布によってである。 
注3:第2回内国勧業博覧会(1881年)で受賞。第2回の博覧会では、名誉・進歩・妙技・有功・協賛の各賞と褒状の
    6賞があった。受賞すると賞状と賞牌(メダル)が授与された。


【参考】
・国立公文書館『公文書にみる発明のチカラ−明治期の産業技術と発明家たち−』
 平成22年秋の特別展パンフレット
・愛知大学中部地方産業研究所『日本が誇る産業遺産・三河ガラ紡』2005年
 (インターネット上pdfファイルを2013年12月16日閲覧)
2013年12月15日(日)
鞠(まり)の精
 平安貴族の遊びの一つだった蹴鞠(けまり、しゅうきく)。現在のサッカー(蹴球。しゅうきゅう)とは似て非なる競技だ。

 かいつまんで言うと、鹿革でつくられた鞠を、一定以上の高さに蹴り上げ、地面に落とさないようにする遊びである。1チームは4人、6人または8人から成り、そのリフティング回数を競う団体戦と、鞠を落とした者を負けとする個人戦があった。

 「遊び」とはいうものの、蹴鞠の道に熱中してその技が神域に到達し、後世「蹴聖(しゅうせい)」と呼ばれた人物がいる。藤原成通(ふじわらのなりみち)だ。

 成通の述懐によれば、蹴鞠の道に志してから、延べ7000日間は練習したという。単純に計算して19年余。そのうち、一日の休みなく練習を続けた日々が2000日余り。ぶっ通しで5年半ということだ。

 暇があれば自宅の庭で鞠を蹴った。月が出ていれば、月明かりの下、夜も蹴った。雨の日には、大極殿(だいごくでん)で蹴らせてもらった(大極殿は公式行事で使用する以外は、普段は使われない建物だった)。病気の時でも、寝ながら鞠を蹴った。こうして、片時も鞠から離れることはなかった。


 ある時、かかり(蹴鞠の競技場の四隅には、柳・桜・松・楓の木をそれぞれ植えた。この4本の木を「かかり」という)の柳の枝に、みずら髪を結い、青色の唐装束を着た12,3歳ばかりの少年が出現した。少年は、「鞠の精」だったという(『十訓抄』)。

 好きなことをとことん突き詰めて、その技が高みに到達すれば、精霊に出遇うという奇跡も起こるだろう。藤原成通だったらさもありなん、という話だ。

 なお、京都市の白峯神宮などでは、鞠の精霊は少年の姿ではなく、3匹の猿の姿をしていると伝えている(ウィキペディア「蹴鞠」の項)。 
2013年10月21日(月)
藤原良相(ふじわらのよしみ)
 藤原良相(813〜867)は冬嗣の五男で、清和天皇の摂政となった良房の弟である。

 良相は文学に造詣が深く、信仰心の厚い人物と評価されてきた。度量が大きく、人望もあった一角(ひとかど)の人物だったらしい。右大臣にまで進んだが、晩年は運がなかった。

 応天門の変(866)の際には、大納言の伴善男(とものよしお)に与(くみ)して左大臣源信(みなもとのまこと)の逮捕命令を発し、兄良房と対立した。しかし、善男こそが放火犯と断罪され、良房が摂政に正式就任すると、その政治的影響力を急速に失なった。翌年(867)、にわかに病を得て死去(55歳)。二人の娘が文徳・清和両天皇の女御であったが、いずれも皇子を生まなかった。さらには、跡継ぎの常行(ときつら。836〜875)までもが875年に早世(40歳)。その後、その子孫からは、公卿を輩出することがなかった。

 こうして、兄良房の陰に隠れて、良相の名は忘れ去られた。

 ところが2011年秋、平安京右京三条一坊六町から、良相の邸宅「西三条第(にしさんじょうてい)」の遺構が発見されたのである。

 注目すべきは、大量の墨書土器の出土だった。このうち、仮名文字をもつ墨書土器は、現時点で、平安京最古の出土例となった。そこには、9世紀後半まで確実にさかのぼる草仮名(そうがな)がいくつも書かれていたのである。草仮名というのは、万葉仮名を書き崩した仮名成立期の書体をいう。9世紀の仮名資料は稀少なのだ。

 1000年以上の時を経て、文化人藤原良相に、光があてられることになったのである。


【参考】
・丸川義広「平安京右京三条一坊六町(藤原良相邸、西三条第、百花亭)の調査」2012年12月15日(第240回京都市考古資料館文化財講座)−インターネットによる、2013年10月21日閲覧−
2013年10月12日(土)
缶コーヒー

 缶コーヒーに格言のような言葉が書いてある。何でも、「心に火をつける言葉」を、何十冊かの漫画本の中から拾い出して、1缶につき1種類ずつ印刷してあるのだそうだ。缶に印刷されているQRコードスマートフォンをかざすと、出典の漫画本を1巻のみ無料で読める特典までついている。

 ところで、たまたま雑記帳を開いたら、ゲーテの言葉がメモしてあった。


  きょうできないようなら、。あすもだめです。
  一日だって、むだに過ごしてはいけません。

                    
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』1952年、新潮文庫、p.81)


 ゲーテの励ましは、缶コーヒーの「微糖」より、もうちょっと苦い。

2013年9月14日(土)
『白氏詩巻(はくししかん)』
 『白氏詩巻』は、三蹟の一人藤原行成(972〜1027)の代表作。平安貴族に人気があった白居易の詩8編を、行成が47歳の時、『白氏文集』から書き写したものだ。現在、東京国立博物館に所蔵されている。もちろん国宝だ。

 この作品には、その来歴について、ちょっとしたエピソードがある。

 先祖の書いたこの巻物は、偶然によって子孫の手に渡った。巻末に書かれた行成の子孫藤原定信(ふじわらのさだのぶ。1088〜1156)の跋文によると、保延6(1140)年10月22日、蓬門(ほうもん。草葺きの門)から一人の物売り女が屋敷に入ってきた。女は二巻の巻物を売りに来たのだという。一巻は行成がその書風を慕った小野道風(やはり三蹟の一人)の『屏風土台(びょうぶどだい)』、もう一巻がこの『白氏詩巻』だった。経師(きょうじ)の妻という物売り女が、どのような経緯でこれら貴重書を入手したのかは不明だが、『白氏詩巻』はこうして子孫の手元に戻ったのである。

 この他、『白氏詩巻』には「寛仁2(1018)年8月21日に書いた」という行成自筆の奥書や、紙背の継ぎ目には『白紙詩巻』を愛蔵した伏見天皇の花押がある。

 どのエピソード一つとっても超一級品の作品だ。


【参考】
・東京国立博物館他編『特別展 和様の書』2013年、写真P.100〜101、釈文P.306、
 解説P.270−2013年7/13〜9/8開催の東京国立博物館特別展の図録−
・東京国立博物館ホームページ「e国宝」
2013年8月14日(水)
シナゴンって怪獣の名前?

 藤原道長が長女彰子を一条天皇の後宮に入内させた話は、この間書いた。その際、嫁入り道具の一つだった屏風に、当代一流の才人であり歌人でもあった公卿連中に、和歌の献呈を依頼したことを書いた。

 その時、和歌を献呈した藤原斉信(なりのぶ。967〜1035)・藤原公任(きんとう。966〜1041)・源俊賢(みなもとのとしかた。960〜1027)と、それらの和歌を書いた藤原行成(966〜1041)には共通点がある。一条天皇の御代に、斉信は権中納言、公任は権大納言、俊賢は権中納言、そして行成は権中納言だったのだ。

 学才あふれるこの公卿連を、当時の人びとは「四納言(しなごん)」と呼んだ。

2013年8月12日(月)
紫(むらさき)の人々
 紫は高貴な色だ。そのため、天皇など一部の高貴な人びとしか、身にまとうことを許されなかった。こうした色を、禁色(きんじき)という。

 紫にゆかりのある主要人物が登場する物語を、1000年も前に書いた小説家がいる。紫式部だ。光源氏の父親である桐壺帝の「桐」、その後妻となる藤壺の「藤」、そして光源氏の正妻紫の上の「紫」。すべて、紫色の植物だ。作者の名前も、その作品に由来するニックネームだ。

 紫式部は、紫雲に見まごう「藤の花」と形容された彰子のもとに、『源氏物語』を引っさげて宮仕えした。それは、寛弘2(1005)年か3年のことだったという。紫に彩られた物語は、もっとも高貴な人(一条天皇)を、彰子のもとに惹きつける役割を果たしたに違いない。それこそが、道長の思うつぼだったのだろう。寛弘5(1008)年に中宮彰子は妊娠し、待望の皇子敦成(あつひら)親王を生んだ。

 彰子の周囲には紫式部以外にも、和泉式部、伊勢大輔(たいふ)、赤染衛門ら、錚々たる才媛たちが近侍していた。彼女たちによって、「藤原文化」の一翼を担われたのである。
2013年8月10日(土)
和歌をねだる
 一条天皇(980〜1011)には、定子(976〜1000)という4歳年上の姉さん女房がいた。相思相愛だったが、出産のため里帰りしていた。皇后定子が宮中を留守にしたその隙を狙うかのよう、道長(966〜1927)は長女彰子(988〜1074)を一条天皇のもとに、女御として入内させた。長保元(999)年11月1日のことである。

 道長は当時左大臣。公卿連中に、娘の嫁入り道具として用意した高さ4尺ばかりの屏風に、和歌の揮毫を頼みまわった。彰子のすまいが藤壺に予定されていたので、それにちなんだ藤の屏風だったという。これに名工飛鳥部常則(あすかべのつねのり)の大和絵を貼り、公卿たちから集めた和歌を、三蹟の一人藤原行成(ふじわらのこうぜい)に書かせようという趣向だ。

 祝い事だったからもあろう。権力者の依頼に、藤原高遠(ふじわらのたかとお)・藤原斉信(ふじわらのただのぶ)・源俊賢(みなもとのとしかた)ら、当時一流の歌人でもあった公卿たちが次々と祝賀の和歌を寄せる中、「読み人知らず」という匿名の形で、花山(かざん)法皇までが和歌を贈ってきた。ただ、反骨漢の藤原実資だけは道長の要求をのらりくらりと逃げて、とうとう和歌を書かなかった。
 「三舟(さんしゅう)の才」で知られる藤原公任(ふじわらのきんとう)が道長に献呈した和歌は、次のようなものだった。


   
左大臣むすめの中宮の料に調(ちょう)じ侍(はべ)りける屏風に  右衛門(えもんのかみ)督公任

    紫の雲とぞ見ゆる藤の花 いかなる宿
(やど)の徴(しるし)なるらん
                                  
(『拾遺集』・雑春・1069)


 「藤」原氏出身の彰子の美しさを「藤」の花に見立てたわけだ。「紫雲」は瑞兆(ずいちょう)で、すなわち「めでたい兆(きざし)」の意(「紫」は高貴な色で皇室の暗喩だから、「紫雲」は皇后をさすのだろう)。瑞兆というならこの時代、皇子を生むことにちがいない。将来天皇となる皇子を生むことが彰子の使命であり、その皇子はまた道長の孫でもあるのだ。

 こうして彰子は、父道長を支持する有力者たちが連署した屏風をもって宮中に乗り込んでいった。

 ただし、裳着(もぎ)の儀式(女性の成人式)を済ませたとはいえ、この時彰子は12歳。現在なら、小学校6年生の年齢だ。
2013年8月8日(木)
具注暦(ぐちゅうれき)
 道長の日記は、具注暦(ぐちゅうれき)の余白に書き込まれている。具注暦というのは、年中行事や日の出・日の入りの時刻、吉凶などを記した暦のことだ。これらの記載事項を「暦注(れきちゅう)」という。「暦注」が「具(つぶ)さ(詳細)」に記入されているから、具注暦と称したわけだ。

 具注暦は、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)の暦博士(れきはかせ)が作成した。作成したといっても、天文観測をしたり、複雑な計算を繰り返したりして、独自の暦を作ったわけではない。中国から伝来した暦(宣明暦)に従って作成したまでなのだ。


【参考】
・国立国会図書館ホームページ「暦の歴史」
 http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_index_01.html
2013年8月7日(水)
『御堂関白記(みどうかんぱくき)』を見に行った
 先日、東京国立博物館に『御堂関白記』を見に行った。道長自筆の日記である。『御堂関白記』とはいうものの、道長自身、関白になったことはない。後世の命名者がミスを犯し、訂正されぬまま、この名前が定着したのだ。

 『御堂関白記』は今年(2013年6月18日)、ユネスコの「世界の記憶(俗に「世界記憶遺産」)」に指定された。道長の日記は、誤字・脱字や文法の間違い等が多いことで知られている。そんな日記が、今や人類の遺産とは。道長は、あの世で苦笑しているに違いない。

 『御堂関白記』は、今回が初めての展示公開だった。肉眼でまじまじ観察しようと思ったが、一つ大きな失敗をした。オペラグラスを持参しなかったことだ。ガラス越しの展示だから、小さな文字がとにかく見えない。

 結局は図録を購入して、写真で再度の鑑賞ということになった。
2013年7月15日(月)
お寺にまつわる不確かなこと
 世の中の、まことしやかに語り伝えられている事柄の中には、「本当にそうなの?」と疑問に思うものが少なくない。

 先日、ある地理教育書の中に「ビスケー湾で沈没した船の積み荷の小麦が海水でだめになった。捨てるのはもったいない。そこで、海水につかった小麦をこねて焼いたところ、ウマイお菓子ができあがった。ビスケー湾にちなんでビスケットと名づけられた」という趣旨のことが書いてあった。しかし、このビスケット起源説は明らかに誤りだ。それは、平凡社の百科事典などを引いてみればすぐにわかることだ。

 しかし、こうした間違い・思い違いは、誰しも往々にして犯しがちだ。調べればすぐ誤りだとわかることもあるが、出所がわからず、判断に迷うことも少なくない。そのうちうやむやになって、不確かな知識が脳みその襞に残ることになる。

 教育書という真面目な本ならば、せめてその出典なり、典拠なりを、示しておいて欲しいものだ。

 ところで、最近、お寺ブームらしく、テレビをつけると、お寺関係・仏像関係の蘊蓄を語るタレントが多い。

 たとえば、


 建長寺で小僧さんが転んで豆腐を粉々にしてしまった、もったいないので汁の中にいれたのが「建長寺汁」。これが「ケンチン汁」になった。


 これは、誰もが知っている事物起源説話の一つ。しかし、『日本国語大辞典』などには違う説が書いてある。

 どうも、万人受けするような面白い話には、うさんくさいものが多い。真偽の程はさておき、お寺にまつわるこの種のハナシを、少し書いてみよう。

@ ゴタゴタ

 中国人の高僧「ごったん(ごったんふねい。兀庵普寧)」が鎌倉建長寺に住した。しかし、話す言葉が中国語だったので、何を言っているのか日本人にはわからない。建長寺の兀庵和尚の言うことはわからない、というので、これを「建長寺ゴタゴタ」と言うのだそうだ(東京12チャンネル『アド街ック』2013年6月22日放送、「北鎌倉」)。

A ガランドウ

 昔のお寺は広大な敷地を有するものが多く、その中に巨大な七堂伽藍がぽつんぽつん配置されていた。だから、閑散としている有様を「ガランドウ(伽藍・堂)」と言うのだと(仏教マニアを自任する漫才師のワライメシの話。番組名は失念)。

B ダイナシ

 仏像の台座がないと、ありがたい仏像がみすぼらしく見える。これが「台無し」の語源という(出所不明)。

C お寺は儲かる

 今でもお寺は宗教法人で、税制上優遇されている。信者が多いお寺はますますもうかっている。だから、「信者」という漢字をくっつけると、「儲(もう)」かるという漢字になるのだ(出所不明)。
2013年7月6日(土)
お酒は抵抗のシンボル
 今朝の朝日新聞(be)を読んでいると、漫画原作者の城アラキ氏が「フレンチ75」というカクテルについて書いているコラムが目にとまった(「飲むには理由(わけ)がある」)。

 このカクテルは、ドイツ傀儡政権下のフランス領モロッコを舞台にした映画「カサブランカ」に出てくる。カクテルの名前は、第一次世界大戦で活躍したフランスの75ミリ砲に由来する。ドイツ兵であふれかえるカフェの中で、ドイツに対する抵抗の小道具として生かされているのだ。私自身は下戸なので、この方面には全く不案内だが、カクテル自体は実在のものだ。城氏によれば「作り方はジンフィズに使う炭酸をシャンパーニュに代えて満たす。泡立ちの華やかさにコクと甘みが増し、夏らしい豪華な一杯となる」そうだ。
 
 そういえば、この映画にはドイツに対する戦意高揚の仕掛けが様々に施されていた。映画のラスト近くで、警察署長が酒瓶をゴミ箱に捨てるシーンがあった。その酒の名前は「ビシー」。ドイツ占領下のフランス傀儡政権(ビシー政権)の名前だ。
2013年6月22日(土)
6月22日は蟹の日
 大阪の蟹道楽が6月22日を「蟹の日」と決めたという。これには二つの理由がある。その一つは、蟹座が6月22日から始まるからということ。もう一つは、「あいうえお」の五十音表で、「か」が「あ」から数えて6番目、「に」が22番目だからだそうだ。

 ところで蟹といえば、思い浮かぶのはフランシスコ=ザビエルだ。ある時、ザビエルが十字架を海に落としたことがあって、それを蟹が拾って届けたという逸話がある。そこから、蟹とザビエルが結びついた。

 ちなみに、日本史の教科書に載っている有名なザビエルの肖像画を見てみよう。胸の前で交差している両手をみると、まさしく蟹の姿を表現しているではないか。
2013年6月16日(日)
同じものをみているのに(その3)
 見過ごしがちだが、奈良の東大寺大仏殿の中、大仏のすぐ近くに、8本肢(あし)のアゲハチョウの作り物が飾ってある。昆虫なのだから、自然界にいるチョウは6本肢がふつうだ。なぜ、8本肢なのだろう?

 考えつくことはいくらでもある。単に製作者が間違えた。実際に8本肢のチョウがいて、それをモデルにした。仏の世界である浄土にいるチョウは8本肢と考えられた…などなど。インターネット上を見ると、いろいろなことが書いてある。解釈は多様だ。

 ところで、この8本肢のアゲハチョウを見て、ある発見のヒントを得た外国人がいた。スイスの生物学者ゲーリング博士だ。通常より2本多い肢をもつチョウを見た博士は、「生物の体のパターンを決定する遺伝子が存在するのでは?」と考えた。のちにその遺伝子を発見し、「ホメオボックス遺伝子」という名前をつけた。

 8本肢のアゲハチョウは、それまで気の遠くなるほど大勢の人が見てきたはずだ。同じ8本肢のチョウを見てきた人びとは星の数ほどいたのに、ゲーリング博士のような独創的な考えをした人は、それまで一人もいなかった。これは本当に不思議なことだ。

 問題意識を常に持っていなければ、「見れども見えず」ということなのだろう。
2013年6月9日(日)
同じものをみているのに(その2)
 立場が違えば、とらえ方も異なる。それは、風景に限らない。

 『枕草子』第226段は、ホトトギスの鳴き声について書かれているが、清少納言と早乙女たちとでは、その声のとらえ方がまるで違っていた。

 賀茂へ行く道すがら、田植えをする女性たちの姿を目にした清少納言。その時、彼女たちが歌っていた田植え歌を「聞くにぞ心憂き」と書いている。

 それは、農民たちが次のように、「ほととぎすをいとなめううた」っていたからだ。


「ほととぎす、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ
(ほととぎすのやつが鳴くから、田植えをしなくてはならぬ)


 清少納言ら貴族層にとっては、ホトトギスの声は、夏の到来を告げるものとして和歌などで馴染みのあるものだった。しかし、農民たちにとっては、やっかいな田植え労働の開始を促す憎い声だったのだ。
2013年6月8日(土)
同じものをみているのに(その1)
 同じ風景を見ても、男女で感じ方が違う場合があるそうだ。

 たとえば、東京タワーから夜景を眺めても、男性はすぐに飽きてしまうという。それに対し、女性は1時間でも平気で眺めていられるという。だから、男性が、夜景に飽きて土産物屋でも物色してようものなら、「本当にあなたったら、ロマンチックの欠片もない人!」と決めつけられかねない。昔聞いた話なので、細部は忘れてしまったが、こうした相違は、男女で見える色の種類が違うことに起因するらしい。

 男女による差異ばかりではない。その人の置かれた立場や状況によって、同じ風景でも見え方が違う場合がある。

 手もとにないので書名が確認できないが、学生時代に読んだ三沢勝衛(みさわかつえ)の本(『新地理教育論』だったろうか?)からそのことを教わった。三沢は信州教育にその名を残す、地理教育の第一人者だ。


 三沢が日本アルプスを背景とした農村風景を、「美しいなあ」と感動を込めて口にすると、そばにいた男に「こんな風景、美しいことなんかあるものか!」と言下に否定された、というのだ。

 この辺の記憶は定かでないので、その趣旨を損なわない程度でのたとえ話をしよう。

 たとえば、白馬岳に旅行に行ったとしよう。春を迎え、残雪をいただいた白馬岳を見た旅行者は、おそらくその絶景に感動することだろう。

 白馬は現在、「ハクバ」と発音する。しかし、もとは「シロウマ」だった。春、山の雪が融け始めると、雪山に馬の姿をした地肌が現れてくる。そうなると、田圃の代掻(しろか)き作業が始まる。そこで、この山は、「代掻き作業が始まる時期を知らせる馬」という意味で、「代馬」岳と名づけられた。のちに発音の「シロウマ」に引っ張られて、「白馬」と書き誤られてしまい発音までもが「ハクバ」となった。

 農作業が過酷だった時代には、地元農民にとって、今年もまた重労働が始まる時期を迎えたことを示す風景として、暗澹たる気持ちにさせる風景だったわけだ。農作業が始まる頃の白馬岳を美しいと思ったのは、地元農民の労苦に関わりをもたない他所者(よそもの)の目だったからだ。

 技術の進歩で重労働が減り、食うや食わずのおそれがないほどに生活水準が向上しなければ、風景を楽しむという心のゆとりも生まれないのだ。
2013年6月1日(土)
平安時代の天皇はマザコン?
 テレビをつけてみると、「今でしょ!」の流行語で今一世を風靡している東進予備校の林修氏が、バラエティー番組に出ていた。林氏の曰く、「男子東大生のほとんどはマザコンですよ」。
 個人的見解なのだろうから、東大生にマザコンが多いかどうか、実際のところはわからない。しかし、少なくとも、平安時代の天皇はマザコンが多かったようだ。

 時は摂関政治期。摂政・関白となる藤原氏は、娘を入内させて皇子を生ませ、将来の天皇の外祖父となって影響力を行使した。しかし、天皇の母親の影響力も、これまた大きかった。
 天皇の父親である上皇は、譲位後、内裏から宮城外に出ることになっていた。嵯峨天皇以来の慣例である。平城太上天皇の変における「二所朝廷」のような混乱を避けるための措置だった。だから、譲位すると上皇は、息子である天皇と別居したのである。

 しかし、天皇の母親は、子の天皇が即位すると天皇とともに内裏に住んだ。即位の儀に際しては天皇とともに高御座(たかみくら)にのぼり、天皇が幼い時には後見し、政務は母親の御前において行われた。

 こんな有様だったから、摂関の任命に際しても、天皇の判断は母親の意向によって左右された。円融天皇が藤原兼通を関白に任じたのは母親安子(兼通の妹)の遺命によるものだったし、一条天皇が藤原道長を内覧に任命したのは母親詮子(道長の姉)の命令に逆らえなかったからだ。

 母親の呪縛から解き放たれることは、当時の天皇にとって、現代のマザコン東大生(?)の比ではなかったかも知れない。


【参考】
・古瀬奈津子『摂関政治 シリーズ日本古代史E』2011年、岩波新書、P.25〜26
2013年5月30日(木)
『名スピーチ集』のメモを作ってみた(昭和の声、その4)
 『歴代総理大臣の名スピーチ集』は、このままでは利用しづらい。なぜなら、その内容表示が「幣原喜重郎『第89臨時帝国議会施政方針演説』(昭和20年)」という程度だからだ。これでは、具体的な内容はわからない。そこで、『名スピーチ集』の内容の簡単なメモを作成してみた。

 しかし、このカセットテープ自体を持っている人は少ないだろうし(すでに絶版)、わが家のカセットテープレコーダーが壊れたり、テープが切れたりでもしたら、このメモも利用できなくなってしまう。

 音質をもう少しクリアにした『名スピーチ集』を、CDかMP3にして再販して欲しいものだ。できれば、解説書もつけて。

                     【注】1〜17が上巻、18〜37が下巻に所収。表中の「年」はすべて昭和。
  首相名  演    題  メ    モ 
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
田中義一
浜口雄幸
若槻禮次郎
犬養 毅
斎藤 実
岡田啓介
広田弘毅
林銑十郎
近衛文麿
近衛文麿
平沼騏一郎
阿部信行
米内光政
近衛文麿
東条英機
小磯国昭
鈴木貫太郎
国民に告ぐ
経済難局の打開について
はるかに日本国民に告ぐ
新内閣の責務
非常時の覚悟
総選挙に際して
第70帝国議会施政方針演説
国民諸君に告ぐ
第71特別帝国議会施政方針演説
第73通常帝国議会施政方針演説
大命を拝して
大命を拝して
第75通常帝国議会施政方針演説
紀元2600年記念式典祝辞
大詔を拝し奉りて
謹みて大詔に応え奉る
大命を拝して(談話)
3
4
5
7
7
11
12
12
12
13
14
14
15
15
16
19
20
 普通選挙法による最初の総選挙に臨んで
金解禁の必要を訴える
ロンドン海軍軍縮条約について報告
満州問題解決と経済不況の挽回が急務
「挙国一致」で現在の難局にあたる
選挙による「政界の浄化」を期待
皇室を中心に国民の一致団結、不退転の決意
政党無視により4カ月で退陣
世界平和を訴える、直後に日中戦争勃発
「国民政府を対手とせず」(近衛声明)
国家総動員体制を強化して内外各般の国策遂行
「新東亜建設の功業」「帝国無窮の進展」
中国問題の解決に邁進
帝国臣民に代わり「天皇陛下万歳」
東亜新秩序の建設、八紘一宇、尽忠報国
天照皇大神の子孫である天皇は宇宙絶対の神
「私の屍を踏み越えて国運の打開に邁進…」
18
19
20
21
21
23
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30
31
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34
35
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37
38
東久迩稔彦
幣原喜重郎
吉田 茂
片山 哲
芦田 均
吉田 茂
鳩山一郎
石橋湛山
岸 信介
岸 信介
池田勇人
池田勇人
佐藤栄作
田中角栄
三木武夫
福田赳夫

大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
中曽根康弘
竹下 登
第88臨時帝国議会施政方針演説
第89臨時帝国議会施政方針演説
第90臨時帝国議会施政方針演説
第1特別国会施政方針演説
第2通常国会施政方針演説
第20臨時国会所信表明演説
第21通常国会施政方針演説
組閣後の記者会見
第27臨時国会施政方針演説
新安保条約調印後の挨拶
所得倍増計画について(談話)
第40通常国会施政方針演説
第49臨時国会所信表明演説
第70臨時国会所信表明演説
第74臨時国会所信表明演説
第84通常国会・衆議院本会議代表質問への答弁
第88臨時国会所信表明演説
第93臨時国会所信表明演説
第108通常国会施政方針演説
東京サミット共同記者会見
第111臨時国会所信表明演説
20
20
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35
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53

54
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62
 終戦に至る経過、時局に当たっての決意
衆議院議員選挙法の改正、圧制的諸制度の廃止
憲法改正、民主的諸改革の実行
新憲法の遵守、高度民主主義体制の確立
政局と民政の安定に努力
欧米7カ国訪問から帰国、国際社会への復帰
日本の自立の達成、自主平和外交、憲法改正
自主外交と積極経済政策、減税
日米関係の改善(日米安保の改定)
「日米関係の第2世紀に入りつつある」
「10年たったら(所得は)2倍以上と…」
「真の福祉は額に汗して建設すべきもの」
「清く正しい議会政治こそ国の発展の基盤」
日本列島改造論
政治倫理の確立、社会的不公正の是正
減税より公共投資の方が経済波及効果あり

財政の公債依存体制の改善
公正で金のかからない選挙制度
戦後政治の総決算、一連の改革
アジア・太平洋地域の安定と進歩に貢献
ふるさと創生論
2013年5月29日(水)
総理大臣のスピーチを聞く(昭和の声、その3)
  さて、わが国の歴史である。日中戦争からアジア・太平洋戦争へと、戦争が泥沼化するにつれ、歴代首相の口からは神がかり的で、悲壮感漂う無責任な言葉が次々と飛び出すようになる。少し書き出してみよう。

「建国2600年、我らはいまだかつて戦いに敗れたことを知りません…広く国民が一切をあげて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。」(東条英機、昭和16年)

「天皇陛下は宇宙絶対の神であること今さら申すまでもなく…」(小磯国昭、昭和19年)

「今日私に大命が降下しました以上、私は私の最後のご奉公と考えますと同時に、まず私が一億諸君の真っ先に立って死に花を咲かし、国民諸君は私の屍(しかばね)を踏み越えて国運の打開に邁進されることを確信しまして、謹んで拝受致したのであります。」(鈴木貫太郎の大命を拝しての談話、昭和20年)

 これらの言葉が、首相という政府の最高責任者の口から出ていたことに、空恐ろしさを感じる。こんな言葉を国民に聞かされるような時代に、二度とさせてはならない。
2013年5月28日(火)
戦争を始めた理由(昭和の声、その2)
 カセットテープを聞いてみると、音質がよくない。カセットテープという媒体のせいばかりでなく、古い時代に録音された音源に問題があるのだろう。

 しかし、聞き取りにくくとも、「オラガ大将」田中義一やロンドン軍縮条約全権の若槻礼次郎、「男子の本懐」の名台詞で有名な浜口雄幸や五・一五事件で斃れる犬養毅など、教科書の字面の上でしかお目にかかれない彼らが、確かにこの世に存在したということが実感させられる。

 彼らの声を聞くにつけ、やりきれなくなるのは、当時の国の指導者たちが、口では「国際平和」を標榜しながらも、戦争に突入していくという矛盾だ。自分たちの人権を守るために、多くの人びとの人権を破壊する「戦争」という究極手段に訴えることを、彼らはどのように理解していたのだろう。

 人類の歴史をふりかえってみると、各国が戦争を始める時の口実は、決まって「国際平和のため」とか「自衛のため」とかである。どの国も、正義のヒーロー面(づら)して戦争を始めている。戦争には、ショッカーやデストロンら(古すぎてわからないかな?)のように、「ワレワレハ世界征服ノタメニ活動シテイルノダ」などと堂々といってのける、わかりやすい悪役は存在しない。それぞれが、戦争に至らざるを得ない「正当な理由」というものを振りかざしているのだ。
2013年5月27日(月)
カセットテープを取り出した(昭和の声、その1)
 今年は平成25年。何事を見・聞くにつけ、「昭和は遠くなりにけり」という感懐を持つことが多い。久しぶりに、「昭和の声」を聞いてみた。

 取り出したのは、「昭和元年・若槻禮次郎から平成元年・竹下登まで、歴史を動かした男たちの肉声」と銘打った『歴代総理大臣の名スピーチ集』(NHKサービスセンター編集・製作、伊藤隆監修、ナレーター村田幸子。発売元は(株)中経出版。現在絶版)。現在ではほぼ「化石」と呼ばれるであろう「カセットテープ」2本である。しかし、量的にもコンパクトにまとまっており、これだけで歴代総理大臣のスピーチによる一つの「声の昭和史」になっている。

 このほか、わが家には『昭和の記録−激動の55年−』(NHK監修、1980年、発売元ぎょうせい)というカセットテープ10巻の「録音集」と「写真集」からなる豪華版もある。しかし、唯一作動している小型カセットテープレコーダーが壊れようものなら、粗大ゴミとなってしまうだろう。
2013年5月20日(月)
塊か? 槐か?
 鎌倉幕府の3代将軍源実朝の和歌集を『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』という。よく間違えて「金槐」を「金塊」と書いてしまう。「金塊」では、金のカタマリだ。

 『金槐和歌集』の「金」はGOLDではなく、鎌倉のこと。鎌の金偏をとった。

 「槐」はえんじゅの木のこと。中国周代、太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)が臣下の最高位で、これを三公(さんこう)といった。三公の座を定めるのに、朝廷に3本のえんじゅを植えたところから、三公の家柄を「槐門」と呼んだ。わが国では、三公に太政大臣・左大臣・右大臣をあて、「槐門」をその唐名とした。

 実朝は右大臣だったので、「鎌倉の槐門の和歌集」すなわち『金槐和歌集』と名づけたわけだ。

 ちなみに周では、公卿(こうけい)の座を棘(いばら)を植えて定めた。公卿は九卿あったので、これを九棘(きゅうきょく)または棘路(きょくろ)といった。「槐門棘路(かいもんきょくろ)」といえば三公・公卿の異称であり、政界での最高幹部のたとえとなっている。
2013年5月13日(月)
炭素14って、こんなに少ないの?(放射性炭素14、その3)
 子ども向けの科学雑誌に「週刊朝日百科・週間かがくるプラス」16号(2006年7月23日発行、朝日新聞社)がある。子ども向けの最近の図鑑類もそうだが、これが意外と高レベルで、しかもわかりやすい。本号の特集が「ものの古さを測ることができるの?」。

 これを見ると、「自然界に存在する炭素14って、こんなに少ないの!」と、イラストで鮮やかに説明されている。この雑誌によると、自然界にある炭素の量を10トントラックが積載する砂の量にたとえると、10トントラック100台のうち99台分の砂が炭素12、1台分の砂のほとんどが炭素13。この残り1台分のうちの100億分の1が炭素14なのだという。何のことはない。10トントラック100台分の砂の中の1粒だけが炭素14なのだ。その大きさはわずかに1mm!

 放射性炭素14年代測定法というのは、これっぽっちしかない炭素14を測定するのだ。科学技術の発展のすごさに感心するとともに、その測定法の信憑性に懐疑的になるのは私だけ?
2013年5月12日(日)
本当に正しく測れるの?(放射性炭素14、その2)
 生物が死ぬと、二酸化炭素の形で体内に取り込まれた炭素14は、それ以上からだの中に入ってくることはないのだから、体内の炭素14の量は増えない。だから、遺跡から出土した炭素を含んだ遺物(たとえば、炭化米)があれば、その中に含まれる炭素14がどのくらい残っているかで何年前のものかわかるのだ。

 測定方法は、遺物を燃やして二酸化炭素にし、それに高電圧をかけて炭素14がこわれる際に出す放射線を測定する。その量が、現在のものの半分しかなければ、5730年前のものと判定できる。

 ただし、この方法にはいろいろと弱点がある。

 当然のことながら、石器やガラスなど、もともと炭素を含まないものは測定できない。 年代が古くなればなるほど、遺物にふくまれる炭素14の量も少なくなるわけだから、あまりにも古い年代のものも、炭素14が微量過ぎて測れない。

 また、炭素14を含んでいても、遺物のどの部分が残るかによっては大きな誤差を生じる可能性がある。たとえば、千年杉で造った遺物が出土したとしよう。その遺物が木材の芯付近のものか、年輪の外側付近のものか、どちらかが残るのは偶然である。その場合、1000年もの誤差が生じる可能性があろう。

 さらには、5000年前、1万年前と、常に自然界がどの年代にも一定量の炭素14で満たされていたという保証はどこにもない。

 したがって、測定には、常に誤差がつきまとっているはずだ。
2013年5月11日(土)
12,13、14はあって15はない(放射性炭素14、その1)
 考古学の年代測定法の一つとして出てくる放射性炭素14年代測定法。この「炭素14」の「14」というのは何だろう。

 これは、原子核を構成する陽子と中性子を合わせた数だ。

 そもそも自然界には3種類の炭素原子が存在する。炭素12,炭素13、炭素14だ。この3つの炭素は、原子核をつくっている陽子の数がどれも6個ある。陽子の数が同じなので、すべてが同じ炭素だ。

 違いは中性子の数である。炭素12は中性子6個、炭素13は中性子7個、炭素14は中性子が8個なのだ。

 12とか13とか14という数字は、陽子と中性子の和を示している。すなわち、炭素12は陽子6個+中性子6個=12個、炭素13は陽子6個+中性子7個=13個、おなじく炭素14は陽子6個+中性子8個=14個というわけだ。

 このうち、陽子と中性子を合わせて14個持つ炭素14には、面白い性質がある。放射線を出しながら、一定の割合でこわれていき、陽子7個・中性子7個の窒素原子に変わってしまうのだ。5730年でもとの量の半分になり、1万1460年後にはさらに半分(もとの量の1/4)になる。炭素14は、いわば自然界の時計なのだ。

 放射線は機械で測定することができる。炭素14のこの性質を利用すれば、考古学が対象とするような古い年代の遺物がいつのものか、測定することができるはずだ。これが、放射性炭素14年代測定法の考え方だ。
2013年5月9日(木)
思えば遠くに来たもんだ

 下関条約で、清国から日本へ譲渡された遼東半島であったが、三国干渉で中国返還を余儀なくされた。返還されるやいなや、遼東半島の南端(いわゆる「関東州」。万里の長城の海側の終点である山海関(さんかいかん)の東にある土地の意)を、中国からの租借という形で、ロシアが横取りしてしまった。これが日露戦争を引き起こす遠因の一つになった。

 さて、この時ロシアが旅順とともに租借した大連(だいれん)は、ロシア語のDarny(ダルニー)に由来している。

 南下政策(南へ、海へ)をとるロシアは、この時、東清鉄道南部支線(ハルビン・旅順間)の敷設権をも手に入れている。これは、ヨーロッパ=ロシアから延々と「眠れる大地(シベリア)」を東に向かい、シベリア鉄道から東清鉄道を南下し、ついに暖海(黄海)への出口を確保したことを意味する。ここにロシアは、遠く東洋のはずれに、ついに悲願だった不凍港を我がものとしたのである。

 皇帝ニコライ2世はこの地をDarnyと命名すると、ただちに商港建設に乗り出した。Darnyは、「遠い」の意。すなわち、ロシアが遥か遠方に確保した不凍港、というわけだ。ロシアは1902年までに、1000トン級の船舶が25隻も係留できる埠頭を完成させた。Darnyは巨大な港湾施設を持つ自由貿易港として発展した。ロシア風建築が軒を連ね、市街地を多くのロシア人達が闊歩していた。

 その後、日露戦争で日本軍がDarnyを占領すると、1905年2月、遼陽守備軍令達第3号によって、この地を「大連」と改称。ダルニーの音を、漢字に写したのである。

 ポーツマス条約で、遼東半島及び長春以南の鉄道租借権が日本に委譲されると、大連には多くの日本人が渡航した。原田敬一氏の『日清・日露戦争』(2007年、岩波新書、P.224〜5)によると、大連在留邦人は日露戦争直前の1904年1月には307人だったものが、1911年末には8798戸2万9775人に急増している。

2013年5月5日(日)
お金と電気の関係

 紀元前7世紀頃、現在のトルコ西部に位置していたリディアという国で、世界最古の鋳造貨幣が発行された。

 リディアの金貨は、バクトロス川の河床から得られた大粒の自然金(金と銀との自然合金)を原料にしていた。この自然金の色が、古代ギリシアの琥珀(エレクトロン)を連想させたので、貨幣はエレクトラム(エレクトロン貨。琥珀金)と呼ばれた。

 ところで、琥珀には布などでこすると静電気を帯び、小さな紙片などを引きつける性質がある。16世紀、静電気を研究していたイギリスのウィリアム=ギルバートは、この琥珀(エレクトロン)の性質にちなみ、電気をエレクトロニクスと命名した。

 世界最初の鋳造貨幣エレクトラム、琥珀のエレクトロン、電気のエレクトロニクスは、同じ語源なのだ。


【参考】
・日本銀行金融研究所貨幣博物館HP「貨幣の散歩道・第54話 エレクトロンと電子マネー」など

2013年4月29日(月)
二千円札は書道の教材
 2000年に沖縄サミットを記念して発行された二千円札紙幣。現在は、沖縄を除き、ほとんど流通を見ることはない。発行枚数が少ない上、死蔵されているからだ。

 久しぶりに二千円札を取り出して見ると、思わぬ発見がある。一枚の紙幣の中に、さまざまな書体が同居しているのだ。

 丸い印に用いられているのは、中国秦代の書体「篆書(てんしょ)」だ。金属や石などに彫られた文字なので、同じ太さの線質で書かれている。

 「二千円」という文字は漢代に使われた「隷書(れいしょ)」だ。漢代には紙が改良され、安価な紙が普及したため、文字はもっぱら紙に筆で書かれるようになった。線質に細い・太いが見られるようになったのは、筆で紙に書かれるようになったゆえだ。とりわけ、はらいの部分の三角形が特徴的な書体だ。この秦・漢両時代の書体の違いを「秦篆漢隷(しんてんかんれい)」といっている。

 隷書は楷書(かいしょ)のもとになった。現在、われわれが普通に使っている書体だ。二千円札を見ると、沖縄の守礼の門が描かれており、門額に「守礼之邦(しゅれいのくに)」という文字が見える。この文字は、楷書だ。

 紙に書かれるようになった文字は、実用の場で次第に早く書こうとする要請により、書体が行書(ぎょうしょ)・草書(そうしょ)へと発展していった。

 わが国のかたかなは漢字の一部分を切り出したものだが、ひらがなは草書から生まれた。二千円札には、連綿(れんめん)で書かれた美しいひらがな(『源氏物語絵巻』(鈴虫の巻)の詞書(ことばがき))が、印刷されている。

 二千円札一枚には、書の文化が凝縮されている。
2013年4月25日(木)
工場制機械工業
 産業革命によって、工場制手工業の「手」の部分が「機械」に置き換わって、工場制機械工業が成立した。

 機械を使うようになって、生産性が向上したのだから、働く人びとはずいぶんと楽になったはずだ。しかし、事実は逆だった。どうしてなのだろう。

 資本家は次のように考える。機械にも寿命があるので、できるだけ多く使いたい。その一方で、常に最新の機械に更新していかないと、他社との競争に負けてしまう、と。

 そこで、一定期間で機械を徹底して使い潰すとともに、次々と最新の機械と入れ替えていくことになる。それは「時間との戦い」である。その結果、労働時間の延長や労働強化がもたらされる。

 つまり、最新機械が導入されて楽になるはずだったのが、予想に反して、ますます仕事に忙殺されるという矛盾が生じるのだ。この矛盾が労働運動(労働時間の短縮や労働条件の改善要求)の激化を促すことになる。


【参考】
・嶋崇『いまこそ「資本論」』2008年、朝日新書
2013年4月24日(水)
志筑忠雄の宇宙起源論
 志筑忠雄は『暦象新書』の付録につけた「混沌分判図説」の中で、一種の宇宙起源論を述べた。

 志筑によると、宇宙は当初混沌として未分化であり、ただ大気のみがあった。そのバランスが崩れ、気は次第に凝縮・集合して濃厚となり、引力も増して塊となっていく。こうして太陽系が生成されたのだという。

 これは、当時ヨーロッパで知られた星雲起源説とほぼ同じ発想である。志筑は独立して、同じ考えに到達したのだった。しかも、当時の日本の天文学者は、暦法研究のために天体を観測したのであって、天文そのものや宇宙論に関心を持つ者はほとんどいなかった。こうした面でも、志筑は特異な人物だった。

 しかし、志筑の余命は、彼に研究の継続を許さなかった。49歳で没したのである。


【参考】
・吉田光邦『江戸の科学者たち』1969年、社会思想社(現代教養文庫)、P.156〜157
2013年4月23日(火)
青い靴下
 青鞜社は、平塚らいてう達が1911(明治44)年に設立した。その命名は、18世紀のイギリスで、一部のインテリぶった女性たちを冷やかしたブルーストッキングに由来する。元々は蔑称だったのだ。

 なぜ、「青い靴下」なのか。平凡社の百科事典の「ブルーストッキング」と「モンタギュー」の項目によると、その由来は次のようなものだった。

 エリザベス=ビージーなる女性のサロンでは、文学や芸術などに関する高尚な議論が行われた。その夕べの会合に招かれた紳士の一人に、ベンジャミン=スティリングフリートという人物がいた。彼は、当時一般的な黒い絹の靴下ではなく、青い毛糸の靴下をはいてきて、人びとの注目を集めた。いつしか、この種の会合をもつインテリ女性たちは、「青い靴下」と関連づけて呼ばれるようになったという。

 ただし、毎日新聞社編『歴史雑学事典(世界編)』(1975年、毎日新聞社)では、青い毛糸の靴下をはいた男は、ビージー夫人のサロンではなく、エリザベス=モンタギュー(1720〜1800)のサロンにやってきたことになっている。作家でもあったモンタギュー夫人は「ブルーストッキング・ソサエティーの女王」と呼ばれ、そのサロンはブルーストッキングのニックネームで呼ばれたという。
2013年4月16日(火)
「廊下で勉強」って、今なら体罰?
 菅原氏は、代々学者の家柄である。平安時代の前期には、清公・是善・道真の3代にわたり、文章博士(もんじょうはかせ)を輩出した。その学識の深さゆえ、菅原氏に紀伝道などについて、教えを請う者があとを絶たなかった。そこで、自宅の書斎(山陰亭といった)で、そうした者たちを教えることにした。現在でいうなら、私塾というところか。

 ところが、門人の数が次第に増えて、書斎に収まりきれなくなった。こうした事態に対処するため、場所を書斎から廊下に移し、そこで講義することにした。

 ゆえに、菅原氏の私塾を「菅家廊下(かんけろうか)」と称する。
2013年4月15日(月)
浮世ちょぼくれくどき(桜田落書39。これで終了)
101 宇幾世ちよほくれくとき
やれやれ。みなさん。こんどのそう動。御存なれども。きいてもくんなへ。そうどうつくしじや。壱番大キい桃の初に桜でおハりだ。お人はたれぞや。分別きとりの。年は四十二で権勢和尚じや。今日は節句じや。大事の登城じや。衣裳きかざり。大小たばさみ。さしもりりしひ。出立ハ立派じや。さいごの門出じや。無常のお風じや。雪はちらちら目先か見へぬぞ。消て行身じや。おさきハくらひぞ。供やなんぞも。はれ着(注、脇に「衣」とある)を着かざり。桐油着まわし。しつかりむすんで。是さかかァどん。退出あつたら。あさつきなますじや。お酒が飲ない。さしみ御玉ハ。承知かがつてん。是が別れじや。辞の仕舞じや。露の命じや。夕へを待なへ。永の旅路じや。十万億土じや。敵はそれとも。目先にや見えない。相図の壱声。どどんと打たりや。是レや又なんじやい。旦那のおならか。今日はさいこじや。道理で大キい。其うちおさへが。片耳切れた。こりやまた大変。助てくんなよ。御先へ切込みや。御徒か迯出す。さわぐとたんに。駕籠脇切られて駕の内では。地震の子じやぞい。出よふか引ふか。しあんの所へ。右と左を。くつさり。さされて。首はころりじや。かちときァ立派じや。舟に帆あげて。行衛は知れぬと。大方隠居か。見物するじやろ。ごくもんさしじや。心地かよいだろ。おあとハにせ首。しつかりつないで。もめんで。やたらにまかれて。仕舞じや。さしづのけがしやと。御届立派じや。雪は赤くて。屋敷しや青いぞ。即死の生首ャ。諸方でさらすぞ。家中じや。めじめじや。つきせぬなごりじや。是非がない世じや。浮世の習ひじや。是さ和尚さん。おまへはなんだい。三十五万の高取ものだが。家来も沢山あるでハなへかえ。壱人も助けて呉てのないのハ。神の御罰が十分あるだろ。おしい首をハ。取られてどふする。二番は決して。出た事ァないぞへ。親のゆづりの。大事の物じやぞ。夫といふのも。幼少の折から。教に背ひて。出家をするのも。だるまも九年で見捨た。座ぜんを一生するのも。親や先祖へ。不孝じやないかへ。千ノ利休も。御茶ニて自害じや。おまへは毎日するのハ愚かじや。人も茶にする。家中も茶にする。あげくの果には。天下も茶にする。どんな御茶でも。水にてのめるぞ。水もいらなへお国へ追込。あとは生茶で。がりがりかむぞへ。謀る忠臣。茶にして。仕舞て。粉茶葉茶同然。お国へ追やり。はらを切るやあた。暇を呉たり。親に劣らぬ兄キの妾を。貞立つろと云こそ。本ンじやに無理に引寄。ちんちん鴨やら。ワンワンあひるで。公家衆をだまさせ。お金を遣せ。禁裏に背せ。流言致させ。捨文なんぞハ。大姦不忠のなんと。御罰が中らぬものかへ。国家の大柄手ニ取上には。大和魂しい。しつかり致て。神祖の遺訓を。一寸は守らずにや。お職に相應せぬではないかへ。弓馬鑓剱。調練なんぞハ。おまいは為ずとも。家中は為せたら。少しハ役にも。立てはあろうに。背田谷なんぞの。坊主をよび寄せ。よだれをたらして。説法聞ても。まさかの時には。何にもならない。平家惟盛ァ。源氏の白はた。三日もにらんで。迯ても。弱いといふうではないかへ。なんじやおまいは。征夷の執権。イキリス来らは。六ヶしからんと。たつた一言。いつたに恐れて。大事の調印。押せて仕舞た。なんと皆さん。たまげたこんじやよ。水戸や。尾張や。越前なんぞが。聞て驚き。天下の大変。違勅違勅と云れて。困て知らぬ知らぬと。すてきに強情だ。これが立腹。恨の始だ。上意こかしぢや。やたらに隠居だ。一ぜんめしなら。しのぎもよけれと。尾りのわるいも。始末かできたか。水の流れにや。困るぢやないかへ。とんな地の利も。人和にしかずと。孟子如きも。云たたじやないかい。内乱厭ふて。和親か大事しや。久世の書面も。太田の五ヶ條。かんでくくめた。異見も聞ない。板倉佐々木も。先見立派て。無理を致せば。天下の大乱。よしやれ。やめしやれ。程能しやあれと。幾度云ても一寸も聞ない。今の渡世は。首(ママ、「昔」か)と違ふて。さぎハ黒くて。カラスは白いと為ねハ。天下は。治らないとて。首を切やら。獄門さらして。追〃つのつて。云事聞なへ。おれの云事。聞ない。やつらは。一〃首をハ。はねると云たぞ。☆(傑のにんべんなし)紂こときじや。日本にやないぞへ。あんまりあきれて。物さへ云れぬ。おまけに。べらぼに。ひひきがつよいぞ。妾が親司は。加増をするぞへ。人聞わるいにや。少しもかまわぬ。女の云事。なんでも聞ぞへ。片桐なんぞの。始末を聞なよ。甲府がおやめで。支配がしくじり。てつぺん尽くしは。政事しやないぞへ。諂ふ人にハ。お役をさせるぞ。親類縁者は。出世をするぞへ。他人は疎遠て。おはむき野郎ハ。勢ひつよくて。本家へ乗込。さんたん仕懸けて。二十五人に。手詰のあいさつ。冷汗たらした。詫言致して。漸〃其場を。迯れたなれども。あとハ段〃お尻か。かゆくて。足本弱くて。倒れる斗りだ。かた炭たどんも。やつぱりそうだよ。そろばん枕で。四文の争ひ。畳の運上。どこにもないぞへ。訴訟駕籠そう。限りがないぞへ。牛にもつまれず。棟もたゆむぞ。旦那の夷見ハ。一〃戻して。若い身上ひつかき。まハして。山〃だらけで。壱万手當じや。それでも。やつぱり。おもいか。ひひきだ。誠をいふ人ァ。遠くへのけるぞ。影も形も少しもないのに。毒害なんぞハ。とふしたもんだよ。異舩を招きた。謀反をするのと。人に云せて。やたらに。ふれさせ。おまへハ無口で。高見の見物。藤の時平も。はだしで迯るぞ。人さん大かた。誠にしたぞへ。隠居も脚にハ。大キに困つて。指を加へて。だまつて引込だ。周姫且も。流言おそれて。頭をかかへて迯たも。道理じや。節分一日ちぢめた。なんだい太平なんどと。ひといしやないかい。赤い雪などふりそなもんだよ。千年此方。ためしがないぞへ。異形の大星。毎ばん出たぞい。大雨大風。ためしかないぞへ。関東大荒。とふしだもんだよ。城も陣屋も。埋て仕舞た。入国此方。ためしかないぞへ。ころりなんぞも。とふしたこんだよ。天地開けて始たこんたよ。海の水迄。毒気か流れて。まぐろ・しび・たいかつをの。たぐひも。ころりころり浮出す。さかなを。喰てたまあらぬ。人迄。ころりで。親玉なんぞも。ころりでないかい。江戸もころりじや。田舎もころりしや。百万余人か。一度にころりじや。おまへの首まて。ころりで。あつたりやァ。是からころりの。根だやしだろうぞ。是さ皆さん。聞てもくんなよ。此又和尚は。へんちき。和尚だよ。五尺のからだは。なまこも同然。まなこハあつても。遠目がきかない。耳があつても。きくらげ同然。心があつても。よい事しらなへ。両足あつても。歩行が出来なへ。両手があつても。刀か抜ない。大和魂ないのは。まだしも。アメリカ心が。十分あるうえ。夷狄の事なら。なんでも。聞ぞへ。測量するなら。勝手にしなさへ。陸地を。ためさバ。どこでもよいぞへ。日本の物なら。なんでもやるぞへ。神社佛閣。けかれてくさくて。夷人の遠馬は。流行ものだぞ。附たつ乞食ハ。子供を叱て。女をおどして。諸人のそしりハ。ちつとも。構ハず。手當がよいとて。にこにこ笑ふて。とんで出る。なんぞは。あきれた小人。御役に立そな水野を引かへオロシヤの悪口。酒井か申せば。逆ねち。喰て。御さそい遠慮じや。西洋風俗。やめたは。よけれど。交易致せば。太平なんぞと。和親〃〃と。てかけだ。あげくにや。ワシントン迄。使節を立たぞ。かあいそうなハ使節の人たち。僅百里も行ないうちにハ。目の玉ぐりぐり。まハりきたとて。へどを吐やら。たおれた。ままにて。死人同然。無慈悲なこんだよ。おらんだ。証拠だ。聞てもみなさへ。道理じや。お舟にや。壱度も。乗ない人を。万里の果迄。行け迚だしたは。へらぼふだるまじや。ないかへ。それハまだしも。世間じや困らぬ。困る事には。諸色の高直。僅半年。立ないうちに。糸が段〃上つて。きたれば。夫に引れて。金まで上つて。夷狄のドロにて。通路か悪くて。天氣よくても。あるかれないぞへ。銀が下れば。身上も下つて。役人氣位。段〃下つて。武士の勇氣が。追〃へるぞへ。中にもおまへハ。寐ぼけて。くらすだ。おまんを。くらつて。氣重に。なつたか。御菓子を。喰て。ねむけが。ますかへ。お大名には。借金ふえるぞ。御旗本には。土産がないぞへ。御家人なんぞにや。手當がないぞへ。米の直段か。高直なれども。張紙なんぞハ。へらぼに安ィぞ。おまけに。御米は少く渡すぞ。日本の大都は。大江都じないかへ。御城ハ天下の。普請じやないかへ。寺社やなんその。奉加をするよに。裏店なんぞに。金銭だせとは。これさ和尚さん。本氣ぢや。あるまい。こんなふしんは。見た事ないぞへ。おまへハ。御茶すき。日頃高慢。宇治や。喜せんに。ようたで。あろふうぞ。酒によふたハ。まだしも。よけれど。御茶によふたは。始末にやおへない。職人なんぞにや。寄進をせよとて。早出居残。四文もださなへ。棟梁なんぞハ。あさからばんまで。声をからして。どなつた斗りで。それで。ふしんハ。できるじや。あるまい。ふしんできすは。いつでもよいとは。あきれて。辞も出ないぢやァ。ないかへ。やけたハ。時節ぢや。仕方がなけれど。外には。五ヶ国。にらんで。居るぞい。内には。大乱かもして。いるぞへ。万一大事が。おこつた時には。おまいハ第一。彦根の御城へ。地の中。もぐつて人より真先。お尻りがかるくて。迯るであろうが。跡の始末ハ。どふしたもんだよ。十方にくれるは。見て来た。やふだよ夷狄は地の利を。十分知たぞ。おまへの弱いか。百まて承知じや。夫でも永目に。見るのか夷狄しや。民か困れハ。施しするそい。十分なつけて。こしをしするぞい。交易一年。つづいた事なら。段〃諸色が天まで上ッて。四海困窮。見て来たやうだよ。子供ころして。女房を喰ねば。其日其日の。しのぎが。出来なへ。なんと桐生の。そう動。聞たか。糸が一段。上ッた斗りで。あちらこちらの。家居をこわして。米を奪て。漸〃しのぐぞ。今に天下は。何もそうだよ。勅諚守れハ。吾侭出来なへ。賢者か出る時ァ。自分がつまらぬ。智勇兼備の。名将ねたんで。道も理もない。仕方ハ。どうじやい。青鯖なんそを。おさきに。つかつて。京都をさわがせ。お金を遣ハせ。姫宮もらつて。関東へ下した。御台所に致すの。なんどゝ。小石川ニは。だましに。乗たが。禁裏ハどつこひ。夫でハいかぬぞ。夷狄を伐ねハ。征夷ハやらない。云れて御受ハ。いたした。けれども。かげへ廻つて。宮方いじめて。謀反に方人致たなんど。うそを八百。ない事八百。親王摂家も一盃喰た。此亦野郎も。北条もどきで。鳥羽の離宮黒木の御所や。島守なんどゝ云たる。逆臣忽ち廻つて。御役をもがれて。からだが。くさつて。癩病。やむとハ。天子の御罰も。きついしやないかへ。中にいわ村ふらふら。野郎も一番當て氣で。出世を仕よとて。あちらこちらを。かけずり。まハつて。人のあらおば。やたらに。さがして。針の麁相を。棒にも致して。あみのり物にて。下したよけれど。帰ッて見たれバ。大きな間違ひ。若い年寄。すつぱりはずれて。自分遠慮じや。心地がよいぞや。やつぱり御罰じや。三日にころりじや。人のころりハ。またしもよけれど。妻や妾の。自害や殺害。無理もないぞへ。すゝめた登城じや。お国のやけたも。御罰ちやふしぎぢや。これさ和尚さん。しつかりしなされ。世の中直するや。造作もないぞへ。慈悲を第一。上をハ敬ひ。武家には武道を。片時も忘るな。
禁裡を守護して。夷狄を伐よと。神祖の遺訓で。鏡の如くちや。是さへ守れバ。天下ハばんじやく。アメリカ。イキリス。オロシヤ。は手下の罪人。手の平見るよだ。ぐずぐず云たり。ポンベン。モリチル。焼き玉くわせて。ぐふぐふ云せて。万国挙て。鼠の如くぢや。おまいの為ることは。一ッもいけない。神祖の掟にや。少しも合なへ。だるまの御弟子ぢや。尤も至極ぢや。ごまを。たいたり。座せんを致して。怨敵退散退散。どころか。五ヶ国来ぞい。万国挙ッて。追〃来るぞい。道理ぢや。禁裡ハ六十余州の。寺なんぞい。たかせたごまをバ。よさせて。おまいは。獨てたいても。日本は。神国治るのかへ。日本の御国は。御伊勢にあるぞへ。神祖の御玉ハ。日光にあるぞへ。山のずつたは。ふしぎで。ないかへ。出雲の大社の。御告げを聞たか。天の使に。国造さんだよ。高天原より。神勅下つて。足立郡の泰泉和尚も。納所所化迄。討罰されたぞ。神祖の畫すがた。鳥居に頼れ。一年かかつて。出来ない。代りに。ちりての。のちにも。香ひけりとハ。やつぱり辞世の。歌でハないかへ。雨月の謡の。文句を直して。明日ハ雪とも。消にけりとハ。吾身の事をバ。云たぢやないかへ。石塔倒して。先祖の知らせぢや。夫をば。そうとも。知らない。破家もの。なんと皆さん。こわいぢや。ないかへ。伊勢と。出雲と。日光の大神。三社の御罰ぢや。三月三日ぢや。天子の怒りと。諸人の恨と。五ッ時とハ。奇妙ぢや。ないかへ。桃や桜も。つぼみぢや。ないかへ。散て仕舞ふは。笑止なこんだよ。雪と消るも。不便なこんだよ。足からとふしよ。おまいの事なら。つまや。めかけの。手を引合せて。三途川をば。泣泣渡て。死出の山を。よほよほ登て。六道辻にて。衣ものを。はがれて。雪の降のに。はたかで。しよぼしよぼ。ゑんまに大キな。声して叱られ。釈迦を頼か。弥勒を待ふか。釈迦ハ三千年月過たぞ。弥勒ァ五十六億万年迄。待ハ大義ぢや。無佛の世界ぢや。これさ和尚さん。教て上ふか。釈迦も。弥勒も。すつかり。やめなよ。一ッち手ばやい。仕方があるそへ。日光へ向ッて。掟を破ッた。御詫を申シて。御伊勢へ向ッて。神国穢した。御詫を申て。出雲へ向て。神道を破ッた。御詫を申て。一心堅固に。三人諸共頼んだ事なら。御許しあるぞへ。ゑんまへ断り。地獄を離れて。犬猫馬牛。罪をハ亡し。夫から人間世界を。出かけて。穢多や乞食非人を。へ上り。段〃生死を巡た。事ならとどの仕舞ハ。又〃大名。いつか一度ハ。彦根へ生て。溜り席ニて。富貴に成れるぞ。夫は扨置。お跡はどふしよ。諸方の。隠居の慎み許て。将軍自ら政事を握て。末ハ兎もあれ。一旦改易。御高は残らず。天子へ指上ケ。勅諚守ッて。大名懐けて。神を敬ひ。万民憐ミ。賢者を撰んで。おさばき真直。内は丸けりや。夷狄ハ懼るる。是か神風。相違ハないぞへ。五ヶ国退散。遠くハないぞへ。神国太平。近〃にあるぞへ。なんでもかんでも。御直し御直し御直し。
                           山海ノ草水片人慎述
2013年4月14日(日)
常盤津もじり大夫直伝(桜田落書38)
00 常盤津文字り大夫直傳
過にし桃の花見月、登城おそしと待受て、きつと見合駕籠と顔、訴状らしくちやさりたて、人の見るめもなんのその、附こんできてもさとられぬ、目先に油断、お側の衆もころびやせまい吹ぶりに、ぬれてここへとふるところ、ねついしたわけになつたのも、つもりつもりていつしかに、水戸と桜田腕くらべ、雛の節句の朝ぼらけ、死出のかためと打はたす、不意鉄砲の筒先に、御駕籠にぐつとさしこめハ、しゆくといふもの初てしつた、中の殿ごは露しらず、思ひこがるるわたしやもの、なんの命かおしかあろぞ、あなたを打てハ本望と、みだれミだるる、たがいに首もうたるる風情なり
【私注】
 常磐津文字太夫は常磐津節の太夫。初代(1709〜1781)は最初宮古路豊後掾の門人だったが、豊後節が江戸で禁止されたので、常磐津節を創始。二代目文字太夫(1731〜1799)は名手の誉れ高く、三代目(1792〜1820)は早世したため事跡は多くない。「文字り」は「もじり」の意。

・この項目、未校正。
2013年4月13日(土)
月づくし(桜田落書37)
99 月づくし
a 訴状躰ニ而近寄しハ思ひ月      水府の御家来
【私注】
 浪士達は大老襲撃の際、森五六郎が駕篭訴の体で行列に近づき、先供に斬り込むのをその合図にした。駕篭訴を装って行列に近づいたのは思い付きだった、の意。

b 槍刀にてりきんだのは後の月     外櫻田の廣間☆

c 玄関の上でふるへ月          辰の口の番士

d 御首の行衛が分らぬ神無月      かもん

e 御からだ斗になき月          御召仕

f 馬で迯出したうしろ月          駒井山城

g 赤ひ御門で青いいきを月        井伊の門番

h 親父は暇でやみ月           上杉の辻番人

i 御届ぶりでは大そふなうそ月     日比谷馬場先両御門
【私注】
 日比谷御門番片桐石見守と馬場先御門番戸田七之介は、事件後浪士らの御門通行を差し止めなかった罪により、ともに差し控えを命じられた。

j 御駕籠の中で金玉がしなび月     和泉

k 今度は嬉しひとえ顔月         隠居

l 国士が出かけて力月          井伊の家中

m 御家柄に疵が月            此度

n 迯る御駕籠に飛月           桜田の犬

o まちとふそふな鼻のひこ月       御寺

p 月もなく月しは駕籠へ月付て月當られし☆赤月

q 月〃に月見ぬ月はなけれども二日の月か見納のつき
【私注】
 三月三日に暗殺されたので、三月二日に見た月が見納めの月になった、の意。

・この項目(☆印)、未校正。
2013年4月12日(金)
桜田の月尽くし(桜田落書36)
98 桜田の月つくし

a 運の月
雪かかる来かかる花へ月かかる何の苦もなくやれ運の月
【私注】
「雪かかる木かかる花へ月かかる何の雲なくやれ運の月」に「行きかかる来かかる端へ突きかかる何の苦もなくやれ運の尽き」をかける。

b ぎら月
見るかげもなき父君の姿ぞとはがみをなせるまなこきら月

c とり月
はかなさもくやしなみだのこらへかね妻のうらみの今にとり月

d とび月
狼藉といふまもあらす赤合羽ぬぐよりはやく徒士へとひ月
【注】『落書類聚』三九九ページは「徒士」を「駕籠」とする。

e くちや月
あやにくに雪に朝とハまのわるき足どり悪く道はぐちや月

f まこ月
見付てもこはさあぶなさぶるぶるとにげる覚悟でやたらまご月

g 天の月
我つミもつみとおもはぬ人ぞなし討ハうたるる天命のつき

h どか月
切たりと聞てばつたりころんだり下馬先にげる供のどか月

i いか月
くやしさにはりさくむねをおし包み路にのこした家来いか月

j ねた月
おひおひに国をはせ来る家来たち事の済だでどうかねた月

k きら月
今済だ所へ丁度きの国の駕籠のそきみる眼きら月(ママ)
【私注】
事件直後に丁度来た、と言いかけて、紀の国の駕籠と続けた。事件直前に尾張藩の行列が登城し、事件後に紀州藩の行列が大老襲撃現場を通り過ぎた。落首は大老横死の現場を、紀州藩主が駕篭の中から覗き見た眼(まなこ)が光っていた、の意。

l へこ月
こま急く見れば左京の比興もの目付けられじとにげるへこ月
【私注】
・「こま」は駒(馬)に駒井山城守朝温(ともあつ)を掛ける。「目付けられじ」は「見付けられまい」の意に、駒井の役職(目付)の意をかぶせている。

m むか月
首あれば手ありゆひあり鼻そげてみる人〃のむねはむか月

n どじ月
腹切もあれば泣もあり迯もありとつつおひつにうちハどし月

o かた月
切合たあつちこつちの手負人皆それそれにこれはかた月

p ひや月
よふよふとにごりも澄ハ小石川おちつくむねのまたもひや月

q ぶら月
ぬけ出たるいつもとこかにかくれいて人めをしのび二度のふら月

r おち月
こはい事いのち掛川苦の鯖江などとすましてずいとおち月

s つま月
懸替のなき老職もたち切てひざもとくらくひよんなつま月

t うそ月
聞た事みた事のよふ噂していらざる事を口にうそ月

u 月の別ものに
二三年身の養生がわるいゆへ首のころりとなりし桜田
2013年4月11日(木)
五言絶句(桜田落書35)
97 壮士選語(ママ、「五」)言絶句 城南御近所大変

a 題井伊氏別条
主人不首識。當坐☆近辺。跡莫愁追敵。老中自有詮。

b 夜送上使  餘慶
上使人参賜。家来穏和傳。見君還級首。見物瀟門前。

c 雪水総血
雪地成燕丹。壮士襷為冠。于時敵已没。今日水猶寒。

d 贈急使駕
大庭戦供方。運悪薄戦功。可憐駅馬使。落首為誰雄。

e 苦夜志為敵
落頭何之事。已彼刀風吹。妾心正断絶。君懐那得知。

f 難路傍  ☆跣
去國山野遠。登府萬里春。傷心闘争客。不是胡盗人。

g 近所驚音
北風吹白雪。血糊流河汾。近所逢魂洛。闘声不可聞。

h 怨情
義人蒙御咎。深坐☆☆眉。但見遺恨止。不知心誰恨。

i 春朝
番人不覚捕。所々出口状。往来剱戦声。首落知多少。

j 武城答権大老  猛丈連
伏釼行千里。微躯敢一言。☆為大丈夫。不負信義恩。

k 逢狂者     変氣
今朝出仕途。相逢激猛傑。寸心言不盡。前落首将功。

l 弊藩極     愁傷閨
☆々雨雪時。茫々寒口括。離頭那用綴。萬里不防口。

m 恐路仰天    不運
馬嘶白雪晴。釼鳴恐怖来。我敬言無際。駕中空徘徊。

n 御別離     申送
欲送率君衣。君今何処到。不歎帰来遅。莫向臨終去。

o 尋御首不見   家中
御首如何問。医師採薬去。只在此駕中。雪深(ママ)

p 答人 大庭隠語
偶来御城下。刎首石塔眠。家中無暦(「歴」)士。敵迯不知追。

 壮士選歎之極終

【私注】この項目、未校正。
2013年4月10日(水)
大悪(桜田落書34)
95 大悪
   朱鬼愁苦
仕返子曰大悪後主意趣兎角入欲之門也於櫻田可見四人死者獨頼此変之損而願望足之従者必奇之而間部為則庶其類☆
大悪之道者在明銘辱在侮上在滅自然死云瞻彼日雪能々降有斯変死如切如討如刺如割駈兮這兮飛兮迯兮有来藩士随不可走如切如討者道悪也如刺如割者自求也駈兮這兮者無面目也飛兮迯兮者異義也有血半死終不可忘者道隠悪自然罪之不能逃也

今朝騒動櫻田外一發砲声乗物傍狼狽迯帰六尺供周章投出一本鑓(やりは金へんに倉)赤門☆血如紅色白雪☆刀似雷光行衛難知大将首奥方奉察御愁傷

  卑怯     動笑顛
瞻彼日供陸尺井伊有来群衆如寄如立如間如叩切兮突兮打兮薙兮有血戦士終不可防
瞻彼日様肩息嘶々乱有半死當時周章大変抜腰這兮☆撹兮揉兮有平困士終不不(見せ消ち)可歩
瞻彼日頬辟易如土有奇珍事如唖如吃如泣如噴仰兮反兮嗟兮當惑善遺却兮不立役兮
  鬼井伊苦三章笑止句

96 大悪 (大悪恩仇今改如字)
   朱鬼愁苦
仕返子曰大悪後主意趣兎角入欲之門也於櫻田可見四人之死者獨頼此変之損而願望足之従者必奇是而間部則庶乎其類☆
大悪之道在明銘辱在侮上在滅自然死云膽彼日雪能能降有懸変死如切如討如刺如割這兮駈兮飛兮逃兮有来藩士終不可走兮如切如討者道悪也如刺如割見怖也這兮駈兮者無面目也飛兮逃兮者有異儀也血有半死終不可忘者道隠徳自然民之憂無限也(死者即死也。這兮駈兮者抜腰也飛兮逃兮者将是討存命也遅遅来者恐怖甚族未詳)
右変之一統者蓋忠士言而藩士慕之其殿之愁傷者則物衆而(「之」)意而叛人讐之也舊恨頗有卓山今因変死所極更不考後難別為耻辱如左(凡三拾五万石輩舊恨者年来恨去耻辱永世汚名残意下☆之)
評定曰克明悪閉口曰此度之顧銘銘手手曰克明残黨皆自膽潰也
右刑之首級者明政道也

茲聞在日本國京城。有十七人。行刺其國主。査此十七人。乃係美督公子之従人此美督公子。不願外国人在日本貿易國(「因」)上年日本國主與外國立和約。準各國舩進日本各港貿易。是以美督公子。有謀反之意。買人謀刺國主。幸得其國主護身兵勇。保駕救脱。國主只被打傷而已。日本京城総督。昭會各外國公使大臣。各宜謹慎防虞等語。閏三月六日香港上梓開紙。

【私注】この項目、未校正。
2013年4月9日(火)
通鑑綱目(桜田落書33)
94 通鑑綱目 現帝蔓延元年 續續編
春三月盗刺赤愧于江城櫻門外
赤愧入城賀修禊節坎藩士佐篠大関倭玄忠山爾関☆三木伍藕市☆鑑伯魚淵廣陵匠廣木公禾田重愈子金陵新三木繁海后義阜邉参等埋伏路側急起撃之時天大雪不弁咫尺従徒相亂進刺愧肩輿刃見血乃引出斬其頭篠忠市鑑遂詣閣老坂中書邸自首曰赤愧誤國之大奸臣等謹行天誅然國有常刑臣等委命司敗倭伍爾繁投繊川侯邸其餘或傷死或散亡不知所之
(頭注「赤鬼後裔出赤愧猶韓魏公孫有韓☆胄」「十七人為天下除害」「殺身成仁」「而下脱誅之二字」)

書法 盗何十七人也赤愧欺君誤國擢髪難数況乱臣賊子人人得而☆為十七人者不書名而書盗蓋十七人者以其君為赤愧所辱挟仇以殺以非純於討賊者是故不以施全史彌遠之例予之也綱目原情定名予奪之旨公☆

廣義 赤愧提封三十萬身為幕府大老而十七人者殺諸通衢不翅如猟孤兎豈不愧於其職與禄耶嗚呼此亦可以求其故☆自米夷要求和信鄂英佛諸夷聞之争請互市幕府有司務従懐柔而朝廷主張舊憲必欲攘之諸藩鎮又有張坎粤石曼赤松瀛洲楊江之不雷同于幕議特坎太公以幕府宗室夙有英明之聞朝廷依頼為戊午之秋下攘夷詔于幕府更賜一通于坎太公方是時大将軍尚幻冲赤愧専當幕政忌憚太公誣之以假名☆懲實抱覬覦之志懇請詔旨幾醸大亂由是捕☆王人及諸☆紳舎人吹毛求疵以羅織其罪遂幽太公于坎城内自公卿以下坐之或禁鋼(「錮」)或戮殺或☆黜者七十餘人正議者既除☆赤愧無復所忌顧公然允互市貸頓泊地洋銀盛行而國幣日賤物價従而沸騰至三倍曩日人民不安其生愁苦之声満街衢雖児童走卒皆知互市害然愧視國家如秦人視越人之肥瘠専営私圖己貨賂公行満朝皆門☆之人至是罪悪貫盈天地不客神人共憤遂為十七人以☆之也綱目変文于十七人則書盗于愧則削去官爵以見其罪不若是誤國之大奸有所逃罪而討奸之烈士獨蒙悪名何足以誅乱臣賊子之心権其軽重定其是非可謂至☆故因其所書詳為之説云

【私注】
・「通鑑綱目」 『資治通鑑綱目』になぞらえて書かれた落書。『資治通鑑綱目』は、宋の司馬光が撰した『資治通鑑』によって綱目を作ったもの。朱熹が綱(大要)を書き、目(細目)を趙師淵が書いた。 
・「現帝蔓延元年」 「現帝」は孝明天皇。「蔓延元年」は万延元年。
・「盗」 盗は賊の意で、国法を破る者。水戸浪士17人を指し、薩摩浪士有村は人数に入っていない。
・「赤愧」 井伊の渾名「赤鬼」にりっしんべんを加え、赤恥をかくの意を掛けた。頭注に「赤鬼後裔出赤愧。猶韓魏公孫有韓☆胄(赤鬼の後裔に赤愧出づ。猶ほ韓魏公の孫に韓☆胄有るがごとし)」とあり、赤愧(井伊直弼)を赤鬼の不肖の子孫とした。韓魏公は北宋の賢臣韓g(かんき。1008〜1075)のこと。河南安陽の人で、英宗の時魏国公(ぎこくこう)に封ぜられた。神宗の時、王安石の青苗法に強く反対し、また宋・西夏の戦いに乗じて契丹が割地を求め、王安石がこれを与えようとすると反対した。『韓魏公集』『安陽集』の著がある(京大東洋史辞典編纂会編『新編東洋史辞典』1980年、東京創元社)。
 不肖の子孫赤愧(井伊直弼)の引き合いに出された韓☆胄(かんたくちゅう、?〜1207)は韓gの曾孫。頭注に、これを韓gの孫とするのは誤り。韓☆胄は南宋の権臣で、高宗の皇后と縁続きとして寧宗擁立に活躍。政敵を失脚させ、朱子学派を圧迫し、権勢をもっぱらにした。しかし、金と戦って失敗し、責任を問われて殺された(『新編東洋史辞典』)。
・「坎藩士」 坎(かん)は易(えき)の八卦(はっか)の一つで、水・隠れる・なやむ・北方・黒色などを表す。よって坎藩は水藩(水戸藩)の意。
・「佐篠」 佐野竹之介。篠は竹の意。
・「大関倭」 大関和七郎。倭は和に同じ。
・「玄忠」 黒沢忠三郎。玄は黒の意。
・「山爾」 杉山弥一郎。爾は彌(弥)の偏をとったもの。
・「関☆」 関鉄之介。
・「三木伍」 森五六郎。三木は森(木を三つ書く)の意。伍は五に同じ。
・「藕市」 蓮田市五郎。藕(ごう・ぐ)は蓮(または蓮根)のこと。
・「☆(藤のくさかんむりなし)鑑」 斎藤監物。鑑の偏をとれば監の字になる。
・「伯魚淵」 鯉淵要人。伯魚は孔子の長男孔鯉の字(あざな)。したがって伯魚は鯉の意。
・「廣陵匠」 陵は大きな岡の意。匠の意不明。広岡子之次郎。 
・「廣木公」 広木松之介。木公は松の字を分解したもの。
・「禾田重」 稲田重蔵。禾は稲の意。
・「愈子金」 増子金八。愈は「いよいよ、ますます」の意から増すを示す。
・「陵新」 山口辰之介。陵は大きな岡で山。新(しん)は辰(しん)と音が同じ。
・「三木繁」 森山繁之介。三木は森の意。
・「海后義」 海後嵯磯之介。后は後に同じ。義は磯に通じる。
・「阜邉参」 岡部三十郎。阜は大きな岡の意。したがって阜邉は「おかべ」と読める。参は三に同じ。
・「天大雪不弁咫尺」 大雪のため、わずかの距離でも見分けがつかない。咫は周尺で8寸(約18センチメートル)、尺は1尺(約22.5センチメートル)。咫尺(しせき)できわめて近い距離。
・「閣老坂中書邸」 老中脇坂中務大輔安宅(やすおり)邸。中書はこの場合、中書省(中国唐・宋などで詔勅・民政などを司った中央官庁。日本の令制では中務省)の役人中書監(ちゅうしょかん)のこと。中書監の和名を中務大輔(なかつかさたいゆ)といい、中務大輔は中務省で四等官(卿、大輔・少輔、大丞・少丞、大録・少録)の次官にあたる。
・「繊川侯邸」 細川邸(肥後熊本藩)のこと。繊は細いの意。

・この項目(☆印)、未校正。
2013年4月8日(月)
恥の木(桜田落書32)
92 恥の木
あゝふつたる雪かな、夫首は掃部にて、取て散乱し
【私注】
・題名の「恥の木」は謡曲「鉢の木」のもじり。この部分は「鉢の木」の佐野常世の出の「あゝふつたる雪かな。いかに世にある人の面白う候らん。それ雪は鵞毛(がもう)に似て飛んで散乱し、人は鶴しょう(「しょう」は「敞」の下に「毛」)を着て立つて徘徊すといへり」のもじり。「鶴しょう」は被布(ひふ)のような仕立てで、白地に黒の縁をとった服。隠者などが着た。

93 井伊花か散て伯耆の路そふじ
【私注】
・表面は「素晴らしい花が散ってしまったので、道に散乱した花びらを箒で掃除した」の意だが、「箒」に、寺社奉行松平伯耆守(丹後宮津藩主)の「伯耆」をかける。
2013年4月7日(日)
0407 判じ物(桜田落書31)
91 はんじもの

      (原文省略)

【私注】
 それぞれの単語の字画の一部が欠落している。「立花」は「立」の第一画と「花」の草冠が欠けている。立花(橘)は井伊家の紋所であるから、直弼の「首がない」ということを言ったもの。次の「一老」の「一」は「大」から「人」が脱落したもの。したがって「大老に人なし」と読める。同じように「親玉」の「親」から「目」が、「番士」の「番」から「人」が、「評議」の各文字から「口」が、「老中」の「中」から中央の部分がそれぞれ欠落している。よって、この判じ物は次のように読むことができよう。
「立花(橘)に首なし
 大老に人なし
 親玉に目なし
 番士に人なし
 評議に口なし
 老中に腹なし」
(井伊には首がない。大老には適任者がいない。将軍には人材を見る目がない。桜田事件を見て逃げ出す番士には人材がない。閣僚の評議には意見がない。老中には度量がない。)
2013年4月6日(土)
落とし話(桜田落書30)
88 掃部頭様御無事に御帰と申事を聞給ひ、奥方様御出向ひ被成候所、無程御駕篭入来たるニ付、御戸前引候所、掃部頭様被仰候ハ、こりァ胴だ
【私注】
・「こりァ胴だ」 実際は首を奪われていたにもかかわらず、大老負傷と発表したことを揶揄した落とし話は多い。駕篭の戸を開けて、「これはどうしたことだ」という驚きの言葉に、駕篭の中は胴だけで首がない、の意を掛ける。


89 桃の節句に駕篭の中、首なしこしぬけはぢかきない、井伊家はじめつとなりかゝる
【私注】
・「井伊家はじめつ」 井伊家は自滅、の意。

90 ない物尽し
凡世の中ない物尽しのない中に、事のないものたんとない。上巳の大雪めつたにない。桜田騒動とほふもない。それでどうやら御首かない。先でちつとも追ひてがない。一人り二人りぢや仕方がない。引馬どこへかうせてない。御駕篭か有てもかきてがない。上杉辻番いくじがない。御番所どこでも留てがない。浪人少も弱氣がない。脇坂取次、出てがない。桜が咲ても見てがない。茶屋芝居は行てがない。唐人咄は丸でない。そこで板倉つつがない。讃岐のさわぎは知る人ない。一躰親父ハ人でない。薩摩の介太刀わからない。夜分ハさつぱり通りがない。町人金持氣が氣でない。老中増供見ともない。全躰役人衆腹ない。是では世の中おさまらな(ママ、「ない」)。夫でも先ニア軍はない。どふだかワたしハ請負ない。めつたな事ハ言てがない。物がないからワからない。こんない(書入れ「な書付内にもない。」)もののないはともあれ埒もない。めつた(ママ、「な」脱か)事をいふものない。
2013年4月5日(金)
連歌(桜田落書29)
87 連歌
時は今雪は降れども弥生かな 佐野
 ちるハ花火のさくら田の外 森
人心焼野の原の水戸なりて  斎藤
 けんもほろろに引赤備へ  蓮田
孔明の智恵饅頭を首とあん  黒沢
 驚く秋の風もだしぬけ   廣岡
細川へ血しほの紅葉流れ行  大関
 高祖難儀も此龍の口    鯉渕
早馬の足より早く噂する   廣木
☆は手廻りの手廻らぬもの 稲田
甲斐もなく立股引も白脚絆  松田(ママ)
かたみにかほる国のたち花 海後
つつ井伊井けたも折ぬ雪の朝 山口
 因果車のき綱切れなん   杉山
面白く愛宕の山を見渡せば  関
 立派大小忠天狗なり    森
右一巡手向入滅
過言の頭被登 城首なし
右之外変中別条無之

保養部やニ而相達之

【私注】
・「時は今…」 明智光秀が本能寺の変を起こすにあたり、里村絶巴らと連歌の会を催した。その際に光秀が詠んだ発句が「時は今あめがしたしる五月かな」であり、句の中に謀反の意図が秘められていたという。史料の落書は、これを下敷きにしている。
・「人心焼野の原の水戸なりて けんもほろろに引赤備へ」 「焼野」に「自棄(やけ)」を、「身となりて」に「水戸」をかける。「焼野」と「けんもほろろ」も雉の縁語。「焼野の雉子(きぎす)」は親子の愛情の深い譬え。子を抱く母雉は、身辺に火が迫っても子を見捨てずに焼け死ぬという。『広辞苑(第三版)』には「けん」も「ほろろ」も雉の鳴き声とあるが、「けん」が雉の鳴き声で、「ほろろ」は羽打ちの音という(山口仲美『ちんちん千鳥の鳴く声は』)。「けんもほろろ」は慳貪(けんどん)に掛けて、とりつくすべもない様を表した語。「雉ならば焼野であっても子を守り通そうとしただろうに、井伊家の侍達(赤備えは井伊家の戦場での扮装。よって井伊家を指す)は自棄にでもなったのか、とりつく島もないように引っ込んでしまった」。
・「孔明の智恵饅頭を首とあん」 諸葛孔明が饅頭を発明したという伝説をふまえた句。『三国志演義』の第91回に、饅頭起源の物語がある。それによると、孔明が雲南の孟獲を制圧し、蜀に帰る途上瀘水という川に至った。突然暗雲が垂れ込め、激しい風が吹き荒れた。聞けば、瀘水には荒ぶる神がいて、祟りを避けるためには49人の人間の首と黒牛・白羊を捧げなければならないという。そこで孔明は瀘水の神の怒りを鎮めるため、人頭の代わりに麦粉をこねて人頭をかたどらせ、その中に牛や羊の肉をつめさせてこれを「饅頭」と名付け、神に捧げたという。ただし、現在の中国の饅頭(マントウ)は、中に何も詰め物をしない。
・「高祖難儀も此龍の口」 一宗一派を打ち立てた開祖のことを祖師といい、至高の祖師を高祖という。ここでいう高祖は、日蓮宗開祖日蓮を指す。日蓮が法難を受けた場所が鎌倉の竜口(たつのくち)刑場であったので、地名の類似を指摘する。
 日蓮は文永8(1271)年9月12日、竜口(現神奈川県藤沢市片瀬)で斬首されようとした。当時、蒙古襲来の不安におびえる民衆に法華信仰を勧め、他宗を激しく非難した日蓮一派は、鎌倉幕府によって、反秩序的な悪党的言動をなす者たちとして弾圧された。日蓮はその中心人物として、斬首の危難にあったのである。日蓮がこのいわゆる「竜口法難(文永八年の法難)」を免れたのは、口碑によれば空中から光物が現れ、日蓮を救ったことになっている。事実は、北条時宗の妻が安達泰盛の娘で、貞時を懐妊中だったためとされる。また泰盛に書を通じて近かった日蓮の檀越大学三郎の、泰盛への働きかけがあったからとも(『国史大辞典第9巻』1988年、吉川弘文館、「竜口法難」の項(高木豊氏執筆)による)。
 また、日蓮宗では井伊家と同じ橘紋を使用したので、直弼から日蓮への連想が働いたのであろう。日蓮は貞応元(1222)年に安房国長狭郡東条郷小湊の漁師の子として出生したといわれるが、その家系については三国氏、または貫名氏の出であると伝えている(宮崎英修編『日蓮辞典』1978年、東京堂出版、P.7)。貫名氏は井伊氏から分かれたといわれ、日蓮宗では橘を紋とした。ただし、井伊家の菩提寺世田谷の豪徳寺は曹洞宗。
 同じ紋所だから日蓮と同様な難に遭ったとする落首に、次のようなものがある。
「橘に井桁は祖師の紋所妙法蓮華経の災難」(『落書類聚中巻』P.396)
「橘の御難やつぱり竜の口」(同P.404)
・「過言の頭被登 城首なし 右之外変中別条無之」 「過言の頭」は掃部頭。掃部頭が登城したが首がない。首がない以外は何ら別条がない、と皮肉っている。
・「保養部やニ而相達之」 御用部屋を掛けている。

・この項目(☆印)、未校正。
2013年4月4日(木)
井伊鴨と見かけて隠居、人を出し(桜田落書28)
77 井伊かもと見かけて隠居人を出し
【私注】
・「いい鴨」に「井伊掃部」をかける。刺客を放った黒幕が、水戸の「隠居」すなわち徳川斉昭であるという風聞があったことを物語る落首。

78 水府浪(スイフロ)は井伊ころかげん首ッ切り

79 御隠居が井伊橘を切ころふ

80 水が出て桜田外の大ぬめり
【私注】
・「ぬめり」は泥まみれになること。「水が出て」は水戸浪士らの襲撃。

81 水れんの達者が寄て掃部(カモ)〆る
【私注】
・「水れんの達者」は水練(水泳)の熟練者のこと。「水」から水戸を連想させ、「水れんの達者」に水戸浪士の意味をかぶせる。水戸は水府流水術(一種の「のし」(横泳ぎ)。武器・武具を身につけての泳法)で有名であった。「鴨を絞め殺す」に「掃部をとっちめる・打ちのめす」の意を掛ける。

82 常陸坊ほふきでおどす鬼のくび
【私注】
・常陸坊は平安末期の伝説的人物常陸坊海尊(かいぞん)のこと。源義経の家臣だが衣川の戦いに参戦せず、失踪。仙人もしくは人魚の肉を食して不老長寿になったという。

83 井伊ひなのあたまなけれハみともない

84 赤鬼を切りて飛込む龍のくち

85 頭のないかもの登城は箱ばかり

86 吹出しだ水に伊(ママ)げたハ崩れけり
2013年4月3日(水)
升形で近江の米のはかり切れ(桜田落書27)
68 升形で近江の米のはかり切れ、新だともいい、ひねだともいい
【私注】
・「升形(ますがた)」は外桜田門と、穀類などの計量器である枡とを掛けている。城館の出入り口(虎口(こぐち))には、敵の直進を防ぐため、互い違いにした食違(くいちがい)、門の前面を堀・土塁で防備した馬出(うまだし)などの防御用施設が設けられた。枡(升)形もその一つで、堀にかけた橋の内側に、門・土塁・堀・櫓などを囲んで方形の空き地を設けたものをいう。名称の由来は、この部分が枡の形に似ているところから、またこの場所に敵をためるところからきたという。江戸城外桜田門は、建物が現存する枡形遺構の一つとして知られる。その他枡形の遺構には、江戸城清水門・同田安門、金沢城石川門、丸亀城大手門などがある(『国史大辞典13巻』1992年、吉川弘文館、「枡形」の項、平井聖氏)。
・近江は彦根藩の連想から井伊を指す。
・「量り」に「謀り」、「新(新米)だ」に「死んだ」をかける。「陳(ひね)」は古米の意。
「近江産米を枡で計量し切ったが、ある人は新米だといい、ある人は古米だという」の意に、「枡形(外桜田門)当たりで井伊大老がはかりごとによって斬られたという。しかし情報が錯綜し、その生死の程は判然としない」の意を掛ける。
【参考】
・「升形で近江の米の計りきれしんだ共いふひねだともいふ」(『南梁年録』)
・「みと舛ではかり切りたる近江米しんだともいひひねだともいふ」(『落書類聚中巻』)。なお、「みと舛」の「みと」には、「箕と」・「水戸」・「三斗」の三つの意味が掛けてあるという(鈴木棠三編著『落首辞典』東京堂出版)。また「箕」・「升」・「はかる」は米の縁語。

69 井伊事を思ひの外の掃部さん頭とられてみともないこと

70 春ならバ外桜田で井伊喧嘩水戸もないほど散りうせにけり
【私注】
・「喧嘩」に「見花」を掛ける。

71 桜田て井伊鴨一わ手に入れて青首提て返る嬉しさ
【私注】
・「いい鴨」に「井伊掃部」を、「青首」(鴨の首)に井伊の首の意を掛ける。

72 井伊掃部水を手込ミにおし留て我田へひけどひけぬ天水

73 桜田へ無常の風の誘ひ来てちらす弥生のおくは井伊花

74 首まての忠勤みんな水戸の泡かもむに疵か付くかつかぬか
【私注】
・「水の泡」に水戸の意を含ませる。「かもむ」は掃部に家門を掛けた。

75 もろともにあわれと思ひ外桜田水戸より外に切る人はなし

76 井伊花が咲さくら田とおもひしに上巳の雪にしほるはかなさ
2013年4月2日(火)
水難がやんで(桜田落書26)
61 水難がやんで火難で氣をもんで又剱難で井伊苦労する

62 春なれば外の桜を井伊花見水戸もないほど散りにけり

63 井伊事も油断したのかあやまりかあとの始末は水戸もなかろふ

64 井伊井伊と水戸もないほどをし込であげて見たれバかり首もなし

65 水戸もなきものとはいへど此度は人は武士花はさくら田

66 井伊すきと見とめてかかる狼藉に切られて雪も赤備へなり
【私注】「赤備へ」はNO.9を参照。

67 立出て渡りあふべき人もなし外さくら田の雪の曙
2013年4月1日(月)
雪の朝城近く(桜田落書25)
59 雪の朝城近く、さうどうはじまる水戸掃部、松市ハびつくりぎようてんし、まどぶたするやらさわぎ立て、かためを出しもぜす、留守居の手抜でへいもんするとハ氣がきかねへ。主人も今てハかうかいし、あんまりなうろたへものとワらひます。ひとりも氣かつかぬとハ、扨もおくびやうなおさむらい。
【私注】
・「松市」 松平市正(いちのかみ)

60 常州のらう人か、雪の降のにここかしこあつまつて相談し、いよいよあいづもととのへて、無二無三に切むすふ、よういの程かしま御かごを目がけて打込ハ、やれやれむごらしおや玉と引出し、なんのくもなく本望とげたる、辰の口の脇坂屋敷をさしていく。
【私注】
・50の落書に同じ。
2013年3月31日(日)
桜田行(桜田落書24)
58 櫻田行
三月三日天大雪。櫻田門外人為列。大老乗輿欲登城。忽見伍間閃兵鉄。倉卒事起誰得支。剣光映雪迸鮮血。須更提来老将頭。凶徒大目眥裂。死傷往々横道傍。今日騒乱不堪説。治平貳百年。傳称紛々盡驚絶。一朝忿怒復私讐。事与元禄義不☆。君不見蕭墻醸禍。由来久不獨千里外國憂。
【私注】
・『落書類聚中巻』に類文あり。同書P.441との異同は次の通り。
  「大老乗輿欲登城」→「執権来駕欲登城」
  「閃兵鉄」    →「閃剣鉄」
  「倉卒事起誰得支」→「忽卒事起誰能支」
  「須更提来老将頭」→「須☆提出老将頭」
  「治平貳百年」  →「二百有余年」
・この項目(☆印)、未校正。
2013年3月30日(土)
おおいおおい御陸尺(桜田落書23)
57 おおいおおい御陸尺、其駕籠こつちへかきよこせ、御供方びつくりうろたいて、いへいへかもんてハおざりません、むしつのさいなんハよふいに受ません、お先をいそぎます、やれやれおくびやうな人ぞとぬきはなし、なんのくもなく二ツ玉。
【私注】
・「陸尺」 六尺とも書く。江戸時代は雑役人の総称だが、ここでは駕籠舁(かごか)きのこと。
・「二ツ玉」 火縄銃に10匁(約37.5グラム)玉を二つ入れて発射すること。またはその弾丸をいう。
2013年3月29日(金)
新板ちょぼくれぶし(桜田落書22)
56 新板ちよぼくれぶし
一々ちよんきりぶしにて
ヤレヤレ皆さん聞ひてもクンねへ、わつちも此度井伊事聞くよ、桜田御門の其又手前、場所はここらか、まづ市之正表御門の其まん前で、四十七人三十のけて、すぐり立ちたる十七人で、當時日の出の師直さんを、チヨトちよきつと咄を聞ねへ。年は安政七ツの申で、時は三月上巳の節句、諸国大名の登城の折から、むねに相図の拍子木打て、松の廊下の遺恨ぢやなけれど、師直おそしと手ぐすね引て、待とも知らずに向ふの方より、虎の威をかる人足なんどがほふいほふいと眉は八の字、お口はへノ字。白の股引、対の出立で、いわずと知れた当時の執権師直と、見るより早く、面もふらず、切入鋒先、強きにおそれてふとい尾をふり、逃出ス臆病、道に壱人師直さんは、駕籠の中にて思案も跡先、人につかれて三途の旅路。首は東に、からだハ西に。はなれはなれの人足なぞハ、ソコニ一人、かしこに二人。腕がないとか天窓がないとか、うろうろうろたへ主人の顔を見なから逃して屋敷ニ帰るは、本より惰弱の風とハいへども、余りたわけた始末ぢやねへかあへ。ソレハ扨置十七人ハ首を刀に亀子の様にうまくさしたと引取る後から、前にちんぼこさげたに似合ぬ、泣つらいたしてソノ首コチラニ渡して下さい。よくも言れた口上ぢやないかへ、サホドほしくは切り取なりとも、それバ世間にすこしハ言訳、ヨクモなけれど立てあげやしよ、夫にもおかしき鎌倉御政事ハ所々の屋敷へ乱妨するなら鉄炮うっても苦しふないなぞ、たわけた御手當、猶猶おかしい臆病役人、ソノ日の事から供を増たり人数を出したり、サホド命かおしい事なら、まるで御役を断申て、天窓をまるめて坊主にばけるか、ひげのはして隠居をするのか、二ツ三ツか其身のおちつき、サンド気のある鷲熊たかハ、うぬらがミふな小雀などハ、目にも懸ない、安心しなせい、サアレドモ奥さん承知がないなら、両国當りの易者を頼んで、咄しを聞ねへ、元龍有悔と御釈迦さんでもいわれた言葉か、コレハ御前に井伊戒めで、けさの騒ぎも全く是ゆへ、己レひとりが上ないつもりで、世間の捌きを自由にするゆへ、人のうらみがつミかさなりて、富士の山よりもちつと高く、伊勢の海よりモチツト深く、今ハあとからくかわの跡悔ても及ぬよくも無間にあられたべらボウ、ひごふな事にて死だこと言ふても、啼ハからすとにわ鳥づらか、今朝の死めハおそいぢやないかへ、是から皆さん、氣を付さんしてたいてな所で引のがかんじん、サレバ天下も御武運長久、御子孫繁盛、万々年も、丸く治る、御めてたや
【私注】
・「天窓」 てんそう。頭のこと。
・「元龍有悔」 亢竜有悔(こうりょうゆうかい)の誤り。
一旦昇りつめてしまった龍はそれ以上昇ることができず、次は下る一方なので悔いがあるという意。転じて、富貴や栄達を窮め尽くした者は、必ず衰えるということの比喩。
2013年3月28日(木)
あべこべもんかちょぼくれ(桜田落書21)
55 あべこべもんかちよぼくれ
ヤンレヤンレ、みんながしつてるこんどの騒動、もんかのべらぼう、日本に生れて、日本のめしをくつて、元より悪心まぬけで、ふぬけで、臆病みれんで、慾つらかわひて、掟を破つて、ゑびすにゆるして、調印させたは、開闢以来の恥でハねへかえ、其上條約書の板行したのをうらせるなんぞハ、おのれが恥辱を世間へしらせるあほうの限りだ、神社お寺に町中いじめて金銀とりたて、お為をいふ人いくらかあつても、おのれが都合にならない人をバむやみに叱て、大事の政事をひゐきでするとハ、どうしたもんだよ、ちくせうみたよな夷人をあがめて、江戸中あるかせ、神社佛閣、ぶたや羊のへどにて穢させ、へらぼに大きな弐朱銀なんぞをこせいてみたれど、夷人に叱られ、ねこばばみたよにかくしておくとハ、あんまり恥だよ、まだまだあるぞへ、御朱印なんぞのたつといお品を、ゑびすのやつらの図書と同様、下座をもやめさせ、御威光おとして、なんだらこつたら、第一すまねへ、京都をだまして、御主人様迄違勅にするとは不忠の一ばん、あんまりすまねへ、交易始り、諸色が不足で、なんでも高直、お米が五合で、おいもが百文、絹類ひは高くて、お武家が安くて、武藝がすたつて、ばくちと辻切むやみにはやつて、今にも邪宗になるかもしれねい、大事なお役をかかへていながら、茶の湯や猿楽、大鼓つづみで遊んでいるとハ、魔物がついたか、なんでもおまへハ人ではないぞえ、追々悪事がつのつてくるから、天地の神々、おばちをあてたか、かんにんぶくろもとうとう切れたか、日ごまの祈りもちつともきかない、おかごの外から二本で串ざし、お首もとられてみにくゐ死にざま、邪宗の夷人を信仰するから、願ひが叶つてはりつけ柱の本尊みたよだ、切首つゐでる洋銀見なせい、いわずとしれてる天罰なるぞへ、さすがに印の先々邪宗の害お(ママ)ばのがれて、天下の諸人があんどのおもひで、是から太平、此上非道のお人が出たなら、またまたあぶない、よくよく気を付、依怙と臆病やめてしまつて、武士道みがいて、誰にと批判のいわれぬ政道、何分願うよ、おやくにん
【私注】
・「あべこべもんかちよぼくれ」 「もんか」は「かもん(掃部)」をひっくり返したもの。井伊掃部頭のやったことは全てがあべこべだったと皮肉ったもの。
・「掟を破つてゑびすにゆるして調印させた」 鎖国の祖法を破り、アメリカ総領事タウンゼント=ハリスに日米修好通商条約を調印を許したの意。安政5年6月19日(1858年7月29日)、アメリカ軍艦ポーハタン号上で調印。日本側全権井上清直・岩瀬忠震。万延元(1860)年、ワシントンで批准書交換。治外法権を認め、関税自主権の欠如した不平等条約だったため、明治末に条約改正されるまで、日本人はこの不平等条約によって大きな不利益を被った。
・「はりつけ柱の本尊みたよだ」 十字架のキリストみたいだ、の意。
・「切首つゐでる洋銀」 洋銀に刻されている肖像が、まるで切り首のようだといったもの。
2013年3月27日(水)
ちょぼくれ(桜田落書20)
54 ちよほくれ
やれやれ皆さん聞てもくんねへ、上巳の節句で登城をするとて、出かけたところが、水戸の浪人、笠や合羽で其身をやつして、あつちこつちに待ふせして居て、先供きるやら、駕籠訴の真似やら、何んのかのにて、たちまちしめたと声をあげたる、其間も程なく、ちりちりばらばら、四方へ迯出す、徒黨の中でも、手負のものども、老中屋敷え自訴する者やら、細川侯へも欠込むものやら、往来ばたにて腹を切るやら、前代未聞の大騒動だと、二月の騒ぎを知て居ながら、あんまり御油断、はたで聞ても残念至極だ、夫から翌日人参拝領、且又家中へ御利解御内意、ありがたいとハ思つて居たとて、明ケても暮ても落付まへ☆や、たとへ天狗と評判したとて、悪運ぶとりのあぶれ者ども、神のおばちが今にもあたろふ、直政已来の名家の事ゆへ、日光様とて御腹が立ましよ、役人衆とて必至の詮議で、何から何まで都合もよろしく済むでもあらうが、何ン人寄ても咄しはまちまち、どうなる事やらちつともわからず、悪逆徒黨、残りの者ども、ひとりも残らず殺して仕舞て、根も葉もたつたら、六十余州の諸人か安心、朝から晩まで酒盛するやら、踊りはやして花見に出るやら、涼ミに出るやら、世上は繁盛、天下泰平、ほういほうい
【私注】この項目、影印本の文字が判別できず(☆印)、未校正。
2013年3月26日(火)
流行ちょんきれぶし(桜田落書19)
53 流行ちよんきれぶし
ヤレヤレ皆さん、今度の大へん、安政などとハ深雪のそらごと、三月三日ニふり出す行列、ひゐなあそびのささごと所か、前代未聞の咄の始末を、ちよつひりつまんで聞てもくんねへ、おらがとなりの又其となりの、ここらが天下の真中ありとは、つもるうらみの山岡頭巾を、いたたく水府の将軍地蔵に、白いたすきの祈誓をかけ声、あたごおろしニ命もちり行く、桜田あたりで錦の御旗のせんたくなどとは、入らざる隠居のひや水ざんまい、おくびが飛んだり、手首がとんだり、辻番親父のきもまでとぶとハ、木の葉天狗の所為かもしれない、どふしたもんだア、こふしたもんだと腰をぬかして、小田原評議も、己が血しほでまつかにぬつたる、御門の恥辱ハ末代さめまい、色をへんじてあまたの役人、どふせ足りないごまめの歯ぎしり、かんでふくめるおおやけ沙汰にも、くさいものにはふためくさわぎで、三十五☆の上らぬ様子にと、はじき出したるそろはん侍どころで、出かける道楽むすこハ三味せんひ☆ねの根〆がかんじん、つゞいて大事ハ御たからものなる五本骨てふ扇の☆もの、ゆるんだかなめをしつかり〆たら天下泰平国土安穏、こゝらで咄しもちよんきれちよんきれ
【私注】
この項目、影印本の文字が判別できず(☆印)、未校正。
2013年3月25日(月)
俗謡(桜田落書18)
52 隠居が種蒔掃部がほしくる三度に一度は殺さヾなるまいほふいほふい
【私注】
俗謡「権兵衛が種蒔きゃ、烏がほじくる、三度に一度は追わずはなるまい、のほんほのほんほ」のもじり。権兵衛は田舎者の異称。この唄に合わせて滑稽な踊りを踊った。隠居は、水戸の隠居(徳川斉昭)。
2013年3月24日(日)
抜づくしちょぼくれ(桜田落書17)
51 抜づくしちよほくれ
親玉まぬけで井伊なりほふだい、役人ふぬけで異国にあやまり、井伊きび駕篭ぬけ、おまけに首ぬけ、其首持参でお江戸を迯ぬけ、日比谷は手抜で閉門くらつて、おく病老中ハ身ぬけの支度で御役を抜たい、細川かこぬけ諸家のめいわく、歯抜の隠居は首みて悦び、かたきもいらずに彦根の腰抜家内を置ざり、そろそろ夜ぬけとこんどのおさまりもぬけた大老が出来ずバなるまい、氣の毒千万、役人氣ぬけでヘドモドヘドモドマゴマゴマゴ
【参考】『落首類聚中巻』P.408に同文あり。
2013年3月23日(土)
落とし話(桜田落書16)
48 落はなし
○或浪人、外桜田さる御屋敷御玄関江罷出、此程は於途中御不慮之義有之、奉恐入候、内〃相伺候へハ御首も無之由、御相違も無之候哉と、御見舞申述候得は、御取次ナイナイと答ふ
【私注】
・「内々(内密に。内輪に)」と首が「無い無い」。

49 五大力
 水戸との胸にいつまでも、なま中まてバ物おもひ、たとへせかれて程ふるとても、隠居時節の末をまつ、ア〃なんとしよふ、たが井伊の首を打とつて、からたはとらぬ五大老、さわさりながら掃部智恵なきおんふぜい、頓て見しよぞへ笑ふぞへ、は(ママ、「ほ」か)しき首とり候、かしく
【私注】
・『落首類聚中巻』P.425に同文あり。

50 常州の浪人か雪のふるのにこゝかしこ集て相談し、いよいよ合圖を調て無二むざんに切むすぶ、用意の種か嶋御駕篭を目がけて打込ハ、やれやれむごいむごい、親玉を引出しなんの苦もなくほん望とげたる、辰の口の脇坂屋鋪をさして行
【私注】
・「辰の口の脇坂屋鋪をさしていく」 斎藤・佐野・黒沢・蓮田らの4名は、かねての手筈通り自訴するため、辰の口にあった老中脇坂中務大輔安宅の屋敷へ向かった。
【参考】
・「常州の浪人か雪の降のにこヽかしこあつまつて相談しいよいよあいづもとヽのへてむにむざんに切むすぶよふいの種か嶋お駕籠を目懸けて打込めハやれやれむこたし親玉を引出し何のくもなくほんまふを遂けたて辰の口の脇坂やしきをさして行」(『南梁年録』p.395)
2013年3月22日(金)
桜田の変事(桜田落書15)
42 桜田の変事
千代かけて松のね張りのひこ根まで水枯行はなに絶なん

43 井伊よふにだまし打をば水戸もない、いづれ掃部に懸る取沙汰
【私注】
「井伊が、浪士らの思う壺に騙し討ちされたのはみっともない。こんな不名誉な有様では、いづれ幕府から井伊家に対し、家門に関わる取り沙汰がなされるよう」。

44 桃の節句桜もあかき雪がふり
【私注】
 桜は桜田門を掛ける。桃も桜も血も赤い。

45 井伊男しめて冥途へ常陸帯
【私注】
 打ちのめすの意の「しめる」の語から、縁語の帯をもってきた。冥土へ「立ち」と言いかけて「ひたち」と続けた。常陸国は水戸を連想。常陸帯は鹿島神宮の神事。正月14日の祭礼の日、男女がおのおの意中の者の名を布帯に書いて神前に供え、神官がこれを結んで縁を定めた一種の占い。

46 桜田があかるくなれハ井伊がやみ

47 井伊馬鹿が水を防て城を焼
2013年3月21日(木)
井という文字を見てみると(桜田落書14)
39 井
たてからも横から見ても二本棒まむきにミれは井伊のへらぼう
【私注】
 「井」は、橘と並ぶ井伊家の紋所で井桁(井筒)。井の字は縦・横二本棒の組み合わせからできている。真向き(正面)から見てみると、それは井伊家の紋所井桁だったの意。二本棒の「ぼう」から「べらぼう」を導き、「井伊のべらぼうめ」と続ける。
 べらぼうは人を罵り嘲るときにいう語。馬鹿・阿呆の類。便乱坊・可坊とも書くが、本来は篦棒で、擂粉木のこと。水につけておいた米擂り鉢に入れ、篦棒で潰して粢(しとぎ。米から直接作った団子のこと)を作ったところから、篦棒を「穀潰し」ともいった。そこから、穀物を食べるばかりで役に立たない人間を罵るのに「べらぼう」といったのだという(樋口清之『食べる日本史』1996年、朝日文庫、P.170〜172)。ただし、前田勇編『江戸語の辞典』(1979年、講談社学術文庫)その他の辞典類は「寛文年中、全身真黒で頭鋭く尖り、目は赤く円く、頤は猿のごとき畸人の見世物に出たるより始まる」(「べら坊」の項)との語源説を載せる。ただし、この「畸人」がなぜ「べら坊」といったのかは未詳。

40 足は白、鞘は黄色て面は青、門ハまつ赤で内は真黒
【私注】
色尽くしでまとめた。
・「足は白」 白足袋の色。
・「鞘は黄色」 井伊家の持槍の栗色なめしの鞘を、黄色と誤見したか(『落書類聚中巻』P.398)。
・「面は青」 恐怖で顔が青ざめたの意。
・「門ハまつ赤」 桜田邸の表門は朱色。
・「内は真黒」 腹の中は真っ黒。

41 此頃は西洋流の鉄炮をなぜか打ない、掃部が損したから
【私注】
 「最近、ヨーロッパ流の鉄砲を打たないのはどうしてか」の謎掛け。答えは「火門が損じた(壊れた)から」。これに、掃部頭の負傷の意味を掛ける。
2013年3月20日(水)
桜田の青乱(桜田落書13)
38 桜田の青乱      日比谷の涙眼   
   井伊の半死半生    一石橋の帰藩  
   上巳之朝の雪     掃部乃運の尽
   家内乃夜の雨     世間の永咄し

【私注】
・瀟湘(しょうしょう)八景のもじり。瀟湘は中国湖南省洞庭湖の南方にある瀟水と湘水を指す。当地付近は佳景に恵まれ、山市晴嵐・平沙落雁・漁村夕照・遠浦帰帆・江天暮雪・洞庭秋月・瀟湘夜雨・煙寺晩鐘を瀟湘八景と呼んだ。これにならい、近江八景・水戸八景など称するものが日本各地に存する。
・「日比谷の涙眼」 浪士たちは井伊邸の反対側の日比谷御門を、八代洲河岸にそって辰の口方面に向かった。
2013年3月19日(火)
桜田へ無常の風の誘い来て(桜田落書12)
28 桜田へ無常の風の誘ひ来てちらす弥生のおくハ井伊花

29 首まての忠勤みんな水戸の泡かもんに疵が付くかつかぬか
【私注】
 「水戸の泡」は水の泡に、「かもん(家門)」は掃部頭に掛けている。

30 いゝ氣味とてうじて隠居雪見かな
【私注】
 「いゝ氣味」は井伊に掛けている。「てうじて」は「嘲して(ちょうして)」。「嘲す」は文字どおり「あざける。からかう。ばかにする。愚弄する」(『江戸語の辞典』「嘲す」の項)の意。井伊の横死を、水戸の隠居(斉昭)がいい気味と嘲笑しながら雪見をしている、の意。

31 外桜田の騒きを
つくはねの峯のあらしのかよひ来て花咲ミたす志賀のふるさと
【私注】
 筑波嶺(つくばね)は茨城県の筑波・新治・真壁三郡にまたがる標高876メートルの筑波山のことで、水戸藩を示す。「志賀」は琵琶湖南西岸一帯の呼称で、彦根藩を示す。筑波・志賀とも古来の歌枕。

32 彦根侯の御内人を
君かため捨る命はをしからし比良の高根に名こそとめなん
【私注】
・「比良の高根」 琵琶湖西岸の比良山のこと。狭義には蓬莱山のみをいい、広義にはこれに打見山、武奈ケ岳を加えた比良山地を指す。近江八景の一つ「比良の暮雪」で有名。

33 狼藉人を
ものゝふの道をはわけず利根川にくだす高瀬の名こそをしけれ

34 諸ともにあわれとおもひ外さくら水戸より外に切る人もなし

35 井伊花が咲たと見れば立花乃実もいらないでたねをとられた

36 井伊花といふ彦根のかさが吹出して首が落たら水戸もなかろふ
【私注】
「かさ(瘡)」は梅毒の俗称。花のような発疹が出た。梅毒なら鼻がもげ落ちる。井伊は鼻ならぬ首がもげ落ちみっともない(水戸を掛ける)、の意。

37 首は飛さくら田騒ぐ世の中に何とて供はすくなかるらん
【私注】
 大老の首が飛び、桜田門外で騒擾が起こるようなこの時勢なのに、どうして供回りが少なかったのであろうか。
2013年3月18日(月)
漢詩(桜田落書11)
25 桜田血流似紅花、路傍忽抜飴賣腰、世上皆潰衆人膽、赤鬼已衰如老猫
【私注】
『南梁年録』P.395に同じ落書あり。
「桜田血流る、紅花に似たり。路傍、忽ち抜かす飴賣りの腰。世上、皆潰す衆人の膽(きも)。赤鬼已に衰ふこと、老猫の如し。」

26 中将首級飛不回、未聞江戸開以来、偏恐終入外夷耳、壁耳天口千里魁
【私注】
『南梁年録』P.395に同じ落書あり。
「中将の首級飛び、回らず。未だ聞かず、江戸開きし以来。偏へに恐る、終に外夷の耳に入らんことを。壁に耳あり、天に口あり、千里の魁(さきがけ)。」
(大老の首が取られたままで返ってこない。こんなことは江戸開幕以来聞いたことがない。このような体たらくが外国人の耳にでも入ったらどうするんだ。)

27 義同四十七人意、「空」(消し)晴「得」(消し)雪中百年思、匹夫忠是不可奪、應奪従来三軍師
【私注】
・「義同四十七人意」 井伊を襲った水戸浪士たちを赤穂事件の四十七士と重ね合わせ、「義は四十七士の意と同じだ」といっている。
2013年3月17日(日)
積もる恨み雪の桜田(桜田落書10)
24 積る恨雪の桜田

○かゝる治世の御代中に、さしも稀なるに、太刀音を聞に付ても、水戸殿を思ひ廻せば厳敷き咎め、城の後に客と成り、ひごふのかんなんむごやかに、壱人り寐ころの住居とハ、男をころすかげ言葉、今は夫に引替て、くさりの帷子袖をまき、姿をかくすみの笠や、連れを力にそろそろと、桜田近く歩行来て、菓子やの見せに立休らひ、もふしもふしちと御用心被成まし、わたしや鉄炮打ますもの、側へ通して下さんせいナア、供方胸をどきるつかせ「アレ何やらあやしいものが来たぞへ、「何あやしいとハ何者じや、と駕篭乃戸ぎわに立ふさがり、こゝら貴様ハ狼藉じやナア、此大雪に傘をもさゝず、此桜田へ何しに来たのじや、「アイ、わたしや井伊殿へ恨ある者、首を打せて下さんせいナア、「なるほど、死に度は殺してもやろふが、手疵が有か、「イヱヽヽそのよふに、深手ハ御ざんせんわいナア、「手しやでもなくハ、迯行事ハならんならん
「是、そのやふにいはずとも、此往来ハ混雑であろふ、「馬場先江通してやりたいのふ、「それならバ、日比谷江通してもやりまよふか、是狼藉、そんならおれか尋る事があるが、夫を一〃答るか、「成程、我らが覚へて居る事なら、なんなりとも申て聞そふ、ハイナア、「先、第一合点がゆかぬ、「そりやマア、何がへ、「サア、其訳ハいつたいそ様の風俗ハ、もめんの鉢巻白ふして、紅にもまさる血まぶれを、廻りの同心御屋敷さんけんきな人が見付たら、只は通さぬやつなれど、そこを其侭追ひやるはきつい臆病、腰なし手なしを見る様に、悪口ふたり大膽不敵のあふれもの、どういふりくつだ氣がしれぬ、「いやとよ、我ハ常陸出の、後の世しらぬぼうじやく無人、浪人の身にて侍ふぞや、ヲヽ此場ハ趣向を聞ゆれど、登城の道を知ながら、なぜ黒頭巾ぬがぬのじや、命も身をもいとはゞこそ、心をかためているわいナア、シテ本望とハ御首なり、「大場の悪事も番人のじひ、又半時か内もつにはおかぬ智恵も工夫も取沙汰も、たぐひなきまでもろともに出て行迄捨置ハ、よわひ事でハないかいな、御目にかゝるもはづかしく、下座の御侯の嬉しやと、せき立むねをおししづめ、外へ外へと迯しける

【私注】この項目、影印本の文字が判別できず、未校正。
2013年3月16日(土)
厄払い(桜田落書9)
23 役拂

○ヤアラ手ひどゐな手ひどゐな、今日上巳の御登城は、春は花咲桜田に、水戸の狼藉数十人、夜明を待得し出立ハ、何れも必至と決したる、今やおそしと待処、五ツの太鼓どんどんと相圖之ひらきしに、ほどなく出たる橘は、頓て御門へ近よれば、水府の狼藉切て入、供の行烈(ママ、列)混雑なし、をりしも春のあわ雪に、あわを喰ふたる有様は、実になさけなき油断なり、橘迯んとする処、そうはならじと狼藉が、掃部が首をかいつかみ、西の丸とハ思へども兼而いこんの事なれバ、日比谷御門を打越へて大細川へさらりさらり、御役御上あがりませう

【私注】

・厄払いは、大晦日または節分の夜に、厄年に当たる人の家の門などで災厄を払う言葉を唱えて銭を得ること。またはその人。
・「大細川へさらりさらり」 厄払いの文句の末尾の言葉は「西の海へさらりさらり」。一年中の災厄や諸悪を西の海へ流してしまうの意。
2013年3月15日(金)
漢詩(桜田落書8)
22 雪路乍紅櫻田姿競武勇士十七人、短筒長剣疾雷電、四圍貫駕、龍虎勢、赤門先生如嚢鼠首尾離散、瞬息中廣關潜去、在何処、佐黒蓮斎訴辰口、大森杉森謁隈本、有村携頭騒辻番釣台行烈皆贋物、廣木伏塘残党退、無雙評判轟曲輪、足利小泉空受戒、杵筑臆病是何事、堪笑四門俄止行有司供立非警固騎馬出勤迯弟(ママ、「第」)一月番混雑忘寝食、實々安政大変春。

【私注】
・これには題名がついていないが、『落書類聚中巻』は「野暮台詩(やぼたいし)」、『南梁年録』は「邪伐退之詩(やばったいのし)」の題で、同じ漢詩を載せる。前者の題名にある「野暮たい」は無粋の意。両題名とも「野馬台詩(やばたいし)」のもじり。
 「野馬台詩」は『吉備大臣入唐絵巻』『江談抄』などに由来する吉備真備説話に登場する難読詩のこと。説話によれば、入唐した吉備真備は諸道諸芸に勝れていたため唐人の嫉妬を買い、命を狙われ、鬼の住む楼門に閉じ込められる。しかし、その鬼は阿倍仲麻呂の霊であり、かえって真備を援助する。楼門より脱出した真備は、鬼の助けを得て、唐人が出す難題を次々とこなしていく。その難題の一つが「野馬台詩」の解読。読み方がわからない真備は、住吉大明神・長谷観音に祈ると一匹の蜘蛛が現れ、詩の上を糸を引きながら移動する。それに従って、ついに「野馬台詩」を読み果たしたという(朝倉治彦他編『神話伝説辞典』1963年、東京堂出版、「吉備真備」の項)。
・「競武勇士十七人」 水戸浪士のみの人数で、薩摩浪士有村治左衛門は数に入っていない。
・「廣關潜去、在何処」  水戸浪士の広木松之助・関鉄之助がその場から逃亡し、行方が知れなくなったことを指す。
・「佐黒蓮斎訴辰口」  佐野竹之助・黒沢忠三郎・蓮田市五郎・斎藤監物の4名が辰ノ口の脇坂邸(脇坂中務大輔安宅(やすおり)、老中、播州龍野藩)に自訴したことを指す。
・「大森杉森謁隈本」 大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之助の4名が、細川邸(細川越中守斉護(なりもり)、肥後熊本藩)に自訴したことを指す。細川邸では留守居吉田平之助が浪士らに応対し、事変を幕府大目付久貝正典・目付駒井朝温(ともあつ)、小石川の水戸邸に急報した。
・「廣木伏塘残党退」 広木は広岡の誤りか。広岡子之次郎は重傷を負い、酒井邸(酒井雅楽頭忠顕、姫路藩)前で自決した。
2013年3月14日(木)
いい鴨(桜田落書7)
13 井伊かもが雪の寒さに首をしめ

14 井伊仕かけ雛の祭歟血まつりか赤く染たるさくら田のゆき

15 春なれば外の桜は井伊見花(ケンカ)

16 西旗の頭は水戸に取られけり

17 首は飛からだは腐る世の中に何とて家は立かたたぬか

18 井伊節句毛せんしかづに雛祭りしら雪そむる桜田の花
【私注】
 桃の節句の雛飾りには緋毛氈を敷くのが習いだが、暗殺された井伊の血潮で白雪が緋毛氈のように赤く染まった、の意。

19 赤鬼のくびもコロリにおふ江山むかしハ丹波いまハさくら田
【私注】
「赤鬼」は直弼の渾名。昔、源頼光らが退治した赤鬼(酒呑童子。酒豪の鬼なので顔は真っ赤と考えた)は丹波国大江山に住んでいたが、今の赤鬼(井伊直弼)は桜田門外で退治された、の意。コロリに前々年(1858)流行のコレラ(当時コロリと呼んだ)の意を掛けてあるか?

20 アメリカを入りしむくひのうらみゆへ雪のあたの表門前
【私注】
 大老暗殺の原因を、日米修好通商条約の調印にあるとした。

21 赤鬼の誉れハ井伊が桜田で頭がのふて水戸も有るまへ
【私注】
 赤鬼(井伊)が外桜田で首をはねられ、頭がなくなってみっともなかろう、の意。「いい」に「井伊」、「みっともない」に「水戸」をそれぞれ掛けている。
2013年3月13日(水)
お万どこへ行く(桜田落書6)
12 おまんどこへ行

かもんどこへ行、桜田之前で、御駕篭で出かけて、浪人に出合て、すとんとやられて赤い首とられた、其首どふした、水戸殿浪人と薩摩殿の浪人と持て迯てしまつた

【私注】
・「おまん…」 薩摩源五兵衛とお万の心中事件を題材にした歌謡。同事件は浄瑠璃、歌舞伎などにもなった(浄瑠璃「薩摩歌(さつまうた)」、歌舞伎脚本「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」など)。
2013年3月12日(火)
菓子屋引札(ひきふだ)(桜田落書5)
11 菓子屋引札

一鉄炮焼       直段一生けん命
一かもん雑煮     御みやげ篭入つき立           三十五文
水戸製上々
一浪人はらぶと餅 直段御勝手次第
一武士羊かん 代不定
一評定こわめし    御きりう一ぱいにて御直段不定
一ゆだん役なげ団子  サイキョ次第ニ而
見付製
一番士ぶるぶる餅   御直段なし
 其外鑓持迯もち同士打もちつき立切立等御好次第
三月三日賣初 外桜田屋死ん″太郎
 當日麁末なる片びん片うで等検校済之上差上申候

【私注】
・「引札」 引札は、江戸時代以後、商店が開店や売出しを宣伝するために配った広告の札。江戸では引札、京坂ではちらしと呼んだ(喜田川守貞『近世風俗志(守貞謾稿)』)。
・「鉄炮焼」は、魚鳥の肉に唐辛子味噌をつけて焼いたもの。大老暗殺に鉄砲が使われた。
・「直段一生けん命」 値段はぎりぎりまで安くしてある。
・「かもん雑煮」は鴨肉入りの雑煮に、掃部頭を掛けている。
・「御みやげ篭入つき立 三十五文」 土産用の籠に入った搗き立て餅。井伊の駕籠に刀を突き立てられたの意をかける。値段の「三十五文」は、彦根藩35万石(実際の石高は30万石。元和2年に幕府領の城付米2万石を預けられ、これを知行高に換算すれば5万石に相当したので、合わせて35万石の格式と称された。)の意を掛けた。 
・「浪人はらぶと餅」 はらぶと餅(大福餅の前身ともいうべき和菓子で、塩のみで調味した小豆餡を入れた薄皮の大形の餅)に、大老暗殺の牢人たちははらぶと(胆力・度量が大きい。太っ腹)であるの意を掛けている。
・「武士羊かん」 蒸し羊羹(蒸して製する羊羹。小豆餡に小麦粉、浮粉、少量の塩を加えて練り固め、蒸し上げて作る)に武士を掛けている。
・「見付製」 見付(見附)は枡形門のある城門で、見張りの番士が通行人を監視した場所。江戸城には内郭・外郭合わせて36の見附があったといい、赤坂見附・四谷見附などの地名が残っている。ここでは外桜田門の見附を指す。
・「評定こわめし」 こわめし(強飯)は糯米を蒸籠で蒸したもの。
2013年3月11日(月)
井伊の赤備え(桜田落書4)
9 赤備へしらみて見ゆる雪の朝
【私注】
・「赤備へ」 井伊家の戦場での出で立ちは、鎧・兜・旗・指物など全て赤く染めさせた。これを「井伊の赤備え」といい、天下にその勇名を轟かせた。
・「しらみて…」 「夜が明けて明るくなる」に、「色あせる、勢いがくじける」の意をかける
【参考】
・「名も高きその物の具の色ならで血しほに染みし赤恥の鬼」(『落書類聚中巻』P.436)

10 御つむりを頭痛にするハ伊井(ママ)家来
【私注】
・「つむり」は頭のこと。ここでは大老の首。井伊家では奪われた大老の首を求めて家来一同頭を痛めた。
2013年3月10日(日)
連歌(桜田落書3)
8 連歌

 ふる年の怨もとけてはるの雨    うかひ
 人は武士花は桜田          見物
 けふこそは盃飛す曲水に      十七人
 流す浮名のはつとたつたる      評判
 七夕の一夜にたにも頼まれは    奥方
 竹の春とて虫の音に鳴        家中
 月の友露打拂い(ママ)霧はらひ    諸侯
 ちりちりに遠路へ舟は舞行      異国人

【私注】
・「ふる年」は年来の意。ふる、とける、はるの雨、は縁語。
・「人は武士花は桜田」 「花は桜木、人は武士」のもじり。
・「盃飛す曲水に」 曲水(ごくすい)は盃を水に浮かべ、それが自分の前に流れ着くまでに和歌を詠み、できなければ罰としてその盃で酒を飲む遊び。上巳の節句(3月の最初の巳の日。大宝令で3月3日と決められた)の遊び。曲水に使用する盃は鳥の形をしていたので羽觴(うしょう)といい、盃をやりとりすることを「羽觴を飛ばす」と言った。「曲水」と次句の「流す」・「浮く」は水の縁語。
・「十七人」 17人は井伊を襲撃した水戸浪士17人。薩摩浪士1人(有村治左衛門)は入っていない。
・「竹の春」 「竹の秋」の誤りか。竹の落葉期は陰暦3月に当たるので、竹の秋は陰暦3月の季語となっている。
【参考】
 「ふる年のうらみハとけて春の香  鵜飼千多樓
  人ハ武士花ハさくら田        見物
  今日こそハ盃とばす曲水に    十七人
  流す浮名のぱつと立てる      評判
  七夕の一夜とたにもたのまれす  奥方
  他家の春とて蟲も音に鳴      家中
  月の友露うち拂霧はらひ      諸侯
  ちりちり遠路に船ハ舞行      異賊     」
           (『南梁年録』P.367)
2013年3月9日(土)
隠居仕事に鴨を捕る(桜田落書2)
2 雪降りいん居しごとにかもをとる
【私注】
 隠居仕事は、生活に関わらない片手間仕事のこと。隠居は水戸藩の徳川斉昭を暗示。鴨に掃部頭を掛ける。井伊暗殺の黒幕を斉昭と見なしたもの。同じ趣向の落書に、つぎのようなものがある。
 「雪の朝隠居仕事にかもをとり」(『落書類聚中巻』P.404)
 「三月は桃の節句に雪がふり隠居仕事に掃部の御料理」(『落書類聚中巻』P.398)


3 いいばかが水をこほして火にたたる
【私注】
 「いい」は井伊を、「水」は水戸を暗示。「火にたたる」は不明。ただし、この頃、火事が多かった。安政5(1858)年2月10日及び11月15日江戸大火、翌6(1859)年2月22日江戸山の手大火、同10月17日江戸城本丸炎上など。


4 たちばなは桃の節句に赤くなる
【私注】
 橘は、井桁とともに井伊家の紋所。橘の花は白い。血潮で橘(=井伊)が赤く染まった、の意。同種の落書に「橘が桃の節句に赤くなり」(『落書類聚中巻』P.404)。


5 みともない、いい白酒を赤か(ママ)して
【私注】
 「みともない」(みっともない)に水戸を、「いい白酒」に井伊をかける。節句の白酒が、血で赤くなった。同種の落書に「水戸もない井伊白酒を赤くして」(『落書類聚中巻』P.404)、「白酒をのむのは井伊が赤くなる」(同P.437)。


6 すいふろにいいかげんに首きり
【私注】
 「すいふろ」は水風呂で、湯船につかる風呂のこと。据え風呂の転とも、(蒸し風呂でなく)井戸水利用による名称ともいう。水風呂には水府牢(水戸の牢人)の意をもたせる。「風呂がちょうどよい湯加減で、首までつかっている」の意に、「水戸の牢人たちに井伊が首を切られた」の意をかける。同種のものに次のようなものがある。
 「水府浪(スイフロ)は井伊ころかげん首ツ切り」(『安政雑記』第15冊、78の落書)
 「水浮浪に井伊かげんだと首ツきり」(『落書類聚中巻』P.404)
 「水府浪か井伊かげんだと首ツきり」(『南梁年録』P.368)


7 首は飛桜はかるる世の中に何とて町は淋しかるらん

2013年3月8日(金)
井伊家家臣の願書に託した落書(桜田落書1)
1 擬井伊家臣之願文書

井伊愛丸【注@】家来彼誰幾人一同奉歎願候。井伊家之儀者先祖直正・直高(本字年)【注A】以来代〃精忠武勇を以て天下ニ誇張仕、時〃御大老職被 仰付【注B】忠勤奉勵、先掃部頭【注C】儀も亦御大老職を辱し 上様【注D】御若年ニも被為在候ニ付、別而心配仕身命を抛、忠勤を相励候得共、元来高録(ママ、「禄」)之家に生長仕候事故、微細之事迄は不行届之儀有之、右等之処は拙者共何様ニも縫弥【注E】致、翼賛仕へき筈之処、拙者共愚昧短才故ニ不行届之廉も可有之誹評をも受候儀も有之候由、是全く掃部頭之過ニは無之、悉拙者共之不束と實〃奉恐入候。右等之訳からより事起り、當三月三日於外桜田、元水戸殿家来此節浮浪人甲乙貳拾許人徒黨致、右等之訳柄も不相弁、一途ニ掃部頭を恨ミ、狼藉候儀と推察仕候。掃部頭病中、私共へ申聞候ニは、彼者共不法暴悪の所置ニ於てハ、言語に絶し兼候処、併我家は勇武之名海内ニ隠れなく、供に召連候中間・小者迄も相撰置候ニ、僅廿人許ニ而容易ニ事を仕懸、家来ニ即死・手負等有之、剰我等ニ薄手を負せ候働、駕之中より指揮致なから得と見受候ニ、武藝捷業實に目を驚し候。其所業於てハ大罪、其武勇に於てハ尤可愛。我等薄手【注F】之事ニ候得は、日ならす全快いたし出勤之上、彼者え自身ニ利解申聞、得心候ならバ、私之恨を捨強て死罪を申宥免、厳敷禁獄申付、萬一外國ニ事有候節ハ、人数ニ差加へ功を以て罪を購せべく存候間、家来共儀各様相心得、私之恨を捨て御奉公一途ニ恥辱を相忍候様、教諭致へき旨申聞候ニ付、一同落涙仕、聊私心をさしはさます、忠勤無二之心底驚感仕候。夫に就て猶更私共不束ニ而素餐之罪【注G】迯れ難きを慚愧仕候。然ル処、手疵平愈(ママ、「癒」)致候得共、不幸にて餘病相発、卒去仕候間、右等之意趣も不相達、世評をも受、唯〃残念之儀と家来共一同悲歎仕候。何卒出格寛容之御仁恵を以、彼等が死罪を御宥免被為在、其代ニハ私共一同切腹仕、輔翼不行届之罪科を蒙候ハヽ、掃部頭儀聊無私心、精忠無二之心底も明白ニ相弁り、私共に於ても泉下【注H】ニ罷越、直政以来数代之主人ニ聊申譯之廉ニも相成候哉と奉存候。掃部頭初メ私共一同彼等え對し遺恨無之ニは候ばす。然我等強而右様相願候ハ、池田輝政殿【注I】永井氏之微禄を歎願被致候意趣と奉存候得は、心中偏ニ御賢察被下 上之御為第一と忠勤を相勵候掃部頭か精心被為憐、 御仁恵之程を萬民奉感敏候御賢断偏ニ奉願候。私共儀は前条申上候罪科自分之心被對候而も慚愧之至、只〃掃部頭存意申上候上は、殉死仕候覚悟ニ御座候。御段宜等執達奉願上候。以上。
 前文之趣御節一同心神惑乱仕、前後不所揃儀、或は理不尽之文段も定而可有之儀と奉存候。右等之処、宜御汲取御推察之程奉仰候。

【注@】井伊愛丸
 愛丸は直弼が側室里和との間にもうけた愛麻呂(よしまろ)、のちの直憲のこと。嘉永元(1848)年生、明治35(1902)年没。

【注A】直正・直高
 正しくは直政・直孝。直政は徳川四天王(他に酒井忠次・本多忠勝・榊原康政)の一人に数えられ、関ヶ原の役では東軍の軍奉行として活躍した。その功により近江に15万石、上野に3万石、計18万石を与えられた。しかし、その嫡直継(直勝)は病弱だったため、家督を弟直孝に譲り、直継自らは3万石を割いて上野国安中に移った。直孝は大坂夏の陣で淀君・秀頼を包囲して自殺に追い込むという抜群の武功を立て、以後3度にわたり計15万石を加増された。これで彦根藩は合わせて30万石となったが、さらに幕領の城付米2万石を預けられ(これを知行高に換算すれば5万石に相当)、「彦根35万石」を公称した。

【注B】時〃御大老職被 仰付…
 井伊家の席次は歴代溜間詰である。これを俗に常溜(または本席)といい、井伊家は常溜の家格ではその筆頭であった。溜間詰大名は幕府から優遇され、江戸城中の席次は老中より上座とされた。在府の際は毎月10日・24日の両日登城して黒書院の溜間に詰め、政務がある場合には老中と討議し、また直接将軍へ意見を上申できた。また、諸大名に大事を伝達する際は、老中と列座した(吉田常吉『井伊直弼』1963年、吉川弘文館、P.93〜94)。いかに井伊家の家格が高かったがわかろう。
 大老は、石高10万石以上を領する譜代大名中より任命され、官位は四位少将・四位中将などに任じられた(井伊直弼は正四位上左近衛中将にまで昇進)。幕府職制中最高の職で、将軍を補佐し、幕政全般を統括した。大老の定員は一名で、適任者がいなければ任命しなかった。常置の職でなかったため、大老職に任命されたのは、江戸時代通じてわずかに次の10名(延べ人数。実質9名)に過ぎない(人数については異説がある。『国史大辞典第8巻』の「大老」項の記述に従う)。

  氏 名  官 名   城 地  石 高  在職期間
 1  土井利勝  大炊頭 下総古河 16万石余 寛永15〜正保元
 2  酒井忠勝 讃岐守  若狭小浜 11万3500石 寛永15〜明暦3
 3  酒井忠清 雅楽頭 上野厩橋 13万石 寛文6〜延宝8
 4  堀田正俊 筑前守  下総古河   9万石 天和元〜貞享元 
 5  井伊直興 掃部頭 近江彦根 30万石 元禄10〜元禄13 
 6  井伊直該 (直興の再任) 掃部頭  近江彦根 30万石  正徳元〜正徳5 
 7  井伊直幸 掃部頭  近江彦根 30万石  天明4〜天明7 
 8  井伊直亮 掃部頭  近江彦根 30万石  天保6〜天保12
 9  井伊直弼 掃部頭 近江彦根 30万石  安政5〜万延元
 10  酒井忠績 雅楽頭  播磨姫路 15万石  慶応元〜慶応元
(『国史大辞典第8巻』P.920。松尾美恵子氏作成の「大老一覧」から抜き書き)

 延べ10名の大老の内5名までが井伊家で占め、石高も他の被任命者に比べて格段に多い。土井・酒井・堀田各氏は老中職にも就任したが、井伊家は大老職にしか就任しなかった。
 大老の権威は絶大であり、大老が出仕すると、城内・門内の番士は残らず総下座の礼をとった。御用部屋では最も上座を占め、大老が着座すると老中は一同揃って居並び、将軍に対するのと同様、平伏して挨拶した。大老が老中を呼ぶ時は、将軍と同じく、老中の官職を呼び捨てにした(たとえば間部下総守詮勝(安政年間)であったなら、「守」の文字を抜いて「下総」と官名を呼び捨てにした)。それに対し、老中が大老を呼ぶ時は、「御前様」と敬称した。また、大老と同道する場合には、老中は数歩その後ろを歩いて並行を避けた。
 大老の権威は、時には将軍を越えた。大老の決済は将軍といえどもをこれを覆すことはできなかったといい、大老が役向きで大名に命令する場合は将軍と同じであった。大老に行き会うと諸大名は城中でも路上でも道を譲り、御三家・御三卿といえども大老には会釈した。
 将軍からは毎年雲雀50羽、鶴1羽(『吏徴』(続々群書類従第五巻)。鶴拝領の重要性については、千葉徳爾他『日本史のなかの動物事典』1992年、東京堂出版の「鶴」の項、または『放鷹』参照)を賜り、その他諸侯有司の伺見、拝礼、音信等はすべて老中に比べて一等上であったという。
 このように特別な待遇、絶大な権威を持った大老職であったが、実際に幕政を左右する権力を行使したのは、歴代大老の中でも、「下馬将軍」(江戸城の下馬札の前に邸宅があったので)の異名をとった酒井忠清と、井伊直弼の二人であったという。
(以上、参考文献:笹間良彦『江戸幕府役職集成(増補版)』1965年、雄山閣、P.101〜104。『国史大辞典第八巻』1978年、吉川弘文館の「大老」(美和信夫氏執筆)の項。松平太郎著・進士慶幹校訂『校訂江戸時代制度の研究』1971年、柏書房、P.361〜365)


【注C】掃部頭
 律令制下、宮内省に属して宮中の清掃や儀式の際の式場設備などを司るを役所を掃部寮といい、そこの長官が掃部頭。当初、宮内省の内掃部司(うちのかもりのつかさ)と大蔵省の掃部司(かもんづかさ)があったが、弘仁11(820)年にこの二つを合併して掃部寮としたという。

【注D】上様
  14代将軍徳川家茂。

【注E】縫弥(原文は糸へんに弥)
 
正しくは「弥縫」で「びほう」。とりつくろうの意。

【注F】薄手
 軽傷。

【注G】素餐之罪
 素餐は尸位素餐(しいそさん。職務を果たさず、禄のみ食んでいること。禄盗人)のこと。

【注H】泉下 黄泉の国。

【注I】池田輝政
  1564〜1613。姫路53万石の藩主。子の忠継・忠雄が備前淡路を領し、俗に「姫路宰相百万石」と呼ばれた。
2013年3月7日(木)
『安政雑記』のこと(落書9)
 『安政雑記』(原本は内閣文庫蔵)という本がある。筆者は、剣術指南を業とした藤川貞と推定される。藤川貞は諱(いみな)を貞、通称を弥次郎衛門、号を整斎などと称し、文久2(1862)年に72歳で没したという。『安政雑記』は、藤川が書いたと推測される5種の雑記(文政・天保・弘化・嘉永・本書)の一つであり、全16冊から成る。主に嘉永期から安政期にかけての世上の記事を、ほぼ年代順に配列してある(『安政雑記』(汲古書院)解題及び『史籍解題辞典(近世編)』(東京堂出版)による)。

 このうち、第15冊は桜田門外の変に関する落首のみから成る。そして、本書のみにしか所載されていない貴重な落書がこの中には含まれている。『安政雑記』は影印本のみで、活字に翻刻されたものがないので、落書自体を紹介しただけでも意味があろう。

 次回から、本書に記載された落書を、順次紹介していくことにしよう。
2013年3月6日(水)
史料としての落書(落書8)
 日本史研究者が史料として落書を利用する場合、歴史の側面を語るエピソードの一つとして、つまみ食い的に利用されるくらいだった。今でもそうした傾向はあるだろう。

 こうした中で、地道に落書を拾い集めたり、落書を積極的に活用してその史料としての有効性を世間の人びとに再認識させたりした、たとえば次のような著作は重要であると思う。

・紀田順一郎『落書日本史』1967年、三・一書房
  (落書を駆使して日本人の批判精神の動きを跡づけた)
・鈴木棠三編『落首辞典』1982年、東京堂出版
  (幅広い時代にわたっておもな落首のみを取りあげ、解説を加えた)
・矢島隆教編『江戸時代落書類聚』上・中・下巻、1984〜85年 東京堂出版
  (江戸時代の落書をまとめたものとしては大部のもの)
2013年3月5日(火)
「類型的」とは何か(落書7)
 世間が興味を引くような、何か大きな事件が起こるたびに、大量に落書が作られる。大方の落書は散逸してしまったが、それでも現在にまで残ってる落書の量は膨大だ。

 ただし、短期間に大量生産されるため、一つに事件に対して作られた落書の内容は、類型的で同趣向のものばかり。似たり寄ったりのものが多いのだ。しかも、後世のわれわれの目からすれば、それらは必ずしも正しい歴史的評価を下しているとは言いがたいものも多く見られる。

 こうした扱いづらさもあってのことか、落書の史料的価値は、公式記録などと比べて従来は軽視される傾向にあった。

 しかし、逆説的ではあるが、そうした類型的な史料が大量に残されている、ということこそが重要なのだ、と言えまいか。類型的ということは、見方を変えれば、その時代に生きた一般の人々が当該事件に対して抱いた共通の印象・意見・感想であり、一つの「世論」とも言うべきものだからだ。

 こうした人心の動向・時代的雰囲気などは、公式記録などからは、まずは窺い知ることはできない。こうした点からも、落書の史料的重要性を主張することができる。

 なお、桜田門外の変に関する落書を見ると、水戸浪士らを義士、井伊直弼を悪人、井伊家中の士・諸大名を腰抜け、とする類型化したものが多い。
2013年3月4日(月)
虚説(落書6)
 情報が限定されている状況下では、様々な虚説が飛び交う。大老暗殺は紛れもない事実だったが、その首がどうなったかについては、諸説紛々だった。

 そうした中、町飛脚に扮した者が、井伊直弼の首級をひそかに水戸に運んだという風説が流れた。もちろん事実ではない。

 ところが、虚説がいつの間にか真実の中に紛れこんでいく。虚説を面白がる人情がそうさせるのだろう。しかも、これが文字や絵などの形になって固定化されていくと、動かしがたい「事実」となっていく。

 明治初年の錦絵「近世義勇伝」(二代目一孟斎芳艶筆)では、大老の首を水戸に持ち去った人物を、大老襲撃浪士の一人岡部三十郎として描いており、また現在岡部家にはそれを事実と認める口碑が伝わるという。

 「近世義勇伝」は『国史大辞典第11巻』(1990年、吉川弘文館、「江戸時代の飛脚」所載の口絵25)に載っている。参考までにその説明文を掲載しよう。

「  岡部三十郎 行年四十五才
元水戸家の藩にして忠勇無二の英傑なり。亦道を走る事彼載
(ママ)宗を欺く。主人前中納言殿罪なくして國蟄居をなりしより時の暴政を憤り、同志の者と盟約し浪人して、大老を窺ふ。時なる哉。万延庚申三月三日、一同計略を定めて櫻田に本意を達す。其をり岡部ハ町飛脚に形容を扮し、辰之口の舟中に潜ミ、仇の首級を受取、箱に収て水府に赴る。後、吉原廓内にて召捕となり、中川修理大夫へ預となりたり。      宝井 琴凌述」
2013年3月3日(日)
落書の生産(落書5)
 庶民の情報伝達手段の一つとして、落書が大きな比重を占めていた事実は、もっと注意されてよい(落書を情報メディアとしての一つとして捉えたものに、吉原健一郎『落書というメディア−江戸民衆の怒りとユーモア−』1999年、教育出版、がある)。

 たとえば、桜田事件に関する落書の膨大さを見れば、「人の口に戸は立てられぬ」を実感させられよう(ちなみに、1860年の今日、桜田門外の変が起こった)。

 大老はすでに横死していたものの、幕府・彦根藩はその権威を保つとともに井伊家の家督存続を図るため、関係者に箝口令(かんこうれい)をしいた。そして、事件のほぼ1カ月後に「大老病死」を発表した。

 ところが、地方の庶民ですらほどなく「大老暗殺」という事件の真相を知るのである。虚実取り混ぜた情報ではあったものの、時の最高権力者が白昼暗殺されたという事件の衝撃性・重大性から数多くの落書が作られ、筆写・口づて等によって、各地へ伝播していったためである。
2013年3月2日(土)
落首と狂歌はどこが違うか(落書4)
 落書と一口にいっても、その形態は文章・詩歌・芝居の台本・落とし話等様々である。とりわけ57577の短歌形態をとるものが大量に残っている。これを落首(らくしゅ)という。

 落首は作ることが比較的容易だ。しかも、短くリズミカルなため、比較的人の記憶にとどめやすい。だから、人口に膾炙(かいしゃ)した落首は、人から人へと急速に拡散伝播していったのだろうし、自分ならもっとうまい落首をひねり出すことができる、という人々の思いが落首の粗製濫造につながったのだろう。

 ところで、落首と狂歌は、どちらも同じ57577の短詩形態をとるが、両者に違いはあるのだろうか。

 強いて違いを言うなら、それは風刺性があるかないかの一点に絞られる。ただ、素人目には、落首と狂歌の境界は極めて曖昧であり、区別をつけることは実際には困難だ。

 しかしながら、江戸時代の狂歌師には、落書に紛らわしい政治風刺の狂歌は作らないという自負があったという。政府の弾圧を恐れてのことだったのかも知れないが、落首を「鄙劣(ひれつ)」な歌として排除し、「落首体(らくしょてい。落首に紛らわしい、の意)」の狂歌は刊本からことごとく削除してきたというのだ(松田修「落首精神の黄昏」−浜田義一郎・森川昭編『鑑賞日本古典文学、第31巻、川柳・狂歌』1977年、角川書店所収−)。
2013年3月1日(金)
落書の例2(落書3)
 通行人の多い場所に落書を貼付した例として、『南梁年録』に次のような話を載せる。江戸幕府が諸外国と通商条約を締結し、貿易が開始された。これを批判した落書が、安政7(=万延元)年3月、「日本橋高札場へ横板ニ認(したた)め釘(くぎ)ニ而(て)打付(うちつけ)」けてあったという(小宮山南梁『南梁年録』−茨城県史料・幕末編U、P.396−)。その落書とは、次のようなものであった。

   「交易がつつけバ江戸かからになる
(注、交易が続けば江戸が空になる)」

 在郷商人が江戸問屋を通さず、開港場の横浜に赴いて外国人と直接取引をしてしまうため、江戸市中において生活必需品が払底してしまい、庶民が窮迫している現況を批判したのである。

 また、江戸の一石橋(いっこくばし)にも、よく落書が張り出された。ここには迷子を探すしるべ立石があり、親が迷子を探す手段として、子どもの名前を書いた紙をここに張り出していた。桜田門外の変の際にも、井伊大老の横死を皮肉る落書がここに貼付され、衆目に晒されたという(『江戸時代落書類聚中巻』P.437)。
2013年2月28日(木)
落書の例1(落書2)
 攻撃対象人物の屋敷に直接貼付した落書の例として、『理斎随筆(りさいずいひつ)』には次のような話を載せる。

 卑賤の身からおこって天下統一を成し遂げ、位人臣を極めた秀吉は、京都に壮麗な聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)を造営した。ある日、門扉に

         「奢
(おご)るもの久しからず」

と書いた紙が張ってあったという(志賀理斎『理斎随筆』日本随筆大成第3期第1巻、1976年、吉川弘文館、P.301)。

 この話にはオチがある。落書の件を聞いた秀吉は、早速何かを認(したた)めて、その紙を門に張らせた。その張り紙に曰く、

         「奢らずとても久しからず」
2013年2月27日(水)
落書とは(落書1)
 ここで取り上げるのは、近世に限定しての落書(らくしょ)の話だ。

 落書とは、匿名(とくめい)の社会諷刺・個人攻撃の手段の一つだ。攻撃対象人物の屋敷の門扉や壁、通行人の多い橋などに貼付してその内容を衆目に晒(さら)したり、また道路に落とすなどして世間に評判だてようと企てた。だから、「らくしょ」「おとしぶみ」などと呼ばれた。『日葡辞書』にも「Racuxo(らくしょ)」の意味を「caqivotosu(書き落とす)」としてある。

 しかし、なぜ、落とすのだろう。

 その理由について、中世史家の勝俣鎮夫(かつまたしずお)氏が面白いことを言っている。中世という時代には、「落とす」行為によって、文書の内容が書き手の意思から離れると考えた。そして、落ちていた文書を拾うことは、神の意思だと解釈されていた(『ことばの文化史(中世1)』平凡社、1988年)。

 人が書いて落とした文書が神意に沿うなら、他の者がこれを拾う。拾われた文書には神意が宿っているわけだから、その内容の真実性が保証されることになる、とでもいうことか。

 だから、同じ「落書」という文字であっても、これを「らくがき」と読んでしまうと、意味がまるで違ってしまう。勝手気ままの手遊びという意味合いが強くなり、風刺性を欠いてしまうことにもなる(鈴木棠三編『落首辞典』1982年、東京堂出版、解説参照)。

 改めて言うが、ここで話題にするのは、時代を近世に限定にした「らくしょ」である。
2013年2月26日(火)
ひどく寒い日に行動した二・二六
 1936(昭和11)年の今日、二・二六事件が起こった。陸軍皇道派(こうどうは)の青年将校が、「昭和維新」を断行すべく、下士官・兵約1400名を率いて岡田啓介首相、斎藤実(さいとうまこと)内大臣・高橋是清(たかはしこれきよ)蔵相ら重臣らを襲い、4日間にわたって東京の中枢部を占拠した。その日はひどく寒い日だった。

 そこで、受験生は、次のような語呂合わせでこの事件を覚える。

       ひどく寒
(1936)い日に行動(皇道)した二・二六。

2013年2月25日(月)
玄ム(げんぼう。?〜746)
 729年、邪魔者の長屋王を自殺に追い込んで、光明子を聖武天皇の皇后にすえることに成功した藤原四兄弟。喜びもつかの間、平城京を襲った天然痘の流行によって、相次いで病没してしまった。

 代わって政権を握ったのが橘諸兄だった。諸兄は唐帰りの吉備真備と玄ムを政治顧問にし、政権をリードした。

 面白くないのは、大宰府の役人として九州で不遇を託(かこ)っていた藤原広嗣だった。名門藤原式家出身の自分を差し置いて、中央政界では、どこの馬の骨かわからない僧侶や田舎学者が権力をふるっているのだ。聞けば、玄ムが聖武天皇の信頼を得たきっかけは、長らく鬱病だった宮子(聖武の生母)をその法力によって快癒させたことによる。どうにも胡散臭い奴だ。

 鬱屈していた広嗣は、740年、玄ムと吉備真備を政治顧問から除くことを求めて挙兵した。藤原広嗣の乱である。しかし、乱は鎮圧され、広嗣は斬られた。

 その後、玄ムは、僧侶としての行いに背く行為があったため、筑紫観世音寺に流されて、そこで没した。台頭してきた藤原仲麻呂によって排斥されたとか、聖武天皇の後継者選定に口をはさんだ不遜行為が憎まれたとか、玄ムが流された理由に関してはいろいろと憶測がある。

 ただ、当時の人びとは、玄ム死去の理由を自然死とは認めなかった。広嗣の怨霊によって害せられたのだ、と噂しあったのである。なお、奈良市にある頭塔(ずとう)を玄ムの首塚とする俗説がある。
2013年2月24日(日)
杯に浮かんでいたのが○○だったら(橘三千代2)
 宮子が首皇子(おびとのみこ。後の聖武天皇)を生むと、三千代もまた不比等との間に安宿媛 (あすかべひめ) を生んだ。安宿媛はのちに聖武天皇の夫人(のちに皇后)となる光明子である。

 三千代は、再び乳母になって、娘の将来の夫となる首皇子を養育した。三千代はこれで、文武・聖武父子二代の乳母をつとめたことになる。

 708(和銅元)年11月25日、元明天皇(文武天皇の母)は践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に際し、三千代の長年の功績に報いるため、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を下賜した。元明天皇は「右近の橘」を寵愛していた。ゆえに、橘の下賜は天皇の三千代に対する信頼の厚さを物語ろう。

 716(霊亀2)年、不比等と三千代は、娘の安宿媛を首皇太子の夫人とすることに成功するものの、4年後の720 (養老4)年、不比等は不帰の客となってしまう。

 721(養老5)年、元明太上天皇が重篤になると、三千代はすぐさま出家しその回復を祈った。733(天平5)年没。正一位と大夫人を追贈された。

 先夫の子、葛城王・佐為王の兄弟は、三千代の死によって橘姓が絶えることを恐れた。そこで母姓を継ぐことを願い、許された。二人は臣籍降下して、それぞれ橘諸兄・橘佐為と名のった。
2013年2月23日(土)
橘さんちのご先祖(橘三千代1)
 源平藤橘(げんぺいとうきつ)を四姓(しせい)という。すなわち源氏、平氏、藤原氏、橘氏だ。このうち橘氏は、奈良時代の橘三千代(たちばなのみちよ。?〜733)という一人の女性にはじまる。

 三千代は県犬養東人 (あがたいぬかいのあずまひと) の娘で、最初、県犬養三千代といった。

 県犬養氏は、屯倉(みやけ)の倉庫を警備する犬養部(いぬかいべ。番犬用に犬を飼養していたのだろう)を管理した伴造(とものみやつこ)氏族。姓(かばね)は連(むらじ)だったが、684(天武天皇13)年、新しい姓秩序に再編成(八色姓(やくさのかばね))される際、宿禰(すくね)姓となった。

 三千代は、天武・持統・文武・元明・元正の歴代天皇に、後宮(こうきゅう)女官として仕えた。命婦(みょうぶ)だったという以外はよくわからない。

 そのうち、三千代は皇族の美努 (みの) 王と結婚した。美努 王は敏達(びたつ)天皇四世の子孫にあたるという。そして、葛城王 (かつらぎおう。橘諸兄) ・佐為 王(さい) 王・牟漏 (むろ)女王 (藤原房前(ふささき)の妻)の三子を生む。

 葛城王を生んだ後、軽皇子(かるのみこ)の乳母となった。この皇子が、のちの文武天皇である。

 文武天皇が即位すると、藤原不比等は娘の宮子(みやこ)をその夫人(ぶにん)として入内(じゅだい)させた。この時、後宮の実力者だった三千代が、宮子の入内に協力したという。これを機に、三千代と不比等は急速に接近した。ちょうど美努王は大宰帥(だざいのそつ)として九州に赴任中であり、不比等は折しも正妻を亡くしていた時期だった。

 三千代は美努王と離婚すると、不比等と再婚した。
2013年2月22日(金)
今日は聖徳太子の命日
 622(推古天皇30)年の今日(2月22日)、聖徳太子(厩戸王)が斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなった。49歳だったという。『日本書紀』によると、太子の突然の死に、諸王・諸臣をはじめ、国中の人びとが嘆き悲しんだとされる。

 近年は、その実在さえ疑問視されている聖徳太子。彼を実在の人物だったと見る場合には、暗殺説・病死説・自殺説等、さまざまにその死の原因が取り沙汰されている。それは史料(日本書紀、聖徳太子伝暦など)に、聖徳太子の「死が非常に突然のことで、そのため、人々のショックがたいへん大きかったというふうに書いて」(角川書店編『日本史探訪3』1984年、角川文庫、P.77)あるからだ。どうも、自然死とは考えられない。しかし、真相は不明である。

 この時、太子の仏教の師だった僧慧慈(えじ)は、すでに本国の高句麗に帰っていた。太子の訃報に接し、「太子が亡くなって自分ひとりが生きながらえていても何の益があろう」といい、翌年の太子の命日に、その言葉通り太子のあとを追ったという。

 2月22日はまた「竹島の日」、「猫の日」。
2013年2月21日(木)
怪しい健康法には気をつけよう
 トロイア遺跡の発掘で有名なシュリーマン(1822〜1890)。晩年の10年間、彼が住んだ屋敷はギリシアのアテネ市内に建っている。シュリーマンはこの屋敷を「イリーウ・メーラトロン」と名づけた。直訳すれば「イリオンの小屋」という意味で、粗末な小屋を連想させる。実際にはホメロスの中でトロイアの神の「宮殿」を意味する語であり、その名に違わぬ豪邸だという。

 「イリーウ・メーラトロン」の一番の特徴は、各部屋のドアの上の壁面に、古代ギリシアの賢人たちの言葉が掲げられていたことだった。そこには「何事も中庸(ちゅうよう)が肝心である」とか「汝(なんじ)自身を知れ」とかいう警句が書かかれてあった。

 ところで、中庸を説くシュリーマン自身、自らのことをよく知っていただろうか。

 彼は、何よりも健康を大切にしていた。健康維持の唯一の方法を海水浴だと信じ、夏は早朝4時から、冬でも5時からの水浴を欠かさなかったという。この怪しい健康法の結果、耳疾患(じしつかん)をこじらせてしまい、これがもとで命を落とすはめになった。

 1890年、シュリーマンは、クリスマスを家族と過ごすために帰宅する途中、ナポリの路上で倒れた。クリスマスの翌日(12月26日)、急死。68歳だった。

(H.シュリーマン著、石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』1998年、講談社学術文庫版、P.198〜199・P.209〜211)
2013年2月20日(水)
サインが欲しい2
 ところで、なぜ、関東の武士たちは、頼朝と主従関係を結んだのだろうか。それは、自分たちの家や土地など、財産の存続を願ったからに他ならない。

 平氏全盛期、彼らの土地は、平氏方の武士たちの侵略にさらされていた。関東武士たちは、自分たちの土地を保障(本領安堵)してくれる、平氏以外の権威者を求めていたのだ。この点において、源氏の棟梁たる頼朝は、平氏打倒に関東武士たちを結集させる求心力を持っていた。

 ただ、関東のみならいざ知らず、鎌倉幕府の支配権が全国に拡大していくと、いつまでも頼朝という個人のカリスマ性に頼ってはいられなくなる。全国的な政権を維持するためには、どうしても大勢の役人で、事務を分担することが必要だ。そこで、頼朝個人が発給していた文書(頼朝袖判下文)も、役所が発給する文書(将軍家政所下文)に移行するようにシステムが変えられた。

 しかし、このシステム変更に対して、頼朝挙兵の頃から従ってきた千葉常胤(ちばつねたね。1118〜1201)らから異論の声があがった。自分が主人と仰いだのは鎌倉殿(頼朝)であって、政所などという役所ではない、鎌倉殿の直判の入った文書が欲しいというのだ。

 結局、幕府創業に大きな力のあった有力御家人らをなだめるために、頼朝は従来の袖判下文を発行せざるを得なかった。
2013年2月19日(火)
サインが欲しい1
 源頼朝(1147〜99)のサインが入った文書を、「頼朝袖判下文(そではんくだしぶみ)」という。右筆(ゆうひつ)が書いた文書の内容が、頼朝の意思に基づくものであることを証明するために、文書の右端(袖)の部分にサイン(判)したのである。このサインのことを書判(かきはん)とか花押(かおう)などといった。頼朝は、自分の名前「頼」の左半分と「朝」の右半分、すなわち「束」と「月」を合体した草書体を、自らの花押として用いた。下文(くだしぶみ)というのは、上位の者から下位の者に対して発給する文書で、文書の最初が「下(くだす)」という言葉で始まるのでこの名がある。

 頼朝の袖判下文を見ると、最初に頼朝の巨大な花押が目に飛び込んでくる。鎌倉殿の権威をアピールするのに、十分な効果を持っている。鎌倉殿と御家人の「個人対個人」の主従関係を、目に見える形で表現しているのが、この花押だ。
2013年2月18日(月)
二つの姓を使い分けた一族4
 藤原氏が世にあふれた結果、中央の藤原氏と区別するために、地方に散って土着した藤原氏は、土着した国名を苗字に取り入れた。たとえば、現在の「加藤」という苗字は、「加」賀に土着した「藤」原氏の末裔だという。「藤」の字を含む苗字がすべて藤原氏の子孫だとは言えないだろうが、地方に土着した藤原氏の末裔をいわれる苗字には、次のようなものがある。

      武蔵+藤原→武藤
     遠江+藤原→江藤
     伊勢+藤原→伊藤
     尾張+藤原→尾藤 など

 また、国名と関係のない藤原氏もある。安倍氏と婚姻関係があった「安藤」、仕事が斎宮頭(いつきのみやのかみ)だった「斎藤」、内舎人(うどねり)だった「内藤」など。
2013年2月17日(日)
二つの姓を使い分けた一族3
 自ら大宝律令編纂の中心人物として、太政官と神祇官を二大頂点とする日本独自の官僚機構を作り上げた不比等。この二つの頂点を独占したのが藤原氏(太政官)と中臣氏(神祇官)だった。

 かくして不比等は、古い氏族制度のもとで祭祀を職掌としていた中臣氏一族を、中臣氏と藤原氏に分離することで、律令体制という新たな体制に対応させることに成功したのである。

 以後、政治の世界は藤原氏によって牛耳られていく。藤原氏が繁栄した結果、藤原氏の子孫は世にあふれた。
2013年2月16日(土)
二つの姓を使い分けた一族2
 701(大宝元)年、藤原不比等が中心になって編纂された大宝律令が世に出る。大宝律令は、唐の永徽律令(えいきりつりょう)を手本に作られたといわれるが、もちろん、そのままではない。律令官僚の不比等によって、不比等流に焼き直しされているのだ。

 たとえば、唐の官僚機構は三省六部(さんしょうりくぶ)と総称されるが、中書省・門下省・尚書省三省は、皇帝が政治を行う際の補助機関に過ぎない。中国では皇帝の独裁権が強いのだ。そのため、政治に対する責任は、善政・悪政の両評価ひっくるめて、すべて皇帝が引き受けなければならない。悪政が続くと、「天命が革(あらた)まる」ととなえて、政権を奪おうとする輩(やから)が出てくる虞(おそれ)さえある。革命(易姓革命)だ。

 ところが、日本の場合、二官八省一台五衛府の頂点にあるのは、太政官と神祇官である。どちらも日本独自のもので、唐制にはない。
 太政官は、ほとんど天皇の政治を代行できる機関である。天皇は「現人神(あらひとがみ)」として、現実の政治に責任を持たない。ゆえに、わが国の仕組みは、中国のような革命思想とは無縁だ。
 また、天皇が「現人神」であるがゆえ、天神地祇(てんじんちぎ。天地の神々)をまつる神祇官の設置が、必然的に出てくる。

【参考】・角川書店編『日本史探訪3』1984年、角川文庫、P.300〜301、上山春平氏による
2013年2月15日(金)
二つの姓を使い分けた一族1
 天智天皇は、危篤の床にあった中臣鎌足の長年の功績をたたえ、大織冠(たいしょくかん)の冠と、「藤原」の姓(かばね)を与えた。

 「藤原」姓は、もともと鎌足個人に与えられたものだったが、これ以後、中臣氏一族は、中臣姓と藤原姓を適宜、使い分けして用いるようになった。中臣姓を用いる時は神祇関係の仕事、藤原姓を用いる時は行政関係の仕事にそれぞれ携わっていた場合だった。

 698(文武天皇2)年、文武天皇は中臣氏一族に対して、氏族の機能分化をするよう、詔した。これ以降、中臣一族は意美麻呂(おみまろ)の子孫を中臣氏、不比等の子孫を藤原氏とすることとなった。

【参考】・村井康彦『日本の文化』2002年、岩波ジュニア新書、P.52〜53
2013年2月14日(木)
「猪」の銀行券
 1899(明治32)年は亥年だった。ゆえに、この年発行の日本銀行券(10円札)は裏に猪が描かれ、「猪」の愛称で呼ばれた。

 ところで、この10円札の表側には、和気清麻呂と護王神社が描かれている。なぜ、和気清麻呂か。これは、次のような伝承に由来する。

 道鏡の皇位への野心を挫いた和気清麻呂だった(宇佐八幡神託事件)が、大隅国に配流された際の困難な旅のせいか、足が萎(な)えて立つことも難しくなった。道鏡失脚後、復権した清麻呂がお礼言上のため宇佐八幡宮へ向かうと、突然300頭ばかりの猪が現れた。そして、八幡宮までの道の両側を警護したのだという。

 京都の護王神社は、和気清麻呂を護王大明神として祀る神社だ(他に姉の広虫(ひろむし。法均尼)と師の路豊永(みちのとよなが)を合祀)。一般の神社は社頭に狛犬を置くが、上記の伝承によって、護王神社は猪を置いているのである。

【参考】・野呂肖生『final 日本史こぼれ話 古代・中世』2007年、山川出版社、P.63〜66
2013年2月13日(水)
最初の日本銀行券はおいしかった?
 最初の日本銀行券は、1885年に発行された10円の兌換銀券だった。兌換とは本位貨幣(この場合は銀貨)と交換できるというもの。図案作成者はイタリア人のキヨソーネ。薄い青色で、2俵の米俵の上にすわる大黒天を描いた。そこで、「大黒札(だいこくさつ)」とも呼ばれた。

 大黒天は仏教の守護神(天部)の一つ。七福神の一人で、商売繁盛の神として有名だ。しかし、本来はインドのマーハカーラ(大黒の意。シヴァ神の忿怒相)で、守護・戦闘・豊饒・生産の神だった。それが中国に伝わると袋を背負い、日本ではそれに俵が加えられた。わが国では、「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」の神話で有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合して、信仰されてきた。1886年までに発行された1円・5円・100円券は、すべて大黒天を描いている。

 しかし、この最初の銀行券は、何かとトラブル続きだった。

 薄い青色にしたのは、写真に写りにくくして、偽造を防止するための工夫だった。しかし、青色の顔料に鉛白(えんぱく。組成は塩基性炭酸鉛で古来から白色顔料として使用されてきた)を含んでいたため、温泉地では硫化水素と化学反応を起こして黒ずんでしまうことがあった。また、用紙を丈夫にするために蒟蒻粉を入れたことがあだになって、ネズミや虫にかじられるという食害が相次いだ。
2013年2月12日(火)
日本銀行本店
 銀行券の発行を単一銀行に集中させる方式を、中央銀行制度という。中央銀行制度は、スウェーデンに始まるという。

 わが国で中央銀行の役割は、日本銀行が担った。その設立は1882(明治15)年。大蔵卿松方正義の時である。

 現存する日本銀行本店を設計・施工したのは辰野金吾(1854〜1919)。ヨーロッパ各地の銀行を調査したのち、江戸の金座跡に建造。1890年に着工し、1896年に竣工した。「辰野堅固(たつのけんご)」とあだ名されただけあって、煉瓦・石造、ルネサンス様式の重厚堅固な作風となっている。偶然だろうが、建物の外観を真上から見ると、「円」の字形になっている。

 先頃、2階建てから本来の3階建てに復元された東京駅も、辰野の設計。こちらはアムステルダム中央停車場を模した、モダンな赤煉瓦造の建物だ。
2013年2月11日(月)
軽いお金
 金・銀・銅などで作った金属貨幣は、地金自体に価値があったから信用された。しかし、高額になると、持ち運ぶのに重く、使用するのに何かと不便だった。

 たとえば、銅銭1文の重さは1匁(もんめ)、すなわち3.75gに過ぎなかったが、1000文すなわち1貫文になると3.75kgにもなった。そこで、普段は重くてかさばる金属貨幣を持ち歩かず、もっと安全で軽い引換券を使用することが考え出された。

 世界で初めてこうした引換券(すなわち紙幣)を作ったのは、中国人だったとされる。北宋時代の「交子(こうし)」がそれだ。

 わが国の紙幣発行の最初は、江戸時代初期、伊勢で発行された山田羽書(やまだはがき)とされる。
2013年2月10日(日)
銭の病
 律令政府が蓄銭叙位令をはじめ、さまざまな手を打って貨幣の流通を促したが、その使用は畿内やその周辺に限定されていた。まだまだ物々交換が主流で、全国的規模で貨幣を必要とするほど、経済が発展していなかったのである。

 そのうち、10世紀になると、政府の貨幣鋳造事業(本朝十二銭)は終了してしまう。これは、貨幣を発行できないほど、律令政府が衰退してしまったことを意味する。しかし、貨幣が発行されなくなっても、当時の人びとの経済生活が支障をきたしたという話は聞かない。それはつまるところ、10世紀時点の経済状況でも、貨幣を必須のものとして社会が要求してはいなかったということなのだ。

 ところが12世紀後半、平家が日宋貿易を行って、大量の宋銭を日本にもたらすようになると、貨幣経済があたかも伝染病のように日本全国に広がっていった。

 平家全盛の頃、伝染病が流行すると、人びとはそれを「銭の病」と呼んで恐れた。日常生活の中に銭がじわじわ浸透しだしたことに、人びとは伝染病と類似の薄気味悪さを感じて、かような言葉で伝染病を表現したのだろう。

 そして、平氏以降現在に至るまで、貨幣経済はついに後戻りすることはなかった。

【参考】・荒木信義「黄金島・ジパング〜謎解き・金の日本史」
     −『NHK知るを楽しむ 歴史に好奇心』2006年度8月・9月テキスト、P.126〜128−
2013年2月9日(土)
試金石(金を使う5)
 物の価値や人物の力量などを判定する物事を「試金石(しきんせき)」という。これは、もともと金座で使われていた試金石が語源だ。

 試金石は、黒い石に小判などをこすりつけて、そこにあらわれた条痕色(じょうこんしょく)を、試金棒(標準試料)の色と比較して、金の濃度を判定する道具である。金の地金や古い金貨、また製造途中の金貨の品位を調べるために用いられた。

 試金石の原料となる黒石には、もっぱら那智黒石(なちぐろいし)が用いられた。現在の三重県熊野市神川町から産出される粘板岩(ねんばんがん)の一種である。黒色で緻密(ちみつ)なので、金属をこすりつけた時、条痕色が判別しやすいのだ。現在、那智黒石は硯(すずり)や碁石(ごいし)の黒石などに利用されている。 

【参考】・齋藤努「江戸時代の金座と小判の製造工程」−NICHIGIN 2008年、14−
       (インターネットで閲覧可能)
2013年2月8日(金)
耳をそろえる(金を使う4)
 貴金属である金は、棒状だろうが、ブロック状だろうが、また粉末状であろうが、その形状に関係なく、金として取引される。問題なのは形状ではなく、品位と重量なのだ。

 そうなると、悪知恵を働かせるやからが出てくる。小判の縁(へり)をヤスリや小刀でほんの少しずつ削り、そうやって集め貯めた金くずを売ってもうけようと企んだ。そして、削られた小判の方は、素知らぬ顔して使ってしまうのだ。

 この不正を見破るには、小判を何枚か重ねてみればよい。不正がある小判は削られた縁の部分が若干へこんでいるので、小判を重ねることによって見分けることができるのだ。そこで、小判がでこぼこなくきれいに重なった場合を、小判の左右両端を耳に見立てて、「小判の耳がそろう」という。借金を一度に完済することを「耳をそろえて返す」というのは、ここからきている。
2013年2月7日(木)
小判は自宅で作っていた(金を使う3)
 「江戸時代、小判などの金貨は、江戸の金座で作られた」。確か、高校の日本史の時間に、そう教わった。

 しかし、少なくとも元禄時代以前は、大勢の職人が一つの工房に集まって金貨製造に従事していたのではなかった。職人それぞれが、自宅で作っていたのである。つまり当初は、職人の自家営業だったのだ。

 元禄以前は、小判師と称する職人たちが、各自の家で小判を鋳造していた。これを「手前吹(てまえぶき)」という。それらは御金銀改役後藤庄三郎の家に集められて検査を受け、合格したものには極印(ごくいん)が打刻された。

 しかし、こうした分散型の生産方式は管理上好ましいことではなかったので、元禄時代の貨幣改鋳を機に、江戸金座内での集中生産体制に改められたのである。
 
 なお、江戸初期には、金座は江戸・京都・駿河・佐渡にあった。江戸の金座の跡地には、現在日本銀行本店が建っている。
2013年2月6日(水)
金のかたまり(金を使う2)
 金塊にすると、今度は別の困った問題が出てきた。かたまりにすると、必要な分だけ切り分けることが難しいのだ。ただ、これは小さな均一の重量に分けることができれば解決できる。だから、江戸時代の金貨は、同じ重量に分けられた計数貨幣なのだ。金貨を数える1両・2両の「両」という単位は、もともとは重さの単位(1両は約16.5g)である。

 しかし、もう一つ問題があった。ブロック状の金塊の形だと、その中身まで均質なのかどうかわからない。もしかしたら、表面だけが金メッキで、中身は紛い物(まがいもの)だということさえあり得る。昨今の金価格の高騰で、金の延べ棒を業者のもとへ売りに行ったら、その延べ棒に磁石がくっついた(外側が金メッキで中身は鉄)などという笑い話もあった。

 この問題を解消するためには、なるべく中身がない(=厚みがない)方がよい。大判や小判などの金貨が板状に薄く叩きのばされているのは、こうした問題の解消を狙ったものと考えられている。
2013年2月5日(火)
砂金(金を使う1)
 和同開珎をはじめ、古代・中世までの銅銭は1枚1文のものしかなかった。不思議なことに、1枚100文だとか1000文だとかいう高額貨幣を作らなかったのである。もし現在、1枚1円の貨幣しかない状態で、たとえば200万円の自動車を現金購入しなくてはならないとすると、現金の授受を考えただけでも気が遠くなる。昔、高額商品を買う場合には、どうしていたのだろう。

 実は、銅銭より価値の高い、金や銀を使用していたのだ。

 ただし、金は貨幣ではなく、川底などから自然金として採集された砂金の形で使用された。ただ、砂金はバラバラになってしまうので、扱いが難しかった。最初のうちは紙に包んだり、竹筒に入れたりして重量で取引きしていた。しかし、不便だったので、そのうち溶かして塊(かたまり)にするようになったのだ。
2013年2月4日(月)
偽金作りの罰則(和同開珎5)
 律令制下、偽金作りの罰則が「斬(ざん)」であったことは前に書いた。『続日本紀』和銅4(711)年10月23日の条(平凡社東洋文庫版、P.128〜129)には、偽金作りに関するその他の罰則が書いてある。内容を列挙しよう。

    主犯   :斬刑
    従った者 :官に没収(官戸・官奴婢とする)
    家族   :流刑
    五保    :知りながら無報告は同罪、知らなかった場合は罪五等を減じ処罰
    偽金を使用したが自首 :罪一等を減じる
    偽金を未使用で自首  :免罪
    犯人を隠し無届け    :犯人と同罪

 五保(ごほ)というのは、江戸時代の農村にあった五人組のようなもの。連帯責任を負った隣近所のことだ。ただ、犯行を知らなくても処罰されるなんて、ずい分と理不尽だったと思うよ。
2013年2月3日(日)
本朝十二銭はリセットボタン(和同開珎4)
 和同開珎には銀銭もあったが、すぐに流通が禁止され、もっぱら銅銭が流通した。流通したといっても、当時の日本はまだまだ貨幣経済の段階に入っておらず、米や布などを介した物々交換が中心だった。政府が銭の流通促進に躍起になっても、自らは生産に関与せず、市で生活物資を調達しなければならなかった律令官人ら都市消費者が多く集まる平城京やその周辺を除いては、銭の流通はなかなか困難なことだった。

 また、銅銭には、価値の尺度としての問題もあった。律令政府は、銅銭自体がもつ地金の価値にくらべ、それを大幅に超える価値を銅銭に付与していた。政府は、銅銭発行によって大もうけを目論んだわけだ。そのもうけは、平城京の造営にも使われたはずである。

 しかし、銅銭を作ればボロもうけできるということは、偽金(にせがね)作りを出現させる懸念があった。また、銅銭自体に十分な地金価値がなければ、政府が決めた高すぎる貨幣価値を人びとが信用せず、貨幣価値の下落をともなう危険性があった。

 前者については、政府は、当初から偽金の横行を予想していた。そこで、偽金作りに対しては、何と「斬(ざん)」という、五刑二十等の中でも最高刑(死刑)で臨むという強硬姿勢を打ち出していた。

 後者の貨幣価値については、たとえば地金自体10円の価値しかないものを無理やり100円と言い張って強制流通させているわけだから、物々交換が慣習的だった時代に、これでは貨幣価値を長くは維持できまい。貨幣価値が下落し、物価が上昇するのは当たり前である。

 この事態に対しては、政府は物価がある程度まで上昇すると、その都度新貨幣を発行するという手段で対処した。その際、新銭1枚が旧銭10枚と等価であると宣言した。つまり、10倍になった物価を、新銭によって一挙に1/10にしてしまおうと考えたわけである。

 こうして律令政府は物価が上昇すると、ゲーム機のリセットボタンを押すように、次々と新銭を発行していった。これが、和同開珎以降、本朝十二銭を発行し続けなければならなかった理由である。

 律令政府が衰退するにともない、銭の質は低下、形も小さくなっていった。ついには、10世紀の乾元大宝の発行を最後に、律令政府の貨幣鋳造は終わってしまうのである。
2013年2月2日(土)
「ちん」か「ほう」か(和同開珎3)
 708年、武蔵国秩父郡で自然銅が産出した。律令政府はこれを瑞祥(ずいしょう。めいでたいことが起こるきざし)として、元号を和銅と改め、和同開珎を作った。

 ところで、なぜ和「銅」開珎ではないのか。
 これには、当時の技術が未熟で細かい文字を鋳造できなかったので、銅のかねへんを省画(しょうかく)したとする説。和同は吉祥句(きっしょうく。めでたい言葉)ゆえ採用されたのであり、元号の和銅とは直接関係はない、とする説などがある。
 思うに、和同が採用されたのは、元号の和銅と通音するからではなかったろうか。

 次に、なぜ開「珎」なのか。
 珎は珍の異体字で「ちん」と読む。唐の開元通宝を手本にしたのなら、開「宝」のはずだ。中国の貨幣の最後の文字は「宝」になっているし、わが国の本朝十二銭も、和同開珎を除いて、最後の文字はすべて「宝」になっている。

 そこで、和同開珎の読み方について、次のような二説が出てくる。
 珎は本来珍の異体字であり、珍という言葉そのものに「たから」の意味がある。和同開珎はそのまま「わどうかいちん」と読むべきだとする説。
 和同開珎だけ、最後の文字が「宝」でないのはおかしい。鋳造技術が未熟だったため、旧字体の寶(たから)からうかんむりと貝を省画したのだろう。したがって、「珎」は珍でなく宝であって、和同開珎は「わどうかいほう」と読むべきだとする説。

 現在は「わどうかいちん」と読む説の方が有力である。
2013年2月1日(金)
古代の貨幣は時計回り(和同開珎2)
 和同開珎(わどうかいちん)は、時計の0時の位置に「和」、3時に「同」、6時に「開」、9時に「珎」の文字がそれぞれ配されている。これは、本朝十二銭すべてに言える。和同開珎のように上から時計回りに読むのを、循読(じゅんどく)という。

 和同開珎は、唐の開元通宝(かいげんつうほう)を参考にして作られたと言われている。ところが、開元通宝は、0時に「開」、3時に「通」、6時に「元」、9時に「宝」の文字がそれぞれ配されている。読み方は、0時→6時→3時→9時(上下右左)の順だ。この読み方を対読(たいどく)という。

 なぜ、和同開珎と手本にした開元通宝の読み順が異なるのか。単純に時計回りに文字を配列したのかも知れないが、わが国の銭貨鋳造にあたった人びとが、開元通宝を「開通元宝」と読み間違えていたのではなかろうか。

 ちなみに、江戸時代に作られた寛永通宝の文字配列は、中国銭とおなじく対読になっている。
2013年1月31日(木)
まるくてしかく(和同開珎1)
 昔、子どものなぞなぞに「まるくてしかく。なーんだ」というのがあった。答えは「(奈良の)鹿煎餅」。問題の出し方は「丸くて四角」ではなく、「まるくてしかくう(丸くて鹿食う)」と出すのだ。

 ところで、富本銭(ふほんせん)や和同開珎(わどうかいちん)など、中国銭を模した貨幣はなぜ丸く、中央に四角い穴があいているのだろう。これは中国の陰陽思想によっている。円は天を表し、四角は地を表している。だから、中国皇帝が天地を祭った天壇は円形で、地壇は方形だった。

 同じく貨幣も円形方孔の形をとって、それ自体で天地、すなわちこの世の一切を表現しているのだという。計画倒れに終わってはしまったが、後醍醐天皇が鋳造を企てた貨幣の名前は「乾坤通宝(けんこんつうほう)」といった。乾坤は天地の意である。それなら、輪郭が四角で、穴が丸い貨幣があってもよさそうなものだ(そこのところは調べていないので、本当のところはわからない)。

 もっとも、貨幣鋳造の仕上げ作業をする上で、中心の穴が円形だと都合は悪い。最後に、鋳放し銭(いばなしせん)の外側にはみ出たバリを削り取るのだが、そのやり方は鋳放し銭を複数重ねて中心の穴に四角い棒を差し込み、その両端を握ってヤスリや砥石(といし)でゴシゴシ削って成形した。

 中心の穴が円形だと貨幣が棒にしっかり固定できないのだ。
2013年1月30日(水)
Moods cashey(むずかしい)

 昨日のつづき。

 ピヂン・イングリッシュとかピヂン・ジャパニーズとかいう場合の、「ピヂン(pidgin)」という言葉は、一体どういう意味なのだろうか。

 インターネットで調べてみると、これは「ビジネス」がなまったものだといわれている、と書いてあった(『有隣』第389号、1999年6月10日、「http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/379_2.htl」を参照)。やはり、ビジネスの必要上、生まれた言葉の工夫なのだ。

 それでは、ピヂン・ジャパニーズからの出題。次の英語風発音の日本語は、一体何を表現したものだろうか。
      (例)問 Oh my
         答 お前 (オー、マイ→おまえ)

    問1 Eel oh    
    問2 Oh terror 
    問3 Am buy worry
    問4 She buyer
    問5 Sigh oh narrow
 

 なお、もっと用例を知りたければ、次の論文を参照されたし。

 杉本豊久氏「明治維新の日英言語接触−横浜の英語系ピジン日本語(1)−」
       (http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/english/pdf/seng-42-18.pdf)

    答1 色(イールオー→いろ)
     答2 お寺(オーテロー→おてら)
     答3 塩梅(が)悪い(アムバイウォーリー→あんばいわるい、調子が悪いの意)
     答4 芝居屋(シーバイヤー→しばいや)
     答5 さようなら(サイオーナロー)

2013年1月29日(火)
暗号のような外国語

 幕末から明治期、居留地で外国人と接触するようになった日本の民衆は、英語を使わざるを得なくなった。たとえば、日本人商人が、”How much dollar?"という言葉の意味を理解できなければ、増え続ける外国人客を相手に商売などできようはずもなかったからだ。

 なぜ英語だったのか。それは日本史の教科書を開けばわかる。教科書には、その頃の貿易のほとんどは横浜で行われていたこと、しかもその貿易相手国はイギリスが中心だったこと、さらにはイギリスとの輸出入が貿易額全体の中で8割を占めていたこと、などが書かれている。

 では、彼らはどうやって、英語を覚えたのだろう。実は、英語の発音を日本語の類似音に聞きなすという方法をとったのだ。たとえば、上記の”How much dollar?”(値段はいくら?)。すなわち「ハゥマッチダラー」を「ハ・マ・チ・ド・リ(浜千鳥)」と聞きなして覚えたのである。これで、外国人が「浜千鳥」と言ったなら、料金をたずねているのだということがわかる。こうしたできあがった実用英語を、ピヂン・イングリッシュという。

 一方、日本の居留地に住む外国人も、日本語を覚えなければ生活できなかった。英語がわかる日本人など、現在よりもはるかに少なかったからだ。そこで、彼らも日本語の発音を、類似する英語の単語や綴りに置き換えて覚えようと努力した。こちらはさしずめ、ピヂン・ジャパニーズである。

 たとえば、日本のある職業を、”Start here”と覚えた。答えはTailor。すなわち、「スタートヒア→シターテヤ(仕立屋)」なのである。

【参考】
・服部之総『黒船前後・志士と経済』1981年、岩波文庫、P.179〜185

2013年1月28日(月)
暗号のような文字
 暗号といえば、縦に「一生」と書いた一文字で「人」と読んだり、縦に「山水土」と書いた一文字で「地」と読むなど、なぞなぞのような文字を作り、中国全土にその使用を強制させた人物がいる。唐を中断させて周を立てた中国史上唯一の女帝、則天武后(そくてんぶこう。624〜705)だ。

 彼女が作らせ、使用を強制させた17文字の漢字を則天文字(そくてんもじ)という。689年にまず12文字を公布・制定し、690年、694年、697年にも制定、704年まで使用させた。則天文字が正式に使用された期間は、ほぼこの15年間だった。

 則天文字は、中国での使用期間が特定されるため、史料中に則天文字が使用されていることを根拠に、史料の年代が特定できると主張する向きがある。則天文字の使用を根拠に、韓国慶州の仏国寺で印刷された『無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)』(年代の記述なし)こそが、現存最古の印刷物だと主張することなどがそれだ。

 則天文字が中国の公文書などで使用されている場合、上記の主張はある程度の妥当性を持つかも知れない。しかし、それ以外の場合はどうだろう。たとえば、韓国の『無垢浄光大陀羅尼経』が印刷物として「現存最古」である可能性はあろう。だが、年代を特定するその他の史料がないまま、則天文字の使用だけを根拠に「現存最古の印刷物」と断定することはできまい。

 なぜなら、則天文字は、中国ばかりかその周辺の漢字文化圏諸国にも急速に広まり、武周時代以降も使用されていたからだ。わが国でも、8〜9世紀の諸史料に則天文字が見られる。また、江戸時代に『大日本史』の編纂に着手した水戸藩主徳川光圀の「圀」という漢字も、実は則天文字の一つだ。光圀は、則天武后より約1000年も後の人物である。

 したがって、史料中に則天文字が見られるというだけの理由をもって、その史料が則天武后時代(=8世紀前半)のものであるとは、簡単には断定できないのだ。


【参考】
・陳舜臣『紙の道』1997年、集英社文庫、P.186〜187
2013年1月27日(日)
万葉仮名は暗号
 『万葉集』は万葉仮名で書かれている。万葉仮名は難解で、誰もが読むことができたわけではなかった。そのため、表音文字のひらがな・カタカナが発明されると、万葉仮名はたちまちに廃れてしまった。万葉仮名は、正しく読める者が誰一人としていない暗号になってしまったのだ。

 その事情は、『万葉集』の専門家にとっても同じだ。したがって、「かりに十人の万葉学者に全四千五百余首の読み下しを作らせれば、十人の間におそらく何百箇所という相違が出てくること必定である。−中略−意地悪く言うなら、結局どの本に拠ってみたところで全面的な信用はおけない」(佐竹昭広『古語雑談』1986年、岩波新書、P.186)のだ。

 たとえば、国語の教科書に必ず載っている柿本人麻呂の次の和歌は、このように読むという保証はどこにもない。


  
(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ


 原文はわずか14文字である。


(原文)東野炎立所見而反見為者月西渡


 この原文を、上記のように読み下したのは江戸時代の国学者賀茂真淵(かものまぶち)だ。あまりにも見事な読み下しなので、以後数百年間に渡って人麻呂の和歌はこのように読むのだ、とわれわれは思い込んできた。しかし、真淵以前は、


    あづま野のけぶりの立てる所見てかへり見すれば月傾きぬ


と読み下していた。現在でも、たとえば「月西渡」は「月西渡る」とそのまま読み下した方が、東の日の出と西の月入りを対照させて歌意がしっくり通る、などと異論は多い。

 つまるところ、タイムマシンでも発明されて、作者に直接会って質してみないことには、正しい読み下しはわからないのだ。
2013年1月26日(土)
文化財保護デー
 64年前の今日、1949(昭和24)年1月26日に、法隆寺金堂が焼けた。

 当時法隆寺は、金堂・五重塔の解体工事中だった。火災に気づいた工事事務所の事務職員が、金堂の防火水道にホースを取り付け、建物の消火にあたった。ホースは3人がかりでなければ持てないほど水圧が高いものだった。建物の鎮火には役だったが、内部の消火の際にはホースのコントロールがきかず、壁画に大量の水がかかってしまった。そのため、壁画の彩色がまったく落ちてしまったばかりか、壁画に大穴まであけてしまった(久野健「文化財の受難」−『写真記録昭和の歴史C』1984年、小学館所収−)。こうして、法隆寺金堂壁画は焼損したのである。

 失火の原因は不明だが、壁画の模写作業で使用した電気アンカの電源の切り忘れ、または漏電ではないかといわれている。

 この不幸な事件がきっかけとなって文化財保護法が制定され、文化庁が発足。1月26日を文化財保護デーとした。
2013年1月25日(金)
模造紙
 教室に掲示してある時間割表。大きな模造紙にマジック・インクで書いてあることが多い。さて、この模造紙だが、一体何を「模造」しているのだろう。
 
 1879(明治12)年、パリで開かれた万国博覧会に、淡黄褐色で光沢のある堅牢・厚手の手漉き和紙が出品された。大蔵省印刷局で製造されたため「局紙(きょくし)」の名で呼ばれたこの紙は、三椏(みつまた)を主原料にしていたため非常に丈夫だった(その丈夫な特性ゆえ、三椏は現在でも紙幣の原料として使用されている)。万博で優秀性を認められた局紙は、銀賞受賞の栄誉を得た。

 これ以降、ヨーロッパ各地では、局紙の模造品が盛んに作られるようになった。ただし、この模造品は木材パルプが原料だった。ヴェルサイユ条約調印の際にも使われたこの模造品は、イミテーション・ジャパニーズ・ベラム(Imitation Japanese vellum。すなわち日本の羊皮紙の模造品)と呼ばれ、今度は日本に逆輸入されることになった。

 つまり、この和紙の模造品を、日本でさらに模造したのが現在の「模造紙」なのである。
2013年1月24日(木)
石が降る
 江戸時代の俗説。常陸国(ひたちのくに)の鹿島大明神が外国の鬼(き)と戦った。これを神軍(かみいくさ)という。また、出羽国の飯盛塚(いいもりづか)、陸奥国鳥海(とりのうみ)というところにも神軍ということがあった。その証拠に、「神箭(や)」といって、鏃(やじり)のような石が降るという。

 何もない場所に、突如として鏃のような形をした石が、多数出現することはたびたびあった。『続日本後紀』、『日本三代実録』等にも記録されている。

 しかし、江戸時代の合理的精神は、こうした石の突然の出現を,「神軍」に帰すことをよしとしなかった。

 『広益俗説弁(こうえきぞくせつべん)』は、「神箭(や)」が「天よりふるとは非なり。砂中にあるところの石、大雨のときあらひ出したるものなるべし」と述べている(井沢蟠竜『広益俗説弁』1989年、平凡社東洋文庫、P.31〜32)。
2013年1月23日(水)
順帝(「興死して弟武立つ」3)

 倭王武が南朝の宋に使者を派遣したのは、478年だった。順帝の昇明2年にあたる。順帝は前年の7月、皇帝の位についた。倭王武が、翌年、早速遣使したのは、皇帝の代替わりに際して、朝鮮半島南部の軍事権の所有と安東大将軍の称号の獲得を要求するためである。

 讃の場合は不明だが、「倭の五王」の誰もが、執拗なまでに上記の主張を繰り返し繰り返し行ってきた。冊封や勲爵は、実際には形式以上のものではなかったにもかかわらずである。このように執拗に主張を繰り返してきた事例は、倭国以外にはない。このような「倭の五王」たちの行動を、藤間生大(とうませいた)氏は「めずらしい執念であり、宋朝の役人をおどろかすに足りるものがあったろう」(同氏『倭の五王』1968年、岩波新書、P.94)と評している。

 その執念が実り、この時倭王武は、順帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号を与えられている。

 しかし、武に称号を与えた順帝は翌479年、斉朝をはじめた蕭紹伯(しょうしょうはく)によって位を簒奪(さんだつ)され、殺されてしまった。時に13歳だった。 

2013年1月22日(火)
マヨワの変(「興死して弟武立つ」2)
 倭王興は安康天皇に比定されている。安康天皇が死んだ経緯(いきさつ)について、『古事記』は次のように伝える。

 臣下の讒言(ざんげん)を信じたアナホ(倭王興。安康天皇)はオオクサカの王を殺し、その妻のナガタの大郎女(おおいらつめ)を奪って自分の妻とした。

 ある時、アナホは妻のナガタに「マヨワ(オオクサカとナガタの間に生まれた男子)が成長した時に、私がマヨワの父を殺したことを知ったら……」と寝物語で語った。御殿の床下で遊んでいたマヨワは、アナホのこの言葉を偶然聞いてしまった。よりにもよって、母親の現在のつれあいが、父親のかたきとは…。マヨワはまだ7歳だったが、アナホが寝ているところをうかがって、側にあった大刀をとるとアナホの首を切り落とした。これが「興死して」の真相だ。

 その後どうなったか。
 父のかたきを討ったマヨワは、臣下のツブラオホミの家に逃げ込んだ。一方、兄アナホを殺されたオオハツセ(倭王武。雄略天皇)は激怒し、ツブラオホミの家を囲んで戦闘に及んだ。オオハツセが呼びかけるとツブラオホミが出てきて、次のように言った。

「娘と五カ所の倉はあなたに献上しましょう。しかしマヨワ王子は私を頼ってやってきました。あなた様に勝つことはできないでしょうが、王子を見捨てることはできません」

 こうして戦闘が再開されたが、ツブラオホミ側は矢尽き、負傷し、万事窮まった。マヨワが言うことには「もう致し方がない。わたしを殺してください」。そこで、ツブラオホミはマヨワを刺し殺して、自らの頸を切って死んだという。

 『古事記』は、まるで見てきたみたいに書いてある。同じ記事を読むにしても、『日本書紀』より面白い。昨年は、『古事記』が書かれてからちょうど1300年の記念の年だった。大学入試でも終わったら、『古事記』をひもといてみたら?


【参考】
・青空文庫に『古事記』現代語訳(武田祐吉訳)がある。
2013年1月21日(月)
センター試験が終わる(「興死して弟武立つ」1)
 大学入試センター試験が終わった。河合塾・ベネッセ・代ゼミなど大手予備校の平均点速報を見ると、前年よりはやや難しく、全体的に平均点は下がるだろうとの見込みだ。

 日本史の平均点も下がるらしいが、昨年の問題と比較してみても、それほど難しくなったとは思えない。下がったとしても、せいぜい小問1問分くらい(3点くらい)で、標準的なレベルの問題ではないかな?

 その日本史の第2問に、倭王武の上表文(『宋書』倭国伝)が史料として出た。478年に倭王武(雄略天皇)が宋の順帝に、安東大将軍などの称号を要求した有名な史料だ。「興死して弟武立つ」のフレーズではじまる。

 ところで、興がどうして死んだのか、その経緯(いきさつ)をご存じだろうか。
2013年1月20日(日)
『古今和歌集』2
  『古今和歌集』のなかに、どの鳥が何羽いるか、ということに興味をもつ人は余りいまい。とりあえず、エクセルにうまくデータを移せたので、とりあえずは鳥ではなく、人の方を調べてみた。どの氏(うじ)の歌が多いのか、六歌仙の作歌数はどのくらいか、を調べた。( )内の%は、全体1,111首を100%として計算したものだ。

 『古今和歌集』の研究者にとっては自明なことなのだろうが、興味深く思う人もいるだろうと思い紹介しよう。

    @ 読み人知らず  434首(39.1%)
    A 氏別で多いもの
        1位  紀氏   163首(14.7%) うち選者の紀貫之は102首(9.2%)。
        2位  藤原氏  69首( 6.2%)
        3位  在原氏  56首( 5.0%)
        4位  小野氏  33首( 3.0%)
    B 六歌仙
        1位  在原業平 30首( 2.7%)
        2位  小野小町 18首( 1.6%)
            僧正遍昭 18首( 1.6%)
        3位  文屋康秀  5首( 0.5%)
        4位  大友黒主  2首( 0.2%)
        5位  喜撰法師  1首( 0.1%)
             六歌仙計 74首( 6.7%)

 『古今和歌集』の4割は読み人知らずの歌である。

 氏別で見ると、さすがに無視はできないのだろう、藤原氏が上位にいる。しかし、1位の紀氏の半分にも及ばない。その紀氏の中で最多なのが、紀貫之だ。選者の特権を生かして、『古今和歌集』の約1割を自分の歌で占めている。政治的には不遇であった紀氏と在原氏が、藤原氏をがっちりとり囲むような形になっている。

 六歌仙でみると、人気者はやはり上位3位までに集中。歌数だけ見ると、残り3人は付けたり、の感がする。
2013年1月19日(土)
『古今和歌集』1
 昔、暇だけがあった時に、ふと『万葉集』や『古今和歌集』などの中にどんな鳥が何羽歌われているのか、疑問に思ったことがあった。そこで、文庫本を1ページずつめくりながら、カードに和歌を書き写して調べたことがあった。

 けれども、『万葉集』が終わって、そろそろ『古今和歌集』にとりかかった頃、古代文学の中に登場するウグイスを、八代集を使って調べた人がいることを知った。春夏秋冬それぞれの季節ごとに、どの鳥が一番多く多く登場するかを調べたその人の論文を見つけて、急に興味が失せて調べるのをやめてしまった。調べたカード類も、その後の何回かの引っ越しの中で、紛失してしまっていた(なお、この話は別の機会に)。

 ところで、最近、パソコンの中のファイルを整理していたら、昔、ロータス123に入力した『古今和歌集』のデータが出てきた。数年後に、あの時の疑問を、今度はパソコンを使って調べてみようと思い直して、何カ月かかけて少しずつ1,111首を入力したのだが、その後放りっぱなしにしたままになっていた。仕事が忙しくなって、『古今和歌集』の中にどんな鳥が何羽いるか、など悠長なことを調べている時間などなくなっていたからである。

 何しろ、何十年も前に打ち込んだデータである。正しく入力できているかどうかチェックしてはいないが、現在のパソコンにあるソフトはエクセルなので、とりあえずエクセルにデータを移してみた。
2013年1月18日(金)
リンカンって、本当はどんな人?
 昨年はアメリカで大統領選があった。それを援護射撃する意味合いからか、アメリカではリンカン(リンカーン)に関する映画が何本か作られた(リンカンは共和党出身の大統領)。

 リンカンは、「偉人伝」中の人物の一人だ。われわれが知るところの彼といえば、「丸太小屋出身の大統領」、「ゲティスバーグでの民主主義擁護の演説」、「奴隷解放の父」であり、現在もそうした「偉人伝」におけるリンカンのイメージから、われわれは自由になってはいない。

 そこで、本棚から、 本間長世著『リンカーン−アメリカ民主政治の神話−』(中公新書、1968年)を、久しぶりに引っ張り出してみた。刊行年はいささか古いが、内容はいまだに色あせていない。

 著者は1929(昭和4)年東京に生まれ、1949(昭和24)年に東大教養学部教養学科を卒業後、大学教授としてアメリカ史・アメリカ思想史を専門としてきた経歴を持つ。

 さて、リンカンについては、2種類の相反する神話が存在する。一つは、西部の民話的英雄として彼を伝説化するもの。アメリカ民衆が抱く人間の理想像を表明している。もう一つは、本書の副題「アメリカ民主主義の神話」に示される、民主主義国家としてのアメリカ合衆国の理想を象徴するものとしての神話化された彼の伝記。

 本書は、後者の神話から、神話化のヴェールを剥ぎ取って「真のリンカン」像を描き出そうとしたものだ。したがって本書に描かれるリンカンは、丸太小屋からホワイトハウスまで翔けのぼった立志伝中の人物でも、フロンティア精神の権化でも、また奴隷解放に立ち上がった理想主義者ですらもない。本書において、リンカンは徹頭徹尾、政治的な人間として描かれているのだ。

 本書を読めば、リンカンに対する社会一般のイメージは覆されることだろう。しかし、そうだとしても、やはりリンカンは偉大だった、といわざるを得ない。なぜなら彼は、大統領としてアメリカ合衆国の民主主義と統一を守るために南北戦争を戦い抜き、アメリカ史最大のこの内戦に崇高な意味を与えたのだから。

 われわれ日本人は、わが国及び国際社会に大きな影響力を持つアメリカの政治動向に、常に深い関心を寄せてきた。アメリカの政治を真に理解するためには、アメリカ民主主義とその中における政治家のあり方を理解することが必要だ。その点で、アメリカ大統領中最も偉大な大統領と目されているリンカンの実像を知ることは、われわれに何らかの示唆を与えてくれるだろう。
2013年1月17日(木)
民主主義の精神
 今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』は、新島八重の物語だ。唐突にアメリカ南北戦争から始まる。日本も世界史の流れとは無縁ではない、ということを言いたいらしい。南北戦争で使われた武器が、幕末の日本に流入したという。

 南北戦争の場面では、リンカンのゲティスバーグ演説(1863年11月19日)の”The government of the people,by the people,for the people,shall not perish from the earth.(人民の、人民による、人民のための政治をこの世から消滅させてはならない)”という、あの有名な演説の一節が流れた。この時、国立戦没者墓地で行われた北軍戦没者追悼式典でのリンカンの演説は、わずかに3分間弱。あまりにも短時間だったため、カメラマンが写真を撮ろうとした時、すでに演説は終わっていた。ゆえに、この歴史的演説を行っているリンカンの写真は存在しない。

 ところで、このリンカンの演説の一節が、われわれの憲法の中に、パズルのように埋め込まれていることをご存じだろうか。日本国憲法前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し(of the people)、その権力は国民の代表者がこれを行使し(by the people)、その福利は国民がこれを享受する(for the people)」がそれである。

 GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーはアメリカ人。彼は、日本国憲法草案の前文に、リンカンが述べたアメリカ民主主義の精神を織り込んだのだ。

 そういえば、昨年末に亡くなったベアテ・シロタ・ゴードンさん(1923〜2012。日本国憲法草案作成にかかわった最後の生き証人。人権条項を担当)が、追悼ニュースの中で次のように言っていたのが印象的だった。「日本国憲法は、アメリカの憲法よりもはるかに素晴らしい憲法です」と。

 民主主義の本場の憲法よりも素晴らしい、と評価される日本国憲法。そんな素晴らしい憲法を、これからもわれわれ日本人は守っていけるのだろうか。
2013年1月16日(水)
漢は川の名
 漢の国名は、川の名前に由来する。漢水のほとりから起こったからである。漢水と同じような川が天空にかかっている。ゆえに「天漢」といった。天の川のことだ。

 分裂状態だった中国を初めて統一したのは秦である。中国をチャイナ(China)とかシナ(支那)とか称するのは、秦(Chin)に由来する。しかし、秦と漢を併称して「秦漢帝国(しんかんていこく)」というものの、秦が中国を統一していた期間はあまりにも短かった。

 それに対し、漢は紀元前後をはさんで、前漢200年、後漢200年の合わせて400年間、中国に君臨し続けた。そのため、中国人を「秦民族」とはいわず「漢民族」というし、中国の文字も「秦字」ではなく「漢字」である(もっとも秦の文字は篆書なので、漢の隷書の方が現在の字体に近い)。また門外漢、悪漢など、「漢」一文字で人(男)を表すようになった。
2013年1月15日(火)
班氏一族

 父班彪が起稿した『漢書』を、子の班固が書き継ぐが獄死。これを班固の妹班昭が完成させたことは前述した。

 班昭はまた女性教育家としても知られる。和帝の信任を得て、皇后以下女官たちの教育にあたり、曹大家(そうたいか。曹先生の意)と呼ばれた。曹は結婚後の姓で、夫の曹世叔(そうせいしゅく)の早世後、宮仕えしたのである。その著『女誡(じょかい)』七篇は、わが国の『女大学』に相当する。

 班固の弟が班超である。班超は西域都護の任にあり、部下の甘英(かんえい)を大秦国(だいしんこく。ローマのこと)に派遣したことで、高校世界史の教科書にその名が載っている。また、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の名言を吐いた人物としても知られる。

 班氏一族は、以上のように多彩である。


【参考】
・桑原隲蔵「東漢の班超」1917年(青空文庫による)

2013年1月14日(月)
『漢書』

 昨日、話題にした「凌雲之志」は『漢書』が出典だ。『漢書』と言えば、「倭」が登場する最古の史書として有名だ。「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる」というあの史料である。

 『漢書』は前漢の高祖劉邦(りゅうほう)から新の王莽(おうもう)まで、12代230年間(前206〜後23年)まで叙述した歴史書だ。帝王の伝記である本紀12巻、臣下らの伝記である列伝70巻、制度などの志10巻、諸侯・官名などの一覧である表8巻の計100巻から成る。のち、細分して120巻になった。


 『漢書』は一般的には班固の編とされている。しかし、実際には父子・兄妹3人の手を経て完成した。父班彪(はんぴょう)が起稿し、子の班固がその事業を継承した。だが、事業の完成目前に、匈奴(きょうど)討伐敗戦の罪に連座して獄死。妹の班昭(はんしょう)が兄班固の遺志を継ぎ、八表および天文志を補い完成したのが『漢書』なのである。

2013年1月13日(日)
志は雲より高く

 この間、テレビでジブリのアニメ『コクリコ坂から』が放送されていた。それをぼんやり見ていたら、昭和30年代と思しき高校の文化部部室棟の入り口に、「志は雲より高く」と書かれていた。おそらくはジブリを支えた徳間書店の社長あたりに関係する言葉なのだろう(部室棟の取り壊しを阻止しようとする高校生に理解を示す理事長を、アニメの中で「徳丸理事長」としており、徳間書店関係者にモデルがいることをあっさり認めている。ちなみに、理事長が乗っていた車のナンバーも「1090」(トクマル)だった)。

 もともとこの言葉は『漢書(かんじょ)』揚雄伝(ようゆうでん)にある「凌雲之志(りょううんのこころざし)」が原典だ。文字通り、雲を高くしのいでのぼろうとする高い志をいう。意気盛んで、大いに飛躍しようとする志を示すこの言葉は、部室棟のような若者が集う場においてふさわしい言葉だろう。

 ところで、平安初期に作られた勅撰漢詩文集に『凌雲集』がある。この場合の「凌雲之志」は、転じて俗世間を超越した高尚な志を意味している。

2013年1月12日(土)
2週間のお休みさせていただきました

 ちょっと忙しくて、ホームページの更新が滞りがち。年末・年始の休み中に、このホームページをリニューアルしようと思いましたが、技術が伴わず、結局うまくいきませんでした。このページも表示が重くなってきたので、どうにかしようと思っていたのですが…。

 それはそうと、本日、歴検の結果が届きました。日本史1級には合格したものの、正誤問題で誤りの語句を見逃してしまったり、記述問題では歴史用語がまったく思い出せなかったりで、反省することしきりです。
 視力や記憶力の衰えを言い訳にしないよう研鑽を積み、今年の12月にもまた歴検にチャレンジするつもりです。

 今年は仕事が忙しくなって、ホームページを更新する時間が少なくなったのが、残念です。