あれやこれや 2012

 とりあえず、半年間続きました。せめて1年くらいは続けたいと考えています。小さな話題が積もりに積もったら、類似するものを集めて、改めてしっかりした文章を書いてみたいと思っているのですが。 

 
 
2012年12月31日(月)
今日は大晦日
 年末は忙しく、この日記も休止するつもりでいたのに、いつのまにかに大晦日。年越しそばを食べ、除夜の鐘を聞いて年越しをする日になってしまった。

 除夜の鐘とは、寺院では108の鐘をつき、煩悩解脱(ぼんのうげだつ)をはかる行事だが、なぜ煩悩は108なのだろう。

 真偽のほどは定かでないが、一説に、煩悩は四苦八苦(しく・はっく)から生じるからだという(四苦は生・老・病・死、八苦は四苦に愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えたもの)。「しく・はっく」、すなわち4×9(しく)=36と、8×9(はっく)=72のふたつを足すと108になるのだ。だから、煩悩は108なのだという。

 さて、無駄話はこれくらいにして、今年の煩悩をぬぐい去り、新しい年を迎えることにしましょうか。


【追記】
 人間がもつ六根(ろっこん。眼・耳・鼻・舌・身・意)にはそれぞれ好・悪・平の三種があって、6×3=18種の煩悩となる。さらにそれが浄・染二種に分かれ、これが過去・現在・未来の三種にわたって人を悩ますので、18×2×3=108種となるのだという。他説もあるそうだが、『智度論』を出典とするという。日本漢字教育振興会編『漢検四字熟語辞典(第1版)』1997年で「百八煩悩」を調べると、そのように出ていた。
2012年12月30日(日)
山崎長者は油でもうけた(油9)

 院政期(平安後期)に作られた四大絵巻は、「震源地は番町?」と覚える。『信貴山縁起絵巻』、『源氏物語絵巻』、『伴大納言絵巻』、『鳥獣戯画』のそれぞれの頭文字をつないだものだ。

 このうち『信貴山縁起絵巻』の飛倉(とびくら)の巻には、山崎長者なる人物が登場する。命蓮(みょうれん)という僧の法力によって飛ばされた鉢(はち)によって、長者の米倉は米俵ごと空中に飛ばされてしまう。それにしても、長者はどんな手段を使って、財をなしたのだろう。

 
ヒントは「山崎長者」の「山崎」にある。山崎長者は、大山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)の地に住んでいていた。この地には、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を本所とする大山崎油神人(じにん)の座があった。

 絵巻によると、長者の家には油搾りの締木やかまどがある。長者は、荏胡麻油を製造・販売する大山崎油座の神人(じにん)だったのだ。 

2012年12月29日(土)
踊る油瓶(油8)

 藤原実資(ふじわらのさねすけ)は、道長が我が身の栄華を詠んだ「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の和歌を書き留めた『小右記』の筆者として知られる。彼は知識豊富で思慮深く、「賢人の右大臣」と呼ばれていた。

 ある日、宮中から退出した実資が大路を南に下っていくと、牛車の前を小さな油瓶(あぶらがめ)が踊りながら進んでいく。不思議に思い、あとをつけると、とある屋敷の前までやってきた。門は閉まっていたが、油瓶はおどりあがって何とか中に入ろうとしている。とうとう鍵穴から中に入っていった。

 屋敷に戻った実資は、すぐさま先程の屋敷に人を差し向けて、何事かなかったか、さりげなくたずねさせた。すると、その屋敷では、長いこと病床にあった娘が、ちょうどその時刻に亡くなったということだった。油瓶は物の怪(もののけ。器物の精霊のこと)だったのだ。

 『今昔物語集』は、
それを悟った実資も、尋常な人間ではなかったと評している。(西尾光一『今昔物語−若い人への古典案内−』1970年、社会思想社(現代教養文庫)、P.181〜182参照)

 時は今、忘年会シーズン。物の怪がやってくるとしたら、ビールや焼酎の空き瓶だろうな。

2012年12月28日(金)
油が残業や夜遊びを生んだ(油7)

 中世には油座という特権的な油商人の組合があって、油の原料購入・生産・販売を独占しており、新興商人の参入を許さなかった。

 近世になると油座は姿を消し、大坂を中心とした新しい流通機構が生まれた。油問屋・油仲買・小売り油屋である。

 大坂の油問屋は、京や江戸などに油を出荷した。油仲買は、油問屋から仕入れた水油や白油などを灯油・髪油等に調合・加工した。それを小売りが販売した。また、あちこち売り歩く行商の油売りも存在した。

 江戸の油は、上方からの下り油が主流だったが、18世紀ころから関東産の地油(じあぶら)が周辺農村から流入するようになった。油が豊富に供給されるようになってくると、江戸庶民の生活にも変化が生じてくる。たとえば、燈火の問題がそれだ。三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は、次のように書いている。

「油の供給によって、夜遅くまで働くことが出来る。同時にまた、夜遅くまで遊んでいることも出来る。油の供給と都会生活とは、なかなか絡み合いがあるので、夜遅く食事をするようになったということも、やはり油の関係があるのです。」
(三田村鳶魚『娯楽の江戸 食の江戸』1997年、中公文庫、P.275〜276)

 確かに、明かりがない真っ暗闇では食事はできない。夜食を食べるようになったのは、物資が豊かになったと同時に、明かりが広く普及したからだ。 

2012年12月27日(木)
油の神様(油6)
 江戸の佃島(つくだじま)にある住吉神社は「油の神様」として知られている。

 佃島の住民は、徳川家康の命令によって、大坂の佃村から住吉明神の分霊ととともに、江戸に移住してきたという。そのいわれについては諸説あって、よくわからない。ただ、佃島の漁民は漁撈技術に長けていたので、幕府の保護を受けて、将軍の食前に白魚を献上することになった。

 さて、佃島の住吉神社は正保3(1646)年に社殿が建立され、慶応2(1866)年に焼失、明治3(1870)年に再建されたという。祭神のうち、底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后の4柱の神々を、「油脂神四座」としてまつっているそうだ。

 住吉神社は船の安全を守る神でもあったので、江戸の十組問屋も信仰していた。十組問屋のうちの河岸組(水油・色油問屋)は、毎年1月20日を参拝の日と決め、揃って神社に初詣に訪れていたという。

【参考】
・佃島住吉神社の起こり」 
  (http://www.abura.gr.jp/contents/shiryoukan/rekishi/rekish19.html)
2012年12月26日(水)
油のいろいろ(油5)
 中世、油といえば胡麻油や荏胡麻油だった。荏胡麻は灯油に利用されたり、摺って和え物や食用油に使われた。また防水用として、合羽(かっぱ)や唐傘(からかさ)の油紙も荏胡麻が利用された。

 油では菜種油が有名だが、菜種(種子から油をとるので「油菜」といい、花は「菜の花」という)は戦国時代に、もともと野菜として伝来したものだ。菜種油(種油・水油)は脂質が多く無煙でよく燃え、従来の荏胡麻油より明るかった。また、大量生産が可能だったため、近世には広く普及した。「菜の花や月は東に日や西に」(蕪村)という光景は、近世以後のものだ。ただし、灯油として庶民が気兼ねなく使うには、菜種油は高価だった。文政年間(19世紀初め頃)に、米1升が100文だった時に、油1升が400文したという。そのため、庶民は魚油を使用した。なお、菜種から油を搾った残り粕が、肥料として利用される「油粕」である。

 魚油は、金肥(きんぴ。購入肥料のこと)の鰯(いわし)粕や鰊(にしん)粕を製造する過程でできる副産物である。安価な油として庶民が灯油に利用したが、燃やすと魚臭く、また油煙があがる。魚油は魚蝋(ぎょろう)の材料として、また農村では害虫の除去などに用いられた。

 害虫除去のやり方とは、次のようなものだった。水をはった水田に魚油または鯨油をまき、稲についた蝗などの害虫を箒などで水面にはたき落とす。水面に落ちた虫は油で呼吸ができない上、飛び立つことができない。こうして虫を殺すのだった。

 櫨(はぜ)は鬢(びん)付け油の材料となったが、蝋燭の材料としての方が有名だ。提灯(ちょうちん)が普及したので、蝋燭の需要が増したのである。蝋燭としては櫨蝋(はぜろう)や漆蝋(うるしろう)が主流だった。このほかには蜜蝋・漆蝋・魚蝋などがあった。
2012年12月25日(火)
サンズイに吉の字(油4)

 ある時、塙保己一の弟子たちが、江戸の町に、サンズイに吉という字のついた町名はないか、と尋ねられた.。そもそも、サンズイに吉などという漢字があるのかどうか、誰も知らない。

 それを聞いた保己一。「それは油町のことではないか」と言って、周囲を驚かせた。サンズイに由(よし)といったのを、サンズイに吉(よし)と誤記したものと推理したのだ。(紀田順一郎『日本博覧人物史・データベースの黎明』1995年、ジャストシステム、P.19)

 小学生のなぞなぞめいた話ではあるが、保己一の知的直観力が優れていたことを示すエピソードの一つとして現在にまで語られている話だ。

 こうした直観力と抜群の記憶力が、『群書類従』に収められた文献一つ一つの校訂に役だったのだろう。

2012年12月24日(月)
「油を売る」(油3)
 用足しを頼んだのになかなか帰ってこない。どこで道草を食っているのだろう。そんな時に帰ってくると、「どこで油を売ってきたんだ!」と言って、大目玉を食らうことになる。

 この「油を売る」は油商人の商売の仕方から来ている。油を入れた壺から、購入者の容器に油を移す際、結構時間がかかる。また、油は粘性があるから柄杓からたらたら落ちてなかなか切れることがない。その間、商売人の油売りが、客を飽きさせないため、おもしろおかしく世間話などをしている。

 傍目(はため)から見ると、仕事をだらだらやって、さぼっているように見えるのだ。
2012年12月23日(日)
水油(油2)
 「水と油の仲」などという。界面活性剤でも入れない限り、水と油は混ざらない。決して交わらないという意味に使う。それなのに水油(みずあぶら)というものがある。

 五品江戸廻送令(1860)を学習する際に出てくる「五品」の一つだ。ちなみに五品を覚える際、受験生は、ザマミロゴキブリ(雑穀・水油・蝋・呉服・生糸)とか、イトミミズデゴザロウ(生糸・水油・呉服・雑穀・蝋)という語呂合わせで覚える。

 さて、水油だが、胡麻油などと異なり、透明なので菜種油をかくいうのだという。ちなみに、近世に菜種油とともによく使われた綿実油は「白油(しろあぶら)」といい、胡麻油や榧油(かやあぶら)などは色油(いろあぶら)といっていた。
2012年12月22日(土)
ペリー来航の目(油1)
 ペリーが日本に来航した理由の一つは、北太平洋で操業する捕鯨船の薪水・食料供給の基地を日本に求めたからだ。当時の蒸気船では、アメリカ西海岸から東アジア大陸まで、補給なしに太平洋を横断することは不可能だった。

 なぜ、捕鯨なのか。それは鯨油を取るためである。当時まだ石油が採掘されていなかったため、捕鯨船は脂肪層が厚いマッコウクジラやセミクジラを狙って操業し、鯨油を集めた。油を取ると、肉の方は捨ててしまっていたのである。鯨油は灯油や機械の潤滑油として利用されていた。鯨油がなければ、労働者を管理するための時計は動かず、都市の街灯にも火がともらなかったのである。

 なお、女性の洋服のコルセット(ヒゲクジラのヒゲ=歯が材料)や香水(竜涎香(りゅうぜんこう)とよばれる)も鯨を材料としていた。

【参考】
・宮崎正勝編著『世界を動かした「モノ」事典』2002年、日本実業出版社、P.178〜179
2012年12月21日(金)
ペンは剣よりも強し
 「ペンは剣よりも強し」とは、言論は武力よりも大きな力を持っている、という意味だ。慶應義塾の紋章が交叉した二本のペンに、ラテン語でこの言葉(“Calamvs Gladio Fortior”)があしらわれているので、てっきり福沢諭吉の作った格言だと思いこんでいた。

 実際は、イギリスの小説家・劇作家にして政治家だったエドワード・ブルワー=リットン(1803〜1873)が書いた戯曲『リシュリュー』の中にある言葉(“The pen is mightier than the sword”)だそうだ。慶應義塾のホームページに、そう書いてあった。

 ちなみにエドワードは、ヴィクター・ブルワー=リットン(1876〜1947)の祖父。ヴィクターは満州事変が起こった時、国際連盟によって現地に派遣されたリットン調査団の団長だ。その後日本は、リットン報告書の国連採択に不満を持ち国連を脱退、孤立外交の道を歩む。奇しくも、剣がペンに敗れた形になった。
2012年12月20日(木)
肩書き
 『魏志』倭人伝と『宋書』倭国伝には、大きな違いがある。『魏志』倭人伝には、邪馬台国や卑弥呼など弥生時代の日本の様子が、身分制度・社会の仕組み・税制・風俗など多岐にわたって書いてある。一種の百科事典か、観光ガイドのような記述だ。それに対し、『宋書』倭国伝の日本に関する記事は、古墳時代のいわゆる「倭の五王」たちが、中国皇帝の権威を背景とした「肩書き」獲得に、血道をあげているというものばかりだ。

 外国の王は中国皇帝から任官・任職してもらうことにより、他国の王やその国の人民にも「お前たちの王はこの人だ」と、その支配の正統性を保証してもらおうとした。こうした「肩書き」をもらうことによって、中国皇帝と外国の王との間に生まれる支配・服属関係を「冊封(さくほう)」といった。

 しかし、実際には、中国からの任官・任職は形ばかりのものだったようだ。実体がなかったのである。それにもかかわらず、「倭の五王」たちはしつこく朝鮮半島南部の軍事権と「安東大将軍」という「肩書き」の獲得を、一貫して主張し続けてきた。

 藤間生大(とうませいた)氏は、「百済や高句麗にはない」こうした「めずらしい執念」について、「各国の支配階級が、共通して大切だと思うようになれば、その制度は一人あるきをはじめ、その獲得に情熱をそそがざるをえなくなる。ひとたびたいしたことはないと気づくと、そんなことに情熱をもやしたことが馬鹿々々しくなる。しかしいかに馬鹿々々しくても、情熱よりうまれた実践はそれ自体一つの歴史を形づくってゆく」(同氏『倭の五王』1968年、岩波新書、P.97)のだ、と評している。

 そういえば現在でも、名刺にわけのわからない「肩書き」をたくさん並べている人がいるよね。
2012年12月19日(水)
三笠
 関西ではどら焼きを「三笠(みかさ)」と呼ぶことがある。横から見たどら焼きの形が、奈良にある三笠山(御蓋山。標高297m)の山容に似るからだという。三笠山は春日山とともに、春日大社の境内に属している。春日山の一峰である若草山を、俗に「三笠山」と呼ぶこともあるため、若草山とよく混同された。

 三笠山は、阿倍仲麻呂の

  天の原ふりさけ見れば春日
(かすが)なる三笠の山に出(いで)し月かも

の和歌で、われわれ日本人の間では、名前だけでも有名な山だ。和歌の功徳といえよう。

 ただ困ったことに、上の和歌を詠むたび思い起こすのは、帰朝かなわなかった仲麻呂の悲劇でなく、どら焼きなのはどうしたものだろう。
2012年12月18日(火)
千字文
 魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)の中国。南朝の梁(りょう)に周興嗣(しゅうこうし)という人物がいた。彼が、武帝の命によって作ったのが『千字文』だという。

 「天地玄黄(てんちげんこう)、宇宙洪荒(うちゅうこうこう)」から始まる4文字×250句=1000文字から成る文章で、どの漢字もだぶらずに意味が通るようになっている。しかも、天体から社会・教育等さまざまな分野の内容に及ぶという凝りようで、さらには脚韻まで踏んでいる。

 『千字文』は、漢字とその意味を要領よく記憶する教科書だったので、読み書きのお手本として、漢字を使用する諸地域にも普及した。わが国には応神朝に、百済から渡来した王仁が『千字文』をもたらしたとされている。

 王仁が『千字文』をもたらしたというのは伝説だが、『千字文』を練習した奈良時代の木簡が数多く出土しているところを見ると、少なくとも奈良時代には、役人が『千字文』で文字の練習をするほど、手習い用として普及していたのだろう。そして、その後長らく、『千字文』は漢字の読み書き教科書として、また習字のお手本として用いられ続けてきた。

 さすがに、現代の学校教育の現場では『千字文』の内容そのものを教えることはない。しかし、高校生以上が出品している書道展などに行くと、紺地に金泥でびっしりと細かく書いた『千字文』の作品や、楷書と草書を並べて書いた『千字文』(真草千字文)の作品などを目にする機会が多い。

 初学者の漢字学習という意味合いは薄れてしまったが、書道のお手本という側面は残しながら、『千字文』は現在でも生き続けているのだ。
2012年12月17日(月)
難波津に 咲くやこの花
 小野妹子は生け花と縁が深い。花つながりで想起されるのは「難波津(なにわづ)の歌」。

  難波津に 咲くやこの花 冬こもり いまは春べと 咲くやこの花

 百人一首の競技カルタで、読手(どくしゅ)が最初に読む空札(からふだ)の和歌。人気マンガ『ちはやふる』のおかげで、すっかり認知度があがった。

 そもそも「難波津の歌」は、初めて手習いをする時のお手本として、古くは誰もが知っていた手習い歌だった。和歌を暗誦しつつ、文字を覚えたのである。手習い歌の定番として普及していたことは、『古今和歌集(序)』や、『枕草子』・『源氏物語』などを見てもわかる。

 しかしこの和歌には、応神天皇の時代(4世紀)に百済から来朝した王仁(わに)が、即位前の仁徳天皇にたてまつったという伝説がまとわりついている。外国人が和歌を作ったというのもおかしな話だ。

 また王仁には、『論語』や『千字文』をわが国伝えたという伝承がある(山川の高校日本史教科書には、そう書いてある)。しかし、『千字文』がつくられたのは、王仁が来朝する1世紀後のことだ。時代がそもそも合わない。だから、これらの話は、諸学問の伝来をいうための伝説に過ぎない。

 ただ、(本来は万葉仮名の)手習い歌である「難波津の歌」や漢字の読み書きの手本である『千字文』が、ともに王仁に結びつけて語られているのは興味深い。

 王仁は、古い時代にわが国に文字文化をもたらした渡来人の象徴として、われわれの祖先の間に語り継がれたのだろう。

【参考】
・東野治之『木簡が語る日本の古代』1983年、岩波新書、P.152〜156
2012年12月16日(日)
生け花のルーツは小野妹子?
 四天王寺建立のための材木を求めた厩戸王(聖徳太子)が山城国に至ったとき、霊夢によってこの地に六角堂を建て、自らの護持仏である如意輪観音を安置した。妹子はのち出家して「専務」と名乗り、厩戸王が沐浴した池の端に僧坊を造ってそこに住んだ。そして、六角堂の仏前に日々花を供えた。この「池の端の僧坊」が池坊の由来という。

 「池坊」のホームページによると、したがって生け花の始祖は小野妹子なのだという。ホームページには次のように書いてある。

「伝承では妹子は 669年に永眠し、聖徳太子廟の近く、大阪府南河内郡太子町の小野妹子廟に埋葬されたとされています。廟は太子町を一望できる丘陵上に小さな塚をもって築かれ、桜や紅葉が繁茂しています。
 毎年小野妹子の命日となる 6月30日には全国から大勢の池坊関係者が参列し、華道の祖として佛前に花を供えた功績を称え、その御霊を祭り、また益々の華道の発展を願い、盛大に墓前祭が催されています。」


 ところで、妹(いも)は、男性から見て妻や恋人を呼ぶ際の言葉だ。「妹子」って名前からして、何となくお花と関係がありそう?
2012年12月15日(土)
蘇因高(そいんこう)って誰?
 蘇因高は、遣隋使の小野妹子の中国での呼び名だ。なぜ蘇因高なのか。

 宮崎市定氏は、蘇因高を「そがいもこ」と読み、「妹子の履歴に箔をつけるためか」、当時の朝廷での実力者「蘇我馬子の姓をとって、蘇我妹子と称して使いしたらしい」としている(宮崎市定『隋の煬帝』1987年、中公文庫、P.141〜142)。

 しかし、一般的には、小野妹子の名前を聞いた中国人が、そのまま音写したというのが定説だ。ただし、どの音を書きとめたのかには、議論がある。石原道博氏は、次のように解説している(石原道博編訳『新訂魏志倭人伝他三篇』1985年(第43刷新訂版)、P.36)。

「妹子が因高yin kao であることは異論あるまいが、蘇Suが野Shuであるか、小(サ)Saあるいは小野(サヌ=ス)Suの訛伝であるかは、にわかに断じがたい。私は小(セウ)Seu〔Sho〕」の訛伝かとおもっている。」


 それにしても、字面(じづら)だけ見た限りでは、小野妹子と蘇因高が同一人物だとは誰も思うまい。二人が同一人物だと言い切れるのは、「小野妹子は中国では蘇因高と呼ばれた」という『日本書紀』の記事をわれわれが知っているからだ。小野妹子と蘇因高が発音で類似するという指摘も、専門家の解説を読んで、「ああ、そうなのかも知れない」と何となく納得させられているからだ。でも、本当にそうなのだろうか。真実は「蟹の味噌汁(神のみぞ知る)?」。
2012年12月14日(金)
麒麟の口ヒゲ
 先日、茨城県取手市にあるキリンビール取手工場に、工場見学に行ってきた。

 約8万坪の敷地は東京ドーム5.5個分に相当する広大なもので、当工場だけで350ml缶に換算して、1日最大570万缶のビールを製造しているのだという。オートメーション化された工場ラインの見学など、未知のものに触れるワクワク感は工場見学ならではのものだ。下戸にはジュースの試飲もある。工場限定のおみやげを購買で買って、その日は帰宅した。

 ところで、たまたま見ていた小パンフレット(矢嶋真行「私の町の世界史紀行・グラバー園」−『世界史のしおり』2012年2学期号、帝国書院−)に、キリンビールとグラバーとの関係が書いてあった。それは概要、次のようなものだった。

 1869年にアメリカ人のウィリアム=コープランドなる人物が、横浜付近の天沼にビールの醸造所をつくった。しかし、いろいろと事情があって、ほどなく醸造所は閉鎖。当時三菱の顧問だったグラバーが1885年、この醸造所を買い取り、ジャパン・ブルワリ・カンパニーを発足させた。その際、製品のラベルには、中国伝説上の生き物である麒麟をあしらった。最初のデザインは不評だった(不評の理由については、この小パンフレットには何も書かれていない)。そこで、このデザインに改良を加えて、1889年に現在のラベルの原型になった。ラベルの麒麟の太い口ヒゲは、グラバーをモデルにしているという。

 麒麟の口ヒゲの話を事前に知っていたら、工場見学の際にその真偽について質問できたのに残念。
2012年12月13日(木)
日清戦争と麦飯(日清戦争4)
 日清戦争では脚気(かっけ)で亡くなる犠牲者が多かった。農村の貧農出身者が多く、明日の命もわからない兵士たちに白い米を食べさせてやりたい、という軍関係者の気持ちは理解できる。しかし、この「親心」が、逆に思わぬ悲劇を招いてしまった。

 脚気はビタミンB1(当時はまだ、その存在は知られていなかった)の欠乏に起因する病気で、米糠(こめぬか)のなかに多く含まれる。つまり、玄米を食べていれば、脚気にはならずにすんだのだ。

 また、麦飯を食べていると、脚気に罹病(りびょう)しないことが経験的に知られていた。そこで、脚気予防のため、戦地には麦飯を送ろうという意見があった。しかし、陸軍省医務局のエリート達は「麦飯予防説」を迷信と決めつけ、日清戦争が始まると戦地に麦飯を送ることに反対した。そのため、「日清戦争では戦死者数よりも脚気で死ぬ兵隊のほうがずっと多いという結果になってしまった」(板倉聖宣「エリート教育の欠陥」−週刊朝日百科日本の歴史103−)のだ。

☆ちなみに12月13日はビタミンの日。鈴木梅太郎が1910(明治43)年12月13日、米糠から抽出(ちゅうしゅつ)した脚気予防物質に「オリザニン」(稲の学名から命名。ビタミンB1のこと)と命名し東京化学会で発表した日だという。
2012年12月12日(水)
日本軍の本当の敵は?(日清戦争3)
 清国との戦闘行為が形式上終結したあとの、日本軍の犠牲者1万841名。その損害の内訳を見ると戦死396名、傷死57名、変死152名で、残り1万236名は何と病死だった。 つまり、日本軍の真の敵は清国兵ではなく、疫病だったのである。

 日本軍は衛生を軽視したため、莫大な人命を犠牲にした。出征中、入院加療を受けた延17万名余のうち、戦闘による傷痍者(しょういしゃ)は4519名に過ぎなかった。ほとんどがマラリア・コレラ・赤痢などの伝染病か脚気(かっけ)だったという(以上、藤村道生(『日清戦争』前出による)。
2012年12月11日(火)
日清戦争の犠牲者数(日清戦争2)
 確かに原田氏の言うとおり、日清戦争を下関講和条約で終結したと見なすわけにはいかない。それは、戦争犠牲者の数を見てもわかる。日清戦争の犠牲者数は、下関講和条約までよりも、その後の方が圧倒的に多いのだ。

 藤村道生氏(『日清戦争』1973年、岩波新書)によると、1894(明治27)年7月25日から講和直後の翌年5月30日までの日本軍の損害は2647名(うち戦死は736名)だった。これは、戦争全期間(1894年7月25日〜1995年11月30日)の損害1万3488名の約20%に過ぎない。
 
 損害の残り1万841名(すなわち損害の約80%)は、清国との戦闘行為が形式上終結していた1895(明治28)年5月31日から同年11月30日までのものだったのだ。
2012年12月10日(月)
台湾の割譲(日清戦争1)
 下関条約によって清国から日本に割譲された台湾。日本は台北に台湾総督府を置き、植民地支配を開始した。しかし、現地の人びとは、台湾の日本支配に唯々諾々として従ったわけではない。1895年5月、彼らは、アジア最初の共和国である台湾民主国をつくり、激しい抗日戦を開始した。日本は武力によって台湾人の激しい抵抗を退け、ついに台北(タイペイ)を占領。台湾民主国の要人たちは中国本土に逃れたが、その後も台湾独立の武装蜂起は長らく続いた。日本が台湾全島を制圧するまでには、下関条約締結から7年経た1902年までかかったのである。

 「日清戦争」というと、われわれは、1894年7月25日の豊島沖海戦から下関講和条約を締結した翌1895年4月までの、わずか約9カ月間の出来事と思いがちだ。

 しかし、仏教大学教授の原田敬一氏は、講和条約の締結によって日清戦争が直ちに終結したと見なす狭義のとらえ方では、日清戦争の戦争の本質を見誤りかねないと、注意を促している。

 原田氏は戦争を広く捉え、@七月二十三日戦争(対朝鮮。王宮を武力占領して皇帝を捕らえ、大院君政権をたてて開戦口実をつくろうとした)、A狭義の日清戦争(対清)、B農民戦争殲滅作戦(対朝鮮民衆)、C台湾征服戦争(対台湾民衆)という4種類の複合戦争と考えている。(岩波新書編集部編『シリーズ日本近現代史I 日本の近現代史をどう見るか』2010年、岩波書店)
2012年12月9日(日)
日本一高い山
 大日本帝国の最高峰は、1895年から1945年まで新高山(にいたかやま)だった。台湾名は玉山(ユイシャン)。下関条約(1895年)によって日本領となった台湾に聳える高峰。五峰からなる高山で、主峰は標高3,997mあった。

 新高山は「日本一」を象徴する山として、ニイタカドロップなどのように、さまざまな商標に使用された。

 だから当時は、「日本一高い山は何?」とたずねられて、「富士山」と答える子どもは落ちこぼれだったのだ。
2012年12月8日(土)
 ニイタカヤマってどんな山
 今日は、日本軍が真珠湾を攻撃した日。1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(日本時間)、日本軍爆撃183機がハワイの真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊及び地上基地に攻撃を開始し、いわゆる「太平洋戦争」が始まった(当時、日本は「大東亜戦争」と称した。現在は「アジア・太平洋戦争」というようになってきている)。

 真珠湾の「大戦果」に日本国民はわきたったが、わが国民以上に真珠湾奇襲を喜んだのは反ファシズム諸国の指導者たちだった。

 日米開戦は、第二次世界大戦と日中戦争という、ヨーロッパとアジアの戦争をリンクさせる役割を果たしたからである。その結果、世界の大国は枢軸陣営と連合国の両陣営に分かれて戦うことになり、真の意味での世界大戦へと発展した。日本はドイツ・イタリアとの3カ国のみで、全世界の反ファシズム諸国を敵に回して戦わねばならなくなったのである。この時点で、日本の敗北はすでに決定づけられてしまっていた。

 真珠湾奇襲に対する各国の反応は、次のようであった。

・「今や日本人は、問題全部を一挙に解決してくれた。わが国民を一致団結させる方法で危機がやってきた」(アメリカ陸軍長官スチムソン)
・「我々はその時、(英独)戦争に勝ってしまった」(チャーチル、英国首相)
・「中国の独立と平等の夢が達成される日も遠くない」(蒋介石、中華民国主席)

 ところで、真珠湾奇襲を命じた際の「ニイタカヤマノボレ」という暗号電文。この中に出てくる「ニイタカヤマ」というのは、一体どんな山なのだろう。
2012年12月7日(金)
昔の地理の教科書2
 この地理の教科書の本文最後のページは「国民の覚悟」という項目になっており、万葉集の「みたみわれ いけるしるしあり あめつちの さかゆるときに あへらくおもへば」と本居宣長の「ももやその くにのおやぐに もとつぐに すめらみくには たふときろかも」の二首の和歌で締めくくられている。

 同じページには、「アジア主義国是に向つての努力 満蒙移民の教育実習(茨城県)」(注:満蒙開拓団の実習所が茨城県水戸市内原にあった。現在、記念館が建っている)と「宮城前に於ける十万精兵の捧銃 上下一致の様を見るやうである」という2葉の写真が掲載されている。

 ページをざっと繰ってみただけでも、隔世の感がする。これでは戦後、教育の場で教えることが禁じられたわけだ。
2012年12月6日(木)
昔の地理の教科書1
 終戦後、修身・地理・日本歴史の三科目は、一時期、学校教育の現場で教えることを禁じられた。戦後民主主義にそぐわない内容だったからだ。

 たまたま、自分の家に、地理の教科書(守屋荒美雄・守屋美智雄補訂『新選地理(日本篇・中学校用)』昭和14年訂正4版、帝国書院発行)があった。時代の様相がわかって興味深いので、その一部をご紹介しよう。なお、旧字体は新字体に直してあるが、かな遣いはそのままである。また、読みやすいように、適当に改行してある。

「時局の重大性
 現今、太平洋方面に最も勢力を有する国は、第一にアメリカ合衆国で、南北アメリカ・ハワイ・グアム・フィリピン・アラスカ・アリューシャンを貫き、わが国を包囲する形勢にあり、その領土には我が移民を禁止してゐる。
 第二に英国で、印度・オーストラリア・太平洋諸島を従へ、中華民国に大きな政治的・経済的勢力を持ち、オーストラリア大陸へは邦人の入国を許さない。
 第三はソヴィエト聯邦で、その思想は我が国と絶対に相容れず、且政治的・思想的に中華民国を侵し、動(やや)もすれば我が国と衝突の危険がある。
 第四にフランス、第五にオランダの勢力も侮り難い。
 我が国はこの間にあつて植民地獲得には数世紀の立遅れがあり、満洲国の成立により国際間の危機を倍加し、また官民の努力により、世界各地に進出した我が商品も、高関税の障壁に萎縮しようとしてゐる。殊に中華民国の国民政府は我と提携せず、欧米諸国に頼つて抗日・侮日・日貨排斥をこととし、且民国下層民の経済的窮迫は赤化の危険があったが、遂に我が隠忍を侮つて挑戦し、茲(ここ)に支那事変を起すに至つた。
 幸いに上  皇室の御稜威(みいつ)と、下忠勇なる皇軍の勇戦と堅実無比の国民精神とにより、未曾有の戦捷(せんしょう)を博し、人口五億八千万(英国全土の人口は五億二千万)を擁する日満支に亙(わた)る一大ブロックを形成しようとしてゐる。
 しかし今後の経営には幾多の難関があり、満洲国・中華民国の開発には、国民の叡智と奮起に待つものが多い。」(P.253〜255)
2012年12月5日(水)
「隈板(わいはん)」二人の晩年
  民撰議院設立の建白書に名を連ね、明治六年の政変で下野した板垣退助(1837〜1919)。かつては自由民権運動の指導者として、また日本の政治指導者として、大隈重信(1838〜1922)と人気を二分し、わが国最初の政党内閣「隈板内閣(第一次大隈重信内閣)」に内務大臣として参加した。しかし、その晩年を知る人は思いの外少ない。

 板垣の晩年は、政治の表舞台からはまったく姿を消し、国技館の桟敷席で相撲見物する普通の好々爺(こうこうや)になってしまっていた。そこには、自由民権運動のかつての闘士の面影を見ることはできなかったという。板垣の葬儀には、生前贔屓にしていた相撲取りらが参加したくらいで、格別のことはなかったらしい。

 一方大隈は、77歳で首相に返り咲いて第二次大隈重信内閣を組織。その8年後、85歳の天寿を全うし、盛大な国民葬によって送られた。

【参考】
・『原色図解新歴史指導資料大辞典』1996年、東京書籍、P.669
2012年12月4日(火)
イヌの名前
 上野の西郷隆盛像が連れている犬は、薩摩犬(さつまいぬ)と呼ばれる猟犬。どう猛な性格で、薩摩では古くからイノシシ猟に利用されていたという。銅像のモデルは雄犬だったそうだが、実際に西郷が連れ廻していたのは雌犬で、名前は「ツン」といった。「ツン」とは面白い名前だ。命名には、何か由来があったのだろうか。
 
 ところで、晩年の大隈重信は、早稲田の自宅で犬を飼っていた。その犬を、「イヌ」と呼んでいたという。

 さて、これは「イヌ」という名前だったのだろうか。それとも夏目漱石の『吾輩は猫である』の「吾輩」のように、名前がなかったのだろうか。
2012年12月3日(月)
突然12月がなくなった
 1872(明治5)年11月9日、明治政府は改暦の布告を出した。要点は、太陽暦を採用する、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする、という2点だった。

 3週間後の改暦というあわただしさだったが、これには理由がある。

 先ず、開国後、外国との折衝する必要が急増した。その際、外国と日本で異なる暦を使っていては、約束した日程を誤るおそれがある。

 また、人件費の圧縮という問題もあった。明治政府は戊辰戦争の戦費や近代化政策への出費がかさみ、とにかく金がない。翌年(1873年、明治6年)はたまたま旧暦の閏年にあたり、13カ月分の官吏給与を支払わなければならなかった。もし、改暦をすれば、明治5年の12月分と、明治6年の閏年を解消して浮いた1カ月分、計2カ月分の給与支払いをせずに済むのである。

 こうして、改暦が強行された。12月が2日で終わり、突然、新年がやってきた。そのため、新・旧両暦で、正月の祝いを2度行う者もいたという。

 ただ、新暦を採用しても旧暦はすたらなかった。新暦と季節にはずれがあったため、農事や俳諧・短歌等の文芸において混乱が起こったからである。そのため、民間では旧暦使用の慣習が長らく続くことになった。
2012年12月2日(日)
今日の気分は受験生!

 今日は受験生気分で、歴史検定(日本史1級)を受けてきました。

 いやー、難しかった。選択肢は微妙に細かいところをついてくるので、判断に迷ってしまいました。自信のあったところまでが誤答!  書き取り問題は、ど忘れがひどく、失敗。伊予宇和島藩主の「伊達宗城(だてむねなり)」(結構な有名人です)の名前が思い出せなかったのは不覚。『戦国バサラ』の「鶴姫」は思い出せたのに…。論述問題は結構書けましたが、採点の方はいかがでしょうか。

 全体的なできはもう散々でした。これからも年齢を重ねていくにしたがって、どんどん記憶力が落ちていくでしょうから、しっかり勉強してぼけないようにしなくては。では、また来年頑張ることにしましょう。

2012年12月1日(土)
誤りを少なくする方法(ジテンは信用できるか10)
 「100パーセント誤りのないジテンというものは、この世の中には存在しない」。このことを我々は、肝に銘じるべきだ。

 その上で、誤りを少なくしていく方法をとるしかない。では、どうすればよいのか?

 方法はいたってシンプルだ。優れていると社会的評価の高いジテン、換言すれば、優れた専門家がその専門分野の書籍を扱っている優れた発行所から出版しているものを、少なくとも二種類以上比較しながら調べること。これが今のところ、誤謬を少なくするための最良の手段といえよう(吉本均監修『学ぶ力を育てる学習訓練』1981年、明治図書、P.123)。


【その他参考としたもの】
・梅棹忠夫他『百科事典操縦法−1、000万人の情報整理学−』1973年、平凡社
・服部一敏『辞書とつきあう法』1979年、ごま書房
・平凡社「大百科事典」編集部編『新百科事典操縦法−1000万人の情報整理学−』
 1985年、平凡社
・岩波新書編集部編『辞書を語る』1992年、岩波書店(岩波新書新赤版211)
2012年11月30日(金)
ジテンは信用できない(ジテンは信用できるか9)
 「ジテンは信用できるか?」と尋ねられたら、前出4冊のジテンを読みくらべただけで、おそらく誰しも「NO」と答えるだろう。

 複数のジテンですら、これだけ記述に異なる場合があるのだ。ましてや、「ジテンの内容は正しいもの」という先入観に支配され、1種類のジテンしか調べないとするならば、それは誤った(または偏った)知識の積み重ねになってしまうかも知れない。

 なぜ、各ジテンの記載が異なってしまうのだろうか。

 その原因について、考えつくことはいくらでもある。

 それぞれのジテンの典拠となった原史料や参考文献の誤り、他人の本やジテンからの孫引きやその繰り返しによる記述のずれやぶれ、単なる誤記や勘違いによる記載、ジテン製作段階での誤植や校正の見落とし、研究者による見解の相違、研究の進展による新事実の発見による内容の書き換え等々。

 近年では、旧石器時代の考古遺物や遺跡の捏造が発覚したことにより、ジテンどころか日本史教科書の記述内容までもが書き換えられ、考古学関係図書の回収騒ぎまであったことは、我々の記憶に残っているところである。
2012年11月29日(木)
享年と生没年の相違について考えた4(ジテンは信用できるか8)
 ところで、ACDの1696〜1771年という記述と、Bの1801〜1875年との記述との間にはほぼ100年の開きがあり、誤差の範囲を大きく逸脱している。

 これはBの明らかな誤りである。何しろ梨春は杉田玄白の思い出話に登場する人物である上、玄白らが翻訳の業を起こした明和8年にはすでに死去しているのだから、梨春がBの記するような「幕末、明治初期の本草家」でないことは一目瞭然である。

 これは、後藤梨春の没年「明和8年(1771)」を「明治8年(1875)」と勘違いしたことによる単純ミスである。おそらく本草学研究の専門家が執筆したなら、このような単純な過ちは決して犯さなかっただろう。
2012年11月28日(水)
享年と生没年の相違について考えた3(ジテンは信用できるか7)
 さて、前出4種のジテンの中でとりあえず享年だけ比較してみると、正解はBのみとなる(Aは70歳、Cは記載なし、Dは76歳)。

 次に生没年を比較してみよう。1697〜1771年が正しいものだとすると、ABCDの中には正解はないことになる。おそらく梨春の場合、没年の明和8年は紛れのない事実であり、生年が明確でないのだろう。それを75歳で死んだというので、生年を求めるために、没年から単純に引き算したのである。満年齢か数え年かの違いに起因する単なる計算ミスのため、梨春の生年がずれているとするなら、その誤差範囲は1歳以内にとどまるはずだ。

 したがってACDの1696〜1771年という記述は、梨春の享年を満年齢で75歳と捉えていることになる。そうすると、梨春の享年を「七十歳」とするAの誤りは、生年を「元禄九年」と明記していることから「七十五歳」を満年齢によって逆算してしまい、さらに享年を「七十五歳」とすべきところ、「五」の数字が執筆乃至は活字を組む際に脱落してしまったものと推測される。
2012年11月27日(火)
享年と生没年の相違について考えた2(ジテンは信用できるか6)
 『武江年表』を開くと、明和8年4月8日の条に、次のような記載があった。

「(明和八年辛卯)四月八日、物産家後藤梨春卒す(七十五歳。称太仲、梧陰庵と号す。著述の書多し。芝青松寺に葬す。其の父、義方栖鸞と号す。箱根温泉、有馬温泉の紀行等あり)。」(斎藤月岑『増訂武江年表1』1968年、平凡社(東洋文庫))

 江戸時代だから、梨春の享年75歳は数え年であろうということを念頭に入れて、没年から逆算すると、彼の生没年は1697〜1771年となろう。ただし、『武江年表』自体が誤っている可能性もないわけではない。以下は『武江年表』の記載や、そこから導き出された梨春の生没年(1697〜1771年)が真実だと仮定して話を進める。
2012年11月26日(月)
享年と生没年の相違について考えた1(ジテンは信用できるか5)
 それぞれのジテンで、享年と生没年の記述がなぜ違うのか。この点にのみ絞って考えてみよう。

 最善の策はジテンが依拠した原典に当たることだ。ジテンの中には参考文献を明記してあるものもある。しかしながら、そうした参考文献に挙がっている本には、専門書や希覯本(きこうぼん)が多く、われわれが在住する地方の図書館には、そもそもそうした本は置いてない。したがって、原典に当たってジテンの記載内容の適否を確かめることは、地方の者にとっては、大学関係者でもない限り容易ではない。

 そこで、とりあえず、斎藤月岑(さいとうげっしん)の『武江年表(ぶこうねんぴょう)』に「後藤梨春」という人物が載っているか探してみた。

 斎藤月岑(1804〜1878)は江戸神田雉子町の町名主をつとめた人。国学・漢学等の素養があり、『武江年表』以外にも著作が多い文化人である。梨春没後の人だが、梨春とは同時代の人であり、その真摯な学問態度から彼の著作の記述も信頼性が高い。もしかすると、はるか後世のジテン執筆者の記述より、『武江年表』の方が信頼性は高いかもしれない。『武江年表』は平凡社の東洋文庫に入っていることもあり、われわれでも簡単に入手できる。
2012年11月25日(日)
一覧表にしてみた(ジテンは信用できるか4)
 「後藤梨春」について各ジテン間の記述の相違を7項目について、比較した一覧表をつくってみた(「−」は記載なし)。
 字(あざな)はすべて同じ「梨春(りしゅん)」になっている(ただし、私の手元にある『採薬使記 巻上』のコピー(原本は内閣文庫蔵)では「後藤黎春」と記されている)。
 しかし、どの項目も、微妙に異なっている。わずか4種類のジテンなのに、どうしてこうも記述内容が一致しないのだろうか。

ジテン 字  通称  号  生没年  享年  『紅毛談』についての記述 
 A 光生 梨春  − 梧陰庵 元禄9(1696)
〜明和8(1771)
70  絶版に処せられたとする『蘭学事始』の記述は疑問とする 
 B 光正 梨春  太中 梧桐庵 享和2(1801)
〜明治8(1875) 
75  記述なし
 C 光正 梨春 太冲 梧桐庵  元禄9(1696)
〜明和8(1771)
 − 江戸幕府の忌諱に触れて絶版
 D 光生
光寧
 
梨春 太仲 伍陰庵
梧桐庵
元禄9(1696)
〜明和8(1771)
76  記述なし

2012年11月24日(土)
「後藤梨春」をジテン調べる(ジテンは信用できるか3)
 「後藤梨春」を図書館にあるいろいろなジテンで調べてみた。ただし、項目毎に執筆者名を明記してあるジテンを選んだ。責任の所在が明確であり、執筆者がその道の専門家かどうかで執筆内容の信頼性の目安になる。ただし、以下のA〜Dでは氏名を省略した。
 そこで、「後藤梨春」なる人物の、生没年・名前・業績・享年などに注意を払いながら、四つのジテンを読みくらべていただきたい。
 
A.富山房『国史辞典』(注)
「ごとうりしゅん 後藤梨春 本草家(江戸時代中期)。名は光生、字は梨春、梧陰庵と號す。初め多田氏、後、後藤と改む。能登國七尾の城主多田藏人義國五世の孫。父、名は義方、栖鸞と號した。梨春は元禄九年江戸に生れ、長じて田村藍水に學んで本草學を以て一家を成し、虎の門附近に住した。明和二年の春紅毛談を著はし、次でこれを版行した。内容は和蘭の國土・風俗・産物等を略述したもので、毎春長崎より江戸に参府する蘭人をその旅館に訪うて聴くところであつた。然るに書中にアルファベットを載せたところから、幕府の咎を受けたと傳へる(蘭學事始に絶版を命ぜられたとあるが、文化三年にこの書を紅毛談唐繰毛の名で再版してゐるのを見ると、絶版したとは信ぜられぬ)。明和八年四月八日没、年七十。江戸愛宕下青松寺に葬る。−以下省略−」

B.平凡社『日本人名大事典』
「ごとうごどうあん 後藤梧桐庵(一八〇一〜一八七五)
 幕末、明治初期の本草家。江戸の人。名は光正、字は梨春、梧桐庵と號し、通稱を太中といふ。稻生若水と同じ頃物産の學を提唱した。明治八年四月八日歿。年七十五。−以下略−」

C.河出書房新社『日本歴史大辞典』
「ごとうりしゅん 後藤梨春 一六九六−一七七一
 江戸時代末期の本草学者。名は光正、字は梨春、太冲と称し、梧桐庵と号した。江戸の人、田村藍水について物産学を修め、当時の本草学者稲生若水と相伯仲するといわれた。−中略− また、一七六五(明和二)年、「紅毛談」二巻を著わし、オランダの風土・物産・器物などについて紹介したが、その文中にオランダ文字が挿入されてあったため、江戸幕府の忌諱に触れて、たちまち絶板を命じられた。」

D.吉川弘文館『国史大辞典 第5巻』
「ごとうりしゅん 後藤梨春 一六九六−一七七一 
江戸時代中期の本草学者。元禄九年(一六九六)江戸に生まれる。名光生または光寧、字梨春、通称太仲、号伍陰庵(梧桐庵)。本姓多田氏、のち後藤。本草学を田村藍水に学んで一家をなし、蘭学をも修めた。躋寿館都講となり本草を講じた。明和八年(一七七一)四月八日没。年七十六。江戸愛宕下の青松寺(東京都港区愛宕二丁目)に葬る(墓は現存しない)。−以下略−」

(注)皇紀2600年奉祝記念として、富山房が企画した日本史専門の辞典。全8巻刊行の予定だったが、戦争激化のため4巻までしか発刊されなかった。
2012年11月23日(金)
 「後藤梨春」って何者?(ジテンは信用できるか2)
 日本史で化政文化を学習する際、次図のような「洋学の発展」について学習する。

◆洋学発展期の学系◆
   杉田玄白         →  大槻玄沢        → 稲村三伯
   前野良沢
     ┃                ┃              ┃
   翻訳書(『解体新書』) ←  入門書(『蘭学階梯』) ←蘭和辞書(『ハルマ和解』)

 上図のように、出版の流れが「辞書→入門書→翻訳書」でなく、その逆だった。そのため、外国語の原書(この場合はドイツ人クルムスの著書の蘭訳本)を翻訳するのに蘭和辞書がなく、洋学の先駆者たちは非常な苦労を強いられた。

 前野良沢宅で、『ターヘル・アナトミア』の文章の一言半句の意味が分からず、大の男たちが途方に暮れているという場面は、杉田玄白の『蘭学事始』の中でもとりわけ有名な一節だろう。

 ところで、玄白らが『ターヘル・アナトミア』の和訳に取り組んだ頃の洋学を取りまく状況について、同じ『蘭学事始』は次のように記している。

「然れどもその頃はわけて常人の漫りに横文字を取扱ふことは遠慮せしことなり。すでにその頃本草家と呼ばれし後藤梨春といへる男、和蘭事の見聞せしを書き集め、紅毛談といふ假名書の小册を著し、開板せしに、その内にかの二十五文字を彫り入れしを、何方よりか咎を受け、絶板となりたることもあり。」(杉田玄白『蘭學事始』1959年、岩波文庫、P.15〜16)

 ここからが本題である。『紅毛談』という本に、オランダ文字を載せたため、どこからか咎められて著書を絶板にされた
(注)という「後藤梨春」なる人物は、一体何者なのだろうか。

(注) 実際は絶板にされてはいない(片桐一男『蘭学事始とその時代』1997年、NHK出版、P.66〜68参照)。
2012年11月22日(木)
事典はいつから事典か?(ジテンは信用できるか1)
 ジテン類はある事柄について調べたい時、基礎的知識を確認するための出発点となるものだ。しかし、このジテンには二つある。

 言葉の意味・用法を調べるための「辞典」と、事柄の意味・内容を調べるための「事典」の二つだ。発音では区別できないので、前者を「じてん(ことばてん)」、後者を「ことてん」などとよんで、区別することがある。

 しかし、ジテンをこのように区別するようになった歴史は、意外と新しい。
 『日本博覧人物史−データベースの黎明−』(紀田順一郎著、1995年、ジャストシステム)によると、平凡社社主の下中弥三郎(しもなかやさぶろう)が『大百科事典』全28巻を刊行した際、初めて「辞典」でなく「事典」という言葉を使用したのだという。『大百科事典』の刊行開始年が1931年(完結は1935年)であるから、たかだか80年ほどの歴史しかないのである。

 それまではどうしていたのか。実は、わが国では、「辞典(辞書)」という言葉で、辞典・事典の双方を包含してきたのである。したがって両者の境界は、現在でも厳密ではない。
2012年11月21日(水)
荻原守衛(おぎわらもりえ)の「女」
 青木繁と同様、夭逝した芸術家は多い。32歳で逝った荻原守衛(1879〜1910。号を碌山(ろくざん)といった)もその一人だ。

 荻原守衛は長野県安曇野の出身で、洋画家を志望していた。19歳で上京、23歳で渡米、26歳で渡欧した。ロダンの「考える人」を見たのがきっかけで、洋画から彫刻に転向した。ロダンにも直接指導を受けている。

 帰国後、新宿中村屋の援助でできたアトリエで製作に励んだ。仕事に入る際には、洗髪して身体をふき、ネクタイをしめてから製作に臨んだという。

 守衛の代表作「女」は、その死の1カ月前に完成した。封建制のしがらみにあった女性が、光の方に向かって顔をあげ、自立しようとする強い意志を感じさせる、生命感が表出した作品だ。その「女」の顔は、支援者の中村屋の夫人、相馬黒光(そうまこっこう)の顔を写しているとか(NHK教育TV日曜美術館「碌山と”女” それは愛と悲しみから生まれた」2010年10月24日放送)。

 守衛の訃報に接したロダンは、仕事着を喪服に着がえ、その早過ぎる死を惜しんだという。

【参考】
・笠原一男他編『日本史こぼれ話(近世・近代)』山川出版社、1993年、P.163
2012年11月20日(火)
青木繁(1882〜1911)の「海の幸」
 「海の幸」は青木が22歳の時の大作(70.0×181.0cm)。1904(明治37)年夏、親友の坂本繁二郎らと千葉県の布良(めら)海岸へスケッチ旅行し、坂本からの話をもとに描かれた。荒々しい筆致で、下書きや絵の具の塗り残しがある未完成の作品だ。しかし、それがかえって絵に生命感を与えている。

 この絵を見ると、画中の一人の人物と視線が合う。銛(もり)や大鮫(おおざめ)をかついだ、赤銅色に日焼けした人物群に混じって、唯一色白の人物がこちらを見ている。これは同行した彼の恋人、福田たねがモデルという。

 「海の幸」は同年秋の白馬会第9回展に出品され、画壇で注目された。この頃が青木の絶頂期だった。

 しかし、その後の青木は振るわなかった。私生活でも恵まれず、福田たねとも別れ、貧窮の中にあった。故郷の九州各地を放浪したあと、大量に喀血し、28歳で死去する。肺結核だった。あとには、たねと息子(幸彦)が残された。

 息子の名は、青木の作品「わだつみのいろこの宮」(山幸彦と豊玉姫・侍女の3人が描かれている)に登場する山幸彦(やまさちひこ)から命名されたという。
2012年11月19日(月)
鷲の羽をつかむ(老猿3)
 光雲は次のように回想している。

「米国シカゴの博覧会には、日本から塩田真氏などが渡米されました。私の老猿の彫刻は日本の出品でかなり大きい木彫りであるから欧米人の注目を惹いたが、ちょうど陳列の場所でロシアと向かい合っていたので、あの、老猿が鷲の毛を掴んで一方を眺めている図を、何か風刺的の意味でもあるように取って一層評判されたということでありました。それから、入場者が老猿の前を通ると、猿の膝頭を撫でて通るので膝の頭が黒くなったなどいうことでした。これは塩田真氏が帰朝してのお話であります。今日、その作は、帝室博物館にあるそうです。」
                   
(高村光雲『幕末維新懐古談』岩波文庫、1995年、P.407)

 「老猿」の像高は90.9cm。確かに「かなり大きい木彫り」であったが、評判になったのは「老猿」が大きかったからではない。「老猿が鷲の毛を掴んで一方を眺めている」というそのモチーフにあった。「老猿」に「何か風刺的の意味でもあるように」世人が受けとったというのは、鷲そのものが帝政ロシアのシンボルだったからである。しかも、ロシアの作品と向かい合って陳列されていたため、なおさら世人の興味をひいたのだった。

 当時、ロシアは南下政策をとり、東アジアへの進出を目指していた。そのため、大陸進出を目論む日本とロシアとの関係は険悪化していたのである。
2012年11月18日(日)
やっと間に合った(老猿2)
 白い猿を彫ろうと思ったのに、材の色が茶褐色で予定が狂ってしまった光雲。不幸はどこまでも重なるものである。

 仕方なく、白猿はあきらめて、野育ちの老猿を彫ることにした。浅草奥山の猿茶屋から借りてきた猿をモデルにして彫り進めたが、結局、12月中には完成しなかった。翌1893(明治26)年2月、締め切りを2カ月も過ぎて農商務省に納めたが、シカゴ博覧会への出品には何とか間に合った。

 この時、光雲が彫った作品が、日本史教科書にも写真がよくのっている「老猿」だ。伝統的木彫技術に写生を加味した「老遠」は、シカゴ博覧会で高い評価を得、優秀賞に輝いた。

 ところが、世間は、「老猿」には隠されたモチーフがあると忖度(そんたく)した。その噂(うわさ)は、光雲が予期だにしていなかったことだった。
2012年11月17日(土)
白い猿を彫るはずが(老猿1)
 1892(明治25)年、農商務省から彫刻家の高村光雲のもとに、シカゴ博覧会への出品作品の製作依頼が舞い込んだ。

 そこで、光雲は「白い猿」を彫ろうと考え、栃の木の良材を求めた。栃の木ならば栃木県である。栃木県の発光路(ほっこうじ)という山村で、直径7尺(約2.1m)に及ぶ巨木を3円で求めることができた。

 しかし、木挽き代や運送費代など、なんやかんやで結局は200円以上もかかってしまった。いよいよ仕事に取りかかろうすると、同年の9月に長女の咲子を16歳で喪ってしまう。落胆した光雲だったが、農商務省への作品の納入締め切りは12月。気を取り直して、栃材に鑿を打ち入れたところ、予想に反して材の色は茶褐色! 白猿を彫ろうと思っていた光雲の目論見は、見事にはずれてしまったのである。 
2012年11月16日(金)
芸術家は飲んべえばかり?
 建築を勉強しに渡欧した黒田清輝は、絵画の方面に転身してフランスからの帰国した。そして1896(明治29)年、若い芸術家たちを集めて「白馬会(はくばかい)」を作った。黒田が30歳の時のことである。

 「白馬会」というのはしゃれたネーミングだが、馬術に興じる上流階級の若者や、「白馬の王子様」ともまるで関係がない。

 実は、「白馬」とは「しろうま」とも言った濁酒(どぶろく)の別称なのである。 濁酒が白濁しているところから生まれた名称らしい。だから、「白馬会」というのは、濁酒でも飲みながら芸術談義に花を咲かそうという、「芸術家仲間の飲み会」という程度の意味なのだ。

 それまで、日本の西洋絵画は暗い絵ばかりだった。主流の明治美術会系の絵画は、好んで茶褐色を多用した。時にはキャンバスにタバコの葉を押しつけて茶褐色を表現したという。こうしたタバコの脂(やに)に似た色調は、俗に脂色(やにいろ)とよばれ、明治美術会系の絵画は「脂派(やには)」と呼ばれた。脂派の画家は、物の陰影も黒で描いたため、ますます色調が暗く沈んだ絵になった。

 これに対し、黒田らが描く絵画には、見た瞬間に、パッと光を感じるような新しさがあった。色調が外光を取り入れたように明るかったのである。光が抑えられることを恐れ、陰影でさえ紫や青で明るく描いた。そこで、彼らは「新派(しんぱ)」とも「紫派(むらさきは)」ともよばれようになった。明治美術会系の暗い絵画は、旧派(きゅうは)になったのである。

 おそらく「白馬会」に集まる人々は明るい飲んべえばかりで、暗い泣き上戸はいなかったようだ。
2012年11月15日(木)
「蛍の光」の3番・4番
 かつては、卒業式で歌われる定番だった「蛍の光」(はじめは「蛍」の表題だった。原曲はスコットランド民謡「久しき昔」。歌詞の作者は未詳。明治14年11月24日刊の『小学唱歌集・初編』が初出である)。現在ではむしろ、スーパーマーケット等で、その日の閉店時刻を知らせるためにメロディーが店内に流される方が多いかも知れない。

 ところで、「蛍の光」は1番と2番がよく知られているが、もともとは4番まであった。現在は歌われることがない3番・4番の歌詞は、次のようなものだった。

(3番) つくしのきわみ、みちのおく、うみやま とおく、へだつとも、
      そのまごころは、へだてなく、ひとつにつくせ、くにのため

(4番) 千島のおくも、おきなわも、やしまのうちの、まもりなり、
      いたらんくにに、いさおしく、つとめよわがせ、つつがなく。

     (堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』1958年(第27刷、1981年)、岩波文庫、P.16〜17)

 4番にある沖縄は、下関条約を締結した1895年以後は台湾、ポーツマス条約を締結した1905年以後は樺太になった(北緯50度以南の樺太が、ロシアから日本に割譲された)。日清・日露戦争によって対外領土を拡大するたびに歌詞を変更してきた歌なのだ。

 アジア・太平洋戦争後、軍国主義的なもの、国家主義的なもの、神道に関係のあるもの、の3点が唱歌教材の選択から排除された。

 国防・軍隊・戦争を連想させることが、3番・4番を学校の場で歌うことがなくなった最大の理由だろう。
2012年11月14日(水)
昔は運動場がなかった
 明治時代の学校体育は、長らく「体操」の教科名で呼ばれてきた。その内容が、普通体操中心だったからである。普通体操とは、柔軟体操や手具体操などの軽体操のことで、児童生徒の健康のために教えられた。しかし、国家主義が台頭するにつれ、普通体操に代わって兵式体操が教えられるようになった。

 兵式体操というのは、木銃を使用した行軍と軍歌演習から成る、いわば初級操練である。

 森有礼(もりありのり。1847〜89)は、その効用を「忠君愛国ノ精神ヲ涵養(かんよう)シ、艱難忍難(かんなんにんなん)ノ気力ヲ渙発(かんぱつ)セシメ、他日(たじつ)人トナリ徴(ちょう)セラレテ兵トナルニ於(お)イテハ其(その)効果著(いちじる)シキモノアラン」(『兵式体操に関する上奏案』)と捉えていた。つまり、将来の皇軍の一兵卒となる臣民の育成を、兵式体操に期待したのである。

 兵式体操が普通体操を凌駕するようになると、学校に広いスペースが必要になった。それまで屋外体操場(運動場)を持つ学校は少なかった。だから、運動会を実施する場合には、河原や空き地に近隣の数校が集まって、学校対抗で競技することが多かった。

 1900(明治33)年、小学校令が改正された。そして、1校当り最低100坪(330u)以上、児童生徒1人当り1坪(3.3u)以上を基準とする屋外体操場の設置が義務づけられた。
2012年11月13日(火)
地に墜ちた「文武両道」の理想(弘道館7)
 幕末の風雲急を告げる時代には、堅苦しい文の方は不人気で、弘道館でも武の方に人気が集中した。山川菊栄(やまかわきくえ)は、彰考館総裁を務めた水戸藩青山家の子孫である。山川は次のように書いている。

「黒々と日にやけた、鬼の子のような元気のいい少年が道にあふれるようになったのはいいが、その一方で勉強ぎらいのあばれん坊、頭のからっぽな、おそまつな威ばりやなど、今日の大学の体育部や運動部にも見られる一部反動と共通の体質を思わせるものも出てきたらしい。おまけにそれらが二本さしているだけにしまつがわるく、酒の上のけんか立ちまわり、犬のためし斬りなど、一般に青少年の気風は、維新後とは比較にならないほど、荒々しく、粗雑だったという。」
                   
(山川菊栄『覚書幕末の水戸藩』1974年、岩波書店、94ページ)

 弘道館開館当時はともかく、「文武両道」の理想は、幕末に及んで地に墜ちてしまった。
2012年11月12日(月)
理想通り行かなかった文武両道(弘道館6)
 弘道館の日課は「朝文夕武」といった。「文武岐(わか)れず」(『弘道館記』)という文武兼修の理想にもとづいて、学生は午前中(午前7時頃〜正午)は文館で学習し、午後(正午〜午後3時頃)は武館で汗を流すことにしたのである。
 
 しかし、理想通りにはいかなかった。『文武出精書』(5冊の内4冊欠)という史料に記載された学生359人のうち、日割免除者等を除いた309人について調べると、17%の学生が所定の出席日数不足だった(1841年)。また文館には出席するが武館へは1日も出席しない学生や、武館には出席するが文館へは1日も出席しない学生など、一方への偏向もあった。特に出精状況がよくなかったのは、軍書生だった(鈴木暎一著『水戸弘道館小史』2003年、文眞堂、P.49による)。

 その後、反改革派の重臣たちが藩の実権を握った。すると、弘道館の学生たちは一挙に学習意欲を喪失した。重臣の子弟たちは文武の能力がなくとも出世できたし、身分の低い子弟たちはいくら文武に励んでも出世できる見込みがなくなってしまった。そのため、身分の上下を問わず、やる気が失せてしまったのである。

 その後、斉昭ら改革派が藩政に復帰した。しかし、偏文偏武の傾向や学生の怠惰など、弘道館の問題点は一向に解消できなかった。
2012年11月11日(日)
弘道館のカリキュラム(弘道館5)
 弘道館のカリキュラム(教育課程)は、一体どのようなものだったのだろうか。

 学生(諸生といった)は15歳〜40歳の藩士とその子弟だった。弘道館の係官が出席する3・8または5・10の日に、家塾(民間の塾)の教師が塾生を引率して登館し、入学の許可を得た。入学式はなかった。学生は所定の日割りに基づいて、文武の修行を義務づけられた。

 武館に入学試験はなかったが、文館にはあった。『論語』や『孝経』などを講読させ、それが読めれば合格となった。合格者は「講習生」として入学が許可された。

 その後、すらすら読めるようになると、「会読生」になった。最初に先生が儒学の経書を講義する。それを学生が組ごとに講読するのである。

 さらに上達すると、「輪講生」になった。学生が先生の指導を受けながら、輪番で講釈するのである。

 学問がさらに進むと、試験を受け、合格すると「居学生」になった。居学生は学力優秀と認められた学生であり、3畳敷きの個室を与えられた。居学生は、教授頭取・教授の指導のもとで輪講を行った。

 こうした優秀な学生がいる一方、15歳になっても漢文がよく読めない者もいた。25歳(のち20歳)になっても向上が認められないと、軍書寮へ入寮させた。先生も匙を投げたのだろう。軍書寮ではかなの本を読ませた。これを「軍書生」といった。
2012年11月10日(土)
弘道館の施設(弘道館4)
 弘道館の施設には、次のようなものがあった。

 学校御殿(正庁)、至善堂、対試場、文館、武館、天文方、天文台、孔子廟、
 鹿島神社、要石(かなめいし)歌碑、学生警鐘、八卦堂(はっけどう)、種梅記碑、
 馬場・調練場、医学館など

 学校御殿は、現代風にいうなら管理棟である。

 至善堂は藩主が座す所で、身分の高い子どもたちが会読をする際に使用された。江戸無血開城の後、徳川慶喜が水戸で謹慎したのが、この至善堂である。

 対試場は武術の大試場。

 天文台がある藩校は珍しい。弘道館と会津の日新館くらいであろうか。…

 こうした諸施設群の中にあって、注目すべきは文館・武館である。弘道館の文武一致(文武両道)教育の方針を具現するために、わざわざ両館を建てたのである。

 文館は4寮(居学・講習・句読・寄宿)、編集局、系纂局、講習別局、教職詰所などから成る。一方、武館は撃剣場(げきけんじょう)、槍術道場(そうじゅつどうじょう)、居合・柔術・長刀(なぎなた)などの稽古場の3棟から成っていた。
2012年11月9日(金)
弘道館の敷地とお金(弘道館3)
 弘道館の敷地は前述したように、54,000坪(178,200u)もあった。50坪の家屋なら1,080軒、100坪の家屋なら540軒が建つ計算になる。東京ドーム(46,755u)に換算すると、3.81個分に相当するほどの広大なものだ。「加賀百万石」で知られる加賀藩の明倫堂が17,800坪(58,740u)で弘道館の1/3の規模(33.0%)、長州藩の明倫館が14,000坪(46,200u)で弘道館の1/4(25.9%)の規模だった(データは鈴木暎一著『水戸弘道館小史』2003年、文眞堂、P.20による)。藩校の敷地面積としては、当時全国一である。

 総工費は約2万両かかった。1両の価値が現代の貨幣価値でいくらになるのか、換算基準を何にするかで変わってくるので、計算するのはかなり難しい。『一目でわかる江戸時代』(竹内誠監修・市川明編、2004年、小学館、P.18)によると、現代の米価から算出すると1両は現在の5万5500円に相当するというし、現代の職人の賃金から算出すると、現在の30万円に相当するという。これに従うなら、金額にはずいぶんと振れ幅があるが、2万両は現在の約11億1千万円〜60億円に相当することになる。

 これらの費用は、すべて斉昭の「御手元金」(ただしその大部分は幕府からの助成金)、すなわち「ポケットマネー」から支払われたという。

 藩校の運営費は、久慈郡太田村(現常陸太田市)周辺の5,000石の土地を「学田」に指定し、そこからあがる年貢米を運営費用にあてた。米1石は約150kgであるから、5,000石なら7,500tになる。仮に税率を5公5民(50%)とすると、弘道館の運営費用は米3,750tだったことになる。
2012年11月8日(木)
 建学の精神(弘道館2)
 弘道館の建学の精神を記したのが「弘道館記」である。

 「弘道館記」の草案を作成したのは、御用調役(江戸勤務)の藤田東湖だった。藤田の草案が完成すると、斉昭は幕府儒官の佐藤一斎や、彰考館の学者である青山延于(のぶゆき)と会沢安の3名に見せ、意見を求めた。斉昭は彼らの批評を裁定して最終稿を決定すると、1838(天保9)年、斉昭の名で「弘道館記」として公表した。

 藩校の名称を弘道館としたのは、直接には「弘道館記」冒頭の「弘道とは何ぞ」に由来する。出典は『論語』の「人、能(よ)く道を弘(ひろ)む。道、人を弘むるに非(あら)ず」である。

 『論語』にあるこの文章はたいへん有名なもので、同じ名称をもつ藩校は水戸以外にも、常陸(ひたち)谷田部(やたべ)・近江(おうみ)彦根・但馬(たじま)出石(いずし)・備後(びんご)福山・肥前佐賀の5藩にある。しかも設立年次は水戸の弘道館が最も遅い。

 しかし、弘道館といえば、水戸藩のものが最も有名だ。高校日本史の教科書に主な藩校の例として載っているのも、水戸の弘道館だ。最後発の水戸藩の藩校が、「弘道館」の名称を独占した形である。

 「弘道館記」に示された建学の精神(教育方針)は@神儒一致、A忠孝一致、B文武一致、C学問事業一致、D治教一致の5つである。つまり、神道と儒教の一致、主君への忠と父祖への孝の一致、文武両道教育、教育成果の政治への活用、政治と教育の連携、という教育方針を掲げたのである。

 文武両道を奨励するために、弘道館内には文館と武館が併設された。
2012年11月7日(水)
徳川斉昭の天保改革(弘道館1)
 茨城県水戸市には、弘道館(こうどうかん)という江戸時代の藩校の一部が残っている。設立したのは、日本三名園の一つ、偕楽園(かいらくえん)を造営させた水戸藩9代藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)だ。

 藩政改革の必要性を自覚していた斉昭は、1837(天保8)年、藩政改革を開始。まずは、四大目標を藩士たちに提示した。それは、@全領検地の実施、A藩士の農村移住・土着(武備を充実させるため)、B定府制(じょうふせい。水戸藩は参勤交代を免除され、藩主は江戸住まいが普通だった)の廃止、C学校建設、の4つである。

 学校建設とは、藩校・郷校を建設することであり、有能な人材の育成を目指したのである。この目標に沿って、水戸城内に建設された藩校が弘道館だった。

 藩校建設は、1839(天保10)年から具体化していった。水戸城内三の丸にあった藩士の屋敷地を藩校敷地にあてることに決め、翌1840(天保11)年から建設工事を開始した。敷地面積は54,000坪(178,200u)もあった。この広さは、東京ドーム(46,755u)に換算すると、ほぼ4つ分に相当する。

 ついで、藤田東湖(とうこ)・戸田忠敝(ただあきら)・渡辺半介を弘道館掛(かかり)に任命し、教授頭取(きょうじゅとうどり)に青山延于(のぶゆき)と会沢安(やすし)を、教授に杉山忠亮(ただすけ)と青山延光(のぶみつ)を、それぞれ任命した。

【参考】
・東京ドームシティ公式サイト
 「http://www.tokyo-dome.co.jp/dome/shisetu/01.htm」
2012年11月6日(火)
翼賛選挙(斎藤隆夫4)
 第75帝国議会を去るにあたり、斎藤はその時の感懐を漢詩に詠んだ。磯田氏が入手した色紙は、このうちの第三句を抜き書きしたものだ。

  吾言即是万人声  吾(わ)が言(げん)は即(すなわ)ち是(こ)れ万人の声
  褒貶毀誉委世評   褒貶毀誉(ほうへんきよ)は世評(せひょう)に委す
  請看百年青史上  請(こ)う、百年青史の上を看(み)ることを
  正邪曲直自分明   正邪曲直(せいじゃきょくちょく)、自(おの)ずから分明

 1942(昭和17)年4月30日に第21回総選挙があった。太平洋戦争開戦後、東条英機内閣が政府の推薦議員で議会をかため、足場を強固にするために実施した翼賛選挙だった。そのため、非推薦候補に対して、政府は徹底的な選挙干渉をおこなった。その結果、議員定数466名のうち、推薦者381名の当選に対し、非推薦者の当選はわずかに85名。全体の5分の1にも満たなかった。

 斎藤は非推薦で兵庫県5区から立候補し、区の最高得票数を獲得して衆議院議員に返り咲いた。

 「万人の声」を代表していたのが誰だったのか。それは「自ずから分明」だろう。
2012年11月5日(月)
反軍演説(斎藤隆夫3)
 1940(昭和15)年、第75帝国議会の衆議院本会議においてのことである。立憲民政党の斎藤隆夫は、「支那事変」処理に関して質問演説をした。斎藤はこの演説の中で、日中戦争の目的、汪兆銘政権樹立工作、国民精神総動員運動など、政府・軍部の政策を痛烈に批判した。

 これを「聖戦の冒涜(ぼうとく)」と怒った軍部は、斎藤の処分を要求。衆議院議長は斎藤の「反軍演説」の大部分(全体の3分の2)を議事録から抹消した。さらに、斎藤は懲罰委員会にかけられ、政友会・社会大衆党らの賛成多数により、衆議院議員を除名された。

 軍部の政治介入と、それにおもねる政党の自壊を示す出来事とされる。事実、こののち、戦争遂行のための協力体制確立を唱えて政党は解消し、翼賛体制が成立することになる。
2012年11月4日(日)
色紙(斎藤隆夫2)
 磯田道史(いそだみちふみ。2012年の3月まで茨城大学准教授だった)氏は、かつて古書肆で斎藤隆夫の色紙をたまたま入手した。その色紙の文字を見て、歴史家の卵として、正義を行った不遇な人々を埋もれさせてはいけない、という使命感を持ったという。

 その色紙の文字は次のようなものだった。

   「請看百年青史上
(請(こ)う、百年青史の上を看(み)ることを)」

 「青史(せいし)」は歴史のこと。紙がない時代、中国では青竹の板に文字を書いた。斎藤は、己の行動にあやまちはなかったことを自負し、その判断を後世のわれわれに委ねたのである。

 それでは、後世に判断を委ねた斎藤の行動とは、一体何だったのか。
2012年11月3日(土)
ネズミの殿様(斎藤隆夫1)
 衆議院議員だった斎藤隆夫(1870〜1949)には、「ネズミの殿様」というニックネームがある。小柄だったからばかりではない。肋膜炎の再発で肋骨を7本抜いた影響で、演説中に上半身をちょこちょこ揺らす癖があったからだという。

 その孫が児童文学者の斎藤惇夫(あつお)氏。テレビアニメにもなった『冒険者たち−ガンバと15ひきの仲間−』などで知られる。氏がネズミを主人公に物語を書くのは、祖父の斎藤隆夫をモデルにしているからという。
2012年11月2日(金)
小村寿太郎の風貌(条約改正22)
 小村は、日英同盟の推進、ポーツマス条約の締結、関税自主権を回復して条約改正を達成したことで知られる。

 小村は19歳の時、第1回文部省留学生の一人としてアメリカに渡った。そして、ハーバード大学で法学を学んだという経歴がある。

 当時の旅券の写しが外務省記録に残っており、旅券発給記録に小村の身体的特徴が記述されている。それによれば、小村は「鼻高き方、口小さき方、面長き方、色白き方」で、身長は「五尺一寸五分(約156センチメートル)」だったという。

 その風貌から、小村は「ネズミ」とあだ名された。

【参考】
・外務省HP
 「http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html」
・日本外交文書デジタルアーカイブ
 「http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/index.html」
2012年11月1日(木)
小村寿太郎(こむらじゅたろう。1855〜1911)の改正案(条約改正21)
 日英通商航海条約では関税の部分的引き上げはなされたが、関税自主権そのものは回復されなかった。そこで小村は、条約の有効期限の切れるのを待って、1911年改定の条約で関税自主権を回復することに成功した。これにより最終的な条約改正が達成されたのである(ただし、旧居留地の永代借地権は1942年まで回収できなかった)。

 小村が外務官僚だった時、その才能を見出したのは陸奥だったといわれる。原稿を見ることなく長い演説をこなすなど、抜群の記憶力を有していた。あとで速記録と原稿を比較すると、一言一句異なるところはなかったという。

 条約改正がなった1911年、小村は逝った。昨年はちょうど、小村の没後100年目の年だった。

 震災の復興も遅々として進まない中、相も変わらず、与野党は国民そっちのけで足の引っ張り合いをしている。今の時代、陸奥や小村のように、命を削ってまで己の役割を全うしようとする使命感をもった為政者が、一人でもいるだろうか。
2012年10月31日(水)
陸奥宗光(条約改正20)
 陸奥宗光(むつむねみつ。1844〜1897)は波乱の人生を歩み、波乱のうちにその生を終えた。

 陸奥の実父は、『大勢三転考』の著作で有名な伊達千広(だてちひろ。1802〜1877)。和歌山藩の要職(勘定奉行兼寺社奉行)にあったが政争で失脚し、約10年間、田辺に幽閉された。そのため、一家は辛酸をなめ、陸奥も江戸に出て苦学した。

 その後脱藩して尊王攘夷運動に身を投じ、坂本龍馬の海援隊に入隊。維新後は明治政府に仕官するも、1877年に明治政府転覆計画に関与したかどで免官・投獄される。1883年に出獄してヨーロッパに遊学、帰国後外務省に入った。第1回衆議院議員総選挙で和歌山県から立候補して当選。第1次山県有朋内閣、第1次松方正義内閣の農商務相になる。「藩閥政府」の中で、陸奥は閣僚中唯一の衆議院議員だった。

 第2次伊藤博文内閣では外相として、日英通商航海条約の調印に成功。15カ国と同様の条約を調印して、政府・国民の悲願だった治外法権撤廃に成功した。また、日清戦争の難局に当たり、講和条約を成立させた。世人は陸奥を「カミソリ大臣」、その対外政策を「陸奥外交」とよんだ。

 陸奥が口述・著作した『蹇蹇録(けんけんろく)』は、「陸奥外交」の内実を知る上での重要史料である。書名は「蹇蹇匪躬(けんけんひきゅう)」に由来。臣下が君主に身を苦しめて仕える、の意である。その書名のごとく、激務から肺結核を悪化させて外相を辞任。その1年後、53歳で死去した。
2012年10月30日(火)
外務省の銅像(条約改正19)
 外務省構内には歴代外相の中でただ一人、銅像になっているのが陸奥宗光である。
 なぜ、彼なのか? 銅像が建立された経緯について、外務省のHPには次のように書いてある。

「日清戦争や条約改正といった難局に、外相として立ち向かった陸奥宗光の業績を讃え、各界の基金により1907年(明治40年)、外務省内に銅像が建立されました。しかし1943年(昭和18年)、戦時金属回収により供出されました。その後、同外相の没後70周年に当たる1966年(昭和41年)に再建されました。」
   (外務省HP「http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html」)

 しかし、未曾有の難局は、陸奥の命を縮めてしまう結果ともなった。
2012年10月29日(月)
日英通商航海条約の調印(条約改正18)
 陸奥宗光(むつむねみつ。1884〜1897)外相の交渉により、日本が治外法権の撤廃に成功した最初の改正条約。税権の部分的回復も規定している。1894(明治27)年7月16日に駐英公使青木周蔵・イギリス外相キンバリー間で調印、同年8月27日公布、1899(明治32)年7月17日より実施された。イギリスを皮切りに、同内容の条約を他の国々とも次々調印した。

 日本の条約改正の求めにイギリスが応じたのは、朝鮮半島をめぐってロシアと対立を深めつつある日本を利用して、ロシアの極東進出を牽制する意図があったからである。

 条約調印後、キンバリーは青木公使と日本政府に次のような祝辞を述べた。

「此条約ノ性質タル、日本ニ取リテハ清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ寧
(むし)ロ遥(はるか)ニ優(すぐ)レルモノアリ」

 キンバリーがいみじくも語ったように、同条約が日本の国際的地位の向上に果たした役割は大きい。イギリスの好意的支持を取り付けた日本は、朝鮮半島の指導権をめぐって対立していた清国に、7月24日を期限とする最後通牒を送った。まだ宣戦布告がなされていないにもかかわらず、翌25日には豊島沖で清国艦隊を奇襲し、これを撃破した。この時、清国に雇われていたイギリス商船も撃沈させられた。しかし、この被害に関してとやかく言い立てて、日本を困らせるようなことをイギリスはしなかったのである。

 8月1日に、やっと宣戦布告がなされた。かくして日清戦争(1894〜1895)は開始された。
2012年10月28日(日)
初期議会の混乱(条約改正17)
 初期議会(第1議会〜第6議会)は混乱を極め、政府は苦境に立たされていた。専制政治を批判する反政府熱は議会にとどまらず、全国民的になっていた。1894(明治27)年3月27日付け、青木周蔵駐英公使あての陸奥宗光(むつむねみつ。1884〜1897)外相の手紙は悲痛に満ちていた。

「内国
(ないこく)ノ形勢ハ日又一日(ひまたいちにち)ト切迫シ、政府ハ到底何カ人目ヲ驚(おどろ)カシ候(そうろう)(ほど)ノ事業ヲ、成敗(せいはい。成功と失敗)ニ拘(かかわ)ラズナシツツアルコトヲ明言スルニアラザレバ、此(この)騒擾(そうじょう)ノ人心ヲ挽回(ばんかい)スベカラズ」 (井上清『条約改正』1955年、岩波新書、P.216)

 さりとて、人目を驚かす事業というのは何か。ゆえもない戦争を起こすわけにも行かない。だから「唯一ノ目的ハ条約改正ノ一事ナリ」と、条約改正に全力を注ぐことになるのだ。しかし、実際には、「人目を驚かす事業」が二つがセットになって到来するのである。それが、条約改正(日英通商航海条約調印による治外法権撤廃)と日清戦争の開始であった。
2012年10月27日(土)
大津事件(条約改正16)
 1891(明治24)年、ウラジオストクでのシベリア鉄道起工式に出席する途中、ロシア皇太子ニコライ=アレクサンドロヴィッチ=ニコライ(のちのニコライ2世)が軍艦7隻を率い日本に来遊した。大津町(現大津市)で警衛中の巡査津田三蔵は、その来日を日本侵略の下見と疑い、剣を抜いて皇太子に斬りかかった。津田はすぐさま2人の人力車夫に取り押さえられた。皇太子は頭に2カ所の創傷を負ったものの、生命に別状はなかった。

 事件に日本国中が震撼した。何せ、相手は大国ロシアの皇太子である。今、日露戦争にでもなれば、とても日本に生き延びる術はない。明治天皇は、皇太子を見舞うために京都に向かった。ロシアの報復を恐れた国民は混乱状態に陥った。皇太子への謝罪と称して、自殺する国民まで出た。国民の皇太子への見舞状は1万通を越えた。大津事件が発生した滋賀県では、知事や警部長が懲戒免職となった。

 日露関係の悪化を恐れた政府・元老らは、犯人の津田を極刑に処することで事態の収拾をはかろうとした。そこで、大審院長児島惟謙(こじまこれかた、こじまいけん。1837〜1908)に大逆罪(刑法116条)の適用を求め、また担当と判事たちに圧力を加えた。

 大逆罪というのは、天皇・大皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太孫に対して危害を加えたり、加えようとした者を死刑に処するというものである。つまり、大逆罪は日本の皇室のみが対象であって、外国の皇太子に対しては適用されないのである。

 大津地方裁判所で開かれた大審院特別法廷は、津田に刑法112条・同292条の通常謀殺未遂罪を適用し、無期徒刑(むきとけい)を言い渡した。政府の圧力を退け、「司法権の独立」を守ったのである。

 この判決に政府は頭を抱えこんだが、諸外国は妥当な判決として、おおむね好意的に評価した。司法のぶれない態度が、日本の近代国家への成長ぶりを諸国に印象づける結果となったのである。
2012年10月26日(金)
青木周蔵の改正案(条約改正15)
 青木周蔵(あおきしゅうぞう。1844〜1911)外相は、治外法権の撤廃・関税自主権回復、見返りは外国人への内地開放(ただし不動産所有権を外国人に与えない)のみという対等条約案を作成した。

 青木はまず条約改正案を政府内で種々検討し、ついで枢密院に内示して了解を得た。改正交渉が始まったのちに、閣僚や枢密顧問官から反対論が出たのにかんがみ、政府内部の意志統一をはかり、同じ轍を踏まないように用心したのである。

 交渉は国別に行い、最初に最難関のイギリスから交渉を始めた。イギリスとの交渉がうまくいかなければ、他の国とどのような妥結をみても、結局は無駄になってしまうからである。

 それまでイギリスは、条約改正には消極的だった。しかし、ロシアがシベリア鉄道の建設に着手し、極東進出に積極的な姿勢を示すと、イギリスは態度を一変させる。貿易上、たいした利益でなくなりつつある領事裁判権を固守するよりも、治外法権撤廃要求に応じて日本に恩を売った方が、イギリスにとってははるかに賢明な方策ではないのか。条約改正という好餌(こうじ)によって、イギリスは自ら労せずして、ロシアの南進を防ぐ盾(たて)として日本を利用できるのだから。

 イギリスが柔軟な姿勢を示したこともあり、交渉は順調に進んでいるかに見えた。しかし突然おこった大津事件(1891年)のため、青木は引責辞職を余儀なくされた。またもや交渉は中断されてしまったのである。
2012年10月25日(木)
ノルマントン号事件2(条約改正14)
 ノルマントン号事件について、神戸イギリス領事館庁で海事審判が開かれた。判事長ツループは「ボートに乗り移るよう勧めたが、日本人は英語を解さなかった」というウィリアム=ドレーク船長の陳述を認め、日本人乗客らを見捨てた措置に過失はなかったと結論した。

 どこの世界に「言葉がわからないから、乗客を見捨てた」という屁理屈がとおるのか。船長の厳罰を期待して事態の推移を見守っていた世論は沸騰した。世論に圧された政府は、兵庫県知事内海忠勝に船長を殺人罪で告訴させた。横浜領事庁の裁判長ジョン=ハーネンは12月8日、船長を職務怠慢の理由をもって禁錮3ヵ月に処する判決を下した。死者には1銭の賠償金も支払われなかった。

 翌年になっても国民感情の高ぶりはおさまらず、船長らの非人道的行為を非難する「ノルマントン号沈没の歌」(最初36節、事件解決後23節を追加したものという)が作られ、広く国民に流行した。

 この事件を契機に、治外法権撤廃を目指す条約改正要求の動きが一段と強まったのである。
2012年10月24日(水)
ノルマントン号事件1(条約改正13)
 ノルマントン号は、イギリス系商社アダムソン=ベル商会所有の1533トンの貨物船。もともと客船としての免許状を持っていなかったが、1886(明治19)年10月、日本人乗客25名を乗せて、横浜を出発して神戸に向かっていた。

 事故は10月24日の夜に起こった。和歌山県潮岬(しおのみさき)沖で風雨にあい、航路を誤った船は座礁してやがて沈没。船には日本人乗客以外に、イギリス人船長以下39名の乗組員(清国人3名、インド人15名を含む)が乗っていたが、船長以下乗組員29名は我先にとボートで脱出。翌25日朝、串本などに漂着した26名が救助された(残り3名は凍死)。

 こうして、見捨てられた日本人乗客25名全員と、ボートに乗れなかった乗組員10名(インド人9名を含む)が犠牲になった。結果として、有色人種が犠牲になったのである。

 さて、船長や乗組員には、乗客の救助に当たる責任はなかったのだろうか。また、逃げ出したイギリス人たちに、人種差別の意識はなかったのだろうか。
2012年10月23日(火)
佐藤進(条約改正12)
 大隈の右脚を切断したのは佐藤進(さとうすすむ。1845〜1921)。ドイツのベルリン大学医学部に留学し、日本人として初めてドクトルになった。日清戦争の講和交渉のため来日していた李鴻章が、小山豊太郎に撃たれて負傷したおり、その治療にあたったことでも知られる。

 佐藤は、常陸国太田(ひたちおおた)内堀(現、茨城県常陸太田市内堀町)で醸造業を営む高和清兵衛(たかわせいべえ)の長男として生まれた(高和家は江戸時代、「米屋(よねや)」という酒造業を営んでいた。明治の半ばに酒造業を廃業し、醤油醸造業に転換。ヨネビシ醤油株式会社の名で、現在も同地に店を構えている)。のち佐倉順天堂(千葉県)の佐藤尚中(さとうたかなか。1827〜1882)の養嗣子となり、順天堂医院で医療に従事した。

 私がかつて常陸太田市内に勤務した時、職場の玄関に佐藤進博士の書が飾られてあった。そこにあったのは「博学之審問之」の6文字。「博(ひろ)く之(これ)を学び、審(つまびら)かに之を問(と)ふ」という『中庸(ちゅうよう)』の一節だ。佐藤の学問に対する基本姿勢が伝わってくるような言葉だ。この書には「男爵 佐藤進」と署名してあったが、のち日露戦争の功績によって華族になった。

 晩年、佐藤は順天堂医院の経営を養子にまかせ、余生を母の実家がある茨城県行方郡(なめがたぐん)麻生町(あそうまち)(現在の茨城県行方市)で送った。
2012年10月22日(月)
右脚その後(条約改正11)
  大隈の切断された右脚は、その後どうなったのか? 

 くだんの右脚はアルコール漬けにして、大隈が自宅で保管していたのである。しかし、定期的にアルコールを取り替えなければならない。それが思いの外めんどうで、費用もかかった。持てあましたのち、赤十字中央病院(看護大学の前身)に寄付することにした。病院では右脚を円筒形のガラス容器に入れ、ホルマリン漬けにして保存することにした。

 1998(平成10)年、右脚はいったん大隈ゆかりの早稲田大学(大隈が創設した東京専門学校の後身)に返還された。現在は、佐賀県にある大隈の菩提寺竜泰寺(りゅうたいじ)に納められているという。
2012年10月21日(日)
失脚して失脚(条約改正10)
 1889(明治22)年10月19日午後4時頃、閣議を終えた大隈を乗せた馬車が外務省正門近くにさしかかった時、一人の男が車上の大隈めがけて爆弾を投げつけた。男の名は来島恒喜(くるしまつねき)。右翼団体玄洋社(げんようしゃ)の社員で、大隈の条約改正案に憤慨しての犯行だった。来島はその場で自殺。一方、大隈は、右脚に重傷を負ったため、大腿部下部3分の1の部位から切断せざるを得なかった。

 政府は条約改正交渉の中止を決定すると、療養中の大隈を除いて総辞職した。こうして改正交渉はまたもや頓挫した。外相の任を解かれた大隈は、「(右脚を)失脚して失脚した」といわれた。

 この時51歳の大隈は、しかし意気軒昂だった。「脚1本なくなっても、その分、からだのほかのところに栄養が回るからいい」と豪語し、その後2度目の内閣総理大臣を務め、85年の天寿を全うした。
2012年10月20日(土)
大隈重信(おおくましげのぶ。1838〜1922)の改正案(条約改正9)
 大隈案も井上案とほとんど内容は変わらない。まずは法権回復に重点をおいた。見返りに、外国人の内地雑居、外国人判事の任用、近代的な法典編纂の外国への約束などを認めた改正案を用意した。井上案と異なるのは、外国人判事の任用を大審院に限定したこと、法典に外国の承認を必要としないことなどだった。

 大隈は、井上の交渉失敗の原因が国際会議方式にあると考えた。会議場に外国一同を集めるやり方では、諸外国に結束する機会を与えてしまう。それを避けるためには、国別に交渉を進める方が得策であろう。そう判断した大隈は、秘密裏にアメリカ・ドイツ・ロシアと次々に条約を締結していった。

 改正交渉は順調に進んでいるかに見えた。しかし、イギリスとの交渉中、その内容が『ロンドン・タイムズ』紙上に暴露されてしまった。見ると、日本国民があれほど反対した井上案と大差ないではないか。

 さらにこの時には、大日本帝国憲法がすでに発布されていたため、違憲論議まで起こった。

 憲法第19条に、日本臣民は均等に文武官となる権利がある、と書いてある(「日本臣民ハ法律命令ニ定ムル所ノ資格ニ応ジ、均シク文武官ニ任ゼラレ、其ノ他ノ公職ニ就クコトヲ得」)。裏返せば、文武官になれるのは日本臣民のみであって、外国人を任命することは許されない、というのだ。国内各地に、再び猛烈な反対運動がおこった。

 こうした中、大隈案に不満をもつ国家主義者が、大隈めがけて爆弾を投げつけた(1889年10月19日)。大隈は片足を失ったが命はとりとめた。黒田清隆内閣は条約改正中止を決し、総辞職した(10月24日)。またもや改正交渉は挫折してしまったのである。
2012年10月19日(金)
井上馨(いのうえかおる。1835〜1915)の改正案(条約改正8)
 井上案の重点は、治外法権の撤廃にあった。そこで、税権は税率の引き上げにとどめることとした。しかし、諸外国がやすやすと日本の改正案を認めてくれるはずはなかった。見返りを要求されることは必至だった。

 そこで、取引きの条件として、井上は内地雑居(外国人に日本内地を開放する)、裁判所への外国人判事任用(外国人が関係する刑事事件の予審に外国人判事をあてる)、法典の予約(重要法典の公布前に外国の承認を得る)などを約束することにした。

 この間、ノルマントン号事件(1886年)が起こり、国民の対英感情は極度に悪化していった。また、井上らの推進した「欧化政策」に対する批判も厳しくなっていった。

 交渉は秘密裏に進められたが、フランス人の法律顧問ボアソナード(1825〜1910)は屈辱的な内容であるとして井上案に猛反対した。農商務大臣の谷干城(たにたてき。1837〜1911)も、井上案反対の意見書を提出して辞職した。両者の意見書は秘密出版で流布し、反対運動は全国に燃え広がった。ついに井上は辞職に追い込まれてしまった。

 しかし、世論はそれでもおさまらず、外交失策の挽回(井上案の外交失策として糾弾)等を求める三大事件建白運動がおこった。そのため、政府は保安条例(1887年)を公布し、高揚した運動の鎮静につとめねばならなかった。
2012年10月18日(木)
鹿鳴館の花(条約改正7)
 大山巌と捨松が結婚したちょうどこの頃、鹿鳴館が開館した。

 長身で美貌と才気に恵まれた捨松は、たちまち舞踏会の花形となり、「鹿鳴館の花」、「鹿鳴館の女王」などと呼ばれた。その後の捨松は、大山家の名望・財力を活かして、鹿鳴館での慈善会(バザー)開催、日赤篤志婦人会(にっせきとくしふじんかい)の設立、日露戦争での救護活動など、精力的に社会奉仕や社会活動に活躍したのである。

 しかし、「鹿鳴館の花」であるがゆえの悩みがあった。上流階級に対する人びとのねたみや反感が、捨松一人に集中してしまったのである。人力車夫との恋愛や継子いじめなど、根も葉もない噂を書き立てられ、世間の中傷にさらされた。徳冨蘆花の小説『不如帰(ほととぎす)』には冷酷な継母が登場するが、世間は捨松がモデルだと噂しあった。

 捨松の留学生仲間に津田梅子(1864〜1929)がいる。梅子は1900(明治33)年、一軒の民家に女子英学塾(現在の津田塾大学)を開き、10人の生徒たちを前にして次のような抱負を語った。

「私は日本の女子教育に尽くしたい、自分の学んだものを日本婦人にも分かちたい」

 この時、式には捨松が立ちあっていた。その後捨松は、梅子の女子英学塾の設立・運営に対して、物心両面からの援助を終生惜しまなかった。

 1919(大正8)年、親友の梅子が病に倒れた時、捨松は塾の後継者決定のために東奔西走した。そして、新塾長を決定した直後に急死。59年の波乱の生涯だった。

【参考】
・『週刊朝日百科日本の歴史96−近世から近代へG留学と遣欧米使節団−』朝日新聞社による
2012年10月17日(水)
捨松って誰? (条約改正6)
  山川捨松(やまかわすてまつ。1860〜1919)といっても、れっきとした女性である。捨松は、1871(明治4)年に渡米した、わが国初の女子留学生の一人として名高い。そもそも、幼名は咲子(さきこ)といった。「捨松」というのは母親(娘の誕生前に父親は病死)があとからつけた名前だ。「娘を捨てたつもりで帰りを待つ」との意である。こうして、12歳になる少女は船上の人となった。

 それから11年。長い留学生活を終えた捨松は、1882(明治15)年、懐かしい故郷に帰ってきた。ところが帰国早々、大山巌(おおやまいわお。1842〜1916)から山川家に対し結婚の申し入れがあった。才色兼備の捨松に、大山が一目惚れしたのである。大山は陸軍の建設につとめ、長州の山県有朋と並ぶ薩摩派の第一人者だった。1885(明治16)年以降6代連続で陸軍大臣をつとめ、のち元老となる。

 しかし、山川家はこの申し出に難色を示した。大山は初婚でなく、捨松より18歳も年上で3人の子持ちだった。また、旧会津藩士山川家にとっては仇敵薩摩藩の出身で、捨松らが会津鶴ヶ城に籠城した折りに砲撃を指揮した敵方の砲兵隊長が大山自身だったのである。

 だが、度重なる説得に根負けした家族は、結婚の最終判断を捨松本人に任せることにした。大山は明治維新後、フランス留学の経験があった。同じ留学生であった捨松とは気が合うところがあったのだろう。ついに捨松は大山の求婚を承諾したのだった。
2012年10月16日(火)
Shall we dance?(条約改正5)
 鹿鳴館に諸外国の貴顕・淑女を招いて社交ダンスをすることになった。しかし、社交ダンスをやった経験者がほとんどいない。外国生活を送った洋行帰りが、それほど多くなかった時代のことである。そこで、ドイツ人ヤンソンを指導者に招き、毎週月曜日にダンスの練習会を行うことにした。ただし、ヤンソンの本業は獣医学だったのだが。

 「紳士」の方はともかくも、ダンスを踊ることができる「淑女」の数が足りなかった。そこで、さまざまな身分の女性をかき集めて洋装させ、やっと人数を揃えた。芸妓などが多かったという。フランス人画家のビゴーは、ダンス練習の休憩時にタバコをふかす、お行儀があまりよくない女性たちのスケッチを残している。

 だから、こんなこともあった。鹿鳴館で開催されたあるパーティでのこと。背後がぱっくり開いたイヴニングドレスを着た婦人の背中に、点々と二列縦隊になっているマークがあった。それを見つけて外国人が、好奇心をおさえきれず、次のような質問をしたという。

「背中のマークは、貴婦人のしるしでしょうか?」。

 二列縦隊のマークとは? もちろん、お灸をすえた痕である。 
2012年10月15日(月)
鹿鳴館(条約改正4)
 欧化政策の象徴とされる鹿鳴館(ろくめいかん)。1883(明治16)年11月、東京日比谷に開館した官営国際社交場である。

 設計は工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教官ジョサイア=コンドル(1852〜1920。コンドルはオランダ風の読み方。英語の発音はコンダーの方が近い)。政府によって招聘(しょうへい)された「御雇い外国人」の一人。1877(明治10)年、24歳の新進建築家としてイギリスから来日したのである。

 鹿鳴館はルネッサンス風の2階建て煉瓦造りの建物。建坪410坪に総工費18万円を費やした。屋根は中央部にフランス瓦、他は桟瓦(さんがわら)で葺(ふ)き、ベランダにはイスラム風のとっくり状の柱を並べた。内部は大小十数の部屋があり、社交ダンスが行われた有名な舞踏室は2階にあった。建物の造りが悪いためか、ダンスの際には舞踏室の板張りの床がゆらゆら揺れた。「床が抜けるのではないか」と冷や冷やしていた外国人賓客もいたという。

 こうして鹿鳴館では、連日のように舞踏会、慈善会(バザー)などが催された。しかし、鹿鳴館が社交場として利用されたのは、1883(明治16)年から1886(明治19)年までのわずか3年間にすぎない(鹿鳴館時代)。欧化政策を推進した井上馨外相が失脚したからである。
2012年10月14日(日)
欧化政策(条約改正3)
 条約改正交渉がなぜ失敗するのか? それは、諸外国が日本を相変わらず未開の遅れた国と認識しているからに他ならない。それなら、日本の近代化がここまできているということを諸外国にアピールして、条約改正を促進すべきだ。このように考えた明治政府は、あらゆる方面での西欧化を推進した。こうした一連の政策を「欧化政策」という。

 それはまず、上流階級から始まった。その代表が鹿鳴館(ろくめいかん)での社交ダンスだった。ついで、衣食住など各分野にわたる改良運動が展開したが、中には「国字を廃止してローマ字にせよ」、「欧米人と結婚して人種改良せよ」などといった極端な提案も堂々と主張された。かようなヨーロッパの風俗・習慣等の皮相的な導入は、外国人の目から見れば滑稽な「猿真似」、日本人の目から見れば軽佻浮薄な伝統破壊と映った。

 内田魯庵(うちだろあん。1868〜1929)はこの時代を回顧して、次のように書いている。

「一時は世を挙
(あ)げて欧化の魔術にヒプノタイズ(注:hypnotize(英語)。催眠術をかける、の意)されてしまった。が、暫(しばら)くして踊り草臥(くたび)れて漸(ようや)く目が覚めると、苦々しくもなり馬鹿々々しくもなった。この猿芝居は畢竟(ひっきょう)するに条約改正のための外人に対する機嫌取(きげんとり)であるのが誰にも看取されたので、かくの如きは国家を辱(はず)かしめ国威を傷つける自卑自屈であるという猛烈なる保守的反動を生じた」
(内田魯庵『四十年前−新文学の曙光−』1925年−青空文庫による。底本は内田魯庵『新編 思い出す人々』1994年、岩波文庫−)

 時代は、松方デフレーションの嵐の中にあった。民衆が疲弊に喘ぎ、自由党による過激事件が頻発していた頃である。こうした人びとをかえりみず、また一般民衆生活から遊離した欧化政策は、各方面からの激しい批判にさらされた。
2012年10月13日(土)
お金より大事なもの(条約改正2)

  外務卿の寺島宗則(てらしまむねのり。1832〜1893)の条約改正案は、関税自主権の回復に主眼が置かれた。

 税権が回復できなければ、本来日本に入ってくるはずの税収は失われたままである。1876(明治9)年には三重や茨城などで大規模な地租改正反対一揆が起こり、政府は地租を3%から2.5%に減額せざるを得なかった。地租軽減の結果、減少した歳入を補うために、税権回復は急務とされていた。

 また、外国製品の輸入超過のため、国内産業が圧迫されていた。国内産業を保護するためには外国製品に高い輸入関税をかけて、その流入を防がねばならないのだ。

 アメリカは寺島案に同意した。1878(明治11)年7月には、日米関税改定約書の取り交わしにまでたどりついた。しかし、結局はイギリスとドイツの反対にあって失敗してしまうのである。

 こうした時期に、アヘン密輸事件が起こった。横浜在留のイギリス人ジョン=ハートリー(ジョン=ハルトレー)という男が、1877(明治10)年に生アヘン20ポンドを密輸しようとして税関に摘発された事件である(ハートリーは性懲りもなく、翌年にも吸煙アヘンを密輸しようとして摘発されている)。税関は横浜英国領事裁判所に訴えた。

 幕末に結ばれた通商条約の中には、貿易品にアヘンは厳禁と明確にうたわれていた(日英条約附属貿易章程第二則)。ところが、領事裁判所は「生アヘンは薬用であって条約に違反しない」と強弁して、ハートリーを無罪にしたのである。

 その頃、外国商人の密輸によって、わが国民の間にアヘンが広がりつつあった。識者はこれを「コレラよりも恐ろしい」としていたほどだったので、治外法権に憤慨する世論が沸騰した。

 アヘン密輸事件は、税収の問題よりも、まずは治外法権の撤廃が先決だ、という印象を人びとに植えつけた。こうして、条約改正交渉の重点が、関税自主権の回復から治外法権の撤廃へと移っていくことになった。

2012年10月12日(金)
なんと岩倉(条約改正1)
 日本が幕末に諸外国から押しつけられた不平等条約。わが国に関税自主権がなく、諸外国の治外法権を認めた屈辱的なものだった。

 この不平等条約の最初の改正交渉(予備交渉)に臨んだのが、いわゆる「岩倉使節団」だった(1871〜73)。右大臣の岩倉具視大使のもと、副使に伊藤博文(工部大輔)・大久保利通(大蔵卿)・木戸孝允(参議)・山口尚芳(外務少輔)ら政府のそうそうたるメンバーが加わった。総勢46名に随従者18名、留学生43名まで含めると、計107名を越す規模になった。わが国初の女子留学生5名が参加したのも、この時である。こうして、1871(明治4)年11月、「海に火輪(かりん)を転じ」て横浜港を出発した。

 しかし、彼らの国際的な外交デビューは苦いものだった。各国各地で歓待されるものの、それは極東からの珍奇な客だったからだ。初めての外国経験でのてんやわんやの失敗話は、枚挙にいとまないが、今から見ればご愛敬の笑い話だ。しかし、特命全権大使でありながら全権委任状がないという失態に気づいてあわてて本国に取りに戻るなど、予備交渉の方はさんざんな結果だった。対米交渉が不調だったため、途中から欧米視察に切りかえた。1年10カ月にアメリカ・イギリス・フランス・ベルギーなど12カ国を歴訪。各国の近代的な制度・文物等を調査して、1973(明治6)年9月に帰国した。

 口さがない江戸っ子は、「条約は結び損(そこな)い金は捨て、国へ帰ってなんと岩倉」と悪態をついた。しかし、枢密顧問官の金子堅太郎は、岩倉使節団の意義を、後年、次のように述べている。

「頑固なこの大官連の世界漫遊が、その後どれだけ日本の文明を促進したことか。小因大果という言葉があるが、実に明治文明の基礎はこの洋行によって作られたように私は思っている」    (東京日日新聞社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、P.106)
2012年10月11日(木)
『令義解(りょうのぎげ)』(塙保己一6)
 『令義解』は、清原夏野(きよはらのなつの)らがまとめた養老令(ようろうりょう)の官撰注釈書。833(天長10)年に完成した。江戸時代に、保己一が校正・出版したことで普及した。現在は、『改訂増補国史大系』の中に収められているので、図書館などで見ることができる。

 保己一は、現在の埼玉県児玉町の出身。同じ埼玉県の出身者に荻野吟子(1851〜1913。、妻沼町の出身)がいる。吟子は、わが国が近代になってからの女医第1号である。

 吟子は最初の夫から性病をうつされた。当時は男性の医師しかいなかったため、治療するにも、異性の前に患部をさらす屈辱に耐えなければならなかった。吟子は同じような境遇の女性を救うため、女性の医師を目指したのである。

 しかし、世間の壁は厚かった。上京して医学校で刻苦勉励したものの、「女医の前例がない」との理由で医業開業試験の受験を拒否されたのである。いったんは絶望したものの、吟子はかつて学んだ『令義解』の中に女医の記載があったことを思い出した。これが「女医の前例」の根拠となり、医師免許の受験規則が改正されることになった。そして、吟子は1885(明治18)年、ついに試験に合格したのである。

 『令義解』が、奇しくも同郷の二人を結びつけていた。
2012年10月10日(水)
奇跡の人(塙保己一5)
 昭和12(1937)年、東京渋谷にある鉄筋コンクリート造りの建物を、ある外国人女性が訪れた(この頑強なビルは、のちの東京大空襲からも、内部の資料群を守り抜いた)。そのビルに収蔵されている『群書類従』の板木を1枚1枚いとおしそうになで、また保己一の銅像や和学講談所で保己一が愛用した机をしみじみとさすって彼の偉業を偲(しの)び、次のように述べたという。

「私は子供のころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日、塙先生の御像に触れることができたことは、日本における最も有意義なことと思います。学者の手垢の染みた御机と、頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えました。先生の御名は、流れる水のように永遠に伝わることでしょう。」

 彼女の名はヘレン・ケラー。サリバンやヘレンばかりが「奇跡の人」ではなかった。
2012年10月9日(火)
400字詰め原稿用紙(塙保己一4)
 『群書類従』の板木は山桜材で縦230mm、横470mm、厚さ15mm、重さは1.5kgある。板木枚数は両面刷りで17,244枚。両面刷りであったため、保存の時に板木同士が重なって文字面に傷がつかないように、板木の両端には「はしばみ(端喰)」という添え木が取り付けられている。「はしばみ」は板木の文字面を保護するばかりか、板木をゆがみ、反り、ひび割れから守る役割も果たしているという。

 板木の片面には草書体または楷書体で、20文字が10行2段にわたって彫られている。したがって、文字数は20文字×10行×2段=400字となる。現在、われわれが使っている原稿用紙が400字詰めなのは、これにならったものだという。

【参考】・塙保己一史料館HP(http://www.onkogakkai.com/gunshoruijyu_hangi.htm)
2012年10月8日(月)
『群書類従』(塙保己一3)
 学問に精励する中、保己一は国学の実証主義と文献重視の思想に傾倒し、各地に散在する古文献の収集・編纂を思い立つ。これを『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』という。

 書名は『三国志』の「五経(ごきょう)群書(ぐんしょ)類(るい)を以(もっ)て相(あい)従う」によったという。全体を25部門に分け、所収書目1276種、全666冊(うち目録1冊)、総丁数(ちょうすう)3万3831丁の一大古典籍叢書(そうしょ)であり、安永8(1779)年に編纂に着手、天明6(1786)年に刊行を開始してから33年後の文政2(1819)年に全冊の板木が完成した。板木は吉野桜材で1万7244枚(現存。重要文化財)にものぼり、そのほとんどが表裏両面を用いている。その板木彫刻代だけでも5619両3歩(現在の金額で10億円をはるかに越えるという)を費やした。完成の2年後、『群書類従』の続編を企図しつつ保己一は76歳で死去する。まさしく全生涯を打ち込んだ仕事であった。

 貴重な書籍の散佚(さんいつ)を防ぎ、古典籍活用の道を広げ、国文学、歴史学、風俗学等、現在までどれほど多くの人々がその恩恵に浴してきたか、はかり知れない。

 『群書類従』は現在は活字本が出ている。しかし、東京渋谷にある社団法人温故学会(おんこがっかい)に書目を伝えて分冊注文すれば、保己一の作らせた板木から職人が摺立てて、和本に製本して送ってくれる。現在でも、保己一が手にした本と、同じ板木から刷った本を手にすることができるのだ。

【参考】・紀田順一郎『日本の書物』1979年、新潮文庫
     ・紀田順一郎『日本博覧人物史 データベースの黎明』1995年、ジャストシステム
     ・塙保己一史料館HP(http://www.onkogakkai.com/)
2012年10月7日(日)
雨富検校(塙保己一2)
 千弥には、当時の盲人の職業であった按摩・鍼術(しんじゅつ)・音曲等についての才能はまったくなかった。しかし、記憶力は常人にすぐれていた。

 千弥の学問好きを見抜いたのは雨富検校だった。そこで雨富は、千弥に次のように言ったという。

「人には才能というものがある。これから3年間、盗みと博打以外は何をしてもよい。自分の好きな道に精進せよ。3年間でものにならなかったら、その時は帰郷せよ」。

 これ以後、雨富検校は千弥を励まし続け、あらゆる面において彼への援助を惜しまなかった。こうして千弥は、賀茂真淵ら多くの学者から国学、故実、歴史、医学などを学び、大いに学問に精励することになった。

 千弥は宝暦13(1763)年に保木野一(ほきのいち。出生地の地名保木野村によったものか)、安永4(1775)年に保己一(『文選(もんぜん)』の「己を保ち百年を安んず」に由来するという)と名を改める。都名(いちな。座頭が名乗る名前。都・市・一などの文字を用い「○○一」と名乗る)を保己一と改めた際、在名(ざいめい。住所の地名をつけた名)を塙としたが、これは彼の生涯の恩人雨富の本姓を貰ったものである。

 保己一は、畢生(ひっせい)の大業『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』正編を完成させると、76歳で死去した。その墓所は愛染院(東京都新宿区)にある(保己一の墓は最初安楽寺にあったが、明治時代に廃寺となったため、隣の愛染院に改葬された)。

 保己一の墓に寄り添うようにたつ五輪塔は、雨富検校の墓と伝えられている。
2012年10月6日(土)
才能のない人(塙保己一1)
 「才能がない」ことによって、新たな才能を開花させた人がいる。

 塙保己一(はなわほきいち。1746〜1821)は延享3(1746)年、武蔵野国児玉郡保木野村(むさしのくにこだまぐんほきの。現埼玉県児玉郡保木野)に父荻野宇兵衛(おぎのうへえ)、母きよの子として生まれた。父・母とも農家の出身である。

 寅(とら)年の生まれだったので、幼名を寅之助(とらのすけ)と称した。生来病弱で、7歳の時肝(かん)の病(やまい)で失明。厄(やく)ばらいのため2歳年を減じて辰之助(たつのすけ)、また行者(ぎょうじゃ)に弟子入りすれば回復するという人の言葉を信じて多聞坊(たもんぼう)と改名するなどした。しかし、両親の願いむなしく、その目が開くことは二度となかった。

 その頃は、失明した人びとは、按摩(あんま)や鍼術(しんじゅつ)・音曲(おんぎょく)などで生計をたてるのが常だった。そこで、15歳の時、わずか24文の銭を懐(ふところ)に入れて江戸へ出、雨富検校須賀一(あまとみけんぎょうすがいち)という師匠のもとに弟子入りし、名を千弥(せんや)と改めた。

 しかし、雨富のもとで按摩・鍼術・音曲等を習うものの、この方面についての才能は全くなかった。千弥自身、我が身の不器用さにほとほとあきれ果て、その情けなさから自殺まで考えたという。

 こうした「才能のない」千弥を絶望の淵から救ったのは、師匠の雨富検校だった。 
2012年10月5日(金)
地震除けのお守り(安政江戸地震4)
 筑波大学附属図書館に所蔵されている鯰絵の1つに、地震を起こした4匹の鯰たち(それぞれ江戸地震・信州地震・越後地震・小田原地震をあらわしたもの)が深川恵比寿の宮の前にかしこまり、詫び証文に判を押している図がある(http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/picture/others/lime/namazu-9/namazu-9.html)。そこに描かれている鯰たちは揃(そろ)いの紋付きの羽織を着ている。その家紋を見ると、4匹ともすべてヒョウタンになっている。さらに、鯰が詫び証文におした印形(いんぎょう)もヒョウタンだ。

 おそらくは「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」から来ているのだろう。「瓢箪鯰」といえば、室町時代の如拙の禅機画「瓢鮎図(ひょうねんず。鮎はこの場合、ナマズの意)」が思い浮かぶ。「ヒョウタンでぬるぬるした鯰を捕まえるにはどうすればよいのか」という禅宗における有名な公案(禅問答)の一つだ。

 ヒョウタンの印形については注記があって、「この判は彼奴(きゃつ。鯰たちのこと)が證文の印形なれバ、これを懐中(かいちゅう)する者ハ地震の難(なん)を免(まぬかる)」とある。当時の人びとは、地震の難除けのまじないに、瓢箪を描いた紙を懐(ふところ)に入れていたのだろうか。
2012年10月4日(木)
鯰絵(安政江戸地震3)
 安政江戸地震の直後に、鯰(なまず)を描いた大量の浮世絵版画が出版された。瓦版の一種であるこれらの出版物を鯰絵(なまずえ)という。地中の鯰が暴れて地震を起こす、という民間信仰がその土台にある。

 この鯰絵によく登場するのが常陸国(ひたちのくに。現在の茨城県)の鹿島神宮だ。鹿島神宮の境内には要石(かなめいし)という地面の中から少しばかり顔をのぞかせている石がある。かつて徳川光圀が要石の地中にある部分の大きさを確かめるために、七日七晩周囲の土を掘り起こさせたという伝説がある。しかし、地中にある部分が思いの外大きくて掘りきれず、とうとうあきらめたのだという。この要石が、鯰の頭をおさえて、地震を封じているという俗信があるのだ。地震の責任はそもそも鯰にあるのだが、今回の大地震によって、鹿島神宮の面目は丸潰れになった。

 鯰絵には、地震を起こした鯰が神々に詫びを入れている図や、責任を取って切腹し、その腹の中から大判小判があふれ出ている図など、さまざまなバリエーションのものが描かれた。鯰は地震という災厄をもたらす一方、世の中を一新する「地新」、すなわち「世直し」をもたらすものとして描かれている。


☆10月4日はナマズでなくて、1・0・4でイワシの日だそうだ。 昔は関西人がわれわれ関東人を馬鹿にして、「関東の人間は肥料なんか食っている(江戸時代、鰯は大量に捕れたので、干して肥料にした)」なんて言ってた時代もあったというけど、イワシは栄養もあるし美味しいよね。紫式部も好物だったっていうし。
2012年10月3日(水)
藤田東湖の死(安政江戸地震2)
 水戸藩に「水府(すいふ。水戸藩のこと)の二田(両田)」と並び称された人材がいた。戸田蓬軒(とだほうけん)と藤田東湖(ふじたとうこ。1806〜1855)の二人である。ところが、二人とも、安政江戸地震で圧死してしまった。

 特に東湖は水戸藩第9代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の懐刀(ふところがたな)といわれた人。豪放磊落(ごうほうらいらく)な人柄で学識も高かった。尊王攘夷派の指導者的地位を占め、多くの人びとから一目置かれていた。そのため、その突然の死は惜しみ嘆かれるとともに、その死の直後からたちまち伝説となって世上に広まった。

 私がかつて聞いた東湖の最期の有様は、次のような話だった。東湖はいったん老母と外に逃れたものの、母親が火の始末を確認するために屋内に戻るという。東湖も母親を追って屋内に戻ったその時、大きな揺れ戻しがあった。東湖は老母をつかむと庭先に投げ出したが、落ちてきた梁に脳天を砕かれた圧死してしまった。

 しかし、事実はそうではなかったという。東湖の遺族を弔問した人物の記録によると、東湖は姿の見えない老母を案じてぐずぐずためらっていたところを押しつぶされてしまったらしい。老母は戸外に逃げ出していて助かっていた。東湖が日頃から忠義に励んでいたので、このような伝説が生まれたのだろうという(野口武彦『安政江戸地震−災害と政治権力』1997年、筑摩書房(筑摩新書)、P.101〜102)。
2012年10月2日(火)
首都直下型地震(安政江戸地震1)
 安政2(1855)年10月2日の夜半、「将軍のお膝元」である江戸をマグニチュード6.9の直下型地震が襲った。現代風に言うならば、首都直下型地震である。

 この地震の特色は、被害地域が局地的であるとともに、被害規模が甚大だったことにある。死者は記録が残る町方だけで4000余、武家は不明だが同数かそれ以上、焼失家屋等は1万4000戸と推定される。それでも、山手の台地は比較的安泰で、低地の被害がひどかった。たとえば、御三家のうち紀伊と尾張の両徳川家は、赤坂・麹町台地に上屋敷を構えた。両徳川家の上屋敷に限って言えば、門や屋敷は大破したものの、死傷者は出ていない。一方、水戸藩邸は本郷台地と小日向台地の間の谷合の低地に建てられた。河川が旧日比谷入江(かつては海)に流れ込む沖積平野上である。水戸屋敷は大破した上、負傷者84名、死者46名(または48名とも)の被害を出している。地盤が軟弱だったので、被害が激甚だったのだ。
2012年10月1日(月)
蒲柳(ほりゅう)の質
 志筑忠雄(しづきただお。1760〜1806)は本姓を中野、通称忠次郎、字を季飛、号を柳圃(りゅうほ)といった。のちには本姓に戻り、中野柳圃とも称した。

 志筑は養子先の姓である。志筑家は阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)を務める家の一つだった。よって忠雄も阿蘭陀稽古(けいこ)通詞(阿蘭陀通詞の職階の一つ)となり、蘭書の翻訳等にあたった。しかし、元来多病で、いつも家では床に横になっていることが多かったという。いわゆる蒲柳の質だったのである(蒲柳はカワヤナギのこと。からだがひ弱で病気にかかりやすい体質のこと)。のち、病を理由に職を辞し、以後は世人との交わりを絶って、蘭書研究に没頭したという。そのため、志筑忠雄の経歴については、不明な点が多い。

 しかしその著作は、翻訳の域を超えて、さまざまな独創的な知見が見える。

 まず、オランダ語学習については文法の必要性に着目し、『阿蘭詞品考』を著した(伝存せず)。『阿蘭詞品考』は簡単な文法ノートではあったが、それまでの口伝え中心のオランダ語学習が、ようやく外国語学習らしい体裁をととのえたのである。

 次に、イギリス人ケール(オックスフォード大学教授)の天文物理学の入門書の蘭訳本(オランダ人ヨハン=ルロフス訳)を抄訳して『暦象新書(れきしょうしんしょ)』を著した。従来、天文学を研究するのは、暦作成の手段の一つだった。それを忠雄は、ニュートンの万有引力説や地動説を日本に紹介したにとどまらず、天文学を一個の学問として研究し、星雲説など独創的な見解を示したのである。また、重力、加速、求心力、遠心力など、現在でも使われる学術用語を造語した。

 また、ケンペルの『日本誌』を抄訳した『鎖国論』は、「鎖国」の語の初出として有名である。

 こうした異色な業績を挙げつつも、忠雄の寿命は数え47歳で燃え尽きてしまったのである。

【参考】
・吉田光邦『江戸の科学者たち』1969年、社会思想社(現代教養文庫)、P.154〜156


☆台風一過の青空。気温は31℃まで上昇。9月上旬の気温で、10月に30℃を超えるのは7年ぶりとか。衣替えだけど、半袖が多い。それでも暑くて汗だく。
2012年9月30日(日)
カード式情報処理の元祖(菅原道真)
 律令国家の国史編纂事業は、いわゆる「六国史(りっこくし)」を生み出した。

 しかし、六国史の記載方法は、我々が書く日記と同じように、発生した事柄を時系列的に古いものから新しいものへと単純に羅列した編年体だった。だから、たとえば「土地に関する法令にはどのようなものがあったのか」を調べたいと思った時には、史料集のページを一枚一枚めくりながら目的の史料を探し、探し当てるたびにノートにそれら原文を抜き書きしていかなければならなかった。六国史の索引やコンピュータのデータベースが現れるまで、研究者の多くは、そうやって自分自身のデータベースを構築していたのである。

 道真は、中国の『芸文類聚(げいぶんるいじゅう)』などの類書(事項別にそれに関する書籍を引用したもの)に倣い、それまでに完成していた五国史(『日本書紀』〜『日本文徳天皇実録』)から原文を紙片に抜き書きし、それらを神祇・帝王・人・歳時など部門別に編集し直した。こうして完成したのが『類聚国史(るいじゅうこくし)』である。今から千年以上も前に、道真はカード式の情報処理を採用していたのだ。

 『類聚国史』の「類聚」という発想が後世に及ぼした影響を、平凡社版『世界大百科事典』は次のように記している。

(類書という考え方は)後の塙保己一の『群書類従』、明治政府の『古事類苑』などに通じる類書的発想、ひいては今日の情報管理の原則たる知りたい知識情報そのものへの接近を可能ならしめる工夫である索引、抄録の思想につながるものである。それはまた史料編纂所の大事業『大日本史料』編纂にも受け継がれている」(「図書館」の項目。小野泰博氏執筆)

 
ただし、『類聚国史』という便利な部門別史料集の出現により、六国史の原典利用は廃れてしまった。その便利さゆえ、原典に当たるという良心的作業がないがしろにされ、平安時代、六国史の利用は『類聚国史』の孫引きという形がもっぱらとされた。

☆今日は十五夜。でも台風17号の関東地方直撃で空は真っ暗。お月見はお流れとなりました。
2012年9月29日(土)
南方熊楠2
 熊楠が語った御進講の有様を、岡茂雄が思い出話に書いている。


 翁が緊張しつつも、持参の標本について、いちいち陛下に説明申し上げたというお話のうちに、「君にも見せた、あの惚れ薬の標本な、あれもごらんに入れて御説明申し上げたら、天皇陛下はなあ」といって、翁は机の上に両手をひろげてつき、机の表面をフンフン嗅ぎまわすようなしぐさをなさりながら、「こういうことをなさった。妙なことをなさると思うていたが、あとでお付きの人の話だと、天皇陛下はお笑いをこらえていなさったのだそうだ。天皇陛下のような、えらーいお方になると、人の前で笑ったり怒ったりしなさってはいかんもんだそうだな」と、にこりともせず、むしろ、さも感じ入ったという面持ちをなされた。
(岡正雄『本屋風情』1983年、中公文庫、P.50〜51


 最後に熊楠は、粘菌標本を天皇に献上した。通常献上品は桐箱に入っているものだが、熊楠はマッチ箱に入れた110種の標本を、森永ミルクキャラメルのダンボール製空箱に納めて献上したという。

 昭和天皇は、熊楠のことがよほど印象深かったのだろう。1962(昭和37)年5月、33年ぶりに白浜に行幸された昭和天皇は、白浜の宿所から神島(かしま)を眺めて、次のように詠まれた。

   雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を想ふ

 これは昭和天皇が民間人を詠んだ最初の和歌である。熊楠が亡くなってから21年が経っていた。

【参考】・南方熊楠記念館ホームページ
     (http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/life.htm)
     ・鶴見和子『南方熊楠』1978年、講談社学術文庫、P.162〜165
     (文献によって、事実や数値に関して、若干の相違がある。
)

☆9月29日は日中国交正常化40周年の記念日。よりによって友好を再確認する記念の年に、尖閣問題をめぐって、両国間の関係がこんなにぎくしゃくしてしまうことになろうとは、誰しも想像できなかったろう。多くの人たちの努力の上に積み重ねられてきた日中の信頼関係が、もろくも崩れ去ってしまうのは悲しい。
2012年9月28日(金)
南方熊楠1
 南方熊楠(みなかたくまぐす。1867〜1941)は民間の生物学者(特に菌類)、民俗学者。語学に堪能で、19カ国語を操ったといわれる。若い頃より博覧強記の人で、イギリスの科学雑誌『ネイチャー』に掲載された論考数約50本は日本人の最高記録となっている。肩書きを嫌い、言動が奇抜で人並みはずれていたため、多くの逸話を後世に残した。

 1929(昭和4)年6月1日、昭和天皇が南紀に行幸された時のことである。田辺湾神島(かしま)沖のお召し艦長門の艦上において、フロックコートに身を包んだ62歳の南方熊楠は、和歌山県の植物分布の大略と粘菌について昭和天皇に御進講を行った。無位無官の民間人による御進講は前例がなかった。25分間予定の御進講は、天皇の希望により5分間延長されたという。
2012年9月27日(木)
目黒のさんま
 秋の味覚の代表であるさんま。しかし、油をとる以外はほとんど利用されなかった。食用としては下等のものだったのだ。追々庶民が食べ始めるのは江戸時代も半ばになってからであり、それでも下賤な食べ物として、旗本などの食事には出されなかったという。だからこそ、さんまのことなどご存じないお殿様を主人公にした「目黒のさんま」という落語が成立するのである。


 さっそく日本橋魚河岸から最上等のさんまをとりよせたのですが、このように脂の多いものをさしあげて、もしもおからだにさわっては一大事というので、十分に蒸して、小骨なんかは毛抜きでぬいて、さんまのだしがらみたいなものをこしらえあげました。 
( 中 略 )
「うーん、このにおいはまさしくさんまじゃ。これ、さんまよ、恋しかったぞ」
 殿さま、感涙にむせんで一と口めしあがったのですが、蒸して、脂がぬいてあるぱさぱさのさんまですから、どうしたっておいしいはずがありません。
「これがさんまか?」
「御意」
「ふーん……して、このさんま、いずれよりとりよせたのじゃ?」  
「ははあ、日本橋魚河岸にござります」
「あ、それはいかん。さんまは目黒にかぎる」

              
(興津要編『古典落語(上)』1972年、、講談社文庫、P.375〜376)
2012年9月26日(水)
子ほめ
  ある時、浜田耕作(青陵)と小川琢治が、浜田の考古学教室で互いに子ほめをした。まだ学生か学校を出て間もない自分の子どもたちを、笑いもせずにほめていたという(岡茂雄『本屋風情』、1983年、中公文庫、P.170〜171)。

 他人から見れば、相当な親馬鹿だ。何しろ、子ほめといえば、普通は他人の子どもをほめるものだ(落語の『子ほめ』も、他人の赤ん坊をほめている)。

 しかし、当事者はあの浜田先生と小川先生なのだ。浜田耕作は、「日本近代考古学の父」とまでいわれた考古学者。小川琢治もまた高名な地質学者であり地理学者。

 その後、それぞれの子どもたちは学者になった。浜田の息子の稔(みのる)は植物学者、淳(あつし)は日本語学者。小川の長男小川芳樹(よしき)は冶金学者、次男貝塚茂樹(しげき)は東洋史学者、三男湯川秀樹は物理学者(またわが国初のノーベル賞受賞者でもある)、四男小川環樹(たまき)は中国文学者。

 両先生とも、わが子を冷静に評価した結果の「子ほめ」だったのだ。
2012年9月25日(火)
文章上達の秘訣(本を読む時は4)

 中国北宋時代の政治家・文人だった欧陽脩(おうようしゅう。1007〜1072)。彼は、文章上達に必要な三つの条件として、「三多(さんた。三つのことを多く行うこと)」を挙げている。すなわち、看多(かんた)、做多(さた)、商量多(しょうりょうた)である。看多とは多くの本を読むこと、做多とは多くの文を作ること、商量多とは推敲に推敲を重ねることである。

 まずは本を読むことによって知識を獲得し、思考を深め、自らの見識を持たなければ、文章を書く材料や方向性は得られない。もちろん、さまざまなことを経験することも大切だ。耳を傾けたい価値ある意見は、しばしば実体験に寄り添ったところから生まれる。しかし、一個人が短い人生の間に経験することは限られている。しかも、多くの人びとに共感され得る経験を、誰しもができるわけではない。それに対し、本は時空を超えて、超一流の思想家・哲人・科学者らの多種多様な経験・意見・英知等に触れさせてくれるのだ。

 あとは実際に書きまくること、工夫に工夫を繰り返して推敲すること。これが文章上達の秘訣だというのだ。

 欧陽脩はまた「三上(さんじょう)」ということも言っている。文章を練るのに最もよく考えがまとまるという三つの場所だ。すなわち、馬上・枕上・厠上(しじょう)である。乗物に乗っている時、寝床にいる時、そしてトイレの中にいる時。

【参考】
・外山滋比古『思考の整理学』1986年、筑摩書房(ちくま文庫)

2012年9月24日(月)
著述を心がける(本を読む時は3)

 本を読む時は、どれほど詳細に見てやろうと思っても、集中力には限りがある。実際、1冊の本を読み終えても、頭の中に何も残っていないことがある。目では字面を追ってはいるものの、知らず知らずの間に集中が途切れ、思考が停止しているのだろう。だから宣長は言う、「読書をする時は、自らその本を注釈するつもりで読むべきだ」と。

「みずから物の注釋
(ちゅうしゃく)をもせんと、こゝろがけて見るときには、何(いず)れの書にても、格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也。されば其心ざしたるすぢ、たとひ成就はせずといへども、すべて學問に大にuあること也、是(これ)は物の注釋のみにもかぎらず、何事にもせよ著述をこゝろがくべき也。」(本居宣長『うひ山ふみ』−本居宣長著・村岡典嗣校訂『うひ山ふみ・鈴屋答問録』1934年、岩波文庫、P.42〜43−)

 通り一遍に読んだ本は、内容はおろか書名・著者名も忘れてしまっている。さらには、読んだことすら忘れて、同じ本を2冊、3冊と買ってきてしまう始末。しかし、辞書を引き引き書き込みしながら読んだ本は、数十年たった今でも覚えている。

2012年9月23日(日)
「歩く百科事典」と呼ばれた人(本を読む時は2)
 本を丸々一冊を、書き写しながら読むことも珍しくなかった。中には、本を一字一句すべて暗記して、記憶の中から丸々百科事典のコピーを作り上げた人もいた。粘菌の研究で有名な生物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす。1868〜1941)の子ども時代のエピソードだ。

 寺島良安が書いた『和漢三才図会』という本がある。105冊から成る、江戸時代の百科事典だ。10歳ばかりの熊楠少年は、それが読みたくてたまらない。よそのうちにあることがわかり、そこで借覧の許可を得た。熊楠少年は数ページずつ暗記し、帰宅してからその内容を書き出すという作業を毎日繰り返した。完成するのに5年かかったという。この間にも『本草綱目』、『大和本草』などを筆写し、12歳前には完成させていた。

 熊楠が生涯実行した読書法は、筆写だった。「読むというのは写すこと。単に読んだだけでは忘れるが、写したら忘れない」を信条とした。

 「歩く百科事典」と呼ばれた熊楠の博覧強記は、こうして生まれたのである。

【参考】
・南方熊楠記念館ホームページ
  (http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/life.htm)
2012年9月22日(土)
「書は誦(しょう)を成さざるべからず」(本を読む時は1)
 新聞や雑誌には、よく速読法の広告が載っている。忙しい現代社会では、速読法に対する需要があるからなのだろう。しかし、1日に何十冊読んだ(?)からといって、本当にその人の血肉になっているのだろうか。

 先人たちは、できるだけゆっくり読め、と教える。

 江戸時代、内容の軽い草紙類に対し、精神の栄養になったり真理を説いたりする書物は「物の本」と呼ばれた。「物の本」には、見たことのない漢字や難解な用語・理論で書かれたものが多く、5回、10回と読んでもなかなか頭に入ってこなかった。とても速読できるものではない。

 そもそも本は貴重品だった。だから、先人たちは大切に本を読み、また暗記するくらいに徹底して読んだ。事実、中国北宋の儒学者で政治家でもあった司馬光(1019〜86)は、「書は誦(しょう)を成さざるべからず(本は暗記するまで読むべきだ)」と言っている。

 本を読むなら、暗記するくらいに読まなければならない。通り一遍に見たものは、決して実行するのに役立つものではないのだ。
2012年9月21日(金)
タイタンを見た日本人
 アメリカが独立戦争を戦っていた頃、国友一貫斎(くにともいっかんさい。1778〜1840)は近江国国友村に鉄砲鍛冶師の子として生まれた。幼名を藤一、諱(いみな)を重恭(しげやす)といい、父の跡を継いで9代目藤兵衛を名乗った。一貫斎(また眠龍)は号である。製作した鉄砲には「能當」(すなわち「能く當たる(よく当たる)」)の銘を切った。しかし、平和な時代にあっては、彼の作る鉄砲は実戦に用いられることはなかった。

 文政3〜4(1820〜1)年頃、江戸の成瀬隼人正(なるせはやとのしょう。犬山城主成瀬正寿(まさなか))邸で、たまたま反射望遠鏡をみる機会があった。当時の日本で作られていたのは屈折式望遠鏡だったが、この時一貫斎が見たのは、それより高性能のイギリス製のグレゴリー式反射望遠鏡だったらしい。

 それから10年以上を経た天保3(1832)年、一貫齋は、わが国最初の反射望遠鏡製作に着手した。その3年後、1号機(上田市立博物館蔵。一貫齋の望遠鏡は全部で4台が現存)は一応の完成を見た。イギリス式の同形式の望遠鏡の二倍の倍力を持ち、像もすぐれていた。しかも、ヨーロッパの反射望遠鏡は金属鏡がすぐ錆びてしまうので、数年たつとその役目を果たさなくなるが、一貫齋の望遠鏡は同じ金属鏡を使用しながら現在も当時の輝きを保っている。個人の趣味の範囲をはるかに越えるその技術の高さには驚かされる。

 その後の一貫齋は、望遠鏡の改良と天体観測に残りの人生を費やした。1年2カ月間(158日分のスケッチが残されている)にわたって太陽黒点観測を行い、月や金星・木星・土星などのスケッチなども残している。土星のスケッチには衛星タイタンが描かれている(一貫齋は、土星の衛星を見た初めて日本人の可能性があるという)。

 しかし、専門の天文学者でなかったこと、当時の天文学が暦学のための天体観測が主だったこと、活動が晩年の9年間に限られたこと、後継者がいなかったこと、などが一貫齋の名を歴史の波間に埋もれさせた。

 1991年11月9日、ダイニックアストロバーク天究館の杉江淳(すぎえあつし)氏によって、おもに火星と木星の間をまわる小惑星が発見された。発見者を含む4名の連名で、その惑星は「Kunitomoikkansai」と命名された(1998年12月名称取得)。

【参考】
・渡辺文雄「ちょんまげ頭で見た天体」(全7回)
 (日本スペースガード協会会誌「あすてろいど」連載。第1回は
  http://spaceguard.or.jp/asute/a21/Tobei21H/Tobei21.html)
・小惑星「Kunitomoikkansai(国友一貫齋)」命名申請文
・吉田光邦『江戸の科学者たち』1969年、社会思想社(現代教養文庫)
2012年9月20日(木)
国境(くにざかい)の猫
 1543年、種子島に中国船(ポルトガル船ではない)が漂着した。同乗していたポルトガル人により2挺の鉄砲が伝えられると、鉄砲による武装化が急速に進展した。長篠合戦(1575年)では、信長・家康連合軍が、大量の鉄砲を使用して武田軍を打ち破った。大坂の陣(1614〜5年)では、徳川軍が大坂城を攻撃する際、鉄砲ばかりか大砲まで使用したといわれる。

 こうして、わが国でも近代兵器による武装化・軍事化が急速に進んだ。ところが、幕藩体制が安定すると、江戸幕府は軍事力縮小に向かって徐々に舵を切る。

 当時、わが国では銅が大量に産出した。しかし、その銅で、大砲を次々つくるということなどしなかった。海外に輸出したのである。

 オランダは、長崎で大量の銅を買った。ヨーロッパに持ちこんで、大砲をつくるのである。アダム・スミスは、日本銅が持ち込まれるとヨーロッパの銅の値段が下落する、と書いている。

 アダム・スミスの『国富論』が完成したのが1776年。アメリカでは独立戦争のさ中にあった。その頃のヨーロッパ諸国は、軍事力の増強を競い合い、植民地拡大に狂奔していた。

 しかし、江戸幕府は、世界史のそうした動きに逆行する道を選んだ。その結果、世界史にも類を見ない、長期の平和がもたらされた。

☆鉄砲生産地は、「くにざかいのネコ」と覚えよう。国友(「くに」とも。近江)・堺(「さかい」。和泉)・根来(「ねごろ」。紀伊)の三つだね。

【参考】
・大石慎三郎「プロローグ−平和の時代」−市村佑一・大石慎三郎『鎖国=ゆるやかな情報革命(新書江戸時代C)』1995年、講談社(現代新書)、P.10〜12−
2012年9月19日(水)
牛乳を飲もう
 牛乳には栄養がある。

 しかし江戸時代まで、牛乳や乳製品の利用は、上流階級に限られていた。11代将軍徳川家斉(いえなり)や水戸藩9代藩主徳川斉昭(なりあき)が牛酪(ぎゅうらく。バターのこと)を製造させた、という記録が残っている。一般の人びとが、牛乳や乳製品を口にするようになるのは、明治時代以降だ。牛乳を飲んだ感想を書いた夏目漱石の手紙が残っている。

「昨日の牛乳は非常にうまかった。僕はこれから牛乳生活をやって横隔膜の呼吸法で大文学者になるつもりだ」
(明治37年12月19日付け野間真綱宛て)

 牛乳を飲んで「横隔膜の呼吸法(腹式呼吸のこと?)」をやれば、大文学者になれる、っていう論法は理解に苦しむけれど、牛乳は現在のスタミナドリンク剤扱いで飲まれていたようだね。

 牛乳より、ペットボトルのミネラルウォーターの方が高いという理不尽な世の中だ。みんな、もっと牛乳を飲もうよ。
2012年9月18日(火)
「こう」から「こ」へ 
 81年前の今日は、柳条湖事件(中国では「九・一八事変」と呼ぶ)が起こった日。柳条湖事件は、満州事変の発端になった事件だ。

 昔の日本史教科書には「柳条溝」と書いてあった。なぜ、「溝」から「湖」に変わったのか?

 それは、事件のちょうど50年目にあたる1981(昭和56)年に、二人の中国人研究者が論文を発表し、「柳条溝」は誤りで正しくは「柳条湖」だと指摘してから、広く「柳条湖」が認知されるようになったからだ(ただし、1967(昭和42)年にすでに日本人研究者によってそのことは指摘されていたが、無視された)。柳条溝・柳条湖はともに実在する地名だが、場所はまったく異なる。誤りが生じたのは、新聞記者が事件を本社に伝えた際に「りゅうじょうこう」と言い間違えてしまったのだろう、ということだった。しかし、その後の研究で、事件を最初に伝えた関東軍の発表自体が「柳条溝」だったことがわかっている(意図は不明だが、意識的に誤った地名を発表したという)。

 こうして「りゅうじょうこう」事件は「りゅうじょうこ」事件へと変わったのだ。

【参考】
・ウィキぺデイア「柳条湖事件」の項(2012年9月18日参照)
2012年9月17日(月)
ドラゴンじゃないよ
 英語のDrakonian(厳格な)はドラコンの名に由来するものだ。ハリー=ポッターの敵役ドラコ=マルフォイの名前も、ドラコンからとったという。

 ドラコンがつくった法律は、内容的には、アテネ古来の慣習法の成文化に過ぎないとされる。しかし、法律を公示した意義は大きい。法律知識が少数貴族の独占物ではなくなり、裁判面での民主化を推進させたからだ。

 ある日、アイギナの劇場にドラコンが現れた。アテネ市民は当時の慣習に従い、立法者ドラコンに敬意を表すべく、着衣を彼に投げかぶせた。おびただしい着衣の下で、ドラコンはたちまちのうちに、窒息死してしまったという。

 物を投げるのは危ないよ。せいぜい投げキスくらいだったら、こんな事故はおこらなかったのにね。
2012年9月16日(日)
たまには世界史(ドラコンの悩み)
 「民法出デテ忠孝亡ブ」の論文で、ボアソナードが作った民法に反対したのが穂積八束(ほづみやつか。1860〜1912)。八束も兄陳重(のぶしげ。1856〜1926)も、ともに東大教授をつとめた有名な法学者。

 実証主義的な学風で知られた陳重には、『法窓夜話』という面白い著作がある。法律に関する逸話を集めた本だ。その中の、「ドラコンの立法」についての一節。

 アテネの執政官ドラコンが作った法律は、あまりにも苛酷だった。アテネの政治家デマデスは、これを「血で書かれた法」と評した。

 果物を盗んだ者は死刑になった。野菜を勝手に引き抜いた者も死刑。怠け者さえ死刑。木石に当たって死ぬ者がいれば、その木石にさえ刑罰を加えた。

 だから、ドラコンは悩んだ。「軽犯罪さえ死刑だ。重罪に対しては(死刑より重い)どんな刑罰を加えればよいのか」と(穂積陳重『法窓夜話』1980年、岩波文庫、P.52〜53)。

 あーあ、今の日本に生まれてよかったよ。みんな、そう思っているんじゃない?
2012年9月15日(土)
韋駄天(いだてん)
 本来は、ヒンドゥー教のシヴァ神の子スカンダ。子供の病気を治すという。日本に渡ってきて、韋駄天と呼ばれる。

 韋駄天は、なぜか禅宗寺院の厨房(ちゅうぼう。台所)に安置されることがある。この理由については、次のような俗説がある。

 韋駄天は走るのが速い。現在でも一目散に走ることを「韋駄天走り」と言ったりする。また、客人をもてなすために、あちこち走り回って用意する食事を「ご馳走」という。この「韋駄天走り」と「ご馳走」という言葉が結びついて、韋駄天を祀れば食事に不自由しないという意味が生まれたのだという(石井亜矢子・岩崎準『仏像図解新書』2010年、小学館101新書、P.172)。
2012年9月14日(金)
銀舎利は戦時中に生まれた
 鮨屋では、米飯のことを「舎利」とか「銀舎利」などという。鮨屋に多い「銀ずし」の看板も、この「銀舎利」に由来するのだろう。

 この「銀舎利」という言葉。『広辞苑(第5版)』によれば、1940年代、わが国の食糧不足の時代に、白米を指した語だという。

 三国一朗によれば、戦時中の食糧難の時代には、家畜の餌とほとんど変わらないものや、平時なら捨ててしまう食糧くずの雑炊くらいしかなかった。だから、「銀舎利」という言葉には、当時の人びとの白い飯に対する憧れが込められているのだ。(三國一朗『戦中用語集』1985年、岩波新書、P.106〜109)。
2012年9月13日(木)
仏舎利
 舎利はサンスクリット語のシャリーラの音写で、「遺骨」の意。釈迦の遺骨だから、仏舎利である。

 釈迦の遺体は火葬にされ、信徒によって分配されて信仰の対象になった。日本では、仏舎利や代用品の玉を舎利容器に入れ、これを心礎部に納めてその上に塔を建てた。

 中世には仏舎利信仰が盛んになり、特に東寺や泉涌寺(せんにゅうじ)が民衆の信仰を集めた。能の「舎利」(五番目物)という演目は、泉涌寺の仏舎利由来説話を脚色したもので、足疾鬼(そくしつき)が盗んだ仏舎利を韋駄天(いだてん)が奪い返すというあらすじだ。

 なお、米粒が仏舎利に似ていることから(一説に米を意味するサンスクリット語のシャリを語源とするという)、俗に米粒・米飯のことを舎利という。
2012年9月12日(水)
塔はなぜ高い?
 釈迦の入滅後、その遺骨を土中に埋め、目印として土石を積み上げてお椀を伏せた形状に盛り上げた。これをサンスクリット語でストゥーパといい、中国・朝鮮半島をへてわが国に伝わった。「卒塔婆(そとうば)」「塔婆」「塔」というのは、すべてこのストゥーパの音写(おんしゃ。発音を漢字に写したもの)である。

 わが国のストゥーパは木造塔が多く、三重塔、五重塔がなじみ深い。三重塔では薬師寺東塔が、五重塔では日本最古の法隆寺の五重塔や、日本最大の東寺のもの(高さ55m)が有名だ。

 ところで、塔が高く、四面(西大寺の塔は八面だったという)とも同じ形なのはなぜだろう。

 これは、わざわざ寺に参詣に来なくても、遠方いずれの方向からでも仏舎利(釈迦の遺骨)を礼拝できるようにとの配慮からである。だから、三重塔や五重塔の第一層には仏壇を造って仏像を安置しているが、第二層以上は、内部に部屋が造られているわけではない。構造材が露出しているだけなのだ。
2012年9月11日(火)
唯円にまつわる伝説
 茨城県水戸市河和田の報仏寺は、親鸞没後、直弟子の唯円が開いた寺。唯円といえば、親鸞の「悪人正機説」を書き留めた『歎異抄』の筆者として有名だ。唯円には、次のような伝説がある。

 河和田村の北条平次郎は、殺生を意にも介さぬ極悪人だった。親鸞に帰依した平次郎の妻は、夫の目を盗んでは稲田の草庵(現、笠間市稲田の西念寺。親鸞が『教行信証』の著作をしたことで有名)に通った。ある時、念仏を一心に唱える妻の姿を見た平次郎は激怒して妻を殺害。死体を竹藪に埋めた。帰宅すると、殺したはずの妻が平次郎を出迎えた。驚いて竹藪に戻り、掘り返してみたが死体はなく、そこには「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」と書かれた十字名号(じゅうじみょうごう)が血に染まってあった。

 悪行を悔いた平次郎は改心し、のちに唯円になったという。
(『読売新聞』2010年11月5日付、茨城版「常陸風景」の大塚義成氏の文章による)

☆寺院では仏像や絵像を本尊としたが、浄土真宗では名号本尊(みょうごうほんぞん)といって、「六字名号(南無阿弥陀仏)」や「十字名号」などを紙・絹などに書いて本尊として用いることも行われた。親鸞が布教のために移住を繰り返し、常に小さな草庵に居住していたため、仏像を持ち歩くことができなかったからだ、という説がある。
2012年9月10日(月)
キクを詠んだばっかりに
 秋、仏壇や墓前を飾ることが多いキクの花。平凡社の『大百科事典 第3巻』(1984年)で「キク」を調べると、もともとキクは日本列島に自生していなかったんだって。だから、『万葉集』にはキクが1首も出てこない。同じ奈良時代の『懐風藻』には、キクを題材にした作品が6首見えるものの、これらは中国詩文を模倣・借用しつつ、「神仙」や「不老長寿」のシンボルとしてキクを詠じて、文学パーティの主催者である長屋王の邸宅をほめたもの。実際には、長屋王の邸宅にキクは植えられていなかったろうといわれている。

 しかし、「おかげで、長屋王は、道教呪法を用いて謀反を企てたというぬれぎぬを着せられて殺害されるはめに陥った」という『大百科事典』の結論のもっていき方は、面白いけれど、どうかと思うよ。「キク→神仙・不老長寿→道教→呪法→謀反→長屋王の死」という「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連想だね。

 それじゃ、キクじゃなくてスミレだったら、長屋王は死なずに済んだの?
2012年9月9日(日)
重陽(ちょうよう)の節句
 今日は五節句の一つ「重陽」。日本ではあまり見られないが、今日は、キクの花を浸した菊酒を飲んで長寿を願う日。古代中国では、キクは「翁草(おきなぐさ)」「齢草(よわいくさ)」などといって、邪気を払って長生きをする効能があると信じられていた。

 そもそも五節句を祝う習慣は中国からの輸入で、五節句という考えは中国の陰陽五行信仰から生まれたものだ。

 中国では、一桁の奇数を陽と考えた。陽の重なる日、すなわち1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日はすべての生命が激しく燃え上がる日で、危険な日だと考えられた。だから、最大の数字の9が二つ重なる9月9日は、とりわけ注意すべき日だったのだ。

 そこで、これらの日には特別な薬を飲み、慎み深い行事をして、忘れないようにと記念日にした。1月1日には延寿屠蘇散(えんじゅとそさん)を飲み、3月3日には杏仁湯(きょうにんとう。桃の種を煎じた薬湯)、5月5日にはショウブの根を干した薬湯、7月7日にはホオズキの根を煎じた薬湯、9月9日にはキクの花を浸した菊酒を飲んだ。注意すべき日と考えられた陽の重なる日を年中行事に組み入れて、滋養強壮食を食べ、病気予防や健康管理の日にした。

 日本では、五節句は農事暦と一致する。激しい農業労働に従事する人びとの休養や定期健康診断の日として、五節句は人びとの生活の中に取り入れられたのだという(樋口清之『食べる日本史』1996年、朝日文庫、P.128〜135)。
2012年9月8日(土)
量が大事
 現在は、脳科学の成果や認知心理学の成果などを生かして、さまざまな効率的な練習法や学習法が提案されている。しかし、技術や知識を習得するためには程度の差こそあれ、山岡道場のように、集中的に反復練習することが必要だ。 しかし、一体どのくらい繰り返し練習をすればいいのだろう。

 新井白石は子どもの頃、1日の手習いの課題として、昼3000字、夜1000字の行書・草書を書き出した。夜、眠くなると手桶に汲み入れた水をかぶって眠気を払った逸話は有名だ。白石は「人が1回やることを10回、10回やることは100回やったので学問が大成した」と言っている(新井白石『折りたく柴の記』1939年(1949年改版)、岩波文庫、P.57、P.61)。ま、これくらいなら、真似できるかも。

 でも、宮本武蔵は、「鍛練」について次のように言う。「1,000日稽古するのを『鍛』とし、10,000日稽古するのを『練』とするのだ」(宮本武蔵『五輪書』1942年、岩波文庫、P.45)と。

 練習内容の質は大事。でも、それにもまして量が大事という先人たち。量をやることを億劫がり、楽をしたがる風潮がある今日、耳が痛い言葉だ。

 それにしても、宮本武蔵にはなれそうにもない。
2012年9月7日(金)
山岡道場の稽古
 山岡鉄舟は幕末・明治の剣豪である。鉄舟の道場での稽古は凄まじかった。鉄舟の長女松子の思い出話によると、山岡無刀流の道場には、その時分、「立切りの稽古」、「請願」、「五点」という稽古があったという。

 「立切り」は7日間一睡もせず、腰も下ろさず昼夜の区別なく打ち合う稽古。その間、食事は一切禁止。2、3日目から大便に血が混じり、目も血走ってくるという。

 「請願」は一人で1日200回ずつの稽古を7日間やるもの。

 「五点」は鉄舟の独特の組太刀で、毎年3月31日に東京中の剣客を招き、その前で真剣を使って披露したもの。刃は引いてあるものの、ぱっぱっと火花が散ってものすごいものだったという(東京日日新聞社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、P.188〜189から)。

 山岡道場のような稽古など、現代人にはまず無理だろう。技術を習得する以前に、からだがこわれてしまう。
2012年9月6日(木)
「晩学の人」伊能忠敬
 伊能忠敬(1745〜1818)は、誰しも認める晩学の人。「人生五十年」と言われた時代、忠敬が本格的に学問への道を踏み出したのが、まさしくその年齢だった。

 下総佐原で酒造業を営んでいた忠敬は、50歳で家業を息子に譲り、隠居した。そして、江戸に出、高橋至時(たかはしよしとき。1764〜1804)の門で天文暦数・測量術を学んだ。高橋至時は、寛政暦の作成で知られる幕府天文方の役人。忠敬より17歳年下だったこの師は、熱心に学問に精励する忠敬を、尊敬の念を込めて「推歩(計算)先生」と呼んだ。

 1800(寛政12)年、忠敬は正確な日本地図を作るため、蝦夷地へ向けて最初の測量に旅立った。それから17年間、陸上測量距離は延べ43万708kmにも及んだ。これは実に地球11周分に相当する。

 忠敬の死後3年、1821(文政4)年に『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』(別名『伊能図(いのうず)』)は完成する。忠敬の地図の正確さは、当時としては驚異的だった。幕末、日本沿海を実測しようとしたイギリス船アクレオン号の船長は、『伊能図』を一目見てその優秀さに驚き、計画を中止して引き揚げたという。

 忠敬は「晩学の人も、つとめはげめば、思いの外功をなすことあり」(本居宣長『うひ山ふみ』)を地で行った人だ。

【参考】
・笠原一男他編『日本史こぼれ話』1993年、山川出版社、82〜84ページ
2012年9月5日(水)
継続は力なり
 何事かを成し遂げるために必要なのは、忍耐と継続だ。単純な真理だ。本居宣長も、国学の初学者のために書いた『うひ山ふみ』の中で、同じ事を言っている。

  「学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」

 しかし、僕たちは「いや自分には才能がないから」とか、「年齢を取りすぎているから今からでは無理だ」とか、「仕事が忙しくて、暇がないから」とか、いろいろ自分に言い訳する。そして、一歩踏み出すことに躊躇したり、志半ばにあきらめたりしてしまっている。

 宣長は言う。才能のあるなしは生まれつきのことだから、いかんともしがたい。しかし大抵のことは、才能がなくても、努力さえ続ければそれなりの成果はあげられるものだ。晩学であっても、努め励めば、思わぬ実績をあげることがある。時間が多くある人よりも、時間のない人の方が、思いの外、実績をあげるものだ。

 だから、「才のともしきや、学ぶ事の晩
(おそ)きや、暇(いとま)のなきやによりて、思ひくずをれて、止(やむ)ることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」と。
      (本居宣長著・村岡典嗣校訂『うひ山ふみ・鈴屋問答録』1934年、岩波文庫、P.15〜16)   
2012年9月4日(火)
偶然
 われわれが岡崎勝男氏の貴重な証言に接し得たのは、偶然によるところが大きい。

 岡崎氏の証言を載せた『証言私の昭和史』シリーズ全6冊は、もともと東京12チャンネルのTV番組「私の昭和史」を文字におこしたものだ。同番組は三國一朗が聞き手になって、歴史的事件に立ち会った人びとから話を聞くというスタイルの番組だった。番組の性格上、証言者には高齢者が多かった。

 岡崎氏の証言は、1965年6月30日に録画され、9月2日に放送された。6月に録画されたのは、氏がアラビア石油顧問としてクウェートへ行く予定があり、放送予定の9月までには帰って来られないかも知れないからだった。しかし、当時すでに岡崎氏は健康をそこねており、結局クウェートに行くことはなかった。

 9月2日の放送直前、岡崎氏は自宅のテレビの前で急に具合が悪くなった。番組を見ることなく救急車で病院に搬送され、1カ月後の10月10日に逝去。

 岡崎氏に出張の予定がなく、「今年は降伏文書調印の20周年目にあたるから、9月2日は生放送でいこう」などと生放送が計画されていたなら、そもそもこの番組はなかったのだ。(三國一朗「岡崎勝男氏のこと」−『証言私の昭和史5−終戦前後−』1985年、旺文社文庫、P.376〜377−)
2012年9月3日(月)
厳粛な中にも
 歴史的瞬間を今に伝えるミズーリ号の銅板。インターネットで検索すると、自宅にいながらにして銅板の写真を見ることができるし、その1文字1文字のアルファベットと数字までが確認できる。便利な時代にはなった。

 ところで、この降伏文書の調印式には、いろいろな裏話がある。たとえば、降伏使の選出は難航した。この嫌な役回りになり手がなく、責任ある重臣連中がみな口実をつくって断ったからだ。また、ペリー来航時の星条旗を飾るという演出をして、マッカーサーが第二の開国を印象づける感動的な演説を行った。しかし、当時の写真を見ると、その時は間違いに気づかなかったのだろうか、飾ってある旗は裏返しだった。また、二通つくった降伏文書も、実は日本側が受け取った方に大きな誤りがあったのだ。

 日本側代表団の一人、終戦連絡中央事務局長官の岡崎勝男氏(1897〜1965)は、次のように当時のことを回想している。

 はじめのは日本側にくれる方にサインしたんですね。二冊目になってマッカーサーがね、いちいち各国の代表に「ここへ書け、ここへ書け」って指図してるんですよ。私たちにはなにしてるのかわからなかったんですよ。
 それから私が日本のをもらいにいったときに、ちょっとそれが気になったもんですから、ほんとうはそんな所でもって開いてみるわけにいかないんですが、その場所であけてみたんです。そしたらカナダのコスグレーヴという人がカナダと書いてある国の名前の上にサインするのを下にサインしちまった。だもんだから、ほかの連中もみな一つ一つ繰り下がっちゃってカナダのところだけ白くあいちまった。
 それで困っちゃってね、重光さんのところへいって「こんなになってるんだが、どうしたらいいだろう」といったところが、「みんな呼んでその、もう一ぺんサインしてもらってこい」と。そしたらもうマッカーサーなんかみんな下へ降りちゃってて、「今、乾杯してるからだめだ」とこういうんです。

                 (『証言私の昭和史5−終戦前後−』1985年、旺文社文庫、P.371〜372)


 それで、岡崎氏は参謀長のサザーランドのところへ持って行った。「お前勝手に直したらいいじゃないか」というので、「自分で直したってしようがないから、それじゃ、あんた直してくれ」と言うと、しぶしぶ直してくれた。しかし、訂正者のサインがない。もう一度、サザーランドに訂正箇所へのサインを求めると、面倒くさがっていたがイニシャルを入れてくれた。
 その当時はまだ枢密院があった。不備な降伏文書を持って行ったら枢密院で通らなかった。危ないところだったのだ。   
2012年9月2日(日)
ミズーリ号上の記念銅板
  67年前の今日(1945(昭和20)年9月2日)は、日本が降伏文書に調印した日だ。調印式場は、アメリカ戦艦ミズーリ号上。そこには、ペリーが浦賀来航時に旗艦に掲揚していた星条旗と真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた星条旗が飾られていた。

 ラフな開襟シャツ姿で待ち受けるアメリカ側とは対照的に、天皇の勅語を持参する日本側の代表者たちは、厳めしいモーニング姿や軍服姿だった(1名はモーニングが間に合わず白い背広姿。日本側代表団は全権2名、随員9名の計11名)。当時の写真には、文書に調印する重光葵(しげみつまもる)外相、その後方に梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長、手前側に連合国軍最高司令官マッカーサー、同参謀長サザーランドらの姿と、彼らを取り巻く大勢のアメリカ兵の姿が見える。

 この歴史的調印式はわずか20分ほどで終了した。以後、1952(昭和27)年4月28日午後10時30分(前年の9月8日に調印されたサンフランシスコ和条約が発効した日時)までの6年半、日本は連合国の占領下に置かれることになった。

 調印式が行われたミズーリ号上の甲板には、丸い銅板がはめ込まれた。そこには、次のような文字が記されていた。

  OVER THIS SPOT ON 2 SEPTEMBER 1945, THE INSTRUMENT OF
FORMAL SURRENDER OF JAPAN TO THE ALLIED POWERS WAS
SIGNED.THUS BRING TO A CLOSE THE SECOND WORLD WAR.
     −−−−−−−−−
  THE SHIP AT THAT TIME WAS AT ANCHOR IN TOKY BAY.


( 1945年9月2日、この場所において、連合国軍に対する日本の降伏文書が調印された。かくして、第二次世界大戦は終結した。/本船(ミズーリ号)は当時、東京湾に停泊中。)
2012年9月1日(土)
 防災の日(関東大震災)
 今日は防災の日。1923(大正12)年9月1日、マグニチュード7.9(震度6、烈震)に南関東一帯が見舞われた日だ。この震災によって、日本の経済中枢は壊滅状態に陥った。震災が起こったのが11時58分。昼食の支度で火を使う時間帯だったため、火災が発生。木造家屋の多い時代だったため、火は瞬く間に広がった。東京の陸軍被服工廠(ひふくこうしょう)跡では、火災と竜巻によって逃げ場を失った38,000名が命を落としてしまった。煉瓦造りで名高い浅草の凌雲閣(12階建て)は中ほどでポッキリと折れ落ち、横浜の丘陵地帯は山崩れを起こした。東海道線では、大半の列車が脱線・転覆した。

 この時の被害状況は次のようなものだったという。

     死者       99,331名    家屋  全壊 128,266戸
     負傷者     103,733名        半壊 126,233戸
     行方不明    43,467名         焼失 447,128戸
     罹災者総数   340万人         流失  868戸
        (今井清一『日本近代史U』1977年、岩波全書、P.238による)

 ここ数年間、大震災、津波、洪水、竜巻などさまざまな災害が続いている。ことあるごとに過去の災害を思い出し、防災の心構えを新たにすることは大切だ。
2012年8月31日(金)
光雲の不遇(廃仏毀釈の頃2)
 高村光雲(1852〜1934)といえば、明治を代表する大彫刻家。伝統的な木彫に写実性を加味し、彫刻の近代化に努めた人だ。代表作の『老猿』は日本史の教科書に載っている。『智恵子抄』を書いた詩人で彫刻家高村光太郎の父としても知られる。そんな光雲も、若い時分は苦労した。

 光雲が江戸一流の仏師高村東雲に弟子入りし、10年の年期をつとめあげて独り立ちした頃、世の中はコロコロ変わっていた。明治政府から毎日布告が出、しかも朝令暮改。それで当時は、規則を「亀の足」と書いたという。出したり引っ込めたりを皮肉ったのだ。

 困ったのが廃仏毀釈。仏師としての仕事がまったくなくなった。あちこちから仏像はほうり出され、二束三文でも買い手がつかない。川に流したり、土に埋めたり、たたき割って薪にしたりという始末(東京日日新聞社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、P.167参照)。

 廃仏毀釈の頃は、仏教関係者にとっては「超氷河期」だった。 
2012年8月30日(木)
僧侶の受難(廃仏毀釈の頃1)
 東京芝の青松寺の住職だった北野元峰禅師が、廃仏毀釈の頃(明治10年後前後)、僧侶受難の思い出話を語っている。

 僧侶が伊勢神宮に参拝に行くと、「坊主はまかりならぬ」ということで、僧衣を脱がせられて、ちょんまげのついたかつらをかぶせられる。そのかつらも、子どもの手習い草子でつくった急ごしらえのかつらで、泣くに泣かれぬ虐待だった。熱田神宮の鳥居の前には「僧侶不浄の輩入るを許さず」の立て札がたち、僧侶は不浄物扱いだった。檀家が神徒に早がわりしたため、寺の収入は激減して、ひどい貧乏をした。米も満足に買えず、ひき割り麦を7割まぜた黒い麦飯を食べていた。おかずは味噌汁のみ。ダイコンとニンジンの煮しめがつけば上等のごちそうだったという(東京日日新聞社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、P.145〜147から)。

 十分な議論を経ないまま、明治政府のいうがまま、雪崩をうって「神仏分離」に傾斜していった世間の軽薄さやそれにともなうドタバタは、今から見るととても滑稽だ。

 でも、今の時代だって、同じようなことがないとは言い切れない。
2012年8月29日(水)
清少納言のコンプレックス
 勝ち気で、明るいイメージのある清少納言。でも、そんな彼女にも悩みがあった。

 清少納言の父清原元輔(きよはらのもとすけ)は、梨壺(なしつぼ)五歌仙の一人で、『後撰集』の撰にも参加した名高い歌人だった。曽祖父の深養父(ふかやぶ)も有名な歌人で、『古今和歌集』に17首の和歌を載せる。しかし、著名な歌人一家に生まれたにしては、清少納言の作歌数はひどく少ない(『清少納言集』『枕草子』『公任集』)。その理由を『無名草子』は、次のように推測している。

「歌詠みの方
(かた)こそ、元輔が女(むすめ)にて、さばかりなりけるほどよりは、すぐれざりけりとかや思ゆる(歌詠みの方面では、元輔の娘として、名歌人の子であるわりに勝れていなかったのかとおもわれる)(山岸徳平訳注『無名草子』1973年、角川文庫、P.94〜95)

 どうも彼女は、「元輔の娘」という世間のレッテルに、強いプレッシャーを感じていたようだ。名歌人の子ゆえ、折に触れて高貴な方々から作歌を求められる。しかし、下手な歌でも詠もうものなら、「元輔の娘なのに」という世間の非難が予想される。また、親の顔にも泥を塗ろう。和歌は詠まないことに越したことはない。おそらく、彼女はそう決心したのだろう。

 『枕草子』第99段(五月の御精進(ごさうじ)にほど)には、和歌を詠むことからのらりくらりと逃げ回っていた清少納言の有様が描かれている(池田亀鑑校訂『枕草子』1962年、岩波文庫、P.140〜147参照)。

 親が偉すぎると子どもは辛い。いつの時代も同じだ。  
2012年8月28日(火)
能ある鷹
 漢才があった紫式部。しかし、「漢学は男のするもの」という当時の貴族社会の慣習から、彼女は次のように考えていたらしい。女が学問(漢学)をしてはならないというわけではない。才能のある人は、自然とそうした教養が身についてしまうものだ。しかし、難解な学問を専門的に研究して、その研究成果を残すことなく外にひけらかしてしまうような態度は、決して称揚すべきものではない、と。

 『紫式部日記』には次のような話が書かれてある。

 式部がある時、亡夫の蔵書を手にとって見ていると、

「奥様はあんなふうだから幸せになれないのよ。どうして女が漢字の本なんか読むんでしょう。昔は女がお経を読むのだって、人から止められたのに」

などと言っている侍女たちの声が聞こえてきた。それから式部は、人前では漢字も書かず、漢籍も読まないようにした。屏風に書かれた詩文なども読めないような顔をし、中宮に漢詩を教える際も人に隠れて目立たないようにしたという。

 自分の漢才をつつみ隠した紫式部。そんな彼女から見たら、いかにも知ったかぶりに振る舞っている(ように見えた)清少納言は、鼻持ちならない女性だったに違いない。だから、日記の中で、清少納言のことをさんざんにこき下ろしたのだ。

 今の時代は幸せだ。男女関係なく、外国語でも、歴史でも、物理でも、数学でも、どんな勉強でもできるんだから。おっと、これは夏休みの宿題の追い込みに、青息吐息しているみんなに対する皮肉じゃないからね。   
2012年8月27日(月)
漢才のあった紫式部

 紫式部には漢才があった。紫式部が幼い頃、父越前守為時(ためとき)が式部の兄に『史記』を教えていた時、そばで聞いていた妹の方が兄より早く理解してしまったので、父は慨嘆して「この子が男じゃなかったことが残念だ」と愚痴ったという有名なエピソードが『紫式部日記』に書かれている。

 式部は亡夫藤原宣孝(のぶたか)の残した漢籍をたくさん読んでいたし、その学才から『日本紀の局(にほんぎのつぼね)』という式部にとっては迷惑なニックネームを奉られていた。お仕えする中宮彰子からも「『白氏文集(はくしもんじゅう)』の楽府(がふ)を教えて」と頼まれているくらいだ。

2012年8月26日(日)
女の敵は女

 才女で知られる清少納言。しかし、平安時代の貴族社会では、女性は仮名文字を使い、男性は漢字を使用するのが常識だった。だから、女だてらに漢字を書き散らかしたり、漢籍の素養を自慢したりする彼女の振る舞いを、苦々しく思う人たちもいた。

 円熟した才女だった紫式部の目には、清少納言の行動は軽率・浅慮なものと映ったようだ。「高慢ちきな顔をして実に大変な人。利口ぶって、他人からぬきんでていようと心にかけている人は、行く末はろくでもないことになる」と、その清少納言評は容赦ない(池田亀鑑・秋山虔校注『紫式部日記』1964年、岩波文庫、P.73参照)。

 二人がライバル関係にあったことを差し引いても、女性が他の女性に対する評価はとても辛辣だ。

【注】萩谷朴氏によると、紫式部の清少納言への酷評は「夫藤原宣孝や従兄信経のかんばしからぬ逸話を『枕草子』に書きたてられたことを恨んだ」ことが原因だったという(『大百科事典 第8巻』1985年、平凡社の「清少納言」の項参照)。

2012年8月25日(土)
枕草子
 「春はあけぼの」、「夏は夜」など、『枕草子』の一節を暗唱できる人は多いだろう。中学・高校で、たいていの国語の先生が、「『枕草子』を暗唱してきなさい」という宿題を生徒に課すからだ。「次の時間、テストするからね」の一言で、わが子も中学校時代に暗唱させられた。

 勝手に書き散らした随筆で、1000年後に大勢の子どもたちがテストされることになるなんて、よもや作者の清少納言は思ってもみなかっただろうね。
2012年8月24日(金)
鬼との出会い

 鬼はかつて朱雀門や羅城門によく出現した。しかし、鬼が出現する場所は門に限らない。門以外では、山(大江山・鈴鹿山・戸隠山など)や橋(一条戻り橋など)などが出現場所の定番だった(馬場あき子『鬼の研究』1976年、角川文庫、P.122)。

 夏休み、キャンプに行って、山や川で不思議な人に出会ったら、もしかしたらそれは鬼かも知れないよ。

2012年8月23日(木)
羅城門3
 羅城門に、教養ある鬼が棲んでいたのは昔のこと。時代が下ると、羅城門には鬼より恐ろしい連中がたむろするようになった。

 羅城門は、もともと人跡まれな野原にぽつんと突っ立っていた。律令国家が衰退してその管理ができなくなると、門は荒廃するにまかせるままになった。そのため、この不気味な門に近づく者など誰もいなくなり、いつの間にやら狐狸や盗賊のすみかになり、果ては死体捨て場になってしまった。『今昔物語集』には、夜中、羅城門に転がる女の死体から髪の毛を引き抜くという老婆の恐ろしげな話がのっている。この話をネタにして書かれたのが、芥川龍之介の『羅生門』という小説だ。

 ☆謡曲(観世小次郎作)『羅生門』は、もともと一条戻り橋の鬼説話(『平家物語』「剣の巻」)の場面設定を羅城門に移したものだ。
2012年8月22日(水)
羅城門2

 朱雀門に出没する鬼は、音楽に造詣(ぞうけい)が深かった。これに対して、羅城門の鬼は文学の素養に秀でていた。

 都良香(みやこのよしか)が羅城門のかたわらを通り過ぎる時、「気は霽(は)れて風は新柳の髪をくしけずる」と詠ずると、楼上で「氷は消えて浪は旧苔の鬚(ひげ、あごひげ)をあらふ」と続けた者がいた。菅原道真がこの話を聞き、それは鬼だったに違いないと言ったという(『十訓抄』)。

 こんな風流な鬼なら、怪異といっても、あんまり支障はなかったろう。でも、どうして道真は、声の主が鬼だとわかったんだろう。

2012年8月21日(火)
羅城門1

 朱雀門は朱雀大路の北端に位置したが、これに対し、南端には羅城門が位置していた。「羅城」の意味については諸説あるが、城壁で周囲をぐるりと取り囲んでいる、すなわち平安京の総門という意味だろう。

 ただし、平城京にも平安京にも、唐の長安城のような城壁はない。中国で城壁を築いた理由の一つには、異民族からの都の防衛という必要性があった。日本の場合、異民族がいなかったから、そもそも防衛の必要はなかった。また、政治都市であった京内には貴族・官僚・都市市民など生産活動に従事しない人々が多かった。税という形で全国から物資の流入があったとしても、これらの人びとを養うためには、周辺の農村と城壁で完全に分断することなどできなかったのだろう。

 羅城門はあまりにも高すぎたため、風によって倒れる危険性があった。そのため、桓武天皇は、柱を切って羅城門を低くするように命じた。それでも、暴風のために三度も倒れたという。

 そんな巨大な門が、城壁のない野の中に、ただ一つ、ぽつんと空に向かってそびえ立っていた。異様な光景だ。羅城門にまつわる恐ろしい噂は、門の巨大さと不調和なロケーションから生じる奇異な印象によって生じたのかも知れないね。

2012年8月20日(月)
祟りで死んだ?小野道風(朱雀門)

 平安京にある宮城の正門を朱雀門(すざくもん)という。これは、唐の長安の朱雀門を模したという壮大な高層建築だった。朱雀門の名の通り、朱塗りの門だったようだ。

 朱雀門には、空海の書いた額が掛かっていた。小野道風は、その額の「朱雀門」の三文字のうち「朱」の字が「米」の字のように見えるというので、これを「米雀門」と嘲った。これが原因で、道風は祟りを受けて急死してしまったという。

 道風ばかりではない。この門に関わった人々は、よく不思議な死に方をしているというので、昔から問題になってきた。世人は、「朱雀門には鬼が棲んでいる」と噂し合った。内裏にあった宝物の琵琶を盗んだのも、笛の名手博雅(はくが)の三位(さんみ)と一緒に笛を吹いた不思議な人物も、朱雀門の鬼だったと伝えられている。(池田亀鑑『平安朝の生活と文学』1964年、角川文庫、P.24〜25参照)
 
 平安京には現代のようにイルミネーションはおろか、明かりも少なかった。そうした環境で、黒々とそびえ立つ巨大建造物を、人気のない真夜中に見上げたとしたら、相当こわいものがあったろうね。

2012年8月19日(日)
答は「嵐」

 陸奥紙(みちのくがみ)は、儀礼に用いる厚地の上質紙の檀紙(だんし)のこと。もと、陸奥(東北地方)の特産だったのでこの名がある。「道風」から「道除(の)く(「道」という字を除く)」と「風」が残る。その「かみ」(「紙」に「上」を掛ける)に「山」の字を書くと「嵐」になるというわけだ。

 まだまだ暑い中、なぞなぞで頭がますます熱くなった?

2012年8月18日(土)
小野道風のなぞなぞ(三蹟3)

 三蹟の残りの一人が小野道風(おののとうふう、おののみちかぜ。894〜966)。蛙が柳の枝に飛びつくのを見て学問を続けたとか、字はうまいがひねくれ者だったとか、虚実とりまぜていろいろな伝説が残っている。伝説が多いのは人気者だった証拠だ。

 そんな人気者の道風をネタにしたなぞなぞを一つ(ちなみに、問題の作成者は飛鳥井大納言入道栄雅(あすかいだいなごんにゅうどうえいが)さん)。

    
(問題)「道風がみちのく紙に山といふ字を書く」
         
(小野道風が陸奥紙に「山」という字を書く。さて、これ、なあんだ?)

 答は明日(ヒント:漢字のなぞなぞだよ)。

 【注】天理図書館蔵宸翰本『なそたて』には「道風がみちのく紙に山といふじをかく」、
    香川大学図書館蔵『謎立』には「道風がミちのくがミに山と云字をかく」とある
    (鈴木棠三『中世なぞなぞ集』1985年、岩波文庫、P.21・P.119参照)。

2012年8月17日(金)
ザンネンな人(三蹟2)

  三蹟の一人藤原佐理は、「ザンネンな人」としても、歴史にその名を残している。

 佐理は酒飲みでビシッとしたところがなく、仕事上のミスも多かった。ニックネームを「如泥人(じょでいじん)」という。「『泥のような人』って一体どんな感じ?」って思うけど、これは「だらしがない人」っていう意味なんだ。

 佐理に関する逸話は失敗談に関するものが多い。彼の代表作である『離洛帖(りらくじょう)』(国宝)も、実は詫び状なんだ。その内容は、摂政藤原道隆(みちたか)への失礼のとりなしを甥に依頼した書状だし、また、佐理が関白藤原頼忠(よりただ)にあてた詫び状なんてものも残っている(国申文帖)。

 「日本第一の御手(みて)」(『大鏡』)とまで称揚される能書家だった佐理。ゆえに、みんなが佐理の遺蹟を珍重した。そのおかげで、本来秘すべき私的な詫び状が破り捨てられることもなく、掛け軸に仕立て上げられてしまった。果ては図録や教科書にまで載せられて衆目に晒され、書道のお手本として何万人もの生徒によって臨書(お手本通りに書き写すこと)されてきた。

 能書家ゆえに、末代まで恥を晒すはめになってしまった佐理。字が下手くそだったら、こんなことにはならなかったのにね。

2012年8月16日(木)
字が上手なのはシャレコウベ?(三蹟1)

 能書家(のうしょか。字の上手い人)の名前を間違えて覚えた人が、達筆な作品を見るたびに「ヤレヤレ見事なお手(注、筆跡)でござる。いにしへのしやれかうべが筆にもおとりますまい」とやらかしてしまった(興津要編『江戸小咄』1973年、講談社文庫、P.438)。
 「しやれかうべ」はシャレコウベで髑髏(どくろ)のこと。確かに、人間もついにはシャレコウベになっちゃうけどね。

 もちろん、これは「佐理・行成(さり・こうぜい)」の聞き間違いだ。和様書道の名手「三蹟(さんせき)」のうちの二人、藤原佐理(ふじわらのすけまさ、944〜998。遺墨を佐蹟と称する)と藤原行成(ふじわらのゆきなり、972〜1027。遺墨を権蹟(ごんせき)と称する)のことだね。

2012年8月15日(水)
アジア・太平洋戦争

 戦争の名称の変遷一つをとってみても、時代の流れを感じる。日本が戦時中に使用した「大東亜戦争」という言い方は、イデオロギーが強すぎるため学術用語としては使われない。アメリカ側が提唱した”The Pacific War”の日本語訳「太平洋戦争」が長らく使用されてきたが、これでは太平洋をはさんだ日米戦争という誤解を生む。中国や東南アジア諸地域が、すっぽり抜け落ちてしまっているのだ。現在は「アジア・太平洋戦争」という名称が使用されている。

 「大日本帝国の”実在”よりも、戦後民主主義の”虚妄”の方に賭けたい」と言ったのは丸山真男だったろうか。今日は戦後67年目の終戦記念日。3000万人以上といわれる余りにも大き過ぎる犠牲の上に、現在の平和と民主主義の礎(いしずえ)が築かれた。このことは、決して忘れてはならないことだ。

2012年8月14日(火)
ひどい税金(松方コレクション終)

 松方幸次郎が収集した美術品がイギリスとフランスに保管され、その後、フランスにあった作品が国立西洋美術館の「松方コレクション」になったという話をしたよね(8月12日)。どうして海外に残ったのか。それは、ずっと持ち出すことができなかったからなんだ。その原因は、1924(大正13)年に作られた税金にあったんだ。

 1923(大正12)年、あの関東大震災が起こった。その復興財源として、翌年7月31日に政府は「贅沢品等の輸入関税に関する法律」を公布して即日施行したんだ。コーヒーとかお酒とか贅沢品に、高い輸入税をかける法律だ。その税金は品物によってそれぞれ違うんだけれども、美術品の輸入に対しては100%の税金をかけた。

 宮崎克己先生のお話(宮崎克己「印象派の絵はどのようにして日本に来たか」2002年3月3日)によると、松方幸次郎は約2000点の作品を買うのに800万円くらい使ったんだって。今のお金にすると800億円くらいになるって言うよ。すごい金額だね。だから、買った作品を日本に持ってこようとすると、税金として800万円くらい取られちゃうんだって。いくら贅沢品だからといったって、馬鹿げた話だよね。「こんなひどい税金は将来きっとなくなるに違いない」。そう思って幸次郎は、この税金が廃止される日をずっと待っていたんだ。

 そうこうしているうちに、イギリスにあった作品は火事で焼けちゃうし、戦争が始まってフランスにあった作品は政府に没収されちゃうし。もう踏んだり蹴ったりだよね。

 でも、このひどい税金がなかったら、現在の「松方コレクション」も、国立西洋美術館も存在しなかっただろうね。

【参考】
・宮崎克己「印象派の絵はどのようにして日本に来たか」2002年3月3日、ブリヂストン美術ホールでの講演会記録
(「知の市庭」のHP「http://www.chinoichiba.net/suginamiku_pdf/9%20inshouha.pdf」を参照のこと)

 ☆ロンドン・オリンピックが昨日終わった。38個は史上最多のメダル獲得数という。
  でも、メダルの数云々にかかわらず、一生懸命な姿は清々しかった。

2012年8月13日(月)
「梅」もあるのかな?(松方コレクション4)

 松方幸次郎が美術品の収集に当たった際、ヨーロッパの一流画家との仲介役をつとめたのが松方の姪(兄巌(いわお)の長女。巌は十五銀行頭取をつとめた)の竹子(たけこ)だった。竹子の夫は、日露戦争で軍功あった陸軍大将黒木為禎(ためもと)の長男、黒木三次(さんじ)。黒木夫妻は、夫の仕事の関係で、1919年から3年ほどパリに滞在した。

 その間に、クロード=モネやアマン=ジャンという芸術家たちと親交を持ったんだ。特に日本びいきだったモネは、竹子を実の娘のようにかわいがったというよ。モネから着物を着てくれと頼まれたこと、昼食に呼ばれるとクレマンソー(大統領)が始終その席に参加したこと、近所に住むモネの義娘の子どもたちがよく遊びに来ていたことなどの思い出話を、晩年の竹子が語っているね。

 松方は竹子を通じてモネと面識を持つようになり、モネから大量の絵を買った。ロダンから『地獄の門』や『カレーの市民』を買ったときも、竹子が立ち会ったそうだよ。当時の竹子の姿は、アマン=ジャン『日本婦人の肖像(黒木夫人)』(1922年)によって偲ぶことができる。この絵は、国立西洋美術館に収蔵されていて、国立西洋美術館のホームページで見ることができるよ。

 ところで、父親の松方巌はどういうつもりで娘に「竹子」って命名したのかな? もしかして、「松」方だから「竹」子?

【参考】・馬渕明子「ジヴェルニーのある日本女性」
     (国立新美術館ニュース2007年。国立新美術館HPを参照)
    ・アマン=ジャン「日本婦人の肖像」(画像・作品解説は国立西洋美術館HP
       「http://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0005.html」参照

2012年8月12日(日)
 松方幸次郎の美術品収集(松方コレクション3)

 松方幸次郎(1865〜1950)は、川崎造船所(31歳の若さで初代社長に就任した)や神戸新聞社など多くの会社の社長に就任し、また多くの会社の役員をつとめた。神戸商業会議所会頭や衆議院議員にもなった、いわば神戸の政財界を牛耳っていた人なんだ。

 松方は、第一次世界大戦のいわゆる「大戦景気」で巨万の富を築いた。その莫大なお金を使って彼がやったのは、海外流出した浮世絵の買い戻しと、西洋美術品の収集だったんだ。西洋の美術品は、イギリスやフランスの近代絵画や彫刻を中心に進められたんだって。

 次に松方は、これらの収集品を展示・公開するために、美術館の建設を計画したんだ。けれど、結局、それは実現できなかった。なぜって? 1927(昭和2)年に何があったか、覚えているかな。そうだ、金融恐慌があったよね。そのあとは、世界恐慌が日本を襲う…。 川崎造船所をはじめ、松方が関わった会社の多くが破綻してしまった。せっかく苦労して収集した美術品は、負債整理のために売り払われて散逸してしまったんだ(その一部は現在ブリヂストン美術館などで見られるというよ。約8000点あった浮世絵コレクションは東京国立博物館に収蔵されているんだって)。

 さらに悪いことが重なった。日本にあった美術品は売却されてしまったんだけれども、ロンドンとパリには松方が収集した美術品がまだ残っていたんだ。ところが、ロンドンに保管されてあったものは火災で焼失し、パリにあったものは第二次世界大戦の勃発により、フランス政府に押収されてしまったんだ。

 戦後になり、日仏友好のために、フランスにあった松方の収集品の大部分が日本に寄贈返還されることになった。この「松方コレクション」を収蔵・展示するために、1959(昭和34)年、誕生したのが上野の国立西洋美術館なんだ。

 最後に文句を一つ、二つ。「松方コレクション」は個人が収集したものなんだから、日本に寄贈返還じゃなくて、松方家に返還するのが筋じゃなかったのかな。それに、返還する際、有名な作品だけをちゃっかり抜き取って、残りを返したフランス政府もフェアじゃないよね。

2012年8月11日(土)
松方さんちは子だくさん(松方コレクション2)

  日本史を真面目に勉強している人なら、「松方」でピーンとくるのは、松方正義(まつかたまさよし、1935〜1924)だね。

 先生から明治時代の歴代首相を覚えてくるように宿題を出され、名字の頭文字をつなげて、「イクヤマイマイオヤイ(伊藤1次・黒田・山県1次・松方1次・伊藤2次・松方2次・伊藤3次・大隈1次・山県2次・伊藤4次)…」なんてやったんじゃないかな。この覚え方に2度出てくるのが、松方正義。それに、そうそう、強力なデフレ政策の「松方財政」や日本銀行を設立した大蔵卿・大蔵大臣としても教科書に出てくるね。旧薩摩藩出身で、明治の元勲(げんくん)の一人だ。

 松方正義は子だくさんで有名だった。十五男七女いたっていうよ。
 ある時、明治天皇が「子どもは何人いるのか」とお尋ねになった。即答できなかった松方は「後日調査の上、ご報告申し上げます」と言ったというエピソードがある。

 くだんの「松方コレクション」の「松方」というのは、松方正義の子どもの一人、三男の松方幸次郎(1865〜1950)のこと。つまり「松方コレクション」というのは、松方幸次郎が収集した美術コレクションのことなんだ。

2012年8月10日(金)
黒部・室堂へ

 信州旅行の二日目。ホテルから扇沢(おうぎさわ)のトロリーバス発着所に向かいました。そこからトロリーバス、ケーブルカーを乗り継ぎ、黒四ダムへ。ダムには放水できれいな虹がかかっていました。難工事で亡くなった171名の御魂に合掌。ケーブルカーでさらに上へ。室堂(むろどう)ではミクリガ池・ミドリガ池の周りを散策しました。さわやかに晴れ渡り、山々がくっきり見え感激しました。その感動を胸に家路へ。

2012年8月9日(木)
今日と明日は夏休み

 今日は信州に家族旅行。野尻湖の博物館を見学し、善光寺・川中島古戦場跡・松代城跡・真田宝物館・松本城を見て回りました。とにかく暑いの一言。明日は黒部に向かいます。
  ☆今日は長崎原爆忌。合掌。

2012年8月8日(水)
国立西洋美術館(松方コレクション1)
 先日、東京都美術館にマウリッツ・ハイス美術館展を見に行った。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」がきているというので、ひどい混雑。展示場入り口に1時間並んだ。当然ながら、中に入ってもじっくり鑑賞できる状況ではなかった。

 国立西洋美術館には、同じフェルメールが描いた「真珠の首飾りの少女」がきている。フェルメールの最高傑作なんだって。けれど、見に行くのをためらっている。何しろひどい混雑の上、この猛暑だからね。

 ところで、この国立西洋美術館は、もともとはフランス政府から寄贈・返還された「松方コレクション」を展示するために、1959(昭和34)年に建設された美術館なんだ。

 本館はフランスの建築家ル=コルビュジエ(1887〜1965。「近代建築の三大巨匠」の一人)の設計によるもの。この本館は2007(平成19)年に日本の重要文化財の指定を受けた。翌2008(平成20)年、日仏両政府は、世界遺産候補としてユネスコに推薦することを正式決定した。

 ところで、「松方コレクション」の「松方」って誰だか知ってるかな?

  ☆近代建築の三大巨匠…フランク=ロイド=ライト、ミース=ファン=デル=ローエ、
                   ル=コルビュジエの三人。
2012年8月7日(火)
3だか4だか、5か6か

 先日、「自画自賛」の話をしたけど、掛け軸に書いてある文字は、まず読めないね。普段なら使わないような難しい漢字で書いてある上、たいていはくずし字なんだから。たとえ文字がわかったとしても、その内容はちんぷんかんぷん。

 ところで、掛け軸に書いてある文字には「賛」以外にも、いろいろな種類があるんだ。博物館に行く機会があって、もし掛け軸が展示してあったら説明版を見てごらんよ。説明板に、「絵の上に書いてある文章は『賛』である」なんて書いてあるから。でも次の展示品の説明版を見ると、今度は「詩」と書いてあるかも知れない。へえー、これは「詩」なのか、「賛」とどう違うのかな?、と首をかしげつつその隣の掛け物の説明板に目を移すと、今度は「語」と書いてある。わけがわからないまま、そのまた隣を見ると、次は「録」だ。これじゃ落語の「一目(ひとめ)あがり」と同じだ。それなら次は「質(質屋に質草としていれた掛け物の意)」だろうね。

 このお話の原話が江戸時代の小咄(こばなし)集に載っている(宇津山人菖蒲房作『再成餅』安永2年刊−興津要編『江戸小咄』1973年、講談社文庫、P.307−)。江戸時代の人も、「さん・し・ご・ろく」の区別はつきかねたんだね。

2012年8月6日(月)
広島

 今日は広島原爆忌。3年前に広島の原爆ドームを見学に行き、被爆者の方からお話を伺ったことを思い出しました。

 平和は、たとえば空気のようなものかも知れません。普段は、誰もがその存在を意識せずに過ごしている。なくしてしまって、はじめてその大切さにきづくようなもの。空気がなくなってしまえば、もはや人間は生きていることはできません。

 平和への思いをめぐらした1日でした。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。合掌。

2012年8月5日(日)
頂相(ちんぞう)

 夢窓国師は臨済宗の偉いお坊さんだった。禅宗では、偉いお坊さんのリアルな半身像・全身像ががたくさん残っている。これを頂相(ちんぞう)というんだ。「頂(頭部)の相貌(そうぼう)」を写した絵、という意味だ。つまりは肖像画だね。もともとは中国の宋の時代に流行し、日本には鎌倉時代にもたらされた。高校の日本史の授業では、鎌倉文化のところで勉強するよ。

 禅宗では弟子が一人前になると、師が「自」分の肖像「画」(頂相)に、「自」ら漢文で教訓的・宗教的な詩文(これを「賛」というんだ)を添えて弟子に贈ったんだ。「自画自賛」という言葉は、この頂相に由来する言葉なんだ。

 頂相は直弟子の証明であり、弟子の礼拝対象だった。だから弟子は頂相をありがたがった。頂相によって、師の面影を偲(しの)んだり、師から受けた教訓を肝に銘(めい)じたりしたんだね。

 頂相は現代風にいうなら、卒業証書かな。一人前になった証明書なんだからね。でも、校長先生のドアップ写真を、君は部屋に飾って毎日拝める? やっぱりイヤだよね。AKBのポスターなら、毎日礼拝(?)する人はいるかも知れないけど。

2012年8月4日(土)
やせた肩には神様だって乗れない

  天竜寺開山の夢窓疎石(むそうそせき、1275〜1351)は、後醍醐天皇・足利尊氏をはじめ公武の篤信を受け、7人の天皇から国師号(国王の師にふさわしい仏徳をもつ高僧に与えられる称号)を贈られるほどの高僧だった。だから、夢窓国師と呼ばれた。

 夢窓国師は徳にすぐれ、財産もあり余るくらい裕福な僧だった。しかし、見た目はいかにも貧相だった。痩(や)せていて、肩の肉がひどくそげ落ちていたのである。食事が摂れないと肩の肉がそげ落ちてくるので、貧窮者を「肩のうすい者」といい、「無力(ぶりょく)すれば肩がすぼうだ(落ちぶれると肩の肉が落ちて、何となく影が薄くなる)」という諺(ことわざ)もあったくらいだ。どうひいき目に見ても、裕福な高僧には見えない。そこである人が、この疑問を夢窓国師に伝えた。

 それに対する国師の答え。
 
「さればよ。予
(われ)が肩あまりにうすくすぼみて、貧乏神の居所(いどころ)がなさによ」
           
(安楽庵策伝著・鈴木棠三校注『醒睡笑(下)』1986年、岩波文庫、p.179)

 肩の上に倶生神でなく貧乏神が乗っているという俗信。夢窓国師の肩の上には、貧乏神だって乗ってられない、というオチ。

2012年8月3日(金)
肩に上に何かいるよ

 夏なので、ちょっと怖い話(?)を…。

 人が生まれた時からその両肩には男女二神が乗っているんだって。その人の善業・悪業を記録して、閻魔大王に報告するっていうよ。もとはインドの神様で、これを倶生神(ぐしょうしん。手元にある広辞苑第5版では「くしょうじん」)というんだそうだ。左肩には男神「同名」が善業を記録し、右肩では女神「同生」が悪業を記録するんだって。

 最近右肩が凝(こ)るなあ、って人は、パソコンやゲームのやり過ぎばかりが原因じゃないかもね。「同生」が君の日頃の悪業を書き込んだノートが何冊にもなって、重くなっているんじゃないのかな。何しろ、女性はチェックが細かいからね。

2012年8月2日(木)
こんなところで會津八一?

 30年ほど前、ベルリンフィルの演奏会(ロリン=マゼル指揮)を東京に聴きに行ったことがある。夕方開演だったので、昼間、新宿中村屋で腹ごしらえをした。ここが、わが同郷の画家中村彝(なかむらつね)ゆかりの店か、と感慨一入(ひとしお)だった記憶がある。
 ところで、先日、新宿中村屋のホームページを見ていたら、中村彝や荻原碌山(おぎわらろくざん)らの名前とともに、會津八一の名前が出てきた。

 「こんなところで會津八一?」。でも、八一が奉職していた早稲田中学校に近いから、不思議はないのかな。中村屋には「黒光庵」、「那可無楽也」などの看板や、茶器、練羊羹の包装紙に八一の書が残されているという。

 中村屋と八一の親交のきっかけも、ホームページに書かれている。それによると、中村屋を経営する相馬愛蔵・黒光夫妻の長男安雄を「早稲田中学校で教えた時、八一が安雄をうんと叱って落第させたことがきっかけ」なんだって。しかも両親は、よくぞ潔く落第させてくれた、と八一にお礼を言ったというんだ。今時の親だったら、学校に怒鳴り込んでくる人だっているよ。

 それにしても、こんなエピソードを万人に公開されてしまうことになるなんて、たぶん安雄クンは予想だにしていなかったんじゃないかあ。

【参考】・新宿中村屋HP(http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p05.html)

2012年8月1日(水)
八一の書 −今日は會津八一の誕生日−

 會津八一(あいづやいち、1881〜1956)は1881(明治14)年8月1日、新潟市古町通5番町に、料亭會津屋の次男として生まれた。きれいに8と1が並び、AIZU・YAICHIと語呂もいいので「八一」と命名された。八一は十代で俳句を作り始めたが、その時名乗った俳号八朔朗(はっさくろう)の「八朔」も8月1日のことだ。

 八一は東洋美術研究家、奈良美術研究家、教育者、歌人、書家等のさまざまな顔を持っていた。

 書家として、自分の書についてのコメント。

「上手(うま)くはない。しかし私より上手い者が誰もいないのだ」

 こう書くと、傲岸不遜な芸術家と思われかねないが、八一は自分の文字に関してはコンプレックスがあった。金澤邦夫氏は次のように書いている。

秋艸道人(しゅうそうどうじん、八一の号)は小学生の時、書道教師や親から悪筆といわれたが、それは元来左利きであり、また習字の手本通りに書けなかった、ということのためであった」(金澤邦夫『會津八一の芸術』書と歌と絵
−早稲田大学會津八一記念博物館HP「http://db2.littera.waseda.ac.jp/yaichisho/syokai.html」−)


 誰にでもわかる字を書かなければ、自分の意志は相手に伝わらない。そこで、八一は発奮して、新聞活字を手本に習字を始めた。「新聞の明朝体の文字は、多くの人にとって読みやすい文字だから」というのがその理由だった。誰にでも読める字をめざしつつも、しかしそれは、新聞活字のような謹厳実直な書体ではない。やはり、八一しか書けない彼独特の文字を貫き通している。

 八一は自詠の「わかりやすい歌」を、「誰にでもわかる」自分の字で書いた。書の専門家がどう評価するのか知らないが、少なくとも素人目には、八一の書がそんなに上手いものだとは思えない。しかし、その作品が醸(かも)し出す雰囲気は独特であって、人を惹きつけてやまない。そうした作品の創り手は八一より「上手い者が誰もいないのだ」。

2012年7月31日(火)
さまよう手紙

 インターネットで『和蘭医事問答(おらんだいじもんどう)』を検索すると、早稲田大学が所蔵する江戸時代の版本の画像にたどり着く。この本には、建部清庵(たてべせいあん、1712〜1782)と杉田玄白の往復書簡が計4通おさめられている。

  1770年、陸奥一関(むついちのせき、岩手県)の藩医だった建部清庵は、オランダ流医学についての疑問4ヵ条を手紙にして、江戸に遊学する弟子の衣関甫軒(きぬどめほけん、1748〜1807)に託した。特に宛先がある手紙ではない。江戸にいる蘭学者の誰かに届けて、日頃の疑問を解いて欲しいというのだ。

 適切な受取人を見いだせないまま、手紙はむなしく2年半さまよった。そしてついに、『解体新書』の翻訳作業中だった杉田玄白の元にもたらされた。清庵の的を射た質問とその情熱あふれる文面に触れた玄白は、遠隔の地にも同志がいたことに感激し、丁重な返事を清庵に送った。誠実な玄白の手紙を受け取った清庵も感激し、以後両者の間で終生文通が続いた。

 この文通がきっかけとなり、清庵はオランダ医学を修行させるため、息子たちと弟子を玄白のもとに送った。清庵の息子の一人はのち玄白の婿養子となり、その跡を継いだ(杉田伯玄)。清庵の弟子は良沢にも師事し、玄白・良沢二人の師から一文字ずつ得て、己の名とした。芝蘭堂を開き、『蘭学階梯(らんがくかいてい)』を著した大槻玄沢(おおつきげんたく、1757〜1827)である。

 清庵と玄白は、生涯一度も相まみえることがなかった。しかし、二人の友情は『和蘭医事問答』となって、蘭学を志す若者たちを励まし続けることになった。

【参考】・早稲田大学図書館HP
      「http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00957/index.html」
     ・一関市博物館HP
      「http://www.museum.city.iwate.jp/icm/02collection/det28.html」
     ・杉田玄白著・緒方富雄校注『蘭学事始』1959年、岩波文庫
     ・本間勉「『救荒医』建部由正」2004年(北海道医法第1029号)

2012年7月30日(月)
前野良沢という生き方

 『解体新書』には、翻訳の最大の功労者前野良沢(1723〜1803)の名前がない。これには玄白も困ったろう。一般的には、不備な翻訳書に自分の名前を載せることを嫌ったため、と解されている。しかし、良沢自身が唱えた理由はこれとは違う。

 良沢は長崎遊学の折り、太宰府天満宮で蘭学を究める決意を神に告げた。その時、「みだりに聞達(ぶんたつ)の餌(えさ)とするところあれば(自分の立身出世や金儲けに学問を使うことがあったら)」、どうか神罰を下してください、と誓ったという。その後の良沢の生き方を見ると、実際、これが彼の本音だったのかも知れない。学問の神(菅原道真)との約束があるから、未熟者のくせに偉そうに名前なんか載せられないと。

 良沢は人付き合いが悪かった。病気と称して外出せず、寸暇を惜しんで勉強に励んだ。飯を食べる時間も惜しいと、雪花菜(おから)をのせた麦飯に唐辛子をぶっかけたものを常食にしていた。良沢は豊前中津藩の医者だったが、蘭学学習のため本務も怠りがち。それを殿様の奥平昌鹿(おくだいらまさか、1744〜1780)公に告げ口する者がいた。

 公の曰
(いわ)く、「日々の治業をつとめるも勤めなり、またその業のためをなし、終(つい)には天下後世生民の有益たることをなさんとするも、とりも直さず、その業を勤むるなり。かれは欲するところありと見ゆれば、そのこのむところは任(まか)せ置くべし」とて、一向に打ち捨てさし置かれたり。
           
 (杉田玄白著・緒方富雄校注『蘭学事始』1959年、岩波文庫、P.38)

 奥平公は「良沢は、後世の人々の有益になることを成そうとして苦労しているのだ。捨て置け」と答えたのだ。

 37歳の若さで亡くなった奥平公は、良沢のよき理解者だった。この殿様がいなかったら、良沢の学問はあそこまで進まなかったろう。奥平公は戯れて、常に良沢のことを「オランダ人の化物(ばけもの)」と呼んでいた。だから良沢は自らを「蘭化(らんか)」と号した。
 良沢は81歳まで生きて、『管蠡秘言(かんれいひげん)』、『和蘭訳筌(おらんだやくせん)』、『和蘭築城書』、などの著訳をなした。そして「虚心(きょしん)石を友とす」の言葉を残し、死んだ。

 『解体新書』の刊行によって、期せずして陽の当たる道を歩むことになった玄白。一方、それを拒否して、自分の信念を貫き通した良沢。良沢のような生き方も悪くはない。

【参考】・角川書店編『日本史探訪16』1985年、角川文庫、P.125〜127

2012年7月29日(日)
「後の譏りを恐るゝやうなる碌々たる了簡にて企事は出来ぬものなり」(杉田玄白の言葉)

 源内と違って、一つの目標に邁進(まいしん)したのが杉田玄白(1733〜1817)だ。『解体新書』の完成・刊行に全精力を傾けた。初めて見た人体内部とオランダ解剖図との見事なまでの一致。その感動が、オランダ語をまったく知らない玄白に、オランダ語医学書の翻訳という難事業を決心させた。

 「医者が人体の中身を正しく知らなくてどうする。この本(いわゆる『ターヘル=アナトミア』)が翻訳・出版されれば、どれほど世の中に役立つか知れない」。そこで、「何とぞ一日も速(すみや)かにこの一部みるべきものとなしなんと心掛け、この一書(『ターヘル=アナトミア』)の訳(翻訳)をし、そのこと成らば望み足りぬ」(杉田玄白著・緒方富雄校注『蘭学事始』1959年、岩波文庫、P.49)と心を決めた。

 翻訳仲間と討論を重ねてわかったところは、その夜のうちに宿舎で直ちに翻訳し書きためていった。仲間はそうした玄白の性急さを笑った。「年長で多病の自分が生きている間に完成できるのか」。思い詰めた玄白が、翻訳完成を「草葉(くさば)の蔭(かげ)に居(い)て見侍(はべ)るべし」と仲間に告げると、その一人桂川甫周(かつらがわほしゅう、1751〜1809)は大笑いして、玄白に「草葉の蔭」というあだ名をつけた。

 こうして『解体新書』は4年後の1774年、11度の草稿を経て刊行された。もとより正確な翻訳とはいえない。ゆえにその後も、玄白の弟子たちによって改訂が続けられていくことになる。世の中にはそうした不備をそしる人びとがいる。しかし、玄白は言う。

「はじめて唱ふる時にあたりては、なかなか後の譏
(そし)りを恐るゝやうなる碌々(ろくろく)たる了簡(りょうけん)にて企事(くわだてごと)は出来ぬものなり」
                                   
(『蘭学事始』P.43)

 玄白には、平賀源内のような才はなかったかも知れない。ただ、その先駆者精神と一つの物事を成し遂げようとする意志の強さは非凡だった。

2012年7月28日(土)
「我らはしくじりを先にし候(そうろう)」(平賀源内の言葉)

 平賀源内は才気あふれる人だった。だが、その業績については、「好奇心旺盛で何にでも手を出したがり、みんな中途半端に終わってしまった」などと、手厳しい評価が多い。
 
 結果は中途半端だったかもしれない。しかし、源内の志は高かった。次の言葉を遺している。

「何なりとも御はじめ、二つも三つも御しくじりなされ候
(そうら)へば、自(おのずか)ら巧者(こうしゃ)に相(あい)成り候。手を空しうして日焼を待つは愚民の業にて御座候。 −中略− 考へて見ては何でも出来申さず候。我らはしくじりを先にし候」
               
 (源了圓『徳川思想小史』1973年、中公新書、p.121〜122参照)

 胸に染みいるいい言葉だ。しくじりを恐れ、一歩踏み出すことに臆病になりがちなぼくたち。ついつい怠惰な日常に甘んじてしまっている。

 「まずは始めよう。失敗なんか恐れるな」。源内がぼくたちの背中を押してくれている。


☆ロンドンオリンピックが始まった。頑張れニッポン! 頑張れ、世界のアスリートたち。

2012年7月27日(金)
ダジャレをいうのはダレジャ

 今日は土用の丑の日。しかし、ウナギの高騰でとても手が出ない。昔と違って栄養が足りているので、現代人はわざわざウナギを食べて滋養強壮をはからなくてもいいそうだ。

 土用の丑の日にウナギを食べるようになったのは、平賀源内(1728〜1779)がウナギ屋から相談を受けたことがはじまりだとされている。一般に信じられている説は、源内が「丑の日は『う』の字がつくものを食べるとよい」と宣伝したからという。(しかし、起源については大伴家持説、大田南畝説など諸説あり)。

 この源内先生、ダジャレが好きで、自分の持っている道具に外国風の名前をつけた。たとえば、くるくる振り回して蚊を捕る道具を発明し、マアストカアトルと名づけた。面白い。世間の人びとが真似をした。紙包みに糊を入れ、端に小さな穴を開けたものをオストデール、泣き上戸をヱウトホエル(酔うとほえる)、物おぼえの悪い人をスポントワースルなどと名づけた(志賀理斎『理斎随筆』1833年−吉川弘文館版『日本随筆大成』第3期第1巻を参照。または「http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/kuzan/20090327/p1」に同文あり )。

2012年7月26日(木)
明珍火箸(みょうちんひばし)の音色
 日本史教科書に出てくる甲冑師(かっちゅうし)の一派に明珍がある。「みょうちん」という名前の不思議な響き。確証はないが、近衛天皇からこの名を賜ったという。明珍家は、長らく鎧(よろい)・兜(かぶと)・刀の鍔(つば)などの鉄製品を作り続け、武家文化を支えてきた。

 だが、武家時代の終焉(しゅうえん)とともに、苦難の道を歩む。明治期はその鍛造技術を生かした茶室用火箸の製作に転じるも、アジア・太平洋戦争中には金属回収令で断絶の危機にさらされ、戦後は石油へのエネルギー転換により火箸の需要が激減した。
そうした中、火箸同士がぶつかって発する音色に注目し、4本の火箸に中央の振り子が当たって妙音を奏でる火箸風鈴を考案。ここに活路を見出した。ソニーのマイクの音質検査にはこの火箸風鈴が使われている。また、山田洋次監督の一連の時代劇映画(たそがれ清兵衛、隠し剣鬼の爪、武士の一分)でも使用された。現当主で52代目になるという(参考:インターネット「明珍火箸」で検索)。

 戦争の道具が、風鈴に姿を変えて今に存在する不思議。この夏もたくさんの風鈴が、平和の音色を奏でると思うよ。
2012年7月25日(水)
日本の公用語は何?

 日本の中にある会社なのに、「社内では英語しかしゃべっちゃだめ」という会社がある。そりゃ、理不尽だ。会社に行くのは毎日のことだからね。さぞかし、ストレスがたまっているお父さん方もいることだろう。

 ところで、日本の公用語は日本語ではない。法律によって公用語を日本語と特に決めているわけではないのだ。

 法律によって日本語を公用語と定めているのは、世界で唯一、パラオ共和国アンガウル州だけ。ここでは、アンガウル州憲法でアンガウル語・英語とともに、日本語が公用語と決められている。しかし、アンガウル州は島の面積が8平方キロメートル、人口はわずかに320人(2005年の国勢調査)。現在は、日本語を日常会話に使用する住民はいないとのこと。

 もともとパラオは、第一次世界大戦後、日本の委任統治下にはいった赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の一部だった。植民地時代にはパラオの人びとに対して日本語教育が行われ、シャシン、トモダチ、ベントウ、デンキ、ナス、キュウリなどパラオ語に土着した日本語の単語も少なくない。そうした植民地時代の名残は、言葉にとどまらない。10年ほど前まで大統領だったクニオ・ナカムラ氏は、父親を日本人とする日系人だ。青地に黄色の太陽を描くパラオの国旗も、日本の日の丸によく似ている。

 法律で「日本の公用語は日本語」って、しっかり決めておいて欲しいな。知らないうちに、みんながしゃべれない言葉を公用語にされたら困っちゃうからね。

2012年7月24日(火)
大杉栄の語学学習

 何事も続けることは難しい。しかし、ここ数年続けていることがある。歴検(日本史)の受験だ。昨年までに6回受けた。1年目は2級、2年目以降は1級を受験し続けている。歴検協会が表彰してくれるというので今月の8日、東京に行って、賞状と盾をいただいてきた。

 ところで、大杉栄(1885〜1923)は語学が堪能だった。大杉の家には「英独仏露伊語教授」の看板がかかっていた。これだけたくさんの言語を、どうやって身につけたのだろう。

 そもそも大杉が語学勉強のために上京したのは、同期生とのケンカが原因で名古屋陸軍地方幼年学校を退学処分になったからだ。東京外国語学校仏語科に入学したものの、勉強はそっちのけ。平民社に出入りし、社会主義に傾倒。そして社会主義運動の闘士になった。そのため、投獄されること数度に及んだ。しかし、牢獄の中は暇で暇でしょうがない。

 獄中の大杉は「一犯一語」を目標にした。投獄1回につき、1外国語の習得を目指したのである。大杉によれば、「ほぼ三カ月目に初歩を終えて、六カ月目には字引なしでいい加減本が読める。一語一年」ずつマスターしていったという。

 こうして大杉は、「監獄学校」での自学自習の継続によって、多言語をマスターしたのだった (大杉栄「獄中日記」)1919年−青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)による−)。

2012年7月23日(月)
犯人はお月様?
 数日前に逃げたウサギはとうとう戻ってきませんでした。「ウサギは逃げるもの」というのが日本の伝統的な思考法。江戸時代の随筆に、次のような話が書いてありました。

「越後川のほとりにすまいひける人の、兎をこに入てかひける。秋の頃月のあかき夜のきにかけおきたれば、みなこよりぬけて、河の面をはしりさりぬ。こにひまもなし、めよりいでける。をさぎは月に向かへば身の自由に成て、いかにちいさきこのめよりもいでゝ、水の面をはしるとなん。」(岡村良通著『寓意草』−続日本随筆大成8、1980年、吉川弘文館、p.15−)

 蛇足ながら私の訳をつけておきましょう。

「越後川のほとりに住んでいた人が、兎を篭(かご)に入れて飼っていた。秋の頃、月の明るい夜に、その篭を木に掛けて置いたところ、兎がみんな篭から抜け出て、川面を走り去ってしまった。篭には隙間(すきま)などなかった。篭の目から抜け出たのである。兎は月に向かうと、からだが自由になって、どんなに小さい篭の目からも抜け出して、水の面を走るということだ。」

 なお、『日本俗信辞典(動・植物編)』(鈴木棠三編、1982年、角川書店、「兎」の項)を見ると、現在でも同様な俗信は日本各地に残っているようです。ウサギは臼の中に入れておいても(茨城県鹿島郡・石川県能登地方)、篭に入れておいても(和歌山県西牟婁郡)月夜には必ず逃げてしまう。、それはお月様がウサギを連れて行ってしまうから(新潟県西頚城郡)。

 でも、ウサギが逃げたのは朝だったし、空は曇っていたので、お月様は出ていなかったなあ。
2012年7月22日(日)
やっぱり日頃の言動が大事だね
 本日、新しいホームページビルダー(ver.16)を買ってきました。最新の機能を使いこなすにはまだまだ時間がかかるでしょうが、まずは少しずつ、ホームページの内容を充実させていきたいと思っています。

 それでは、今日の話題は、黒田清隆にまつわるエピソードを一つ。

 鮨屋で若い衆と取っ組み合いの喧嘩をやらかした黒田清隆は、ともかく変わった人だった。敵将榎本武揚の助命嘆願に頭を丸めて奔走する人情家だった半面、乱暴者で何か気に障ることでもあれば「たたっ斬る」というのが口癖だった(『戊辰物語』前日掲載、p.130を参照)。

 1878(明治11)年、肺を患っていた黒田の妻が死んだ。日頃の言動から、黒田が酔って妻を斬り殺したという噂が流れた。そこで、川路利良(大警視)は墓を開いてその病死を確認した。噂の沈静化にあたった川路利良や大久保利通(内務卿)は、黒田と同じ薩摩出身だったため、「黒田の妻殺し」の揉み消しをはかったと疑われた。


 冗談にしろ、乱暴な言葉遣いやふるまいはいけないよね。普段の言動で人柄が判断されるんだから。
2012年7月21日(土)
ウサギ+鮨の話をもう一つ
 昨日のウサギ。ネザーランド・ドワーフという種類のようです。どこかの家で飼われていたのが逃げ出しのか、捨てられたものでしょう。ウサギは、朝、庭に出て草や花を食べているうちに姿が見えなくなってしまいました。帰ってきたら、ウサギを飼おうかどうしようか、迷っている家内です。

 ところで、昨日のミサゴ鮨(ずし)に関連して、鮨に関する話をもう一つ。

 明治10年頃、東京では鮨の立ち食いがはやっていた。ある時、一人の客が4つ鮨を食い、4銭払って帰ろうとした。鮨屋が

「4つのうち2つは4銭だから代金が不足だ」

と言う。客は

「どれも1つ1銭だと思って食った、金はもうない」

と答える。かたわらにいた短気な若者が、

「『すし』の値も知らねえ唐変木(とうへんぼく)め」

とポカポカこの客を殴った。ところがこの客も強かった。二人で取っ組み合いの喧嘩をしているところへ通りかかった人が、客の顔を見てびっくり。若い男をだきとめて

「馬鹿野郎、この方のお顔を知らねえか」

とポカリ。明治政府の高官黒田清隆だった。
        (東京日々新聞社社会部編『戊辰物語』1983年、岩波文庫、p.97を参照)

 ちなみに、我が家でも、本日の昼ご飯はスーパーで買ってきたお鮨でした。シャリがとても大きくて、おなかいっぱいになりました。
2012年7月20日(金)
オスプレイは魚を捕るタカ(+ウサギ)
 沖縄県普天間基地への配備が予定される米軍輸送機オスプレイ。「事故が多い機種」というので、その配備について反対運動がおこっている。新聞でも、2006年〜11年の5年間で、58件もの事故を起こしていたことが報道された(2012年7月20日付け朝日新聞)。

  このオスプレイというのは、魚を捕る猛禽類ミサゴのこと。ミサゴは魚を狙う際、ホバリング(空中停止)する特技をもつ。同様の機能を備えた飛行機だから、かく命名されたのだろう。

  ところで、ミサゴは鮨屋(すしや)と関係が深い。「みさご鮨(ずし)」を看板にする鮨店がある。ミサゴは捕った魚を岩陰に隠し、天候不良で漁ができない時に隠した魚を食すと信じられた。その魚が自然発酵して鮨になるという。これをミサゴ鮨と称して、大変美味だとされる。ミサゴ鮨は『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などにも登場する有名なものだが、これは少々眉唾(まゆつば)な話だ。動物の生態に詳しい實吉達郎氏によれば、魚を隠す習性や余分に魚を捕る能力がミサゴにあるかどうかははなはだ疑問だという。

 それはされおき、ウサギが庭をひょこひょこ歩いていました。前々から庭の芝生にウサギの糞が点々と落ちているという状況でした。「ウサギがいるよ」というと、家内が早速捕まえて家の中へ。ニンジンを食べたり、鉢植えの植物の茎を食いちぎったり、ところかまわず糞をしたりと…。とりあえずは、一晩泊めて様子を見ることにしました。
2012年7月19日(木)
イスカンダルはどこに?

 宇宙戦艦ヤマトをリメイクしたアニメ映画ができるそうだ。昔、テレビアニメで見たり、映画館に足を運んだりしたオジサン世代としては懐かしいかぎりだ。そうそう、汚染された地球を救うために、ヤマトが放射能除去装置コスモ=クリーナーを求めて、宇宙の彼方にあるイスカンダルへ飛び立つ話だったよね。ああ、コスモ=クリーナーさえあれば、福島原発の放射能を今すぐ除染できるのに…。

 ところで、イスカンダルっていうのはなんだと思う? 調べてみると、もともとはアレクサンドロスのアラビア語名に由来するんだって。アレクサンドロス大王は、東方遠征の際に物資補給や軍隊駐屯のための拠点を次々に建設していった。自己顕示欲が強かった大王は、それら70余りの都市に自分の名前をつけていった。アレクサンドリアだね。後世、イスラーム支配下に入ったアレクサンドリアは「イスカンダーリヤ」と呼ばれた。トルコ南部の港町のイスケンデルンや、アフガニスタンの首都カブールに次ぐ第二の都市カンダハルなんかも、かつてのアレクサンドリアなんだ(宮崎正勝『地名でわかるオモシロ世界史』2011年、角川文庫、p.38〜39参照)。

 イスカンダルがアレクサンドリアだったなんて…。面白いけれど、ちょっとビミョー。

2012年7月18日(水)
西郷さんちは似たもの兄弟

 テレビのコマーシャルに上野の西郷さんの銅像が出ていた。連れている犬の名前はツン(ちなみに雌)。ところで、もともとの西郷さんの本名は、隆盛じゃなかったんだって。

 明治以前は、一人の人間が幼名・通称・諱(いみな)など複数の名前を持っていることは珍しくなかった。それが明治維新後、政府は日本国民全てに姓名をつけ、名前を一つに統一していくことにした。

 西郷さんは通称を吉之介、吉之助、吉兵衛などと称したが、諱(いみな)を隆永といった。西郷さん自身は、「隆永」を自分の名前とするつもりだったらしい。ところが代理で届けを出した親友の吉井友実がうろ覚えで、西郷さんの父親の諱「隆盛」と勘違いして登録してしまった。しかし、本人は一向気にすることなく、その後の人生を「西郷隆盛」で通してしまった。

 
 西郷さんの実弟西郷従道は、通称を慎吾、諱を隆道といった。維新後、名前を届け出る際、口頭で「りゅうどう」と係に告げたところ、薩摩訛りがあったため係が「じゅうどう」と聞き間違えて、「西郷従道」と登録してしまった。しかし、本人は一向気にすることなく、その後の人生を「西郷従道」で通してしまった。なお、従道は「つぐみち」と呼ばれることが多いが、本人は「じゅうどう」を正式の読みにしていたという (矢島裕紀彦『著名人名づけ事典』2010年、文春新書、p.158〜161より)。

 弟は、名前の読み方については、少しは気にしていたのかな?    

2012年7月17日(火)
猛暑日はお風呂だね

 各地で猛暑日。群馬県の館林市では39.2℃だとか。汗だくだくの毎日。こんな日はシャワーかお風呂にすぐさま入りたいね。というわけで、お風呂にまつわるお話を一席。

 ウィリアム=ハワード=タフト(1857〜1930)は、「桂・タフト協定」と「ドル外交」で歴史の教科書に出てくる。第27代アメリカ合衆国大統領(在任1909〜13)だったが、何しろ影が薄い。偉大な二人の大統領に挟まれてしまったからだ。

 前任者は、日露戦争の終戦調停をした功によって、ノーベル平和賞を受賞したセオドア=ローズヴェルト。世界的に有名なぬいぐるみ「テディ・ベア」の「テディ」は、この人の愛称に由来。後任者は「ウィルソンの14カ条」を唱え、国際連盟の成立に寄与したことで知られる平和主義者、ウッドロー=ウィルソン。

 しかし、タフトだって、体格なら誰にも負けなかった。優に160kgはあったろう。歴代大統領中、最大の巨漢だった。

 ただ、巨漢ゆえに悩みもあった。風呂に入ると、浴槽にすっぽり挟まって、出られなくなってしまうことが度々。そこで、タフトがアメリカ大統領に就任すると、ホワイトハウスには新しい浴槽が据えられた。浴槽の長さは2メートル以上、重さが1トン。成人男性4人が入れる大きさだったという(竹内政明『名文どろぼう』2010年、文春文庫、p.169〜170)。

 この浴槽なら、タフトもゆっくり汗を流せたことだろう。さて、今でもこの浴槽はホワイトハウスにあるのだろうか?

2012年7月16日(月)
海の日ということで

 海にちなんで、勝海舟の話など。

 ある人が勝海舟の家を訪問すると、海舟自筆の書幅が床の間に掛けてある。自筆を掛けておくのは変だと、客人が不審を唱えると、海舟翁の答え。

 「いや、あれは私よりも上手に出来ているよ」。

 本人が書いたものよりうまいというので、感心して、偽物を飾っていたのだ(山本笑月『明治世相百話』1983年、中公文庫、p.243参照)。

2012年7月15日(日)
ホームページを立ち上げました

 今年の目標はホームページを立ち上げること。古いホームページビルダー(Ver.8)を引っ張り出し、マニュアルとにらめっこしつつ、やっとここまできました。(でもカウンターは表示されないし、写真も表示されず、わからないことだらけ…)

 次の目標は、細く長く、ホームページの更新を続けることです。これがやはり、一番難しい目標でしょうね。